Name    : なかの
E-mail  :
Title   : パンダさんありがとうございました
Comments:
おはようございます、なかのです。

「戦前」については、田原総一郎氏の「日本の戦争」という本が
現在売れ行きが好調なそうです。
今度購読してみようと思います。

パンダさま>
過去にどういう話があったか分からないというのは
私のように記憶力に乏しい者には非常につらいところです。
ちょっと残念でしたが、手を挙げないほうが言う筋合いでもないですし、
それに出た結論にも特に異存ありませんので・・。
NHKの件は知りませんでした。
お気遣い下さりありがとうございました。

Time    : 2001/ 3/ 1(木) 08:23:04

Name : MK E-mail : Title : 世の中を明るくするために。 Comments:  なかのさん、ありがとうございます。賛同していただいてとても嬉しいです。 何故、今日本がこんなに悪く言われるのか、戦争に負けたから。そうしか言え なくて。ここでも太閤さんのことを論じられていますが、この前大阪城に行って びっくり国宝の屏風絵がきれいに展示されてますが夏の陣かの逃げ惑う人々の姿 なのです。覗き窓のスライド見ると女の人の首が飛んでて... 足軽から身を起こした秀吉の素晴らしさなんてどこにも出てないのです。大体、 中身は鉄筋コンクリ−トのお城で..見るなら姫路城の方が参考になるのですが Time : 2001/ 3/ 1(木) 09:33:06
Name : なかの E-mail : Title : 教科書検定騒動 Comments: こんばんは、なかのです。 最近、教科書検定の問題が新聞紙面を賑わしています。 「大東亜戦争」の表記や「地元の支援を受けての解放戦争」という位置づけが 気に入らないとする方々が、特に教職員組合などに多いらしく、 しまいには「外圧」まで出てくる始末です。 客観的に振り返ると、あの「太平洋戦争」と呼ばれている戦争は、 結果的には「植民地解放戦争」になりました。 むろん当時の日本の当局が考えていた姿とは異なりましたが・・。 これは決して私の偏見ではなく、インドや、そしてあのフセイン大統領も それに類するような発言を過去にしていました。 日露戦争による勝利が白人絶対主義を部分的にも否定したという見解は 長い目で見て、歴史の評価となると思います。 渦中にある本は、先の表記などについて指摘を受け、 一部修正の後に検定を合格したそうなので、 問題になった表記が書き換えられている可能性はあります。 以下は私の個人的感想です。 その検定通過後の教科書がどうなっているのかは知りませんので 私自身もその内容については何も言えませんが・・、 反対した教職員組合その他の方々は、 この「結果的に植民地解放戦争」となった先の大戦について、 あの戦争は歴史上全くの無駄であり、 単なる日本の暴走だったというのでしょうか・・? アジア諸国やアフリカ・アメリカの諸国が植民地のままの方が 良かったとでも言うのでしょうか・・? 戦略として優れていたか、そして手段が良かったのかどうかは別にして、 少なくとも当時の日本は「アジア解放」をスローガンにしていた筈であり、 その目的は「変形」しながらも一応は達成されたのです。 「手段」が「目的」と化してしまうことが多いなか、 これはそれなりに評価すべきであり、 そして現実に外国でそれを評価している人達もいるのです。 むしろ、日本は自らを犠牲にして(あるいは「させられて」・・?) 20世紀前半までの「帝国主義の世界」に風穴を開けたのだと思います。 その「犠牲」とは、「植民地」や権益、大国の地位を失うなどといった こともさることながら、 俗に言う「日本人の心」を失ったということでしょう。 しかし、「教職員組合」というのは、北海道でも騒動を起こしていますが、 なんであんなに威張っているのでしょう・・? 単体の教師は非常に立場が弱く、可哀想な職業にも思えるのに・・。 これでは恐くて子供を学校に通わすこともできないですね・・(笑)。 MKさま> レスありがとうございます。 以前に隣でも話がありましたが、歴史は勝者が残すのが常識です。 大阪城に太閤さんを褒め称えるような物があるとしたら、 恐らく明治以降のものだと思います。 江戸時代の250年くらいは大阪城主は徳川将軍であり、 その城代は老中候補とまでされていたらしいので、 そのような時代に前代の天下人を称えるような物があるとは考えにくいです。 いくら怨霊の国とはいえ、江戸時代の少なくとも初めは「武士」の政権ですし。 そして明治以降では国宝にはなりにくいでしょうから・・。 民間などに埋もれている可能性はあるのかもしれませんが・・。 Time : 2001/ 3/ 1(木) 21:13:06
Name : MK E-mail : Title : 昭和ヒトケタ世代のこと Comments:  なかのさん、ありがとうございます。ご意見読んでほっとしました。 私の父母は、昭和 2、3年生まれでその下に弟や妹がいますが、やはり下の学 年の人達はちょっとおかしいと言っています。学校の教科書もぼろぼろで非 常に可哀想だったと。母達は英語も習っていますが、昭和 4、5年の弟達は何 も知らないと。但し、昭和 7年位になると男女共学になって男子校だった大 学にも女子が入れる様になり妹などは希望に燃えて今と同じ様な学生生活を 楽しんだ様です。父母の戦時中の話と言うと大阪大空襲の絨毯爆撃で家を焼 かれ...続く. Time : 2001/ 3/ 2(金) 10:13:13
Name : MK E-mail : Title : 昭和ヒトケタ世代のこと・続き Comments:  ごめんなさい、ワ−プロなので書込量が限られてて。又、昭和7年位とは、 昭和7年生まれの叔母位と言う意味です。 何れにせよ父母達は学徒動員され 砲兵工廠(こうしょう)で雷管なんかを作らされてたのですが、B29による 絨毯爆撃。家から何から全部焼かれ、疎開さきで芋ばっかり食べさされてて。 又、父の従兄達に広島の原爆症で亡くなった人達もいて。でも、もう水に流し てるのか殆ど言いません。余りに悲しい思い出が多いからだとおもいます。  そして、父母より上は論語を読み漢詩に親しみ教育勅語を毛筆で書いたりしてました。 Time : 2001/ 3/ 2(金) 11:53:30
Name : MK E-mail : Title : 昭和ヒトケタ世代のこと、続き。 Comments:  ごめんなさい、ワ−プロなので書込量が限られてて。又、昭和7年位というのは、 昭和7年生まれの叔母位という意味です。何れにせよ、父母達は学徒動員され砲兵 工廠(こうしょう)で雷管などを作らされていたのですが、B-29 による絨毯爆撃で、 家から何からすべて焼かれ疎開し、芋ばっかり食べさせられてた。とか、父の従兄 達の中には広島の原爆症で亡くなった人がいたり。もう、水に流してるのか殆ど何も 言いませんが..。余りに悲しい事が多いからだと思います。 だから、父母より上の論語を読み漢詩に親しんだ世代とは違ってきています。 Time : 2001/ 3/ 2(金) 12:26:37
Name : パンダ E-mail : Title : 聖徳太子とは。。。 Comments: パンダです。「関ヶ原」から約1000年ほどジャンプして、「聖徳太子」に ついてです(笑い) 私は、まだ読んでいないのですが、近頃ある学者(?)によって、またぞ ろ「聖徳太子架空論(?)」が出回っているようですネ。 (少し前に「TV世界不思議発見」で取り上げられていました。。。) こういったセンセーショナルな表題の建て方自体が、如何なものかと思う のですが。。。(笑い) この種の議論の論点は、概ね次の項目に分けて 考えられるべきものでしょう。。。 *後世「聖徳太子」として知られる人物・及びその事跡について。。。 @在世中に「聖徳太子」と称されていたか、あるいは称するべきか? これはもともと議論の余地はありません。当時の「豊御食炊屋姫(止余美 気加志支夜比売)大王」が「日本国推古天皇」と称された可能性が100%な いのと同様に、あらゆる史料に照らして100%あり得ませんネ。 A後世「用明天皇」と称された橘豊日大王の子であり、山背大兄の父であ  る、人物「X」が存在したか? これは「日本書紀」「上宮聖徳法王帝説」等の史書をはじめ、この人物に 関するあらゆる史料を架空の創作だとする立場であればともかく、それら に一定の史実性を認めるならば、その存在は極めて蓋然性が高いと考えら れます。(この人物「X」を、外国人とするトンデモもありますが。。。) Bその人物「X」が当時「厩戸」あるいは「豊聡耳」と称されていたか? 同様に。。。前者は極めて蓋然性が高く、後者については疑問があり得る と考えられます。(後に日本書紀等で「厩戸」という名称に、生誕神話を 付加した可能性もあると思いますが、それは別に論じるべきものです) Cその人物「X」は「太子」「摂政」的地位にあったか? その人物が斑鳩に一種の政所を置き、また嫡子の山背大兄が大王位継承を 主張したと言う日本書紀等の記述に信憑性を認める限り、一般の王族以上 の地位にあって豊御食炊屋姫大王を補佐した有力な大王継承権者であった 蓋然性が高いと考えられます。(つまりは「太子・摂政」的地位です) Dその人物は「日本書紀」等に記述されている様々な事跡を残したか? これはCとの関係において「十七条の憲法」「冠位十二階」「遣隋使(国 書)」「七寺造営」「三経義疎」等について個々に検証すべき問題ですが 。。。私は、歴史上「聖人」とされた人物にありがちな「潤色・脚色」は 充分あり得るが、可成りの部分について何らかの史実を反映した可能性が あると考えています。 (少なくともCの観点からも、全て創作とする見方については否定的です) つまり。。。「聖徳太子架空論(?)」というのは、従来から展開されて きた人物「X」の事跡に関する議論であって、決してそれ以上のものでは ないでしょうネ。。。。 私は、その内容は兎も角として、このようなマスコミ受けしやすい「表題」 で、歴史を語る歴史学者(?)の姿勢にはチョット疑問を禁じ得ません。 Time : 2001/ 3/ 2(金) 22:28:13
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 申し訳ありませんが Comments: ふと見ると、ここのログが7メガにも達しているのに気がつきました。 議論の流れを尊重したかったのですが、あえてキリのいいところで、は さみを入れました。他意はありませんので、ご了承ください。 Time : 2001/ 3/ 3(土) 00:14:20
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : パンダさんへ Comments: もちろん、過去ログはすべて保管してあります。 ガタのきた旧式マッなので、ちょっとログを整理 するのが大変ですけれど。 Time : 2001/ 3/ 3(土) 00:23:44
Name : MK E-mail : Title : ア〜ア、よく解りました。 Comments:  管理人さん、どうぞよろしくね。  優れた人間がいると追い落とそうとする人がいて。 聖徳太子架空論なんて、誰が信じるのでしょうか。法隆寺で頭に釘を打たれ ぐるぐる巻で秘仏とされてた聖徳太子像見たことないのでしょうか。 壱万円札からも消えて、さみし〜〜く思ってます。 ついでに(???)、何故江戸城が再建されなかったのか教えて頂ければ 嬉しいのですが。 Time : 2001/ 3/ 3(土) 11:05:15
Name : パンダ E-mail : Title : 過去ログについて。。。 Comments: パンダです。 管理人さんへ。。。 切り方が、チョット突然でしたね、せめて1月分ぐらいは残して頂ければ 助かったのですが。。。ところで、過去ログを見るためにはどうしたら良 いのでしょうか? MKさんへ。。。何だかペシミスティックですね(笑い) >>法隆寺で頭に釘を打たれぐるぐる巻で秘仏とされてた聖徳太子像。。 念の為に申し上げておきますが、頭の釘は。。。光背を止めるための手段 で、飛鳥時代の金銅仏にも良く見られる一つの様式です。 また、白布で保護されているのも。。。秘仏には有り勝ちなことです。 MKさんのような表現では、救世観音が苛められているようで、かえって お気の毒です(笑い) Time : 2001/ 3/ 3(土) 13:42:29
Name : なかの E-mail : Title : 人物X・・? Comments: こんにちは、なかのです。 管理人さま、初めまして。 いろいろご迷惑をおかけしているかもしれませんが、よろしくお願いします。 私が「とまり木」で立てた仮説がある程度当たっていたのには驚きました。 しかし7メガですか・・、 普通の文書ならどのくらいでしょう、想像つきません。 「「逆説の日本史」ご愛読者のための掲示板です」ということだそうですが、 「言霊」シリーズその他についても良いのでしょうか? パンダさま> 聖徳太子架空説についてですが・・、 パンダさんの言われる「人物X」について、BD以外は同感です。 @は井沢先生も「逆説」で主題にされていましたので、 ここで今更改めて言うこともないでしょう。 Bはパンダさんも少し触れられていましたが、 私はどうしてもキリストの生誕伝説が重なって見えるのです。 ただ、「では元の名は?」と聞かれても 答えがさっと出せないのがつらいですが・・。 Dは確かに蓋然性は低くないとは思うのですが・・、 「人物X」が行ったのではなく、他の、例えば蘇我馬子など、 政務を執る人物が実際に行ったという可能性も考えられます。 だとすると、なぜその業績を「聖徳太子」に仮託したのかという 疑問が生じますが・・。 しかし本当に、歴史学会にも、「トンデモ」な方がおられるのですね・・。 聖徳太子とほんの少し絡みますが、 私は天武天皇の「実の」父親は誰かという話に昔から興味がありました。 母の宝姫(後の皇極・斉明天皇)が初めに用明天皇の孫の高向王と結婚して 漢皇子を出産したという記事が天武天皇の父親像を巡る説に 絡んできており、井沢先生もそこに名乗りを挙げておられます。 (井沢先生は高向王が皇族ではなく高向氏の一族であり、その上で 天武天皇の実父とされているようです。) 何故こんなことを今更というと、「聖徳太子」伝説がいつごろ 現在の形になったのかが私には分からないのです。 恐らく天武王朝の初期にはほぼ現在の形があり、 それが記紀に反映されているのでは・・、と思いました。 となりますと、聖徳太子は天武王朝にとって「持ち上げる」べき存在、 つまり漢皇子=天武天皇ならば聖徳太子は天武天皇の父方の大叔父に当たり、 同じ用明天皇の系統だから・・、 考えすぎですか・・? MKさま> 江戸城再建とは、江戸時代前期の明暦の頃に頻発した(振袖火事など) 江戸大火による江戸城一部焼失のことでしょうか・・? 焼失した直後は、当時大老だった保科正之が、 江戸城再建よりも江戸市街の再建を優先させたのではないかと思います。 ではその後は・・? 幕府財政が緊迫していたから・・? 保科正之の精神を尊重したから・・? 平和の世になって仰々しい構えが不要になったから・・? 由井正雪の乱に懲りて大名への必要以上の普請を躊躇したから・・? さて、なぜでしょう・・? Time : 2001/ 3/ 3(土) 15:47:31
Name : パンダ E-mail : Title : 「厩戸」の由来。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 >>私はどうしてもキリストの生誕伝説が重なって見えるのです。ただ、「で >>は元の名は?」と聞かれても答えがさっと出せないのがつらいですが・・。 正直いって。。。古代史に関する史料は限られていますので、トンデモ以外 には出るわけはないと思います。。。(笑い) ご承知だと思いますが、「日本書紀」よりも古形を保っているとされる 「上宮聖徳法王帝説」には次の記述があります。 「聖徳法王、娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐々美郎生児舂米女王、次長谷王 次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬 屋古女王」 ここに子女の名として「馬屋古女王」の名前がありますね。当時の皇族の命 名法は養育(壬生)に当る氏族か、養育に当てられる土地名から取られるの が普通で、そのため類似名称が極めて多いのですが。。。その例からして、 『厩戸』と『馬屋古』は明らかに類似名称と考えられ、おそらく太子の養育 (壬生)に当てられた養育地名が継承されたものと思われます。 この点から。。。『厩戸』は、現在の橘寺周辺にあり、その後都城の造営等 によって失われた「地名」と考えるのが最も蓋然性が高いと思われます。 もともと、藤原氏の氏寺があった『厩坂』の地名も現在では失われています が、これとの関係地名だとも考えられます(?)。 また、生誕説話も。。。書紀と帝説では、次のような相違があります。 書紀 「皇后懐妊開胎之日、巡行禁中、監察諸司。至于馬官、乃当厩戸、而不労忽 産之。生而能言。有聖智。及壮、一聞十人訴、以勿失能弁。兼知未然。・・・ 並悉達矣。父天皇愛之、令居宮南上殿。故称其名、謂上宮厩戸豊聡耳太子」 帝説 「穴太部間人王、出於厩戸之時、忽産【生】上宮王々命幼少聡敏、有智、至 長大之時一時聞八人之白言而弁其理、又聞一智八故号曰厩戸豊聡八耳命、池 辺天皇其太子、聖徳王、其愛念之令住宮南上大殿故、号上宮王也、」 つまり、書紀では。。。 「懐妊開胎さむとする日、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至り たまひて、乃ち厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり」 というようなゴタゴタした生誕神話めかしくなっていますが。。。 帝説では単に。。。 「厩戸に出でましし時、忽に上宮王を産れませり」 ということで、何の変哲もない記述です。(これならば、厩戸を皇族命名の 常識である「地名(氏族)」由来として何の問題もないと思うんですね) その他の部分に付いても。。。書紀が太子をより神話的潤色で包んでいるの は、あきらかですよね? >>私は天武天皇の「実の」父親は誰かという話に昔から興味がありました。 私は、あまり興味がありません(笑い) 天智の同腹実弟と見て90%以上の 蓋然性があると思います。当時の状況から見て、同父同母の実弟以外の人物 が天智実子の大友皇子と皇位継承戦争を争い、勝利するとはまず考えられま せん。蘇我系の高向臣一族などというのはジョークにもなりませんネ(笑い) (年齢問題に付いては既にケリが付いていますので、ここでは論じません) Time : 2001/ 3/ 3(土) 20:24:54
Name : エフ音 E-mail : Title : 台湾の帰属に関して Comments: 皆様、お久しぶりです。 以前、台湾の帰属に関して、日本から当時の中国に対して賠償として委譲された のではないかという旨を書き込みしました。 しかしながら、黄文雄氏が先日、新聞で発表されたコラムを見まして、 以前の書き込みは正確な記述ではなかったかもしれないということに 思いが至りましたので、今回補足せせて頂きます。 氏のコラムでは台湾の帰属に関して、日本は台湾をサンフランシスコ条約で 放棄したのであって、カイロ会談でも日華条約でも台湾の帰属については 中国(中華民国を含む)にあるとは決められていない旨が述べられておりました。 氏の攻撃の矛先は、カイロ会談に蒋介石が出席し、台湾の帰属が決定された としている一部の日本の教科書が誤っているのではないかという事に対して ですが、私自身このように考えていたので、目から鱗が落ちた思いです。 ただ、当時の台湾における日本の資産は全て中国側に接収されています。 (これは、黄氏の本でも紹介されています。) 当時の日本はこれを賠償と考えずに単に放棄してそれを中国が拾っただけ なのでしょうか。(もちろん、黄氏はこのようなことを言っておりませんが、 氏の文章を曲解すれば、このような解釈の仕方も成立しうるので、) 私個人の空想ですが当時、中国との外交交渉がうまくもとまらなかったので、 米国等との交渉を優先した結果、台湾の放棄という形になったのであって、 本質的には賠償なのではないかと思います。 (これも台湾に住む人の意思を無視したものではありますが、) 後日、中華民国、中華人民共和国の双方とも日本に対する賠償権の放棄を 宣言したおかげで大きな問題とならず、東洋の美学に沿った結果と なったのですが、現時点から見るとこれらの交渉も 一歩間違えれば、外交上の不利益を受けても仕方のない行動であるように 思われます。 これらを井沢流の切り口で解釈すると日本人の契約、交渉の下手さの現れ ということになるのでしょうか。 話は少しずれましたので、戻しますと要点は 台湾の帰属に関して日本(の教科書?)は賠償として台湾および台湾の資産を 渡したと考えているかもしれませんが、外交文書上にはそのような記述は ない可能性が高いということです。 以上、駄文お付き合いありがとうございました。 Time : 2001/ 3/ 4(日) 13:21:43
Name : パンダ E-mail : Title : 「聖徳太子(厩戸王)」の事跡。。。 Comments: パンダです。チョット時間がありますので、続いて聖徳太子問題です。 なかのさんへ。。。 >>Dは確かに蓋然性は低くないとは思うのですが・・、他の、例えば蘇我馬 >>子など、政務を執る人物が実際に行ったという可能性も考えられます。 この問題。。。例えば「十七条憲法」に付いて考えると。。。 @推古期に、「十七条憲法」の様な「憲法X」が制定されたとは考えられず (内容が整い過ぎている)、おそらく天智期以降に創作されたものであって 、即ち「十七条憲法」を定めた「聖徳太子」は虚像に過ぎない。 A推古期に、「憲法X」そのものが制定されたかどうかには疑問があるが、 史料及び当時の状況から少なくともその原形となった「憲法Y」は制定さ れた可能性がある。 (例えばもっと宣命体的な古様漢文であったが、その後体裁が整えられた?) B推古期に、「憲法X」あるいは「憲法Y」が、制定されたとしても、それ が「聖徳太子」によってなされたかどうかは疑問である。 (むしろ政治の実権を持っていた蘇我氏の主導によるものではないか?) C推古期に、「憲法X」あるいは「憲法Y」が制定されたとすれば、この内 容が。。。チャイナに統一国家が成立し、国際(コリア半島)情勢が緊張 しつつある時期に。。。天皇(大王)集権の強化を意図したものであると ころから、蘇我氏との妥協のもとで、皇族の一員(即ち「太子・摂政」的 地位にあった「聖徳太子」)によって定められた可能性がある。 以上の諸点から。。。私はA→Cの蓋然性が最も高いと思っています。 (少なくとも、それを完全に否定する根拠に欠けると。。。) Time : 2001/ 3/ 4(日) 14:04:03
Name : MK E-mail : Title : お詫びと共に訂正させて頂きます。 どうも悲観的で... Comments:  ミ−ハ−MKです。お邪魔します。 以前ですが、三国史と書いたのは勿論三国志の間違いです。もう少し言えば 十八史略と書きたかった。そして私の読んでたのは、なかのさんの書かれた様に 陳舜臣さんの小説十八史略です。十八史略は江戸時代から学生の必読書とされて きた様です。中国古代の故事成語や名場面が網羅されています。 又、3月2日に同じ様な事を書き込んでしまったのは、登録に時間がかかったので 機械の操作ミスか教育勅語と言う言葉が悪かったのかと思い訂正したからです。単なる ミスだったみたいですみませんでした。。。。。 Time : 2001/ 3/ 4(日) 14:32:05
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : パンダさんへ Comments: 実は、1月以降のログを残したのですが、なぜか画面に表示されないのです。 FTPでディレクトリにあるログファイルをひっぱってきて確認しましたが、 間違いありません。月曜日に、サーバーの技術部と相談して問題を解決してみ す。それ以前のログは、書庫を作って閲覧できるようにしたいと思いつつ、予 算上の都合から実現していません。 なお、トラブルの原因は、グリーンビルの「緊急浮上」と同じで、朝方に膨張 したログファイルをカットした後、ディレクトリに戻したときに、どなたかの 書き込みと衝突したものと思われます。なにぶんにも、「えひめ丸事件」の取 材でホノルルから帰国したばかりで、時差ボケもあったのか周辺海域の警戒に 遺漏が生じてしまいました。 Time : 2001/ 3/ 4(日) 15:54:18
Name : パンダ E-mail : Title : 管理人さんへ。。。 Comments: 了解しました。ご多忙中わざわざのご説明恐れ入ります。 パッシブ・ソナーでの索的は、現在の技術では極めて困難だとか。。。 沈没ログの引揚げもむろん可能な限りで結構です(笑い) Time : 2001/ 3/ 4(日) 16:52:26
Name : なかの E-mail : Title : 「憲法」、そして天智・天武の問題 Comments: パンダさま> ご丁寧なレスありがとうございました。 十七条憲法の成立の経過につきましては、 私も「「聖徳太子(厩戸王)」の事跡。。。」でのAが一番 蓋然性が高いと思っていますが、@はともかく、 Bを否定しきれない、つまりBCのどちらが 蓋然性が高いかが現段階で判断しかねています。 「厩戸」につきましては、「地名由来説」を提示下さいましたが、 確かに蓋然性があると思います。 あと、天武天皇は90%天智天皇の弟で、 年齢の問題は解決済みとされていますが・・、 この「兄弟で年齢が逆転」の問題は古くからあります。 例えば、私は読んでいない(というより入手できない)ので 伝聞でしかないのですが・・、 「神皇正統記」では天智・天武の兄弟が同い年になっていることが 指摘されています。 小林恵子氏や大和岩雄氏、そして井沢先生などが これについて様々な説を提示されています。 少なくとも井沢ファンは井沢先生の説を読んでおられる人が 多いと思いますので、ご面倒でも説明をお願いします。 私もパンダさんの説を聞いてみたいと思います。 最後に初歩的な疑問ですが・・。 いわゆる「十七条憲法」は、当時もそう呼ばれていたのでしょうか? 当時から「憲法」という言葉があったとすれば、 大宝元年に制定されたとする大法律令などの「律」と 「憲法」とはどのような関係にあったのでしょうか・・? 「律」は律令国家の基本法という、循環的な定義があるのが 判らなくさせている一因でしょうが・・。 もしお分かりでしたら、教えていただきたいと思います。 MKさま> 中国史は4千年とも5千年とも言われていますが、 それだけ長いだけあって、細かいことまで知ること自体に無理があります。 何しろ、北宋時代の皇帝が歴史を覚えきれず、中国史上でも屈指の天才とされる 司馬光に「資治通鑑」という通史を編纂させたくらいですので・・。 中国史のダイナミズムを感じるのであれば、 「十八史略」を知っていれば十分かと思います。 あとせいぜい、「史記」「春秋左氏伝」、あと歴史書ではないですが、 「韓非子」などの春秋戦国時代の書物を読めば、 だいたい中国史の感覚が分かるのではないかと思います。 Time : 2001/ 3/ 4(日) 19:02:04
Name : きんたろう E-mail : Title : 7メガ!! Comments: 書き込み量7メガバイトですか!! これってものすごい量ですね。 ちなみに私のページで5メガくらい使っていますが、プリントアウトしてみると1 00ページを遙かに越えています。 まして、一つのファイルで7メガというのは驚異的な数字だと思います。 ちょっと信じられないくらいの大きさですねv(^o^) さすがにすごいです。 管理人さん、お久しぶりです^^ お手数ですが過去ログの部屋作成をよろしくお願いしますv(^o^) 実はもう一つお願いがあります。 掲示板をダウンロードするときに、多分150秒と設定されているように思ってい ますが、私の環境では空いている時間帯で500〜600キロバイト分くらいしか 読み込むことが出来ません。 出来れば500キロバイトくらいの固まりの単位でログを作っていただけると有り 難いのですが... ゆっくり待っています、笑 Time : 2001/ 3/ 4(日) 22:23:18
Name : パンダ E-mail : Title : 「十七条憲法」。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。「聖徳太子」にお付き合い頂き、ありが とうございます。 >>Bを否定しきれない、つまりBCのどちらが蓋然性が高いかが現段階で >>判断しかねています。 つまりですね「憲法」は以下の部分が、中心になっているのですが。。。 「上和ぎ下睦びて」「詔を承りては必ず謹め」「君を則ち天とし。臣を則 ち地とす」「君言たまふこと臣承る」「群臣禮有れば、位に次(ついで) 乱れず」「其れ諂ひ詐く者は、則ち国家を覆す利器なり」「其れ此の如き 人、皆君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本也」「故に古の聖王、官の 為に人を求め、人の為に官を求めず」「群卿百寮、早く朝(まか)りて晏 (おそ)く退れ」「群臣共に信あれば、何事か成らざらん」「国司国造、 百姓を斂むなかれ。国に二君なく。民に両主なし」「率土(くにうち)の 兆民(おほみたから)は王を以って主となす」「私に背きて公に向くは、 是れ臣の道なり」「夫れ事にあって独り断ずべからず」 ここまで「君臣の義」「王政の基」を書き連ねるのは。。。崇峻暗殺に関 係し、臣下の枠(冠位十二階)を超えようとしている蘇我氏にとっては、 いささかグツが悪いような気が。。。 要するに制定動機(利益)の点で。。蘇我主導とは思えないのです(笑い) >>いわゆる「十七条憲法」は、当時もそう呼ばれていたのでしょうか? 後世「上宮太子、親く憲法十七条を作る。国家の制法は茲より始まる」と されていますが、推古期にそこまでの意識を持って制定され、完成されて いたかどうかは、チョット疑問なしとしません。 (もう少し簡素なもので、次第に整備された可能性があるかも。。。?) ただ、書紀に記録されている「憲法」は、まさに「律令=刑法・民法・行 政法」の基礎となる「国家基本法」にふさわしい内容だと思います。 (その点で整い過ぎているのが、疑問視される原因でしょうが。。。) Time : 2001/ 3/ 4(日) 23:09:17
Name : パンダ E-mail : Title : 天智・天武年齢。。。。(引用長文) Comments: 引き続いて。。。。 天智・天武年齢問題についてですが。。。これについては以前に友人の KANAKさんが掲載された「過去ログ」を一部省略の上でご紹介させて頂き ます。 (ご質問は、充分出来るかどうかはともかく、私がお受け致します。。) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(11)天皇宝算について Comments: ・・・・(省略)・・・・・ なお、天皇年齢につき「国史大事典」でお調べ頂いたのですね。 丁度良い機会ですので、「国史大事典」が何によって「天皇年齢」を推定して いるのかを含め・・・以下の史料をご参照下さい。 後日この問題については・・・さらに詳細に論じていますが、取り敢えず、 ごく簡単にいえば・・・以下のとおりです。・・・ なお、欽明以前の「天皇宝算」については別に論じても良いのですが・・・ ここでは、天武・天智問題に関係する「天皇」に絞りました。 ********************************** 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 ・・・・・ 以下の資料は既に#1443で提示したものですが「書紀」及び「神皇正統記」 の天皇宝算認識を理解するのに最適と思われますので、再掲いたします。     書紀 扶桑略記 愚管抄 神皇正統記 皇代記 皇胤紹運録 年代記      8C   12C   13C   14C前  14C後   15C   16C ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 欽明   --   -- 63 81 63 63 63 敏達   -- 24 82(37) 61 48 48 48 用明   -- -- -- 41 69 -- 69 崇峻   -- 72 72 72 72 73 73 推古  75(77) 73 73(83) 70 75 73 73 舒明 -- 49 49 49 48 49 49 孝徳 -- -- -- 50 -- -- -- 斉明 -- 66 -- 68 -- 68 68 天智 46 -- -- 58 -- 58 58 天武 -- -- -- 73 -- 65(64) 64 持統 -- 61 -- 58 -- 58 58                *「一代要記」は 天智53・天武65 『日本書紀』の信頼限界と後代史料・・白崎昭一郎氏論文より なお、さらにこれを生年に焼き直すと次のとおりとなります。     書紀 扶桑略記 愚管抄 神皇正統記 皇代記 皇胤紹運録 年代記      8C   12C   13C   14C前  14C後   15C   16C ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 欽明   --   -- 509 491 509 509 509 敏達   -- 562 549 525 538 538 538 用明   -- -- -- 547 535 -- 535 崇峻   -- 521 521 521 521 520 520 推古   554 556 556 559 554 556 556 舒明 -- 593 593 593 592 593 593 孝徳 -- -- -- 605 -- -- -- 斉明 -- 596 -- 594 -- 594 594 天智 626 -- -- 614 -- 614 614 天武 -- -- -- 614 -- 622 622 持統 -- 642 -- 645 -- 645 645 *「一代要記」は 天智617・天武621 以上の資料から次の事項が窺える・・と思います。 1.「書紀」は原則として天皇宝算について関心を示さず、記述もしていない。 (推古・天智は例外であるが、天智についても舒明紀記事からの推定である) **注)古墳時代の「天皇年齢」の方が詳しく書かれているのは・・別にご説 明しますが、ここでは省略いたします。また持統以降の天皇宝算についても、 大部分は「続日本紀」だけでは確認出来ないのが実態です。 (なお、「三国史記」等の外国史書においても各王の宝算は書かれていないの が、原則です。高句麗「長寿王」等の例外はあったと思いますが・・・) 2.「扶桑略記」「愚管抄」においても若干の追記が見られるのみである。   (ただし、崇峻 72歳等 疑問が多くあまり信頼出来ない?) **注)この点に関しては・・井沢さんも論じておられますが、その理由につ いては、疑問を感じています。・・・ただ問題をこれ以上拡散させないため、 ここでは取り上げません。 3.「神皇正統記」が各天皇宝算の初見であるが欽明生年は仁賢4年となり明ら   かな誤認をおかしている。(その他の史書は継体3年で整合性あり) **注)この誤認の原因については、別に論じています。 4.「神皇正統記」における天智・天武生年に関して言えば、   何故天智宝算を「書紀」から変更したのかが問題であろう。   丁度12年であり干支の誤認ではないかとも思われるが、天智・天武は   同年生まれになる。(双生児或いは年子と認識??) 5.「皇胤紹運録」「年代記」では天智は天武八歳上の兄としている。   即ち、あらゆる資料において天智・天武は天智長兄説である。 (「一代要記」では四歳上の兄としている) **注)ただし、さらに後世に天武を天智より年長とする宝算(計算上です) を記述した僧侶の著書もあります(その場合も天智長兄と記述されています。) 私とスズメ♂さんは、これら中世史料を検証し、意見交換する中で彼等が如何 に計算が苦手だったかを実感したモノです。(誤写の可能性もありますが。) つまり天武長兄説は天智長兄と言う各説の”基本認識”を無視し、書紀の 天智生年(626)・・・・・{各説の天智生年(614)} 各説の天武生年(614--622) と言う本来比較すべきではない接ぎ木的比較から生じたものの様ですが、これ は一体何なのでしょう?? 私には全く理解できない資料批判としか言いようがありません。 なお、「神皇正統記」における天智・天武の出自認識は次のとおりであり、 同父同母兄弟を疑わせるものは全く感じられません。(扶桑略記も同様) 舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも 敏達の御女なり。推古天皇は聖徳太子の御子に傳給はむとおぼしけるにや。 されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し 時、天皇此の皇子を御使としてとぶらひまししに、天下のことを太子の申付給 へりけるとぞ。・・・ 第三十六代、皇極天皇は茅淳王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。 御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇皇后とし給。天智・天武の御母なり。 第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。天下を治給こと十年。五十歳おまし ましき。 ・・・・皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、 此の御時は摂政し給と見えたり。・・・・・天皇天下を治給こと七年。六十八 歳おましましき。 第三十八代、斉明天皇は皇極の重祚也。・・・ 天下を治給こと七年。六十八歳おましましき。 第三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。・・・ 天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。 第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立ちて大倭にましましき。天 智は近江にましましす。・・・天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。 **注)天智同母と書いてあるだけだ・・と言われるかも知れませんが、 孝徳等の前後の書き方から見て、同父を当然の前提としている(一夫多妻制 度の中では異母兄弟は多数存在するので、母を特に取り上げるのです)とし か読めません。 要するに「同母の弟」の「弟」と言うのは父系における「弟」と言う意味です。 (勿論これに異論を唱えることはありうるでしょうが・・・) なお、『扶桑略記』では「天武天皇、舒明天皇第三男。母斉明天皇也。」と記 述されています。 第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の 大臣の女なり。天武天皇、太子にましまししより妃とし給。後に皇后とす。 Time : 1998/11/27(金) 00:15:16 Time : 2001/ 3/ 4(日) 23:13:47
