Name    : Awaji
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Title   : 救世観音と「山背大兄墳墓」??
Comments: 
Kitunoさん、今日は。Awajiです。

>>山背大兄皇子の一族は、何処に葬られているのでしょう?

残念ながら存じません。敢えて比喩的に言えば夢殿では無いでしょうか?
山背大兄一族の墳墓に関する伝承でもご存知ならば、是非お教え下さい。

Time    : 2000/ 4/ 1(土) 01:13:07

Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ホケノ山古墳(再)」 Comments: みなさん、今日は。Awajiです。勇者ロトさんご覧になっていますか? 去年の五月頃、「邪馬台国」で盛り上がったことがありましたね。 その時に、邪馬台国大和説の鍵をにぎる古墳とし以下のとおり「ホケノ 山古墳」を紹介したのですが、(密かに卑弥呼の墓の可能性を示唆)ご 承知のとおり今回の調査発表で一躍全国的に有名になりました。 Awajiとしては、今回の調査結果により・・・ 畿内(大和)6割、北九州3割、その他(海外・架空を含む)1割 を 畿内(大和)7割、北九州2割、その他(海外・架空を含む)1割 に 変更したいと思いますが、ロトさん、inaさんは如何ですか? 来週の現説には、是非参加したいと思っています。 ******************************** Title : 救世観音と箸墓・・・ヒミコの意味?? 先日の箸墓周濠調査現説では、この見解は、ほぼ全面的に否定されていまし た。なお、年代的には箸墓の北東にあるホケノ山古墳が250年頃に近いと言 うことです。 (調査者は、あくまで個人的見解としてですが、箸墓は280+−20年頃と 言う印象を述べておられました。)・・・ Time : 1999/ 5/ 2(日) 22:11:06 ******************************** Title : 救世観音とホケノ山古墳 Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 ホケノ山古墳は・・・ 箸墓古墳の東、主軸の延長線上にあります。墳丘長約85m、後円部径60mの 前方後円墳です。 ただし、前方部が小さい帆立貝式に近い形式です。周濠を持ち、その幅は 北側17.5m、東側10.5mですが旧河川の削平により、全体像は確認されてい ません。 所謂、初期纒向古墳群の中で、規模的には傑出したものではありませんが、 墳丘全体が河原石の葺石で覆われている点で、他の古墳とは異なっており、 特に注目されています。 中央の埋葬施設は未調査ですが、画文帯神獣鏡が出土した可能性がありま す。 埋葬者の比定は行われていませんが、出土土器から箸墓古墳より、数 十年(2〜30年?)先行していると見られています。 Awajiも、これに続く大型古墳の先駆となる葺石に関心をもっています。 (かなり労力を要するもので、権力の巨大化を意味します。) *径百歩(7〜80m?)にもほぼ該当するのですが、卑弥呼の墓 云々は、あ まりまともに受け取らないで下さい。密かな妄想です。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 18:53:43 ********************************* Time : 2000/ 4/ 1(土) 13:29:04
Name : ina E-mail : Title : 御無沙汰しています。Awajiさま。 Comments:  今回の件については、かつて周濠から見つかった土器が三世紀後半のもの だったこともあり、築造時期を三世紀後半(ここらに+−20年というような精度が 個人的見解の範囲でも出せるのが不思議です)までの広い範囲で考えるべきで、 卑弥呼時代との関連については、過去に分かっていたこと以上の知見が得られた と大騒ぎするのは如何なものでしょうか?  前方後円墳の定義まで再考してこれをその中に含めるやり方はどうも「先に結論 ありき」の典型であるように思われます。  とまあ、一応感情的に反論しておきます。  一方で、私はいろいろ読むほどに自分の内部で北九州(宇佐)へのロマンが崩壊 するのを感じています。  宇佐の神託事件、豊受大神=台与、といった、ロマンが、、。  畿内51%、宇佐49%に変更します。(泣きながら) Time : 2000/ 4/ 1(土) 21:56:23
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ホケノ山古墳の意味」 Comments: inaさん、お久しぶりです。Awajiです。 今回の「ホケノ山古墳」の調査の意義は、明確に「庄内式」と見られる土 器が発掘されたことでしょう。(箸墓周濠では「布留0式」でした) これにより「ホケノ山古墳」が250年頃の築造であることが、まず確実にな ったのです。(従来は、推定でした) 確かに「前方後円墳」「古墳」の定義を云々するのはチョット如何なもの 思いますが・・・いずれにせよ卑弥呼没年(247)とほぼ同時にこれだけの 規模(巨大権力の存在が推定可能)の墳墓築造が確認された意味は大きい と思います。 それと木郭・石室と言う埋葬施設の存在ですね。これには驚かされました が、その意味については議論百出でしょう・・・正直言いますとAwajiは、 卑弥呼の墓である可能性が若干でも高まったと思っているのですが、現地 でこの痕跡を眺めながら、さらに古代に思いをはせたいと・・・(^0^)" 何かインスピレーションが湧いたらご報告いたします。 Time : 2000/ 4/ 1(土) 23:09:55
Name : kituno E-mail : Title : 「御坊山古墳群」 Comments: こんばんは。 kitunoです。 >山背大兄一族の墳墓に関する伝承でもご存知ならば、是非お教え下さい。 高田良信氏は「藤ノ木古墳」の250メートル西方の「御坊山古墳群」に 山背大兄王は葬られているのではないか、と著書の中で述べられています。 (詳しくは、自分のトピックに書き込みます。^^;) 邪馬台国について質問させて下さい。 今回のホケノ山古墳の発掘により、「邪馬台国東遷説」も弱まったのでしょうか? Time : 2000/ 4/ 2(日) 23:23:46
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「御坊古墳群」?? Comments: Kitunoさん、みなさん、今日は。Awajiです。 >>高田良信氏は「藤ノ木古墳」の250メートル西方の「御坊山古墳群」 >>に山背大兄王は葬られているのではないか、と著書の中で述べられてい >>ます。 ありがとうございます。出来れば何と言う著書か教えて頂けますか? 「竜田御坊山古墳群」は、既に破壊されたしまったのですが、三基の古墳 の合葬状態や、三号墳(径8M、高2.5M)の横口石槨に眠る青年の遺 体を、山背大兄一族と結びつける説もあるようです。(御廟山と呼ばれて いた可能性がある)・・・Awajiには良く分かりません。 一、二号基はブルドーザーで破壊されていたようで、詳しい調査がなされ ていません。悲しむべき文化財破壊の実例ですね。 >>今回のホケノ山古墳の発掘により、「邪馬台国東遷説」も弱まったので >>しょうか? 「邪馬台国東遷説」はもともと「邪馬台国九州説」を前提としたものと思 われます。従って「ホケノ山古墳」発掘により「邪馬台国畿内(大和)説」 が強化されたとするなら(Awajiはそう考えていますが)ば、そういう言 い方も出来ると思います。 因みに、Awajiが十数年前に、北九州説60%から畿内(大和)60%に乗り換え たのは、古墳築造年代から見て古代権力の東遷は、三世紀よりカナリ早い 段階であり、「邪馬台国東遷」は有り得ないと考えたためです。 (紀元一世紀頃に「神武東遷」に近い武力集団の移動が行われたと想像し ています。) Time : 2000/ 4/ 3(月) 00:29:32
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様,御礼が遅れてすみません Comments:  Awaji様,意見の言いっぱなしになっていて申し訳ありません。 さらに、冷静に小生の愚見をお受け止め頂き,ありがとうございます。 Awaji様に解説頂いたおかげで,一定度の理解をうることができました。 しかし、小生はAwaji様個人で述べられているご意見につきましては, 一貫してほとんど異論がない程度に論理的で,実証的な論述をされておられると ずっと感心させられておりますが,それに比較して,これだけご説明頂いても, 坂本氏の文章は余りすっきりと納得するレベルに至っておりません。 まだ、論理的・実証的に飛躍がありすぎるように思います。 もちろん、自然な一つの見方である事は当然ですが、この文章の論調からみて 相手の説を否定するための強い結論としては,かなり無理があるように思います。  ただ、この件につきましては,歴史的内容についての議論を深めたいと いうのでなく、論述上の問題についてのみの指摘ですので, Awaji様の冷静なご意見にお礼を申し上げるのとどめておきたいと思います。 なお、ホケノ山をめぐってヤマタイの議論が再開し,楽しんでおります。 Time : 2000/ 4/ 3(月) 10:03:26
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「富郷陵墓参考地」?? Comments: 大阪JF生さん、Kitunoさん、今日は。Awajiです。 坂本論文については・・・この辺にしておきましょうね(・_・;) kitunoさん・・・ 山背大兄墳墓についてですが、御坊山古墳群とは別の候補地として富郷 (とみのさと)陵墓参考地があるようです。これは法輪寺南方の片野池 手前の丘陵地山頂の30M級円墳です。この周囲には約10基の小規模円墳 (桶崎古墳群)があり、これらが山背大兄一族の墓群と言う説もあるよ うです。 その他に、西円堂西北の慶花池東に梵天山古墳三基があり、未調査です がこれらも後期或いは終末期古墳と見られています。 Awajiには全く判断出来ませんが、高田さんは、これらの古墳については 特にコメントされていませんでしたか? Time : 2000/ 4/ 3(月) 22:56:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「邪馬台国九州説」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 ホケノ山古墳の発掘調査により、多少分が悪くなったとされる九州説論者 から若干の反論がなされ、「週刊朝日」で取り上げられています。 (Awajiとしては一部の大和説論者も少し調子に乗りすぎているような気 はしますが・・・・) まず、佐賀短大の高島さんですが、仮にホケノ山古墳が三世紀中頃として も・・・ @この古墳を作ったのは、九州・山陰・瀬戸内・大和・伊勢湾・関東等の  幾つもある部族連合体の一つであって、短絡的に邪馬台国には結び付け  られない。 A出土した「画文帯神獣鏡」は南方系の鏡であり、呉鏡と見るべきである。  従って、ホケノ山古墳を作った部族連合体は、呉との交流を持ったもの  であり邪馬台国ではない。 B逆に北部九州では魏で作られていたと見られる銅鏡がたくさん見つかっ  ていて、魏とのつながりが強い邪馬台国は九州にあったと考えたほうが、  つじつまが合う。 また、産能大の安本さんは・・・ C「魏志倭人伝」には、「棺あって槨なし」と明記されているが、ホケノ  山古墳には木槨があるので、記述と矛盾する。 D庄内式土器の年代推定は学者によりまちまちで、300年頃と考える人が 少なくなかった。ホケノ山古墳は300年頃、箸墓古墳は350年頃の築造 と思う。 E「画文帯神獣鏡」は、日本でまねて作られた可能性もあり、三世紀中頃 の根拠とはならない。 F九州の平原墓は、三世紀中頃の卑弥呼時代にまでさかのぼることは、異 論がないことだと思う。棺のみであり「槨なし」にも一致する。 G平原古墳からは、39面の北中国系の鏡が出土しており、ホケノ山古墳の ような南中国系の鏡ではないので、このほうが整合性がある。 としておられます。現在のところ井沢さんのご見解は目にしていませんが、 これらの反論に関しみなさんはどの様にお考えでしょうか? ・・・・Awajiの意見は、別途申し上げたいと思います。 Time : 2000/ 4/ 5(水) 21:30:41
