TOP >> ふぉーらむ >> 投稿内容

磐井の乱について -投稿者: PhantomU  2001-07-11 10:21:56
今、学校の歴史の授業で磐井の乱についてやっているのですが、
なぜ、古事記の記述と、日本書紀の記述
紀「物部あらかいを将軍として派遣した。」
記「大伴金村と物部あらかいを将軍として派遣した。」
と食い違っているのでしょうか。
また、なぜ、大和朝廷の軍勢は岩戸山古墳の石人・石馬などの副葬品
を破壊したのでしょうか。井沢先生の理論だとこんなことをしては、
磐井の怨霊が大和朝廷を祟ると思うのですが。
ただし、授業で出た筑後国風土記逸文には、
「磐井は豊前の山中に逃げたそれで、怒った大和朝廷の軍勢が破壊した。」とあ
るそうです。
記紀には「磐井は斬殺した。」とあります。なぜ風土記と記紀の記述が違ってい
るのでしょうか。
今日の授業で1番目のことについては先生なりの考えを言うそうです。

Re:磐井の乱について -投稿者: MM3210  2001-07-11 23:09:30
もし、PhantomUさんが継体紀と継体記の全文を読んでいれば、
その内容があまりにも違いすぎるので、

>紀「物部あらかいを将軍として派遣した。」
>記「大伴金村と物部あらかいを将軍として派遣した。」

という食違いだけを特に問題にしなかったのではないかと思います。

しかし、継体紀に関心を持ち、HPの背景に岩戸山古墳の石人・石馬の写真を
使っているものとして、
PhantomUさんの素朴な疑問には、虚を突かれた思いがしました。

残念ながら、私は、PhantomUさんの疑問にお答えできませんが、
若い方に大いに疑問を抱いていただきたい、継体紀の注を紹介します。

ある本には、天皇が継体28年(534)にお崩れになったとある。
それなのにここに継体25年(531)にお崩れになったとするのは、
「百済本記」によって文をなしたものである。……
後世考究する人が、いずれが正しいかを知ることであろう。

レスありがとうございます。 -投稿者: PhantomU  2001-07-12 12:59:54
MM3210さんレスありがとうございます。友達に「MM」というHN使って
いる人がいるので、少しびっくりしました。

僕が書いている内容は、先生が記紀の中から磐井の乱に関連する記述を抜粋して
プリントにしたものや黒板の板書からなので、継体記・継体紀の全文は読んでい
ません。夏休みに機会があったら読んでみたいと思います。

昨日の投稿で、
>今日の授業で1番目のことについては先生なりの考えを言うそうです。

と書いていましたが、先生の結論は「任那の割譲問題で大伴金村が失脚したとき
編纂されていた帝紀・旧辞で書かれていた、磐井の乱での大伴金村の功績を、失
脚させた物部尾輿がすりかえた。」というものでした。

でも疑問があります。なぜならば継体紀の継体21年秋8月辛卯朔の記述が問題に
なっているのですが、
これは大伴金村が言ったと思われる言葉を物部あらかいの言葉としているので尾
輿がすりかえたというう考えも成り立ちます。しかし、その言葉の中に大伴氏の
先祖の名前(道臣、室屋)が入っているのです。
尾輿がすりかえたなら物部氏の先祖の名前になると思うのです。いかがでしょう
か。ただ、日本書紀編纂時に書き換えたのかもしれません。

悪文かもしれませんがよろしくお願いします。

継体21年8月の記事 -投稿者: MM3210  2001-07-12 21:41:10
PhantomUさんが疑問を抱かれる記事について、
日本古典文学大系68『日本書紀下』(岩波書店)の頭注には次のようにあります。