Name : なかの E-mail : Title : 天智・天武問題について Comments: パンダさま> 重ね重ね、丁寧なレスをありがとうございました。 こちらこそ「天智・天武問題」にお付き合い下さりありがとうございます。 本題から「ずれてしまい」申し訳ありませんが・・、 もう少しお付き合いをお願いします。 ・・最初に謝ります。大変失礼しました。 書いていて何かおかしいと思いつつ、「逆説」2巻を 読み直しましたところ、井沢先生は天武天皇の父親を 新羅人に比定していました・・。 高向氏に比定していましたのは、井沢先生ではなく豊田有恒氏でした。 井沢先生、パンダさん、そしてみなさん、申し訳ありませんでした。 訂正します。 この問題につきましては、「逆説」で井沢先生も 触れられていましたが、大和岩雄氏が精密に研究しており、 大和氏の著書より引用します。 ここで取り上げるのは、大和氏の著書である、 「天武天皇出生の謎」(六興出版、1987年)の増補版と、 「天智・天武天皇の謎」(六興出版、1990年)です。 パンダさんの引用とあちこちで重複しますがご容赦願います。 ・・・ まず、両書に載せられている両天皇の崩御年齢一覧です。 天智天皇は西暦671年、天武天皇は西暦686年に崩御しており、 ( )内は生誕年を数え年で逆算したものです。 日本書紀・・・・・天智46(626) 水鏡・・・・・・・天智52(620) 一代要記・・・・・天智53(619)、天武65(622) 皇代記・・・・・・天智58(614) 仁寿鏡・・・・・・天智58(614)、天武73(614) 興福寺略年代記・・天智46(626)-異説58(614)、天武65(622) 神皇正統記・・・・天智58(614)、天武73(614) 神皇正統録・・・・天智58(614)、天武65(622) 和漢合符・・・・・天智58(614)、天武72(615) 皇年代略記・・・・天智58(614) 如是院年代記・・・天智58(614)、天武73(614) 皇胤紹運録・・・・天智58(614)、天武65(622) 日本史総覧・・・・天智46(626) この問題が現代で取り上げられたきっかけは、 歴史学研究会編の「日本史年表」で、日本書紀より天智46歳説を、 一代要記等より天武65歳説を採用したことがそもそもの発端で、 年齢が逆転することから佐々克明氏が非兄弟説を展開しました。 それに対し坂本太郎大先生は「日本書紀と後世の史書とに年齢無人がある場合は 書記の記事を否定する力は後世の史書にはない」とし、 「中世に行われた知恵」により兄弟関係を考慮して 一代要記等で天智の崩御年を46歳から53歳、58歳へと 繰り上げて兄弟関係を肯定したのだろうとしています。 更に佐々氏がそれに反論し、8年間に52人のアカデミー関係者が検討したものに 対し「根拠がない」とするのは筋違いだとしています。 ここで学界では、水野祐氏が、天智46とする日本書紀の記述が 正しいとすると他の記録と重ねた時に天武と逆転が起こるため、 天智46歳説の論拠となっている、「舒明崩御時に天智16歳」だったのを 「舒明即位時に天智16歳」の誤記ではないかとする説を改めて出しました。 更に珍妙なのは、学界では天武崩御65歳を56歳の倒錯とした説を 大まじめに掲げているようです。 (そこには直木孝次郎氏や井上光貞氏といった著名な学者も名を連ねています) 大和氏はこの倒錯説について、福田元総理が72歳の時に「私は27歳だ」と 冗談めかして若さを誇張したのと同じだと切り捨てています。 また小林惠子氏は、舒明「即位時」が「崩御時」に変わった理由が 説明できないと指摘しています。 更に「中世の知恵」といわれるものについては・・。 日本書紀による天智46歳、また伝承に残る天武65歳の矛盾を是正すべく、 天智の年齢を舒明崩御時16歳から即位時16歳に繰り上げて 天智58歳説が出てきました。 しかしその後、北畠親房が「神皇正統記」で、 天智58歳説を受けて天武73歳説を打ち出しました。 ここで北畠親房は天武65歳説を明らかに知っていながら、 天智・天武が同年齢(つまり双子・・?)となる天武73歳説を敢えて、 しかも天皇の正統を明らかにすることを意図した同書で 採用したのかが疑問になります。 パンダさんが引用された白崎昭一郎氏の反論論文である、 昭和57年「東アジアの古代文化」第32号に掲載された 「「日本書紀」の信頼限界と後代史料」、 そしてそれより少し前の同氏の論文「天武天皇年齢考」については 大和氏もコメントしています。 「「日本書紀」の信頼限界と後代史料」では特に 天武65歳説に対する批判が出されており、それを載せていた 「本朝皇胤紹運録」が南北朝時代以降に成立したことを受けて、 南北朝時代が古代的考え方と秩序が完全崩壊・消滅した時期であるため、  A 本朝皇胤紹運録は南北朝以降の史料である  B 南北朝以降の古代に関する史料は信用できない  C そのため本朝皇胤紹運録の天武年齢の記述は信用できない の三段論法により天武65歳説を否定しています。 それに対し大和氏は、白崎氏が鎌倉後期に成立した「一代要記」を 史料として「意図的に」欠落させたことを批判しています。 また白崎氏は神皇正統記での「双子」について触れていません。 こういったことから天武が天智の弟ではなかったのではないかと いう説が出てきて、しかも日本書紀の斉明天皇のところに 宝姫(皇極・斉明天皇)が最初に用明天皇の孫の高向王と結婚し 漢皇子を出産したと唐突にある記事が問題視され、 天武は天智の異父兄である漢皇子ではないかという説が 小林惠子氏により提案され、それを大和岩雄氏が発展させたものです。 小林氏はその後、天武の正体は高句麗の淵蓋蘇文ではないかという トンデモ的な新説を打ち出しています。 また井沢先生が「隠された帝」(祥伝社)で取り上げ、豊田有恒氏も 取り上げるなどしてクローズアップされました。 もう10年以上前の著作ですので、そのまま取り上げるのも何ですが・・、 大和氏が引用しているままにここへ要約して載せます。 井沢先生の「隠された帝」には「天智天皇暗殺事件」と副題があり、 その中で井沢先生は天智・天武非兄弟説の根拠として  @没年齢から計算すると天武の方が天智より年上  A天智の娘4人が天武に嫁いでいる  B皇室の祭祀で天武系が除外されている  C天武は自らを漢の高祖に擬しており周囲も認めている  D天武の書記初出が43歳時であり遅い  E天武に三種の神器である草薙の剣が祟った  F天智は百済派、天武は新羅派 の7つを挙げており、Fはともかくとして、@Aは兄弟ではない証拠、 B〜Eは天武が皇族ではない証拠としています。 これについて大和氏は、B〜Eは正統な皇位継承でなかっただけと していますが、@Aは実の兄弟としてはおかしいと結んでいます。 ・・・ パンダさんはそうでないかもしれませんが・・、 少なくとも私はここまで他人のフンドシで相撲を取っており、 何だかパンダさんと私とで 大和氏と白崎氏の「代理戦争」をしているみたいで(笑)変なのですが、 私の手許には比較的入手しやすい大和氏の著作しかありませんので、 当面の客観的検証ができません。 しかし「天智・天武が兄弟」とすることを前提として苦しい説明を 繰り返すよりも、その前提だけを否定する方が筋が通るのでは ないかと読んだときに思いました。 これは私個人の感想ですが、井沢先生の天武天皇新羅人説 (例えば武烈王金春秋に比定する説)には無理があると思います。 26代継体天皇ですら応神天皇の子孫として迎え入れられたのですから、 いくら母が天皇とはいえ、考えにくいと思います。 増してやあの朝鮮民族が、ほんの一時期とはいえ、 日本の皇室を朝鮮民族が「乗っ取った」事実があるとするならば、 それこそ大騒ぎしているでしょう。 さて本題ですが、十七条憲法がどちらかというと蘇我氏にとって あまり履き心地の良くないものであるということは分かりました。 ただその「履き心地の良くない」部分が乙巳の政変の後に 「改竄」された可能性は・・あり得ると思います。 (隣コーナーで「改竄騒ぎ」には少々懲りているのですけど・・) 蘇我氏は嫡流こそ滅びましたが、女系を通じて天智の周辺や 藤原氏の中にとけ込んでいます。持統も蘇我氏の血を引いています。 パンダさんの提唱するA→Cというのに対し、 A→Bという流れがあり、蘇我氏の勢力が皇族に吸い込まれていく過程で 体裁だけが変わっていったという可能性も・・。 私はパンダさんが言われるように、A→Cが蓋然性が最も高いとは 思うのですが・・。 Time : 2001/ 3/ 5(月) 13:13:51
Name : MK E-mail : Title : 夢、また夢 Comments:  江戸城が何故再建されないのか。なかのさんお返事ありがとうございます。 東京に行く度にお城がないのが寂しくて。 江戸城を再建して(勿論木造で)皆のものとして、天皇陛下には京都に戻って 来ていただく。桂離宮や修学院離宮で歌会や花見の宴を催していただけば日本は 昔から歌の前では平等ですよとアピ−ルできる。 日本は昔から、典雅な国ですよと言えると想うのですが。。。  ふっ〜〜〜ゆめ〜またゆめ〜〜 でした。 Time : 2001/ 3/ 5(月) 14:55:04
Name : パンダ E-mail : Title : 「十七条憲法と改竄」。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。まず「十七条憲法」ですが。。。 >>私はパンダさんが言われるように、A→Cが蓋然性が最も高いとは思う >>のですが・・。 ありがとうございました(笑い) 要するに、歴史解釈はそれについての蓋然性をどのように判断するか。。。 ということですから、私にはそれで充分です(笑い) >>ただその「履き心地の良くない」部分が乙巳の政変の後に「改竄」され >>た可能性は・・あり得ると思います。 良く分からないのですが。。。本来の「憲法」は別の内容であって、後に 「改竄」されたということでしょうか? 私は史料に関して「改竄」「曲筆」を想定するためには、その想定に何ら かの必然性がなければならないと思っていますが。。。蘇我氏(倉山田系) の女系血統が奈良時代に活き続けたのと「改竄」想定の必然性が良く分か りません。従って、本件に関する「改竄」問題は議論の対象外とさせて頂 きます。 Time : 2001/ 3/ 5(月) 22:25:38
Name : パンダ E-mail : Title : 後世年齢記事の信憑性。。。 Comments: 次に、天智・天武年齢問題についてですが。。。 ご丁寧な解説ありがとうございました(笑い) 我々の基本的立場は。。。所謂「後世史書」の天皇年齢を考察するに当っ ては。。。天智・天武のみならず、歴代天皇の宝算が各史書でどのように 記述されているか。。。そこからまず年齢記事の確実性を検証すべきもの だというものなのです。 その結果。。。これらの年齢記事には、何らかの確実な史料が存在し、そ れが伝承されたとはとても考えがたいほど不統一である。。。従って「後 世史書」の年齢記事には信憑性が認められない。 (例えば「神皇正統記」の欽明没年齢は、どう考えても有り得ないのです が、これは単なる誤解であって何らかの史実を推理し得るものとは考えら れない。。。) しかし一方では、各史書について「天智」が「天武」の同父母兄であると いう認識は完全に一致しています。まずここに基本を置くべきであると考 えたものなのです。 その上で。。。各史書(史料)の異同の理由について考察すべきものだと という考えなのです。 (即位時と崩御時を誤認したのか、干支を読み間違えたのか、単なる誤写 なのか。。。等というのは事実探求の問題と言うよりも、記述者の認識探 求の問題であるということです) ここで「一代要記」について見れば。。。 「一代要記」による没年齢53歳から逆算した「天智の生年(619)」 「一代要記」による没年齢65歳から逆算した「天武の生年(622)」 では、明らかに「天智」が年上と認識しており、基本記述と一致している。 ところが「書紀」との関係で見れば。。。 「書紀」による十六歳記事から逆算した「天智の生年(626)」 「一代要記」による没年齢から逆算した「天武の生年(622)」 では、「天智」生年が7年違うために「天武」が年上になるが。。。この原 因を何に求めるべきか? 単にそれだけのことで、これを持って「一代要記」あるいはその他の「後世 史書」が「天武」長兄説を示唆していると言えるのか?。。。ということな のです。 要するに天智生年については。。。 「書紀」は626年。平安史書は不記。鎌倉以降は619年・614年・その他 天武生年については。。。 「書紀」は不記。平安史書も不記。鎌倉以降は622年・614年・その他 これを持って。。。「@没年齢から計算すると天武の方が天智より年上」 等と恰も既定事実であるかのように主張するのは、全くの論外ではないで しょうか? KANAKさんは、「一代要記」が天智の生年を誤解(変更?)した原因につ いて、一つの仮説を提示されたのですが、かなり煩瑣なものですからここ での掲載は差し控えます。 Time : 2001/ 3/ 6(火) 00:47:42
Name : 鈴木 E-mail : shinv@nifty.com Title : 素朴な疑問 Comments: 井沢さん、はじめまして。割と早い時期からの愛読者の一人です。 旧聞に属することですが、過日NHKで放送された"信長の安土城”におなかで 「専門家」が"実は信長は天皇を大切にしていた”と、その証拠に京都の清涼殿を模した建物を場内に置いた、 と言っていました。しかし、その建物は天守閣の真下に位置しており、信長自身が居住する天守閣からは眼下 に見下ろす形になります。 これでどうして"天皇を大切に”おもっていることになる? また、例の天守閣中央に置かれた”もの”についても彼自身を神格化するという発想はその"専門家”にはあり ません。さらに、「安土」の由来について「平安楽土」からであると断定しています。 NHKのような影響の多いところからこのような疑問のある"学説”?を一方的にまた、断定的に流していいものでしょうか? 素朴なぎもんですが・・・ Time : 2001/ 3/ 6(火) 09:45:54
Name : なかの E-mail : Title : 天智・天武の問題その他について Comments: パンダさま> レスありがとうございました。 以前、予告にはありましたが、本当に手厳しいですね・・。 「議論の対象外」とされるそうなので、以前の書き込みの説明だけにとどめますが、 私が言おうとしたのは・・、 見る人によってはかなりトンデモに近いと思うのですが、下のような仮説です。 A 乙巳の政変以前に、皇族以外(当時で言えば蘇我氏)により   十七条憲法の原文に位置づけられうる「憲法Y」が成立した。   しかし一般には明らかにされなかった。 B 乙巳の政変及び石川麻呂の失脚により朝廷から蘇我氏の勢いが弱まり、   壬申の乱により蘇我赤兄が殺され、蘇我氏が表面上は朝廷から姿を消した。 C 天武天皇は実は用明天皇のひ孫であり、一族であった厩戸皇子が   推古天皇の摂政をしていたことから、天武天皇もしくは関係者が、   蘇我蝦夷や軽皇子により皆殺しにされ、当時名誉が失墜していた   上宮家の名誉を回復させるために「憲法Y」を厩戸皇子の実績とし、   併せて整合性を取るために部分的に「改竄」を行い、蘇我氏にとって   都合の良くない部分を付け加えた(差し替えた?)リニューアル版である   「憲法X」を「表に出した」。 D ちょうどこの頃、蘇我氏本流は縮小しており、持統などがそれら支持基盤を   受け継いでいたが、天武に抑えられていた。表に出てしまっていたので、   天武崩御の後も変えられることはなかった。 Dが苦しく、他の収束方法も考えられると思いますが・・。 「天智・天武」問題や、持統以降の皇統や藤原氏に蘇我氏の血が入った云々の話を ここで持ち出したのは、そういうことが疑問にあったためです。 「天智・天武」問題は私もあれ以上の突っ込んだ意見が言えないので 申し訳ないのですが、白崎氏の言い分と大和氏の言い分とは 今のところ五分五分であると見ました。 大和氏の説はかなり大胆に踏み込んでいますので、パンダさんのような 歴戦の戦士の方には「危険」に思えるのかもしれませんが、 白崎氏の説では「神皇正統記」の記述についてどうしても納得のいく 説明ができないように思えます。 長々と脱線させてしまい申し訳ありませんでした。またお付き合い下さり ありがとうございました。本編を続けてください。 Time : 2001/ 3/ 6(火) 21:05:12
Name : パンダ E-mail : Title : 反照不可能な仮説。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 残念ながら。。。このご意見のほとんどの部分が反論不可能です(笑い) つまり反論可能(すべき)な根拠が示されていませんよね。。。 A・・・がその典型的な例です。蘇我氏が一般に明らかにされなかっ た「憲法X」を作る理由がありませんし、作ったか作っていないのか誰 にもわからない。。。そのような仮説には絶対に反論出来ませんものね 。。。(笑い) 当然ながら当時において皇族でも蘇我氏でもないものが、「憲法」を 作ることはまったく考えられませんが。。。 B・・・蘇我氏は連子系統が石川氏として中納言クラスで存続します が、政治の主流から外れていったのは事実です。それだけのことです。 C・・・まず、天武が漢皇子であるという推論に、ほとんど蓋然性が ないのは、申し上げたとおりです。(仮に事実であれば。。。わずか でも皇位継承権を持っていますから、天武がワザワザ父を偽称すると いう最大の不孝を犯す理由がありません。それよりその偽称の事実は 当時の皇族・中央貴族には衆知のことだった筈ですから、天智天皇の 実子に対抗して皇位継承戦争に勝ち抜くとは考えられないと思います 。。。彼が用明の曾孫であれば、敏達の孫である栗隈王の方がむしろ 順位が上であり、これに同調しない可能性が大でしょうネ? ) 百歩譲って漢皇子であるとした場合に、用明系の皇別氏族には滅亡し た「上宮家」以外にも「当麻真人」「登美真人」「蜷淵真人」が存在 しますが、これらの氏族が天武から特に優遇された形跡は全くありま せん。 従ってこのような推論には、もともと何の根拠も必然性もないうえに、 状況から判断しても、成立の余地はほとんどないと思います(笑い) D・・・もともと一般に明らかにされていなかったものであれば、歴 史的には存在していなかったのと変わりがありません。つまり推古期 には「憲法X」的なものはなかった。。。というべきでしょう? つまりは。。。「憲法Y」は創作であり、それを「上宮家」の名誉の ために聖徳太子に仮託した。。。ということをいっておらるだけのこ とですね?勿論これについて持統がトヤカクいう理由はありません。 つまりこの仮説は。。。仮に蘇我氏が内々に公表されざる「憲法X」 的なものを作ったとしても、天武はそれを史書に特筆することはなか ったであろう。。。(アタリマエのことですね) そしてこれとは全く関係なく天武は「聖徳太子」の「憲法Y」を創作 したであろう。。。というだけのことではないでしょうか? こういうご意見であれば。。。「架空論」としての意味はあると思い ますが(笑い) なお、天智・天武年齢問題について。。。我々は白崎さんとは別のア プローチをしているつもりですが(結論は同じ)。。。 >>白崎氏の説では「神皇正統記」の記述についてどうしても納得のい >>く説明ができないように思えます。 というのは、どの部分でしょうか? 我々は。。。「神皇正統記」の好い加減な年齢記事には、あまり意味 を認めていないのですが、北畠親房が天智・天武の同父同母兄弟につ いて露疑っていないことは、疑問の余地がないと思いますが? Time : 2001/ 3/ 6(火) 23:29:22
Name : MK E-mail : Title : ユ−モアで乗り切ろう!! Comments: やや春めいてきました。 時の空気にとても影響されやすいミ−ハ−ですが、未来に明るさが見えて来た、 気がしています。教科書問題も余りうるさく言われるようだと、今度はそちらの 教科書を読ませていだだきます、と言えばいいし。田中元首相に中国から屈原の 書を頂いたお返しに、日本の学問の神様ですよと菅原道真公の書の写しなどをプレ ゼントしたらどうかしらと考えたら面白くなって。粗末にすると屈原同様たたり ますよと。外務省には井沢ファンいないのかな〜〜? Time : 2001/ 3/ 7(水) 23:38:51
Name : パンダ E-mail : Title : 年齢記事に関する推理。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 チョット迷いましたが。。。思い切って天智・天武年齢問題について、 KANAKさんの意見を中心に掲載することとしました。 数度にわたる対論掲載を私なりに要約したものですが、かなりの長文です し、煩瑣な部分が多いので。。。興味のないかたはパスして下さい。 KANAKさんは、次の推理から。。。天智626年・天武不明(634年頃?)が妥 当だろうとされました。 以下はその推理過程ですが、かなり大胆な天智・天武生年の想定ですので、 一つの可能性としてご理解下さい。      A            H    D   F     書紀 扶桑略記 愚管抄 一代要記 神皇正統記 皇胤紹運録      8C   12C   13C  13C  14C前   15C ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 舒明 -- 593 593 593 593 593 孝徳 -- -- -- -- 605 -- 斉明 -- 596 -- 594 594 594 天智 626 -- -- 619 614 614 天武 -- -- -- 622 614 621(2) 持統 -- 642 -- 645 645 645 1.舒明 593年に集中しており、593年ー642年正当と仮定します。 2.斉明 594年から596年に集中しており、594年ー661年正当と仮定します。      実際には舒明は押坂彦人の子、斉明は孫(茅淳王の子)であり、      一歳差には疑問もありますが、一応正当と見なしておきます。 3.孝徳 斉明同弟とされていますので、605年ー654年位でしょうか? 4.持統 645年正当と仮定します。 さて、そこで天智・天武年齢ですが 主要事件における各説の年齢から考察 してみたいと思います。 593癸丑 推古01 聖徳立太子 舒明出生 舒明01 594甲寅 推古02 斉明(皇極)出生 斉明01 604甲子 推古12 十七条憲法 605乙丑 推古13 孝徳出生?        舒明13 斉明12 孝徳01 614甲戌 推古22 D天智・天武出生 舒明22 斉明21 孝徳10 D天智・武01 618戊寅 推古26 隋滅亡・唐建国 619 推古27 H天智出生 斉明26 H天智01 621辛巳 推古29 聖徳太子没 聖徳48 推古68 舒明29 斉明28 孝徳17 D天智・武08 622壬午 推古30 H天武出生 D天智・天武09 H天智04 H天武01 626丙戌 推古34 蘇我馬子没 A天智出生 斉明33 A天智01 D天智・武13 H天智09 H天武06 628戊子 推古36 推古没 推古75 A天智03 D天智・武15 H天智11 H天武08 629己丑 舒明01 舒明即位 舒明37 A天智04 D天智・武16 H天智12 H天武09 630庚寅 舒明02 斉明(皇極)立后 634甲午 舒明06 KANAK天武出生? A天智09 D天智・武21 H天智17 H天武14 K天武01 641辛丑 舒明13 舒明没 舒明49 A天智16 D天智・武28 H天智24 H天武21 K天武08 642壬寅 皇極01 皇極即位 斉明49 A天智17 D天智・武29 H天智25 H天武22 K天武09 643癸卯 皇極02 山背大兄殺 A天智18 D天智・武30 H天智26 H天武23 K天武10 644甲辰 皇極03 蘇我遠智媛事件 A天智19 D天智・武31 H天智27 H天武24 K天武11 645乙巳 孝徳01 蘇我蝦夷・入鹿殺 A天智20 D天智・武32 H天智28 H天武25 K天武12   孝徳即位 孝徳41   古人大兄誅殺 持統出生 646丙午 孝徳02 大友皇子出生 A天智21 D天智・武33 H天智29 H天武26 K天武13 649己酉 孝徳05 蘇我石川麻呂殺 A天智24 D天智・武36 H天智32 H天武29 K天武16 654甲寅 孝徳10 孝徳没 孝徳50   A天智29 D天智・武41 H天智37 H天武34 K天武21 高市皇子出生? 655乙卯 斉明01 斉明即位 斉明62 A天智30 D天智・武42 H天智38 H天武35 K天武22 658戊午 斉明04 有馬皇子殺 A天智33 D天智・武45 H天智41 H天武38 K天武25 661辛酉 斉明07 斉明没 斉明68 A天智36 D天智・武48 H天智44 H天武41 K天武28         元明・大伯出生 662壬戌 天智01 草壁出生 持統18 A天智37 D天智・武49 H天智45 H天武42 K天武29 663癸亥 天智02 白村江敗戦 A天智38 D天智・武50 H天智46 H天武43 K天武30         大津出生 668戊辰 天智07 天智即位 A天智43 D天智・武55 H天智51 H天武48 K天武35 671辛未 天智10 大友皇子太政大臣         天智没 大友26 A天智46 D天智・武58 H天智54 H天武51 K天武40 672壬申 天武01 壬申の乱 大友27   草壁11 持統29 D天武59   H天武52 K天武41 673癸酉 天武02 天武即位 草壁12 持統30 D天武60   H天武53 K天武42 680庚辰 天武09 元正出生 草壁17 持統37 D天武67 H天武60 K天武49 681辛巳 天武10 草壁立太子 草壁18 持統38 D天武68   H天武61 K天武50 683癸未 天武12 文武出生 草壁20 持統40 D天武70   H天武62 K天武51 686丙戌 天武15 天武没 大津誅殺 草壁23 持統43 D天武73   H天武65 K天武54 689戊子 持統03 草壁没       草壁26 元明29 文武07  持統46 690庚寅 持統04 持統即位          元明30 文武08  持統47 A.614甲戌 推古22 「神皇正統記」D天智・天武出生について。。。 舒明22 斉明21 孝徳10 D天智・天武01   斉明は漢皇子を出生後、舒明と再婚したことになっています。で再婚後斉明21 歳の出産は、不可能とは言えないものの、少し無理があるような気がします。 B.626丙戌 推古34 蘇我馬子没 「書紀」A天智出生について。。。   舒明34 斉明33 A天智01 D天智・天武13 H天智09 H天武06   斉明の再婚年齢は不明ですが、再婚後の長子出生としては、斉明33歳は妥当な   ところではないかと思われます。(その後間人皇女をおいて、8年後の斉明41   歳に天武出生と想定したものです。) C.641辛丑 舒明13舒明没(舒明49)   A天智16 D天智・天武29 H天武21 K天武08   について見れば、仮に天智が29歳とすれば古人はそれより年長と思われるので、   30歳を超えている可能性が強いでしょう。・・とすれば皇極ではなく蘇我系の   古人即位の可能性が有り得ます。やはり天智16歳 古人も20歳未満だったと見   るほうが妥当だと思います。また天武は幼少のため書紀には記述されなかった   と思われます。(ここで東宮天智16歳記事を入れたのは、かなり作為的ですが) C.644甲辰 皇極03 蘇我遠智媛結婚   A天智19 D天智・天武32 H天智27 H天武24 K天武11 について見れば、印象的にはD天智32歳よりA19歳の方が、はるかに似つかわ   しいと思います。 D.645乙巳 孝徳01 蘇我蝦夷・入鹿誅殺   A天智20 D天智・天武33 H天智28 H天武25 K天武12   前後の記事・伝承について見れば、南淵先生の処に通学?する等やはりD33歳   よりもA20歳の方が似つかわしいでしょう。   さらに天武に何らの動きも見られないのは、やはり十代前半と見るのが妥当だ   と思います。 E.646丙午 孝徳02 大友皇子出生?   A天智21 D天智・天武33 H天智29 H天武26 K天武13   この頃持統・大友が出生したと思われますが、次女・長男誕生年齢としては、 天智33歳よりは21歳のほうが、自然だと思います。 E.654甲寅 孝徳10 孝徳没(655乙卯 斉明01 斉明即位 斉明62)   654甲寅 孝徳10 高市皇子出生?   孝徳50  A天智29 D天智・天武42 H天智37 H天武34 K天武21   について見れば、A天智29歳であれば即位に問題はなく、斉明重祚は何らかの   特殊事情が窺えますが、D天智41歳ではその不自然さが更に増すことになります。   また、高市については確信がありませんが天武長男子であり、D天武42歳よりも   20代前半と見るのが妥当でしょう。 F.661辛酉 斉明07 斉明没 斉明68 (天智称制)   A天智36 D天智・天武49 H天智44 H天武41 K天武28   この後7年の称制がありますが、これも50歳に近い年齢よりは、30代のほうが自   然だと思います。 G.668戊辰 天智07 天智即位   A天智43 D天智・天武56 H天智51 H天武48 K天武35 H.672壬申 天武01 壬申の乱大友没(大友27)   持統29 D天武60    H天武52 K天武41 高市19 について見れば、吉野脱出の強行軍から見て60代はかなり疑問であり、さらに   50代より40代前後と見た方が妥当だと思います。 以上の諸点より、やはり天智は書紀どおり626年出生。天武はそれより5年〜8年 年少と見るのが自然だと思います。 それでは何故「神皇正統記」は敢えて「書紀」を修正したのでしょうか? また、天智・天武同生年としたのでしょうか? 以下は極めて大胆な想像ですが、先ず一見無関係な「欽明」年齢です。欽明生年は 「神皇正統記」のみ491年と突出(他は全て509年)していますが、491年は仁賢4年 (武烈以前)であり明らかな錯誤です。509年であれば継体3年で整合しています。 私は錯誤の原因は「神皇正統記」が崇峻(長子ではない)生年521年(扶桑略記・ 愚管抄)を重視し、欽明13歳の出生を不可として欽明生年を引き上げたことによる ものと思います。 つまり北畠親房(幕僚あるいはその原資料)は各天皇の年齢を全て表記するため、 かなり大胆(粗雑)に想定していったと思うのです。 そこで天智生年を修正したのは干支の誤認では無いかと思います。つまり舒明紀か ら生年を「丙戌」626と推定した。ところが幕僚はこれを「甲戌」614と誤記してし まい其処から没年を58歳と誤推定した・・・親房もこれをそのまま受け入れてしま ったのでは無いでしょうか。 それでは天武を同年としたのは・・・よくわかりませんが、少なくとも皇円・慈円 の見出せなかった資料を戦陣の中で入手することは一寸有り得ないと思いますので、 同様の何らかの誤推定だと想像します。従って後世の「皇胤紹運録」等の史料も天 智については「神皇正統記」に追随したものの、流石に天武は天智より八歳年少 (中間に間人皇女を置く)と修正したのでしょう。 従って、私は天武生年を634甲午 舒明06 ・・没年54歳と想定しました。もちろん これを56歳とみることも可能であり、65歳との誤写の可能性も否定できないでしょう。 勿論これらは想像の域を出ませんが・・・どちらにしても「神皇正統記」年齢記事 を余り重視するのは危険だと考えます。 (人の死亡年齢について27歳と72歳を勘違いする馬鹿はいませんが、78歳と87歳あ るいは56歳と65歳を勘違いすることはあり得ます。この違いも分からないで歴史を 語る神経が理解できませんネ。) さて。。。次に「神皇正統記」に先行して書紀の天智年齢記事を訂正した「一代要 記」について、その訂正(誤認)の理由を考えてみます。 と言うのは・・・鎌倉中期?とされる本書が「神皇正統記」に先だって各天皇 の宝算を表記しており(敏達・用明は欠) 「書紀」の天智宝算を訂正し、天 武宝算を推定?したのも本書に始まる可能性があるからです。     書紀 扶桑略記 愚管抄 一代要記 神皇正統記 皇胤紹運録      8C   12C   13C  13C   14C前   15C ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 舒明 -- 49 49 49 49 49 孝徳 -- -- -- -- 50 -- 斉明 -- 66 -- 68 68 68 天智 46 -- -- 53 58 58 天武 -- -- -- 65 73 65(64) 持統 -- 61 -- 58 -- 58     書紀 扶桑略記 愚管抄 一代要記 神皇正統記 皇胤紹運録      8C   12C   13C  13C  14C前   15C ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 舒明 -- 593 593 593 593 593 孝徳 -- -- -- -- 605 -- 斉明 -- 596 -- 594 594 594 天智 626 -- -- 619 614 614 天武 -- -- -- 622 614 621(2) 持統 -- 642 -- 645 645 645 そこで何故「一代要記」が天智崩年を53歳としたのか・・・ですが。 「一代要記」の天智紀部分は次のとおりとなっています。 1.天命開別、又曰中大兄、諱葛城、舒明第一子、母皇極天皇 2.孝徳元年乙巳(645)六月為皇太子、 3.壬戌(662)正月三日即位、時年四十四、治十年。 4.辛未(671)十二月三日崩、年五十三。 5.元年壬戌(662)、諒闇至孝、不称即位経六年、云々。 如何にも筋がとおっているようですが、ここで問題は天智の称制です。 書紀によれば天智即位は次のとおり記されています。 「七年の春正月の丙戌の朔戊子(三日)に皇太子即天皇位す(或本六年三月)」 つまり天智は斉明崩年(辛酉=661)後七年間は称制を続けており、即位は 戊辰(668)です。つまり「一代要記」の記述者はこの点を錯覚し、称制開 始年を即位とし、通算治十年を662年からとして崩年五十三としてしまった ・・・その結果「書紀」算定の崩年四十六歳と七年の差を生じせしめたので はないでしょうか? (つまり「一代要記」以前の「書紀」註釈或いは伝承として、天智即位 戊辰 (668)において44歳とされていた。「書紀」の舒明崩御 舒明13 辛丑(641)年 16歳からすれば生年 推古34 丙戌(626)となり、戊辰(668)には 43歳で あるから無理のない想定である。ところが「一代要記」の編者はこれを 壬戌 (662)称制開始と混同し、壬戌(662)44歳とした。その結果 辛未(671) 53歳と誤計算した。) この錯覚が後世さらに天智・天武年齢問題を複雑怪奇なものとした様に思い ます。 なおこの件については小林氏が既に提起されている・・・とのご指摘があり ました。小林氏は当然ながら私の推理とは逆に天智崩年46と天武崩年65歳と の整合性を計るため天智崩年を53歳と訂正する上での「一代要記」筆者の一 種のトリックと解釈されているようです。しかし、この議論は天武没年65歳 が正しいという前提でのことですから納得いたしかねます。 ところで、この錯覚説?についても当然ホンマカイナと言う疑問が生じるで しょうね。 そこで何故「一代要記」筆者がこれを錯覚したのか?・・・・を考察する手 懸かりらしきものを以下にお示しします。・・・トイウホドノ モノデモ アリマセンガ それは「愚管抄」(慈円〜1290)の次の記事です。 天智天皇 十年(元年壬戌=662) 諱は葛城。舒明の第一子。母は皇極天皇。・・・・・ 御母 斉明天皇うせたまひてのち、七年まで御即位したまわず。・・・ 斉明天皇の位につかせたまふ干支は七年の後ともみえず、相続して絶えずと みゆ。うせたまひて後七年まで、国主もおはしまさぬにはあらざるにや。 七年とあるは天智の御即位あるべきを、猶御母の女帝に重祚をせさせまいら せて、七年の御崩御、其の後御即位かとかこころえらるる。 ・・・つまり慈円は天智の即位は、斉明崩御(661)後7年の称制を経て天 智7年戊辰(668)に行われたのではない。天智7年の称制とは斉明重祚7年 のことであり、即位は崩御後直ちに行われた(662)のではないか・・・と 疑っているようです。 「書紀」には天智紀に 「七年春正月丙戌朔戊子(三日)皇太子即天皇位 或本云六年歳次丁卯三月 即位」・・・と明記されていますが、これに疑問を呈しこの七年は斉明七年 と考えるべきだと受け取れる記述です。 また「扶桑略記」(皇円〜1169)の記事でも 天智天皇 号田原天皇 治十年 舒明天皇第二子、母斉明天皇也。元年壬戌(662)正月三日即位。先帝崩後、 天皇即位之前七年辛酉(661)為救百済国。・・・・ ・・・ここでも天智即位を662年としています。 この先行説(だと思います)が錯覚の原因では無いか?・・・と思うのです。 つまり、 @『一代要記』以前の『書紀』註釈或いは伝承として”天智即位44歳”とさ れていた。<戊辰(668)>部分は・・・明記されていなかった? A「書紀」の舒明崩御 舒明13 辛丑(641)年16歳からすれば、生年推古34 丙戌(626)となり、戊辰(668)には 43歳であるから無理のない註釈で あり、一種の定説となっていた。 B『扶桑略記』『愚管抄』『水鏡』には”壬戌の年正月三日即位”と表記され ていた。 C『一代要記』の編者は”天智即位44歳”を”壬戌(662)の年正月三日即位”  から錯覚して直結し壬戌(662)44歳とした。これが次の記述となった。 ”壬戌(662)正月三日即位、時年四十四、治十年。” ”元年壬戌(662)、諒闇至孝、不称即位経六年、云々。・・トモアリマスガ Dその結果 崩御辛未(671)53歳と誤計算してしまった。 Eしかし、この錯覚は『書紀』『(上宮聖徳法王)帝説』を検証すれば当然 回避出来たにも拘わらず、何故に検証(或いは訂正)しなかったのか? Fこれは後代史書が「推古」年齢について遠慮仮借なく訂正していることと も関連するが、基本的に『書紀』年齢記述に不審を持つていた・・・或い は『先行史書』による『書紀』年齢訂正に一定の権威を認めていたからで はないか。 本来 天智即位44歳は舒明紀から算定されたものであったが、これが一人歩 きしてしまい、即位年の解釈が変わると共に生年そのものが変じてしまった ・・・・天武については、天智を基準として推測されたものであるが・・・ 後代史書は、「神皇正統記」か「一代要記」の何れかをを踏襲したものであ る・・・・・と思うのですが如何でしょうか? Time : 2001/ 3/ 8(木) 00:04:47
