Name    : PAKU
E-mail  :
Title   :
 >皆様、2mさんにはレスをつけないでください。
Comments:
無視すればいいものを、、、、
懸命な良識あるパンダさんは思っていてもいっちゃいけないことはしっかり
わかっていらっしゃる(藁)

これははっきりいって言論ファシズムです。わかりますね、
そして、なんだかんだ言っていますが、

>PS
>味方してくれてありがとう

こういっている、小パンダ(Toshy)さんも、同類ですね(藁)

>パンダさんやToshyさんのような語るべきものを
>持っていらっしゃる方々は尚更です。

パンダさんはわかりますけど、Toshyさんが「語るべきもの」をもっている
なんてちっとも、思いませんが。

Toshy(小パンダさん)は大パンダさんの親衛隊長みたいなもんですかね。
いっしょにされたらパンダさんの格がおちるような、、、、、

Time    : 2001/ 2/ 1(木) 00:26:59

Name : Toshy E-mail : Title : ははは Comments: 小パンダですか。素敵な名前ありがと♪ Time : 2001/ 2/ 1(木) 00:35:20
Name : PAKU E-mail : Title : 怒っちゃったかな(藁) Comments: ついでにいいますけど、、、 >PAKUさんが成績や容姿が人格に結びつけている、 成績や芸術性や容姿が人格形成に結びついているいることは明白な事実で 「結び付けてはいけない」というほうが、むしろ、人間性を無視する教えの ようにおもえます 身の程を知らない若者が多いいのは、教育が理想主義に振れすぎている 当然の帰結かと思うのですが、、、、。 あ、怒っているのなら無視されても結構です(藁) Time : 2001/ 2/ 1(木) 00:45:43
Name : Ponya E-mail : Title : Toshyさん Comments: せっかく直々にお願いされましたので諒解しておきますが、 別に憤慨しているわけではありませんよ。 行為に対しての非難ならともかく、人格面で貶めるような言動は 発言者自身の人格も損なう結果になるので、それを指摘しているだけです。 そういう意味ではToshyさん、人を「狂人」呼ばわりするあなたも 今はあまり素敵ではございません。ご油断なさいますな。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 00:57:05
Name : きんたろう E-mail : Title : 新たな謎^^;; Comments: こんばんは、みなさん。 パンダさん、陽成天皇の妄想はとても面白く読ませていただきましたv(^o^) >エライものに巻き込んじゃって、申し訳けありません(笑い) いえ、とんでもないですよ、笑 とても面白く思っています^^ 実のところ、清和源氏の方が格好いいので(笑)系譜詐称をしていたのではないか といった程度の知識しかありませんでしたから...自爆^^ それにしてもパンダさんのデータ能力には驚かされています。 とてもすごいですね、とても参考になりました。 本筋から少しずれるかも知れませんが、貞観15年(873)に親王宣下や臣籍降 下がなされているとすれば各皇子の生誕年がさらに別の年である可能性も出てくる ように思いました^^;; でも貞純親王は生まれたばかりですが大丈夫のようですね?? パンダさんの説を読んでいるとなるほどと思うばかりです...笑 敢えて質問的に書いてみますね。 @の場合Aは必然なのでしょうか?? (基本的な質問ですみません^^;;) 清和天皇は三十人以上もの女官に囲まれていたそうですが??次代の天皇になるべ き貞明に求められたのも次代に子孫を残すことこそが最優先だったように思われる のですが...^^ その視点からすれば、パンダさんの指摘の部分についてさほど咎められる程の事で はなかったのではないかとも思ってしまいます。 (まして近親婚の時代ですから...ピンぼけかも??笑) ところで清和源氏が何故これほど優勢になったのかと言えば満仲の存在が最も大き いように思っています。 満仲の912年生まれはまず間違いがないと思われますから...??^^ ここを基準に考えてみました。 するとパンダさんが試算されたように経基王の生誕年とかろうじて適合する年とは やはり897年になると思います。 でもこれでは元平親王とデータ上合わなくなってしまいますよね?? 私は将門記における「介経基、いまだ兵の道に練れず」と書かれている事から見て この時の経基王はまだ若輩者だったのではないかと思っていました。 ところが、897年生まれだとすれば年齢が40歳以上になっています。 この年になれば十分な経験を積んでいたはずだと思えるのです。 次に元平親王が890年生まれだと仮定すると経基王の生誕年は915年説が最も 妥当であるように思われます?? この場合だと天慶八年には23歳ですから「兵の道に不十分」の表記と合うように 思うのです。 でもこれだと満仲より年下になってしまいますね(;^_^A) なかのさん、初めまして^^ ご指名を有り難うございます(^o^) 私もほとんど知らなかったのですが、清和・陽成源氏の謎とは色々と面白い対象だ と思っています。 なかのさんも是非ご参加下さいね。 清和天皇の父親の文徳天皇の場合を見てみると、子供達に能有、毎有、時有、本有、 定有、載有、行有、富有等の名前を付けていました。 何故元号の一文字を選んだのかについては良く分かりません^^;; Time : 2001/ 2/ 1(木) 01:00:55
Name : Toshy E-mail : Title : そういう誤解があると思った Comments: PAKUさんへ 誤解があると思って書き込みし直しにきましたが、やはり誤解がありましたね。 まずは、変な乱闘に巻き込んだこと、謝罪申し上げます。 ご意見、ありがたく拝見いたしました。 ここで問題になっているのは、人格=学校の成績の話で、 成績がいいからいい人間という話ではない、ということです。 もちろん成績は努力の結晶であり、もちろん人間性と関係しますが、 人格そのものではない、ということを、ニッキーさんはいいたかったのだと思います。 ということでどうでしょうか。 互いに遺恨のある訳でなし、どうか喧嘩腰の書き込みはやめてください。 お願い申し上げます。 ponyaさん> ご忠告ありがとうございました。 事実、私は決して立派な人間ではなく、ご覧の通り口の悪い人間です。 昨日は特にキレていました。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 01:29:58
Name : Toshy E-mail : Title : PAKUさんへ追伸 Comments: 成績その他と人格とが比例しない例として、 過去に私がここで述べたことを思い出してください。私は一応、5ヶ国語わかります。 (まあ、まともに話せるのは母国語である日本語と専門である英語くらいですが・・・) で、私の周りを見て、それほど多く言語を話す人物はそんなにいません。 だからといって、私の人格が他人よりも優れているとは、あなたは思わないでしょう。 また、曲がりなりにも私は社長です。だからといって偉いわけでもないです。 自分の意見はこれだけです。 後のことは、私ではなくニッキーさんに聞いてください。 先の書き込みについて説明しますが、別に怒ったわけではなく、 ただあなたのユーモアに感心して笑っただけです。 小パンダの名はありがたくいただきましょう。 ただ、パンダさんの親衛隊長は辞退いたします。(笑) 私は古代史について、まったく知りませんから。 パンダさんとは源平以外でかぶる話は出来ませんので。 2mくんとは、歩み寄ろうと努力しましたが、 ニッキーさんご指摘のようにひどい曲解でどうにもなりませんでした。 ニッキーさんの悪口は、あの指摘に対する反論をつけてくださいね、お願いいたします。 あなたに対する暴言は私の乱闘を引きずったものとして、私から謝罪します。 どうか御収め願います。 みなさま、申し訳ありませんでした。もとの穏やかな話し合いに戻ってください。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 03:26:50
Name : PAKU E-mail : Title : 諒解 Comments: こちらこそ失礼な事を言ってすみませんでした。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 07:53:57
Name : なかの E-mail : Title : お返事 Comments: きんたろうさま、パンダさま> レスありがとうございました。 時々会話に参加させていただきますので、よろしくお願いします。 あと、「とまり木」コーナーが何故か書き込みできなくなっていますので、 こちらへ・・。 管理人さんがおられるそうですが、書き込みについてよろしくお願いします。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 08:16:54
Name : Toshy E-mail : Title : PAKUさんへ Comments: ありがとうございます。うれしいです。 またいい気分で書き込みできそうです! Time : 2001/ 2/ 1(木) 09:57:55
Name : Ponya E-mail : Title : Toshyさん Comments: 私も高飛車な物言いをしてすみませんでした。 時おり飛び出す不適切な発言に、常連の皆様までが「無関心」 「不注意」になってはと、場の雰囲気が硬直するのを覚悟で 申し上げましたが、さすがに大人の対応をされましたね。 (内心、これで怒るようでは…と余計な心配をしていましたが) 自らの非を認め謝罪されること迅速にて感心します。 また自ら事態収拾に積極的で、この場の皆さんへの心遣いを 示されていること、自身もこうありたいものだと思いました。 これからもぜひよろしくお願いします。 Time : 2001/ 2/ 1(木) 16:33:58
Name : パンダ E-mail : Title : 陽成源氏に関する疑問大歓迎。。。 Comments: パンダです。どうやら「和」の雰囲気が戻ったようで、無責任な言い方で すが、ご同慶の至りです。 で。。。私のほうは、あいも変わらず例によって「陽成源氏」ですが、 きんたろうさん、それからご興味をお持ち頂いているみなさん。。。妄想 にお付き合い頂いて、ありがとうございます。 頼信願文から、陽成・清和源氏の謎について。。。一つの発想(今のとこ ろ単なる妄想です)をひねり出したのですが、ここからが大変で。。。こ の発想の成立の蓋然性を検証しなければなりません。 つまり、この妄想を完全に否定するような資料、あるいは極めて微かであ っても、これを示唆するような資料の存在を確認することです(笑い) で。。。膨大な諸資料(例えば日記類)を顕微鏡で注意深く探さねばなら ないのですが、私のような素人には事実上不可能です。(泣き) そこで、皆さんの否定的突っ込みや、関連資料(知識)の提供をお願い出 来れば。。。と思うわけです。 で。。。きんたろうさんのご指摘ですが。。。 >>でも貞純親王は生まれたばかりですが大丈夫のようですね?? これも、なかなか難しいところで。。。当時の親王宣下の慣習からすれば、 余程のことがない限り、新生児に対する親王宣下は無いと思われます。 ですから、この辺の慣習実態と本件の事情(?)をもう少し確認しなけれ ばならないでしょう。 >>敢えて質問的に書いてみますね。@の場合Aは必然なのでしょうか?? >>(基本的な質問ですみません^^;;)。。。 >>さほど咎められる程の事ではなかったのではないかとも思ってしまいます。 おっしゃるとおり、これも重要な視点だと思うのですが。。。子をなすの は皇位継承者の義務とも言うべき神聖な使命ですね。 で。。。日本の婚姻制度(家族制度)は、明らかにチャイナとは異なって おり、妻問いに見られる様に極めて女系的です。ですから帝王の後宮制度 も、宦官による厳格な管理下におかれたチャイナやトルコでは考えられな いほどルーズなものですね。 (それが「源氏物語」という美しくも悲しい文学を生んだ訳ですが。。。) それでもやはり、仮にも天皇たるものが太上天皇である父の側室(女御と いうのは、この場合単なる女官ではなく、側室愛人の意味です。。。つま りは義母になります)との間に子を設けたとしたら。。。不倫の極みであ り、宮中の極秘事だったと思うんです。 実は。。。紫式部の「源氏物語」発想のヒントは、ここにあり(?)なん てトンデモも考えているんですが。。。いわば逆「光源氏」です(笑い) また清和の厭世的出家や若年死も、この事件の懊悩が原因では無いか。。。 な〜んて ことも(笑い) 基経が陽成天皇を徹底排斥し、光孝(母方の従兄弟)ー宇多(殆ど血縁が 無い)に皇統を移したのも、あるいは。。。折角皆の知恵で貞純親王とい う形で収めたものを、元平親王という無神経な措置を強行した陽成に対す る当時の高級貴族世論の反感を反映したものでは無いかと。。。 (これも無理がアルカナァ〜?) なお、陽成が清和の子でないという説には。。。さらに無理ありと思って います。 >>「介経基、いまだ兵の道に練れず」と書かれている事から見てこの時の >>経基王はまだ若輩者だったのではないかと思っていました。ところが、 >>897年生まれだとすれば年齢が40歳以上になっています。 そうですね。私はこの表現は。。。イッパシに武者面をして兵法などを語 っているが、所詮は欲ぼけの中央貴族のヘラヘラだ。。。と言う意味で、 必ずしも経基の人間的、年齢的成熟度を意味したものではない。。。と捉 えています(我田引水?。。。笑い) よければ、なかのさんや皆さんも、色々な面から突っ込んでみて下さい。 (どんな思いつきの放言でも。。。この際大歓迎です。なお私は、物事を ナアナアで済ますのは好きではありませんので、少し辛辣な反論をするこ とがありますが、他意はありませんのでご容赦願います。) Time : 2001/ 2/ 1(木) 21:14:58
Name : なかの E-mail : Title : 経基王について、そして脱線 Comments: なかのです。パンダさんではありませんが、どうやら収まったようで、 ホッとしました。 パンダさま、きんたろうさま> 思いっきり背伸びをして書き込みますので、 きつい批判をされても反論できないと思いますが、 お手柔らかにお願いします。 以前に私が清和・陽成両天皇の皇子と元号とについて尋ねたときに、 きんたろうさんが文徳天皇の子の名を列記されていたのを見て 思い出しました。 パンダさんがすでに述べられていたのですが、 経基王の母は文徳天皇の子である右大臣源能有の娘とされており、 私もそれを否定する記録は知りません。 (ありましたら教えてください。以下は無いものとして進めます。) 父親に「2説」あるというのに、母親に異説がないというのも変であり、 おそらく母親は間違いないのでしょう。 ではこの源能有はというと、寛平9年(西暦897)に53歳で亡くなっています。 この外祖父の年代を考慮すると、お二人の言われている経基生誕897年説は、 やや遅いような感じもしますが、まだ許容範囲のうちと思われます。 一方で、経基王が源満仲のほんとうの父であり、 かつ源満仲が延喜12年(西暦912)生まれであるならば、 清和天皇が元慶4年(西暦880)に31歳くらいで崩じているので、 清和天皇から源満仲まで62年、生誕年の差があります。 この間に貞純説で3世代、元平説で4世代の世代交代があったことになります。 いくら早熟とはいえ、4世代で62年というのは厳しい・・? 経基王897年生誕説では、能有〜経基は2世代で53年です。 一方で清和−陽成−元平−経基の3世代は47年、 陽成−元平−経基の2世代は29年・・無理ではないが苦しいかも・・。 それともどこかにきんたろうさんが言われるように、 根本的な誤り(親子関係等)があるのでしょうか・・? 以上、経基王の母親について これまであまり触れられていなかったようなので・・。 最後に主論から脱線です。 宇多天皇は、陽成天皇の時に「源定省」として朝廷に仕えていたと されており、陽成院は後になって、「今の天皇は自分に仕えていた」と ぼやいていた(?)とするような記載を読んだことがあります。 パンダさんは「無理」としながらも、この皇位継承を 当時の貴族が陽成天皇を嫌ったための強硬措置とのように言われましたが、 確かにこの継承は何かあると思います。 宇多天皇(源定省)の母親は桓武天皇の子の仲野親王の娘の班子女王で、 権力者の藤原氏とは縁もありません。 光孝天皇と藤原基経とは母方のいとこであり、光孝天皇の方が6歳ほど 年上であったようであり、基経も遠慮したかもしれませんが、 時の権勢や自分に白羽の矢を立てたという即位の事情などから 立太子において基経の意向を無視できなかったと思います。 その中で源姓を与えられて臣籍に下っていた源定省を太子にしたことについて、 (子がみな臣籍になっていたのかもしれませんが・・) そこに「陽成の再登板」阻止の意向があったとするのは 定省が陽成天皇の臣下だったことがあるということを考慮すれば ある程度考えられると思います。 当時の皇族で有望であるということ、陽成天皇と同世代(宇多の方が1つ年上) ということ、さすがに「臣下」だった者の次に登板はできないこと・・。 うーん、まだ説得力には乏しいですね・・。 Time : 2001/ 2/ 2(金) 21:52:48
Name : 2m E-mail : Title : パンダさん、Toshyさんへ Comments: お二人の考えはますます良く解りました。何を言っても無駄になる人達ですね。 人を子供扱いして大人ぶって、大したものですね。同意者には物凄く優しく、反 対者・批判者には物凄く厳しい、大した大人っぷりですよね。・・そんな事をする お二人は、物凄くアレですね。 「歩み寄り」と言うのは、「大人である自分達に合わせろ」と言う意味と取りま した。そんな人に合わせてあげられる奇特な性質ではありませんので、あしから ず。 ・・・こんな事を言ってもどうせ無視するのでしょうけど。まあ、構いません よ。何しろ「大人ぶった子供」ほど厄介な人はいませんよね、Toshyさんへ。 >将棋では、終局はまったく一方的。中盤戦が将棋の醍醐味なのでしょうね。 全くの間違いです。将棋の醍醐味は、序盤・中盤・終盤全てです。プロの将棋で も、終盤一手差で勝敗が決まる事もあります。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 00:53:54
Name : ニッキー E-mail : gymidns@earth.co.jp Title : PAKUさん Comments: PAKUさん 先日は申し訳ありませんでした。 私が貴方様にあのようなことを申し上げた事情をご説明いたします。 あの書き込みを見ました時、成績で人格を判断するような方に思ったのです。 そのためあんな事を言いました、すみませんでした。 また2mさんとToshyさんとでは、明らかに2mさんに非があると思います。 でもPAKUさんの書き込みは、Toshyさんに喧嘩を売るものでした。 それで謝る必要がないと思っていたのです。これが謝罪の遅れた原因です。 許して頂かなくとも結構ですが、これで私の書き込みを終わりにします。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 01:21:50
Name : パンダ E-mail : Title : 文徳からの世代。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。早速のご指摘、ありがとうございます。 >>清和天皇から源満仲まで62年、能有〜経基は2世代で53年、 >>清和−陽成−元平−経基の3世代は47年、陽成−元平−経基 >>の2世代は29年陽成−元平−経基の2世代は29年・・無理 >>ではないが苦しいかも。。。 おっしゃるとおり、陽成が12歳位で清和の女御と通じて、清和の死の頃 に出産させねばなりませんので、そもそも生理的に有り得るのかどうか も分かりません。ただ世代に関して言えば。。。概ね次のようになりま す。(笑い) 1文徳 (827〜858)32 2源能有 (845〜897)53ー文徳18の子 3能有女 (880〜XXX)XXー能有36の子 2清和 (850〜880)31ー文徳23の子 3陽成 (868〜949)82ー清和28の子 3貞純親王(873〜916)34ー清和23の子(公表) 4元平親王(891〜958)68ー陽成23の子(公表)*奇妙に一致(笑い) 4貞純親王(880〜916)37=元平親王(880〜958)79ー陽成12の子? 5源経基 (897〜961)65ー貞純25(実18?)の子ー能有女18?の子 6源満仲 (912〜997)86ー経基15の子 以下関係年表(?)です 867貞観 9年 宇多生誕 868貞観10年12月16日 陽成生誕 869貞観11年 2月 1日 立太子 872貞観14年 9月 2日 基経 摂政 873貞観15年 3月23日 貞純親王生誕とする??? 873貞観15年 4月21日 親王宣下、臣籍降下 876貞観18年11月28日 陽成践祚 877貞観19年 1月 3日 陽成即位 878元慶 2年 3月 蝦夷反乱 879元慶 3年 5月 8日 清和出家 880元慶 4年 この頃 貞純生誕(清和の子とする)??? 880元慶 4年11月 8日 基経 関白右大臣 880元慶 4年12月 4日 清和崩御 880元慶 4年12月 基経 太政大臣 882元慶 6年 この頃 元平 認知騒動??? 883元慶 7年 8月12日 基経 辞任申請(政務拒否) 883元慶 7年11月10日 源陰の子 益殺人事件 884元慶 8年 2月 4日 陽成退位(二条院) 885仁和元年 醍醐生誕 887仁和 3年 8月28日 光孝崩御、宇多践祚 889寛平元年 6月13日 高望王 平賜姓 890寛平 2年 この頃 元平改名公認??? 後世 元平生誕と混同される??? 949天暦 3年 9月29日 陽成崩御 ナァ〜ンテ。。。。。。。 (笑い) Time : 2001/ 2/ 3(土) 01:24:26
Name : パンダ E-mail : Title : 訂正。。。 Comments: チョット酔っ払い気味で。。。 3陽成 (868〜949)82ー清和28の子 ↓ 清和19の子 でした。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 01:30:48
Name : 2m E-mail : Title : ニッキーさんへ Comments: 2mのどこに非があるのですか? いっておきますが、2mは完全無欠です。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 09:20:14
Name : パンダ E-mail : Title : 小市民の常識と世代関係。。。 Comments: パンダです。。。歴史上の人物の系譜を見ていると、時には我々小市民の 常識からは理解できないような世代関係に出くわすことがありますね。 そこで。。。次の例ですが(没年余り関係ないので61歳に統一しました) 自分で書きながらチョット混乱してきたので、勘違いがあるかも知れませ んが。。。(笑い) パンダ (800〜860)61没・・・(800〜890)91没も可能 パンダ 妻A (800〜860)61没 パンダ 妻X (845〜905)61没 パンダ二世T (814〜874)61没ーパンダ 15・パンダ妻A 15 の子 パンダ二世X (860〜920)61没ーパンダ 61・パンダ妻X 15 の子 パンダ三世X (884〜944)61没ーパンダ二世X 25 の子 パンダ三世T (828〜888)61没ーパンダ二世T 15 の子 パンダ四世T (842〜902)61没ーパンダ三世T 15 の子 パンダ五世T (856〜916)61没ーパンダ四世T 15 の子 パンダ六世T (870〜930)61没ーパンダ五世T 15 の子 パンダ七世T (884〜944)61没ーパンダ六世T 15 の子 第1子が代々15歳で生まれた(生理的には別に無理がない想定?)場合 なのですが、パンダ二生Xは、パンダ五世Tよりも4歳年下になります。 パンダ二世Xとパンダ六世Tは、10歳しか違いませんから、極端にい えば両者が結婚しても特に不思議はないことになります。 その子のパンダ七世Tは、パンダ三世Xでもあります。ですから仮に パンダが884年(85歳)生存であれば、パンダは自分の孫であり七世孫 でもある赤ん坊を抱っこすることになりますね。。。(笑い) 一夫多妻、早婚早生が常識であった時代(階層)においては、世代の関 係はかなりフレキシブルに考えなければならないようでして。。。 ああ、それから。。。私は何にでもナゼナゼと問う好奇心と、他人の意見 から何かを得ようとする知識欲を持ち、率直に自分の考えを表明する。。。 幼稚な子供であり続けたいと思っていますので。。。よろしく(笑い) Time : 2001/ 2/ 3(土) 09:41:02
Name : 輔住 E-mail : Title : 2mさんへ Comments: あなたがどんな意見を言おうが私はかまいませんが 自分のことを完全無欠というようでは 他者と話し合いはできないと思いますよ。 後、偉そうなことをいえたわけではないですが、 書くときに少し意見を整理してみたほうがいいのでは? そうすると少しは反応が違うと思いますよ。 また子ども扱いされたことに憤慨しているご様子ですが あなた自身が他者を子ども扱いしている文面もあったでしょう。 あなたは相手が先にそういう文面を書いたとか述べるかも しれませんが、過去のことを思い出してもそうとは言い切れません。 あなたの意見に賛成か反対かはともかく、意見として面白いことを 書くなあと思うこともありますから、惜しいと思いますよ。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 10:35:49
Name : 2m E-mail : Title : むっか〜! Comments: >Name : 2m >E-mail : >Title : ニッキーさんへ >Comments: >2mのどこに非があるのですか?いっておきますが、2mは完全無欠です。 >Time : 2001/ 2/ 3(土) 09:20:14 その内、出てくるだろうとは思っていましたが・・。これを書いた人は、偽者の 2mです。「完全な人間なんていない。」と、2mは何度も書き込んできました。まる で反対の事を書き込んでいます。もし正体が解ったら、二度と書き込んで欲しくあ りませんね。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 12:15:35
Name : パンダ E-mail : Title : 親王・賜姓臣の共字名。。。。 Comments: パンダです。親王・賜姓臣の共字名や元号に、何か意味があるのかどうかを、 考えて見ましたがチョット分かりませんでした。折角調べたので、ご参考ま でに以下。。。何かお気づきの点があれば是非お知らせを。。。 (しかし、他人のHNでの意見発表は非道過ぎる。厳に慎んで欲しい!) 共字名。。。親王宣下「」、臣籍賜姓『』 52嵯峨「良」・・・・・業良・正良(仁明)・基良・秀良・忠良 (弘仁810〜823) 53淳和「恒」・・・・・恒世・恒貞・恒統 「貞」・・・・・基貞・良貞 (天長824〜833) 54仁明「康」・・・・・道康(文徳)・宗康・時康(光孝)人康・本康 国康・常康・成康 (承和834〜847・嘉祥848〜850) 55文徳「惟」・・・・・惟喬・惟条・惟彦・惟仁(清和)・惟恒 『有』・・・・・能有・毎有・時有・本有・定有・載有・行有・富有 (仁寿851〜853・斉衡854〜856・天安857〜858) 56清和「貞」・・・・・貞明(陽成)・貞固・貞元・貞保・貞平・貞純 貞辰・貞数・貞真・貞頼 『長』・・・・・長猷・長淵・長鑒・長頼 (貞観859〜876) 57陽成「元」・・・・・元良・元平・元長・元利 『清』・・・・・清陰・清鑒・清遠 (元慶877〜884) 58光孝「是」・・・・・是忠・是貞 (仁和885〜888) 59宇多「斉」・・・・・斉中・斉世・斉邦 「敦」・・・・・敦仁(醍醐)・敦慶・敦固・敦実 「明」・・・・・雅明・載明・行明・行中 (寛平889〜897) 60醍醐「明」・・・・・克明・保明・代明・重明・常明・式明・時明・長明 兼明・寛明(朱雀)・章明・成明(村上)・盛明 『明』・・・・・高明・自明・允明・為明 (昌秦898〜900・延喜901〜922・延長923〜930) Time : 2001/ 2/ 3(土) 16:28:27
Name : なかの E-mail : Title : お返事と感想と余談 Comments: こんにちは、なかのです。 パンダさま> レスありがとうございました。 「小市民の・・」で言われようとしたことも分かりました。 現段階で年代・世代だけについて論じていても 蓋然性というところに落ち着いてしまいそうなので、 別の切り口を考えることにします。 きんたろうさんはどうでしょうか・・? 親王の共字と元号については、どうも偶然の一致か、 はたまた元号を参考にした程度のことだったのでしょうか・・? あと、他には村上天皇の子の「平」、冷泉天皇の「師」などもありますが、 どれも名前の前か後ろかで統一がとれているのです。 あと、なぜか66代一条天皇以降、現代の平成天皇に至るまで、 一部の例外を除き「仁」が世代に関係なく用いられています。 ちょうど貴族や武士の中で「通字」という概念が出てきたのと だいたい時期が重なりますので、社会的原因があるのかもしれませんが・・。 2mさま> 言うつもりはありませんでしたが、気が変わりました。 以前、別のコーナーで「完璧」云々について言われていましたので、 最初、本日9:20付けのレスを見ました時に、 私も輔住さんの書き込みの最初の部分と似たような事を言おうとしましたが、 偽物だったとのことで・・、 とりあえず一安心しました。 「むっか〜!」というお気持ちは十分に分かりますが、 こういった「偽物」を排除するためにも、冷静な対応をお願いします。 余談ですが・・。 いつも思うのですが、この「内容」欄は狭いですね・・。 時々、前に書いたことと重複や矛盾があったりしたりして、 冷や汗をかきながら(笑)書き直すことがあります。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 17:45:16
Name : なかの E-mail : Title : 訂正 Comments: 下のレスで冷泉天皇の子について、「師」→「貞」に訂正してください。 言ったそばから・・。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 17:52:33
Name : 輔住 E-mail : Title : 本物の2mさんへ Comments: そうですか、2001/ 2/ 3(土) 09:20:14の記事は偽者の方ですか! それは分からなかったので失礼しました。 でも2mさん >また子ども扱いされたことに憤慨しているご様子ですが >あなた自身が他者を子ども扱いしている文面もあったでしょう。 >あなたは相手が先にそういう文面を書いたとか述べるかも >しれませんが、過去のことを思い出してもそうとは言い切れません。 このように思ったことは事実です。 2mさんの投稿を見てよく思うことですが(毎回ではありませんが) 1.1つの意見としては面白い。(その意見に賛成の場合も反対の場合もある) 2.自分と異なる意見に対して厳しい態度。 3.意見の根拠が分かりづらい、質問しようにもどう質問していいか分からない。  (根拠はあるんだなーと思うときもありますが) なんか偉そうなことを書いてるみたいで自分が嫌になる気分もしますが、 こうしたことが2mさんへの意見の反論が(2mさんの予想以上に) 厳しいものになってしまっていると思います。 Time : 2001/ 2/ 3(土) 21:05:13
Name : きんたろう E-mail : Title : 一人二役の謎^^(タイムリー??) Comments: こんばんは、パンダさん、なかのさん、みなさん(^o^) パンダさん、風邪はもう大丈夫ですか?? 前にも書きましたが、貞純親王と元平親王とは実は同一人物であり、「養子」とい うファクターを通して二つの名前を持って歴史上二役をこなしているのではない か??というパンダさんの説は私にはとても思い浮べる事が出来ない斬新な説に思 えました^^ この説はとても魅力的だと思います。 (はっきり言ってこのような大胆な説が好きです、笑) 確かにこのパンダさん説でならばどうして彼らが清和源氏を騙ったのかという点が とてもスムーズに説明出来ますよね^^ 普通の説の場合では元平親王系統を詐称するのに、どうして貞純親王系統を選んだ のかという点が疑問としてあると思っていました。 この説はこのような疑問に対する答えでもあるわけですね^^ しかし、なかのさんも書かれていましたが両親王の母親からみると彼らは別人であ るように思われてきます(;^_^A) パンダさんはここの点に関してはどのように考えてられるのでしょうか?? 更にこの「養子」関係は経基王と満仲の間にも存在しているのではないか??と思 えてきました。(説を構想中、笑) つまり彼らは清和源氏を二重に系統を詐称していたのではないか??と...笑 >紫式部の「源氏物語」発想のヒントは、ここにあり(?)なんてトンデモも考え >ているんですが。。。いわば逆「光源氏」です(笑い) これもまた興味が湧く視点だと思いました、笑 しかし源氏物語についても知識不足なのが残念に思っています(;^_^A) 突っ込みがしたくても出来ない...(^^ゞ) Time : 2001/ 2/ 3(土) 23:21:25
Name : パンダ E-mail : Title : 貞純・元平の生母関係。。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。 あの。。。すみませんが、養子説は既に撤回しています。。。(笑い) 現在は、不倫子糊塗説にたっていますので(同一人説は変わりませんが) 。。。念の為(笑い) >>両親王の母親からみると彼らは別人であるように思われてきます(;^_^A) >>パンダさんはここの点に関してはどのように考えてられるのでしょうか?? おいでになりましたね。。。(笑い) おっしゃるとおり、この点が問題 なのですが。。。 貞純親王 中務大輔 棟貞王 元良親王 主殿頭 藤原遠良 元平親王 主殿頭 藤原遠良 とされていますよね。中務大輔・主殿頭は何れも正五位クラスですので、 いうならば中級貴族ですね。当然ながらあまり記録がないので良く分かり ませんが。。。妄想としては。。。(笑い) @陽成は、清和の女御であった棟貞王女と密通(879)男子出生(880)した。 A清和・基経は、これを清和・棟貞王女の子とすることで醜聞を糊塗した。 (貞観15年873 親王宣下記録を改竄し、貞純親王としてこれに含めた??? クルシイ〜〜 ) B清和は、この密通に懊悩厭世的になり出家(879)、早世(880)した。 C陽成は、清和の死後元慶 6年882頃 棟貞王女の入内、男子認知を画策した。 D基経は、この暴挙に怒り陽成廃立を決意し出仕拒否、他の公卿も同調した。 E陽成は、完全に孤立しこれを諌めた側近の源益の殺害に至った。棟貞王女 も、この事態に苦しみ早世した。 Fこれらの事態推移によって、遂に陽成は退位決意(廃立)884に至った。 G宇多・基経は、陽成が元平の存在を公表していたため、やむなく元良同母 子として公認890頃?した。(コレモ クルシィ〜) H陽成・棟貞王女の子は、成人後この事情を知り、自らを清和子の貞純とし て振る舞い、元平親王の存在はウヤムヤのままとなった。 (しかし公式記録には、陽成子として残された) Iその子、経基王も当然のこととして、清和孫として振る舞ったので、世間 的にもこれが疑われることはなかった。 Jしかし、経基王の直系孫には家系の秘事として伝わり、頼信も神願文には この事実を密かに記した。(しかし義家の頃には、それさえも失われた) 歴史解明というよりは、小説の題材に相応しい妄想ですが。。。(笑い) >>更にこの「養子」関係は経基王と満仲の間にも存在しているのではないか >>??と思えてきました。(説を構想中、笑) こういった無理な解釈(妄想)は。。。そもそも誰もが清和源氏と信じてい たにも関わらず、頼信が陽成源氏としていた矛盾を解決するため発想です。 本当は、もっと別の解釈も、発想したいのですが。。。残念ながら今のとこ ろ思い付かないだけのことです。。。(泣き) 特に理由がないのに、養子関係を想像することは、ある種歴史解釈の禁じ手 ですので。。。慎重にお願いしますネ(笑い) Time : 2001/ 2/ 4(日) 01:13:33
