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戊辰戦争 -投稿者: 仙台在住27歳男性  2001-07-02 14:13:57
 「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が話題になっています。これまでの
歴史認識として、「戦前の日本は悪の帝国だった」と思われていたよう
に感じられます。しかし、この教科書が、井沢先生の著作と同じように、日本人
の誇りを取り戻したいという考え方に共感します。
 ところで、いまでも「会津藩は、新政府が改革しようとしている所をいつまで
も反対し、抵抗した古い考えの人達である」という歴史認識があるよう
に感じます。たしかに会津藩は徳川の親藩であり、「主家と命運をともにする」
という「古い」考え方はあったと思います。しかし会津藩は、けして悪
の集団ではなかったと思います。
 いろいろ「証拠」をあげたいのですが、私はここで皆さんに「会津のことを
もっと知ってほしい」という願望だけを述べさせてもらいたいです。
 小泉総理は靖国神社参拝を表明しています。私は立派な人だと評価したいで
す。しかし戊辰戦争での戦死者を祀るために始まったこの神社に、会津側
の戦死者はいまだに祀られてはいないのです。いや別にだからどうかとは思わな
いのですが、やはり会津は「賊軍」と思われているのだなあとちょっぴ
り悲しいです。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 管理人  2001-07-04 19:52:16
BBS再開の告知が週刊ポストに出る来週には、投稿も盛んになる
と思いますが、とりあえず私のレスでお許しください。

慶応大学物理学教室の藤田祐幸助教授は、「江戸は二度殺された」
を持論にされています。徳川幕府は、いわば諸藩の地方分権の上に
立ち、連邦政府でした。もちろん、制度疲労をきたしていたからこ
そ、明治維新で倒されたのでしょうけれど、勝者側があまりにも徳
川幕府を悪者にしすぎた嫌いがある、と藤田助教授は述べていまし
た。たとえば、江戸の街は、非常に理想的なリサイクル社会をなし
ていたとのことです。明治維新で否定された「江戸」は、東京大空
襲で破壊されて、それまで「東京」と呼ばなかった生っ粋の江戸っ
子も、明治政府がつけた呼称をうけいれるようになったといいま
す。また、GHQが日本の封建的残滓を説明するために、徳川時代
を否定的に取り上げたとの説を耳にしたこともあります。話が遠回
りになってしまいましたが、幕末、明治初期の会津は歴史に翻弄さ
れ、悲劇的ですね。「朝敵」の汚名をそぐためか、西南の役では会
津の兵は最先頭に立たされたといいますし。

Re:戊辰戦争 -投稿者: なかの  2001-07-05 20:00:12
こんばんは、なかのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があります。

以前に何かで読んだ冊子の中に、江戸時代に濃尾平野での治水工事に
薩摩藩の藩士がかり出されたという記事がありました。
濃尾平野といえば「親藩」筆頭の尾張藩の管轄(だけではないでしょうが)、
そして井沢先生のお膝元でもあります。
薩摩藩士らはこき使われ、河川の氾濫との戦いで亡くなった人も
少なくないと記されていたように記憶しています。

いうまでもなく、薩長は関ヶ原の負け組です。
長州(毛利)は大幅の減封をされました。
最南端にいる島津は「敵軍真正面への撤退」という前代未聞の珍事を
関ヶ原でしでかしたせいでしょうか、本領は安堵されましたが、
それでも江戸時代を通じ不遇をかこつことになりました。

それが戊辰戦争で立場が変わり、
薩長が徳川を追討する大義名分及び実力・時の流れを得たときに
将軍慶喜が事実上、体をかわしたような状態であり、
会津藩あたりがスケープゴートにさせられたのだと思います。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 十姉妹  2001-07-05 21:19:28
はじめまして

戦前の日本云々はともかく、会津藩に対してそれほど悪いイメージを
持っている人は少ないと思います。
某国民作家の小説のおかげで松平容保や当時の重臣たちの心情も広く
理解されるようになっているのではないでしょうか?

確かに「古い」考え方だったのかもわかりませんが、個人的には・・
不破・鈴鹿の関の守りとして大禄を与えられながら、一戦も交えずに
官軍に寝返った井伊・藤堂両家のほうがよほど・・・  です(笑)

ひとつだけ会津の方に意見させていただけるなら、そろそろ山口県と
仲良くなさっても良いのでは? と、思いますです。

Re:戊辰戦争 -投稿者: モット  2001-07-06 01:09:52
現代人の目から見て攘夷論と開国論のどちらが正しかったかといえば、開国論の
ほうだと言う意見の人が大半でしょう。
しかし、江戸幕府が倒されずに続いていたとしたら体制内の反発で
日本の近代化はなかなか進まなかったのではないのでしょうか。
この点、今の政治の状況と類似していると思います。
改革のために誰か共通の敵が必要で、会津の方々には気の毒なことですが、その
標的にされてしまったのでしょう。
本来は徳川慶喜がその対象のはずですが、それが出来なかったのが
会津の悲劇になったのだと思います。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 会津の男  2001-07-06 17:03:27
そうです。会津戦争は長州の逆恨みだと思います。
いまさら会津だ山口だと言っている時代でもないと思いますが、あえて
会津人というアイデンティティーを堅持するならば、私は山口を不倶戴
天の相手だと思うと思います。まあ今そんな人はいないでしょうけど。
今の日本人がアメリカ、イギリスをあまり恨んでないのと同じでしょう。
日本人は「水に流す」美学を持ってますから。ね。
ただ、会津が降伏した当時、新政府は「賊軍の遺体は埋葬してはならぬ」
という命令を出したため、亡くなった会津の人々は一冬を雪の下で過ご
さざるを得なかったという事実があります。会津の人にとってやはり
当時の薩長は鬼畜と思ったでしょう。
元陸軍大将の柴五郎氏の日記「ある明治人の記録」という本があります。
この人は会津の家老の家に生れ、幼い頃会津戦争を体験しました。
この記録は涙なくして見れません。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 游惟  2001-07-10 12:44:24
 戊辰戦争を薩長指導者がどういう意図で行ったかはともかく、社会学的に見れ
ばこの戦争は必要な戦争だったと言わねばなりません。

 「明治維新」は世界の近代化革命史上の最大傑作だと言えるでしょうが、その
要諦は「廃藩置県」に成功したことにあります。
 今日、構造改革やら不良債権処理やらで150万人とも500万人ともいわれる膨大
な失業者が出ると騒がれていますが、その程度のことで大騒ぎされるなら、廃藩
置県はまさに驚天動地の出来事であったでしょう。
 終身雇用制度など高々数十年の歴史を持つに過ぎないのにたいし、幕藩体制は
260年も続いた制度であり、士族も農民もそれを天然自然の理の如く感じていた
はずです。それが、ある日突然、秩禄公債と引き替えに大名・士族は支配階級と
しての世襲権力を取り上げられ、ただの一市民として生きていかねばならな
い・・・・彼らはまさか明治維新なるものがそのような形で我が身に降りかかっ
てくるとは夢想だにしていなかったでしょう。