Name : きんたろう E-mail : Title : パンダさんへ^^ Comments: こんばんは。 相変わらずすごいですね。 パンダさんの尽きることのないエネルギーを私にも分けて欲しいくらいです(^O^)W ところで、先日の「清和・陽成」の話題の時にパンダさんが出されたご意見に対し てとても気に入った箇所がいくつもあります。 これを私が今更新している「清和源氏の謎」の中で使わせてもらいたいと想っています。 よろしくお願いします^^ (一部事後承諾かも??) Time : 2001/ 3/ 8(木) 23:14:09
Name : MK E-mail : Title : NHKの番組について Comments: 鈴木さん、初めましてどうぞ宜しくお願いします。  私もこの頃NHKのあの手の番組、もうアイデア出尽くしなのか松平さんに 替わってからちょっと??なのが増えた様に思います。前も解説者がメチャ自虐史 観で松平さんが返事に窮してたことがあったし。皆が変だと感じたらどうなるんで しょうか。商業ベ−スでいくと、視聴率は下がるし本は売れないでしょうけど。 和を尊ぶ日本人としては、おかしいおかしいとギャ−ギャ−言い立てるのも恥ずか しいですしね。...どう考えられますか。 Time : 2001/ 3/ 9(金) 20:15:41
Name : 黒田 E-mail : drivetiger@geocities.co.jp Title : リンクのお願い Comments: 前略 始めまして黒田と申します。 先日、新サイト「異論 反論 大激論」をオープンしました。 「いざ立ち上げた」と言うよりも、「何か無しに試しに作ってみた」と言うほ どのものですが、取り敢えず出来た当初くらいはある程度気合を入れて作っ ていこうと思っています。 私のサイトの目的は議論を行う場というのもありますが、むしろそれ以上 にこれからリンク集を充実させて行きたいと思っています。 そこで、ぶしつけながらお願いしたのですが、貴ホームページ「井沢元彦の頁」 ならびに貴掲示板の方へのリンクを貼らせて頂けないでしょうか? 初めてのご挨拶にてこのような事を申すのを非礼と存じますが、何卒、宜し くお願いします。 それでは、末筆ながら貴掲示板の益々の発展をお祈り申し上げます。 早々                          黒田 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2894/ Time : 2001/ 3/ 9(金) 21:42:50
Name : パンダ E-mail : Title : 異本問題。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。追記です。 きんたろうさんへ。。。どうぞ何時でも、何処でも、何にでも、お使い下 さい。(笑い) ところで、我々がかってこの「年齢記事」議論を行った際に最も苦労したの は「異本」の多さと「年齢計算の杜撰」でした。例えば「水鏡」についてい えば。。。 >>「天武天皇出生の謎」(六興出版、1987年)の増補版と、 >>「天智・天武天皇の謎」(六興出版、1990年)です。・・・ >>水鏡・・・・・・・天智52(620) とされていますね。大和さんはこれを平田俊春氏の『日本古典の成立の研究』 の「年代記宝算対比表」によって作成されたようですが(『天武天皇出自の 謎』P.17) 「水鏡」年齢記事にはKANAKさんが調べられただけでも、テキストによって、 次のような異同があります。      A    B   C     D   E ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 欽明   80 80 63 80 -- 敏達   24 24 24 24 24 用明   69 69 36? -- -- 崇峻   72 72 72 72 72 推古   73 73 73 73 73 舒明 40? --? --? --? --? 即位47の本文記述? 孝徳 59 -- -- 59 -- 斉明 68 68 68 68 68 天智 52 52 -- -- -- 天武 72 72 -- -- -- 持統 58 58 -- -- 58 A=日本文学全書  B=日本文学叢書  C=国史大系 D=国史大観 E=岩波文庫 * 36?・・は明らかにミスプリで136と表示・・・あるいは69? さらに別の方の調査によれば、この原因をたどってみると。。。 *************************************************************** 大系は、前田侯爵家所蔵本(前本)を底本とし、伊勢専修寺所蔵本(専本) ・名古屋真福寺資生院所蔵本(真本)・尾張徳川黎明会所蔵本(尾本)など で校合していました。 また、専本を「流布本」として別に併録していました。それらから崩年の表 を作ってみました。      前本  専本  その他  欽明  63      尾本にもなし  敏達  24  24  用明  36  崇峻  72  72  推古  73  73  舒明  孝徳  斉明         尾本のみ68  天智  天武 国史大系は前本、岩波文庫は専本を基準に作成されたもののようです(因み に、前回お話した平田俊春氏は専本を中心に表をつくっていますね)。他は 分かりませんが、おそらく、もっと後世の写本異本の説を採用しているので しょう。 *************************************************************** と言うようなことが分かってきます。これらの点からすれば「天智・天武年 齢」は。。。おそらく原本には記述がなく、後補された可能性が濃厚になっ てきます。 これは程度の差こそあれ、写本にたよる全ての史書に共通の問題なのですが、 「年齢記事」が多くの場合「本文の脚注」的に書かれているケースが多いの で、特に後補(と言うより衍文)の危険性が高く、テキストによる異同が甚 だしいのです。 こういった点からも。。。「年齢記事」からの「歴史解釈」は極めて危険で あり、本文が「同父同母の弟」としているのを。。。史書間の「年齢認識」 からこれを否定するが如きは、本末転倒も甚だしいといわざるを得ない。 従って、これらの危険性を無視した「小林・大和説」を鵜呑みにして。。。 「@没年齢から計算すると天武の方が天智より年上」 等と恰も既定事実であるかのように主張するのは、全くの論外ではないでし ょうか?。。。ということなのです。 Time : 2001/ 3/ 9(金) 22:08:38
Name : パンダ E-mail : Title : 四娘同婚について。。。 Comments: パンダです。ものはついでといいますので、次の問題についてですが。。。 A天智の娘4人が天武に嫁いでいる 一体何故これが「非兄弟説」の根拠となるのか、サッパリ分かりませんネ。 確かに天智の娘四人が、同じ男に嫁するというのは奇妙なことですが、こ の奇妙さはその男が天智の実弟であろうと、他人であろうと変わりはない 筈です。 当時KANAKさんは、この問題について。。。 A.大田皇女・讃良皇女(持統)が天智の意思で天武に嫁したのは事実だろ うが、新田部皇女・大江皇女なそうではない。(彼女らは天智没後に嫁 した)従って天智の意思としては「2娘同婚」となる。 B.天智が2娘を天武に嫁がせたとすれば、さほど奇妙ともいえないが、そ の最大の理由は天武が皇太弟的な地位にあったから。。。と考えるのが 妥当ではないか? E.天智時代に天武が皇太弟であったとすれば、それは実弟であったからと 考えるのが最も妥当ではないか?。。。天皇体制を固め高めるために、 蘇我本宗家・倉山田家を滅ぼし、古人大兄・有馬皇子を誅殺した天智が 、父を異にする漢皇子を皇太弟とするとは考えられない。 (まして、皇族でもない高向臣や高向漢人の子などは論外であろうし、 新羅人の子等というのはトンデモの範疇にも入らないだろう) F.つまりこの問題は、天武実弟説に立ってはじめて理解し得るものであっ て、非兄弟説の根拠には到底なり得ない。 と主張されましたが、私もまったく同感です。 なお、天智娘の嫁ぎ先については以下のとおりです(一部推定) 大田皇女・・・・・・644頃−666? 天武妃 大伯皇女(661)・大津皇子(663) 讃良(持統)皇女・・・645頃−702 天武妃 草壁皇子(662?) 山辺皇女・・・・・・ −686 大津妃 御名部皇女・・・・・658? − 高市妃? 阿閇(元明)皇女・・・661 −721 草壁妃 軽皇子(683)等 新田部皇女・・・・・ −699 天武妃 舎人皇子(676) 大江皇女・・・・・・ −699 天武妃 長皇子 弓削皇子 泉皇女・・・・・・・ 水主皇女・・・・・・ 大江は天武2年(673)に、新田部も天武即以後の婚姻であり、天智の預かり 知らぬことです(大田も天智即位前に没している)。これらは寧ろ天武・持 統の意思でしょうが、その意味については別に考察すべきものでしょう。。 Time : 2001/ 3/11(日) 12:25:53
Name : パンダ E-mail : Title : 泉涌寺問題について。。。 Comments: パンダです。次に「泉涌寺問題」ですが。。。。 B皇室の祭祀で天武系が除外されている これについては、やはりKANAKさんが次のように批判されたのですが。。。 **********************************************:************* ”天武天皇の年齢と出自について” 小林恵子氏論文 「東アジアの古代文化」16号 1978夏 に次のとおり記述されています。 ”更に現在でも天皇家の菩提寺泉湧寺において、天智から、すぐ光仁、桓武 と続き、天武系諸天皇は除外されている。つまり、天武系の諸天皇は無縁仏 ということになる。・・・” 井沢氏の論拠も恐らくこれに類するものでしょうね。従って小林説に関して、 検証すると・・・ 問題はこの菩提寺の意味が基本的に、次の何れであるか・・だと思います。 (泉湧寺が天皇家勅願寺となったのは、13世紀 後鳥羽上皇時代、菩提寺 とされたのは14世紀 後光厳天皇時代のようですが、天皇位牌については 度々移動されて現在にようになったのは、徳川〜明治とする説もあり良く分 からないのですが。。。) 1.歴代天皇の菩提を弔うるものである。 2.中世(?)某天皇がその先祖累代の菩提を弔うものである。  38                   40 天智ー(古人)ー(賀屋)ーーーーーーーーーーーー天武 │     39?     41   43 │ (施基)ーー弘文ーーーー<持統>ーー<元明> (草壁)ーーーー(舎人) │49 │          │42   44  │47 光仁  (葛野) 文武ー<元正> 淳仁 │50 │45 桓武   聖武 │51             │46 48 平城              <孝謙/称徳> 上記が主要人物の系譜です。(数字は天皇位です) 一見してお分かりのとおり、天智系と天武系に分岐しています。 小林氏によれば天武ー聖武を始めとして、天智系の(弘文)・持統・元明も 除外されているとのことであり、どう考えても1.では無いと思われます。 と言うことで菩提寺泉湧寺の意味が2.にあるのならば、天武系等は当然先 祖には該当しません。 従って、天武系人物等の菩提寺で無いのは不思議でも何でもありませんね。 (東アジアでは、先祖とは基本的に男子系直系尊属とその配偶者=生母です) 小林氏(井沢氏?)も当然このことは百もご承知の筈です。それにも拘わら ず敢えてこの常識的解釈を無視され、何か特別な意味を示唆されるのは何故 でしょう? 私が、小林氏(井沢氏)の姿勢に疑問を感じる所以なのですが・・・。 *********************************************************** 例えば・・・「家単位」と言う「家」について藤原氏を想定して下さい。 ご存じのとおり現在の藤原氏は五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司) 精華家等々に分岐しています。 (現状は良く知りませんが・・おそらく継続しているのでしょうね) かっては不比等の次代で四家に分岐していたこともありました。 従って藤原氏についての「家」の概念は分岐の時点で変化すると思うの です。 仮に近衛家・鷹司家の分岐後八代の近衛家当主(氏長者)がその菩提寺を 建立したとしましょう・・(藤原氏全体の氏寺が興福寺であることは変 わりません)そのときに分岐後三代目の鷹司家の当主B(かっての氏長者) の位牌が安置されるでしょうか? まず常識的には安置されませんよね。 かといって鷹司家三代目当主が藤原氏(あるいは氏長者)では無いとはい えないはずです。 勿論のこと天皇位は氏長者よりは遙かに直系継承性が高いわけですし、 「家」の概念も異なります。しかしある種の類似現象として理解するこ とが出来ないでしょうか? XXXさんのご指摘もまことにごもっともです。 私はこの問題については、ある時点で一旦天皇家菩提寺となり祭祀された 限り、後に別系に移行したからと言って改めて除外されることはあり得な いので、菩提寺として意識され始めた時期が問題だと考えますが、さらに 確認したいと思います。 ところで誤解の無いように申し上げると、私もこの仮説が唯一絶対と言う ほどの自信はありません。ドシロウトの私が小林氏の論文を読んだと同時 に思いついた程度のものですから、あるいは別の解釈があるかも知れませ ん。 従ってプロである小林氏(或いはアマチュアであっても、この著書で収入 を得ようとされた井沢氏)も当然この程度以上のことは、考察された筈で すし、様々な解釈の可能性は重々ご承知のはずですよね。 然るにこの様な別解釈の可能性に一切言及されず、直ちに天武系天皇の正 統性を否定する根拠とされています。これが歴史を真剣に考察する姿勢で しょうか? 私には世間受けを狙って、敢えて奇説を強調されたとしか思えないのです。 ハッキリ言えば、典型的商業トンデモ説の手法だと言う気がしますが如何 でしょう? また欽明・敏達・舒明は井沢氏の説でも天智の直系尊属の筈ですが(違い ますか?)泉涌寺には祀られていないと思います。 従って、 A.天皇すべてが祭祀の対象とされている・・・ B.然るに天武系天皇のみが除外されている・・・ と言うAの小林(井沢)氏の前提そのものに無理があるのでは無いでしょ うか? 私は、神武以下とまでは言いませんが、継体或いは欽明以下孝徳に至るま でーーと天智系の天皇が全て祭祀されているにも拘わらず、天武系が除外 されているならば小林(井沢)氏の説を真剣に取り上げるべきだと思いま すが・・・そうではないのですよね。 また、天武・持統は薬師寺、聖武は東大寺、称徳は西大寺という大寺にあ り、無縁仏などというものではありませんね(笑い) ********************************************:**************** 藤原氏(五摂家)では少し分かり難いかも知れませんんで、徳川氏につい て考えますと。。。。 家康@ │ 頼宣ーーー秀忠A │ │ XX 家光B │ │ 吉宗G 家綱Cーー綱吉Dーー綱重 │ │ 家重H 綱豊 │ │ 家治I 家宣E │ 家継F 仮に「家治」が菩提寺を建てたとして、家康ー吉宗ー家重を中心として、 秀忠ー家光ー家綱ー綱吉ー家宣ー家継を無視したからといって、秀忠以 下が徳川氏ではないと主張すれば。。。(笑い) まったく馬鹿げている とは思われませんか? これは将軍代々の菩提ではなく、先祖代々の菩提と理解するのが、日本 人(東洋人)の宗教的常識というものです。 Time : 2001/ 3/11(日) 13:50:06
Name : パンダ E-mail : Title : 漢高祖問題について。。。 Comments: パンダです。ものの次いでに「漢高祖問題」です。。。(笑い) C天武は自らを漢の高祖に擬しており周囲も認めている これについてのKANAKさんの批判(パンダ一部修正)ですが。。。。 ************************************************** 小林氏が挙げられている天智・天武非兄弟説・・根拠の第一番目は「天武 天皇と漢高祖」の関係です ”天武天皇の年齢と出自を知るに当たって・・・その特性の中でも、最も 出自と関係すると思われるものに、天武天皇の漢高祖を範とし、自らを任 じたという意見がある。・・・” として詳細に天武と漢高祖の関係を論じておられます。その結果 ”中大兄と同両親をもつ兄弟であるならば、当時貴種中の貴種であるはず なのに、何故漢高祖のような下層の遊民にして王朝の始祖たる者に、自ら を擬し、後継者もそれを認めているのか・・・・・・・・・・・・・・ 斉明自身・・・敏達の曾孫、押坂大兄の孫、茅淳王の娘という出自である。 皇統ではあっても皇位にほど遠く、当時の権力者、蘇我一門にも関係せず、 しかも外来人と浅からぬ血脈を持つ王の娘に過ぎない。そうであってみれ ば唐国帰りの学者高向漢人玄理は若き日の斉明には、むしろ、ふさわしい 相手であったと想像されよう。・・・以上の理由より、天武天皇の実父は、 比較的新しく渡来した新羅系外来人の血統である、高向漢人玄理であると 推定する。” としておられます。結論は少し異なるようですが、天智・天武非兄弟説の 根拠としては、ほぼ井沢氏も追随しておられますね。 私も、天武が漢高祖を範としたと言う意見については否定いたしません。 問題はそれが「天武の出自」を推定する根拠になるか?・・ですね。 私は、天武が漢高祖を範とした理由として、主に次の二つがあると思います。 A.漢高祖が卑賤の身から漢帝国を興した・・自分も卑賤の身で帝王となる。                       (小林説→井沢氏追随) B.漢高祖は出自に拘わらず帝王の鑑である・・自分も帝王の鑑となりたい。                       (私の思い付き説) まずA説に関していえば。。。 漢皇子の場合は、用明天皇の曾孫であり斉明天皇の子ですから、卑賤の身 では有り得ません。万歩譲って高向漢人あるいは高向臣(蘇我氏)の子で あるとしても、母が天皇なのですから卑賤の身とは言えないでしょう。 また、斉明が漢皇子を設けた時期は、概ね聖徳太子による新羅征討計画の 頃の筈ですから、新羅人との結婚などは有り得ないと思われます。 つまり、小林さんが後に変更された(?)天武=金多遂・泉蓋蘇文等(こ れも決して卑賤の身とはいえませんが)というトンデモジョークでもなけ れば、これは該当しませんね(笑い) それではB説は成立するでしょうか。 秦  始皇帝   B.C.259ーB.C.210 王族   二代滅亡 前漢 高祖劉邦  B.C.247ーB.C.195 庶民  B.C.202ー8 新  王莽    B.C. 45ー   23 貴族   一代滅亡 後漢 光武劉秀  B.C. 6ー   57 王族末裔? 25ー220 晋  司馬炎     236ー  290 貴族   265ー316 宋  武帝劉裕    363ー  422 庶民   420ー479 隋  煬帝      569ー  618 王族   589ー619 一応天武の時代における著名な帝王(結果的に創業者になります)は上記 のとおりでしょうが・・・・・・・・これらの帝王の内から、専制君主を 目指す天武が、帝王中の帝王として範とすべき人物は誰でしょう? 王族にして実質一代で国を滅ぼした始皇帝・煬帝はお話になりませんね。 私が天武ならば、やはり200年(前後通算では400年)の漢の基礎を 築いた高祖劉邦を選ぶと思いますが如何でしょうか? その出身が王族か庶民か・・・そんなことを賢しらに論じる後世の歴史家 の度量を天武は呵々大笑するのでは無いでしょうか。 (天孫を持って任じる天武にとって、常に王朝交替を繰り返す中国皇帝の 出自等は元々問題にならないと考えたかも知れません・・・・彼が範とし たのは出自ではなく、能力だったでしょう) 以上の結果、これをもってA説(天武非皇族)成立の根拠とするのは無理 があり、むしろB説のほうが妥当だと思いますが如何でしょう? Time : 2001/ 3/11(日) 16:22:26
Name : なかの E-mail : Title : パンダさま、皆さまへ Comments: おはようございます、なかのです。 先週水曜日に身辺で起こった個人的事情により 暫くこちらへ顔を出すことが出来ませんでした。 あと数日は同様にこちらへおじゃまできないと思います。 パンダさま> 水曜日の段階である程度返答を考えていたのですが、 その後のパンダさんの投稿量がすごく多いので 改めてお返事をさせていただきたく思います。 失礼の段を御容赦願います。 Time : 2001/ 3/12(月) 08:03:12
Name : MK E-mail : Title : ミ−ハ−なりに、パンダさんへ。 Comments: パンダさんへ、ものすご〜〜いですね。尊敬します。 でも私は、どうしてそんなに天武天皇の年齢に拘るの?と思ってました。ところが、 他の歴史の掲示板見てて殆ど宗教的に日本の古代の物や人物は外国から来たと思っている 人がいて私は信じられない感じでしたがその人も小林恵子さんの名前を出していました。 又、現在でも正妻の子供と正妻以外の子供は同列にはならないでしょう。古代においても 誰を正妻にするのかは大問題だったのではないでしょうか。 と、いう訳でパンダさんに一票でした。 Time : 2001/ 3/14(水) 22:28:13
Name : GS E-mail : Title : パンダさん、腐儒さん、とんぼさん、空転さん、その他の方々へ Comments: 隣のふぉーらむで書き込みをしているGSといいます。 パンダさん、そしてその他の方々へ、 まことに勝手ながら、 5ヶ月ほど前のここでの投稿内容をふぉーらむのコーナーで 使用させてもらいました。 お許しいただきたいと思います。 Time : 2001/ 3/14(水) 23:01:17
Name : パンダ E-mail : Title : 老婆心ながら。。。 Comments: パンダです。GSさん(はじめまして?)へ。。。。 何のことか分からなかったのですが、お隣で例の方と議論をなさってい るようですね。。。 まことにご苦労様ですが(笑い)余り意味があるとも思えません。 老婆心ながら、程々に抛っておかれた方が良いようで。。。(笑い) Time : 2001/ 3/16(金) 00:13:19
Name : 債投動産 E-mail : Title : パンダさんへ Comments: おひまなんですね。 Time : 2001/ 3/16(金) 17:39:35
Name : パンダ E-mail : Title : おひまなんですね。。。 Comments: パンダです。斉藤道三さんへ。。。。 おひまなんですか? Time : 2001/ 3/16(金) 21:47:43
Name : MK E-mail : Title : 取り敢えず、右でも、左でもなく。 Comments: 「売らんかな」では、いけませんか。 隣のコ−ナ−見てて皆うす〜くサヨクなんだなと思いました(小林やすのり流ですが) 保守と言うと=戦争となったり。本当はあんまり恐くて言えないのは、 戦後自国をキリングフィ−ルドにしたのは、保守の国ではないことです。 そして商業を馬鹿にしてはいけません。”衣食足りて礼節を知る”からです。 建設的に物事を進めていくのは本当に難しいです。ぶっ潰す方が易しい。 どうぞ皆さん分かりやすい言葉で書き込んでください。 Time : 2001/ 3/16(金) 21:56:44
Name : GS E-mail : Title : 返事 Comments: パンダさんへ、助言ありがとうございました。 参考にさせていただきます。 MKさんへ、自分は左翼のつもりではなく、むしろ右翼っぽいと自分では 思っています。この区分け自体もあまり好きではありません。 また、わかりにくい言葉で申し訳ありません。 ぜひ気楽に参加なさって下さい。 Time : 2001/ 3/16(金) 22:22:25
Name : きんたろう E-mail : Title : 移動能力 Comments: こんばんは^^ パンダさんの怒濤の書き込みに対して、それでは私がお相手しましょう^^と買っ て出たいのはやまやまなんですが... ちょっと(というよりもかなり)実力不足のためにお相手を出来そうもありません(;^_^A) 残念に思っています。 細部においては良く分からないところが多いのですが、かなり深いですね。 なかのさん、早く戻ってきてくださいね(^o^) MKさん、初めまして??かな、笑 確かに言われるような人もよく見かけますよね。 あのような発想は元々は「伝奇SF小説」の分野から来ているように思っています。 懐かしい名前を挙げれば「半村良先生」の「〇〇伝説」シリーズに辿り着いてしま うような気がしています。 トンデモ系統のところで話題にされる分にはそれなりに楽しいと思うのですがTP Oをわきまえて欲しいですよね^^;; ところで、元平親王の子供として兼名という名前を見かけました。 この人と経基、経生兄弟の名前に共通字が無いところが引っかかっています。 元長親王の子供にとてもよく似た兼明の名前がありますが...??^^;; どうなんでしょうか?? Time : 2001/ 3/16(金) 22:34:23
Name : 債投動産 E-mail : Title : おひまなようなので… Comments: おひまついでに(失礼しました)、パンダさんのご意見を拝聴できれば幸いです。 天武天皇の時代における最も著名な中華の専制君主、そして帝王中の帝王として範とすべき人物といえば、それは 唐の太宗李世民だったのではないでしょうか。 太宗は唐の第二代皇帝ですが、父の高祖李淵をけしかけて新王朝を樹立した上、その父を隠居させて自ら帝位に即 いているぐらいで、唐朝の事実上の共同創始者です。また姻戚筋にあたる王朝を倒して(高祖李淵の母にあたる元 貞皇后と、隋の煬帝楊広の 母にあたる文献独孤皇后は姉妹)天下を取ったという経緯からも、近江朝を倒して新 王朝を立てた天武天皇が範とすべき人物として、唐の太宗ほどふさわしい帝王はいなかったはずです。さらに天武 天皇の晩年には妻の持統天皇が自分を武則天に(そして病弱になった夫を高宗李旦に)なぞらえていたふしがあり、 またそもそも中央集権律令国家の建設という国家目標自体が唐の制度を範としたものなわけで、その大唐の輝ける 創始者を天武天皇やその近臣が意識しなかったはずはありません。 一方『史記』や『漢書』が描く漢の高祖劉邦は、決して能力のある人物というものではなく、出自が卑しく柄も悪 いが、むしろその剛直な人間的魅力で集団を率いて大業を達成した人物となっています。残念ながら司馬遷も班固 も、高祖劉邦をお世辞にも帝王の鑑とは見ていません。 にもかかわらず、天武天皇があえて自らを漢の高祖に擬し、また周囲もそれを認めていたのには、その背景に何か 尋常ならざる理由が窺われます。天武天皇=漢の高祖という公式には人為的な不自然さがあり、それがさまざまな 推理の源泉になっている事実は、やはり否定できないものだと思います。 Time : 2001/ 3/17(土) 12:23:31
Name : 佐伯 E-mail : saeki@seiryusou.co.jp Title : この国法学偏重社会 Comments: この度の法曹界の不祥事一般国民から見ると弾劾裁判が適当と思います 政治家は利権屋となりはて官僚は科挙のごとしと言う現実からすると たのみの法曹界さえもお手盛りですます傾向に憤懣やるかたない今日この頃 です 日本国憲法にある三権分立とは何でしょうかただの飾りに過ぎないとは まことに残念です、最後の望みさえ断ち切れば日本の国民は法律を守らなく なります 出来れば法学部出身の井沢先生に歴史から学ぶ助言をお願いいたします Time : 2001/ 3/17(土) 14:27:20