Name : パンダ E-mail : Title : 満仲養子説について。。。 Comments: パンダです。きたろうさんへ。。。 ご承知のことと思いますが。。。「経基」には同母弟の「経生」の存在が 伝えられています。彼は従五位上 越後守 となり、その子「公節」は従五 位下 民部丞?とされていますが、孫の「忠孝」以下は不明です。 また、経基には満仲の他に多くの同母(諸説あり)・異母男子が伝えられ ており、それぞれ官途につき子孫も存在しています。 こういった客観状況(一応の信憑性が認められます)の中で、満仲養子説 を発想する必然性は殆どありませんし、立証は困難を極めると思います。 取り敢えず、以下 ご参考までです。。。。(余計なことでした? 笑い) (系図) 経基ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー経生 │ │ 満仲ー満政ー満季ー満実ー満快ー満生ー満重 公節 │ │ 頼光ー頼親ー頼信ー頼平ー頼範ー頼明ー頼貞ー孝道ー頼尋 忠孝 *満仲母・・・武蔵守 橘繁古、藤原敦有、敏有 等の諸説あり。 満政(914-973)従四位下ーー同母弟 美濃土着(後に頼朝に殺害された一族 等、後世の足助一族が著名) 満季( )従四位上ーー異母弟 近江土着(いわゆる近江源氏とは別) 満快( )従五位上ーー同母弟 信濃土着(後世の泉親衡が著名) 満生( )????ーー上総掾 後不明 満重( )従五位下ーー出羽介 後不明 Time : 2001/ 2/ 4(日) 11:15:26
Name : パンダ E-mail : Title : 満仲 または経基養子説。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。 よぅ〜っく考えてみましたが。。。満仲養子説であれば、次のような事態 が想像出来るかも知れませんね(笑い) 清和 │ 陽成ーーーー貞純 │ │ 元平 │ │ │ 経基 │ │ │ 満仲ー養子→満仲 │ 頼信 満仲(912〜997)86 とすれば、貞純(873〜916)34 として、どうにか 4年の重なりがありますね。。。この場合、その他の経基の子。。。満政 ・満季・満実・満快・満生・満重をどう考えるかという問題が生じます が、満仲が弟達をすべて貞純養子扱いとした。。。ということで(笑い) ただ。。。経基(897〜961)65 が生存中に何故に子供達を貞純の養子に せねばならなかったか? 仮にそうしたとしたら何故にそれが伝わらなか ったか? という新たな疑問が生じますね。。。(笑い) で。。。むしろ次の想像のほうが、らしいかも。。。。(笑い) 清和 │ 陽成ーーーー貞純 │ │ 元平 │ │ │ 経基ー養子→経基(この時点で 六孫王と称した?) │ 満仲 │ 頼信 もちろん。。。この場合も、同様の問題は残りますが。。。藤原家主流 との関係では、陽成系より清和系のほうが信任を得られるので(あるい は財産目当てとも。。。)、敢えてそうしたとも。。。しかし陽成・元 平がこれを承認するとはチョット思えないという難点がありますね。 Time : 2001/ 2/ 4(日) 23:43:16
Name : きんたろう E-mail : Title : 良いタイトルが思い浮かばない...^^;; Comments: こんばんは、パンダさん、みなさん。 パンダさん、詳しい説明を有り難うございました。 説明文を読んでいるとなるほどと思ってしまいました!!(確かにちょっとくるし い??と思われるところがありますが...笑) なお満仲養子説は諦めました^^ (というより構築できなかったと言うべきか、自爆^^;;) パンダさんの言われるとおりですね、笑 ところで基経王は下野、上野、上総などの介、信濃、伊予、武蔵、美濃、筑後、但 馬などの国司を歴任しています。 これだけ美味しい立場にいた基経王はかなりの富をもっていたと容易に想像されま すよね、笑。 そして基経王の家は京都の西三条にあったようですね?? ところが満仲は当然相続したであろう飛び切りの一等地から僻地である「多田」へ 移っています。 何故へ移ったのでしょうか?? その辺りがどうも良く分かりません^^;; (実は先ほどアクセスしたばかりなので考えが全然まとまっていませんでした(^^ゞ)) Time : 2001/ 2/ 5(月) 00:20:08
Name : パンダ E-mail : Title : 六孫王神社。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。早速のレスで、驚きました。。。 >>基経王の家は京都の西三条にあったようですね?? 西八条ではなかったでしょうか? かなりの豪邸だったようですが。。。 死後は遍照心院となったようですね。その後は鎌倉時代に六孫王神社が建 立され、徳川家の保護を受けて現存しています。取り敢えず。。。です。 Time : 2001/ 2/ 5(月) 00:40:06
Name : パンダ E-mail : Title : 清和か陽成か。。。 Comments: パンダです。きんたろうさん、みなさんへ。。。チョット整理を! 平安期以降。。。日本史において最大の勢力であり続けた「武家源氏」は、 清和天皇→貞純親王→源経基 の後裔氏族である。。。と全く疑われること なく信じられ、そのため「清和源氏」と称されてきた。。。というのが、 いわゆる『定説』でした。 (現在の歴史参考書や辞典類でも、単に「清和源氏」とされていますね?) それだけに、明治の歴史学会は石清水八幡神社の頼信願文の発見によって、 氏族の当主自体が、陽成天皇→元平親王→源経基 であることを記述してい たことに驚かされ、願文の信憑性についても様々な疑問が提示されてきたわ けです。 が。。。現在では願文の信憑性はほぼ認められ、同時に頼信が自身の系譜を このように認識していたことも認めざるを得ないとされています。 それでは、いったい当時の貴族社会の認識は、どうだったのでしょうか? 当時の認識を窺い知る史料として。。。願文(1043)に比較的近い時代の文 献に「大鏡」「今昔物語」がありますが、これらにおいては、明らかに満仲 ・頼信等のいわゆる武家源氏氏族は、清和後裔と認められています。 その他あらゆる文献をとおして、陽成後裔とするものは存在していません。 (陽成後裔も清和後裔のうち、なんてだめですよ。それなら全部が桓武後裔) 例えば、「大鏡」清和天皇条においては。。。 「元慶3年5月8日、御出家。水尾の帝と申す。この御すえぞかし、いまのよ に源氏の武者のぞう(族)は。それも、おほやけの御かためとこそはなる めれ。」 と記述されているのですが、「大鏡」記述の「いまのよ」は万寿3年(1025) とされています。つまり正に満仲・頼信の時代の「武家源氏」を「大鏡」で は清和の後裔としているのです。 仮に「いまのよ」を大鏡記述当時と考えても。。。頼信願文1043年と、ほぼ 同時代の認識と見ることができますし、「今昔物語」はこれより少し時代が 下るにしても、やはりほぼ同時代とすることが出来るでしょう。 いうまでもありませんが、当時は官途に就くに際しては、その出自を明らか にせねばなりませんし、地方在住の武士達に対しても官職とともに出自が大 きな意味を持っていました。 ですから、これらの文献の記述は。。。本人達がそれを主張し、世間(朝廷) もそれを認めていたことを意味しています。 つまり頼信当時においても、彼等自身が(おそらく)清和後裔と称し、世間 もそれを当然のことと認めていたにもかかわらず、祖神に対する願文におい ては陽成後裔と称していた。。。と考えざるを得ないのです。 この矛盾(謎といって良いでしょう)を、一体どのように考えるか。。。 というのがこの問題になるのです。 学者によっては。。。当初(頼信の頃)は陽成後裔を称し、世間もそう認め ていたが。。。義家あるいは頼朝の頃から、廃帝の陽成後裔であることを嫌 い、先祖を元平親王から貞純親王に乗り換えて、清和後裔を偽称した。。。 とする人もいるのですが、私は「大鏡」や「今昔物語」の成立時代や著者経 歴等から見て、それはチョット有り得ないのでは無いかと考えています。 経基王が、六孫王という異称を持っていた(のであれば?)。。。というこ と自体、彼が貞純親王の子であることを意識的に世間にPRしていたと見る ことも出来るかも。。。なのです? Time : 2001/ 2/ 5(月) 12:38:29
Name : パンダ E-mail : Title : 多田の荘。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。 >>ところが満仲は当然相続したであろう飛び切りの一等地から僻地である >>「多田」へ移っています。何故へ移ったのでしょうか??その辺りがど >>うも良く分かりません^^;; 私は。。。満仲ではありませんので(笑い)単なる想像ですが、以下。。。 @京洛に豪邸を構えていては、いわゆるオーバープレゼンスとなり、藤氏  や他氏からのやっかみの原因となる(部下の狼藉等から思わぬ足を引っ 張られ兼ねない) Aさらに他の武力勢力からの襲撃に弱く、安全性の面で問題がある。  (京には、それほど多くの護衛兵力を常駐させることは出来ない) B従って、これを寺院にしておけば他氏は安心するだろうし、息がかかっ た寺院であれば実際にいざというときには兵の駐屯地として利用するこ とも可能である。(下手な豪邸よりは、余程堅固な構えが可能) B多田は猪名川を下れば西国街道で、京への物資補給に睨みをきかせるこ とが出来る地でもあり、京まで八里余りで一旦事があれば容易に京に兵 を動かすことが出来る。(常陸太田〜常陸国府程度の距離かな?) C川沿いの小盆地であるため兵を養うに適しており、守りに易く出るに適 した好条件の地である。(言うならば京に近接した。。小平泉?) C京に住んでいれば、朝家や藤家に始終気を使わねばならないが、多田で あれば城館において郎党達を侍らせた実質上の王者であり、マア気分の 良いこと。。。(笑い) 最大要因はCかな?。。。テナところで如何でしょうか? Time : 2001/ 2/ 5(月) 23:06:17
Name : 小パンダ(Toshy) E-mail : Title : 頼信の願文 Comments: 大パンダさんの書き込み、 わしに対して「いつまでもぐすぐずしてないでしゃんとしなさい」と 言っているように思えたので、専門外ながら出てきました。 願文というのは神に出すものでありだれが見るものでもないですから、二つの解釈がありますね。 ・神に出すのだから、真実を書かなければならない ・だれも見ていないのだから、偽ってもかまわない ということで前者から考えてみますが、 もし初代経基からもろもろの理由で清和系を名乗ったとすると、 3代目にあたる頼信が真実(本当は陽成系)を知るか、という疑問が湧きます。 すると願文は、神に対して「陽成系でありたい」という、 頼信の希望が書かれていたと考えることは出来ませんでしょうか。 頼信の先代である満仲は切れ者で、藤原氏をして「恐ろしい」といわせた人ですが、 経基はこれといった人ではなく藤原氏の番犬でした。 満仲が京都を離れ多田に移った理由をパンダさんのCと仮定すると、 武人である頼信は、さらに京都の生活に辟易し、 東国に下ったという理由もすんなりといきますね・・・・・ で、清和天皇は藤原氏の女を娶り、藤原氏の言い成りでした。 対する陽成は新政をしようとし藤原氏の反対にあった(といわれる)人です。 もしかすると、頼信は藤原氏に対して反感を持ち、 「藤原氏べったりの清和より、暴れ天皇の方がいい」と思ったのでしょうか。 と勝手な意見でした。大いに反論してください(笑) ponyaさん> ありがとうございしまた。これからもよろしくお願いします。 Time : 2001/ 2/ 6(火) 10:17:27
Name : きんたろう E-mail : Title : 使われなくなった多田氏の名将^^ Comments: こんばんは、パンダさん、小パンダ(笑)さん、みなさん。 パンダさん、多田荘についての考察を有り難うございました(^O^)y >西八条ではなかったでしょうか? かなりの豪邸だったようですが。。。 訂正を有り難うございました。 怪しい記憶のまま書き込んでしまいました^^;; すみませんでした。 パンダさんの意見を読んでみて、@からCは確かに動機として十分あり得ると思い ました。 特に処世術に優れていた(はず??)満仲にしてみれば@は大きな比重を占めたよ うにも思われました。 「損して得する」といった関西人のエトス(笑)を十分にもった人物だったのか??、 あるいは「危険」を察知する敏感な嗅覚の持ち主だったのかもしれませんね^^ 西八条から多田へ移るという事を例えるならば(自主的に??)赤坂の一等地から 我孫子(笑)へ移るようなものですよね!! 「都落ち」という風説がされるであろう可能性を気にせずに、一等地の豪邸を捨て ることが自らにとってプラスであると判断する眼力が満仲の真骨頂だったのかも知 れないと思ってしまいます。 ものすごい判断力だと思いましたv(^o^) >(常陸太田〜常陸国府程度の距離かな?) なるほどよく分かりました(;^_^A) これなら感覚的にとてもよく理解できます、笑 >義家あるいは頼朝の頃から、廃帝の陽成後裔であることを嫌い、先祖を元平親王 >から貞純親王に乗り換えて、清和後裔を偽称した。。。とする人もいるのですが、 >私は「大鏡」や「今昔物語」の成立時代や著者経歴等から見て、それはチョット >有り得ないのでは無いかと考えています。 義家の頃には白河院政が天皇家復権を掲げて??藤原氏に対抗していた頃にあたりますよね?? 満仲源氏は藤原氏に寄り添って成長を遂げたようなものでしたからこの時代はかな り白河体制からは冷遇されていたのではないでしょうか?? 代わりに平氏が優遇されていますよね?? この苦境にあった義家が「復興」を掲げて「清和源氏」を唱えた可能性も面白いと 思うのですが... でもこの背景を形成する要因に対するトータル的な知識不足のためピンぼけの可能 性大です、自爆 Toshyさん説は考えもつきませんでした、(^^;) でも面白いですね^^ Time : 2001/ 2/ 6(火) 18:01:12
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっと訂正^^;; Comments: タイトル 使われなくなった多田氏の名将^^ を 多田氏の名称は使われなくなったのか?? に訂正します。 なおパンダさんの発言ログ部分を再掲します。 >義家あるいは頼朝の頃から、廃帝の陽成後裔であることを嫌い、先祖を元平親王 >から貞純親王に乗り換えて、清和後裔を偽称した。。。とする人もいるのですが、 >私は「大鏡」や「今昔物語」の成立時代や著者経歴等から見て、それはチョット >有り得ないのでは無いかと考えています。 Time : 2001/ 2/ 6(火) 18:08:37
Name : なかの E-mail : Title : 源頼信といえば・・ Comments: こんばんは、なかのです。 久しく議論からはずれているうちに、 パンダさんときんたろうさんの議論にToshyさんが参加していて、 話題が少し動いていました。 他のアプローチが現在思い当たらないので、 とりあえずこちらの話を読んでみることに・・ 私が源頼信で思い出すのは、 何に収録されていたか覚えていませんが、(今昔物語かな・・?) 馬盗人の話です。 頼信と子の頼義とが黙って馬盗人を追いかけて馬を取り戻すという あの物語は、武士とはかくあるべき・・みたいな感想を 読者に与えます。 後世の創作かもしれませんけど・・。 あれの舞台ってどこでしたっけ? Time : 2001/ 2/ 6(火) 20:02:32
Name : なかの E-mail : Title : 多田氏の名称について Comments: 再び、なかのです。 現在、まわりに資料が無いのでうろ覚えですが、 多田氏って、満仲から長男の頼光の系統に継がれたのではないのですか? 確か源平合戦の時に多田行綱という人物が 暗躍(笑)していたように記憶していますが・・? Time : 2001/ 2/ 6(火) 21:50:30
Name : パンダ E-mail : Title : 頼信願文の問題点、、、 Comments: パンダです。なかのさん、きんたろうさん、Toshyさん、&オタク話 にご理解有るみなさんへ。。。 なかのさん。。。 「今昔物語ー源頼信朝臣の男頼義、馬盗人を射殺するの話」ですね。 場所は京都〜近江?。。。「射よ、あれや!」二人の会話はそれだけ! 父と子が、互いに相手の力量を信じて黙々と行動し、阿吽の呼吸で目的 を達する。。。武士ですね〜(笑い) きんたろうさん、なかのさん。。。 長子「頼光」の嫡孫は苗字を使用せず、摂津源氏として「源姓」に固執 したようですが、頼国の五男 頼綱は多田氏を名乗っています。四代後の 多田蔵人行綱は鹿ヶ谷事件の裏切り、その後の寝返りで悪名高い人物です が、頼朝に勘当され多田荘を没収されています。 >>この時代はかなり白河体制からは冷遇されていたのではないでしょう >>か??代わりに平氏が優遇されていますよね??この苦境にあった義 >>家が「復興」を掲げて「清和源氏」を唱えた可能性も面白いと思うの >>ですが... 前段はおっしゃるとおりだと思いますが。。。それと「復興」を掲げて 「清和源氏」を唱えた可能性とはチョット。。。(笑い) 清和天皇は、貞観の治なんて言われていますが。。。実際には藤原北家 の横車で幼くして東宮に擁立され、若年で幼帝陽成に譲位したことによ り摂関政治の道を開いた人物ですから、院政(天皇家復権)を目指す白 河体制に対して。。。ワザワザ「清和後胤」を名乗るのは逆効果では? (笑い) それよりも「大鏡」等の同時代文献史料が、満仲・頼信等の「源氏武者」 を清和後裔としているのですから。。。はるか後世に義家の出る幕は、 チョット考えられないような気が。。。(笑い) Toshyさん、名称問題が姦しい時節柄この「名乗り」はチョット? >>もし初代経基からもろもろの理由で清和系を名乗ったとすると、3代 >>目にあたる頼信が真実(本当は陽成系)を知るか、という疑問が湧き >>ます。 彼等にとって、出自(家系)は最大の社会的財産ですから。。。地方の 小豪族ならばいざ知らず、中央貴族にとっては3代はおろか10代くら いはスラスラではなかったのでは? モチロンある代で意図的に伝承を 抹殺してしまえば別ですが。。。この場合は当然事実と知って(信じて) いたと思われます。 >>すると願文は、神に対して「陽成系でありたい」という、頼信の希望 >>が書かれていたと考えることは出来ませんでしょうか。 >>対する陽成は新政をしようとし藤原氏の反対にあった(といわれる) >>人です。もしかすると、頼信は藤原氏に対して反感を持ち、「藤原氏 >>べったりの清和より、暴れ天皇の方がいい」と思ったのでしょうか。 二つの点でチョット。。。 @「願文」は、皇(中)祖神であり、武神でもある八幡大菩薩(応神) に、「私は貴神とは云々の血縁を有する者です。。。ですから武運長 久・一族繁栄をよろしくお願いします」と言った性格のものですから、 血縁に関して敢えて虚偽を述べることはチョット考えられません。 まして「陽成系でありたい」という希望が書かれるような性格のもの とは、とても考えられないように。。。? もちろんこれが単なる頼信の誤解ならば、有り得るでしょうが。。。 彼のような立場の貴族が、僅か三代前の血統を間違える可能性もほと んど(絶対といって良いでしょう)考えられません。 A陽成は9歳で即位、17歳で退位しています。藤原基経としては、将 来は藤家の傀儡天皇の地位に飽き足らず、反抗に転ずる危惧は抱いた かも知れませんが、この時点の陽成にとても「新政」等という志は感 じられないようで。。。もしその気があれば基経の辞任をあっさりと 受けて、新体制を築くことも可能だったと思いますが、基経のサボタ ージュに為すすべもなく降参シチャッテいます。。。とても反藤原と 言うような政治的なものでは無かったと思われます。 つまり。。。当時、貴族世界の常識として満仲・頼信一族は清和後裔と されていた(当然彼等自身が、公式的にはその様に称していた。。。) しかし、祖神に対する血縁を明示するに当っては、陽成後裔としていた 。。。この明らかな矛盾を認めたうえで、その理由を推理する必要があ ると思うのですが。。。(笑い) Time : 2001/ 2/ 7(水) 00:05:45
Name : Toshy E-mail : Title : 土蜘蛛と今昔物語と頼光 Comments: なかのさんが「今昔物語」を出してきたので、本筋から離れますが頼光について。 頼光は土蜘蛛退治で有名ですが、あの話はむごいですね。。。。 頼光が来たのを歓待した土蜘蛛が酔いつぶれた後、四天王と共に土蜘蛛を滅多切りにする話。 ここから伝わるのは、頼光の残虐性です。 土蜘蛛ってこの話では妖怪になっていますけど、 ある民俗学者によると、朝廷の威に服さないものをこのように呼んだということです。 頼光四天王が今昔物語にその名を出すのは、 牛車を使って旅行に出掛けたものの車酔いと酒酔いで、 這うようにして都に帰ってくる話がありました。 また頼光が土蜘蛛の怨霊に悩まされていたという説話も、 「土蜘蛛」という謡曲に残っていますね。 ここからわかることというのは、 頼光という人物が、周りからどのように見られていたか、ではないでしょうか。 藤原道長の用心棒として、頼光はかなりはぶりがよかったようですが、 これが都人から見て怒りを覚えたものであったのです。 頼信がこの風潮を嫌い、貴族社会から離れて関東に出る。 そして乱暴の限りを尽くした陽成天皇にあこがれ、あの願文を書いた・・・・・・ 話がうまく本題に戻りました。ただし自分で自分の説に信を置いていません。 Time : 2001/ 2/ 7(水) 00:19:54
Name : Toshy E-mail : Title : パンダさんの Comments: 書き込みへの返答は、また(笑) Time : 2001/ 2/ 7(水) 00:22:48
Name : 雷ごろちゃん E-mail : oowada@aiwa-cupid.com Title : お約束のcheck=将・・祖・阻など・・・Toshyさん、みなさんへ Comments: チェスと将棋の・・みなさんへ、 お約束の「言霊」の報告です! 印欧語の研究によると、 英語のチェスやチェッカーフラッグやチェックメイトのcheckは、 皆んな同じペルシャ語のshah(kingの意味)という語から出来てきた言葉だと説明されています。 さらに、 pers.shah(king)<Opers.Xsaya(king)<(power) <印欧祖語*qpe(i)-(to rule)〜OI.ksayati(possesses) などと説かれています。 (お疑いになる方は、専門的にクラインやオックスフォードや 諸印欧語辞典や英語の語源辞典でご確認下さい) 英語の辞書の訳は、 check 妨害;抑制.妨害する;抑制する. (預けた荷物の)チッキ,合い札.<米>小切手.(=<英>cheque). (てらしあわせて)しらべる.(駅で)チッキにする.<米>(ホテルで)宿泊の記帳(手続き)をする(〜in), 宿泊料金を払って出る.(〜out) check 格子縞.…に格子縞模様を付ける checkmate <チェス>王手詰み,王手. (計画などの)行き詰まり,挫折.王手詰みにする.(計画などを)行き詰まらせる,挫折させる ここで、日本人が誰もが、 チェスと将棋、kingの意味と王将や大将の意味の将との似通いに、思いを寄せますが、 大抵そこで、チェック(思考停止、阻まれます)してしまいますね。 ところで、チェックには、(てらしあわせて)しらべるという意味も在りますので、 漢字と印欧語の類似を提示している私は、比較照合の方に進んで見ましょう。 そした、ご報告しましょう! 将の原義は、肉を取って神前の机上に奨めるさまを表わす文字で、 その役目をする帥長の意味。 音は、長や相からきている。・・・【角川漢和中辞典の解説】 字義は、 @ひきいる。従える。 A大将。 Bもって。もちいて。 Cまさに。ものごとがやがてそのようになろうとする意を表わす語。 Dふたつのことを並べる接続詞。そもそも。 Eかつ。且。 F養う。 G助ける。衛る。 H行う。 ・ L取る。持つ。 ・ 他は、省略。 音韻論で漢字を整理した【藤堂氏の単語家族説】によると、 漢字の将は、 将初創乍朔窶操 と共に、単語家族97に属します。 一方、単語家族95に、 阻祖組や昨や昔籍疽 などがあります。 この2群は、且という音標によって音韻的に繋がります。 単語家族95は、且(互い違いに)積み重なるが、原義と説かれています。 単語家族97は、切り始めるが原義と説かれています。 印欧語の中に散在する意味 kingの意味は、私の解くところでは、 「眷胤」で眷族の初めの意味なのでこちらからも一致します。 (kingやkindやkinやgentleを参照) shah(king)は、 将・祖の漢字の意味と同じです。 checkの(妨害;抑制.妨害する;抑制する.)などは、 阻と同じ意味です。 checkの(預けた荷物の)チッキ,合い札.<米>小切手.(=<英>cheque). (てらしあわせて)しらべる.(駅で)チッキにする.<米>(ホテルで) 宿泊の記帳(手続き)をする(〜in),宿泊料金を払って出る.(〜out) などは、 将の Bもって。もちいて。 Cまさに。ものごとがやがてそのようになろうとする意を表わす語。 Dふたつのことを並べる接続詞。そもそも。 Eかつ。且。や 組・且などと同じです。 checkの(格子縞.…に格子縞模様を付ける)は、chssの盤の模様から来ているとのことですが、 単語家族95は、且(互い違いに)積み重なるが、原義と説かれています。これらと同じです。 細部の検証は、かなり著述が細密になりますので、 なんとなく、見渡して頂けばよいと思いまして、このようにご報告致しました。 そうそう、自動車のレースでチェッカーフラッグが振られますね。 道祖神というのがありますが、 祖には、旅立つ時の道の神を祭る。道路の安全を守る神という意味も在ります。 漢字の音韻の同音同義の語たちと印欧語の同系と説かれている語たちを、 比較すると印欧語の学者達が見落としている真実が現われて来そうなのです! 大胆な結論は、 checkは、将(king・二つをならべる)・窶(互い違いの)・祖(king)・阻(はばむ)などではないでしょうか。 possesses,rule,kingなどの意味までも将は、含んでいます・・・・。 以上の比較は、 この比較対照の数十倍の信頼性を持った比較対応事例(33系列)があるために、 将〜shahの比較も試みても許されるであろうという姿勢で行ったものです。 いかがでしたでしょうか? 頭を柔らかくしてね! Time : 2001/ 2/ 7(水) 16:37:35
Name : なかの E-mail : Title : なぜ「陽成」→「清和」? Comments: こんばんわ、なかのです。 パンダさま> レスおよび解説ありがとうございました。 パンダさんのコメントにあった「貞観の治」ですが、 唐王朝の名君とされる太宗の時の年号が貞観で、 「貞観の治」は元は太宗の治世を指していたのが、 それにあやかって「貞観」という年号を清和天皇の時に用いたという ことではないのですか・・? 日本版「貞観の治」は、良房・基経という当時の権力者を憚って、 言葉だけが意図的に広告されたのかもしれませんが・・。 そこまでみて、改めて「陽成」→「清和」とする 積極的なメリットが何かあるのだろうか・・、という疑問が生じました。 (ただ単に話に乗せられているだけのような気も・・?) 単に「陽成」を否定したかっただけなのでしょうか・・? しかし藤原摂関家に覚えめでたい満仲・頼光の系譜が陽成源氏であるならば、 当然それなりに知名度もあるがゆえ、ただ単に清和源氏を称しても 通用しないと思います。 しかも初代がこれまた「経基王」という、 承平・天慶の乱という天下の大乱に、(いくら形だけでも)将軍として 現地に派遣された人物であり、系譜を誤認するというのは 考えにくいと思います。 「トンデモ」的な発想を恐れずにすれば・・・ 第1段階: 経基王の時、及び満仲の出仕した頃は「陽成源氏」だった。 第2段階: 安和の変で源満仲が藤原兼家と共謀して源高明らを失脚させた時、 藤原氏と「喧嘩別れ」した陽成の子孫ではなく、 表面上は「仲良く」した清和の子孫とするという話が 何らかの理由でどちらからか出て、 それ以降は「清和源氏」を(一気にではなく徐々に)称する。 (そのため記憶に留まらず日記等にも残されない) 第3段階: 20年以上にわたり情報操作をしてほぼ定着させる。 花山天皇出家事件により藤原兼家一門の権力が確定すると、 事実を知っている者も兼家一門を憚り、誰も「清和源氏」説を否定しなくなる。 第4段階: 身内でも一般には「清和源氏」を称した。 しかし「取引」前に生まれていた頼信は事実を知っており、 願文に対してだけは正直に告白した。 他の子も知っていたが、「正直」に話す機会に恵まれず、 記録として残らなかった。 第5段階: 「取引」後に生まれた頼義以下の子孫(他の一族も)は、 公表されている「清和源氏」説を信じており、その後完全に定着した。 ・・・ 第2段階の「取引」の動機に難点がありますが、どうでしょうか? パンダさん、きんたろうさん、小パンダさん(笑)、その他皆さんの 意見や批判をお待ちします。 Toshyさま> 源頼光といえば・・(こればっかり(笑)) 渡辺綱・坂田公時・平貞道・平季武の「四天王」と共に 酒呑童子や鵺などを退治したという話(伝説)が印象的すぎたので、 面白い見方だと思いました。 あと、また脱線ですが、 経基王が陽成天皇の孫とすると、曾祖母が藤原高子となり、 高子の兄弟であった基経や遠経を通じて、 藤原氏嫡流となった摂関家や藤原純友(遠経の孫とされる)と遠縁となるのです。 すると経基王が藤原純友征伐に従軍したのも何かの縁・・? まあ偶然でしょうけど。 藤原純友には系譜に疑いがありますが・・。 Time : 2001/ 2/ 7(水) 22:13:26
Name : きんたろう E-mail : Title : ただいま復習中、笑^^;; Comments: こんばんは、パンダさん、なかのさん、Toshyさん、そしてみなさん。 パンダさん、清和源氏を騙った犯人説に対する意見を有り難うございました。 何しろ何でもかんでもみんな「義家」に関連づけようとする関東人(私だけかも??笑) の悪い癖が出てしまいました(;^_^A) もしこの犯人を挙げるとすればパンダさんが書かれているように複合犯人説(要す るに全員が共犯で犯人)が最も正しいように思いました。 ここでカメレスの疑問がちょっと浮かびました^^ 陽成天皇が12歳で子供を作る能力を持つほどの早熟だったと仮定した場合、退位 するまでの数年間にも子供が出来てもおかしくはなかったように思うのですがどう でしょうか?? 記録としては退位の年に清陰が生まれている訳ですよね?? 尤も子供が出来る事は相手次第という事でもありますが... なかのさんの説も説得力がありますね^^ なるほどと思いました。 清和源氏を騙ろうとした理由とその時にどうして貞純親王を選んだのかの説明がつ けば完成ですね??^^ 私の方と言えば実は先ほど「ログ」をプリントアウトして復習を始めたところです、笑 Time : 2001/ 2/ 7(水) 23:28:49
Name : パンダ E-mail : Title : 満仲による祖父変更。。。。 Comments: パンダです。なかのさん。。。オタク話に突っ込みありがとうございます。 で。。。ご意見は、「安和の変(969)」頃に陽成後裔から清和後裔に変更 された(祖父を変更?)のではないか。。。ということですね。 源満仲 (912〜 997)86?・・・当時58歳 源頼光 (948〜1021)74?・・・当時22歳 源頼信 (968〜1048)81・・・・当時 2歳 彼は応和元年(961)、既に武蔵権守等を経た武門の有名人だったようで、 安和の変当時は左馬助ですが、変の後には正五位下摂津守に叙任され、多 田に移転しています。その後も顕職を経て、正暦には正四位下に、長徳3年 (997)没後には従三位が遺贈されていますが。。。こういう人物がさした る理由(根拠)もなく、その出自(祖父)を変更出来るものでしょうか?? 経基 │ 満仲ー満政ー満季ー満実ー満快ー満生ー満重 │ 頼光ー頼親ー頼信ー頼平ー頼範ー頼明ー頼貞ー孝道ー頼尋 この頃には、既に彼の弟達も経基王や満仲の赴任を縁として、各地に進出し ていたと思われますが。。。当然現地の武士達にその出自は知られていたで しょうから、実は陽成後裔は嘘で清和後裔である。。。と祖父の変更を言い 出せるものかどうか。。。チョット疑問では?(笑い) 満政(914-973)従四位下ーー同母弟 美濃源氏(後に頼朝に殺害された一族 等、後世の足助一族が著名) 満季( )従四位上ーー異母弟 近江に土着(いわゆる近江源氏とは別) 満快( )従五位上ーー同母弟 信濃に土着(後世の泉親衡が著名) やはり。。。経基王自身が「六孫王」と称し、貞純親王六男であると表明し ていた可能性が大きいと思うのですが。。。。? ところで、将棋とチェスの語源。。。消化不良ですが、面白いご意見だと思 いました。で。。。将棋は、かって「象棋」ともいったようですが? @チャイナではどちらが古称なのでしょうか? それとも「象棋」は、日本だけで用いられたものなのでしょうか? Aこの変化はどうして、何時頃生じたものなのでしょうか? B「象棋」が、チャイナでも用いられたとしたら。。。 「雷ごろちゃん」さんのご見解に何らかの影響があるのでしょうか? 以上。。。愚問かも知れませんが、チョット気になりましたので。 Time : 2001/ 2/ 7(水) 23:36:07
Name : パンダ E-mail : Title : 陽成のトラウマ。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。 >>早熟だったと仮定した場合、退位するまでの数年間にも子供が出来ても >>おかしくはなかったように思うのですがどうでしょうか?? >>記録としては退位の年に清陰が生まれている訳ですよね?? パンダの見立てに依れば。。。彼は不倫の罪がトラウマとなり、さらに退 位までのイザコザのショックでXXX気味であった。。となります(笑い) まあ、その結果。。。清和のように衰弱することなく、長寿を保った。。。 という噂もあるようで(笑い) Time : 2001/ 2/ 7(水) 23:58:21
