Name    : パンダ
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Title   : 平城天皇と怨霊。。。
Comments: 
パンダです。平安遷都からは離れますが。。。

藤原薬子の乱。。。平城天皇(安殿親王)は弟である伊予親王とその生母
を服毒自殺に追い込みました(実質的に死刑です)が、その後嵯峨天皇に
譲位し太上天皇となった後、復権を目指し寵妃薬子の勧めにより810年平城
還都をはかります。
しかし、薬子の兄仲成(種継の子)が宮中で射殺されたことで、これに失
敗し皇太子である高岳親王は廃立された(後にインドに赴こうとして東南
アジアで客死?)のですね。。。

平城天皇は。。。桓武天皇が早良怨霊から護ろうと心を砕いた張本人なの
ですが、その本人が敢えて伊予親王を毒殺した。。。一体彼は伊予親王親
子の怨霊化を畏れなかったのでしょうか?

また、桓武が風水説によって早良怨霊から逃れるために長岡京を放棄して
まで遷都した(?)平安京を、あっさり放棄して平城京に還都しようとし
たのは一体何なのでしょう。。。彼は平安京が風水説による怨霊防御都市
であることをどの程度認識していたのでしょう?

みなさんは、どのようにお考えですか。。。。。

Time    : 2000/12/ 1(金) 00:34:19

Name : 前図書頭 E-mail : Title : 平城帝ですが…>パンダさんへ Comments: 平城帝はなかなかユニークな人物ですよね。何と言っても前例重視の時代にあって、意欲的な地方行政の引 き締め、官司の統廃合、行事の停廃と行財政改革を断行した人物です。国司の専横不正を見過ごし、中央に よる地方官統制を諦めた(勘解由使の設置がそれです。また、桓武帝は国司の非法も一定範囲内ならば罪し ないという前代未聞の命令を出しています)いわば父帝とは逆の発想を持った人物です。(勘解由使は平城 帝の即位直後に廃止されたらしい…)彼のポリシーは合理主義…というより父の政策の否定にあったのでは ないかと感じます。また、公卿補任を見ると、桓武帝の頃に比べ平城帝の時代の公卿に非藤原系が目立つ事 も、気になります。さらに勘解由使に代わって設置された、いわば平城のオリジナル官職・観察使は『薬子 の乱』の際の上皇派の巣窟でした。  平城帝は父の業績や信じたものを叩き壊す事に熱意を燃やしていたのかも知れません。参考までに…。  なお、私は現代の日本史の中での平城帝の評価について納得がいきません。父帝のある意味で場当たりな 政治方針とは違う、律令再建への信念が感じられるからです。(私の考える限り)平城帝の地方行政刷新政 策は上手く行っていた訳ですし。 Time : 2000/12/ 1(金) 01:29:57
Name : パンダ E-mail : Title : 平城天皇の政治・宗教思想。。。 Comments: パンダです。前図書頭さん(はじめまして?)へ。。。 平城天皇の政治思想や実績については、おっしゃるとおり再評価すべき ものがあるかも知れません。 心情的にも、桓武に対するコンプレックスや薬子との不倫を咎められた 反感もあったかも知れませんが。。。。 ただ、私がここで言っているのは、彼の宗教思想。。。特に怨霊信仰な のです。もしも彼が桓武の怨霊信仰までも否定し、叩き壊そうとしたの ならば、少なくともこの当時の支配階級において、怨霊信仰は必ずしも 宗教的普遍性を持っていなかった。。。という見方も出来るのではない でしょうか? 特に桓武が平安遷都を決定した主動機が、怨霊信仰に由来するものであ り、それが平城天皇を含めた当時の支配階級の普遍的宗教思想であった のならば。。。その当事者である平城(安殿)天皇が、遙かに怨霊に対 して無防備な筈の平城京還都を計画するのは、どう考えても不自然では ないだろうか。。。と思うのですね。 これを嵯峨の政治的拠点である平安京に対抗するため(桓武の怨霊信仰 など所詮は老父の世迷いごとで自分の知ったことではない)。。。とい う政治優先的判断だとすれば、彼の計画は非常に理解しやすいものとな るのですが。。。いかがでしょうか? Time : 2000/12/ 1(金) 12:35:21
Name : 空転 E-mail : Title : それって「方違え」じゃあないかしらん? Comments: 高橋克彦さんの本で平城天皇が「夢見がわるい」と「体調不良」によって 寝所住まいを二年で5回も変えている、ってのを読んで、(まあ、これが無くとも) 多分「方違え」かなあと思いました。 これって、ある意味、お金持ちにしかできないような..。 けっこう面倒くさいので(キーボードで書くのが大変なんです。遅いんです。 説明も面倒なんです。)書かないでいっかあ、と思いましたが風水にはこんなの もあるんですよ〜、という意味で。(笑)(厳密には風水だけではない気が..。) 方位よけっていうと金神とか羅ごうとかがあるんですが、これが毎年違う。 (大体9年おき。9は陰陽数の最大)それと、生まれによっても違う。 当時に納音は無かったとは思いますが、とにかく家で例えると ある人には良い家(土地)でも、違う人には悪い場合がある。逆に 違う人には悪い家(土地)でも、ある人には良いの場合がある、ってことです。 これの判断はいろいろあって、一概に言えないんです。(ある意味、 どうとでもとれるってことですけど) 方位よけって、家のじゃなくて、その人の(が住む家の)方位よけの場合もあるんですよ。 ちなみにこの思想(?)には密教の宿曜道がおおきく影響してると言われて おります。そしてこの宿曜道を本格的に持ち込んだのは空海なんですね。 つまり、ちょっと後からはいってきた思想になるんですね。 そういやあ、平城帝ってこの時代の人ですよねえ。 (ちなみに道鏡も宿曜呪法を用いたって言われてます。ま、密教は空海以前か ら日本にありましたので、本格的に用いたのは空海からだそうで..。) でも大変そうですよねえ、いちいち鞍替えなんて。 そこで、京都はその他の邪からも守れるように装置を施された、と。 この辺は「日本の呪い」とか歴史読本「日本の魔界」なんかで詳しいです。 そういやあ、伊予親王は御霊神社の祭神ですよね。 八所御霊の一柱。これは清和天皇がお祭りしたんでしたか。 少なくとも この時代には「怨霊」だったんですねえ。(笑) ちなみに藤原道長の「方違え」を小松和彦さんがその日記から紹介しています。 日記にはけっこう多くの呪術が記されている、と。 当時の大政治家もナイーブだったんですねえ。(笑) 確か「怨霊論」だったと思いますが、説明体系が陰陽道的から密教的に変化する 過程を考察なさってました。方違えの陰陽道の考えに、密教が結びつく様子とか..。 枕草子での憑霊退治(?)が式神ではなく護法童子にかわった所とか。 そういやあ、方違えは20年位前までは見られましたようで。 引っ越しの折り、良い方角になるよう、まず別の所に引っ越したり..。 今はやる人いないだろうなあ。 風邪が抜けず、大変な目にあっております。みなさまもお気を付けて下さい。 (笑) Time : 2000/12/ 2(土) 02:51:24
Name : 空転 E-mail : Title : でもふと思い出したんですが Comments: 空海の入京は809年の7月だそうで。 となると、いぜんの5度の方違えには宿曜道の方位避けの影響はなし、 陰陽道の方違え、になりますか。 Time : 2000/12/ 2(土) 03:16:47
Name : パンダ E-mail : Title : 怨霊生産努力。。。? Comments: パンダです。空転さんへ。。。 「方違え」まで動員されますか。。。(笑い) でも、これは基本的には「年忌のベクトル・タブー」でしょうから。。。 還都と結びつけるのは、チョットしんどいような気がしませんか? (せいぜいが離宮レベルで処理出来る問題ですから、早良怨霊からの完全 防御を計ってワザワザ遷都した平安京から、脱出還都するのでしょうか?) 清和天皇が貞観5年(863)に初めて御霊会を行ったとき、平安初期の怨霊 紳士淑女は。。。早良親王・伊予親王・藤原宮子・橘逸勢・文屋宮田麻呂 ・(藤原仲成も?)があげられますね。 伊予親王・藤原宮子は既にいったとおり、酷い処遇ですし。。。 橘逸勢は、橘奈良麻呂の孫として生まれ、空海等とともに入唐し橘秀才と称 された才人ですが、承和7年(840)嵯峨太上天皇が重態におちいった時に、 皇太子恒貞親王の擁立にからんで、伴健岑・文屋秋津との共謀容疑で捕縛さ れ、伊豆配流の途中拷問がもとで病死したものです。(淳和天皇の子恒貞親 王は廃立され、仁明天皇の子道康親王=文徳天皇が立太子された) また文屋宮田麻呂は、この事件の余波で承和10年(843)伊豆に配流され、 配所で死亡したものですね。 何れも実質的には冤罪による毒殺拷問など刑死に近いもので、怨霊化しても 当然だと思いますが。。。ワザワザ怨霊生産に励んでいるような(笑い) Time : 2000/12/ 2(土) 10:56:13
Name : 空転 E-mail : Title : まさに動員ですなあ。 Comments: でも、ま、方違えは風水の神髄ですけどねえ、日本じゃあ。 信じてる人には大切でしょう、きっと。 私には戒律の重要性なんてわかんないように。(笑) そう言う言い方なら「怨霊」もかなり動員かな。(笑) そういえば、橘奈良麻呂の子孫が阿倍清明って説(?)もあるなあ。 どっからきたのかわかんないけど。 思いっきりウソくさい。けど、信だの狐よりましかな。 ちなみに、風水の本はけっこう読んでるし、やっすい羅盤ももってますが 私は利用したことがないんですよねえ。(笑) Time : 2000/12/ 2(土) 11:25:08
Name : パンダ E-mail : Title : 「正規軍」の廃止。。。? Comments: パンダです。続いて軍制についてですが。。。 「桓武天皇は、日本史どころか世界史においても、極めて珍しい、おそらく 空前絶後の政策を実行した。それはなんと「正規軍」の廃止なのである。」 UーP231 これは本当なのでしょうか? 律令制度における「正規軍」は地方「軍団」 と、そこから選抜された中央「衛府」とからなっています。「衛府」はさ まざまに改編されていますが、基本的には近衛府(郡司の子弟で構成)と 衛士府(庶民で構成)からなるもので、桓武はこの「正規軍」を廃止など していません。 確かに辺境を除いて「軍団」は廃止され「健児」のみとなりましたが、こ れは元々唐の軍制に由来する制度で、733年に聖武により精鋭300人を指名、 738年に廃止されたが、762年に淳仁により一部再編され、さらに桓武によ って792年「軍団」廃止後の「地方正規軍」兵制とされたものです。 従ってこの決定は、「地方常備軍」を役立たずの庶民編成から、精鋭幹部 編成に組み替えたというべきものです。 (もともと「健」には「兵」という意味がありますよね?) 「常備軍」に関しては、以前にも若干触れましたので。。。 Title : 「常備軍」は必要とされたか? Time : 2000/ 8/24(木) 22:23:47 繰り返しませんが、日本の様な地政的環境にある古代国家においては、庶 民徴兵制による「常備軍」などは、財政的にも軍事的にも、百害あって一 利もない存在であり、世界史においても桓武の決定は、むしろ常識的措置 といえるではないでしょうか? なお、「軍団廃止」は「徴兵権」の放棄などではなく、あくまでも無駄な 「地方常備軍」の「停止」であり、法制的には外敵の侵入や外征計画があ れば、直ちに「健児」を中核として「庶民徴兵権」が施行され、臨時「軍 団」が編成されうるものであったのは明らかです。 (刀伊来寇に際しても、太宰府の動員令によって編成された防衛軍は、当 然「正規軍」ですし、その他日本海沿岸地帯に一種の動員令が下されてい ます。) 現に蝦夷征討作戦は、「軍団廃止」によって兵器類を征討軍に集中し、精 鋭部隊を編制したことによって成功したともいえるのですから、桓武の決 断は軍事的にも正しかったといえるでしょう。 ただ、平安中期以降。。。実質的に律令国家制度が崩壊し、「健児」兵制 もそれにともなって消滅、後世武士と呼ばれる地方豪族中心に臨時編成さ れますが、当然ながらこれも「正規軍」ですね。 井沢さんは基本的に古代国家の兵制を、近代国家の兵制と混同誤解してお られるのではないでしょうか? Time : 2000/12/ 2(土) 11:58:35
Name : パンダ E-mail : Title : 「蝦夷征討」の意味。。。 Comments: パンダです。ついでに桓武の蝦夷征討ですが。。。 「『平和主義者』にして、『軍備の撤廃』という世界史上空前絶後の決断 を下した桓武が、なぜ蝦夷だけは執拗に『征伐』したのか? いくら『合 理的』に考えても、この謎は解けない。そもそも一方で『平和』を推進し、 もう一方で『戦争』をするなどという行為は矛盾しているからだ。」 UーP238 失礼ながらここにいたれば、オヤオヤ。。。というしかありませんね。 桓武は絶対に平和主義者などではありません。平安京という命名は天皇家 のもとでの「平安楽土」という理想を掲げたものであって、天皇家に反抗 するものは苛酷な討伐がある。。いうならば「パックスミカド」なのです。 で。。。「軍備の撤廃」については、既に前回いったとおりです。 チャイナが兵員を大幅に縮少し、装備の近代化と兵員の精鋭化を進めてい るとき、兵員の縮小のみをとらえ、これを「平和主義」と考える人は軍事 について語る資格はありません。いうならばこれと同じことでしょう。 従って、ここには解くべき謎などありませんね。。。天皇家の権威を高め、 繁栄を図るという極めて「合理的」な国家経営に努める古代王者の姿その ものでしょう。(それが成功したかどうかは別問題ですが。。。) まさに井沢さんが述べられている宝亀11年(780)の反乱によって、参議 按察使という大臣クラスの人間が殺害され、国家の東北経営は破綻し、父 光仁は退位を決意する。。。天皇家の権威は地に落ちたのです。これを放 置しておけば隼人は愚か地方豪族の反逆が相次ぐことも充分有り得ます。 (多くのチャイナ王朝が、これによって滅亡しているのも周知の事実です) ウシトラ(鬼門)であろうが、ヒツジサルであろうが、天皇家に反抗した ものは征伐せねばならない。失墜した天皇家の権威は武力によって修復せ ねばならない。。。桓武の決意の一体何処に謎があるというのでしょうか? (遷都と征討を同時に進めるという財政的無理があったのは、事実でしょ うが、彼にとっては天武系天皇のもとで着着と進められていた東北経営が 、光仁時代に破綻したということ自体が、許すべからざることだったでし ょう。。。かれの戦後措置の苛酷さも、これに由来すると思います) Time : 2000/12/ 2(土) 21:27:39
