Name    : Awaji
E-mail  : 
Title   : 救世観音と「王朝交替に関する疑問」??
Comments: 
やまさん、今日は。Awajiです。

追加説明に付いては、概ね承知しているつもりです。
その上でなお、良く分からないのですが・・・・

1.継体が大和に入るまで、応神朝と継体朝が対峙していたと言うこと
    ですが、それではこの20年間は応神朝の大王は誰なのでしょうか?
    20年間も空位のままだったのでしょうか?

2.手白香皇女が人質に近い形で、継体に嫁したのはどの時点でしょう
    か?手白香皇女に応神朝大王継承権があるならば、対峙期間中では
    有り得ないでしょうね。・・・とすれば526年以降でしょうか?

2.20年間も(武力)対立し、やっと応神王朝を倒したならば、政権構
    成は大幅に変えられる筈ですね。大王在位が5年しかないから変え
    られなかったと言うのは、理屈にあわないでしょう?

3.東アジアでは、支配層の母系による家系継承の存在は見られません。
    欽明が継体の子であれば、嫡子であろうとなかろうと、あくまで継
    体朝の家系であって、応神朝家系を称することは無いと思いますが?
    
4.仮に母系をもって家系継承が認められるならば、手白香皇女が適当
    な人物と結婚すれば、その子は応神系正統大王に為る筈ですが、そ
    の様にお考えですか?
   (Awajiは有り得ないと思います。その様な実例が見出せません)

・・3・4部分に付いては「応神王朝色の強い継体王朝の子孫が正嫡」
と言うことですから、要するに継体王朝と言い換えられたのですね。

5.従って継体が応神五世孫でないならば、欽明が応神六世孫を称した
    (認めた)のは矢張り家系を偽っていることになります。
    母系で応神王朝に繋がっているから・・・イイジャナイカと言うの
    は、如何なものでしょう?
    やまさんの見解では継体は単なる地方豪族ですか?連合王国を構成
    する王なのですか? 後者であれば当然その祖神系譜があった筈です。
    欽明は継体王家の嫡子として、それを全て投げ捨てたのでしょうか?

6.継体王朝が5年で応神王朝勢力によって打倒されたのならば、(或
    いは継体新王朝の痕跡を隠す必要があるのならば)何故に欽明の兄
    である安閑・宣化が534年から539年に大王位にあったと記述された
    のでしょうか?
    一切の記録から抹殺されても不思議は無い筈ですが・・・・
    (531〜534年に継体が倒されたならば、手白香結婚が526年以降とし
    て当時欽明は5〜8歳ですが? )

7.継体が応神系ではなく、別系であるにも係わらず応神五世孫として
    系譜を誤魔化し、新王朝成立を隠匿するのならば、何故に適当な大
    王の孫か曾孫としないのでしょうか?
    欽明やその子孫には、その程度の才覚もなくワザワザ五世孫などと
    言う中途半端な系譜を捏造したと仰るのでしょうか?
    Awajiには・・・全くアンビリーバボーです。
    
8.蘇我氏が継体王朝協力者ならば、何故にやまさんの言われる応神系
    欽明以降に大勢力に成長したのでしょうか?
    旧王朝を裏切って継体王朝に協力したのならば、継体王朝打倒と共
    に凋落する筈ですね。(単に祭祀者としてのみ存続する筈です)
    また、継体王朝成立の功労者(応神王朝反逆者)の尾張氏は、孫で
    ある安閑・宣化の滅亡を座視したのでしょうか?宣化が幽閉される
    様な状態で、尾張の豪族として存続が許されるものでしょうか?

8.継体王朝に圧迫されていた応神王朝が、何故に任那の一部を百済に
    割譲せねばならないのでしょうか?
    (百済の援助を期待したのでしょうか?)

9.応神朝と継体朝が20年にわたり対立していたことを百済、新羅は了
    知していたのでしょうか?(当然了知していたでしょうね。)
    三国史記は何故にこの事実を一切記述しなかったのでしょうか?

10.やまさんの想定では、当時どの王家も大王を称し得る並列的連合王
    国だったのですね。それならば大王家であろうと各王家であろうと、
    その正統性を主張する祖神・系譜伝承が有った筈です。
    これは近江であろうと、越前であろうと、九州であろうと、関東で
    あろうと王家である以上同じでしょう?

11.これらの王家は、何時どういう形で消滅したのでしょう?
    Awajiは、3世紀倭国大乱期に西日本の主要部分にあった王家は消滅
    統合されたと考えていますが、それらの全てが大物主大神、大国主大
    神、大己貴命を祖神にしていたとは思えません。その後の統一過程に
    おいても東海・関東の多くの王家が消滅・統合されたと思いますが、
    それらはなお更です。
   (少数の強盗集団のようなものの討伐ではあり ません・・王家です。)
    つまりは、何らの鎮魂も祭祀も無く多くの王家が消滅していったと考
    えるべきだと思います。
   (勿論一部は、倭大王家伝承に同化したでしょうが・・・)

12.まして、それらの王家が6世紀まで並列的に存続していたとすれば、
    その祖神・系譜はより強固(伝統累積)なものとなっていた筈です。
    継体王家はその様な伝統を一切持っていなかったのでしょうか?
    大物主系伝承でしょうか?やはり天照大神伝承でしょうか?
   (崇神子孫伝承でも持っていたのでしょうか?)