Name : Toshy E-mail : fwjd2293@mb.infoweb.ne.jp Title : 脱線した頼光物語 Comments: なかのさん> 清和・陽成はきんたろうさんに御任せして、(笑)ちょっと頼光の話についてやってみますか。。。 頼光関連の伝説をピックアップすると、次のような話が出てきました。 1.頼光一行と大江山の酒呑童子 2.平(卜部)季武と戻り橋 3.渡辺綱と羅生門の鬼 いずれも彼らの武勇を示した物語なのですが、まずは酒呑童子から見てみます。 王朝時代の繁栄にともない、その陰には犠牲にされた人々がいたことは間違いないですね。 政府に反抗し地下にもぐった(?)人々は山に逃げ、 その怨念が鬼になったのではないか、とこの物語は伝えているようです。 大江山というと、王朝時代は盗賊が横行する場所でしたから、 酒呑童子というのは、或は無頼の集団だったのかもしれません。 頼光が仕えていたのは藤原道長で、まさに王朝時代の絶頂期でした。 頼光は、いってみれば、政府=藤原氏の手先として、 反政府軍・ゲリラに相当する人々を一掃する役割だったのでしょう。 そして鬼退治によって頼光の名は轟くわけですけど、 逆に王朝時代の暗黒部分を、この「鬼」が支配していたことを、 これらの伝説は伝えてくれているようです。 上に記した3つの話、共通点というか、関連があります。 2,3の「橋」と「門」ですが、いずれも二つの世界をつなぐものですね。 大江山というのはどこかわかりませんけど、京都から丹波に向かう山のどこかでしょう。 つまりこれもまた、二つの世界の「境界線」です。 京都という定住していた世界から一歩踏み出すことによって、 彼らは異次元の世界を見る資格を得(?)、鬼と遭遇した− とまあ、最後はちょっと文学の話になってしまいました(笑)そっちが専門なので。 雷ごろちゃんさん> 論文をお書きになった年代的から想像するに、 わしの親父さんからそれ以上なのでちょっと「ちゃんづけ」の呼び方は抵抗が(笑) 「チェック」のお話、ありがとうございます。(^^) Time : 2001/ 2/ 8(木) 00:45:22
Name : Snow Troika E-mail : Title : 小早川秀秋は、なぜ裏切り者と呼ばれるのか? Comments: ポストに連載中の「逆説の日本史」は、今おじいさんの毛利元就の話です。 戦国時代は、相手方に寝返る事など別に珍しい事でもなんでも無い。まして 小早川秀秋は、天下分け目の戦いと言われた関が原の合戦で勝利者徳川方に、 それも勝利を決定付ける寝返りだったにもかかわらず、 なぜ裏切り者と呼ばれるのでしょう? Time : 2001/ 2/ 8(木) 20:34:17
Name : 雷ごろちゃん。ちゃん! E-mail : oowada@aiwa-cupid.com Title : Toshyさん。井沢さんみてないのかね。 Comments: 井沢さんみてないのかね? 渡部昇一批判でもやってみようかな? お仲間かな? >雷ごろちゃんさん >論文をお書きになった年代的から想像するに、 わしの親父さんからそれ以上なのでちょっと「ちゃんづけ」の呼び方は抵抗が(笑) 「チェック」のお話、ありがとうございます。(^^) ●年齢51才。え!本当(自分で信じられないんだ)?  精神年齢33才。  気分は、36才。 (友人が亡くなった歳。あいつの年齢が止まっているのに、  私だけ年とるのは許せないよ!という感覚) >ところで、将棋とチェスの語源。。。消化不良ですが、面白いご意見だと思 いました。で。。。将棋は、かって「象棋」ともいったようですが? @チャイナではどちらが古称なのでしょうか? それとも「象棋」は、日本だけで用いられたものなのでしょうか? Aこの変化はどうして、何時頃生じたものなのでしょうか? B「象棋」が、チャイナでも用いられたとしたら。。。 「雷ごろちゃん」さんのご見解に何らかの影響があるのでしょうか? 以上。。。愚問かも知れませんが、チョット気になりましたので。 ●インターネットって便利!最近判って来ました。  ↓ここに出てたよ! http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yhattori/soturon/chap1.html Time : 2001/ 2/ 8(木) 21:39:42
Name : Toshy E-mail : Title : 善と悪の対立が、小早川を悪者に仕立てた Comments: 雷ごろちゃんさま、失礼しました。うちの親父さんよりずっと若いのですね。 「XX年の論文」という話から勝手にご年代を想像しておりました(笑) Snow Troikaさん> はじめまして、Toshyです。 小早川秀秋について。おもしろい考えですね。 まずですが、定説となっている「石田三成=淀君vs徳川家康=北政所」が、 後代の虚構であることを、ここで述べておきます。 家康は五大老の筆頭である立場から、 「豊臣家のため」とのスローガンで石田三成・小西行長・宇喜多秀家らを倒しました。 しかしさらに豊臣家を滅ぼすにあたっては、この理論が通じません。 そこで秀頼という我が子可愛さから豊臣家を私物化した淀君が、 大坂の陣において悪となっています。 子を生さなかった北政所に同情から善のイメージを植え付けた様に・・・ 小早川秀秋についても、同様の見解があるものと思います。 西軍から見て明らかに「裏切り」ですが、 当時は豊臣家のためであるという屁理屈が成立ったのですね。 ところがあからさまに豊臣を倒すとなれば、 関ケ原における小早川の動きが、豊臣家を滅ぼす一因となった、となるわけです。  徳川家康は、少なくとも二条城での秀頼との会見では、  豊臣家の家臣であるという態度をとっていました。  豊臣が徳川の幕藩体制になかったことは、普請から漏れていたことで説明されています。 主家を滅ぼす徳川としては、なにか理由付けが必要だったのです。(イヤラシイですね) それが「虎の威を借る狐」石田三成であり、我が子可愛さの淀君でした。 そして豊臣家を捨てた小早川も、「裏切り者」として後々まで罵られることになったのでしょう。 ちなみに北政所の生家木下一族は、木下延俊を除いて、すべて西軍に荷担していました。 北政所と三成が組み、家康を倒そうとした証拠は数多くありますが、 わしごときモノよりも専門の研究家である方のご登場を願うことにしましょう。 Time : 2001/ 2/ 8(木) 23:52:40
Name : 游惟 E-mail : Title : 小早川秀秋の寝返り Comments: Snow Troikaさん、はじめまして。 >ポストに連載中の「逆説の日本史」は、今おじいさんの毛利元就の話です。 >戦国時代は、相手方に寝返る事など別に珍しい事でもなんでも無い。まして >小早川秀秋は、天下分け目の戦いと言われた関が原の合戦で勝利者徳川方に、 >それも勝利を決定付ける寝返りだったにもかかわらず、 >なぜ裏切り者と呼ばれるのでしょう? 相手方に寝返るのは珍しいことでも何でもないのは、合戦前の政略の時点においてであって、 実際の戦闘中に寝返るのは珍しいのでは? 私の記憶にある例では、 @上杉謙信の父親の長尾為景が宇佐見定満(だったかな?うろ覚え)と戦っていた時に、宇 佐見方だった柿崎景家が寝返った A賤ヶ岳の合戦の最中、柴田勝家方だった前田利家が裏崩れを起こして引き上げてしまった (これは寝返りとはいえないかも・・・・) ぐらいかな・・・・(他の例があったら、どなたか教えてください) 更にもう一点、合従連衡は戦国時代の常だったでしょうが、小早川秀秋は北の政所の甥であり、 一時は秀吉の養子であり、中納言という高い官位までもらった豊臣一門だった。 にも関わらず裏切って結果的に豊臣家をつぶしたから裏切り者と呼ばれたのではないでしょうか? 宇佐見定満と柿崎景家は血縁でも主従でもない単なる同盟だったから、それほど裏切り者扱いは されなかったのでしょう。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 18:37:10
Name : 游惟 E-mail : Title : そういえば Comments: 戦国時代以外なら、壇ノ浦合戦の時、平家方だった阿波民部重能が寝返ったというのがあったな。 それから、平治の乱の時、源頼政が平家方に寝返ったというのがあったけど、これは悪源太義平 に攻められたのでやむなく平家方についた・・・・ということだったと思います。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 18:57:15
Name : Snow Troika E-mail : Title : 小早川秀秋の寝返りについて Comments: >主家を滅ぼす徳川としては、なにか理由付けが必要だったのです。(イヤラシイで>すね) >それが「虎の威を借る狐」石田三成であり、我が子可愛さの淀君でした。 >そして豊臣家を捨てた小早川も、「裏切り者」として後々まで罵られることになっ>たのでしょう。 >相手方に寝返るのは珍しいことでも何でもないのは、合戦前の政略の時点において>であって、 >実際の戦闘中に寝返るのは珍しいのでは? 皆さん有難うございした。 寝返ったタイミングと「裏切り者」と呼ぶ事が、徳川家にとって都合がよいという事のようですね。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 20:08:18
Name : なかの E-mail : Title : 経基王について、及び「裏切り」について Comments: こんばんは、なかのです。 体調が優れずボーッとしているのですが、おじゃましてしまいました。 おつきあい下さい。 パンダさま、きんたろうさま> レスありがとうございました。 何とかうまく収拾つくかとも思いましたが、 やはり「理由」というか「動機」の面で無理があるのでしょうか・・? 陽成院が崩じたのが天暦3年(949)、経基王が亡くなったのが応和元年(961)、 さすがに陽成院が生存中には詐称できないでしょうから、 もし経基王が自ら名乗ったとすれば恐らくこの間でしょうが、 やはりタイミング及び動機が難しいと思います。 以前にパンダさんときんたろうさんが言われた内容によると、 経基王はほとんど貴族であり、従って怨霊社会の中に生きているため、 先祖を詐称するという真似ができたのかどうか・・? ちょうど道真の怨霊が猛威を振るった直後の頃であり、 「祀りが絶たれる」という概念がまだ残っていたと思うのですが・・。 そういえば経基王が亡くなったとほぼ同時に内裏を引越していますが、 何か関係があるのかも・・? 游惟さま、Snow Troikaさま> 初めまして。 すみません、まず教えていただきたいことですが、 「寝返り」と「裏切り」の違いはどこにあるのでしょうか? 私が思うに、そこに君臣関係が確立していたか否かなど、 つまり道義的な部分の差ではないかと・・。 例えば、小牧長久手の戦いで徳川家康が織田信雄を擁して秀吉と戦った時、 秀吉は信雄を懐柔して和睦を結びました。 この時の織田信雄の家康に対する行動はどうなのでしょう・・? また姉川の戦いの前夜に、織田勢は妹婿の浅井長政に攻められ、 秀吉が殿をして事なきを得たことがありますが、あれは・・? これに類する事例は、特に戦国時代には決して珍しくなく、 有名なところでは、松永久秀や明智光秀などがいます。 (明智光秀については井沢先生も触れられていますが・・) Toshyさま> Toshyさんに誘われてこちらへも来てしまいました(笑)。 源頼光については改めて・・。 Toshyさんは善悪という表現をなされましたが、 私は、「裏切り」を語る時には、先に「道義的」としたように、 「正義」観を併せて考えなければならないと思います。 そういうことから、現代における「裏切り」という概念が定着したのは 江戸時代の朱子学等の影響ではないかと思います。 (腐儒さんその他の方へ・・もし間違っていましたら、優しくご指摘願います。) 「裏切り」の代表格とされているのが明智光秀と小早川秀秋であるのは、 裏切られた側にとって予想外(・・?)なところがあったということと、 そして政権の事実上の転覆を招いたということでしょうが、 これが徳川政権の成立を正統化するための理論として どういう位置づけになっているかを考えてみる必要があるでしょう。 例えば、「部下に裏切られるような奴は武門の頭領として失格であり、 ならば別の有望な者が取って代わってもおかしくはない・・」など。 (すみません、頭が痛くて現在あまり考えられませんが・・) またご指摘のあった 「淀殿&石田三成vs徳川家康&北政所」という構図についての批判は、 これまで北政所からのアプローチが、淀殿との対立ということ以外に あまり無かったようなので、大いに論じていただきたいと思います。 日本の場合、「天皇」により政権の正統性を保証するという メカニズムがあるため、天皇を味方にすればいいという、 ある程度分かりやすい構図があります。 今谷明先生が指摘しているように、 この時期の天皇は義満の時代に比べ、あるていど「復権」を果たしています。 とはいえ、それは天皇が追認するだけの、最終的形式的なものであり、 あくまで武力で「○○なんぞ棟梁と認めぬ」とする勢力が多くあれば、 どうなるのでしょう・・? 例えば、1575年に織田信長が足利義昭を追放して室町幕府を倒しますが、 それ以降、本能寺の変まで、織田信長が「覇者」のような形とはいえ、 歴史上は「正統」な存在として認識されています。 確かに織田勢は有力であり、しかも京を抑えていましたが、 決してそれになびく勢力ばかりではなく、 特に石山本願寺や毛利勢、武田勢とは死闘を繰り広げています。 では、室町幕府→織田信長、織田→豊臣という政権の交代は、 どういう理論により正統化されたのでしょうか・・? 京都(つまり御所)を抑えたことによる大義名分だけでしょうか・・? さっきそれっぽいことを少し言いましたが、 中国の革命理論とは事情が少し異なるでしょう。 特に、意外に語られていないように思えるのが、 織田政権→豊臣政権の交代劇についてです。 私がそれを見て思ったのは、 古代マケドニア帝国のアレクサンドロス大王が急死した後に、 4人の有力な将軍により帝国が分割されてしまったという故事です。 ちょうど信長の死後、織田の勢力が秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・徳川らにより 分割されたのと似ているでしょう。 ただ、その時は、アレクサンドロス大王の血筋がすぐに絶えてしまった (絶やしてしまった?)という事情があったのに対し、秀吉の場合は 自ら擁した織田秀信(信忠の嫡子)という立派な世継ぎがありました。 三国志で漢→魏→晋と政権委譲された時に行われた、 「禅譲」という名の茶番劇の日本版(?)でしょうか・・? 清洲城の会議以降、織田秀信は大名になったものの、 あまり表舞台に出てきません。 家康の空砲に脅されてとはいえ、あの裏切りがなければ、 たとえ静観していただけとしても、戦局は分かりませんでした。 そういう意味で、小早川秀秋のあの裏切りが 徳川政権確立のきっかけの一つになったことは事実でしょう。 頭がボーッとしているので、変なことを言っているかも知れません。 ただ、織田→豊臣の政権交代のきっかけとなったのが 明智光秀の「裏切り」であり、 豊臣→徳川の政権交代のきっかけとなったのが小早川秀秋の「裏切り」であったと いうのが、どうも引っかかるのですが・・。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 20:39:51
Name : パンダ E-mail : Title : 「象」と「将」。。。 Comments: パンダです。雷ごろちゃん。ちゃん!さん(HN簡単になりません?)へ。。。 >>井沢さんみてないのかね? 多分みとられんでしょうな。。。(笑い) >> ↓ここに出てたよ! 多謝! 便利な時代になったもので。。。 で。。。「象」と「将」は少々違うんでショウか。。。?(笑い) と。。。チャトランガ(?)との関係は。。。? (質問ではありません。単なる感想ですので、お聞き流しを。。。) Time : 2001/ 2/ 9(金) 21:17:41
Name : なかの E-mail : Title : 訂正 Comments: 前の書き込みで、室町幕府が倒れたのは「1575」ではなく「1573」でした。 後に秀吉が将軍職を欲し、 足利義昭の養子になろうとして蹴られたという話があります。 いくら京都から追放されたとはいえ、 その気になれば足利義昭(もしくはその一族)は地方で「将軍」を名乗り 「幕府」という肩書きを使うことができた筈ですが、 それをしなかった、いやできなかった(というより通用しなかった)のは、 歴史の盛者必衰の理でしょうか・・。 それとも・・、 将軍は血筋だけでなく、それなりの権力を持っているからこそ将軍なのであり、 やはり権力は「場」の力学なのでしょうか・・? Time : 2001/ 2/ 9(金) 21:53:55
Name : 游惟 E-mail : Title : 「裏切り」と「寝返り」 Comments: 言語的に考察すると AとBという敵対勢力があり、その中間に独立したCがいるとします。 そしてCはAの味方をすると約束しておきながら、途中からBの味方になったとします。 この場合、「CはAを裏切った」とも言えるし、「CはBに寝返った」とも言えます。 ところがBという勢力が存在せず、Cは常にAの味方であった、あるいはAに従属していたとします。 それが突然、CがAに敵対したりした場合、「CはAを裏切った」とは言えますが、 「Cは寝返った」とは言えません。 つまり比喩的用法に於ける「寝返る」という動詞は「〜に」という対象格目的語を必要とし、 それがない場合には使えない、ということになります。 こんなところでしょうか。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 22:06:48
Name : 游惟 E-mail : Title : 追伸 Comments: だから先ほど、賤ヶ岳の合戦で前田利家が突然退却してしまったことを「寝返り」とは言えない かも知れない、と直観的に述べましたが、確かに前田利家は柴田勝家を「裏切った」とは言えても、 羽柴秀吉に「寝返った」とは言えず、私の直観はあたっていたことになります。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 22:13:44
Name : 游惟 E-mail : Title : つっこまれる前に訂正 Comments: 失礼・・・・下の下の文において >それが突然、CがAに敵対したりした場合、「CはAを裏切った」とは言えますが を >それが突然、CがAから離反したり、CがAに敵対したりした場合、「CはAを裏切った」とは言えますが に訂正します。 Time : 2001/ 2/ 9(金) 22:31:21
Name : パンダ E-mail : Title : 人の世の常。。。 Comments: パンダです。「裏切り」「寝返り」ならば。。。これは人の世の常で(笑い) つい先日、話題に出た「多田蔵人行綱」等は、鹿ケ谷の密議に加わり一方 の大将と頼られながら、「返り忠して、命生かうと思う心」で、あっさり 寝返り清盛にご注進。。。源平合戦で源氏優勢と見るや寿永2年には平家 から離反、寝返りして。。。源氏の旗をなびかせる。。。 しかし頼朝に心底を見透かされて勘当されるや、一旦義経に擦り寄るふり をしながら、義経が落ち目になったとたんに、これを裏切って摂津川尻で 奇襲攻撃。。。まったく非道い寝返り人生です。 これも先般話題になった藤原泰衡とて。。。頼朝の圧力に屈し父秀衡の遺 言を捨てて義経を裏切り、奇襲殺戮したものの、頼朝は素知らぬ顔で奥州 征討。。。結局は敗走途中で恩賞目当ての部下の裏切りで殺害さる。。。 流石に頼朝はこの河田次郎の裏切りを憎み、これも斬首。。。てなもんで。 游惟さん。。。 要するに 「 Aは、 〜Bを裏切り、〜Cに寝返る」ですね。 Bは絶対条件、Cは相対条件ってことかも。。。? (つまり。。。頼朝は河田の裏切りを、寝返りとは認めなかった) 前田利家は、誠に器用に格好をつけながら。。。 (実際に)柴田を裏切り、(実質的に)羽柴に寝返った(笑い)。 (つまり。。。秀吉は利家の裏切りを、寝返りにしてしまった) Time : 2001/ 2/ 9(金) 22:47:01
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原の話から・・・ Comments: Snow Troikaさま> 下の書き込みは、だれもが認めるというものというより、 「こうではないだろうか」程度のものですが、御参考にして頂ければ嬉しく思います。 なかのさま> レスありがとうございました(^^)後世から見ると、 小早川の「裏切り」が、豊臣家を事実上天下人からひきずりおろしたのですが、 世間は豊臣を君主的、天下は徳川家康の実力支配であると考えていたようですね。 有力な徳川方武将の伊達政宗ですら、家康の死後は豊臣秀頼が天下人に復すると考えていました。 つまり小早川の件は、「裏切られたのは石田・毛利連合であり豊臣家ではなかった」というのが、 当時の見解であったというべきでしょう。 よってなかのさんの >「部下に裏切られるような奴は武門の頭領として失格であり、 >ならば別の有望な者が取って代わってもおかしくはない・・」 は、大坂の陣においては通用する理論だと思いますが、 関ヶ原の段階ではこのような考え方にはなったいなかったのでは、と考えております。 ところで、あの空砲による恫喝の威力については、わしは疑問を持っています。 桃配山から南宮山までは、直線距離で3キロほど離れているんですよね。 そこで当時の火縄銃−射程距離100mほど?−がなっても、 遠くの運動会のピストルくらいなモノなんです。 小早川が戦場で東軍についたのは、もともとの考えがあってのことでしょう。 北政所やもろもろのことについては、後日改めまして・・・・ Time : 2001/ 2/ 9(金) 23:25:28
Name : パンダ E-mail : Title : 経基養子説。。。(長文) Comments: パンダです。なかのさん。きんたろうさんへ。。。 陽成か清和か。。。長らくお付き合いいただき、ありがとうございます(笑い) >>ちょうど道真の怨霊が猛威を振るった直後の頃であり、「祀りが絶たれる」 >>という概念がまだ残っていたと思うのですが・・。 道真の子孫は立派に中堅官僚として残っていますが、怨霊の崇りは鎮まるど ころか。。。ですから「祀りが絶たれる」という意味での怨霊思想は、この 際あまり関係ないかも。。。元平には別の子もいたようですし(笑い) 要するに、この問題は。。。諸資料の整合性からは、 公式的には(遅くとも)満仲時代には明確に「清和→貞純→経基→満仲 」 非公式には(なお)頼信時代でも明確に「陽成→元平→経基→満仲→頼信」 と考えざるを得ない(蓋然性が極めて高い)わけです。とすれば。。。 @養子関係で。。。元平→貞純に名称を変更したもので、同一人である。 A養子関係で。。。経基は、元平の実子であるが、貞純の養子となった。 B養子関係で。。。満仲は、元平→経基の実子であるが、貞純の養子と なった。 C血統詐称で。。。経基は、元平の実子であるが、貞純の実子と偽った。 D血統詐称で。。。満仲は、祖父(経基の父)を、貞純と偽った。 E不倫糊塗で。。。陽成の実子が貞純であり、元平でもある。 しか無いと思うのです。そして@BCDの可能性は殆ど有り得ないことは、 ほぼご理解頂けたと思います。 Eは、既に申し上げたパンダのトンデモ系妄想です。三文小説の題材と しては面白いと思いますが、おそらく立証は不可能でしょう。 そこで。。。以下 Aの可能性について考えて見たいと思います。 清和 │ 陽成ーーーー貞純 │ │ 元平 │ │ │ 経基ー養子→経基(この時点で 六孫王と称した?) │ 満仲        │ 頼信 この場合の問題点としては。。。 @藤原基経が良房の養子となって、藤原家の嫡流(氏長者)を継承したのは、  良く知られていることで、仮に経基が大叔父の貞純の養子となっても別に 不思議でも恥でもない。  従って、この事実が記録あるいは伝承として伝えられても良いはずだが、 何故伝わらなかったのか? 頼信は何故願文にその旨を記述しなかったの か? A元平親王が子沢山であったならともかく、数少ない(と思われる)嫡子を 何故に貞純親王の養子にすることを認めたのか?同じく陽成は何故認めた のか? B経基王にとっては、養子になることにどのような利益があったのか?  貞純親王にとって、養子を取ることにどのような意味があったのか?  また、それは何時頃と考えれば最も可能性が高いのか? があると思われます。で。。。ここでも発想を飛躍して、以下のとおり推理 して見ました。 桓武 │ 嵯峨ーーーーーー仲野ーーーーー葛井 │ │ │ 仁明 班子 棟貞 │ ↓ │ 光孝ーー文徳 (宇多) (A)女 │ │ ↓ 宇多 清和 (貞純) │          │ 陽成ー貞純      (経基)養子 │ 元平 │ 経基 @貞純親王は、清和の男子の中では唯一。。。生母(A)女が皇族出身である。  宇多天皇も、当時としては珍しく。。。生母 班子が皇族出身である。 A班子は、およそ皇位とは縁遠い時康親王との間に定省王を生んでいますが、  (A)女は天皇との間に貞純親王を生んだわけで、格としては(A)女の方が  かなり高かったと思われます。 Bしかし両女ともに藤原家優勢の中で、必ずしも恵まれた状況とは言えなか  ったでしょう。  そこで。。。より格の高い (A)女(あるいは棟貞王)は、班子及びその子 定省に対し何らかの恩誼を与えたのでは無いか。。。と想像します(?) Dところが宇多天皇即位により、班子は一躍皇太后となり、この立場は完全  に逆転してしまいます。天皇・皇太后という地位は藤原家の掣肘があった にせよ、やはり最高権力者でありその意向は強力な力を発揮します。 Eで。。。(A)女は、貞純が肉体的にも精神的にも脆弱であって、頼りにな  らないところから。。。世渡りに長けた経基王に目を付け、養子斡旋を班 子・宇多に泣きついた(?)。 F宇多も過去の恩義から、(A)女の求めを無視し得ず、経基王に好餌をもっ  て養子縁組を了承させた(?)。 G経基王が、実際には対した功績を立てていないにも関わらず、ある時期か  ら急速に力を伸ばし、良国の受領を重任し大富豪となったのは、宇多の声  がかりで養子を承諾したいわくがあった(?)。。。当然 (A)女の生活 もこれによって安定向上した(?)。 H陽成・元平も。。。太上天皇宇多の意向とあれば、不満ながらもこれに対 して異議を唱えることはしなかった(?)。 I経基王が世間に知られるようになったのは、貞純養子となって以降であり、  経基も六孫王と名乗って、それをPRしたので世間は彼を貞純親王実子と  信じてしまった。(?) と言うことで。。。経基王は、元平親王の子であるが、宇多の意向を受けて 貞純親王の養子となり、その関係をもって名利を得、その子満仲以降の勢力 拡大の基礎を造った。(養子になったのは、延喜16年916 貞純薨去、経基20 歳。。。A(女)59歳頃か?) 頼信は当然このことを知っていたので。。。神に対する「血統書」としては、 事実どおり陽成後裔としたが、世間的には皆が当然のことと認めており、通 りも良い清和後裔とした。。。即ち清和源氏の由来である。。。? Time : 2001/ 2/10(土) 01:02:47
Name : 空転 E-mail : Title : Toshyさんへ単純に質問なのですが Comments: 桃配山から南宮山へは大砲(おおづつ?)も打ち込んだ、って読んだことがあるんです。 最近あまりこ-ゆ-本は読んでなかったんですが、偶然初期の大砲の解説文を 目にしました。資料は大阪の陣のものですので、10年は後のものですが 当時のセーカー砲やカルバリン砲の性能なら可能だったかなあと思いました。 もちろん、命中は考えず、ただ飛ばすだけですが。(もともとあんまし命中精 度は考えてなかったんでしょうが。) まだ、当時はそんなもの、なかったんでしょうか。(資料が10年は後のものだし それに、性能文だけ、ですので。) あるいはそもそも大砲というのは、いわゆる「おおづつ」のことで(でっかい 鉄砲ですよね。-笑)そんなもの(大砲は)最初からなかったんですかねえ。 あるいはあったけど、野戦にそんなもの持ってこなかった、ってことかな。 当時の野戦陣地がどういう風につくられるかよく解んないので、適当に書いて ますが、もし「おおづつ」(鉄砲のデカいの)だったらどうだったんでしょうか。 (う〜ん、でも飛びそうにねえなあ、見た目はなあ。-笑) Time : 2001/ 2/10(土) 14:41:12
Name : 游惟 E-mail : Title : 細かいことですが・・・ Comments: 南宮山は桃配山の背後にある山で、そこに布陣していたのは毛利秀元です。 小早川秀秋が布陣していたのは松尾山。 それから、正午過ぎに家康が松尾山に威嚇射撃を命じた時には、既に家康の 本陣は桃配山から関ヶ原中央部に移動しています。(確か「お床几場」という ところが指定されていたと思います) この時の家康の本陣から松尾山の麓までは1.5キロぐらいでしょうか。 昔、オートバイで関ヶ原古戦場を見て回ったことがあります。 Time : 2001/ 2/10(土) 15:51:40
Name : Toshy E-mail : fwjd2293@mb.infoweb.ne.jp Title : 間違えました Comments: 南宮山ではなくて、松尾山です・・・・すみません。 空転さん> しばらくですね(^^) その松尾山に打ち込んだという話は、わしも聞いたことがありました。 破壊力のある大砲そのものはあったようです。 三成が関ヶ原に持ち込んだフランキー砲は、朝鮮の役でも使用されていました。 游惟さん> そうですね。家康は前進していました。 ただ1.5キロとなれば、やはり射程距離には遠いですし、 まして火縄銃の音くらいでは威嚇にならなかったのだと思います。 Time : 2001/ 2/10(土) 18:58:30
Name : 游惟 E-mail : Title : 威嚇射撃 Comments: 本陣から撃ったわけではなく、松尾山に近づけるだけ近づいて撃ったんじゃないですか? 家康の本陣から見ると右の方で黒田や細川が石田軍・小西軍と戦い、 正面で福島軍と宇喜多軍が戦い、 左の方、松尾山の北麓あたりで大谷軍と藤堂軍や京極軍が戦っていた。 大谷軍は2000程ですからそれほど広い戦場ではなかったでしょう。 戦っている藤堂・京極軍の後ろを通って松尾山の東麓まで近づけば かなり近づけたと思います。 Time : 2001/ 2/10(土) 22:07:25
Name : パンダ E-mail : keita@osb.att.ne.jp Title : 松尾山。。。 Comments: パンダです。Toshyさん、游惟さんへ。。。 游惟さんはオートバイでしたか。。。私達は自転車でした(笑い) 山岡さんの本に刺激されて。。。暑かった! 大昔のことで、好い加減な記憶ですが。。。松尾山の北側を流れる川を 渡って、この辺から山頂に向けて威嚇射撃をしたのかなぁなんて話し合 ったような。。。それ程の距離はなかったように思います。 (もっとも、そこから射撃したのかどうかは分かりませんが。。。) Time : 2001/ 2/10(土) 22:07:39
Name : Toshy E-mail : Title : 威嚇というよりは・・・・・ Comments: 「早く出陣しないか」という要請に近いものではなかったでしょうか。 もともと小早川にその気がない限り、 火縄銃を打ち込まれたくらいで東軍に突然寝返るなんてことは、 まずありえないでしょう。 もし最初から西軍寄りであれば、射撃されたら怒って東軍に攻め込むはず。 と、はじめからこのように書けば良かったんですね。。。。 Time : 2001/ 2/10(土) 22:31:26
Name : パンダ E-mail : Title : 「寝返り」の督促。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 当初から内応(寝返り)の密約があったにも関わらず、逡巡の様子が見えた ため威嚇督促したものでしょう。。。南宮山の毛利秀元・吉川広家が傍観し ていたのも、消極的内応だった。。。これがいわゆる「定説」だと思うので すが。。。(違いました?) この三者が西軍側に立てば、東軍は袋のネズミで壊滅したでしょうから、家 康はよっぽど小早川の内応に確信があったのでしょう。。。この密約に大政 所の影があったかどうか。。。これが一つのポイントかも? もっとも、私は大昔に山岡・司馬さんの小説を読んだ(ほとんど忘れました )程度の知識しかありませんが。。。(笑い) Time : 2001/ 2/11(日) 00:40:08
Name : きんたろう E-mail : Title : 考えが上手くまとまりません^^;; Comments: こんばんは、パンダさん、Toshyさん、なかのさん、そして皆さん^^ またまたカメレスですみません(;^_^A) 頼光四天王と言えばきんたろう1世(笑)の名前を見つけることができますよねv(^o^) それはさておきパンダさん説をもらおうかなと考えています、笑 実のところ、貞純と元平が同一人物であるというパンダさんの説の魅力に取り憑か れてしまっています^^;; これはそのうちに私が自分のページにアップするときに使わせてくださいね、笑。 貞純親王誕生説がいくつかあるのもこの辺りに原因があるとすれば説明が付きやす い様に感じています。 確かにパンダさんの言われるようにEの立証は困難だと思っていますが... 貞純親王が生後数ヶ月で親王に取り上げられるのもやはり不自然だと思ったりして います。 ところで「本朝皇胤紹運録」には 元平親王−源兼名     −女 と記されていて経基王の名を見ることが出来ません。 ここで閃いたのは貞純親王の実子である経基王が元平親王の養子に入った可能性が あるのかな??という事でした。 この場合血統的には清和源氏になりますが家系としては陽成源氏になります。 はっきり言って単なる思いつきです...笑 Time : 2001/ 2/11(日) 00:59:01
Name : Toshy E-mail : Title : 「北政所の影」を否定 Comments: パンダさん> 細かいところながら、「大政所」とは「北政所」と勘違いだということとして。。。 山岡・司馬の小説は、わしも読みました。 これらで取り上げられる、定説とされる「北政所=家康連合」から否定させてもらいましょう。 本当はわしの如き小物ではなく、専門の方にご登場して頂きたいのですが、 なかなか腰を上げてくださらないので・・・・ 尾張系の豊臣子飼い大名(加藤・福島?浅野)が東軍荷担のため、 北政所と東海・尾張系大名vs近江系の淀君・石田三成という対立が論じられますが、 当時の軍閥?を見ると、これは非常に納得のいかないものがあります。 打倒徳川のリーダーともなっているはずの淀君、末妹が秀忠の妻になっているし、 もう一人の妹もまた東軍荷担の京極氏に嫁いでいますね。 関ヶ原戦後、加藤清正や福島正則が豊臣家のために尽くしていた姿を見ても、 淀君と加藤・福島ら尾張系武将の連合があったと見る方が自然なのです。 対する三成、確かに淀君は旧主の姫には違いないんですが、 出身地以外に彼らを結び付けるものがあるかというと、皆無です。 北政所は、西軍の挙兵を支持していました。 子飼いよりももっと強い結びつきあった人物、養子宇喜多秀家の存在が、これを物語っています。 宇喜多秀家は秀吉とおねの子供同様に育てられました。 彼の妻豪姫は前田利家の娘で、やはりおねの養女です。 その宇喜多が挙兵したのは7月5日。三成と大谷吉継が挙兵したのがその6日後ですから、 三成が淀君を擁立して西軍を挙げたという定説は覆ります。 それどころか、宇喜田の出陣に際し、北政所は同席し豊国神社に金一枚を奉納しました。 北政所が家康を倒すように宇喜多に出動要請し、 石田・小西・大谷がこれに連動した、と見るべきなのですね。 子飼い大名は北政所と対立していました。 豊臣家のために働くべき彼らですが、秀吉の死後彼らは豊国神社に足を運ぶこともなく、 当然北政所とは申し合わせたように同席したことはありません。 ある記録には、慶長7年、北政所と「肥後守」が豊国神社を共に訪れているとあり、 ここから加藤清正と北政所のつながりを主張する人もいるんですけど、 清正が肥後守になるのは翌年のこと、当時の肥後守は北政所の兄木下定家でした。 彼らが三成を失脚に追い込んだ襲撃事件は、 徳川家の傘下に入るためのお土産みたいなものでした。 北政所はこの時、仲介に入って三成を救おうとしています。 小早川が西軍から東軍に寝返ったのは、北政所とは無縁ですね。 もっとも、当初西軍に参加していたのは北政所の働きかけによるものと思います。 彼の兄弟7人のうち、東軍参加は一人だけであとはみな西軍の武将として戦いました。 Time : 2001/ 2/11(日) 16:26:33