Name : Ponya E-mail : Title : 蓬莱国 Comments: Ponyaです。 しばらく読んでなかったら、すごい書きこみ量ですね〜 ## haruo-ieさん、こんばんわ。 haruo-ieさんは沖縄人でらっしゃるのですね。今も在住されてるのですか? 海底遺跡のことは、色々な話をけっこう興味をもって読んでおりましたので、 ニライカナイ信仰(これは聞きかじった程度ですが)なにか関連性を感じさ せるものだと思っておりました。 邪馬台国はちょっとわからないんですが、そういえば支那国の伝説の「蓬莱国」 の正体を古代沖縄列島であるとする説、さらにそれが伝説の「ムー」であると いう、無責任に想像して楽しむぶんにはちょうど良い説を聞いたことがあって 本当だったら傑作だと面白がってました。 このへんも海底遺跡の分析が進めば、いろいろ楽しめそうですよね。 Time : 2000/12/ 3(日) 00:59:52
Name : パンダ E-mail : Title : 「唐」の「府兵制」崩壊と「軍団」廃止。。。 Comments: パンダです。桓武の「軍団」廃止に関しての補足です。。。 奈良時代・平安初期のいわゆる律令国家体制が、概ね「唐」の制度を採り いれたものであることは、あまり異論がないところだと思います。 では「唐」の軍制は、どのようなものであり、どう変化したのか。。。 「唐」建国(618年)当時の「軍制」は、魏・周・隋の制度を発展させた 庶民徴兵制度で、「府兵制」と呼ばれていました。これは全国に600余り の折衝府を設けて壮丁の中から3年期限の府兵を徴集し、輪番で衛士とし て国都や辺境に配置したものです。 しかし、この制度は均田法の崩壊とともに実体を失っていきます。。。 武葦の禍(690−710)時代には、ほとんど有名無実に近いものとなって いました。(日本でいえば概ね文武から元明の時代です) これを建て直したのが玄宗(712-756年)で、「府兵制」を廃止し「募 兵制=傭兵」と辺境における藩鎮(節度使)制度に切り替えました。 しかし、この制度は節度使の自立を招き、安史の乱(755−763年)に いたります。(概ね称徳の時代です) その鎮圧後は国内にも藩鎮(節度使)が置かれるなど、「募兵制=傭兵」 が中心であり、「府兵制」が復活することはなかったのです。 桓武もこのような状況を把握していましたから、当然「軍団制」の限界 を承知していましたし、節度使のような地方軍事集団の自立を警戒して いたと思います。。。これが「軍団廃止」と「健児」につながり、中央 軍事官僚による臨時編成軍制となったのではないでしょうか? Time : 2000/12/ 3(日) 11:44:47
Name : HIRO E-mail : Title : ムー大陸。 Comments: 沖縄=ムー大陸説って、「Newton」の編集長の竹内均氏が有名ですね。 チャーチワードの話に出てくる記録や文字が似ている…とかいう話でした。 「ツガル外三郡誌」にハマッた古田武彦氏もそうですが、評判は悪いみたいです。 個人的には、「いわゆる『異書異伝』にも基となった伝承があったはず。」という スタンスは評価していいと思うんですけどねぇ…。 Time : 2000/12/ 3(日) 17:43:18
Name : Ponya E-mail : Title : 長岡京と平安京それぞれの遷都 Comments: 全然レスが追い付いてませんが…。 長岡京、平安京、どちらも遷都する側からだけ考えて見落としがちなんですが こういう大事業では財政的にも政治的にも「宮都を誘致する側の勢力」の影響 も見落とせない存在だと思います。 長岡京の鬼門封じの件でパンダさんに例示していただいた伏見稲荷方面で思い 出したのですが、この時期、長岡方面から葛野方面一帯に大きな勢力を誇って いたのが当時の新興勢力である秦氏ですね。長岡京造営使長官だった藤原種継 には祖父であった秦朝元というパトロンが、平安京では和気清麻呂とともに造 営使長官になった藤原小黒麻呂には義父の秦忌寸島麻呂が、やはり単なるパト ロン以上の大きな協力体制をとっているのは、偶然でしょうか? 私はどちらかというと誘致する側のお膳立てによってそれぞれの遷都計画が 立てられた側面もあるのでは?と思っています。 まず誘致する側にとっては、長岡京遷都も平安京遷都も同じ計画の延長に過ぎず、 長岡京が失敗したので今度は失敗しにくい平安京をと画策した面があるのでは? 長岡京が軌道にのる前に造営使の種継が暗殺されたことで失敗に終わらなければ 平安京遷都はなかったかもしれない。などとも思います。 その際の説得材料としては、当時流行していた陰陽道や怨霊新興が相当に活躍 しただろうと思いますが…。どちらが副次的な要因かは結局わかりませんよね。 立場が替わればそれぞれに動機があるでしょうから、そのすべてが渾然一体の 要因となって成立した事業だと思いますから、別々の説として論じることは出来 ないものだと思うのです。どっちが白とか黒とか決着つけずに、このような側面 があった、こういう事情もあったと、そんな感じで良いんじゃないでしょうかねぇ …われわれ素人の歴史好きとしては。(そんなのは歴史学ではありませんが…) Time : 2000/12/ 3(日) 21:01:15
Name : とんぼ E-mail : Title : 両校優勝 Comments: 知らなかったのですが、 高校サッカー選手権の両校優勝が今年からなくなるそうです。 Vゴール方式の延長戦で決着がつかない場合は、 PK戦をするようです。 両校優勝は、井沢先生が無意味と言っていた制度ですが、 日本人のメンタリティーも少しずつ変化してきているのかも 知れませんね。 Time : 2000/12/ 3(日) 23:03:58
Name : パンダ E-mail : Title : 秦氏と遷都。。。 Comments: パンダです。ponyaさん(レスありがとうございます)へ。。。 >>財政的にも政治的にも「宮都を誘致する側の勢力」の影響も見落とせな >>い存在だと思います。 おっしゃるとおりで、長岡京放棄の原因のひとつとして、従来から種継と 秦氏の協力関係に支障が生じたという理由が論じられています。 (長岡京から平安京へ遷都された理由 UーP175) 秦氏は太秦(蜂岡)広隆寺建立との関係が伝承されているように、聖徳太 子時代から京都盆地北部の開発をつうじ、経済的地位を高めてきたようで すね。(山背大兄の養育氏族であった可能性もあります) 一方藤原氏は、山科方面へ勢力を伸ばしていましたから、この辺に両者の 接近の契機が見られると思います。 ご指摘の秦忌寸島麻呂は、恭仁京造営の功績で従四位下に叙せられた人物 ですが、縁戚に葛野麻呂もいるところからも、山背北部にも勢力をもって いたと思われます。また平安京造営についても秦忌寸都岐麻呂が小工とし て、外従五位下となっています。ただ。。。 >>長岡京が軌道にのる前に造営使の種継が暗殺されたことで失敗に終わら >>なければ平安京遷都はなかったかもしれない。などとも思います。 これについては、785年 9.24 藤原種継射殺以降も792年までは、さほど の支障なく長岡京の造営が行われていたことが、遺跡発掘等により確認 されたことで、あまり重視する学者はいなくなりました。 (秦足長が784年に外五位下に叙されていること等から、秦氏が長岡京造 営に強力したことは、間違いないところですが。。。) 何れにしても、秦氏が山背遷都に協力したことは確かなのですが、長岡京 から平安京への遷都の理由にはなり難いところでしょう。 なお神皇正統記の桓武条には、次のような聖徳太子と平安京に関する記述 があり、 「山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。 山背の国をもあらためて山城と云。永代にかはるまじくなんはからはせ給 ける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給て(太秦これなり)いまの城を見めぐら して、『四神相応の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじ き所なり。』とのたまひけるとぞ申し伝たる。その年紀もたがはず、又数 十代不易の都と也ぬる。誠に王気相応の福地たるにや。」 時代ははるかに隔たりますが。。。中央貴族の平安遷都に関する「四神相 応」と「聖徳太子(秦氏)」に関する伝承が窺えます。 要するに、平安遷都の主要理由としては。。。井沢さんがほとんど絶対的 と主張されている「怨霊動機説」以外にも、高田氏が論証されたような、 さまざまな理由がありうるのであって、現段階ではその成立の蓋然性は、 相対的なものに過ぎない。。。判断は各々の健全な知性による。。。とい うことだと思うのですよね。 Time : 2000/12/ 3(日) 23:24:49
Name : 空転 E-mail : Title : 同感ですねえ。 Comments: たとえば、ほんの60年前のこと。 「ビルマをてこにイギリスの屈服を謀る」 これが大本営の基本的な方針でした。 これは現代の知性でも充分理解できるんです。(...って、ほんとは理解できないけど。) だけどですね、この目的の為、行われたインパール作戦。 これを現代の知性に合わせてはとても理解不能なんです。間違い無く当時の精神性が反映してる。 つまり、現代の常識では理解不能なんです。だって「補給の困難を理由に撤退を 求めることは理解できない」なんてそれ自体理解できないでしょ。 だけど、当時は当たり前。牟田口が副官に言った言葉。 「弾が無くとも、食料がなくとも戦うのが皇軍である。」 物質的力を軽視して、精神力を重視する。 「竹やりでも気持ちを込めれば戦車に勝てる」ほんとかい? でも、当時はこうだったんです。現代の感覚では語れない。 そして、こういう軍隊が真珠湾攻撃を企図したんです。この攻撃に対する 合理的な判断は物凄いものでした。なにせ、ひとかっぷ湾を出航した 第一機動部隊の目的を知ってる者は戦隊司令官クラスのみだったんですから。 (それだけじゃない、慎重に慎重を期した。いろんな面で) そこまで情報を秘匿した。もちろん、まだ外交交渉が継続中で漏れたらたいへんだから ってのが当たり前な答えですが、そう言う軍隊が(つまり情報の秘匿の重要性 が分かってる軍隊が)戦争が始まったとたんに情報管理をないがしろにする。 ほんとに不思議な軍隊です、日本軍って。 ちなみに「アメリカ陸軍大平洋方面情報部」が日本軍の報告書を創ってるんですが その中で「日本軍はある信仰を持っている」と結論ずけています。 それを「2600年間、信仰した天皇」としてるのは仕方ないところですが..。 (2600年ってのは皇紀だから。) つまり、「西洋合理主義では理解不能」と結論を出してるんです。 (実は結構ばかにした記述もあるんですが..。) やっぱ、こういうもんですよね。 大本営の方針「ビルマをてこにイギリスの屈服をはかる」という合理性。 その為に行われたインパールでは 「弾が無くとも、食料がなくとも戦うのが皇軍」という精神信仰。 「天佑神助により一挙、敵を撃滅せんとす」 真珠湾とインパールが同じ時代にあるのが日本なんだ、と思いました。 戦国史研究の第一人者、小和田哲男さんがその著書で まえがきで「日本に、呪術が歴史を動かした時代があったことを浮き彫りに したい」と述べたが、戦国武将の、今までみえなかった別の顔が見えてきた のではないかと考えている。 と、綴っているのが印象的でした。 現代でも解る合理性と当時にしか解らない合理性。 この二つがあり、どっちにウエイトをおいても結局は片手落ちなんですかねえ。 う〜ん、長い!!(笑) ちなみに 秦氏と渡来人の呪術の関係を高橋克彦さんが書いてましたねえ。 小説にも出てたかな。たしか「あお夜叉」。(笑) Time : 2000/12/ 4(月) 01:59:48
Name : パンダ E-mail : Title : 戦死の不合理。。。 Comments: パンダです。空転さんへ。。。戦史にはまったくの素人の不遜な意見ですが 。。。 21号作戦。。。近代戦に不可欠な補給をまったく無視し、参加兵員約8万5千 のうち約3万の戦死。。。の愚劣さ、不合理さを否定するつもりは全くあり ません。 しかし時間稼ぎのためにドイツ機甲師団の砲火に曝され続けた、50万以上の ソ連将兵は、その愚劣さ、不合理さを思わなかったでしょうか? スターリングラードの絶望的冷蔵庫の中で、名誉ある死を選ぶことを命じら れた33万のドイツ将兵は ? 大西遷における30万の戦死者は ? なすすべもなく、砂漠に埋められたイラ ク将兵は ? 戦死。。。特に大量敗戦死とは、何らかの意味で。。。戦争指導者の愚劣さ、 不合理さの結果だといってしまっては、言い過ぎなのでしょうか? Time : 2000/12/ 4(月) 23:34:08
Name : Ponya E-mail : Title : 続・秦氏と遷都 Comments: パンダさん。詳細なコメントをありがとうございます。 >何れにしても、秦氏が山背遷都に協力したことは確かなのですが、長岡京 >から平安京への遷都の理由にはなり難いところでしょう。 私は、秦氏にすれば藤原氏に取り入り、遷都の理由を積極的に作り出してでも 誘致を求めたのかもしれないと想像しています。 このへんは難しいですね。たとえば、長岡京を放棄した理由を主に水害などの 環境説に求めたとしましょう。それならば、当然次の候補地は長岡京のような 立地条件ではない場所を選ばれることになります。具体的にいえば灌漑や耕地 のやり易い土地か、既に灌漑耕地がなされた「開けた土地」になるでしょう。 その意味で葛野の地は既に秦氏の技術と努力によって既に開けた土地であった ということになりますね。 ここで秦氏一族は平安京が営まれた大部分の土地の所有者であったわけですが、 ではこの土地は秦氏の協力によって寄付されたものなのか強制収用されたもの なのか、どちらでしょう? 寄付だとすればこれは大きな協力がなされたことになり、財政困難なおりに 秦氏のこれらの協力がなければ平安遷都は不可能だったのではないでしょうか? また、強制収用されたものだとすれば…。 遷都にともなって移り住む人たちが居住するために必要な食料や燃料などの供給 については秦一族の積極的な協力がなければ難しいと思われますが、強制収用に 対してこれらの協力が積極的に行われたでしょうか? どちらにしても、宮都を営む側と誘致する側と両者の意向が一致してはじめて 建設がはじまるのですから、その地に住む氏族の動向が大きく影響を与えたと 考えるのが自然ではないでしょうか? Time : 2000/12/ 5(火) 01:07:23