Awajiには何故に、この様な不自然な想定を重ねねばならないのか、その理
由が良く分からないのです。(10以下は、別に議論しましょう・・・)

継体が応神系(五世孫)有力豪族の中から、応神王朝重臣により大王に選抜
され、手白香との結婚によって、その立場を固めて欽明に大王位を繋げた。

・・・要するに本家の男子跡取がいないので、分家の中から出来の良い男子
を婿に迎えて、本家を継がせた・・・幸い跡取娘との間に子供も出来た。
ただ・・・婿の崩御時には若年であったため、連れ子の安閑・宣化が中を繋
いだ・・・と考えて何か問題があるのでしょうか?
(宣化から欽明への継承には、イザコザがあったかも知れませんが)

任那問題は、どちらにしてもスッキリとした解釈は得られません。
別途考察すべきもので、これを手懸かりに継体出自を判断すべきものとは思
いません。
仏教問題は、何のことか全く分かりません。仮に継体が仏教信者だとして、
それが一体どうだと言うのでしょうか??

Time    : 1999/ 8/ 1(日) 09:19:27

Name : やま E-mail : Title : RES : 1 〜 5まで Comments: Awajiさん丁寧なレス有り難うございます。 まず、全体を通して一点。Awajiさんは継体の20年というスパンを主に 論拠にして質問されておられますが、私は、この20年というスパンその ものを疑っています。日本書紀は一貫して時間間隔については偽っている と言うのは、Anon氏の時に出てきたシンイ説が入っているからで、従って 大王の没年齢82歳というのも大和入りするまでの20年という時間もは たしてそれが正しいかどうかは眉唾物だ、そうことわったわけです。 私が言ったのは、継体20年という時点が重要だ、そういうつもりだった のですが、(タイトルで、調子に乗って、牛丼一筋80年などとやったの がまずかったかもしれません、反省しています…)。 1.応神朝の大王は誰なのでしょうか? 武烈大王で良いと思います。また、若干の空位期間があり得たと 考えても良いのではないでしょうか。ただし、繰り返しますが、20年   というタイムスパンは額面通り受け取るのは間違いだと思います。 2.手白香皇女が人質に近い形で、継体に嫁したのはどの時点でしょう か? はっきり言えば、良くわからないのですが、目子媛との婚姻よりは 後、大和入りよりは前、そういう風に考えております。遅くとも大和 入り直前くらいです。 2.20年間も(武力)対立し、政権構成は…大王在位が5年しかないから変え られなかったと言うのは、理屈にあわないでしょう? すでに申しました通り、20年間というのは、額面通り受け取れないので   す。しかし、5年というのは、大和入りしてからの継体の事跡が近江毛野 臣の百済出陣、帰還途中での病死と磐井戦争だけということから5年以下   と言うのはちょっと苦しいと思います。なぜ近江毛野臣の出陣と磐井戦 争だけはそう簡単に認めるのだ、と言われれば、任那については百済本記 が、磐井戦争については考古学的な遺跡があるので有る程度首肯できると 考えているからです。 3,4 >>・・3・4部分に付いては「応神王朝色の強い継体王朝の子孫が正嫡」 >>と言うことですから、要するに継体王朝と言い換えられたのですね。 そうです。そしてこの部分の説明で非常に混乱しつつあると感じて   いましたから。。大王の系統を偽ったのは、飽くまでも欽明(または   その系統を嗣いだ八世紀の中央政府)だと私は思っております。しか し、それは、武烈→継体→安閑→宣化→欽明という系譜においてであ って、実際の系譜では武烈→継体→欽明でしょうし、この中で応神と 血のつながりを持つのは、武烈、欽明だけだと思います。だから継体   は応神と血がつながっているという嘘は万世一系の中で最重要な嘘な   わけです。 5.やまさんの見解では継体は単なる地方豪族ですか?連合王国を構成 する王なのですか? 後者であれば当然その祖神系譜があった筈です。 欽明は継体王家の嫡子として、それを全て投げ捨てたのでしょうか? 投げ捨てたと思います。もちろん、だから全てが失われたという風 には考えていませんし、考えられません。継体の祖神系譜というよ   よりは、祖神とその祭祀ですが、それは別の人物によって管理、維持 された、そう書きました。ですから、欽明朝での宗教に関する記述は 重要だ、そう書いたのです。 これは 10以降の問題にもなるのですが、私は、継体や継体時代の の人々が系譜というものにはそれほど執着しなかったのではないか、 そう思っております。系譜に一番執着したのは大王家です。 他の地方豪族(臣姓の人たちなどですね)は、自分たちの祖神が「 祀られている」 ということが重要だと考えていると思いますが、 それは必ずしも系譜の真実性では無いということです。 ですから、応神で血筋が途切れるような記述をもっとも畏れたのも 大王家ですし、その血筋をつなぐべく、わずかな系譜(それも地方豪 族の)に偽りを入れるのはほとんど問題ではない、そう考えています。 この辺で興味があるのは、稲荷山鉄剣の銘文ですが、Awajiさんは あの鉄剣に刻まれた系譜は真実だと思いますか?私は、当然虚偽があ ると思いますし、それは地方豪族が自分の祖先を権威づけるためにや ったことだと解釈していますが。 それと大王家はそういう虚偽の系譜    を認めたと言うか積極的に利用したと考えていますが? Time : 1999/ 8/ 1(日) 12:21:28