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「邪馬台国九州説 U」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 先般、邪馬台国九州説からのホケノ山古墳に関する高島・安本反論を紹介 しましたが、この反論に関する疑問点につき・・・・以下。 高島見解・・・ @この古墳を作ったのは、九州・山陰・瀬戸内・大和・伊勢湾・関東等の  幾つもある部族連合体の一つであって、短絡的に邪馬台国には結び付け  られない。 A出土した「画文帯神獣鏡」は南方系の鏡であり、呉鏡と見るべきである。  従って、ホケノ山古墳を作った部族連合体は、呉との交流を持ったもの  であり邪馬台国ではない。 B逆に北部九州では魏で作られていたと見られる銅鏡がたくさん見つかっ  ていて、魏とのつながりが強い邪馬台国は九州にあったと考えたほうが、  つじつまが合う。 安本見解・・・ C「魏志倭人伝」には、「棺あって槨なし」と明記されているが、ホケノ  山古墳には木槨があるので、記述と矛盾する。 D庄内式土器の年代推定は学者によりまちまちで、300年頃と考える人が 少なくなかった。ホケノ山古墳は300年頃、箸墓古墳は350年頃の築造 と思う。 E「画文帯神獣鏡」は、日本でまねて作られた可能性もあり、三世紀中頃 の根拠とはならない。 F九州の平原墓は、三世紀中頃の卑弥呼時代にまでさかのぼることは、異 論がないことだと思う。棺のみであり「槨なし」にも一致する。 G平原古墳からは、39面の北中国系の鏡が出土しており、ホケノ山古墳の ような南中国系の鏡ではないので、このほうが整合性がある。 @については、確かに短絡的に大和に結びつけるのは問題ですが、少なく とも三世紀中頃において日本列島における最大の国(部族連合体?)が大 和にあったことは、認めざるを得ないのでは無いかと思います。 それでは、それら「部族連合体」の総称「倭国」の盟主的存在である「邪 馬台国」を北九州とした場合、大和は一体何国と呼ばれていたのかと言う 問題が生じます。 大和にあった「部族連合体」は「狗邪國」なのでしょうか(とすれば、九 州説の拠り所である魏志の方向記事と矛盾します)? 或いは「倭国」領域外とされていたのでしょうか(呉と通交をもっていた 巨大な「部族連合」を魏が無視するとも考えられません)? やはり、大和に存在した当時の日本列島最大の「部族連合体」が、倭国の 盟主邪馬台国である可能性が極めて高いと考えるべきでは無いでしょうか? ABFGにおいて、ご両者ともに「銅鏡」を北方系(魏鏡)と南方系(呉 鏡)に分類し、ホケノ山古墳出土「画文帯神獣鏡」を南方系、平原等北九 州出土鏡を北方系としておられます。 しかしながら、そもそも平原等北九州出土の「後漢鏡」等を南方・北方系 に分け、それがあたかも魏鏡・呉鏡であるかの様に言われること自体に無 理があります。 鏡論争は今だ混沌としていますので、これを根拠としての推論には自ずか ら限界があると思います。(逆に三角縁神獣鏡を、直ちに魏鏡と決め付け るのも問題ですが・・・・) 平原遺跡は、出土漢鏡から卑弥呼時代より遥かに古く、二世紀以前と考え る人もいます。これでは卑弥呼時代とは全く整合性は無くなり、むしろ漢 の倭奴国や升帥(或いは伊都国)との関係が問題となるでしょう。高島さ んが「魏で作られていたと見られる銅鏡がたくさん見つかっていて」とさ れるのは如何なものかと思われます。 また安本さんは、Eで「画文帯神獣鏡」が倭製である可能性ありとされ、 ホケノ山古墳の築造年代に疑問を呈しておられますが、その一方Gにおい て平原古墳鏡を北方系(魏鏡)、ホケノ山古墳鏡を南方系(呉鏡)として おられます。しかし仮に「画文帯神獣鏡」が倭製であれば、平原出土鏡も 倭製の擬古・模倣鏡の可能性があり、鏡により時代や北方系・南方系を論 じること自体が無意味になってしまうのでは無いでしょうか? 次ぎにDの土器編年ですが、確かに土器の絶対編年には、議論の余地があ るものの、樹輪年代測定の進展とともに時代が古く判定されつつあり、今 時庄内式を300年頃と考える人は先ずいないと思います。 (安本さんご自身が「少なくなかった」と過去形で示されていますね) 安本さんが庄内土器を300年代、布留0式を350年代とされるならば、その 根拠を示されるべきでしょう。 (最新の説では布留0式を280〜300年とする見方が中心で、250年近くまで さかのぼらせる意見すら出はじめています。・・・この場合は庄内VW式 との混在説もあるようです。) 最後にC「木槨」ですが、この部分は、 倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥(*7)息異處以朱丹塗其身體如 中國用粉也食飲用邊(*8)豆手食「其死有棺無槨封土作冢」始死停喪十餘日 當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐其行來渡 海詣中國恒使一人不梳頭不去{虫幾}蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名 之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹 倭地の一般的風習を記述したものです。現在でも我国の葬礼をごく簡潔に 報告する場合、「倭人火葬し、土葬せず」と記述され得ますが、実際には 土葬の例も無いわけではありません。(昭和天皇はどっちかしら??) しかもこの時代は「魏」との通交により大陸の文物を取り入れた時期です から、(通交と同時の築造?)ホケノ山古墳に木槨らしいものがあったこ とをもって、魏志記述との矛盾を主張されるのは、如何なものかと思われ ます。 (Awajiは、この木槨とされるものは、或いは単なる石室の補強材の可能 性があり、中国で言う「槨」にあたるのかどうか少し疑問を持ちはじめま した。) それよりも、三世紀中頃の北九州に・・・ 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」 と記述されるような、80〜140m級の大塚(古墳)が存在するのかどうか が問題だと思いますが如何でしょう? なおホケノ山古墳と、ほぼ同時代の可能性がある「纒向古墳群」には次 ぎのものがあります。 纏向勝山古墳 桜井市黒田字勝山 前方後円墳 全長110m 未調査 纏向石塚古墳 桜井市太田字石塚 前方後円墳 全長約94m 纏向矢塚古墳 桜井市東田字矢塚 帆立貝式古墳? 全長約96m 未調査 纏向矢塚古墳 桜井市東田字矢塚 帆立貝式古墳? 全長約96m 未調査 東田大塚古墳 桜井市東田字大塚 帆立貝式古墳? 全長約96m 未調査 巻野内石塚古墳 桜井市巻野内字石塚 円墳 径約35m 未調査 − 堂ノ後古墳 桜井市箸中字堂後 円墳? 径約35m 未調査 − − ホケノ山古墳 桜井市箸中字ホケノ山 前方後円墳 全長約85m 調査中 茅原大墓古墳 桜井市茅原字大墓山 帆立貝式古墳 全長約66m 未調査 これに黒塚古墳・箸墓古墳等の大型古墳が加えられますので、はっきり 言って古墳の規模(総量)から推定される北九州と大和の権力規模は、 隔絶していると考えざるを得ません。 P.S. 同位炭素検査の結果によれば、ホケノ山古墳は200年代の初めから前半 だと言うことのようです。つまり・・・箸墓が200年中頃の可能性が高 くなり、年代的には卑弥呼墓の可能性が出てきました。 安本さんは、この100年の差をどうされるのでしょうか? Time : 2000/ 4/ 7(金) 23:33:39
Name : kituno E-mail : Title : 高田良信氏の本と邪馬台国 Comments: Awajiさん、皆さん、こんばんは。 >出来れば何と言う著書か教えて頂けますか? ご質問の高田良信氏の著書は、新潮社発行の「法隆寺千四百年」です。 写真がたくさん掲載されていますので、法隆寺について知りたい方には お薦めです。 「御坊山古墳群」については、もともと「御廟山」と呼ばれ、貴人の墓 と伝えられてきたこと、三彩の硯やガラス製品などの輸入品を含む副葬 品から「上宮王家」ゆかりの人の墓だろうと考えられていることなどが 書かれています。 考古学所見では築造年代は、七世紀半ば。ちょうど山背大兄王一族滅亡 事件の起きた頃と一致するわけです。 また、その鎮魂として丘陵の下に竜田神が勧請されたのではないか、と 高田氏は考えられています。 富郷(とみのさと)陵墓参考地と西円堂西北の慶花池東に梵天山古墳三 基については、書かれていません。 もう少し詳しく教えていただけますか? 「邪馬台国東遷説」についてもお考えを聞かせていただき、ありがとう ございます。 私は、「邪馬台国は九州にあった」と思っています。 神武東征神話は、邪馬台国東遷が伝承化されたものだと思いたいですし、 「卑弥呼=天照大神」と考え、天孫降臨神話は、邪馬台国が九州にあっ たことを物語っているのではないかと思っていました。 安本美典氏の説を読んだときは、とても感銘を覚えました。 これらのことでは、このBBSにおいても激論が交わされたのでしょう? 今回のホケノ山古墳の発掘で、 >大和に存在した当時の日本列島最大の「部族連合体」が、倭国の盟主邪 馬台国である可能性が極めて高いと考えるべきでは無いでしょうか? ...と考える方が増えたのは、確実ですね。^^;; 糸島郡前原町の三雲・井原遺跡(弥生中期)と平原遺跡(弥生中期末から 後期)は伊都国王の墓とは推定できないでしょうか? いろいろ問題点はあるようですが、伊都国から邪馬台国までの『魏志』倭 人伝の読み方として、榎一雄氏による「放射式読み方」に大変魅力を感じ ています。 Time : 2000/ 4/ 8(土) 23:54:09
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「邪馬台国 V」?? Comments: Kitunoさん、みなさん、今日は。Awajiです。 土曜日は一日中、桜見物にアチラコチラ駆け回っていました。 (夕日に映える山城地蔵院のしだれ桜には感激・・・) 日曜日は、花粉症気味の我妹とホケノ山古墳の二時間待ち?です。 >>富郷(とみのさと)陵墓参考地と西円堂西北の慶花池東に梵天山古 >>墳三基については、書かれていません。もう少し詳しく教えていた >>だけますか? 「御坊山古墳群」については、一応調査内容は知っています(石槨も 樫古研で見た記憶があります)が、富郷陵墓参考地と梵天山古墳三基 は未調査ですので、詳細は存じません。 ただ富郷陵墓参考地を山背大兄一族に結びつける説は、従来からあり ましたので、何故高田さんが触れられなかったのかチョット疑問に感 じたのですが・・・・ >>私は、「邪馬台国は九州にあった」と思っています。神武東征神話 >>は、邪馬台国東遷が伝承化されたものだと思いたいですし、「卑弥 >>呼=天照大神」と考え、天孫降臨神話は、邪馬台国が九州にあった >>ことを物語っているのではないかと思っていました。 >>安本美典氏の説を読んだときは、とても感銘を覚えました。これら >>のことでは、このBBSにおいても激論が交わされたのでしょう? Awajiも、かって邪馬台国オタクだったので、20数年前に繰り広げられ た安本・古田論争については、面白く読ませて頂きました。 (その頃は、Awajiも60%以上北九州説でした) 「神武東遷」「卑弥呼の謎」「高天が原の謎」「日本語の成立」等も 懐かしい書籍です。(当時からチョット無理な見解が多すぎるとは思 っていましたが・・・) ただ今回の安本さんのホケノ山古墳に関する新聞見解で見る限り、氏 は当時から全く進歩されていませんね。 つまり、ここ数十年の著しい考古学の進歩から取り残されているよう な印象を強く受けました。(目を背けておられる??) >>糸島郡前原町の三雲・井原遺跡(弥生中期)と平原遺跡(弥生中期 >>末から後期)は伊都国王の墓とは推定できないでしょうか? 前回RESで申し上げたとおり、その可能性は充分あり得ると思います。 おそらく「伊都国」は、本来その傘下一族であった「神武」が紀元一 世紀頃に東征建国し、その後順調に発展した「邪馬台国」に、二世紀 末から三世紀初に逆吸収(倭国大乱)され、卑弥呼の頃には後世の太 宰府的な性格の国に変化していたのでは無いかと思っています。 