Name    : くずみ ゆら
E-mail  : 
Title   : 関ヶ原戦後
Comments: 
みなさん、こんばんは。確かに歴史のイフを想像するのは大変ですが、
いろいろと想像が膨らんで楽しいです。

そこで、私も関ヶ原で西軍が勝利したときの状況を考えてみました。
まず、東軍の主将徳川家ですが、滅びるまではいかなかったのでは
ないかと思います。家康本人は死罪になっても、家督は結城秀康が
徳川家に帰って継ぐことになって、存続したのではと思います。
領地は30万石ぐらいに削減というところでしょうか?

伊達家はきんたろうさんの意見とほぼ同じとなりますが、正宗の死罪
はありえたかどうかは疑問です。正宗本人は隠居を余儀なくされるか
謹慎というところが妥当ではないでしょうか?
東北地方の大名で改易確実なのは最上家ではないかと思います。

福島、黒田等の豊臣恩顧の大名の中で、豊臣家への過去の貢献が
大きい有力大名は辺境への移動と領地半減ぐらいでおさまるので
はないかと思います。

さて、西軍関ヶ原戦勝利後の政治体制ですが、みなさんは三成が
大きな影響力を持つ存在になるという意見が多いみたいですが、
彼は豊臣家の安泰のために、豊臣家をしのぐ可能性のある勢力は
すべて排除しなくてはいけないと思っていたと私は思っています。
その為、関ヶ原戦後の処理の最中でも宇喜多、上杉、毛利などの
西軍有力大名の勢力が大きくなるのをできるだけ阻止しようとす
る行動に出るのではと思います。その結果、今度は西軍の有力大
名の中で三成を排除しようとする動きが出てきてしまい、三成が
最終的には豊臣政権から排除されてしまうような気がします。
三成はあまりにも理想主義的すぎて、有能な官僚にはなりえても、
有能な政治家にはなりえなかったのではないかと思います。
三成排除後の豊臣政権は、毛利・宇喜多・上杉・前田・小早川の
大老と小西・長束・増田・大谷・前田の奉行による合議制で運営
されることになる可能性が比較的高いのではと思います。
しかし、この体制で永続的に続くことになるとは思いませんが。
西軍勝利後の豊臣政権は、足利政権と似たような不安定なものにな
る可能性が比較的高いのでは?と思います

Time    : 1999/ 9/ 1(水) 01:57:16

Name : slashdog E-mail : Title : 上杉・最上・伊達 Comments: 関ヶ原にて、石田方勝利!!の報が伝わったときの、この三人の動きが どうなったか?に興味がありますね。政宗あたりはきっと寝返って 兼続に使者を送り、加勢したでしょう。そして改易は免れるが、領地は半分に 削られる。最上は潰され、景勝には旧領越後を返す。 恵瓊と三成は揉めに揉めるが、三成は秀家と連携し、広家を理由に押さえ込む。 (二国加増くらいで)五大老筆頭は当然、秀家。 三成は近江ぐらい貰えば良いでしょう。 昌幸には、信濃一国を与える。 あと、難しいのは秀家(領地)と秀秋(待遇)ですね。 それと、旧家康領をどうするか? いろいろ、シュミレーションできて、楽しいですね。(^^ Time : 1999/ 9/ 1(水) 02:06:43
Name : くずみ ゆら E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >(それにしてもどこかで聞いたような...名前ですね、笑) このハンドルネームは私の大好きな漫画家のきたがわ翔さんの作品 「C」の「マゼンダ・ハーレム」の主人公「久住 結良」より拝借 しました。 もしかして、今まで投稿されたどなたかとお間違えですか? Time : 1999/ 9/ 1(水) 02:07:42
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 石田政権 Comments:  ここに来て、夜も寝られなくなってしまった。夏休みももう終わると言うのに ね。  ところで、石田の性格からいって、自分自身の加増をすることは考えにくい。  生涯一家老、としての生きかたをとったと思うな。  そして、有る意味では独裁的な色彩が強くなり、諸大名の力を削ぐことに力 を傾ける。結局は暗殺は免れない。  あとはその時点での勢力が問題だが、覇気、という点で、私は伊達にかけたい。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 05:03:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 西軍勝利!!!東国編3 Comments: こんにちは。 かなり盛り上がっていますね。 こうして考えることは楽しいですね。 さて、佐竹義重にとって伊達政宗を討ち取る可能性が実は二度ありました。 どちらの場合にも伊達政宗の叔母(佐竹義重の正室の宝寿院)が実家を護るため に佐竹氏の本国が攻められるというデマを流したために、伊達氏を攻めるタイミング を逸したり、ポイントがずれた場所を攻める事になったために由るものです。 しかしこれは、甥である正宗との連係プレーではありませんでしたから、正宗の 功績とするわけにはいかないと思います。 ですから、ひとえに偶然の産物の賜と言えると思います。 また、信長に対する認識から秀吉の実力の見極めに至る過程においても正宗と義重、 義宣親子の対応を比べると、正宗など佐竹親子から見ると問題外のように思われます。 「異論があれば弓矢をもって勝負する」と言う言葉は江戸時代においても使われて います。これは、話し合いをして決着がつかなければ、後は腕力勝負になる事です。 これはいまも昔も変わらない真理なのでしょう ですから、戦いをしてその決着がつけば、後は驚くほど大人しくなるのではないで しょうか?? 関ヶ原の戦後処理や、武田家の滅亡を見るとそう思います。 三成については「西軍勝利」後は飛躍的に彼のカリスマが高まったことだと思います。 ただ、そうなっても三成は豊臣政権の簒奪者には成らなかったと思われます。 (強力な執権にはなったと思いますが...) Time : 1999/ 9/ 1(水) 11:07:29
Name : きんたろう E-mail : Title : 宇宙戦艦ヤマモトヨーコ Comments: slashdogさん、あっちではすみませんでした。(^^; くずみ ゆらさん、どうなのでしょう?? ちなみにタイトルについて格別深い意味があるわけではありません。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 11:16:54
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 佐竹?伊達? Comments:  きんたろうさん、こんにちは  石田の行きかたについてはほぼ同意見とみた。  <また、信長に対する認識から秀吉の実力の見極めに至る過程においても正宗と義重、義宣親子の対応を比べると、 正宗など佐竹親子から見ると問題外のように思われます。>  おっしゃるとおりかもしれませんな。ただ、条件的には恵まれたものを持っていたのではないかと思ったのだが。  正直に言って、佐竹家についての深い理解がなく、申し訳無い。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 12:05:45
Name : 輔住 E-mail : Title : 西軍勝利!政権内部編 Comments: みなさん、こんにちは。 関ヶ原での盛り上がりはすごいですね! 西軍勝利後は 大老にはToshyさんの言う通り 毛利、宇喜多、上杉、前田利政、佐竹が有力でしょう。 ただ上杉・佐竹は東国を治めるのに忙しく、そちらで精一杯でしょう。 前田は関ヶ原前は兄の利長と合わせて100万石ありましたが、50万石ぐらいに なってしまい、発言力は下がると思います。 (利政は20万石から50万石に加増だが、東軍の利長は蟄居か配流でしょう) 毛利は180万石ぐらいに加増されるでしょう。 (広家のことがあっても毛利全体とすれば発言力アップ) 宇喜多は100万石ぐらいでしょう。 奉行は(石田・小西・長束・大谷・前田玄以)あたりでしょう。 増田長盛は東軍に内応したのがばれる可能性があります。 前に書いた通り、輝元と三成が対立すると思います。 三成は単独では苦しいから宇喜多秀家をたてるでしょうね。 この時どちらが「秀頼」を手中にしているか! かなり大きなポイントになるでしょう。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 12:29:57
Name : Toshy E-mail : Title : 宇喜多秀家 Comments: 宇喜多秀家の存在は、秀頼をとりまく淀君にとって厄介なものになるのでは、と考えられます。 秀吉の養子、という立場が。小早川秀秋も養子ですが、器量からして論外。 宇喜多の挙兵は、北政所の要請によるものでした。 北政所は秀頼が「まんかか」と慕う、いわば母か祖母のような存在。 ですから豊臣の政権が続くとすれば、一側室である淀君よりも、 正室である北政所の方が影響力は強いわけです。 すると、秀頼の補佐として宇喜多が入り、秀頼の成人後(北政所の死後)に内訌が起こっていた。 どうでしょう?かなり飛躍しすぎたかな。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 12:51:01
Name : きんたろう E-mail : Title : 贔屓倒し??かも Comments: アトムボーイ1さん、こんにちは。 佐竹氏の評価については主観が多く入っていますので、軽く流して下さい。 (自分のページにもアップしてありますのでご覧になって下さい) 伊達政宗と言えば仙台、Toshyさんの地元でしたね。(^^) 鎌倉前からの名門としては、佐竹氏の他に伊達氏、島津氏などがいますが、地理的 要因から考えると佐竹氏の「常陸国」が最も恵まれていなかったのではないか、 と思います。(存続するための条件としては) ただし、全国制覇の観点からすれば逆になります。 しかし、いずれにしても地域勢力の域を越えることはできなかったのではないか と思っています。これは上杉氏、伊達氏についても同様に思っています。 宇喜多については若くて器量がある人物と思っています。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 14:34:54
Name : 待兼右大臣 E-mail : Title : 関ヶ原その後 Comments:  若し、西軍が勝利した場合、徳川家の処遇として  家康、秀忠のの死罪は確定、  結城秀康以外の家康の子孫も死罪。  所領は50万石程度にして、結城秀康が家督相続。  差額の約200万石は豊臣家の所領。  上杉は旧領越後へ  伊達家は会津へ  徳川家臣であった大名は辺地へ転封  関東の押さえは宇喜多  加藤、福島等豊臣恩顧の武闘派大名は石高安堵の上転封  問題は石田三成の処遇ですが、存在自体が火種ですが、家康 相手に勝ったということで、武闘派も少しは見直すという希望的観 測も入れて、筆頭5奉行にする。残りの奉行は輔住さんの案が妥 当だとおもいます。  発足当初の5大老は上杉、毛利、宇喜多、秀秋(家名変更の可 能性(例えば「羽柴」)があるので敢えて名前で)は当確。残る1つ を前田、伊達、加藤清正(武闘派の懐柔策)で争うのでは。但し、 後の老中のように、終身ではなく任期制になるかもしれません。  取り敢えずこんなところです。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 17:08:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「Awaji」?? Comments: 勇者ロトさん、みなさん今日は。Awajiです。 早速のRESありがとうございます。 (関ヶ原ファンのみなさん、一寸場違いでスミマセン・・・) >>父系主義的な系譜上では母系はあまり問題とされてないにも関わらず、 >>天之日矛が系譜伝承として残された点には非常に興味をそそられます。 おっしゃるとおりですね。以下Awajiの想像的雑感です。 Awajiは息長足姫=神功は、次の意味で倭国の歴史にとって非常に大きな 存在だったと思っています。 1.高句麗との争覇戦の最中において、忍熊の大王位を簒奪し応神即位   の道を拓いた。 2.祭祀女王として高句麗との争覇戦を指導し、一定の優位を獲得した。 3.その成功の要因として、強烈な個人的カリスマ性を持っていた。 4.純粋な倭人ではなく、任那加羅系の母系を持っており彼等の支持を   も戦力基盤としていた。 5.その結果、従来の連合王国盟主的大王から、応神による中央集権的   大王国家発展への基礎を築いた。 通常は一夫多妻であるためもあって、あまり問題にならない母系系譜が、 息長足姫について天之日矛伝承として残されたのは、こう言った属人的要 因によるものでは無いでしょうか? 逆にいえば、天之日矛的渡来集団は各地に存在したが、息長足姫と言う特 異な人物の存在により古代史にその痕跡を止める事になったのでは無いか と思います。 (最も強力な或いは中心的な集団であった可能性は高いと思いますが・・) >>天之日矛とは一体何者なんでしょう?一般的には但馬あたりから上陸し >>た武装勢力を神格化したものとかんがえられているようですがAwajiさん >>はどうお考えになられますか? 時期的には、三世紀後半に魏が韓半島に郡を設置した頃或いは衰退した頃 (倭国で言えば開化・祟神から垂仁の頃)にかけての戦乱を避け、日本海 側に移住して来た任那加羅系=狗邪韓国?の集団であり、若干の摩擦を経 つつ但馬方面の出雲系勢力と合体したのでは無いかと思います。 当時倭国は連合王国成立期にあり、次第に日坐系との接触を通じ連合国に 組み入れられたのでは無いでしょうか? ただ、垂仁紀の田道間守伝承に見られるごとく、その後も大陸との関係を 保っていたのでは無いかと思われます。 >>{izawa}をひっくり返してjとzを入れ替えてらっしゃるのでは? >>もしそうなら「反井沢」という意味にとれますね(笑)もしくは井沢先 >>生ご本人とか???(勝手な推測、すいません) 「Awaji<ー>Ijawa」素晴らしい推理?ですが、その意味はありませんので、 正直チョット驚いています。 ただ、AwajiがこのHPに参加したのは、友人のKANAKさんが「反井沢」の 形でこのHPに参加され、彼との関係で(必要があればKANAKさんに助太 刀しようと思ったのですが、彼から制止されたという経緯がありました。) 参加したものですから、ニュアンスとしてはそれに近いものを感じられる かも知れません。 しかし、Awajiはいつかも申し上げたとおり、井沢さんの古代史論はある 種の「イラストマップ」であると理解しています。 従って、大仏殿が富士山より大きく描いてあったり、宇佐神宮が有明海よ り大きく見えたりもします。(勿論実測図そのものが未完成ですが、部分 的にはある程度実測が可能であり、その観点で判断しています) よって、ある程度古代史の基本知識を持った人間には、一つの視点(発想) として楽しめますが、殆ど知識の無い人間がこれを基礎として古代史を考 察するには全く不適当なものです。 KANAKさんはこの危険性を厳しく指摘され、井沢さんに反省を求められたの ですが(それ自体は正しいと思っています)・・・Awajiはその点は井沢さ んも充分承知されており、遠からず全面訂正されるだろうと楽観視してい るのです。 その上で「タダノ仏像オタク」と言う気楽な立場で参加させていただいて いますので、必ずしも「反井沢」的スタンスではありません。 むしろ井沢さんが素人なりに日本史に新たな視点を導入されようと努力し ておられる点はそれなりに評価しています。基本的知識の欠落や論理の不 完全さは、素人としてある程度やむを得ないと思っていますが、にもかか わらず的外れの史学会(学説)批判が余りにも多いのはKANAKさんのご指 摘どおりです。この点に関する井沢さんの反省と訂正についても注目して います。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 22:32:43
Name : Toshy E-mail : Title : なぜ加藤・福島は徳川に荷担したか Comments: この議題、ノムさんとやりあったときに話そうと思っていましたが、 999のチャチャ入れでぽしゃったので、ここで。 傍目から見れば、加藤・福島といった豊臣家の大名が東軍に荷担したのは不思議です。 しかし、それは「徳川vs豊臣」で考えるからなのです。 徳川家康は豊臣家大老の筆頭でした。 秀忠の奥方は淀君の妹だし、千姫と秀頼の婚姻も決まっています。 ですから、徳川もまた豊臣を代表する人物に映ったのではないかと考えます。 関ヶ原よりも前、加藤清正ら7将が三成を襲撃しました。 前野家文書(多分。確証なし)によれば、彼らは「徳川に気に入られたいため」にやったのだといいます。 徳川に媚びを売ろうとしたものに対して、豊臣家のためを大義名分に助っ人を要請するのは無理なことです。 関ヶ原合戦直前にも、三成は福島を抱き込もうとしています。工作しなかったのではありません。 三成に落ち度があったとすれば、その工作が「半ば成功したも同じ」と甘く見ていたことですね。 なお、一般には北政所が武将派に東軍荷担を命じたといわれていますが、 これは豊臣を滅ぼしたのが三成であり、淀君であるとこじつけようとした後代でしょう。 井沢先生が「日本人の感情」とあげている、「堂々としていない」のは、 家康のこんなところにも現れているかと思います。 Toshyは、淀君と通じていたのは徳川だと思います。 淀君の妹が嫁いだ京極氏は、東軍に荷担して大津城を守り、立花むねしげら15000をブロックしました。 対する北政所の甥7人のうち、6人は西軍に参加しています。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 22:56:13
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天之日矛とニギハヤヒ Comments: みなさん、Awajiさんこん@@は。 ローマ字の並び替えによる文字遊びでお名前を使ってしまい申し訳なく思ってます。 どうもすいませんでした。井沢先生の古代史観に限らず古代史には驚くような説が たくさんあり、それもまた面白く感じている今日この頃です。 その中の一つですが、Yahooの大国主のトピックに「物部氏と天之日矛が持ちこんだ 神宝には共通点が多い」という指摘がありました。 これは私も思っていたことなんですが、神武天皇はニギハヤヒの帰順を認めるとき に、彼の持っていた「十種神宝」(とくさのかんだから)を一目見てニギハヤヒも 神武と同じ天孫であるとして帰順を許すという件があります。 両者が持ちこんだ宝の中でも印象的なものが「鏡」だと思います。 鏡は古墳にも副葬品として出土しており、何よりも卑弥呼が魏からもらった「宝」 でもあります。 古墳時代までに姿を消した「銅鐸、銅剣祭祀」に変わって登場する三世紀後半の遺 物を代表する青銅器でもあり、三種の神器のなかでもアマテラスをイメージする神 器です。 神武は何故に神宝を見ただけでニギハヤヒも天孫であることを認めたのか? と考えた場合、天孫の日向以前のルーツにニギハヤヒと同種の神宝を持ちこんだ天 之日矛の出身地でもある韓半島が見えてくるような気がします。 Awajiさんの「想像的雑感」を読ませて頂いてひらめいたのですが、中央集権的国家 の誕生のきっかけとして神功の事跡が重要視されたという事は、天之日矛(各地に 渡来した天之日矛的集団)の渡来自体が倭国統一に向けての魁として重要な要素で あったと考えることも可能ですね。 ちょっと強引に言いかえれば「天之日矛が渡来してきたため倭国に中央集権国家と いう意識が生まれた。または伝えられた。」とも思います。 ここからまた想像の世界へ飛びますが、大和朝廷が確固とした力を倭国全体におよ ぼせたのは、天之日矛的渡来人と倭国内の旧勢力との諍いの混乱のためかもしれません。 仮に旧勢力を出雲勢力と仮定すれば出雲勢力の敵である天之日矛を大和政権が抱き 込むことにより出雲勢力を駆逐していったのかもしれません。敵(出雲旧勢力)の 敵(天之日矛)は味方(大和政権にとって)という発想です。 最後に>{日坐系との接触}というのはどういう意味なのでしょう? 開化から垂仁の大和政権の大王家という意味でよろしいのでしょうか?息長氏の 系譜にある彦坐王という意味なのでしょうか? 追伸 Awaji=izawaの並びに気付いたのは私ではなく以前こちらで紹介させて頂いた 銅鐸の使用法等を考察した「出雲から世界へ」のホームページの作者の方です。 Time : 1999/ 9/ 1(水) 23:41:42
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 石田?徳川? Comments: みなさんこんにちは Toshyさんの意見に刺激されて、少し書いてみましょう。  要するに関ヶ原は、あくまでも豊臣政権内部での、石田と徳川の争いだった、と いう認識ですね。とすれば、北政所がどちらにつこうが、福島、加藤、そして淀君 さえどういう動きをしても不思議ではない、ということになる。  このときの秀頼は少し天皇に似た担ぎ方をされていて、石田が破れても、秀頼が 殺されたわけではない。かつ、大坂の陣を戦うほどの力を温存できたのだ。  結局家康も秀頼のために(豊臣家のために)戦った、という建前なのだろう。  家康を田中角栄、石田を三木武夫に例えたらどうだろうか。  家康なら、天下をとっても、各大名の家臣団や、領地など、全く廃止するような ことは考えにくい。大名の利益を考えながら体制を固めるであろう。一方の石田の 場合は基本的に官僚であり、このHPでもいくつか意見が出たように、中央集権を目 指して、ドラスティックな改革を断行する可能性がある。  そこらが、徳川どのに頼れば、という安心感を与えたのではないだろうか。   三木は田中のロッキード疑獄を苛烈に追及し、清廉な政治家のイメージがあるが、 政争の道具に過ぎなかったことは明らかであろう。田中はわずかの鉄砲水にも 自衛隊の出動を命じ、一人の死者も出さなかった。三木氏は深夜かかってきた電話 に、「君、困るじゃないか」と怒鳴りつけた。神戸の震災と同様、自衛隊出動が地 震発生後7時間、本格部隊投入12時間後、と同様の結果を招くような対応をして いる。  今や、我々は官僚制の利点や恩恵を知っており、石田が徳川に比べて、新しい政 治感覚の持ち主であることを悪と考えない。しかし、国民の支持は高かった三木が 政治家のムラ集団のなかで引き摺り下ろされるようにして辞職し、あの田中にあれ だけの子分が集まったことを考えると、人望の差には金力だけでないものを感じて しまうのは私だけだろうか。  ところで999さんも懐かしい。彼はベトナムへ行かれたんでしたか? Time : 1999/ 9/ 2(木) 07:32:17
Name : きんたろう E-mail : Title : 西軍勝利!!必勝の法則 Comments: こんにちは。 アトムボーイ1さんもいよいよ10万馬力を発揮ですね!! さて関ヶ原において西軍が勝つ方法は色々と言われていますが、最も確実に勝利 する方法は「淀殿暗殺」だったであろうと思います。 関ヶ原に秀頼さえ出陣していれば、家康を除いた全ての部隊は「西軍」に成るわけ ですから西軍の大勝利は間違いのないところだと思います。 その秀頼の出陣を最も反対したのが淀殿と言われていますから、彼女さえいなけれ ば出陣の可能性はほとんど100lにまで高まるわけです。 また武将の暗殺では世間の納得を得ることは難しいですが、女性の場合は違っていた はずです。 ただこの方法では三成と同等の武将達がそのまま生き残ってしまいますから、三成に とっては好ましい方法ではなかったのでしょう。 Time : 1999/ 9/ 2(木) 09:02:15
Name : Toshy E-mail : Title : さっきの書き込み、自分で何書いているかわからなくなっているので、ちょっと訂正。 Comments: さっきの書き込み、自分で何書いているかわからなくなっているので、ちょっと訂正。 >これは豊臣を滅ぼしたのが三成であり、淀君であるとこじつけようとした後代でしょう。 これ、つまり後代がこじつけた、という意味です。後代とは徳川家のことです。 「家康には豊臣を滅ぼす気はなかったのだが、三成と淀君の二人が・・・・」という弁護(?)ですな。 それにしても、家康はやはり、潔くないですね。 これが日本人気気質というのか..... Time : 1999/ 9/ 2(木) 09:09:40
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : きんたろうさん Comments:  淀暗殺は大坂の陣の前、つまり関ヶ原後でもかなり歴史は変わっていたと思う な。その意味できんたろうさんの着眼に敬意を表する。秀頼出陣が無いところが、 天皇的である所以でもあり、この時点では出陣すれば石田が勝つだろうが、秀頼 だけのことを考えれば出陣しなくて、石田が負けようが、どうでも良いことだっ たのだ。それが証拠に秀頼は殺されていない。  出陣要請は、いわば、審判に自分に味方してくれと言っているようなものなので はないだろうか。  ところで、秀吉のようにあれだけタネを撒き散らしておきながら、何人もの 養子を迎えなくては成らなかった男に、ドウして秀頼が授かったのだろう。  この点は疑問の余地は無いのだろうか。  淀の動きは単なる女性的な感性から出たにしては余りに反豊臣的だと思われる が。  金田一さん、どうですか? Time : 1999/ 9/ 2(木) 10:25:29
Name : 輔住 E-mail : Title : 淀君は知らんぷり Comments: みなさん、こんにちは。 >要するに関ヶ原は、あくまでも豊臣政権内部での、石田と徳川の争いだった、と >いう認識ですね。 そのとおりだと思います。 はっきり言って淀君は何も分かっていなかった。 だから、「上杉征伐」を豊臣政権の行動として認めた。 少なくてもこの時点では東軍に味方と解釈できる。 三成の挙兵とは無関係でしょう。 もし関与しているとすれば、「秀頼出陣」は渋ったとしても、 できることはいくらでもあります。 例えば、家康を大老から解任し、東軍を謀反人にするとか。 もちろん、三成たちの動きを止めようとしたのでもないので、 「どちらが勝とうが秀頼には関係ない」というのが本心でしょう。 Time : 1999/ 9/ 2(木) 12:25:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「神宝」?? Comments: 勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 (相変わらずの古代史です。三成さんファンの方ゴカンベンを・・・) >>神武天皇はニギハヤヒの帰順を認めるときに、彼の持っていた「十種神 >>宝」(とくさのかんだから)を一目見てニギハヤヒも神武と同じ天孫で >>あるとして帰順を許すという件があります。両者が持ちこんだ宝の中で >>も印象的なものが「鏡」だと思います。 ニギハヤヒのレガリアとして言えば、やはり印象的なモノは「矢羽・靫」 だと言う気がします。どちらにしても8〜10種類もあれば、鏡も当然入 ってくると思いますが、ニギハヤヒとアメノヒホコを鏡で共通させるのは チョットシンドイヨウな感じがするのですが・・・・? >>天孫の日向以前のルーツにニギハヤヒと同種の神宝を持ちこんだ天之日 >>矛の出身地でもある韓半島が見えてくるような気がします。 Awajiの知る限りでは、韓半島と日本列島の古代遺跡の最大の相違は、前 方後円墳と頂上竪穴式埋葬、及び鏡の存在だと思います。 (韓半島南端には前方後円墳らしいものが発見されていますが、これは倭 国起源と見るべきでしょう、鏡については「武寧王(斯麻)」遺物が話題 を呼んだほどで、韓半島での発掘例は極めて少ないと思います。) 従って、鏡をとおして韓半島を見るのもチョットシンドイ感じです。 >>渡来自体が倭国統一に向けての魁として重要な要素であったと考えるこ >>とも可能ですね。 また、息長足姫と言う大きな存在にもかかわらず、アメノヒホコの後裔氏 族は、三宅連・糸井造と言う弱小氏族のみであり、倭国における存在感は 余り感じられません。チョット過大評価と言う気がしないでもありません が・・・・大王位継承戦争においては、忍熊の背後を脅かし勝利に貢献し た可能性もあると思いますが、その割には応神に評価されていないかも? >>開化から垂仁の大和政権の大王家という意味でよろしいのでしょうか? 舌足らずでしたが、概ねご指摘の意味です。日子坐系(山背から丹波方面 に勢力を伸ばした大王家一族)の傘下に入る事で大王家に組み入れられた と想像しています。 >>銅鐸の使用法等を考察した「出雲から世界へ」のホームページの作者の >>方です。 機会がありましたら、そのお方に各期の正確な銅鐸模型を作って山頂に立 つ事をお勧め下さい。タチドコロに所説が如何なるものかご理解されると 確信します。(穿孔が殆ど無い銅鐸も沢山ありますので、どのように観測 されるのか些か興味がありますが・・・・) Time : 1999/ 9/ 2(木) 22:29:53
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天之日矛の神宝 Comments: Awajiさん、みなさんこん@@は。 確かに強引なもって行き方です。しかし呪術に用いたと思われる「鏡」「ひれ」 「玉」などの神宝がニギハヤヒと天之日矛両者の間で共通する以上、何らかの 繋がりが祭祀の上であるという事は否定できないと思います。 >鏡をとおして韓半島を見るのも・・・・。 ということですが、同様の神宝をもつ二者の片方(天之日矛)が「新羅の王子」 とされている以上もう一方(ニギハヤヒ)も韓半島となんらかの関係があると考 えるのも古代史を考察する一つの方法であると思います。 もちろんこの一事に固執するのは、私も確かにシンドイと思います。 韓半島と日本列島の墓制、副葬品にAwajiさんが示された相違が厳然としてある 以上古代朝鮮民族(?)と倭国民族の間には習俗上おおきな隔たりがあるとは思 っています。また中国史書においても「倭人」「韓人」は明確にわけられていま すからある一定期間両民族がそれぞれ本拠地として住んでいた土地(国土この場 合は韓半島)が、たとえ同じであったとしても別民族として生活していたと思っ ています。 あと「過大評価」という部分ですが、天之日矛とその後裔氏族自体の動きという 意味で前回のような評価をしたのではありません。日本列島各地に連続して到来 したであろう天之日矛的渡来集団が倭国の支配層に危機感を与え、そのような影 響を倭国に及ぼしたのではないかという意味です。 表現の仕方が悪くて申し訳ございませんでした。 天之日矛の後裔(神功以外)については勉強不足でした。今回のAwajiさんの投 稿ではじめてその勢力の多寡を知ったといっても過言ではありません。ありがと うございました。 今後も変な仮説を立てるつもりですので、その時はご意見よろしくお願いします。 Time : 1999/ 9/ 3(金) 00:06:24
Name : Toshy E-mail : Title : あれ?? Comments: もしかして、「北政所=武将」vs「淀=奉行」の対立の構図がウソだということ、 ここのみなさまには定着しているのかな??? Time : 1999/ 9/ 3(金) 10:10:16
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : Toshyさん、あれ? Comments:  通説や、一般的認識は「北政所=武将」vs「淀=奉行」だと思っている。  その図式から離れる事で疑問が解けてきた、というのが今回議論に参加しての 率直な感想である。  少なくともワシには「ウソだということ」は定着していないのじゃよ、 オ恥ずかしいが、少し教えてもらえンかのう? Time : 1999/ 9/ 3(金) 10:45:49
Name : きんたろう E-mail : Title : アトムボーイ1さん Comments: 秀頼がが秀吉の血筋を引いているかという疑問は確かに昔から言われていたと思います。 しかし、絶対権力者、秀吉の「女」にアタックする男性が存在したのかという可能性 の方が遙かに低かったのではないでしょうか。 淀殿がものすごく魅力的でセクシーであっても二の足を踏むはずですし、仮に 「謎の男性」が存在するとしたらものすごく度胸がある人物ですね。(^^) Toshyさんの書かれたことに対する補足ですが、徳川家が自分の正当性を高める、 あるいは豊臣を卑しめる手段として「淀殿」を「淀君」と言う表現を使用したと 読んだ記憶があります。 「〇〇君」は遊女に対する表現と同様だったとか...??(自信なし) Time : 1999/ 9/ 3(金) 16:43:09
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 禁忌とエロチシズム Comments:  きんたろうさん、御教示感謝する。  蓋然性は低いと言うことを承知でいうと、エロチシズムは、禁止されたり、 死というものの影がちらついた時に極限まで高まる、という性質があると思われる。  三島由紀夫の「春の雪」は、主人公の清顕が、はじめうっとうしい存在だった 聡子に対し、宮様からの求婚があった途端に、禁忌の女性になった、という ことで、無理やり関係を持ち、結局自分は病死、女性は出家、というストーリーですな。  また、奔馬も昭和神風連をめざす、死を覚悟した少年の目に、中年女性が、情交 を伴わずして、エロチシズムの極地に達する、という小説じゃのう。  淀はそう言った意味で当時の最高の禁忌を伴った、最高にエロチシズムを刺激 した女性ではあったと思う。  今街を歩いている肌を大胆に露出した若い女のこがセクシーでないのも、看護婦 や、喪服の女がセクシーであるのも、そこに禁忌と、死、というもの影がちらつい ているからではないのかな? Time : 1999/ 9/ 3(金) 20:27:07