Name : やま E-mail : Title : RES: 6 〜 9まで Comments: 6.継体王朝が5年で応神王朝勢力によって打倒されたのならば、(或 いは継体新王朝の痕跡を隠す必要があるのならば)何故に欽明の兄 である安閑・宣化が534年から539年に大王位にあったと記述された のでしょうか? 一切の記録から抹殺されても不思議は無い筈ですが・・・・ 抹殺しきれない、第一の理由は百済本記の存在だと思います。任那 で継体大王の部下が頑張って奮闘していたおかげで、その大王と皇子 の所在は他国にまで知られている訳です。そこで最低限、継体大王時 に皇太子だった勾大兄皇子までは認めざるを得なかったと思います。 宣化についても同様でしょう、百済本記では皇太子、皇子皆死亡した   と有るわけですから、異変があったのではないか、誰でもそう疑いま ます、だから日本の歴史ではせめて、その異変は無かった、そいうこ だけは言わないといけなくなります。しかし、皇太子、皇子は誰だっ   たか、それは明記しなければいけなくなる。そこで、安閑・宣化の記 述は残ったと考えます。   百済本記は外国の記述だから史実は疑わしい、日本の歴史書は安閑・ 宣化と記されているんだから、あれは間違いだろう。そう考えたのは   古代だけではないのはすでに明らかですよね。 7.継体が応神系ではなく、別系であるにも係わらず応神五世孫として 系譜を誤魔化し、新王朝成立を隠匿するのならば、何故に適当な大 王の孫か曾孫としないのでしょうか? それは、孫や曾孫では嘘をつけないからです。周囲の地方豪族、 中央の古くからの大豪族そういう人たちが継体がさる大王の曾孫じゃ   と言われたところで誰も信じない、それは曾孫くらいでは、そういう 豪族たちはある程度の真実を知っているからです。もっと新しければ   もっと嘘が見えてしまう。いくら系譜にはこだわらない地方豪族でも   それは無理です。   ここで再度繰り返しますが、飽くまでも、系譜にこだわるのは大王家   なのです。嘘をつく必要性に迫られたのは大王家、その嘘を信じさせ る相手は中央の大豪族、周囲の地方豪族です。中央の豪族や地方豪族   というのは言いました通り、あまり正確な系譜、そういう物にはこだ わらなかった、そう思います。彼らにとっては自分たちの神を祀ると   というのが最大の関心事であって、系譜は二の次だと思っていたと考 えています。 それらの人たちに信用させるにはある程度古い系譜に組み込めば良か った 。しかし、応神王朝より古くてもこれまた、なんとでも言える、 ということで応神5世の孫という記述は絶妙だと私は思います。 8.蘇我氏が継体王朝協力者ならば、何故にやまさんの言われる応神系 欽明以降に大勢力に成長したのでしょうか? 旧王朝を裏切って継体王朝に協力したのならば、継体王朝打倒と共 に凋落する筈ですね。(単に祭祀者としてのみ存続する筈です) 私もそう思います。そしてそれが最大の欽明朝の誤算だったと思います。 例えば、人を説得する方法には、二通りあると思います。一つは物事の 道理を一つずつ説いて理解させる方法と、もう一つは、相手の言うこと   丸飲みにしてしまう方法。なるほどあなたのおっしゃることはその通り   ごもっともでございます。と、やってしまえばとりあえず相手の反感は 買いません。(小渕総理しかり) 特に、大王が征服した地の民を鎮めるには、この手法がてっとり早い。 土着の王の支配権だけを手に入れたら、祭祀権は土地の人間に渡せば利 害関係は王→大王に移るだけで土地の住民は何一つ変わらない、それだ け無駄な摩擦が減るわけです。 しかも、土地の神というのは大抵、山だとか、大木だとか、蛇だとか そういう物ですから、その祭祀が他に影響を及ぼすと言うことはない。   ところが、仏教はそうはいかなかった訳です。仏教は普遍性を持って   いるから広げようとすればいくらでも広がっていく。信者が増えると   言うのは当時の中央政府の豪族に取っては脅威だったと思います。 (法輪功しかり)  更に仏教を通じて海外の情報や技術がどんどん入ってくる。最初、蘇我 氏に仏教を祀りなさい(私はこれを継体のために、ということだと考え ていますが)と公認してしまった手前、あっと気づいた時には取り返し   がつかない、やむなく物部氏などを使って弾圧するけれども、すでに 一端広まった新宗教は収まりようがない。 >> また、継体王朝成立の功労者(応神王朝反逆者)の尾張氏は、孫で >> ある安閑・宣化の滅亡を座視したのでしょうか?宣化が幽閉される >> 様な状態で、尾張の豪族として存続が許されるものでしょうか? 許されると思います。その理由はすでに上に記した通りです。尾張氏は   あるいは、瀬戸内海の制海権は放棄させられたかもしれませんが、尾張   一帯の豪族としては認められたと思います。 8.継体王朝に圧迫されていた応神王朝が、何故に任那の一部を百済に 割譲せねばならないのでしょうか? (百済の援助を期待したのでしょうか?) 基本的に、継体に任那の地を嗣がせないためだと言ったら駄目でしょう うか?