Name : なかの E-mail : Title : 天智・天武について Comments: パンダさま> まず、こちらから話を振っておいて長い間すっぽかしたかのような 状況になったことを謝ります。 また、恐らく多大な労力と時間を費やしてくださったであろうこと、 そして私の身勝手な「休養」宣言に付き合ってくださったことに 改めて感謝します。 1)反証不可能な・・について 最初に、この「仮説」を出しておいて何ですが・・、 私はパンダさんの3月4日の投稿におけるA→Cが 最も蓋然性が高いことについては同感であり、 もしそうでないとしたらということでA→Bがあり得るのか・・? と考えているということを改めて述べさせていただきます。 Aについては、おっしゃる通り、論拠を提示できません。 これでは答えになっていないと思われるため、 なぜこれを出したかという説明を・・・。 「一般に明らかにされなかった」としたのは、 当時の「憲法Y」がどういう扱いをされていたのか、 つまり単なる「家訓」のようなものだったのか、 または皇族や一部貴族だけのものだったのか、 もっと根本的には、「憲法Y」が最初から「憲法」として 扱われていたかどうかが分からないからです。 宮城谷昌光氏の著「子産」の主人公である子産のように、 中国の春秋時代には既に法を鼎に彫り込んで公開したという話が ありますので、聖徳太子の頃には、鼎かどうかはともかく、 文字を読める人に対しては法が公開されていたと思われます。 「憲法」が基本法であるとパンダさんが以前言われており、 私が知る限り最初の律が天武天皇の時の飛鳥浄御原律ですので、 「憲法X」が最終的には天武期にほぼ完成したのではないか? と想定しました。 すると「憲法Y」とは何か?誰が作ったのか?という疑問が出ます。 そこで聖徳太子の頃の蘇我氏の勢力が、 「憲法X」の文面にあるように、蘇我氏に都合の良くない部分があるものを 堂々と表に出せる(憚る必要がない)程度のものだったのかどうか、 また蘇我氏とは姻戚関係で縛られている聖徳太子が、政治権力の面でも 縛られていたのではないか?と疑ってみました。 当時の蘇我氏の勢力がどの程度だったのかという件については 様々な説があり、中には蘇我氏は天皇だったというものもあります。 そこまで頭が回りませんでしたが、それはパンダさんが 本題として触れるであろう事として期待します。 もし「憲法Y」が「憲法」として出されていたとするならば、 聖徳太子という存在を考えるとA→C説と近いものになるでしょう。 ・・書いているうちにどんどん説得力が弱くなってきました。 どうも無理があるようですね。 Cにつきましては、「天武天皇=漢皇子」というものを仮定にしての 話ですので、まずその時点で否定されればそこまでです。 用明系の皇族が重用されていないのでは・・?ということについては、 大和氏が「天武天皇出生の謎」の中で述べています。 同書からの引用だらけになってしまい申し訳ないのですが・・。 パンダさんも同書を読まれた様なのでここで細かくは述べませんが、 用明系の当麻氏が壬申の乱で活躍したことや、 天武天皇の殯宮(もがりのみや)の誄人に大伴氏・紀氏と共に 2人を出し、しかも舎人と騰極(ひつぎ)を担当していること、 特に騰極については、 欽明夫人の堅塩媛の改葬では弟に当たる境部摩理勢が、 舒明天皇の時には舒明の父の姻戚筋であった息長氏の息長公山田が それぞれ誄人をしており、 天武の時に当麻智徳が騰極の誄人を担当したことは 天武と当麻氏との関係によるのでは、と大和氏は指摘しています。 他の事例が分からないのでそれしか言えませんが・・。 また「続日本紀」では持統・文武の時にも当麻氏が誄人となっていること、 継体以降に分かれた氏族で真人の姓を授かった者のうち 当麻氏のみ継体・敏達・息長氏系ではないことなども 併せて指摘しています。 (同書では、八色の姓の施行時に真人の姓は、公の姓から選別された 13氏族が成り、それは   守山公・路公 ・・・・・・敏達の子の難波皇子の子孫   高橋公 ・・・・・・・・・不明   三国公 ・・・・・・・・・継体の子の椀子皇子の子孫   当麻公 ・・・・・・・・・用明の子の麻呂子皇子の子孫   茨城公 ・・・・・・・・・不明   丹比公・猪名公 ・・・・・宣化の子の上殖葉皇子の子孫                (新撰姓氏録では火焔皇子)   坂田公 ・・・・・・・・・継体の子の中皇子の子孫   羽田公・息長公・山道公 ・継体曾祖父のオホホト王の子孫                (息長氏は舒明の姻戚)   酒人公 ・・・・・・・・・継体の子の兎皇子の子孫 としていますが、「登美」「蜷淵」については分かりませんでした) もし天武天皇=漢皇子とすると、では系図を詐称したのは誰であったか、 というのが問題になります。 天武天皇が漢の高祖に擬していた云々等から見て、パンダさんも 言われているように、天武自身には詐称する強い必要性がありません。 大和氏はこれについて、ライバルが多い中で 聖武(首皇子)に皇位を継承させるために元明天皇が即位し、 その即位に当たって天智が定めた継承法という「不改常典」が持ち出され、 それに付随して起こった「天智の復権&天武の矮小化」に伴って 起こった作為ではないかとしています。 「天智の復権&天武の矮小化」については後の記事と関連しますが、 天武が高祖ではなく、その子孫である後漢(東漢)の光武帝と 姿を重ねられているような記述が幾つか見られます。 BとDはあまり重要な意味はありません。 事実関係はパンダさんが言われるとおりです。 2)年齢記事に関する・・について 仮定1〜4は妥当かと思います。少なくとも大はずれではないでしょう。 設定Aは、持統が草壁を出産した時の年齢を考えれば やや苦しくても無理ではないかと・・。 持統誕生時には天智は恐らく19歳、とすると長女の太田皇女が誕生した時は 天智は17歳ですので、10代半ばで結婚し後半で死別したというのはあり得ます。 設定Cで、舒明崩御時に皇極が即位した理由としては、古人大兄・ 山背大兄・中大兄の3人の大兄皇子(当時、葛城が大兄だったかどうかが 分かりませんが・・)が後継を有力視されていたのではないかと思います。 設定D・Eでの天智の年齢の想定は妥当だと思います。 設定Fの「称制」については改めて・・。 神皇正統記の「天智・天武が同年齢」については、パンダさんの おっしゃる事は分かりましたが、蓋然性で終わってしまうでしょう。 一番の混乱の原因はパンダさんも言われ、大和氏も述べていましたが、 鎌倉期の「一代要記」に至るまで天武の年齢資料が出ていないことに あります。 パンダさんは小林説を「納得いたしかね」るとされますが、 この天武「65歳」説がどこから出てきたのか(たとえ誤記のたぐいだとしても) を求めないとやっぱり結論が出ないですね。 皇円・慈円が天武の年齢を「見いだせなかった」のか、やはり当時から 「65歳」説もしくはそれに類する伝承みたいなものがあって、 混乱があったため敢えて記載を避けたのか、 こんなことを書くとまた怒られるかもしれませんが、 この辺りは現段階では想像になってしまいますが・・。 3)異本問題・・について これに関しては、ありがとうございますとしか言いようがありません。 異本が多くあるのは私も幾つか事例を知っていますので、 おっしゃることは分かります。 ただ「小林・大和説」は、パンダさんも言われるように あくまでこれを論拠の「一つ」(主要ですが・・)としています。 4)四娘同婚・・について 4人の娘が同一人物に嫁いでおり、異常・奇妙の表現の違いこそあれ おかしいというのは、恐らく誰も異論がないでしょう。 Aは妥当です。 BとEですが、これは「天武=天智の皇太弟」という日本書紀の設定を そのまま前提としており、 もし「天武=漢皇子」であるならば、まずその前提自体が崩れます。 大和氏は、「皇太弟」という言葉が使われたのが、 平城天皇の時に弟の神野親王(嵯峨)が太子に立てられた時が 正史に現れた初見であると指摘しています。 また日本書紀の天智10年に「皇太子」という記載がありますが、 壬申の乱の直前であり、 当時の状況から見て「皇太子」とは大友皇子であり、 天智の時代に「皇太弟」であったとするのは疑問があるとしています。 叔父・伯父と姪との結婚自体は当時珍しくはありません。 しかし都合4人というのは他に例がありません。 少なくとも最初の2人は、兄弟関係とは関係なく、 ただ単純に天智にとって天武が「政敵」的な立場にあったからこそ、 懐柔させるために娘を嫁がせたとするのが妥当かと思います。 例えば持統が天武の夫人になった斉明3年(657)に、持統は13歳くらいです。 長女の太田皇女も同じ頃でしょう。 すると天智は、娘が、しかも長女と次女とが、結婚適齢期にさしかかって すぐに、天武に夫人として与えたということになります。 娘2人を相次いでということであり、これは恋愛の延長による結婚ではなく、 天智が、少なくとも皇族の中で、天武を最も恐れていたということを 示しているものと思います。 大和氏は、父の意志による娘の政略結婚という場合、それまでの事例では 「臣従」もしくは「婿入り」のどちらかであるとしています。 後の2人は天武側の政略でしょう。 5)泉湧寺問題・・について この「無縁仏」は、私も大した論拠ではないと思っています。 私はむしろ、天武系から完全独立して即位した桓武天皇が、 天武系を排除したことを受けてそうなっているものであると思います。 つまり、天智の後に天武系(及び持統・元明といった夫人)が 一時期皇位を奪っていたが、本来は天智系が正統であり、 父の光仁で一部、自分に至って天武系の血をひく他戸親王を排除して 完全に取り返したこと、ただそれだけのことでしょう。 ただ是に関して疑問に思うのは、なぜ桓武の時に大友皇子の復権が なされていないのかということです。 大友の子の葛野王が持統にゴマをすって 草壁亡き後に文武への継承を正統と主張した事へのあてつけか、 はたまた一部に説がある、「倭姫称制」のせいでしょうか・・? 「漢の高祖に擬していた」というのは、実は私も以前から やや変に思うところがあります。 王朝を開いた著名な帝王としては、当時どうとらえられていたかを 考えなければ、神武天皇という存在があります。 また古代中国で言うのならば、湯王や周の文王・武王がいます。 開祖でないならば債投動産さんが言われるように唐の太宗ほか数名がいます。 前の天皇を「天智」という、悪名高い紂王の宝物になぞらえている以上、 本来ならば漢の高祖ではなく周の武王になぞらえる方が 自然のように思えるのですが、なぜ高祖なのでしょう・・? これは記事を疑っているというのではなく、当時の人たちが なぜ周の武王ではなく漢の高祖を持ち出したのかという事への疑問です。 ○天智称制について 実はこれが大きな問題のように思えます。 斉明の崩御の後、なぜ天智は自ら即位しなかったのか? 天智がいわゆる皇太子であり、天武が実の弟であるならば、 天智の即位を妨げるものは何もないはずです。 既に古人大兄も有馬皇子もいませんので、ライバルはいません。 確かに間人皇女は孝徳の后でしたが、皇位後継者が定まっているのなら 無理して「つなぎ」に天皇(もしくはそれに準ずる地位)に 立たなければならない必要性はありません。 これに関する従来の学会の説は説得力がありません。 敢えて考えられるとすれば、当時の朝鮮半島情勢を受けて、 天智が百済派、天武が新羅派の代表格のような立場にあったので、 中立として間人を立てたというところでしょうが・・。 以下、脱線しますが、家の話がありましたので・・。 成城大学の平山教授によると・・、 血縁的家族集団の繁栄により成員数を増し、同族系統が多岐に亘ると 集団に分裂が始まり、協同体の内部で複数の小結合体が形成されます。 古代においては分派した家族が新たに同族的集団にまで発展し、 祖を同じくする諸族に上下本支の差別がなく、互いに平等でした。 次に、分派自体も発展して更に内分されつつも元の大結合体から分離せず、 内分されたものを構成単位として元の大結合体を支えるという構造が 起こります。そしてそこに上下関係が生じてきます。 藤原氏では最初、南北式京の4家が分かれ、やがて北が優勢となり、 日野・勧修寺・四条・小野宮・閑院などが摂家から分流し、更にそれらの中で 細分化されるという現象が平安中後期から鎌倉・南北朝の頃にかけて 起こります。 それらの家では藤氏長者の統制下で、最初は個人の官職により尊卑が 定められましたが、先例や蔭位制などにより分立が明らかとなり、 本支嫡庶などを含めた世襲的な家柄が固定化しました。 源氏でも、源頼朝が挙兵した時に、木曽義仲の他にも、甲斐の武田、 常陸の佐竹などが対等な立場として振る舞っています。 そして現代、夫婦とその幼少の子女とで構成される家族というものが それまでにもあったものの、社会の単位として独立認知されました。 あと、中嶋繁雄氏が「日本の名門」シリーズで触れていますが・・ 五摂家その他殆どの貴族の家は全て現在に至っています。 近衛家からはあの有名な近衛文麿が出ており、 また鷹司家も戦後の成長期の頃、当主が昭和天皇の皇女を妻にしてながら、 ホステスと心中したという騒動を起こしています。 債投動産さま> はじめまして。 興味深い提案をありがとうございました。一部引用させてもらいました。 唐の太宗は天武と同時期ですので、擬しにくかったのではないかと思います。 あと、天武期には唐と新羅とが緊張した関係にあり、天武天皇は新羅派で あったようなので、そういった事も関係しているのではないかと思います。 これについてはパンダさんの鋭い返答を期待しましょう。 きんたろうさま> 実力不足とはご謙遜を・・、私こそ実力不足です。 この話でも、大和氏の論説とパンダさんの投稿におんぶにだっこですから。 Time : 2001/ 3/17(土) 15:15:33
Name : パンダ E-mail : Title : 取り敢えず「李世民」について。。。 Comments: パンダです。債投動産さんへ。。。雨でひまなものですから(笑い) >>天下を取ったという経緯からも、近江朝を倒して新王朝を立てた天武天皇 >>が範とすべき人物として、唐の太宗ほどふさわしい帝王はいなかったはず >>です。 李世民(598−649)。。。兄皇太子(建成)を殺害し、父から強引に譲位を 受けた人物ですね。我々は天武を(630頃ー686)と見ていますが、ほとんど 同時代人といっても良い人物です。 後世は彼を「貞観の治」と称賛していますが、当時の天武からすれば隋同様 に何時どうなるか分からない新興大国の王に過ぎません。また天智・天武に とっては663年に盟邦百済を滅ぼすにいたった仇敵李治の父王であり、その 侵攻に防備を固めている敵国の帝王ですね。 そもそも天武は、(少なくとも)皇太弟としての大義名分に立って、兄天智 の翻意に対抗して天壌無窮万世一系の25世39代の皇位継承を争ったのですか ら、自ら簒奪者である李世民に範をとることは有り得ないでしょうし、まし て彼は新王朝を意識したものではありません。 天武が範とするに当って、これほどふさわしくない帝王はないと思うんです がね。。。(笑い) 彼はあくまで聖徳太子ー斉明ー天智が目指した中央集権的専制君主路線を引 き継ぎ強化しょうとしたものですから、その政治制度をチャイナに求めたに すぎないでしょう。 その意味で不安定極まりないチャイナの王朝の中で、当時において最大の安 定王朝の基礎を築いた劉邦に政治的範を求めて何の不思議があるのでしょう か?(おそらく天智とて同じ思いだったでしょう) また劉邦は儒家(学者)から見れば粗野で乱暴な人物ですが、韓信をして 「将に将たる器であり、天授の才ありて人力の及ぶところにあらず」と称賛 せしめた人物ですからね。彼の人物を見極めた天武の眼力は流石だと思うん です(笑い)。 >>さらに天武天皇の晩年には妻の持統天皇が自分を武則天に(そして病弱に >>なった夫を高宗李旦に)なぞらえていたふしがあり、 持統(645−672−697−702)が武則天(624−690−705)に「なぞらえてい たふし」というのは、具体的にはどのようなことでしょうか? 子である中宗・叡宗を廃して自ら即位した武則天と、文武の成長を待ち兼ね たように譲位した持統とはまったく異なると思うのですが。。。(笑い) Time : 2001/ 3/17(土) 16:30:32
Name : 中国史を研究している者です E-mail : Title : 二三気がついたことがありましたので Comments: この掲示板には時々訪れて、みなさんの論戦を興味深く拝見させていただいております。最近、専門の古代中国史に関する 話題を目にするようになり、二三気がついたことがありましたので、投稿をさせていただくことにしました。 債投動産さん、なかなか鋭いご指摘です。ご自身も中国史にお関わりがあるものと拝察いたします。おっしゃるとおり、 唐の太宗は後世の史家が歴代の五指に数える名君中の名君であるのみならず、当時の東アジアにおいても堯舜に比せられる ほどの天子でした。「にもかかわらず、天武天皇があえて自らを漢の高祖に擬し、また周囲もそれを認めていたのには、 その背景に何か尋常ならざる理由が窺われます」との指摘、まことに的を射たものだと思います。 さて天武天皇と太宗を「ほとんど同時代人といっても良い人物です」とされるパンダさんのご意見ですが、これは1300年 以上を隔てた現代人の誤解であって、当時の人の感覚では一時代前の人物であったはずです。壬申の乱は、太宗の崩じた 23年後に起こっています。23年前首相だった福田赳夫と今の首相の森喜朗を、われわれは決して同時代人とは言わないで しょう。 また「当時の天武からすれば隋同様に何時どうなるか分からない新興大国の王に過ぎません」とのご意見ですが、これも いかがなものでしょうか。唐は隋の大業を引き継いだという背景を見逃すことはできません。隋と唐の関係は、秦と漢の 関係に酷似しています。数世紀に及ぶ混乱をやっとのことで収集し、統一国家を試行錯誤でスタートさせた隋が、そこから くる矛盾を一身に背負って四苦八苦した挙句、内乱の頻発により自滅、その後を受けた唐が隋の残した統一国家の遺産を 活かし、これに改良を加えることにより長期政権への道を開いたという構図は、秦漢の興亡と十分に対比できたはずです。 また壬申の乱の時点で、唐は建国から54年を経ています。この半世紀に大唐は国力を充実させ、法典を整備し、周辺諸国を 従えて、大帝国としてその体制は磐石のものとなっていました。半世紀といえば、漢の建国から武帝が即位して漢の黄金 時代が始まる時期までがほぼ半世紀、江戸幕府が開設されてから四代将軍徳川家綱の就任までがほぼ半世紀で、政権が安定 する節目のような年月です。半世紀たっても何時どうなるか分からないような新興大国は、新憲法下で55年経っても責任 政党政治がよく飲み込めず、安定した政権が滅多に生まれないどこかの島国ぐらいのものでしょう(笑)。 持統天皇が武則天を意識したとういうことについてはほぼ定説となっており、その具体例をあげれば枚挙にいとまがないと 思うのですが、この点については債投動産さんに譲らせていただきます(でしゃばってしまって申し訳ありません)。ただ 一つだけ興味深い事例をあげさせていただければ、天照大神のとの関連です。古事記にある天照大神と天孫降臨の一説は、 持統天皇から孫の文武天皇への譲位を正当化するために藤原不比等が創作したものだという説はほぼ間違いないものだと 思われます。ところで、武則天、正式には則天聖神皇帝という方ですが、この方の本名がなんと武照なのです。またこの 「照」という字は当時あまり多用された字ではなく、このともすれば稀な字が、武則天とほぼ時を同じくして君臨した持統 天皇をモデルにした、高天原の神聖なる女神のお名前に使用されたということは、単なる偶然とはし難い一大事だといえる ものです。 これらの点については梅原猛氏が著書の中で綿密な考証を行なっていたと記憶しています。是非ご一読ください。 Time : 2001/ 3/17(土) 20:36:59
Name : パンダ E-mail : Title : 誄について。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。ご労作ありがとうございました。 随分と多方面にわたっていますので、順次お答えいたしますが(笑い) まず、十七条憲法についてはA→Cが最も蓋然性が高い。。。ということ で終了させて頂きます。 なお蘇我氏に関していえば。。。天智・鎌足(おそらく蘇我倉山田のバッ クアップも。。。)の逆クーデタがなければ、おそらく高麗の泉蓋蘇文の 如き存在となり、倭国の分裂。。。(最悪の場合には)唐支配にまで及ん だかも知れないと思っています(まさか。。。笑い) 次に誄ですが。。。 >>用明系の当麻氏が壬申の乱で活躍したことや、天武天皇の殯宮(もがり >>のみや)の誄人に大伴氏・紀氏と共に2人を出し、しかも舎人と騰極( >>ひつぎ)を担当していること、特に騰極については、欽明夫人の堅塩媛 >>の改葬では弟に当たる境部摩理勢が、舒明天皇の時には舒明の父の姻戚 >>筋であった息長氏の息長公山田がそれぞれ誄人をしており、天武の時に >>当麻智徳が騰極の誄人を担当したことは天武と当麻氏との関係によるの >>では、と大和氏は指摘しています。 壬申の乱では、多くの豪族・皇族が活躍しており、豈に当麻氏のみならん や。。。です。要するに天武時代に特に官位等で重用された形跡がありま せん。686年の殯宮(もがりのみや)の誄人では。。。 壬生(養育)誄・・・大海宿禰(大海人の命名のもとになった壬生氏族) 諸王誄・・・・・・・伊勢王(押坂彦人大兄の孫) 宮内諸事誄・・・・・県犬養宿禰 大舎人誄・・・・・・河内王(押坂彦人大兄の孫) 兵衛誄・・・・・・・当麻真人国見 内命婦誄・・・・・・采女朝臣(物部同族) 膳職誄・・・・・・・紀朝臣 太政官誄・・・・・・布勢朝臣(阿部支族) 法官誄・・・・・・・石上朝臣(物部氏) 理官誄・・・・・・・大三輪朝臣(大物主系) 大蔵誄・・・・・・・大伴宿禰 兵政官誄・・・・・・藤原朝臣 刑官誄・・・・・・・阿部久努朝臣(阿部支族) 民官誄・・・・・・・紀朝臣 諸国司誄・・・・・・穂積朝臣(物部同族) その他・・・・・・・隼人・馬飼部 百済誄・・・・・・・百済王良虞(百済王善光子) また持統2年(688)殯宮の誄では。。。 布勢朝臣・大伴宿禰そして当麻真人智徳が騰極の誄を行っています。 。。。のですが王族では押坂(舒明の父)系が立っており、壬生氏族とし て大海宿禰(漢皇子であれば、東漢等が壬生になる筈です)が立っていま す。その他夫々の縁ある名族を立てており、大和氏の当麻氏に関する指摘 は我田引水に過ぎるのではないでしょうか? なお、当麻真人智徳が持統・文武についても従四位上で誄を行っています が、これは騰極誄に関する適材適所だと見るべきでしょう。 Time : 2001/ 3/17(土) 21:00:33
Name : パンダ E-mail : Title : 「真人」賜姓について。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。次に真人姓ですが。。。 >>継体以降に分かれた氏族で真人の姓を授かった者のうち当麻氏のみ継体・ >>敏達・息長氏系ではないことなども併せて指摘しています。 >>(同書では、八色の姓の施行時に真人の姓は、公の姓から選別された13氏 >>族が成り、それは   守山公・路公 ・・・・・・敏達の子の難波皇子の子孫   高橋公 ・・・・・・・・・不明   三国公 ・・・・・・・・・継体の子の椀子皇子の子孫   当麻公 ・・・・・・・・・用明の子の麻呂子皇子の子孫   茨城公 ・・・・・・・・・不明   丹比公・猪名公 ・・・・・宣化の子の上殖葉皇子の子孫                (新撰姓氏録では火焔皇子)   坂田公 ・・・・・・・・・継体の子の中皇子の子孫   羽田公・息長公・山道公 ・継体曾祖父のオホホト王の子孫 >>(息長氏は舒明の姻戚) >>  酒人公 ・・・・・・・・・継体の子の兎皇子の子孫としていますが、 >>「登美」「蜷淵」については分かりませんでした) 「蜷淵」は用明系の殖栗王、「登美」は用明系の久目王の後裔氏族でしょう。 この時点での真人賜姓は、概ね次のとおりです。(Mが真人姓の租) 15 応神ーーー(誉屋)ーー(忍熊)   │ 1 (若野毛二俣)ー(大山守) │ 2 (意富富抒)ー<忍坂大中姫>   │ 3 (乎非)ーー(阿居乃)?   │    │   ?     ? 4 (汗斯)  (息長真手)ー(坂田大跨)   │26   │  M  │  M 5  継体  <広姫>?   <黒媛>?   │29 6  欽明ーーーーーーーーーーーーーーーー安閑ーー宣化ー(椀子ー中ー菟)   │30    33      32  31 │   │   M M M 7  敏達ーー<推古>ーーーー崇峻ー用明 (上殖葉) <石姫>   │         │    M 8 (押坂彦人)ー(難波)ー<糠手姫> (聖徳)ー(当麻)ー(久目)ー(殖栗) │34     M         M M M 9  舒明ーーーーー ーーーーーーーーーーーーーー(茅淳)ーー(百済)   │40          38      │36   35 37 10 天武ーーーーーーーーー天智ー(古人)ー(賀屋) 孝徳ーー<皇極/斉明> 確かに欽明以降で真人姓を受けたのは、敏達の子では「難波皇子系石川王の 子孫」と用明の子「当麻皇子」「久目皇子」「殖栗皇子」系のみですが。。。 崇峻の子「蜂子皇子」は出家伝説とともに消滅していますので。。。(笑い) その他の敏達系や押坂系子孫はなお伊勢王や河内王のように王族であって、 臣籍降下していないのですから真人姓になる筈がないのです。 つまりは大和氏の解釈とは逆(?)であって、主として用明系が先行して臣籍に なっていたことを示しているといわざるを得ないのですね(笑い) Time : 2001/ 3/17(土) 22:19:44
Name : 債投動産 E-mail : Title : 蝮ドリンクが好きなんです Comments: なかのさん 成城の平山教授を引用されていましたが、ひょっとして卒業生の方ですか。自分も成城の文化史です。もう随分昔のことになりますが… パンダさん おひまなところお時間を割いて(笑)おつきあいいただき、恐縮です。それにしても、ご本業に差し障りありませんか。 中国史さん でしゃばってなんて、とんでもない。ご専門のお立場から色々とご代弁をいただき恐縮です。お察しのとおり小生、 古代東洋史を専攻した者です。7〜8世紀の日本は、やはりこれを総体的な東アジア世界の一部として、隣国との相 関関係などを考慮しながら、さまざまな文献を読んでゆかないことには大切なものが見えてきませんね。それから、 中国史さんの記憶されているという梅原猛氏の考証というのは、『海女と天皇』でしたっけ、それとも『聖徳太子』 でしたっけ。自分も随分前に読んだのではっきりとは覚えていませんが、件の考証は記憶しています。 Time : 2001/ 3/17(土) 23:23:46
Name : パンダ E-mail : Title : 天武の矮小化??? Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 >>大和氏はこれについて、ライバルが多い中で聖武(首皇子)に皇位を継承 >>させるために元明天皇が即位し、その即位に当たって天智が定めた継承法 >>という「不改常典」が持ち出され、それに付随して起こった「天智の復権 >>&天武の矮小化」に伴って起こった作為ではないかとしています。 これって何のことでしょうか? サッパリ意味が分かりません(笑い) 中国研究家さんへ。。。 現代人にとっては、20年は一時代変わったとするかも知れませんが。。。 古代人にとっては時間の経過は遥かにユッタリしたものだと思われませんか? (情報伝達の速度だって全く違うんですからね。。。) >>隋と唐の関係は、秦と漢の関係に酷似しています。 これこそ歴史の結果を知っている現代人の目だとは思われませんか? まあ、それは兎も角。。。現実問題として。。。 壬申の乱(672)は、白村江の敗戦(663)から僅かに9年です。天武自身が百済 の遺民を動員して対「唐」侵攻に備えて山城を築いていた時代ですよ。。。 新羅が唐と戦端をひらいたのが670年、激戦の後百済を併合したのが壬申乱か ら3年後の675年。唐が韓半島支配を放棄したのがその5年後の677年ですよね? (当然ながら、この頃から新羅は唐・倭の挟撃を回避するため、倭宥和政策 に転じるのですが。。。) このような時期に天武が敵国ともいうべき「唐」の帝王をどのように見ていた か。。。私にはとても範とすべき状態とは思えませんがね。。。(笑い) なお、私は梅原・上山氏のアマテラス不比等創作説等には、まったく価値を認 めていませんが。。。ここでこの問題にまで拡大したくないので、これは別項 にして頂けますか?(去年の2月頃のAwajiさんの過去ログならば、再掲しても 良いのですがチョット問題が広がり過ぎますので。。。) Time : 2001/ 3/17(土) 23:30:04
Name : パンダ E-mail : Title : その他。。。 Comments: パンダです。引き続き。。。 >>BとEですが、これは「天武=天智の皇太弟」という日本書紀の設定をそ >>のまま前提としており、もし「天武=漢皇子」であるならば、まずその前 >>提自体が崩れます。 チョット違うんですが。。。(笑い) 私は「皇太弟的な地位」といっておりますので。。。つまり最有力の皇位継 承者であれば、天智が二人の娘を嫁するのも不思議ではない。。。天智にと って最有力の後継者は他人では有り得ないだろう。。。実弟とするのが最も 妥当ではないだろうか。。。ということなのです。 仮に異父兄であれば、天智は斉明没とともに何の遠慮呵責もなく、誅殺して いたと思いますがね。。。(笑い) >>大和氏は、「皇太弟」という言葉が使われたのが、平城天皇の時に弟の神 >>野親王(嵯峨)が太子に立てられた時が正史に現れた初見であると指摘し >>ています。また日本書紀の天智10年に「皇太子」という記載がありますが、 >>壬申の乱の直前であり、当時の状況から見て「皇太子」とは大友皇子であ >>り、天智の時代に「皇太弟」であったとするのは疑問があるとしています。 「皇太弟」はモチロン「天皇」「皇后」「皇太子」「東宮」。。。を天智時 代に使用すべきかどうかは別の問題であって、要するに天武が最有力の皇位 (大王位)継承者であったかどうかです。 私は。。。その様な地位にあったからこそ吉備の当麻公や太宰府の栗隈王等 の王族が天武を支持し、勝利したと思うんですが。。。? 当時の貴族や皇族の世界は極めて小さなものであって、見え透いた嘘が通用 するとは思えないんですよね。 泉涌寺については。。。どうでもいいのですが。。。先祖供養とするのには 疑問があるのでしょうか? >>前の天皇を「天智」という、悪名高い紂王の宝物になぞらえている以上、 >>本来ならば漢の高祖ではなく周の武王になぞらえる方が自然のように思え >>るのですが、なぜ高祖なのでしょう・・? これって本気でいらっしゃいますか? なかのさんほどの方が。。。このようなバカバカしい説に。。。絶句するの みです。 天智称制の意味については。。。いろいろ考えてみましょうよ。 私の意見は、いずれ申し上げたいと思います。 Time : 2001/ 3/18(日) 00:20:51
Name : 中国史を研究している者です E-mail : Title : いやぁ、パンダさんともあろう方が… Comments: 7〜8世紀における情報伝達速度については、記紀と隋書や新旧唐書・三国史記などを読みくべれば一目瞭然です。こう した史書には例によってまったく価値を認めておられないもかもしれませんが。 あまり本はお読みにならないようですね。「御自分史」のご披露に夢中のようなのでそろそろお暇しますが、反論だけに やっきになってまたうっかりとぼろをお出しにならないよう、祈り申し上げております。 Time : 2001/ 3/18(日) 05:19:48
Name : パンダ E-mail : Title : 私の愛読書。。。 Comments: パンダです。研究家さんへ。。。 私の愛読書を列記頂き感謝! で? それがどうかしましたか??? 何をおっしゃりたいのか知りませんが、お暇はどうぞご自由に。。(笑い) Time : 2001/ 3/18(日) 07:37:31
Name : ははは E-mail : Title : ははは Comments: ははは Time : 2001/ 3/18(日) 08:48:27
Name : 債投動産 E-mail : Title : ちょいと試しに Comments: 漢の宣帝 梁の武帝 宋の仁宗 明の世宗 Time : 2001/ 3/18(日) 09:02:25
Name : きんたろう E-mail : Title : 少しだけ参加^^;; Comments: こんばんは^^ 漢高祖問題とはなかなか面白い視点ですね。 私もちょっとだけ入ってみようかな...笑 パンダさんは妥当であるという意見ですね。 債投動産さんと中国史を研究している者ですさん(長いHNですね、笑)がほぼ同 じ視点で同意見、なかのさんは周の武王を選ばなかった点に対する疑問があるとい う事ですよね??^^;; 当時の日本が中国のような国家を目指していた点に関しては異論が無いように思っ ています。 ところで、私は聖徳太子は超大国「隋」を目指して冠位12階の制定をしたと思っ ています。 そしてこの支えとして憲法17条を制定したのではないかと思っているのです。 聖徳太子の絶頂期、言い換えれば政治力、影響力が最大だった時期とは正に隋のそ れにほぼ一致しているのはご存じの通りだと思います。 そして聖徳太子ほどの天才の晩年が不遇だったと見られているのは、隋の没落によ って説得力を失ったからではないかと実は感じているのです。 このような身近な過去を見て知っている天武にとっては、時期的にほぼ同時期とい っても良いほど近い時期の唐の太宗の存在とは眩しいけれども安定したものかどう かよく分からないものと受け取っていなかったのではないでしょうか?? 勿論、現代の私たちは秦から漢へと流れた歴史が隋から唐へ移ったそれによく似て いる事を知っています。 でもまだあの時点ではまだ渦中にあるといえるように感じられるのです。 さらに天才「聖徳太子」の神通力が落ちた理由が隋の没落にリンクしているとなれ ば迂闊に近くの例に準える可能性はさらに低くなる様に思ってきます。 勿論、唐は白村江の戦いにおける敵国でした。 倭国において根本的な政策転換(精神的鎖国への道)を引き起こした敵国に対する 感情は天武の頃にはまだ歴史として過去のものにはなっていなかったのではないで しょうか?? なおこれは蛇足ですが、北周→隋→唐へと移る歴史は信長→秀吉→家康と移る流れ にもとてもよく似ている様に感じています。 なかのさんの提示された >なぜ周の武王ではなく漢の高祖を持ち出したのかという事への疑問です。 これについては実のところ良く分かりません^^;; 本当は周の武王でも良かったのではないかと思っています、笑 いずれにしても中国民族を漢民族と呼ぶようになったきっかけを作った人物が「劉 邦」ですから、この人が最高の適任者の一人であるのは間違いがないと思うのです が... ここまで書いてみたらパンダさんが言われている事とほとんど同じですね、笑 Time : 2001/ 3/18(日) 13:35:00
Name : 中国史を研究している者です E-mail : Title : これは、クイズですか? Comments: 債投動産さん、なかなか心憎い謎かけを持ち出されましたね。 漢の宣帝 = 宇多天皇 梁の武帝 = 聖武天皇 明の世宗 = 光格天皇 ということでしょうか。宋の仁宗についてはお考えの意図に沿うところがないと思われますが。ご教示ください。 Time : 2001/ 3/18(日) 13:58:50
Name : パンダ E-mail : Title : 封建制・郡県制・郡国制。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。ご支援ありがとうございます(笑い) >>なぜ周の武王ではなく漢の高祖を持ち出したのかという事への疑問です。 >>これについては実のところ良く分かりません^^;;本当は周の武王でも >>良かったのではないかと思っています、笑 これについては。。。周が基本的に「封建制」を採ったことと関係している かも知れません。 秦は、当時としては急進的な「郡県制」を採って失敗しましたが、漢の劉邦 はそれを漸進的「郡国制」に改め、徐々に実体的に「郡県制」に移行してい きましたネ。 天智はかなり急激な「郡県制」的改革を推進し、豪族の反感を買ったようで すが。。。天武は周の「封建制」は採り得ないものの、漢の漸進的な「郡国 制」的政策を標榜して豪族達の支持を取り付けた面があったのではないでし ょうか? ただ、歴史の皮肉というか。。。天武が勝利を得たことに依って、現人神思 想が強化され結果的には「郡県制=強力な天皇中央集権制」が成立したので すが。。。(笑い) こういう歴史の流れはよくあることかと。。。。 徳川政権の成立過程にも、これと似たところがあるようで。。。(?) Time : 2001/ 3/18(日) 23:16:43
Name : パンダ E-mail : Title : 追記です(蛇足ですが)。。。 Comments: 追記です。。。蛇足ですが(笑い) 天武が「郡国制」的政策。。。といっても「郡国制」そのものを指向した といっている分けでは有りません。 科挙的実務官僚制ではなく、門閥的貴族官僚制を維持すること。。。(例 えば「八色姓」制度等)。。。地方豪族の既得権を郡司制度の中で一部認 めること。。。というような程度のものです。 Time : 2001/ 3/18(日) 23:46:44
Name : _ E-mail : Title : どこの国のことですか Comments: >> 天智はかなり急激な「郡県制」的改革を推進し、豪族の反感を買ったようで >> すが。。。天武は周の「封建制」は採り得ないものの、漢の漸進的な「郡国 >> 制」的政策を標榜して豪族達の支持を取り付けた面があったのではないでし >> ょうか? これって本気でいらっしゃいますか? パンダさんほどの方が。。。このような妄想をなさるとは。。。絶句するの みです。 >> 科挙的実務官僚制ではなく、門閥的貴族官僚制を維持すること。。。(例 >> えば「八色姓」制度等)。。。地方豪族の既得権を郡司制度の中で一部認 >> めること。。。というような程度のものです。 これって何のことでしょうか? サッパリ意味が分かりません(笑) Time : 2001/ 3/19(月) 03:29:06
Name : しありー E-mail : Title : はじめまして Comments: 記憶が曖昧で申し訳ないのですが 御議論の種になればと思って 書きこんでおきます。 間違いであれば訂正してください。 たしか 漢の高祖が立ち上がった年は 壬申に当たる年ではなかったかと記憶しております。 それゆえなぞらえたかと思っております。 また 南の方角は陰陽五行でいうところの 火に当たり色で表すと赤になります。 都から見て 吉野の方角は南ですので参考までに 加えておきます。 Time : 2001/ 3/19(月) 05:19:08
Name : しありー E-mail : Title : おことわり Comments: 二十四節季(っていうのでしょうか、いわゆる干支です) において漢の高祖が立ち上がった年が 壬申(みずのえさる)ではなかったか?という意味ですので ご了承下さい。 また 本来ならよく調べて書きこむのが当然ですが みなさんの御議論が速いので 過去の遺物になる前にと思い 記憶が曖昧で書きこんだことを 失礼申し上げます。 Time : 2001/ 3/19(月) 05:34:24
Name : 債投動産 E-mail : Title : Me? No, no. Oh, ma'm, she? Comments: みなさん、みなさん、 罵り合いは、お隣でどうぞ。 しありーさん、 当時の干支表が手元にないので劉邦挙兵の年の干支を特定することはできませんが、壬申の乱の年から単純に 60年を引いてゆくと、漢朝成立に最も近い年は前189年と前249年になります。前189年は呂太后称制の時代、 前249年は秦王国が東周を滅ぼして中華に天子がいなくなった頃です。劉邦が挙兵して沛公と称したのが前209年、 漢王となったのが前206年、項羽 を滅ぼして天子の位に即いたのが前202年です。 中国史さん、 さすがですね、敬服いたします。お察しのとおり宋の仁宗はひっかけです。どうもすみませんでした。 Time : 2001/ 3/19(月) 07:45:55
Name : 債投動産 E-mail : Title : Me? No, no. Oh, ma'm, she? Comments: みなさん、みなさん、 罵り合いは、お隣でどうぞ。 しありーさん、 当時の干支表が手元にないので劉邦挙兵の年の干支を特定することはできませんが、壬申の乱の年から単純に 60年を引いてゆくと、漢朝成立に最も近い年は前189年と前249年になります。前189年は呂太后称制の時代、 前249年は秦王国が東周を滅ぼして中華に天子がいなくなった頃です。劉邦が挙兵して沛公と称したのが前209年、 漢王となったのが前206年、項羽 を滅ぼして天子の位に即いたのが前202年です。 中国史さん、 さすがですね、敬服いたします。お察しのとおり宋の仁宗はひっかけです。どうもすみませんでした。 Time : 2001/ 3/19(月) 07:45:57
Name : 債投動産 E-mail : Title : Me? No, no. Oh, ma'm, she? Comments: みなさん、みなさん、 罵り合いは、お隣でどうぞ。 しありーさん、 当時の干支表が手元にないので劉邦挙兵の年の干支を特定することはできませんが、壬申の乱の年から単純に 60年を引いてゆくと、漢朝成立に最も近い年は前189年と前249年になります。前189年は呂太后称制の時代、 前249年は秦王国が東周を滅ぼして中華に天子がいなくなった頃です。劉邦が挙兵して沛公と称したのが前209年、 漢王となったのが前206年、項羽 を滅ぼして天子の位に即いたのが前202年です。 中国史さん、 さすがですね、敬服いたします。お察しのとおり宋の仁宗はひっかけです。どうもすみませんでした。 Time : 2001/ 3/19(月) 07:45:58