Name : パンダ E-mail : Title : 系図の表記法。。。 Comments: パンダです。きんたろうさんへ。。。 トンデモ的妄想に魅力をお感じ頂いて、望外の喜びです。。。(笑い) こういう立証困難な。。。しかし完全に否定しきれない発(妄)想こそ 。。。我等ドシロウトの特権かと。。。(笑い) >>と記されていて経基王の名を見ることが出来ません。ここで閃いたのは >>貞純親王の実子である経基王が元平親王の養子に入った可能性があるの >>かな?? 失礼ながら、チョット混乱があるような気が。。。(笑い) 「貞純親王→経基王(実子)」であれば、頼信願文(血統書)において、 「元平親王→経基王」と書かれることは無かったでしょうから。。。そも そも頼信願文の謎は存在せず。。。名実(公私)ともに「清和源氏」に関 する疑問が生じることも無かった。。。かと(笑い) なお、いわゆる皇室系図における養子の取り扱いに関しては、その例が極 めて少ないこともあって、あまり明確ではないようです。 例えば、南北合一における次の関係ですが。。。 50 光厳ーーーー光明 │ 3 4 51 崇光ーーーー後光厳 │ │ 5 52 (栄仁) 後円融 │ │100 53 (貞成) 後小松 │ 102 │101 54 後花園 称光 │ 103 55 後土御門 「本朝皇胤紹運録」では、このような血統系図ではなく、称光・後花園と もに後小松の子として表示してあります。 100 後小松 │101 102 称光ーーーー後花園 │ 103 後土御門 そして後花園には「実後崇光院第一皇子。称光院崩御後。依无皇胤為御猶子」 と注釈されていますが、貞成親王との実子関係は全く表示されていません。 (ウッカリ注釈を見落とすと、トンデモナイ誤解が生じることになりますネ) この場合は、天皇そのものの系譜ですから、当然注釈があるのですが、単な る親王の場合に養子関係がどの様に表示されたか。。。良く分かりません。 (これと同様の記述法ならば、養(猶)子関係優先表示法になりますが?) Time : 2001/ 2/11(日) 20:03:14
Name : パンダ E-mail : Title : 北政所の意図。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 おっしゃるとおり、「大」と「北」の間違いはチョットひどい。。。(苦笑) ことほどさように、この時代については無関心なのですが。。。頼信願文に お付き合い頂いたお礼の意味で、無謀ながら敢えて突っ込みます。(笑い) 正直な話が。。。私も北政所が、豊臣家の覇権と秀頼の将来を、どのように 考えていたのか、良く分からないのですが。。。 >>子飼い大名は北政所と対立していました。豊臣家のために働くべき彼らで >>すが、秀吉の死後彼らは豊国神社に足を運ぶこともなく、当然北政所とは >>申し合わせたように同席したことはありません。 そもそも子飼い大名が北政所と対立したとすれば、その原因は何だったので しょうか? これに関する私の印象では。。。豊国神社は豊臣家の全国支配の象徴ではな いかと思うんですが。。。もし子飼い大名が足を運ばなかったとしたら、こ れは彼等と北政所の対立というより、彼等が豊臣家の当主である秀頼と距離 を置いていたことを意味するような気がします。 >>彼らが三成を失脚に追い込んだ襲撃事件は、徳川家の傘下に入るためのお >>土産みたいなものでした。 これも。。。考えようによっては、豊臣家(を見限って?)から徳川家への 鞍替えを意味するような気がするのですが? チョット考え過ぎでしょうか? で。。。つまりは関ヶ原当時の状況は、概ね次のようなものだったと言うこ となのでしょうか? @北政所は、豊臣家(秀頼)の将来にとって、家康が危険な存在であると考 え、武力対決やむなしと考えていた。 Aしかし加藤・福島等(淀君も?)は、家康との宥和による豊臣家(秀頼) の存続を目指していた。 Aよって彼等は敢えて豊臣家と距離を置き、むしろ家康に擦り寄った(?)。 ここに彼等(淀君も?)と北政所との対立が生じた。 Bよって北政所は加藤・福島等を見限り、宇喜多秀家・石田三成と計って、 毛利を抱き込み家康を討とうとした。甥である小早川秀秋にも当然参戦を 求めた。 Cかくして、関ヶ原合戦に至ったが。。。小早川秀秋は北政所を裏切って、 既に家康に内応しており、毛利秀元・吉川広家も同様であった。 D合戦の最中、小早川秀秋は寝返りに逡巡していたが、家康は威嚇射撃をも って彼の決断を促し、遂に寝返りを決意せしめた。毛利・吉川も傍観者に 終始した。 Eこれによって戦力バランスは一気に崩れ、西軍の壊滅的敗北となった。 北政所の目論見は、ここに瓦解した。 北政所を中心に置き過ぎているとは思いますが、彼女の意図はこんなところ だったとお考えでしょうか。。。? Time : 2001/ 2/11(日) 23:37:04
Name : Toshy E-mail : Title : これは想像ですが・・・・ Comments: パンダさんへ 自分で自分の説明が足りないと思っていたところへのツッコミ、ありがとうございました(笑) まずは、北政所との対立についてです。 原因の一つには、想像でしかないのですが、朝鮮の役が挙げられるでしょう。 この時秀長、大政所(秀吉の母)、北政所は反対の立場でした。 よく石田三成が主戦派だったといわれますが、これもまた実は反対派です。 加藤清正が徹底抗戦を主張する中、三成が反対し講和を急いでいたことから証明されると思います。 主戦派は加藤清正ら、戦場で名を挙げてきた者たちでした。 彼らは戦闘のために、家臣を過剰に雇い、ついには賄いきれなくなってしまったのです。 そんな彼らのために、秀吉は唐の地を手に入れたいなどといいはじめたのですね。 加藤・福島らにしてみれば、 自分たちが収入を手に入れるきっかけを邪魔するようなことをいう北政所に悪意を持つでしょうし、 北政所とて彼らに対し警戒を強めていたことは間違いないでしょう。 加藤・福島らが徳川におもねった理由としては、 北政所を嫌っていても豊臣家のために働く、という気持ちからではないでしょうか。 家康とて「豊臣秀頼のため」といって挙兵していたのですから、彼らにしてみれば、 主家を討つのではなく主君をたぶらかす私的勢力を討つ、の気持ちでしょう。 彼らは、秀頼は家康から見て姻戚関係、秀忠の娘婿であるから、 やがて豊臣家に実権が戻る・・・・・と見ていたのではないか。 豊臣子飼い大名が豊国神社に参拝しなかった理由は、 豊臣を見限ったというよりも、毎日参拝していた北政所を避けていたのでしょう。 彼らが豊国神社に足を運ぶようになるのは慶長8年、 つまり家康が征夷大将軍に任じられてからのことです。 しかしまだこの時も、北政所と加藤・福島の接触はありません。 彼らが和解するようになったのは慶長10年・・・・秀忠が将軍になった年です。 次第に徳川家のたくらみに気づいていったのだというのがわしの考えですが、 実は証明されているわけではありません(わら 北政所を中心としたパンダさんのお考えは、ほぼわしと同様のものです。 なお、家康が関ヶ原の主戦場に出たのは、やはり毛利一族の内応を確信していたのでしょう。 石田・宇喜田・毛利が大坂で挙兵した時の家康は、 江戸にとどまって上杉を警戒しながら諸大名へ書簡を送り続けていました。 かほどに慎重な家康が、無謀ともいえる戦いを挑むとは、とても考えられないので。 Time : 2001/ 2/12(月) 01:06:44
Name : パンダ E-mail : Title : 対立の図式。。。正直いって良く分かりませんが。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 関ヶ原当時。。。北政所を巡る情勢についての解説ありがとうございました。 これに関してオマケ(笑い)の意味で、さらに若干のツッコミ(?)です。 >>加藤・福島らにしてみれば、自分たちが収入を手に入れるきっかけを邪魔 >>するようなことをいう北政所に悪意を持つでしょうし、北政所とて彼らに >>対し警戒を強めていたことは間違いないでしょう。 私のオボロゲナ印象ですが。。。朝鮮の役については、おそらくご指摘の北 政所のみならず、家康を含む大老・奉行等も反対の立場だったのではないか と思います。 (家康について言えば。。。豊臣家の没落を招くものとして、内心ほくそえ んでいたかも知れませんが?) 特に明国の武力介入以降は、加藤自身も本音では戦果(収入)を挙げる見込 みの無い無益な戦いと考えていたような気がします。 (加藤が徹底抗戦を主張したとしたら。。。弱音を吐いたととられる懸念か らで、本音は別だったような。。。?) ですから、これをもって対立の「原因の一つ」とするのは、チョット苦しい ような気がします。。。(笑い) で。。。仮にもしToshyさん見解のような対立があったとしたら、豊臣 家(秀頼)の将来のため。。。 家康と武力対決・排除しょうとする勢力・・・北政所・宇喜多・石田等 家康と平和友好・融和しようとする勢力・・・淀君・福島・加藤等 という図式になるかと思うのですが、ここでの疑問は。。。淀君が本当に融 和勢力だったのか?。。。ということです。私は正直言って、チョット疑問 に思うんですが。。。(笑い) また北政所の甥である小早川秀秋は、そもそもどちらの勢力に組していたか (あるいは自分のことしか考えていなかったのか)?。。。ということです (笑い)。 仮に。。。ここで宇喜多と小早川を入れ替えれば。。。 家康と武力対決・排除しょうとする勢力・・・淀君・宇喜多・石田等 家康と平和友好・融和しようとする勢力・・・北政所・福島・加藤等 (小早川) になると思うのですが。。。私には正直のところ良く分かりません(笑い) ただ、何れにしても。。。福島・加藤等が「秀頼は家康から見て姻戚関係、 秀忠の娘婿であるから、やがて豊臣家に実権が戻る」と考えていたとした ら、戦国大名にあるまじき信じ難い甘さだと思います。 厳しい言い方かも知れませんが。。。このままでは自分達も豊臣家と心中 することになる。。。むしろ徳川と組んで自分達が生き残ることを目指す。 豊臣家はせいぜい実権なき武家貴族としての存続を図る。。。とも見るこ とが出来ると思っていますが。。。これも良く分かりません(笑い) Time : 2001/ 2/12(月) 11:39:00
Name : なかの E-mail : Title : 経基王と裏切りと関ヶ原(何のこっちゃ?) Comments: こんにちは、なかのです。 Toshyさま> レスありがとうございました。 「部下に裏切られる・・」は例示しただけで、 私自身説明に全く自信が無かったのですが、 Toshyさんが言われたことを逆に読むと、 関ヶ原では別の理論が働いたとすれば、 意外に使えるかも知れない・・と浅ましく思ってしまいました。 ただ話題からずれそうなので・・。 パンダさま> レスありがとうございました。 怨霊説にも無理がありましたか・・。また練り直します。 さて、2001/ 2/10(土) 01:02:47のパンダさんの書き込みで、 Aの養子説は考えられると思います。 例に出された良房−基経については、良房に男子が無いためでしたが、 では貞純親王には男子(成人した)がいなかったのでしょうか・・? 「猶子」というのでしょうか、 相続を伴わない関係だったことも考えられます。 またきんたろうさんから提示された系譜に関する疑問もあります。 尊卑分脈が編纂されたのは南北朝時代ですので 遺漏があったことは充分に考えられます。 ではそれ以前の古い系図は・・? また棟貞王一族や班子女王に絡めた説については面白いと思います。 強いて言えば、Hにやや難点があるかと・・。 宇多より陽成の方が先に即位したこと、宇多の方が年上なこと、 宇多が陽成に臣下として仕えていた時代があることなどから、 後の院政時代の「治天の君」という概念があったかどうか知りませんが、 宇多と陽成とでは陽成の方が(普通に考えれば)格上ですので、 不満があればそれなりの異議を唱えたように思います。 私はむしろ、不満があったというより、その養子相続に関して 直接もしくは間接のメリットが陽成(元平も?)にあったと考える方が 自然なように思えますが・・。 例えば貞純親王に名跡もしくは莫大な財産があり(あくまで仮定ですが・・)、 継承できる成人男子がいないため、養子相続をしたという可能性はあります。 しかしその場合、名跡を継承するので、 子孫は自らを「陽成を始祖とする」とはしないと思うのですが・・。 名跡ではなく財産だけを相続したならばあり得ますが・・? きんたろうさま> 頼光四天王にきんたろう1世ですか(笑)。 全く気付きませんでした。 きんたろうさんのハンドルネームと話題との間に相関性があったとは・・、 きんたろうさんがこの話題に情熱的なのはそのため・・? 游惟さま> レスありがとうございました。 游惟さんやパンダさんの書き込みによると、 「裏切り」「寝返り」は特に深い意味が無く、 使う状況により使い分けられているという結論が無難なようです。 ただ史上数多い「裏切り」の中で、あの2人が特に言われているのは、 やはり意図的ではないかと思えるのですが・・。 多田行綱など、源平盛衰記や平家物語を知らない人は 誰も知らない(笑)のではないでしょうか・・。 歴史の教科書に載っていたという記憶もないですし・・。 むしろ同族の源三位頼政の方がよく知られていると思います。 平治の乱での行動が裏切りかどうかは判断が分かれるところですが・・。 さて関ヶ原ですが、 寝返りの督促については、皆さんのご指摘のとおり、 当初から内応の約束があったとした方が、話の筋が通ると思います。 毛利陣については、パンダさんが言われた通り、 吉川広家が家康に内通して毛利を出陣させなかったという定説が妥当でしょう。 またパンダさんとToshyさんが言われている北政所と「子飼い」との 対立構造については、興味深く読ませていただきました。 井沢先生は、織田信長が本能寺で倒れずに全国制覇を成し遂げていたら、 スペインの無敵艦隊を駆逐してフィリピンや台湾へ進出し、 場合によっては東南アジアから南アメリカにまで進出していたのでは ないだろうかと何かの本で述べていました。 そして秀吉は、信長が描いていた設計図にほぼ沿う形(?)で、 大坂城を築き天下を統一しました。 そんな中での思いつきですが、 朝鮮出兵(というより大陸進出)についても、実は秀吉のオリジナルではなく、 信長の描いた設計図の一部もしくはそれを一部変更したもの だったのではないかという気がします。 秀吉の朝鮮出兵はあくまで明王朝征服が最終目的です。 秀吉が大陸進出を図った動機は、一般に言われる耄碌なぞではなく、 スペイン(フェリペ2世)の進出に対抗するという意図があったと思います。 もっとも各局面での戦術的判断において耄碌があったかどうかは別ですが・・。 当然ながら、信長も秀吉もスペインの東南アジア進出を知っていた筈です。 いわばそれは信長そして秀吉の世界戦略であったのに、 大半の大名に理解されなかったこと、 (もしくは理解されていたが戦術面で困難であると反対された?) 豊臣家に相続問題が生じたことにより士気が上がらず、 そして思わぬ抵抗に遭い挫折したというのが実情ではないか・・、 と勝手に想像しました。 そして秀吉の死後、そのグランドデザインを継承できる者がいなかったため、 もしくは戦術面での無理が明らかになったため、秀吉の死と共に頓挫したと・・、 こんなところでしょうか? 加藤清正や福島正則についてのみ「子飼い」という表現が 用いられることについては、私は疑問に思っています。 石田三成とどちらが先に秀吉に仕えたかも正直言って疑問ですし、 (石田三成は近江長浜時代には仕えており、清正や正則より年上) 秀吉個人への恩義はあっても、豊臣家への義理ではなく忠誠心が あったかどうかは分かりません。 現に秀吉自身、織田信長個人への恩義と忠誠心はあったものの、 信長の死後、織田家に対する忠誠心があったようには見えませんので・・。 またToshyさんが言われるように、 石田三成と淀君の結びつきについても疑問があります。 確かに、二人を結ぶものは「近江」しかないのです。 江戸時代に、秀頼は実は石田三成の胤だ、いや大野治部治長、 いや俳優の名古屋某の子だという巷説が流れたことがありました。 石田三成が淀君と強く結びついているならば、 互いに「豊臣家」を旗頭にした東西のどちらが正統かという時に、 秀頼を持ち出すという手を試みている筈です。 (これは逆に淀君が家康方としても同じですが・・) しかし秀頼は、毛利輝元と共に大坂城に鎮座しており、 どちらにも顔を出しませんでした。 毛利勢はいわば「消極的西軍」であり、また誰かが淀君を操り、 それにより秀頼を「中立」的立場に追い込めたとするならば、 これは東西どちら側の戦略だったのでしょうか・・? 最後に、北政所が石田方についていたとすると、 ではなぜ、後世に北政所と家康が結びついていたとされたのか、 ここが疑問点です。 北政所は豊臣家滅亡後も捨て扶持をもらい余生を過ごしています。 一時は天下の富の半分を占めたとされる豊臣家の正夫人に対しての 1万3千石ですので、本当に捨て扶持です。 もっとも本人が辞退したのかもしれませんし、 また、出家した身に何十万石も不要かもしれませんが・・。 想像ですが、関ヶ原の前後で情勢が変わったということがあり得ます。 豊臣家のことを考えて石田方を支持したものの、肝心の大坂城が 立場を曖昧にして石田らを見捨てたことに怒りと空しさを感じ、 その後は逆に徳川vs豊臣の構図の中で敢えて中立(というより無関心)を保ち、 家康に余生を保証されたというのが実情で、 後に「家康が豊臣家に反逆した」という構図を曖昧にするために 北政所が利用されたのではと考えます。 Time : 2001/ 2/12(月) 17:31:55
Name : なかの E-mail : Title : 自らツッコミ・・ Comments: 再びなかのです。 下の私の書き込みで、宇多天皇と陽成天皇について、 年齢に関する記述で自分で読んでいて違和感を感じました。 くどいですが、宇多天皇の方が1つ年上です。 う〜ん、どうオチをつけようかなあ・・。 また豊臣秀頼生誕の巷説を書いているうちに、 ふと、秦の始皇帝が商人呂不韋の落胤であったという 古代中国の物語を思い出しました。 思いつきで何ですが・・、これ、符合するところが結構あります。 ○戦国時代 → 短い統一 → 戦乱 → 再統一 ○正統性を血縁により否定 などなど・・です。意図的かもしれません。 その件は改めて・・。 Time : 2001/ 2/12(月) 18:02:19
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: パンダさん> まずは、加藤清正と福島正則についてです。 彼らが朝鮮の役における主戦派であることは、 石田三成らによる講和に最後まで反対したことから明らかではないでしょうか。 現実に、石田・小西・大谷の撤退宣言に対し、 強がりばかりで徹底抗戦を主張したのは加藤清正なのです。 ですから、 >特に明国の武力介入以降は、加藤自身も本音では戦果(収入)を挙げる見込 >みの無い無益な戦いと考えていたような気がします。 この理論は成立ちえませんし、パンダさんが「本音は別・・・」といわれましても、 証明できない次元ですからわしは認められないですね。 いずれにしても、その無益な戦いを続けようとしたのです。 秀吉の弟秀長は、死ぬ直前の病床で、朝鮮出兵を諌めました。 その中に「軍中功を求め、高禄を欲する者共」(「前野家文書」)と、 主戦派である武断派の存在を苦々しく思っています。 >ただ、何れにしても。。。福島・加藤等が「秀頼は家康から見て姻戚関係、 >秀忠の娘婿であるから、やがて豊臣家に実権が戻る」と考えていたとした >ら、戦国大名にあるまじき信じ難い甘さだと思います。 後世から見れば信じがたい甘さですが、実は当時の認識が彼らのような豊臣系武将だけではなく、 伊達政宗のような徳川派の戦国の生き残りの武将にもあったのです。 ですから、わしは信じがたいこととは思っていません。 家康、秀忠、秀頼の三人の官位を見ていくと、     家康 秀忠 秀頼 大納言    1603 1601 内大臣 1598 1605 1602 右大臣 1603 1614 1606 とまあ、秀忠は秀頼のあとなんです。 このままでいくと、秀頼成人の時に関白になることは当時の人たちにとって常識であり、 その時に徳川家は豊臣家に政権を返し、屈しなければならなくなるはずだったのです。 関ヶ原以後の注目すべき事実は外様大名の動向です。徳川に敵対し敗軍となった上杉家と、 秀頼を守り立てるよう遺言された前田家。 徳川の傘下に入ってしまったとすれば、もっとも警戒される存在です。 しかし景勝は上洛するたびに秀頼のもとにあいさつに赴き、その後で将軍家に、 というのを慣例としていました。家康はこれを黙認していたのです。 前田氏にしても、利常が家督を継いだ時に豊臣家にそれを告げにいっているのです。 有力な徳川方大名として知られる伊達政宗が家康に送った書簡には、このように書かれています。    いくら秀吉の子供でも、天下を治める能力がないとわかった時には、    領地を与えて存続させるのが望ましい」 つまり成人したあかつきには、豊臣がふたたび君主になることが、 当時の大名・武家の間で当然のことと思われていたのでした。 淀君から見れば秀忠は義弟ですし、朝廷における官位は秀頼の方がずっと上ですから、 徳川との融和路線にあったとわしは考えております。 秀頼と千姫との婚姻は、その融和策の代表だと考えられないでしょうか。 官位において、秀忠が秀頼を上回ったのは慶長19年。大坂の陣が起こるのは、その年のことです。 なかのさん> >毛利勢はいわば「消極的西軍」であり、また誰かが淀君を操り、 >それにより秀頼を「中立」的立場に追い込めたとするならば、 >これは東西どちら側の戦略だったのでしょうか・・? これは東軍の戦略に入るものと思います。三成は大坂に再三の出動要請をしています。 毛利輝元はもともと徳川家康と義兄弟の契りを交わしていたので、 戦場に出てきても家康から「本領安堵」のお墨付きをもらっただけで判断が鈍ったのでしょう。 >後世に北政所と家康が結びついていたとされたのか 前に小早川秀秋=裏切り者の時も書いたように、家康の潔くない態度の現われです。 関ヶ原では東軍につき、大坂の陣で自分に味方した豊臣恩顧の武将たちに、 正当性を与えるための配慮ですね。 滅ぼされた「虎の威を借る狐」とされた石田三成と、 我が子可愛さから秀頼を滅ぼさせた淀君が組んだことにすると、 家康や豊臣恩顧大名らが彼らを「征伐しなければならなかった」正当性ができます。 彼らの「豊臣に対する裏切り」を、「義の行動」にする、徳川家の捏造なのです。 同時に、徳川家としても主家であるはずの?豊臣を滅亡に追い込まなければならなかった、 といういいわけじみた話が出来上がったというわけなのです。 この時代を(いつの世でも)理解するためには、今まで歴史の本で論じられたような、 なたで割ったような説から離れなければ事実は見えません。 関ヶ原の戦いは「豊臣vs徳川」の名の下にあった戦いではないし、 この戦後豊臣家が一大名に落ちたのでもありません。 まして徳川家康が正々堂々と豊臣家を滅ぼしたのではないのです。 Time : 2001/ 2/12(月) 22:13:49
Name : パンダ E-mail : Title : 陽成・裏切り・関ヶ原??? Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 すっかり、お元気になられたようで。。。スゴイ量ですね(笑い) >>強いて言えば、Hにやや難点があるかと・・。宇多より陽成の方が先に >>即位したこと、宇多の方が年上なこと、宇多が陽成に臣下として仕えて >>いた時代があることなどから、後の院政時代の「治天の君」という概念 >>があったかどうか知りませんが、宇多と陽成とでは陽成の方が(普通に >>考えれば)格上ですので、不満があればそれなりの異議を唱えたように >>思います。 少し、陽成退位について誤解(?)があるようですが。。。彼は通常の譲 位ではなく一種の「廃帝」ですので、我が子に譲位した宇多とではまった く格が違うのでは。。。? なお宇多は定省王として、陽成の侍従のような立場にあったようで、陽成 は「当代は家人にはあらずや」との感慨をもらしたようですが。。。これ は余りにも立場が逆転してしまった我身を自嘲気味に述べたものでしょう。 >>「裏切り」「寝返り」は特に深い意味が無く、使う状況により使い分け >>られているという結論が無難なようです。 これは、チョット違います。私達(?)が言っているのは。。。「寝返り」 は「裏切りの」の部分概念だと言うことです。つまり「裏切り」はそれ自 体で完結した概念ですが、「寝返り」は「裏切って」さらに敵対者に同調 (味方)することを言うのです。 例えば。。。光秀は信長を裏切りました。しかし毛利など信長の敵対者に 同調(味方)したわけではないので、「寝返り」ではありません。 ただし、足利義昭を復権するために信長を「裏切った」のならば。。。こ れは「寝返り」になります。また信長が朝廷と敵対していたとして、朝廷 を護るために「裏切った」とすれば。。。これも一種の「寝返り」になる かも知れませんネ(笑い) 因みに浅井と信長では。。。どちらが「裏切り」かは論じ得ます。しかし 浅井が朝倉に「寝返り」とは言えますが。。。信長にかんしては「寝返り」 とは言えませんね。つまり両者は全く異なる概念なのです。 >>井沢先生は、織田信長が本能寺で倒れずに全国制覇を成し遂げていたら、 >>スペインの無敵艦隊を駆逐してフィリピンや台湾へ進出し、場合によっ >>ては東南アジアから南アメリカにまで進出していたのではないだろうか >>と何かの本で述べていました。 これは。。。小松左京さんのSF短編でも取上げられていますが。。。ほ ぼ全国制覇が成し遂げれた頃に、秀吉が朝鮮・明国出兵を信長に願出でて、 大目玉を食らいます。 信長は、秀吉の願いを猿智恵とし、大陸よりは海洋を目指せ。。西欧諸国 の対立と住民の反感を利用すれば、南海制圧は然程の難事ではない。。。 と諭しています(笑い)。 >>石田三成が淀君と強く結びついているならば、互いに「豊臣家」を旗頭 >>にした東西のどちらが正統かという時に、秀頼を持ち出すという手を試 >>みている筈です。 確かにこの手があったのですが。。。当時 7〜8歳の秀頼を持ち出すわけに はいかなかったでしょう(笑い) もっとも、仮に持ち出しても、狸親父 のことですから・・・偽者だとか拉致されているんだとか強弁して。。。 無視するか、真っ先に暗殺してしまったでしょうが。。。(笑い) Time : 2001/ 2/12(月) 22:33:49
Name : きんたろう E-mail : Title : 六孫王の謎(タイトル倒れ^^;;) Comments: こんばんは、パンダさん、Toshyさん、なかのさん、みなさん。 相変わらずのカメレスです、笑 私もこの燃え上がったこのパトス^^を一気に注ぎ込んで新作アップが出来るもの と思っていたのですがこの時間になってしまいました、自爆 相変わらずと言えばそれまでですが、今回については私のファミリーサイトにとん ちんかんな(笑)アラシトリオ(??)がやって来たという不運もあったりしてそ の対応をしていました。 Toshyさんにはお手数をおかけしてすみませんでしたv(^o^) パンダさん、 >トンデモ的妄想に魅力をお感じ頂いて、望外の喜びです。。。(笑い) >こういう立証困難な。。。しかし完全に否定しきれない発(妄)想こそ >。。。我等ドシロウトの特権かと。。。(笑い) 正にその通りだと思いますv(^o^) 確かに立証する事はほとんど不可能だとは思いますが、このような柔軟性のある解 釈の方が色々な点で納得が行きやすいと思っています。 突然、海を越えてやって来た集団が日本の支配者になるというSF的な発想こそが 歴史解釈における妄想と呼ぶべきものであり、パンダさんの説はそれとは全く逆で とても魅力的ですv(^o^) >「貞純親王→経基王(実子)」であれば、頼信願文(血統書)において、 >「元平親王→経基王」と書かれることは無かったでしょうから。。。そも >そも頼信願文の謎は存在せず。。。名実(公私)ともに「清和源氏」に関 >する疑問が生じることも無かった。。。かと(笑い) よく考えればおっしゃる通りかと思いました。 実は前回のパンダさん説の裏返しにしてとりあえず書いただけなのでした^^;; なかのさん、回復して何よりです^^ HNについては全くの偶然なのですがこの謎の話題はとても面白いと感じています。 今度貞純親王達のグラフを作ってみて視覚的に理解しようと思っています、笑 関ヶ原についてはToshyさんにお任せします^^ Time : 2001/ 2/13(火) 00:24:57
Name : パンダ E-mail : Title : 勉強してみます。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 この時代まったくの不勉強ですが、一つずつ考えてみたいと思います。 まず、、次の問題ですが。。。 @関ヶ原時代に、北政所と加藤・福島等の対立があったのか? Aそれは朝鮮の役の和平・主戦に関する路線相違が原因であったか? 朝鮮の役の主戦派と講和派の動向については、緒戦・明国武力介入・講和 交渉・再征・撤退の段階で、かなりの変化があるようですので、北政所の 関与を含めてもう少し勉強して見ます。 (現在は、小説と中高レベルの知識しかありませんので、まったくの白紙 状態です。。。) で。。。まず「朝鮮の役」諸将と東西分布ですが。。。 毛利輝元(西?)・・・・・再征時には不参加? 毛利秀元(西?)・・・・・1598.5 秀吉の命で撤退 小早川隆景・・・・・・・・ (秀秋)(西→東)・・・・1598.5 秀吉の命で撤退(再征時には総大将?) 宇喜多秀家(西)・・・・・1598.5 秀吉の命で撤退 小西行長(西)・・・・・・講和工作で譴責(和平派) 島津義弘(西)・・・・・・撤退時に殿軍 長宗我部元親(西)・・・・1598.5 秀吉の命で撤退 加藤清正(東)** 黒田長政(東)** 福島正則(東)**・・・・・朝鮮ではほとんど姿が見えない? 浅野幸長(東)** 加藤嘉明(東)** 細川忠興(東)** 藤堂高虎(東) ・・・・・水軍中心、1598.5 秀吉の命で撤退 蜂須賀家政(東)・・・・・1598.5 秀吉の命で撤退 鍋島直茂(東?) @概ね以上のように考えて良いのでしょうか? (** は三成襲撃七人衆) A秀長没年は1591.1 朝鮮出兵の約1年前ですが、この言葉にそれ程の意 味(加藤非難など)を持たせるべきものでしょうか? B1587 の再出兵に際し、家康は中止諌言を行ったとされており、加藤が 路線対立するならば家康だと思うのですが? (北政所が積極的に出兵中止に動いたかどうかは、確認できませんが?) Cこの諸将の中で、加藤清正とともに主戦論に固執したのは、誰々でしょ うか?(福島正則も主戦論だったのでしょうか?) D朝鮮の役の終結は、秀吉没後に家康・利家等の大老により決定され、三 成等の奉行はその命で実務処理に当ったと思うのですが(違いました?) 加藤清正が、最終撤退に反対したとすれば、これは家康・利家の決定に 反対したと言うことでしょうか? またこの段階においても、戦争継続 により軍功(収入)を挙げることを期待していたのでしょうか? (客観的に見て、ほとんど不可能な状況だったと思うのですが。。。) 出来れば以上につき、ご意見をお聞かせ下さい。もう少し勉強したいと思 います。 Time : 2001/ 2/13(火) 22:34:35
Name : Toshy E-mail : Title : そろそろ限度か(笑) Comments: パンダさん> そろそろわしの思考も限度に来ました。(わら しかしこれは自分の頭脳を活性化するため、がんばっていきましょう。 関ヶ原時代の北政所の対立ですが、彼らが東軍についたこと、 豊国神社などでの接触がなかったことなどから、 少なくとも「北政所=武将派=徳川氏」のラインは否定されます。 北政所と加藤清正・福島正則らの意見が食い違い対立していく中には、 先にあげた朝鮮出兵について、ひとつ述べなければなりません。 Aの疑問ですが、1年という期間があるからこそ、多いに意味があると思います。 秀長が死んで1年というのは、戦争に向かうための準備期間といえます。 つまりそれまでストッパーとなっていた秀長の存在が消えることで、 加藤ら主戦派の武将はなだれ込むように戦争に向かうわけです。 北政所がこれを苦々しく思わない・・・・と考えることは出来るでしょうか。 徳川家康・前田利家もまた反対派ですが、現実に何をしたわけでもありません。 ですから特に悪感情を持たなくとも不自然ではないし、 徳川は後詰めとして兵を動かしていたので、 彼らには自分と利害を共にする者という印象もあったのかもしれません。 また家康ほどの人物ですから、武将派を韜晦することは何でもなかったはずです。 秀吉の側で和平工作に動いたのは石田三成で、 主戦派にしてみれば「独断で講和を結んだ」と言い掛かりをつける相手としては、 表立って秀吉・北政所に文句を言えないだけに恰好の相手でした。 また北政所と武将派の対立の要因に、 ちまたでよく挙げられる「武将vs奉行」の対立をわしは見ております。 それまで分権型として機能していた豊臣家は、 秀吉中心の中央集権型になって行くことが望ましいわけで。 ところが有事の指揮官であった武将派にしてみれば、 それまでの働き場を失ったことで権力の中心にいる三成と対立します。 三成は秀吉の権力をかたいものにするため、ある事件において徳川家康の失脚を図りました。 これは失敗に終わりますが、利害の一致した徳川と武断派が組むことは必然でした。 それに対し、秀吉の死後も豊国神社に足を運びつづけた北政所が、 秀吉の天下を揺るがす存在を揺るがしかねない人物を警戒しないはずもなく、 彼女が武将派と対立していくことになったのでは、と思います。 さて、朝鮮出兵です。加藤清正が主戦派の代表ですが、 他には小早川隆景、福島正則(出陣しています)がいました。 清正が撤退を拒否した理由ですが、自分が清正であるとすれば・・・・ やはり意地になっていたと思います。 三成の撤退勧告に対し、「臆病者」と罵声を投げつけ、 補給ラインの困難を説く奉行衆に対して、 「米がなければ土を食う」とまで言ったほどですから。 おかげでこっちが勉強させてもらっています。m(__)m Time : 2001/ 2/14(水) 01:03:55