「天照」は、それより遥か以前(紀元前二世紀頃?)に、北九州と山 陰地方の覇権抗争時代の祭祀女王達の何らかの記憶があり、「伊都国」 「邪馬台国」共通の祖神とされたのでは無いかと想像しています。 (安本さんは「平均在位法」から神武を、三世紀末とされていたと記 憶していますが、政治的な事情=譲位に左右される在位での考察は無 理があり、古代大王の存在を前提としながら系譜を無視するのも如何 なものかと思っています。 初期古墳の年代推定からも三世紀の東遷は、まず有り得ないでしょう。 Awajiは「平均在世法」から神武を一世紀初頃、開化・崇神を三世紀 中頃と想像し、卑弥呼はその頃の祭祀王=大王一族では無かったかと 想像しています。) 1999/ 4/19 救世観音と倭国俯瞰 1999/ 4/23 救世観音と倭国朝貢 1999/ 4/24 救世観音と年代推定 1999/ 4/30 救世観音と年代比定 *昭和天皇は124代ですが、世代では71世になります。従って欽明以降 の平均世代交替は、28.36年になるのでこれらによって逆算するもので す。(以下の簡易法としては50代28世桓武等より25年で逆算しています。) 以下・・・1999/ 4/30 救世観音と年代比定 一部再録です。 41〜66 神武 建武中元二年(57年)倭奴國奉貢・・光武賜以印綬 66〜91 綏靖 91〜116 安寧 安帝永初元年(107年)倭國王帥升等・・願請見 116〜141 懿徳 141〜166 孝昭 倭国大乱? 漢・桓帝(146〜167) 166〜191 孝安 漢・霊帝(167〜189) 191〜216 孝霊・大吉備津彦 216〜241 孝元・倭迹迹日百襲 241〜266 開化・大彦 景初二年六月(239年)倭女王遣詔書親魏倭王 卑弥呼没(248年?)(北史) 266〜291 崇神・彦坐 壹與(266年)遣送政等還因詣臺 (以上 魏志) 291〜316 垂仁 楽浪郡滅亡313 、晋滅亡316 316〜341 景行 341〜366 (倭建)・成務 百済建国(346年?)・新羅建国(356年?) 366〜391 仲哀・神功 秦和四年(369?)七枝刀 故為倭王旨造・・ 391〜416 応神・忍熊 広開土王元年(391年)而倭以辛卯年来渡海 広開土王九年(399年)己亥百残違誓与倭和通。 広開土王十年(400年)庚子・・倭賊退。 広開土王十四年(404年)甲辰倭不軌侵入帯方界 倭寇(潰)敗斬殺無数 広開土王没(412年) (以上 高句麗碑文) 416〜441 (若野毛二俣)・仁徳 百済腆支王十四年(418年)遣使倭国送白絹 高祖永初二年(422年)詔曰倭讃萬里修貢 太祖元嘉二年(425年)讃又遣司馬曹達奉表獻 讃死弟珍立遣使・・詔除安東將軍倭國王 441〜466 (意富富抒)・履中・反正・允恭 二十年(442年)倭國王濟遣使爲安東將軍倭國王 二十八年(451年)倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍 新羅慈悲麻立干二年(459年)倭人以兵舩百余艘襲東辺 世祖大明六年(462年)詔曰倭王世子興安東將軍倭國王 466〜491 (乎非)・安康・雄略 高句麗 百済国都を陥し、百済南遷(475年) 新羅慈悲麻立干二十年(477年)倭人挙兵五道来侵境 順帝昇明二年(478年)遣使上表・詔除武使持節都督 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王 辛亥年(471?)七月中記乎獲居臣・・獲加多支鹵大王(稲荷山鉄剣) 宋滅亡(479) 491〜516 (汗斯)・清寧・顕宗・仁賢  516〜541 継体・武烈 新羅 任那加羅金官国併合(532年) Time : 2000/ 4/ 9(日) 10:23:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ホケノ山古墳 U」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。(勇者ロトさんお久しぶりです) ホケノ山古墳現説ですが・・・意外と時間待ちがなく、約30分で見ること が出来ましたが、問題の「石囲い木槨」については、充分確認できません でした。以下・・・説明会資料の抜粋です。 1.はじめに 三輪山の麓に存在する墳丘約280mの箸墓古墳は、最古の巨大前方後円墳 として広く知られています。箸墓古墳の周辺にはホケノ山古墳のほか、纒 向石塚、矢塚、勝山、東田大塚など、箸墓古墳と同時期、あるいはそれに 先行すると考えられる前方後円墳があり、また一帯には纒向遺跡が広がっ ています。この地域が、大和政権の誕生と深いかかわりをもつことは、疑 いありません。 ホケノ山古墳は、桜井市大字箸中に所在します。これまでの3次にわた る墳丘や周濠の調査によって、箸墓古墳よりも古い時期のものである可能 性が指摘されていました。昨年9月から、より具体的に古墳の実体を明らか にするための発掘調査を進めてきましたが、その主要な成果ここにご紹介 いたします。 2.墳丘 全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方 部高約3.5mの、前方部を南東にむけてつくられた前方後円墳です。墳丘の 表面には葺石を設け、周囲には周濠を巡らせています。前方部裾付近では、 葺石を一部破壊して設けられた埋葬施設が検出されています。 3.中心主体部 古墳の主人を葬った中心主体部は、後円中央部に設けられた「石囲い木 槨」です。「石囲い木槨」はわが国で初めて確認された特殊な構造の埋葬 施設で、木材でつくった「木槨」の周囲に、河原石を積み上げて「石囲い 」をつくるという、二重構造をもっています。「石囲い」の上部は木材で 天井とし、その上に大規模な積石を行います。「石囲い」部分は、内法で 長さ約7m、幅約2.7mで、高さは現状で約1.1m、本来の高さは1.5m程度 と考えられます。「石囲い木槨」の内部には、長さ約5mのコウヤマキ製 の長大な刳抜式木棺をおさめていました。この古墳の主人の遺骸は、木の 棺、木の部屋、石の部屋によって幾重にも厳重に包み込まれていたのです。 埋葬施設の上部には石を積んだ長方形の壇があったと推定され、このまわ りにはさまざまな文様で飾った二重口縁壷を、ほぼ一定の間隔で長方形に 並べていました。 4.出土遺物 現在までに、中国製の画文帯神獣鏡一面のほか、内行花文鏡・半肉彫表 現の鏡の破片若干、素環頭大刀一口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本 以上、鉄鏃60本以上、鉄製農工具など、数多くの副葬品が出土しています。 また、棺内には多量の水銀朱がみられます。 5.横穴式石室 中心主体部西側に、6世紀末頃の横穴式石室が墳丘を再利用してつくられ ています。石室全長14m以上で、玄室に組合式家形石棺を安置しています。 若干の土器、鉄釘などが出土しました。 6.まとめ 出土した二重口縁壷は土器の編年上、庄内式と呼ばれるものです。画文 帯神獣鏡は後漢末の製作とみられます。埋葬施設に使用された石材には、 箸墓古墳をはじめ、周辺の前期古墳に普遍的に使用されている二上山周辺 産の板石がまだ含まれていません。木槨を採用した特殊な埋葬施設の構造 などを総合して考えると、この古墳の築造年代は箸墓古墳よりさらに古く 、3世紀中葉と判断されます。内容的には、定型的な古墳時代前期の前方 後円墳とまったく共通する点、あるいはつながっていく点が多い反面、弥 生時代の大型墳墓に類例が求められる要素もみられることが注目されます。 ホケノ山古墳は、同時期の他のどの地域の墳丘よりも大きな墳丘、大規模 で複雑な構造の埋葬施設をもち、副葬品も質・量ともに豊富です。今回の 調査で得られた成果は、古墳時代の開始にかかわるさまざまな問題を考え る上で、きわめて重要な意味をもつものといえるでしょう。 Awajiの印象・・・ @「木槨」と言うほどのものであったのかどうかは、依然として疑問。 A「画文帯神獣鏡」は仕上がりが良く、説明どおり中国製(後漢鏡)と いう印象が強い。 B6世紀末〜7世紀初とみられる横穴式石室が、主要埋葬施設に極めて接 近しているのが印象的である。埋葬者を意識して特にこの部分に埋葬 された可能性が強いと思われる。 C箸墓古墳とホケノ山古墳の中間にある円墳は、後期古墳とされている が、或いはより古いもので両古墳と何らかの関係があるかも知れない ・・・他の纒向古墳群と共に早急な調査を期待したい。 DC14検査結果に関しては、特にコメントは無かったが、さらに詳細 報告がのぞまれる。(ホケノ山古墳の木棺がC14年代測定法にかけ られて、その結果がでています。1cm角のサンプル5点を測定した 結果は、A.D.120を中心に75〜215年、同じく80〜155年ということで す。樫古研では、この結果3世紀初の可能性も出てきたとしています) 勇者ロトさんへ・・・・ >>ホケノ山古墳の築造年代が卑弥呼の生存中なわけですからホケノが邪馬 >>台国の墓だとすれば、卑弥呼以前に邪馬台国は畿内を中心とする支配体 >>制を固めていたということになりますよね? Awajiとしては、これら古墳群の総量(労働力・食糧・資材)を考えれば、 畿内中心では困難であり、やはり魏志の言う邪馬台国は大和にあり、瀬戸 内・九州北部を含む倭国(30余国)に対して支配権を有していたと考える のが妥当では無いかと思います。 従って、畿内を中心に支配体制を固めたのは、紀元1世紀の神武侵略に始 まり、倭国大乱以前(2世紀前半)には完了したのでは無いでしょうか? >>最初に大和を開いたのは、紀元頃に出雲で絶頂期を迎えた出雲勢力で >>はないかと思っています。銅鐸の分布が主な理由です。 おそらくそうだと思います。神武が侵略したのは、既に大和に移住してい た出雲勢力では無かったかと思います。(彼等は東海地方に逃れ、参遠式 銅鐸を残した・・・3世紀には狗奴国として邪馬台国と対抗したのでは無 いでしょうか?) >>三輪山に祀られた大物主に纏わる人物の古墳ではないかとも思っていま >>す。大国主の国作りを助けた大物主が出雲から大和へ進出してきたので >>はないでしょうか? おそらく、この大物主的人物はナガスネヒコ(の先祖?)かも知れません。 Awajiは、神武の侵略は3世紀より遥か以前のことだと思っていますので、 3世紀の古墳を出雲勢力と結びつけるのは疑問です。 ただし、最終的に出雲勢力を制圧したのは、倭国大乱の頃だと思いますの で(開化・崇神時代)、この頃に更めて出雲勢力の祖神鎮魂(出雲系住民 の宣撫工作)を行ったのでは無いかと思います。 1999/ 4/19(月) 救世観音と倭国俯瞰・・・以下に一部修正再録します。 (今回の発掘等から、さらに年代を繰り上げるべきと思いましたので・・・) ・・・Awajiの想定は、先にお示ししましたが、以下に再度要約します。 (弥生期区分・古墳時代区分は通説と少し違っています。年代についても敢 えて大雑把に示しました。)・・・ 1.弥生前期(紀元前300〜紀元前100)中国南部の米作民族が、北部漢人   (戦国〜前漢王朝)の圧迫に抗して大量に韓国南部から、日本列島西南 部に移住し、先住縄文人等と混血融和して倭人を形成した。   (彼等の先祖伝承や海洋系の記憶が後世イザナギ神話に結実した。)   しかし、韓国は米作不適地が多く、主力は北九州・出雲に展開した。そ れらの諸部族が次第にプレ国家的発展をとげ、また吉備・大和方面にも 拡大していった。 2.弥生中期(紀元前100から紀元前後頃)  北九州・出雲方面において次 第に部族国家が形成され、複雑な連衡合従(抗争)が生じた。1〜2に かけては女性(祭祀)首長の権威が高く、外交・戦争にも大きな役割を 果たした。この記憶が後世「天照大神」神話に結実した。   この頃九州北部の盟主「倭奴国」は韓国南部にも影響を及ぼしていたの で、後漢の韓国進出に応じて中国外交を開始した。   3.弥生後期(紀元前後から紀元200年)  これら部族国家が次第に地域 (同族)連合に統合され、それぞれより強固な連合国家(比較的緩い連合)   を形成していった。主要な地域連合は九州北西部、吉備瀬戸内、出雲大 和、若狭北陸(越)、東海、関東(縄文性が強い)であったが、必ずし も固定的では無かった。   *荒神谷遺跡は、ほぼこの2〜3頃に相当か?   