Name : 債投動産 E-mail : Title : Me? No, no. Oh, Ma'm, she? Comments: みなさん、みなさん、 罵り合いは、お隣でどうぞ。 しありーさん、 当時の干支表が手元にないので劉邦挙兵の年の干支を特定することはできませんが、壬申の乱の年から単純に 60年を引いてゆくと、漢朝成立に最も近い年は前189年と前249年になります。前189年は呂太后称制の時代、 前249年は秦王国が東周を滅ぼして中華に天子がいなくなった頃です。劉邦が挙兵して沛公と称したのが前209年、 漢王となったのが前206年、項羽 を滅ぼして天子の位に即いたのが前202年です。 中国史さん、 さすがですね、敬服いたします。お察しのとおり宋の仁宗はひっかけです。どうもすみませんでした。 Time : 2001/ 3/19(月) 07:46:06
Name : 債投動産 E-mail : Title : Me? No, no. Oh, Ma'm, she? Comments: みなさん、みなさん、 罵り合いは、お隣でどうぞ。 しありーさん、 当時の干支表が手元にないので劉邦挙兵の年の干支を特定することはできませんが、壬申の乱の年から単純に 60年を引いてゆくと、漢朝成立に最も近い年は前189年と前249年になります。前189年は呂太后称制の時代、 前249年は秦王国が東周を滅ぼして中華に天子がいなくなった頃です。劉邦が挙兵して沛公と称したのが前209年、 漢王となったのが前206年、項羽 を滅ぼして天子の位に即いたのが前202年です。 中国史さん、 さすがですね、敬服いたします。お察しのとおり宋の仁宗はひっかけです。どうもすみませんでした。 Time : 2001/ 3/19(月) 07:46:07
Name : 債投動産 E-mail : Title : すみません… Comments: つながりが悪いのかとおもって… 登録ボタンを何度もクリックしてしまいました。 すみません… Time : 2001/ 3/19(月) 07:52:50
Name : 債投動産 E-mail : Title : すみません… Comments: つながりが悪いのかとおもって… 登録ボタンを何度もクリックしてしまいました。 すみません… Time : 2001/ 3/19(月) 07:52:59
Name : 例のとこからですが E-mail : Title : ご参考まで Comments: 井沢元彦『逆説の日本史』 1 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/08(木) 20:59 スレが無かったのでたててみました。 読者の方いませんか? 2 名前:名無し募集中。。。投稿日:2001/03/08(木) 20:59 古代史編は面白い 3 名前:毎度毎度………投稿日:2001/03/08(木) 21:30 この本についてのスレが立つたびに必ず紹介されているサイト。 http://member.nifty.ne.jp/suzumei/suzume.htm 4 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/08(木) 22:06 もう何度もやった。 過去スレ幾つもあるから倉庫を探してみてね。 5 名前:通行人投稿日:2001/03/09(金) 00:55 中日ドラゴンズの論理 6 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 01:04 格子気ホームページのオッサン達は凄いよ。 初代オッサンは熱狂的信者の世間知らずバカ学生を粉砕するも バカ学生の、あまりの厨房ぶりに愛想を尽かして戦線離脱。 ここで二代目登場。なんと初代とは「友人」だそうな。 二代目オッサンがバカ学生の相手を引き継ぐも やっぱりアホらしくなって戦線離脱。 その語り口は初代そっくりであった。 ここでこんどは三代目として女性キャラが登場! これまた初代二代の語り口を完璧に継承するオッサン? が・・・な、な、なんと、本人が語るには初代の「娘」だとか。 初代から三代目までが顔を合わせて 逆説批判をやってる場を想像すると恐ろしくなります。 その後、繋ぎで変なオッサンとかも登場したが(やっぱりそっくりのね) 強力な四代目が登場!これまた、びっくりするほどそっくりのみならず 初代や二代目のログをワードで保管してるらしく この「ワードで保管」という技も初代と二代目と同様の手法である。 で、四代目自身は気付いてないようだが 初代や二代目と全く同じフレーズを、うっかり使っていたりします。 また二代目の過去ログを掲載するのを断られた、というようなことを 言ったりしているので、やっぱり「友人」なのでしょうか? まあしかし似たようなオッサンが揃いも揃ったもんですよ。 あたしゃ怨霊なんかより、このことの方がよっぽど恐いですよ。 7 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 01:08 あ、それからそれから 熱狂的信者のバカ学生さんも色々と名を変えて活躍しています。 この方は思い込みの激しい方のようで 一つの本、一人の作家を読むと、それを盲信する傾向にあります。 8 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 01:11 >>5 俺はヘビ年だけど、なにか? 9 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 06:01 井沢ねえ。 古代編以外はそこそこ面白かったけど、 ニフの歴ヲタにタコ殴りされてるようじゃなあ 10 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 09:41 三文作家呼ばわりされて激怒してたな。 11 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/09(金) 09:52 >>2 事実があやふやだからね。 そういう意味じゃ、未来編も面白くなると思うよ。 だって本職はSF作家なんでしょ? Time : 2001/ 3/19(月) 11:01:20
Name : 中国史を研究している者です E-mail : Title : 債投動産さん Comments: ありがとう。 Me? No, no. Oh, Ma'm, she? = 美濃の大蝮? Time : 2001/ 3/19(月) 16:41:49
Name : GS E-mail : Title : パンダさんに一言 Comments: お礼を言おうと思ってこちらをのぞいたのですが、「例のとこからですが」さんの投稿の内容が全然意味がわかりません。 おっと、パンダさん、ありがとうございました。隣で脱○△宣言をしました。 Time : 2001/ 3/19(月) 23:04:53
Name : パンダ E-mail : Title : 「どこの国?」。。。 Comments: パンダです。ーさんへ。。。せめて、お名前を。。。(笑い) まさか、きんたろうさんではないでしょうが。。。?? あるいは、なかのさんでしょうか。。。?? このお二人が「どこの国のこと」「サッパリ意味が分かりません(笑)」 とおっしゃるのであれば、解説させて頂きます。 でも「ウータ」さんとか「中国史をケンキュウされているお方」あるいは 「その他の方」であれば、HNを明らかにして頂いてからにいたしますネ。 それから「大山崎の油屋」さんへ。。。もしも「持統」と「武則天」に関 する解説を掲載される場合には、適宜改行お願いします。 Time : 2001/ 3/19(月) 23:25:34
Name : パンダ E-mail : Title : GSさんへ。。。 Comments: パンダです。「脱○△宣言」祝着至極に存じ上げます(笑い) 「例のとこからですが」さんの投稿は。。。ご自分の心理現象を語られた ものでしょうから、ご本人以外には解読不明かもしれません(笑い) Time : 2001/ 3/19(月) 23:37:00
Name : 輔住 E-mail : Title : GSさんへ横レス Comments: 例のとこからですがさんの投稿は 2ちゃんねるの掲示版の書き込みをコピペしたと 思います。そこはあらゆるジャンルの掲示版がありますね。 私は他のジャンルの掲示版の1部を見たことがありますけどね。 私がみたジャンルの掲示版のパターンとよく似ています。 Time : 2001/ 3/20(火) 00:03:45
Name : Toshy E-mail : Title : 例のとこ Comments: いったいなんなんですかね〜その例の場所を見に行きましたよ。 ***************************** 12 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/19(月) 13:06 井沢の掲示板の一つ「ふぉーらむ」にすごいやつがいる。 人の意見に耳を貸さず、自分が常に正しいと信じ込む超大馬鹿。 上で話題になった学生などは可愛いものだよ(藁 15 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/03/19(月) 14:55 >12 あんた、Tさんだね? ***************************** Tさんて俺を指していることは明らかでしょ。 そのすごい奴の悪口をいいそうなTといえば俺だけです。 でもね、あれは俺ではありません。 12の書き込み、学生と呼ばれている方に対する言葉、 誹謗に近いものがありはしないでしょうか? つまりその学生さんをばか学生とする評価に賛同しながらも、 しかしそれにも勝る人物がいるぞ、でしょう。 15の名無しさん、あなたは最近の書き込みを知っているようですが、 過去のことは見ていますか? そこで書かれている学生さんが誰であるかは想像がつきますが、 俺はその学生さんとは親しいとは言わずとも別の場所で交流があり、 ここでも論を交わしたことは数度あります。 俺がその学生さんに対して悪態を吐くような真似をするはずがないでしょう。 それにすごい奴の悪口を言うのに例の場所は不要です。 ふぉーらむはすでにその場と化していたのですから。 そんなことはどうでもいい。 俺は薄汚い人間で、例の場所も以前から見ていました。 書き込みだってずっと前からしています。 俺はあの掲示板のレベルで会話する人間だということです。 しかし、もし12が俺だったとして、だったらなんなんですか? 訴訟でも起こしますか? 例の場所には明日から書き込みするので、よろしく。 今日は腹が立って何もする気にならんわ(ワラ Time : 2001/ 3/20(火) 00:08:11
Name : きんたろう E-mail : Title : 違いますよ^^;; Comments: こんばんは、皆さん。 急に荒れてしまいましたね。 どうしてなのでしょうね?? パンダさん、その書き込みは私ではありません(;^_^A なかのさんもあのような書き込みをするとは信じられませんからきっと第三者だと 思います。 私はToshyさんをよく知っていますが、とてもいい人ですよv(^o^) ちなみに何度も書き込みをしてしまう事を「山びこの術」と言っています、笑 (名付け親^^) Time : 2001/ 3/20(火) 00:49:03
Name : Toshy E-mail : Title : 荒らして Comments: すみません。 Time : 2001/ 3/20(火) 01:43:50
Name : 債投動産 E-mail : Title : やっほ〜 Comments: 連続書き込み、どうしてああなったのかわかりません。 改行は、しているのですが、どうしてこうなるのかわかりません。 コンピュータを買い換えるべきなのかもしれませんが、どうして金がないのかわかりません。 武則天と持統天皇の関わりについては、直木孝次郎氏、上田正昭氏、梅原猛氏、上原和氏などの著書・論文に 詳述されていますのでご参照ください。自分はひまがないもので。 Time : 2001/ 3/20(火) 03:36:12
Name : パンダ E-mail : Title : 持統ー武則天について。。。 Comments: パンダです。債投動産さんへ。。。 私は、これらの諸氏のご意見ではなく、債投動産さん自身のご意見を、 うかがいたかったかったのですが。。。おひまがないのならばヤムナシで す。。。(笑い) 持統ー武則天の件はパスしますネ。 きんたたろうさんへ。。。 もちろんお二人のご意見とは思っていません(笑い)。 ただ私は。。。天武が周ではなく、漢を範とした理由を。。。天武から見 たであろう(?)両者の統治スタイルの差に求めたのですが、かなりハシ ョッタものでしたし、一つの可能性を申し上げただけのことですから、疑 問をもたれたのであればお答えしょうと思ったものです。 (天智をまきこんだので、余計にややこしくなったようですが。。。) 2CH(?)からの来訪者さんへ。。。 私は、アクセスしたこと(する気も)はありませんが、私達のことを憶測 しておられる(?)のならば、かなり的が外れています。 別にどうでも良いのですが、ご苦労様。。。と申し上げておきますネ。 Time : 2001/ 3/20(火) 09:23:13
Name : パンダ E-mail : Title : 「告発??」について。。。 Comments: パンダです。。。 私は、かねてより申し上げているとおり、歴史に関しては全くの門外漢で、 専門家はおろか研究家というようなご大層な人間ではありません。 (我々の仲間もすべてシロウトの横好き人間です。。。) 単に(主として)古代史に関して興味をもって、疑問を疑問として率直に 申し上げているだけのことですから、研究家と称される方から見れば、中 学生レベルだと思われるのも当然かも知れませんネ(笑い) もちろん記紀その他の史書や文学書、解説書については、出来るだけ目を とおしてきたつもりですが、所詮はシロウトのことですから限界がありま すし、どこまで理解できているかも分かりません。 ですから、シロウトなりに自分の思うところ(私見と憶測)を申し上げて、 皆さんにご批判をお願いしてきたつもりです。 また。。。仲間とともに得た見解や、その掲載した過去ログを再録はして いますが、専門書を丸写ししたことはありません。引用の場合はその旨注 釈を入れてきたつもりです。 研究者と称されるようなご立派な方から、私の疑問なり誤謬に対して具体 的かつ適切なご助言が頂けるならば、有り難いと思いますが、無知無識者 とは語るに足らずとされるのもやむを得ませんネ。どうぞご自由に(笑い) で。。。このHPにおいては、シロウトが一応の理由を添えて、私見と憶 測を述べることについて「告発」されるべきものなのでしょうか? 私は、そんな恐ろしいHPとは夢にも思っていなかったのですが(大笑) Time : 2001/ 3/20(火) 11:47:14
Name : なかの E-mail : Title : 何かまた荒れてますねえ・・ Comments: こんにちは、なかのです。 何だかこちらまで荒れてますが・・。 パンダさま> 十七条憲法はA→Cが最も可能性が高い・・、了解しました。 1) 天智・鎌足の逆クーデタがなければ・・について 「逆クーデター」とは乙巳の変のことでしょうか・・? あれは日本書紀では「天智・鎌足」が首謀者としていますが・・。 軽皇子つまり孝徳の存在があったのではとする大和氏の言い分から・・。  日本書紀で、乙巳の変の現場で中大兄が皇極に対して  「鞍作、天宗を尽し滅ぼして、日位を傾けんとす。豈天孫を以て鞍作に代えむや」  と「証言」している通り、  乙巳の変は2年前の上宮王家滅亡が伏線・・、というより、  上宮王家滅亡の結果、起こった事件であると考えられます。  山背大兄王一族、上宮王家を滅ぼしたのは日本書紀では  「蘇我臣入鹿、独り謀りて上宮王等を廃てて古人大兄を立てて天皇とせむ」  とし、蘇我入鹿の単独「犯行」とされています。  しかし藤原鎌足伝である「家伝(上)」には  「宗我入鹿、諸王子と共に謀りて、上宮太子の男山背大兄等を害せまく欲す」  とあり、「諸王子」と共謀したと記されています。  更に平安初期の「上宮聖徳太子伝補闕記」などでは「軽皇子」と明記されています。 これについて「家伝(上)」がウソをつく必然性がありません。 恐らく古人大兄も共謀仲間にいたことは間違いないでしょうが・・。 つまり軽皇子は上宮王家滅亡の重要メンバーであったと考えられます。 また日本書紀自体に記されているように蘇我入鹿の本名は「鞍作」ですが、 日本書紀ではなぜ「入鹿」と呼んでいるのでしょうか・・?  「続日本紀」慶雲4年4月15日の宣命に  難波大宮御宇掛モ畏キ天皇命ノ汝父藤原大臣ノ仕奉ケル状ヲバ  建内宿禰命ノ仕奉ケル事ト同事  とあり、「難波大宮御宇掛モ畏キ天皇命」とは孝徳天皇、汝は藤原不比等、  よって「父藤原大臣」は藤原鎌足であるので、つまり  孝徳天皇に藤原鎌足が建内宿禰のように仕えた  ということを示しています。 以上により疑問点が幾つかあります。 a 上宮王家滅亡に関する日本書紀の記述が事実ならば、   上宮王家は「計画通り」滅亡したのに   古人大兄はなぜ天皇にならなかったのでしょうか? b 藤原鎌足が最初は孝徳天皇と親しかったというのは   日本書紀にも書かれていますが、少なくとも乙巳の変の前の段階で   「哲主」が軽皇子ではなく中大兄であるとしているのに、   一方で「伝説の大臣」である「建内宿禰のように」孝徳天皇に仕えた   というのはどういうことなのでしょうか?   当時、「建内宿禰」がどのように見られていたのかにもよりますが、   書かれたのは日本書紀の編纂が始まっている頃です。 c そもそも天智・鎌足が主犯ならば、なぜ当時19歳くらいの天智ではなく、   軽皇子がクーデターの後に即位したのでしょうか・・?   なぜ「何もしていない」軽皇子を祭り上げたのでしょうか? それを天智の謀略というのならば、わざわざ有馬皇子という皇族を 自分からライバルに仕立て上げたのですか・・? 「策謀家」にしてはちょっとお粗末では・・? 日本書紀にある「古人大兄は兄であり、軽皇子は舅であり・・」を そのまま盲信しているのでは・・? 蘇我入鹿を殺したのは古人大兄を排除するのも目的ですよね・・? 現に孝徳の即位直後に古人大兄は吉野へ出奔しています。 更に、軽皇子が即位したのもさることながら、 なぜ皇極が「すぐに」退位したのでしょうか・・? やや若年かもしれませんが、両親が天皇で母が健在であり、 「鎌足という補佐役」もおり、天智でなく孝徳が即位した理由が分かりません。 藤原鎌足が孝徳天皇の朝廷に「建内宿禰のように」仕えていたと いうことは、少なくとも最初は天智ではなく、 孝徳天皇を支えていたと考えるべきでしょう。 そうでないと、「続日本紀」が天智でなく孝徳の名を出していることが 説明できません。天智を否定して孝徳を肯定する理由が分かりません。 そこで以下のように考えるのですが・・。 当時、皇室も蘇我氏も幾つかの派閥があり、 中でも「蘇我入鹿・古人大兄」グループが最も有力であり、 舒明の対抗馬でもあった「上宮王家・境部摩理勢」グループを まず軽皇子など他の派閥と共同で滅ぼした。 次いで軽皇子・鎌足が「蘇我入鹿・古人大兄」グループに対抗するため 姉の子で古人大兄に対抗心を抱く「葛城」や「大海人」グループや、 蘇我氏一族の倉山田石川麻呂、有力豪族の阿部氏を婚姻により味方にし、 「計画通り」軽皇子が勝ったため、「打ち合わせ通り」皇極が退位して、 首領格の軽皇子が即位し、それらグループの連合政権が誕生した。 その後に葛城と鎌足とが密接に結びつき、 やがて連合政権内での主導権争いで倉山田石川麻呂が失脚し、 皇極や鎌足を見方にした天智と対立した孝徳が孤立して干された・・。 つまり、幾つかの派閥のうち孤立したものから次々と粛清され、 結果的に天智・天武の2派閥が生き残り、 壬申の乱で天武が最終勝利者となったと考えるのが 単純明快だと思うのですが・・。 あと余談ですが、高向王と関係があると思われる高向氏の高向臣国押について 大和氏が面白い見解を示しています。  高向臣国押は蘇我氏と同族ですが、上宮王家滅亡時での入鹿の捕獲要請に対して  「天皇の宮を守るために奉仕しており、一個人に仕える者ではない」と  拒絶しています。  また乙巳の変でも蘇我蝦夷邸を警護していたものの、  「今日か明日には大臣も殺されるであろうし、戦っても空しい」  として真っ先に剣を放り出し弓矢を折って蝦夷邸から出てしまい、それに東漢氏が従い、  防御の術を失った蝦夷が邸宅に火を放ち自殺したというものです。 政変後の新政権で高向臣国押が刑部尚書という法務大臣のような役職に 就いていることからみて、高向臣国押は最初からクーデター派に属しており、 いわゆる「寝返り」(出典そのままです・・笑)ではないことの証左としています。 2) 誄について これは「用明系が重視されていない」というご指摘への答えです。 当麻氏が他氏に抜きん出て「特別視されていた」ということは無いかもしれませんが、 天武が舒明の子とすると天武とは縁が薄い筈の当麻氏が、それもパンダさんが 「壬申の乱では、多くの豪族・皇族が活躍しており、豈に当麻氏のみならんや」 と言われる当麻氏が、古来の名族であり壬申の乱で活躍した紀氏や大伴氏と 同等に扱われただけでも特筆すべきと思うのですが・・。 また押坂彦人大兄は天武の「母方の曾祖父」でもありますので・・。 3) 「真人」姓について パンダさんが言われているのは、臣籍に下った「分家」を真人にするに当たり、 欽明以降で主なものは敏達子難波皇子系と用明系しかなく、 用明系と同じ状況たりうる崇峻の子孫は見あたらず、ただの偶然に過ぎない、 というところかと思います。 まあ、そうでしょう。 4) 天智の復権・天武の矮小化について・・ これは「天武は漢の高祖に擬していた」ことと関係があります。 万葉集に「おおきみは神に・・」というものが幾つか見られます。 そこで「神」として扱われていたのは、天武・持統の夫婦と、天武の子供達です。 以前に私が「神武天皇」の名を出したのは単なるきまぐれではなく、 神に関わりの深い天皇として「神武」の名が出てきたのです。 ではそれらの「神」の継承はどうだったのでしょうか。 天武→持統、これはまだ分かります。では、持統→文武は? 文武は確かに天武の孫であり、祖母の持統は当時の最高権力者ですが、 他にも天武の「子」の世代が何人か残っています。 なぜ「子」でなく「孫」に伝えたのか? 言い換えれば、持統はどういう大義名分で文武に皇位を継承させたのか? 一応、文武の父の草壁が後継者と見られていたという説明ができたでしょう。 現にそれはスムーズにいかず、「懐風藻」にあるように、大友皇子の子の葛野王が 「我が国の法は神代より子孫相承けて皇位を継いできた。 兄弟が相続すれば乱が起きるであろう。天意は推測できないが、 人間関係から推測すれば後継者は自ずと決まっている。とやかく言うな」 というような発言をし、異論を言おうとした弓削皇子を抑えて 文武相続が決まったという話があります。 葛野王の発言内容ははっきり言っておかしい事だらけですが、 いずれにせよ持統に褒められ、式部卿に任じられたとされています。 では次に、文武から、元明、元正を経て、なぜ聖武に継承されたのでしょうか? 元明は聖武の祖母、元正は聖武の叔母に当たります。 言い換えれば、どういう大義名分で首皇子が皇太子に立てられたのか? これは、 a なぜ文武の幼少の子か? b なぜ他の皇子でなく藤原宮子の子か? ということです。 例えば当時、かの有名な長屋王という皇族がいました。 また天武の子としては新田部親王や舎人親王が健在でした。 彼らを差し置いて聖武が皇太子となり天皇として即位したのは・・? 時間がかかりそうなのでこれはまたにします。引いてしまいごめんなさい。 5) 皇太弟的な地位・・について 「最有力の皇位継承者であれば、天智が二人の娘を嫁するのも不思議ではない」・・ですか? 天智が2人の娘、それも長女と次女を嫁がせたのは、斉明天皇の治世の頃です。 その頃の「最有力の皇位継承者」は天智自身ではないのですか? 次に、「天智にとって最有力の後継者は他人では有り得ないだろう」→ 「実弟とするのが最も妥当ではないだろうか」の論理展開がよく分かりません。 当時幼いにせよ、大友という実の子がいましたけど・・。 また、「仮に異父兄であれば、天智は斉明没とともに何の遠慮呵責もなく、 誅殺していたと思います」ですが、 それはそういう状況になれば実弟でも同じではないのですか・・? 手段はともかくとして、実の兄弟を殺すことは珍しくないと思います。 天智の曾孫である桓武は皇位継承に絡み、異母弟と実弟を死に追いやっています。 天智は異母兄の古人大兄や舅の倉山田石川麻呂を平然と葬り去っています。 むしろ天智が天武を「何の遠慮呵責もなく誅殺」できなかったのは、 何らかの事情により、「吉備の当麻公や太宰府の栗隈王等の王族が 天武を支持し」ていたからでは・・? そして天智崩御の少し前に天武が吉野へ出奔したのは、「何の遠慮呵責もなく誅殺」 されるという身の危険を現実に感じたからではないのでしょうか・・? 6) 「天智」について まず、殷王朝最後の紂王の宝物に「天智」というものがあったことは 出典がすぐに分かりませんでしたが、引用記事は幾つか見たことがありますので 記録に残っていると思います。 当然ながら当時の知識人で知っている人はいたでしょう。 井沢先生が「逆説」2巻で、森鴎外の「帝謚考」を引用して 論じている内容は私は妥当だと思います。 「天命」を受けた周の文王の遺命により、 武王が「天命」を失った殷の紂王を討ち、天下を統べる・・。 一方、日本書紀の壬申紀では、事代主神と身狭神が高市県主許梅に神懸かりし、 「神武天皇の陵に馬と種々の武器を奉じよ」と託宣し、更に 「皇御孫命を守護する」とも託宣しています。 天武は「天命」ならぬ「神命」により決起し天皇になった・・? ここで井沢先生が「諡法」としているのは 「逸周書」の「諡法解」のことでしょうか・・? ここで「森鴎外は国史も中国史も知らないバカだから、そんなやつの 言ったことはいちいち聞いていられない」というのなら話は終わりですが・・、 碩学の森鴎外をそこまでバカにできる人がそうそういるとも思えません。 中国史で「殷周革命」と呼ばれるこの王朝交代劇ほど、 特に後世になってから色々な付加的意味合いを持たされて 論じられたものは無いのではないかと思います。 儒教の開祖が孔子なら、元祖は周公であり、 その周公が活躍したのは殷周革命の直後からです。 次に、天武が漢の高祖であるとするならば、当時の情勢を考えて、 天智は「暴虐」の秦始皇帝、大友はアホの二世皇帝というキャストになります。 (私は始皇帝を「暴虐」とは思っていませんが・・) 亡国の君主が歴史に散々悪口を言われるのは世の常ですが、 趙高という獅子身中の虫ともいえる悪宦官をのさばらせた二世皇帝が アホというのはある程度事実でしょう。 しかし実際に劉邦が秦を滅ぼした時には三世の代になっており、 しかも劉邦は三世を殺しませんでした。 そういう意味でも、「周の武王ではなく漢の高祖」というのは疑問があります。 (大友の子の葛野王は天武にとっても孫にあたる) また今まで盲点でしたが、天武=漢の高祖なら、持統=呂后となります。 この呂后は政治家としての業績はともかく、後世には非常に悪評が高く、 自分の死後すぐに、自分の子孫、そして身内が全て没落してしまいます。 天武はともかく、持統は「天武=漢の高祖」という図式を どう思っていたのでしょうか・・? あと上記と矛盾するようですが・・、 壬申の乱において天武が挙兵したのが6月辛酉とされています。 「辛酉」には易学による辛酉革命説があり、 遁甲に優れていたとされる天武自身も挙兵時に占いをしています。 天武が「辛酉」を意識していたことは間違いないでしょう。 本当ならば、年も合わせたかったのかもしれませんが、11年前の 天智称制を始めたとされる年(西暦661)に過ぎているので・・。 7) 天智称制について ・・ということで期待しています。(うまくつながりました?) 8) 封建制・郡県制・郡国制・・について 春秋戦国時代は、都市国家→中央集権国家への過渡期にありました。 戦国から統一秦の中央集権的な国家体制はよく知られていますが、 秦だけでなく、戦国時代の戦国七雄はいずれも中央集権的な 性格を程度の差こそあれ帯びていました。 比較的その要素が薄かったのが楚で、中央集権的な改革を行おうとした呉起が 貴族層の反発に遭い、殺されたことはよく知られています。 ただ始皇帝の頃にも、例えば呂氏春秋等で知られる呂不韋や 宰相となった李斯など、大きな国家体制の中での小諸侯は存在していました。 戦国四君などの「君」や「侯」というような存在です。 秦の時代は郡と県が置かれており、 王族が各地に封じられた形跡はありませんが・・。 春秋戦国時代の「封建制」とは何かという疑問もあります。 封建制度というと、だいたい A 中央から官吏を地方に派遣して監督するという郡県制度に   対立する概念で、「天子」の一族や功臣を領主に封じて   世襲を認め、一方で貢ぎ物と軍事援助を義務づける制度 B 唯物史観でいう中世、つまり農奴経済社会 (新編・東洋史辞典、東京創元社発行より要約) という観点から語られますが、ここではBはヨーロッパの史観であり 中国史には適用するのが難しいため、Aということで進めます。 形式的には春秋戦国時代は封建制でしたが、春秋期の最初の頃には、 既に諸侯が周王室に貢ぎ物を殆ど納めていないことが 春秋左氏伝などから読み取れます。 春秋時代は王室から諸侯が事実上自立し、 更に諸侯から貴族層である大夫が自立し、それが「下剋上」と呼ばれました。 この現象は土地制度の問題、鉄の普及、法治思想の発達など複合的要素があり、 ここでは脱線しますのであまり述べませんが・・。 さてそこで、日本での状況とを比較してみますと、 地方には豪族をそのまま追認するような「国造」という存在があり、 大化改新ではそれを否定するかのような政策が採られたとしています。 「大化改新」というものの実態が私にはよく分からないのですが・・。 イメージとしては、 中国:戦国期→統一秦→漢王朝 日本:改新前→新政権→天武王朝 という形で重なって見えるというのがパンダさんの言い分でしょうか。 ただ「改新前」の日本の状態は、むしろ漢楚抗争直前の 楚の義帝による僅かの間の統一時期のほうが似ているように思います。 あと最後に、私は_さんではありませんので・・。 債投動産さま> 残念ですが・・違います。 あと蝮ドリンク(笑)は飲んだことがありません。 中国史を「かじりかけた」状態の私ですが、「ちょいと試しに」の謎かけ・・、 私にもある程度分かりましたが・・。 漢の宣帝は皇室に属していながら民間から皇帝になった、 中国史上でも有数の名君として挙げられる君主であり、 また実質的に自分を推挙した霍光に最初は政治を「関白」させたということで、 そういう意味で臣下から天皇になり、藤原基経を関白にした 宇多天皇と重なるのでしょう。 厳密には両者とも、一旦皇族の資格を得るというステップを踏んでいます。 梁の武帝といえば暴君だらけの南北朝時代に数少ない名君の一人ですが、 仏教にのめり込んで「捨身」を行い朝臣が高額の金で「買い戻す」騒ぎがあり、 やたら仏寺を建てたことから聖武天皇ですか・・? 細かいところは色々ありますが、いいとしましょう。 明の世宗は分家筋から皇帝となり、実父の尊号問題で揉めにもめたということで、 ちょうど一橋家から将軍家を嗣いだ11代家斉の実父の一橋治済への 対応に振り回されていた松平定信を、ダブルパンチで さんざん苦しめた(?)閑院宮家出身の光格天皇・・? おっと・・、もう一人出ていた宋の仁宗の次の英宗もまた、 「濮議」の争いと呼ばれた尊号問題(実父が濮王)で揉めた方ですねえ。 宋の仁宗の頃といえば、詩人の蘇東坡や天才司馬光などがいて、 王安石らによる新旧対立があった頃ですが・・、 出題者が「答えが無い」としている以上、考えるのはやめます。 だめですよ、分かっている人だけで悦に入っていては・・。 ちゃんとみなさんに説明してくださいね。 あと、「『史記』や『漢書』が描く漢の高祖劉邦は・・」についてですが、 私は『史記』が漢の武帝を最高の天子、『漢書』は光武帝を最高の天子として 書かれていることが原因であると思います。 (こんなこと言うとまた怒られますが・・?) 漢の武帝の時と光武帝の時に、共に封禅が行われたとされていますが、 いずれもそれより前に行われた筈の秦始皇帝の封禅を軽視しています。 彼らにとって高祖劉邦は偉大な人物でしたが、「今上」を最高とする以上、 優れた人物であり創業者でありながら今上の方が優れていると表現するため、 そういう書き方がなされている(むろん史実に基づいてですが・・) のではないかと思います。 なお、以前に私のとまり木コーナーでの書き込みを読まれている方なら ご存じかもしれませんが、 この発想も私の独創ではありません。 「中国史を研究している者です」さま> はじめまして、なかのです。 (失礼ですが、もう少しお名前短くなりませんか・・?) あのような事を言われたら、私のことかと思ってしまうじゃないですか。 私は浅学ですが、他人の意見は他人の意見としてそれなりに 明らかにしているつもりですので・・。 MKさんにはかつて偉そうなことを言いましたが、 私も最近になって(5,6年ですが・・)中国史に 興味を強く持つようになりました。 私は今、「韓非子」に強い関心を抱いています。 色々教えていただきたいと思います。 あと、厳しいツッコミはパンダさん一人で充分ですので、(笑) お手柔らかに・・。 きんたろうさま> うまい命名です。(笑) Time : 2001/ 3/20(火) 14:57:42
Name : パンダ E-mail : Title : 山背大兄事件から二娘同婚まで。。。 Comments: パンダです。超長文のレス恐れ入ります。一時にはチョット無理ですので、 順次。。。 まず、「山背大兄事件(643)」について。。。その積極性の程度は分かりま せんが、私も古人大兄・軽王の関与は否定しきれないと思います。 古人は入鹿の出陣を止めたとされていますので、蝦夷の預かり知らぬ(つ まりは倉山田・高向等の蘇我一族が不統一な状態での)入鹿の強行に一抹 の不安を感じていたのかも知れません。 古人大兄が、山背大兄事件後に皇極に変わって即位しなかったのは、既に 申し上げたとおり年齢的な問題と、皇極の抵抗があったためだと思います。 皇極は古人即位となれば、葛城・(大海人)に皇位が回る可能性が極めて 薄くなくなりますので、当然抵抗するでしょう? 「続日本紀」慶雲4年4月15日の文武宣命は「孝徳が鎌足を建内宿禰同 様と賞揚して、地位・俸禄を賜わった。。。その例に準じて、自分も不比 等に俸禄を与える。。。」という内容ですね。 私は。。。孝徳が斉明・天智の傀儡天皇となるのに抵抗して、天智股肱の 鎌足を懐柔しようとして俸禄を与えた。。。のではないかと思います。 文武が、敢えて天智ではなく孝徳を持ち出したのは。。。天智と鎌足の関 係は衆知の事実ですから、鎌足が孝徳・天智を通じての功臣であった。。。 不比等も歴代天皇の功臣である。。。ことを強調するためではないでしょ うか? クーデター後に皇極が退位し孝徳が即位したのは、古人大兄の目が消えた ことと、葛城が若年だったためと思いますが、確かに皇極が頑張りとおす 手もあった筈で。。。在位中の山背事件(蘇我事件?)の責任を取った面が あったのかも知れません。 ただ孝徳は。。。敏達ー押坂大兄ー茅淳王ー孝徳 ですから、舒明の子で ある古人大兄に対抗するには継承順位が低いように思いますし、その末路 を見てもやはり皇極・天智の傀儡(暫定)的天皇であったような気がしま すが? 高向王と高向臣との関係は分かりません。壬生氏族として考えるならば、 高向臣氏よりも高向漢人氏と考えたほうが、妥当だと言う気がしますが? なお高向臣国押が入鹿に批判的(主導に消極的)であった。。。というの は、大和氏の指摘を待つまでもないと思います。(蝦夷も入鹿の所業を怒 っているんですから。。。) 2)誄について。。。 当麻氏は。。。当時珍しい臣籍降下した王族ですから、大伴氏や紀氏と 同等に取扱われても別段奇異とは思えませんが? 3)真人姓について。。。 結局。。。大和さんが何を問題とされたのか分かりませんが、これにて 決着させて頂きます。 4)天智の復権・天武の矮小化。。。 この問題の論点は、天武が漢皇子だとしたら。。。何故に舒明の子と偽 ったのか。。。でしたよね? チョット論点が理解できませんので、さらに良く読ませて頂きます。 5)二娘同婚。。。 「最有力の皇位継承者」は言うまでもありませんが、天智に次いでという 意味です。 天智は確かに実弟といえど、いざとなれば殺害を躊躇わなかったかもしれ ませんが、天皇の子でもない異父同弟が皇位を窺った場合。。。同父母の 実弟とは自ずから対応が異なると考えるのは可笑しいでしょうか? 吉備の当麻公や太宰府の栗隈王等の王族が天武を支持した。。。何らかの 事情を考えるならば。。。天武が舒明・斉明の実子であったからと考える のが、最も妥当ではないでしょうか? 取り敢えず以上です(続く。。。) Time : 2001/ 3/20(火) 22:38:29
Name : PS E-mail : Title : 別れの挨拶 Comments: パンダさんへ 以前に悪態をついたまま失礼するのはさすがに如何かと思い、 挨拶に来ました。 詳細はとまり木で記したとおりです。 いろいろ言われているようですが、頑張って下さい。 今はデビル役かもしれませんけど。 なかのさんも頑張って下さい。 Time : 2001/ 3/20(火) 22:40:24