Name : パンダ E-mail : Title : 朝鮮の役と清正。。。(長文) Comments: パンダですう。Toshyさんへ。。。 しつこくお聞きして、ご迷惑かも知れませんが。。。(笑い) 私は、もともとこの時代にはあまり興味が無かったのですが、今回の話題を 機会に少し勉強してみようと言う気になって、連休中に図書館で解説書を数 冊流し読みしたものですから。。出来ればもう少し付き合って下さい(笑い) まず。。。 >>関ヶ原時代の北政所の対立ですが、彼らが東軍についたこと、豊国神社な >>どでの接触がなかったことなどから、少なくとも「北政所=武将派=徳川 >>氏」のラインは否定されます。 彼等(尾張系武将)が東軍についたことは歴史上の事実なのですが、ここで の問題は北政所の去就についてですね。。。それを判断する要素としてあげ られた、彼等が豊国神社に立ち寄るのを避けたこと。。も事実だと思います。 しかしながら、豊国神社に関しては。。。彼等と北政所との対立と見るか、 北政所とは直接関係がない単なる家康に対するジェスチャーと見るか、ある いは極端にいえば。。北政所と示し合わせたものであるか。。等の様々な解 釈が可能だと思うのです。 現段階では。。。これらの想像を充分検証する能力はありませんが。。。 少なくとも、この「事実」をもって直ちに彼等と北政所との対立と決定する には躊躇せざるを得ません。。。 さて、当面の本題の「朝鮮の役」の路線対立を、両者の対立の原因と見るか どうかですが。。。 >>つまりそれまでストッパーとなっていた秀長の存在が消えることで、加藤 >>ら主戦派の武将はなだれ込むように戦争に向かうわけです。北政所がこれ >>を苦々しく思わない・・・・と考えることは出来るでしょうか。 ここでの問題は。。。最大の主戦派は他ならぬ太閤だったと言うことです。 加藤等の尾張系武将はもちろん、家康はじめ全国諸大名とてこの時点で正面 切って太閤に逆らうことは不可能でしょう。 とはいっても。。。諸将の思惑や温度には、自ずから差があったと思います が、尾張系武将は他の大名に率先して太閤の意向を尊重せねばならない立場 でしょう。。。 家康・利家・輝元等の大老クラスでさえ反対できないことについて、加藤・ 福島に何の抵抗が出来るでしょうか? このことは誰よりも北政所が百も承 知していた筈ではないでしょうか? (仮に主戦派だったとしても、彼等が太閤を焚き付けたとする根拠は見いだ せません。単に太閤に忠実だったと見る方が自然ではないでしょうか? ) 従って「加藤ら主戦派。。。北政所がこれを苦々しく。。。」と言うのはチ ョット疑問です。敢えて言えば。。。私は寧ろ家康がマッチポンプで太閤を 焚き付けた可能性すらあると睨んでいるんですが。。。(笑い) >>秀吉の側で和平工作に動いたのは石田三成で、主戦派にしてみれば「独断 >>で講和を結んだ」と言い掛かりをつける相手としては、表立って秀吉・北 >>政所に文句を言えないだけに恰好の相手でした。 これは、おそらく1593.4 のソウル撤退から 1594.4 の「関白降表」「国 王册封」問題の講和交渉のことだと思いますが。。。ここではむしろ小西と 加藤の路線対立が明確になるものの(その小西でさえ1592.8のソウル軍議で は宇喜多・黒田軍監・石田等奉行の平壌撤退に強硬に反対し、1593.1 まで これを死守するのですが。。。)結局は講和交渉は破談するのですから、こ れをもって石田・小西に悪感情を抱くのは兎も角として、北政所とは直接関 係ないように思います。。。(小西・石田の和平工作の陰に北政所ありとお 考えなのでしょうか? ) >>北政所と武将派の対立の要因に、ちまたでよく挙げられる「武将vs奉行」 >>の対立をわしは見ております。 >>これは失敗に終わりますが、利害の一致した徳川と武断派が組むことは必 >>然でした。秀吉の天下を揺るがす存在を揺るがしかねない人物を警戒しな >>いはずもなく、彼女が武将派と対立していくことになったのでは、と思い >>ます。 これならば、朝鮮の役というよりも。。。豊臣家内部の「武将vs奉行」の対 立構造と、これにからむ徳川家の関係と言うことになりますので、別に論じ たいと思います。 ただ。。。彼女が徳川を「豊臣家の天下を揺るがしかねない人物」と考えて いたならば、当然に淀君も加藤等の武将派もそう感じていたはずですよね? >>さて、朝鮮出兵です。加藤清正が主戦派の代表ですが、他には小早川隆景 >>、福島正則(出陣しています)がいました。 これについては、既に述べたとおりです。。。開戦時と開戦後、講和交渉時 と再開戦時、最終撤退時に分けて考える必要があると思いますが。。。 なお福島は、開戦時に名前は挙げられているものの、その後の活躍はほとん ど見られず、僅かに明水軍の唐島砲撃海戦に貢献した程度だと思います。 (つまり、ほとんど軍功らしいものはないと思いますが。。。違いますか?) >>清正が撤退を拒否した理由ですが、自分が清正であるとすれば・・・・ >>やはり意地になっていたと思います。 実は。。。私もそう思ってるんです。つまり。。。 >>加藤・福島らにしてみれば、自分たちが収入を手に入れるきっかけを邪魔 >>するようなことをいう北政所に悪意を持つでしょうし、北政所とて彼らに >>対し警戒を強めていたことは間違いないでしょう。 と言うような理性(功利)的なものではなく。。。 >(加藤が徹底抗戦を主張したとしたら。。。弱音を吐いたととられる懸念か >らで、本音は別だったような。。。?) に近い感情的なものが支配していたのでは。。。と言うことなのです。 仮にそうだとしたら、加藤以外の武将派にはその様な「意地」はあリません し。。。「北政所が邪魔をしたことに悪意を持つ」という解釈には、チョッ ト疑問を感じざるを得ないのですが。。。? 朝鮮の役に関しては、一応以上にして。。。次に徳川家康の行動について考 えて見たいと思いますが、如何でしょうか?。。。(続く) なお、関係年表を作りましたので、ご参考までに。。。 (例によって蒙御免です。誤解があればご指摘願います) 1585  7 羽柴秀吉 関白就任、大陸侵攻構想 1586 12 羽柴秀吉 太政大臣 3 ヤソ会クエリョに支援要請 1587  5 島津氏降伏し九州平定、6 宗氏に朝鮮王服属の交渉指示 1588 7 刀狩令 1589  8 宗氏等の朝鮮通信使派遣要請、9 朝鮮王派遣受諾 1590 11 秀吉、朝鮮通信使引見、「征明嚮導」要請国書(呼称問題生ず) 7 小田原・奥州平定 8 家康江戸入城 1591  1 豊臣秀長没 2 日本使「征明嚮導」を「仮途入明」と詐称    10 肥前 名護屋築城、12 関白職を秀次に譲る 1592  4 小西行長・宗義智、加藤清正・黒田長政上陸侵攻 (1小西行長・宗義智 2加藤清正・鍋島直茂 3黒田長政・大友義統 4島津義弘 5福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親 6小早川隆景・秀包 7毛利輝元 8宇喜多秀家 9羽柴秀勝・細川忠興 水軍 九鬼嘉隆・藤堂高虎 脇坂安治・加藤嘉明 )     4 朝鮮王ソウル脱出、平壌にて明救援を求む     5 ソウル陥落、5 李舜臣 藤堂等の日本水軍を破る     5 小西・宗・加藤・黒田・鍋島等北進     6 石田・大谷・増田等の朝鮮奉行渡海     6 小西・宗・黒田等による平壌陥落、加藤・鍋島等北進     7 小早川 義軍の抵抗により全羅道侵攻失敗     7 李舜臣等 日本水軍を撃破 7 明軍救援開始 平壌攻略     7 加藤 朝鮮二王子捕獲     8 ソウル軍議(宇喜多召集・・石田・黒田孝高・小西・島津・黒田 ・小早川等により小西に平壌撤退を勧告するも不調、 加藤・鍋島は北方攻略により欠席)     9 明使 沈惟敬・小西会談 停戦協定     9 李舜臣等 日本水軍を攻撃、黒田長政敗退 1593  1 明 李如松の平壌奪回、大友義統敗走     1 碧蹄館の戦 小早川隆景・立花宗茂等 李如松を撃破     2 幸州の戦 ソウル日本軍反撃失敗 2 加藤・鍋島等ソウルに帰陣     3 明軍 ソウル兵糧庫を焼き討ち、日本軍兵糧欠乏     4 沈惟敬と小西・加藤和議会談 4 日本軍ソウル撤退     5 秀吉 和議腹案を示す  5 大友義統等を処罰改易     5 石田等三奉行・小西 明使とともに名護屋帰着     6 宇喜多・加藤・毛利秀元 晋州城を陥落     6 秀吉 明使に和議七条提示、明使帰国     7 小西 朝鮮二王子を送還 10 小西「関白降表」を偽作 1594  4 加藤和議条件を主張し和議決裂  7 加藤再度和議条件に固執 和議会談決裂 9 明船 唐島砲撃 福島・戸田これを破る    11 内藤如安「偽関白降表」を明皇帝に提示、日本軍撤退・册可貢不可 ・明赤子の明和議条件を承諾    12 明皇帝 秀吉を日本国王に册封決定 、李宗城を正使任命 1595  1 秀吉 朝鮮久住の構えを命じる    7 豊臣秀次 自尽 10 李宗城 日本軍の釜山撤退を求む 1596  4 正使 李宗城 和議内容相違を恐れ逃亡 、加藤召喚蟄居さる 7 伏見大地震 加藤蟄居赦免     5 正使 楊方亭任命  6 副使 沈惟敬の来坂 8 正使 楊方亭の来坂     9 秀吉 楊方亭・沈惟敬を引見、「封日本国王」に激怒し、講話交渉 破綻 家康諌言を排し再征命令    11 明皇帝 秀吉册封受諾の誤報を受ける 1587  1 李舜臣 誣告により水兵に降格 2 明皇帝 虚偽外交に激怒し責任者を投獄     7 藤堂・脇坂・加藤嘉明・小西・島津等 朝鮮水軍を撃破、 これにより李舜臣復帰     8 加藤・鍋島・黒田・長宗我部 石山城、 宇喜多・小西・島津 南原城(明軍)を陥落     9 毛利秀元・黒田 天安、加藤 清州を占領  9 李舜臣 日本水軍を撃破     11 加藤・浅野 蔚山城構築、明軍包囲により籠城 1598  1 毛利秀元等の蔚山救援 籠城終結、宇喜多・毛利十三将秀吉に配置 替え申請     2 明皇帝 蔚山勝利の偽報を受ける  3 醍醐の花見 5 宇喜多・小早川・毛利・蜂須賀・藤堂・脇坂等帰国  8 秀吉没    10 家康・利家等の大老による朝鮮撤退決定、石田等に指示    10 島津軍 明・朝鮮軍を撃退    11 小西退路遮断されるも島津救援により脱出、李舜臣戦死、島津帰国 1599 1 前田利家 家康の専横を責める 3 利家没 3 三成失脚 3 伏見西の丸に移る(興福寺僧英俊日記 「天下殿に成られ候」) 9 北政所 大阪城を去り、家康入城修築 家康 大名縁組みの禁を侵し、大老・奉行の反対で断念す 増田長盛の誣告により、前田利長・細川忠興の謀叛を糾弾し、 陳謝を受け人質を江戸に取る 1600 6 上杉景勝に謀叛の疑いありとして、会津攻略 9 関ヶ原合戦 西軍大名領地 208万石没収減少、豊臣家蔵入 222→65万石 780万石(1850万石の40%)を再配分、徳川家 256→400万石 Time : 2001/ 2/14(水) 22:47:02
Name : なかの E-mail : Title : こっそりと、たくさん・・? Comments: こんばんは、なかのです。 自分が回復した(・・?)と思いましたら 今度はパソコンの方がおかしくなってしまいました。 前回書き込みすぎたせいでしょうか・・。 きんたろうさま> レスありがとうございました。 グラフを期待してお待ちしています。 パンダさま> レスありがとうございました。 陽成院と宇多院との関係については記録が多くないようでして、 先の「当代は家人にはあらずや」以外に発見できませんでした。 「格上」については「廃帝」であれば確かに問題ないでしょう。 ところで、陽成院の「廃帝」説は面白いと思います。 面白いというのは、これまでの廃帝だった淳仁天皇は幽閉され、 淡路に流された後に再度捕らえられ、その翌日に崩じています。 (実にクサイですが・・?) また九条廃帝(仲恭天皇)は夭折し、 大友皇子(弘文天皇)はすぐに殺されています。 時代背景もあるでしょうが、陽成院のみ「廃帝」的立場でありながら 異様なほどの長寿であったというのが興味深いです。 他の3例では皇族の長老の名により「廃帝」とされたのですが、 陽成院の場合は形式上誰により廃されたのでしょうか・・? また、「廃帝」の子孫を称したくても称することができず、 やむを得ずその1代前(血統上で)の清和天皇の末裔を語ったというのが 「陽成」→「清和」の直接の動機ということも考えられます。 「裏切り」「寝返り」については、広辞苑によると・・、     裏切り:うらぎること、内応、内通。     裏切る:@敵に内通して、主人または味方にそむく。         A約束・信義に反する行為をする。人の予期に反する。     寝返り:@寝たまま体の向きを変えること。         A味方に背いて敵方につくこと。味方を裏切ること。     寝返る:寝返りをすること。 とあります。 広辞苑を絶対視するつもりはありませんが、 この2つを見ますと、その違いは曖昧です。 その上で、「裏切り」「寝返り」をそのように使い分けるのだと されるのであれば、それに従います。 似たような意味を持つ言葉の使い分けで有名なものに「乱」と「変」、 「崩」と「没」などがあります。 信長の「天下統一後」については歴史if物語になってしまうのですが、 信長の頃には戦艦のようなものを作っていた形跡もあり、 また後の時代に山田長政らが進出していることもあり、 実際海上へは進出した可能性が高いと思います。 敢えて穿った見方をすれば、例に出された小松左京さんの小説の部分は、 秀吉が朝鮮から大陸に進出しようとして挫折したという歴史事実を 意識しての内容であると思えるのですが・・。 台湾やフィリピンや東南アジアを押さえてしまえば、交易という面から見て、 中国大陸にさほど魅力は感じなかったかもしれません。 ただ当時の中国大陸は明王朝末期の混乱の最中であり、 あわよくば・・という気持ちはあったのではないかと・・。 Toshyさま> レスありがとうございました。 Toshyさんが「正当」と表現されているものは、 いわゆる「大義名分」と呼ばれるもののことだと思います。 少なくとも家康は「大義名分」を意識して行動していたと思います。 豊臣方(・・曖昧な定義ですが・・)の武将が家康を支持したのも (家康が演出した?)大義名分が見つけられたからでしょう。 Toshyさんは「三成は大坂に再三の出動要請をしています」としていますが、 私も秀頼を文字通り矢表に出すことは充分に考えられたと思います。 Ponyaさんが「当時 7〜8歳の秀頼を持ち出すわけには いかなかったでしょう」と言われましたが、、 幼児が表に出た例とすれば、鎌倉幕府滅亡時に4歳だった足利義詮が 父の名代としてですが参加し、諸将を従わせています。 ましてや秀頼は7歳、しかも諸大名は何度も拝謁している筈で、 いくら相手が偽物呼ばわりしようとも効果はあるはずです。 暗殺する手はあるかもしれませんが・・(笑)。 むしろ、「秀頼を暗殺する者がいるかもしれない」と脅すなどの手段により、 誰かが秀頼の参戦を阻止したとする方がいいのではないかと思います。 家康に対し比較的人望の薄かったとされる石田三成は少なくとも、 秀頼の参戦を計画して当然です。 これの鍵となるのが、西軍総大将に祭り上げられた毛利輝元の動向では ないかと睨んでいるのですが・・。 この時代の「義兄弟の契り」って、そんなに堅いのでしょうか・・? 信長と家康も似たような関係でしたが、あれはむしろ家康の性格に よるものだと思うのですが・・? また家康が最終的に滅ぼした豊臣家は、文字通り義兄弟の家ですけど・・(笑)。 そういえば、関ヶ原当時の毛利家(及び吉川家)と小早川家(秀秋の家)との 関係はどうだったのでしょうか? 「正当」という言葉の意味を調べている時に、 「正当」と「正統」との違いについて考えました。 かつて作家の陳舜臣さんが「勝者だけでなく敗者から見た歴史も・・」と いうような趣旨のことを言われました。 これは「歴史」という記録はほとんどが勝者によって記されるものであるという 歴史上の事実を踏まえたものであると思います。 細かい部分についてはともかく、最低でも根本的な本筋のところでは 勝者は現在の自分を立証したりアピールしたりといった目的で、 自分にとって都合良く、そして不都合が無い(少ない)ように記録を残す筈です。 そのため、歴史では洋の東西を問わず、 常に「正統性」というものが語られてきたのだと思います。 「正統性」という考えはいわば大河です。 相対的に局地的なものとして考えられるのが「大義名分」でしょうか・・? ここで1つ疑問が生じました。 この頃の日本の歴史を語っている「正史」は何でしょうか? まさか水戸光圀が手がけた「大日本史」・・? Time : 2001/ 2/14(水) 22:47:58 Name : Toshy E-mail : Title : まずはわかるところだけ・・・・ Comments: パンダさんへ> >ただ。。。彼女が徳川を「豊臣家の天下を揺るがしかねない人物」と考えて >いたならば、当然に淀君も加藤等の武将派もそう感じていたはずですよね? この可能性は、わしは否定します。淀君にとって徳川家は姻戚ですから、 家康が秀頼の天下を奪うとは考えなかった、と思っています。それは前に述べた通りです。 簡単に言えば、加藤清正・福島正則は考えが甘かったのですが、 それは当時の大名すべて(伊達政宗ですら)に通じるものでしたから、 彼らを批判すべき問題であるとは思っていません。 北政所と尾張系武将の対立についてです。 北政所が宇喜多秀家の出陣に際し、戦勝祈願を行なっていること、 宇喜多秀家が秀吉の養子でありその妻豪姫が北政所に育てられた女性でありますから、 絆は尾張系の武将たちよりも宇喜多秀家の方が強いのですよ。 逆に福島正則の出陣に際しては、何の沙汰もしていません。 これは定説を明らかに否定しているものです。 また北政所の側近には、孝蔵主という人がいます。 この人の次男に嫁いだのが石田三成の次女、 さらにこの人の甥は奥州戦線で上杉景勝のもとに駆けつけて戦いました。 淀君の側近ではないか?という反論もあるかと思いますが、 孝蔵主は淀君が出てくるずっと前、長浜時代からおねに仕えていましたから、 北政所と西軍の関係がここにみいだされるわけです。 そもそも淀君と石田三成の絆などはなんの証拠もなく、 北政所と三成の関係を無視して従来の説を強調するのは無理なことと思います。 もし淀君と三成が連携していたとすれば、徳川の出陣に軍資金を出した淀君が、 西軍挙兵にあたって金を出そうともしなかったのは奇妙な行動ではないでしょうか。 もし淀君と三成の連携を肯定する明確な事実が見出されれば、 わしも考えを改めるところではありますけど・・・・ 朝鮮出兵での清正です。 太閤自身が主戦派であることは間違いないですが、 先にここに書いた秀長の言葉を見ておわかりのように、 加藤清正に対して秀長は相当に嫌悪感を持っていました。 豊臣家を支える北政所とて、同様に思うのは無理のないことです。 >小西・石田の和平工作の陰に北政所ありとお考えなのでしょうか? 和平は豊臣秀吉自身の命令に違いありません。 石田三成の独断だという説もありますけど、独断ですることは不可能ですね。 当然ながら、北政所の意向もここにあったとは思われます。 清正がむきになって戦いを続けようとしたことに対し、 (理由は何であれ)北政所は清正の行動を容認できないのではないでしょうか。 意地になろうと何だろうと、軍監として諸将に指令を出す三成の命令に反し、 軍記を乱すような武将には、弁明の余地はありません。 朝鮮出兵の理由ですが、領土を欲しがった彼ら武将派大名に原因があったのは間違いなく、 (秀吉が彼らのような大名のために領土を得ようとしたのです) 彼らは反対するよりもむしろ勇躍していったのです。 秀長は、「領土がほしければ俺の領土をくれてやる」といいましたが、 これは武断派に対する嫌悪と警戒でした。 なかのさん> しばらくおいでにならないので、どうしたかと思っていました。。。 秀頼を出陣させなかったのは、やはり淀君でしょう。 徳川家康を味方だと信じていた、というわけですね。 義兄弟の話ですが、事実の話というよりも、 毛利輝元が簡単に懐柔されたのはそのような背景があった、というものです。 なお、小早川家と毛利家の関係ですが、 やはり他人が入ってきた小早川ですから、毛利一族は一線を引いていたのでしょう。 「毛利両川」として吉川・小早川と元就の代にはいわれたものですが、 小早川に代わって毛利一族で出陣した唯一の主戦派・毛利秀元が、 吉川広家と共に毛利本家を支えていました。 あと、この時代の「正史」にあたるものとしては、各大名家に残された文書が数多くありますよ。 日本全土を、というものは信憑性に欠けるでしょう。 たとえば「三成=淀君=姦賊」みたいな・・・・・ Time : 2001/ 2/15(木) 00:02:21
Name : MK E-mail : Title : 初めまして、私も仲間に入れてください。S31生まれ主婦です Comments: 初めましてMKです。近ごろ余りに嫌な事件が多くてこれではまるで三国史の世界みたいだと思い初めています。 皆さんは、どう思われますか。  JRの転落事故で亡くなられて非常に痛ましかったけれど、これで日韓もう少し仲良くなれるかと思った矢先 のJALのニヤミス事故、そしてハワイの原潜事故。又、周りに何か病気になる人が多くて・・どう考えたらいいですか Time : 2001/ 2/15(木) 00:07:35
Name : なかの E-mail : Title : こっそりと・・その2 Comments: おはようございます、なかのです。 前回、パンダさんとすべき所をPonyaさんとしていました。 2人ともPで始まることからの変換ミスです。 お二人にこの場を借りて失礼をお詫びし、訂正させていただきます。 Toshyさま> レスありがとうございました。 朝鮮への出兵につきましては、 また思いっきり背伸びをするしかありませんが・・。 「正史」で言おうとしましたのは、 当時、「日本国」という意識があったかどうか分かりませんが、 「日本国」としての「正史」のことです。 悪い言い方をすれば、「大本営発表」というやつのことです。 おっしゃるとおり、歴史資料としての信憑性は疑問があるでしょうが・・。 朝鮮出兵の動機として領土拡張について述べられていますが、 秀吉には「世界戦略」として中国大陸を押さえておくことと、 あと私の妄想に近い想像ですが、 秀吉個人の血統へのコンプレックスもあったかもしれません。 足利義満の野望とされている、中国大陸の権威を持ち出して 日本の天皇の権威を否定するというもののアレンジ、 つまり秀吉が本場中国で明王朝を倒して皇帝となろうとしたのではと・・。 MKさま> はじめまして、よろしくお願いします。 嫌な事件が多いのと三国志との関係がよく分かりませんでしたが・・。 Time : 2001/ 2/15(木) 08:26:37
Name : MK E-mail : Title : 早速、お返事いただいて感激です。MKです。ワ−プロで書いてます。 Comments: なかのさんへ。実は私、漢文じゃ−なくて小説十八史略を読んでまして今と あんまり変わらないなと思いはじめまして。それと、井沢さんがSAPIO 紙上でどこかの大学教授と遣り合いはじめて、おもしろ〜いと思ってたら、 突然の休筆。サンデ−毎日の方も無くなるし。なんかどう成ってんのと ?  井沢さん、皆さん、どうか食べ物お体にお気をつけてください。それだけです。 Time : 2001/ 2/15(木) 09:27:30
Name : パンダ E-mail : Title : 戦国の常識。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 >>この可能性は、わしは否定します。淀君にとって徳川家は姻戚ですから、 >>家康が秀頼の天下を奪うとは考えなかった、と思っています。それは前 >>に述べた通りです。 失礼ながら、戦国史を理解されているToshyさんのお言葉とは思えま せん。。。。 淀君は伯父に父と幼兄弟を殺され、継父と母を殺した人間の側室になり、 もうけた子のために、夫が甥の妻妾幼子を殺戮するのを目にしてきた戦国 の女性です。対する家康は、政略のため正妻と嫡子を殺した人間です。 当時は父が実子を殺し、子が父を放逐し、実兄弟が殺し合うことさえの何 の不思議もない時代です。まして舅・婿の殺し合いなど、極端に言えば日 常茶飯事の常識に属すると言えるでしょう。 その様な時代においては、妹が嫁した姻族等は何の頼りにもならないと考 えるのが、むしろ常識ではないでしょうか? (現に家康は、何の躊躇もなくイチャモンとだまし討ちで孫婿を殺してい ますよね。。。) >>それは当時の大名すべて(伊達政宗ですら)に通じるものでしたから、 >>彼らを批判すべき問題であるとは思っていません。 ご紹介の伊達書状については、書状の時期・性格が今ひとつ分かりませんの で、速断は出来ませんが。。。この文章は。。。政宗が徳川の天下取りを支 持し、勧奨しているものとしか思えません。 出来ればこの前後の文章を、原文でご紹介頂けないでしょうか? まずは。。。以上です。その他の点については順次申し上げます。 Time : 2001/ 2/15(木) 09:42:38
Name : Toshy E-mail : Title : 淀君の認識は甘い・・・・ Comments: パンダさんへ・・・ 関ケ原が「徳川vs豊臣」という名のもとに行なわれたという誤解がありませんか? 徳川家康は「豊臣家のために」の大義名分で三成・西軍と戦ったのであり、 ひいては秀頼・淀君のためであると称したのです。 大坂の陣にしても、淀君を悪に仕立てて秀頼を滅ぼすのですから、 「豊臣を滅ぼす」という潔い感情などないのです。 それに先にも述べましたが、 関ヶ原の後も上杉や前田など徳川を警戒しなければならないはずの外様大大名は、 年始のあいさつをまず豊臣に、そして徳川にという順を守っていました。 例の伊達政宗の文章ですが・・・・  いかに太閤様御子に候とも日本の御置目など取り行はるべき御人に御座なく候由内府様御覧届け候はば、  御国の二三ヶ国も、またはその内も進せられ候て、ながながの御進退申され候て能候はん です。年代は慶長6年の4月。 パンダさんが「徳川の天下取りを支持し、勧奨しているもの」とするのは賛成です、 つまり「今は豊臣の天下だが、秀頼に能力がなければ徳川の天下にしたらどうか」というもので、 豊臣の天下だと思っていたという前提の下でなければこのような発言は出ません。 淀君が、家康出陣の際に軍資金を出し、 西軍挙兵の時は無関心でいたことをどのように説明できるでしょう。 脅迫されたということも考えられますが、もしそれなら西軍に対してそれ以上の協力をしませんか? わしか淀君なら(女装の趣味はないです:笑)、 しぶしぶ協力する東軍に金を出し、自分が決起を支える西軍に協力しないなんてことはないです。 骨肉の争いが日常茶飯事でも、だからといって親族で争うのが当然、という理論にはならないのですよ。 淀君の認識は、大坂の陣にあってもあのとおりですから「甘い」といわざるをえません。 北政所の親族と側近が西軍に荷担、淀君の義弟2人が東軍、という実際の図式は、 いくら「親族の争いは当時の常識」といっても、定説に無理があります。 なかのさん> 朝鮮出兵の理由としてはおっしゃるとおりです。 明の首都に移転するんだ、なんて言っていましたね。 Time : 2001/ 2/15(木) 10:14:25
Name : 輔住 E-mail : Title : 関ケ原ですごい盛り上がってますね。 Comments: 淀君が親戚に甘かったのは事実ですね。 大坂の陣でも叔父に当たる織田有楽斎などを 優遇したり(彼と家康の関係からすれば普通怪しむと思うけど) 少なくても淀君が西軍に好意的なら秀頼出陣までいかなくても 会津攻めの中止や西軍に味方せよなどの手紙を秀頼名義で 出してもいいのでは?と思います。 Time : 2001/ 2/15(木) 12:29:10
Name : Toshy E-mail : Title : つけたしとして Comments: 加藤清正が関ヶ原では東軍につき、大坂の陣の前では豊臣家を守ろうとしていた・・・ これはご存知の通りです。 このような清正の行動、豊臣を見限って東軍についた、では説明できませんね。 石田三成が憎いという私的な感情で動いたということになり、清正には弁明の余地がありません。 なお、淀君が「豊臣のため」という徳川・石田のどっちに味方するかを考えましょう。 ・姻戚関係の徳川 ・同郷の石田 淀君が東軍荷担か西軍荷担かは、明らかになると思われますが。 輔住さんフォローありがとうございました。 Time : 2001/ 2/15(木) 13:34:43
Name : パンダ E-mail : Title : 天下人。。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 >>関ケ原が「徳川vs豊臣」という名のもとに行なわれたという誤解がありませ >>んか? まったくありません(笑い)。 諸資料を検証することで、その「実態」が何であったかを推理することに興味 を持っているだけですし、特定の「定説」には白紙で臨んでいる積もりです。 ただ。。。「XXと称する」ものの「実態」が何であったのかを考えることが、 最も重要だと思っていますが。。。。(笑い) (淀君と石田を近江グループとする見方についても、まったく賛同していませ んし、北政所と武将派を同一グループとも見ていません。この点誤解しないよ うに願いますネ。。。) 例えば、長久手・小牧の戦いは。。。名目的には織田家の跡目争いを装ってい ますが、実際には秀吉・家康の覇権争いです。関ヶ原は毛利が絡みますし、石 田には直ちに覇者を目指す実力がありませんから、もっと複雑ですが。。。何 れも豊臣家を危うくするものを除くことを名分としていたでしょう。 しかして、その実態は。。。そして女性達は何を考え行動したのであろうか。。 これがここでの最大の問題ではないでしょうか? 淀君・北政所ともに、この時期においては、迷いに迷ったと思っています。 (旗幟鮮明にすれば、引っ込みがつかなくなるのです。秀頼の将来を思えば迷 うのが当然でしょう。。。姻戚等はもとより信じないでしょうし、同郷等など はまったくの問題外です。家康の年齢も考慮して。。。どのように振る舞えば 実質的に秀頼の天下が可能になるか。。。あるいは兎も角も名目上天下人たら せ得るのか。。。最悪の場合は名誉ある武家貴族としての道はないのか。。。 あるいは最低でも有力大名として存続させられないか。。。これが織田家の末 路を見た上での。。。彼女達のそれぞれの行動指針ではなかったかと思います が。。。?) >>関ヶ原の後も上杉や前田など徳川を警戒しなければならないはずの外様大大 >>名は、年始のあいさつをまず豊臣に、そして徳川にという順を守っていまし >>た。 これは。。。家康自身が「臣礼」を取り、かつ諸大名にもそれを命じていた時 期ですね。ですからこれは当然のことだと思いますが。。。問題はその「意味」 をどのように理解するか。。。ではないでしょうか? (一つの解釈は。。。実質は「天下人」となった。。。しかし直ちに形式的に も「天下人」となれば、豊臣恩顧の大名は主君を裏切り、徳川に寝返ったとい う不忠の臣になる。。。彼等を心理的に追い詰めるのは得策ではない。。。今 は形式を立てておいてやろう。。。ですね?) 封建(武家)時代においては。。。誰が領地を与奪(安堵)し、誰の御恩と意 識させ(し)、誰に奉公を捧げるか。。。という切り口も(が)重要だと思う のです。 この「誰」が実質上の「君主=天下人」だといっても良いのではないかと言う ことですね。 少し例えがずれることを承知の上で言えば。。。鎌倉封建(武家)政権は。。。 (公家・親王)将軍>執権>得宗ーーー>御家人(武家) という公式的(主従)関係にあります。しかし実際の関係は。。。 得宗>執権>(公家・親王)将軍ーーー>御家人(武家) であることは誰しも認めていたことです。 つまり、当時の「君主=(後世の)天下人」は形式上の君主である将軍ではな く、得宗家当主だと言うことですね。 それでは。。。家康は何時「君主=天下人」たらんとし、実際になったのか。。。 私は、日本の40%あまりの知行を再配分(つまりは所領与奪の権です)し、豊 臣家の蔵入地を四分の一余りに削った「関ヶ原合戦」後の処分で、誰憚ることも ない「君主=天下人」としての実態を備えたと思いますし、征夷大将軍になった 時点で、名実共にその地位を確立したと思います。 が。。。「たらんとし」それを多くの武将が認めたのが、何時の時点であろうか 。。。が「関ヶ原合戦」の実態を見る鍵だと考えているのです。 (少なくとも、前田・細川から人質をとり、江戸に送らせたのは。。実質的「天下 人」であることを諸大名に見せつける行動だとは思いますが。。。) もちろん、伊達書状もその判断材料の一つだと思いますが。。。これは明らかに 早く形式と実態を一致させろ。。。と催促(追従)しているものの様に思います が。。。 輔住さんへ。。。ご参加大歓迎です(笑い) 七歳の子供の書状が、戦国武将達にどんな影響を持つでしょうか? 諸将たちは。。。苦し紛れの偽物として一笑にふすのではないでしょうか? 逆に北政所が本気で家康を討つ積もりならば。。。老体にむち打って、宇喜多・ 石田(あるいは小早川)に同行すれば良いかも知れませんが。。。これとて効果 の程は。。。(笑い) Time : 2001/ 2/15(木) 18:24:52
Name : 輔住 E-mail : Title : 少なくても名目はあっても邪魔ではありません Comments: パンダさん >七歳の子供の書状が、戦国武将達にどんな影響を持つでしょうか? >諸将たちは。。。苦し紛れの偽物として一笑にふすのではないでしょうか? やってみる価値はあると思いますよ。書状でもなんでもいいですが「天下人の命令」と いうのはかなりの名分でしょう!少なくても会津攻めへの出陣のとき 家康を支持する姿勢を豊臣家は見せてます。それでも豊臣家首脳が西軍支持していたと仮定すれば なんらかの行動をしてなければ不自然だということがいいたかっただけですよ。 パンダさんは「天下人。。。。」の書き込み以前の内容だと 「淀君・石田VS北政所・豊臣家武断派大名」説だと思っていましたので。 Time : 2001/ 2/15(木) 22:36:06
Name : Toshy E-mail : Title : 関白型公儀が豊臣家の切り札でした Comments: パンダさん、おっしゃりたいことがわかってきました。 徳川家康がいつ天下人になったか、という点では、 パンダさんのご意見と同様です。 しかしそれは、「家康による実力支配」ではあっても、 「徳川家による支配」ではなかったことをここでご説明いたします。 家康は関ヶ原の戦いで勝利者となったものの、公式には豊臣家の五大老の一人、という認識でした。 だから諸大名に対する影響力は、実力(軍事力)から来るものであり、盟主としてのものではなかったのでしょう。 一般には、「豊臣家は65万石の大名に落ち、徳川政権の傘下に入った」という認識ですが、 実は秀吉によって築かれた「関白型公儀」は生きています。関ヶ原の戦いの時秀頼は中納言、 家康が征夷大将軍になった年には内大臣になっているのです。 秀頼から見て父親ほどの年令にある秀忠が内大臣になるのは秀頼の後でした。 このままでいくと、秀頼成人の時に関白になることは当時の人たちにとって常識であり、 その時に徳川家は豊臣家に政権を返し、屈しなければならなくなるはずだったのです。 つまり成人したあかつきには、豊臣がふたたび君主になることが、 当時の大名・武家の間で当然のことと思われていたのでした。 これに対抗すべく、家康が選んだ道が征夷大将軍でした。 これのメリットは何かと言うと・・・・  1.朝廷とは別に独自の政権を持つことができること
 2.秀頼は関白を望んでいたから、敵対の意思表示を感じさせない
そして・・・・  3.この役職は「武家の頭領」という認識があった。    武家の頭領になるには、これが一番ふさわしい。 こうすることによって、将軍型公儀により武家の頭領として、 豊臣型公儀を侵すことなく政権を簒奪していくことになったのです。 九条兼孝が関白に任じられたのが慶長5年(1600)でした。 ここで秀頼=関白の道は閉ざされたという見解が主流です。 しかし慶長10年、秀頼は13歳にして右大臣に昇格しています。 関白に任じられた他家の人々よりもはるかに早い出世で、 未だ豊臣家の威光は残っていたと見られはしないでしょうか。 一方の秀忠、右大臣になるのは秀頼の8年後、家康の寿命はおろか、 秀忠と秀頼の寿命を比べても、 官位で上回る豊臣がいずれ天下を回復すると見られていたのです。 ところで関白誕生が徳川政権を揺るがすのは、次の理由です。 豊臣秀吉は足利家の養子を目指しました。 しかしすげなく断られ、関白になることによって武家の政権を包み込んだのです。 もし秀頼が関白になれば、家康としてはうかつな謀略は出来ないし、 武力で戦うにしてもほとんどの大名は中立を決め込むはず。 とすれば大坂城を自前の軍で攻めなければならないのです。 だまし討ちによる堀の埋め立ては論外だし、自前の兵で豊臣に止めを刺す力は、 贔屓目に見ても、徳川にはないでしょう。 家康の寿命が尽きれば・・・・・伊達・上杉・前田や加藤・福島ら豊臣系武将が、 徳川秀忠を天下人としてみとめるはずもないですから、 関ヶ原の時点で決まった、という説は、成立しないのです・・・ Time : 2001/ 2/16(金) 00:33:08