 にもかかわらず、廃藩置県は殆ど抵抗も混乱もなく平穏裡に行われた。それ
は、戊辰戦争によって「新政府に逆らうとどうなるか」を目の当たりにしていた
からでしょう。

 新しい支配者によって社会構造が根本的・革命的に変化するとき、その先がけ
となる戦争が起こることがしばしばあります。日本の歴史上で類例を探せば、
@壬申の乱
  これによって天武朝は力を誇示し、地方豪族の力を制限し、中央集  権の
律令体制が可能になった。
A承久の変
  これによって鎌倉幕府は完全に朝廷に対し優位に立ち、幕府中心の  守
護・地頭制が確立した。
B関ヶ原の合戦
  これによって、有力大名の連合体から徳川家中心の半中央集権の幕  藩体
制が確立した。

これらの戦いはいずれも「新支配者に逆らうとどうなるか」の示威行為として象
徴的意味を持っています。そして第4番目が戊辰戦争ということになるでしょう。

 戊辰戦争の際に敵役となった会津初め奥羽の諸藩は、新政府の示威行動のため
のスケープゴートとして選ばれたに過ぎないのかもしれません。西郷や大久保・
木戸達がどのような意図を以て戊辰戦争を起こしたかは史料によって知ることは
できませんが、「大政奉還」という平和裡の政権交代では旧勢力の生存余地を残
し、根本的な社会体制の変革はできないということを彼らは歴史から学んでいた
のではないでしょうか。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 会津の男  2001-07-10 20:19:11
  遊惟さんへ
 そうなんです。わかります。明治維新はわが国にとって必要であり、維新を
成し遂げた薩長土肥の先人の偉業には頭が下がります。今の日本の発展の原点
がここにあるのでしょう。
 しかし、だけど、それでも、やっぱり悔しいのです。無念なのです。
 どうしてあそこまでやられる必要があったのか。まあやられたのは100歩譲っ
て必然だったとしましょう。だけどその後なぜ会津が悪者視されなければなら
ないのか。まあこれも答はでてますね。必然だったのでしょう。
 そうですね。我々は理屈抜きに悔しいのです。
 
 維新の際、新政府の威厳を高めるのに利用され、昭和の戦争の際は、「忠臣の
鏡」として白虎隊が政府に利用されました。白虎隊自刃の地である飯盛山には
ドイツとイタリアからオブジェが送られているし。
 愚痴っぽくなってしまいました。申し訳ございません。ではまた。

 追伸 遊惟さん、意見を使わせていただきました事お礼申し上げると共に、
    敵意のないことをわかっていただきたく思います。
    ありがとうございました。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 会津の男  2001-07-10 20:21:50
上記で宛名まちがってました。本当に失礼なことをして、申し訳ございませんで
した。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 藤丸  2001-07-11 00:18:08
皆様はじめまして。藤丸と申します。よろしくお願いいたします。

「戊辰戦争」・・・・実に奥の深い問題ですね。
鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いまで、あまりにも色々な事例が
ありすぎて、無知な私が皆様の話についていけるかどうか・・・・

会津藩の悲劇については良く知られておりますが、一方で
会津藩がなぜ戦争に踏み込んでしまったのか、という疑問が
浮かんでくるのです。
もしかしたらあの悲劇は回避された可能性もあったと思われるのです。ただ、当
時の会津藩内は交戦派が大半を占めており、最終的にはやはり戦闘状態に突入す
ることは避けられなかったと思います。
それでも、会津藩の勝利とは行かなくても、会津にとって有利な条件で
停戦することも出来た可能性もあったと思います。

上記の文章は私個人の一見解ですので、間違いがありましたらご遠慮なくご指摘
のほど、お願いいたします。拙文にて失礼いたしました。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 玄武  2001-07-11 21:23:12
 そうかもしれませんね。
 会津は戦いを避けるという選択支があったのかもしれません。
 実際、藩主松平容保は隠居謹慎し、新政府に対して恭順の意を示す書状を
送っていたのですが、新政府はあくまでも「賊軍征伐」の姿勢を貫いた為、
意地と面子で好戦論が勝ったのだと思います。

 一方、太平洋戦争で、
 日本は戦いを避けるという選択支があったのかもしれません。
 しかし・・・意地と面子で好戦論が勝ったのでしょう。

 戦争による敗北。会津と旧日本には共通点があるような気がします。
 みなさんどうでしょうか。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 十姉妹  2001-07-11 23:32:15
> 游惟さま
論旨は理解できますが、西南戦争は何が原因なのでしょう?
西郷が下野しなければ起こらなかったとお考えですか?

結局、誰かが御輿になったと思いますが・・・
明治の政体が本当に安定したのは、「徴兵制で集められた
農民主体の俄か兵隊ごときに戦意旺盛な武士集団が負けて」
以後、ではと思っています。新撰組や奇兵隊と、明治軍制
はこの意味ではかなり違いがあるのではないでしょうか?

要は・・
戊辰戦争は、「革命のゆり戻し現象(西南戦争)」を多少
遅らせた程度の効果しかなく、会津に対する苛烈な処置の
根底には「白川以北一山百文」に代表される、奥羽諸藩に
対する蔑視(桓武朝のほどでないにせよ)があったことは
否定しがたいと考えます。
これが120年を経てなお、会津の方にわだかまりを感じ
させる原因なのではないでしょうか。

訂正 -投稿者: 十姉妹  2001-07-11 23:35:01
「白川・・」、当然ながら「白河以北・・」です。
すみません。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 投稿者:上野その1  2001-07-12 15:58:35
初めまして、上野ともうします。

「会津の男」さん、『ある明治人の記録』は私も読みました。田名部(現・青森県
むつ市)に流されて餓死・凍死を免れるのが精一杯の頃、柴五郎の父は犬の死体
を食うことを思いつきますね。幼少の柴五郎が食べられないのを見て、父はこう
叱咤します。
「武士の子たるを忘れたか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰ら
いて戦うものぞ。ことに今回は賊軍(薩長)に追われて辺地(青森県)に来たれる
なり。会津の武士どもは餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、
のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ!」
誠に肺腑をえぐる言葉であります。まだ、ありますね。
「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士達一同、
江戸の収容所にありし時、会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと泣いて喜び
しは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、このざまはお家復興
にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪に他ならず。挙藩流罪という史上かつて
なき極刑にあらざるか。
かかる運命ならば、祖母様、母上様、姉妹の自害も当然なりしことよと気づき、
母上様と共に他界せばよかりしものをと、甲斐なきことを思いつつ炉の火を見つ
めてあれば、 その2に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 投稿者:上野その2  2001-07-12 17:58:16
若松城下を波打ちて狂う紅蓮の炎、眼底にゆらめき、白装束の母上様の自害のむ
くろその中に伏してあり。熱涙頬を伝居て流る」