Name : haruo-ie E-mail : Title : 葛野は強制収用か? Comments: Ponyaさん、haruo-ieです。 沖縄〈伊江島)に在住しています。 秦氏が積極的に誘致したのは今でいう政治献金みたいなものではないでしょうか? 都市(公共施設)の部分は寄付して残りの大部分は遷都にともなう移動してくる人 達に売る(不動産屋のはじまりかも?) 何の効果も期待しないわけはないものね。(今も昔もかわらない真実だと思います) 遷都の原因のひとつかも?と思いました。 Time : 2000/12/ 5(火) 07:34:35
Name : 空転 E-mail : Title : もちろんそうですよね。 Comments: ある意味、戦争ってシステムの戦いでもあるんです。 ちなみにスターリンはもっと、すごいこともしてます。 焦土作戦。これもメチャクチャです。 でも、これらのことですべてを解り易い結論に結ぶことはできないかなあ と思います。最近、スターリンの軍事的評価が再認識されていますが (これも、イデオロギーの勝利(ソ連崩壊)にちょっと関係してるかも。) まあ、別に悪いこと、ばっかじゃないから。(T-35問題とか) それにスターリンは 長期的展望はありました。 「...それ(スターリン)に対し、日本の指導者たちはいつも目先のことしか考えていませんでした。 ....ただ、感情に任せて戦う。」 「...上層部に長期的展望がないのです。」 こう、欧米の研究者(アルビン・クックス)は見ています。 なんか、今の政治家に似てません?(笑) あとちょっとですが、ドイツ軍のスターリングラードやレニングラードは システムの崩壊ですよね。最初っから「補給なしでもいける」とした 作戦ではないです。そういえば以前、アリューシャンからの撤退とガダルカナルとを 同列で比較している書き込みを見ましたが、これも違うんじゃあと思います。 でも、まあ、あの時は別の話が中心だったので、ウンチク(?)たれても 邪魔するだけかな、と思い、書きませんでした。 なんか、こう、思うんですよね。 当時、枢軸側のエンジン、ってのがあったんですよ。 それはダイムラー・ベンツDB601。(ドイツ製) これこそが、ドイツ、イタリアそして日本で名戦闘機を生んだ『心臓』でした。 ドイツでは主力戦闘機「メッサーシュミットBFー109」(後、数々の進化を遂げる) イタリアでは「マッキCー202」(敗戦後もドイツが生産) そして日本では「キ61 飛燕」(言わずと知れた陸軍の名機) いずれも、名戦闘機ですよね。外観も「ソックリ!!」と私は思うんですが オタクくんに言わせると「違うじゃん!」ということらしいです。(笑) でも、性能には明らかな違いがあります。面倒なので簡単に言うと ドイツBF-109は重戦闘機。(この場合は一撃離脱を主戦法とする、と言う意味。) (本来、重戦ってのは対爆撃機用で高速、重装甲、重武装を求められる。) イタリア、マッキC202は軽戦闘機。(俊敏な軽快性、上昇急降下性能。ゼロ戦がこれ。) そして日本、飛燕は中戦闘機。(つまり、重軽、両方をこなす。当時は難しかった) ちなみに「飛燕」が一番高性能と思うんですが、日本人のひいきめでしょうか。(笑) つまり、ですね。 同じエンジンを持っていてもこれだけ性能、特質の差がある。 もちろん、いろんな理由からくるのでしょうが、その理由をさぐること この「違い」こそを見つけることが大切なんじゃないかなあ、と思います。 「武装もそう代わり映え、しないじゃん。」「大きさだって大差ないし」 「見た目もおんなじだし」「だいたいエンジンがおんなじじゃん。」 こう言ったら、なんでも同じに見えます。当時の主力戦車なんかみんな同じ じゃあ、ないかしらん。(おおげさ) ちなみに特攻は日本軍だけじゃあ、ありませんでした。 イタリアにも震洋はあったし、第一次大戦でも特別攻撃隊が編成されてます。 アメリカでもソロモン戦では特攻行為を見ることができます。翔鶴には二機が 突っ込んだらしいんです。 これだから「日本軍の特攻行為なんて別に珍しく無い」とは、やっぱり言えない ようにはおもいますよねえ。(笑) Time : 2000/12/ 5(火) 09:02:26
Name : 空転 E-mail : Title : ..おっと、 Comments: ..また、邪魔しそうなので、もう終わりにしたいと思います。 みなさんにもパンダさんにも失礼しました。 もう、こないことになりそうですが。 さっき、ちょっと書き忘れましたが 根本的にソ連でも、最初っから「補給なしでも戦える」とはしてませんよね。 欧米はもちろん、ですが。 バルバロッサでもチタデレでもレニングラードでも戦線の崩壊によって 補給システムが壊れ、また壊乱して孤立する。 そ-いえば、もりやじゅんさんが「アドルフ・ヒトラー 政略編」の中で バルバロッサの時の中央軍集団のキエフ攻略の正統性を書いてたなあ。 ヒトラーの判断は正しい、って。 う〜ん、どう見てもひいきのひきたおし(?)じゃあ、ないかしらん。 グーデリアンの主張(モスクワ攻略)の方がどう考えても理にかなう。 でも、ま、「..あえて主張させてもらうが」ってな感じだったんで、ほんとに 「あえて」だったんでしょう。(笑) Time : 2000/12/ 5(火) 09:31:39
Name : パンダ E-mail : Title : 土地収容。。。 Comments: パンダです。空転さん、戦史についてはいろいろ勉強になりますので、ま た機会があればご教授願います。 haruo-ieさん、Ponyaさんへ。。。 基本的にいうと、当時は建前としては「公地公民」ですから、土地はほと んど無条件に強制収用され得たのではないでしょうか。。。 ただ当時の宮都を調べると、藤原京・難波京以外は何らかの意味で、渡来 系住民開発の場所が選定されているのに気がつきます。 つまり、そうはいっても大豪族の本拠地の場合は、当然彼等の既得権との 調整や抵抗があり、先祖の墓地や産土神や祖先神という聖地に対する配慮 も必要となります。また当然彼等の住民に対する影響力が、宮都建設に反 映することも懸念されるでしょう。 それに比して渡来系住民開発地は、もともと大王家から与えられた土地で 公地性が極めて高かったでしょうし、産土神や祖先神に対する配慮もほと んど不必要です。政治への影響力も大豪族とは比較にならなかったでしょ う。(それでも松尾神社や伏見神社への配慮は行われたでしょうが。。。) また、当時の渡来系住民は先進土木技術や、建築技術を持っていた可能性 があり、その技術を歴代の都市建設に利用していたとも考えられます。 しかし、だからといって。。。みなさんがおっしゃるっように、何の対価 も与えないと言うことでは、その積極的協力は得られませんね。 従って官位や栄爵の授与・あるいは産業流通権益、さらには当時のフロン ティアである関東諸地域の開発権(代替地)等も配慮されたのでは無いか と思われます。(例えば秦野市周辺等?) また都市周辺地については、彼等の既得権が認められ不動産利得が生じた のかも知れません。 ただ、奈良・平安初期は一般庶民に対して天皇の専制権力が、かなり強大 に施行された時代です。(関東各地から多数の防人を強制徴兵し、北九州 に配置出来たのです)一方で秦氏が平安初期にそれほど政治的に重用され たり、経済的に優位を占めた形跡はありませんから、彼等の存在を過大評 価するのは如何なものかと思われます。 なお、桓武は生母が百済王族系であり、秦氏とは反新羅感情で同質性があ りますので、彼等渡来系氏族の積極的協力が期待出来た(藤原氏が巧みに 利用した)のかも知れませんが。。。。 何れにしても桓武は旧勢力と決別する意味(都市環境問題もあった)から 平城京脱出を計画した。。。そして当初は、水運面から難波に変わる副都 としての長岡京を選定造営した。。。しかし立地と凶事から、更めてより 適地(都市環境・呪術的にも)である平安京を、平城宮に替わる正都とし て選び、遷都にまでこぎ着けた。。。のではないかと思うのです。 Time : 2000/12/ 5(火) 12:58:55
Name : ゆうこ E-mail : Title : こんにちは Comments: 井沢先生、こんにちは。大ファンなので、書き込んでいます。信長や義満について、ずいぶん考えが変わり ました。もちろん、軍隊や差別についても。いろいろ、今書き込めないくらい、洗脳されましたよ。ところで、 世阿弥は、父親が殺された時、義満に疑われなかったんですかね。普通なら疑うはずなのに、それが不思議 でした。なぜ、それ程世阿弥に入れ込んだんでしょう。藤若の名前も不思議でした。 被差別民ごときに、藤の名を与えるなんて、昔じゃ考えられなかったでしょうに。それを思うと、世阿弥に ものすごく興味が有ります。それはともかく、先生がんばってくださいね。日本が正常な国に戻るまで。負 けないで、教えてください。日本人の誇りを。 Time : 2000/12/ 5(火) 20:25:59
Name : Ponya E-mail : Title : 公地公民の建前 Comments: ## パンダさんへ >基本的にいうと、当時は建前としては「公地公民」ですから、土地はほと >んど無条件に強制収用され得たのではないでしょうか。。。 う〜ん、建前「公地公民」ですか〜。よくわからなくなってきました。 すみません、ちょっと教えていただきたいのですが…。 たしかに土地公有の原則は律令制の根幹であって、建前はずっとそのように なっていたのかもしれませんが、723年制定の三世一身法や743年制定の 墾田永年私財法などは寺社や貴族以外には適用されなかったのでしょうか? このような法が制定されたからこそ灌漑開墾技術をもった秦氏が力を持ち得た のだと思っていたのですが…。 >なお、桓武は生母が百済王族系であり、秦氏とは反新羅感情で同質性があ >りますので、彼等渡来系氏族の積極的協力が期待出来た(藤原氏が巧みに >利用した)のかも知れませんが。。。。 これは可能性が高いと思っております。そもそも秦氏は渡来系とはいえ、 平安遷都当時はもはや新興とは言い難いほどに完全に定着していた氏族だと 思うのです。渡来の時期まで遡れば、あるいは何らかの目的をもって渡来が 行われた可能性まで考えてしまいます。(ぶっとびすぎでしょうか?) Time : 2000/12/ 5(火) 20:29:01
Name : パンダ E-mail : Title : 墾田永世私財法。。。 Comments: パンダです。ゆうこさんへ。。。 >>藤若の名前も不思議でした。被差別民ごときに、藤の名を与えるなんて >>、昔じゃ考えられなかったでしょうに。 何か誤解しておられると思うのですが。。。観阿弥は被差別民ではありま せん。父は伊賀浅宇田の領主である上嶋家の出自であり、母は楠木家の出 身と思われます。世阿弥の母も伊賀小波多の領主竹原家の出身です。 決して貴種とは言えませんが、レッキとした支配階級の一員です。その後 も能楽者が被差別民とされたことはないと思いますが。。。。 Ponyaさんへ。。。何時もすばやく的確なレスを頂きありがとうございます。 >>723年制定の三世一身法や743年制定の墾田永年私財法などは寺社や貴族 >>以外には適用されなかったのでしょうか? 細かいことをいうようですが。。。これらの法律は、土地の私有を認めた ものではなく占有を認めたに過ぎません。土地はあくまで原則公有地です。 (都城における貴族の邸宅などは、私有地的取り扱いがあったようですが) 従って通常の農地などは、都城の設置というような場合、容易に収用され る可能性があったと思われます。 不輸不入の特権が確立して、実質的に私有地となったのは、さらに後世の ことだと思いますが、それでも現在のような絶対的所有権があったわけで はなく、極めて公共性が高いものでしたから、収用自体は容易に行われ得 たと思われます。 なお墾田永年私財法は、占有者の位階によって制限面積がありましたので、 秦氏程度の豪族では、ごく限られた部分の占有しか認められなかったと思 われます。 (ただしあくまで建前ですから、開墾実績によってはかなりの例外があっ たでしょうし、姻族の藤原氏名義にしていたかも知れませんが。。。。) Time : 2000/12/ 5(火) 23:03:30
Name : Ponya E-mail : Title : 秦氏と芸能 Comments: おはようございます。Ponyaです。 パンダさん、たびたび応えていただいてありがとうございます。 ## 墾田永年私財法について なるほど、私はどうも基本的なところで永年私財法について誤解していたよう ですね。『永年私財』という名前から普通に連想すると、現代ではそれこそ 「JAROってなんじゃろ?」という感じですが…。 そういえば私が歴史教科書などで学んだときには「私有法」となっていた記憶 があるのですが、もしかして誤解を呼ぶ可能性から変更されたんでしょうか? ところで和気清麻呂は、かの有名な弓削道鏡の事件の時に八幡神の託宣を利用 して称徳天皇の陰謀(?)を妨げたことで、一次的に大隈国へ流されています。 ここで、長岡京・平安京の造営使であり平安京遷都を直接に進言したとされる 和気清麻呂と、八幡神の信仰勢力であり大隈国一帯にも勢力をもった秦氏との 両者の結びつきも見られるわけですが、このあたりから見ても秦氏の遷都に対 しての積極的な関与が想像されるところです。ただし残念ながら秦氏の関与の 全貌はその証明する資料が無いことからも、どの程度だったのか状況証拠から 想像することしかできませんね。しかし、考えようによってはこういった画策 があっても、政府側の計画のような確かな資料としては残りにくいものであり、 完全にあり得ないとも言えず、やはり想像を許される範囲ではあると思います。 ## 世阿弥について 世阿弥といえばこれまた秦氏との関連があるところですが、これも諸説あって よくわからないですね。 世阿弥の母の出身である伊賀小波多の竹原氏は秦氏系と伝えられていますし、 世阿弥自身、秦河勝の子孫と縁戚関係になっているともいわれています。 そのほかにも、秦氏と芸能者は切っても切れない深い関係が確実にあります。 世阿弥自身が被差別民というのはわかりませんが、芸能者一般が中世以降に 「非農業者」として差別されたことから、秦氏の信仰が「被差別者の信仰」と なっている部分もありますので、そのへんが関係しているのではないですか? ただし、差別といっても中世以降の「職人」と同等の差別ですが…。 Time : 2000/12/ 6(水) 06:01:19