ならば、任那の地全てをなぜ渡さなかったのか、そう言われるか   もしれませんが、私は、大伴氏は一時的に弱体化した任那を継体に渡し て継体の威力を殺ぐのが目的だったと考えており、それは見事に的中し た、そう書きました。   大伴氏としては、そうやって弱体化した継体を倒したあと、再度任那を 再建する、そういう算段もしてあったと思います。それがうまくいった とは思えませんが。うがった見方をすれば、日本書紀に大伴氏が百済の 賄賂を受けて云々という記述は、そういう大伴氏の事後工作についての 百済とのなんらかの密約を示す記述ではないかとも思えるのですが。。。 9.応神朝と継体朝が20年にわたり対立していたことを百済、新羅は了 知していたのでしょうか?(当然了知していたでしょうね。) 三国史記は何故にこの事実を一切記述しなかったのでしょうか? これはすでに述べた通り、20年というスパンが疑問ですので私には   お答えしかねます。 Time : 1999/ 8/ 1(日) 12:27:11
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「王朝交替説に関する疑問 U」?? Comments: やまさん、今日は。Awajiです。凄いQuick resですね。驚きました・・・ 1.20(507〜527)年については、額面どおり受け取れないと言うことで すね。しかし、512年の任那四県割譲は二朝並立状態の中で応神朝に よって行われたとされているわけですから、その関連記事である509年 百済人返還も考え合わせると、概ね20年(最低でも15年)と考えてお られる筈ですね。(任那割譲時期も信頼できませんか?) 2.継体の大和遷都時期(526年)は、信頼しておられますか? これも信頼できないとすれば、磐井の乱の時期も不明となりますが、 継体大王在位5年としておられるので、一応信頼しておられるのでしょ うね。そうすると手白香婚姻は525年前後でしょうか? となれば欽明出生は526年以降・・・継体崩御(531年?)時5歳以下と お考えですか? これでは即位どころでは無いでしょう?? 宣化崩御(539年)時でも14歳なんですが・・・ (これら時期も信頼できませんか?そうなると継体が何時崩御したのか も不明となり、任那外交は誰がどうしたのか分からなくなってしまいま すね。) 3.従って「20年の対立期間」は「15年の対立期間」でも結構です。 疑問点は基本的に20年でも15年でも、あまり相違はありません・・・ 4.欽明・安閑・宣化が継体の実子であり、欽明は母系的には武烈の孫で ある。安閑・宣化は母系的には尾張氏に繋がる。 従って、この三人は家系としては(当然男子家系です)・・・ XXX→意富富抒→乎非→汗斯(彦主人)→継体→と言う家系を持っ た継体家の人間だと言うことで異論有りません。 (問題はXXXが応神の子「若野毛二俣」であるかどうかですね) 5.「稲荷山鉄剣系譜」は勿論彼等が信じ、周囲の豪族達が認め、大王政 権が公認した先祖系譜だと思います。 (生物学的に事実かどうかは知りません。しかし彼等支配階層にとっ ては、彼等のレーゾン・デートルに係わる一大事であったことを、 否定する根拠はありません。貴方がこれを否定する根拠は何でしょ うか?) 6.何故に「安閑・宣化」を大王として記述したのか・・・と言う問題の 回答になっていないと思いますが? 安閑・宣化が大王即位しておらず「百済本記」に「大王・太子・王子」 が同時に死亡したと記述してあったことが史実であったならば、その とおり記述しておけば良いでしょう? これを隠蔽したいのならば、百済本記記事を抹殺しておけば良いだけの 話です。百済本記を知り得たのは、欽明の子孫とその側近だけなのです からね。(そもそも百済本記って何時頃書かれたもので、何時頃日本に 伝えられたものだとお考えなのでしょうか?) Awajiは或いは継体には別に皇子がいて同時に死亡したのか(若年死亡 のため記録に残らなかった)とも想像しますが、この様な簡単な記事で は何とも判断できません。 何れにしても安閑・宣化が即位したことを否定する理由は全く無いと思 います。継体王朝の痕跡を隠蔽したいならば尚更のことでしょう。 安閑・宣化の在位が短期であったのは、継体が長命のためと考えれば不 思議ではありません。 7.孫や曾孫ならば、嘘だとバレルが・・・五世孫だと納得させられる? これは5の支配階層における系譜伝承に関する認識の問題とも絡みます が、Awajiには信じられません。 そもそも継体は大豪族の筈であり「何処の馬の骨」か分からぬ人間では 有り得ないのです。固有の家系伝承を偽ると言う点では、正に五十歩百 歩でしょう? 8.応神王朝を裏切り、継体王朝成立に協力した蘇我稲目が、何故に欽明の 大臣となる様な権勢をもったのでしょうか・・・と言う疑問です。 (これも嘘だとおっしゃいますか?)この疑問に対しては、全く答えに なっていません。尾張氏に関する疑問も同様です。 9.百済割譲に関しては、何のことか全く分かりません。二朝対立時代に割 譲されたのでは無いのですか? 応神朝が継体朝に滅ぼされることが確 定していたから継体朝を困らせるために割譲したと言うことなのですか? 各時期に付いて書紀記述を信じておられないのならば、それで結構です。 やまさんの想定によって、時系列的に整理されては如何でしょうか? 各時期は信じていないから分からない・・・しかし史実は想像出来ると 言うのは土台無茶ではないでしょうか? 何度も言いますが、継体が応神五世孫と称し、中央豪族・諸豪族もこれを公 認した・・・武烈皇女との婚姻でこの立場を強化した・・・安閑・宣化が大 王位を継承し、欽明に繋いだ・・・応神王朝はこの措置で継続性を保った。 として何処に問題があるのでしょうか?全体として極めて整合性がある記述 であり、百済本記をワザワザ記述しているのも、上記の流れが史実であると 考えた自信と真剣さを示していると思いますが・・・?? Time : 1999/ 8/ 1(日) 22:17:48