(その1)がひどく読みづらくレイアウトされて申し訳ありません。私は初心者な
ので、うまいレイアウトの操作が分かりません。「会津の男」さんを励まして、幕
軍側から一筆と考えて居ますが、少し長くなりそうです。私の母は先祖が徳川の
下っ端旗本でした。「なるほど、俺の先祖は明治維新で負けた側か」と思い、少し
別の目で明治維新を見るようになりました。すると、鞍馬天狗や坂本龍馬や…明
治政府の宣伝に乗った英雄伝説とは別の姿も見えて来ます。
「会津の男」さん、「薩長土肥の先人の偉業」に簡単に頭を下げていいんでしょうかね?
結城禮一郎(昭和51)『旧幕新撰組の結城無二三』中公文庫 に、勤王の志士につい
てこんな説明がありますよ。
主人公は勤王の志に燃えて、江戸から京都にやって来ます。「ところが来てみると
大違い。勤王というのは畢竟幕府いじめの口実で、攘夷さえも真剣にやろうとい
う者はない。たまたまあればそれは諸藩のごく末輩で、巧みに先輩浪士に煽動さ
れ、一途に外夷打つべしと叫んで居るばかり。 その3に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野その3  2001-07-12 18:57:14
肝腎の先輩達はこれを機会に幕府を倒そう、そして自分らが代わって幕府を作ろ
うという野心の塊であることを発見した。正直無垢の若い心には、これほどいや
な現実暴露はなかった。それで攘夷なぞと言うことは二の次にして、先ず彼ら浪
士の横暴を懲らしてやろうと思い立った。」
「勤王勤王と騒ぎ立てる人々が、口では立派なことを言っていながら陰ではひどい
ことばかりしている。第一、国もとから禁裏手入れと称して莫大な金を取り寄
せ、それを祇園や島原で湯水のごとく消費する。つまり、自分らの遊びのために
勤王の看板を掛けている者が多かったのです(金払イハイイシ、時流ニノッテ格好イイシ、持テタ
ノデショウナ)」
なまじ結果を知っている後世から見れば、勤王の志士は「革命を成し遂げた英雄」
ということになります。本当にそうなんでしょうかね?
薩長のクーデターが成功した→明治政府が正当性を宣伝した→戦後の左派は「革命」
と解釈する方がマルクス史観に都合が良かった→だからそういうことになったの
です。「勤王の志士」に英雄と呼ばれるにふさわしい人は居たでしょう。しかし、9
割以上は金にタカルゴロツキと陰謀家だったのではないでしょうか。これが世の
常です。「会津の男」さん、「遊惟」さんの一見スッキリする説明にあっさり賛成し
つつ、「やっぱり悔しいのです」はないじゃありませんか。井伊直弼でさえ、西欧
の情報に通じて憂慮していたのですよ。幕府に「人物」が居ない訳ないじゃありま
せんか。 その4に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その4  2001-07-12 19:32:05
「遊惟」さんは「根本的な社会…の変革」のために「西郷らは戊辰戦争を起こしたので
はないか」と言っています。マルクス史観は分かり易いですよね。バカと思われ
たくないから、たいてい「フムなるほど」と、物わかりの良い所を見せたいですよ
ね。でも、それなら西郷が西南の役で担がれるのは説明できません。西郷も神な
らぬ身、将来を見通すことなんかできる訳ないでしょう。明治維新を結果から見
て、買いかぶって居ると思いますよ。
榊山潤(1982)『歴史』叢文社の「田舎武士の目」には、元・二本松藩士・佐倉強哉の
意見が紹介されています。「明治の改革は新政府の意志で成就したものではない。
外からと下からの力が盛り上がって、そうならざるを得なかったのである。確か
に封建制度は根本からゆらいで、たとえ薩長の巧妙な討幕運動が功を奏しないで
も、徳川幕府が自壊作用を起こしたかも知れない。ただし、薩長の討幕運動は、
徳川の基礎がゆらぎはじめた機会をとらえたので、徳川に代わって天下をとる野
心は凄まじかったが、自分たちの手で新しい日本を築きあげようとする大方針は
なかった。その証拠には、維新の動乱を貫いた薩長二藩の感情は、全く封建的な
ものであった。」 (つまり、王城の守護者・会津は薩長の復讐心の餌食にされたの
です)
その5に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その5  2001-07-12 20:15:11
「政治の機構はいろいろ変わったが、詰まるところ天皇が将軍に代わっただけで
あった。天皇の下には、天皇を絶対の権力者として祭り上げることによって、薩
長の成り上がりどもが時を得顔に権力をふるっている。こんな新政なら、なにも
天皇を表面に押し立てる必要はなかった。勝安芳と対立した主戦論者小栗上野介
に任せても、これ以上の新政を手際よく開いて行ったはずだと、この人は考え
た。この人のこういう意見は、晩年においても変わらなかった」
「薩長でなければ、明治維新は成し遂げられなかった」と見るのは先入観です。維
新前夜には、いろいろ陰謀があります。
「孝明天皇の暗殺(慶応2年12月)」は会津に大打撃でしたね【昭和50年孝明天皇の
典医の曽孫で開業医の伊良子光孝(イラコ・ミツタカ)が、曽祖父光順(ミツオサ)の日記とメモ
に基づく「孝明天皇毒殺説」を発表した。これら資料は、伊良子家では、長年、門外
不出であった】。なんで門外不出だったか分かりますよね。「明治政府の正統性」
を根幹から揺るがすから、命あってのものだねですよね。下手人として、岩倉ー
大久保ラインがクサイとされて居ます。
慶応3年12月9日の小御所会議は大久保・西郷・岩倉のクーデターですね。
その6に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 仙台在住27歳男性  2001-07-12 21:33:57
多くの意見ありがとうございます。井沢先生にもぜひ「逆説の日本史〜幕末・明
治維新編」に取り上げてもらいたいと思います。
しかし・・・

 私の父は会津若松出身です。子供の頃から会津の悲劇を教えてもらっていまし
た。
そして私の父は共産党支持者です。子供の頃から政府の批判、日本帝国の批判を
聞いて
きました。そしてその知識がつながってこのようになりました。

   明治維新は薩長の下郎どもによるクーデターである。なにもわから
  ない奴らが政権を取ったものだから理由も分からず欲望のままに、日
  清・日露、そして太平洋戦争に突入して亡国をみちびく結果となった。
  つまり、薩長の新政府、そして大日本帝国は悪の帝国である。