Name : パンダ E-mail : Title : 連想ゲーム。。。 Comments: パンダです。ponyaさんへ。。。 平安遷都ー秦氏とくれば、お次は観世ー秦氏。。。まるで連想ゲームです が、すかさず「秦氏と芸能」と打ち返されたのには参りました。 流石に京のお人は奥が深ぅおすなぁ〜(笑) ついでにといってはなんですが、秦浄足の安部復姓なども何やら胡散臭い ところがありますので、このさい安倍晴明と秦氏も結び付けて(笑)。。。 平安魔界都市をデッチアゲたいところですが。。。 因みにパンダは夙川(蘆屋)の住人。。。安部晴明とは仇敵になるかも? (チョット酔っているみたいですね) Time : 2000/12/ 7(木) 00:16:36
Name : 前図書頭 E-mail : Title : ご無沙汰かつ時流遅れの話ですが Comments: 先日は突然の飛び入り参加。失礼申し上げました。 お久しぶりです。桓武帝と平城帝の「怨霊観」ですが。 思うのですが、桓武帝は「国史の改竄」までやらかして 怨霊封じに走っていましたよね。そこに答えがあるのか もと思います。と、言いますのは、国史改竄が後世に語 り継がれている帝は管見するところ桓武帝ただお一人で あること。(管見の限りにすぎませんが)これが意味する ことは、当時に在っても帝の行為は常軌を逸していたと 考え得るという事です。つまり、群臣の中にあっても、 「やりすぎ」という評価のあったこと。を意味しません か?国史の信憑性(意外と公正な立場であること)を示 すこの逸話ですが、帝の行為の異常性を示す根拠にもな るように思います。 つまり、桓武帝は「パクス天皇」推進の中心人物であり、 地方行政の腐敗に妥協するという現実主義者でありつつ も、怨霊思想に(周囲からやりすぎと思われる程)のめ り込んだ君主であった。しかも遷都を実行し得る権力も 持っていたがゆえに、群臣はそれを止める事がかなわな かった。と、考えられないかと思います。 現実主義者に見える人物の一面に強い神秘思想が隠れて いる事もあるという例の一つとして理解する方法も有る のかも…と考えます。 この件に関しては全くの専門外なのでお恥ずかしい意見 になったかも知れませんが。 Time : 2000/12/ 7(木) 01:58:59
Name : パンダ E-mail : Title : 桓武の国史改竄。。。 Comments: パンダです。前図書頭さんへ。。。 >>思うのですが、桓武帝は「国史の改竄」までやらかして怨霊封じに走っ >>ていましたよね。そこに答えがあるのかもと思います。 「国史編纂」に当たっては、何時・何処の権力者でも出来るだけ自分達に 都合の良いように潤色・脚色を意図するものですが、おっしゃるようにな かなか「改竄」までは出来ませんね。。。。 ところで桓武が「怨霊封じのため国史の改竄」を行ったというのは、具体 的には「続日本紀(?)」の何をさしておられるのでしょうか? >>怨霊思想に(周囲からやりすぎと思われる程)のめり込んだ君主であっ >>た。しかも遷都を実行し得る権力も持っていたがゆえに、群臣はそれを >>止める事がかなわなかった。と、考えられないかと思います。 長岡京から平安京への遷都に、群臣の抵抗感はあったのでしょうか? むしろ造営開始後十年近くたっても完成しない長岡京には、地形的に致命 的な欠陥があり、和気清麻呂のような中立的人物が長岡放棄を奏上したの も、群臣世論を代表したものだったのではないでしょうか? おそらく長岡京の放棄と平安京への移転は(山背遷都を前提とする以上)、 桓武の適切な決断として群臣からも歓迎されたのではないかと思うのです が。。。? (都城造営と蝦夷征討の財政負担を諫言したのは、遷都のはるか後のこと であり、遷都そのものよりも遷都後の装飾的造営についてだと思います) ただし、一部の旧豪族勢力には平城京への郷愁や藤原氏主導の山背遷都そ のものに対する抵抗があり、これが平城天皇によって嵯峨天皇対抗策とし て利用されたかも知れませんが、これはまた別の問題でしょう。。。 Time : 2000/12/ 7(木) 13:09:45
Name : Ponya E-mail : Title : ありがとうございました Comments: ## パンダさんへ 平安魔界都市ですか…(笑)最近流行の安倍晴明像はほとんど超常現象のような 扱いで存在自体が娯楽の域に入っておりますので、取り扱いが難しいですね。 ところで世阿弥の被差別の件は、逆説の日本史8巻に載ってたんですねぇ。 芸能に携わる者は河原者として差別されたと記載されてますが、このへん時代的に 微妙な気もします。またパンダさんの反証材料が増えてしまうかも…(笑…失礼) どうも地元の話題で秦氏関連となりますと、職場が伏見稲荷近辺にありますもので これはもう秦氏に食わせてもらっているようなもんですから、ややムキになって 書込みさせていただきましたが…。(あ、井沢元彦氏にも食わせてもらってますね) あんまり秦氏ばかりだとそろそろ皆さん飽き飽きしてらっしゃると思いますので、 暫らくおとなしくすることにします。お付き合いいただきありがとうございました。 ## 空転さん、もう来られないのですか?? 近現代の戦史は勉強になりました。あまりの無知でレスを付けられませんでしたが、 機会があればぜひまたお聞かせください。 Time : 2000/12/ 8(金) 04:49:06
Name : 僕。 E-mail : Title : 以前、ライトウイングに関して投稿したが、無視され登載されなかったことがある。 Comments: 大河ドラマ「葵」。 徳川三代。 結局、終わってみれば。 徳川秀忠奮闘記。 つまり、今年の大河の主役は、西田(浜ちゃん)敏行だった、ってこと。 それにしても。 「春日の局」といい「葵」といい、徳川家光って、最後は尻切れトンボ。 日本史教科書の取り上げられ方と反して、悲しいキャラクターだなあ。 Time : 2000/12/ 8(金) 19:40:41
Name : 僕。 E-mail : Title : 以前、ライトウイングに関して投稿したが、無視され登載されなかったことがある。 Comments: 大河ドラマ「葵」。 徳川三代。 結局、終わってみれば。 徳川秀忠奮闘記。 つまり、今年の大河の主役は、西田(浜ちゃん)敏行だった、ってこと。 それにしても。 「春日の局」といい「葵」といい、徳川家光って、最後は尻切れトンボ。 日本史教科書の取り上げられ方と反して、悲しいキャラクターだなあ。 Time : 2000/12/ 8(金) 20:18:20
Name : パンダ E-mail : Title : 安部晴明と秦氏。。。 Comments: パンダです。Ponyaさんへ。。。こちらこそありがとうございました。 (それにしても。。。04:49:06 ????) 世阿弥の被差別民説は[巻によるものですか。。。(苦笑) おっしゃるとおり「道々のもの=異能者」については、民衆からの崇敬・ 憧憬あるいはその裏返しの差別が微妙・複雑に存在し、時代的にも変化す るのですが。。。これを一概に「芸能者=河原者=被差別民」とするよう な粗雑な感覚で語られたとすれば、まったく困ってしまいますね(笑)。 もっともこれは必ずしも井沢さんの本意ではないと思いますが、少なくと も ゆうこ さんのコメントを見る限り、多くの一般読者には、そのよう に誤解されかねない記述だったようで。。。。 さて。。。話は変わって、ここで安部晴明と秦氏についての一口話です。 「晴明」は「日落ちれば、青き月なり」と読みます。。。「青き月」とは、 光の弱い月。。。つまりは「弓月」を意味します。 「弓月の君」は言わずと知れた「秦氏」の祖先ですから、これは彼が日の 落ちた闇の世界においては「秦氏」であることを示唆しています。 また「晴明=ハルアキ」は「春秋」と通じるのですが、「秦」は「春秋」 から「日=火=ヒ」を取って合一(?)した文字です。従ってここでも日 (火)なき闇の夜における「秦氏」を示唆しているのです。 さらに「信太」の狐は。。。狐は稲荷明神のお使いですが、稲荷は秦氏と の関係が深い。。。つまりは秦氏の女性を示唆しています。 「信太」は。。。「人はこれ『太』と言う」と解けます。「太秦」の「太」 ですが、これは「秦氏」の首長を意味します。つまりは。。。「信太の狐」 は「秦氏の首長の娘」を示唆しているのです。 で。。。安部晴明は父が秦氏から安部氏に改姓したときのいざこざで、離 別された母(秦氏首長の娘)と幼くして生き別れになったが、父の死後は 母方の秦氏によって養育されその呪術を叩き込まれた。。。その後天分を 見込まれて安部氏の本家筋に引き取られ、身につけた呪術と秦氏の陰から の支援によって、陰陽師として成り上がっていったのであります。 また師の「賀茂忠行」は、もともと葛城を本地とし山背に進出した鴨族の 出自で、山背を開発した秦氏とは深い関係がありましたが、また葛城西麓 の信太周辺にも地縁があったのです。 しかしそれでは神秘性に欠けるので、出生を飾るために師の縁で修行した 「信太の森」にからめ、この様な伝説をデッチアゲタものです。 『恋しくば 尋ねきてみよ和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉』 (ナ〜ンテ。。。笑) Time : 2000/12/ 8(金) 23:30:44
Name : 名無しさん@某国 E-mail : Title : 観阿弥と連歌十徳 Comments: 2chからこんばんは。 割り込んですみません。たまにはまともな書き込みをします。 >芸能に携わる者は河原者として差別された 「逆説の日本史5」だと思いますが、歌詠みには平等があったとかないとかい う井沢さんの記述があったような。すると、「芸能に携わる者は差別された」 という「8」と矛盾しませんかねぇ。 建武の式目に「群飲佚遊の禁」がありましたが、茶会や連歌会はこれをおしの けて、盛んに開催されていました。これは民衆文芸を創造する基盤でもありま す。とくに連歌十徳の思想は、身分の高い低いを論ずることなく、各自の才能 を開化させることが出来ました。 同時代に発展したのが、田楽・猿楽です。市場や祭礼の場で田楽や猿楽がしき りに演じられたのです。北条高時が熱中したとかいう話をひくまでもなく、田 楽猿楽は民衆だけではなく支配階級にも支持されていきました。差別を受けよ うはずもないですね。ここから話題の、観阿弥・世阿弥による猿楽能が生まれ ました。応安7年、ばさら大名らの斡旋で将軍義満が観阿弥の興行に臨席し、 これが両者の運命の出会いになったというわけナリヨ。 Time : 2000/12/ 9(土) 01:56:35
Name : パンダ E-mail : Title : 「万葉集」と「懐風藻」。。。 Comments: パンダです。今度は「万葉集」についてです。。。 「この『復権されていない』『犯罪者』の歌が『万葉集』に、どうして載 せられているのか。。。まして古代では天皇と国家の権威は絶対である。 こんな歌集を出そうとしたら、ただちに処罰されるはずだ。そして歌集の 方は焚書の処分を受けるだろう。日本以外の国なら、必ずそうなる。」 U-P334 「桓武はなぜ、種継事件に『連座』した家持らの罪を許し名誉を回復させ たのか。怨霊を恐れてである。だとしたらその家持が撰者である『万葉集』 の公刊(?)もその目的に添ったものだと考えればいい。」 U-P337 「万葉集」と双璧をなす詩集に「懐風藻」があります。751年頃の成立で編 者は淡海三船(大友皇子の曾孫 722〜785年)等ともいわれています。 文武天皇・大友皇子・大津皇子・長屋王等の64名120首の漢詩を収録したも のです。 例えば。。。大津皇子の五言臨終一絶(686年)。 「金鳥西舎に臨み、鼓声短命を催す、泉路賓主の無く、此夕誰か家向せん」 まさに井沢さんのおっしゃる「犯罪者」の「刑死」に際しての作品です。 もちろんほぼ同時代の文学作品集ですから、漢詩・和歌という差はあっても 「懐風藻」「万葉集」ともに同思想によるものだと言うこことも出来るかも 知れませんが。。。本当にこれは世界の常識では有り得ない「反政府詩集」 なのでしょうか? (もっとも「懐風藻」は、孝謙天皇(聖武在世)時代の成立ですし、淡海三 船は大伴家持とは異なり、如何なる意味でも犯罪者ではありません。天皇家 が淡海三船の怨霊を恐れるいわれは全くありませんね。。。?) ところで、これと瓜二つの臨終詩を、李朝時代に端宗六臣の一人成三問が刑 場で読んでいます。 「撃鼓人命を促し、回頭日は斜め、黄泉に一店なく、今宵何れに家宿せん」 成三問を「復権されていない犯罪者」とするかどうかは議論の余地があるか も知れませんが、本当に「日本以外の国なら、必ず。。」なのでしょうか? Time : 2000/12/10(日) 13:15:45
Name : 道々の輩 E-mail : Title : 芸能と差別 Comments: 網野善彦曰く 「・・・また一方このように差別され始めた人々の中には、 千秋万歳法外のような芸能に携わる人々もあったが, とくに築庭に携わり御庭者などともいわれた河原者たちの中から 善阿弥のようにその名前も残っている優れた築庭家があらわれてきた。 さらにこのころ盛んに行われるようになった立花(華道)についても 菊の花などを扱う事があった非人の流れをくむ人々の寄与が背景にあり, 茶摘みや一服一銭も非人と同様にこの時期には蔑視されたと推定され, このころ芸能として形を整えてきた茶道もこうした人々と無関係ではなかった。  なかでも鎌倉時代までは非人と同じ扱いを受けていた猿楽は、一方ではなお 「乞食の所行」といわれながら、観阿弥・世阿弥が室町将軍の保護を受けたのを 契機に芸能民としての立場を固め、その芸能を「能」として磨き上げていった。  このようにこの時期に出現し、のちに「東山文化」として結実したいわゆる 伝統的芸能はほとんどがこれらの被差別民と何らかのかかわりをもっていたと いうことができる。ここにこの時期の文化を考える上での大きな問題の 一つあるといえよう。・・・」 日本社会の歴史(下) 岩波新書 Time : 2000/12/12(火) 09:49:35