Name : パンダ E-mail : Title : 効果と危険度。。。 Comments: パンダです。輔住さん、Toshyさん、みなさんへ。。。 確かに西軍に名目を与える効果は、あったかも知れませんし、邪魔にはな らないでしょう。。。しかし、七歳の子供がそのような政治的意志を表明 する筈がないのも明確ですから、敗戦の場合には秀頼側近(淀君も)を幼 君を誑かした。。。として処罰する名目を与えることになるでしょう。 結局。。。東軍中核は家康を天下人にする(家康が天下人になる)という 明確な意思統一があったが、西軍には石田・毛利・島津・上杉等。。。の 意思統一がなされていなかった。。。 名分を与える可能性があった北政所・淀君には、夫々秀頼の将来のために 乾坤一発勝負するか。。。滅亡だけは避けたいと迎合策をとるか。。。と いうこと自体に迷いと分裂があり、徳川・毛利・石田・加藤等・諸大名に 対しても願望、期待、疑念、恐怖があり、全てが中途半端に終ってしまっ た。。。というところではないかと思います。 一方の旗頭たりうる前田がすでに屈服し、総大将格の毛利でさえ、家康に よる所領安堵(要するに臣従することを意味します)を密かに期待するよ うでは、彼女らが迷うのも無理もないとは思うんですが。。。(笑い) なぜ。。。私が「淀君・石田VS北政所・豊臣家武断派大名」説にたって いると思われたのか。。。良く分かりませんが(笑い)、 当初から、あらゆる可能性を検証したい。。。と言っていた積もりだった し、今でも結論には達していないんです。 ある程度明確なのは。。。家康が明確に天下人を目指していたこと。石田 がこれを阻止しょうとしていたこと。(石田の最終目標が何処にあったのか は、これまた不明です。加藤・福島等は石田の目的は自分達を滅ぼし、豊臣 家を乗っ取ろうとしていると思っていたでしょう)。 その他の全ての関係者は、家康に対する恐怖と願望と、相互不信の中で、中 途半端にバラバラの行動を取ってしまった。。。ということでしょうか? 暫らく不在になりますので。。。よろしく(笑い) Time : 2001/ 2/16(金) 01:38:23
Name : パンダ E-mail : Title : 官位官職に就いて。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 官位官職について、一言だけ。。。家康は常に秀頼の上位に付けてい たと思います。 (これは年功的要素もあるので、当然とおっしゃるでしょうが。。。) 家康は言うまでもなく徳川家当主。秀頼も幼いといえ豊臣家の当主です。 秀忠は徳川家の世子でしかありません。 この点での徳川優位も、明らかに示されていたのではないでしょうか? 家康急死だけが、豊臣家の唯一の願望だったでしょうが。。。その時に 秀頼と秀忠のどちらが「天下人」たりうるか。。。これを決するものは、 結局は軍事力ではないでしょうか? 政権(実質的)は、基本的に軍事力によって獲得され、維持される。。。 これが人類共通の鉄則だと。。。私は思っています。 (理屈は、これに伴ってどうにでも付けられます) 関ヶ原後の基本的軍事力の差。。。をどう理解するかの相違でしょうか? Time : 2001/ 2/16(金) 02:04:40
Name : 輔住 E-mail : Title : パンダさん返信ありがとうございます。 Comments: >しかし、七歳の子供がそのような政治的意志を表明 >する筈がないのも明確ですから、敗戦の場合には秀頼側近(淀君も)を幼 >君を誑かした。。。として処罰する名目を与えることになるでしょう。 危険が大きいことも承知しています。だから東軍支持か 優柔不断な状況ならそんなことはしないでしょう。 ただ逆に言えば西軍が勝利した場合、会津攻めを 支持したことを上杉家から責められる可能性があったということです。 >結局。。。東軍中核は家康を天下人にする(家康が天下人になる)という >明確な意思統一があったが、西軍には石田・毛利・島津・上杉等。。。の >意思統一がなされていなかった。。。 私は意思統一がなかったのは西軍も東軍もあまり変わらなかったと思っています。 西軍の方が先に乱れてしまいましたが(笑)。 例えば三成憎しで東軍についたもの、会津攻めからの成り行きなども かなりいたと思います。 結束に不安があったからこそ、小山の軍議の前に黒田長政を使って 福島正則を口説いたのでしょう。 Time : 2001/ 2/16(金) 12:09:34
Name : なかの E-mail : Title : こっそりと・・その3 Comments: こんばんは、なかのです。 パンダさま、Toshyさま、輔住さま、そして皆さま> 輔住さんとは恐らく初めてですが、よろしくお願いします。 関ヶ原の「その後」ですが・・、 徳川家康が実質的に権力を握ったとされる事については パンダさんの言われる通りかと思います。 「家康が急死した時には、関ヶ原後の基本的軍事力・・」というのは 判断が難しいところです。 武力に優れているから即優位とは言い切れません。 「二代目」秀忠と秀頼とでは、家康と秀頼との関係と当然変わってきます。 やはり「大義名分」そして諸大名を惹きつける何かを持っていないと、 いくら徳川が256万石とはいえ、孤立してしまえば勝てないでしょう。 ましてや豊臣家は天下の富の半ばを所有するとまで言われたくらいで、 早い段階で本気で徳川と対抗するとなれば、いくらでも手段はあった筈です。 だからこそ家康は羽を一枚一枚もいでいくように 豊臣家の支持勢力を手懐け、また散財させ、更に内紛を起こさせて いわばだましだましで外堀を埋めていったのでしょう。 秀頼名義の書状が効力を持つか否かは、 当時、淀殿が諸大名からどういう目で見られていたかによると思います。 たとえ秀頼名義としても、7歳といえば後見人がつく年齢です。 母親の淀殿の意向がそこに含まれていることは自明といえるでしょう。 淀殿は織田家の「末路」を見てどう考えたのでしょうか。 織田家嫡流だった三法師秀信は1592年、13歳で岐阜城主となり、 朝鮮出兵にも参戦し、関ヶ原では西軍に属して、 戦後に所領を失って高野山に入り、1605年に亡くなりました。 それとも織田信雄・信孝・信包の兄弟、はたまた有楽斎のこと・・? そういえば、織田秀信はどういう理由で西軍に参加したのでしょうか・・? 叔父の信雄や大叔父の有楽斎が東軍に属していたから、 単純に織田家の嫡流を巡る対立、もしくは逆に どちらが勝っても織田家を存続させるという配慮、 はたまた・・? しかし岐阜城を与えていることを見ると、秀吉は 織田家の当主と認めた秀信に、相応の格式は与えていたのでしょう。 しかし、「所領与奪の権」という言葉は初めて見ました。 「生殺与奪の権」という言葉は知っていましたが・・。 あと官職の話がありましたので・・、 関白がいわゆる5摂家に固定されたのは鎌倉時代半ばですが、 その少し前の源平時代には、関白藤原忠通の3子から 近衛・松殿・九条の3家が分立していました。 この松殿家は木曾義仲と縁を持った(持たされた?)のが運の尽きで、 松殿師家が僅か10歳ほどで木曾義仲の後ろ盾により後鳥羽天皇の摂政 兼内大臣になるという破天荒な人事があった後、全くふるわず、 鎌倉時代には事実上絶えてしまいました。 あと5摂家のうち鷹司家は室町・戦国時代に一時絶えてしまいますが、 安土桃山時代に二条家から養子が入り復興されています。 同じ頃に松殿家も一度(後にもう一度)復興したようですが、 顕位に昇ることなく再び途絶えてしまいました。 秀頼の昇進は摂関家の嫡子と比べて遜色がなく、 松殿師家の例は極端なものの、ある程度年長となった段階で 摂関への道は閉ざされていなかったと思います。 朝廷がどれだけ徳川家に遠慮していたか また豊臣家をどう位置づけていたかにもよりますが、 当時は秀吉に近かったとされる右大臣菊亭晴季も健在であり、 禁中並びに公家諸法度が出されたのが豊臣家滅亡直後ですので、 朝廷・徳川家・豊臣家が互いに牽制し合っていた可能性があります。 余談です。 徳川将軍は代々大臣に叙任されていますが、家康を除き、 公家の職員録ともいえる公卿補任に記録されていません。 足利将軍家はどうだったか・・?、確認してみます。 MKさま> 言われている「小説十八史略」とは陳舜臣氏の著作のことでしょうか・・? 私は全6巻の文庫本のものを読んだことがあります。 あの本はダイジェスト的であり、中国史入門にぴったりの本だと思いますが、 惜しむらくはその名の通り、元王朝以降が記されていないのです。 三国志の時代、つまり魏晋南北朝時代は確か3巻から4巻にかけてだったと 記憶していますが、春秋戦国時代と並んで同書が最もスペースを割いています。 井沢先生はレギュラーだった土曜の朝のTV番組「ウエークアップ」にも 最近は出演されておりません。 どうやら一時期崩された体調も回復されたようなので、 「逆説」に集中しておられるのでしょう。 Time : 2001/ 2/16(金) 21:36:13
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原フリークの皆様へ Comments: パンダさん> 家康が官位で秀頼を上回っていたので、 関ヶ原戦後は前にも述べた通り「家康の実力支配」なのです。 ですが徳川の支配とは別で、家康の死と共に事態が変わる危険性は充分あったわけですね。 ここをわしは書いたのですよ。 なお、家康と秀頼の二条城会見の時は、徳川・豊臣は対等の対面をしています。 徳川が有利にあったといっても、豊臣が大名に転落したのではありません。 天下の行方ですが、上杉ら諸大名が豊臣への挨拶を欠かさなかったのは、 形式と見るか内容と見るかで、話は終わってしまいそうです。 なお、関ヶ原の戦いの後、徳川は本当に強大になったかといいますと? 実は先鋒をつとめた福島正則をはじめ豊臣系大名の活躍によって東軍勝利となったので、 実際には豊臣の力そのものは変わっていません。 家康にしてみれば、秀忠が遅参したための誤算なのですが、 後の征夷大将軍と幕藩体制の政治的な駆け引きで、徐々に天下を固めていったというべきですね。 あと。豊臣としては家康の死を待つのではなく、 関白公儀を復活させるという考えがあったのです。 なかのさん> ますます盛り上がってきましたね。 >そういえば、織田秀信はどういう理由で西軍に参加したのでしょうか・・? もともと織田は、西軍荷担に消極的だったようです。 しかし石田三成は、織田秀信の岐阜城の戦略的価値を見抜き調略しました。 織田の家臣は毛利の西軍参加を知り、また徳川が関東から大軍をすぐに返せないのを見て、 西軍有利と判断したものと思います。 西軍の基本戦略は、長良川・木曽川のラインで東軍を防ぎ、 大坂・大津・田辺にある西軍の大軍集結を待とうとしましたが、 織田秀信は岐阜城を出て野戦を挑み、敗れて東軍に降伏しました。 これで岐阜城を中心とする三成の防衛ラインが破壊され、退嬰的な戦術へと後退するわけで・・・・ しばらくパンダさん不在になるようで淋しいですが、みんなで盛り上げていきましょう。 Time : 2001/ 2/17(土) 00:31:57
Name : ゴーシ E-mail : Title : 将軍とは? Comments:  はじめまして。皆様の議論を見ていて、とても楽しく、また参考になりました。僕は日本史が好きで、小さい 頃から色々と勉強し、また、様々な本を読んできました。そのつど、多くの疑問があったわけですが、未だに分 からない事があります。 それは、なぜ源頼朝があんなにも征夷大将軍になりたかったのか?ということです。 歴史を見れば、たしかに後の足利尊氏、徳川家康などが幕府を開くために征夷大将軍になりたかった理由はわか りますし、また、江戸時代には将軍の官位は正一位(従一位?)という最高の位にまで高められます。 しかし、頼朝の時代の征夷大将軍の位は決して高位とはいえません。また、将軍が日本の政治を行うということ はありませんでした。つまり、将軍だから政治を行ってもよいのではなく、政治を行っているのが将軍だったと いうことです。 にもかかわらず、頼朝は征夷大将軍を熱望しました。また、後白河法王は決して、頼朝を征夷大将軍に任命しま せんでした。 この時代、国を動かす力は貴族から武士へと変わっており、朝廷の官位は有名無実化していました。それなら征 夷大将軍だろうと右近衛大将だろうと関係なく、政治ができたはずです。また、どうしても位がほしいのだった ら、なにも征夷大将軍なんてあまり高くはない位よりも、太政大臣のほうがよっぽど高いし、また合法的に政治 ができ、それが今までの日本の仕組みでした。また、太政官では藤原摂関家や平家と同じだと、武士たちが反対 したら、令外官として新しく官位をつくればよかったのではないでしょうか?にもかかわらず、征夷大将軍です。 なぜ、頼朝はこの時代では決して高位とはいえない征夷大将軍をあれほどまでに熱望したのでしょうか?どなた か明確な答えをお持ちの方や、自分の意見を教えてもらえないでしょうか。 Time : 2001/ 2/18(日) 07:04:43
Name : パンダ E-mail : Title : 関ヶ原以降の徳川体制。。。 Comments: パンダです。予定外に速く帰任出来ました(笑い) ゴーシさんへ。。。この問題に付いては、次のの時期にある程度話題になっ たのですが。。。ご覧頂いたうえでのことでしょうか? Name : パンダ Title : 征夷大将軍。。。 Time : 2001/ 1/12(金) 00:32:17 みなさんへ。。。。凄い量なので取り敢えずですが。。。 Toshyさんへ。。。 >>家康の死と共に事態が変わる危険性は充分あったわけですね。 ごく微かにあったと思います(笑い)。その願望が、かえって石田以外の反 徳川勢力の結束(決断)を鈍らせてしまったとも思います。 >>徳川が有利にあったといっても、豊臣が大名に転落したのではありません。 私は、もちろんその様には考えていませんし、そのような意見はあまり知ら ないのですが(笑い)。。。何方がおっしゃっているのでしょうか? >>あと。豊臣としては家康の死を待つのではなく、関白公儀を復活させると >>いう考えがあったのです。 正直に申し上げると。。。虚しい願望だったと思います。 朝廷の伝統は、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の名分を与えること。。。 これで2000年(少なくとも武家時代700年)を生き抜いたのです(笑い)。 余談ですが、チャイナでは天皇という権威がありませんので。。。 「勝てば天命(革命)、負ければ逆命」が名分になりまして。。。(笑い) 名分の重要性を無視も軽視するわけではありませんが。。。 何れにしても、基本的に。。。政権は「銃口」ならぬ「武力」によって生ま れ、その名分は後から付いてくる。。。 これぞ「万有引力」ならぬ「万国武力」の法則ではなかろうかと。。(笑い) 成り上がり者の「羽柴」に「豊臣」姓を与えて「関白」にしたのは、彼が揺 るぎ無い「天下人」だったからでしょう? (何故「征夷大将軍」でなかったかについては、別に論じたいと思います。) 朝廷は、「天下人」の地位が揺らいだ(実質的に失ったと言うべきだと思い ますが)その息子に「関白公儀」を許す恩も義理もないと思うんですけれど も。。。(笑い) 仮にそうすれば、徳川は大軍をもって上洛し、武力恫喝するでしょうが。。。 一体誰がこれを防ぐ総大将となり得るか。。。朝廷がそんな危険をおかす必 要も理由もまったくありません。(傍観していれば良いのですから。。。) >>なお、関ヶ原の戦いの後、徳川は本当に強大になったかといいますと? >>実は先鋒をつとめた福島正則をはじめ豊臣系大名の活躍によって東軍勝利 >>となったので、実際には豊臣の力そのものは変わっていません。 以下ご参考までに。。。関ヶ原合戦後の所領与奪状況(有力大名のみ)です。 (例によって、蒙御免ですが。。。) 所領没収 宇喜多 備前 57万石→没収 長宗我部 土佐 22万石→没収 増田 大和 20万石→没収 小西 肥後 20万石→没収 石田 近江 19万石→没収 織田秀 美濃 13万石→没収 立花 肥前 13万石→没収 没収合計 164万石 所領減封 毛利 安芸 120万石→ 37万石 83万石減封 上杉 会津 120万石→ 30万石 90万石減封 佐竹 常陸 54万石→ 20万石 34万石減封 豊臣 222万石→ 65万石 157万石減封 減封合計 516万石→152万石 364万石減封 以上で。。。実に「528万石」を奪減し、これを次のように分配します。 所領増封(外様) 蒲生 下野 18万石→ 60万石 42万石増封 黒田 豊前 18万石→ 52万石 34万石増封 池田 三河 15万石→ 52万石 37万石増封 福島 尾張 20万石→ 49万石 29万石増封 加藤 肥後 25万石→ 52万石 27万石増封 細川 丹後 18万石→ 39万石 21万石増封 浅野 甲斐 16万石→ 37万石 21万石増封 小早川 筑前 36万石→ 51万石 15万石増封 増封合計 166万石→392万石 226万石増封 (その他 山内・藤堂・加藤嘉・京極等に加増) 以上で。。。加藤・福島に約56万石加増で、約101万石に、 その他に。。。約170万石加増で、約291万石です。 所領増封(宗家・親藩・譜代) 徳川 256万石→400万石 144万石増封 結城 下総 10万石→ 67万石 57万石増封 松平 武蔵 10万石→ 67万石 57万石増封 井伊 上野 12万石→ 18万石 6万石増封 本多 12万石 12万石増封? 榊原 10万石 10万石増封? 奥平 上野 3万石→ 10万石 7万石増封 鳥居 下総 4万石→ 10万石 6万石増封 増封合計 295万石→594万石 299万石増封 以上で。。。徳川直系に約299万石増で、594万石(日本1850万石の約32%) に、結城以下の直系大名のみで、加藤・福島に充分対抗し得る 194万石と しました。(その他小大名を含めれば、加藤・福島の倍以上。。。) その他の有力外様(所領安堵)は次のとおりです。 伊達 陸奥 60万石 最上 出羽 57万石 前田 加賀 112万石 島津 薩摩 60万石 合計 289万石 その結果。。。有力外様の新勢力は次のとおりとなります。 加増大名 392万石(加藤・福島 101万石を含む) 減封大名 152万石(豊臣家 65万石、毛利 37万石を含む) 安堵大名 289万石(島津 60万石を含む) 外様合計 833万石 これらによって、有力外様合計が 約833万石 うち加増大名392万石で、ほぼ 勢力を二分しています。(その他計算外の弱小大名も加増組みが多いんです) つまり。。。同じ「天下人」であっても、秀吉とは比較にならないくらいに、 完全に徳川家優位の体制となってしまったと思います。 徳川 594万石内部の分裂か、外様 833万石の大半が離反(チョット考えられ ません)しない限り、まず揺るぎ無い体制を構築したと思うのですが。。。? 輔住さんへ。。。 >>ただ逆に言えば西軍が勝利した場合、会津攻めを支持したことを上杉家から >>責められる可能性があったということです。 西軍勝利の場合に。。。上杉が豊臣家(淀君)を責める?。。。んですか? >>私は意思統一がなかったのは西軍も東軍もあまり変わらなかったと思ってい >>ます。 東軍大将の意思は極めて明確でした。。。そして彼は、西軍の大将不在。意思 不統一を見透かし、東軍「中核」の意思統一を確認したうえで合戦に臨みまし た。。。だから勝利した。。。と思っています。 Time : 2001/ 2/18(日) 10:52:50
Name : パンダ E-mail : Title : 追加訂正です。。。 Comments: パンダです。。。チョット追加訂正しておきます。 >その他の有力外様(所領安堵)は次のとおりです。 >伊達 陸奥 60万石 >最上 出羽 57万石 >前田 加賀 112万石 >島津 薩摩 60万石 >合計 289万石 >その結果。。。有力外様の新勢力は次のとおりとなります。 >加増大名 392万石(加藤・福島 101万石を含む) >減封大名 152万石(豊臣家 65万石、毛利 37万石を含む) >安堵大名 289万石(島津 60万石を含む) >外様合計 833万石 に次の大名を加えておきます。(何れも東軍です) 鍋島 肥前 36万石 堀 越前 30万石 蜂須賀 阿波 18万石 生駒 讃岐 17万石 南部 陸奥 10万石 合計 400万石 その結果。。。有力外様の新勢力は次のとおりとなります。 加増大名 392万石(加藤・福島 101万石を含む) 減封大名 152万石(豊臣家 65万石、毛利 37万石を含む) 安堵大名 400万石(島津 60万石を含む) 外様合計 944万石 Time : 2001/ 2/18(日) 11:54:40
Name : なかの E-mail : Title : お得意の脱線ですが・・ Comments: こんにちは、なかのです。 パンダさん、おかえりなさい。 主題からそれますが、ちょこっと雑談を・・。 昨夜(2月17日)、NHKで安土城の特集を放送しており、 途中から見ました。 信長公記の記録、安土城発掘結果、そして「天守」なんとかという図により、 名古屋工業大学で安土城の復元CGが作られており、 安土城の在りし日の姿を見て(?)、 そのスケールの大きさに思わず感動させられました。 復元CGでは、安土城本丸の隣に天守があり、 本丸には京都御所の清涼殿を模して作られた御殿があり、 そこから渡り廊下を通って、信長がいるとされる天守へ 行くことが出来るようになっていました。 小和田哲男教授等の解説では、その御殿に天皇を招き、 信長は天皇を取り込もうという意志があったとしていました。 しかし私なりの「井沢史観」からすれば、 その御殿は信長自身が住むために、自ら天皇と肩を並べるという意志を 住居で表現するために清涼殿を模したように見え、 もしくは天皇を招いても、その御殿を見下ろす形で天守があることから、 いずれにしても単純に「天皇を取り込もう」とする解説への 違和感を感じました。 なお、安土の名の由来については、 ちゃんと「安楽浄土」の略であると解説していました。 結構きれいなCGだったので、録画しておけばよかったと後悔しています。 Time : 2001/ 2/18(日) 15:30:26
Name : 輔住 E-mail : Title : まだまだ熱い関ヶ原? Comments: パンダさん、お帰りなさい。Toshyさん、なかのさん、みなさま 関ヶ原についてもう少しお付き合いください。 >西軍勝利の場合に。。。上杉が豊臣家(淀君)を責める?。。。んですか? 謀反人あつかいされたんですよ。上杉は! 西軍勝利の時に文句を言って大幅な領地加増を勝ち取ろうとしても 不思議はないでしょう。 >東軍大将の意思は極めて明確でした。。。そして彼は、西軍の大将不在。意思 >不統一を見透かし、東軍「中核」の意思統一を確認したうえで合戦に臨みまし >た。。。だから勝利した。。。と思っています。 パンダさんのおっしゃっている通り西軍の意思統一ができてない点を 家康は目をつけて合戦もしたでしょう。また徳川直属軍は家康の意思を 把握していたでしょう。でも東軍だって直属軍ではない方が多いのですよ。 彼らは「家康が頼りにならない」と判断すればすぐ裏切る可能性が あるのです。 Time : 2001/ 2/18(日) 16:32:48
Name : パンダ E-mail : Title : 安楽浄土。。。?? Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 ああ、そんなのをやってたんですか。。。その頃はまだお江戸で飲んでま した。。。残念! 安土城址も随分整備されましたが、昔は潅木・雑草におおわれ登るだけで も大変でした。。。現在は、埋め立てによって湖面がほとんど見えません が、往時を偲んで感慨に耽ったものでした(年がバレル?・・・笑い) 信長が最終的に。。。「東亜皇帝」を狙ったのか、「日本国皇帝」を目指 したのか、単に「准太上天皇」として公武を統合しようとしたのか。。。 何度か問い質したのですが。。。「答えは風の中〜♪♪」でした(笑い) >>なお、安土の名の由来については、ちゃんと「安楽浄土」の略であると >>解説していました。 「安楽浄土」ですか? 家康ならともかく、信長と浄土はチョット似合いま せんね(笑い) 「安土」の地名を捻るのならば、「安民楽土」「安国平土」「安康楽土」 「平安楽土」。。。いろいろあると思うんですがね(笑い) Time : 2001/ 2/18(日) 16:53:10
Name : パンダ E-mail : Title : 乾坤一擲。。。 Comments: パンダです。輔住さんへ。。。 >>謀反人あつかいされたんですよ。上杉は! >>西軍勝利の時に文句を言って大幅な領地加増を勝ち取ろうとしても不思 >>議はないでしょう。 そんなのは。。。 「家康を安心させておいて、討伐するための方便じゃが、汝はそれを承知 のうえで良う頑張ってくれた。天晴れじゃ。。。」 でおしまいでしょう? もちろん西軍勝利の貢献を認めて。。。没収した東軍所領のうち20万石で も与えておけば充分でしょうね。 それ以上シノゴノいえば、新体制挙げ ての討伐でしょう。。。? もっとも、私は「関ヶ原」で東軍が敗れたとしても。。。徳川家(秀忠) は関東によって充分抵抗可能だった。。。と思っていますので、西軍完全 勝利(徳川・加藤滅亡)までの帰趨はチョット読み切れません(笑い) >>でも東軍だって直属軍ではない方が多いのですよ。彼らは「家康が頼り >>にならない」と判断すればすぐ裏切る可能性があるのです。 まったく、おっしゃるとうりです。だからこそ福島・黒田・細川等の外様 を先鋒に立てたのでしょう。。。要するに乾坤一擲。。。腹をくくって勝 負にでたのでしょうね(小早川威嚇射撃もその一環でしょう)。。。 もとより戦には絶対はありません。慎重に諸将の動向を読みに読んだ上で 。。。最終的には一発勝負にでなければ、勝利は掴めないでしょう? (常識的には、秀忠軍の合流を待っても不思議ではないのですが、敢えて 決戦に臨んだ。。。家康の迫力と気概が凄い!) そして勝利の結果。。。一挙に直轄・譜代・親藩で国土の三分の一以上を 固めたのですね。。。(笑い) 石田も、当然のこと読みに読んで。。。家康とは比較にならないぐらい不 安だらけだったでしょう。 しかし彼は捨て身で勝負に出たのです。。。実に爽やかな最期ですね。 (もっとも勝利の暁には。。。権謀術数で、ジワジワと豊臣家を乗っ取っ たのではないかと、私は睨んでいますけれどもね。。。) Time : 2001/ 2/18(日) 18:50:12
Name : Toshy E-mail : Title : 早いお帰りです師匠(笑) Comments: 俺が留守の間に盛り上がっているじゃないですか(笑) 関ヶ原の戦後で徳川家康が実力支配を固めた、というのは同感なのです。 ただ、これが豊臣を完全に上回ったものであるかというと、 1.福島・加藤らの豊臣系大名が強大になっていたこと 2.前田・上杉らが未だに豊臣の天下と認めるような行動をとっていたこと(形式だけかもしれませんが) 3.家康の寿命が尽きるかもしれず、後継の秀忠と秀頼では秀頼が上回っていたこと を考慮すると、まだまだ完全な幕藩体制とは言えなかったでしょう。 まして秀頼が関白になると「征夷大将軍」では対抗しきれるとは思えませんし。 関ヶ原でもし小早川が西軍につき徳川に突入したとしても、西軍勝利とは思えません。 というのも、南宮山の毛利軍が動かない限りは、兵力では東軍が優っていますから。 ただ選挙区が膠着した時には、畿内にある西軍勢力が関ヶ原に駆けつけ、 (しかも中には不敗の猛将立花宗重もいました)西軍が有利に立ったと思われます。 なお、石田が勝利をおさめた後は・・・・と考えると、 やはり自身政権の中核を握り、政権簒奪の可能性はありますね。 20万石で天下を半分に割って徳川と五分に戦った三成ですから、それだけの力はあったことでしょう。 なお、東軍が家康の指揮の下に統率されていなかったというのは、輔住さんに同意です。 関ヶ原の布陣をみてわかるように、東軍のほとんどは北西部−三成の陣に偏っていました。 小早川が東軍の左翼に突入すれば、簡単に突破できそうです。 もちろん東軍も、小早川が味方になると信じていたのかもしれませんが。。。。。 Time : 2001/ 2/18(日) 20:31:33
Name : パンダ E-mail : Title : 関ヶ原処分。。。出来れば再確認を。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 失礼ながら。。。もう一度「関ヶ原処分」を、ご確認頂けないでしょうか? 家康が没収した所領が。。。約530万石(全国の約29%)以上です。この 数字自体が信じ難い規模なのですが。。。 うち外様に対する論功行賞に当てたのが。。。約230万石で没収領の40%強。 このうち加藤・福島に与えたのが。。。約56万石で、没収所領の10%に過 ぎません。蒲生・黒田・池田に113万石ですから丁度倍額を与えています。 直轄・譜代・親藩に取り込んだのが。。。約300万石で没収領の60%弱。 直轄領だけで、加藤・福島の総所領101万石をはるかに上回る約140万石強 を取り込み、彼等の約4倍の400万石に達しているのです。 また結城・松平忠吉にも114万石ですから、これも加藤・福島の倍額で、ほ ぼ総所領を約134万石として、彼等に拮抗しうる規模としています。 徳川系総所領では。。。300万石から倍増の600万石(全国の約32%)に増加 しているのですよネ。 上杉は当然として。。。所領安堵を期待して、実質的に西軍を見捨てた毛利 ですらも。。。120万石から約30万石と四分の一規模にまで所領を没収され て、文句を言うことも出来なかったのでしょう? これほど強力な軍事力を持った「天下人」は、かって存在したこともない 。。。足利や豊臣とは既に基本的に異質の実力だと思われませんか? 対する豊臣家には現ナマはあったでしょうが。。。弱兵をもって鳴る摂河泉 65万石で豪奢三昧な生活では、軍事動員力は知れたものです。 かといって。。。もちろん、完全な幕藩体制ではありません。 やはり豊臣家には、それだけの存在感があるのですから、既に申し上げたと おり、直ちに滅ぼすのは決して得策ではないのでしょう。 家康は狡猾にもなお臣礼をとり、諸大名にもそれを命じていましたね。。。 つまりは「伊達書状」のような世論の熟成を待っていたのでしょう(笑い) (家康とて。。。豊臣家が、豊臣政権下の織田家のように覚悟を決めて、名 誉ある傘下一大名に甘んじるならば。。。最終的に存続させても良いと考え ていたかも知れないのです。。。淀君にはその選択肢は眼中に無いが、北政 所にはあったような。。。チョット自信はありませんが) ただ。。。朝廷が、このような状況において、豊臣家を関白(公儀)に任じ ることなどは。。。金輪際 有り得ないのです。朝廷にはその必要も理由も 全くありません。(この点だけは断言させて頂きます。出来ればご再考を!) なお、小早川が東軍に突入することがあれば。。。毛利・吉川・長宗我部も 当然に連動して徳川本陣を背後から襲ったのではないでしょうか? 池田・浅野が動揺すれば。。。家康は関ケ原から脱出し(つまりは関ヶ原合 戦は取り敢えず西軍勝利)、秀忠軍との合流を図った可能性があると思いま す。それ以降は。。。チョット分かりません。 少なくとも「関ヶ原合戦」に関する限り、東軍は完全に家康の統制下にあっ た(もちろん毛利・小早川の動向を読み切ったうえですが)と思います。 合戦正面は、あくまで宇喜多・小西・島津。。。狙いは左翼の石田と想定し た布陣ですね。。。 南宮方面は、池田・浅野に監視させておけば充分。。。と舐めきっているよ うな。。。(笑い) ああ、それから。。石田の不幸(不徳?)は、鋭さを隠せないところでしょ うね。加藤・福島(七人衆)はもとより、淀君・北政所も彼が何時かは豊臣 家を乗っ取るという一抹の危惧を感じていたのではないでしょうか? Time : 2001/ 2/18(日) 23:59:52
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信 Comments: パンダさん >そんなのは。。。 >「家康を安心させておいて、討伐するための方便じゃが、汝はそれを承知 >のうえで良う頑張ってくれた。天晴れじゃ。。。」 でおしまいでしょう? 豊臣家首脳と上杉家に密約があればその通りだと思いますが... リスクの大きさからいって西軍が勝った場合、私が上杉景勝なら 最低でも50万石ぐらいの加増はほしいですね。 関ヶ原で西軍が勝つと仮定した場合、長期戦にはなったとは思います。 だからどういう形で西軍が勝利するかというのは読みにくいですが...。 (念のため、長期戦になった場合の東軍の勝ち方も同様に読みにくい) 長期戦になると、東軍は秀忠が合流するし、西軍は立花宗重など、 さらに毛利輝元が大阪から来る恐れもあるし、東北や九州の 戦いも関ケ原が1日で決着つかなかったらどうなったか私には 想像がつかないので(笑)。 Time : 2001/ 2/19(月) 12:40:44
Name : パンダ E-mail : Title : そもそも上杉殿。。。 Comments: パンダです。輔住さんへ。。。 >>豊臣家首脳と上杉家に密約があればその通りだと思いますが... あれ。。? もともと密約があるのなら、示し合わせて家康を誘い出すため の謀略でしょうから、上杉がゴチャゴチャいう筈がないでしょう。。。? そもそも豊臣家のために家康に喧嘩を仕掛けたのに、豊臣家が謀叛人扱い するとはけしからん。。。と上杉が文句をいう懸念があるということでは ないのでしょうか? それに対しては。。。 「もとより家康を欺く計略じゃ。敵を欺くためには、まず味方を欺けとか 。。。むろん上杉殿ほどのお方なれば、先刻ご承知であったろうが。。。」 でチョンではないでしょうか? それ以上ゴチャゴチャ言えば、器量が下が ると言うものです。 そもそも上杉が家康に対抗したのは、豊臣家のためというより、上杉家の武 門の意地に近いものだったのでは。。。?(笑い) それが西軍勝利によって、窮地を脱したようなものですから、20万石でも充 分だと思いますが。。。輔住殿のお顔を立てて。。。伊達・最上減封分の30 万石加増で、150万石では如何でしょうか?(笑い) おっしゃるとおり、関ヶ原で西軍が勝利したからといって、その後の帰趨は チョット分かりませんね。。。少なくとも家康のような果断な処分は出来な かったように思いますので。。。(笑い) Time : 2001/ 2/19(月) 22:12:56
Name : 輔住 E-mail : Title : パンダさんの恩賞は厳しいですね(笑) Comments: パンダさん、返信ありがとうございます。 念のため、私は豊臣家と上杉に密約があったとは思っていませんので (石田と上杉の密約説は1年前より下がって五分五分だと...) 私は西軍が勝利した場合に50万石ぐらいはと、書きました。 これでも少ないほうだと思ったんですがね。(笑) だってその場合、上杉と隣国である伊達、最上、そして徳川、 下手すりゃ全部、良くても半分以下に削減されるでしょう。 上杉は徳川軍が西上した後も伊達や最上と戦ってます。 20万や30万ではやっぱり可愛そうですね。 逆に不思議なのが前田利長、関ヶ原では大谷吉継に騙されていいとこなし だったのによく20万石加増してもらえたなー。 (関ヶ原前までは弟の利政の分の土地だけど) Time : 2001/ 2/19(月) 22:40:54