 私は昭和48年生まれです。戦後生まれ二世として戦後民主主義という名の左翼
教育
を受けて育ったためか、この考え方が素直に入ってきました。しかし私は井沢先
生の
著書、そして小林よしのり氏の著書を読み左翼の洗脳から解き放たれました。今
まで
の自分の考え方の間違いに気付きました。今ではちゃんと理解してるつもりで
す。戦
前の日本はけして悪の帝国ではなかったのです。
 自分の考えを一度リセットし、勉強しなおしました。しかし、それでも会津藩
に対
する思いは以前とあまり変わらなかったのです。左翼的な反政府感を無くしても
会津
は正しかったと思えるのです。
 明治維新は必要でした。薩摩や長州の人々には「日本を近代化してくれてあり
がと
う」と素直に言えます。間違えなくこの時代の主人公です。ただ私は、会津とい
う脇
役を忘れてほしくない、そして正しい知識で見てもらいたいと思っているだけな
のだ
ろうか。

 というわけで、うまくは表現できなかったのですが、私の心には井沢先生にこ
の問
題をとりあげてもらいたいという気持ちと、とりあげないでほしいという気持ち
が半
半くらいです。考えがまとまったらまた書かせてください。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その6  2001-07-12 23:10:36
大政奉還した徳川に領地を差し出せとの岩倉らの目論見をふまえて、山内容堂は
言います。「畢竟するに、この暴挙を敢えてした二,三の公卿の意中を推し量れ
ば、幼沖(コレ、ニスイのアヤマリ)の天子(明治天皇は16歳だったと思います)を擁して権力
を私しようとするもの…」さえぎって岩倉が怒鳴ります。「御前でござるぞ、おつ
つしみなされ…」 マア、ズボシですね。容堂の意見に道理があって賛同者もでる
ので、岩倉はうろたえて人を介して西郷に相談します。西郷は「『文句言うなら
殺すぞ』と伝えれば良い」と大久保にアドバイスします。脅されて容堂はひとま
ず黙ることになります。
この後、慶喜は外交権を握って巻き返しますね。要するに、維新は幕府か薩長
か、どちらが主導権をにぎるか分からなかったのです。薩長が
官軍になって勝つなんて決まってなかったのです。
西郷は大政奉還で戦争の口実を失います。直ちに益満・伊牟田に秘計をさずけて
京都から江戸の薩摩藩邸へ行かせます。江戸で食い詰め浪士やゴロツキを集めて
市中・関東の治安を乱し、騒乱状態を作ろうというのです。幕府を挑発して戦争せ
ざるを得ないようにし向ける訳です。薩摩屋敷の浪士・ゴロツキは、江戸市中を横
行し、30人から50人の徒党を組んで富豪に押し入り、3千両から5千両、さては9千両
もの大金を奪い取った。そうなると普通のゴロツキも「薩州藩士」と名乗って至る
所に現れた。
その7 に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 藤丸  2001-07-12 23:22:03
戊辰戦争の正義がどちらにあるかといえば、やはり旧徳川側にあったと思いま
す。大政奉還以後に戦闘を避けようとした徳川慶喜らの対応は、
それなりに評価できると思います。

京都でも中川宮を擁したクーデター未遂事件も発生していたり、
薩長側も、戦闘が長期化して冬将軍が到来していたら、敗走していた
かも知れない、という話を聞いた事があります。

さて、薩長が擁した京都の朝廷に対して、奥羽列藩同盟が擁立した
「東武皇帝政権」について、大変興味を抱いております。

「東武皇帝政権」を擁した会津や仙台などの諸藩もまた、
まがりなりにも「官軍」だったのではないでしょうか。

Re:戊辰戦争(西郷隆盛) -投稿者: モット  2001-07-13 10:09:52
明治維新はマルクス史観よりも【家康史観】でみたほうが、よく理解
できると思います。
家康は旧体制である豊臣家を滅ぼすことにより、後世に悪名を残すこと
を十分承知していました。しかし、恩恵を浴せない関ヶ原の多数の浪人
が新体制最大の阻害要因になり豊家と結びつくことは必然でありそのた
め徹底的にたたいたのです。
外部の敵がいなくなると次は内部です。新体制成立の功労者(武功派)改革の邪
魔物でしかなくなるのです。幕府は改易転封により彼ら
を中枢から遠ざけました。
家康は鎌倉、室町幕府の興亡から深い洞察を得ていました。

西郷は家康の後継者です。フランス革命の知識もありました。
彼は当初慶喜を討ち江戸を火の海にすることを望みますが内部の反対
まあって出来なかったのです。そこで長州人の恨みが深い会津をたたく
ことにしたのです。会津が全くの無実であることはよく分かっていまし
た。戦後彼は会津に親切でした。しかし本質が分からない人たちの手で
会津は悲惨な目にあったのです。
新政府の骨組みができると敵は内部にあります。西郷はもはや改革にと
って不用になった維新の功労者とともに最後のの花道を飾り散っていこ
うと考えました。それが征韓論です。しかし抵抗により実行できません
でした。最後の選択が西南戦争です。負けることは最初から知っていま
した(万一勝っても長続きしないことも)。
そしてこの戦争により近代的な軍隊が日本に確立されたのです。
(続く)

Re:戊辰戦争(西郷隆盛その2) -投稿者: モット  2001-07-13 10:15:28
西郷の思想は新政府にも理解されませんでした。そのため維新は
不完全燃焼なものとなり、薩長藩閥政治がまかり通り維新の第二世代
が登場するころにはすでに当初とは方向がずれてきて、ついに無謀な
対米戦を始め当然の結果として負けてしまい現在に至っているのです。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その7  2001-07-13 11:54:05
江戸・関東各地に「勤王」「倒幕」を名として、放火・掠奪をほしいままにする者が相
次いで現れた。人気者「西郷さん」もなかなかの悪人ですね。徳川慶喜の本質を将
軍であるより政治家であると見抜いて居たのでしょう。「どうしても戦争に持ち
込まねばならない。戦争にしなければ薩長は政治家・慶喜に抑え込まれる。なん
としても、反則でも、何でもアリで、幕府を挑発して戦争に引きずり込まねば生
き残れない」そう考えたのでしょう。江戸や関東の住民は、タマッタモノではあり
ませんね。
かねてから薩摩藩士・浪士の検挙を主張していた小栗上野介や陸海軍の幹部は、も
う一刻の猶予もならぬと思った。薩摩浪士は更に幕府を挑発して、三田の庄内藩
屯所に発砲した。ついに幕府当局も、薩摩藩邸と支藩佐土原藩邸の浪士を、一網打
尽にする事にした。慶応3年12月25日、庄内藩兵他5藩の2000人で両藩邸を取り囲
み、発砲犯人の引き渡しを要求した。薩摩側がそれに応ずるはずもなく、結局三
田の「薩摩藩邸焼き討ち」となった。
28日に江戸からの知らせを受けた大坂城内では、ただでさえ討薩論を唱えていた
旗本や会津・桑名藩士らが、直ちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといき
り立った。もう、慶喜には抑えられない。これが、入京を目指して鳥羽・伏見へ
の進出→薩摩藩の発砲→鳥羽・伏見の戦い(公家の岩倉の知恵で、後醍醐天皇以来絶
えて無かった「錦の御旗」が掲げられる)→戊辰戦争 となる訳です。 その8に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その8  2001-07-13 12:43:43
以上、井上清(昭和4『日本の歴史 20』中公文庫 などより。
なお、石井寛治(1989)『大系 日本の歴史 12』小学館によれば、長州藩の莫大な
軍事支出を支えたのは、全国的に見てずば抜けて高い年貢収奪でありました。明
治6年では全国平均は26.7%でしたが、この頃でも山口県では36.7%と断然高い。薩
摩藩の場合、天保銭のニセ金作りでした。
【維新の陰でほくそ笑むものの独白】公武合体では薩長・岩倉に浮かぶ瀬はな
い。公武合体にこだわる孝明天皇は邪魔だ。邪魔者は消せ。ガキの玉(ギョク・天
皇)は、絶対に敵に奪われてはならない。それで、何が何でも戦に持ち込め。戦が
始まればしめたものだ。官軍対賊軍の戦いにするのだ。大義名分はコッチにある
から、日和見連中はコッチに付く。ナアニ、ほとんどが腑抜けの日和見だよ。それ
で奪った徳川の領地はコッチのものだ。俺達の浮かぶ瀬があると言うものだ。新
しい日本の大方針なんて、後からどうとでも言い繕える。バカを釣る餌さ。餌は
沢山蒔いておけ。金はかからないし、脅せば金も集まるというものだ。
その9に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: なかの  2001-07-13 12:55:45
こんにちは、なかのです。