Name : 游惟 E-mail : Title : 家康とカリスマ性 Comments: 久々にこちらを覗いてみましたが、私も実は関ヶ原大好き人間です。 仲間に入れてください。 さて、西軍が勝っていればどうなったかですが、その前に徳川家康がなぜあれほど に人望があり、彼にについた諸将が献身的に働いたのか、を考えてみると、彼が単 に250万石の大大名であったからというだけでなく、その身代を彼一代で築いたとい う点が重要だと思います。 上杉景勝も毛利輝元も大大名ではありましたが、所詮二代目三代目で親の財産を引 き継ぎ、先代からの家臣達の担ぐ御輿にのっかっていだだけ、自分で獲得した領地 など殆どありません。 それに対し、徳川家康は今川家の人質から身を起こして修羅場をくぐり抜け、自ら の力だけであれだけの身代を築いた、従って我ら凡人には計り知れない偉大な資 質、超能力を持っているに違いないと人々に思われていたでしょう。つまり、家康 は輝元にも景勝にもないカリスマ性を持っていたわけです。 カリスマとは人智を越えた超越的な力、非日常的な力のことですが、偉大な事業を 成し遂げた人間は人々からカリスマを持つ者として半ば宗教的に畏怖され尊敬さ れ、その力は実際よりもはるかに強大なものと見なされます。松下電器を一代で世 界最大の家電メーカーに育て上げた松下幸之助が「経営の神様」として宗教的に尊 敬され、死ぬまで実質的に松下電器を支配し続けたように。 この時代に家康以上のカリスマ性を認められていたのは豊臣秀吉だけであり、多少 それに近かったのは槍一筋で80万石の身代を築いた前田利家だけで、この二人亡 き後、多くの大名の畏怖と尊敬を集めうるカリスマを持った人物は徳川家康しかい なかった、これが重要でしょう。 仮にこの時既に家康が死んでおり、二代目の秀忠あるいは秀康が250万石をそっくり 相続していたとして、彼らがその大封を背景に天下をとれたか、といえばおそらく NOでしょう。彼らには多くの大名を引きつけるだけの人望(カリスマ)はなく、 それどころか彼らの力量では家臣さえまとめきれず徳川家は瓦解してしまったので はないでしょうか。 逆にもし関ヶ原で西軍が完勝し徳川家康の首をはね、徳川家を消滅させることに成 功していたとしても、毛利輝元・石田三成初め西軍首脳には家康ほどの実力とカリ スマ性を持った指導者はおらず、戦後処理の論功行賞からして大揉めに揉めるで しょうし、なんとか落ち着いたとしても豊臣政権は室町幕府のような有力大名の連 合体といったところがせいぜいで、とても強力な中央政府ではあり得ません。その うち毛利と上杉あたりが勢力争いを始め、また戦国の世に逆戻りする公算が大で す。 国家でも大名家でも会社でもヤクザ組織でも、カリスマを持った創業者が生きてい る間に制度化・組織化を進め、凡庸な二代目が嗣いでも揺るぎない体制を築けるか どうか、これが支配体制が永続するための要件です。この時代に創業者としての強 力なカリスマの持ち主だった二人のうち、秀吉は寿命が足りず、家康は十分だっ た。この時点で既に関ヶ原の勝負はついていたように思います。 Time : 1999/ 9/ 3(金) 21:12:33
Name : 游惟 E-mail : Title : 家康とカリスマ性 Comments: 久々にこちらを覗いてみましたが、私も実は関ヶ原大好き人間です。 仲間に入れてください。 さて、西軍が勝っていればどうなったかですが、その前に徳川家康がなぜあれほど に人望があり、彼にについた諸将が献身的に働いたのか、を考えてみると、彼が単 に250万石の大大名であったからというだけでなく、その身代を彼一代で築いたとい う点が重要だと思います。 上杉景勝も毛利輝元も大大名ではありましたが、所詮二代目三代目で親の財産を引 き継ぎ、先代からの家臣達の担ぐ御輿にのっかっていだだけ、自分で獲得した領地 など殆どありません。 それに対し、徳川家康は今川家の人質から身を起こして修羅場をくぐり抜け、自ら の力だけであれだけの身代を築いた、従って我ら凡人には計り知れない偉大な資 質、超能力を持っているに違いないと人々に思われていたでしょう。つまり、家康 は輝元にも景勝にもないカリスマ性を持っていたわけです。 カリスマとは人智を越えた超越的な力、非日常的な力のことですが、偉大な事業を 成し遂げた人間は人々からカリスマを持つ者として半ば宗教的に畏怖され尊敬さ れ、その力は実際よりもはるかに強大なものと見なされます。松下電器を一代で世 界最大の家電メーカーに育て上げた松下幸之助が「経営の神様」として宗教的に尊 敬され、死ぬまで実質的に松下電器を支配し続けたように。 この時代に家康以上のカリスマ性を認められていたのは豊臣秀吉だけであり、多少 それに近かったのは槍一筋で80万石の身代を築いた前田利家だけで、この二人亡 き後、多くの大名の畏怖と尊敬を集めうるカリスマを持った人物は徳川家康しかい なかった、これが重要でしょう。 仮にこの時既に家康が死んでおり、二代目の秀忠あるいは秀康が250万石をそっくり 相続していたとして、彼らがその大封を背景に天下をとれたか、といえばおそらく NOでしょう。彼らには多くの大名を引きつけるだけの人望(カリスマ)はなく、 それどころか彼らの力量では家臣さえまとめきれず徳川家は瓦解してしまったので はないでしょうか。 逆にもし関ヶ原で西軍が完勝し徳川家康の首をはね、徳川家を消滅させることに成 功していたとしても、毛利輝元・石田三成初め西軍首脳には家康ほどの実力とカリ スマ性を持った指導者はおらず、戦後処理の論功行賞からして大揉めに揉めるで しょうし、なんとか落ち着いたとしても豊臣政権は室町幕府のような有力大名の連 合体といったところがせいぜいで、とても強力な中央政府ではあり得ません。その うち毛利と上杉あたりが勢力争いを始め、また戦国の世に逆戻りする公算が大で す。 国家でも大名家でも会社でもヤクザ組織でも、カリスマを持った創業者が生きてい る間に制度化・組織化を進め、凡庸な二代目が嗣いでも揺るぎない体制を築けるか どうか、これが支配体制が永続するための要件です。この時代に創業者としての強 力なカリスマの持ち主だった二人のうち、秀吉は寿命が足りず、家康は十分だっ た。この時点で既に関ヶ原の勝負はついていたように思います。 Time : 1999/ 9/ 3(金) 22:37:28
Name : Toshy E-mail : Title : カリスマ性 Comments: 游惟さん、しばらくでした。 カリスマ性ですが、「また三成贔屓の引き倒し」といわれるのを覚悟で反論。 たしかに、三成は家康に比べ人望がなかった、といわれているし、 それはToshyも認めるところです。 しかし、この単純比較は納得行かない。というのは・・・ 1.年令。60過ぎの家康と、まだ40と若い三成。 年の功というものを考えれば、決して三成が劣るわけではない。 2.身代。250万と20万の違いですよ。Toshyだって家康につくでしょう。 この開きがあるにもかかわらず、三成は家康を上回る大軍を集めたわけです。 関ヶ原時に限っても、家康の7万のうち35000は手持ちの兵、 対する三成は8万のうち手持ちが6000ほどなのです。 カリスマなら、三成の方に軍配が上がるんじゃないでしょうか。 なお、三成の能力を一番認めていたのは、実は家康だった。 「石田三成は日本を動かした人物だ」と『常山紀談』でかたっています。 名将よく、名将を知るなのでしょう。 Time : 1999/ 9/ 3(金) 23:01:57
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所 Comments: アトムボーイ1さんへのレス 北政所が西軍を支持していたという説、Toshyとしても受け売りなのですが、 いろんな本を読んで行くうちに納得するようになりました。 それは、人物のつながりです。 北政所の甥、木下家の男子8人のうち、戦いに参加したのは7人。 その中で三男の木下延俊が東軍に参加(田辺城で細川に与力)した以外は、 全員が西軍に加わっています。小早川秀秋がもっとも有名ですね。 (最終的には東軍に寝返ったが) また北政所の側近・孝蔵主の甥は、ほとんどが東北戦線で上杉に荷担しています。 一部では孝蔵主を淀君の側近だと考えているようですが、 これは結論先にありしで、とるにたらないものでしょう。 また宇喜多秀家決起の時、北政所はつかいのものを送っています。 秀家は北政所によって育てられ、いわば実子のようなものでした。 いっぽうで加藤清正・福島正則らが豊国神社に参詣する時は、 つかいのものすら出していません。互いに避けているようなのです。 つけくわえれば、大坂の陣前、淀君に対する加藤清正の恭しい態度、 どう考えても定説を覆すとしか思えないわけで。。。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 00:16:57
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 游惟さん Comments:  お久しぶり お元気でござったか?  確か言語学が御専攻でしたな。  ワシも西軍勝利後の展開については貴君に賛成じゃ。  ただ、家康と三成の対比で、常識的な力は家康につかせるじゃろう。  もし三成につかせる力があるとすれば、それは常識的な世界をやや超えた情念とか、人間的魅力なんじゃないだろうか?   西南戦争、西郷とともに死んだものの判断は常識的なものではなかった。西郷にカリスマがなかった、という人はまさかおらんじゃろう。  Toshyさんへ  ありがとう存じます。  ところで、正室と、後嗣を生んだ側室といえば、東太后と同治帝を生んだ西太后 の例があるが、北政所の立場については、なお把握しがたいのだが。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 08:25:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 人間は学習する動物だ Comments: こんにちは、みなさん。 特に信長の大勝利やその後継者である秀吉の常勝ぶりが広く知られることになった 戦国時代も後半になると、今までは敵味方とも、全力を尽くして戦いをした者達で も「結果」がある程度分かるようになったのではないかと思うのです。 結果が想像され(それもほとんど正しい未来)るのであれば、誰でも力を最後まで 振り絞ってまで戦おうとはしなくなります。 特に秀吉の「北条攻め」は全国の武将達に「無駄な努力」は意味がないと知らしめ る結果になったのではないかと思います。 そうした過程を経て関ヶ原は行われました。ですから「力比べ」をした結果、敗者 は驚くほど素直に従ったのではないかと思うのです。 特に宇喜多などは若くて知識も相当あったと思われますので、信長や秀吉の常勝ぶ り、または滅ぼされた武田等の結果などを「知識」としてしみ込ませすぎていたの ではないでしょうか。 宇喜多としては、関ヶ原で敗者になった結果から推し計れば、もはや捲土重来は不 可能との結論がついてしまったような気がします。 あの後の宇喜多のすがすがしさは彼の気質だけでは言い表せないような気がします。 同様に私たちも結果から逆にさかのぼって物事を見ようとし過ぎる傾向からどうし ても逃れ難いようのではないでしょうか。 「関ヶ原」当時の家康はたしかに日の本一の弓取りと自他共に認める存在だったと 思います。 しかしその結果、徳川幕府が何もしなくてもできあがったと考えるのはあまりにも ほほえましい思考だと思います。 関ヶ原に集結した兵員数はほとんど同数でした。 これこそが真実を物語っていると思います。 関ヶ原の戦いの後、家康だからこそあのように圧倒的に処理を行えた(家康以外で はむりだった)という論理は先程述べた理由により後世のこじつけから来ているよ うに思います。 家康の「カリスマ性」が極端に大きくなったのは、関ヶ原で勝利し、戦後処理を行 うことが出来たからこそだと理解する方が時間軸からもずれていません。 そして家康の「カリスマ」は彼の死後「神」にまで上昇しました。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 10:57:05
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : カリスマ Comments:  みなさん こんにちは  カリスマ、という事が話題に成っていますが、少し言葉の問題で 教えてください。  要するに単なる人気を超えた人望、という意味でしょうか。  とすると、なかなか定義が難しそうですね。  きんたろうさんのおっしゃるように結果ら判断するのは難しそうですし、 これは私の発言で恐縮なのですが、今の時点で、西南戦争に従軍した武士は 西郷のカリスマ性にひかれた、という言い方も出来ないのかもしれません。     ところで私はアトムボーイ1です。文体を普通にします。これからもよろしく お願いします。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 11:55:09
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「カリスマ」?? Comments: 関ヶ原ファンのみなさん、今日は。Awajiです。 部外者が余計なことを言うようですが・・・ 戦国の三傑を比較して、最もカリスマ性に欠ける(縁遠い)のが家康で は無いかと思います。 彼は同時代人から「参河の律義者」と評され、彼自身も「持久・忍耐」 を信条としているようですね。 「人生は重き荷を背負いて坂道を行く・・」と言う遺訓も所謂カリスマ 性よりも、偉大な平凡性を物語るものだと思います。 従って彼を戦国時代の覇者とし、300年の安定をもたらした偉大な政治家 たらしめたのは「人智を越えた超越的な力、非日常的な力」を意味する カリスマ的原理とは少し異なる様な気がするのですが如何でしょうか? それともウエーバー分類の合法的支配、伝統的支配には該当しないのだか ら偉大な凡人と言う非凡人によるカリスマ的支配と考えるべきだと言うこ となのでしょうか?(チョット違うような気がするのですが・・・・) Time : 1999/ 9/ 4(土) 22:44:08
Name : Toshy E-mail : Title : カリスマ・続き Comments: 家康は確かに、当時最強だったといえるでしょう。 きんたろうさんの言葉に付け加える形ですが、 だからといって、自動的に徳川の天下になったとは思えない。 関ヶ原では同数の軍を集めたわけだし、 前田のような大大名ですら、ふたつにわかれているのです。 歴史の結果からものをかたると、 「小早川が裏切ったのは三成に人望がなかったからだ」ということになるのですが、 それは逆の立場からも言えることで、もし西軍が勝っていたら、 真田昌幸が東軍を見限ったのは家康に人望がなかったからということになるわけです。 そもそも裏切るということは、それまで三成とともに行動していたわけです。 リアルタイムで見れば、どちらが勝つか、わからなかったということでしょう。 なお、三成の人望は、司馬遼太郎氏の「関ヶ原」以来歪曲されたように思います。 でも三成がいなかったら、だれが西軍の総大将になれるのでしょう。 アトムボーイ1さん、北政所のことは、あとで。 Awajiさんの「家康=カリスマなし」は、ちょっとびっくりしました。 おもしろいです。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 23:16:31
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : カリスマ 恫喝? Comments:  Awajiさん、どうも御無沙汰しております。    要するに、関ヶ原の終わる前にはどちらが勝つか、は分からなかった、とすれば、 東軍の勝ち、という点に基づいて、家康はこの点が良く、三成はこの点が悪 かったのだ、ということが非常に困難なのかもしれません。    Toshyさんが、真田の例を出されたのですが、昌幸の行動原理に、大きな敵を おちょくって痛快がる、職人的な武将という面はないでしょうか。  とすると、彼も徳川が勝つ、と見ていた可能性はあると思います。  Toshyさんは、これとは若干異なった文脈で出して居られる事は承知しており、 突っ込みではありません。  私の印象ですが、家康の人集めは恫喝と本領アンドのアメとムチ、三成はもう少 し上の感情に訴えようとした、と思いたい、(信じたい)です。 Time : 1999/ 9/ 4(土) 23:58:38
Name : くずみ ゆら E-mail : Title : 新参者ですので、的はずれかもしれませんが Comments: みなさん、こんばんは。 確かに、関ヶ原前の時点では、どっちが勝つかは全くわからない状況だったと思 います。 Toshyさんが真田の例を出されてましたが、昌幸は以前の経緯から、感情的 に徳川にはつきたくないと言う、ある意味男の意地があったのではないでしょう か?昌幸本人は意地を通して徳川に敵対しましたが、真田家の存続をはかると言 うことで長男は東軍に与力してますし。 家康のカリスマ性は、小牧・長久手の戦いで秀吉に合戦では負けなかったと言う ことで、すでに獲得済みだったのでは?と思うのですが。 あと、きんたろうさんのご意見で >関ヶ原の戦いの後、家康だからこそあのように圧倒的に処理を行えた(家康以 >外ではむりだった)という論理は先程述べた理由により後世のこじつけから来 >ているように思います。 と、言うことですが、関ヶ原の戦いで一気に独裁者になることのできた実力者、 家康に対して誰が逆らえるでしょうか? もし、西軍勝利でも三成には独裁者になることができなかったと思いますので、 いろんな人の思惑を引きずることになり、家康がやったほどの戦後処理はできな かったのではと思います。 ちょっと時間的に眠くなってしまいましたので、穴だらけの理論になってるかも しれませんが、ご容赦を・・・ Time : 1999/ 9/ 5(日) 02:27:59
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所 Comments: アトムボーイ1さん、こんにちは。 北政所がどのような立場だったか、まるっきりの受け売りの知識を書き込みします。 北政所は13の時に秀吉に嫁ぎ、天下を取るまでの長年、 秀吉とともに苦労をともにしてきた「糟糠の妻」です。 また正室として、他の側室たちには姉・母のようにふるまい、淀君に対しても同様でした。 「腹は借り物」という姿勢を秀吉は崩さず、 当然ながら秀頼に対しても自分が母であるかのようにして、 秀頼からは「まんかか」と呼ばれるほど慕われていたといいます。 このような人が、淀君に対するつまらない嫉妬を持つとは考えられません。 秀吉の死後も豊国神社に足を運び、神官・巫女にいたるまで贈り物をするのが常でした。 一説では家康に通じていたといわれていますが、 とてもそのような姿は、ここからみることはできないのです。 ところで、真田の例は少しよくなかったですね。この人、変わり者だから。 アトムボーイ1さんやくずみゆらさんのお言葉、Toshyに対するツッコミでないことは理解しています。 西軍勝利後、三成に家康がやったほどの独裁は、無理でしょう。同感です。 戦国の世に逆戻り、という点もToshy同じ考えで、前にそのように書いています。 ただし三成の年令と能力を考えると、室町幕府のような脆弱な政権で終わるとは思えない。 20万石で天下を割ったほどの人物ですからね。 知謀の限りをつくして敵対勢力をつぶし、 家康が天下を取った年令になる頃(つまり20年後)には、 完全な独裁政権を作っていたと予想します。 Time : 1999/ 9/ 5(日) 09:35:49
Name : ina E-mail : Title : 美濃 Comments:  みなさんこんにちは  キガルのみなさん、またお会いしましたね!  皆さんは美濃、という土地はどんな印象をお持ちでしょうか?  美濃を制する者は天下を制す、と言われ、実際信長は天下を取ったわけですが。  また、二度の天下分け目の戦い、一度は結果によっては日本さえなくなってし まったかも知れない重要な戦で。  一説には英雄を戦国時代に輩出したこの地を恐れて江戸幕府がこの地方を切り刻 んだために力を失ったという。  かつては野球王国と自称?した、(高木守道、森正彦)この地も今や英雄は出ま せんね。五年くらい前、日本シリーズがこの両監督で争われそうだった時、岐阜球 場へ招致しようという動きさえありましたが。キガルの話題かも。すみません。 Time : 1999/ 9/ 5(日) 10:06:35
Name : きんたろう E-mail : Title : イフの視点から Comments: こんにちは。 武将達との信頼を得る事とは過去の実績が優れている事であり、それは戦績のこと でもあります。 家康は信長と同盟を結んでから20年間一度も裏切ることがありませんでした。 そして秀吉の前に膝を屈してからもその在命中はやはり同様でした。 こうした実績が家康を「律儀者」にしたのだと思います。 ちなみに合理的に考えればその他の選択肢は存在しなかったはずですが、これは 実はどうでもいいことになります。(比重は低くなります) 小牧・長久手の戦いにおいてはたしかに家康はよく持ちこたえました。 これを拡大解釈して自らの評判を高めるために画策したであろうことは想像に難く ないと思われます。 秀吉対家康の戦いは誰が見ても家康の敗北です。勝者が敗者に屈する事はあり得な いからです。 西軍が勝利した場合の戦後処理については皆さんいろいろと意見があると思います。 もし三成が秀吉を継ぐ才能を持っていたのであれば、秀吉が織田家をいつの間にか (のように思わせてしまう)乗っ取ってしまったように、同様のことが出来ても 不思議ではないように思われます。 この場合、第二の「賤ヶ岳の戦」が必要となるかも知れませんが。 真田幸村は父と同等以上の資質があったはずです。しかし、大阪の陣の時点では実績 がありませんでした。 同じ事を進言しても昌幸の口から発せられたならば、大阪城に集合した豊臣方も賛同 したと思われます。 そして実績を作った時点でその生涯を終えました。 Time : 1999/ 9/ 5(日) 15:32:13
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 賤ヶ岳の戦? Comments:  関ヶ原は賤ヶ岳の戦の代わりにはならないですか?  やはり山崎、賤ヶ岳と2ステップ必要ですか? Time : 1999/ 9/ 5(日) 23:44:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 実は勝手な想像です(^^) Comments: こんばんは。 秀吉は天王山で勝利しましたが、まだ巨大な不平分子が残っていました。 それに勝利して信長の後継者に成れたわけです。 三成が秀吉並の能力(トータル的に見て、意志も含む)があるとすれば、関ヶ原後 に残ったライバル達との戦いがあるのではないかと思いました。 Time : 1999/ 9/ 6(月) 01:00:10
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : きんたろうさん Comments:  そうですね、やはり執権としてであっても賤ヶ岳の戦は必要でしょうね Time : 1999/ 9/ 6(月) 01:49:43
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 家康への安心感と三成の未来予想図 Comments: みなさん、こん@@は。 家康と三成、この二人の決定的な違いは、「実績」に尽きると思います。 家康は、奇跡的な事を実行したために派生するカリスマという面では秀吉、信長と 比べればはるかに劣るでしょう。しかし他の大名達とくらべればその存在感が醸し だすカリスマ性は群を抜いていたと思われます。秀吉から与えられたとはいえ、 カリスマ性の高い秀吉に一対一では決して劣らない戦力と持ち、支持をえていた のですから・・・・。 しかし、この意味でのカリスマは家康が天下取りを遂行できた主な理由ではなかっ たと思います。 では、一体何が主な理由だつたのでしょう? 秀吉が自身の奇跡的な立身出世、奇跡的な戦争の勝利によって身に付けたカリスマ に劣らない、周囲から家康をみた安心感が家康への信頼感と指示にかわったからだ と思います。 三成には、この信頼感が実績の面からみて足りなかったのだと思います。 三成は、秀吉のもつカリスマを受け継いだ豊臣家がバックにあったからこそ20万 石の小身にも関わらず天下分け目の戦いの一方の主役になれたのだと思います。 しかし、三成と同じ程度の実績と信頼感をもった大名はほかにも沢山いたと思われ るにも関わらず、西軍の主役になれたのは一重に彼の豊臣家というものへの忠誠心 と、豊臣政権という政治機構の未来予想図を彼が持っていたからだと思います。 未来を語り、理想を組み立てることの出来る能力が彼には他の大名たちより十分に あったからだと考えてもいいと思います。その三成にしかもてなかった未来予想図 が、カリスマの代用品となり関ヶ原の原動力となったと思います。 家康のもつ信頼感(律義者と呼ばれた評価)のほうが、三成の豊臣政権の未来予想 図よりも結局のところ、他の大名たちには理解し易かったのではないでしょうか? 「厭離穢土、欣求浄土」という宗教的な言葉を旗頭にした家康は朱子学的発想の三 成の未来予想図よりも、解りやすい路線として他の大名たちに認識され、それが 天下分け目の戦いでの結果へとつながったのではないでしょうか? Time : 1999/ 9/ 6(月) 03:07:42
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 秀吉の奇跡 Comments: 突然ですが、みなさんは秀吉の立身出世の原動力の秘密は何だったとお考えですが? 秀吉には、「墨俣一夜城」「中国大返し」などなど奇跡的な実績がありますが これは、本当に「奇跡」だつたのでしょうか? できれば、みなさんのご意見お聞かせ下さい。 Time : 1999/ 9/ 6(月) 03:15:54
Name : 待兼右大臣 E-mail : Title : 関ヶ原のイフについて他 Comments:  皆さんに左記を越されてしまいましたが。  三成に決定的に欠けていたものは「戦場での実績」です。  勿論、三成自身が豊臣家に代わって天下を握るつもりであれば 秀吉のように、「天王山」、「賎が岳」、「小牧・長久手」というような 戦いを経る必要があったのでしょう。但し、三成が豊臣家の執政 という地位で満足するのであれば、「同輩中の首席」という地位を 確立すればよいので、関ヶ原で家康を破ればその目的は達成 されます。その後は、上杉、毛利等と組んで政権を牛耳ればよ いと言うことになります。その為にも、「海道一の弓取り」家康に 戦場において勝つことが必須条件になります。(伊達正宗辺り であれば、家康の死を待ってという方法も可能です。)この実績 があればこそ、三成と疎遠になった武闘派諸将を黙らせること が可能となります。  その意味で、関ヶ原で「番狂わせ」は起こらなかったのです。  ついでに、大阪の陣で「真田が大阪方についた」との報告を受 けた時、家康は震えながら親(昌幸)の方か子(幸村)の方かと 聞き(当時、昌幸は死んでいたので、そのような問はあるはずも ない(幸村に決まっている)のですが)、「子の方です」という 答を聞いてやっと震えが止まったそうです。確かに、幸村で討死に を覚悟するのであれば、況や昌幸をやと言うことでしょう。 Time : 1999/ 9/ 6(月) 10:56:02
Name : Toshy E-mail : Title : 関ケ原の主役になれたのは Comments: >三成は、秀吉のもつカリスマを受け継いだ豊臣家がバックにあったからこそ20万 >石の小身にも関わらず天下分け目の戦いの一方の主役になれたのだと思います。 この点に関しては、徳川家康もまた「豊臣家」を代表する人物だったので疑問ですが、 概ねのところで賛成いたします。 石田三成よりも先に、宇喜多秀家が挙兵していました。 しかし宇喜田単独では、天下を割る力はありません。 そこで北政所は蟄居していた三成に挙兵を要請したのです。 三成には実戦の経験は確かに少ない。でも戦略・政略面での才能はずばぬけたものでした。 仮に加藤清正が豊臣への忠誠心を持っていても、家康相手に天下を割ることは不可能でしょう。 三成は秀吉のもとで日本の政治を動かしていたのです。 だからこそ、家康と対等の勝負が出来たのだと考えられます。 Time : 1999/ 9/ 7(火) 00:27:07
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 福島、加藤の忠誠心 Comments: みなさん、こん@@は。 家康も豊臣家をバックにしていたのでしたね。少なくとも征夷大将軍という大義を 手にいれる前までは。だとすれば三成の未来予想図と政治官僚としての実績も同 時代の人間にも高い評価をうけていたということが西軍の主役になれた理由にあげ られるでしょう。 加藤清正、福島正則といった秀吉子飼いの武将は豊臣に対する忠誠心がなかったの でしょうか?家康を関が原に勝たせる事によって豊臣内部がどう変わっていくか? について理解できなかっただけなのでしようか? 加藤には病を押して、家康に面会する秀頼につきそったという話がありますよね? 「秀頼に何かあっても一命を賭してお守りする」というようなせりふがありました がこの話は嘘なんでしょうか? 福島には大阪の陣の時安芸から秀頼の命が助かることを祈って涙したという話が あります。 この二つの話からは、三成が憎いから家康に荷担しただけで、豊臣への忠誠心は 持っていたようにも感じられます。 もしそうであるなら、忠誠心はあり、武将としての実績があるが政治家としては 幼稚だったような印象も受けます。 結局、この二人が家康方についたことが、単純に戦力としてのプラスよりも家康の 勝利に正義の名声を与えたような気がしています。 Time : 1999/ 9/ 7(火) 02:34:17
Name : Toshy E-mail : Title : あらら Comments: [Toshy wrote] >仮に加藤清正が豊臣への忠誠心を持っていても、 失敗しました。清正も忠誠心はありましたね。ないみたいな書き方、失礼しました。 徳川についた理由が、「豊臣を守るため」でした。 ロトさんの言うように、政治家としては幼稚だったということでしょう。 ついでに人間的にも、という言葉をつけくわえたい。 Time : 1999/ 9/ 7(火) 10:23:42
Name : 輔住 E-mail : Title : 「豊臣恩顧」も十人十色 Comments: >ロトさんの言うように、政治家としては幼稚だったということでしょう。 私もこの考え方に賛成です。 清正や正則は「秀頼が成人するまで実権を握るのが家康か三成か」ぐらいまでしか 考えていなかったと思います。 ただ「豊臣恩顧」といわれる大名でも「次は家康の天下」と思っていた 大名もいると思います。 黒田長政・藤堂高虎などは小早川や脇坂の内応にも深く関与していました。 彼らは「反 石田三成」というより「親 徳川家康」という気持ちの方が強かったと思います。 Time : 1999/ 9/ 7(火) 12:09:04
Name : Toshy E-mail : Title : 関白vs征夷大将軍 Comments: 家康は関ヶ原の戦いで勝利者となったものの、 公式には豊臣家の五大老の一人、という認識でした。 だから諸大名に対する影響力は、実力(軍事力)から来るものであり、 盟主としてのものではなかったのでしょう。 もっとも輔住さんのご指摘のように、黒田・藤堂は家康の家臣も同然でしたが。 一般には、「豊臣家は65万石の大名に落ち、徳川政権の傘下に入った」 という認識ですが、実は秀吉によって築かれた「関白型公儀」は生きています。 関ヶ原の戦いの時秀頼は中納言、家康が征夷大将軍になった年には内大臣になっているのです。 秀頼から見て父親ほどの年令にある秀忠が内大臣になるのは秀頼の3年後でした。 このままでいくと、秀頼成人の時に関白になることは当時の人たちにとって常識であり、 その時に徳川家は豊臣家に政権を返し、屈しなければならなくなるはずだったのです。 有力な徳川方大名として知られる伊達政宗が家康に送った書簡には、 このように書かれています。 「いくら秀吉の子供でも、天下を治める能力がないとわかった時には、  領地を与えて存続させるのが望ましい」 つまり成人したあかつきには、豊臣がふたたび君主になることが、 当時の大名・武家の間で当然のことと思われていたのでした。 これに対抗すべく、家康が選んだ道が征夷大将軍でした。 これのメリットは何かと言うと・・・・  1.朝廷とは別に独自の政権を持つことができること  2.秀頼は関白を望んでいたから、敵対の意思表示を感じさせない そして・・・・  3.この役職は「武家の頭領」という認識があった。    武家の頭領になるには、これが一番ふさわしい。 こうすることによって、将軍型公儀により武家の頭領として、 豊臣型公儀を侵すことなく政権を簒奪していくことになったのです。 じょうきゅうの乱までの鎌倉と朝廷の関係に似たものが、 この徳川と豊臣の間に感じられはしないでしょうか。 Time : 1999/ 9/ 7(火) 23:58:04
Name : くずみ ゆら E-mail : Title : きんたろうさんへ質問です Comments: >秀吉対家康の戦いは誰が見ても家康の敗北です。 これは当時の武将達共通の認識だったのでしょうか? 軍事力で家康を屈服させられなかった秀吉は、妹や母親を家康に人質として 送っていたはずでは? 豊臣政権内での家康の立場は「臣下」ではなく、「客分」に近いのでは? Time : 1999/ 9/ 8(水) 01:19:09