Name : きんたろう E-mail : Title : 何鱈間鱈^^;; Comments: こんばんは、みなさん。 楽しくやりましょうね(^O^)W 債投動産さん、掲示板にそのまま書き込んでいくと書き込み画面上では改行されて いるかのように表示されていますが実は改行になっていないのです。 ですから、改行されたところでもう一度リターンキーを押してみてください。 これで改行されるはずですよv(^o^) ちなみに2度リターンキーを押すと行が一段下がりますから分かると思います。 パンダさん、有り難うございます、笑 >もちろんお二人のご意見とは思っていません(笑い)。 >ただ私は。。。天武が周ではなく、漢を範とした理由を。。。天武から見 >たであろう(?)両者の統治スタイルの差に求めたのですが、かなりハシ >ョッタものでしたし、一つの可能性を申し上げただけのことですから、疑 >問をもたれたのであればお答えしょうと思ったものです。 >(天智をまきこんだので、余計にややこしくなったようですが。。。) 前回の「封建制・郡県制・郡国制。。。」の意見は私はとても面白く感じていました。 続きをお願いしたかったのですが、レスが遅れてしまいました。 すみませんでした^^;; それは相変わらず「清和源氏の謎」に惑わされているからなんです...(;^_^A) 出来れば更に詳しく教えて欲しいと思っています。 よろしくお願いしますね^^ 私はどちらかと言えば紀伝体方式よりも社会の下部構造(マル経みたいですね^^;;) からアプローチしていく方法の方が好きなのです、笑 ところで周より漢を選んだ理由として「王」と「皇帝」を秤に掛けてみたのではな いかと思いました。 でもこれは単なる思いつきですけど...ね。 なかのさん、さすがに詳しいですね^^ 凄いと思いました。 とても参考になります。 私も中国史は好きなのですがほとんど覚えていないことに気がつきました、恥^^;; Time : 2001/ 3/20(火) 23:04:55
Name : グループK E-mail : Title : 天智諡号問題について。。。 Comments: 今日は。。。パンダ改めグループKです。 Kさん、Aさん、Sさん。。。その他かって意見を交換した方々の意見を随 時取りいれますので、グループ名に改称します。 さて、6)ですが。。。 我々は、森鴎外の見識を高く評価しています。もちろん奈良時代から平安時 代の貴族達の漢文能力についても同様です。 まず井沢さんは、 「森鴎外が暴いていた「天智」「天武」の名に隠された意味」において。。。 「私は「天智」の子孫である三船が、こんな曾祖父の名を恥ずかしめるよう な諡号を贈る筈がないと思っている」 「そう、実は「天智」という諡号は、極めて悪い名なのである・・・そのト リックを見破ったのは、明治の理事の文豪森鴎外である」 としておられます。さらに。。。 「天智」というのは、殷の紂王が最期まで身につけていた宝石の名前なので ある。これが何を意味しているか、もうおわかりだろう。つまり、「天智天 皇」は「殷の紂王」だと言っているのだ」 「そう言えば、本来なら「帝諡考」と書くべきところを、「帝謚考」と書い たのも、天皇家に憚ってのことかもしれない。「諡」と「謚」は本来は同じ 意味だったが、後に意味が分かれ(「謚」は「笑う」という意味)、「おく りな」の意味なら「諡」の方を書くのが正式だからだ。漢語に精通している 鴎外が、このあたりのことを間違うはずがないのである。」  P279 としておられます。しかし。。。 謚・・・@オクリナ。俗に諡に代用(一説に諡のほうが本字)A笑うさま。 諡・・・謚は俗用の字、もと別字、一説に謚が本字@オクリナ、死者に贈られ     る名。多くは生前の行為によってつける。諡号Aおくりなをつける B称号のこと。 (新明解漢和・・三省堂) 先ず、漢和辞典で見る限りどちらが「正式」とは言えないようですね? (我々の常識では「諡」が本字と思っていますが”漢語に精通している鴎外”  だからこそ、逆に「謚」を本字としたのかも知れません) 次ぎに、”大日本帝国陸軍軍医総監森林太郎”が”「謚」は「笑う」という 意味”で、”おそれ多くも「大元帥陛下」”の先祖の”諡号”を論じるでし ょうか?・・・これは天皇諡号を”笑い事”にすると言うことですよね。 私には一寸信じられません。やはり本字として「謚」を使った可能性が高い のではないでしょうか? 次に、肝心の部分ですが・・・「天智」が紂王の身を飾った玉の名であった としても、「天智=紂王」とは限らないでしょう?「帝謚考」で示されてい る「周書」の次の部分 「天智玉五在火中不銷、半天智玉武王則寶與同、注、天智玉之上天美者也」 ・・・とは、紂のような悪逆王の身を飾っても、共に亡びることなく武王の 宝となった。。。上天の美を保っ名玉である。。。という意味を示している と考えられるからです。さらに。。。 書、商書、仲X之誥、天乃錫王勇智、表正萬邦、纉禹旧服 淮南子、主術訓、人主者以天下之目視、以天下之耳聴、以天下之智慮・・ 韓非子、解老、聡明叡智天也、動静思慮人也、人也者、乗於天明以視、寄於        天聡以聴、託於天智以思慮 以上のように「紂王」どころか、最大級の佳語とし解説しています。 おそらくこれは「蘇我氏」による「天皇家滅亡」の危機を救った「天智」 の「聡明叡智」を称えた「諡号」だとするのが、妥当ではないでしょうか? また。。。井沢さんは、 「天智」の子孫である三船が、こんな曾祖父の名を恥ずかしめるような諡号 を贈る筈がないと思っている」としておられますね? ところが、奈良時代の天皇(所謂天武系天皇)の出自ですが。。。 父(系)    母(系)     配偶者 41   持統   天智天皇    蘇我遠智娘    天武天皇 42   文武    草壁皇子    元明天皇     藤原宮子           (天武・持統の息) 43   元明     天智天皇    蘇我姪娘     草壁皇子 44   元正     草壁皇子    元明天皇 45   聖武     文武天皇    藤原宮子     光明皇后 46   孝謙     聖武天皇    光明皇后 47   淳仁     舎人親王    当麻山背娘 つまり持統は天智の娘、文武は天智の母系孫、元明は天智の娘、元正は 天智の母系孫、聖武は天智の曾孫、孝謙/称徳は天智の玄孫です。 廃帝淳仁以外は何れも天智とは血統で繋がっています。 (この血縁関係を全面的に否定するならば別ですが・・・要するに淡海 三船と同じ立場ですね。) 彼等は自らの母系祖を悪逆紂王になぞらえさせるでしょうか? 私は、三船がこんな諡号を贈る筈がない。。。ならば、これらの天皇も こんな諡号を認める筈がない。。。と言うべきだと思いますが? ただ、諡号制定は書紀(元正720)選定以降のことですから、おそらく聖 武期以後さらに。。。懐風藻(孝謙751)以降でしょうね? もちろん「天智=紂王」であれば、光仁即位(770)以前の筈ですから (私はそうは思いません。光仁期以降の可能性もあると思います)。。。 この期間に敢えて「天智=紂王」とする必然性が理解出来ません。 さらに万々一、彼等がそれを認めたとしても49光仁、50桓武は一片の勅令 で天智の諡号(あるいは漢風諡号の廃止)を容易に変更出来る筈ですね。 何故自らの直系祖である天智を紂王になぞらえたまま放置するのでしょう か? そして、その子孫の天皇達は。。。自らの直系租を代々「紂王」として子 孫に伝え、諸外国に公表し、貴族達に教育し続けたというのでしょうか? また諡号作者を三船に擬した「釈日本紀」の著者や当時の貴族達は、この 諡号が「紂王」を意味することを忘れ果てたとでもいうのでしょうか? もし、かれらが「天智=紂王」であると考えていたのならば、三船に擬す る筈がない。。。のでしょう? さらに藤原氏は。。。その興隆の基礎を天智の股肱の臣であった鎌足にお いていますね。果たして鎌足の子孫達は、鎌足が紂王の如き悪逆王の腹心 であったとするでしょうか? 我々が。。。バカバカしい説と申し上げる所以です(笑い) Time : 2001/ 3/21(水) 00:25:20
Name : 債投動産 E-mail : Title : 無精者なので Comments: きんたろうさん、 ありがとうございました。要するにこの画面の出来具合がいまいちなのですね (わたしじゃなくて)。 なかのさん、 すみませんでした。でも悦に入ってるわけじゃないんです。とにかくキーボード 無精で(笑)。蝮酒でもあれば悦にも入れるんですが。「濮議」まで調べられた 由、脱帽です。 漢の宣帝の両一日二段跳び即位(庶人劉病已→陽武侯→即位)、梁の武帝の異常 なまでの仏教保護(多くの寺院建立、度重なる捨身)、明の世宗嘉靖帝の父への 贈帝号をめぐる明朝の大いざこざ(実父興献王祐杭を「皇考」としたため、従兄弟 で前代の武宗正徳帝、伯父で前々代の孝宗弘治帝が皇統から外れてしまった「大礼 の議」)は、それぞれ宇多天皇の両一日三段跳び践祚(臣下源定省→親王宣下→ 立太子→践祚)、聖武天皇の異常なまでの仏教保護(多くの寺院建立、度重なる 放浪)、光格天皇の父への贈太上天皇号をめぐる朝幕間のいざこざ(実父閑院宮 典仁親王を「上皇」とすることを認めてしまうと、将軍実父一橋治済を「大御所」 とすることも認ざるを得なくなるため、老中松平定信がガンと反対した「尊号 事件」)のおり、当事者によって故事先例として引き合いに出された出来事です。 ちなみに聖武天皇は梁の武帝を「聖天子」としてあがめており、「聖武」の諡号が これを反映していることが指摘されています。典仁親王には明治17年に晴れて 「慶光天皇」の追号が贈られました。 それから 持統天皇=呂太后という構図、卓見です。実はこのことが持統天皇が 武則天を意識的に範としていたという説の傍証になっています。持統天皇が息子 草壁皇子のライバル大津皇子を謀殺した事件は、呂太后が息子劉盈のライバル だった趙王劉如意と戚夫人を謀殺した事件を強く思い出させるものであったため、 その連想否定に躍起になったというもの。当時の常識では呂太后=悪女という のが一般的だったためです。実際には武則天もかなり冷酷な仕打ちを身内にして いますが、それが公になったのは後代のことです。 中国史を研究している者ですさん、 どうかおてやわらかに… パンダさん、 いろいろと書かれているようですが、気になさらないことです。ただ中国史を 研究している者ですさんは、決して研究者と自称したり、私見と憶測を述べる ことについてを告発してはいませんよ。人の異なった意見にもそれなりの敬意 を払うべきだというのが趣旨だと思うのですが… Time : 2001/ 3/21(水) 01:52:22
Name : なかの E-mail : Title : 無器用ですので・・(何かのパクリ?) Comments: おはようございます、なかのです。 パンダさま改めグループKさま> 改名なさったのですか・・? また突然に・・? 私は忘れっぽいたちなもので、返事をしたかどうか忘れてしまいそうなので・・、 超長文の件、御容赦願います。 返事は、今度は細切れに、改めてしたいと思いますが、 一つだけ細かい所のツッコミを・・。 47代淳仁の父の舎人親王は、母が天智の娘の新田部親王ですので、 天智の血を引いている筈ですが・・。 どこか「らしくない」ですね・・。(皮肉ではなく) しかし・・、以前にPonyaさんととまり木で、半分冗談交じりに 「パンダ・プロジェクトチーム」なんて語り合ったことがありますが、 まさか本当だったとは・・。 その時にPonyaさんが「意思統一等が出来るのか?」というような 心配をなさっていましたが、どうも杞憂だったようですね。 ただ1カ所、パンダさん特有の「。。。」が「・・・」になっていましたが・・。 なお、私は個人経営です。(笑) 最後に、「_」さんの意見ですが、「中国史を研究している者です」さんの とまり木での投稿を見て考えたのですが、 どなたかがパンダさんを揶揄する目的でオイタをしたものと思います。 お気になさらないよう・・。 債投動産さま> ご丁寧なレスありがとうございました。 持統=呂后に関するご意見、参考にさせていただきます。 きんたろうさま> レスありがとうございました。 中華の「天子」の称号については、また次の機会に・・。 Time : 2001/ 3/21(水) 08:19:03
Name : グループK E-mail : Title : 舎人親王について深謝します Comments: なかのさん、きんたろうさん、債投動産さん、今日は・・・グループKです。 なかのさん・・・ >>47代淳仁の父の舎人親王は、母が天智の娘の新田部親王ですので、天智の血 >>を引いている筈ですが・・。 フェアなご指摘ありがとうございます。猿も筆の誤りでした。<(_ _)>ペコ お蔭様で天智系が揃い踏みとなりましたネ。 なお今後は、意思統一には気を付けるつもりですが、変な部分があればご指摘 願います。 なお、天武の矮小化・・・やはり良く分かりません。私の疑問は・・・何故に 天武(漢皇子)が父系を詐称しなければならなかったか? ですので。 きんたろうさん・・・ >>出来れば更に詳しく教えて欲しいと思っています。よろしくお願いしますね 概ね、なかのさんのご理解で良いと思います。(^0^)" ただ、ただ「改新前」の日本の状態に関する認識は、少し違っているかも知れ ません。(^^;) ああ、それから・・・ウータさん(?)か研究者さん・・・に伺います。 「どこのくに? 」は貴方ではないのですね? Time : 2001/ 3/21(水) 23:29:42
Name : 債投動産 E-mail : Title : ひまだったものですから Comments: 天武朝の皇位継承と天皇の諡号についてが論じられているので、柄にもなく 腰をいれて書き込ませていただくことにしました。祭日で珍しくひまになった ものですから(笑)。 天皇家の血への執念には、凄まじいものを感じます。現行の皇室典範を見ても、 「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とくどくどしく書か れていますが、称徳女帝と道鏡の一件が1230年も経った今日にも尾を引いて いるのかと、つぐづく考えさせられてしまいます。 さて、この天皇家の血への執念を一層複雑にしているものに、御落胤の影響と いう問題があります。 一例をあげるなら、平清盛。清盛の異常な昇進と権力の掌握は、彼が実際に 白河法皇の御落胤であったか、または少なくとも白河法皇の御落胤に違いない と誰もが思っていたという背景を考慮しなければ、納得の行く説明ができる ものではありません。 しかし清盛に限らず、こと御落胤の問題となると、今日の日本史では「秀吉が 晩年“皇胤”や“日輪の子”を称したのと同様に、清盛が自己の権威を高める ために捏造したでたらめにすぎない」として、これに何らの研究価値も見い 出しません。でもここで問題なのは、清盛が果たして本当に皇胤だったのか 否かという点ではなく、むしろ彼が「皇胤だということになっていた」という ことにあるのです。そういうことになっていた、あるいは誰もがそう思って いたからこそ、故事先例が絶対価値だった当時の朝廷でさえも、武家の清盛の 太政大臣任官や、娘徳子の中宮冊立などといった破天荒な事件を、渋々ながら も承服せざるを得なかったのでしょう。 光明皇后。それまでは皇族からしか出ないことになっていた皇后、それも 不測の際には中継ぎの天皇として即位する例さえあった皇后という位に、 藤原安宿媛はどうして人臣から初めて冊立されたのか。 それは安宿媛が、元明朝の権力者、藤原不比等の娘だったからに他ならない というのが一般的な説明です。しかし多くの史家によって指摘されるまでも なく、この説は納得のゆく説明になっていません。もし権力者の娘が皇后に なれたのなら、不比等などとは比べものにならないような権力を持ち、数々の 皇妃を歴代の天皇に入れていた蘇我氏からも、多くの皇后が出ていなければ ならないことになるからです。 藤原不比等に関しては、もうひとつの謎があります。不比等は、天智天皇と 表裏一体となって近江朝の屋台骨を支えていた鎌足の子でありながら、その 近江朝を滅ぼして天下をもぎ取った飛鳥浄御原朝で、どうしてあそこまで のしあがることができたのかという疑問です。 こうした謎を解く一つのカギが、現在では異説として相手にされていない、 不比等は天智天皇の御落胤だったのではないかという説です。不比等は皇胤 だった、あるいは皇胤だということになっていた。少なくとも持統天皇や 元明天皇は不比等が自分たちの“弟分”だと考えていた。だからこそ不比等の 後を継いだ藤原四兄弟は、安宿媛の“血統”をテコに立后を正当化できたの ではないか。 この不比等皇胤説はまた、持統天皇や元明天皇が持っていたと思われる己の 血統に対する執念にも、従来とは異なった解釈を与えるものです。いわゆる 『不改常典』を盾に取った当時の変則的な皇位の継承法には、天武系の血を 天智系の血と藤原氏の血で薄めようとしているとしか思えないような露骨な 意図が見いだせ、そこには、まるで持統天皇や元明天皇が天武天皇の血統の 正統性を認めてはいなかったような意思が窺えるのです。天武天皇が誰だった のかは古代史の永遠の謎の一つですが、持統天皇や元明天皇は、不比等の方が 天武天皇よりも“毛並みが良い”と考ていたのではないかという仮設は、 十分に考証が可能なものだと思われます。 藤原四兄弟は、安宿媛の立后に反対した長屋王を強引に謀殺しますが、その 理由としては、長屋王が声高な反藤原勢力の旗手であったというのが従来の 説明です。しかしこの長屋王の変も、血への執念という角度から見ると、別の 要因が浮び上ってきます。長屋王抹殺の必要性は、むしろ聖武天皇と藤原氏が 持っていた己の血統に対するジレンマが最大の要因であったと考える方が、 事件の背景を容易に説明できるのです。 つまり聖武天皇と安宿媛の間に生まれた子(当時は阿倍内親王ただ一人)は、 長屋王とその正妻の吉備内親王との間に生まれた嫡出の四王(膳夫王、桑田王、 葛木王、鉤取王)に、“天智天皇の血をより濃く引く”という点では劣って しまうのです。長屋王の母である御名部皇女と、吉備内親王の母である元明 天皇は、共に天智天皇の娘で同母姉妹なのですから、この嫡出四王は貴種中の 貴種です。仮に不比等が天智天皇の御落胤で、したがって安宿媛が天智系の 血を引いていたとしても、阿倍内親王の血統はこの四王に遠く及ばないのです。 実際、元明天皇は娘の元正天皇に譲位した際に、この長屋王嫡出の四王に異例 の「皇孫待遇の勅」を下しています。皇孫待遇ということは、つまり「おまえ たちは自分から見れば孫なのだから、聖武天皇と同格だよ」ということを いちいち公言しているわけで、これは注目すべきことです。また長屋王の変で 聖武天皇が死を賜わったのは、長屋王プラスこの嫡出四王で、庶出の他の王 には罪が及んでいない事実にも注目すべきです。 己の血統に対する聖武天皇と藤原氏のコンプレックスが、長屋王の変の背後に は介在していたのではないか。いずれにしても、不比等や長屋王を単に政治家 としてしか捉えず、事件を政局の流れのみから解釈しようとする従来の手法 では説明しきれない謎の残るこの長屋王の変にも、血統の執念という見方は 新しい解釈の機会をもたらすものではないでしょうか。 さて、諡号についての問題には、自分も以前から大きな興味を持っていました。 というのも、実際に「持統天皇」とか「継体天皇」と打つ時、「持統」や 「継体」という固有名詞が単語登録されていない限り、いったん「保持血統」 とか「継ぐ体」とでも打って、そこから不要な字を消去しなければならない わけで、そこでは無意識のうちに「保持血統」やら「継ぐ体」と考えているの です。こうした諡号に込められた暗示は、その漢字を素直に読む時と、今日の われわれにもはっきりと伝わるものなのだと、今さらながらに感心してしまう のです。 天皇の諡号や追号に関する研究もまた、現在の日本史であまりにも軽く扱われ すぎている問題だと思います。 近世以降の天皇の追号は、実際に誰がどのようにして選ばれたのだろうかと いう問題については、大きな関心をひかれます。というのも、16世紀後半の 正親町天皇を最後に、以後ほぼ100年間にわたって、天皇の追号にはどうも “パッとしない”ものが続くのです。 「正親町」の後の「後陽成」と「後水尾」は、藤原基経によって摂関政治に 先鞭がつけられた当時の陽成天皇の諡号と水尾帝(清和天皇)の追号に因む ものです。また「後光明」は足利尊氏によって便宜上擁立された北朝の光明 天皇の追号に因むもの、「後西」は承和の変で息子の恒貞親王が廃太子となり 皇統から外れた西院帝(淳和天皇)の追号に因むもの、霊元に至っては遥か 上代の事蹟も定かではない孝霊天皇と孝元天皇の二方の諡号を引っ付けたもの です。 こうした“パッとしない”追号は、この一世紀が武家政権の最終的な確立期に あたることを無視しては説明できません。実際この後に、徳川政権が不動の ものになるや、天皇の追号も「東山」、「中御門」、「桜町」、「桃園」、「後桜町」、 「後桃園」と、より“まともな”ものに戻り、さらに国学や尊皇思想が盛んに なる19世紀には、ついに「光格」、「仁孝」、「孝明」といった、宇多天皇以来 850年も絶えていた純粋な漢風諡号が復活することになります。 この一連の“パッとしない”追号の中に、比較的立派なものとして際立って いるのが、後水尾天皇の次の「明正」という追号です。これは元明天皇と 元正天皇という二代の女帝の諡号から一字ずつを採ったもので、この二方の 事績を考慮すると、ケチのつけようがありません。明正天皇は称徳天皇以来 860年をぶりに復活した女帝で、それも未婚の内親王であったわけですから、 「後孝謙」といった追号も候補に上ったかもしれませんが、あえてその前の 二方の女帝の諡号に因んだのには、やはり徳川秀忠の孫にあたるこの女帝には、 あまり印象の悪い追号は贈れないという意思が働いたものと考えられます。 なにしろ称徳天皇はいわゆる天武朝を断絶させた責任者であり、また彼女の 後に立った光仁天皇の子の桓武天皇は、その天武朝の存在自体を否定するかの ように新王朝を標榜したわけですから、天皇家にとってこの「孝謙・称徳」 ほど響きの悪い諡号はないでしょう。 ところがある時、室町時代の「称光」天皇の追号は、この皇統の断絶と移行を 連想させる「称徳」と「光仁」から一字ずつを採ったものだということに突然 気が付いて、唖然としたのです。確かに称光天皇には皇子がなく、その後には 曾祖父同士が兄弟だったという遠縁の伏見宮彦仁親王(後花園天皇)が立った ため、皇統は移行しています。しかしこの追号がよりによって「称徳」と 「光仁」に因んでいる以上、そこに暗示されるのは単なる皇統の“移行”では なく“断絶と移行”であり、それも“ここで断絶したそれまでの皇統の正統 性を否定する”意思を含んだものなのではないか、という疑問が浮かび上がっ てくるのです。 しかし称光天皇の父といえば、南北朝の合一によってほぼ60年振りに唯一人 天皇となった、後小松天皇です。後小松天皇の祖父である後光厳天皇が神器 授受も譲国もなしに即位した正統性に問題のある天皇であったにしても、 後小松天皇自身は南朝の後亀山天皇から正式に神器と譲国を受けているわけ ですから、その正統性には文句がつけられないはずです。ではこの「称光」が 暗示する、前の皇統の正統性の否定とは、一体何に拠ったものなのでしょうか。 これに納得の行く説明を与えるのが、後小松天皇の実の父は足利義満だった という、後小松逆御落胤説です。後小松天皇の母の(後円融天皇の女御) 三条厳子と義満の密通は、当時の記録にもおおっぴらに書かれるぐらいの 公然の秘密で、したがって少なくとも当時の廷臣が、後小松天皇は義満胤 だったと考えていたことは事実として存在します。だからこそ晴れて皇統が 血統の正しい伏見宮系に移った際に、武家の血で濁った前二代の天皇を否定し、 正統な王朝が再興された事を告げる意思をもって、この「称光」の追号は選ば れたのではないでしょうか。 血統への執念と御落胤の影響。血の原理は歴史上のさまざまな事件に、従来 とは異なった角度からの説明を与えるものだと思います。 Time : 2001/ 3/22(木) 08:14:52
Name : バークレオ E-mail : Title : 突然質問ですが Comments:  初めて利用させていただきます。いつも楽しく拝見しています。年末から気になってしょうがないことがあり、 ちょっと議論から外れているかもしれませんが、質問させていただきます。  宮元健次著『建築家秀吉』の中で、著者は秀吉が京都を聚楽第の城下町として整備するために構築した「お土 居」のモデルは平壌だと腰が引けた表現ながら主張しています。 いわく「朝鮮半島での数多くの戦闘の中で、特に秀吉が苦戦したのが、平壌の戦いといわれ、(中略)秀吉は自 ら攻めあぐねたこの城と城門を、同時に手がけていた京都の改造に応用しようとは思わなかっただろうか」。 私は秀吉自身が半島に渡海したとは聞いたことが無いし、京都の「お土居」のモデルは、大阪城総構えと同様に、 時期的にみても後北条氏の小田原の総構えだとしか考えられません。 もうひとつ、著者宮本氏は、ヨーロッパかぶれの秀吉は大阪城内にサウナをつくったとしていますが、私は「逆 説の日本史」で知ったのですが、室町時代まで日本で『風呂』といえばスチームバスのことだったとあります。 西本願寺に現存する風呂(著者宮元氏はこれをヨーロッパのサウナとしています)はヨーロッパのサウナなので しょうか。日本古来の『風呂』の発展型なのでしょうか。 『逆説の日本史』が織豊時代になったら解決するのだろうけど、まだかかりそうだし我慢しきれず質問します。 Time : 2001/ 3/22(木) 16:40:12
Name : バークレオ E-mail : Title : 荒らしじゃないです Comments: ひぇー。か、改行が。すいません。 決して荒らしではございません。 板を汚したことお詫び申し上げます。 Time : 2001/ 3/22(木) 16:45:46
Name : グループ K E-mail : Title : 諡号についてのお願いです。 Comments: みなさん今日は。グループ Kです。 債投動産さまにお願いですが、いま話題にしている天智様・天武様の 諡号について、特に天智様が「紂王」で天武様が「武王」とされる井 沢先生のご意見に関して、コメントしていただけないでしょうか? おひまなときで結構ですから、よろしくお願いします。 Time : 2001/ 3/22(木) 18:20:38
Name : nino E-mail : Title : バークレオさんへ しょうもないうんちく Comments: 昔むかし、日本人は風呂に入る時 一枚の布を持ち歩いたという 決して前を隠す為ではなく、座る時にしりの下に敷いたという 「風呂敷」の語源でした。。。 Time : 2001/ 3/22(木) 22:19:01
Name : なかの E-mail : Title : 明日は休ませていただきます(あさっても・・?) Comments: こんばんは、なかのです。 昨日から風邪気味で、頭がグラグラしており、 考えがうまくまとまりません。 といって、また返事を待たせるのもどうかと思い、 途中経過ですが送ります。 グループKさま> 前回は失礼しました。未だにしっくり来ませんが・・。 本来は「やり残し」の「天武矮小化・・」を先にすべきところですが、 債投動産さんから興味深い見解が出されたので、現在修正中です。 申し訳ありませんが、今暫くご猶予を・・。 また「天智」「天武」ですが・・、 私はグループKさんの反論を受けて2つのことを考えました。 「天智」が悪名ならなぜ後世まで使われたのかという内容は、 言われてみればごもっともな反論です。 そこで、 @ 表は佳名だが「天智=紂王」を隠し味にした(井沢先生説+アルファ)     →最初は「天智=紂王」のつもりだったのだが      時間が経過し、天武系が「革命王朝」であるという意識が薄れて      「天智=紂王」の構図がわからなくなった A 天智の怨霊を恐れた(「徳」の変形版) の2つを考えてみました。 あと、番号をつけると紛らわしくなりますので・・ A 上宮王家皆殺し事件について・・ 軽皇子が「皇子」と呼ばれるのは舒明が田村皇子と呼ばれるのと 同じで、後に皇位についたためですので、言われる通り、 以下軽王とします。(文武とも混同しそうですし・・) 姉の皇極が即位するまでは、 確かに軽王は単なる皇族の一人だったでしょうが、 中天皇的とはいえ、姉の即位により立場は変わったと思います。 無論その段階での最有力は古人大兄と山背大兄、 あと16歳くらいと幼少ながら葛城でしょうか。 (天武が天智の実弟でも異父兄でもこの時点では対象外でしょう) 姉が即位したことにより軽王に野望が生じ、更に鎌足という 「マキャベリスト」の参謀がついていたとするならば・・? まず古人大兄=蝦夷・入鹿と山背大兄=境部摩理勢とを衝突させ、 漁夫の利を狙うかもしくは自分も加担して勝者に恩を着せるかして、 その間に自分の勢力拡大を目論む・・くらいのことは考えるでしょう。 (後世の人間だから考えられるのかもしれませんが・・) 結果的に山背大兄=境部ラインは消滅しましたが、 代わりに軽=倉山田石川麻呂ラインが第二勢力となり、 引き続き緊張があったため古人大兄が天皇にはなれなかった・・ というより、蝦夷・入鹿がごり押しできなかった・・。 皇極の抵抗は充分に考えられますが、 そもそも皇極が即位したのはなぜでしょうか・・? 古人・山背・葛城といった天皇候補が複数いたためでは・・? 古人大兄は生年・没年齢がわからないため当時の年齢も分かりませんが、 父の舒明の年齢、外祖父の蘇我馬子の世代などを考えると 少なくとも20代半ば、高ければ30代であった可能性があると思います。 皇極がなるべくして皇位についたとは考えにくいので、 それだけでどこまで抵抗できたかが疑問です。 古人大兄が上宮王家滅亡の実行を止めたのではないかというのは、 その根拠は分かりませんが、考えられると思います。 軽王(孝徳)と鎌足の関係については、 軽王から「賜った」とされる車持夫人との間に生まれた 「御落胤」定恵その他からある程度考えられます。 絶妙のタイミングですが・・。(笑)  640    有馬皇子誕生  642〜3  この頃、軽王が車持夫人を鎌足に賜る(?)  643    上宮王家滅亡         定恵誕生   (この前後関係は不明)  645    乙巳の変、皇極退位し軽王即位(孝徳)  649 3月 左大臣阿部倉梯麻呂没         右大臣倉山田石川麻呂殺される  653 5月 国博士の旻法師が倒れ、孝徳が見舞いに行く      5月 鎌足の子定恵(11歳)が学問僧として唐へ      6月 旻法師没         葛城が皇極上皇、間人らを伴い難波を去って飛鳥へ  654    孝徳崩御、斉明践祚  658    有馬皇子の乱  661    斉明崩御、「天智称制」はじまる  665 2月 間人崩御、天智即位      9月 定恵(23歳)帰国      12月 定恵死去(殺された?) 定恵の暗殺説はこれまでに何人かが述べられています。 確かに、この時期に帰国した「孝徳の御落胤」は 天智にとっても鎌足にとっても邪魔以外の何者でもないですが、 ただ「タイミングがいい」ということでの論説であり、 ここでは「?」付きで載せることとします。 また旻法師は軽王と鎌足との共通の師であり、 死の床に倒れた旻法師を見舞った孝徳が、 師が亡くなったら孤独になってしまうと泣いたとされています。 大和氏は「旻法師が倒れ、死去したことが 鎌足に孝徳との訣別を決意させた」とし、 「御落胤」定恵の唐への出発がその意思表示としています。 定恵は戸籍上は鎌足の長男で、当時、次男の不比等はまだ7、8歳という 子供ですから、それなりの覚悟があったと思います。 いずれにせよ、車持夫人を「賜った」ことと定恵の寿命とを考えると、 乙巳の変より前から軽王と鎌足とは親しい間柄であったと推測できます。 一方で葛城と鎌足との出会いはというと有名な物語がありますが、 この物語に似たような話は同時期の朝鮮にもあり、 日本書紀作家による虚構ではないかというのが一般的な見方です。 すると、乙巳の変より前に葛城と鎌足とが親しかったとする物証が 実ははっきりしていません。 その頃に軽王と鎌足とは親しかったと思われるため、 軽王の甥に当たる葛城とは面識はあったかもしれませんが・・。 なお、この派閥争いについて、大和氏は「百済派」と「新羅派」の 争いとしており、私は現段階でかなり魅力を感じていますが、 整理が出来ていないので少し考えてからにしたいと思います。 B 「天智=紂王」への反論について・・・その1:「天智」の出典 まずは・・ 『逆説』2巻の234頁以下で井沢先生が言わんとしているのは、 「天智」の語自体が悪い意味を持つということではなく、 「天智」という言葉から「紂王」が連想される、 つまり天智という名の天皇は紂王の再来であるという暗喩では ないのだろうかということではないのですか・・? また、「さらに。。。」以下は、それぞれ ・書経の仲※之誥、商王朝の初代の成湯が桀王を放逐したことを  疑問に思った時に、大臣の仲※がその正当性を論じた時のもの  (※の字はマムシの意味、表示不能) ・淮南子の主術訓14の冒頭 ・韓非子の解老編、つまり韓非が老子について論じている内容 からの引用と思われます。 「天智」は「最大級の佳語」であるかもしれませんが、 『逆説』ではその直前に「徳」の字のついた諡号をもつ 天皇の議論がなされていますので、 むしろ井沢先生のレトリックの術中にハマっている・・?。 なお、森鴎外氏が引用している『周書』についてですが・・。 普通『周書』というと「書」つまり『書経』の一部ですが、 『書経』の「周書」には「世俘」という編は無く、 『周書』ではなく『逸周書』のことを指しているのかと思います。 ところが『逸周書』は「専門家」しか見ることが出来ないようで、 専門外の私としては以前からかなり不満があり、 また内容を確認できないので何とも言えないのですが、 これは逆に言うと一般の人は知らないということです。 殷周革命の最大のハイライトでもある牧野の戦いについては 『史記』(殷本紀・周本紀)や『淮南子』『呂氏春秋』その他に 記されていますが、 大半は、武王が王室の貯蔵庫を開いたというような記述のみであり、 紂王が宝石をまぶした衣類を纏って焼身自殺したとしているのは 『史記』と『逸周書』だけだそうです。 そして『史記』には「天智」という言葉は載せられていません。 つまり「天智」が紂王の宝珠の名前であったことを知っているのは、 −現在の状況からの推測になりますが− ごく一部の知識人だけだったのではないでしょうか・・? このあたり、「中国史を研究している者です」さんあたりに 解説していただきたいところです。 B 「諡」字について 私は今、パソコンの日本語変換でAtokを使っていますが、 Atokでは「諡」も「謚」も「シ」「おくりな」という読みで、 これらは互いに異体字であるとしています。 私も白川静氏の『字通』を調べてみましたが・・、 ここに表記できない文字が使われているため、ここへの転記はやめておきますが、 「諡」と「謚」の違いについては特に記されていませんでした。 C 「天智=紂王」への反論・・その2:「天智」は誰が名付けたのか・・? 以前に些細なツッコミをさせてもらいましたが、 確かに持統以降の天皇は全て天智の血を引いています。 まずは冒頭@説から・・。 ここで改めて井沢先生の説を整理すると・・、  @ 「天智」という語は「天智玉」を通じて「殷の紂王」をイメージさせる  A 「天武」は「周の武王」をイメージさせる  B 周の武王は紂王を倒し、「殷周革命」を果たした  C 天武は天智系の大友を倒して即位し、「新王朝樹立」の    ように本人も周囲も見なしていた  D 「天智=紂王」と「天武=周の武王」とは殷周革命を念頭に置いての    セットの諡号ではないか? というところだと思うのですが、@・A・B・C→Dというのは 論理的展開としておかしくはないと思います。 またBは歴史的事実として認知されており、Cも 『万葉集』などに状況証拠が見られます。 そこで、この説の問題点は・・というと、  α ご指摘にありましたが、「天智」が「紂王」のイメージならば    子孫の天皇たちがそれを容認・黙認したのは何故か?    (つまり@の検証でもあります)  β 「天武」=「周の武王」か?(つまりAの検証)  γ 「天智」は誰が「最初に」名付けたのか? というところでしょう。 βについては、実際には詳細な検討が必要であり、 古代中国史が密接に関わってきますので、ここでは省略しますが、 「周の現実の初代天子」である「武王」であり、「天武」と重なると いうことでよろしいのではないかと思います。 γは最終的に求められる答えでしょう。 αについてのポイントは、  ●1 「天智」とは普通には佳名である一方で、     子孫たちは「天智=紂王」という構図に気づいたか?  ●2 一般に、先祖が不祥の諡号を負っているという時に     諡号を変える(変えられる)ものだろうか? というところでしょう。 ●1の「天智=紂王」という構図ですが、これは天武以下が 「革命王朝」であるという前提があってのものです。 ではもし、日本書紀の記述通りに天智→天武の継承が 革命的なものではなく正当なものだとしたら、 「天智」という言葉が紂王に関連して古書に出ていても、 「単なる偶然でショ」で片づけられてしまうのがオチです。 長くなるので後回しにします。 ●2は具体的事例が思いつきませんでした。 そもそも日本で天皇が別の天皇の母方の姻族であるという ケース自体、元明・元正以降特に記憶にありませんし。 中国でそれに類する例といえば・・、 戦国の魏王の孫娘が全くの偶然で漢の劉邦の夫人の一人となり、 後に漢の文帝の母となったということくらいしか思いつきません。 しかし魏王室に特別な配慮があったようには見えません。 強いて言えば、劉邦は魏の信陵君こと魏無忌と縁があり、 信陵君を厚く祀ったというくらいでしょう。 他にもあるかどうか、あちこち探してみます。 あと冒頭Aについては、当時は 「怨霊をなす天皇に「徳」字を贈る」というパターンが 確立しておらず、現段階で「蓋然性」の話になってしまいます。 それでも「なぜ天智か」という議論は出てくるでしょうが・・。 ●1の続き、そして「天武の矮小化」の一部でもありますが・・ 以下のポイントについての評価を各時点で考えます。   @乙巳の変の評価   A天智の評価   B壬申の乱の評価   C天武の評価 ケース1:天智の時代   @蘇我氏本家を滅ぼし古人を排除した政治的クーデター   A改革政権の推進者、しかし地方に不満少なからず ケース2:天武の時代   @?   A秦始皇帝に類比される「暴虐」な君主   B天智・大友までの「旧王朝」を倒して「新天子」が立った聖戦   C漢の劉邦に類比される新王朝の開祖、「おおきみは神」 ケース3:日本書紀作成開始時   @?   A?   B?   C? ケース4:日本書紀完成時   @葛城と鎌足の活躍により「逆臣」蘇我入鹿が滅び皇統が守られる   A鎌足の補佐により大化改新を遂行した英主、    「天命開別天皇」つまり新王朝の創立者   B本来皇統を嗣ぐべき者が嗣ぐべきでない者を討った戦い   C東宮大皇弟(天智の正統な後継者)であり、    「天淳中原瀛真人天皇」つまり後漢の光武帝のような「再興者」 少なくとも、自らを漢の高祖に擬したという天武の頃には、    「天智=秦始皇帝?」に対する「天武=漢の高祖」 という構図だったのが、日本書紀完成の後には、    「天智=漢の高祖?」に対する「天武=後漢の光武帝」 という構図に変わっているのです。 大和氏は、持統・文武の和風諡号が改められたことに注目しています。 持統:『続日本紀』大宝3年では、    当麻真人智徳が諸王・諸臣を率いて誄を奏上し、諡を    「大倭根子天之広野日女尊」とす   →『日本書紀』では「高天原広野姫天皇」    (『続日本紀』の文武即位時には「高天原広野姫天皇」) 文武:慶雲4年、文武の殯宮では、    当麻真人智徳が誄人を率いて誄を奏り、諡を    「倭根子豊祖父天皇」とす   →文武即位前紀では「天之真宗豊祖父天皇」 いずれも当麻智徳のおくった諡は改められていますので、 天智の「天命開別天皇」や天武の「天淳中原瀛真人天皇」も 後に改められたものではないのか、 特に天武の日継の誄人は当麻智徳本人であり、 天武と持統とは合葬されているので、 「天淳中原瀛真人天皇」とは違うそれなりの諡号を 当麻智徳は考えて奏上していたのではないか、としています。 葬式の時におくった戒名を後に改めているという事例でもありますが・・。 あと当麻公は用明の子孫ですので、天武が用明の曾孫ならば 当麻公と天武とのつながりはあると思います。 債投動産さま> 興味深い投稿を立て続けにありがとうございます。 藤原不比等の天智落胤説は、おそらく 「兄」定恵が孝徳の落胤であったという所から発生した話だと思います。 そこに政治的意図があったかどうかは別ですが・・。 あと以前にどなたか忘れましたが、話題にしていましたが、 「後陽成」天皇はいわば「陽成」2世みたいなものと思えるのですが、 「陽成」のような「暴君」を (かつてここで散々議論がありましたね・・、きんたろうさんへ) 継ぐような号をよく選んだものだと思うのですが・・。 あと聖武天皇が太子になる前の和銅6年に、 紀氏や石川氏(蘇我氏の支族)といった名門出の文武夫人2人が 密通を理由に称号を貶められたという記事があります。 これについては二氏の娘が産んだ皇子の即位を妨げるために 藤原不比等が仕組んだ陰謀とする説が一般的になっています。 Time : 2001/ 3/22(木) 22:38:35