藤丸さん、みなさん、はじめまして。
戊申戦争においてどちらに「正義」があったかというような議論は、
いつまでも結論が出ないでしょう。
幕府側にも、薩長側にも、どちらにも「言い分」があり、
勝者だった薩長側の言い分が通ったということでしょう。
歴史上の出来事にイデオロギーを被せ、正義か否かと判定するのは
歴史の役割ではありません。
明治政府は勝者であった薩長が中心となっている政権であり、
自分たちが樹立した政権の正統性を主張する一環で旧政権を否定し、
その延長上で会津が逆賊扱いされたということだろうと思います。
逆に言うと、会津が逆賊扱いされているということは、
戊辰戦争は「歴史」つまり「過去」になっていないということなのでしょう。
これは過去に「会津が逆賊扱いされた」という事実を否定したり、
それによってもたらされた出来事(例えば祭祀の問題など)を
やり直すということとは別の問題だと思います。
祭祀などは改めて祀り直すということは有り得るかもしれませんが・・・。

上野さん、はじめまして。
読ませて頂いており、お聞きしたいことは改めてお願いしますが、、、
改行を適宜していただければありがたく存じます。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その9  2001-07-13 14:13:58
もうそろそろ、「維新の英雄伝説」から離れても良いのではないでしょうか。私
は、「明治維新は、岩倉と薩長の陰謀によって成った」と思っています。それ故、天
皇に頼らざるを得ず、天皇制の強化に繋がりました。つまり、大日本帝国憲法で
すね。だから、昭和に入って元老が居なくなると、「統帥権干犯」でイチャモンを
つける軍部を抑えられなくなります。アメリカの挑発もあります。それで大東亜
戦争なんです。敗戦は、「薩長ついに倒る」です。明治維新は良い所ばかりが強調
されますが、私は暗黒面によるアキレス腱があったのだととらえます。
賊軍の汚名・貧窮の境涯をも跳ね返して、明治の社会に有為の働きを残した人々
も多く居ます。こうした有能で恵まれた人達は、維新の不条理を黙して語らぬと
は言え、まだ心情に余裕があります。柴五郎の場合は、晩年になってトラウマが噴
出しますね。でも、運か、才か、その両方にか、恵まれなかった人々はどうなった
んでしょう。御一新のトラウマを抱えたまま、社会の底辺に鬱屈していたので
しょう。鬱屈する思いとはどんなものなのか。(その4)の榊山(1982)は「この人
が大戦後まで生きていたら、薩長ついに倒る、とほくそ笑んだかも知れない。私は
そんな空想に動かされる」と述べて居ます。田宮虎彦(昭和31)『霧の中』新潮文
庫 は、小説の中でそうした心情を主人公に語らせています。記録に残りにくい下
層の彼らの心情は、田宮によってすくい上げられ、小説の形で代弁されたので
す。 その10へ続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 会津の男  2001-07-13 14:37:26
とりあえず一言

上野様

すみません。私の意見は少し弱腰でした。
会津の人が会津を弁護することにより、ただの「愛国心、愛郷心」と誤解される
のが怖かったのです。
会津弁護派が多くいることがわかりました。ありがとうございます。

P.S. 「ある明治人の記録」は多くの人に読んでもらいたい一冊ですよね。
   中公新書からでてます。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その10  2001-07-13 14:53:33
「会津の男」さん、会津の遺恨は日本の近代につきまとって来た重奏
低音なのです。
公武合体の孝明天皇で開国・維新が成れば、象徴天皇は明治に出現し
たのかも知れません。幕府は、西周ニシ・アマネらによって、近代的な政府
の構想を持っていました。薩長・岩倉はオソマツでしたね。権力を握る
事を第一としていたからです。
勝者の明治維新からは、もう何も出てこないでしょう。敗者や民衆
の明治維新から新たな視点が出て来そうな気がします。井沢先生が
明治維新をどう説明するかが楽しみです。
なお、私は小泉総理の靖国神社参拝には賛成です。ただし、条件が
あります。「戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた旧幕府軍側も合祀
せよ」が、その条件です。

これでお仕舞いです。長々と読みづらい本稿におつきあい下さい
ましてありがとうございました。今回、行末を改行して見ました。
これで読みやすくレイアウトされるかどうかは、分かりません。
もし、うまく行かなければ誰か教えて下さい。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 游惟  2001-07-15 02:09:40
私の史観はマルクス史観ではなくヘーゲル史観です。もっとも、マルクスはヘー
ゲルの史
観を受け継いでいるから似ているのは当然かも知れませんが・・・・

ヘーゲルは「歴史」を「世界精神の弁証法的発揚過程」であると考えました。絶
対時間の
中で生きる人々はそれぞれ自由意志によって行動します。しかし、世界精神はあ
る者を成
功させ、ある者を失敗させることによって徐々に自己の意志を実現していきます。
この「世界精神」と言う言葉を「社会の法則」と読み替えれば、それは社会学・
政治学・
経済学等の社会科学が探求しているものそのものです。

歴史学者の言う「歴史」とは、絶対時間の中で起きる一回限りの出来事です。し
かし、社
会科学者の言う「歴史」は繰り返すのです。即ち、同じような条件が生じれば、
時間と空
間とを問わず、同じような現象が出現する・・・それが歴史の法則です。