Name : パンダ E-mail : Title : 前田家の功績。。。 Comments: パンダです。輔住さんへ。。。チョット、チャット気味?? どうも貧乏性なもので。。。30万石しか差し上げられずスミマセン(笑い) ところで、私は。。。徳川天下取りの最大の功労者は、前田だと思ってい ます。 そもそも、天下の帰趨定かならざる時に。。。利家没後のドサクサに紛れ て、家康が前田・細川謀叛等というイチャモンを付けた時に。。。余りに もあっさりと屈服し、母を人質に出す(つまりは臣従した。。。)? この時に、次席大老として上杉同様の意地を見せていれば。。。それこそ 家康の天下取りはどうなっていたか分からない(笑い) これは。。。徳川と次席大老の前田、武門名家の細川の間の「出来レース」 ではなかったかと。。。(笑い) かくして。。。徳川300年の繁栄が生まれ、前田は加賀大納言として生き続け た。。。なぁ〜んて(笑い) 20万石では安すぎるような。。。 Time : 2001/ 2/19(月) 23:29:31
Name : パンダ E-mail : Title : 旭堂西陵のお粗末一席。。。 Comments: パンダです。Toshyさん、輔住さん、みなさんへ。。。 「関ヶ原」も回を重ねてきましたが。。。この辺で私なりの意見を申し上げ ておきます。既に申し上げたとおり。。。私は、豊臣家は二派に割れたので はなく、バラバラだったと見ています。 そこで。。。4者の間にどういった意見の相違があったのかを。。。以下で 旭堂西陵(?)風に、パンパパンパンと大まかに分析(笑い)してみました。 @石田は。。。 家康の本性と淀君の倣岸さを見抜いており、しょせん両家は並び立たずと考 えていた。従って豊臣家と自己の命運を賭けて、家康と雌雄を決する覚悟で あり、それを見抜けぬ(ふりをしている)加藤を馬鹿か不忠者と見ていた。 (一方で豊臣の天下は、自分の天下でもあると密かに考えていた。。。?) A加藤(福島等)は。。。 徳川の天下は必至だと見ており、その際にはせめて自分達の家康に対する取 りなしで、豊臣を名誉ある大名として存続させたい(させられる)と考えて いた。石田が豊臣の天下に固執するのは、自己の野望の為であり、結局は豊 臣家を滅亡に導く不忠者だとも考えていた。徳川の傘下において、豊臣・自 家を何とか存続させるため、石田の野望を打ち壊すべきと考えた。 B北政所。。。 徳川の天下を阻止するのは極めて難しいが、家康に一撃を加えることが出来 れば秀頼成長の時間が稼げ、あるいは阻止しうることもあるかも知れないと 考えていた。そのためには、石田と加藤の和解協力が必要であり、何とか加 藤を密かに口説こうと思っていたが、加藤はこれを意識的に避けた。 一方石田についても人物的に疑念を払拭出来ず、豊臣家を彼と心中させるよ りは、家康の寛容にすがって、せめて名誉ある大名として存続させたいとも 思っていた。(結局は決断できず?) C淀君。。。。。 基本的に、豊臣家の力を過信し、常に現実判断と願望を混同し続けた。 彼女の誇りからして、徳川の傘下で豊臣家を存続させることには耐えられな かった。従って豊臣の天下に固執する石田を忠とし、徳川の天下を是認して その傘下大名としての存続を視野に置く加藤は不忠であると考えていた。 この点において、北政所も同様に怯懦不義であると見なしていた。 しかし徳川とて家臣(姻戚)であるとの錯覚を捨て切れず、虚しい願望にす がる心もあって、これとの対決を急ぐ石田についても、個人的野望によるも のではないかとの疑念を捨て切れず、石田全面支持・徳川対決にはいたらな かった。 (これらの諸点に付いては、Toshyさんの意見を少し取りいれました) 結局。。。彼等の思惑はバラバラであり、家康に易々と乗じられることとな った。しかし、「豊臣家は天下を保つか、滅亡するかしかない」と言う点で は、石田と淀君との基本方針は類似しており、「徳川天下の下でも、大名と なり滅亡を避ける」という点では、北政所と加藤は類似している。。。かな? しかし。。。石田の読んだとおり、家康は徳川家の天下を永劫に保つことに 専念し、秀頼は傘下大名としての存続を選び得ず、滅亡への道をたどった。 加藤・福島は。。。冥府において、大坂落城、秀頼自害、自家断絶の結末を 石田に恥じるしかなかった。。。と言うのが現時点での好い加減なパンダこ と旭堂西陵の講釈一席ですが。。。如何なものでしょうか(笑い) Time : 2001/ 2/20(火) 00:29:25
Name : Toshy E-mail : Title : Aにおいてのみ Comments: あーだこーだと書こうと思っていたら、ついてついていけないので(わら パンダさんのAについて。 加藤や福島には、豊臣が徳川の傘下大名であるという考えはなかったでしょう。 二条城における両者の会見で、清正は豊臣を上位であるかのような行動をとり、 家康から睨まれるということをやっていますから・・・・ 彼らは秀吉の子飼いであり、自分たちが豊臣家に対する忠誠心が強いため、 「他者も豊臣に対してはこうあるべき、徳川殿も」という考えを持っていたのではないでしょうか。 パンダさんの説もわしの考えも証明できる次元ではありませんが、 どこに考察のポイントを置くかによって、意見が分かれてしまいますね。 なお、北政所は本当に石田三成に対して警戒心を持っていたのかといいますと・・・・ 三成のような小大名を警戒するより、家康に対する猜疑心の方が強かったはずだから、 そこまでの余裕はどうだったか。 家康・清正・伊達政宗らが太閤の意図に反する婚姻政策を取った時、 前田利家をはじめとする四大老と五奉行は、家康を糾弾しました。 (浅野長政は家康派と見られていますが、はじめは反家康の立場だった) わしが思いますに、 ・融和路線の清正らの見通しは甘かった(当時としてみれば仕方なかったかもしれないが) ・三成はその能力を過小評価されるところがあったため諸大名の信頼をつかみきれなかった と考えています。まあ、三成としてみれば、天下を二つに割っただけでも、 その実力を知らしめたものということになりますな。 わしが三成の能力を保証するということで。(どういう保証だ?) Time : 2001/ 2/20(火) 00:45:28
Name : パンダ E-mail : Title : チョット誤解です。。。 Comments: 加藤の立場は。。。しょせん徳川の天下の下では何れそうなるだろうが、 もちろん頑張れるところまでは。。。頑張ってみる。(現に二条城では 頑張った) その結果。。。最終的には、豊臣が傘下の大名となってでも、滅亡だけ は阻止したい。。。石田のような対決姿勢ではそれも不可能になる。 自分達が家康の下で相応の力を保っていれば、その力で阻止出来るので はないかと密かに期した。。。と言うことです。 Time : 2001/ 2/20(火) 01:04:36
Name : 廢帝 E-mail : Title : つまり Comments: 豊臣政権=自民党 Time : 2001/ 2/20(火) 03:03:34
Name : 廢帝 E-mail : Title : つまり Comments: 豊臣政権=自民党 Time : 2001/ 2/20(火) 03:05:54
Name : 廢帝 E-mail : Title : つまり Comments: 豊臣政権=自民党 Time : 2001/ 2/20(火) 03:06:23
Name : 廢帝 E-mail : Title : つまり Comments: 豊臣政権=自民党 Time : 2001/ 2/20(火) 03:06:52
Name : Toshy E-mail : Title : パンダさんの Comments: 説は、いわゆる定説に近いものであると思います。 でも家康は、本心はともかく表向きは関ヶ原戦後も豊臣政権の大老として、の立場なんですよ。 例えば島津攻めの企画も、「太閤の御置目のごとく」という名目です。 家康が征夷大将軍になった慶長8年、秀頼が同時に関白になるという話が持ち上がっていました。 秀頼が成人するまでは、政権は家康の実力支配だがいずれ豊臣に戻る、 という認識について前にも書きましたけど、 加藤清正は豊臣の存続というよりも政権復帰を期待していたと思います。 もし清正がパンダさんの説のように考えていたとすれば、 結局は自分が豊臣を弱めるために力を尽くしたわけですから、 三成嫌いの私情で動いたのか、徳川に対する認識が甘かったのか、 いずれにしても弁明の余地のない人間になってしまいます。 Time : 2001/ 2/20(火) 10:11:02
Name : 輔住 E-mail : Title : 加藤・福島などにとって Comments: 関ヶ原は「秀頼が成人するまで」だれが豊臣政権の 実権を握るのか程度だったと思います。 そうなると家康か三成どちらを彼等が 選ぶのかは決まっています。 結果的にそれは甘かったわけですが、 足利義満でいえば細川頼之のような 場合もありましたからねー。 Time : 2001/ 2/20(火) 12:50:01
Name : MK E-mail : Title : おじゃましてごめんなさい。ワ−プロなのでここにしか書けません。 Comments:  なかのさん、皆さん凄いですね。教えられる事がいっぱいです。 今、新聞TV見ても悪い事ばかりで、身近な所では交通事故がやたら増えて 株価も下がって良い事なし。又、新聞を朝日から産経に替えたら1週間位お きに人がやってきて産経と聞くと目が点になって帰ったかんじで。なんか、 チェック受けたかな〜〜って、嫌な感じがしてるのです。  皆さん、めげずに頑張るしかないでしょうか。 愚痴的な事ばかりでごめんなさいでした。 Time : 2001/ 2/20(火) 18:00:02
Name : パンダ E-mail : Title : 歴史の逆転。。。。 Comments: パンダです。輔住さん、Toshyさんへ。。。 何故か。。。お二人は徳川の天下取りを、暫定的なものと感じておられるよ うな気がしてならないんですが。。。違いますか?(笑い) 私は逆に、彼ほど周到に天下を恒久的に確保しようとした人間はいないよう に思うんですね。これが最大の相違でしょうか。。。? (まあ現実にそうなったから余計にそう思うのかも知れませんが。。。) 真偽はともかく「天下は、天下のものにして、徳川のものに非ず(だったか な?)」なんて、生半可な自信じゃ。。とても言えない言葉だと。。(笑い) >>でも家康は、本心はともかく表向きは関ヶ原戦後も豊臣政権の大老として、 >>の立場なんですよ。 まったくそのとおりです。ですから私は長久手・小牧の例のように。。。 「(表向き)〜と称して」ではなく、「(本心は)〜を目指して」が大切だ と何度も申し上げているのです。 >>結局は自分が豊臣を弱めるために力を尽くしたわけですから、三成嫌いの >>私情で動いたのか、徳川に対する認識が甘かったのか、いずれにしても弁 >>明の余地のない人間。。。 結果的には正にそのとおりでしょうが、彼等にすれば。。。豊臣家が暫くで も存続し得たのは、自分達が健在だったからだ。もしも淀君の傲慢と頑迷が なければ、自分達の力で豊臣家(豊臣天下における織田家のごとく)存続は 可能だった。。。と自己弁護するでしょうね。。。(笑い) ただ。。。万が一の復権僥倖を狙ったというならば、それはそれで否定しま せんが。。。彼等が冥府において、秀吉の前でそう言えるとは、とても思い ませんね(笑い) >>政権は家康の実力支配だがいずれ豊臣に戻る、という認識について前にも >>書きましたけど、 「伊達書状」には、まったくそのような認識はないと申し上げました。。。 他にどのような具体的事例(根拠)があるのでしょうか? 徳川に早々と尻尾をふった前田・細川、論功加増を受けた蒲生・黒田・池田 ・浅野・小早川、さらに山内・藤堂・加藤嘉・京極等にとっても、それは悪 夢のような認識でしょう。。。以上で累計約500万石です。 徳川直系約600万石にとっては言わずもがなで総計1100万石(全国の約60%) が賛同しかねる認識なんですが。。。? かたや。。。毛利・上杉・佐竹・島津。加藤・福島・豊臣他。。。総計320 万石(全国の17%)余りが、いくら熱望してもどうにもならない認識だと思 うんですがね。。。? それでは。。。家康が秀吉没後に「実際」何を行ったか。。。 1.ご指摘の太閤遺言に反しての縁組みですね(1599)。。。これは流石に前 田利家等の糾弾により撤回しましたが、大老としての立場をかなぐり捨 てた、自己勢力拡大のため以外の何者でもなく、他の大老の出方を窺っ た(瀬踏み)ものでしょう? 2.前田利家の没後は、前田・細川の謀反嫌疑ですね。。。そもそも彼等が この時点で豊臣に謀反する等とは絶対にあり得ないことでしょう?   これは誰が見ても、豊臣家ではなく徳川家に対する謀反でしかあり得ま せん。つまり豊臣家のためと称して、徳川家のためを図っているのです。 そして両家がこれに屈したとき、誰の目にも名目と実質のすり替えは、 明らかになったと思います。 (だいたい豊臣家に対する謀反嫌疑であれば、豊臣家に人質を取るべきも   のでしょう。。。徳川家に人質を取ったことが、何より「実質」を物語 っていると思います。もっとも私はこれを「出来レース」だと睨んでる んですが。。。) 3.そして太閤遺言に反する縁組みの強行ですね。。。結局これを強行する ことで、自家のためであれば、平然と太閤遺言も大老決議も無視する (出来る)ということを天下に見せつけているのです。 4.また大阪城入城でしょうね。。。北政所出城(真に徳川を警戒するなら ば、ここで北政所は踏ん張るべきでした)を好機に、豊臣家を自己の武 力下に置くことに成功しました。もちろん名目は豊臣家守護でしょうが、 実態は籠絡といっても良いでしょう。 5.次に上杉謀反の嫌疑ですね。。。これも豊臣家に対する謀反を名目とし ていますが、一体誰がそれを信じたでしょうか?   ここに至っては、徳川に対する謀反の(しかもデッチアゲ)嫌疑である ことは明々白々であり、豊臣のためと称しつつも。。。その実は徳川天 下を確立するための行動であることは疑いのない「事実」でしょう? 6.そして「関ヶ原処分」ですが。。。ここで全国所領の3分の1を没収し、 意のままにこれを分配します。まさに毛利であろうが、誰であろうが、 有無を言わせぬ天下人として振る舞い、自家に同じく3分の1を取り込 んでしまったのです。   そもそも、この時に豊臣家の大老として豊臣家のために戦ったのであれ ば、その結果として豊臣家の(最も美味しい)所領を没収し、4分の1 にまで縮小するという名分はどこにあるのでしょうか? (徳川600万石、豊臣65万石。。実に1割強に縮小してしまったんですよ!)   ここで、恐れながらと。。。100〜150万石でも豊臣家に上納すれば。。。 私も家康君の忠誠心を感じたりするんですが。。。(笑い)   逆に主君(?)から150万石以上を没収しちゃうんだから。。非道い大 老(臣下)もあったもんで。。。(笑い) それとも、これは秀頼成人までの名義借り(笑い)なのでしょうか? 7.かくして皆さんがお認めになるとおり、徳川家康は誰憚ることもない天 下人になります。あとは如何にスムース(最小のリスクで)に豊臣家を 歴史の舞台から引き下がらせるかの方法論だけです。 (微かに一大名あるいは公家としての存続も、選択肢にあったかも。。。?)   何度もいいますが全国諸大名の中で、徳川が命懸けで得た天下を返す (豊臣の復権)を予想した人間がいたとはとても思えません。   まさに伊達書状のように「早く引導をお渡しになれば。。。」と言う世 論の熟成を待つのみだったのです。黒田如水が述懐したように「関ヶ原」 で戦国時代は終焉を告げたのでしょう。 (豊臣天下復権によって、これを再逆転させるなどと言うのは、豊臣天下に おける織田復権と同じく。。。夢物語としか思えないのですが、どうしてこ んな発想に重点をおかれるのでしょうか? 何か特別の根拠でもおありなの でしょうか?) Time : 2001/ 2/20(火) 22:00:26
Name : Toshy E-mail : Title : 関白と征夷大将軍の戦い Comments: まず。 徳川政権が暫定的なものであったとは思っていません。 これは源頼朝が鎌倉政権を打ち立てたのと似ています。 関ヶ原が「徳川vs豊臣」の名で行なわれた戦ではなく、 当然ながらこのあとすぐに徳川の時代になったのではありません。 征夷大将軍になり、また幕藩体制を敷いていく行程において、 徐々に天下人の地位を確定していったという点では、 輔住さんもわしもパンダさんも、同じ事を言っているのですよ。 引導を渡すという話は、つまり、 「世間は豊臣の天下だと思っているが、実力のある徳川が支配すべきだ」 というのですから、まだ実はともかく名においては家康が天下人ではありません。 豊臣の軍事的大逆転があったという話はしたつもりがありませんが、 秀頼の関白は状況によってはありえた話であり、 これが実現した時には、全国の大名に出陣を要請することは不可能でした。 そうなれば独力で大坂を滅ぼすことは贔屓目にも出来ず、 家康の死と共に「実力支配」は急速に弱まり、 江戸政権を覆す動きはありえるかも知れません。 (豊臣には、万が一にも単独での究極的勝利はないでしょう。) 伊達の書状以外にも状況証拠はありますが、 これは内容と形式のどちらに重点を置くかの問題であると前に述べた通りで、 ここで書いたところで水掛け論にしかならないものであると思います。 もし徳川の天下が家康と共に確定したものであるとすれば、 豊臣を滅ぼす理由は見つかりませんし、 豊臣が幕藩体制に組み込まれた証拠が必要ですが、 これについてはどのようにお考えでしょう。。。 Time : 2001/ 2/21(水) 00:23:48
Name : 輔住 E-mail : Title : 私がいいたいのは Comments: 家康が暫定的なものを目指したと言っているわけではありません! 少なくても関ヶ原前後は加藤や福島にはそう見えたのでは!と いっているのですよ。 Time : 2001/ 2/21(水) 07:52:21
Name : パンダ E-mail : Title : 家康の選択肢。。。 Comments: パンダです。輔住さん、Toshyさんへ。。。 まず、私は豊臣家が一大名となったとか、幕藩体制に組み込まれたとかは、 一切考えていませんし、その様に言った記憶もありません。。。(笑い) ということで。。。 家康は、暫定的政権を目指したものでもないし、「関ヶ原」後は必ずしも 暫定的なものとはいえない。。。。と言うことで、よろしいんですね? それでは。。。次に世間(淀君・加藤を含む)はこれをどう見ていたかと 言うことですが。。。 @政権奪取を目指しておらず、所詮は豊臣家の大老に甘んじるだろう。 A所詮は暫定政権でしか有り得ず、何れ自ら豊臣に政権を返還するだろう。 B豊臣の形式的政権を認めつつ、実質的政権確保に甘んじ(止ま)るだろう。 C恒久政権奪取を目指しているが、豊臣との関係ではそれは不可能で、所 詮は暫定政権的状態のままで終わる(かもしれない)だろう。 D恒久政権奪取を目指しており、実質的に成功したが、名目(形式)的に は極めて不安定な政権であり、豊臣が復権する(かもしれない)だろう。 E恒久政権奪取を目指しており、実質的に成功した。あとは名目(形式) を整えるのみであろう。 @Aは、まずあり得ませんね。。。幾ら加藤・福島だってそれ程甘くはな いでしょう。 (そう考えていたとしたら、彼等の自己弁護というしかありません) 基本的には淀君とて同様だと思いますが(彼女の判断力は???) お二人は。。。そもそもがDに近いと思いますが(違いますか?) とすれば、BあるいはDの可能性を世間がどの程度認識していたか。。。 ということですね。(まさに「伊達書状」の読み方になってきますが、こ の解釈は皆さんにお任せします。。。) 私の見方は所領配分の実態等から(「伊達書状」をも踏まえて)Eです。 家康にとっての問題は、名目を整えるための世論の熟成と、リスクの取 り方だけだったと思います。 ただ。。。家康とて未来を100%予測することは、不可能ですから。。。 慎重にリスク(Dの危険性)を取り除いていかねばならないのは当然で しょう。(もちろん、大坂周辺への親藩・譜代大名の配置も必要です) で。。。仮にEだったとして、名目(形式)の整えかたの問題ですが。。 おそらく家康には次の選択肢があったと思います。(天下人=武家君主と します) @北条政権型・・・豊臣家を完全な形式上の君主とし、徳川家が実質上の 君主となる (豊臣=公家将軍、徳川=執権 又は変形で 豊臣=関白、徳川=将軍?) A豊臣政権型・・・徳川(豊臣)が名実ともに君主となり、豊臣(織田) を家臣である大名とする。(幕藩体制に組み込む) B公家存続型・・・徳川が名実ともに君主となり、豊臣を公家として政権 枠外で存続させる。(織田政権の足利将軍????) C抹消決着型・・・豊臣家を完全に滅亡させ、徳川が名実ともに君主とな る。 @は最も不安定な形態(徳川の征夷大将軍叙任までは概ねこれに近い)で すから、家康の最終選択肢にはなかったでしょう。 しかし豊臣家としては、取りあえずはこれを熱望したでしょうネ(笑い) 私は。。。家康は取りあえずAをも考慮したと思っています。豊臣家自身 がこれを行った(子飼が主家を臣下にしたのだから、ある意味で遙かにエ ゲツナイ)のですから、最も世間の理解が得られ易いし、コストも最小で すむのですからね。。。(笑い) (ただその後、加藤・福島のように取り潰したかも知れませんが。。。) Bは、現実問題として可能かどうか、良く分かりません。下手をすると@ に近い形となるので。。。選択肢にはなかったかも知れません。(笑い?) で。。。ご存知のとおり、豊臣に言い掛かりをつけてCを選択し、Aに存 在しうる僅かな危険性をも断ち切り、徳川政権を盤石の体制にすると共に、 後世に「狸親爺」の悪名(?)を残した。。。と思っています。 ところで。。。@Bの可能性を考える上で、秀頼の関白就任の可能性も一 つのポイントだと思います。。。 私はこれについては、詳しく知らないのですが、具体的にはいつ頃にどん な動きがあったのでしょうか? (二、三日アクセス不能ですが出来れば具体的に教えて頂けますか?) Time : 2001/ 2/21(水) 23:20:17
Name : Toshy E-mail : Title : わしは@かAだと見ております Comments: パンダさん、ここまで話が熱くなるとは思いませんでした(笑) まずは大老についてです。 関ヶ原で勝ったものの、家康の立場はまだ大老の一人でしかありませんでした。 とはいえ、前田利家は死に、毛利・宇喜田・上杉の3氏は敗軍の将ですから、 「五大老」などないも同然ではありましたけど。 それが、形式上とはいえ、その後の戦後処理を「太閤の掟のごとく」としているのでわかります。 先に記した話をもう一度書きますと、上杉・前田らの外様大大名は、 年始の挨拶は豊臣を先とし、徳川を次としていました。 形式的なもの、といいましても、これが事実として受け止められます。 つまり大名たちは豊臣を見限っていないし、むしろ主筋としているわけなんですよ。 徳川家康が征夷大将軍になるまでは、 諸大名は暫定的に家康が補佐をしているものと見ていたと考える方が、 これらの事実から考えて間違いないと思います。 逆に加藤や福島が、豊臣を一大名として存続させようと考えていたという証拠など見当たりません。 証拠のない方を是とし、弱いながらも証拠のある方を否定するのは、 パンダさんらしからぬ論法ではないかと。 それで、わしは@かAの可能性が一番あると見ます。 彼らが豊臣・徳川の二条城会見でとった態度は、 あきらかに豊臣を上位とするものではなかったでしょうか? 福島正則が、家康の子義直の城の普請にかかわった時の話は有名です。 「なんで俺が義直の城の普請をしなければならないんだ」と。 これは明らかに、徳川家を主筋と見ていない言葉です。 清正はさすがにこの言葉の重要さを知ってたしなめますが、 少なくとも彼らが東軍に荷担したのは 「秀頼に逆らう上杉家を討つ、豊臣のためにならない石田を討つ」であり、 徳川家の天下取りに貢献するつもりなどさらさらありません。 はっきりいえば、彼らの認識は信じられないほどに甘いのです。 関白の可能性についてです。秀頼の官位について追ってみました。 慶長3年4月(6歳)中納言   同年6月(6歳)大納言  同5年は関ヶ原の戦い  同7年正月(10歳)正二位  同8年4月(11歳)内大臣  同10年4月(13歳)右大臣 とまあ、何の実績も能力もない子供が、信じられないスピードで昇格しています。 これほどの出世は、摂関家の当主だからこそ可能なことであり、 もし関白の道を断たれたものであるなら、 朝廷だってこのような扱いをするはずがないですね。 さらに慶長8年には、毛利輝元が国元で秀頼関白の沙汰を知らせているし、 公家側でもその可能性について日記に記しているとのこと。 家康自身も慶長7年にはみずから秀頼に挨拶に行っていますから、 (もちろん韜晦のためであると思います) 世間には豊臣があり、そして徳川が補佐している、という印象を与えて当然かと考えられます。 いわば、徳川家の実力支配と、豊臣の関白公儀と、 この時代には二重の構造があったのです。 征夷大将軍につくことにより、家康は支配力を確実なものとしていきました。 この地位は武家のトップであるという鎌倉以来の認識で、 朝廷と対立することなく独自の政権をつくることになります。 またこの地位は、武家の上に君臨するには有利なものでした。 秀頼は関白を目指していますから、ここで対立する危険(?)はありません。 このようにして、いつのまにか政権を豊臣の公儀から簒奪するのが家康の狙いで、 加藤や福島のような豊臣系の大名の非難をかわしながら、 彼らと主従関係を結ぶことが出来たというわけです。 秀頼と千姫との婚姻の際には、 諸大名が大坂に集まって祝賀を述べています。 これをしても、豊臣が「一大名」でないことは明らかですが、 (パンダさんの説を読むと、どうしてもそう主張しているようにしか読めないため) この時には福島正則が、諸大名に「豊臣家に異心なし」と誓紙を書かせたといわれてますね。 これらの状況証拠を下に、 「豊臣を大名として存続させようとした」説には猛反対の立場をとるのです。 Time : 2001/ 2/22(木) 00:18:46
Name : 輔住 E-mail : Title : 私の意見を簡単に言うと Comments: パンダさん、Toshyさん、みなさんどうも! 私の意見は関ヶ原前後はAが多かったと思います。 (もちろん例外はおり、三成はEのようになると思って兵を  あげたのだろう) 家康が将軍になり、2年後、秀忠に譲る頃になるとBぐらいに 思う大名もでてくる。でもまだAと思う人もかなりいる。 二条城会見より後になると恒久政権奪取目指していたと気づいたのが 大半となるのではと思ってます。 Time : 2001/ 2/22(木) 08:08:33
Name : 果心居士 E-mail : Title : 連載「逆説の日本史」もようやく戦国時代へ突入ですか。 Comments: 井沢さんは、手取川の戦いで織田軍が上杉謙信に大敗を喫したと書いていますが、 これは誤りです。 能登七尾城陥落を知った柴田勝家率いる織田軍が、無益な戦いを避けるため撤退したというのが真相です。 勝家が撤退を開始する前に、いち早く七尾落城を知った羽柴秀吉が勝家の許可なく上方へ引き返すなど、織田軍内部の統率・秩序に乱れも出ていました。 このような状態の中、天下に名だたる謙信と戦っても勝機は見いだせない。 まして、救援すべき七尾城は既に謙信の手中にある。 もはやこれまでと勝家は撤退を開始したのです。 謙信が織田軍との戦いに喜び勇んでいざ湊川(手取川は後の名称)まで出てみると織田の大軍はあとかたもなく消えている。 「織田など口ほどにもない」と上杉勢が呆れ嘲った、という程度のもので、合戦らしい合戦はほとんどなかったのです。 謙信勢を前にしながら「退却した」というのが誤って伝わり、いつの間にか「大敗した」に変わってしまったのです。 Time : 2001/ 2/22(木) 14:11:55
Name : きんたろう E-mail : Title : 関ヶ原番外編??^^;; Comments: こんばんは^^ ひさしぶりの登場です。 パンダさん、先日は清和・陽成の謎についての深い考えを示していただきまして有り難うございました。(ただいま進行形です、笑) また、なかのさんの書き込みを読んではその幅広い知識に驚かされていますv(^o^) Toshyさん、輔住さんとパンダさんの関ヶ原考察はかなり読み応えがありますね^^ ところでやや脱線気味の話題ですが...。 石高を全国の統一基準としたのは秀吉の太閤検地によってでしたよね。 そして、これを引き継いだのが家康です。 それ以前に広く使われていた貫高制を放棄した理由とはどのようなものによるので しょうか?? 少なくとも秀吉の場合は信長の後継者として通商国家にも理解があったように思っ ていますので石高制について(何となくですが...)違和感を持っています。 (単なる思いこみなのかな...??) なお、家康についててすが彼もまた通商に対してイメージより遙かに積極的だった ように思っています、笑 Time : 2001/ 2/22(木) 19:53:15
Name : 平成のIQ219男 E-mail : Title : 果心居士さんへ Comments: >織田軍内部の統率・秩序に乱れがあり、 >もはやこれまでと勝家は撤退を開始したのです。  こんな状態を敗北というのではないかと、、。 Time : 2001/ 2/23(金) 06:48:26
Name : Toshy E-mail : Title : ちょっとだけ Comments: 輔住さん> いつもおせわさんです(^^) 関ケ原で西軍として戦った石田三成と宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長の四人は、 家康の野望を早くから見抜いていた人たちでしょうね。 また毛利家の主戦派秀元もまた、同様の認識を持っていたことと思います。 ただ加藤・福島・池田・浅野の四人は認識が甘かったようですね。 彼らは豊臣・徳川の融和路線と思われますが、 家康の野望に気づくようになるのは秀忠が将軍になってからでしょうか・・・・ ちょうどその頃から北政所と再接触があることを見ても、輔住さんの考え方に賛成です。 平成のIQ219男さん> 横レス失礼します。 果心居士さんは「大敗ではない」といっているので、 「敗北ではない」と主張しているのではないのですよ。 わしも織田の敗北を認めていますが、「大敗」とまではいかないものと考えます。 大敗というと、長篠の武田軍のように、将士の多くを失うこと、という感じですよね。 果心居士さん、どうでしょう。 Time : 2001/ 2/23(金) 12:51:29
Name : 輔住 E-mail : Title : もしかしたら Comments: Toshyさん >関ケ原で西軍として戦った石田三成と宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長の四人は、 >家康の野望を早くから見抜いていた人たちでしょうね。 秀吉の死後、家康の腰巾着のようになった藤堂高虎あたりも、もしかしたら 見抜いていたのかもしれませんね。 きんたろうさん >家康についててすが彼もまた通商に対してイメージより遙かに積極的だった >ように思っています、笑 そうですね。将軍となった後、糸割符の制度を作ったりと 結構、通商にも力をいれていましたね。 Time : 2001/ 2/23(金) 15:59:22
Name : 果心居士 E-mail : Title : 言う事、有りません。 Comments: Toshyさん おっしゃる以上、書き込む事は無いです。 私がレスを予定していた内容と全く同じです。 皮肉ではなく、横レス有り難うございました。 平成のIQ219男さん 私の「湊川の対陣」に関する「敗北」「大敗」の見解はToshyさんの言われたとおりです。 Time : 2001/ 2/23(金) 18:29:29
Name : 果心居士 E-mail : Title : 言う事、有りません。 Comments: Toshyさん おっしゃる以上、書き込む事は無いです。 私がレスを予定していた内容と全く同じです。 皮肉ではなく、横レス有り難うございました。 平成のIQ219男さん 私の「湊川の対陣」に関する「敗北」「大敗」の見解はToshyさんの言われたとおりです。 Time : 2001/ 2/23(金) 18:44:48