Name : きんたろう E-mail : Title : くずみ ゆらさんへ Comments: こんばんは。 秀吉対家康に対する認識は当時共通のものだったと思われます。 >軍事力で家康を屈服させられなかった秀吉は、妹や母親を家康に人質として 送っていたはずでは? 軍事力で屈服させることが出来なかったという説は徳川家が政権略奪(移動)の 正当化のために用いた様々な理論づけのプロパガンダの一環では無いかと思われます。 秀吉対家康の戦いをサッカーの試合に例えると日本とブラジルのオリンピックの 時のようなものと考えればいいのではないでしょうか。 守備に徹して何とか最小限の被害に押さえたわけです。 いわばハリネズミ戦法ですね。 どうしてあの時点で家康が大阪城に来て秀吉の前に臣従した(これは全国の諸将の前) のかと言えば、あれ以上ぐずぐずしていると「本気で」徳川家を攻められると認識 したからに違いありません。 大阪に来るのがあれ以上遅かった場合「小田原城」を持たない徳川家の歴史は終わって いたはずです。 これに近い例としては、伊達政宗が小田原参陣に遅れた時の対応があります。 家康がラッキーだったと思われるのは、信長と同盟してから20年間裏切る事の なかった実績を、同じく信長配下の武将であった秀吉が十分知っていたからでは ないかという点です。 つまり、家康を十分に評価していた(好印象を抱いていた)事が大きいと思います。 Time : 1999/ 9/ 8(水) 04:03:48
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんの補足(独断で) Comments: くずみ ゆらさんへ 大坂城にきて「臣従」したという時点で家康は秀吉の家来です。 信長の時と違い客分ではありません。 ちなみに秀吉も母を人質として出しましたが、 家康も結城秀康を秀吉の養子にしています。 (人質的な意味合いもあるでしょう) Time : 1999/ 9/ 8(水) 12:31:11
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 秋篠寺は何故建立されたのかーとりあえずFin. Comments:  秋篠を名に持つ人物は、8世紀末に2人存在します。豊国真人秋篠と秋篠朝臣安人です。  秋篠安人は土師宿禰の出であり、秋篠氏となった土師氏は平城京の北にある佐紀盾列古 墳群に居住していました。土師氏は天王家の葬儀を取り仕切ったからでしょう。菅原氏と 大江氏も土師氏の出です。豊国真人秋篠は土師氏と関係が深い治部省で働いていました から、その名前からも恐らく秋篠安人と姻戚にあったのではないかと私は考えています 。でないにしても、秋篠寺建立の本筋とはあまり関係がない人ですから、深く考える必要 はないでしょう。  秋篠安人が秋篠寺建立に当って大いに働いたのはいろいろな記録から間違いはありませ ん。彼にはもう1つ大きな業績があります、「続日本紀」の撰集者であった事です。  「続日本紀」の撰集者は、格の上から最高責任者が藤原継縄、秋篠朝臣安人、菅野朝臣 真道、中科宿禰巨都雄です。  藤原継縄は、藤原南家で、藤原仲麻呂の兄、藤原豊成の次男です。私が調べたところ、 光仁天王と桓武天皇の参謀的な役割を担っていたようです。特に桓武天皇の信頼は厚く、 皇太子安殿皇子(平城天皇)の東宮伝(字が間違っているかもしれませんすみません)さ らに烏帽子親になり、自分の別荘地があった葛野への遷都を建言つまり平安京を誘致、最 終的には右大臣まで上り詰めています。秋篠安人は一時期彼の下で働いていたことがあり ます。  菅野朝臣真道と中科巨宿禰巨都雄は、同じ津連の出です。津連は渡来人の子孫で、桓武 天皇にとっては外戚に当ります。なお、土師氏も桓武天皇の外戚です。菅野真道は安殿皇 子の教育係となり、平城天皇即位後重用されます。ということは、藤原継縄の部下だった ということです。  「続日本紀」は延暦13年(794)に撰集開始、延暦16年(797)に完成して4人は褒 美として昇進します。しかし、完成していたのは後半だけで、しかも橘奈良麻呂の乱があ った天平宝字元年(757)の記事が欠けていました。前半と天平宝字元年の記事は中科巨 都雄が中心になってその後7年かけて完成されます。彼はそれほど出世していないことか ら、純粋な学者だったのでしょう。  このことから、桓武天皇が興味があったのは後半部であったことがわかります。「続日 本紀」は正史にしては歴史の裏側や皇室に都合の悪いことも多く書いてあります。易姓革 命を認めない人も、桓武天皇が天武系の天皇に好意を抱いていなかったことは認めざるを えないでしょう。桓武天皇が「正確」な正史を書けたのは、天武系の天皇の都合が悪いこ とを暴くことに問題を感じなかったからでしょう。早良親王を追い落とした事件を隠すな ど、自分に都合の悪いことは書いていません。このことから、桓武天皇が「続日本紀」を 書かせた理由は、天武系から天智系への皇位の移動の正当化だったと私は考えます。 また橘奈良麻呂の乱において藤原仲麻呂は最終的に兄の豊成、乙麻呂(長男)父子を失 脚させています。藤原継縄の父と兄が失脚しているわけで、彼が書かなかったのはこのこ とと関係があると思われます。  私の調べたところ、光仁天皇と桓武天皇は、称徳天皇の死について良心のとがめを感じ ている形跡はありません。むしろ井上内親王と他戸親王の怨霊については大いに恐れていました。 称徳天皇の死は自然死だと思います、しかしその前後に宮廷で起きたのはクーデタでし ょう。藤原継縄羽、このクーデタにおいて重要な役割をしています。もし称徳天皇の御病 気が回復するようなことがあれば、暗殺もあったと思います。しかし、実際にはなかった と思います。  秋篠寺の建立された年代として、宝亀7年(776)、宝亀10年(779)、宝亀11年(780) の3説があります。私は、宝亀3年に光仁天皇によって発願され、宝亀10年に善珠が寺 に入り、宝亀11年に光仁天皇から100戸の施入があって寺として本格的に活動し始めた のではないかと考えます。  秋篠寺を開山した善珠は元々興福寺の僧で、早良親王の怨霊を静めるなど光仁天皇と桓 武天皇と深い関係のあるそうです。玄ぼうと藤原宮子の子であるという伝説もありますが、 さすがにそれはないでしょう。  以上のことから秋篠寺は井上内親王と他戸親王の怨霊から光仁天皇とその子孫を守るた めに建立されたのだと思います。そして光仁天皇は秋篠寺を自分の皇統の守護寺、天武系 にとっての薬師寺や東大寺と同じ地位の寺にするつもりだったのではないかと思います。  秋篠安人が桓武天皇に取り立てられたのは、秋篠寺建立がきっかけでしょう。  しかし、遷都によって秋篠寺が国家第一の寺となる機会は失われました。秋篠安人は何 とか自己と近い関係にあるこの寺の勢力維持のために腐心したようですが、秋篠安人と姻 戚にある嵯峨天皇の死と自分の死によって、その望みは絶たれたようです。  承和初年(835年前後)に常暁が、秋篠寺に大元帥明王を安置し、以後秋篠寺は真言密 教の大寺院となりますが、これは皇室の保護を失った秋篠寺の生き残り戦略だったのでは ないかと私は考えます。 Time : 1999/ 9/ 8(水) 13:18:41
Name : slashdog E-mail : Title : きんたろうさんの補足(独断で パートU) Comments: くずみ ゆらさんへ 確かに、小牧・長久手の戦いは戦術的な面からみれば、家康に軍配を上げても 良いかもしれませんが、戦略的な面から見ると家康の完敗です。 秀吉は家康の大義名分を奪い、それと同時に朝廷工作も行ない「関白」に 任ぜられました。それから四国も平定し「豊臣」姓も許された。 (本当は征夷大将軍になるつもりで、義昭に養子にしてくれ!と頼んだのですが きっぱりと断られました(笑)義昭も最後の意地を見せたのでしょう) この時点ですでに、家康の選択肢は「屈服」しかなくなりました。 もしそれ以外を選択していれば徳川家はこの世から消えていたでしょう。 それだけ秀吉の行動は速く、戦略的にも優れていたということです。 実際は、軍事力で屈服させられなかったのではなく、被害を少なくしたかった為に しなかったのです。 人質も、交換ですね。(秀康⇔旭姫、大政所) 秀康は可愛そうな武将です。 家康に疎まれ人質として追い出され、 結局は、秀吉にも結城家に養子にだされてしまいました。 Time : 1999/ 9/ 8(水) 14:35:48
Name : slashdog E-mail : Title : 関白vs征夷大将軍について Comments: Toshyさん こんばんは >このままでいくと、秀頼成人の時に関白になることは当時の人たちにとって >常識であり、その時に徳川家は豊臣家に政権を返し、屈しなければならなくなる >はずだったのです。 当時、関白職は秀次事件以来約五年半、欠官でしたが、(これは秀頼を関白に 着かせる為の秀吉の方針だと思われる)家康の裏工作により 九条兼孝が任官しました。(家康は武家より公家に返すと言っていた) この間の豊臣の動きがよく解からないというか、記録にあまりないのでしょうか? それを阻止しようとしたり、家康に対抗する朝廷工作はしなかったのでしょうか? 秀頼を関白にするつもりは無かったのでしょうか? 家康の政治力(色々な意味を含めて)に太刀打ちできなくなったこの時点で 豊臣家はただの、六十五万石の大名に転落しています。 ですから、あとは悠々と征夷大将軍になればよかった。 と、こんなこと思うのですが、どうでしょう? Time : 1999/ 9/ 8(水) 15:54:12
Name : Toshy E-mail : Title : 関白vs征夷大将軍・そのU Comments: slashdogさん、レスありがとうございます。 生煮えの知識ですが、がんばってみます。 関ヶ原の戦いで、豊臣氏は敗軍の将たちが治めていた蔵入れ地を失ったのは事実です。 そのために65万石程度しか持たなくなったのですが、ことはそう単純でもなかったようです。 九条兼孝が関白に任じられたのが慶長5年(1600)でした。 ここで秀頼=関白の道は閉ざされたという見解が主流です。 しかし慶長10年、秀頼は13歳にして右大臣に昇格しています。 関白に任じられた他家の人々よりもはるかに早い出世で、 未だ豊臣家の威光は残っていたと見られはしないでしょうか。 一方の秀忠、右大臣になるのは秀頼の8年後、 家康の寿命はおろか、秀忠と秀頼の寿命を比べても、 官位で上回る豊臣がいずれ天下を回復すると見られていたのです。 関ヶ原以後の注目すべき事実は外様大名の動向です。 徳川に敵対し敗軍となった上杉家と、秀頼を守り立てるよう遺言された前田家。 徳川の傘下に入ってしまったとすれば、もっとも警戒される存在です。 しかし景勝は上洛するたびに秀頼のもとにあいさつに赴き、 その後で将軍家に、というのを慣例としていました。 家康はこれを黙認していたのです。前田氏にしても、 利常が家督を継いだ時に豊臣家にそれを告げにいっているのです。 また諸大名が実施された大名普請、豊臣家はそれを免れていて、 幕藩体制の外にあるという証拠と考えることが出来るのです。   実力では徳川将軍家が政務を執っている形だが、   もともとは豊臣家の筆頭であり、委託されているに過ぎない、   秀頼成人後(そして関白に任官後)に政務を返上する−− これが当時の大名たちの認識だったのではないでしょうか。 先に記した通り、徳川派の伊達政宗ですら、 秀頼が天下の権を回復すると思っていたようなのですから。 豊臣側ではなにもしなかったのか。 秀忠は淀君の義弟、また秀頼と千姫の婚姻も成立していたため、 豊臣側では甘い見通しを持っていたと考えるしかありません。 家康が征夷大将軍に任じられた時、 ちまたでは関白秀頼の誕生が噂されていました。 秀頼の官位が、秀吉が関白に任じられた時のそれと全く同じであり、 また朝廷の決断さえあれば容易に実現したと考えられるわけです。 Time : 1999/ 9/ 8(水) 23:13:13
Name : Toshy E-mail : Title : 付け加えですが Comments: ところで関白誕生が徳川政権を揺るがすのは、次の理由です。 豊臣秀吉はslashdogさんのご指摘のように、足利家の養子を目指しました。 しかしすげなく断られ、関白になることによって武家の政権を包み込んだのです。 もし秀頼が関白になれば、家康としてはうかつな謀略は出来ないし、 武力で戦うにしてもほとんどの大名は中立を決め込むはず。 とすれば大坂城を自前の軍で攻めなければならないのです。 秀頼の後見人であった加藤清正・池田輝政・浅野幸長らが相次いで他界し、 豊臣は吸引力を失っていったのです。 上杉・前田らがあいさつに赴かなくなったのもその時期でした。 なお官位において、秀忠が秀頼を上回ったのは慶長19年。 大坂の陣が起こるのは、その翌年のことです。 Time : 1999/ 9/ 8(水) 23:55:50
Name : Toshy E-mail : Title : くずみゆらさんのフォロー(独断で) Comments: 秀吉は朝廷の権威によって家康を屈服させたとはいえ、 軍事的な敗北がのちのち負い目になったのは確かでしょうね。 「客分」はあたらないかもしれませんが、 他の大名と比べ、徳川氏は別格の存在は違いありませんでした。 なお、島津やちょうそかべは直接戦闘で降伏しましたが、 大老になる毛利・上杉・前田の3氏は「同盟」という形ですな。 徳川と同様、戦闘を交えていないのが大老になっているのです。 直接戦闘していないのが、もう一人いました。伊達政宗です。 フォローになってない?! Time : 1999/ 9/ 9(木) 10:17:22
Name : 輔住 E-mail : Title : 妄想かもしれませんが Comments: 秀吉の家康に対する待遇は破格といっていいと思います。 きんたろうさんご指摘の通り、信長の家来の時からの付き合いも あると思いますが、伊達・北条・徳川の3国が組んだら かなりやっかいになるという面もあったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 9/ 9(木) 12:26:04
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「秋篠寺FIN」?? Comments: 安部さん、お久しぶりです。Awajiです。秋篠寺Fin 拝見しました。 >>称徳天皇の死は自然死だと思います、・・・・・以上のことから秋篠寺 >>は井上内親王と他戸親王の怨霊から光仁天皇とその子孫を守るために建 >>立されたのだと思います。 称徳怨霊鎮魂寺説を撤回されたのはご立派です。KANAKさんも井上・他戸と の関係については以下のとおり一定の可能性を認めておられますので、大 筋においてはほぼ一致されたように感じます。 >>寺そのものが777年「光仁」「 桓武」が引き続き不予となり、「井上内 >>親王」を改葬した前後に建立されたことでもあり、神社の存在と寺院の >>建立について「井上・他戸」の非業の死との関連性も全く有り得ないと >>は思いません。 ただ、細部について敢えて申し上げると・・・ >>菅野朝臣真道と中科巨宿禰巨都雄は、同じ津連の出です。津連は渡来人 >>の子孫で、桓武天皇にとっては外戚に当ります。なお、土師氏も桓武天 >>皇の外戚です。 津連氏は百済貴須王の子孫を称し、桓武外戚の高野氏は百済王族(佐平) 余自信の子孫とされています。両氏ともに百済系ではあるのですが、何代 も離れています。何故に津連氏は桓武の外戚なのでしょう? また土師氏は桓武生母である高野新笠の母系ですが、こういった関係は、 通常外戚とは言わないと思いますが・・・・ >>そして光仁天皇は秋篠寺を自分の皇統の守護寺、天武系にとっての薬師 >>寺や東大寺と同じ地位の寺にするつもりだったのではないかと思います。 建設当初の設計規模から見て、チョット無理だと思いますよ・・・ 光仁・桓武がその気になれば、遷都前にでももう少し大規模な寺院になっ ていたでしょうね。 >>秋篠安人は何とか自己と近い関係にあるこの寺の勢力維持のために腐心 >>したようですが、秋篠安人と姻戚にある嵯峨天皇の死と自分の死によっ >>て、その望みは絶たれたようです 嵯峨の崩御は842年、秋篠安人の逝去は821年ですから、この表現にはチョ ット無理があると思うのですが? また何か秋篠安人が秋篠寺勢力維持のため腐心した事跡があったのでしょ うか・・・ところで秋篠安人と嵯峨の姻戚と言うのは高野新笠を通してと 言うことでしょうか、それならば淳和も同様ですが? 細かいことばかり申し上げて済みません。 なお本件については、Awajiの感想ですので特段のご回答は不要です。 Time : 1999/ 9/ 9(木) 12:49:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか−補足 Comments: Awajiさん、感想ありがとうございます。KANAKさんのことに御詳しいようです ね。私は、KNAKAさんはあまり好きではありませんが、あなたには敬意を持っておりま す。 称徳天皇怨霊説を取り下げたのが立派なことかどうかは知りませんが、井上内親王と他 戸親王に対する、光仁天皇と桓武天皇の行動を見ると、明らかに取り乱しているのですね。 位を元に戻したり、墓の改葬をしたり。桓武天皇にいたっては、直接手を下しているわけ でもない淳仁天皇の供養までしています。もし称徳天皇の怨霊を恐れていたのなら、やは りなにか形跡を残していると思うのですが、平然としている。称徳天皇崩御前後の暗い伝 説は、光仁天皇擁立のいきさつの不透明さから出てきたのではないかと今は考えています。 桓武天皇の外戚という語にあまりこだわるつもりはありません。他の氏族よりは信用し ていただろう、くらいの意味です。 秋篠寺の設計規模は知らないです。しかし、建立当初から室町時代にかけては相当の規 模を誇っていたといくつかの資料には書いていましたが… 以前も書きましたが、 秋篠安人 | 秋篠高子==嵯峨天皇 | 源清(秋篠禅師) という関係が有ります。安人と高子の関係ははっきりしませんが、親子としている系図 も有ります。秋篠安人は神野親王(嵯峨天皇)の春宮大夫をしていた上、伊予親王の事件 で平城天皇に疎んじられますが、嵯峨天皇の時に復活し、左大弁から参議となり、その後 も備前の守、左兵衛督、近江の守を兼任し、従三位になった上に、「弘仁格式」の選定を 任されており、嵯峨天皇の腹心ですからほぼ間違いないでしょう。 秋篠安人は秋篠氏の実力者です。当時の秋篠氏で歴史に何度も名前が出てくるのは彼だ けですし、弘仁3年(812)には彼の子孫以外の秋篠氏は、御井朝臣という別の氏姓に改 姓されています。秋篠氏が行ったことはほとんど彼の意向と考えて良いでしょう。 奈良時代中期に秋篠氏の所領だった土地の一部が、奈良時代末期には秋篠寺の寺領とな っています。秋篠安人は、延暦25年(806)に桓武天皇の周忌御斎会司(葬式の実行委員 長)をつとめています。他の法要はすべて山城の国の寺院で行ったのに、五七日だけは大 安寺と秋篠寺で行っています。 大安寺は大官大寺の後身で、じょめい天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇と縁の深い 寺です。秋篠寺が選ばれたのは、秋篠寺と桓武天皇の関係の深さと、秋篠安人の尽力から でしょう。 Time : 1999/ 9/ 9(木) 14:10:21
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : Awajiさんへの質問 Comments: 秋篠寺の設計規模の話が出ました。秋篠寺は資料が少なく 調べるのに苦労しました。設計規模が分かる資料が有るなら 是非は調べたいので、詳しいことを教えて下さい。私は秋篠寺 に関する資料なら何でも欲しい状態ですから。 Time : 1999/ 9/ 9(木) 14:18:07
Name : くずみ ゆら E-mail : Title : ありがとうございました Comments: きんたろうさん、slashdogさん、輔住さんへ 私の質問への回答&補足ありがとうございました(^^) Toshyさんへ フォローありがとうございました(^^) Time : 1999/ 9/10(金) 00:10:50
Name : 光五郎 E-mail : Title : 素朴な疑問ですいません。 Comments: 井沢先生の著作、いつも納得しながら読んでいます。 「逆説の日本史7巻」が出版されたら、即購入いたします。 さて、素朴な疑問なんですが、 井沢先生の言っておられる「怨霊信仰」「顕幽分離」という思想は、 いったいどの時代まで、自覚されていたんですか? いままで気がつかなかった、ということは、 昭和、平成の時代にはもう誰も自覚していなかった、ということでしょう? 明治、大正くらいまでは自覚されていたんでしょうか? 「軍神」が靖国神社にまつられていた、というのも怨霊信仰の一つなんですかね? 武家の官位が「顕幽分離」の法則でつけられているのなら、 江戸時代までは自覚されていた、ということですか? くだらないことをきいてすみません。 どなたか教えてください。 Time : 1999/ 9/10(金) 06:13:13
Name :E-mail : Title : 安部さん Comments: >桓武天皇の外戚という語にあまりこだわるつもりはありません。他の氏族よりは >信用していただろう、くらいの意味です。  やめてください、こういうの。へどが出ます。日本語使いましょう。 Time : 1999/ 9/10(金) 07:35:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 顕幽分離 Comments: みなさん、こん@@は。 「顕幽分離」が言葉や概念として成立したのは、江戸時代後期の国学の流行以来 だと思います。ですから日本人がこれをはじめて自覚したのも江戸後期でしょう。 それまでの日本人はこういった状態は無自覚であったんでは?と思います。 顕幽分離でなく、顕幽が同じ物、同じ空間として特別意識されず同居していたの ではないでしようか?江戸時代の官位は顕幽分離というより顕幽合一の思想では ないでしょうか? Time : 1999/ 9/10(金) 07:53:02
Name : slashdog E-mail : Title : Toshyさん レスありがとうございます Comments: 全体を見渡して言えることは、豊臣家の人間はすべての面において甘かったと いうことでしょうか。 清正にしろ、正則にしろ豊臣家のことを人一倍 思っていたはずなのに、家康に組するという事が最終的にどういうことなのか 想像することができなかった。 一言でいうと家康に上手く騙された。それだけのこと・・・。 やはり秀吉の愛弟子「三成」しか対抗できなかったのか。 Time : 1999/ 9/10(金) 23:54:13
Name : Toshy E-mail : Title : 豊臣家の人々 Comments: なんかどこかで聞いたような題名だ。 >豊臣家の人間はすべての面において甘かったということでしょうか 甘いですよね〜大坂冬の陣の時なんか、露骨です。 思いっきり堀を埋められてもぼんやりしているんだから(笑) 加藤清正・福島正則が家康に組したのは、 もちろん家康に騙されたということもあったのでしょうが、三成がそれほど嫌いだったからでしょう。 感情が先に出て、考えが及ばなかったのでは?? 浅野長政はその辺わかっていたようですが(最初は家康と対立する側にいた)、 なぜ東軍についたのかは、まだ勉強しないと不明です。 Time : 1999/ 9/11(土) 00:22:23
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 顕幽分離の法則(朝の続き) Comments: に従うと、家康は豊臣家をどうにかして祭り上げる必要があると思います。 何かやったんでしょうか?家康は。 豊国大明神をつぶしたのではなかったでしょうか? Time : 1999/ 9/11(土) 00:58:52
Name : ina E-mail : Title : 顕幽分離 Comments:  勇者ロトさんこんにちは  顕幽分離は必ずしも、相手を倒した最高権力者によって行われる必要は無いと思 います。  私は、講談本や、講談のようなもので、いわゆる太閤記が語られることも顕幽分 離に当たると思います。  西洋的な考えから言えば、その流行を禁止するべきですが、そのような禁令など 江戸時代にあったのでしょうか? Time : 1999/ 9/11(土) 11:28:44
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんへ Comments: こん@@は。 真田十勇士などは、それにあたるわけですが、これはあくまで自然発生的なものですよね? むしろ前政権を懐かしんでという反面、現政権に対する批判のようなものが込めら れているのではないでしょうか? 倒した相手によっておこなわれなければ、政治的な鎮魂には行き着かないと思いま すし、法則とはいえないのではないでしょうか? 禁令は確認できませんが、仮名手本などは摘発を恐れて「大星由良の介」などとして公演した経緯もありますし、 反動的とみなされれば禁止されたかもわかりません。 私が「顕幽合一」といった理由は、官位などは幽事としててだけでなく、顕事にも 左右することを考えて(願って)つけたのではないか?と思うからです。 今仕事中ですので、改めて書き込みむたいと思います。 Time : 1999/ 9/11(土) 14:20:28
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「秋篠寺の規模」?? Comments: 安部さん、Aさん、今日は。Awajiです。 >>秋篠寺の設計規模は知らないです。しかし、建立当初から室町時代にか >>けては相当の規模を誇っていたといくつかの資料には書いていましたが… >>設計規模が分かる資料が有るなら是非は調べたいので、詳しいことを教 >>えて下さい。私は秋篠寺に関する資料なら何でも欲しい状態ですから。 確かに保延元年(1135)講堂を残して炎上するまでは、「相当の規模」を 保っており、現在の本堂はほぼ当時の講堂の敷地に相当するとされていま すね。 もし秋篠寺の設計規模を、お知りになりたいのならば、半日ほどかけて周 辺を散策することをおすすめします。奈良時代の寺院は基本的に平地に建 設されていますので伽藍配置が整然としていますし、中近世の築城や都市 乱開発が無い限り、周辺は創建時の面影を良く止めています。 従って付近の地形(傾斜)・礎石・土塀跡・道路付・排水溝や現在の南門 ・明王堂・八所御霊社・香水閣等の位置関係等から概ね設計規模が想像で きるのですが、Awajiの感触では概ね西大寺の四分の一以下でしょうね。 (西大寺周辺は都市化されていますので、判定が難しいのですが・・・) 所謂南都七大寺(東大寺・西大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・興 福寺=延喜御記)は時代により変化します(法華寺・唐招提寺が入ること もある)が、秋篠寺(内経寺?)が選定されたことはありません。 つまり他の氏寺や地方寺院に比べれば「相当の規模」ですが、大寺と言う には寺院としての規模(格)がかなり異なっているのでは無いかと想像さ れるのです。 Aさん・・・・ Awajiが余計なことを言ったため感情を害されたようで申し訳ありません。 安部さんは確かに少し強引なところがあり、Aさんの様な方から見れば、 用語の使い方や論理構成に未熟なところがあると思いますが、理系の学生 としては真剣に歴史を学ぶ姿勢をもっておられ、努力も重ねておられると 思います。 KANAKさんとの論争時に比べれば、随分謙虚さも身に付けられた様です。 出来れば寛容の精神で、暖かく育ててあげたいと思うのですが・・・ Time : 1999/ 9/11(土) 18:48:58
Name : Toshy E-mail : Title : 顕幽分離 Comments: のことはよく知らないのですが、ちょっとだけ。 勇者ロトさんがご指摘のように、家康は夏の陣の後、豊国大明神をつぶし、 そのあとに東照大権現を据えました。 また豊臣の大坂城焼け跡には、その二倍の規模にもあたる大坂城を造ったのですね。 怨霊信仰というと、真田十勇士もさることながら、秀頼不死伝説も数えられるのではないでしょうか。 秀頼が薩摩に逃れたという話です。 なんの関係もない話でした。 Time : 1999/ 9/11(土) 23:12:32
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 顕幽分離 Comments: みなさん、こん@@は。 井沢先生の説によると顕幽分離とは、 >怨霊は鎮魂されなければならないが、その鎮魂の方法が中国においては >子孫に祀らせるというやり方だったのが、日本ではその怨霊の生前ほし >がっていたものを与えるというやり方に替わっていった。アマテラスは >オオクニヌシから日本の支配権を奪ったが、それに替わるものとして幽 >事の主催者という地位を与えた。  ということですが、この考えが日本における怨霊鎮魂の基本的考えであるという ものです。 現実の世界での支配権は奪うが、あの世では王となれる事(成功)を約束する という事が江戸期まで基本的な考えであったとは思えません。 菅原道真が天神とされ、古事記の講義が頻繁に行われた平安期独特の考えでは ないでしょうか?もちろんこの考えの流れが「真田十勇士」「義経=ジンギス カン説」などの虚構をかたる風習に繋がったことは私は否定できませんが、政権 交替において、「勝者が敗者の霊(怨霊)を鎮魂するという法則」ではないと思います。 むしろ大国主の出雲大社、真田十勇士、義経=ジンギスカンなどの説話は敗者に 対しての勝者の意図ではなく、民衆の間から敗者に対しての同情から自然発生的 に語られる物語のような気がします。 大国主が現実政治からの引退と引き換えに幽界における盟主の座を手に入れたと いう話がクローズアップされるのは、平田篤胤らが考察した国学の幽界理論の中 で初めて、いや平安期以来久々に触れられたものであると考えています。 平田のこの理論が、出雲大社が皇国史観の中で別格の地位を得るための基本概念 となるのは以前四拍手の話題の時に紹介した通りです。 顕幽分離の法則は、平安期に登場し、鎌倉以来の武家政権では廃れていたものを 江戸後期の国学の流行が呼び覚ました考えであると思います。 Time : 1999/ 9/12(日) 00:24:34
Name : ina E-mail : Title : 顕幽分離 Comments:  勇者ロトさん、Toshyさん、みなさんこんにちは  武家政権では顕幽分離は廃れていたのではなく、別の形で存在していたと 考えます。  すなわち、朝廷はもともと日本の顕の領域を支配していたのに、武家によって それを奪われてしまった。そこで、官位のような、実際の権力と関係のない、 幽の領域を担当していただこうと。  こう理解すると、法則として通用すると思います。  国学自体、発生当時、反体制思想ですから、権力者によるものではありません。  私はこの法則は民衆の伝承や芝居なども含めて理解して良いと思います。 Time : 1999/ 9/12(日) 00:54:59
Name : 勇者ロト E-mail : Title : そう理解されたら Comments: そうかもしれません。 Time : 1999/ 9/12(日) 00:56:48
Name : 勇者ロト E-mail : Title : そう理解されたら Comments: そうかもしれません。 Time : 1999/ 9/12(日) 00:57:12
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 「取り消す」をおすつもりが・・・。 Comments: 「登録する」を押してしまいました。inaさんこん@@は。 とすると、公家の中だけの法則として武家政権時代も残ったということでしょうか? 「国学」が反体制なのとなんの関係があるのでしょう? 私がいいたかったのは、国学によって顕幽を思い出したという事なんですが? 芝居などについて、そう理解されるのならそうかもしれません。否定はできません が、ちょっと法則という意味から外れるのではないか?という事です。 あしからず。 Time : 1999/ 9/12(日) 01:04:42
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 追加 Comments: 顕幽について日本人が忘れていたというわけではありません。 顕幽は常に日本人の生活と一体だったと思います。ですから「顕幽合一」と申し あげたのです。 しかし、顕幽分離の法則では、政治的勝者が敗者(怨霊)に対し、 >日本ではその怨霊の生前ほし >がっていたものを与えるというやり方に替わっていった という風に「鎮魂」として行うことを前提としています。 このあたりがちょっとおかしいのでは?と言っているのです。 Time : 1999/ 9/12(日) 01:12:21
Name : Sin E-mail : Title : 関ヶ原は誰のため? Comments: こちらでは初めての投稿です 皆様の考えをお聞きしたいのですが、先日、ロトさんとチャットした時に、 「関ヶ原の戦いを必要としたのは家康か三成か」 ということで意見交換をしました。 Sinは関ヶ原は家康が必要としたという考えですが、皆様はどんな考えで しょうか? また、Sinは 「豊臣家存続の為には関ヶ原をおこすべきではなかったのでは?」 と思いますが、皆様はどう思われますでしょうか? このテーマでもロトさんと意見交換したのですが、他の方の意見も お聞きしたいので、よろしくお願いします<(_ _)> Time : 1999/ 9/12(日) 03:08:46
Name : Sin E-mail : Title : なぜそう思うかの Comments: 詳しい理由は、明日にでも書き込みます Time : 1999/ 9/12(日) 03:14:30
Name : Toshy E-mail : Title : 関ケ原は Comments: ども、こんにちは。 家康としては、一大老として終わらないためにはこの戦いが必要だったと考えられます。 豊臣家内部のき裂を利用し、片方を味方につけることによって、 豊臣政権を簒奪しなければならなかったのでした。 三成としては、この戦いしなければならない(追い込まれていた)ものでしょう。 前田が徳川に屈した今、次が浅野と上杉、そして次は・・・・ 徐々に反徳川勢力がつぶされると、豊臣政権を奪われていくことになるのです。 詳しくは、Sinさんやほかの皆様の投稿の後で。 Time : 1999/ 9/12(日) 09:46:14