Name : グループK E-mail : Title : 光仁・桓武も、釈日本紀も、神皇正統記も、帝諡考も。。。 Comments: 今晩は。グループKです。なかのさんRESありがとうございました。 Kも明日・明後日はアクセスできません。(^^;) で・・一言だけ! 暗喩について・・・諡号制定の時期ですが、どう考えても光仁(709-781) は、青年期にあった筈です。彼はどう見ても「天智」を「紂王」とは解釈 していなかった(幾ら何でも天皇としてお祖父ちゃんを悪逆王のままにし ておくことは有り得ないでしょう?) 天智を自己の正統性の拠り所とした・・・桓武もしかりですよね? 釈日本紀の著者やそれを学んだ貴族達も・・・三船を撰者と見なしている のだから、その様な解釈はしていなかった。 中世の大学者にして、有職故実に長けた北畠もしかり。 明治の文豪にして、「帝諡考」の著者も三船撰者説を支持しているところ より、これまたその様な解釈はしていない。 当事者や貴族や識者・・・その誰ぁれも解釈しえない暗喩って、意味があ り得るのでしょうか? 「上天美」とされる名玉が、何故に「紂王」なのでしょうか? 天皇家の宝剣は悪逆のオロチが持っていたものです。しかしそれにも関わら ず至上の宝剣ですね? 何か変だなぁ・・・って思われませんか? 私は根本的に井沢さんの誤解釈 であると断じざるを得ませんね(^^;) Time : 2001/ 3/23(金) 00:16:34
Name : なかの E-mail : Title : ちょっとだけ Comments: おはようございます、なかのです。 グループKさん、ありがとうございます。 グループKさま、債投動産さま、その他皆さま> ちょっとだけ・・。 周の武王の「武」、文王の「文」などの諡号は 「逸周書」の「諡法解」で解説がされています。 前回、「逸周書」を敢えて出したのは、 実は伏線にしようと思ってのことですが・・。 Time : 2001/ 3/23(金) 08:17:32
Name : グループ K E-mail : Title : 追加です。 Comments: みなさんこんばんは。グループ Kの一員です。 淡海真人三船(722−785)・・・ 大友皇子 │ーーーーー葛野王ーーー池辺王ーーー御船王(淡海真人三船) 十市皇女 は、刑部大輔兼大学頭文章博士になっていますが、彼も「天智=紂王」 暗喩などという解釈はしていない(曾孫としてそんな解釈があると考え たら黙ってはいない筈ですよね?)。 彼は当時有数の漢学者ですから、諡号選定者ならば言うまでもなく、選 定者でなくとも・・・彼が天智諡号に何の文句も付けていない(付けて いれば後世に残らない筈ですよね?)こと自体が、井沢先生の解釈を否 定する有力な傍証だと言うことです。 Time : 2001/ 3/24(土) 01:08:59
Name : __ E-mail : Title : ___ Comments: グループ K氏へ。。。 「グループ Kの一員です。」ですか。。。 名前を名乗ったらいかがですか? Time : 2001/ 3/24(土) 01:49:41
Name : 二里 E-mail : Title : まあまあ>下線 Comments: いいじゃないか。 そんなことより、ミールが予定通り逝ってくれて良かったじゃないか。 Time : 2001/ 3/24(土) 02:04:54
Name : 傍観者 E-mail : Title : グループ Comments:  下線さんへ  一員というのはパンダさん、Awajiさん、Kanakさん、の一員に決まっている じゃないですか。  何を喧嘩売るようなこと書いてるんですか! Time : 2001/ 3/24(土) 09:13:38
Name : グループ K E-mail : Title : __様??? Comments: みなさんこんばんは。グループ Kの一員です。 私は、ループ Kの一員ですので、どうしてもハンドル・ネーム がお入用なら、「グループ Kの一員」とお呼び下さいませ。 ところで、__様のお名前は__とおっしゃるのでしょうか? Time : 2001/ 3/24(土) 21:48:34
Name : 陰陽師 E-mail : Title : >傍観者 Comments: 娘もだ。 あ、おれは喧嘩売る気無いよ。 Time : 2001/ 3/25(日) 01:22:12
Name : 陰陽師 E-mail : Title : 入会資格 Comments: グループKに入会したいんだけど、どうすればいいの? Time : 2001/ 3/25(日) 01:23:27
Name : グループK E-mail : Title : 「帝謚考」の解釈・・・ Comments: 今日は。グループ Kです。 先日、森鴎外は・・・「帝謚考」において淡海三船諡号撰集説を支持してい る旨申し上げましたが、みなさんの中にはこれは信じ難いとされる方もおら れると思いますので・・・以下該当部分を紹介します。 「帝謚考」序文 神武以降歴世の漢風諡号は淡海三船の撰ぶ所なりと云う此説は釈日本紀より 出づ。云く「私記曰、神武等諡名者淡海御船奉勅撰也」と。三船撰諡の事は 続紀之を載せずといえど、之を除きては考うべき者なきを以って従わざるべ かざる。但しかって一の異説をなしし者あり。謂へらく撰諡者は淡海三船に あらずして、淡海公不比等なりきと。此説は中院通秀の文明三年二月後花園 天皇に上がるべき院号の勘文より出づ。文は甘露寺親長の別記に見えたり。 曰「凡諡法の事、起於周道。遠及日域者歟。神武以来至文武四十二代者、是 淡海□公所製」と。享保中水原政整は之を引きて釈記の従うべからざるを云 へり。後黒川春村は此に由りて、神武より文武に至る諡は不比等の撰とし、 元明より桓武に至る諡を三船の撰とす。其説碩鼠漫筆に見えたり。小山田輿 清、蒲生秀実も亦不比等撰諡の説を是なりとし、山田清安に至りては特に続 紀の表に旧典に依ると云うを引きて、不比等撰諡の説を主張したり。 然れども国史中日本書紀は本文に漢風諡を書せず。漢風諡は毎世尊号の下に 旁書せり。故に人をして其の参入を疑はしむ。続紀は旁書の例、紀と同じく して本文旧記を載する処に漢風諡を書せず。其の之を書せるは、撰者の言な ること古事記伝の云う所の如く、続後紀に至りて始めて毎世の首に漢風諡を 大書す。其他和銅五年の古事記序、天平中の大安寺、法隆寺文書流記、弘仁 の此の霊異記並に漢風諡を書せず。且中院通秀の勘文は旧記に蚕蝕ありて、 淡海の下に文字闕け又公字は舟旁を失ひたりし者ならむと云う其説伴信友の 比古婆衣に詳なり。三船撰諡の年時は大日本史の修史例に三船撰諡、蓋在孝 謙の末、桓武の初乎と云へり。続紀天応元年六月土師道長の奏に垂仁の諡あ り。同年七月栗原子公の奏に神功の諡あり。延暦九年七月津真道等の表に神 功、応神、仁徳、敏達等の諡あり。修史例の説従ふべきに似たり。 これによってお分かりだとおもいますが、鴎外は諡号撰集不比等説を退け、 孝謙末から桓武初における三船説を支持しています。 ところが、みなさんもご承知のとおり、井沢さんは・・・ 「「天智」の子孫である三船が、こんな曾祖父の名を恥ずかしめるような諡 号を贈る筈がないと思っている」 とされていますネ。確かに「天智=紂王」という解釈が成立するならば、三 船撰集説は成立し難いと思います。 (同時に天智の女系子孫である持統〜称徳の撰集も、成立し難いと思います が・・・それは既に指摘しました。) つまりは、「天智=紂王説」と「三船諡号撰集説」とは論理的に二律背反関 係にある筈なのです。 それでは・・・鴎外が「三船諡号撰集説」を支持していると言うことは、何 を意味しているか?・・・言うまでもないことですが、鴎外は「天智=紂王 説」等は考えもしていないということですネ。つまり鴎外はむしろ「天智玉」 を「天上の美」というような極めて崇高な意味で紹介していることが窺える のです。 井沢さんは「帝謚考」を読まれたのですから、もちろん鴎外が「三船諡号撰 集説」を支持していることを、承知しておられる筈です。この論理的帰結と して・・・鴎外が「天智=紂王説」等は考えもしていないことも承知してお られる筈です。それなのに・・・ 「そう、実は「天智」という諡号は、極めて悪い名なのである・・・そのト リックを見破ったのは、明治の理事の文豪森鴎外である」 とされているのは、実に奇怪(支離滅裂)な論理展開と言わざるを得ません ネ。 つまり・・・井沢さんは「帝謚考」において紹介された「天智玉」の解釈を 明らかに、しかも意図的に「歪曲」されているのです。 グループKは、別に井沢さんのこのような「歪曲」を「告発」するつもりは ありませんが・・・(^0^)" もう少し真面目に歴史(先人の歴史解釈)を考 察されんことを、お願いしたいと思うのです・・・(^^;) なお、この二律背反は・・・三船(持統〜称徳も?)が天智の子孫であって も、その様な「私情」を捨てて・・・敢えて「天智=紂王」を承認した(承 認することを強要された・・・)と解釈することによって解消されますが、 これは井沢さん自身が健全な理性(歴史的常識)を持って否認されています し、そのような状況証拠は認められませんので・・・この解釈は成立し難い むね申し添えておきます。 Time : 2001/ 3/25(日) 08:46:51
Name : グループK E-mail : Title : 和風諡号と漢風諡号及び「徳」諡号について・・・ Comments: 今日は。グループKです。 なかのさんもご指摘のとおり、天智に関しては漢風諡号に先立って国(和) 風諡(名)号が選定されていますネ。天命開別(アメミコトヒラカスワケ) です。 これが通常言われているように「天命を受けて皇運を開く」という意味か どうかは議論の余地があると思うのですが、何れにしても悪逆の紂王とは 程遠い「佳号」であることは、一目瞭然でしょう。 とすれば、壬申の乱(井沢さんのおっしゃる易姓革命・・・(^0^)" その直後(おそらく天武による?)の近江帝の諡号命名は・・「天命開別」 という「佳号」である。 その遥か後世(おそらく天智の女系子孫である聖武〜称徳、あるいは男系 子孫である光仁〜桓武による)の漢風諡号は・・「殷の紂王を擬した天智」 という「悪号」である。 ということになりますネ? 一体こんなことが有り得るのでしょうか? また、これもご指摘のとおり、元明・元正・聖武の皇位継承に関して・・・ 天智の『不改常典』が金科玉条として持ち出されていますが、一方で「悪 逆紂王」と決め付けておいて、その帝王の遺勅を聖旨として尊重する。 ということになりますネ? 一体こんなことが有り得るのでしょうか? なお、Kの知る限り「天智」が怨霊として畏怖された形跡は有りませんが、 仮に畏怖されたとすれば・・・それを鎮魂するために「佳名あるいは厚遇」 するのが常識(?)であった筈であり・・・ワザワザ後世に至って「汝は紂王 の如き悪逆の帝王なり」なんていう諡号をくっつけて怨霊の怒りを掻き立 てるかどうか・・・トックリとお考え頂きたいものです (^0^)" むろん、神武以降の諡号が、孝謙末から桓武初に一括選定されたとするな らば(その蓋然性極めて高い)・・・「懿徳」「仁徳」「孝徳」は、生前 の尊号である「称徳」とほぼ同時期に同一原理(諡法)によって選定され たと見るべきであり、「聖徳」も少なくともこの時期までに選定されてい たと見られるので・・・ 「まず第一に、私は神武・綏靖・・・仁徳あたりまで・・・・”超人的な” 天皇の諡号と、用明や推古のような・・・天皇の諡号とは、別の時期にそ れぞれ別の人間によって選ばれたものだと考えている。なぜなら、・・・ これだけ諡法の手法が違うのは、別人が考えたのだと考える他はない。」                   P276 「古代において、はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が伝 わった時は、やはりこれはその通りの意味で、たとえば第四代の懿徳天皇 (実在には疑問があるが)とか第十六代の仁徳天皇は、この本来の意味で名 付けられたのであろう。・・・・しかし古代のある時期から、この『徳』と いう名は、むしろ『御無念な御生涯であられた』天皇に贈られることになっ たのである。ではいつからそうなったのか。明らかに不幸な生涯を送ったに もかかわらず『孝徳』と呼ばれている天皇の少し前に実在した『聖徳』と呼 ばれている天皇クラスの人、それからだとしか考えようがないではないか」 P165〜P166 等という推理が成立する蓋然性は、まず有り得ないのですネ。(^0^)" グループKとしては、「聖徳」は天皇漢風諡号撰集に先立って決定されてい た「法号」に類するものであり、その後生前尊号である「称徳」選定に少し 遅れて天皇諡号である「懿徳」「仁徳」「孝徳」等が選定された・・・従っ て「徳」諡号と「怨霊思想」に関する井沢推理は、全く成立の余地がない ・・・と考えておりますが如何でしょうか? Time : 2001/ 3/25(日) 16:28:04
Name : グループK E-mail : Title : 漢風諡号「天武」について・・・ Comments: みなさん今晩は。グループKです。 ついでといっては何ですが・・・次に漢風諡号「天武」の「武」について です。Kの知る限りですが、概ねこの時代に「武」に関する諡(名)号を持 っている帝王は以下のとおりです。 (初代に多いのは「諡法」の関係でしょう・・・4を参照下さい。) 1.チャイナにおける例 前漢・・・・・・・・第7代 武帝(B.C.141〜87) 後漢・・・・・・・・初代 光武帝(25〜57) 魏朝・・・・・・・・太祖 武帝<曹操>(155〜220) 西晋・・・・・・・・初代 武帝<司馬炎>(265〜290) 東晋・・・・・・・・第9代 孝武帝(372〜396) 宋・・・・・・・・・太祖 武帝(420〜422) 北魏・・・・・・・・太祖 道武帝(398〜409) 第3代 太武帝(423〜452) 第7代 宣武帝(499〜515) 北周・・・・・・・・第3代 武帝 (560〜604) 北斉・・・・・・・・初代 神武帝 第6代 武成帝(561〜565) 陳・・・・・・・・・初代 武帝(557〜559) 周・・・・・・・・・則天武后(690〜705) 唐・・・・・・・・・第15代 武宗(840〜846) 2.チャイナ周辺諸国(真偽不明分あり)の例 高句麗・・・・・・・第3代 大武神王 新羅・・・・・・・・第29代 武烈王(654〜661) 第30代 文武王(661〜681) 第45代 神武王(839) 百済・・・・・・・・第25代 武寧王(501〜523) 第30代 武王(600〜641) 3.倭・日本・・・・倭王武 宋書上表(478) 漢風諡号・・・・・・(1)神武(25)武烈(40)天武(42)文武(45)聖武(50)桓武 4.「帝諡考」諡法例抜粋 神武・・周書諡法「・・剛彊直理曰武、威彊叡徳曰武、克定禍乱曰武、刑民 克服曰武、大志多窮曰武」 ・・史記正義諡法「剛彊直理曰武、威強敵徳曰武、克定禍乱曰武、刑民 克服曰武、誇志多窮曰武」 ・・前漢書「皇矣漢祖、簒尭之緒、実天生徳、聡明神武」 天武・・周書、大明武、畏厳大武曰維四方畏威乃寧、天作武修戎兵以助義正 違。(以下の部分は神武と同じ) 国語、楚語下「王問三事於観射父、対曰、天事武地事文民事忠信」 さて、これらの諡(名)号からして諡号「天武」を・・・単純に周「武王」 に擬すべきものなのか・・・如何でしょう? Time : 2001/ 3/25(日) 21:49:20
Name : MK E-mail : Title : 訂正が遅くなってすみませんでした。 Comments: ちょっと留守にしてる間に凄い事に成っててうまくコメントできません。 先ず訂正を一つ3月16日に小林よしのりさんの名前を間違えていました。 よしりんファンごめんなさいでした。 また、井沢さんの「誰が歴史を歪めたか」祥伝社黄金文庫発行がとても面白くて 諸説入り乱れるのも良いな〜〜とミ−ハ−は思っています。 逆説の日本史も渡辺昇一さんの「日本史から見た日本人」(同じく祥伝社黄金文庫発行) と対比して読むともっと面白くなるし。外国から見ても日本はそんなに悪い国ではないと 判ってたら良いのではないでしょうか。 Time : 2001/ 3/25(日) 22:50:26
Name : なかの E-mail : Title : ちょっと(?)余談ですが・・ Comments: こんばんは、なかのです。 最近になって長い休暇の影響か、もしくは「年度末」のせいか、 やたら忙しくなり、こちらにも足が遠のいてしまいました。 色々お答えしなければいけない事ばかりですが、 ここ数回は「天武」の「武」についての投稿がありましたので そちらから・・。(あくまで余談としてお聞き下さい) 以前にも言いました通り、中華王朝や諸侯の号にある 「武」「文」などは諡号といい、 通説では君主の死後にその君主がどういう人物だったかを 次の君主などが判断して贈るものとされています。 それを嫌ったのが秦始皇帝で、機械的に初代(始皇帝)以下 二世、三世としていくように定めたとされており、秦だけが 統一王朝の中で諡号を用いていません。 その判断基準は、『逸周書』の「諡法解」に述べられていること、 そして『逸周書』が一般人には入手困難であることは 以前にちらりと触れました。 そういう理由で、私もあちこちの図書の解説にそこから 引用されている形でしか、それを見たことがありません。 しかしこの、次の君主などが「判断して」というのが、 実は怪しいのではないかということが最近になって 議論されてきました。 春秋左氏伝では楚の共王が亡くなる時に「霊」などの悪い号を つけるよう遺言したが大臣らは共王のありようが立派として 「共」を諡号にしたという記事があります。 しかし、楚では生号、つまり生前から王が自らの号を 名乗っていたのではないかと言われています。 グループKさんが言われる通り、「武」は 中華諸王朝で最も多くと言ってもいいくらい使われています。 それは「諡法解」にある意味合いで使われていたのが 多いと思いますが、 後漢王朝の頃まではそれとは別の意味合いもありました。 東大教授の平勢隆郎氏が講談社現代新書から 『中国古代の予言書』という本を出しており、 私も「とまり木」コーナーでそれを知って購読しました。 平勢教授は、暦の研究などから『史記』に見られる数多い年代矛盾を 独自の説(むろん論理的です)により見事にほぼ解決しています。 それによると・・、 中華では伝説の夏、商(殷ともいう)、周と王朝が三代続いて 春秋戦国時代に至っている時、周王を蔑ろにして 「諸侯」が王を相次いで称するようになりました。 早いのは楚で紀元前7世紀、ついで呉・越が紀元前6世紀ですが、 彼らは周王朝の権威の及ぶ「中原」から遠い国でした。 戦国期(紀元前4世紀)に入り、周王朝の股肱であった諸侯から、 魏・斉・秦といった諸侯が相次いで王を称するようになり、 やがて周王朝の他に秦・趙・韓・魏・斉・楚・燕という「戦国七雄」、 更に中山・宋と、計10の王が乱立する状況となりました。 当時の「王」は、中華の天子を意味しています。 「王」を称するということは昔からの周王を放逐するという、 つまり「革命思想」そのものであり、 この頃に孟子が革命思想を打ち出したのは、いわば時代の趨勢でした。 ここからが平勢教授の説です。 本家の周や、古くから王を称していた楚はともかく、 それ以外の新たに「王」を称した各国では 自分こそ正統の王であると主張する必要に迫られます。 諸侯が拮抗していますので、単純に力だけで解決できません。 その経緯で生まれたのが、いわゆる「春秋三伝」及び、 これまた専門家しか拝めない代物の『竹書紀年』であったと いう訳です。 これらはかつて周王朝が、文王が天命を受けて武王がそれを果たした、 もしくは武王が崩御した後に周公が幼い成王を「摂政」して、 年長になってから譲り渡したという故事をこじつけて、 「周王朝は権威が失墜し、天命を失ったが、代わりに聖天子が現れた」 として、魏が「文」→「武」→「成」という諡号で君主の継承を行い、 その中で王を称しました。 魏のパターンが最もはっきりしていますが、 王を称えた他の諸侯も、これのアレンジのような継承を行っています。 しかし現実には諸侯は全て秦に滅ぼされ、秦も滅び、 やがて漢王朝の時代になります。 本来の意味合いを失ったそれら「経書」も、 今度は漢王朝の正統性を示す「予言書」として 『春秋』や『公羊伝』が学者によって「再利用」され、 更に漢王朝を簒奪した王莽により『左伝』が利用され、といった具合で 「経書」が復活してきます。 更に後漢時代には、「経書」を補うものとして 讖緯説により「緯書」が数多く作られ、「孔子の水徳」と「漢の火徳」とを 結びつけるなどして漢王朝の正統性が補強されました。 この「緯書」は三国志の晋朝の頃に徹底的弾圧を受けて姿を消しましたが、 そのうちの一部は日本に流れ着き、日本でも「経緯」が語られました。 ちょうどそんな頃に出来たとされるのが「日本書紀」です。 つまり、日本書紀には「経緯」の影響があるのではないかということです。 後漢の時代まで、中華では王朝の正統性ということから 「周の文王→武王」という図式に影響を受けており、 その時代に作られた『漢書』が「経緯」と共に天武期で論じられて いたのですが、そうだとすると・・。 また、「経緯」の影響を受けた中で、神武即位は周王朝18代の恵王の時代の 紀元前660年(辛酉です)にまで遡るものとされ、 周の文王が受けた天命を引き継いだのは武王ではなく神武であるとし、 かつ周王朝の諸侯が「王」を称していない時代にまで遡るとしたわけです。 (楚の称王時期については別途・・) ここには「天の数=9」という「音楽理論」が盛り込まれています。 ここで天武と神武がオーバーラップするとしたら・・? しありーさま> 初めまして。 以前、しありーさんが漢の高祖が立ち上がった年について述べられて いましたが、平勢隆郎氏の出版物を読まれることをお勧めします。 史記の年代矛盾が面白いように、かつ論理的に解決していて 面白いですよ。 Time : 2001/ 3/26(月) 22:01:42
Name : なかの E-mail : Title : 余談の補足 Comments: 前回、不親切な部分がありましたので補足します。 トンデモと思われてもいけませんので・・(笑)  逸周書(いつしゅうしょ)  逸周書は漢書芸文志に周書七十一篇と記してあるものの一部分である。  今存するものは五十九篇、序と合わせて六十篇である。  周書の序には其の大部分を周公の著作とし、  後漢の蔡邑もそれを認めている。  説文には、周書を逸してしまったと称し、  隋書経籍志には晋の太康年間に汲郡から出たものとしているが、  それらは誤りである。  (以上「支那暦法起源考」飯島忠夫著、第一書房発行より)  讖緯(しんい):  讖とは予言のことで、秦漢の革命とか王莽の帝位簒奪、  とくに後者に関係が多い。  緯とは経に対する語で、孔子の思想は経書で伝えられたが、  深い思想は緯書に記されているといい、  それぞれの経書に対する緯書があり、  神秘的なことがかなり記されている。  実際はいずれもほとんど前漢末から後漢にかけて作られたもので、  後漢の思想界に流行し、馬融・鄭玄らもこの讖緯を信じた。  晋以後朝廷はしばしば讖緯を禁じたので、完本は伝わらない。  清の趙在翰が他書に引用された断片を集め「七緯」を編纂した。  (以上、「新編・東洋史辞典」東京創元社発行より)  讖緯説(しんいせつ):  干支によって個人乃至国家の運命を推知する中国古代に  発生した理説。  中国では古代に多くの緯書が作られたが、  これらは十干十二支を組み合わせ、加えるに陰陽五行の思想を  配せしめて、あらゆる自然界人間界の現象を説明し、  かつその未来についても予言を行った。  特に注目されるのは、詩経及び易経中の辛酉を革命の歳、  甲子を革令の歳となす説で、後漢の頃最も盛んに信じられ、  鄭玄の如きは易・礼・尚書等の諸緯書に注を施し、  讖緯説を一層詳細に説いた。  我が国へは上代仏教文化と共に輸入され、聖徳太子は  甲子の歳たる604年を以て十七条憲法を発布したといわれる。  また日本書紀が神武天皇即位の歳を辛酉としたのも、  編纂者がこの思想に基づいたからであると考えられている。  (以上、「日本史辞典」東京創元社発行より) Time : 2001/ 3/27(火) 08:04:04
Name : しありー E-mail : Title : ありがとうございます Comments: なかのさま> 本のお勧めありがとうございます。 面白そうですので読んでみたいと思います。 単なる歴史好きで あまり知識もありませんが 楽しく拝見しております。 ただいつも思うのですが 歴史の事実とは 何をもって事実とするのか? という疑問があります。 状況証拠と物的証拠等があり それを論理的に説明できる時 事実とするというのならば ある程度理解できます。 ただ 人間は全て論理的に行動しているわけではなく 「気まぐれ」とか「思いつき」等で 行動する場合も多々あると思います。 また どう考えても不可解な行動の裏には 案外「体調不良」とか「寝不足」というのも 影を落としているかもしれません。 そのように 素人中の素人は 考えてしまいます。 Time : 2001/ 3/27(火) 11:42:56
Name : なかの E-mail : Title : しありーさまへ Comments: レスありがとうございました。 前回、不親切(また・・笑)だったように思えましたので、 以下に示すものが入手可能かつ安価(といっても数千円ですが・・)で 入手できると思います。 『中華文明の誕生』  (尾形勇・平勢隆郎著・中央公論社『世界の歴史』2、1998年) 『「史記」2200年の虚実』(平勢隆郎著・講談社、2000年) 特に史記に関しては後者がお勧めです。 Time : 2001/ 3/27(火) 12:28:37
Name : 中川幸美 E-mail : emikenn@viola.ocn.ne.jp Title : 図書館は,結構サバイバルです。 Comments: 私は、歴史好きなお母さんです。 お金の都合で図書館を利用しますが、定年されたお父さん達も同じ考えらしく、 井沢先生の本は、なかなか読めません。 おじさまが、相手では勝ち目がなさそうですが、日夜争奪戦に加わっています。 Time : 2001/ 3/27(火) 17:30:42
Name : イワナガ E-mail : jiwanaga@lehman.com Title : 鹿島神宮 Comments: 先日、ふと思い立って鹿島神宮に行ってきました。 前々から、あんな都から離れた地に最高格に近い神社が存在するのか(しかも香取神宮とあわせて二つも!) 不思議に思っていたので、ど素人ながら謎解きをするような気持ちで境内を散策してきました。 感想を思い付くままにここに書き連ねたいと思いますので、どなたかご意見・ご感想を頂けたらと思います。 まず、本殿内の造りが出雲大社とソックリです。ということはこれはオオクニヌシの怨念封じのような装置 なのでしょうか?ちなみに祭神は国譲りの話で有名なのタケミカヅチノカミです。 でも出雲大社の例でいうと、祭られているカミが封印されていることを考えると日本神話のヒーローが封印 されているのもおかしな話ですよね〜。 ということは、元々は例えば大和朝廷による被征服民のカミが祭られていたのでしょうか?? 境内を歩き回っていると、御手洗の池というところの隅の方にオオクニヌシの命を祭った社がひっそりとありました。 なにか意味があるのでしょうか。。。 また、神社の説明板によると鹿島は古来より交通の要所で東北地方の玄関でもありさらに熊野地方とも水路によって 頻繁に往来があったと書いてありました。これは伊勢神宮とともに鹿島と香取が「神宮」を名乗る事ができる所以となにか 関係あるんでしょうか。。。 鹿島神宮は香取神宮とともに古来剣術が非常に盛んだったことで有名です。祭神が武の神様だからといってしまえば それまでなのですが、やはり朝廷が東北へのにらみとして大きな武力を駐屯させていたなごりとは考えられないでしょうか? 神社内の説明には、鹿島神宮が古来より重要な神社である理由は、当時の日本の中でもっとも日の出に近いということ 、交通の要所であったことと書いてありましたが、どうも僕にはそれだけじゃないような気がして仕方ありません。 境内のうっそうと生い茂る千数百年前からの原始の森の中を歩いてみて、真実の歴史が陰にあるようなそんな 思いがとても強くなった気がしました。 以上です。 ありがとうございました。 Time : 2001/ 3/28(水) 00:09:02
Name : 游惟 E-mail : Title : 記紀万葉を書いたのは朝鮮帰化人です Comments: みなさん、ご無沙汰しております。 ここで一見「トンデモ説」と思われるような説を発表させて頂きます。 記紀万葉をはじめ、八世紀前半以前の文献の殆ど全てを書いたのは朝鮮帰化人です。 但し、ここで「書いた」というのは「実際に筆を取り文字にして記録した」という意味ですが。 既に中国語学者の森博達氏は「日本書紀」をα群(14〜19、24〜27巻)とβ群(それら以外) に分け、その漢文の正確さから「α群は中国帰化人の記述である」としていますが、 森氏のいう日本書紀α群を除き、日本書紀β群・古事記・万葉集の中の借音仮名文書、風土記など、 八世紀前半以前に書かれた日本語史料は、殆ど全て朝鮮帰化人(663年の白村江の戦い以降に日本 に亡命してきた百済人を中心とする朝鮮帰化人二世の世代)が書いたものです。 純粋な日本人(日本語母語話者)が書いたものがあるとすれば、万葉集の中の借音仮名以外(訓読・ 訓仮名)等で書かれたものだけです。 これは100%間違いありません。 私はこのことを一年半かけて国語学・言語音声学・朝鮮語学・歴史学・社会学の五方向から証明しました。 また突拍子もない「トンデモ説」を、と思われるかも知れませんが、私がマジでこの説が「トンデモ」 でない証拠に、私はこの説を「上代特殊仮名遣いと朝鮮帰化人」という題目で、五月に開かれる国語学会 春期大会で発表する事になっています。 「国語学会」というのは前に何も冠詞が付かないのを見ればおわかりのように、文字通り日本国語学の 総本山、国語審議会に名を連ねるような学界の大御所・重鎮と呼ばれる人々から、大学教授はもとより 高校・中学の国語教師、国語学専攻の大学院生に至るまで、凡そ自ら「国語学者」を任ずる人間なら 全て加入し、万に近い会員数を誇る日本有数の巨大学会です。 そんな権威あるマトモな学会が「トンデモ説」などおいそれと発表させてくれるわけがありません。 (私自身はこの説を発表するために国語学会に入っただけで、本来は社会学専攻です) 「上代特殊仮名遣い」というのは、万葉仮名(借音仮名)に用いられている漢字の中国音を分析して みると、キヒミケヘメコソトノモヨロの13音が甲乙二種類の漢字で書き分けられているという現象で、 そこから上代(奈良時代及びそれ以前)の日本語には母音が八種類あった、という説が生まれ、国語学 の世界では長くそれが定説として通用していました。 しかし、その後の研究からイ・エ段音(キヒミケヘメ)の甲乙の書き分けは「語幹末尾の変音現象に過ぎ ない」という説が出されて上代八母音説は廃れ、現在ではオ段音(コソトノモヨロ)の書き分けが実質的 なものかどうかを巡って、六母音説と五母音説が対立している状況にあります。 70年代に松本克己という言語学者が五母音説を唱え、かなりの支持者を集めていますが、松本説には 重大な欠陥があり(私に言わせれば松本説は完全な誤り)、未だ六母音説論者を説得することが出来ずに います。(八母音説もまだ生きています) 私は松本氏とは全く別の観点から、現代日本語オ段音の条件異音の発生法則を分析した結果、 それがこれまで知られている上代特殊仮名遣いオ段甲乙の書き分けに関する様々な事実と 全く一致することを発見しました。 「条件異音」というのは前後に接続する母音などとの関係によって生じる音声学的には別の音のことです。 例えば「タコ」の「コ」は唇が丸まっているはずですが、「ネコ」の「コ」は唇が丸まらないはずです。 (そんなことはない、という方は早口で10回繰り返して発音してみればわかります)こういったもの が「条件異音」ですが、この現代日本語の円唇化する/O/と円唇化しない/O/の発現法則は、上代特殊 仮名遣いのオ段甲乙音の書き分けとぴたり一致するのです。 つまり、奈良時代の日本語も現代とまったく変わらぬ五母音だったということです。 ではなぜ、そんな条件異音が万葉仮名で書き分けられているか、ということになりますが、朝鮮語では この円唇化する/O/は「┻」、円唇化しない/O/は「┫」と完全に別の母音として区別するのです。 そして、記紀万葉が成立した7世紀末〜8世紀前半は、白村江後に大量亡命してきた百済・高句麗帰化人 の二世達(おそらく日朝バイリンガルだったが読み書きは朝鮮語でしかできない人々)が大量に存在した 時代であり、万葉仮名の朝鮮漢字音を調べてみても、やはりオ甲類は「┻」、オ乙類には「┫」という 母音が現れるのです。 つまり、記紀万葉が成立した時代、純粋な日本人には文字の書ける人間が殆どおらず、日本語の達者な 朝鮮帰化人二世達がハングルの代わりに漢字音を用いて日本語を記述していた、ということです。 万葉仮名による日本語文書だけでなく、日本書紀α群を除く漢文体の文書にも朝鮮漢文の癖が見られる ことは河野六郎・藤本幸夫といった朝鮮語学者によって夙に指摘されており、佐伯有清・関晃等の日本 史学者も「史」即ち文書事務をつかさどる部民はほぼ100%帰化人氏族であったと述べています。 そして、「上代特殊仮名遣い」は8世紀後半から急速に崩壊をはじめ、9世紀平安時代に入ると殆ど 消滅してしまいますが、それはなぜなのか、今まで誰も説明出来ませんでした。 しかし、八世紀前半に記紀万葉を書いていたのがバイリンガルの白村江帰化人二世であったと考えれば 簡単なこと、八世紀後半になると彼らは死に絶え、日本語しか話せない三世・四世へと世代交代が進んだ からです。 このように「記紀万葉を書いたのは朝鮮帰化人」と考えれば、「上代特殊仮名遣い」という現象は 言語的に見ても、歴史的に見ても、社会学的にみても全く矛盾なく説明出来るのです。 じつは、私がこの研究を始める発端となったのがこのHPでした。 今いらっしゃる方ではToshyさんぐらいしか覚えていないと思いますが、 一昨年の6〜7月頃、ここでAwaji氏、Anon氏、大阪JF生氏などに私が加わって古代日朝関係 についての大論争をやっていました。冷静沈着に次々と「トンデモ説」を唱えるAnon氏に対し、 Awaji氏・大阪JF生氏達がいきり立ち、私がまあまあと止めに入りながらAnon氏を 援護している、といった展開でしたが、その過程でAnon氏が「上代特殊仮名遣い」や「上代 八母音説」に言及し、その時に私がふと思い出したのが朝鮮語には母音が八つある、という事実でした。 Awaji氏が健在なら、私の説にどのように反応するか見てみたいものです。 Time : 2001/ 3/28(水) 01:41:58