戊辰戦争が関ヶ原合戦ならば、西南戦争は大阪の陣です。関ヶ原合戦によって巨
大な徳川
幕府と弱小の諸大名という幕藩体制の新秩序が確立した。しかし、その新秩序の
中で冷遇
され、旧体制にノスタルジーを抱く者達が大阪の陣で豊臣方に参戦した。大阪の
陣で豊臣
方に集まった10万とも言われる浪人達が、豊臣家に対してどれだけ忠誠心を
持っていた
でしょうか?建前上、豊臣家の大老に過ぎなかった徳川家康が政権を簒奪したこ
とに義憤
を感じて、という自己正当化をしていたでしょうが、要は旧体制にノスタルジー
を抱く不
平浪人の反乱に過ぎません。
 それと同じく、西南戦争だって、新政府の下で特権を失い冷遇された不平士族
達の最大
にして最後の反乱にすぎません。ただ、彼らは自己を正当化するために、維新最
大の功労
者西郷隆盛を放逐した新政府に対する義憤、を持ち出しただけです。

フランス革命の歴史を見れば明らかなように、大規模な社会の変革には必ず揺り
戻しが来
ます。現在のロシアでも、資本主義体制の下で自由を謳歌する人々がいる一方で
ブレジネ
フ時代にノスタルジーを抱き、共産主義体制の復活を願う人々が多数いるのと同
じです。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 游惟  2001-07-15 02:12:20
・・・続き(千文字以内というのは不便ですね)ただ、絶対時間の中で個々人は
自由意志に基づいて、即ち私利私欲の為に行動しますが、
時々世界精神(社会の法則)の目指すところを直観的に見抜き、それに沿う形で
行動し、
目論見通りの結果を納める人がいます。それが歴史上の偉人です。

最近の例を挙げれば、アメリカのレーガン大統領です。レーガンは1981年に政権
につく
や、世の所謂平和主義者の猛反対の中、福祉予算などを削減する一方で、軍事予
算を増強
し、中距離核ミサイルを欧州に配備し、スターウォーズ構想までぶち挙げてソ連
に対して
徹底的な軍拡競争を挑んだ。レーガンの慧眼はそうやって軍拡競争を挑めば、脆
弱な経済
に支えられたソ連は必ず破綻すると見抜いていたのです。果たしてソ連経済は破
綻し、ソ
連邦そのものが崩壊してしまい、結果的に本当に核軍縮が実現したのです。
 今にして思えばソ連崩壊は歴史の必然ですが、80年代に生きていた人間で、
レーガン
の政策によってソ連が崩壊」するなどという事態を予測できた人間がどれたけい
るでしょ
う?(私も夢想だにできませんでした)私の知る限り、それを予測していたのは
小室直樹
だけです。だから私は社会科学者として小室直樹氏を尊敬しています。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 游惟  2001-07-15 02:14:05
・・・続きその2
井沢先生がしばしばおっしゃるように、「我々は歴史の答えを知っている。だが
当時の人
々は知らない」のです。その答えを当時において見抜き、目論見通りの答えを出
した者、
それが歴史の偉人です。

明治維新が「革命」の名に値するのは廃藩置県があったからです。それがなけれ
ば、鎌倉
幕府が建武政権に変わった程度のことに過ぎません。
しかし、幕末において「廃藩置県」などと言うことが可能だと思っていた人間が
どれだけ
いたでしょう? 倒幕派の薩長土肥等の大名にせよ、朝廷貴族にせよ、幕府をか
ら朝廷へ
天下の政権を奪い返し、その新政権内で大きな発言権が得られればよい、ぐらい
に考えて
いた者が大半でしょう。
鎌倉幕府が建武の中興を経て室町幕府に変わったからといって、それは政権の主
催者が変
わっただけで、支配機構そのものは大差ありませんでした。幕府は一存で有力御
家人や大
名を取りつぶす訳にはいかず、やりたければ合戦は不可避でした。しかし、徳川
幕府は武
力を用いずに一存で大名の取りつぶしや国替えを平気で行えた。それは鎌倉幕府
や室町幕
府とは根本的に異なり、これは革命的変化です。そして、それが可能だったのは
関ヶ原合
戦があったからです。
それと同じように、戊辰戦争があったから廃藩置県が可能であったわけで、それ
がなけれ
ば大政奉還・版籍奉還だけでは幕藩体制が朝藩体制(公武合体)政府ができただ
けのこと
でしょうし、多くの勤王の志士達もそれ以上のことは望んでいなかったでしょう。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 游惟  2001-07-15 02:15:32
・・・・続きその3
西郷・大久保・木戸など薩長指導者が、慶応3年もしくはそれ以前の時点で、
「廃藩置県」
を実現可能なビジョンとして視野に入れていたか否かはわかりませんが(その当
時からそ
う考え、行動していたとすれば大したものであり、彼らこそ歴史の偉人です)、
いずれに
せよ、ここで武威を示し守旧派の気勢を殺いでおかなければ根本的な社会革命は
できない、
と直観的にわかっていたことは確かでしょう。だから、彼らにとって合戦相手は
誰でもよ
く、たまたま相手として都合のよかったのが会津藩だった、ということでしょ
う。秀吉死
後の徳川家康にとって合戦相手は誰でもよく、最初は前田利長を挑発し、乗って
来ないと
上杉景勝を挑発したのと同じで、会津藩が最初から恭順していれば、別の相手が
選ばれた
ことでしょう。

たまたま見せしめの為に選ばれ、「朝敵」の汚名を着せられ、維新後も冷遇され
続けた会
津の人たちには気の毒ですが、ヘーゲル史観からは「世界精神」の発現のために
必要な犠
牲者だったというしかありません。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 十姉妹  2001-07-15 15:14:24
いやぁ、暑いですねぇ。ちょっと外に出る気になりませんね。


>游惟さま

私の前回の投稿、書き出しが拙かったようです。「戊辰戦争の要、
不要」を論じれば、論旨は理解できると申し上げたとおり、私も
歴史の流れとして必然的に生じたものと考えております。

官軍首脳に「威信のゆり戻しはいずれくる」という自覚があったか
否かをここで問うても不毛ですが、貴殿のおっしゃるように
>たまたま相手として都合のよかったのが会津藩だった
だったとして、官軍側に日本の明日のため会津よ犠牲になってくれ
という心情があれば、平成も10年を優に過ぎた現在、会津の方々
から割り切れなさが吐露されることも無いのでは? ということが
ひとつ。
さらには、そのような心情・理念が士族全体に共有されなかった、
からこその西南の役、ではなかったのか? が、ふたつめ。

で、そのような高尚な理想よりも現実には「この蝦夷が」的な蔑視
が圧倒的に優位でかの苛烈な処置につながり、そんな程度の意識しか
ない連中が西郷ブランドに寄りかかって「北伐」の軍を起こしたと。