この頃、九州北西部の部族王が出雲大和連合国の中心となっていた大和 方面への進出(出雲大和連合国は2の頃から、九州北西連合に圧迫され 中心を大和に移していた?)を企図し、盟主「倭奴国」の協力と、吉備 連合国の一部の糾合のもと大和侵攻を開始し、奇跡的に成功を収めた。  (この成功により邪馬台国の前身が畿内に成立し神武東遷神話となった。)   *従って、国を挙げての東遷についてはAwajiも否定的なのです。    なお京都盆地は、当時は排水技術の関係で、まだ未開地であり後世秦 氏等の努力によって開発されたと考えています。   出雲大和の一部の反抗勢は東海方面に逃れ、その一部となった。   *銅鐸の流れは、出雲から大和さらに東海に移動・発展していると判断 しています。   吉備から畿内を手中にした神武及びその子孫は、次第に北九州西北部連 合国に対しても優位にたち、西日本のかなりの部分に極めて緩やかな支 配権を及ぼすに至ったが、紀元150年頃からその支配権の強化に乗り出し 、激しい抗争を展開した。(倭国大乱)   その結果、邪馬台国を中心とする倭国が成立したが、その支配権確立の ため女性祭祀王の宗教的権威を大いに利用した。 これが女王卑弥呼である。(概ね室町幕府や豊臣政権初期程度の求心力?)   4.古墳時代初期(紀元200年から紀元300年 )かくして西日本の大部分 (韓国南部にも影響を及ぼしていた)に支配権を拡大した邪馬台国は、 中国(魏・呉)の韓国進出をにらみ、中国外交を再開するに至った。   一方、東海関東勢力も狗奴国を中心として次第に連合を強化し、倭国 (邪馬台国)に対抗したが、倭国が結束している限り、その対抗力は弱 かった。   この頃の倭国(邪馬台国)の権力を象徴的に示すのが纒向古墳群から箸 墓等の古墳の巨大化である。・・・ほぼ開化・祟神期に相当。 5.古墳時代前期(紀元300年から400年)  倭国連合国の象徴であった卑 弥呼の死後、一時的に倭国の結束が乱れ、倭国内の旧出雲大和勢力に対 する懐柔等策等が講じられたが、最終的には倭国は安定し、さらに倭国 内の支配権を強化した。(徳川幕府成立時程度の求心力?)   さらに東海関東にも積極的に和戦両用の進出を行った。  (しかしながら、九州南部、出雲、吉備、越等の旧地方勢力の反抗の危機 は常に継続しており、これらが日本武尊伝承に反映された。)      また、韓国南部においては中国勢力の後退に伴い、国家形成の動きが進 み、百済・新羅が成立した。(340年〜360年頃)最南部の任那加羅に おいては倭国勢力圏にあったこともあり、それらの動きは鈍かったが徐 々に進行していた。   なお、中国外交は廃止され、戦乱を避けた漢系韓国人等の移入を推進し た。・・・ほぼ祟神から垂仁・景行・成務期に相当 6.古墳時代盛期(紀元400年から500年) 中国勢力の後退に伴い、高句麗 が巨大化し、韓半島南部に勢力を拡大したので、倭国との覇権を巡って 戦乱が拡大した。倭国は高句麗の騎馬戦法に苦慮し、一時は敗戦を余儀 なくされ国内も動揺したが(恐らく仲哀は戦死か?)、この混乱を収束 した神功は騎馬戦法も採り入れ、継承戦争に勝利し応神の即位に成功し た。(神功・応神は、おそらく正統大王忍熊の地位を簒奪した。)   これを機会に、倭国の中央権力はさらに強化され、戦乱を避けた韓人の 大量移入もあって倭国の生産力も拡大した。これらを象徴するのが河内 ・和泉の世界的巨大古墳である。   また、韓半島においても、戦闘から外交手段の時代となり、所謂倭五王 の中国外交が展開された。しかし、所詮は中国は頼りにならないと判断 され、倭天下(中華)思想の発展と共に中国外交は廃止された。   この間百済・新羅の実力涵養とともに、韓国南部の倭勢力は後退を余儀 なくされた。(多くの任那加羅系人が流入した)   また、倭国大王の権力が飛躍的に高まったことにより、継承争いが激化 し、一時的に大王位空白時代も生じたが、大王一族の継体擁立により収 束した。 Time : 2000/ 4/ 9(日) 21:36:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ホケノ山古墳と鏡 Comments: Awajiさん、みなさんご無沙汰しておりました。お久しぶりです。 Awajiさんホケノ山古墳についてのレポートありがとうございます。 たいへん参考になりました。 3世紀初頭の畿内の古墳から内行花紋鏡が出土したわけですか・・・・。 私は卑弥呼の鏡というものは内行花紋鏡・画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡を纏めて百 枚ではないかと思っています。内行花紋鏡は、伊都国でも発屈されてますよね? 内行花紋鏡が伊都国王族、画文帯神獣鏡が邪馬台国王族の祭祀に用いられ、三角縁 神獣鏡がその他の重要氏族または王族に下賜されたものとかいう鏡の使い分けとい うものがあったのではないでしょううか? 神獣鏡を副葬するということは、神仙世界へ憧れが死後の世界として意識されてい たからではないかと思います。道教の影響が強かったのではないでしょうか? 弥生から古墳への時代の移行の背景には、道教思想の流入とその広がりがあったと 考えています。もちろん後代の理論道教とは違ったものだとは思います。 神武を初めとする九州勢力の東遷活動による勢力地図の変化よりも、それに伴う宗 教意識の変化の方が劇的なものだったのかもしれませんね。 九州勢力の首都(?)伊都国の三雲遺跡はもう少し早い段階の遺跡でしたよね。 神武東遷に相当する事件の時期は加茂岩倉と荒神谷(紀元から2世期)の間の様に 思っています。加茂岩倉の銅鐸埋納時期の方がやや古いらしいです。 石囲い木槨は出雲の四隅突出型墳丘墓にも見られるとも聞きました。 新聞でちらと見かけたところによると、木造建築技術も相当高いものだったという 証明になるらしい???? 邪馬台国の位置論、年代考証についてはもう1度再考してみたいと思っています。 ホケノ山だけでなく、マキムク遺跡群自体の年代考証も前倒しされるかも??? 大和を開いた出雲勢力が神武東遷をうけて東海地方に退いたという見かたは新鮮な 感じがしました。確かに銅鐸の形態変化など考え合わせれば自然な流れのように思 います。 Time : 2000/ 4/10(月) 11:04:04
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「次は播州の番」?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 ご承知のとおり、チョット土器成分分析法等という問題にかかわって いましたので、RESが遅れてしまいました。 銅鏡については、中国・日本における発掘調査の進展とともに、これ からもイロイロな議論が展開されると思いますが、何しろ御本尊(箸 墓等の陵墓)が秘密のベールに包まれていますので・・・ 道教(Awajiは古アジア信仰がベースにあるのでは無いかと思っている のですが)の影響については、前方後円墳そのものの成立や、水銀朱 の使用に関しても議論されていますね。江南地方の米作諸民族の古代墓 制や信仰の解明が待たれるところです。 ところで、ロトさんは播州でしたよね。吉備と大和・日本海と瀬戸内を 結ぶ重要地域ですが、意外に古代遺跡に関する発見が少ないような気が しています。 単なるカンですが、近々新聞紙上を賑わせる大発見があるような予感が します。その時には是非ナマナマシイ現説レポートをお願いしますね。 Time : 2000/ 4/11(火) 23:18:15
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「酒船石遺跡」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 花冷えの一日でしたが、今日は明日香村公民館で行われた酒船石遺跡シ ンポジュウムに行ってきました。 コーディネーター 京都橘女子大 猪熊兼勝 教授 パネリスト 国際日本文化センター 千田 稔 教授 滋賀県立大 菅谷文則 教授 明日香教育委員会 納谷守幸 室長 猪熊さんは、持論である酒船石遺跡両槻宮説を展開され、パネリストの 賛同を得ようとされましたが、皆さんは斉明天皇の道教的神仙思想にも とづく両槻宮関係施設であることは認めるものの、これ自体を両槻宮と することには否定的でした。 しかしながら、猪熊さんのお人柄もあって、和気藹々のうちに進められ、 とても楽しいシンポになりました。五月にはさらに周辺の調査が予定さ れているとのことであり、新たな発見が期待されます。 (酒船石遺跡の延長線に、両槻宮があるように思っていますので、両槻 宮発見の糸口が見つかれば、面白いのですが・・・・) Time : 2000/ 4/16(日) 18:35:40
Name : Tadao Wakao E-mail : Title : 外国人地方参政権賦与法案に異議あり Comments: 外 国 人 地 方 参 政 権 賦 与 法 案 に 異 議 あ り *韓国語の話せない在日 現在、「在日」と呼ばれる人達は我国に55万人ほどいる。しかしながら、55万人 もの人達が韓国・朝鮮籍を維持しているとはいえ(「韓国・朝鮮」という表現は煩雑 なので、以後は「韓国」一本に統一する)、戦後も半世紀以上が経ってみると、在日 の大半は日本で生まれ育った世代である。その結果、日本生まれの在日の殆どは日本 語しか話せない。でも不思議なことに、韓国語を話せない在日は、自分が韓国人であ りながら韓国語を話せないことを不自然だとも恥ずかしいとも思わない。でも普通、 自国の言葉を話せない同胞なんて考えにくい。イギリス人なら英語、フランス人なら フランス語、ドイツ人ならドイツ語を話してこそイギリス人であり、フランス人であ り、 ドイツ人だからだ。 アメリカのような移民からなる国であれば英語が喋れないアメリカ人がたくさんいて も不思議でない気がするのであるが、現実には、英語が喋れないとアメリカに帰化す るのは難しい。つまり、移民の国アメリカにおいてさえも英語を話せないアメリカ人 なんてアメリカ人ではないと思われている。ましてや、長い歴史と伝統的な文化を誇 る韓国においては、韓国語が話せない同胞なんてまともな同胞と認めない。だから韓 国の韓国人は在日を「僑胞」と呼んで一段下に見るのである。そして私も、通訳を介 さないと「祖国」の人達と意思疎通ができない在日は真の韓国人ではないと思う。考 えてもみるがよい。もしも私達が日本語を話せなかったとしたら、とてもではないが 胸を張って「私は日本人」などとは言えまい。 ということは、日本の通名を止めて韓国名を名乗り、「自分はコリアン」と主張する 在日が増えているにも拘らず、そうした連中の殆どが韓国語を話せず、しかも自分が 韓国語を話せないことを恥ずかしいとも何とも思っていない事実は、実は彼らに自分 はコリアンという自覚がないことに他ならない。つまり、彼らの真のアイデンティ ティは、彼らの「コリアン」の主張とは裏腹に、本当は日本人だということだ。 日本に生まれ育ち、日本語を母国語とし、日本人の心を持つ人間が外国籍を持つなん て不自然窮まりない。在日は帰化して百パーセントの日本人になるべきだ。 この件に関しては、昨年の11月7日にソウルで韓国外相が日本人記者団と会見し て、在日は実質的日本人と認めた。しかしながら、その後がいけなかった。彼は次の ように言ったのだ:在日の殆どは韓国語も話せない事実上の日本人なのだから日本の 地方参政権をやってくれと。  冗談ではない。日本人なら日本国籍を持たなければおかしいではないか。韓国は実質 的日本人である在日に帰化を勧め、日本には帰化の手続きを簡単にしてくれと言うの が本当であり、韓国外相の発言は本末転倒もいいところだ。 *したたかな在日 在日に地方参政権を与えるかどうかでは日本のマスコミは殆ど賛成で意見が一致して いる。でも私は、「強制連行」を錦の御旗に在日を一方的に支援するマスコミの姿勢 には納得がいかない。なんとなれば「強制的に日本に連れてこられたこと」を非難す るからには、在日の最大にして究極の要求は「祖国へ帰せ」でなければおかしいから だ。でも現実には、祖国へ永住帰国したい在日なんて一人もいない。かの金嬉老でさ えも、日本への断ち難い思いを引き摺りながら、嫌々「帰国」したし、許栄中みたい な悪人も日本の刑務所を望んでいる。 例外としては、かつて一度だけ1959年から数年間にわたって、イデオロギーに根 差した北朝鮮への在日の帰国ブームが起きた。