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 継体大王の継 Comments: みなさん、こん@@は。 「継体」の継の字は、「血筋がつながってないという意味がある」という事を聞い た事があります。(継嗣の嗣の字には血のつながりがある事を意味するらしい?) この文字使いの点からみれば、応神との血統的繋がりがないという意味にもとれる という趣旨でした。(黒岩重吾さんの本だったと思います。) その本には、継体の次は欽明で間の二人は王位についてない可能性があるという事 も述べられていました。 この説についてはどう思われますか? Time : 1999/ 8/ 2(月) 00:37:10
Name : わんとろ E-mail : Title : 継体天皇 Comments: PPPP 記紀によると新羅出兵から戻った神功皇后は、九州筑紫で第15代応神天皇を生んだ。つまり応神天皇は九州から 大和にやってきて即位するというわけで、この時大和で王朝の交代があったのではないかと考えられる。たとえ ば応神天皇以前の、第12代景行(けいぎょう:けいこう)天皇から、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、神 宮皇后までの呼名はそれぞれ、「大足彦(おおたらしひこ)」「稚足彦(わかたらしひこ)」「足仲彦(たらし なかひこ)」「気長足姫(おさながたらしひめ)」とあるようにタラシという語がつくが、応神の名は「誉田 (ほんだ)」というようにそれがなく、簡潔なものに一転している。 第26代継体天皇の時にも王朝が交代したのではないかと言う説がある。その理由は次のようにいくつか挙げられる。 仁徳天皇より続く血筋が第25代の武烈天皇の死で途絶えたとき、記紀には越前の国にいた応神天皇の5世の孫で ある継体(母は垂仁天皇の7世の孫)が即位したと記されているが、その間の系譜にはまったく触れられていない。 このような記述の仕方は異質である。 継体天皇が即位した場所は現在の大阪府枚方市楠葉で(我が家は長男が産まれてから7年この楠葉に住んでいた。)、 それまで都が営まれてきた大和や河内から遠く離れている。しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後(「日本 書紀」別記では7年後)であることから、対立する勢力が大和にいたことをしめしているのではないか。 継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承 の意味があっても、継の字にはそれがない。つまり継体天応は前天皇と血のつながりがないこと、氏族を異にしてい るのではないかと推測できること、などである。 水野祐氏は応神天皇および継体天皇のとき王朝が交代したのだとする、三王朝交代説を唱えている。一系とされてい た天皇家は崇神天皇からはじまる崇神王朝、応神天皇からはじまる仁徳王朝、継体天皇から始まる継体王朝の三王朝 に分けられる。すなわち現在の天皇家の始祖は継体天皇だということになる。 もちろんこの三王朝交代説にはさまざまな反論もあり、定説となっているわけではない。しかし天皇家が「万世一系」 だとする考え方には多くの疑問があることも事実なのである。 【(株)学習研究社 1998年6月1日発行 :「天皇の本 −日本の霊的根源と封印の秘史を探る−」より抜粋】 Time : 1999/ 8/ 2(月) 01:46:51
Name : やま E-mail : Title : Awajiさんへ。 Comments: ============================================================================= 何度も言いますが、継体が応神五世孫と称し、中央豪族・諸豪族もこれを公 認した・・・武烈皇女との婚姻でこの立場を強化した・・・安閑・宣化が大 王位を継承し、欽明に繋いだ・・・応神王朝はこの措置で継続性を保った。 として何処に問題があるのでしょうか?全体として極めて整合性がある記述 であり、百済本記をワザワザ記述しているのも、上記の流れが史実であると 考えた自信と真剣さを示していると思いますが・・・?? ============================================================================   それでも問題は無いですよ。しかし、では Awajiさんは継体時代の何を問題に 思われているのですか??? >>一度この問題について考えてみませんか? >>(みなさんの横レス大歓迎です・・・・(^0^)" ↑この話に乗っただけですが。非力は認めるところですが。しかし、私には Awaji さんの論点そのものが見えなくなってしまったのですが。 ハテサテ Time : 1999/ 8/ 2(月) 06:40:24