Name : ina E-mail : Title : 法則 Comments:  勇者ロトさん  こんにちは >このあたりがちょっとおかしいのでは?と言っているのです。  それはおっしゃる通りだと思います。  この定義で解釈すると問題の事例は在ると思います。  ただ、かなり前、私自身がKANAKさんと社会科学あるいは人文科学での法則 というのはどの程度当てはまれば法則と言えるのか、という話しをしたことがあり ます。  70%か80%ということで話しは終わった、と記憶しているのですが、紫式部 の源氏物語も権力者そのものではなく、あくまで藤原陣営の人間、と広く捉えての もので、個々には問題はあるでしょうが、私としては、同意できるものです。  井沢先生の読者なら納得する人が多いでしょうし、初めて聞く人でも、成るほ ど、と膝を叩こうとしてパソコンデスクに手をぶつける人が多いのではないでし ょうか。 Time : 1999/ 9/12(日) 13:54:22
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんへ Comments: ご理解頂いてありがとうございました。 Time : 1999/ 9/13(月) 00:12:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 子曰丘也幸荀有過人必知之 Comments:  外戚とはいえ、摂関政治下の御堂流や、足利将軍に対する日野氏のように、ほぼ同族と いえるほど緊密な関係にある氏族ではなかった。しかし、桓武天皇と遠いとは言えども血 縁関係にあったことは事実であり、天皇御自身も、土師氏、津氏自身もそれは自覚してい たであろう。そのことによって、桓武天皇に注目されて登用されたり、血縁関係を頼って 猟官をしたりということは当然あったと考えられる。藤原氏のような強力な氏族を押さえ るためにも、遠くはあるが土師氏や津氏のような外戚を重んじたであろう。というわけで、 桓武天皇が「続日本紀」撰集という大任を秋篠安人、菅野真道、中科巨都雄に任せたのは、 その学識だけではなく、外戚であり、信用が置けるということが理由の重きをなしている だろう。 p.s.天智・天武論争はともかく、秋篠寺においてのKANAkさんの発言は、 とても「人生の先輩」が後輩を教え諭す態度には思えませんでした、 「ヤマイコウコウニイッテイルノデハアリマセンカ?」 何故カタカナで書く必要が有るのでしょうか?人を小ばかにしています。 「読むに耐えません」 じゃあ読まなきゃいいでしょう。 KANAKさんほどの力量が有れば、冷静に論理的に、 私をグウの音も出ないほど論破することは可能であるにもかかわらず、 鬼の首を取ったような発言をしたことは理解に苦しみます。 Time : 1999/ 9/13(月) 10:31:27
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 顕幽分離について Comments: 室町時代までは、 「後醍醐天皇はほっとけば怨霊としてたたりをなすであろうから、 太平記を書いて安心させてやろう」 という風に意識的に顕幽分離が行われていたでしょうが、 織田信長や豊臣秀吉にその意識が有るかどうかは怪しい。 江戸時代は、理性が重んじられた時代ですから、 表立っては「怨霊、怨霊」と口にする人はいなかったともいます。 ただ「浮かばれない人をほっとくのは落ち着かない」と言う 無意識的な衝動に近くなっていたと思います。 明治時代になって、顕幽分離は完全に日本人の無意識に潜行したと思います。 しかし西郷隆盛伝説や、国が滅んでも満蒙を守れ、と言ったような、 顕幽分離でしか説明できない現象も起こっていますから、 消滅してはいないでしょう。 この事は井沢先生が答えを出して下さると思いますが、 私なりの意見を述べますと、 戦国時代前期(15世紀後半〜16世紀前半)の間に 日本人の心に意識革命が起きたのではないかと思います。 この事は、私も、目下研究中です。 Time : 1999/ 9/13(月) 10:50:48
Name : Sin E-mail : Title : とりあえず・・・ Comments: みなさん、こんにちは。 Toshyさん、さっそくのレスありがとうございました<(_ _)> なぜSinが 「豊臣家存続の為には関ヶ原をおこすべきではなかった」 と考えるかを書き込んでみたいと思います。 Toshyさんも言われてるように、家康にとって関ヶ原の戦いは豊臣政権の 一大老として終わらないために必要だったと思います。逆に言えば、家康を豊 臣政権の一大老として封じ込め続けることが豊臣政権存続のためには現実的な 選択だったとSinは考えます。 家康を豊臣政権の一大老として封じ込めるためには、関ヶ原のように反家康勢 力、家康に敵対できる勢力をまとめて叩きつぶすチャンスを家康に与えてはい けないのです。豊臣政権存続の観点から見た場合、関ヶ原をおこしたことは、 三成最大の失策だったのではと思います。 この意見に対しては 「関ヶ原の敗戦は三成だけの責任ではない以上、三成の失策にはあたらない」 という反論があるかと思いますが、Sinは家康にチャンスを与えたことその ものが三成の失策だったと思うのです。家康が徐々に反徳川勢力を潰していっ たとしても、関ヶ原がなければ家康は豊臣政権内で最大の実力者で終わったの ではないかと思います。それが三成の望む豊臣政権の姿だったとは思えないで すが、家康が将軍ではなく大老であれば豊臣家にもまたチャンスが巡ってきた のではないでしょうか? システムが不安定になってるので、このあたりで失礼します。 続きはまた後ほど・・・ Time : 1999/ 9/13(月) 13:57:54
Name : slashdog E-mail : Title : RE:関ヶ原は誰のため? Comments: Sinさん、Toshyさん こんにちは 関ヶ原がもし起こらなかったとしても、家康主導で政治は続き何れ家康の天下に なったと思います。(どこかで、大きな戦にはなったでしょうけど) 三成の豊臣家の肩書きだけでは、すでに家康に対抗できなくなっているので、 どうにか手を打つ必要があった。 家康の過去の動きを見ると必ず、「これなら100%安全だ!」というときには 強引でも、仕掛けていきます。 その時ちょうど利家が死にこれでいけると家康は判断しました。 「関ヶ原をおこすべきではなかった」というのは結果論であの時点では、 三成の判断は間違っていなかったし、工作は成功していたと思います。 家康が一大老に納まっていたのは、自分では勝てないと考えていた 秀吉や利家(利家の場合、単独では勝つ自信はあったと想像できるが、それに束ねられるであろう豊臣恩顧の大名も含めると、勝てない)がいたからで 二人がいない今、遠慮する者はだれもいなくなった。 まったく、勝つ見込みのない戦を起したのなら三成の失策は明らかですが、 家康も想像できなかった人数を揃え、いい戦いをしたと思います。 三成が何人集めたか聞いたとき、家康は小便を漏らすくらい驚いたことでしょう。 あの時三成に出来たのは、家康に勝てる戦力の確保と、どこで上手く仕掛けるか? だったと思います。 そこで両者の思惑が一致したあの場面で戦が始まったと言うことでしょう。 Time : 1999/ 9/13(月) 15:46:53
Name : ノム E-mail : Title : 我慢の限界です Comments: みなさん、おひさしぶりです。 Sinさん、はじめまして(?きんたろうさんの掲示板でお見かけしてますので 初めてのような気がしません) 以前関が原の話題の時に僕がいいたかった事を言ってもらえたような気がします。 頑張ってください。僕はそこまで論を進める前にリタイアしてしまいましたので。 影ながら応援させていただきます。 事情があってインターネットはできなくなってからも学校内のパソコンでこちら ときんたろうさんのページはたまに覗いてます。今日はサークルの先輩の部屋から投稿させてもらってます。 ロトさんの小説も学校のオンラインで読んでますので頑張ってください。 今はスポーツならなんでもやるサークルに入って楽しく過ごしてます。インターネット熱もさめてしまいました。 でも、いつかパソコンを手にいれたらまた現れるかもしれません。そのときはよろしくお願いします。 みなさんの投稿は必ず読ませてもらっています。きんたろうさんToshyさんも 輔住さんも大阪JF生さんもinaさんもお元気ですか?かんばってください。それではさようならです。また会う日まで・・・・。 Time : 1999/ 9/13(月) 16:26:17
Name : Toshy E-mail : Title : 軍事の常識 Comments: Sinさん、ノムさん、slashdogさん、こんにちは。Toshyです。 石田三成が関ヶ原の戦い(というか、打倒徳川の狼煙)を挙げるべきだったか、否か。 定説では、会津征伐は徳川が反徳川勢力を一掃するために仕組んだ罠、といわれています。 結果からいうとまさにその通りでした。 しかし、これは軍事の常識から考えると、矛盾と言うよりも無理なのです。 最も効果的に敵対勢力をつぶすのは、同数の兵と戦うのではなく、 少数の敵を別個に撃破していくことです。 仮に双方とも5万の兵を持っていたとして、 5万対5万で戦うのではなく、5万対1万を5回続けるべきでしょう。 (異論のある方は、5人相手にケンカをして勝ってからどうぞ) なんとかの戦略と言うのですが、武力は兵力の二乗に比例します。 5万対1万で、1万が全滅した時、5万側が何人の兵を損じるかと言うと、 同数ということはありえず、せいぜい1000人くらいでしょう。 軍事の常識から考えると、家康が「おびき出し」をするはずがなく、 まして三成が失敗だとは言えないのです。 同数の、いやむしろ、上回る兵力を集めたのですから。 もし三成が勝っていたら、三成は反三成勢力が集まったところを利用した、 と言いかえることが出来るのです。 (続く) Time : 1999/ 9/13(月) 23:49:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「顕幽分離」?? Comments: 勇者ロトさん、inaさん、安部さん・・・今日は。Awajiです。 Awajiは中近世にはトント縁がなく、最近話題になっている「顕幽分離」 については良く分からないのですが、源氏物語・平家物語・太平記・太閤 記・仮名手本忠臣蔵等の歴史に題材を採った文学作品と怨霊鎮魂はどの様 な関係があると言うことなのでしょうか? ロトさんの定義された「顕幽分離」の法則との関係も全く分かりません。 特に、安部さんがおっしゃった・・・ >>「後醍醐天皇はほっとけば怨霊としてたたりをなすであろうから、太平 >>記を書いて安心させてやろう」という風に意識的に顕幽分離が行われて >>いたでしょうが・・・ の場合は・・・ @誰がその様に考えて「太平記」を記述したと解釈されているのか。 A「太平記」を記述することで何故に後醍醐天皇が安心して怨霊にならな いのか Bそれが何故に意識的顕幽分離になるのか。 「ギリシャ悲劇」「三国志演義」「アサー王伝説」「シェイクスピア悲劇」 「京劇」等の世界的文学作品との対比において、ご説明頂ければ有り難い のですが・・・(ポイントがずれた質問かもしれませんが、Awajiには同種 の史劇作品であって、怨霊とか顕幽分離とかにどの様に関連するのかが良く 分からないのですが・・・?) Time : 1999/ 9/13(月) 23:51:48
Name : Toshy E-mail : Title : では、いつ戦いを仕掛けるべきだったか Comments: Sinさん、ノムさん、slashdogさん、またまたToshyです。 ノムさんと激しくやりあったことが懐かしいですね。 あの時に貯えておいた知識が、ここ数日の書き込みに役立っています。 感謝していますよ♪ 豊臣側が・・といって悪ければ、反徳川勢力がいつ打倒家康の狼煙を挙げるべきだったか。 それは、秀吉の生前に違いありませんでした。 しかし秀吉は、家康を信頼していたことと大乱を恐れたことで踏み切れなかったのです。 もし秀吉が「徳川をつぶす」と言っていたら、天下の軍が徳川と戦うことになり、 豊臣側が勝っていたことでしょう。 次には、前田利家の生前が挙げられます。 秀吉の死後、家康を除く大老・奉行衆と家康が対立しました。 ここで前田利家が旗頭となり兵を挙げていたら、勝敗の帰趨は知れません。 徳川派と見られる浅野長政も、この時ははっきりと豊臣側。 前田・浅野の両軍あわせて3万がどちらにつくかでも全然違います。 差し引き6万ですから。 このように、時が経つにつれて徳川に有利になっていることは明らかです。 三成としても、慶長5年の挙兵は勝算がなかったのではないでしょうか。 しかし先送りすれば、ますます勝算はなくなっていくのです。 もし挙兵を見送れば、上杉は間違いなく徳川に屈していたでしょう。 前田・浅野の両氏はすでに徳川の軍門に下っていていました。 次は御家騒動のあった宇喜田、 秀頼のお膝元で騒ぎを起こした三成と反三成七将 朝鮮出兵の失敗を問われるであろう小西行長・・・ 反徳川勢力はつぎつぎと(豊臣家の名のもとに)つぶされ、 家康が征夷大将軍に任じられた後で、 豊臣家はなんの抵抗力もなしにつぶされていくのです。 大老で終わったのではという説が成立たないのは、歴史が証明しています 大老の身分だからこそ、秀頼の目指す関白職とかち合わない 「征夷大将軍」の椅子をねらっていたのですから。これは前の書き込みどおりね Time : 1999/ 9/14(火) 00:39:22
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: こん@@は、顕幽分離論について詳しくは下記をご覧下さい。 http://www.izawahome.total.co.jp/history/text/his_01.html ノムさん、元気そうで何よりです。また顔を出してください。 今日はこのへんで失礼します。 Time : 1999/ 9/14(火) 01:49:34
Name : 待兼右大臣 E-mail : Title : Toshyさんへ(それはランチェスターの法則です) Comments:  それは、「ランチェスターの(2次)法則」と言うものです。 Toshyさんの例で具体的に兵力の損害を計算しますと まず、兵力比が5対1ですから、実際の兵力比は双方2乗した 25対1になります。そして残存兵力は戦力差になることにより、 24の兵力が残ることになります。  最後に、実際の兵員数に戻す為に24の平方根をとりますと 約4.898979になりますので、残存兵力は約4万8990人となり ます。従って、具体的な損害は1000人を少し超える程度にな ります。  ついでに、私も関ヶ原の意味付けはToshyさんとほぼ同じです。 Time : 1999/ 9/14(火) 11:03:20
Name : Toshy E-mail : Title : ありがとうございます! Comments: そう、ランチェスターでした。 ランカシャーとかマンチェスターとか、いろいろ混ざってしまって思い出せなかったのです(笑) どうもありがとうございました。 「大垣城から関ヶ原におびき出された」説の誤謬は、稿を改めて。 Time : 1999/ 9/14(火) 11:39:51
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「顕幽分離U」??? Comments: 勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 ロトさん・・・顕幽分離にかんする出所を教えていただき、ありがとう ございました。 早速、昼の休憩を利用して拝読しましたが、暑さのせいか、Awajiの頭が ボケたのか・・・正直言ってよく理解できません。 疑問点を整理の上で順次UPしたいと思いますが、その折にはいろいろとご 教授願います。 Time : 1999/ 9/14(火) 12:16:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 「太平記」に関しては、つい最近出たばかりの「逆説の日本史7」を呼んで下されば、一 番よく分かると思います。私が説明するより、井沢先生の文章の方がよっぽどいいですし、 ここで私が説明してしまうと、他の人が「逆説の日本史7」を読む楽しみを奪ってしまい ますので、私はしばらくしてから顕幽分離に関する議論に参加しようと思います。 このホームページは、やはりなんと云っても井沢先生のファンを読者に想定しているで しょうから「HISTORY」も、井沢先生の歴史観についてある程度予備知識がある人 を対象にしていると思います。特に今回の顕幽分離に関してはそう思います。Awaji さんが分かりづらかったのはそこら辺が原因ではないかと思います。 Time : 1999/ 9/14(火) 13:23:11
Name : 輔住 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: お元気そうで何よりです。 また来るのを楽しみにしてます。 Time : 1999/ 9/14(火) 13:47:44
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : inaさんへ、 Comments: 揚げ足を取るわけではないのですが、 国学の発症を平田篤胤に撮るならともかく、普通は契仲および賀茂真淵を国学の創始者 とします。 契仲の援助者は水戸光圀で、賀茂真淵のパトロンは田安宗武(徳川吉宗の子。松平定信 の父)であり、契仲はそれほどイデオロギー臭はないですが、賀茂真淵は徳川幕府寄りの ナショナリズムを高揚させようとしました。 ( ただし、私はこの2人の本を読んだことはなく、梅原先生の受け売りです。) ですから、国学は発生当時は体制寄りの学問です。 むしろ、逆説的なのですが、反体制の学問は野に下った朱子学です。 日本は王朝の交代がおこったことが無いので、真の中華である、というのが江戸時代初 期に林羅山、山鹿素行が出した結論です。これを日本一辺倒のイデオロギーで固めたのが 山崎闇斎です。山崎闇斎の弟子である浅見けいさいは、幕府は天子から政権を奪っている、 幕府を倒すべしという結論にたどり着きました。彼らのつくった思想が、幕末の志士を突 き動かします。 詳しくは「現人神の創作者たち」(文芸春秋社刊、山本七平)をお読み下さい。 Time : 1999/ 9/14(火) 14:05:03
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 安部さんへ Comments: こん@@は。inaさん宛てになってますが、私へのコメントですよね? ちょっと言葉足らずでした。四柏手の時に詳しく投稿したのですが、読んで頂け なかったようですね。簡単に説明させていただきます。 「国学」と簡単に記してしまい申しわけございません。 平田は本居宣長の流派に属しています。彼とそれ以前の国学者との違いは、 「顕幽理論」に行き着きます。平田も井沢先生と同じく「国譲りの本質」に 興味をもち、幽界の王大国主のほうがむしろ顕界の天皇より上位にあるべき ではないか?との疑問をもち考察を重ねたようです。これにより平田は異端 として当時の国学者らに認識されていたそうです。他にも彼はオカルト風の 実験などを行っていたそうです。 明治の国家神道に取り込まれそうになった出雲大社の出雲国造が、この平田理論 をもとに神道論争を巻き起こしたのです。 平田以来というのは、こういった顕幽についての認識が平田によって初めて提出 されてからという意味です。 私の言葉の使い方が悪かったようです。どうもすいませんでした。 「国学」発生段階の問題ではありません。念のため。 Time : 1999/ 9/14(火) 14:57:35
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 異端 Comments: を国学そのもののような書き方をしてしまったようです。 お手数かけました。 Time : 1999/ 9/14(火) 15:39:26
Name : 輔住 E-mail : Title : 関ヶ原がなければ Comments: 家康は関ヶ原以前に実権を握っていました。 しかしそれが「徳川の天下」かというと 違うと思います。この時点では秀頼の代理人にすぎません。 関ヶ原がなければ、鎌倉初期の北条時政のように クーデータを起こされたかもしれません。 (クーデータの首謀者は息子の義時でしたが) Time : 1999/ 9/14(火) 17:45:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語等」?? Comments: 勇者ロトさん、安部さん、みなさん、今日は。Awajiです。 以下、顕幽分離論について疑問点を申し上げます。 1.オオクニヌシを幽事のヌシとした事については、古来から歴然と言   われて来た事であり特に異論はありません。   (歴史的事実と見るかどうかは別として・・・・です) 2.鎮魂の方式の変化について・・・ >>怨霊は鎮魂されなければならないが、その鎮魂の方法が中国においては >>子孫に祀らせるというやり方だったのが、日本ではその怨霊の生前ほし >>がっていたものを与えるというやり方に替わっていった。 中国の怨霊鎮魂方式・・・子孫に祀らせる 日本の怨霊鎮魂方式・・・生前ほしがっていたものを与える これは如何なものでしょうか? 井沢さんはかってKANAKさんに以下のとおり述べておられます。 >>簡単に言えば日本人は敗者を中近東や西洋のように抹殺せず、その子孫 >>を優遇することによって怨霊封じをしようという発想があるということ >>です。それが私の理論の根幹なのに、KANAK氏はその基本理論さえ >>理解していない。 これは少し整合性を欠くのではないでしょうか? さらに大物主≒大国主と考えれば、祟神天皇はオオタタネコと言う子孫を 探し出して、あらためて鎮魂祭祀を司どらせているのですから、思想的に は「幽事のヌシとしての鎮魂では不充分として、さらに子孫祭祀を付加し た」と見るべきモノではないでしょうか? 3.源氏物語について・・・・ >>源氏物語も顕幽分離の思想で貫かれているという事実である。・・・・ >>藤原氏の陣営にいた紫式部が、なぜ藤原氏の最大のライバルであった源 >>氏が天下を取るという小説を書かねばならないのか。こんな変なことは >>ないのだが、それはおかしいということを、これまで誰も問題にしなか >>ったのである。 正直言って論旨が良く分からないので、Awajiの誤解があればご指摘頂きた いのですが・・・・以下のようなことでしょうか? @源氏物語を執筆した「紫氏式部」は藤原一族の陣営に属している。 A従って、物語における栄達の主人公としては「藤氏」とすべきものであ る。 B然るに「藤氏」のライバルである「源氏=皇族貴族」を主人公としてお り、その栄達を描いている。 Cこれは現実とは異なる記述により、政治的敗者である「源氏=皇族貴族」  の怨念を鎮魂する意図によるものである。(ですか?) D即ち「源氏物語」は「顕幽分離の思想」で貫かれている文学作品である。 Awajiの考えでは、紫式部が藤氏ではなく源氏を主人公としたのは、文芸作 品(フィクション)として決して不自然とは言えないような気がするので す。何故ならば仮に光源氏を藤氏と設定すれば、直ちにモデル問題が発生 します。要するに現実的過ぎて艶やかさや神秘性が発想し難いのです。 文芸(芸術)は虚実皮膜の発想が大切でしょうから、現実では無いが非現 実的とも言えない皇族貴族に設定するのは、文学者として極めて巧妙(あ る意味では当然)な手法だと思います。 また、当時において藤氏の繁栄に対し、それ程に皇族貴族の怨念を鎮魂す べき状況があったとも思えませんし、ましてや紫式部がその様な思想のも とに「源氏物語」を執筆したとも思えないのです。 勿論これはAwajiの文学的感性による部分がありますから、論理的に決着す べきものではありませんが、少なくとも約900年のあいだ数多くの読者(研 究者)は、Awajiと同様の感性で、このフィクションを理解してきたのでは 無いでしょうか? 平家物語(これは顕幽分離ですか?)・太平記・武家官位については稿を あらためます。 Time : 1999/ 9/14(火) 23:04:13
Name : Toshy E-mail : Title : 遅まきながらslashdogさんの補足 Comments: >三成が何人集めたか聞いたとき、家康は小便を漏らすくらい驚いたことでしょう。 これを裏付けるのが、7月26日付堀秀治宛ての書簡です。 ここでは「上方で挙兵したのは石田・大谷の両名」とあり、 毛利まで抱き込んでの大掛かりなものだとは思っていなかったのです。 有名な小山評定は24日。 「大坂に引き返す」と決意した時は、三成をなめていたとしか考えられません。 なにせ輝元と家康、兄弟の契りを交わしたほどで、 家康としては毛利が敵に回るなどと思わなかったのでしょうね。 Time : 1999/ 9/14(火) 23:45:01
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「太平記」?? Comments: 勇者ロトさん、安部さん、今日は。Awajiの追記です。 まず「平家物語」です。これについては触れられていないようですが、井 沢さんは「顕幽分離文学書」と考えておられるのかどうか良く分かりませ ん。皆さんはいかがお考えでしょうか? 次に「太平記」ですが、安部さんのコメントでは第七巻に詳しい解釈が記 述されているようなので、深入りは避けますが・・・ 要するに「太平記」の記述者は何方とされているのでしょうか? Awajiは「小島法師」が集大成したと言う説しか知らないのですが、仮にそ うであれば少なくとも紫式部の様に権力陣営に属すると明言することさえ、 出来ないと思います。 従って、権力側(足利政権でしょうか?)から政治的敗者に対する怨霊鎮 魂の意味を持って記述されたかどうかは極めて疑問です。 仮に権力側からでは無く、民衆レベルの敗者に対する同情の意味であれば 理解できますが、その場合には・・・ >>日本ではその怨霊の生前ほしがっていたものを与えるというやり方に替 >>わっていった。アマテラスはオオクニヌシから日本の支配権を奪ったが、 >>それに替わるものとして幽事の主催者という地位を与えた。 と言うような権力者(政治的勝者)による幽事地位の付与による鎮魂思想 (顕幽分離思想)ではなく、人類共通の感情に基づく別のテーゼとして理 解すべきものでは無いでしょうか? Time : 1999/ 9/15(水) 00:44:16
Name : Sin E-mail : Title : Sinの豊臣政権存続策を考える@ Comments: みなさん、こんばんは Toshyさんの精力的な書き込みには圧倒されてます。すごいですね。 slashdogさん、レスありがとうございます<(_ _)> 輔住さんも、レスありがとうございます ノムさん、初めまして。Sinも初めてのような気がしません(笑) この話題を始めるきっかけがロトさんとのチャットでの会話で、 その時にノムさんの話題もでましたので・・・ できればこの議論に参加していただきたいものです さて、本題です Sinが関ヶ原をおこしたことそのものがミスだったと考えるのは、 家康が前田、上杉に仕掛けたこと(=各個撃破)を反家康勢力全体に 仕掛けられたのだろうかという疑問がきっかけです。 Toshyさんが言われる通り、軍事的には各個撃破が正解だと思い ます。しかし、政略的には上策とは言えないのではないでしょうか? この手の行動は、あまりにも度が過ぎるとせっかく取り込んだ豊臣譜 代系の武将の反発を招くだけに終わるのではないでしょうか? また、反発を押さえ込んだとしても、毛利家のような明確に反家康勢 力とは言えない大名を各個撃破の対象にできたでしょうか?(上杉家 の対応は稚拙だったと言わざるをえない所があるような気がします) 上杉家のような対応をする大名ばかりではないでしょうから、やはり 家康は関ヶ原で叩きつぶしたほどの数の大名を各個撃破では叩きつぶ せなかった気がします。 その場合、家康が征夷大将軍になる可能性がかなり低くなると思いま すので、家康は筆頭大老どまりになるのではないでしょうか? そして家康が筆頭大老までしかなれなかった場合、家康の死後福島、 加藤などの豊臣譜代系の武将や伊達みたいな戦国生き残りの武将が 家康に対したみたいに秀忠に対応したでしょうか? 豊臣譜代系の武将は秀頼につくでしょうし、そうなれば戦国生き残り の武将は秀頼に対して事を荒立てることはないでしょうから、徳川家 は豊臣政権内での有力大名として生き残る道しかないでしょう。 結果、豊臣政権は存続したと思うのですが、いかがでしょう? Time : 1999/ 9/15(水) 01:28:07
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 顕幽分離による怨霊鎮魂 Comments: Awajiさん、みなさん、こん@@は。 Awajiさんへ 全く同感です。民衆の同情感は怨霊信仰の一環として考えることもできるとは 思いますが、それによって著された説話などは具体的な鎮魂とは言えず、大国主 とアマテラスの神話を顕幽分離による鎮魂のプロトタイプとして扱う場合には、 成立しない理論のような気がします。 こういう考え方の土壌として、怨霊信仰があるというのは解釈のしようによって 成り立つとは思いますが、顕幽分離論は怨霊信仰の拡大解釈ではないでしょうか? Time : 1999/ 9/15(水) 01:36:01
Name : Toshy E-mail : Title : 個別撃破 Comments: Sinさん、こんにちは。 >上杉家のような対応をする大名ばかりではないでしょうから、 問題は、宇喜多秀家が三成よりも先に挙兵していたことです。 戦いになっていれば、宇喜多は間違いなく、徳川によってつぶされたことでしょう。 なお、征夷大将軍と関ケ原の戦いとは、直接の因果関係を見出すのは困難です。 徳川は関ヶ原の戦いがなくても、征夷大将軍を目指していたのですから。 ちょっと簡単ですが、続きは次回で。 Time : 1999/ 9/15(水) 10:20:53
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「武家官位」?? Comments: 勇者ロトさん、安部さん、みなさん、今日は。Awajiです。 ロトさん・・・もともと顕幽分離論には懐疑的論調でいらっしゃいました が、Awajiの素朴な疑問にご賛同いただきありがとうございます。 さて、次に「武家官位」の問題ですが・・・ >>なぜならこんな奇妙な官位制の世界は、世界史に例がないからである。 ・・・・・・・・・ >>たとえば武家の官位は名目としては何の意味もない。大岡越前守は決し >>て越前の国司ではない。しかし彼等は現実的に政治の権限を持っている。 >>これに対し京の朝廷につとめる公家たちの官位は本物だが、彼等は政治 >>上の権限は何も持っていない。考えてみればこれも一種の顕幽分離なの >>である。 これも非常に分かり難い論理なのですが、確かに世界史的にも余り類例を 見ない制度だと思います。 と言うよりも、Awajiの理解では「天皇制=法制上の権威」と「幕府制=実 質的の権力」が並立的に存在すると言う政治・社会構造が世界史的に類例 が無く、この問題もそこから考察しなければならないと思います。 (敢えて類似性を求めるとすれば、周王室と諸侯・教皇と王権・カリフと スルタンかもしれませんが・・・チョットシンドイですね。) まず、この官位(と言うより官職ですね)と実権の乖離はいつ頃どの様な 形で始まったのでしょうか?以下大雑把な考察ですが・・・ 1.令外の官の発生 ご承知のとおり、蔵人・検非違使という奇妙な官職が生まれます。 これによって律令国家の官制(官職)が歪められますが、これが発端かど うかは分かりません。 2.遙任の一般化 本来の官制(官職)では、国司は当然任地に赴き地方政治に権限と責任を 持つわけですが、平安中期になると国司遙任がむしろ一般化します。 つまりこの時点で官職と実権の乖離が始まったのかも知れません。 3.院政(治天の君) 一般に専制君主制においては、皇帝(王)が至高の存在であり、権力の源 泉なのですが、日本においては寧ろ皇帝(天皇)を退位した上皇が「治天 の君」として至高の存在、かつ権力の源泉と言う奇形政治が常態化します。 これも本来の君主制を歪め、後世の権力の二重構造に繋がるものかも知れ ません。 4.摂関政治 上記の3と同様に、藤氏による摂政・関白職が殆ど常設され、政治の権限 と責任を負う体制が確立します。これは3以上に後世の権力二重構造の先 駆となった可能性があるでしょう。つまり法制上の専制君主(天皇)は「 君臨するとも統治せず」と言う・・・権威と権力の分化が政治の根幹部分 でなされたと言うことが出来ると思います。 5.武家政権 以上の様な諸情勢の中で、本来「武官」であった近衛大将等と言う「官職」 も完全に名誉職化し、官職と権限(職能)が乖離(分化)していきます。 そして本来は臨時の、然程重要でもない「征夷大将軍」という官職が全て の武士を統治する権限を持ち・・・実質的に政治権力を掌握する事態に到り ます。ここにおいて「官職」と「権限」は完全に分化してしまいます。 更には「征夷大将軍」の幕僚に過ぎない「執権」が最高権力者となり、天 皇・上皇(治天の君)を流刑に処すと言う事態にいたります。 (当時の執権義時の官位官職は従四位右京権太夫兼陸奥守程度でしょう) 6.武家の官位・官職 この様な政治権力の二重・三重構造の中においても、武士階級はやはり官 位を渇望し、実質政治権力もこれを積極的に統制・活用するわけです。 つまり日本人としての最終的格付けは、やはり法制上の権威(天皇)によ ってのみ公認される体制が存続します。 ・・・とここまで当り前のことをグダグダと書き進みましたが、Awajiは 一体何が言いたいのか、分からなくなりました。 そもそも武家の官位・官職と「顕幽分離思想=怨霊鎮魂のため怨霊の求め るモノを幽事として与える」を関係付ける論理って何なのでしょうか? 顕幽分離思想に詳しい方のご解説をお願いします。 Time : 1999/ 9/15(水) 10:28:01