しかしながら、それは一過性のブーム に終わって持続しなかった。なぜか? 理由は簡単だ。日本にいたほうが良い暮らしができるからである。あの頃日本はちょ うど高度成長の鳥羽口にあり、以後世界史に残る目覚ましい発展を遂げる一方で、北 朝鮮の経済が低迷したからである。イデオロギーで飯は食えず、在日は「祖国」と 「良い暮らし」を天秤に掛けて後者を選んだのである。従って、祖国を見限って日本 にとどまった在日に「強制連行」を非難する資格はない。 すなわち、事実は私達の「常識」とは正反対で、在日は自分の意思に反してこの国に 住まわされているのではない。彼らは、祖国よりも豊かな日本を自らの意志で選択し てこの国に住んでいるのだ。つまり、彼らは日本に住みたいから住んでいるのであ り、同じく自分の意思でこの国に住むその他の外国人と何も違わない。 在日びいきのリベラルな日本人は在日を「日本植民地主義の犠牲者」とか「差別に苦 しむ弱者」と哀れむ。そこには、在日は自分達に絶対かなわない劣った人達だから助 けてやらねばならないとの潜在的な差別意識があることに彼らは気が付かない。事実 は、在日は遙かにタフで現実的な存在で、自分達の利益を第一に考えてしたたかに生 きている。だから、もしも韓国があの当時に日本を上回る経済発展をしていたなら、 韓国へ帰還する在日の永住帰国ブームが起きたと断言できる。 同じことは現在も言える。いま日本経済が沈没し、厳しいリストラに堪え抜いた韓国 が復活して我国に代わるアジアの盟主として繁栄する時代が来るとしたら(今やそれ は現実性の無いフィクションではない)、必ずや破産国日本から繁栄する韓国へ向か う在日の帰国ラッシュになる。なにしろ在日は、中国籍の残留日本人孤児などと違っ て、百パーセントの韓国国民として、誰憚ることなく大手を振って永住帰国できるの だから。 残留孤児にしたって、我国が経済繁栄しているからこそ帰国したいのであって、中国 のほうが豊かだったら、それでも尚貧乏な祖国に永住帰国したいなんて絶対に言わな い。なぜ「絶対」と言い切れるかというと、在日という先例が目の前にあるからだ。 従って私は、我国が没落したら、間違いなく「金の切れ目が縁の切れ目」になる人達 にこの国の選挙権を与えることには反対である。そして、それは在日に限ったことで はなく、その他の外国人も同様だ。やはり、よい時も悪い時も、この国と運命を共に する覚悟がない限り、すなわち、帰化しない限り、参政権のような大事な権利を外国 人に与えるべきでない。 在日は、自分の意思で外国籍を維持している以上百パーセントの外国人であり、他国 の選挙権を云々する前に、まずは自国の大統領選挙への参加を実現させるべきであ る。そんな当然のことを怠っておいて我国の選挙権を要求するなんて、おこがましい にもほどがある。 Time : 2000/ 4/19(水) 17:22:28
Name : 便所の火事 E-mail : Title : Tadao Wakaoさんへ Comments: 私も,参政権を持つためには日本国籍を持つべきだと思います。 しかし文化的に100%日本人にならなくてもよいのではないでしょうか? 韓国系日本人ということで,受け入れる手もあると思いますがいかがでしょう。 Time : 2000/ 4/19(水) 21:15:53
Name : 玉城 博隆 E-mail : tamachan@mb.neweb.ne.jp Title : Tadao Wakaoさんの「外国人地方参政権賦与法案に異議あり」について Comments: Wakaoさんの文章を読みました。とても迫力のある文章でしたので,思わず最後まで読んでしまいました。私自身納得 できる点が半分,そうなのかな?と思う部分が半分です。 納得できる部分は,やはり,彼ら自身が祖国へ帰ることよりも,日本国内における安定した生活を選択したのではない かというご意見です。こんなことを書くと,日本人の驕りだ!などとお叱りを受けるかもしれませんが,しかし,生活 していく以上これは考えないではいられない問題ですから,むしろ,考えて当然のことだと思います。私が彼らと同じ 立場であれば,特に家族を抱えている場合には,経済的なことをまず考えるでしょう。 しかし,ことは,Wakaoさんのおっしゃるように理論で推し進めて結論が得られるたぐいのもではもはやないのではな いかということです。感情の部分も同じように大きく影響しているのではないか,ということです。誤解を恐れずに言 うならば,筋論=“べき論”と感情とは,時として矛盾する。・・・からこそ,苦悩するわけでして・・・。 「帰りたくないから帰らない」という方も,確かにいるでしょう。理由はそれぞれだと思います。あくまで想像ですが ・・・。しかし,それと同時に,「帰りたくても帰れない」という方もいると思います。理由はそれぞれだと思います。 あくまで想像ですが・・・。 そのあたりの,人間なら当然のごとく持っているだろう彼らの苦悩を,Wakaoさん自身が理解していらっしゃるのかな?, あるいは,理解しようとしているのかな?という点がとても気になりましたので,失礼を承知でこれを書いています。 もう一点,これは反対意見ではなく,Wakaoさんが触れていなかった点についてです。 Wakaoさんの強調されていらっしゃる部分を推し進めて行けば,彼らに地方自治体の長と議会に対する参政権を付与する ことは,否定されるべき方向へ傾きます。Wakaoさんは,きっぱり否定なさっています。 しかし,Wakaoさんのご意見の中には,参政権とはそもそも何なのか?という点についての記述が見当たりません。おそ らくは,それを敢えて割愛して,強調したい点のみをお書きになったのではないかと推測します。 ちなみに,ご存知ない方に対して,手もとの六法全書からの関係する文章を掲載しておきます。 最高裁判例平成7年2月28日 「本条2項にいう『住民』とは,地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味し,在留外国人に対して地方公 共団体における選挙権を保障したものということはできないが,在留外国人のうちでも永住者等であってその居住する 地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った者について,その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体 の公共的事務に反映させるべく,地方公共団体の長,その議会の議員等に対する選挙権を付与する立法措置を講ずるこ とは,憲法上禁止されていない。」 最高裁判所は,この判例の中で,立法措置として,彼らに地方公共団体の長,議会の議員等に対する選挙権を与えるこ とは,憲法上禁止されていないと判断しました。これを受けて,その法案が作成・審議されているのだと推測します。 この点は,是非押さえておくべきです。憲法上認められてはいないが,法律の形で認めるのは,憲法上問題はないとい うことです。 Wakaoさんに対してですが,是非,この点についてもご意見をここに掲載なさることをお願い致します。強調したい点の みを特にお書きになるのは,それはそれでよろしいと思います。しかし,ことは基本的人権に関する問題でもあるわけ です。いやむしろ,行きつくところは基本的人権の問題そのものなのです。「基本的人権」は,黄門様の印籠とまでは 言いませんが,避けてはならない問題です。 日韓両国間における歴史的経緯,おっしゃるような言葉の問題,経済的な問題は当然考えてしかるべき問題です。そし て,それらのみを踏まえるならば,Wakaoさんのおっしゃるように参政政権付与を否定するのも,理論一貫します。しか し,参政権=基本的人権の観点を抜きにこの問題を語るのは,はなはだ危険だと思いますが,いかがでしょうか?。 最後に,別観点からの考察になりますが,「代表なくして課税なし」もあります。 Time : 2000/ 4/20(木) 03:50:06
Name : 玉城博隆 E-mail : Title : すみません Comments: みなさんすみません。 改行するのを忘れました。ご迷惑をおかけします。 Time : 2000/ 4/20(木) 03:52:00
Name : TAKATOKU E-mail : Title : 国史大辞典 Comments: 輔住さん、返信ありがとうございます。 Hozumi-san wrote (3/24): > 1999/2/24のKANAKさんの文章の解釈はあなたとは異なります。 > それについては水掛け論になってしまうので > これ以上はいいません。 了解しました。結局、文脈の話にはなりませんでしたが、この変で 終わるのが手頃な気がします。(お互い様でしょうが)世の中色々 な人がいて面白いですね。しかしながら、意見を異にしていても、 冷静に議論できたことは、私にとってはよい経験でした。世の中、 Awaji氏ばかりではないんですね。ありがとうございました。 > この議論にでは色々と御迷惑をかけてしまったと思います。 とんでもないです。こちらこそ、貧乏暇無し(最近は、ROMにも なれません。。)で、返事が遅くなってすみません。 I wrote (3/23): > 井沢先生が『国史大辞典』を「部分否定」している箇所 > があったら、教えて下さい。 Hozumi-san wrote (3/24): > 「逆説の日本史」4巻「六歌仙編」で ... > これは慎重とかどうかとは別の観点からの否定に私からは > 見えますがいかがでしょうか? 情報提供、ありがとうございます。なるほど「慎重過ぎる不満」と 「部分否定」とは綺麗に分離できないですね。輔住さんの文章(強 い弱い論)を読んだときは、綺麗に分離できるような気がしたので すが。。 失礼しました。 Time : 2000/ 4/20(木) 17:50:05
Name : TAKATOKU E-mail : Title : 輔住さんとの議論のマトメ Comments: 輔住さんとの議論が決着しましたので、マトメさせてもらいます。 訂正があったらお願いします。>輔住さん 説明の都合上、私の意見から述べます。ご了承下さい。 ◇発端◇ 始まりは2月1日の私の投稿からです。怨霊の素朴な定義は「怨念 を残した(と思われた)霊」ですので、歴史学でいう怨霊とは全く 定義が異なります。そこで、文脈でどのように言葉の定義が変化す るのか、また井沢理論との関係についても論じたかったのです。 KANAK氏は昨年の2月24日に、言葉の合わない井沢ファンに 対して、レベル1〜6までの怨霊を示し、レベル5以上を歴史学で は怨霊と呼ぶ、と述べています。ちなみに、聖徳太子はレベル3以 上の怨霊ではないとも述べています。つまり、「レベル1」か「レ ベル2」か、もしくは「怨霊ではない」のいづれかです。 『国史大辞典』に基づけば、聖徳太子は(素朴な意味での)怨霊と なる訳です。この件に関して、KANAK氏は『国史大辞典』に配 慮していた(ように見えた)ので、聖徳太子は(素朴な意味での) 怨霊であることを認めているように、私には見えました。 そして、KANAK氏の意見と『国史大辞典』が整合しているかど うか、という議論が始まりました。これは、私の意図とは全く異な りますが。。(苦笑) ◇私の意見◇ 私の意見は単純で、「KANAK氏の意見と『国史大辞典』は整合 している」です。理由は上に述べたように、KANAK氏がこの件 に関して『国史大辞典』にかなり配慮していたように見えたからで す。 ちなみに、私のこの意見に対して、Awajiは「処置無しのバカ」 だそうです。。やれやれ ◇輔住さんの意見◇ 実は、私は輔住さんの意見を正確には知りません。というのも、 輔住さんに質問しなかったからなのですが。。 ・KANAK氏の意見と『国史大辞典』は部分的に矛盾している。 が輔住さんの意見です。 『国史大辞典』 > 原始的な信仰心意にあっては死霊はすべて畏怖の対象となったが、 > わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られ > ることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、 矛盾箇所は上記の一部(もしくは全部)ですが、私は正確に記述で きません。 ◇結論◇ 結局、両者歩み寄らず。。です。 ただ、冷静に議論できたことは特筆すべきでしょうか?? ◇納得できない方へ◇ 白黒つけないと納得できない方は、輔住さん説を結論にして頂いて 一向に構いません。というのも、「白黒つくまで議論しろ!!」と 言われれば、私は真っ先に投了しますので。。(笑) Time : 2000/ 4/20(木) 17:55:41