Name : やま E-mail : Title : わんとろさん (しかし、どこかで見たような。。。苦笑) Comments: どーでも良いけど改行入れてください。 それからCD辞典などからのコピ、ペは避けてね(笑) Time : 1999/ 8/ 2(月) 06:43:12
Name : やま E-mail : Title : 勇者ロトさん Comments: おはようございます。 継体新王朝説には、先に述べた水野祐説をはじめとして、ご紹介の 黒岩重吾さん、森 浩一さんなどがおられます。これも先に紹介した 森 浩一先生の書かれた「古代史の窓」など手軽でおもしろい本です。 以上ご紹介まで。。。 Time : 1999/ 8/ 2(月) 06:49:14
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「諡号」?? Comments: やまさん、勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 お昼休みの拙速RESですが・・・ やまさん・・・・・ >>それでも問題は無いですよ。しかし、では Awajiさんは継体時代の何を >>問題に思われているのですか??? そもそもこの問題は、倭国における中央政権と地方政権の実相について発生 したものです。 つまり、倭国が何時の段階で統一的王国になったのか・・・かなり後世まで 連合王国的状況にあったのか・・・・磐井は王国(王朝)と考えるべきもの なのか、継体は越前国王と考えるべきか・・・等々ですね。 その手懸りとして継体即位の事情(状況)を考察しては・・・・と言う問題 です。 ロトさん・・・ >>「継体」の継の字は、「血筋がつながってないという意味がある」という >>事を聞いた事があります。(継嗣の嗣の字には血のつながりがある事を意 >>味するらしい?) >>この文字使いの点からみれば、応神との血統的繋がりがないという意味に >>もとれるという趣旨でした。(黒岩重吾さんの本だったと思います。) この部分は、井沢さんの「逆説の日本史U」でも触れられており、かって友 人KANAKさんが、「天智」「聖徳」諡号に関する一連の批判の中で「神皇正 統記」を引用して、Nifty会議室で次のとおり述べておられます。 (このHPで掲載されたかどうかは確認できません。おそらく不掲載?) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー なお、ことのついでに「継体」についてですが・・・以下のとおり。 第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。・・・ 大祖神武より第十二代景行までは代のままに継体し給う。 第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、・・・ この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。 第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、・・・ 儲君にい給けるも父のみかど継体のために顧命しましましけるにこそ。 以上の用例の「継体」の語義は「直系継承」に関して用いられており「嗣」と は別義であるする井澤氏(水野氏)の解釈とは明らかに異なっています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー なお森鴎外著「帝謚考」には「継体」にかんする以下の漢籍例があげられて いますが、 継体謂嗣位也・・・史記(所謂「史記」とは別の書籍です) 皇帝夙夜唯思殆継体之君不宜改作・・・前漢書 今聖漢受命而王、継体承業二百余年・・・前漢書 継体承基、古今常道・・・・・晋書 謂継体其嗣業、能増輝於前光・・・宋書 以其継君之体、持其統而不絶也・・・宋書 詔、皇太子叔宝、継体正嫡・・・・・陳書 長子継父体 以其能世世継君之体 高祖創業継体承基 一読してお分かりのとおり、基本的に「神皇正統記」と同様の意味で使用され ており、水野さん(黒岩さん??)の所説は、漢籍用例から見ても根拠に欠け ると思います。 勿論、継体と武烈が血縁関係にないことは明らかなのですが、大きな意味で神 武の血統をひいており、その関係で大王位を継承したことを示すものとして、 「継体」と言う諡号をつけたと考えるべきでしょうね。 (体制側にあった諡号制定者が「継体」と言う諡号で、大王家と血筋がつなが っていないことを、密かに暗示したと言う発想自体が馬鹿げていると思いませ んか?) Time : 1999/ 8/ 2(月) 13:05:52