Name : なかの E-mail : Title : 石田三成、あと織田一族、その他 Comments: こんばんは、なかのです。 今まで何度かコメントしようかと思いましたが、 整理が出来なかったので、ご無沙汰してしまいました。 一息つけましたので(深い意味はなく単純に)、思いつくままに・・。 豊臣家と家康との関係は、ちょうど織田家と秀吉の関係とに 似ていたものと思います。 清洲城で三法師秀信が正式に後継と認められましたが、 それから後の経過を見ていますと、 秀吉は講和した織田信雄を一時期ながら事実上の 織田家後継としていたように思える節があります。 例えば、織田信雄の昇進ですが、小田原攻めの前に 30代前半で正二位内大臣になっています。 摂関家の下のクラスである清華家並みの昇進の速さです。 いくら父親が右大臣とはいえ、「庶子」に与える官位ではありません。 120以上とも言われる当時の公家の家柄のうち、 その当主が内大臣以上になれる資格を持つのは、 五摂家を含めても20も無いのです。 豊臣家の「関白」や徳川家の「征夷大将軍」などのような トレードマークとする「職」が織田家に無いためわかりにくいですが、 関白と征夷大将軍とが相互にぶつからない役職であったのと同様に、 秀吉の「関白」が織田家との「主従関係」に接触しない ものであったのかと・・。 秀吉の天下統一の後、信雄はポカをやって領土没収の憂き目にあい、 代わるように秀信が岐阜の城主になりましたが・・。 あと、石田三成からの視点も・・。 文献や皆さんの意見などから、 関ヶ原の戦いで石田三成に積極的に味方したのは、 小西行長、大谷吉継、宇喜多秀家、そして 上杉景勝の参謀だった直江兼続といったところでしょう。 小西行長は商人の出身のせいかもしれませんが、 朝鮮出兵時に石田三成と共に早いうちの和睦を考えていたようです。 確かに展望の見えない戦争を継続することは 内政を預かる者としては「実のない」軍費を捻出し続けねばならず、 やりきれないところです。 そこへもって家康が秀吉に出兵を唆したのだとしたら・・? 石田三成と小西行長は家康の行動に疑念を抱いたでしょう。 もし「家康の野望を見抜いた」とするならば、 やはりその時点でしょうか・・? しかし前田利家が健在なうちは力のバランスで家康を 制御できると考えていたのでしょう。 五大老の宇喜多秀家は前田利家の婿ですし。 石田三成が家康への疑念を抱いたとするならば、 その段階で前田利家と宇喜多秀家に渡りをつけていたのかも しれません。(あくまで想像です) しかし五大老のうち前田利家は死去し、その子は早々と 家康によしみを通じてしまいました。 毛利輝元は個人はともかく、家臣団が 親石田の安国寺恵瓊と親徳川の吉川広家とで二分され、 更に小早川もどっちつかずで統一した動きがとれない。 そういった情勢から、石田三成は五大老の宇喜多秀家、 そして親しい大谷、同志の小西の他に、 親交のある直江兼続を介して上杉景勝を味方に引き入れ、 更に一応、毛利も敵に回られてはそれこそ勝算が無くなるので 「総大将」に担ぎ出して自陣に誘い、 関ヶ原に対陣した時は彼なりの勝算があったものと思います。 まあ結果は・・。 小西行長は堺の豪商の子であり、秀吉子飼いの一人でもあり、 朝鮮出兵では武功もありましたが、 密かに石田三成と共に和議を進めていたこと、 そして「明との交渉に失敗した」とされることから 他の加藤・福島といった武断派と距離があり、 そんなこともあって、石田三成と運命を共にしたのでしょう。 北政所は秀吉の死後に大坂城を出て、 落飾して高台院となりました。 北政所は「大坂城」を出た段階で、世俗権力を失い、 いわゆる「象徴」的な存在になったのでしょう。 では、秀吉生前の淀君はどういう存在だったのでしょうか・・? 正妻の北政所がいる以上、出自の良さは別にして、 せいぜい城をおねだりする「権力者の愛妾」以上の ものではなかったように思えるのですが・・。 確かに関ヶ原の後、淀殿は「豊臣」の代表のような 振る舞いをしていますが、 それは1596年に秀吉の命令により大坂城へ入り、 北政所が大坂城から出てからのことではないでしょうか。 そしてもう一つ、秀頼は義母に当たる高台院を どう見ていたのでしょうか。 少なくとも、秀頼が高台院を訪れて会見したというような 記録は見た覚えがありません。 二条城で家康と対面しているくらいですから、 その気になればできない筈は無いと思うのですが・・。 あと石田と加藤・福島はいつから不仲になったのでしょうか・・? 後には官僚の見本のようになる石田三成も、 秀吉の天下統一までは各地で戦場に出ており、戦闘を経験しています。 秀吉の家臣団は急激に膨張したので、必ずどこかに歪みがあった筈ですが、 私は「子飼い」が「分裂」したのは、その歪みが表面化した時、 恐らく1591年の豊臣秀長の死去の後であると思っています。 豊臣秀長の政権における位置づけが意外に大きく、 死去により秀吉をまっすぐ諫言できる人物がいなくなったこと、 裏方として調整役を果たす人物がいなくなったことが 豊臣政権にとって痛手であったことは想像に難くありません。 以後は私の想像です・・。 秀吉の身内で優れものは秀長のみであり、 あとはどうしようもないクズか幼少の者ばかり。 そこで能吏でもあった石田三成が若年ながら秀長の代わりを 果たし、ある程度は代役を果たせた。 しかし朝鮮出兵の頃から路線の違いが明確になり、 特に能吏である石田三成に一種のコンプレックスを抱いていた 加藤・福島あたりが反石田を鮮明にし始めた・・。 ちょうど千利休や「殺生関白」秀次の粛清があり、 石田三成が執行人などの形でその矢面に立ってしまい、 尚更、部将らの悪評を受けた。 「5大老」のうち、前田利家は高齢、宇喜多秀家は若年、 毛利は家臣団が分裂状態、上杉は僻地であり、 家康はそれにつけ込んで、「人望のない」石田三成相手なら 勝てると踏んで、前田利家亡き後、権力簒奪の謀略を始めた・・。 石田三成は、ちょうど鎌倉幕府創建期における 梶原景時のような人物だったのでしょうか・・? そしてそれが北条氏の遠謀と気づかずに討伐に加わった 三浦・和田といった有力御家人が加藤・福島でしょうか・・? 石田三成については、処刑直前に干し柿を「体に毒だから」として 拒んだという逸話が広く知られています。 いい意味で潔くない人物だったのでしょう。 逆に人望のあった大谷吉継もまた石田三成と運命を共にしており、 石田三成の「嫌われ者」ぶりには何か裏がありそうです。 お得意の余談ですが・・、 石田三成を「豊臣家の忠臣」と最初に評価したのは 「副将軍」水戸光圀であったと言われています。 この方は、変な言い方をすれば「へそ曲がり」ですが・・。 確かに偏ってはいましたが見識は高かったので、 他にも楠木正成などもこの人のお陰で 歴史に「大忠臣」として名を残すことになりましたし、 尊皇思想を早々と打ち出して、 幕末の倒幕論の萌芽を生み出したのも水戸学だったのですが・・。 パンダさま> レスありがとうございました。 突っ込まれてから急に、自分の記憶力に自信がなくなりました。 どなたか録画してないでしょうか・・? もしくは、他にご覧になっていた方がいれば、 教えていただきたいのですが・・。 Toshyさま、輔住さま> 私はその他に黒田如水の名も挙げたいと思います。 あとパンダさんの提案ですが、私はEが近いと思います。 きんたろうさま> こちらへ来てしまいましたね・・(笑)。 落ち着いたら皆さんで「清和源氏」ネタをまたやりましょう。 秀吉は通商にも理解がありましたが、それ以前に、 農本主義的なところがあったように思います。 あと、キリスト教宣教問題もありましたし・・。 (これも偏見かもしれませんが・・) MKさま> 産経新聞だろうと、○旗だろうと、堂々としていれば良いのではないかと 思います。問題は記事の中身ですから。 Time : 2001/ 2/23(金) 23:19:54
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所の話 Comments: なかのさん> 定説となっている北政所と淀君の対立についてです。 >北政所は秀吉の死後に大坂城を出て、 >落飾して高台院となりました。 >北政所は「大坂城」を出た段階で、世俗権力を失い、 >いわゆる「象徴」的な存在になったのでしょう。 高台寺ができたのは慶長10年、つまり関ヶ原の5年後なんです。 それまでは大坂城にいて豊臣家を守っていたのですよ。 淀君の立場は、おっしゃる通りです。ただし秀頼という存在において、 特別なものになったことは否めません。 秀頼と北政所についてですが、まずはその他大勢の側室と北政所について。 秀吉は北政所の立場を尊重し、側室たちは北政所に対し姉または母のように接していました。 養子・宇喜多秀家の母ふくを見てもおわかりかと思いますが、 同様に養子もまた実母よりも北政所を母のように見ています。 淀君とて同じで、秀頼の実母とはいっても、その時代は「腹は借り物」だったのです。 秀頼は北政所を「まんかか」と呼んでいて、祖母のように見ていたと思われます。 パンダさん、なかのさんのEの説についてです。 もしも実質的に天下を確立しているという認識がまわりにあったら、 伊達政宗の書状は不必要ではないでしょうか。 天下人に対して、「天下をとりなさい」なんていう人はいませんよね。 釈迦に説法、というものです。 それに実質的な天下人を尻目に旧主のぼんぼんのところに挨拶に行く上杉・前田、 また実質的な天下人に悪態を吐く福島・・・・ちょっと説明がつかないものと考えます。 織田−豊臣(羽柴)の関係と、豊臣−徳川の関係で決定的に違うのは、 秀吉が擁立した信雄が秀吉と敵対して戦ったのに対し、 秀頼は大坂の陣まで家康と敵対していないんです。 織田が政権を奪われるのは、後見人(ということになっている人)と決別して戦いに敗れた以上、 その地位を取り戻すことはできないという認識があって当然ですが、 家康は「秀頼のため」といって関ヶ原を戦ったのだから、 徳川家は最後まで豊臣の家臣という立場を崩さなかったんですよ。 石田三成が徳川家康を疑い、除こうとしたのは秀吉の死後まもなくでした。 前田・宇喜多はもちろん上杉・毛利の大老、五奉行の連名で、 太閤の遺言への違反を糾弾しています。 もっとも反徳川の筆頭・前田が死に、浅野長政が三成と仲間割れして東軍に走り、 この結束は崩れていきました・・・・ 石田三成を鎌倉時代の梶原と比べている点は賛成です。よく似ていると思います。 石田三成と淀君は徳川家にとって悪評高い人物になりましたが、 これが両者の結託の捏造につながっています。 しかし実際に三成が嫌われ者だったかといいますと、疑問。 わずか19万石で天下を二分する戦いをしたのだから、それほど人望があったと考えられますね。 もし加藤清正が三成の立場にあったとして、 「西軍」を組織するだけの能力(これには人脈と信頼も含む)があったでしょうか。 清正・福島正則が三成を嫌っていたことが後代に大きく取り上げられましたが、 逆に三成・西軍が勝利していた時には、家康の人物が過小評価されたことは間違いなく、 敗者に対しての悪評は話半分に聞かなければなりません。 輔住さん> 藤堂高虎、そうでした。彼は徳川の野望を見抜き、それをして徳川についた人物でしたね。 なかのさんご指摘の、黒田如水・長政も同様の認識だったのかもしれません。 果心居士さん> でしゃばった感じで申し訳ありませんでした、 でもこのようなお言葉を頂くとありがたいです。 戦国史について、またいろいろとご意見を交わしたいです。 よろしくお願いします Time : 2001/ 2/24(土) 00:23:05
Name : 輔住 E-mail : Title : 織田家のこと・三成のこと Comments: なかのさん、Toshyさん、そしてみなさまへ 秀吉が織田家を厚遇したのは、旧織田家臣団(元同僚)に対する政策でも あったと愚推します。譜代の家臣というべきようなものは 秀吉の場合どうしても他の大名と比べると少し弱いです。 それを少しでも補うためかっての同僚である前田利家や蒲生氏郷らを をうまく組み入れることが重要でしょう。 もちろん、天下統一後、織田家に難癖をつけて滅ぼすことも可能ですが、 そのことで直接、秀吉に謀反を起こさないまでも求心力の低下を まねくと考えたのでしょう。(証拠もない想像ですが) あと、石田三成や小西行長らと武断派大名の対立の時期に関しては なかのさんの意見に賛成です。 ただToshyさんのおっしゃる通り、三成は梶原景時よりはるかに人望があったと思います。 小西行長、安国寺恵瓊、直江兼続、大谷吉継、佐竹義宣らは三成と友好的でした。 もちろん、豊臣家武断派大名ら敵が多かったのも事実ですが、それは家康だって同様です。 家康はだって人望はありますが上記の親石田派とはうまくいってないことが多いし、 真田昌幸ら反家康という感じの人物も大勢いたでしょう。 Time : 2001/ 2/24(土) 01:01:38
Name : Toshy E-mail : Title : あれ? Comments: test Time : 2001/ 2/24(土) 09:56:10
Name : あれ E-mail : Title : あれ Comments: あれ? Time : 2001/ 2/24(土) 09:56:22
Name : MK E-mail : Title : まだ直りませんか。 Comments: 又、又、おかしくなってしまいましたね。なんかチェック受けてると思いたくなります。 これ以上悪い事が起こりません様にと祈るしか能が有りません。 口惜しいですが。 Time : 2001/ 2/24(土) 21:21:10
Name : パンダ E-mail : Title : トラブルですか。。。?? Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 帰ってきたら、トラブル中のようですね(笑い) ところで、「伊達書状」について。。。ある本で次の部分引用を 見たのですが、これはご照会の書状とは別なのでしょうね? (時期的に非常に似ているようなのですが。。。) 伊達書状・・慶長6(1601)年4月21日(今井宗薫宛「観心寺文書」) 「 唯今、大坂のかたにふらりとして置き成され候はヾ、時分をもっ て、世のいたづら者出来候て、秀頼様をぬしなどに仕り、謀叛も仕り 候者。。。」 秀頼を、大坂から江戸か伏見に移して、家康のもとで養育することを 勧めたものですが、それは。。。このままでは不心得者が秀頼を主君 (天下人)として(徳川)に謀叛しかねない。。。からだと言ってい ますね? Time : 2001/ 2/24(土) 22:26:28
Name : 輔住 E-mail : Title : なんだか Comments: きのう自分が夜中、投稿がうまくいかなくて... なんかおかしくなっていますね。 どうなってしまったのかな? なかのさんへ 秀吉が織田家を厚遇したのは旧織田家の家臣団の力が 必要だったからだという一面もあったと思います。 譜代の家臣という面では秀吉は他の武将より 不安な面があったでしょうから、前田利家や蒲生氏郷ら かっての同僚をうまく取り込む必要を他の武将よりさらに 強く感じていたのでしょう。天下統一後 織田家を滅ぼすことは可能だったと思いますが、 そのことで面と向かって反逆はしなくても 求心力の低下になると考えたのかも Time : 2001/ 2/24(土) 23:19:19
Name : なかの E-mail : Title : どうなってしまったのでしょう? Comments: こんにちは、なかのです。 昨日午前9時56分のToshyさんの書き込みより 遡れなくなっていますので、わかるところから・・ 輔住さま> レスありがとうございました。 まさに言われる通りだと思います。 程度の差こそあれ、同じような事が 家康と豊臣家でもあったのではないか・・? というのが私の思ったところです。 少なくとも家康が将軍になるまでは・・、 かつての「同僚」(家康は別格だったかもしれませんが)を 取り込む、というより豊臣家と直接結ぶ手を切り離すことを考え、 できるだけの工作をしていたのではないだろうか・・? と考えたわけです。 城攻めが比較的苦手とされている家康には、 大坂城攻略のヒントを秀吉から教えてもらい、 その通り実行したという有名な逸話があります。 家康は色々なことを秀吉から学んでいるようなので、 豊臣家及び子飼いの対策についても、秀吉の例を学んだのでは・・? ・・・ あと、秀頼が関白になれたかどうかですが、 大坂城を囲まれる1514年の時点で秀頼は22歳、官職は右大臣でした。 やや若いものの、関白になっていても不思議ではないのですが、 この時点では朝廷が豊臣家を、 少なくとも表面上は既に見限っていたのでは・・? Time : 2001/ 2/25(日) 15:46:38
Name : Toshy E-mail : Title : あらためまして・・・・ Comments: 過去ログが消えたようなので、あらためまして、パンダさん、なかのさん、輔住さん、 よろしくお願いいたします。 パンダさん> まずは、おっしゃるとおり、その書状で間違いないと思います。 これについては、わしも徳川天下を認めるものかなと考えたことがありました。 これは「豊臣の徳川に対する謀反」ではなく、 反徳川・親豊臣系大名の徳川に対する反抗ですよね。 伊達は親徳川大名であり、また家康の実力支配を認めている存在です。 ただし徳川の支配までは認めたものではないでしょう。 わしの主張は、こうです。 徳川家康が関ヶ原で石田三成らを一掃し、実力No.1として天下を治めていても、 徳川家が天下人として君臨したという認識はまだ与えていなかった。 だからこそ上杉や前田が豊臣家への挨拶を欠かさなかったのだし、 加藤清正が二条城会見で秀頼のボディガードを務めたのです。 もし世間すべてが徳川の天下人を認めていたとすれば、 上杉や前田は、豊臣に対してなんの遠慮をすることもないでしょう。 挨拶なんか行かない方が、疑われずにすむのです。 伊達が家康に、天下人たることを勧めたというのがパンダさんの説でしょう、わしも同感です。 もし相手が本当に天下人だと思っていたら、 それこそ釈迦に説法で、伊達は勘違いしていることになると思われますが。 ところで、加藤清正・福島正則が「豊臣家を大名として存続させる」という説は、 どこに根拠を求めたものなのか。 はっきりいうとこれって「北政所=家康連合」から来ている俗説で、 なんの立証も出来ないものです。それよりは今までわしが挙げた根拠から、 豊臣がなおも徳川の主筋にあると認識されていたと考える方が、 歴史学的考えに沿ったものかと思います。 小説には俗説でもかまわないですけど。 なかのさん> 関白については、おっしゃる通りですね。 思いますに、加藤清正や浅野長政といった豊臣系大名が死んだ慶長16年あたりから、 豊臣は朝廷から見限られていたと思います。 上杉や前田が豊臣に挨拶に行かなくなるのも、 徳川が豊臣を幕藩体制に組み込もうとするのもその時期なんです。 大坂の陣が起こったのは、徳川の将軍型公儀と、 豊臣の関白型公儀のバランスが崩れた後です。 なお、織田−豊臣の関係と豊臣−徳川の関係で決定的に違う点。 織田信雄は後見人だった秀吉を離れ戦ったのに対し、 秀頼はあくまでも家康と融和路線にあって、家康も大老の立場を崩さなかったことなんですね。 織田が天下を乗っ取られたのは、つまり、秀吉に口実を与えてしまったことです。 Time : 2001/ 2/25(日) 20:57:19
Name : パンダ E-mail : Title : もう一度申し上げます。。。 Comments: パンダです。Toshyさん、みなさんへ。。。 過去ログは復活しないのでしょうか? 私の発言部分は、テキストで保管しているのですが。。。最近は原文は保存 を怠っていまして。。。チョット困っています(泣き) 伊達書状については、私も確認しましたが。。。同一文でしたね(笑い) ここで言う「謀叛」は、もちろん豊臣の徳川に対する「謀叛」ではありませ ん。「世のいたずら者(不心得な諸大名)」が秀頼を「ぬしなどに仕り(主 君としてかつぎあげて)」の謀叛です。 そしてその結果、何も知らぬ秀頼が腹を切る(滅亡)ことになっては、太閤 の亡魂のために良くない。。。と言っているのです。 つまりは。。。諸大名が豊臣をかついで徳川に反抗するのは「謀叛」だとい っているのです。これは。。。徳川と諸大名の間に「君臣=支配従属関係」 が存在することを認めていることだと思うんですが。。。? そして伊達は。。。こういった天下体制の「枠外」にある「豊臣家」の存在 を危惧し、「実質天下人」たる家康に早急に「名実ともに天下人」となるよ う決断を促していると申し上げているのですが。。。 私と、Toshyさんの違いの原因に。。。「天下人」と言うものは何かと いう概念の違いがあるように思います。。。? 私は、鎌倉幕府の例で申し上げたとおり、「天下人」とは実質的に日本の支 配権を握っている人物(あるいは家系)だと考えています。 鎌倉幕府(政権)においては、如何に執権(得宗家)が公家(親王)将軍に 臣礼をとろうと。。。執権(得宗家)が天下を支配しており、「天下人」だ といっているのです。。。 そしてその支配権は、武家社会においては。。。御恩(所領与奪)と奉公( 軍役)の主従関係によって支えられていると思っています。 その意味では。。。如何に家康が秀頼に臣礼をとろうと。。。家康は「関ヶ 原処分」以降は。。。得宗と同じく既に諸大名に対する所領与奪の権を持っ た「天下人」なのです。 (前田・上杉を謀叛としたこと自体が。。。豊臣の大老としての行為とは考 えられません。既にこの時点で明らかに「名分と実際」は乖離していると思 います) だからこそ、大坂冬の陣どころか家康征夷大将軍補任、秀忠譲位に際しても 。。。福島を含めて誰一人として豊臣に味方し、徳川に文句をつける大名は いなかったでしょう?(福島は家康将軍宣下に際して、細川・京極・池田と ともに供奉していますよね。。。?) 秀吉は、小牧役当時までは、織田家継承者の「三法師君」を主君とし、信雄 にも臣礼を取っていましたが、一方では信孝を自尽せしめ、信雄を攻めて屈 服させています。(あくまで秀頼に該当するのは「三法師」です。。。) この行動は「織田家御為」と称してはいますが。。。自己の天下取りの為の 行動であることは明白でした。そして結局は天下人として「三法師君」を初 めとする織田家の後継者を臣下の一大名とし、信長の娘を側室としているの です。(ここで、織田家後継者が反抗すれば、当然に秀頼と同じ運命を辿っ たでしょう。。。秀吉が織田に天下を返上するなどと言うのは夢物語です) 徳川と豊臣の関係は。。。豊臣と織田の関係よりも遥かに慎重な処理が必要 だったのですね。 (もちろん家康の「鳴くまで待とう」という慎重な性格もあったでしょう。) だからこそ、家康は天下人でありながら「死に馬に蹴られて怪我をする愚を 避け」て、将軍宣下まで臣礼を取り続け。。。それどころか諸大名にも秀頼 臣礼(年賀)を優先するように「命令」すらしているのです。 >>だからこそ上杉や前田が豊臣家への挨拶を欠かさなかったの ではないでしょうか? (つまりは対決を先送りし、当面のあいだ豊臣家を安心させるためです) しかし、一方では遠慮会釈なく豊臣の所領を四分の一にまで実質的に没収し、 自己(系)の所領を実質的にその十倍にまで拡大しているのです。 (これは。。如何なる意味でも「豊臣家御為」の大老の行為では有り得ない でしょう?) さらに。。。江戸城・駿河城・篠山城・亀山城・名古屋城等を天下普請とし て、加藤・福島を含む諸大名を扱き使っているのです。諸大名もこれらの築 城が豊臣に対する軍事的優位を確保するための手段であることを、百も承知 の上で汗を流しているのではないでしょうか? (まさか、この様な対豊臣の軍事行動まで「豊臣御為」の大老の行為と思う 大名はいなかったと思いますが???) そして、1603.2月 家康 征夷大将軍補任(右大臣・源氏長者)3月 二条 城において将軍宣下 において、遂にこの臣礼関係は終了させますね。 (しかし、7月千姫婚儀 によって、なお豊臣を逆上させないよう融和策を取 っているのですが。。。) そして、1605.3月に。。。秀忠が十万の軍勢を揃え( 伊達・上杉・蒲生・ 最上・佐竹・南部等有力諸大名が供奉)上洛し、将軍(内大臣)宣下とと もに 5月に北政所を経由して秀頼の上洛を求めた時に、逆に臣礼を促したと 言えるでしょう。 (しかし、豊臣がこれを拒否するや、直ちにこれを撤回しますね。。。まさ に「鳴くまで待とう」だと思います。。。) そもそも、朝廷が「豊臣関白公儀」を視野に入れていたのならば、何故に豊 臣に何の遠慮会釈も無しに徳川に征夷大将軍を認め、かつ秀忠に譲位を認め たのでしょうか?(実質的には1602.1 家康源氏長者の内意を示した時に、 この方針は確立していたでしょう? しかも家康はこれを辞退する。。。) これは徳川が「天下人」であることを「公認」した(させられた)という以 外の解釈は困難です。つまり1602には「豊臣関白」などは、まったくの夢物 語になっていたということだと思います。(さらに秀忠将軍宣下で、これを 駄目押しした。。。させられた。。。) この二年前の「関ヶ原」前後に。。。豊臣政権下における織田家の末路を知 る(当事者の一員である)北政所・加藤・福島が、このことを全く予想しな かったとしたら。。。チョット信じ難いですね(笑い) モチロン彼等が、この事態を望んでいたと言うことではありません。彼等は この事態を避けたかったでしょうが。。。半ばこういう事態を覚悟し、その 場合でも。。。せめて「三法師」のような形での存続を図ったと思うんです が。。(そのうえでさらに豊臣復権の僥倖を信じていたかどうかは、もう何 とも言い難いですね)そうでなければ、加藤・福島はタダノ馬鹿か不忠者です。 Time : 2001/ 2/26(月) 00:16:42
Name : Toshy E-mail : Title : 天下人 Comments: >これは。。。徳川と諸大名の間に「君臣=支配従属関係」 >が存在することを認めていることだと思うんですが。。。? わしは徳川と他の大名の間に、ではなくて、 「家康」と他の大名の間の主従関係だと思うのです。 家康は大老として、関ヶ原の戦後処理を行ないましたから、 その時点で多くの大名は家康の恩を受けたことになります。 しかし天下は実力のあるものの持ち回りであると家康が考えていたように、 家康と比べ政治力も軍事力も劣る秀忠が、 他の大名のトップに立てるはずもないわけです。 だから伊達は、豊臣を担ぐものがいるぞと警告したのではないでしょうか。 天下人といえば、もし秀頼が諸大名に「家康を討て」と命令しても、 どの大名も動くはずもありません。 この意味では豊臣は明らかに天下人から離れているのですが、 わしが主張するのは、朝廷と武家政権の関係が、 豊臣と徳川の関係に似ているもの、ということなんです。 別に豊臣があってその下に徳川、というのではないんです。 天下普請については、福島正則が文句を唱えたことをご存知ですよね。 これは福島が、家康の実力支配を認めてはいても、 「徳川天下」を認めていない一つの傾向ではないでしょうか。 さすがに加藤はこれをたしなめました。 彼には事態の深刻さを理解するだけの頭がありますから。 >北政所・加藤・福島が、このことを全く予想しな >かったとしたら。。。チョット信じ難いですね(笑い) 北政所は予想していたでしょう。だからこそ、三成・秀家の西軍決起を支持したのです。 でも加藤や福島は? もし豊臣のためと信じて東軍荷担だとしたらただの馬鹿者。 徳川に寄り添うための行動であれば不忠者。(ただしこれは後の行動から考えて却下) 三成が嫌いで、という気持ちだけであれば救いようのない人間です。 パンダさんが >(もちろん家康の「鳴くまで待とう」という慎重な性格もあったでしょう。) と述べた点は、言葉こそ違うけど、わしや輔住さんが書いていることと同じなんですよ。 関ヶ原の戦いで徳川天下が確立してのではなく、 時間をかけてその天下を固めていった、というものなんです。 しかし諸大名に「命令した」というのは。。。。根拠が確認できないので無理です。 では徳川の命令から離れている公家はどうだったかといいますと、 八條宮親王をはじめ、摂関家の人々も、大坂の陣の直前まで豊臣家に挨拶に行っているのです。 家康が彼らに「命令」できるでしょうか?? 大坂の陣の時も、朝廷は徳川と豊臣の間に立って、 調停役(はははオヤジギャグになっている)を務めようとしましたね。 家康がこれを拒否することで、公儀は朝廷にも関白にもなく、 将軍一つであることを知らしめました。 >大坂冬の陣どころか家康征夷大将軍補任、秀忠譲位に際しても >福島を含めて誰一人として豊臣に味方し、徳川に文句をつける大名は >いなかったでしょう? 秀頼の目指すものが関白であり、徳川家の将軍公儀と違うものだからだと考えます。 Time : 2001/ 2/26(月) 02:03:03
Name : パンダ E-mail : Title : そろそろ頃合いかと。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 >>わしは徳川と他の大名の間に、ではなくて、「家康」と他の大名の間の主 >>従関係だと思うのです。 ご承知のとおり、封建社会においては「個人」の主従関係は、原則として世 襲さるべき「家」の関係でもあります。だからこそ家康は、「豊臣家」の後 継者である無能力な幼児の秀頼に対してあくまでも形式上とはいえ臣礼をと ったのではないでしょうか? 従って、家康と諸大名との主従関係は、原則的には後継者である秀忠に引き 継がれると言うのが、当時の常識だったと思いますが。。。? もちろん、家康の後継者=秀忠が全くの無能力者であれば、この「家」関係 も揺らぐでしょうが、秀忠程度の器量があれば当然この原則は生きると思い ます。(というより、打ってつけの二代目だと思います) なお「天下は回り持ちという思想は。。。」奪えるものなら奪って見ろ。。。 という家康の強烈な自信の表現に他ならないと思いますが。。。? >>家康と比べ政治力も軍事力も劣る秀忠が、他の大名のトップに立てるはず >>もないわけです。 これを言うならば、秀忠よりも遙かに政治力も軍事能力も(?)。。。さら に何よりも軍事動員力において極端に劣る秀頼は、なおさらでしょう? ここで全国三分の一近い 600万石にのぼる「徳川家」の圧倒的軍事動員力が 「実力」として意味を持つと思うんですがね。。。 >>わしが主張するのは、朝廷と武家政権の関係が、豊臣と徳川の関係に似てい >>るもの、ということなんです。別に豊臣があってその下に徳川、というので >>はないんです。 この部分は、私もほぼ同じ思いです(笑い) つまり豊臣家は徳川天下体制の 枠外に存在しており、その意味で徳川の上に立つことも、傘下の大名になるこ ともなく、滅亡したというのが私の意見です。 >>天下普請については、福島正則が文句を唱えたことをご存知ですよね。 >>これは福島が、家康の実力支配を認めてはいても、 >>「徳川天下」を認めていない一つの傾向ではないでしょうか。 これは、おそらく名古屋城造営における逸話でしょうか。。。? 福島は。。。 「何で我々が江戸城や駿河城なら兎も角く、徳川の倅のために、名古屋城 を築かねばならんのか。。。」と愚痴をこぼした話ですね? これに対して加藤は。。。 「文句を言うならば、謀反を覚悟してからにせよ。。。」とたしなめていま すよね。。。(おぼろげな記憶ですが) つまり幾ら文句があっても、愚痴っても、天下人との主従関係を否定(謀反) しない限りは。。。その命令に従わねばならないのです。 これは、秀吉の朝鮮役に幾ら文句があっても、その命令には従わねばならな いのと同じことではないでしょうか? だからこそ、福島は愚痴をこぼしながらも、セッセと土を運び続けたのでは ないでしょうか。。。? >>関ヶ原の戦いで徳川天下が確立してのではなく、時間をかけてその天下を >>固めていった、というものなんです。 おっしゃるとおり。。。天下は1日で固まるものではありません。豊臣天下 が何時成立したのか。。。実態的には関白補任後、家康が上洛して秀吉と会 見(臣従)したときでしょうが、それでも大勢が決したということで、なお 盤石の体制が確立したとは言えないでしょう? 同様に実質的に徳川天下の大勢が決したのが「関ヶ原処分」であり、その後 は将軍宣下、秀忠将軍継承。。。で名実共に徳川の天下が確立し、豊臣家滅 亡でさらに揺るぎない体制を確立した。。。ということです。 >>しかし諸大名に「命令した」というのは。。。。根拠が確認できないので >>無理です。 これは伏見に参集した諸大名が、家康の指示により夜を徹して大坂に向かい、 すぐに伏見にとって返したという記録によるものです。(出典メモし忘れました) なお。。。前田・上杉については、これからの類推によるものです もちろん、これは傘下にある「武家」に対する命令で。。。「公家」に対して 下せるものとは思いません。 >>秀頼の目指すものが関白であり、徳川家の将軍公儀と違うものだからだと考 >>えます。 そもそも、朝廷は何故に徳川家の将軍公儀を認めたのでしょうか? また朝廷や諸大名にとって、将軍公儀と関白公儀は両立しうるものでし ょうか? 豊臣家としては「関白公儀」を目指したでしょうが、それは実態的には 「関ヶ原処分」で。。。公式的には朝廷が「将軍公儀」を認めた時点で 。。。単なる虚しい願望となってしまったと思いますが。。。? ということで。。。そろそろこの議論については皆さんの判断にお任せ したいと思います。 Time : 2001/ 2/27(火) 09:14:00
Name : Toshy E-mail : Title : 最後となるのでしょうか・・・ Comments: >従って、家康と諸大名との主従関係は、原則的には後継者である秀忠に引き >継がれると言うのが、当時の常識だったと思いますが。。。? ここについては、むずかしいところかと思います。 家康の天下は実力支配であり、「実力のあるもの」を天下人とするのが当然と言えますが、 ご指摘の伊達の書状のように、「秀頼を担ぐもの」があると、 実力で豊臣が上回る可能性があるわけですね。 逆に徳川を担ぐものがあるかというと・・・・・ 担がれる御輿になるには、それ相当の正当性が必要です。 秀忠・秀頼の二人では、官位で秀頼が上回ますから、秀忠は御輿になりうる可能性は小さいのです。 御輿はだれでもなれるわけではなく、旧天下人(?)の後継者だからこそ、 秀頼はその資格を有するのであり、 石高で豊臣を上回る前田がなるか、なんてだれも思わないのです。 そもそも伊達政宗が「豊臣を担ぐもがいるかもしれない」と思っていたのは、 実力支配が完全ではない証といえるでしょう。 天下統一までは行っていない織田はともかくも、 豊臣家は短期間ながらも天下人として君臨していました。 それも徳川家によって乗っ取られます。 ということは、いかに天下人でも天下を失う可能性は十分にあり、 関ヶ原戦後くらいで決まるものではありません。 今回の長い論議で、いろいろと考えることが多く勉強になりました。 自分の至らないところについては、さらに研究を続けていこうと思います。 パンダさん、なかのさん、輔住さん、みなさん、どうもありがとうございました。(^^) Time : 2001/ 2/28(水) 00:26:34
Name : パンダ E-mail : Title : 最後でしょう。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 長らく有り難うございました。本件は以上でもって終了しましょう。 なお伊達書状に付いて、ご承知でしょうが。。。以下(パンダ訳) 「秀頼が幼少のあいだは、(大坂に置いておかず)江戸か伏見かに おいて、家康の側でしっかり養育するほうがよい。そして成人した 時の措置は、家康の分別に任せるべきだろう。太閤の子供であって も天下を仕置きする能力がないと家康が判断したならば、二、三カ国 ほども与えて、(一大名として)長く処遇されたらよいだろう。 今のように大坂に何となく置いておけば、何時かは不心得者が秀頼を 担ぎ上げて謀叛を起こすかもしれない。そうなれば彼等のために何も 知らない秀頼が、腹でも切らねばならないことになろう。これは太閤 の亡魂のためにもよくないことだ。自分がその立場にあるならば、家 康に意見を言うのだが、残念ながらその立場にない。 これは秀頼のためでもあるのだから、貴方から本多佐渡守あたりにで も冗談めかしてでもよいから、是非話してみて下さい」(敬称略) そして、実際に政宗の危惧どおり。。。秀頼は二、三国の大名として 命を全うすることなく、福島を含む全ての大名から見放されて業火に 包まれる死を迎えることになったのです。。。 今回の議論で。。。今まで興味が無かった戦国末期についていろいろ 勉強させて頂きました。こういった機会を与えて頂いて感謝していま す。では。。。また何れ ! Time : 2001/ 2/28(水) 01:07:12
Name : MK E-mail : Title : 又、少しおじゃまします。 Comments:  このコ−ナ−に書いて良いのかどうか判りませんが。 私は、今小学生や中学生の子供を持つ親として戦前戦後の言わば子供達の祖父 母の事を伝える難しさを感じています。第一私自身が戦前真っ暗論しか知らな いです。井沢さんの逆説の日本史を読んで初めて知った事も多くてとても面白 く思っています。又、山本夏彦さんの著書 ”誰か「戦前」を知らないか” を読み、父母の話も聞いていますが、子供に学校で教わってくるのとの微妙 な違いを修正するのはとても難しいのです。  明治や大正 昭和の偉大な先輩達の歴史をどうか教えてください。 Time : 2001/ 2/28(水) 17:36:12
Name : なかの E-mail : Title : 少しがっかり Comments: こんばんは、なかのです。 手を挙げるきっかけをつかめないまま、久しぶりにこちらをのぞくと、 パンダさんとToshyさんとで終結宣言が出されてしまいました・・。 あらまあ・・。 内容はよろしいかと思いますが・・、少しガッカリ。 そういえば、以前にちょこっと(勝手に)話題にした安土城CGですが、 うち一部が「歴史街道」3月号に載っていました。 さて、MKさんが提案なさっている「戦前」ネタは、 私自身も戦後世代であり、知りたいことがたくさんあります。 これまでに「宮中某重大事件」や西園寺公一氏の回想録などを 読んだことがありましたが、全体像がぼけています。 また一時期このBBSでも話題になった、 安彦良和氏の漫画「トロツキー」も以前に一通り読みましたが、 あの漫画も視点が「偏っている」感じがして、 漫画としてのストーリーは面白かったのですが、 どうもいまいち・・というところです。 井沢先生は、いわゆる「昭和一ケタ世代」に戦争への感情的な反発があると 指摘されていましたが、確かにその傾向はあると思います。 例外で有名なのは石原慎太郎さんくらいでしょうか・・。 Time : 2001/ 2/28(水) 21:50:32
Name : パンダ E-mail : Title : あれ! NHKで。。。 Comments: パンダです。なかのさんへ。。。 過去ログが消えてしまったので、どんなご意見だったか。。。 残念ながら分からなくなってしまいました(笑い) 何せ。。。贅六はせっかちなもんで、勝手に終結してしまってスミ マセンでした。 ところで。。。たまたまNHKで「関ヶ原」と「北政所」について 放映されていましたネ。こういった家族的歴史解釈も一つの切り口 でしょうが。。。チョット感傷的で、何とか言う女流作家に迎合し てベタベタし過ぎているような印象でした(笑い) Time : 2001/ 2/28(水) 23:49:47