Name : 輔住 E-mail : Title : TAKATOKUさんへ Comments: TAKATOKUさんへ 私との議論をまとめていただきありがとうございます。 >◇輔住さんの意見◇ >実は、私は輔住さんの意見を正確には知りません。というのも、 >輔住さんに質問しなかったからなのですが。。 >・KANAK氏の意見と『国史大辞典』は部分的に矛盾している。 部分的な矛盾というよりも 「国史大辞典」から怨霊の説明をKANAKさんは引用した。 そうした怨霊の定義から聖徳太子怨霊説は間違いだと KANAKさんは考えているということで つまりその2つは別物で整合性の問題ではないと私は思ったのです。 だから「整合している」というあなたの意見に反論したのです。 この議論も勉強になりました。お礼を申上げます。 また別の議論ができれば幸いです。 Time : 2000/ 4/21(金) 12:09:28
Name : ジム・フェルプス E-mail : Title : 以前話題になったことで Comments: 昨年11月ごろにここで話題になった「井沢氏の犯罪」という書きこみを ヤフー掲示板にした者です。 確かにご指摘の通り、法学部卒だからと言って、あらゆる法律に精通して いるということもないということは確かだとおもいます。その点では、私 の書き方は軽率だったと反省しております。愛読者の皆さんに不快感を与 えたことをお詫びいたします。 さて、皆さんもよくご存知の「脱ゴー宣訴訟」を契機に、ネットワーカー にとって避けて通れない著作権という問題についてマジメに考えようとい う機運が高まっています。 この観点から、「新ゴーマニズム宣言」103章の重大な誤りを放置する のは公益を損なうという考えに至り、その内容を指摘し、早急な正誤訂正 を促すためのウェブページを制作しました。 もとよりここは法的問題を論じる場ではありませんが、井沢さんと小林さ んの共著「朝日新聞の正義」でもこの訴訟に言及した記述があることから、 あながち無関係とも言えまいと考え、ご紹介させていただく次第です。 アドレスは http://jimphelps.tripod.co.jp/ です。言うまでもない ことですが、このページは著作権のみに関係するものであり、井沢さんや 小林さんの従軍慰安婦問題その他の歴史認識そのものとは一切関係ありま せん。興味のある方はぜひご一読ください。 Time : 2000/ 4/23(日) 00:09:38
Name : コテキン E-mail : Title : しっかし・・・ Comments: 皆さん、お久しぶりです。 ・・・それにしても、小林よしのりの裁判の問題をなんで直接関係ない 井沢元彦氏のHPで提起するかなぁ・・・・ 「場所柄」ってものが分からないのだろうか? Time : 2000/ 4/26(水) 09:14:33
Name : N/A E-mail : Title : skip, please Comments: はじめの数行にこちらへ書き込んだ理由は書いてあるように読めますが。 でも、大月某への私設支援サイトを直接関係ない井沢元彦氏のHPで宣伝するのは いいんですよね?(爆) BBSに書き込んだり、Webページを開設したりする上で、著作権法に対する正しい 認識は必要だと思いますが。 Time : 2000/ 4/26(水) 12:43:52
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : 人麻呂の終焉地は Comments:  齋藤茂吉の「湯抱温泉・鴨山」でも、梅原猛氏の「益田市高津沖の鴨島」でも ありません。二人とも結果は「無駄骨」です。 なぜならば、 今日今日【恐々と】と我が待つ君【持統=人麻呂の恋人】は石川の峡(貝)に {一には「谷に」といふ}交りてありといはずやも (巻二・一二四) の「石川の峡」→「石川の谷」は【石川の陵】の事だからです。 ●人麻呂の終焉地は「隠岐島・島後・西郷町・加茂(鴨山の、かも)」です。 のちの世の後鳥羽院は同じ隠岐諸島で『百人一首・隠岐本』を作成していますが、 人麻呂の精神に続いたものです。小野篁(たかむら)も隠岐流罪になっており、 彼が人麻呂の終焉地を都に知らせている筈です。  ちなみに生誕地は「住吉(すみのえ)の遠里小野」(巻十六・三八一三)= 「大阪市南部から堺市北部の住吉大社付近」です。 また人麻呂は「柿本朝臣佐留」ではありません。 柿本朝臣人麻呂は筆名(ペンネーム)です。 実名は「石川朝臣君子(きみこ)」(巻三・二四八)です。 708年頃、死んだわけではありません。 701〜718年と渡唐(倭歌衰退期間)していました。 Time : 2000/ 4/27(木) 05:11:31
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。m(_ _)m Comments:  初めまして、秋山 彩香(あやか)と申します。 『万葉集』大好き人間です。宜しくお願い致します。 掲示板の最初から此処に到るまで斜め読みですが、読ませて頂きました。 流石に目がしょぼしょぼして来ました。(^_^;)  つい断定的な書き方をしてしまう悪い癖があります。 引用をしない時は【私見】とご理解下さい。 定説を疑う、どちらかと言うと「とんでも本」の方が好きなタイプです。 【私見】もそうだと自分自身思っています。 さて、韓国の李 寧煕(イ ヨンヒ)氏でしたか、『万葉集』の吏読(リトorイドゥ) 訳は。個人的には、訳は下手だと感じました。ごめんなさいね、李 寧煕さん。 『万葉集』とは何か【私見】を述べさせて下さい。      『万葉集』は、表裏一体の二重構造を持つ、(表)は「歌集」、(裏)は「史書」 です。裏の史書は【寓喩(ぐうゆ)】や擬人法などで語られているゆえ、現代の 歌人や万葉学者が気づかなかったと思われます。 【寓喩】とは、表の意味を離れて裏に隠された真意訳の事です。例を挙げますと、 (表)「花」=(裏)【太上天皇(寓喩)】です。 『万葉集』の出処は(巻一・一六)の詞書き、 「〜春山の【万花】の艶と秋山の【千葉】の彩とを〜」の【万花・千葉】→ 【万葉】+「集」=『万葉集』です。「千葉」の「葉」=【天皇】です。 「葉」は「根」や「枝」、「樹木」の縁語です。 「足日木の山」=【足らし彦の山=天皇・皇統・治世】などの【寓喩】です。 従って、【万の太上天皇&千の天皇→皇統譜】+集=『万葉集』の名義。  即ち、『真の万葉集(裏)』とは、 「阿蘇我(アショカ)仏教女王国・大倭国蘇我大王家(聖武天皇)の勅撰史書」 です。この【私見】に基づいての、前回の書き込み(以後も)です。  さて、「聖徳太子」とは【大津皇子の諡号・追号】だと思います。同様に、 推古天皇=【持統天皇】、崇峻天皇=【天武天皇】だと。年代を約60年(還暦) 遡らせて、舒明朝の前に持ってきています。ではついでに他の天皇の正体などを。 鏡王女=【舒明天皇妃→皇極太上天皇・斉明の母】 「皇極、重祚して、斉明」は『日本書紀』の欺瞞。 額田王=【孝徳天皇妃→斉明太上天皇・大田皇女の母】 十市【統治】皇女=【大田皇女・弘文天皇妃、同時に太上天皇・大伯皇女の母】 明日香皇女=【大伯皇女・大津皇子の姉→太上天皇】  以上、親子四代は蘇我大王家の大王(おほきみ)です。 のちに便宜上、「太上天皇」とか「女帝」とかの呼称を用いています。  次に他の皇統も。 ☆「春」=【天智系】桓武天皇の寿ぎ「平安楽土、万年春」↓志貴皇子の歌 石走る垂水の上の早蕨【突厥か】の萌え出づる春【天智系の世】になりにけるかも ★「夏」=【孝徳・天武(物部)系】天武は孝徳の皇太弟。 春【弘文朝】過ぎて夏【天武朝】来たるらし白妙の衣【死装束】干したり 天の香来山【香来(白文)=高麗。→高麗王、泉・蓋蘇文→大海人皇子=天武】 ★「秋」=【蘇我大王家・女王国】皇極&聖武は「千秋万歳」↓額田王 〜秋山われは【私こそ蘇我大王家の中皇命(なかつすめらみこと)なのに…。】 ★「冬」=【藤原系・始祖は鎌足=舒明天皇(田村皇子)】 冬こもり【鎌足の世がすっかり終わり】 春【天智】さり来れば〜(巻一・一六) の如くです。 ☆「律令制」の(隼人)天智系(春・菊・狐)=蚊帳の外=【伽耶の外】対、 ★連合国・幕藩制の、(孝徳・天武)物部系(夏・松・蛇)=上伽耶(うがや) +蘇我大王家(秋・竹・犬)=下伽耶(あらがや) +藤原系(冬・梅・亀)は「幕(府)の内」で、【伽耶】の構図です。 ではまた。     /(表)歌集 後世に残す為の隠れ蓑 『万葉集』     \(裏)史書 Time : 2000/ 4/27(木) 12:12:32
Name : 中島滋夫 E-mail : Title : 質問 Comments: 銀魔伝 竜馬暗殺はいつごろ出版されますか Time : 2000/ 4/27(木) 15:17:43
Name : 中島滋夫 E-mail : Title : 質問 Comments: 銀魔伝 竜馬暗殺はいつごろ出版されますか Time : 2000/ 4/27(木) 15:18:28
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 秋山彩香様へ Comments:  初めまして。 大阪JF生という井沢先生と同年代の理系人間です。 小生は科学ですら単なる仮説扱いしていますので, トンデモという言葉を知りません(もちろん耳にしますが)。  まばゆいばかりの大胆な結論が並んでおりますが, 記紀との折り合いをどの様につけておられるかに興味をそそられます。 もともと本当の素人ですので,厳密な対応関係などとは言いません。 通常の「歴史」との対比で結構ですが,万葉集からどのような 歴史の流れが描き出されているのでしょう。 人物を秋山様のように定めていくと,全くどんな流れになるか 見当がつきません。でも、わくわくしますね・・・。 取っ掛かりとして崇峻=天武あたりから、描き出して頂けないでしょうか。 この二人が同一人物なら,天武は殺害された? また、壬申の乱は・・? 全く勝手で一方的なお願いですので,ご主旨と大きく異なり, リクエストに答えかねるようでしたら,その旨お知らせください。 また別の角度から,お話を聞かせていただきたいと存じます。 Time : 2000/ 4/27(木) 16:27:42
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とウットリ!! Comments: 秋山彩香さん、はじめましてAwajiともうします。 素晴らしい、お説です。ハンドルもブレーキもない、タイムマシーンんで、 幻のギャラクシーの時空を駆け回っておられる様で、ウットリしてしまいま す。 心より御声援をお贈りいたします。 Time : 2000/ 4/28(金) 00:16:27