Name : やま E-mail : Title : 雑感 Comments: ===================================================================== そもそもこの問題は、倭国における中央政権と地方政権の実相について発生 したものです。 つまり、倭国が何時の段階で統一的王国になったのか・・・かなり後世まで 連合王国的状況にあったのか・・・・磐井は王国(王朝)と考えるべきもの なのか、継体は越前国王と考えるべきか・・・等々ですね。 その手懸りとして継体即位の事情(状況)を考察しては・・・・と言う問題 です。 ===================================================================== そうではないのです。私は継体新王朝説という話をするに当たって、 継体が血筋がつながっているかどうかはどちらもあり得る、そう冒頭に申し ておいたはずです。話をするに当たっても議論上新王朝説を採ります、そう 言ったはずです。 つまり、現状少なくとも私が知る限りは、継体新王朝説を採る学者も応神から 同一だという説もあると理解しております。学者さん達の間ではあるいは熾烈 な批判のやりとりもあるのかもしれませんが、私は、残念ながらそういう学者 などではありません。 従って、継体新王朝説を取るか、同一王朝説を採るかは、全く趣味の問題以外 の何ものでもありません。私にとっては、この二説はどちらもあってもかまわ ないのです。そう考えているから、自分の理屈を述べるときは「トンデモ」で すよ、そう断っております。これは学問なんかじゃ全くないからですが。 これに対するレスとして、私の理論のどこがおかしいか、矛盾があるか、そう 言う指摘はありがたいのですが。。 Awaji氏はそうじゃない、継体は同一王朝だったんだ、何が問題があるのだ。 とおっしゃる。残念ながら、そういうことは私のあずかり知らないことなので す。私にはどっちの説もあるということだけ判っておりますが、どちらかの説 が正しいなどと決定するそんな決定的論理は持ち得ないし、また持つ必要も無 いと思うのですが違うでしょうか。 実は、私と Awajiさんとの間には系譜についての認識の違いがあります。 それが私を継体新王朝説に寛容にさせている、としか言えません。私は古代人 は Awajiさんの言うように系譜を絶対視はしていなかったと思いますから、新 王朝もあり得る、その程度の認識です。「あり得る」ですから、同一王朝で何 が問題があるのだ、と言われたら、答えは問題は無いよ、なのです。 私がこういう議論で収穫だと思うのは、こういう Awajiさんと私の系譜という物 などについての認識の違いを発見することでそれ以上でもそれ以下でもありませ ん。 そして、そういう違いについてはある程度までどういう違いかを把握したら、違 いは違いとして納得するだけなのです。なぜならば、なぜそういう認識の違いが 生じたか、ということを知るには、結局私が、Awaji 氏とのギャップを埋めるべ く勉強する以外には手がないからです。こればっかりは議論でどうなるという問 題ばかりでは無いと私は思っています、基礎的な認識になればなるほどそうです。 もちろん、勉強した上でやはり私が正しい、そういう場合もあるし、そうで無い 場合もあります。 Awaji さんは継体と応神の血がつながっていると思う、私はそう思わない、それ だけで良いのではないでしょうか?私が目指しているのは、どちらが正しいかを 決することではなくて、お互いにどういう違った見解を持っているのか、そうい うことを明らかにするという程度です。またそれ以上は議論し得ないと思ってい ます。 繰り返しになりますが、私のような素人の場合は、様々な論について選択の判断 の多くは最終的には好みの問題だからです。 こと継体問題について言えば、学問の世界でも未だに結論はでておらないのです。 なぜ、この場でそのような問題に結論を出す必要がありましょうか? もし、以上のようなことが許容できないので有れば、すでに私がここで話すべき 事は何も無いのです。 Time : 1999/ 8/ 2(月) 20:53:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ディベート」?? Comments: やまさん、今日は。Awajiです。 ご意見了解いたしました。 確かにこういった意見交換を行う理由と言うか・・・意味と言うかに ついては様々な考えがあると思います。 Awajiは夫々の主張をぶつけ合うことにより、皆さんのご意見を吸収し、 自分の知識を高め、議論を深めて行くこと・・・その過程を通じて歴史 の真実に少しでも近づきたいと考えているものです。 つまりは史学に関するディベートの場だと思っているのです。 従って、疑問点に付いては徹底的に確認し、自分の気づかなかった根拠 や論理を考える機会にしたいと願っていますし、また自己の意見は強烈 に主張し、その意見の何処に問題があるかを徹底的に指摘して頂きたい とも願っているのです。 (何処に問題があるのですか?・・・と言うのはその意味です) ただ、これはAwajiの希望であって、やまさんが別のお考えをもたれるの も当然有り得ることですね。 ご迷惑ををおかけいたしました・・・お詫びして、この場は一旦終了させ て頂きます。 Time : 1999/ 8/ 3(火) 00:07:25