P36注1:以下の詔と麁鹿火の言とは、全文が芸文類聚、武部の戦伐・将帥条の
諸書を
     つなぎ合わせて成立っており、句の順序を変えたり、人名・地名を入
れ換えたりしたもの。
     漢文的修飾の典型的な例。
P36注5:道臣は出典の「周武」を、室屋は「公旦」を日本の人名と入れ換えた
もの。
     道臣は神武天皇に仕えた道臣命で大伴氏の祖。室屋は大連大伴金村の
祖父の大連。
     共に大伴氏の功業を讃えていて、物部麁鹿火の言としてふさわしくな
い。

この注から分るように、書紀の記事には編者の作文が少なくありません。

とにかく、書紀の編者は、「後世考究する人が、いずれが正しいかを知ることで
あろう。」 と臆面もなく記すのですから、
自分たちが編集した歴史書の記事の不自然さについて、後世の人に考えさせよう
としていることだけは確実です。

「日本書紀=フェルマーの定理」論 -投稿者: PhantomU  2001-07-13 12:58:47
こんにちは、MM3210さんこの言葉は、友達が言っていた言葉を要約したも
のです。

MM3210さんのレスの中の

>とにかく、書紀の編者は、「後世考究する人が、いずれが正しいかを知ること
であろう。」 と臆面もなく記すのですから、
>自分たちが編集した歴史書の記事の不自然さについて、後世の人に考えさせよ
うとしていることだけは確実です。

が、書紀の編者って後世の人にちょっと挑戦的かなと友達と話していました。
そんな時に、フェルマーの定理を書き記した文章の、

「私は、証明できたがそれを書き記すには余白が足りない。」

に似ているなという一言があったのでここに書いたところです。

今日で学校は授業終了で明日から一応僕の学校は夏休みになります。
(一応というのは、補講があるからです。)

とまり木にも書きましたが僕の家はネットをつなげていないので夏休み中はたま
にしか来れないと思います。

Re:磐井の乱について -投稿者: マサヒコ  2001-07-14 22:32:29
 始めまして。中学3年生のマサヒコです。初めて同年代の方とこの掲示板でお逢
え出来てうれしく思っています。ぼくは中高一貫校なので中学一年のときに磐井
の乱を習ったのですが、刀伊の入寇と並んで深く印象に残った事件でした。

 結果的には、先輩の答えにはなりませんが、補足を一つ・・・
松本清張氏の「清張通史]において、かれは倭(ここでは九州一円)は魏のコロ
ニー(植民地)であったということを述べておられます。この考えがこの反乱にも
つながり、なぜ磐井氏が大和朝廷の進行を食い止めたか???磐井氏が中国の属
国的存在であったための事件であったと述べておられます。

前方後円墳体制 -投稿者: PhantomU  2001-07-16 16:48:03
マサヒコさんこんにちは、夏休み初日から補講を受けに学校に来ています。
松本清張さんの著作は、以前読んだことがありますが寝る前に読んだためか、
その記述は読みとばしていたみたいです。

タイトルの前方後円墳体制についてですが、この前方後円墳は、大和朝廷独特
(自分が勝手にそう思っているだけかもしれませんが)のものです。
前方後円墳体制というのは大和朝廷に恭順した勢力にだけ設計図をわたして
造らせることで勢力を固めていったという仮説だったと思います。
(先生からの受け売りなので違っているかも・・・。)
磐井の墓である岩戸山古墳は、前方後円墳なのですが
「同じ釜の飯を食った仲間じゃないか。」という記述があるので
何らかの理由で磐井は独立した権力をふるえたのではないか大和朝廷とは
対等な同盟関係のようなものがあったのではないかと思っています。
大陸の王朝とは朝貢をする関係だったかもしれません。
事実、福岡県古賀市で発掘された糟屋屯倉は、磐井の息子が連座して処刑されな
いために
大和朝廷に献上したと書紀に記述されているので、大陸・半島と交易をしていた
は事実だと思います。

だからこの際大和朝廷より、新羅についたほうが得だと思ったので
反乱を起こしたのだと思います。

MM3210さん学校の図書館で記紀を探したのですが開架の方にはありません
でした。
住んでる町の図書館を調べてみようと思います。