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : 崇峻=【天武】比定と「壬申の乱」 Comments:  こんばんは、大阪JF生さん。宜しくお願い致します。 私は文系の頭の持ち主です。  古代史の史書に対する【私見】の概略を述べさせて頂きますと、                    /(表)歌集 後世に残す為の隠れ蓑 ●『古事記』→(『懐風藻』)→『万葉集』 敗者(現在の皇統と比較して)                   \(裏)史書 真に残したかった大倭国                           蘇我大王家の勅撰史書 ○『日本書紀』→『続日本紀』 結果的に勝者・天智系の正史(漢文体表記) 『古事記』&『万葉集』の表記は、和文体・万葉仮名です。 前回記載したように『万葉集』当時は、「秋」=【蘇我大王家】で、他の三つの 皇統「春」=【天智系】、「夏」=【天武系】、「冬」=【藤原系】は大王家より 一段下の王朝と位置づけています。 『万葉集』に軸足を置いて、正史からは『万葉集』と矛盾しない部分を取り出して います。『万葉集』は「聖武天皇の言霊」であり、一言一句、無駄や嘘はありませ ん。『万葉集』から導き出した答なので、おいおい詳しく述べましょう。  さて、私には『万葉集』の詠者・編者・主人公が「山柿の門」の「聖武天皇」と 解った処で、次の謎の「聖徳太子」に挑みました。『逆説の日本史1〜3』や、 小林惠子氏の本も一応読んでいます。 崇峻=【天武の投影】は、聖徳太子=【大津皇子の投影】に気づいた結果です。 「十七条の憲法」は「一七【委奴(犬)=蘇我】条の憲法」でもあり、美努王 (のちに聖武天皇)が718年の帰唐後に「大津皇子治世時」に合わせた語句 「国司」等を用いて、です。 『日本霊異記』も聖徳太子&聖武天皇、『拾遺和歌集』も光明皇后&行基、それ に聖徳太子を本末で語っています。『古今和歌集』は、 聖武天皇(誕生・西暦659〜759年崩御)の百有余歳(数え年・百一歳)、 十継は 1天武、2持統、3文武、4大宝、5慶雲、6和銅、7霊亀、8養老、 9神亀、10天平、を語っています。紀貫之や紀淑望が序にはっきり書けなかっ たのは、四つの皇統のせいだと直感しました。  そして四つの皇統を他の古典文学にも当てはめてみますと、『枕草子』も、 『源氏物語』も一致しています。『方丈記』、『徒然草』、宗祇、芭蕉、蕪村、 良寛などの連歌・俳諧なども、です。和歌はいわずもがなです。 一例を『枕草子』冒頭から。 春はあけぼの    =【天智系は日の出の勢い】 夏は夜       =【天武系は滅亡間近】 秋は夕暮れ     =【蘇我大王家の勢いは日の入りに】→「三夕歌」へ 冬はつとめて(早朝)=【藤原系は新参者】 白き【新羅】灰がちになりぬる【近づく】のはわろ(悪)し。 【記録に残る、藤原氏・紫式部の激怒理由と思われます】  小林惠子説は「高松塚古墳の被葬者は天武、葬者は高市皇子」ですが、 【私見】は「被葬者は天武(崇峻のモデル)、葬者は大津皇子(聖徳太子)」 です。大津皇子(生年659)〜聖武天皇(没年759)で、大津皇子は、 681(天武十)年に天武を殺害しているようです。『万葉集』の有名歌人は (喩えは悪いのですが、怪人二十面相のように何人もの別名で語られている) 同一人物=【聖武天皇】が【私見】です。同様に『懐風藻』の釈(僧)を同一 人物=【行基】と見ますと、大津皇子【聖徳太子】+久米禅師+人麻呂+美努王 +赤人+旅人+憶良+家持+行基=【聖武天皇】になります。そして、 【聖】徳太子→【聖】武天皇と諡号の【聖】が一致し、他の天皇に【聖】は一人 として居ません。そしてまた、久米禅師=久米仙人とすれば、女性【持統】の 太股を見て天【皇位】から落ちたになり、泣血哀慟歌(巻二・二○七〜一九)は 持統挽歌(巻二・二○七は持統の和風諡号「大倭根子天之日女」挿入)になって います。その久米禅師(大津皇子)は鎌足同様、「弓引き【反旗を翻す】歌」 (巻二・九六〜一○○)を謳っています。また恐ろしき物の歌(巻十六巻末歌)、 人魂のさ青(を)なる君【天武】がただひとり 会へりし雨夜の葉非さし【塚の貴人】思ほゆ     があります。 【私見】は大津皇子の母・大田皇女、父・弘文天皇で、弘文は「壬申の乱」、 大田【十市】は(巻一・二二)と(巻二・一五六〜八の高市皇子歌)から、 李 寧煕(イ ヨンヒ)氏は「大田毒殺歌」私見も支持。 また『万葉と海彼(中西進著)』の序14p〜は「呉の太子を大津皇子に準え、 王位継承権の正当性」を中国の典故から語っています。  少なくとも、『万葉集』の(巻一〜二)の「山&川(のちに合い言葉)」を 謳われた皇子&皇女は即位し、太上天皇or天皇と記しています。 何と言う相剋……。 「壬申の乱」は小林惠子説の如く、天智三男の高市皇子が、天武の誘いに乗り (天智助命と即位を条件に、か)弘文【世尊(将)か】を裏切っています。 結局、高市皇子(尊)も即位しました。長屋の「長屋親王宮」木簡からも、 長屋王歌(巻三・二七○の千鳥=【天智系の天皇】)からも。草壁皇子(尊)も、です。 二人【太上天皇と天皇】行けど行き過ぎかたき秋山【蘇我大王家の皇統】を いかにか君【大津皇子】が一人越ゆらむ (巻二・一○六) 大名児【大名(だいみょう)子】を彼方【越智方】野辺に刈る草【かや=伽耶】の 束の間【足かけ四年の治世】も我忘れめや (巻二・一一○) どうやら『万葉集』=蘇我大王家の勅撰史書は、「大王(卑弥呼)」と「大臣 (すさのお)」を、「太上天皇(後の職掌ですが、便宜上)」と「天皇」の関係 として語っているようです。 不比等の「右大臣」を含めて、「太政大臣&左大臣(内大臣も含む)」は 全て「天皇」だったようです。また「贈〜大臣」も。菅原道真も「贈・太政大臣」  平安時代は「天皇」より、「儀同三司(中国の大臣クラスの高官)」の方が、 権威があった筈です。また、中皇命→中太上天皇→中宮、が私見です。 中宮→皇后定子から皇后→中宮彰子に代わっています。 「天皇(号)」の初見は「天武天皇」になっています。人麻呂が帰唐(718) 後(天平元年以降か)、加筆したものと思います。 そもそも、「天皇」=天の白い王{解文説字(皇=白+王、字形分解)}=月の 通り道・白道、です。中国の皇帝は黄帝=黄道(太陽の通り道)。 我が国では、日=【太上天皇(女=蘇我大王家)】、月=【天皇(男)】です。 依って、織女・牽牛の地位は中国と逆です。  中臣朝臣宅守は美努王(人麻呂)です。中臣宮処東人【藤原武智麻呂】を 囲碁の最中、話が長屋王の下りに激怒し斬殺【大伴小虫】、「佐渡流罪」 それを芭蕉は「荒海や佐渡に横たふ【流罪】天【白水郎(あま)】の川」 それを良寛は「裏を見せ表を見せて散るもみぢ【蘇我大王家の滅亡】」 東の野にはかぎる日立つ見えてかへり見すれば月西渡る(傾きぬ)    叙景歌(表)   政治歌(裏)=真意     東        東宮     野        在野(朝廷に対しての)    炎=太陽柱     日木火火出見命(→火+火=炎)=鹿児島神              軽皇子【新羅王・文武→文武天皇(小林惠子説)】     立つ       立太子     月        天皇【弓削皇子、即位し】     西渡る      冥界へ逝く 【寓意】  軽皇子が(東宮に)立太子されたが、振り返って見ると、弓削天皇が冥界へ 逝かれた事よ、嗚呼なんて哀しいのだろう……。 【聖武天皇が通説のように文武天皇の皇子なら、この歌はあり得ない。】  Awaji氏の「平知盛・ジンギスカン論」の正否はともかく、素晴らしい発想に 思えました。義経(論を否定する積もりは毛頭在りませんが)の八艘飛びより、 聖武天皇の『万葉集』の発想には青天の霹靂です。 あれれ、主題から大きく外れ、とりとめも無い話になりました。失礼。 Time : 2000/ 4/28(金) 02:34:11
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : Awaji さん、初めまして。 Comments:  お褒めに預かり、光栄です。ありがとうございます。<(_ _)> 【私見】をそのようにおっしゃて下さった方は貴方が初めてです。 今後の一層の励みにさせて頂きます。  経験則から『万葉集』〜古典文学の【寓喩】の共通性を発見しましたが、 「定理」とするには何が必要か? 残念ながら私にはそれが解りません。 「真実(史実)とは何か?」引き続きライフワークとしたいと思います。 今後とも宜しくお願い致します。 秋の野の焚火を囲む笹酒の盃に浮く逆さ月はも 人麻呂を探し求めて此処に来(こ)し阿騎野の天(そら)に炎【太陽柱】の立つ 鶯【聖武天皇】の声は聞こえど淡路島 夢の架け橋古代へ翔くる 彩香(あやか)     ゆく秋や亀虫のそり行基堂     お遍路や苔【虚仮】身に纏(まと)ふ石仏       銀河 Time : 2000/ 4/28(金) 03:37:48
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 秋山様,解説頂きありがとうございました Comments:  リクエストに答えていただき,ありがとうございました。 まずは今回詳しく解説頂いたことお礼を申し上げます。 それで、がっかりさせる反応になってしもうと思うのですが, 秋山様は、既に一通りの仮説体系をお立てになっているようで, 目くるめく叙述にはまだ、まぶしすぎるぐらいです。 また話が多岐にわたりすぎて,ちょっとついて行けないペ−スです。 (まさに光速ですね。寂しいですが小生ももうトシなのかも・・・) もう少し,ペースダウンしていただけるとありがたいのですが。 たとえば、とっかかりとして一番お聞きしたいところは、 >崇峻=【天武の投影】は、聖徳太子=【大津皇子の投影】に気づいた結果です。 というような部分なのですが,この共通点がまだ良く分かりません。 (ご説明頂いた事になっているのかどうかも、申し訳有りませんが不明です。) 今回のご説明で,【】が「投影」であるらしいという事がはじめて分かった レベルです。この一つの事を説明するのにも多くを語らないといけないのかも しれませんが,万葉集の素人にもわかるように詳しく述べていただければ ありがたく存じます。またまた勝手なお願いをしてしまいました。 Time : 2000/ 4/28(金) 13:10:57
Name : ina E-mail : Title : 出雲 Comments:  みなさんこんにちは   面白いものが発見されましたね。 島根県大社町の出雲大社で(平安時代末期にあった本殿を支えていたとみられる 杉の巨大な柱の一部が出土し、当時の古図の記述を裏付けている。柱の太さからみ て当時の本殿の高さは現在の本殿の約2倍、奈良・東大寺大仏殿(高さ約45メー トル)を上回って約48メートルもあった。  とのことで、事実出雲大社が東大寺大仏殿より高かったとすると、怨霊史観 にとっては若干不利カナ? Time : 2000/ 4/28(金) 22:42:09
Name : Naoki E-mail : freesoulnaoki@hotmail.com Title : recommend me some interesting books about mass communication Comments: Hello evrybody,I am a Japanese student who is studying mass media in the UK. I am researching the relation between mass media and Kotodamaism for my dissertation. So I need information about it. If possible, please tell me some useful books. I have already got a lot of Mr.Izawa's books including SAPIO But I have no idea about his recent books. Time : 2000/ 4/29(土) 00:40:01
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「出雲大社怨霊説」?? Comments: inaさん、おひさしぶりです。Awajiです。 流石に早耳で・・・直径3m以上の巨大な杉の柱と柱穴らしいですね。 ところで、Awajiは「口遊」等より、出雲大社神殿が東大寺大仏殿より 高かった可能性は充分ありえたと思っていましたので、フムフムと満足 しているのですが、怨霊史観にとっては、どうなのでしょうか? 当初、井沢さんは、聖武が国家の威信をかけて建立した東大寺大仏殿が、 出雲大社神殿より若干低かったことを持って、出雲大社怨霊鎮魂説の根 拠の一つとされていたようですが、坂本さんによる梅原法隆寺怨霊鎮魂 寺批判に対抗して、東大寺長屋王怨霊鎮魂説を持ち出されましたね。 そうなってしまうと、怨霊鎮魂宗教施設の比較になってしまいますから、 どちらが高かろうが、低かろうが問題にならなくなってしまったと思い ます。 もともとKANAKさんがおっしゃったように、出雲大社と比べるべき、伊勢 神宮は極めて低層の建物で、両者の間に高さを競うという思想が見られま せんし、もっとも怨霊鎮魂に相応しい大物主鎮魂神社の大三輪には、神殿 そのものがありません、 また、東大寺のような寺院建築は、塔を含む総合建築物ですから、塔を含 んで比較すれば出雲大社より遥かに高いので、建物の高い低いにこの様な 意味を持たせること自体が、いかがなものかと思いますが・・・・。 Time : 2000/ 4/29(土) 01:03:52