Name : 名無しさん@某国 E-mail : Title : だから? Comments: >道々の輩さん だからなんだというのでしょうか。 「網野氏がこういうから、パンダさんや名無しが間違い」とでも? 私は網野氏とは別の文献を読んでの上で発言しているナリヨ。 たぶんパンダさんもそうでしょう。 たんなる水掛け論になりそうなことはしたくないネ。 Time : 2000/12/13(水) 13:26:12
Name : パンダ E-mail : Title : 猿楽と差別。。。 Comments: パンダです。道々の輩さん、名無しさん@某国さんへ。。。 ご紹介のあった網野さんのご指摘のとおり。。。 いわゆる被差別民の中からも、その才能を活かして、異能者として大成した 者がいるのは、広く認められているところですね。もちろん芸能民について も、多くの同様な事例があったでしょう。。。(逆に言えば、近代以前の差 別がどの程度のものであったかを示しているとも言えるわけですが。。。) ただ当然ながら、このことは芸能民(道々の者等の異能者を含む)が即ち被 差別民であったことを意味するものではありませんし、網野さんもその様な 意味でおっしゃっている訳ではないと思います。 猿楽はもともと宮中の雅楽部の一部であった散楽(軽業的な芸能)が寺社に 引き継がれたものの様ですが、猿楽座にも様々なランクがあり、大寺社の抱 える御用的なものから、大衆相手の乞食の所行(門付け)的なものまで様々 だったと思われます。 従って、名無しさん@某国さんがご指摘のとおりで、領主階級出身とされる 観阿弥・世阿弥個人はもとより、大寺社や有力武将が支援した大和猿楽その ものが被差別民で構成されていたとすべき根拠はありません。 ところで、そもそもの論点ですが。。。道々の輩さんは、観阿弥・世阿弥は 被差別民だったとお考えなのでしょうか? おそらく、そうはお考えになっていないと思いますし。。。井沢さんご自身 も、そうはお考えになっていない思います。(確か。。。楠木家縁の南朝間 諜説を示唆されていたのではないかと。。。?) 従って、井沢さんが。。。あたかも観世をふくめて芸能民が即ち被差別民で あるかのように表現された(読者が誤解するような表現があった?)のであ れば。。。今後はこの様な誤解が生じやすい粗雑な記述をしないようお願い しておくことで。。。この問題はチョンにしたいと思いますが。。。? Time : 2000/12/13(水) 17:34:00
Name : パンダ E-mail : Title : 「人麻呂」と「歌のひじり」。。。 Comments: パンダです。 続いて「古今集仮名序」の「歌のひじり」についてですが。。。 人麻呂がここで歌聖(歌のひじり)とされたのには、果たして「非業の 死」というような特別の意味があるのでしょうか? 因みに、奈良時代から平安時代にかけて「聖徳」をふくめ「聖X」とい う用語は、基本的には天皇の行為や付属物に多用されています。 (天皇諡号としては「聖武」だけですが。。。彼はもちろん非業の死と は何の関わりもありませんね) ただ「聖(ひじり)」や「聖人」という場合は、むしろ高徳の僧や非凡 者(超越者)に関して使用されている例が多いようで、井沢さんも引用さ れている日本霊異記「中巻第一(長屋王)」でも、「袈裟を着たる類は ・・・陰身の聖人も其の中に交りたまへり」とあり、他にも「耆は是れ 聖の化ならむことを」というような用法が多く見られます。 (この場合の「聖人」「聖」は、神仏の「化身」に近い意味です) また面白い用例としては。。。万葉集の酒讃歌(大伴旅人) 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言之宣左(339) 酒の名を 聖(ひじり)とおおせし 古の おほき聖の 言のよろしさ (この場合の「聖」は素晴らしい物、「大聖」は大賢人に近い意味です) などもありますが、何れも「非業の死」などとは全く無関係な用例であ って、私の知る限り「非業の死」を遂げたものを、特に「聖」または 「ひじり」とした用例はないと思います。 また少しややこしいのですが。。。一般的には「聖=ひじり」といって 良いのですが、まれには「仙=ひじり」とされている例もあるのです。 (後世では、ほとんど「「聖=ひじり」に固定されますが。。。) で。。。本題の、「仮名序」と「真名序(抄訳)」ですが。。。 A仮名序 かの御時に、おほきみつの位柿本の人麻呂なむ、歌のひじりなりける。 。。。又、やま(の)べの赤人といふ人あり。歌にあやしくたへなりけ り。人麻呂は、赤人が上に立たむ事かたく、赤人は、人麻呂が下に立た む事難くなむありける。。。。人麻呂なくなりにたれど、歌のこととゞ まれるかな。 B真名序(抄訳) しかれども、なお先師に柿本大夫なる者あり、神妙の思を高振り、独り 古今の間を歩む。山部赤人なる者あり、並びて和歌の仙なり。。。。 人丸既に没したれど、和歌かくならざるなり。 (然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間、有山部赤人者、 並和歌仙也。。。。。嗟人丸既没、和歌不在斯哉) ここで真名序を一読して直ちに気がつくのは、これが人麻呂を主軸とし た歌論であるということです。(猶有先師柿本→嗟人丸既没) 赤人はどちらかといえば、人麻呂と「並和歌仙也」として付加的に位置 づけられているもののようです。 仮名序はこれを更に明確にして「人麻呂なむ、歌のひじり→人麻呂なく なりにたれど」としたのではないでしょうか? そして真名序で「並和歌仙也」とした赤人については、人麻呂の形容で ある「神妙」を「あやしくたへなり」と適用し。。。上下をつけ得ずと 並列的に表現したものだと思います。 仮に「人麻呂、赤人ならびて歌のひじりなりける。」とした場合。。。 結語の「人麻呂なくなりにたれど」に結びつけるのは、流れがかなり悪 くなりますね。 要するに文章構成から、主軸の人麻呂を指して特に「なむ、歌のひじり なりける」と表現したものではないかと思われます。 また古来、詩聖は杜甫、詩仙は李白と並び称されていますが、真名序で は両者共通に「仙」を使用しています。そして仮名序では人丸を指して 「ひじり」を使用していますね。 あるいは、もともと紀貫之は真名序「歌仙」の和語として「歌のひじり」 といっただけなのかも知れません。。。 (例えば「六歌仙」を和読みにすれば、「むたりのうたのひじり」とな るのではないでしょうか?) これらの諸点からすれば、やはり仮名序の「歌聖(うたのひじり)」は、 「歌仙(ウタノヒジリ)」と同様の「歌道に非凡な人」という意味で使 用されものであり、(先師とされた)人麻呂をその代表として掲げただ けであって。。。「非業の死」などとは関係がない。。。と思うのです が、如何なものでしょうか? (なお、これは文章センスの問題ですので、主観的要素が強く議論には 馴染まないかも知れません。また人麻呂の最期に関する「水底の歌」推 理に関しては、ここでは別問題としておきます) Time : 2000/12/13(水) 22:19:42
Name : 名無しさん@某国 E-mail : Title : 被差別の話 Comments: 南北朝動乱期の芸能である連歌は、“差別する側の”貴族にまじって “被差別である”地下(じげ)の連歌師が活躍する場であります。前 にも述べた通り、身分の高い低いは無関係だったわけで、関白二条良 基の屋敷には遁世者や連歌師が集まって会を開いていたのです。 かれらの歌集である「つくば集」は延文2年(1357)後光厳天皇 の綸旨により准勅撰とされました。こうして連歌は和歌と同レベルの 文芸性を得たというわけナリヨ。 寺社の祭礼の中で、人々は身分階級の違いを乗り越えて自由に句を読 み、そして優れた作品には賞賛をおしまなかったのです。 被差別の人たちも当然交じっていたわけですが、決して被差別階級の 文芸ではなかった、ということをここで述べておくネ。 差別されていたといえば、その時代まだ貴族は武士を差別していまし た。ひとくちに「被差別」といっても捉えどころがないから、曖昧な 表現はしないでいただきたいと思います。 Time : 2000/12/16(土) 00:19:36
Name : Ponya E-mail : Title : 芸能の範囲も… Comments: そういえば、現代でいう「芸能」というと非常に狭義のものになってますが、 中世前期黎明期では職人との境目が曖昧であり、武術などもその範疇に含まれる ことを前出の網野善彦氏が書いていますね。 「武士の武術は『武芸』『弓馬の芸能』であり、工人の技術の働きもまた『芸能』 であった。また雅楽・舞などから獅子舞等にいたる現在の狭義の芸能も、もとより その中に含まれる。(中略)そしてこの言葉の場合も、室町期以降になると、工人 の技術、商人、海人などは含まれなくなってくるが、江戸時代でも、今の芸能だけ でなく天文職・囲碁打・儒者・歌学者・医師・馬術などに通じている人を『芸者』 といっておる。」― 網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店 「『普通唱導集』に「世間・出世間芸能二種」が列挙されている。そのなかで世間 の芸能は(1)文士・武士から巫女にいたる人々、(2)絵師から畳指にいたる手工業者、 (3)遊女・海人から白拍子・田楽・琵琶法師、そして博奕打ちにいたる商人と狭義の 芸能にたずさわる人々、の三グループにわけられ、出世間の芸能には、持経者・説 教師から山伏、さらに法相・天台・真言等の僧侶までふくまれている。世間芸能の (3)に好色・仲人などのみえるのも興味深いが、(1)に武士があげられていることも 注目すべき事実である。これによって中世前期の『芸能』の範囲がいかに広かった かを、われわれはよく知ることができる。」―網野善彦『日本の歴史・10』小学館 これらを見ると、中世以降の芸能者に対する差別というのは、単に「非農業者」と しての(生産に与していないことへの)差別であったと想像するのが自然ですね。 もっと現代的な視点で見れば、「タレント芸能人との結婚に反対する親」は今でも 多いと思いますが、これは必ずしも芸能人を卑下しているのではなく、芸の部分で 尊敬してはいても、一般殖産階級ではないという意味で親族に迎えたくない、とい った複雑な心境があるのでしょう。一言で「差別」といっても微妙ですね。 Time : 2000/12/16(土) 18:53:14
Name : パンダ E-mail : Title : 「聖(ひじり)」に関する補足。。。 Comments: パンダです。「聖=ひじり」について補足です。。。 >>「聖」とういうのは、本来怨霊となるべき人が、善なる神に転化した >>文字だということだ。・・・ 本当にこんなことがいえるのでしょうか? 奈良時代から平安時代にかけての文献には、「聖=ひじり」の文字が散 在していますが、既に申し上げたとおり(私が知る限りでは)そのよう な用例は全く見当たりません。 もともと「ひじり」という和語は「日知り」から出たもののようですが、 「天暦を知る者=呪術的賢人、神の如き人」を意味したと思われます。 一方「聖(せい・しょう)」という漢語は至高(高徳)を、「聖人」は 「至高(高徳)の人」を意味したと思われます。(仏教流入後は、仏教 的高僧をも意味します)さらに中国では皇帝は即ち至高(高徳)である とされますので、「聖」は「聖皇」「聖旨」「聖体」など通常皇帝を飾 る言葉としても使用されています。 従って日本においても、漢語として「聖」を使用する場合は、概ね天皇 を飾る言葉として使用されるのが通例であり、もちろん天皇自身を指す 場合もあります。 「聖(ひじり)」が天皇を示す用例としては。。。次のものがあります。 書紀垂仁紀「我が先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡しくして聖と作す」 書紀はここで崇神を「聖」と記していますが、これは明らかに「聖皇」 という讃辞であって、崇神が怨霊となるべき要素は全くありませんね。 「ひじり」についていえば。。。次の人麻呂長歌用例があります。 万葉集「玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ。。。」(29) 人麻呂は、ここで神武を「日知=ひじり」と歌っていますが、これも皇 祖神武に対する敬辞であって、神武が怨霊となる要素も全く考えられま せん。 井沢さんは、これらの用例を一体どのようにお考えなのでしょうか? 一方和語の「ひじり」に漢語の「聖(人)」を当てた場合は、和語本来 の意味によって「呪術的賢人、神の如き人(神の化身)」を意味し、逆 に漢語的な「仏教的高僧・儒教的高徳人」をも「ひじり」と呼ぶことに なります。 さらに道教では、儒教・仏教の「聖(人)」に相当する者として「(神) 仙(人)」を使用しますが、垂仁紀ではこれも「ひじり」と読み、神武 紀では「大人」をも「ひじり」と読んでいます。また推古紀(聖徳太子) においては「真人」を「ひじり」と読んでいますね。 平安時代の「聖(ひじり)」として、特に著名な人物としては、念仏門 の空也(903〜972)があり、「市の聖」として知られています。 平安後期には「高野聖」や「勧進聖」が良く知られていますね。 どちらかといえば、大寺院に所属し或いは高位についている官僧よりは、 庶民を教化するために身を投じた僧を示すことが多いようです。 井沢さんは、これら多くの「聖(ひじり)」という文字のどこをどう解 釈して「本来怨霊となるべき人」とお考えなのでしょうか? 私には、まさに想像を絶する解釈だとしか思えませんが。。。如何でし ょうか? Time : 2000/12/17(日) 00:40:06