もっとも会津において山口だけが敵視されてきたことから考えますと、
官軍の中でも西郷さんにはその心情があり、西南の役で捨石役を演じ
きれたのかも知れません。


あと徳川幕藩体制における国替え云々は、織豊時代を通じた兵農分離
の進行や全国検地実施という社会条件の整備があってこそで、関が原
だけに因を求めるのは少々無理があるような?
本題とは無関係ですが・・・

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺1  2001-07-15 19:57:26
真ノ勤王ハ会津ナリ: 新撰組隊士・結城無二三の意見
「孝明天皇の崩御は幕府にとっての大打撃だった。同時におじい様(新撰組隊士・
結城無二三)達にも大打撃
だった。世間では天皇が幕府に対して常に不満を抱いておられたように伝えてい
るが、事実はその反対で、
おじい様のお話によってみると、天皇は諸藩の野心家が皇室をダシに使って天下
を騒がせているのを
ご立腹になってたそうだ。殊に岩倉具視は非常にお嫌いで、あれはいつ何をする
か分からぬと仰せられて
たそうだ。そして会津の松平肥後守の誠忠無二なのにことごとくご信頼遊ばさ
れ、肥後守がしばしばお暇を
願い奉ったに関わらず、いつも思し召しをもって留任ということになり、前後五
年間京都で御用を勤めて
いた。後年、会津が若松城であの華々しい籠城をしたのは、単に薩長に対する意
地ばかりではない。
深く先帝の意を体し何か特別の御委託を受けていたからだということである。お
じい様はその任務の関係上
しばしば会津の邸へ行き、殿様にもじきじきお目通りしたことがあって、その都
度ありがたき思し召しを
補遺2に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺2  2001-07-15 20:06:23
拝し、大いに発憤されたもので、本当の勤王はむしろ会津だと堅く信じておられ
た。
その天皇が崩御されたので、会津は本当に力を落とした。」
結城禮一郎(昭和51年)『旧幕新撰組の結城無二三』中公文庫 より

Re:戊辰戦争 -投稿者: ウサチュウ  2001-07-15 21:50:27
 ということは、ヘーゲル史観から言えば日本も「世界精神」とやらの
発現のために必要な犠牲者だった訳ですな。
 日本人である私にとって、そんな史観(歴史解釈)は、
 「やなこった!」
 の、一言ですな。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺3  2001-07-15 23:03:24
明治維新ハ革命ニ非ズ: 元、二本松藩士・佐倉強哉の意見

文中「この人」:佐倉強哉(1850-1939)。戊辰戦争時18歳、二本松城落城
にあう。その後東京で警官、西南の役に出征。帰還後職を辞めさ
せらる。のち検事。退職後、弁護士・公証人。数え九十にて没す。
筆者:榊山潤(1900-1980)。佐倉の娘の夫。昭和12年の上海事変に特派
員で従軍。凄まじい市街戦を目の当たりにした後、義父の手記を
基に小説『歴史』を執筆。『歴史』は昭和15年、新潮賞受賞。
以下は、昭和12〜13年頃、福島市にて佐倉に取材した記憶を、榊山が
戦後にまとめたもの。

奥羽の戦で徹底的に打ち砕かれたのは会津である。それにはそれだけ
の理由があった。新勢力の代表者である薩長二藩の対立は根本的なも
ので、会津は彼らを官賊と呼び、とことんまで仇敵の感情を燃やし続
けた。しかし二本松藩には、薩長との間にそれほどの対立はなかった。
第一、対立するほどの有名な大名でもなかった。にもかかわらず、敵対
の意欲において会津に劣らなかったのは、一種の正義感からであった。
この人は晩年に至っても、明治維新は革命でなく、単に雄藩と徳川
幕府の争覇であったという見解を崩していなかった。
薩長二藩は、巧みに不平不満の貧乏公家を利用して皇室を抱き込み、
皇室を表看板にして幕府を倒そうとした。つまり、関ヶ原の怨みを
晴らそうとしたというのである。 補遺4へ続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺4  2001-07-15 23:32:39
この人は、孝明天皇の崩御が、正常なものでないことを信じていた。こう
言う薩長の陰謀に対して、徳川幕府が対決の意志を失ってしまった
ことを、奇怪と考えていた。
当時奥州の諸藩には、こういう思想が瀰漫していたに違いない。勝
安芳は薩長のスパイであり、もろくもそのワナに落ちて腰砕けになった
十五代将軍慶喜は、卑怯者の代表者であった。腰抜け将軍に代わって、
薩長とその後に従う小野心家どもにひと泡吹かせてやろうというのが、
奥羽諸藩の偽りのない心情であったろう。

奥羽は連盟を造って新政府に対抗した。明治政府は、賊藩である奥羽
に対して、あくまで冷たかった。文化は一足飛びに北海道に飛んで、
奥羽はかえりみられない土地であった。現に戦後も、東北本線は単線で
あった。日本を一つにして、西欧に負けない国家を造り上げようとする
大方針があったとすれば、そんな小感情にいつまでもとらわれている
はずはない。つまり彼らには、徳川を倒して天下を握ろうという、
封建的な野心しかなかったことになる。
もし徳川が自壊作用を起こさなかったら、いずれにしても根本から
立て直さなければならなかった時代の必然によって、明治政府のした
くらいのことはしたであろう。明治政府を動かした力と同じものが、
徳川を動かしたに違いないからだ。 補遺5に続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺5  2001-07-16 00:01:45
明治政府の食をはんで、苦労のない晩年を送ったこの人が、頑として
こういう見解を捨てなかったのは、この人の生きてきた道筋が、どん
なに険しかったかを物語るものであろう。「俺が賊藩の徒でなかったら
大臣ぐらいはなっていたろう」と、一杯飲むとこの人は言った。負け惜
しみとはいえない人柄であった。

福沢諭吉に「やせ我慢の説」という一編がある。明治三十四年に発表
されたものだか、それにはこんな意味のことが書いてある。「昆虫が百
貫目の鉄槌で撃たれる時にも、なおその足を張って抵抗の様を示すのに
二百七十年の大政府が、二,三の強藩の兵力に対して毫も敵対の意無く、
和を講じ哀を乞うてやまなかったのは、世界に例を見ない。勝安芳が
江戸の民を塗炭の苦から救ったことは大功かも知れないが、新政府の
新貴顕となって愉快に世を渡っているのを怪しむ者もないのは
奇怪である」
この人がこの一文に、福沢に対する傾倒を更に濃くしたのは当然で
あろう。腰抜け将軍慶喜を籠絡して、七十万石の新封に追いやった勝が
、得々として明治政府の重要な椅子にかけていたことは、三河武士の
風上にもおけぬ奴と、この人の目にも映っていた(勝は一代前に旗本に
新規召しかかえで、三河武士とは言えない)。
補遺6 へ続く