Name : Toshy E-mail : Title : 家康の独裁について Comments: Sinさん、なんどもこんにちは。Toshyです。 「度が過ぎると豊臣系武将の反発を招く」ですが、秀家・三成の挙兵で天下が 二つに分かれたことい事実が、すでに反発を招いていたことの証ですね。しか し、もしここで三成が反徳川勢力をまとめなかった場合、もしまとまらなかっ たら例え反発したところで単独では家康にかなわないのだから、やはり個別撃 破されていたと考えるしかありません。 「淀=三成派vs北政所=武将派」という系図がどうしても先入観になっている ため誤解を招いていますが(司馬遼太郎氏の「関ヶ原」はその代表。まあ、こ の方が小説として面白いからですが。でも史実とは別)、反三成・親家康と思 われている細川忠興や浅野長政、もともとは反徳川でした。前田利長の仕置き と前後して、この両名もまた家康の謀略によって人質を取られたり蟄居させら れたりして、徳川に恭順することになったのです。 ついでにいうと、打倒徳川家康の挙兵は、三成というよりも北政所の企画だと いうことを付け加えておきます。三成は実行者であり、また三成以外に反徳川 勢力をまとめられる器量の持ち主はいなかったということです。 (続く) Time : 1999/ 9/15(水) 11:03:23
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「南朝正統論」?? Comments: 勇者ロトさん、安部さん、みなさん、今日は。Awajiです。 顕幽分離論について、ささやかな疑問を申し上げてきましたが、最後に 南北朝問題です。 実を言うと、Awajiは幕末維新の歴史は余り好きではなく、この問題は逃 げておこうと思っていたのですが、乗りかかった船ですのでシンドイなが らも以下・・・・ >> もう一つの例はさらに明白だ。歴史では南朝は滅び北朝が勝利を収め >>た。だからこそ、ちょうど源氏物語のように南朝は正統でなければなら >>ないのだ。現実には南朝の子孫は絶滅しているから、正統と認めたとこ >>ろで実害は何もない。菅原道真を太政大臣にするのと同じことだ。朱子 >>学というのは単にその理屈付けに利用されたに過ぎないのである。かつ >>て仏教が怨霊鎮魂の道具にされたのと同じ事だ。 Awajiが知る限りでは、南北朝正閏問題は1911年に国定教科書の記述を巡っ て三上参次・吉田東伍・黒板勝美・喜田貞吉等が論戦を繰り広げ、国会で も取上げられた結果、第二次桂内閣が南朝正統を閣議決定し天皇裁可により 公認されたものですね。 そこで・・・ 1.南朝正統論は単に幽事問題で実害(顕事)は生じないか。 2.この議論の影に「南朝怨霊鎮魂思想」があったか。 3.吉田・黒板等の表面的議論は何を論点としていたか。 についてですが、まずこの問題は幽事問題に止まらないと思います。 何故ならば現実に現皇室の直系祖である光厳・崇光の正統性否認に係わる からです。 (光明・後光厳・後円融) その意味では菅原道真の太政大臣追贈とは本質的に異なるのでは無いでし ょうか? 93 95 96 94 後伏見ーー花園 後醍醐ーーー後二条 │A B │ 97 光厳ーーー光明 後村上 │C D │ 99 98 祟光ーーー後光厳 後亀山ーーー長慶 │ │ E (栄仁) 後円融 │ │100 (貞成) 後小松 │102 │101 後花園 称光 │ 103 後土御門 │ │ 現皇室 次に後醍醐・後村上・長慶・後亀山の南朝天皇は正閏論当時において怨霊 として鎮魂さるべき対象であったかどうかですが、Awajiの見る限りその 形跡は窺えません。 これらの諸点から見て、南朝正統論はやはり王政復古の精神的根拠であっ た「尊王斥覇論」に基づくもので「顕幽分離論」で説明することは無理が ある様に思うのですが・・・・?? 以上「顕幽分離論」で上げられた諸問題について、ささやかな疑問を呈し ます。勿論Awajiは古代史に若干の興味を持つ仏像オタクに過ぎませんか ら、この様な日本史全体の問題に付いては基本的知識も不十分で、多くの 誤認があるかも知れません。諸賢の具体的批判を是非お願いいたします。 Time : 1999/ 9/15(水) 22:01:18
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 国家神道と歴史 Comments: みなさん、こん@@は。 国家神道という思想が、歴史のプリズムを作り出しているのではないでしょうか? 国家神道誕生以前と以後では、信仰や道徳に関係する認識が大きくすり返られて いるような感じがします。なんとなくなんですが・・・・・。 考えすぎでしょうか? Time : 1999/ 9/16(木) 01:47:14
Name : セイン E-mail : Title : はじめまして Comments: いつも、ロムさせてもらってます。ふとおもいついたのですが顕幽分離は、政教分離という意味なんでしょうか? だとしたら顕幽という言葉を使う必要がどこにあるのでしょう? Time : 1999/ 9/16(木) 07:42:13
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「政教分離」?? Comments: セインさん、はじめまして。Awajiと申します。 「顕幽分離」と「政教分離」ですが・・・・両者は全く別の概念ではない でしょうか? 何故ならばここで井沢さんが例証として挙げておられる「源氏物語」「太 平記」「武家官位」「南北朝正閏論」のいずれも「政教分離」とは直接関 係無い問題ですし、論証過程や結論も「政教分離」とは異なっていると思 うのです。 それではここで言うところの「顕幽分離」とは・・・井沢さんご自身が仰 っているように、井沢さん独自の概念であり、「ヒストリー」で提示され た怨霊鎮魂にかかわる内容であると理解せざるを得ないと思います。 (ただ、大きな意味で「政教分離」と「顕幽分離」がオーバーラップして いる可能性はあるかも知れませんが・・・・・) Time : 1999/ 9/16(木) 09:26:26
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、遅過ぎる意見ですが・・・ Comments:  Awaji様、ご無沙汰しておりました。 しばらく留守にしていているうちに、 取り残されてしまいましたが、 遅まきながら、少し意見を述べさせてください。 一連の御説は、ほとんど納得のいくものですが、 源氏物語については少し異論があります。 素朴な意味で、フィクションであっても「反藤原」を 描いて、その当時問題は無かったのかという点です。  もちろん各個人の感情・感性的な問題がありますので、 Awaji様がおっしゃることも当然成立します。 しかし、小生は藤原氏がぜんぜんクレームをつけない というのはおかしいと感じております。  その後の議論(特にD)とのつながりは想像に過ぎませんので、 確定的なことは言えないと思います。 しかし、ありえないことではないという程度に考えておりますが、 いかがでしょうか? Time : 1999/ 9/16(木) 09:49:30
Name : ina E-mail : Title : 国学 Comments:  安部奈亮さま  勇者ロトさんがお答え下さいましたが、安部様の御意見は私への御教示ですよね。  どうもありがとうございました。幕府よりの国学、というものがあり得るとは 考えも及ばなかったものですから。どうもありがとうございました。これからも よろしくお願いします。 Time : 1999/ 9/16(木) 11:58:27
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語U」?? Comments: 大阪JF生さん、お久しぶりです。Awajiです。 早速にコメントを頂き、ありがとうございます。 この問題は既に申し上げたとおり、多分に文学作品についての感性にかかわり ますので論理的考察は困難かと思われますが・・・・ (とはいえ、正直言ってAwajiが「源氏物語」を読んだのは数十年前ですので、 確信と言うほどではありませんが。) Awajiはこの文学作品から「反藤原」という印象は全く受けませんでした。 (勿論、現在もこの印象はかわりません) 当然ながら紫式部が読者として意識していたのは、彼女の周辺の大多数を占め る中宮をはじめとする藤原系貴族だったと思います。 そこにはあくまでもフィクションとして設定された一人の王朝貴族の栄達の陰 にある愛憎・不倫・背信・失脚等の様々な苦悩が描かれています。その場合に 主人公を藤氏とするのは矢張りナマナマし過ぎると思うのです。 (だからと言ってモデル問題で騒ぎ立てるほど藤氏主流が野暮だったとは思い ませんが・・・) 逆に、主人公が皇族貴族だからこそ藤原系貴族達も純粋にフィクションとして この物語の情趣に浸れた面もあるかもしれません。 この辺はAwajiの虚実皮膜の文学的感性なのですが、大阪JF生さんや皆さん の印象ではやはりこの作品に「反藤原」の匂いを感じられるのでしょうか? そうであれば、この感性の壁はチョット越え難いような気がします。 Time : 1999/ 9/16(木) 12:56:34
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 徒然なるままに書き込みました Comments: 小島法師云々に関しても、「逆説の日本史7」 に書かれています、Awajiさん,今こそ読む時です、 特に現在あなたが疑問を持っていることを深く理解するためには、 「逆説の日本史7」を読むことは役に立つことうけあいです。 その結果、キーボードに手をぶつけるにしても、 井沢先生に対するアンチテーゼが生み出されるにしても、 あなたの顕幽分離に対する理解は深まるわけです。 専門書と違って、井沢先生の本は安くてどこでも売っているので (これは褒め言葉になると思います) それを読むことを勧めるのはそんなに道に外れたことではなかろうと、 顕幽分離が、近世以降の日本史とどう関わるかは、 井沢先生はエッセイや小説などで匂わしてはいるものの、 結論はまだどこにも書いていないのではないかと思います。 これからの楽しみですね。 感性の問題はこれ以上深追いしない方がいいと思います。 「源氏物語」がなぜ鎮魂書なのかは、 「逆説の日本史」の他の部分とも深く関わっているのですね、 ですからAwajiさん、一度「逆説の日本史」を通じて読むことをお勧めします。 私たちの筆力だけではとても井沢先生の仕官を説明しきれません。 第4巻までなら小学館文庫も出てますし、 あなたのような博覧強記の方ならすぐ読めると思います。 大変分かりやすいので(これも褒め言葉になると思います。) 勇者ロトさんへ、 すみません四拍子のところは全く読んでいません。 そこら辺から引っ張ってきてのこととは知りませんでした。 Time : 1999/ 9/16(木) 13:31:08
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様へ、ちょっと書き方がまずかったので、お詫びと補足です。 Comments:  早速コメントいただきありがとうございます。 Awaji様のご意見を拝見させていただき、前回の拙記事を 観なおしますと、誤解を与える表現がありましたので、 お詫びいたします。  「個人の感情・感性」という言い方は、藤原氏に向けたもので、 けっしてAwaji様に宛てたものではありません。 源氏物語の感想としてはほとんどの方が、Awaji様のように 受け止められると思います。ただ、藤原氏がどうだったのか ということのみに視点を置くつもりで、かえって分かりにくい 表現になってしまいました。  その点でも、Awaji様は「藤原氏とて野暮ではあるまい」という お考えですね。そこでちょっと感覚的に違っているだけですが、 「藤原氏もいろんな人がいるので、野暮なやつもいるだろう」と捉え、 一つもクレームが出ないのは変だと思うのです。 (もちろん、センスも優れ、力も有る代表者が、一族を 一括して押さえ込んだということは十分ありえますが・・・。)  小生は恩師から大学における軍部の「アカ狩り」の話を良く聞かされ、 それと少し重なってしまっているのかもしれませんが、ここでの 権力者は必ずしも内容を十分理解してクレームをつけているわけではない のは明白でした。「これのどこがアカなのか?」と思うような文章が 槍玉に挙げられ、恩師が巧みに書いたマルクス史観の文書は まったくお咎めが無かったそうです。 (学生同士の通信程度の「新聞」記事でもつかまったそうです。、 ちなみに恩師はマルキストではありませんが、マルクス・レーニンに 通暁し、軍隊にも実は本を隠し持って読んでいたそうです。) とかく権力者は・・・という感覚で、小生はゆがんでいるのかもしれません。 しかし、今までの人生(たかが40年少々ですが)で受けた印象では 恩師から影響を受けた感覚は外れていないように思います。 権力者たちから結構つらい目に合わされた小生と違って、 Awaji様は比較的健全な人生を歩まれていらしたのかもしれませんね。 そういう(文学以外の)感覚では、違っているかもしれませんが、 源氏物語の感想は、(拾い読み程度で、通読はしていないので恐縮ですが) 違っていないと思います。 Time : 1999/ 9/16(木) 15:35:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語解釈・・・井沢さんに再考をお勧めします」 Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。コメントありがとうございました。 「個人の感情・感性」については藤原氏のことと理解しておりました。 仮にAwajiに宛てたご意見であっても何ら問題はありませんが・・・ 確かに大阪JF生さんが仰るように、藤原氏にも風流人から野暮天まで、 様々な人が居たでしょう。「源氏を主人公に選び、栄達させるとは何事 か・・・紫式部は藤氏をないがしろにする積もりか?」と怒った頑固者 も居たかもしれませんね。 それに対して「いやいや、あれは源氏の怨念を静めるための鎮魂の意味 があってのう・・・」と言うようなヤリトリがあったかもしれません。 (まさかとは思いますが・・・・しかし全く有り得ないとは言えません) しかしながら、井沢さんが主張されているのはその様なレベルではあり ません。従って大阪JF生さんには不愉快でしょうが敢えて井沢さんに厳 しいことを申し上げます。 >>しかし今まで誰も気がつかなかったのが、源氏物語も顕幽分離の思想 >>で貫かれているという事実である。私はそれに初めて気がついた。歴 >>史学専門の学者が私の著作に対していかに悪口を言おうと、この発見 >>だけは認めざるを得ないだろう。藤原氏の陣営にいた紫式部が、なぜ >>藤原氏の最大のライバルであった源氏が天下を取るという小説を書か >>ねばならないのか。こんな変なことはないのだが、それはおかしいと >>いうことを、これまで誰も問題にしなかったのである。何故そうなの >>かといえば、まるで縦割り行政のように歴史学者は自分の専門だけ研 >>究し、国文学者は逆に政治の世界を研究しようとしないからである。 つまり井沢さんは「源氏物語」を源氏が天下を取るという小説だと理解 されているのですね。(Awajiの文学的感性では考えられない解釈です) その解釈にたって、藤原氏陣営の紫式部がその様な小説を書いたこと、 つまりは源氏を主人公としたことを奇異なことだとされているのです。 (Awajiの感性では寧ろ極めて自然なことで、奇異な印象は一切ありま せん・・・・理由は既に申し上げました) さらにこれが奇異なことだと問題にしなかった歴史学者や国文学者を専 門馬鹿的ニュアンスで批判(嘲笑)しておられます。 そして紫式部が敢えて源氏を主人公に選んだのは、「源氏物語」が顕幽 分離思想にもとづく鎮魂小説だからと定義され、これは如何なる学者も 認めざるを得ない「事実」であると、ご自分の「発見」を誇らしげに語 っておられるのですね。 これは幾らなんでも無茶苦茶でしょう。 ご自分の「天下取り源氏物語」解釈を一方的に正しいとし、他の解釈の 可能性を全く認めておられないのです。 そして源氏を主人公とした文学的理由について一顧ダニせず、頭から奇 異なこととされています。 その前提に立って専門学者を批判し、顕幽分離鎮魂小説と決め付けてお られます。 これでは平均的庶民であるAwajiでさえ納得できません。まして専門学 者からは冷ややかな嘲笑と黙殺を受けるのは当然ではないでしょうか? 「太平記」については別に解説がなされているとのことであり、ここで は述べませんが、その他「武家官位」「正閏論」にも疑問点があること は否定出来ないと思います。 僭越ながら、歴史好きの一庶民として、井沢さんが「ヒストリー」で示 された論調と論証につき再考されんことをお勧めしたいと思います。 Time : 1999/ 9/16(木) 23:09:07
Name : Toshy E-mail : Title : 三成の誤算@ Comments: Sinさん、slashdogさん、輔住さん、待兼右大臣さん、こんにちは。 「反徳川勢力を結集したのは失策だったか」ですが、 もし毛利輝元に戦意があれば、もし小早川の裏切りがなければ、 と考えると、どうしても西軍必勝が見えてきます。 政略的に三成は間違っていなかったのです。 つまり、失策は三成ではなく、毛利輝元だといわねばならない。 なにもせずに、ただなんとなく領地を失ったのだから。 こう書いてまた三成贔屓を指摘されてはたまらないので、 「石田三成の失策」をご説明します。 @矢作川の戦い 三成による打倒徳川必勝策は、会津と大坂による挟撃でした。 この時三成は、   家康は背後に上杉・佐竹がいる。4万ほどの兵力では守るのが精一杯で、   とても上洛できないだろう。もしやってきたら、   三河か尾張で討ち取ってやる。これぞ天の与えた好機。 と考えていました。(これは8月5日真田昌幸宛て書簡の概要) 贔屓目にも、楽観視もはなはだしいというもの。 関ヶ原の前哨戦で「矢作川の戦い」があります。 矢作川は、上記の三河・尾張の国境。三成は、すると、 関ヶ原を目指していたのではなく、それよりも東、 尾張まで出て家康を倒そうとしていたのではないでしょうか。 8月の11日には、西軍勢力の大半は尾張にいました。 すでに岐阜城、高須城、犬山城は西軍の手に渡り、残るは清洲城。 ここを落とせば、西軍は完全に尾張を制圧できたのです。 しかし後詰めの毛利秀元率いる3万の大軍は、 尾張に駆けつけることなく、清洲城を落とすことは出来なかったのです。 さらには「上洛できない」はずの東軍が、8月11日には三河岡崎城に到着。 そして翌々日、清洲城は東軍によって押さえられるのです。 三成は、東軍の進軍速度を読み間違い、またその戦意をも甘く見ていました。 福島正則調略を、「半ば成功したも同然」と見ていたため、 予想外の攻撃に矢作川から撤退しなければならなくなったのです。 そして毛利軍の進軍を、希望的観測(?)から早く見ていたのも、 三成戦略を狂わせるものだったといえるでしょう。 Time : 1999/ 9/17(金) 00:10:50
Name : セイン E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: ご教示ありがとうございました。 源氏物語は全くよんだことがないのですが,物語中に藤原氏の名前は登場するのでしょうか? 今ヒストリーを読んだのですが私には、源氏物語が鎮魂書であるとしたらすべてのフィクションが鎮魂書であるというような印象をもちました。 逆説の日本史は7巻まで全部もってます。 とても納得のいく展開が多いのですが、この県有分離論は飛躍しすぎているような気がします。 みなさんは、どうお感じになりますか? Time : 1999/ 9/17(金) 08:46:15
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様へ、取りとめのない感想文ですみません Comments:  このHPは、井沢先生主催のものですが、もちろん批判を されてもかまわないと思いますし、Awaji様のように節度を もってなされば、小生は何ら不快ではありません。 以前、KANAK様とのやり取りで抗議したのは、内容の問題ではなく、 少し節度を踏み外しておられる部分が主体でした。 (たとえば、著書をちゃんと読むことをかたくなに拒否されたことなど) そのうちKANAK様のお怒りの部分は、今回Awaji様もご指摘のように、 井沢先生が少し言いすぎた部分があったため、いわば売り言葉を 買われた形だったことがわかってきました。  Awaji様が引用されている井沢先生の文章も、確かに言い過ぎで失礼な部分は あると思います。(おそらく、それも過去井沢先生に対応された歴史学者の 売り言葉を買ったのだと推察されますが) そのような低次元の中傷合戦は やめにして、純粋に歴史を考察する討論を望みます。 以前ここでも、ある程度そういう形で多くの方の意見がまとまった時期があったと 記憶しています。井沢先生の「逆説の日本史」の改訂を望む声も出ていました。 そう言った意味でも、小生としては批判はむしろ大歓迎です。 ただ小生の望んでいるのは、礼を失する方向に行きがちなディベートでなく、 創造的なディスカッションです。  内容的なことで言いますと、 >>藤原氏の最大のライバルであった源氏が天下を取る というのは筆(キーボード?)がすべりすぎているようです。 そんなに強い意味で捉えていなかったのですが、少なくとも学術的な 表現としては確かに失格ですね。今後そういった過度のアジテーションを 井沢先生には控えていただくことを小生も望みます。 純粋に考察に値する視点を持っておられると小生は考えますので、 あえてアジる必要は無いと思います。  取り止めの無い感想ですが、本当のところは、思い入れは強いにしても、 井沢先生の考えていることは、不遜ながら小生の考えるレベルとあまり 違わないように思います。 このように感じておりますので、今後ともご批判・ご教示よろしくお願いします。 Time : 1999/ 9/17(金) 10:26:13
Name : きんたろう E-mail : Title : 家康にとっての関ヶ原 Comments: こんにちは。 Sinさん、Toshyさん、slashdogさん、輔住さん、待兼右大臣さん、 乱入してすみません。 ノムさん、元気そうで何よりですね。 「過去ログ」を覗いて下さい。(^^) 徳川家康の真実の姿とは一体どういうものなのでしょうか? 家康の力の根元は三河武士家臣団にあります。 この三河という土地柄は、当時日本で一番中世を色濃く残していたといわれる地域 でもあります。 家康は秀吉により関東へ国替えを命令されました。 北条家の遺領をそっくり引き継いだことにより今までよりも100万石もの加増に なりました。 その領国支配の難しさが容易に想像された事や、移封に対する家臣団の不満等など のマイナス面はありましたが、北条征伐戦においてこれほどメリットを享受出来た 大名を他に見つけることは出来ません。 こうして他力に因ったとはいえ、関東の支配者となった家康は当時の日本において 第二位の巨大な領国を誇り、すでに戦国時代の成功者としての確固たる地位を築い ていたのです。 しかし、その家康にとっても天下人の地位は数段上の存在でした。 ここで正直な疑問なのですが、すでに多くを持ち、持たざるものとは正反対の立場 にいた(要するに大資本家のようなものですね)家康がハイリスク・ハイリターン の勝負に出るのだろうかと言うことです。 そのような視点からすると、家康が想定した「関ヶ原」の戦いとは実際よりも遙か に小規模なものだったのではないかと思うのです。 家康にとっての最大の関心事とは新しい領国255万石を守りきることであり、 また、そのためにはどのような手でも使うといったものだったような印象を受けます。 この視点を延長すると、どうして会津の上杉が目標だったのかと言った謎も解けて くるのではないでしょうか。 三成に挙兵させると言うのであれば、毛利でも宇喜多でも良かったはずなのです。 この際「義兄弟」は制御機能としてはまず意味を持ちません。 上杉の領国である会津からの自国(江戸は近い)への飛び火を怖れたからこそ 「上杉」を対象に据えたのだと思いします。 三成達が挙兵したとの情報が伝わったときは、たぶん家康は「ほくそ笑んだ」と 思います。しかし、次の瞬間には耳を疑ったのではないでしょうか。 三成が集めた兵力は家康が想像以上のものだったからです。 それは江戸に長期滞在し有名な「ラブレター作戦」を展開したことからも明らかだ と思います。 Time : 1999/ 9/17(金) 11:46:50
Name : きんたろう E-mail : Title : 理解納得の原則 Comments: 関ヶ原がなかった場合どのような経過をたどったでしょうか。 家康の立場からすると、着実に勝つ方法である「個別撃破」を続けていったと考え るのが自然だと思います。 この方法を採る限り家康の領国が侵されることはなく相手を屈服させる事が可能だ と思われるからです。 しかしこの方法の欠点としては自国の影響力が及ぶ範囲を浸食していく方法でもあ りますから、遠方に対してはほとんど効果をもたらさないといった点が挙げられる と思います。 関ヶ原の大勝利により家康が天下人となる道が開かれました。 しかし、その実際の歴史の動きのように家康が目指していた(シナリオを書いた) と考えれるのは疑問が残ると思います。 個別撃破の結果ますます家康が豊臣家の第一人者としての地位を確固たるものに なったでしょうが、遠方には相変わらず巨大な勢力が存在していたままでした。 彼らはお互いに相手を屈服させるほどの力を持っていませんでしたから、豊臣家と いう傘の下で影響力を行使したのではないかと思います。 主家を乗っ取るという下克上時代においても日本は広すぎたと思います。 Time : 1999/ 9/17(金) 11:53:02
Name : セイン E-mail : Title : 過去ログの見方についての質問 Comments: みなさん、またまたお邪魔してしまいました。よろしくお願いします。 このページの過去ログはどうしたら見れるのでしょうか?下まで読んだのですが、途中できれているようですね。 こちらの管理は井沢先生ご自身がされているのでしょうか? 平安遷都、道鏡事件、寄生虫藤原氏または源氏と平家などについては議論があったのでしょうか? もう話題が終了しているのなら、過去ログを見てみたいとおもいます。 過去ログをまとめたページとかはないのでしょうか? 管理者の方がいらっしゃいましたらお教えくださいませ。 よろしくお願いします。 Time : 1999/ 9/17(金) 12:14:44
Name : 輔住 E-mail : Title : 各個檄破 Comments: みなさん、こんにちは。 >上杉の領国である会津からの自国(江戸は近い)への飛び火を怖れたからこそ >「上杉」を対象に据えたのだと思いします。 家康が各個檄破策の最初のターゲットを上杉にした理由は きんたろうさんのいうとおりだと思います。 上杉は東国の「反徳川」の筆頭といっていいでしょう。 三成の挙兵がなくいずれ宇喜多や毛利を各個檄破するにしても 上杉がいては全力は出せません。 もちろん上杉と徳川がしっくりいってないため 「口実」も作りやすかったというのもあると思いますが。 Time : 1999/ 9/17(金) 12:27:29
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : セインさんへ Comments: あなたがあげた議題については、 去年の9月〜今年の3月にかけて いちおう、一通り議論はなされましたよ。 改めて提案してみれば、また新たな展開があるかもしれませんね。 管理人様によると、過去ログは公開されてません。 読みたい場合は、管理人様にお願いしてみるといいかと思います。 「ローマ人の物語」の新刊が出ました! これから本屋に直行します。 Time : 1999/ 9/17(金) 14:21:31
Name : セイン E-mail : Title : 安部さんありがとうございました。 Comments: 管理人さんに、聞いてみます。 そうですか、去年のうちに終わったんですか。。。残念です。 こちらの掲示板はとてもレベルが高いようなので、自分の疑問点がまとまり次第皆さんに質問させて頂きたいと思います。 Time : 1999/ 9/17(金) 16:12:25
Name : Toshy E-mail : Title : 三成の誤算A Comments: みなさんこんにちは。Toshyです。 きんたろうさんの乱入、待ってました(笑)。 上杉をターゲットとした理由に関しては、はたと膝をうちました。まったくその通りだと思います。 A岐阜城攻防戦 岐阜城は織田秀信の居城。7月のうちに三成は秀信を説得し、 西軍に荷担させています。 これによって岐阜一円は一気に西軍寄りになり、 福島正則の領地である尾張に迫っていました。 三成の予定では、福島を抱き込んで三河に攻め込み、 東進する予定だったのですか・・・・ とりあえずは前述の通り、尾張から後退しなければならなかったのです。 さて、東軍によって奪われた清洲城は、伊勢・美濃・尾張を結ぶ交通の要所。 ここを失った三成の戦略は大きく変更しました。 次善策として考えられるのは、岐阜で東軍を食い止めること。 大垣に本隊を置き、岐阜(主将は織田)竹ヶ鼻(杉浦)福束(丸毛)の各所に 兵を配置して、川の天険を利用し東軍を防ごうとしたのです。       長良川         ┃      合渡┃               △岐阜     △大垣   ┃                           墨俣┃         ━━━━━━━河田━━━━━木曽川          ┃        ┃                     ┃ △竹ヶ鼻   ┃                  △福束   ┃        ┃         ┃        ┃         ┃        ┃                      ┃━━━━━━━━                     ┃                ▲清洲    △高須   ┃ 三成としては、織田調略で岐阜の防衛に自信を持っていたと思われます。 しかし、東軍の戦意を侮っていたのが致命傷となりました。 家康が清洲に到着する前に、清洲の東軍が竹ヶ鼻に攻め込んだのです。 竹ヶ鼻はまたたくまに落城、三成は勢いに乗る東軍を防ごうと、 合渡・墨俣に兵を送って大垣を守ろうとしました。 家康が清洲に到着すると、東軍の戦意は倍増。 岐阜城を落としてしまうのです。そして織田秀信は東軍に下るのでした。 ここで有名な事件が起こります。 岐阜城を攻めるはずの一手(18,000)が、合渡に攻め寄せました。 西軍(主将は舞兵庫で、1000人ほど)は奮戦するも多勢に無勢、大垣に撤退しました。 墨俣にあった島津の軍(これも1000人ほど)が、 敵の真っ只中に取り残されてしまう、という憂き目に遭ったのです。 この戦いの時、清洲にある東軍勢力は4万ほど、大垣の西軍は1万5千に満たない。 (毛利は伊勢に、宇喜多は近江にいたようだ) 三成は西軍勢力を分散させたために、各所で撃破されることになったのではないでしょうか。 それもすべて、東軍の矢作川到着を遅いものと想定したためだと考えられるのです。 とすると、畿内にある東軍勢力の城を無視して大垣に兵を集め、 大軍をもって西上する家康を叩くべきでした。 なお、島津と石田の仲間割れをこの墨俣に持ってくる考えがありますが (司馬遼太郎「関ヶ原」には、島津軍を見捨て退却する三成が描かれている)、 史実では、合渡が破れた時に三成は大垣を出て島津を迎えに行っています。 三成が陣取っていたのは、大垣と墨俣の中間にある佐渡(さわたり)でした。 司馬遼も罪なことを書く人ですね。(笑) Time : 1999/ 9/18(土) 00:53:04
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 管理人さんへ Comments: 過去ログのページ作ってください。お願いします。天武と天智についての議論が読みたいです。 Time : 1999/ 9/18(土) 02:09:55
Name : 佐波比呂 E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 井沢先生が源氏物語を >藤原氏の最大のライバルであった源氏が天下を取るという小説 と言う根拠について、Awajiさんが誤解、というか知らないことが一つ あるようです。単に源氏が主人公だからというだけではありません。 逆説の日本史第4巻から抜粋します。 「(前略)(源氏の)ライバルとして登場する一族は、氏族名は明記していないが 当時の常識から見て明らかに藤原氏である。政府の要職を占め、その子女を 天皇家に嫁がせ生まれた子を天皇にするというのは、藤原氏以外には有り得ない。 だから、誰が見たってこれは、『善玉=源氏、悪役=藤原氏』という配役 であり、(後略)」 要するに、物語の中で藤原氏が源氏に敗北しているようにも読めるということ です。これなら、少なくとも感性の違いでまったく理解できないということは ないんじゃないでしょうか。 Time : 1999/ 9/18(土) 04:29:53
Name : きんたろう E-mail : Title : 管理人さん Comments: いつもおじゃましています。 勇者ロトさんも書かれていましたが、過去ログを是非作っていただけるようにお願いします。 Toshyさん、すごい!!ですね。 地理がものすごく分かり易いです!! 乱入=火に入る夏の虫だったのかも!!(爆) Time : 1999/ 9/18(土) 08:36:05