Name : パンダ E-mail : Title : 「挽歌」の作者について。。。 Comments: パンダです。「挽歌」に関してですが。。。 >>つまり「挽歌」を歌い、故人となった皇子たちを讃えること、あるいは >>天皇に代わって「祝歌」を詠じること、これはコトダマの世界では極め >>て重い意味のある行為であり、そんな重大な行為が下級官僚に許された >>かどうかは、もはや常識でわかる問題ではないだろうか。 本当にこれは「常識でわかる問題」なのでしょうか? 以下は、万葉集に見る挽歌のうち、皇族の死に際し臣下が詠んだ例です。 日並(草壁)皇子(689没)・・・・・・柿本人麻呂(167〜169) 舎人等(171〜195) 川島(忍坂部?)皇子(691没)・・・・柿本人麻呂(194〜195) 明日香皇女(700没)・・・・・・・・・柿本人麻呂(196〜198) 高市皇子(696没)・・・・・・・・・・柿本人麻呂(199〜201) 弓削皇子(699没)・・・・・・・・・・置始東人(204〜205) 志貴皇子(716没)・・・・・・・・・・笠金村(230〜232) 安積皇子(744没)・・・・・・・・・・大伴家持(475〜480) ここで挽歌の作者とされているのは、当時内舎人であった家持以外は、全 て卑官であって正史に記載がなく、その人物像はほとんど知られていませ んね。 井沢さんは、置始東人や笠金村も。。。「公卿」ないし「殿上人」ぐらい の地位にいた。。。とお考えなのでしょうか? いくら何でもそのようなこ とは考えられないでしょう。。。 このような客観的事実を無視した「常識でわかる問題」とは、一体何なの か。。。私には全く理解できないのですが、如何なものでしょうか? Time : 2000/12/17(日) 23:48:51
Name : みちえ E-mail : morikane@mocha.ocn.ne.jp Title : おしえてください Comments: 六歌仙の6人を教えてください!! 今国語で古典やってます。 小野小町は分かるんだけどあと1人。 おねがいします。 Time : 2000/12/18(月) 00:02:14
Name : パンダ E-mail : Title : 六歌仙。。。 Comments: パンダです。みちえさんへ。。以下が古今集仮名序に記された六歌仙です。 そのほかに、近き世にその名聞えたる人は、即ち、 僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にか ける女を見て、いたづらに心を動かすが如し。 在原業平は、その心あまりて、言葉足らず。いはば、しぼめる花の色なく て、匂残れるが如し。 ふんやの康秀は、詞はたくみにて、其のさま身におはず。いはゞ、あき人 のよききぬ著たらむが如し。 宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、はじめをはりたしかならず。いはゞ、 秋の月を見るに、暁の雲にあへるが如し。(よめる歌多く聞えねば、これ彼 れを通はしてよくしらず。) をのゝ小町は、いにしへのそとほり姫のながれなり。あはれなるやうにて、 強からず。いはゞ、よき女の悩めるところあるに似たり。つよからぬは、 をうなの歌なればなるべし。 大ともの黒主は、心はをかしくて、そのさまいやし。いはゞ、たき木おへ る山人の、花の蔭にやすめるが如し。 Time : 2000/12/18(月) 00:42:58
Name : 平沢 E-mail : peb04724@nifty.com Title : 逆説日本史 Comments: 井沢元彦の「逆説の日本史」の4巻目を最近買ってきて読み始めたのであったが、途中で腹が立ってきて中断 したままになっている。以前、初めてこのシリーズを読み始めたときにも感じたことだが、もうすこし真摯 な態度で論じられたらいかがなもんかと思わずにいられない。まあ、タイトルから察するに学者が唱える説 に対する反論がこの本の主要な目的なのであろうが、それのみに偏りすぎたとしたらそれは著者の心の貧し さの告白でしかない。 それにしても独断と思い込みが散見せられるのにはいささかまいる。歴史は弁証法であろう。自説の正当性 を訴えることは当然としても井沢の議論には、先人あるいは学者の諸説に対するキャパシティーに欠けると ころがないか。 学説の矛盾を頭から否定することが歴史研究にとって有益な態度と言えるだろうか。 歴史は矛盾だらけの 人間が築き上げてきたものだ。それを現代人が解釈するとき、そこには常に限界があることを心すべきでは ないか。その限界の向こうへ突き進もうとするとき必要なものは弁証法であり、矛盾に対する寛大な精神で はないだろうか。 反証を列挙して自説を声高に叫ぶことそれ自体が、歴史を学ぶ精神を貶めていると思うのだがいかがなものか。 それにしてもこの本は冗長な引用がやたら多い。自分の著作に他人の文章を頻繁に借用することについてこ の人はどんな感覚でいるのだろうか。 参考文献は自分の中で咀嚼すべきであって、それを引用という形で書 き移す場合は節度というものがあろう。 なんらの躊躇も感ずることなくこれを多用しているように見られるのが、私には不思議に思えてならない。 これでは舞台裏丸出しの素人の手法ではないか。物書きとしの矜持のありようが窺われると思うのだが。 とにかく文章がくどすぎる。たとえの記述がだらだらと長すぎる。議論の本質を撹乱するようなペダントリ ーに辟易する。 Time : 2000/12/19(火) 20:41:52
Name : amijarakat E-mail : Title : 逆説の日本史 Comments: 8巻まで持っているけど面白いし読みやすいと思っている。 Time : 2000/12/19(火) 21:27:50
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:49:13
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:49:39
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:50:05
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:50:31
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:50:57
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:51:23
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : はじめまして Comments: はじめまして。井沢氏の大ファンです。逆説の日本史はポストで毎週読んでいます。火曜日(福井県なので 発売は火曜)が楽しみです。氏の文庫本は全部読みました。日本史、日本国がよく理解できると思います。 科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだから、日本史の場合にもあては まると思います。 Time : 2000/12/19(火) 23:51:49
Name : 生眼 E-mail : alicebar@kore.mitene.or.jp Title : ごめんなさい Comments: ごめんなさい。パソコンは初めてなので 無駄に掲示板を使ってしまいました。 許してください。 Time : 2000/12/20(水) 00:04:38
Name : 名無しさん@某国 E-mail : Title : 私は Comments: 平沢氏が「きゃぱしてー」とか「ぺだんとりー」なんていう横文字を むやみに多用する方に辟易する。わざわざフォーリンランゲージでラ イティングしなきゃならないネセシティがあるの?  話がだらだらしている点には俺も賛成。文献軽視も研究家としてあま り立派な態度とは言えないだろう。まして史実と違うことを声高らか に発表しているのでは困ったさんである。現に「逆説の日本史」と別 の文庫では書いている内容に矛盾をきたすものがあった。他の著書で も、なんだかんだいいながら通説の誤謬に足をすくわれているものも 数多く見られる。 で生眼さんのいう「その事柄を一番よく説明できるもの」だが、井沢 氏の本は決して正しく説明していない。 きちんとした歴史学の土台がない人には、井沢氏の本はとんでもない 先入観を植えつけかねない。 Time : 2000/12/20(水) 00:26:08
Name : パンダ E-mail : Title : 本当ですか??? Comments: パンダです。生眼さんへ。。。 >>科学の世界では、その事柄を一番よく説明できるものがその時は正しいのだ >>から、 「大仏殿遠慮説」や「桓武平和主義者説」とか「聖(ひじり)怨霊説」とか 。。。私には矛盾だらけの説明だと思うのですが? 私の井沢説批判が間違っていると思われるのならば、ご遠慮なくご反論願い ます。 Time : 2000/12/20(水) 00:28:42
Name : Toshy E-mail : Title : ひとこと Comments: 「逆説の日本史」も中世にきましたから、関ヶ原の戦いも近い。 井沢先生には、定説になっている誤謬を払拭して頂くとともに、 みずからも史実に沿って話を進めてもらいたいですね。 1.石田三成は戦いが下手ではない。 小田原忍城水攻めの失敗がこの印象を与えているが、 秀吉の水攻め命令に反対したのは三成だった。 2.三成は朝鮮出兵に反対の立場であった。 勝ち目のない戦いを無謀にも挑んだのは加藤清正ら武断派である。 3.秀吉死後の「家康−尾張系武断派−北政所」vs 「三成−近江系奉行派−淀君」の対立は後世の作り事。 三成に挙兵を促したのは北政所である。 4.上杉景勝−石田三成の連携はなかった。 5.「家康が三成をおびき出した」はありえない。 当然ながら、「東軍は勝つべくして勝った」という定説は大嘘。 小早川の裏切りまでは、まったく互角の戦いだったのである。 6.石田三成と徳川家康の差を「人望」で片づけるのは無理である。 三成に人望がなかったら、天下を二つに分けることが出来るはずがない。 むしろ20万石の小大名ながら250万石の家康を上回る軍を集めたのは、 人望に優っていたからではなかったか。 7.西軍が大垣城から関ヶ原に転進したのは、 家康の「おびき出し作戦」のためではなかった。 「5」についてはあまり心配していませんが、 他の6項目についてはあまり詳しいとは思えませんから、 綿密な史料の調査をお願いします。 誤解を招く井沢氏の記述について、私が思っていることをここで挙げます。 源平編(「逆説の日本史5」) p37 「指揮官範頼を更迭し、義経を代わりに派遣した」という文がある。 範頼はいつ更迭されたのでしょう。 私の知る限りだと、範頼は山陽道を進み九州に渡っている。 義経はその後で派遣されたはずだが。 文献を無視しイメージだけで書くからこういう事になる(藁 p68「平家は西国では強い。〜源範頼もまったく歯が立たなかった」 備中水島で、範頼は平家を破っている。  同 「大将を義経に代えた途端〜」 この文のつながりだと、一の谷の戦い以前に範頼が戦いに敗れ、 義経が一の谷にいって勝った、というふうにしか読めない。 福原・一の谷の戦いでは総大将は範頼であり、義経は搦め手の将軍だった。 範頼は生田の戦いで優勢であり、平家の神経がそちらに集中した時、 義経が背後から平家を奇襲したのである。 公平に見て戦功は義経にあるとしても、範頼の功績も認めるべきだろう。 範頼がいなければ、義経は討ち取られてただの無謀な武将、という 評価に終わったことは想像できる。 p101 屋島の戦いの前の、梶原景時と義経の「逆艪」論争。 この時梶原は、範頼の軍監として九州にあった。 だからこんなくだらない論争がある筈がないのである。 「範頼を更迭した」という思い込みが、このような稚拙な間違いを生む。 Time : 2000/12/20(水) 23:35:42
Name : 生眼 E-mail : Title : 質問です Comments: 皆さんの文章を読ませていただきますとe-のところがないのですが それてでいいのでしょうか。一回記録すればいいのでしょうか。私も一回載せたからそれでいいのかも。 それで許してもらいます。  私は日本史を知ったのは中学生、と高校生ぐらいです。井沢氏の本を読んでひじょうに新鮮に思いました。 科学ーーーの言葉はちょっといいすぎかもしれません。 このまえ、日本の歴史00巻を買いました。三分の一ぐらい読んでごみ箱へ捨てようかと思いました。2000円 ぐらい出したのでまだ取ってあります。その本と比べると井沢氏の本は納得のしかたが違うように思います。 私もまだかじりかけなのでいろいろ教えて下さい。 もう一度逆説の日本史を読み直してみます。 Time : 2000/12/21(木) 04:59:44
Name : Toshy E-mail : fwjd2293@mb.infoweb.ne.jp Title : ですからね Comments: 生眼さん 私が指摘したように史実を無視しているのは、 井沢氏に弁明の余地がありません。納得というけど、 もし下の誤謬を源平合戦について知らない人が納得してしまったら、 それは大いに問題ではないでしょうか。 Time : 2000/12/21(木) 11:31:34
Name : Toshy E-mail : Title : 訂正 Comments: ↓範頼が平家を打ち破ったのは水島ではなく備前小島でした。  大変失礼いたしました。  ともあれ、平家が「負けるはずがない戦い」(p68)で範頼に敗れているのですから、  範頼はすごい武将なんだなぁ。 Time : 2000/12/21(木) 23:48:51
Name : 欄D E-mail : Title : のりより? Comments: Toshyさま、はじめまして。ちょっとお尋ねしたいことがあります。 備前小島の戦いというのは、1184年の12月の合戦ことですよね? 備前児島の戦いのとき、範頼は長門にいたのでは? その翌月に範頼は豊後の臼杵氏らを下して豊後に確固とした源軍の拠点をつくりあげたのですよね? 備前児島の戦いというのは佐々木盛綱と平行盛とがそれぞれの指揮官だったときおくしていますが、 佐々木盛綱はこの合戦の前に範頼に同行して長門にいた将なのでしょうか? このあたり調べてもわからないのでご存知でしたら教えていただけないでしょうか? Time : 2000/12/22(金) 01:02:28