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 補遺 6  2001-07-16 00:56:46
それを福沢が遠慮なく言ってくれたのだから、この人も溜飲を下げた
ことであろう。一人の勝の栄華の後ろには、何千か、何万かの旧幕臣、
賊藩の徒が、不遇の中にうごめいていたのである。
これを時代の赴くところに賢かった者と、その反対の者とに区別して
考えるのは簡単である。

しかし賢く立ち回って、外見栄華な暮らしをした者が、立派な生き方
であったということにはならない。

以上、榊山潤(1983) 『歴史‐みちのく二本松落城‐』叢文社 中
「田舎武士の目」より抜粋。
本稿了。

会津藩の悲劇の原因について(その1) -投稿者: 藤丸  2001-07-18 00:50:07
>>玄武様
お返事が遅れてしまって申し訳ありません。

玄武様のおっしゃる通り、会津藩も旧日本軍も「意地と面子」に
こだわり過ぎたのが、敗北の原因だと思います。

井沢先生も、「英霊に対して申し訳ない」という「言霊」こそが
「太平洋戦争/大東亜戦争」を引き起こした原因と指摘しておられ
ましたが、会津藩もまた、保科正之公の「将軍家に絶対忠誠」という
遺訓こそ原因ではないでしょうか。

さて、会津藩降伏後、明治新政府内では、板垣退助らのように
会津藩に対して寛大な処分を下そうとしていたようですが、
ヤーヤー一揆(明治新政府は会津藩兵に扇動されたと考えていた)
の発生などで、次第に強硬派の意見が台頭し、その結果、会津藩士の
斗南への移住(事実上の流刑)という最悪の事態を招いてしまった
のではないのでしょうか。

とり急ぎ私見を書いてみました。間違いなどもあると思いますので
ご指摘のほどよろしくお願い致します。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 玄武  2001-07-18 20:44:25
>藤丸さま
読ませていただきました。返事ご丁寧にありがとうございます。

>井沢先生
「会津藩と日本帝国の共通点」についての意見を聞きたいです。

>上野さま
楽しく読ませていただいております。今後の意見にも期待してます。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 玄武  2001-07-18 20:44:54
>藤丸さま
読ませていただきました。返事ご丁寧にありがとうございます。

>井沢先生
「会津藩と日本帝国の共通点」についての意見を聞きたいです。

>上野さま
楽しく読ませていただいております。今後の意見にも期待してます。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その11  2001-07-19 23:16:12
戊辰戦争―私の結論

奥羽越列藩同盟は、大政奉還から王政復古に至る政治過程の現実を認
めていた。それは会津藩といえども承認していることで、徳川幕府の
復活を求めていない。同盟諸藩が反対したのは、薩長倒幕派による
クーデター方式での王政復古とその方法なのであり、鳥羽・伏見戦争の
「朝敵」処分方法なのであった。つまり、倒幕派なる薩長勢力の専制を
否定しているのであった。王政復古の論理を倒幕派以外の勢力が持つ事
は妨げられないはずである。しかるに、倒幕派がその論理を独占しよ
うとしたからこそ戦争が起きたと言える。
戊辰戦争は、幕藩制国家に代わる統一国家のあり方をめぐって、相異
なる構想を持った政治勢力が激突した戦争であった。一方の政治勢力:薩長倒幕
派は天皇を独占し、その伝統的・精神的力を背景にかつ利用し
つつ諸藩を統合し、専制的支配と中央集権体制を構築しようとしたの
である。
鳥羽・伏見戦争は、この薩長倒幕派に対する徳川を中心とした諸藩連合
政権を構想する幕府と幕府支持勢力の対決であった。ただし幕府側に
とって、この戦争はしなくても良い戦争であった。諸藩連合政権は本来
武力衝突を避けるために構想されたものであったし、王政復古後の政局
は諸藩連合政権が実現する可能性が見えつつあったのである。だからこそ、薩長
倒幕派にとっては必須の戦争であった。なぜなら、戦争に
よって対立勢力を打倒しない限り、彼らの政権の実現はあり得なかっ
たからである。 その12へ

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その12  2001-07-20 00:00:47
大正六年九月八日、盛岡で戊辰戦争殉難者五十年祭が挙行された。政
友会総裁の原敬が事実上の祭主として列席した。原は盛岡藩家老の名門
に生まれ、十四歳で戊辰戦争を経験した。彼もまた敗戦の深い傷を負
っていた一人である。原の政治活動は簡単に言えば薩長藩閥との戦い
であった。薩長人が嘲笑した「白河以北、一山百文」からとった一山を
わざと自分の俳号として、日々の政敵に闘志を燃やしてきた。原内閣
は翌大正七年九月に成立する。『原敬日記』には、五十年祭当日の記事
を次のように記している。
「今朝俄に起草し、左の一文を朗読して余の戊辰役に対する観念を明にせり

同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭、本日を以て挙行せらる。
顧みるに、昔日も亦今日の如く、国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。
戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり。
其の真相を語るものなり。今や国民聖明の沢に浴し、この事実天下に
明らかなり。諸子以て瞑すべし。余偶々郷に在り、此の祭典に列するの
栄を荷ふ。乃ち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。
大正六年九月八日 旧藩の一人 原 敬
他には如何なる評あらむも知れざれども、余の観念を率直に告白したるなり」 そ
の13へ

Re:戊辰戦争 -投稿者: 上野 その13  2001-07-20 01:02:13
原敬が訴えたかったのは、「南部(盛岡)藩も勤王の志があったのだが、
戦争に敗れたため賊軍とされてしまったのだ」と言う事ではない。
ただ一つ、戊辰戦争は「政見の異同のみ」にあったのだという所にある。
単に政治的見解を異にしただけのことで、それは原の政敵・山県有朋や
反対党の憲政本党との政治的対立と同じようなものである。
「相対立する双方は同列で、一方が勝利したからと言って敗者を処断
できる筋合いのものではない。だから、負けたことをいつまでも恥じ
たり、卑屈になることはないのだ」と説いていたのである。
「政見の異同」に在るのみ、とは簡潔にして名言である。

戊辰戦争・明治維新を、いつまでも薩長倒幕派の物差しでしか計ろう
としない歴史家の手抜きへの批判として、
原の言葉は今日でもなお生彩を放っている。

以上、佐々木 克スグル (1977)『戊辰戦争―敗者の明治維新―』中央公論(中公新書)
より
一部改訂。本稿了。

Re:戊辰戦争 -投稿者: 仙台在住27歳男性  2001-07-21 21:55:37
「あたらしい歴史教科書をつくる会」が執筆した教科書の市販本によると、
明治維新はただ「内戦」であり(P190)、「指導者層の交代」(P208)である
と書いてある
ようにみえました。
この教科書は「日本人の誇り」の本です。私は断固指示です。
これにコラムとしてでもいいから「明治維新の側面」とでも題して、
幕府側、会津側のことを書いてもらえればなあ、
上野さんのような意見を載せてもらえればなあと思いました。