Name : ina E-mail : Title : 「口遊」 Comments: Awajiさん、みなさん こんにちは。inaです。 >両者の間に高さを競うという思想が見られません、、、。  >東大寺のような寺院建築は、塔を含む総合建築物ですから、塔を含んで比較 >すれば出雲大社より遥かに高いので、建物の高い低いにこの様な意味を持た >せること自体が、いかがなものかと思いますが・・・・。  上記転記部分納得です。ただ、なぜ源為憲が、塔に言及せず、三大建築 No2として、東大寺大仏殿を挙げたか、という問題は依然として残るように思い ますが。 Time : 2000/ 4/29(土) 12:26:22
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 大社の意味は Comments: Awajiさん、こん@@は。 以前、出されたクイズの答は、もしかして「見たまんま」ということでしょうか? 社格、祭神云々ではなく、大きかったから「大社」とした。という意味ですか? Time : 2000/ 4/29(土) 14:34:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「オオヤシロ」?? Comments: 勇者ロトさん、inaさん、みなさん。今日はAwajiです。 ロトさん、おひさしぶりです。出雲大人(ウシ)としては今回の発掘結果に は、かなり興奮されたのでは? 当然ご存知でしょうが、次のHPは一見の 価値ありです。もしも現説に行かれるようならば、是非ここにも、ご掲載く ださいね。 http://www.dandan.gr.jp/~taisha-t/ 大社の意味クイズ・・・よく覚えていらいらっしゃいましたね。ピンポーン です。半ばジョークですが、延喜式当時から「イズモのオオヤシロ」として 人口に膾炙していたのでは無いかと思ったものですから。(^0^)" inaさん・・・さすがに鋭いご指摘ですね。(・_・;) ご存知のとおり、「口遊」は、是恒親王の曾孫「源為憲」が天禄元年(970) に、藤原為光の子松雄のために製作した教科書とされていますが、おそらく 当時の南都・京洛には十六丈(約48m)を超える塔は、幾らでもあったので は無いでしょうか? (一説には吉備池廃寺の塔は100m近くあったとされています。当然東大寺の 塔も7〜80mはあったでしょう。) 注釈にも、「今案。雲太。謂出雲国城築明神々殿。在出雲郡。和二。謂大和 国東大寺大仏殿。在添上郡。京三。謂大極殿八省。」とあり、言うまでもな く塔は除外されています。 つまり、「口遊」で基礎教養として、子供達に教えたかったのは、塔をのぞ く殿舎の大きさだったと思うのですが・・・・。(・・?) Time : 2000/ 4/29(土) 20:40:35
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「世界不思議発見」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 今日の「世界不思議発見」で亀型石が話題になっていましたが、チョット どうかと思う部分がありましたね。 一つは、掛け声「ワッショイ」が、韓国語の「ワッソ=来た」に由来する というトンデモ気味の説を、恰も確定説のようにあつかっていたことです。 二つは、「天皇称号」「日本国号」の開始を天武時代として決め付けてい たことです。勿論天武時代と見られる木簡に、「天皇」表記があったこと から、これが少なくとも天武にまで遡ることは、まず間違いないのですが、 船史墓誌から天智まで遡りうる可能性が大きいとされています(推古説も ありえますが)。 「日本国号」も、天智の可能性が充分ありえます。古代史は、まだまだ未 解明の部分が多いのですが、マスコミがこういう決め付けを行うのは、実 に困ったことだと思います。 Dear Mr. Naoki My name is Awaji,a buddha's statues ”Otaku”. To tell the truth,I wonder why you selected the relation between mass media and Kotodamaism for your dissertation in the UK. (・・?) Anyway,I’ll recommend you ”日本語に探る古代信仰ー中公新書”to unnderstand Kotodamaism in full . I hope you to finish writing your dissertation successfully! (コレッテ 英語かな? (^0^)" ) Time : 2000/ 4/29(土) 23:35:30
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : 聖徳太子=【大津皇子の投影】、崇峻=【天武】、推古=【持統】について Comments:  一番の根拠は、聖徳太子の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に 致す、恙なきや〜」の返書に「朕は宝命を欽承して〜」の文言が在る事です。 この「朕は宝命を欽承して〜」は、元になる隋の開祖の高祖・文帝の文言「天命を 受ける」と同様に「王朝の開祖のみが言い得る文言」だからです。 而して煬帝は隋の二代目です。依って煬帝は「天命を受ける」や「「朕は宝命を 欽承して〜」の文言が使用出来ません。  更に、大津皇子の即位は『万葉集』=【大倭国・蘇我大王家(聖武天皇)の勅撰 史書」に謳われています。次の歌です。      〜大伯皇女(大津皇子の姉)の作らす歌〜  ふたり【太上天皇と天皇】行けど行き過ぎかたき秋山【蘇我大王家の皇統】を  いかにか君【大津皇子、太上天皇に即位】がひとり越ゆらむ (巻二・一○六) 『万葉集』は、伊藤博・校注、角川文庫・上下巻全二冊 を使用。 【私見】は「681年即位、686年失脚」で飛鳥浄御原は大津皇子宮と考える。 「大津皇」の木簡出土。 「浄御原律令」の『帝紀(帝皇日嗣)』編纂や「富本銭」も大津皇子治世時。 『拾遺和歌集』の「いかるがや【富緒河】の絶えばこそ我が大君の御名忘れめや (一三五一)」歌は聖徳太子賛美歌であり、【富緒河】=蘇我大王家、ですから。 一つ前(一三五○)には「しなてるや片岡山に飯に餓(う)へて臥せる旅人あはれ 親なし」と『万葉集』の聖徳太子の作らす歌、 「家ならば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ(巻三・四一八)」と 同種の歌です。上の大伯皇女とこの聖徳太子も「作らす歌」です。二人とも自分 自身が作った歌でなく、「作らせた歌」です。勿論【私見】は大津皇子=久米禅師 (仙人)=人麻呂【多次元同時存在の手法】に作らせた歌です。よって、久米禅師 の「弓引き歌(巻一・九六〜一○○)」は、弓を引く=【反旗を翻す=謀反】歌 で、天武に弓を引いているのです。大津皇子の父は弘文天皇(壬申の乱で没)、 母は大田皇女=【十市(統治)皇女=太上天皇→天武に毒殺される=李 寧煕説・ 私見も支持】と両親が結果的に天武に殺されています。大津皇子は両親の仇を 討っているのです。【なお、天武は、天智ではなく孝徳の皇太弟】  さて、天武が大津皇子に敵討ちをされ殺される下りは、崇峻として描かれて います。「猪の首を獲りたいものだ」=【猪(委奴の委)の首=大津皇子の首】 であり、『日本書紀』の持統天皇条「大津皇子の変」にも「〜蛇【物部系天武】 と犬【(委奴・いぬ)蘇我系大津皇子】とが相交(つる)んだのがあったが、 しばらくして両方とも死んだ」とあります。その後の歌(巻十六・三九一一)、      恐ろしき物の歌 人魂のさ青なる君がただひとり会へりし雨夜の葉非左し思ほゆ 葉非屋=灰屋=塚・古墳。 葉非左し=塚・古墳の貴人(あかねさす、の、さし、と同義)の天武天皇 【私には、女性群像の顔立ちと、「樹下美人図」=「鳥毛立女屏風」の顔立ちが、 あたかも同一人物(人麻呂・赤人・憶良)が描いたようにそっくりに思えます】  大津皇子=久米禅師(仙人)は、女性【持統=人麻呂の恋人】の太股を見て、 天【皇位】から落ちた、が【私見】です。そしてその持統=【推古天皇】です。 持統は泣血哀慟歌(巻二・二○七〜一九)に謳われている、人麻呂の恋人です。 詞書き「柿本朝臣人麻呂、【妻死にし後に、】泣血哀慟して作る歌〜」は、 人麻呂が渡唐の為、都を離れて後に持統が死(702年)に、人麻呂を迎えに 来た遣唐使の誰かから持統の死を知らされて作った歌、と解釈しています。 【701〜718年、渡唐の為に都に居ない(在唐は16年間・敦煌へも行く)】  大阪JF生さん、この程度でお解りでしょうか?  さて、前回書いた文は五・六回アップを試みましたが不成功に終わり、どこかに 消えてしまいました。(T_T)  そこで再挑戦していますが、自信はありません。 その後の書き込みの感想を続けて書く事をお許し下さい。m(_ _)m  ina さん、初めまして、宜しく。 「怨霊」の件は取りあえず、横に置いといて。 「雲太・和二・京三」の裏側には「出雲大国太郎・(大)倭国二郎・京都三郎」 があるのではないでしょうか? 雲太=上伽耶(うがや)物部(孝徳)系、和二=下伽耶(あらがや)蘇我大王家、 京三=藤原王朝(北家)、の。これはあくまでも私の推測の域ですが。  出雲大社の大国主命は「孝徳天皇」が【私見】です。 「白村江(はくすきのえ)の戦い」とは、「白」=【新羅(天智)】、「村」= 【田村皇子(舒明)=鎌足】、江=【孝徳=阿倍倉梯麻呂】の戦いでもあります。 鎌足の裏切りに遭った孝徳は、天智の要請した唐の援軍に捕らえられ、唐送りに なりました。ゆえに大国主命は西【唐】に向いて鎮座しています。廻りを天智・ 鎌足に連なる五神に囲まれて。  「霊」に関して言えば、東大寺は【基王=安積(あさか)皇子】の鎮霊に思わ れます。  法隆寺は美努王(人麻呂)の娘&息子【牟漏(むろ)女王=母は県犬養(橘) 三千代、と、藤原房前=母は持統天皇】では無いかと。  こん__は、Awaji さん。 「天皇号」に関しての【私見】は、人麻呂が則天武后の「大后天皇」を持ち帰った ものです。もちろん「持統天皇」に奉ったものです。則天武后になぞらえて。 そもそも「天皇」の意味する処は、「天の白い王(字形分解)」です。 「月の通り道」=「白道」、「太陽の通り道」=「黄道」→「皇(黄)帝」ゆえに。 ですから、則天武后は「皇帝(男)」では無いのです。「大后天皇」なのです。 我が国は七夕伝説でもお解りのように、織女と牽牛が、中国と逆です。 大倭国{阿蘇我(アショカ)仏教女王国}蘇我大王家は【大王(女正帝←便宜上 使用の語句)&大臣(男副帝)】の統治システムだからです。  勿論、人麻呂の帰唐(718年)以降の加筆が出来る時代【恐らく、天平元 (729)年、牟漏(むろ)女王即位以後】と思います。  私は、持統天皇こそが「最初の天皇号を冠された人物」と信じて止みません。 「推古」説があり得る理由でもあります。 それ以上に「人麻呂(聖武天皇)が冠した」事の方が重要に思えてなりません。  【私見】は今(天智系の世)だからこそ危ない説なのでしょうか?  世に出すことは可能でしょうか? それを知りたいものです。 「真実(史実)とは何か?」その一点こそが私のライフワークゆえに……。 ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね(十九・四一八九) 家持【借名の聖武天皇】の歌です。 君をこそ我は伝えむ後の世に無名歌人の大倭(やまと)魂 荒海にたゆたふ銀河待ちにけり隠岐の入り日の秋の夕暮れ   銀河 秋彩 Time : 2000/ 4/30(日) 04:56:20
Name : 秋山 彩香(あやか) E-mail : ZAN23647@nifty.com Title : 間違いを訂正(^_^;; 併せて憶良歌を Comments:      山上臣憶良【借名の聖武天皇】、沈痾の時の歌一首(巻六・九八三) をのこやもむなしくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立たずして          ↓      大伴宿禰家持、山上憶良臣が作る歌に追ひて和(こた)ふ ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね          ↓      和(こた)ふる歌 君をこそ我は伝へむ後の世に無名歌人の大倭(やまと)魂   銀河 秋彩        ↑       (え) m(_ _)m Time : 2000/ 4/30(日) 05:29:08