Name : Toshy E-mail : Title :Comments: 欄D さま、はじめまして。 「小島」と「児島」の訂正をしに来たら書き込みがあったのでびっくりしました(^^) ちょっと手元にこの辺の史料がないため、記憶だけで書いてしまいました、すみません。 実は私の記憶曖昧なのですが、 平家軍の総大将は平行盛ではなくすけもりではなかったかと。 佐々木盛綱は範頼に属する武将でした。 範頼が長門に入るのは1185年1月だったと思います。 なお、範頼に従っていた梶原景時が壇ノ浦に現れたところを見ても、 範頼と義経がここで連絡があったことは想像できることですね。 「源平盛衰記」の記事は、どちらかというと範頼に辛く当たっている?という感じです。 もっとも当時から、頼朝・義経という英傑に挟まれた範頼、 地味な評価であったことは間違いないでしょう。 Time : 2000/12/22(金) 01:37:43
Name : 平沢 E-mail : peb04724@nifty.com Title : オロッ Comments: >平沢氏が「きゃぱしてー」とか「ぺだんとりー」なんていう横文字を >むやみに多用する方に辟易する キャツ!んもー、あげあしとったりしてーきらいプンプン! Time : 2000/12/22(金) 10:24:30
Name : パンダ E-mail : Title : 梶原と範頼。。。 Comments: パンダです。Toshyさん、欄D さんへ。。。 備前児島の戦とは。。。かなりオタッキーな話題で(笑い) 吾妻鏡等では。。寿永三年(1184)十二月七日、範頼麾下の佐々木盛綱 が平行盛を破っています。同九月二日に範頼軍が平家追討に向って以来 最大の本格的戦闘で、この勝利によって範頼軍はさらに西下を続けるこ とができ一月始めには長門に到達ましたが、補給不足から戦意が低下し 侍所別当の和田義盛すらも撤退を主張する事態にいたりました。 この戦局を憂慮した頼朝は、遂に一月十日に義経の追加投入を決意しま す。これに力を得た範頼軍は一月二十六日に豊後に到達しましたが、義 経の手許には然程の兵力はなく、瀬戸内の制海権を奪回しない限り、範 頼軍は袋の鼠同様の消耗戦を強いられかねない状況でしたし、場合によ っては平家主力軍が京を逆襲しかねない状況でした。 しかし、二月十九日義経の屋島強襲と梶原景時の海上作戦によって平家 主力は屋島から敗退し、瀬戸内の制海権が義経軍に帰したことで、形勢 は完全に逆転し、九州の範頼軍も勢力を盛り返します。 その後は、源氏軍が日に日に隆盛となり、平家主力軍は次第に追い詰め られ、三月二十四日壇ノ浦において滅亡した。。。ということだと思い ます。 当時の梶原は、範頼軍とは別行動で播磨・美作の防衛に任じられており、 義経とともに屋島の合戦に参加したと思うのですが。。。これは間違っ ているのでしょうか? Time : 2000/12/23(土) 00:26:17
Name : パンダ E-mail : Title : 追加です。。。 Comments: 肝心なことをいい忘れていました。。。 平資盛も備前児島に参戦していますが、行盛が先任だったようです。 Time : 2000/12/23(土) 01:09:54
Name : 生眼 E-mail : Title : 素人です Comments: 誤謬があればそれを訂正するのは当然と思います。また誤謬をそのまま 覚えてしまうのは、大変なことだと思います。私には歴史学の土台も 何もありませんが、それでも井沢氏の逆説の日本史が非常に面白いのは どうしたことでしょう。 素人も遊んでください。 Time : 2000/12/23(土) 01:38:29
Name : Toshy E-mail : fwjd2293@mb.infoweb.ne.jp Title : 地味な人範頼 Comments: パンダさん> 範頼の件ですが、「源平盛衰記」の記事だとおっしゃるとおりです。 わしが読んだなんかの本では違うことが書いてあったため、その印象が強いのでしょう。 備前児島の戦いですが、佐々木盛綱だけが戦ったというのは信じられない (佐々木の手勢だけで戦えるだろうか?)ため、範頼本軍そのものが戦い、 その中で佐々木の奮闘が際立っていたのだと考えられるのではないでしょうか。 ところで「一の谷の戦い」と呼ばれる戦いの名称は、本来なら正しいとは思えません。 源氏主力と平氏とは福原(神戸)のはるか東、生田方面で激突していたからです。 そこに義経が一の谷から現れたため、 天皇・平宗盛・その他の非戦闘員たちは慌てて逃げ出し、大勝利となったわけですから。 むしろ「福原の戦い」と呼ぶべきでしょうね。 この点歴史の欺瞞に惑わされない井沢氏が見落としているのは不思議な気がします。 ところで、範頼は義経のような奇襲戦法を得意とはせず、地味な戦い振りだったと思います。 その生田の戦いでも、範頼自身というよりも梶原景時その他の奮戦で、 平氏の防衛ラインをつぶしつつあったのです。 範頼は猛将ではなく、大軍の統率に長けていたと思います。 ちなみに山陽道から豊後に渡るまで苦戦し、 和田義盛などが退却を唱え範頼に制止される場面もありましたが、 壊滅寸前の軍を曲がりなりにもまとめ、九州に渡ってかの地を治めたのですから、 酷評されるほどの凡将ではないということですな。 生眼さん> わしも素人ですから、こうやって突っ込みを受けることはあります。 おもしろいと思うのはわしも同じですよ。 Time : 2000/12/23(土) 17:17:13
Name : パンダ E-mail : Title : 範頼の月旦。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 (生眼さん。。。井沢さんを含めて、みぃ〜んな素人ですよ! どんどん 突っ込んだらいいんじゃないですか?) 備前児島の戦いでは、おっしゃるとうりで。。。佐々木盛綱の先駈けで、 平家軍先陣が崩れたところを、本軍が押し出したということかも知れま せん。(当時の軍記は、個人戦を強調し過ぎるきらいがありますので) 「一の谷の戦い」は確かにおっしゃるとおり。。。「福原の戦い」です ね。(笑い) ただ生田方面で戦線が膠着していれば、縦深陣地を構築 し、かつ制海権を持っていた平家軍に有利に展開していたかも。。。 ということで、少なくとも去就に迷う地方武士を圧倒するような源氏軍 の大勝利は、義経の「一の谷奇襲作戦」成功によるものではないかと。。。 同様に義経の参戦と屋島奇襲作戦成功がなければ。。。範頼の九州作戦 が成功したかどうか。。。さらに壇ノ浦の決戦があったかどうか。。。 なんて考えてしまいます。 ただ、これ以上の範頼の月旦については。。。チョット差し控えさせて 頂きます(笑い) ところで問題の。。。梶原が範頼と九州に同行していて「逆櫓論争」は 有り得なかった。。。というのは、どういった文献によるのでしょうか? (チョット調べてみたのですが、梶原の九州滞在は確認できないので。。) Time : 2000/12/23(土) 22:38:30
Name : Toshy E-mail : Title : まあそのへんは・・・(笑) Comments: 義経の奇襲も、範頼の方に平家の神経が集中していたから成功した、と考えれば五分五分ですね。 範頼が早々と退却していたら義経も奇襲のしようがなかったということです。 もちろん義経の活躍はだれが見ても評価できるものでしょう。 私も義経がいなければ平家が有利だったと思っています。 梶原の「逆艪」論争ですが、何の本だったか忘れました。すみません。 ただ嵐の中で海を渡るの渡らないのという義経の話と、 海戦を想定している梶原の話とはすれ違っているから、 あの水掛け論があったというのは疑問です。 範頼ですけど、ただいい部分だけを考えれば、 このように違った人物像を作れるというものですね。 歴史上の人物の多くは、いい面/悪い面を強調することで、 人々に虚像を見せているのではないかな。 どうでもいいけど、やっぱりパンダさんの論の進め方は、わしの師匠にそっくりですな(笑) Time : 2000/12/24(日) 00:16:16
Name : パンダ E-mail : Title : 「逆櫓論争」。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 >>どうでもいいけど、やっぱりパンダさんの論の進め方は、わしの師匠に >>そっくりですな(笑) 光栄のいたりで(笑) そういえば。。。かって「同一人なり」と喝破さ れた愉快な「ヒジリ」もおられたようで。。。(爆笑) >>p101屋島の戦いの前の、梶原景時と義経の「逆艪」論争。この時 >>梶原は、範頼の軍監として九州にあった。だからこんなくだらない論 >>争がある筈がないのである。「範頼を更迭した」という思い込みが、 >>このような稚拙な間違いを生む。 「範頼を更迭した」ということ自体は、鎌倉期のイロハもご存知ない信じ 難い誤解ですし、「逆艪論争」そのものについては、私も少し眉唾のよう な気がしています。ただ。。。 >>義経の話と、海戦を想定している梶原の話とはすれ違っているから、あ >>の水掛け論があったというのは疑問です。 そういった疑問のレベルならば。。。 「九州に。。だから。。ある筈がないのである。。稚拙な間違いを生む」 というのは些か言い過ぎだと愚考いたしますけど。。。?(笑い) Time : 2000/12/24(日) 10:49:09
Name : Toshy E-mail : Title : 次回予告 Comments: >些か言い過ぎだと愚考いたしますけど。。。?(笑い) パンダさんが「言い過ぎ」とおっしゃると、説得力がありますな(大笑い) そうでした、大変失礼をば致しました。。 そういえば同一視するおもしろすぎるお方がいましたね。(わら わしとしてはパンダさんほどの大物と同格扱いは光栄ですが、 パンダさんとしては少々不本意だったかも?! わしも大物を目指してがんばっていこうと思います。 で、次回予告。蝦夷人のToshyとしましては、 平泉と鎌倉の関係について論を展開しなければなりません。 次の投稿は、見落とされている両者の関係について語ります。 Time : 2000/12/24(日) 16:08:04
Name : パンダ E-mail : Title : 大物。。。???? Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 大物などとはトンデモナイ。。。ただただ小径に迷い、馬齢を重ねる のみのオッチャンです。これからもお互いに厳しくツッコミあって、 切磋琢磨したいと念じておりますので、いろいろご教示下さい。 平泉と鎌倉ですか。。。鎌倉時代は本来スクランブル対象(識別圏) 外ですが、楽しみにさせて頂きます。 Time : 2000/12/24(日) 23:22:07
Name : 欄D E-mail : Title : 範頼 Comments: Toshyさん、パンダさんどうもでした。 範頼は十二月七日の段階では、長門まで到達しておらず備前近辺に居たということになるわけですね? ありがとうございました。 Time : 2000/12/25(月) 18:45:15
Name : 生眼 E-mail : Title : お礼 Comments: つっこみなさいと言われましても、何をどうつっこんで いいものかもわかりません。情けなく思いますが、 私も書いていいと、許してもらったようで、 嬉しく思います。 見学させてもらいます。 Time : 2000/12/26(火) 01:10:58
Name : マサヒコ E-mail : Title : 毛利元就 Comments:  井沢さんが書いていた。うれしい Time : 2000/12/26(火) 10:09:23
Name : マサヒコ E-mail : Title : 毛利元就 Comments:  井沢さんが書いていた。うれしい Time : 2000/12/26(火) 10:09:50
Name : Toshy E-mail : Title : 平泉から鎌倉へ Comments: 日本における武家政権というと。 平清盛が太政大臣になる前、すでに地方レベルながらも、 奥州藤原氏による武家政権が出来ていたことを述べておきましょう。 日本全土律令制のもとに藤原氏の政権下にありましたが、 後三年の役以降の東北地方はむしろ軍事政権に近いものでした。 平泉から発掘された御所跡には、 深さ5メートルほどの堀が見つかっています。 また館の周りには一族郎党の屋敷が並び、 防衛ラインを敷いている様子は軍事的な要素がたぶんにあると思われます。 これは東北地方に根強く残っていたエゾ民族の伝統的な構造であり、 京都の公家風ではありません。 この藤原氏の軍事政権という手本がなければ、 鎌倉幕府というものは生まれなかったかもしれません。 事実平泉を攻略した後、頼朝は泰衡の側近の行政官を登用し、 平泉の政策をそのまま鎌倉に持ってきています。 藤原氏初代のその前、藤原経清は京都事情に精通する行政マンでした。 この経清が奥州の武人安部氏の女婿として迎えられたことにより、 京都と地方という、二つの文化が融合した政権が出来上がったのです。 藤原氏は京都人の血筋を引いているから、 武家と貴族の融合で「血筋」における正当性を主張しながらも、 地方の豪族たちを統率することが可能だったのです。 また側近には京都の事情に精通した行政マンがいて統治の業務をしきっていました。 このことは鎌倉の武家政権にもいえることです。 源氏という血筋を持つ頼朝が、地方豪族の女婿に迎えられました。 これで地方武士の支持を得ることが可能になった上、 行政官として大江・三善などが京都から招かれて政権に入りました。 鎌倉幕府は、つまり、奥州政権の後輩であったといえるでしょう。 ひとつ付け加えると、平泉の藤原政権は決して独立国ではありませんでした。 秀衡・泰衡は奥州2ヶ国を支配していましたが、 「陸奥守」という知行国主でも国司でもなく、奥州の豪族の盟主、というところです。 義経追討の宣旨が出羽守を通して泰衡や藤原基成にくだっているのですから、 国司などの朝廷の制度は機能していたのです。 奥州藤原氏の政策は、国司制度とは別の、在地支配でした。 これは後に頼朝が行なう守護や地頭などの制度と相違点はあっても、 共通点を見出すことが出来るものです。 歴史において、藤原氏は失敗者であり頼朝は成功者です。 奥州藤原氏の地方政権が天下を取るに至らなかったのは、 やり方が古いからではなくて時流に乗っていなかったからです。 織田信長がつくりあげた路線を秀吉が進んでいったように、 藤原氏が敷いたレールを頼朝が走った、それが鎌倉幕府でした。 次は前九年の役について、考えてみたいと思います。 PS パンダさん> まだ生煮えですが、がんばってみました(^^) 生眼さん> つっこまなくてもいいですが(笑)、質問や意見をぜひお寄せください Time : 2000/12/27(水) 22:31:40