Name : 債投動産 E-mail : Title : ちょいと試しに Comments: 飽きっぽい性格ですみません 。 久々に、謎かけでもと思って。  堂本暁子  オノヨーコ ちょっと難しいかも? Time : 2001/ 3/28(水) 13:51:44
Name : MK E-mail : Title : 日本を少しずつでも良くするには.. Comments: 新聞が面白くないと言う方へ。  どうか一度違う新聞を読んでみてください。私は井沢さんのご本を読んで、 産経新聞に替えてみました。もう吃驚する程違った。面白くて為になって 宝物の様な切り抜きが一杯出来ました。それ迄は親を憎め、国を誹れ、と ずっと洗脳されてきた感じがする程なのです。  何にも属さない一主婦ができる事など限られていますが巨大メディアに対する ささやかな抵抗になれば良いと思っています。近頃では、谷沢永一氏の「日本人の 嫉妬心に対応する法」がとても面白かったです。 Time : 2001/ 3/28(水) 13:58:28
Name : MK E-mail : Title : 少しだけ付け足し、 Comments: 「日本人の嫉妬心に対応する法」評論家  谷沢永一         2001年2月18日付 産経新聞「正論」  世間が不幸だと喜ぶ様な、日本人の国民性の三要素は勤勉、嫉妬、卑屈である。  その元兇とは、自由裁量である。官僚による自由裁量の余地をなくし、オ−プン  にし、自由裁量の利く所得税、贈与税、相続税を全廃する...  ...興味の有る方は、どうぞ読んでみてください。 Time : 2001/ 3/28(水) 16:35:13
Name : Awaji E-mail : Title : 上代仮名遣いと百済渡来人の関与について。 Comments: 游惟さん。お久し振りです。Awajiです。 上代の特殊発音に関する仮説の発表機会を得られたとのこと、ご同慶のい たりです。ご承知のとおり小生は、単なる素人古代史マニアですから、言 語学に関しての意見は差し控えさせて頂きます。 ただ直感的ではありますが、以下の諸問題に留意されることをお勧めした いと思います。 @当時の百済支配階層人(日本亡命者の大半)の発音が、新羅系の発音を基 礎とする(であろう)中世〜現在朝鮮人の発音と同じものであったといえ るのか? A中国史書によれば、古代朝鮮には系統の異なる言語が併存していた可能性 が示唆されており、百済においては支配階層と民衆との言語が異なってい たと解される記述もあります。(同一言語説も近年主張されていますが) そもそも古代朝鮮語の実体がほとんど解明されていない段階で、現代朝鮮 語発音から当時の百済人の発音を想定することが出来得るものか? B記紀万葉の読者の大半は、倭人だったと思います。その場合倭人が理解で きない発音の書き分けが通用したものでしょうか?(倭人も理解しうる発 音であったからこそ、通用したという考え方も出来るでしょう?) 例えば、大伴旅人・家持といった純粋の日本人に理解し得ないような渡来 人の発音表記であれば、彼等の編集過程で修正されたのでは無いでしょう か? C母(ハハ)という基礎語の発音ですら平安期と現代(室町期?)では異な っています。明治時代の日本人にとっては、常識であった旧仮名遣いも既 に現代日本人には殆ど理解不能なものと化しています。したがって奈良時 代の日本人と平安時代の日本人の発音が異なっていることも有り得ないと は思えません。 (小生の祖母の発音は、実際に極めて旧仮名遣いに近いものでした) C稲荷山鉄剣(471頃)には、既に漢字音を倭国氏名表記に適用しています。 これは百済亡命者の大量渡来(663年)に先立つこと約200年前の事ですね? 5C 当時の倭人が漢字音を倭語表記に利用していたことから考えて、8C の 日本人が、なお「純粋な日本人には文字の書ける人間が殆どおらず」とす るのは、あまりにも無理があると思いますが? (5〜6C の彼等に言語体系を異にする正規漢文を正確に記述し得たかどうか は別問題です) D552(538)の仏教公伝以降の、推古時代の仏典理解や国家体制整備を全面 否定しない限り、当時の倭人が文字を活用し得なかったとするのは、無理 があると思います。まして天武時代に遡る多くの木簡文書類の全てが渡来 人によるとはとても思えません。 もちろん、渡来百済人や中国人が中・下級官僚として、記紀等の「正規漢文」 編纂に関与したことは充分有り得ると思います。しかしながら万葉仮名とい う倭語表記法に関し、百済渡来人の全面的関与を想定するのは、かなり無理 があると思うのです。以上、思うつくままではありますが、取り敢えずの感 想です。 Time : 2001/ 3/28(水) 23:52:47
Name : 游惟 E-mail : Title : やあやあ、Awajiさんご健在で何より。 Comments: やあやあ、Awajiさんご健在で何より。 論敵が居なくなってほっとした反面、寂しい想いもしておりました。 Awajiさんがざっと述べてくれた感想についてお答えさせていただきます。 国語学会ともなれば、頑迷固陋な国語学者共がもっと意地悪な質問を浴びせてくると思いますので、 訓練のためにも是非思いつくままにご批判下さい。 @当時の百済支配階層人(日本亡命者の大半)の発音が、新羅系の発音を基 礎とする(であろう)中世〜現在朝鮮人の発音と同じものであったといえ るのか? 新羅語が中世〜現代朝鮮語の基礎であると言われるのは、単に朝鮮半島を最初に統一したのが新羅 であったという政治的理由が主で、言語学的根拠はあまりありません。 確かに、書き言葉・文法・語彙などの面では、三国時代には新羅語特有のものであったものが、 百済・高句麗の故地にも広がったということはあったかもしれませんが、音韻体系・発音という面 から考えれば、中世・現代の標準朝鮮語は新羅語よりも百済語の系譜を引いていると思われます。 というのは、現代標準朝鮮語とされるソウル(京畿道)方言と、百済の故地である全羅道方言、 新羅の故地である慶尚道方言を比較すれば、全羅道方言の方が遙かに標準語に近いからです。 新羅は統一後も慶尚道の慶州に都をおいていましたが、高麗朝からは開城、李朝は漢陽(ソウル) に都を置き、1443年に「訓民正音」(ハングル)が制定された際にはソウル方言を標準語と見なし ていたはずですが、開城・ソウルあたりは三国時代には百済と高句麗が取り合いをしていた地域です。 現代語においてソウル方言と全羅道方言にあまり差がなく、慶尚道方言にひどい訛りがあると いうことは、音韻体系ということに関する限り百済語の方が中世・現代標準朝鮮語に近い、という ことになります。 逆に言えば、百済語と新羅語の違いとは現代の全羅道方言と慶尚道方言程度の差に過ぎなかった ということでしょう。 A中国史書によれば、古代朝鮮には系統の異なる言語が併存していた可能性 が示唆されており、百済においては支配階層と民衆との言語が異なってい たと解される記述もあります。(同一言語説も近年主張されていますが) そもそも古代朝鮮語の実体がほとんど解明されていない段階で、現代朝鮮 語発音から当時の百済人の発音を想定することが出来得るものか? 1443年に「訓民正音」が制定される以前の朝鮮語史料は極度に乏しく、現在知られている史料 だけでは詳しいことは何一つわからないのが実状です。 ただ、奈良時代日本語が現代と変わらぬ五母音であったことは朝鮮語とは関係なく、現代日本語の発音分析 から証明できます。 そして、ややトートロジー的になりますが、五母音の日本語が万葉仮名(借音仮名)において 八つの母音に書き分けられている事実こそが、古代朝鮮語にも現代朝鮮語と同じ八つの母音が あったことの証拠になります。 言い換えれば、万葉仮名が古代朝鮮語(百済語)の膨大な音韻史料となるということです。 B記紀万葉の読者の大半は、倭人だったと思います。その場合倭人が理解で きない発音の書き分けが通用したものでしょうか?(倭人も理解しうる発 音であったからこそ、通用したという考え方も出来るでしょう?) 例えば、大伴旅人・家持といった純粋の日本人に理解し得ないような渡来 人の発音表記であれば、彼等の編集過程で修正されたのでは無いでしょう か? 倭人に理解できないどころか、倭人よりずっと正確に日本語の発音を記述していたのです。 日本人が5つにしか聞き分けない母音を朝鮮帰化人たちは8つに聞き分け、書き分けていたわけですが 、おおざっぱな区分をより精密な区分にしても誰も困りません。 朝鮮帰化人達が「タコ」の「コ」を甲類漢字、「ネコ」の「コ」を乙類漢字と書き分けても、 倭人が読めばどちらも「コ」に過ぎないのであって、意味弁別には全く問題ありません。 逆に5母音しか持たない日本帰化人が8母音の朝鮮語を記述するという逆の現象があったなら、 朝鮮人たちには日本帰化人の書いたものは理解出来なかったでしょう。 Awajiさんも朝鮮語を知っていたと記憶していますが、朝鮮語の「大人」と「右」という言葉を 日本人が聞いてカタカナで書けば「オルン」としか書けませんません。しかし韓国人にとっては 「大人」の「オルン」と「右」の「オルン」は全く別の音なのです。 C母(ハハ)という基礎語の発音ですら平安期と現代(室町期?)では異な っています。明治時代の日本人にとっては、常識であった旧仮名遣いも既 に現代日本人には殆ど理解不能なものと化しています。したがって奈良時 代の日本人と平安時代の日本人の発音が異なっていることも有り得ないと は思えません。 (小生の祖母の発音は、実際に極めて旧仮名遣いに近いものでした) 長い年月の間に発音の変化があることは確かです。たとえば奈良時代のハ行子音は「h」ではなく 「p」であったとされていますが、そのことは朝鮮漢字音・中国漢字音さらに琉球方言などからも 確かめられます。 ただ、子音は比較的に容易に変化しますが、母音は滅多なことでは変化しません。 明治維新以降日本語には多数の外来語が入り「パーティー」の「ティ」、「フィルム」の「フィ」 など日本語には元々なかった子音が数多く受け入れられました。 しかし母音体系は五母音のままで全く変化せず、「cup」などの曖昧母音は「カップ」「コップ」 と二つに分裂させてまで無理矢理五母音の中に位置づけられています。 また、日本は朝鮮を36年、台湾を50年間統治し、その間全ての人間に少年期から日本語を教え こみ、日本語常用運動までやりました。これは朝鮮人、台湾人にとってものすごい言語環境の変化です。 しかし、そんなことぐらいでは朝鮮語・台湾語(ホーロー語)の音韻体系はビクともしませんでした。 翻って奈良時代の日本社会を見るに、この程度の言語環境の変化すらありません。 言語環境の変化が全くないのに、奈良時代前半には8つあった母音が、ほんの2〜30年で5つに減った などということはあり得ません。(こんなバカげた説が今まで定説として通用してきたのです) C稲荷山鉄剣(471頃)には、既に漢字音を倭国氏名表記に適用しています。 これは百済亡命者の大量渡来(663年)に先立つこと約200年前の事ですね? 5C 当時の倭人が漢字音を倭語表記に利用していたことから考えて、8C の 日本人が、なお「純粋な日本人には文字の書ける人間が殆どおらず」とす るのは、あまりにも無理があると思いますが? (5〜6C の彼等に言語体系を異にする正規漢文を正確に記述し得たかどうか は別問題です) 稲荷山古墳鉄剣銘に朝鮮漢文の癖が見られることは、朝鮮語学者の藤本幸夫氏が指摘しています。 関晃・上田正昭等の日本史学者が夙に指摘しているように、白村江以前から大和政権における 文書事務官「史」は西文氏、船氏などの帰化人氏族が独占していました。 もちろん、白村江以前から奈良時代まで純粋な日本人でも貴族たちは読み書きは出来たでしょう。 ただし、何百人もの家来を持つ貴族たちが面倒な細かい文書実務など自らやるはずがありません。 白村江以前、日本で読み書きが出来たのは王侯貴族と、文書事務を生業とする部民「史」だけで、 その「史」はほぼ100%帰化人氏族であり、ごく一部は中国帰化人であったかも知れませんが、 大半は朝鮮帰化人であったはずです。 また、白村江以前の帰化人氏族の子弟たちは任那・百済を通じての朝鮮半島経営の必要上から、 移住後何世代経っても朝鮮語能力を保持する方向で教育されていたはずです。 華僑ネットワークを通じて商売をしている東南アジアの華僑たちが、移住後何世代経っても 中国語能力を保持しているように。 要するに、白村江以前から記紀万葉の時代まで、日本の文書事務は「お雇い外国人」である 朝鮮帰化人(あるいは中国帰化人)がやっていたのです。 「そんなバカな」と言われるかも知れませんが、初期のローマ帝国が大量のギリシャ人を雇い、 無文字だったモンゴル帝国がウイグル人・女真人・中国人などを雇い、返還後の香港政府にも多くの のイギリス人が雇われていて英語文書事務に当たっているように、新興国家が「お雇い外国人」に 文書事務を任せることなど世界を見渡せば珍しいことでも何でもありません。 但し、白村江以前の「史」はその絶対数が少なかったために、その仕事は中央に限られていました。 故に白村江以前、国語学用語で言えば推古期遺文までの文書で、地方で作成された文書は皆無に近いのです。 (唯一「道後温湯碑」という数行の文書があるだけです)。 ところが百済滅亡と白村江敗戦、高句麗滅亡により、万に近い単位の教養の高い亡命帰化人が日本に やってきました。日本書紀を見れば、白村江の翌年の664年に700人を近江神埼郡へ、666年に2000人を 東国へ、668年には400人を近江蒲生郡へ移したと明記されており、白村江直後の百済帰化人だけで最低 3100人は居たことが確認出来ます。しかもこれらの帰化人の中には「達率」という百済官位16階の第2位 以上の者だけで70人以上、現代で言えば中央省庁の次官・局長クラスの教養人だけでも70人以上いた ということであり、どれだけ質の高い人々であったかが解るでしょう。 しかし、百済に居たときは次官だ、局長だと威張っていた人々も、日本に来れば単なる亡命者、 階級で言えば3ランク・4ランクも下の中下級の書記官に甘んじるしかなかったでしょう。 いずれにせよ、白村江敗戦により日本は朝鮮半島権益を喪失した代わりに、数千人の読み書き の出来る書記官が得られたため、7世紀末〜8世紀前半にかけ、記紀万葉・風土記・戸籍・計帳などの 全国規模の編纂事業が可能になったと考えられます。 壬申の乱以降日本は律令制の整備が急速に進みますが、それを実務面で支えたのは彼ら大量の白村江 帰化人であったと言っても過言ではないと思います。 しかし、白村江以降、朝鮮半島権益を完全に喪失した日本にとっては、朝鮮語能力を持つ書記官は もはや必要ありません。また、半島利権を喪失した腹いせに日本は新羅蔑視政策を採るようになり、 遣唐使を朝鮮半島を迂回して直接唐に送り込み、先進文明は直接中国から取り入れるようになります。 そうなると白村江以前ならテクノクラートとして優遇されていた朝鮮帰化人達の立場も変わり、 朝鮮帰化人氏族であることはエリートどころかハンディにさえなってきます。 桓武天皇の生母、高野新笠が帰化人氏族の出身であったことが桓武即位の障碍になったといわれ、 また平安時代初めに出来た「新撰姓氏録」に於いて、多くの朝鮮帰化人氏族が自らの系譜を詐称し、 中国皇帝や実在しない天皇の子孫を称していることが佐伯有清等によって論じられていますが、 奈良時代の後半には既に朝鮮帰化人氏族出身であることは日本国内ではハンディになっていたのです。 故に、白村江以前なら朝鮮語能力を保持する方向で教育されていた帰化人氏族の子弟も、 白村江帰化人になると三代目以降は朝鮮語を捨て積極的に日本語に同化し、日本人化する道を 選んだはずです。 こうして、8世紀後半(奈良時代後半)になると、日本語しか出来ない白村江帰化人三世・四世以降の 世代が文書事務に当たるようになってきた・・・それが上代特殊仮名遣いが急速に崩壊した理由でしょう。 D552(538)の仏教公伝以降の、推古時代の仏典理解や国家体制整備を全面 否定しない限り、当時の倭人が文字を活用し得なかったとするのは、無理 があると思います。まして天武時代に遡る多くの木簡文書類の全てが渡来 人によるとはとても思えません。 最近、8世紀〜9世紀の木簡が多数出土し、国語学界でも話題になっていますが、それら木簡の 用字法は、従来の上代仮名遣いの常識を逸脱したものが多く、国語学者の首を傾げさせています。 それはこういうことでしょう。 7世紀末〜8世紀前半、白村江帰化人二世を主とする帰化人書記官達が、草創期の各国国衙に派遣され て文書事務に当たっていました。 彼らの身分は「主典」よりもっと下の七〜八位、あるいは大・少初位程度のものであったでしょうが、 一応は位階を持つ官人であり、現代で言えば係長ぐらいのクラスではあったでしょう。 しかし、各国国衙にはそれ以外に文盲のローカルスタッフが多数雇われていたはずであり、 租庸調の運搬実務などはそれらのローカルスタッフが担当していたはずです。 官僚組織の末端にいて、彼らローカルスタッフと直接関わる仕事をしていた帰化人書記官達は、 運搬物の荷札程度のものは書けるように、暇をみてローカルスタッフのために「読み書き教室」を やり、生半可に字を習ったローカルスタッフ達が書いたのが国語学者達の首を傾げさせている木簡 ・・・・ということでしょう。 私は役人ではありませんが、現在は外務省の在外公館で仕事をしており、ローカルスタッフに日本語を 教えるという仕事もしています。在外公館のような官僚機構を実際に運営しているのは、決して表面 には出てこない課長以下の中下級官僚とローカルスタッフであり、上の方は実務には殆どタッチしない ということは身を以て知っています。そんなことは現代でも奈良時代でも変わりありません。 万葉集は大伴家持が編纂したということになっているようですが、仮にも従五位下越中守・名族大伴氏の 総帥ともあろう者が、自ら筆を取って編集作業をしたなどということは絶対にあり得ません。 >もちろん、渡来百済人や中国人が中・下級官僚として、記紀等の「正規漢文」 >編纂に関与したことは充分有り得ると思います。しかしながら万葉仮名とい >う倭語表記法に関し、百済渡来人の全面的関与を想定するのは、かなり無理 >があると思うのです。以上、思うつくままではありますが、取り敢えずの感 >想です。 上代日本語表記法が「万葉仮名」と呼ばれるのはその資料の大半を「万葉集」が提供しているから であり、他は古事記・日本書紀・風土記などの漢文体・変体漢文体文書に現れる歌謡・注などがある だけです。 但し、万葉集全部が一字一音の「借音仮名」で書かれているわけではなく、漢字訓読・借訓仮名など別の 表記方もあり、それらは純粋な日本人が書いた可能性があります。 上代特殊仮名遣い・上代八母音説の根拠となっているのはもちろん「借音仮名」の文書です。 そして、万葉集で「借音仮名」だけで書かれている巻は巻五・十四・十五・十七・十八・二十ですが、 これらは全て7世紀末〜8世紀前半に記録されたことが明かであり、  ・巻十五の前半は遣新羅使一行の歌を集めたもの・・・朝鮮語通訳が同行したはず  ・巻五の歌は大宰府で読まれたもの・・・大宰府は対新羅外交防衛の拠点で朝鮮語通訳をおいていたはず  ・巻十四、巻二十の防人歌・・・大宰府の役人が収集したはず  ・巻十四の東歌・・・・666年はじめ、東国には多くの白村江帰化人が配置された などの白村江帰化人二世を中心とする朝鮮帰化人達が書いたと考えられる状況証拠があります。 また、その他の巻に関しても地方で収集された歌が圧倒的に多く、それらは律令制官僚機構を通じて 収集されたはずです。つまり、万葉集借音仮名文書に限って言えば、これは大伴氏の私的事業ではなく、 国家が関与した事業であったはずです。そして古事記・日本書紀・風土記などももちろん国家的事業です。 要するに7世紀末〜8世紀前半の借音仮名日本語文書の作成は全て律令制官僚機構を通じて行われた 国家的事業であり、その全てに朝鮮帰化人(白村江帰化人二世達)中下級書記官が実務面で携わっていた、 と考えても全く問題はありません。 Time : 2001/ 3/30(金) 00:49:16
Name : MK E-mail : Title : 宅配の新聞を選ぶ、続き。 Comments: Aを止めてS新聞へ。他の新聞も見たくなってる所へY新聞のおじさん登場! 遊園地とかの入場券くれるし三ヵ月分ただで&洗剤あげますの言葉に、主婦は ころっと参って契約しちゃった。おばはんは現物に弱い。で、今は2紙とってます。 読売は分厚い折り込み広告と、客員研究員の岡崎久彦氏が光っている様に思います。 3月26日付の教育を考えるシンポジウムの西部邁氏や中曽根元首相の基調講演の紙面が 又、とても良かったです。”教育は歴史を離れては存在しない...”ってね。 但、岡崎氏ちょっと白髪が増えた感じで体調如何でしょうか。 Time : 2001/ 3/31(土) 10:57:25
Name : Awaji E-mail : Title : 倭国の漢字使用について(長文御免) Comments: 游惟さん今日は。Awajiです。ご丁寧な解説ありがとうございました。 頑迷固陋かどうかは別として、このご意見には様々な反論が寄せられると思 いますが、ご解説に関する小生の印象(重ねて申しますが、言語学及び朝鮮 語に関しては素人のレベルにも達していません)は以下の通りです。もし何 らかのご参考になれば望外の喜びです。 まず極めて基礎的かつ素朴な疑問ですが、現代韓国語は本当に万葉仮名に対 応した音素での八母音なのでしょうか? 小生は例の「複合母音」でギブアップしてしまったのですが、どうも倭人と は発音構造が違い過ぎるような印象がありますもので。 因みに同様の数え方をすれば、北京語、福建語、モンゴル語、チベット語、 英語、ドイツ語フランス語、スペイン語、ロシア語、ペルシャ語、ヒンドゥ ー語は、(表記上と発音上で)それぞれ言語学上では何母音とされているの でしょうか? A新羅統一までの朝鮮半島における言語について、 ご承知の通り、朝鮮半島には我が国のような古代言語資料が皆無に近く、統 一以前の三国鼎立時代にどのような言語が話されていたかは、殆ど解明され ていません。 僅かに手掛かりとなる「郷歌」「吏読」「千字文方言」「経典解説」等に関 しても、新羅系資料が中心で、百済系資料は皆無に近いと言って良いでしょ う。百済語に関する最大の資料が、漢文という双方にとっての異言語で記述 された日本書紀の百済系史料に残された借音語彙であると言うのは、ある意 味では最大の隘路(アイロニー?)と言わざるを得ませんね。(^0^)" ところが『三国志』東夷伝での、各種族の言語の類似性についての記述では、  “高句麗・・・言語諸事、多與夫餘同、”....高句麗≒夫餘  “東沃沮・・・其言語戸句麗大同”....東沃沮≒高句麗  “キ邑婁・・・言語不與夫餘、句麗同。”....キ邑婁≠夫餘・高句麗  “シ歳・・・言語法俗大抵與句麗同、”....シ歳≒高句麗  “州胡・・・言語不與韓同、”....州胡(済州島)≠馬韓  “辰韓・・・其言語不與馬韓同”....辰韓≠馬韓  “辰韓・・・有似秦人・・・謂樂浪人本其殘餘人”....辰韓=楽浪≒秦  “弁辰・・・衣服居處與辰韓同。言語法俗相似”....弁辰≒辰韓  “弁辰・・・其涜廬國與倭接界”....弁辰?倭 とされており、魏時代の朝鮮半島付近は、北方は概ね夫餘系か粛慎系、南方 はかなり複雑で韓系とその他の混在のように思われます。 そして、百済は馬韓『伯済』に起源を持ち夫餘系が支配したと見られる国で すから、支配階級の言語は夫餘≒高句麗系であったと思われます。 また新羅は弁辰『斯廬』に起源を持つ(?)国の可能性がありますから、少 なくとも夫餘≒高句麗系とは(相違の程度は良く分かりませんが)異なる言 語であったと思われます。 従って、百済語(特に日本亡命者大部分を占めたと思われる支配階層の言語) が、新羅語(歴史的に見て中世以降の朝鮮語の基礎となった蓋然性は否定で きない)と方言程度の差違であったのかどうかについては、「不明」とすべ きではないでしょうか? @ 京畿道(ソウル)方言と全羅道・慶尚道方言 この観点からすれば、まず朝鮮語の全羅道方言と百済語が同一の言語(発音) であったかどうかが最大の問題だと思います。 もちろん新羅統一(676)以降は言語の統一(仮に百済語があったとしても死 語化?し、新羅語が朝鮮語となった?)も進んだであろうことは容易に想像 できますし、さらに高麗統一(936)時代以降は統一朝鮮語に関して慶尚道方 言がローカル化し、京畿道方言が標準語化したことも想像でき得るでしょう。 その際には地理的・文化的により近しい全羅道方言の方が、慶尚道方言より 京畿道方言(標準語)に近かったと言うことも充分あり得ると思います。 しかし、そのことと三国時代の百済語(?)が高麗以降の朝鮮標準語と言語(発 音)的に類似していたかどうかは、別問題ではないでしょうか? 游惟さんが新羅語が朝鮮語の基礎となったというのは政治的推量に過ぎず、 音韻・発音的には百済語が基礎となったとされているのは、どのような根拠 によるものか分かりませんが、より正確には百済の故地である全羅道民衆語 (韓語系?)は、高麗時代の標準語の系統を持つ現代韓国語に発音が近似的 であった可能性がある・・・百済支配層語に関しては不明である・・・と言 うべきものではないでしょうか? 要するに游惟さんの仮説は、三国時代の百済語と新羅語が後世朝鮮語の方言 レベルの差であり、さらに百済語は後世(現代)朝鮮語と近似的なものであ ったという未確定な仮説に準拠しておられるような気がします。 (なお、小生は朝鮮語の母音・複合母音等については、正直言って良く分か りませんが、15Cのハングル制定時期と現在朝鮮語との間に母音構成上の変化 が認められると言う説もあるのでは?) なお、奈良時代日本語の五母音説に関しては、現段階では保留させていただ きます。従ってこの前提から奈良時代の八母音表記をもって百済語八母音を 証拠立てるのは、おっしゃるとおりトートロジーの危惧を感じざるを得ませ ん。 C母音の変化について、 この問題における游惟さんの最大の論点は「奈良時代の八母音表記が平安時 代には五母音表記に変化している。これはそもそも日本人の五母音自体は変 化していない(変化するとは考えられない)が、奈良時代の記述者が八母音 を意識する渡来人であり、日本人の意識していない八母音で表記した。しか し彼等の子孫が母国語をすて日本語に慣れた段階で八母音も捨て去られたた めである」と言うことだと思います(小生が誤解しているかも知れません)。 しかしもう一つの可能性として、奈良時代の万葉仮名から平安時代の平仮名 への表記変化が、これをもたらしたと言う可能性はないのでしょうか? 我々が万葉仮名に接するときに、直ちに感じるのは同音異字適用の多さです。 ところが平仮名については多少の異字体はあっても基本的に同音同字に統一 され、同時に濁音・半濁音すら不明確な極めてファジーな表記に変化してい るように感じます。 つまり平仮名使用の一般化に伴って発音「表記」の簡略化が行われ、これが さらに発音自体の簡略化というスパイラル現象を起こした可能性がないのか と言うことです。 (旧仮名遣いから新仮名遣いへの変更が、旧発音の急速な衰退に拍車をかけ たのではないかという発想です) これは単なる瞬間的思いつきで、小生自身が納得できない部分もありますの で、無視していただいて結構ですが、要は表記(変化)と発音(変化)をど の程度厳密に見るべきかという問題があると感じます。 D5〜6世紀の漢字表記について、 稲荷山鉄剣について、朝鮮漢文の癖が見られると言う説ですが、記・中に ついては漢文古体によると言う意見もあり、また朝鮮語(未知の百済語も広 い意味では同系統?)と日本語の語順が中国語から見れば類似的であること から、文章構造的に発生することも考えられるでしょう。 小生も新羅はともかく高麗・百済が倭国よりも漢字先進国であったことは当 然だと思いますし、その表記を取り入れた可能性も当然あり得ると思います。 ただこの問題は、だからといってこれを書いたのは渡来人と言えるのか? 稲荷山鉄剣の主人公(関東地方5世紀の倭人豪族・貴族)がこの漢字を読め なかったと言うことはあり得ない。主人が読めるならば、同じ倭人の近臣( 縁族)も読める可能性が有り、読めるならば同時に書けるはずではないか? と言うことなのです。 つまり、表記の類似(僻)は文章構造の類似からくる技法伝播の可能性を意 味するが、表記者そのものの同一性を意味するものとは限らないと思うので すね。 游惟さんも「貴族達は読み書きが出来た」ことを認めておられますね。それ ならば5世紀の貴族・地方豪族を補佐する数百人の家臣(もちろん全員では ありません)についても同様の可能性が認められる筈です。 もちろん彼等の大部分が渡来人ということは考えられませんから、それから 数百年後の8世紀の日本人が、なお「純粋な日本人には文字の書ける人間が 殆どおらず」とされるのは、どう考えても無理があると思います。 なお以前にも感じていたのですが、游惟さんと小生の大きな相違点は、日本 における国家形成過程にあると思います。游惟さんは、「新興国家が「お雇 い外国人」に文書事務を任せる」とおっしゃっています。 しかし小生は紀元一世紀に後漢と外交関係を持ち、金印の意味と漢字に接し、 歳時をもって外交関係を保ち、紀元3世紀に西日本の大部分(?)を支配する 大国として魏と外交を再開し、紀元4世紀に南韓において高句麗と覇権を競 い、新興国の百済・新羅から王族を質に取り、5世紀に堂々たる正格漢文の 表を上し、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王に 叙(当然武王はこの称号の意味を熟知していた)され、同時期に関東におい て鉄剣に先祖系譜と天下思想を記述し、6世紀に隋に対して国書を以って並 立天子思想を主張し、百済・新羅から大国とされ、7世紀に百済救援のため 渡海作戦をもって唐と戦った国・・・を8世紀時点で新興国家だとは思えま せん。 既に3〜4世紀には、かなり高度な官僚制度と政治体制を構築していたと見 るべきでしょうし、その後も多くの貴族・豪族が南韓(任那加羅)経営に関 わり、その文化や財貨を吸収し続けた国家だと考えるべきでしょう。その国 家は当然に情報伝達の手段(おそらくは漢字?)を取り入れていたと想像出 来るのではないでしょうか? (小生は三角縁神獣鏡が倭製であるという説には、なお検討すべき要素があ ると思っていますが、仮にそうだとすれば3世紀には渡来人によるものとは いえ、倭国内で吉祥文が作成されたこととなり、それを倭人が全く理解して いなかったとは思えないので、倭国の漢字理解は相当に古いと考えざるを得 なくなります) 推古期までに地方における文書作成例が少ないとおっしゃいますが、その時 期に百済・新羅にはどのような文書作成例があるのでしょうか? 少なくとも6〜7世紀における文書遺物においては、倭国はむしろ百済・新 羅を圧倒していると見るべきではないでしょうか? 小生も7世紀の百済(一部高麗人)亡命渡来人が、倭国の政治文化の発展に 大きく貢献したことは否定しません。しかし推古期遺文や幻の推古期史書に 始まる記紀・万葉集・風土記は明らかに漢字を読み書きし得る多くの日本人 を対象にしたものであり、日本語と日本神話・系譜伝承を理解する日本人の 手によって記述(さらに渡来人によって正格漢文に推敲?)されたものだと 思います。 記紀・万葉に漢音・呉音(周音?)が混在しているのも、百済亡命者という 様な同質性の人達によるものではなく、漢字知識を持った様々な人達の共同 作業であることを示唆していると思います 八母音表記の消長を百済亡命者に帰する游惟さんの仮説は、一つの可能性を 示すものかも知れませんが、とても100%というような蓋然性があるとは思 えない・・・というのが素人である小生の率直な感想です。 Time : 2001/ 3/31(土) 11:44:27
Name : Awaji E-mail : Title : 「史」姓について補足です Comments: Awajiですが、「史=フヒト」について少し追記しておきます。 >>白村江以前、日本で読み書きが出来たのは王侯貴族と、文書事務を生業 >>とする部民「史」だけで、その「史」はほぼ100%帰化人氏族であり、 >>ごく一部は中国帰化人であったかも知れませんが、大半は朝鮮帰化人で >>あったはずです。 渡来人に与えられた「姓=カバネ」には、「村主=スグリ」「首=オビ」 「吉士?=キシ」「忌寸=イムキ」等がありますが、「史=フヒト」もそ の一つで、「阿直岐=アチキ」の子孫をはじめ「田辺」「船」「津」「白 猪」等に与えられたものです。 田辺 =百済系 大阪府柏原市田辺が本拠 西文氏・上毛野氏と関係 船 =百済系 王辰爾の子孫 蘇我稲目と関係 津 =百済系 貴須(仇首)王の子孫 船氏縁族 白猪(葛井)=百済系 吉備白猪屯倉が本拠? 船氏縁族 従って渡来人のうちで、主として文書事務に従事した氏族の「姓」が「史」 なのですから100%渡来人であるのは当然でしょう。 しかし、これは「君」「臣」「連」等を姓とする倭人氏族や「忌寸」「首」 等を姓とする渡来人(秦・東漢・西文)が文書事務に従事しなかったとい うことではありません。 まして、7世紀の日本で「読み書きが出来たのは王侯貴族と、文書事務を 生業とする部民『史』だけ」というような状況は全く考えられません。 この部分は「程度の差はあるものの、王侯貴族や地方豪族の周辺に侍した縁 族・神官・僧・役人、さらに古来の渡来系一族、新来の亡命渡来系の一族等」 とすべきでしょう。 つまり、平安期や鎌倉期と比べても漢字に限れば、質的には然程の違いはな かったのではないでしょうか?(漢字識字率10%→20%程度の差??) ただし平仮名使用の一般化によって識字率そのものは飛躍的に高まったでし ょうね。 Time : 2001/ 3/31(土) 16:01:43
Name : Awaji E-mail : Title : 「万葉集」について補足です Comments: Awajiですが、万葉集に関して追記しておきます。 >>万葉集で「借音仮名」だけで書かれている巻は巻五・十四・十五・十七 >>・十八・二十ですが、これらは全て7世紀末〜8世紀前半に記録された >>ことが明かであり、 >>・巻十五の前半は遣新羅使一行の歌を集めたもの・・・朝鮮語通訳が同 >> 行したはず >>・巻五の歌は大宰府で読まれたもの・・・大宰府は対新羅外交防衛の拠 >> 点で朝鮮語通訳をおいていたはず >>・巻十四、巻二十の防人歌・・・大宰府の役人が収集したはず >>・巻十四の東歌・・・・666年はじめ、東国には多くの白村江帰化人が配 >> 置された >>などの白村江帰化人二世を中心とする朝鮮帰化人達が書いたと考えられ >>る状況証拠があります。 という部分ですが、巻五は極めて特殊な構成で知られるもので、その大半 が太宰帥大伴旅人と筑前守山上憶良の作となっています。 つまり当時の日本人としては最高の知識人であり歌人である二人の作品で あり、編集したのも二人のうちの何れかだとされています。もちろん彼等 が漢字を読み書きできないということは絶対に有り得ず、彼等自身が記録 した可能性が極めて高いと思われます。 つまり状況証拠からすれば、この巻こそ日本人によって「借音仮名」がな されたものと考えるべきものではないでしょうか? Time : 2001/ 3/31(土) 22:44:45