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語の善悪勝敗論」?? Comments: 佐波比呂さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 大阪JF生さん・・・Awajiの本旨をご理解頂き有り難うございました。 佐波比呂さん・・・はじめまして、ご教示ありがとうございました。 ご紹介頂いた部分は、ごく一部ですのでので、やむを得ないと思いますが、 以下の井沢さんの論理が良く分かりません。 >>ライバルとして登場する一族は、氏族名は明記していないが 当時の常 >>識から見て明らかに藤原氏である。政府の要職を占め、その子女を 天 >>皇家に嫁がせ生まれた子を天皇にするというのは、藤原氏以外には有り >>得ない。だから、誰が見たってこれは、『善玉=源氏、悪役=藤原氏』 >>という配役であり、(後略) @ライバルとして・・・藤原氏である。ーーーーーーー→同意します A政府の要職・・・子を天皇・・藤原氏以外には無いー→ほぼ同意します Bだから・・・『善玉=源氏、悪役=藤原氏』という配役ーー→??? C要するに・・藤原氏が源氏に敗北しているようにも読めるー→??? @AからBに到る論理展開が全く理解出来ないのです。同時にCにいたる 論理も納得できません。 (あるいは他の部分で解説されているのでしょうか?) しかし、それ以前の問題としてこの物語を・・・善玉・悪玉〜勝者・敗者 と言う構造で捉えること自体がAwajiの感性から見て理解を絶するモノなの です。 佐波比呂さんは、この物語は善玉・悪玉〜勝者・敗者を描くために執筆さ れたと思われますか? Awajiは王朝貴族と言う場面設定において、人間の宿業・愛憎・苦悩の果 て無き深淵を描いたものであって、善悪勝敗等は添え物でさえ無いと解 釈しているのですが・・・・ (父の后妃である継母を犯し子を生す=これは主人公が藤氏では有り得な いですね。人の妻を誘惑不倫=母子相姦を犯す。皇女である正妻を寝取ら れその子を嫡子とする。多くの女性の純愛を踏み躙る・・・光源氏を善玉 とか悪役とか言う範疇で理解しては、この小説は全く色褪せてしまいます。 しかし、井沢さんがその様に解釈されるのはご自由です。900年間における 何十万と言う読者の感性がそれに賛同するかどうか・・・でしょうね。) なお、この物語の中に怨霊思想が色濃く存在していること自体は否定しま せん(読者すべてが認めていることでしょう)が、それとこの物語を源氏 に対する怨霊鎮魂小説と見ることとは別問題でしょう・・・・ Time : 1999/ 9/18(土) 11:50:20
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 源氏物語は読んでないのですが・・・・・。 Comments: みなさん、こん@@は。 源氏物語は藤原氏の専横に対する不満分子のガス抜きという意味もあるのではない でしょうか?藤原氏一族への不満感を和らげる効果を狙ったということと同時に、 不満をもつ氏族が行いそうな罠、政略、妨害を藤原氏側が先に書いて見せる事によ り、「何をしたってお見通しだよ」という事を暗に匂わせているかもしれません。 幽=虚(フィクション)と解釈すればフィクションの世界で仇うちさせることに よって、藤原氏に対する不満を解消するまたは軽減させることができたとは考え られると思います。幽(虚)によって顕をあやつるということは、宗教によって 幸せになれるという現世利益を求めるのと同じ心理の動きがあるのかもしれません。源氏物語に藤原という名前が登場しない以上敵討ちとはいえないかもしれま せんが・・・・。名前は言霊の中で最たるものだと思ってます。 まとめようと思ったのですが、なんだかさらにわからなくなってきたような気が します。 管理人さんへ しつこいようですが、過去ログのコーナー検討していただければ幸いです。 Time : 1999/ 9/18(土) 12:42:34
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「権衆分離論」?? Comments: 安部さん、勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 安部さん・・・・ 「逆説の日本史七巻」太平記記事につき取敢えず書店で速読しました。 Awajiの素朴な印象では、井沢さんは「顕幽分離論」を論ずるに当って 「権衆分離論=勿論造語です」をもう少し明確に考察された方が良いの ではないかと思います。 権・・・権力者(政治的勝者)が、政治的敗者の怨霊から自らの安全を守 るため、多くは贖罪意識をもって行う様々な鎮魂行為。 (本来言うところの怨霊鎮魂信仰) 衆・・・非権力者(民衆)が、政治的敗者(特に義に殉じた英雄的人物) の非業の死を悼み、畏怖同情の念をもって行う様々な鎮魂行為。 (本来は英雄崇拝心理に近いが、その悲劇性が怨霊信仰的色彩を持つ) 太平記は・・・まさかと思った南朝方の武将児島高徳説にまで言及されて いるのですから、やはり「権」の方では無いでしょう。 従って、既に勇者ロトさんが言われたとおり・・・「顕幽分離論」のテー ゼである >>その鎮魂の方法が中国においては子孫に祀らせるというやり方だったのが、 >>日本ではその怨霊の生前ほしがっていたものを与えるというやり方に替わ >>っていった。アマテラスはオオクニヌシから日本の支配権を奪ったが、そ >>れに替わるものとして幽事の主催者という地位を与えた。 とは分離すべきものでは無いかと思います。 そしてさらに「孔明」「関羽=関帝」等と共通するもので、本来の怨霊信 仰とは一線を画すべきものの様な気がします。 それから過去ログ是非お願いします。Awajiも当時殆どコピーしたのです が、ある時収録容量の関係からか突如大幅カットされたため、コピー出来 なかった部分がありますので・・・・ Time : 1999/ 9/18(土) 23:38:06
Name : Toshy E-mail : Title : 三成の誤算B Comments: Toshyです。 三成が敗れることになった理由は、今回が最後になるでしょうか。 B幻の大垣城篭城戦?! 尾張・岐阜での思わぬ敗戦に、三成の戦略は変更を余儀なくされました。 さらに頼みの毛利軍は南宮山に登り、野戦の兵力にはならない。 総大将の輝元にいたっては、大坂城から一歩も動かないのですから、 三成の焦りは察するにあまりあります。 しかし、家康にも悩みはありました。 後詰めの秀忠軍(徳川直属の兵は、ほとんどがここに属していた)は 中山道で真田に敗れ、いつまでたっても姿をあらわさないのです。 また戦が長引けば、奥州戦線の上杉・伊達・佐竹あたりが 背後を脅かしかねない(西軍にはその心配がなかった)。       ▲菩提山  ▲虚空蔵山  △笹尾山          ◆赤坂                至 近====関ヶ原======中山道==== 江  △松尾山   △南宮山    ◇大垣 ところが、西軍主力は突然関ヶ原に転進したのです。 それも中山道ではなく、南宮山の南を迂回し伊勢街道を通るというものでした。 この意味はなんでしょうか。 これまでは、家康による流言作戦(東軍が大垣を無視して佐和山を攻め、 そのまま大坂に向かうという)だといわれてきましたが、 後代の創作であるということが最近の研究で分かってきました。 まず、秀忠の動きが挙げられます。家康赤坂に転進したのが14日。 もし「おびき出し」が本当なら、もっと早く動くべきでしょう。 これは、到着が遅れている秀忠を待っていた、と考えるしかありません。 次に関ヶ原合戦時の布陣。西軍が盆地を囲むようにしていました。 軍事理論家のクラウゼヴィッツが西軍の勝ちを断言したように、 西軍主導、東軍がおびき出されたと考えた方が自然なのです。 この辺は何とでも説明がつくのですが、 細川家の記録によると、合戦当日まで忠興は陣替えを知らなかったのです。 また別の記録では、内通している吉川から福島正則に、 「西軍動く」の知らせが入ったと書かれています。 東軍は当時戦意旺盛で、ともすれば暴走しがちの福島隊が、 大垣に攻め込みそうな勢いだったのです。 これらの史料を信用すれば、先に動いたのは西軍でした。 なぜ西軍が、大垣を捨てて関ケ原に移動したか、という疑問。 これは三成から増田長盛に宛てた手紙が物語っているかと思います。  「東軍は二十日のうちに壊滅するだろう」(9月12日) またしても甘い観測ですが、この意味するところは大です。 三成は関ヶ原の野戦による一大決戦ではなく、篭城戦を意図していたのでした。 大垣城を守って、大坂から駆けつけるであろう毛利本隊(40000?)、 また大津城を攻めていた毛利秀包ら15000、 小野木重勝率いる田辺城攻城軍15000の着陣を待っていたのではないでしょうか。 彼らが参陣すれば、東軍を倍する兵力になり有利に戦えるから。 しかし、事態は14日に変わりました。 それが清洲にいた家康の赤坂着陣と、小早川秀秋の動向です。 もともと松尾山には、西軍荷担の将丸毛兼利がいました。 この丸毛は、先述の岐阜における攻防で福束を失い、松尾山に篭っていたのです。 小早川はこの西軍の将を追い払って松尾を占拠したのでした。 三成の計画では、もともとは松尾山に輝元を配置し、 不破の関から西に徳川を入れない予定だったのです。 小早川はその毛利抜きの西軍の戦略を根底から崩すことをしたのでした。 これによって、三成は退路を断たれることをおそれ、 小早川を封じ込めるために転進した、と見てはどうでしょうか。 もし徳川がこのまま西進すれば、吉川・毛利・小早川らを抱き込み、 大坂を占拠しかねない。 そうすると三成は「義」を失いただの反乱軍に成り下がるのです。 また畿内にある西軍勢力も、個別撃破の形でつぎつぎに倒されていくでしょう。 三成最後の策は、笹尾山から虚空蔵山につらなる伊吹山系を通り、 赤坂にある家康軍をつくというものだったのです。 おそらくは島津と仲たがいしたのはこの作戦における意見の相違でしょう。 宇喜田・小西・島津らは篭城に固執したようでした。 三成が大垣を出たのは、あきらかに失策でした。 しかしそれは毛利本隊が動かないため、やむを得ずやった策なのです。 小早川が裏切ることになった理由は、稿を改めます。 Time : 1999/ 9/19(日) 01:28:34
Name : Sin E-mail : Title : Sinの豊臣政権存続策を考えるA Comments: みなさん、こんばんは。 きんたろうさんの乱入、待ってました(笑) Toshyさんの書き込み、相変わらず圧倒されてます。 すごい!の一言です さて、本題 Toshyさんの今までのご意見は、三成に戦略上の間違いがあった わけではないという事だと理解しています。 その意見には基本的に賛同しています、と言うよりSinも同意見です。 しかし、Sinは三成のとるべき方策は反家康勢力を糾合して武力で家康 に立ち向かうのではなく、家康の各個撃破をできるだけ阻止し、阻止でき なかった場合は各個撃破のターゲットになった大名の助命と勢力温存を計 り、秀頼が成人するまで、あるいは家康の寿命が尽きるまで決戦を引き延 ばすように工作するべきではなかったのだろうかと思います。 極端な話、宇喜多がフライングで挙兵したときに三成が主体となって宇喜 多討伐を行うとか(極端すぎますかね(笑)) きんたろうさんに先に言われてしまったので(笑)、引用させてもらい ますが >個別撃破の結果ますます家康が豊臣家の第一人者としての地位を確固 >たるものになったでしょうが、遠方には相変わらず巨大な勢力が存在 >していたままでした。 >彼らはお互いに相手を屈服させるほどの力を持っていませんでしたか >ら、豊臣家という傘の下で影響力を行使したのではないかと思います。 との見解には賛同しています。 三成の挙兵が無かった場合、家康は豊臣家の傘の下で権力を行使する以 外の選択肢が無くなっていたのではないかと思いますので、将軍就任は 家康本人がどう望んでも難しかったのではないでしょうか? Time : 1999/ 9/19(日) 01:29:16
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語の感性」?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 源氏物語の読み方ですが・・・・ 9月19日の朝日新聞にAwajiの敬愛する「おせいさん=田辺聖子さん」の 随筆が掲載されていました。 要するにAwajiの言いたかった「源氏物語」を読むべき「感性」とは、こ ういう事なのです。勿論「感性」は他人に強要するべきものではありませ んが・・・・ (以下部分引用)−−−−−−−−−−−−−−− あれ(源氏物語)は読めば読むほど味わいの増す、ジューシーな小説で ある。 ある人は仏法讃美の契機とせんと思ったもの、という。(狂言綺語)、 たわむれにもてあそぶ読みものだが、その営為がかえって、永遠に仏法 をほめたたえることになると。思想や主義宣伝のために文学はあると主 張した昭和初期のプロレタリア文学と同じだ。 本居宣長は<もののあわれ>といった。しかし紫式部の書こうとしたの は、人生の虚空を吹きわたる時間の嵐だろう。 私はこの巨編には、生理的な<時間>を感じる。悠久の時の流れが身内 を通ってゆく気がする。それには<恋物語>が一番語りやすい。紫式部 はそれを感じていたのだろう。・・・・ 私は命終ちかくして『源氏物語』に親しめたことを有難く思う。 人生は深い意味をもつ、と、尽きせぬ示唆を与えてくれる”近代小説” である。 ーーーーーーーー以上引用おわり Time : 1999/ 9/19(日) 09:59:28
Name : Toshy E-mail : Title : 三成挙兵がなかったら Comments: 「『打倒家康』の兵を挙げず反徳川の兵力を温存し、家康の死後秀忠を屠る」 がSinさんのご意見のようで、同意する方も大勢いることと思います。 果たしてこれが可能か。 IFの話はそれ以上裏付けの仕様がないのですが、 歴史を丹念に見ていくと結果が出ると思いますので、論じてみます。 まず、反徳川勢力を温存できたか。これは間違いなくNO!。 ご存知の通り、上杉はでっち上げ(家康自身がでっちあげた)の謀反の噂で、 討伐の兵を迎えることになった。 謝罪すれば謀反を認めたことになりおそらく改易、 抵抗すればしたで、戦いに勝たない限り改易は免れない。 (衆寡敵せず、上杉に勝ち目はなかった) 上杉領を没収すれば、徳川はそれだけ強力になる。 次のターゲットは、御家騒動で揺れた宇喜多だと思われる。 上杉がいなくなることで、背後に憂いのない家康、 これまた言い掛かりをつけて減封或いは改易しようとする。 応じればもちろん、応じなくても戦となってやはりつぶされ、 反徳川の有力大名は姿を消すことになる。 毛利、石田、小西も「個別撃破」で楽々徳川の軍門に下っていく。 抵抗しなければ改易・減封はない、という考えには、反対。 それこそ「軍隊がなければ平和になる」の理論と同様だから。 歴史が証明している。 家康は、豊臣に対して「国家安康」で有名な挑発を繰り返している。 また、大坂の陣の前、家康は秀頼に、国替えを命じた。 秀頼はこれに応じず戦いとなったわけだが、 もし「抵抗しなければ」が正しければ、 秀頼が大坂城を離れていたら豊臣を残せたということになる。 果たして国替えが、豊臣を残せたか。 もし国替えしたら、大坂城のない秀頼は、 赤子の手をひねるごとくつぶされることになっただろう。 家康が、反徳川勢力のかなめになりそうな諸将をほっておくとは思えない。 それは豊臣氏を滅ぼしたことで証明されている。 秀吉の失敗は、強大なライバルである徳川を滅ぼさなかったことだった。 そのために、豊臣は滅びたのだから。 秀吉の後の天下を狙う家康が、秀吉の二の足を踏むとは、とても考えられない。 というわけで・・・ ・教科書どおりの「関ヶ原=豊臣vs徳川」 ・「三成はおびき出された」という定説 ここから離れないと、時代背景は見えてこないと思いますが・・・ 将軍就任の話は、「関白vs征夷大将軍」をもう一度お読みください。 Time : 1999/ 9/19(日) 21:43:50
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 源氏物語について Comments: みなさんこん@@は。 Awajiさん、田辺聖子さんの文章の引用ありがとうございました。文学は思想のた めではないとう部分には賛同します(読んでないくせにすいません)。 そういう面からいうと、紫式部が「源氏物語」を記した理由の背景には顕幽分離は 存在しないと思います。むしろ顕と幽とを一つに纏めた「文学」なのだと思います。 しかし、紫式部が源氏を書いた理由と、藤原氏が源氏物語を排斥しなかった理由は 別のところにあるのでは?というのが井沢先生の着眼点だと思います。 さて、藤原氏がライバル源氏を持ち上げるような「源氏物語」を認めた理由なんで すが、Awajiさんの引用から考えると藤原氏さえも「いとおかし」と思ったのがそ の理由の最たるものではないでしょうか? 芸術は時に政治を超える力を持つものではないのでしょうか? Time : 1999/ 9/20(月) 03:20:07
Name : slashdog E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: みなさま こんばんは 豊臣家が、生き残れた可能性は2つしかなかったと思います。 一、秀吉が家康より長生きする。 一、小牧・長久手の戦いで家康にとどめをさす。 秀吉は生前に悪い芽は摘み取っておくべきでした。 みなさんも仰ってますが関ヶ原以後はもうだれも、家康を止めるのは 無理だったでしょう。 家康は今までやってきた通り、こつこつと領地を増やし、決して危ない橋は 渡らず生きてきて、気が付けば天下をこの手に掴めるのでは?というところまで たどり着き、全ての障害が消えた所で征夷大将軍になった。 Toshyさんへ 私は松尾新城を中心とした長期持久戦が、三成の構想だったと思っています。 松尾山には以前、浅井長政が築いた山城があったのですがそれを改修したようです。 (以前の発掘調査でもすごい規模の遺構が発見されています)  三成が合戦前夜増田長盛に宛てた密書に「江濃の境目、松尾の御城、 いずれの御番所にも、中国衆入れおかるべき御分別もっともにて候」とあります。 ですから、本当は秀元らに入ってもらいたかったのではないでしょうか。 密書の後半で「敵陣二十日のうちに敗り候わん」これは最終的には輝元に新城に 入ってもらい、二十日もすれば別働隊も集まり東軍を圧倒することができる。 そして秀頼に御出座し願えば東軍からは、裏切り者が続出しついには潰走する というシナリオだったと考えます。 Time : 1999/ 9/20(月) 03:23:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様へ、質問させてください Comments:  お久しぶりに勇者ロト様宛てに感想を書きます。 (ノム様には挨拶をするまも有りませんでしたが・・) 前記事でご主張されている >紫式部が源氏を書いた理由と、藤原氏が源氏物語を排斥しなかった理由は >別のところにあるのでは?というのが井沢先生の着眼点だと思います。 は、井沢先生ご自身も多少混同されているところだと思いますが、 核心をついておられると存じます。 その意味で、Awaji様の文学的感性もまったく違和感がありませんし、 井沢先生のおっしゃることも否定できないように思います。 また、本当のところも、芸術的価値を認めざるを得なかったという ロト様のご意見が正解かもしれません。 ただ紫式部は、聡明な方のようですから、反藤原的文章の「恐れが有る」 (可能性の問題です)ということに気づいていたはずだと思いますが、 そうすると、結構冒険しているように思います。 そのあたりはやはりガス抜きとお考えですか? Time : 1999/ 9/20(月) 10:00:27
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 昼の休憩中ですので慌てて書きこんでます。 Comments: 大阪JF生さん、こん@@は。おひさしぶりです。 藤原氏は、いや藤原道長は、この本が源氏を主役としてることをはじめて知ったき おそらく源氏物語を排斥しようと思ったと思います。 しかし、それは出来なかったのでしょう。中宮をはじめ宮中の女官全てを敵に回し てまで、無理やり止めさせる必要もないし、第一道長自身も続きが読みたくなる程 面白い物語だったというのが源氏物語が残された一番の理由であると考えた方が大 国主云々からの顕幽分離して鎮魂するために書かれたと考えるより余程整合性があ ると思います。ガス抜きという発想は現代的すぎたかもしれません。 源氏物語の存続を認めることは道長が自分の度量の大きさを示そうとする意図もあ ったかもしれません。 道長が源氏物語が宮中の女官の間に評判になっていると知ったのは、おそらく1008年 寛弘5年だと思われます。一方女官達が読み始めたのは1005寛弘2年だと思い ます。 何故なら、寛弘5年に道長は源氏物語の製本前の草稿を一度取り上げているから です。しかし結局年内に返還し製本を認めているのです。 これは何を意味するか?と考えた場合、道長自身も続きを読みたくなるほど面白 かったと考える他ないでしょう。 ご存知のように紫式部の夫は藤原宣孝です。夫の死後から源氏物語を書き始めた とされています。藤原氏に仇成すようなかけるのは紫式部が藤原氏だからです。 だからこそ、藤原氏が成功するような話は生々しすぎて書けなかったのではない でしょうか?Awajiさんのいわれるように母子相姦などを藤原氏に演じさせ るのは、ちょっと無理があるようにも思います。源氏以外の他氏族でも同じでは ないでしょうか?帝をだますわけですから。 生々しさを多少薄くするため奈良の昔から続く氏族ではない源氏という皇室の分家 の名前が選ばれたのではないでしょうか? 源氏物語そのものを読んでないのでピントがすれているかもしれません。 Time : 1999/ 9/20(月) 11:25:22
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 「GEN」を読めとまではいいませんが・・・ Comments: 井沢先生は、小説「GEN」において、「源氏物語」複数作者説、 を採っています。 すると、「源氏物語」の、思想的に深い部分は紫式部以外が書いた部分になり、 単純な成功たんが本来の「源氏物語」になります。 Awajiさん、厳しいツコッミで申し訳ないのですが、 あなたの文章自体が「逆説の日本史7」をよく読んでいないことを証明しています。 小島法師の部分です。 是非、熟読して下さい。 申し訳ないですが、私は、井沢先生の「源氏物語」と「太平記」 論を、細微もらさず説明する力量も、時間もありません。 ある程度共通のバックグラウンドができてから私は議論に参加します。 Time : 1999/ 9/20(月) 14:09:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 無題 Comments: おまえはだれだ? デーパである。 デーパはだれだ? 私である。 私はだれだ? 犬である。 犬はだれだ? おまえである。 あまえはだれだ? デーパである。 Time : 1999/ 9/20(月) 14:13:36
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語の感性の壁」?? Comments: 安部さん、大阪JFさん、勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 安部さん・・・・ >>「源氏物語」の、思想的に深い部分は紫式部以外が書いた部分になり、 >>単純な成功たんが本来の「源氏物語」になります。 要するに「感性」の問題だと申し上げているのは畢竟この部分なのです。 井沢さんや貴方は、(本来)この物語を「天下取り物語」とか「単純な成 功譚」と言う様に感じられるのですね。 Awajiは(合作であろうと無かろうと)この小説の何処にも「単純な成功譚 」等の片鱗も感じないのです。 Awajiは「人間性の果て無き深淵」を、田辺さんは「人生の虚空を吹きわた る時間の嵐」を、本居宣長は「もののあわれ」を感じた・・・それだけの 事です。 勿論、貴方達がどのようにお感じになるのもご自由です。しかしそれを押 し付けられるのは我々の文学的感性にかけて、900年の多くの読者と共に 断固拒否するだけのことです。 従って、「天下取り物語」とか「単純な成功譚」と言う事を前提とした一 切の推論は我々には理解を絶するものである・・・そう言う事なのです。 >>あなたの文章自体が「逆説の日本史7」をよく読んでいないことを証明し >>ています。小島法師の部分です。是非、熟読して下さい。 そうかも知れませんね。Awajiの様な庶民には良く理解できないのかも知れ ません。何故これが・・・ >>その鎮魂の方法が中国においては子孫に祀らせるというやり方だったのが、 >>日本ではその怨霊の生前ほしがっていたものを与えるというやり方に替わ >>っていった。アマテラスはオオクニヌシから日本の支配権を奪ったが、そ >>れに替わるものとして幽事の主催者という地位を与えた。 と言うテーゼに該当するのかごく簡単に教えて頂けないでしょうか? >>ライバルとして登場する一族は、氏族名は明記していないが 当時の常 >>識から見て明らかに藤原氏である。政府の要職を占め、その子女を 天 >>皇家に嫁がせ生まれた子を天皇にするというのは、藤原氏以外には有り >>得ない。だから、誰が見たってこれは、『善玉=源氏、悪役=藤原氏』 >>という配役であり、(後略) ・・・この文章について、何故「だから・・・」なのかでも結構です。 勇者ロトさん・・・・・ >>藤原氏は、いや藤原道長は、この本が源氏を主役としてることをはじめ >>て知ったきおそらく源氏物語を排斥しようと思ったと思います。 ご承知のとおり、この物語の最大のポイントは「臣籍降下を運命付けられ た皇子が、父天皇の后妃と密通の末不義の子を生し、その子が天皇に為る ことで太上天皇になる・・・一方皇女(姪)である正妻は(明らかに藤氏 である)貴公子と密通の末に不義の嫡子を生す」ことにありますね。 つまり、この小説の主人公は絶対に「皇子である賜姓源氏」でなければな らないことはご理解頂けると思います。 >>藤原氏に仇成すようなかけるのは紫式部が藤原氏だからです。 つまり、どう読んでも「藤原氏に仇成す」小説とは思えないんです。 ただ、Awajiも道長がこの「物語」を公刊させるに当って逡巡した可能性 は充分あると思います。何故ならば上記のテーマは儒教的倫理はもとより あらゆる人倫に悖るものであり、天皇家と公家階級の乱倫糜爛を描くもの で、道長が権力者(為政者)として立脚する天皇制=摂関政治の神聖さを も揺るがし兼ねないものだからです。 (源氏・藤氏の何れが善玉・悪玉とか勝組・負組とか言うようなレベルの 問題ではありません。) しかし、彼はこれを認めた・・・それはこれが「論」でも「説」でもない 「芸術=人間文学」だからでしょう。まさに・・・ >>芸術は時に政治を超える力を持つものではないのでしょうか? だと思います。 井沢さんには失礼ですが、この小説を源藤の善玉・悪玉、勝組・負組と解 釈する「文学論」を道長に聞かせてあげたい気がします。 彼は??(遺憾ながら言うに忍びませんが・・・) Time : 1999/ 9/20(月) 23:01:35
Name : Toshy E-mail : Title : 竹取物語 Comments: 王朝文学において有名な「かぐや姫=竹取物語」ですが、 これは明らかに実在の貴族に対する揶揄というか、あてつけに思えます。 つまり汚いことしてまで姫を娶ろうとしたり、また月からの軍勢にはなすすべなく敗れたり・・・と。 (詳しいことは知らないので、すみません・・) 「源氏」と似ているような気がしたので、一言だけ述べて見ました。 Time : 1999/ 9/21(火) 00:44:51
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 源氏物語 Comments: みなさん、Awajiさんこん@@は。 >つまり、どう読んでも「藤原氏に仇成す」小説とは思えないんです。 源氏物語を読んでないのですいません。あらすじや源氏物語関連のホームページ、 国語便覧などを読んだ時点では確かに反藤原氏で源氏という氏族をもちあげてい るとはいいがたいと思います。 Time : 1999/ 9/21(火) 07:49:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 源氏物語 Comments: 源氏を主人公にした理由は、怨霊鎮魂、顕幽分離の意味でなく、話の展開上 Awajiさんのおっしゃる通り、臣籍降下された源氏でなくてはいけない というのが、真相だと思います。 鎮魂の意味があったなら、道長をはじめとする藤原氏は最初から紫式部をバック アップしたでしょうし、とするなら草稿を取り上げるなどということはしなかった でしょう。 物語の中で鎮魂する側つまり藤原氏の名が直接現れないと鎮魂は片手落ちにしか ならないとも思います。 そもそも、光源氏は醍醐、村上の時代がモチーフらしいですから大臣=藤原氏と いうのも正確ではないような気もします。他の氏族が大臣だったということはな いのでしょうか? 大国主とアマテラス型鎮魂と源氏物語は「幽」=「虚」という接点しかないのでは ないでしょうか?この接点を重視するならすべての「ものがたり」は怨霊鎮魂とい うことになります。「もの」は霊魂、鬼という意味らしいですから。 Time : 1999/ 9/21(火) 09:37:00
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 源氏物語成立への妄想 Comments:  勇者ロト様、Awaji様、お返事ありがとうございました。  勇者ロト様の方向性はそれなりにかたまってこられたように存じますが、 道長が取り上げたのは別の理由である可能性もありますので、 少し違った、小生なりの率直な感想を述べてみます。 まったくの素人の妄想ですので、穴だらけであることは承知の上で、 ご批判を受けたいと思います。  確かにAwaji様ご指摘のように「藤原氏に仇成す」は井沢先生の 言いすぎた部分でしょう。それはすでに述べたつもりです。  小生がロト様に尋ねた意味は、朝廷に対しても(藤原氏に対しても) 不敬と攻撃される恐れ(しつこいですが可能性の問題です)を 紫式部ほど聡明な女性がまったく抱かなかったのかということです。 そこで、単純に小生は「事前に」このような事を書いても(発表しても) 良いかどうかは相談済みで、恐らく道長の内諾を得ていたのではないかと 妄想します。  井沢先生も少し混同されているようですので、Awaji様もお怒りかと 思いますが、小生は井沢説は文学論ではないと思っています。 文学論ならば、Awaji様のおっしゃるとおりでしょうが、いわば、 Awaji様の内部史的考察に対し、井沢説は外部指摘アプローチを取っていると 思います。出自や位置付けを問題にしていて、文学的価値とはほとんど 無関係だと考えます。  根本的な問いは、世界史的に類を見ない長編フィクションがなぜ、 この時期の日本で一女性によって成立し得たのかということだと思いますが、 小生の不勉強もおおいに有るものの、井沢説以外には納得できる説明を ほとんど聞いたことがありません。もしどなたかご存知でしたら、 ご教示いただければ幸いです。  記紀等の「正史」自体が長編フィクションだと言う立場ならば、前例がありますので、 その流れからきていると捉えられるでしょう。しかし、小生は(おそらく井沢先生も) 多少の脚色はあっても、正史は基本的には史実に基づいた記述であるという立場です。 したがって、源氏物語がやはり嚆矢でしょう。  そのようなオリジナルな試みで、紫式部が単独で全く自由に本領を発揮できたとは 想像しがたいのです。「長編フィクション=物語」の概念自体が(すくなくとも 当事者周辺では)オリジナルではないのでしょうか。そういった意味でも、 誰とも相談なしに勝手に書いたとは考えにくいのです。 ましてや藤原氏を置くとしても、朝廷に対してここまで大胆に書けるでしょうか? 現代的な小説の感覚とは大いに異なっていた可能性があるでしょう。 そこに何らかの意図が込められたものではないかと考えるのは自然だと思います。 井沢先生はそれが怨霊鎮魂であると言われますが、もちろん一つの考え方で、 ほかの可能性も十分あるでしょう。しかし、いまのところは別の方向はないようです。  いずれにせよ、このように小生なりに考えると、ひとつの妄想が出てきます。 「紫式部の文章のうまさは周知の事実であった。それはとりもなおさず、 イマジネーションの豊かさに起因するものであった。歴史を学ぶうちに、 歴史におけるifの魅力に取りつかれ、想像の中で遊ぶこともしばしばであった。 回りの人に、このような想像上の話をしていると、良く受けて楽しめた。 それなら、なおのこと文章にして、想像上の朝廷周辺の恋愛「物語」を 書いてみたいと思った。しかし、「うそ」の「不敬の恐れのある」想像は、 (雑談ならまだしも、)文章にするのはためらわれた。 そこで、藤原氏の権威者(道長?)に相談したところ、「道長の何らかの 思惑によって」OKがでて、主人公は源氏で行くことになった。」  その思惑が何かはわかりません。ただ、怨霊鎮魂以外にも選択肢があることを 述べておきます。それは逆に「藤原氏の権勢を示すものであった」という視点です。 主人公を源氏にしたことで、表向き藤原氏に文句をつけることは出来ません。 朝廷の乱脈な振る舞いを描いて権威を落とし、間接的に藤原氏をもちあげている のではないかとも思えます。つまり、源氏物語は朝廷をからかうという道長の いたずら心によって、紫式部に自由に描かせた物語と観ることも出来ます。  いずれにせよ、それを大人気小説にしたのは紫式部の並々ならぬ手腕であり、 その文学的な内容・価値は不滅でしょう。  安部様ご指摘の源氏多作論や太平記との関連で、小生なりに意見もあるのですが、 余りに長くなりましたので、またの機会(ないかも?)にいたします。 Time : 1999/ 9/21(火) 10:42:41
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : すみません、訂正です。 Comments: 前記事の中ごろで、変換ミスをしてしまいました。 外部指摘 --> 外部史的 と訂正させてください。 Time : 1999/ 9/21(火) 11:51:36