Name : 生眼 E-mail : Title : 私の興味 Comments: 私が興味を持つのは(笑々)日本の国の成り立ちとか、日本人が何処から来た、とか、日本の構造? とかいうことです。そういう目で逆説の日本史を読むと、私にはひじょうに面白く、また謎がひとつづつ とけるようで、すんなりと納得できるのです。そういう意味で、科学の世界ではそのときの事柄を一番よ く説明できるものが そのときは正しい(笑々)と私は思っています。歴史の大きな流れ方に興味があります。史背を読む ? みたいなのが好きです。十年か五十年かすると、逆説の日本史から誤謬もなくなり、たんなる日本史にな ると考えています。                                       それと藤原氏が失敗者というのは(揚げ足をとると)少しひっかかります。 四代も栄えたのだから、頑張ったほうだとおもいます。               弱文にて失礼。 Time : 2000/12/28(木) 04:14:46
Name : 憂国 E-mail : Title : 奥州藤原氏といえば、 Comments: 「炎立つ」、、、原作もさることながら、傑作でした(最近の大河ドラマのなかで は) 歴史は、肩肘張らずドラマとして見るの(読むの)が一番かとおもいますがね。 Time : 2000/12/28(木) 13:25:34
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:48:17
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:48:44
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:49:10
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:49:36
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:50:02
Name : マサヒコ E-mail : Title : お願い Comments:  宿題で奥州藤原氏の遺跡を訪ねようとおもっているのですが・・・教えてください Time : 2000/12/28(木) 20:50:28
Name : パンダ E-mail : Title : 奥州藤原氏。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 申し上げたとおり鎌倉期は識別圏外ですので、Toshyさんの発想に、 なるほどと肯きながらですが、チョットとりとめのない感想のみ。。。 以下です。 >>平泉から発掘された御所跡には、深さ5メートルほどの堀が見つかって >>います。また館の周りには一族郎党の屋敷が並び、防衛ラインを敷いて >>いる様子は軍事的な要素がたぶんにあると思われます。 >>これは東北地方に根強く残っていたエゾ民族の伝統的な構造であり、京 >>都の公家風ではありません。 平泉は、もともとは坂上田村麻呂が蝦夷地支配の拠点として築いた胆沢城 と一体の地であり、多賀城から鎮守府を移したところです。奥州藤原氏は 鎮守府将軍となった清原氏の後を襲うかたちで、この地に居館を設けてい ますので、その意味では律令体制下の城郭(軍事拠点)としての機能(体 裁)をもっていたのではないでしょうか。。。。 >>すでに地方レベルながらも、奥州藤原氏による武家政権が出来ていたこ >>とを述べておきましょう。日本全土律令制のもとに藤原氏の政権下にあ >>りましたが、後三年の役以降の東北地方はむしろ軍事政権に近いもので >>した。 ということで(安部氏?)清原氏・藤原氏の存在を。。。律令体制に抵抗 した半独立国とみるか。。。律令体制下の鎮守府(軍政)等の勢力とみる のか。。。あるいは地方武家政権の先駆とみるか。。。が問題でしょうね。 >>ひとつ付け加えると、平泉の藤原政権は決して独立国ではありませんで >>した。秀衡・泰衡は奥州2ヶ国を支配していましたが、「陸奥守」とい >>う知行国主でも国司でもなく、奥州の豪族の盟主、というところです。 で。。。藤原氏が独立国ではなく、実質的には奥州の豪族の盟主であった というのはおっしゃるとおりのようで。。。頼朝の奥州侵攻にあたって殆 ど抵抗らしい抵抗も示さず、瞬時に崩壊したのはその故(要するに強い主 従関係をもった軍事集団とは言い難い)という見方もありうるかも。。。 因みに秀衡は1170年に「鎮守府将軍」1181年に「陸奥国守兼鎮守府将軍」 となっていますから、その時には律令体制下の合法的支配者という一面も あったようですが。。。(これは平氏による牽制策かも。。。) >>この藤原氏の軍事政権という手本がなければ、鎌倉幕府というものは生 >>まれなかったかもしれません。 幕府。。。本来チャイナでは出征中の大将軍の幕営のことをいいますが、 出征が長期に及べば実際的に軍政の拠点ともなったものです。 日本では例によってファジーにこれを適用し、近衛府大将(出征なんかし ないくせに。。。)の居館をこう呼んだようですね。 鎮守府将軍は、律令的には出征将軍という形式も持っていましたので、そ の居館も一種の限定的軍政をになう「幕府」でもあったと思われます。 (もちろん律令体制の崩壊と共に国守が形骸化し、彼等が実力で勝ち取っ ていったというべき側面もあったでしょうが。。。) で。。。「鎌倉幕府」には、関東御分国にみられる地方武家政権という面 (1184年に参河・駿河・武蔵の三国を知行国として受領したのが法制的根 拠でしょうか。。。)と、全国武家支配の権限を持つ権力機構としての両 面があると思われます。。。 前者の側面について見れば。。。平泉が地域支配の拠点としての鎌倉の先 駆的存在だったというのも、肯けるところだと思います。 後者の側面で見れば。。。頼朝が1185年に義経・行家探索の名目で設けた 守護・地頭制度によって、全国の軍事・警察権限を掌握し武家集団の頭領 としての地位を固めたのが。。。その始まりかも知れません。 (もともと頼朝は秀衡とは異なり、単なる地方政権の主に甘んじる意図は ありませんし、それが許される立場でもありませんから。。。この過程で は鎌倉は平泉とは全く異質の。。。後世につながる「幕府」を目指したと 見るべきでしょう。。。) さらに。。。1189年に奥州藤原氏を滅ぼし、1190年に右近衛大将に任じら れたことから。。。鎌倉は名実ともに全国武家支配の機構(拠点)として の「幕府」となったのでは。。。。。。 彼はさらに右大将を辞任後、1192年にあらためて権大納言・征夷大将軍に 任じられ、これを常設化することで公家を陵駕する実質的な全国支配の中 心とします。 >>歴史において、藤原氏は失敗者であり頼朝は成功者です。奥州藤原氏の >>地方政権が天下を取るに至らなかったのは、やり方が古いからではなく >>て時流に乗っていなかったからです。 ということで。。。そもそも藤原氏は主観的(意識)にも客観的にも天下 に覇を唱えるべき存在ではなく、所詮は地方勢力にとどまるべきものであ ったと思われます。しかし全国武家集団を統一的に支配しょうとした「鎌 倉幕府」の力には抗すべくも無かったのではないでしょうか。。? (泰衡が巧く立ち回っていれば。。。佐竹氏、あるいは毛利氏程度の存在 として。。。秋田氏かな? 存続の可能性もあったかも知れませんが。。) 敢えて申し上げれば。。。チョット藤原氏を買い被っておられるような気 がしないでもありません(笑い)。 (どうも贅六人は。。。蝦夷人と違って、奥州藤原氏に冷たいかな??? どう見てもまとまりのない文章で失礼しました。。。) Time : 2000/12/28(木) 22:01:46
Name : パンダ E-mail : Title : 科学的に正しい部分。。。 Comments: パンダです。生眼さんへ。。。 >>そういう目で逆説の日本史を読むと、私にはひじょうに面白く、また謎が >>ひとつづつとけるようで、すんなりと納得できるのです。 >>そういう意味で、科学の世界ではそのときの事柄を一番よく説明できるも >>のがそのときは正しい(笑々)と私は思っています。 井沢さんの所説において。。。謎がとけるようで、すんなりと納得できた部 分って。。。具体的にどういった部分でしょうか?(笑い) 実は私も。。。一所懸命(?)に科学的に正しい(可能性がある)部分を探 してるんですけれどね。。。。(笑い) Time : 2000/12/28(木) 23:07:47
Name : Toshy E-mail : Title : レスありがとうございます Comments: パンダさん> ありがとうございます。 藤原氏を買い被っている、とのことですが、まさにその通りです(笑) 明日が早いので、さらに詳しいことは後日にも。 ところで、先日の「逆艪論争」について、謎が解けました。 どうやら範頼に従軍して山陽道を進んだ三浦が論争の場にいたのを勘違いしていたようでした。 お騒がせしました。 マサヒコさん> なんといっても平泉に行くのが一番手っ取り早いと思います。 東北本線で平泉駅を降りたら右に進むと中尊寺の方角、その途中には義経堂があります。 平泉駅から正面に進むと毛通寺です。 また歴史資料館もその近くにありますし、中尊寺内部の金色堂や資料館を見れば、 いろいろ見つけることが出来ますよ。 生眼さん> いや、滅ぼされた、という意味でです。 藤原氏を買い被ってるため、もっとがんばってほしかったという気持ちが(笑) Time : 2000/12/28(木) 23:30:48
Name : 憂国 E-mail : Title : おたく Comments: この掲示板はおたくに占領されました Time : 2000/12/29(金) 05:14:10
Name : ina E-mail : Title : のりよりを再評価する会 Comments: Toshyさん、ご無沙汰してます。 がんばってください。 Time : 2000/12/29(金) 08:38:22
Name : きんたろう E-mail : Title : inaさん久し振りですね^^ Comments: カップヌードルの話からもうそろそろ一年経ちますねv(^o^) Time : 2000/12/29(金) 22:30:04
Name : 名無しさん@某国 E-mail : Title : 憂国 Comments: 私はおもしろいと思うが。 貴殿ただついていけないだけじゃない?(ワラ Time : 2000/12/29(金) 23:05:28
Name : Toshy E-mail : Title :Comments: inaさん ご無沙汰していました。またうちの掲示板にも来てください(^^) 憂国さん わしは君に迷惑をかけているわけでなし、ほっといてくれ。 君がどんな歴史の楽しみ方をしようとわしは否定しないから、 君も他人に干渉するのはやめ給え。 そのとおり、この掲示板はおたくが占領した。 取りかえしたければ、 君がそれ相当の書き込みでおたく以外の人を惹きつけることですね。 パンダさん 今世紀最後の論議はおもしろかったです。 21世紀もまた、熱くやりましょう。 Time : 2000/12/30(土) 17:00:03
Name : パンダ E-mail : Title : 機会があれば、ご教示下さい。。。 Comments: パンダです。Toshyさんへ。。。 おかげさまで、あまり馴染みのなかった源頼義・義家以来の奥羽経略史を、 ざっと勉強させて頂きました。 その中で感じた疑問が三つ。。。もし機会があれば、ご教示下さい。 @基衡造立の毛越寺(もうつうじ・もうつじ・もうおつじ?)ですが、少 し変わった寺号ですね。これは正式名なのか通称なのか。。。由来をご 存知でしょうか? A秀衡が義経に千騎程度でも部隊を付けていれば、義経の立場は随分強化 されたでしょうし、頼朝に対しても恩を売れたと思うのですが、何故裸 同然の姿で送り出したのでしょうか? また後日に義経を擁護するくらいならば。。。義経と頼朝の対立が明確 になった時点で、鎌倉攻撃の姿勢を示し鎌倉軍の上洛を牽制しても良か ったと思うのですが、何故義経を見殺し同然の状況で放置し伊予逃亡に いたらしめたのでしょうか? A泰衡が、文治5年(1189)4月30日に義経を殺害以降、弟忠衡をも殺害し、 頼朝に恭順の意を表したにもかかわらず、頼朝の侵攻意図は誰の目にも 明らかでしたから、当然総力を挙げてそれに備えていたと思います。 ところが、国衡を配した厚樫山の防御陣地は1日にして破られ、3日を待 たず全面崩壊しています。それとともに泰衡は後方戦線を離脱し、主力 軍は殆ど戦闘らしい戦闘もせずに敗退していますね。 幾ら相手が歴戦の部隊にしても、良馬勇士を擁し地理を知り尽くした山 河における祖国(?)防衛戦争にしては、(単なる豪族連合体だとして も直衛部隊もいた筈ですので)余りにも不甲斐ないと思うのですが。。。 一体何が原因なのでしょうか? 憂国さん。。。歴史オタクっぽい話題ばかりでスミマセン。 でも歴史っていうのは、こういうオタクっぽい問題を一つ一つ理解してい くことで全体像が明らかになっていくと思いますので。。。もう少し我慢 して下さいね。 Time : 2000/12/30(土) 19:27:36
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : re:挽歌・聖・「山柿の門」・等『万葉集』について Comments: ホームページを立ち上げました。  http://homepage1.nifty.com/shoumu/ へ是非一度お越し下さい。 m(_ _)m  Time : 2000/12/31(日) 06:39:57