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 御堂流と賜姓源氏 Comments:  実際の藤原道長一族と賜姓源氏の関係はどうだったのかを見てみようと思います。 ただし、これは「源氏物語」成立後の関係です。 「源氏物語」成立期の道長と源氏の関係を推定する、資料にはなると思います。  「藤原頼道の時代―摂関政治から院政へ」(平凡社、坂本賞三)から資料を採っていま す。  光源氏のモデルとも言われ、藤原氏によって失脚させられた源高明は、道長の第2夫人 とも言うべき源明子の父です。  さらに大事なのは、村上源氏と御堂流の関係です。  道長の嫡子頼道の正妻隆姫は、村上天皇の皇孫に当ります。道長は、為平親王系の村上 源氏と、頼道の間にも姻戚関係を作っています。隆姫は、弟の源師房(万寿宮、資定王) を伴って、頼道に降嫁しました。師房は、藤原家の人々に大変可愛がられたと「栄華物語 巻十二」にあります。しかし隆姫は子供が産めない性質だったらしく、しかも皇孫なので、 ある時期まで頼道が側室を作るのを遠慮したらしく、頼道にはなかなか子供が出来ません でした。  これを憂えた道長は、源師房を頼道の養子にします。頼道の弟教通の長男である信家も 養子にされました。道長がその決断を下したのは治安3年(1023)、源明子の女児、隆子 を師房に嫁がせた時と考えられます。道長は師房を頼道の後継者にするつもりでした。。 その後藤原道長が師房を重視したのは、師房は4年間昇進がなったのに、隆子との結婚 の半年後に従四位下から従三位に3日間で昇進していることからもわかります。  道長は、御堂流の家格を賜姓源氏と同等に上げる計画を持っていたらしく、その一環と しての師房の養子だったのでしょう。異姓養子は平安時代の貴族では異例のことでした。 これ以後数代は、師房の子孫は御堂流と同等に扱われます。白河院政や鳥羽院政で重用さ れた源氏は師房の子孫です。白河天皇中宮の藤原賢子は、源師房の孫で、藤原師実の養女です。 ところが万寿2年正月(1025)頼道に待望の男児通房が産まれます。このことによって、 源師房は御堂流の後継者の次席にされます。かくて道長と頼道の期待は通房に集中し、長 暦元年(1037)13歳で十三位、長久3年(1042)18歳で権大納言に任ぜられ(正二位)、 35歳で正二位権大納言であった源師房と官位で並びます。しかし、師房が次席であった証 拠に、頼道はその後祇子との間に5人男児を産みますが、そのうち4人は養子に出たり僧 籍にいれられりさせられて、御堂流から除かれています。これは師房に遠慮してのことで す。  しかし通房は長久3年8(1044)に18歳で死亡し、頼道と祇子との間の第6子師実が 新たな後継者とされました。師実の子孫が以後は御堂流の頭領となります。  このように、道長は村上源氏を始めとする賜姓源氏と深く姻戚関係を結び、他の藤原氏 と御堂流との差別化を図りました。これは成功し、頼道以後は外祖父である無しに関わら ず、摂政関白の地位は御堂流で独占されます。 醍醐天皇 | −−−−−−−− | | 村上天皇 源高明 | | 具平親王 源明子==藤原道長=源倫子 | | | −−−−−−− | | | | | | | 隆姫===========頼通 | ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | | ・(養子) | | 源師房===========隆子 師実 | ・ 顕房 ・ |・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 賢子(師実養女)==白河天皇 | 堀河天皇 | 鳥羽天皇 Time : 1999/ 9/21(火) 15:38:58
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : あれれ? Comments: すみませんちゃんと書いたつもりだったのですが・・・ 書き直しました。 源明子==藤原道長==源倫子 村上天皇 | | | | 頼通 具平親王 | | 隆子==========源師房(頼通養子) | 顕房 | 賢子(師実養女) Time : 1999/ 9/21(火) 15:54:29
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : う〜む? Comments: 村上天皇ー具平親王ー源師房 (左が親) 源明子と藤原道長の子が隆子 源倫子と藤原道長の子が頼道 Time : 1999/ 9/21(火) 16:00:51
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 感性について Comments: 「源氏物語」がどのように解釈されてきたのかは知りませんが、 現代人の「源氏物語」の解釈は、 平安時代以来のものではなくて、 江戸時代の国学によって作られた「源氏物語像」 である可能性はないでしょうか? 江戸時代は、朱子学と市場経済に基づく 理性の時代でしたので、怨霊は排したと思います。 ただこれは思い付きに過ぎませんけど。 Time : 1999/ 9/21(火) 16:06:03
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: すみません、頼道は誤りで、頼通が正しい字です。 Time : 1999/ 9/21(火) 16:09:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : すみませんもう1回だけ Comments: 梅原猛先生の研究と、戦後の表記論敵研究によって、 賀茂真淵の「柿本人麻呂論」は誤りが多いことが分かりました。 これと同じように、本居宣長の「源氏物語論」と それに連なる現代人の「源氏物語」観も ひっくり返る可能性はあると思います。 前に「止まり木」に書きましたが、 「百人一首」でさえも、後鳥羽上皇の怨霊を鎮魂するために作られた、 と考えている研究者もいます。まあその人は正規の学者ではないのですが、 「古今」「新古今」にかなり通じている人です。 その百人一首は流された後鳥羽上皇のために作られたという説 を田辺聖子さんは絶賛しています。 このように、我々の文学観は江戸時代にかなり歪められた可能性があります。 古典文学の見方は、一変させられる可能性があるのです。 Time : 1999/ 9/21(火) 16:20:27
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 源氏物語成立の背景(妄想です。) Comments: みなさん、こん@@は。 源氏物語の成立以前は、「日記」「歌物語」「伝奇物語」などの系統にわかれる 作品が成立しています。枕草子、伊勢物語、竹取物語などがそれぞれの代表作と されています。この日記や物語を読んだりそれについて話したりする事が宮中の 女官らの間で流行っていたということです。新しく面白い物語をむ知っていると いう事はそれだけで自慢になったのではないでしょうか? 紫式部は中宮彰子から「何か面白い物語はないの?」と聞かれ新しい物語を作る 事を提案し、それを認められ、彰子の命令として物語の構想をはじめたという伝 説もあるようです。石山寺には源氏の間という紫式部が物語りを執筆するときに 利用したといわれる部屋があるようです。 紫式部は大阪JF生さんがおっしゃるように「聡明」な女性である反面、清少納言 などの先行女流作家(?)を小ばかにするような評も残してます。 ここから考えると、個人的野望として清少納言などを超える評価をしてもらいたい がため、または自分の方が優秀な物語作家、文章家だと証明するために源氏を書き はじめたのではないでしょうか? ここから下は根拠のない妄想です。 物語を書いて周囲の人間に読ませてみると評判がいい、しかも光源氏というキャラ が立ってしまい、周りの人から続きを読ませてほしいと言われひとつの短編物語で はなくなってしまった。それが女官の間でさらに評判がでて読者の感想や、先読み を超えるものを書かなくてはということでいつのまに多くの編が編まれた。 まるで少年ジャンプのドラゴンボールのように作者の意図を遥かにこえる長編小説 が結果的にできてしまった。その一部を見た道長が不敬の疑いありとして出回って いた各編を集めさせ没収した。読んで見るとなかなか面白いというので紫式部に命 じ、独立した短編などをまとめさせ長編小説「源氏物語」が完成した。 だから趣の違う編が存在することとなり、作者複数説なとがいわれる原因となった。 つまり、最初から長編の物語を書こうとしたのではなく、結果的に長編となった ということは考えられないのでしょうか? もし結果的に長編になったのなら鎮魂のためという目的より純粋に宮中での 楽しみのひとつとして書かれたということになると思います。 >小生がロト様に尋ねた意味は、朝廷に対しても(藤原氏に対しても) >不敬と攻撃される恐れ(しつこいですが可能性の問題です)を >紫式部ほど聡明な女性がまったく抱かなかったのかということです 男社会にまで浸透するとは、書き始めた当初は紫式部自身も思っていなかった のかもしれません。最初は宮中の女性の世界で一目置かれるため書き出したと いう具合には考える余地はないのでしょうか? と、このように妄想してみました。もし仮に源氏への鎮魂の意味があったとしても、アマテラスと大国主の説話から導きだされる鎮魂の意味とは多いに違ってい ると思います。政治的勝者、敗者とはいえ賜姓源氏は絶滅したわけではないし、 藤原氏は物語中に姓名としては登場しないわけですから。 同じ理論(顕幽分離論?)では語れないのではないでしょうか? 私は逆説の日本史を連載と単行本で読んではいますがここのところはどうしても 納得できかねます。みなさんは十分納得されているのでしょうか? もちろん、私の読解力のレベルが低いのかもしれませんが・・・・。 いかがでしょう? Time : 1999/ 9/21(火) 18:55:47
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: slashdogさん、レスありがとうございました。 西軍が松尾山を中心とした篭城戦を考えていたとすると、...  毛利が率いていたのは、別働隊をあわせて8万。  輝元(中国勢)を松尾山に配置し、  関ヶ原(不破の関)を毛利別働隊の手勢で固める。  東軍が関ヶ原に出たら、大垣から背後を突き、  清洲・岡崎などに後退したら、  最初の構想どおり矢作川まで攻めていく。。。。 こんな構想があったのかもしれないですね。 三成が関ヶ原に出ていったのは、 毛利・吉川が当てにならない以上、自力で何とかしたかったのでしょう。 毛利秀包や小野木重勝らの軍が着くまで持ちこたえればいい。。 あとは小早川の裏切りだけが心配だったが、「関白」のえさでなんとか。 徳川としても、西軍に援軍が来る前に戦いたいところだったから、 関ヶ原に出て行くしかなかったのでしょうね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 9月のうちに主力戦に間に合ったと思われる両軍勢力 若狭 □小野木重勝(15000)              ■徳川秀忠(40000)         □毛利秀包(15000)         近江   =  □石田三成(80000             不破の関    ■徳川家康(70000) 大坂 □毛利輝元(40000) Time : 1999/ 9/21(火) 23:49:33
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語を生み出した時代背景」?? Comments: 勇者ロトさん、大阪JF生さん、安部さん、みなさん、今日は。Awajiです。 深夜の帰宅で、チョット酔っ払っています。 勇者ロトさん・・・・ いろいろと参考になるご意見を頂き、またAwajiの意見もご理解頂きありが とうございました。「妄想」についても充分説得性があり、基本的に賛同し ます。若干補足的になりますが・・・・以下 大阪JF生さん・・・・ >>根本的な問いは、世界史的に類を見ない長編フィクションがなぜ、この >>時期の日本で一女性によって成立し得たのかということだと思いますが、 ご指摘の問題は確かに重要ですね。Awaji自身もある意味では「世界文学史 上の奇跡」の感を抱いています。 そこでこの問題を考えるポイントは・・・やはり時代的背景でしょう。 一般的に大衆芸術以前に、芸術が開花するためにはある種のサロンとパト ロンの存在が不可欠とされています。サロンとは一定の芸術的感性を有す る集団であり、常に適切な評論と評価が為される場所です。そしてパトロ ンとはそういった集団を支え経済的に支援する存在です。 当時の「日記」類によれば、村上皇女選子内親王の加茂斎院には物語司が 置かれ、多くの物語が発刊されると言うような状況にあったようです。 それに対し、中宮彰子や定子も対抗意識を燃やし、清少納言や紫式部に、 より良い作品を競わせたものと思われます。当然評論活動も盛んになされ 「宇津保物語」についてヒーローの「藤原仲忠」と「源涼」の人物論(文 学論)が藤原公任をも巻き込んで論じられ記録があり、「源氏物語」絵合 巻でも「竹取物語」「宇津保物語」「伊勢物語」「正三位」等のサロン的 文学論が展開されています。 (「源氏物語」も選子内親王の意を受けたものと言う説もあります。 Awajiとしてはロトさんの中宮彰子説が妥当と思いますが、どちらにして も道長すら意のままに為らない高貴な女性パトロンの意向を戴した可能性 が大きいでしょう。) 「源氏物語」は、この様な時代背景のなかで生まれた傑作であり、決して 孤高の存在では無いと考えるべきではないでしょうか? 安部さん・・・・ 芸術における「感性」と、歴史的事実に関する「論証」とは別物です。 貴方が「源氏物語」を読んで何を感じたか・・・これは本居宣長が何を言 おうと貴方自身に属する文学に関する事実なのです。そして貴方自身の成 長により感じるものは変化するでしょう。その変化もまた貴方にとっては 貴方自身にとっての事実なのです。 これに対し「論証」は普遍的妥当性の問題であり、一個人に属する事実で はありません。 ところで田辺さんの「百人一首」に関する見解は、何に記述されているの でしょうか?本題からは離れますが興味がありますので是非ご紹介下さい。 Time : 1999/ 9/22(水) 01:09:23
Name : Sin E-mail : Title : Toshyさんへ Comments: 先日はレスありがとうございました<(_ _)> 今日こちらも書き込もうと思っていたのですが、 仕事の都合で帰宅が11時になったのでまた後日にします。 つかれて頭が回らないので(爆) Time : 1999/ 9/22(水) 01:32:20
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Izawa’s external approach のへたくそな解説 Comments:  勇者ロト様、Awaji様 ご意見ありがとうございました。 なるほど、女性蔑視のつもりは無かったのですが、 道長の強大なイメージが強すぎて、結果的に軽視していたようです。 サロンとしての雰囲気も容易にイメージ可能です。  ただ、やはり多作者論は述べておくべきかもしれないと 思いますので、まったくの力量不足ですが、太平記とも絡めて 井沢先生の説を解釈しておきます。  造語ですが、井沢流エクスターナル・アプローチというものは、まず 「その作品のメインテーマは何か?」 というごくあたりまえの解釈から入ります。 源氏物語では、「光源氏の相は天の上に立つもの」という意味の予言が最初に 有りますが、これをメインテーマとすれば、基本的にはサクセス・ストーリー と言えなくも有りません。太平記では、序文によれば、宋学(朱子学?)的な 「徳の無い王は、(部下にいくら徳があっても)滅びる」という物語で、 もちろん、部下たちの「忠義」もそこに付随します。 ほかの解釈も当然可能でしょうが、とりあえずこの線で話を進めます。  すると、いずれの作品も後半はテーマからずれています。 源氏のほうは、仏教的な因果応報の相を呈し、まったく逆の立場になって 落ちていきますし、太平記のほうは怨霊が飛び交う、宋学とはまったく異なった 世界が展開されます。  もちろん、メインテーマと本文との関係は鶏と卵の感がありますが、 イントロの部分をかなり重視することは自然ですし、平家物語の出だしのように、ほぼ全体像を貫くキーワードが出てくることも良くあることでしょう。  そのような見方をし、なおかつ源氏の場合は(1)桐壺と(2)帚木の出だしが 双方始まりのように描かれています。いくらつけたしとはいえ、これぐらいの 整合性をつける力量が紫式部に無かったとは言えないでしょう。  そこで、従来の多作説を踏まえた井沢仮説は帚木などを除外し、(1)桐壺から始まり(33)藤裏葉(ちょうど准太上天皇になったところ)で終わる17帖を 「原源氏物語」とするものです。  この説は小説「GEN}で述べられたもので、井沢先生は正式には主張して おられませんが、この仮説に対する思い入れが非常に強いのだと思います。 したがって、「天下を取る物語」という偏った言い方になり、Awaji様の 感覚と合わなくなってしまうのでしょう。それで、小生は「失格」などという きつい言葉で表現したのでした。  安部様が言いたかったことの一部はこういうことではなかったでしょうか。 ただ、小生の力量ではこの程度しか表現できずに残念ですし、逐一検証しては いませんので、単なる井沢説のレヴューに過ぎません。 このように考えると、両方の作品とも複数の著者の手によるもので、 作品の意図も当初とは全く違ってしまっているということに成ります。 勇者ロト様が「同じ作者が付け足した」というのは、違っているように 思います。 ご批判・ご意見の際の参考になれば幸いです。 Time : 1999/ 9/22(水) 10:29:50
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 大阪JF生さんへの質問 Comments: 大阪JF生さん、みなさんこん@@は。 源氏物語を読んだことない私の考えはピントはずれかもしれませんが素人の質問 としてお読みください。 >源氏のほうは、仏教的な因果応報の相を呈し、まったく逆の立場になって落ちて >いきますし、太平記のほうは怨霊が飛び交う、宋学とはまったく異なった世界が >展開されます。 もちろん、メインテーマと本文との関係は鶏と卵の感がありま >すが、イントロの部分をかなり重視することは自然ですし、平家物語の出だしの >ように、ほぼ全体像を貫くキーワードが出てくることも良くあることでしょう。 > そのような見方をし、なおかつ源氏の場合は(1)桐壺と(2)帚木の出だしが >双方始まりのように描かれています。いくらつけたしとはいえ、これぐらいの >整合性をつける力量が紫式部に無かったとは言えないでしょう。 とのことですが、源氏物語は何年もかかって書き上げられた物語だと聞きます。 そうすると、紫式部の考え方も感性も表現力も書き始めた当初とはずいぶんと 変わってくるという可能性はないのでしょうか? またまた、漫画を例にとって申し訳ないのですが、新人漫画家は連載中にどん どん絵柄が変わり、絵や表現力も変化していきますよね?作風なども年齢とと もに変化していってると思います。長期連載のうち主人公の性格さえ変わって しまうこともしばしばです。紫式部も同じように変化していったとは考えられ ないのでしょうか? 「リングにかけろ!」という漫画に剣崎という脇役がでてきます。彼は連載当 初金持ちで生意気で倣岸不遜に描かれた嫌味なやつでした。しかし連載が進 むにつれ彼の家庭環境など主題とは違うエピソードがはさまれることにより、 孤独で誰にも頼らない強い奴というイメージが附加されました。 このように途中から源氏物語の世界が読者からの反応をうけたり、紫式部自身 の世界観が年齢とともに広がりを見せ、光源氏というキャラクターが一種一人 歩きするようなことが起きたとは考えられないのでしょうか? 作品には作者の感情がもり混まれていくものです。書き始めからの時間の中で 夫に先立たれ清少納言らとの確執もはじまり、中宮をめぐる陰謀に出会ったり すれば紫式部の世界観が書き出しの頃と変わらないとは思えないのです。聡明 であるなら、なおさら周囲の状況が認識でき、考え方を変えていってもおかし くないのではないでしょうか? 長編の作品になればなるほど作者の世界観の変化、読者の反応などにより「メイン テーマ」にずれが起こることもあるのではないでしょうか? 何もイントロに最後までかかわる必要性はないのではないでしょうか? 源氏物語は桐壺と帚木という二つの始まりを持つということですが具体的には どういうものなんでしょうか? すいません。思いつくまま書いてしまいましたが取るに足らない質問であれば 無視していただいて結構です。自分ですごいピント外れな事を質問しているん じゃないかと不安でいっぱいなのです。 Time : 1999/ 9/22(水) 17:33:37
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 大阪JF生さんへの質問 Comments: 大阪JF生さん、みなさんこん@@は。 源氏物語を読んだことない私の考えはピントはずれかもしれませんが素人の質問 としてお読みください。 >源氏のほうは、仏教的な因果応報の相を呈し、まったく逆の立場になって落ちて >いきますし、太平記のほうは怨霊が飛び交う、宋学とはまったく異なった世界が >展開されます。 もちろん、メインテーマと本文との関係は鶏と卵の感がありま >すが、イントロの部分をかなり重視することは自然ですし、平家物語の出だしの >ように、ほぼ全体像を貫くキーワードが出てくることも良くあることでしょう。 > そのような見方をし、なおかつ源氏の場合は(1)桐壺と(2)帚木の出だしが >双方始まりのように描かれています。いくらつけたしとはいえ、これぐらいの >整合性をつける力量が紫式部に無かったとは言えないでしょう。 とのことですが、源氏物語は何年もかかって書き上げられた物語だと聞きます。 そうすると、紫式部の考え方も感性も表現力も書き始めた当初とはずいぶんと 変わってくるという可能性はないのでしょうか? またまた、漫画を例にとって申し訳ないのですが、新人漫画家は連載中にどん どん絵柄が変わり、絵や表現力も変化していきますよね?作風なども年齢とと もに変化していってると思います。長期連載のうち主人公の性格さえ変わって しまうこともしばしばです。紫式部も同じように変化していったとは考えられ ないのでしょうか? 「リングにかけろ!」という漫画に剣崎という脇役がでてきます。彼は連載当 初金持ちで生意気で倣岸不遜に描かれた嫌味なやつでした。しかし連載が進 むにつれ彼の家庭環境など主題とは違うエピソードがはさまれることにより、 孤独で誰にも頼らない強い奴というイメージが附加されました。 このように途中から源氏物語の世界が読者からの反応をうけたり、紫式部自身 の世界観が年齢とともに広がりを見せ、光源氏というキャラクターが一種一人 歩きするようなことが起きたとは考えられないのでしょうか? 作品には作者の感情がもり混まれていくものです。書き始めからの時間の中で 夫に先立たれ清少納言らとの確執もはじまり、中宮をめぐる陰謀に出会ったり すれば紫式部の世界観が書き出しの頃と変わらないとは思えないのです。聡明 であるなら、なおさら周囲の状況が認識でき、考え方を変えていってもおかし くないのではないでしょうか? 長編の作品になればなるほど作者の世界観の変化、読者の反応などにより「メイン テーマ」にずれが起こることもあるのではないでしょうか? 何もイントロに最後までかかわる必要性はないのではないでしょうか? 源氏物語は桐壺と帚木という二つの始まりを持つということですが具体的には どういうものなんでしょうか? すいません。思いつくまま書いてしまいましたが取るに足らない質問であれば 無視していただいて結構です。自分ですごいピント外れな事を質問しているん じゃないかと不安でいっぱいなのです。 Time : 1999/ 9/22(水) 17:34:03
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏物語のメインテーマ」?? Comments: 大阪JF生さん、勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 大阪JF生さん・・・・ 「源氏物語」に関する井沢さんの見方の解説ありがとうございました。 仰る意味は良くわかります。Awajiはここで文学論を展開しようとは思い ませんし、所詮は「感性」の問題だと思うのですが、何が相違しているの かはAwaji自身のなかである程度明確になりました。 つまり・・・ >>「光源氏の相は天の上に立つもの」という意味の予言が最初に有ります >>・・・・後半はテーマからずれています。源氏のほうは、仏教的な因果 >>応報の相を呈し、まったく逆の立場になって落ちていきます の部分を如何に”感じるか”・・・なのでしょうね。 Awajiにとっては、これは次の巧妙な導入部分とその意外な結末と波紋だ と理解しているのです。(つまりはメインテーマは統一されている) @当時の藤原全盛期に、「いとやんごとなききわにあらぬ」生母を持ち、 生まれながらにして臣籍降下を運命付けられている皇子が、天下の上に 立つと予言された意外性で読者を引き付ける。 A主人公のその後の人生を、その人間的魅力と周囲の配慮による栄達、そ して華やかな男女交際で彩る。(勿論、人生の浮沈や悲哀と言うスパイ スを付ける) Bそしてその予言を父天皇の后妃との密通、不義の子の生誕、その子の天 皇即位(かつ正妻の密通と不義の嫡子)と言うある意味では人間にとっ て最も凄惨(ある意味ではさらに予想外)な形でこの予言を実現させる。 C加えて、その凄惨な事態が引き起こした波紋を、様々な人生を通じて展 開する その様な形で「一見華やかな人生(人間)の底知れぬ宿業・・・深淵を描 き出す」・・・何しろ数10年前(ほぼ安部さんの年頃でしょうか?)の 印象で浅薄な見方かも知れませんが、これがAwajiの「感性」によるテーマ ー理解です。 そしてその中心テーマに様々な一見(あくまでも一見です)無関係とも思 われるエピソードが加えられて一連の長編小説となっているものと思って います。(これらが順次付加されたのか、当初から意図されたものかは議 論の余地があるかも知れませんが・・・後者の可能性もあるでしょう。) 「太平記」は、そもそもが通説的に言われているとおり単独作者によるも のでは無く、集大成されたものと理解しています。従ってテーマの統一性 に関しては様々な議論があって当然だと思いますが、どう見ても権力者側 が南朝の怨霊を鎮魂する目的で顕幽分離思想(この概念じたいが、どのよ うに適合するのかも良く分かりません)に基づいて製作されたものとは思 えないのですが・・・ (白状しますと・・・通読していません。) Time : 1999/ 9/22(水) 22:07:37
Name : きんたろう E-mail : Title : 懐かしのギャラクティカマグナム(??) Comments: こんばんは、みなさん。 顕幽分離についてはみなさんの意見に頷きどおしです。 大変参考になっています。(^^) ところで「源氏物語」の主人公である光源氏とは「光り輝く源氏のきみ」という意味 だと思うのですが、それでいいのでしょうか?? 「光源氏」が名字だとか、もしくはアメリカ人のように光が名前で、源氏が名字 なんて事は無いですよね。 どうなのでしょう??(自分としてもこの質問は恥ずかしい) 「関ヶ原の戦い」がなかった場合については、Toshyさんが考察されている事が もっとも可能性が高いような気もするのですが、あえて他の可能性も考えてみました。(^^) 前にも書きましたが、「個別撃破」では自国領から遠く離れた勢力に対してはほと んど効果が無いと思います。 要するに全国にその勢力が及ばないからこそ、地域勢力であるわけです。 また、家康の「個別撃破」では顕在化していたアンチ勢力はある程度潰す事ができた と思いますが、潜在的な反徳川勢力を潰すのはどう考えても無理だったと思います。 関ヶ原の戦いの勝利によって約80の領主が改易されました。領地の没収減封は800万石以上に及んだのです。 こうして大量の領地が発生したからこそ家康は親藩、譜代の大名達を火事場泥棒的 に創出する事が出来ました。 この与力大名達の影響を無視しては家康の力の増大を説明することは出来ないのではないかと思うのです。 Time : 1999/ 9/23(木) 22:50:44
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原の戦後処理 Comments: きんたろうさん、Sinさん、こんにちは。 関ヶ原の戦いで、忘れられていることは「戦後処理」です。 きんたろうさんのいわれたとおり、没収した領地は800万石にも及ぶものでした。 これのほとんどを、家康は豊臣系大名に与えた(与えるしかなかった)のでした。 それも自分との主従関係を示すものではなく、「豊臣の大老」としてやったことでした。 この戦後処理によって、豊臣系大名の領土は、実に日本の3分の1にもなっています。 徳川の狙いは、征夷大将軍を目指すことによって、 これらの大名たちを自分の傘下にとりこもうとしたのでした。 まとまりがないカキコですが、この辺で Time : 1999/ 9/23(木) 23:40:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様、昼から荒れそうですね・・。 Comments:  お返事ありがとうございました。 確かにおっしゃることも一理有りますし、 小生も漫画好きですので、例示も良く分かります。 ただ、週刊連載などの締め切りに終われているプロの作家と違って、 時間的余裕は比較にならないほど、構想を練る余裕はあると思います。 マンガ家「あだち充」なども、よく整合性のミスを犯しますが、 (おそらく投書による指摘とおもわれますが)作中でしばしば謝っています。 (しかも締め切りに対する恐怖感は、常に現れています。) また逆に、伏線を張りすぎて整合性を保ちつつ話を続行できなくなり、 やむなく中断(といってよい終わり方だと思いますが、)するというような 「井上雄彦・スラムダンク」という例もあります。 まったくそんなことにお構いなしに書ける人もいると思いますが、 井沢先生も指摘されているように、源氏の登場人物は5000人レベルだといいます。 もし整合性を気にしないようなたちなら、たちまち話はぐちゃぐちゃに なってしまうのではないでしょうか?  すくなくともセンスあふれる作家(小生は紫式部は天才だと思っています) ならば、さまざまな意味で整合的であることは死守するはずで、 もし同一作家なら、テーマからずれてしまうようならば、「続・・・」 「・・・外伝」「・・・Part2」という形で、別立てにするのが 良くある話ではないでしょうか?  そうしないというのは、別の作家が「虎の威を借る狐」的に作品を 膨らませたのだという観方は、小生には説得力があるのですが・・。 また、もともと、一人で書くつもりも無かったのかもしれません。 悪気無しにというか、当初の予定通りというか、そういった可能性も 有ると思っています。あるいは、アンソロジーでは有りませんが、 紫式部が外伝的に書いた部分まで、後の人が無理やり遺構をかき集め 一つの源氏物語に編集したというなら、多作者論では無くなります。 ひとつのエピソードも逃したくないほど人気絶頂の作家ならば、 そういったこともありえると思っています。  したがって、小生は何が何でも多作者論というわけではなく、 ある疑問点を明快に解決する一つの仮説であると思っているだけです。 また、ご意見を伺えればありがたく存じます。  なお、参考までに、井沢先生の選定した「原源氏物語」17帖を書き忘れ ましたので、以下に記しておきます:  桐壺・若紫・紅葉賀・花宴・葵・賢木・花散里・須磨・明石・澪標・  絵合・松風・薄雲・朝顔・少女・梅枝・藤裏葉 です。ご参考まで。 Time : 1999/ 9/24(金) 09:46:24
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、多少でもお役に立てて幸いです Comments:  詳細なご意見ありがとうございました。 何をメインテーマとするかは、当然読み手の解釈に ゆだねられる部分も大きいと思いますし、小生も 井沢先生の説を聞くまでは、平家物語のように、 「盛者必衰」にちかい物語だと思っていました。 そういう点からも、Awaji様のご意見は大多数の方が、 賛同なさると思います。  ただ、可能性として井沢説もありうる程度に受け止めて いただければと思いますし、小生も基本的にはそのスタンスです。 井沢先生も多少強引な点もあると思いますし、自説に対する 思い入れが強くなるのはある程度やむをえないとファンとしては 思いますが、冷静に学術的に吟味されている方にとっては、 確かに鼻につくのかもしれません。  そういった意味でも、このHPでの議論を井沢先生がご覧になって、 一歩引いて冷静に自説を観なおすならば、仮説の展開の仕方も おのずとかわってくるだろうと思います。 逆説の日本史は通史に対する試みであると同時に問題提起でもあり、 玉石混交かもしれませんが、ファンとしては「原石に磨きをかけてほしい」 のも一つの願いで,小生が大いにご批判を歓迎し議論に参加しているゆえんです。 これからもよろしくお願いいたします。 Time : 1999/ 9/24(金) 10:06:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 通い婚 Comments: みなさん、こん@@は。大阪JF生さん返信ありがとうございました。 当時は通い婚ですよね?ということは彰子の実家(生まれ育った家)は藤原家では なく、源家ではないでしょうか?彰子は藤原氏より源氏の方に親近感を持っていた 可能性もあると思います。 とすると、源氏物語は藤原氏が源氏の霊を鎮魂する意味より、源氏の子孫でもある 中宮彰子が母の実家を持ち上げようとして紫式部に書かせたという側面はないので しょうか? 鎮魂は怨霊に対してではなく先祖(源氏)にむけてのものかもしれません。 Time : 1999/ 9/24(金) 10:56:32
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 物語の整合性 Comments: 大阪JF生さん、何度もすいません。 >すくなくともセンスあふれる作家(小生は紫式部は天才だと思っています) >ならば、さまざまな意味で整合的であることは死守するはず 長編物語というのは、源氏物語が最初ですから、物語に整合性をもたせなくては いけないという意識を紫式部が最初から確実に持っていたかどうかという疑問も あります。 逆にむしろ天才紫式部だからこそ、二系統に読めないこともないくらいの程度に 物語に整合性をもたすことができたのかもしれません。 井沢説を否定するつもりではなく、可能性の一つとしての考えなのですが。 本編を読んでない気軽さからの提案です。あいかわらず的外れかもしれません。 こちらは、台風の風が激しくなってきました。 Time : 1999/ 9/24(金) 13:38:11
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「源氏氏族・・・重ねて井沢さんにお願いします」?? Comments: 勇者ロトさん、大阪JF生さん、今日は。Awajiです。 今日は名古屋駅で竜巻のため3時間待ち・・・うんざりでした。 台湾のみなさん・・・苦難に打ち勝って李総統とともに堂々と立ち上がっ て下さい。(それにしても「阪神淡路」の「政災」は酷かった・・・) 勇者ロトさん・・・・ >>源氏の子孫でもある中宮彰子が母の実家を持ち上げようとして紫式部に >>書かせたという側面はないのでしょうか?鎮魂は怨霊に対してではなく >>先祖(源氏)にむけてのものかもしれません。 今更ロトさんの様な方に申し上げるまでもありませんが、「藤氏」と対比 しての「源氏」という氏族は存在しませんね。「桓武平氏」と「清和源氏」 が別氏であるように「宇多源氏」と「醍醐源氏」は厳密には別氏です。 以下主要な「賜姓源氏」を列記してみます。 嵯峨源氏・・・嵯峨ーー源信(正二位左大臣)・源常(正二位左大臣) 源融(従一位左大臣) 仁明源氏・・・仁明ーー源多(正二位右大臣)・源光(正二位右大臣) 文徳源氏・・・文徳ーー源能有(正三位右大臣) 清和源氏・・・清和ーー貞純親王ーー源経基(・・・陽成説もある) 宇多源氏・・・敦実親王ーー源雅信(従一位左大臣) 醍醐源氏・・・源高明(正二位左大臣) 村上源氏・・・具平親王ーー源師房(従一位右大臣) つまり、中宮彰子にとって先祖は祖父源雅信しか存在せず、他の源氏は他 氏に外ならないと思われるのです。(この辺の系譜は安部さんが既に紹介 しておられます。) さて、それでは「源氏物語」は源雅信の鎮魂を意味するでしょうか? これが源高明であればは安和の変で大宰権師に左遷されていますし、帰京 した後も隠遁生活を余儀なくされています。明らかに藤原氏の犠牲者です。 しかし源雅信には然程怨念があろうとも思えませんし、「源氏物語」を「 天下取り物語」とか「単純な成功譚」と解釈するのならば、ある種の鎮魂 となるのかも知れませんが、それにしては凄惨すぎる「鎮魂」だと言う気 がします。 とても実家を持ち上げる様なものとは思えないのですが・・・ (勿論、ロトさんが「単純な成功譚」と解釈されるならば別ですが・・・) なお光源氏のモデルに擬されているのは、源信?・源融・源高明(名前と しては・・源光も??)・藤原道長等ですが、何れも部分的イメージモデ ルに過ぎず、やはり紫式部の創造人物像と考えるのが最も妥当でしょう。 大阪JF生さん・・・ >>逆説の日本史は通史に対する試みであると同時に問題提起でもあり、玉 >>石混交かもしれませんが、ファンとしては「原石に磨きをかけてほしい」 >>のも一つの願いで,小生が大いにご批判を歓迎し議論に参加しているゆ >>えんです。 お気持ちは良く分かります。Awajiも別の意味も含めて井沢さんには慎重に 「原石に磨きをかけて」頂きたいと思っているのです。 それは「問題提起」は多いに結構なのですが、自説に固執され唯我独尊的 主張が余りにも多すぎると言うことです。 Awajiは平均的庶民を自認していますが、それでも「亀の甲・・・」で、あ る程度の基本的歴史・文学知識は蓄積しているつもりですし、マガリナリ にも論理構成の問題点も判断出来ます。 しかし井沢さんの読者には基本的知識も不充分で、論理構成も未熟な中高 生も沢山居る筈です。その人達が井沢さんの「問題提起」を「歴史的事実」 と誤認し、さらには井沢さんの学説・学者批判を鵜呑みにしてしまう危険 性が全く無いと言いきれるでしょうか? KANAKさんはこの点を厳しく指弾され、反省訂正を求められたのですが、今 回の「ヒストリー」における論調を見る限り、「源氏物語」のみならず、 「官位」「正閏論」に到るまで反省どころか寧ろエスカレートしている感さ えあります。 (Awajiの判断が見当はずれであれば、皆さんのご指摘をお願いします) 是非とも井沢さんには論調・論説を再考され、「問題提起」は「問題提起」 として慎重に提唱されんことを切にお願いしたいと存じます。 特に若者達にいわれなき学説・学者不信を招くが如き論説は厳に慎んで頂き たい・・・Awajiの切なるお願いです。 Time : 1999/ 9/25(土) 01:15:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさん、賜姓源氏についてのご教示ありがとうございました Comments: みなさん、こん@@は。 源氏と一口に言っても藤原氏のような氏族とは違うのですね。 そもそもこの時代は「家」「氏」といった意識は低いような気がします。 藤原氏による他氏排斥により非藤原氏勢力が減退したことも理由だと思います。 律令時代の氏、武家政権下の家とは違い個人という感覚が強かったのではないか とも思います。宮中の女性たちは個人という感覚を持っていたからこそ日記、物語 などを独特の感性で書き上げることができたのではないでしょうか? そういう意識の中で書かれた源氏物語は氏族に対する鎮魂という色はむしろ薄いの だと思います。 Time : 1999/ 9/25(土) 11:04:40
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「平安期の著名怨霊」?? Comments: 勇者ロトさん、今日はAwajiです。 >>そもそもこの時代は「家」「氏」といった意識は低いような気がします。 >>藤原氏による他氏排斥により非藤原氏勢力が減退したことも理由だと思 >>います。 蛇足ですが・・・平安時代にもっとも恐れられた怨霊について以下 文献上、明らかに個人の怨霊を意識した国家的行事は、淳和天皇(786〜 840)天長7年(830)に行われた物の怪退散読経会とされています。 (勿論、それ以前にも桓武が怨霊を意識していたのは充分想像出来ますが) さらに、清和天皇(850〜880)貞観5年(863)初めて朝廷主催の御霊会が 催されます。この時の御霊は『三代目録』によれば、崇道天皇(早良親王) 、伊予親王、藤原夫人(吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢、文屋宮田 麻呂とされています。その他に吉備真備、藤原広嗣等が意識されていた様 です。(つまりは八人中三人までは藤原氏なのです。) その他に怨霊の崇りの表現として火雷が意識され、雷公が元慶年間に祭祀 されます。それが延喜3年の菅原道真憤死により藤原時平(909)、源光 (913)の急死等が怨霊雷神に結びつけられ、怨霊信仰が全盛期をむかえま す。(ここでも藤原氏と源氏双方に祟っていますね) さらに有力な怨霊は、大納言藤原元方(888〜953)と祐姫、左大臣藤原顕 光(944〜1021)と延子です。 元方は立太子争いに敗れた右大臣師輔と安子の子孫(皇孫)に祟り続けま すし、顕光は道長に敗れ一族に祟ります。 師輔は逆に実頼に崇り、藤原朝成は師輔の長男伊尹に祟り・・・・要する に藤原氏内部の権力争いによる怨霊が殆どです。 つまりは勇者ロトさんのご指摘のとおり、「氏族」レベルと言うより藤原 氏内の近親者レベルの個人的怨恨が意識されていた様な気がします。 (Awajiの感触では、源氏諸君は皇族のゆえか権力に対する執着が薄く、 あまり怨念を残さなかった様ですね。源高明等は怨恨を抱いても当然と言 う気もするのですが、娘明子が道長の正室として厚遇され、息子や孫達も 然るべき栄達を遂げていますので、怨霊に成りようが無かったかも・・) Time : 1999/ 9/25(土) 15:31:47
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「養子・猶子」?? Comments: 安部さん、今日は。Awajiです。 チョット時間が余りましたので、・・・御堂流と村上源氏について以下。 >>これを憂えた道長は、源師房を頼道の養子にします。頼道の弟教通の長 >>男である信家も養子にされました。道長がその決断を下したのは治安3年 >>(1023)、源明子の女児、隆子を師房に嫁がせた時と考えられます。 ご承知のとおり、具平親王の子である資定王(1008〜1077 母は為平親王 女)は二歳にして父と死別し、姉隆姫女王が頼通の正室となった縁で、頼 通の養育を受け、十三歳で元服と同時(1020年)に源氏賜姓を受けたとさ れています。 しかし、その後治安3年に彼が「藤原氏」を名乗った事実は確認できません ので、あくまでも氏姓は「村上源氏」でしょう。従って「養子」ではなく 「猶子」と考えるべきでしょう。 因みに彼が万寿元年(1024)に従三位に叙された時も「関白猶子右近中将 源師房叙従三位」と記されているようです。 「養子」と「猶子」は混同されることもあり、彼自身についても記述が混 用されていますが、実態としては明確に「別氏族の猶子」でしょうね。 (この区別はここでは詳述いたしません。) 従って・・・ >>源師房は御堂流の後継者の次席にされます。・・・・ >>師房が次席であった証拠に、・・・御堂流から除かれています。これは師 >>房に遠慮してのことです。  と言う如き記述には無理があると思いますが、これは安部さんのご意見です か?それとも「藤原頼通の時代―摂関政治から院政へ」(平凡社、坂本賞三) の元記述によるものですか?? もし後者であるとすれば、チョット問題が大きいのですが・・・ Time : 1999/ 9/25(土) 19:34:00
Name : Sin E-mail : Title : 遅くなりましたが・・・ Comments: こんばんは Toshyさん、きんたろうさん、slashdogさん それに関ヶ原ファンの皆様。 久しぶりのSinです。 確かにイフの話は裏付けの問題が出てきますが、 そこは割り切ってやってみようと思っています。 >まず、反徳川勢力を温存できたか。これは間違いなくNO!。 確かに、明確に反家康を打ち出している武将は家康によって 豊臣の名の下で処分されていく可能性は大きいと思います。 しかし、最初の討伐の対象は上杉ではありませんでした 最初は前田だったのですが、前田は人質を家康に対して 差し出すことで討伐を免れたのです(この事は有名ですが)。 仮に上杉が前田と同じような対応を家康に対してとった場合、 家康はそれでも上杉討伐を強行できたでしょうか? Sinは強行できなかったと思います。 以上のような理由から >謝罪すれば謀反を認めたことになりおそらく改易 と言うのは疑問に思ってます。 またこの後、前田は人質を送った後家康に対して忠実だった でしょうか?これは間違いなく違うと言えると思います。 関ヶ原の時に前田がとった行動は、当主である兄が徳川に、 弟は石田に協力する(姿勢を見せる)と言う状態になりました。 この状態を家康に対して完全に屈服したとは言わないでしょう。 ですから、完全に反家康の大名が姿を消したとは思えません。 もっと書きたいこともあるのですが、もう眠くなりましたので 後は後日に・・・(できれば明日にでも) Time : 1999/ 9/27(月) 02:42:18
Name : 輔住 E-mail : Title : 多分、上杉攻めは強行あるいは他の難癖をつける Comments: Sinさんこんにちは。 >仮に上杉が前田と同じような対応を家康に対してとった場合、 >家康はそれでも上杉討伐を強行できたでしょうか? 私はそれでもやったと思います。 上杉が120万石では今後困るからです。 時代は家康よりはるかに昔ですが 頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしました。 義経を殺したにもかかわらず。 それは滅ぼさない限り自分のホームグランド(関東)は 「安定」しないからです。それと似たような 印象をもつのですが。 Time : 1999/ 9/27(月) 12:43:33
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 直江状 Comments: みなさ〜んおひさしぶりぶりで〜す。 直江兼続が書いたといわれる「ないふなんとかのじょうじょう」という手紙は 偽書だときいたのですがほんとですか? どなたか、「直江状」について詳しい方いらっしゃいましたら教えていただけませんか? Time : 1999/ 9/27(月) 13:22:08
Name : きんたろう E-mail : Title : いきなり波動砲発射ですね、輔住さん!! Comments: こんにちは、久しぶりですね。 エネルギー充てん率120パーセントですね!! 輔住さんが言われたように上杉が会津にいることは徳川にとって都合がいいもの ではなかったと思います。 以前に書きましたが、何故、家康が上杉を対象としたのかという最も大きな理由は その領地が会津だからだと思っています。 しかし、もし上杉が戦いを避ける方向で画策するとしたら、いろいろと抜け道を お互いに見つけることが出来たと思うのです。 上杉家は関東管領の家柄ですから、関東の潜在的支配権は自分のところにあると 考えていたと思われますが、この時点の上杉家とは長尾家のことであり、徳川が 越後戻っていいと提案すればそれを承諾した可能性が高いのではないかと思われる のです。 徳川にとっては、すぐ近く(会津)に100万石以上の大勢力があるから物騒に思う わけですが これが遠方(越後)であればその脅威はかなり小さくなるからです。 Time : 1999/ 9/27(月) 19:31:36
Name : Toshy E-mail : Title : Sinさん、ちょっと違う Comments: >関ヶ原の時に前田がとった行動は、当主である兄が徳川に、 >弟は石田に協力する(姿勢を見せる)と言う状態になりました 史実は正しいのですが、両軍勢力については勘違いではないでしょうか。 前田氏はもともと反徳川の総大将であり、 それがふたつに分かれたところで、徳川の不利にはならないはずですが。 もともと、両陣営の勢力はこうです。       反徳川   中立   徳川派 秀吉死後  前田         徳川       上杉       宇喜田       毛利 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 関ヶ原   上杉    前田   徳川       毛利       宇喜田 もし上杉が改易を免れたとしても、 反徳川でいるとは思えずおそらく中立になるでしょう。 前田も上杉も、大坂の陣では徳川についたのをご存知だと思いますが。 Time : 1999/ 9/27(月) 22:59:33
Name : XXXX E-mail : Title : 歴史に「もし」は大事だが Comments: 歴史を研究する上で「もし」は必要だが、 「もし○○だったらら××だっただろう」は、 「○○ではなかったため、××ではなかった」の裏返しである事に 留意していただきたいものである。 問題提起: 「もし三成が挙兵しなければ反徳川勢力は温存され豊臣は存続した」?  これの裏は、三成が挙兵したために豊臣は滅んだ、である。  つまり豊臣を背負っていたのは三成であるという理論のもとに成っている。  秀吉や秀頼ではなく、だ。  もとはといえば、秀吉が家康をつぶしておくか、  秀頼が、自分がつぶされる前に手を打つべきであった。  根本を差し置いて関ヶ原のみに言及するのはどうかと思うが、如何? また、結果からの逆算であれば、しない方がよい。 リアルタイムでの判断を問うべきである。 問題提起: 「もし挙兵していなければ、反徳川勢力を温存できた」?  反徳川勢力を温存する理由は?  来るべき大坂の陣を想定してのことだろうか。  すると、関ヶ原よりも十五年も後のことを予言せねば成らぬ。  我々は歴史を知るから何とでもいえるが、  当時それが可能だとは思えぬが、如何?  三成はもちろん、当事者の家康ですら、  大坂の陣の事は考えてもいなかったであろう。 Time : 1999/ 9/27(月) 23:56:10
Name : Toshy E-mail : Title : 直江状 Comments: が偽書かどうかは定かではないのですが、 明らかに偽書だと断定されているのは三成から兼続に宛てた書簡の事でしょう。 これは後で書きます。 石田=上杉の共謀説は、最近否定されています。 上杉は越後から移転してきたばかり、石高増とはいえ、 領内にはさまざまの問題が山積みでした。 また越後から持参してきた資金は7000両に足らず、 慶長4年の飢饉で兵糧すらほとんどない時期です。 このような不利な条件のもと、徳川相手に戦うとは考えられないというわけです。 しかし実際には挑発に対して応じました。 これはいずれにしてもつぶされる運命にあると知っていたからでしょう。 (きんたろうさん指摘のように、徳川の隣国であることが、そのひとつです) Time : 1999/ 9/28(火) 11:40:05
Name : yokopar E-mail : Title : 漁村 Comments: 炎天下、とある漁港で漁師さんたちを見ていて、ふと疑問がおこりました。 日本の歴史上、大飢饉というものが何度かおこっていますが、漁村において は影響はあまりなかったんではないでしょうか? 日照りや寒さは農作物には 悪影響を及ぼしますが、海産物が採れなくなることはないでしょう。まあ、 日照りで水不足というのは避けられないでしょうが、少なくとも食べるもの にはあまり困らなかったんではないかと思うんです。 また、想像をたくましくすれば、飢饉の時に農村部の民衆が、食料を求めて 漁村に押し寄せてきて争ったということもあるのでは? 皆さんはどう思われますか? Time : 1999/ 9/28(火) 20:12:21
Name : 大一大万大吉 E-mail : Title : 二題 Comments: 三成挙兵は失策にあらず。 失策と云ふものに反問す。 何故豊臣の恩顧ながら利敵行為を働きたる福島、加藤が輩の罪は問わずや。 一人石田三成の罪を追及すは、これ徳川に媚びるもの也。 すなはち豊臣を滅ぼしたるは家康にあらず、三成であると。 直江状は偽書にあらず。 これ『関ヶ原軍記大成』に収められたるもの也。 後世の人作りしと言うものあれど、 豊臣家老中奉行連署状にも同様の事記されたること思へば、 兼続のものと信ずるに足る。 尤も「万端御下向次第可仕候」の一文は、 偽作挿入のおそれなきにしもあらず。 Time : 1999/ 9/28(火) 23:40:07
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : そこよ、そこ! Comments: 大一大万大吉さん、おはつ〜! >尤も「万端御下向次第可仕候」の一文は、 >偽作挿入のおそれなきにしもあらず なきにしもあらずじゃ こまっちゃうわ〜デートに誘われて♪ この部分が挑発になるかならないかの分け目じゃないのかな? 家ちゃんの罪をかきつくっただけじゃ、告発状なだけでしょ? 秀吉にかわいがられた兼ちゃんと五大老の一人景勝としては、当然といっちゃ当然の 告発だと思うし〜。 でもどっちにしても景勝から家康への直接の手紙じゃないとこが「ミソ」ね! 「はっちょう」じゃないわよ。念のため。 Time : 1999/ 9/29(水) 00:12:17
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : カトちゃんとフクちゃん Comments: >何故豊臣の恩顧ながら利敵行為を働きたる福島、加藤が輩の罪は問わずや 利敵行為?どうして?? 秀頼の参陣してない西軍に敵対しただけでは「利敵」になるかどうか はわからないよね。罪は言い過ぎかも? 別に挙兵したのが豊臣政権を残すためには失敗だったかもしれないといってるだけ で三成が失策したとは言ってないわよね? 三成がこの時期に挙兵した理由は、秀吉恩顧の賞味期限がきれそうなことが大きなものだけど 三成自身の賞味期限もあったのでは? 何しろ一応政界からは引退しているわけだし。 家康が死ぬのをまっていたら、自分の政治生命も共倒れになるという計算も なかったとはいえないし。 「罪を問う」のがSinちゃんの目的じゃないから安心してね! 三成ファンのみなさん。 まあ、結果論とかいわれたらそうかもしんないけど。 加藤や福島が家康についたのも三成が表に出すぎたからだというのも理由の ひとつだと思うし。 そのへん、三成の影さえもう少し薄ければカトちゃんたちも立場がかわってたかも? 三成の影がうすければ、西軍はあんなに大軍集められなかったかもしんないし。 難しいね!仮定の話って。でもいろいろ意見があるからこういう場所もおもしろいわね。 みなさんがんばってね! 私は少しおやすみしま〜す。 Time : 1999/ 9/29(水) 00:34:58
Name : Toshy E-mail : Title : 直江状と「ないふちかいのじょうじょう」 Comments: なふいちかいのじょうじょうは、かねつぐのものではないです。 三成はじめとする西軍勢力が、 「家康は三成・長政ら奉行を政界から追い出した」 「家康は太閤への誓いを破って勝手な振る舞い(婚姻など)をしている」 「家康は無実の上杉を討伐しようとしている」 などを弾劾したものです。 直江状の方は、かねつぐが「上杉には異心なし」ということを伝えるものでした。 以上。 Time : 1999/ 9/29(水) 01:35:49
Name : 大一大万大吉 E-mail : Title : 明らかなる利敵行為 Comments: 反論す。 利敵になる事わかるあたわずたるは、これ福島、加藤が輩の罪なり。 家康の、豊臣が天下を奪わんとすは明らかにして、 其れを気づかずは両名の無能を示すものなり。 又三成を嫌ひて家康に荷担せしは、福島、加藤が輩の、小義と大義を混同せしものなり。 すなはちただ三成を嫌ふがために豊臣の恩顧を忘れたるものなり。 小義のために大義を捨つる、これ人の道にあるまじき行為なり。 三成ひたすら豊臣への恩顧を忘れず、死力を尽くしたるものなり。 関ヶ原にて敗れたること、結論より問はば豊臣の天下を失わせしものなれど、 勝敗は大将の常、敗れたるは罪といふあたはず。 反問す。結論より問へば、 福島、加藤が輩の徳川に荷担せしは、明らかに利敵行為にあらずや。 Time : 1999/ 9/29(水) 02:43:00
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : そうね〜 Comments: 大ちゃ〜んねぇ、挨拶ぐらいしたら?そういうのってあたしすっごく気になるの。 >家康の、豊臣が天下を奪わんとすは明らかにして この時点で「明らか」だったわけ? 大義と小義っていうけどさ、こんな朱子学用語はこの当時どれだけ浸透してたのかしら? 人の道は、はっきり言って踏み外してないわよ。 すくなくともカトちゃんフクチャンはね。 だってこの後、秀頼のために一目を憚らず大泣きできた大名はこの二人だけなんだから。 まぁ分のした犯した失敗に対する後悔もあったんだとおもうけどさ。 勝敗は大将の常?そうなの?まあーどー思おうといいけどさ はっきり言って、この時点では利敵は「おおげさ」ねこういうのを結果論ていうの。 政治家としては、確かに無能とまでいわないけど、三成よりはレベル低いわね。 でも、将軍としては常勝だったんだし Time : 1999/ 9/29(水) 08:00:03
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 天下取りのための戦争 Comments: 関が原合戦の時点で、家康自体も「これに勝てば天下はわしのもの」という感触は またまだ薄かっただろうなぁと思ってるの。 まして、戦バカ(言い意味でよ!)のカトちゃん、フクちゃんが東軍につく=豊臣 政権に対する利敵とは思いもよらなかったと思うの。 関が原合戦は始まった時点では「豊臣政権内部」の権力闘争だから、どっちに ついたってこれを理由に利敵というのは結果(徳川幕府誕生)を知っている後世 から見てのことで、これをいうなら「三成の挙兵は失敗だった。だから三成の挙兵 は間違い」とほぼ同列の意見でしかないですよね。 ただ大ちゃんの言う通り、二人は政治家としては無能といわれたってしょーがない とは私もおもう。でも加藤も福島も敵地として統治は難しかった肥後、安芸の両国 を大過なく治めたんだし。庶民からみたらいい殿様だったのかもしれない。 だから一概に無能とはよべないわね。私からすれば。 中央政治のサロン活動がへたで、単純な性格っぽいから無能というより幼稚と いったほうがいいうかもしれない。 関が原の時点で東軍についた諸将の中で、東軍につくのが将来的に「利敵」に 繋がると予測してたのは、黒田と藤堂くらいではないかしら? それと、大ちゃん。私って古文よくわからないの。あなたの文章読み違えてたら ごめんね!! Time : 1999/ 9/29(水) 09:01:28
Name : 大一大万大吉 E-mail : Title : 結果論 Comments: こんにちわ。文語で書くのが面倒になってきた。 結果論云々は、Sin氏の方でない? 石田三成の挙兵が結果的に豊臣に不利になったというなら、 福島や加藤が東軍荷担だってそうだよ。 どっちが豊臣にとって利敵になったか、一目瞭然だと思うがね。 大義小義の話は、結果論を論じる方に対する、結果論の話だ。 泣いた泣かないなんて、何にもならない。 結果的に豊臣を滅ぼす行為しておいて秀頼のことを心配しても、 おためごかしとしか思えん。 Time : 1999/ 9/29(水) 10:53:53
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : おためごかし? Comments: 大ちゃん、ありがとね。ききいれてくれて>あいさつ だから、私のいいたいのは結果論はどっちもどっちということ、わかる? 結果論に結果論でかえしてもすれ違うだけってこと。 結果的にそうなった(豊臣が滅んだ)のはどっちもどっち。 おためごかしでもいいうじゃない。豊臣を愛していたのにはかわりないとおもいますよ。 罪はお互いないわけです。カトちゃんたちにも、三成にも。 Time : 1999/ 9/29(水) 11:42:25
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : もうひとつ追加 Comments: 大ちゃんこんにちは。 さらに、いわせてもらえばSinちゃんのアプローチは「石田が関が原をしたのは 失敗ではないか」ではなく、「関が原以外の方法で豊臣を存続させる手はなかったのか?」ということだから。 それに、三成が大義をもった優秀な人間だったということは、Toshyさんが証明 してくれたと思うしそれ以外の視点で「関が原」を見てみようということだから。 それにSinちゃんは加藤や福島については触れてないですよね? カトちゃんたちを正当化するつもりもないみたいだから安心してね。 ただ私は個人的にはカトちゃん達の方がむ魅力あるから私の筆がすべっただけ です。三成らの能力や正当性を疑う意味の投稿ではないと思います。>Sinちゃんの投稿。 大ちゃんのいいたいことはわかるわよ、でもそれだと以前と同じの話にしかなら ないんじゃないかな? Sinちゃんが大ちゃんの質問に答えると前にすすめなくなってくるから、 これがSinちゃんの結論だというのがでてから質問してやってくれない? お願いします。 それに、Toshyさんが前に関が原やつたときにSinちゃん反論しなかった のだから、大ちゃんの質問に答えるとしてもToshyさんと同じになるのでは と思います。 私はこの掲示板を見るのが楽しみの一つなので同じ内容じゃない話をもっと聞きた いと思ってます。 駄目かな?>大ちゃん Time : 1999/ 9/29(水) 12:44:33
Name : 大一大万大吉 E-mail : Title : 俺には吊るし上げに見えたよ Comments: 関ヶ原で敗戦したため豊臣が滅んだとか、 三成に人望がないから福島や加藤に嫌われたとか、そーゆー話、嫌いなのね。 前にも、三成が福島正則ら恩顧大名を懐柔できなかったのは落ち度だって論じた人がいたけど、 だったら福島正則がなんの思慮もなく徳川についた責任はどうするっての。 福島が責任能力のない幼児だというなら、話は別だよ。 秀吉が家康をほっといたツケがああなった。 その秀吉の無責任を糾弾するでもなし、加藤や福島の無分別を石田に押し付けるし。 俺じゃなくても三成に同情するよ、全く。 あいさつ忘れてた。こんばんわ。そしてさようなら。 Time : 1999/ 9/29(水) 21:44:41
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 直江状 Comments: こんばんは〜。 Toshyさん、大一大吉大万さん、情報ありがとうございました。 お礼を言うのわすれてました。すいません。 Time : 1999/ 9/29(水) 21:47:15
Name : 名探偵!金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 大一大吉大万さんへ Comments: さようなら。 Time : 1999/ 9/29(水) 21:49:50
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「官職と権能」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 「関ヶ原」大盛況ですね。 一方「顕幽分離」は余り興味を持って頂けないようですが、チョットお邪 魔します。 前回 9/15(水) 「武家官位」で官職と権能(実権)の乖離が・・・ 1.令外の官の発生、2.遙任の一般化、3.院政(治天の君)、 4.摂関政治、5.武家政権(鎌倉)、6.武家の官位・官職渇望 等の諸点から考察出来るのでは無いか・・・と申し上げたのですが、 あるいは官職と権能(実権)乖離の嚆矢は「大宰帥・卿」かも知れません。 本来は大宰帥は外交・防衛の最前線を担当する従三位中納言相当の最重用 高等官ですが、早くから親王クラスの名誉職と化し、殆ど赴任されなくな った様です。 そこで大宰権帥が実権を持つのですが、それさえも配流者の便宜的官職と して使用されることがありました。つまり官職権能を剥奪したうえでワザ ワザ官職に補任するのですから乖離するのも当然でしょう。 また各省の長である「卿」も正四位参議相当の高等官ですが、これも親王 クラスの名誉職と見なされ「卿」といえば「実権の伴わない閑職」を意味 する様になっていきます。結局は形式的律令官僚制を殆どそのまま導入し たものの実態と合わず、カナリはやい段階で官職と職能(実権)が乖離し ていったのではないでしょうか? ・・・ところで「武家の官位」と「顕幽分離思想」の関係について解説を お願いしたのですが、いまだにコメントがありません。 やはり皆さんも単なる井沢さんの誤解だとお考えなのでしょうか? 安部さん・・・学業がお忙しいのであれば、お暇な時で結構ですが、 「養子と猶子」について・・・原文にあるのか、安部さんご自身の 意見か・・・だけでもRESして頂けないでしょうか? Time : 1999/ 9/29(水) 23:24:34
Name : 大一大万大吉 E-mail : Title : いい忘れです。 Comments: 大一大吉大万って、だれや(笑) それはいいんだが、Sin氏へ。 貴殿を吊し上げる気は俺にはないので、今までの書き込みが気に障ったら許しくだされい。 俺はほとんどの歴史学者や愛好家が、 徳川時代に捏造された定説に浸っているのを見て、少々腹が立っていたものです。 Sin氏は聞く耳を持つ人とお見受けしたゆえ荒っぽいことを書いてしまった。 彼らの「結果論」というよりも「欠席裁判」いや「死者に鞭を打つ態度」は、 三成に対して失礼というものだと思うのですよ。 でわ。 金田一様 あの程度の情報でしたらいつでもどうじょ Time : 1999/ 9/30(木) 01:12:35
Name : Sin E-mail : Title : 個人的事情で申し訳ないのですが Comments: こんばんは、皆様。 この時期、本業の方が忙しくて関ヶ原について考える時間があまり とれないのですが、Sinの問題提起についていろいろな方から いろいろな意見が来ていますので簡単にレスを・・・ 福島、加藤を正当化するつもりはまったくないですが、彼らが豊臣家 に対して利敵行為を積極的にしたというつもりもありません。 「三成の失策」ですが、家康に対抗したことそのものは失策だったとは 思ってませんが、三成の能力を持ってすれば、徳川を滅ぼすのではなく、 封じ込める方向に持っていくことができたのではと思いますので関ヶ原 を起こしたことは三成の失策だったのではと思うのです。 勝敗は兵家の常、三成が敗れたことを失策と言うつもりはまったく ありませんが。 秀吉が生前に家康を滅ぼしておかなかったのが失敗だったのではと言う 意見もありましたが、秀吉は家康を滅ばさなかったのではなく、滅ぼす 事ができなかったのではと思ってます。 何故そう思うかの詳しい話は今回はしませんが、ご容赦下さい <(_ _)> 後日必ず・・・ Time : 1999/ 9/30(木) 02:48:10