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 継体の継 Comments: Awajiさん、例の提示ありがとうございました。なるほど継の文字一字からの推論 はすこし強引な気がします。体制側の人間による非血縁の暗示というのも馬鹿げて いるとまでは私にはいいきれませんが可能性は薄いと思います。 隠すのなら、もう少し巧妙な手があったのかもしれません。 系譜についての信憑性は、Awajiさんに近い感想をもっています。 天皇の位を受けるためのさまざまな儀式が血縁と先祖の霊の加護をうけて成される ものである以上、血縁自体はある程度以上の確度をもって繋がっていると思います。 縄文や弥生の祭祀は、租霊信仰という側面が強かったと思っているので血縁しかも 天皇自体の血筋を偽るということは難しかったと思っております。 しかし、継体の大和入りまでの動き、安閑、宣化と欽明との関係には何か釈然とし ないものも感じています。 Time : 1999/ 8/ 3(火) 01:53:25
Name : 游惟 E-mail : Title : ちょっと横レス Comments: 国語学の論文ばかり読んでいて飽きたので、ちょっと横レスさせていただきます。 単なる「外部史観」で史料に基づいたものではないですから、噛みつかないでください。(^0^) やはり私も継体は応神朝と何らかの血縁関係にあったと思いますが、その血縁はひょっとして母系なのでは? 畿内に本拠を構えた大王家が地方にまで勢力を広げる過程では、軍事力を以て既存の地方豪族たちを撃 破することよりも、むしろ王子や王女を使って豪族達と姻戚関係を結び、自勢力内取り込む事の方が多 かったのではないでしょうか。 大王家としての最善策は、王子を当主として送り込み直接乗っ取ってしまうことでしょうが(毛利が小 早川や吉川を乗っ取ったように)、それが叶わぬ場合次善の策として王女を嫁がせ、王女が産んだ子を 次期当主として立てて支配下に置くことだったと思われます。継体もそうした王女降嫁によって取り込 まれた越前豪族の子孫だったのではないでしょうか。 ただ母系血族が大王家を継承するのは異例の事であり、当然反発も強かったでしょうから、五代前に大 王家から降嫁したきた王女を王子であったことにして辻褄をあわせ、さらに武烈の王女を妻にすること によって血統の正当性を主張したのではないでしょうか。 母系血族としての大王家とのつながりといえば畿内の有力な大豪族は皆そうだったでしょうが、自ら大 王位につこうとしても、畿内にいた彼らの出自はよく知られていて系図をごまかすわけにはいかず、地 方にいたが故に系図をごまかし得た継体が中央の一方の勢力(やまさん説では蘇我氏)と結びついて選 ばれたということではないでしょうか。その際、中央・地方、さらには百済までも巻き込んでいろんな 権謀術数が渦巻いたでしょうが。 武烈により近い血筋の王族男子も畿内にいたかも知れませんが、彼らは王族として尊重されていても、 大豪族のひしめく畿内に於いてその実体はわずかの采地を持つ小豪族に過ぎず、王位継承の権謀術数に 勝ち抜くだけの人望も軍事力も財力もなかったということではないでしょうか。 詳しいことは忘れましたが、ヘロデ大王の前後のユダヤでも、父系の血族で適当な人物がおらず、母系 の王子が王位につけられたことがあったと何かで読んだ覚えがあります。 こうしたことから、継体が応神の母系血族であったことは決してあり得ないことではないと思いますが、 いかがでしょうか? Time : 1999/ 8/ 3(火) 11:33:27
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「継体の樟葉宮」?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 コメントありがとうございました。 さて、継体が「応神五世孫」として・・・いわば「本家」の跡取が絶えたため 「分家」の中から出来の良いのを迎え「本家」の跡取とした・・・・と一応仮 定した場合、 おっしゃるとおり継体の大和入りまでの動き、安閑・宣化と欽明の関係等をど のように考えるかと言う問題が生じると思います。 先ず、継体が何故に大和に入らず樟葉に止まった(と記述されている)かです ね。継体別王朝説の立場からすれば、これこそ応神朝・継体朝並立を物語るも のだとされるのですが、Awajiの「曲筆の論理」からすればこれはチョットおか しいと思います。 つまり二王朝の並立と言う事実があったが、その事実を隠蔽曲筆しょうとする ならば、大和に入らず樟葉に止まったと言うような事実は真っ先に抹殺される と思うのです。逆に大和の豪族・民衆の大歓迎の中で華々しく大和入りしたと 曲筆される筈ですね。 しかし書紀はそうは記述せず、ワザワザ後世から見れば二朝並立を想像させる 記述をしている訳ですから、これが事実であった(と考えられた)のでしょう。 それでは何故に継体は大和入りをしなかったか・・・ここからは単なる可能性 の想像に過ぎませんが・・・ 1.新大王として旧弊重なる大和から離れる事で、人心一新と改革を計った。 2.仁徳家系の断絶に至った原因の一つが、大和豪族間の権謀術数にあると考   え彼等の勢力圏から距離を置こうとした。 3.尾張氏の水上勢力を活用するため、水運の便がある場所を選んだ。 4.固有の勢力圏である近江・越前方面に近く緊急時の兵力動員に適していた。 等を考慮したのではないかと思います。ある意味では・・・ 聖徳太子が斑鳩に、孝徳が難波に、天智が大津に、桓武が山城に本拠を移した のと類似の行為だと考えます。 それでは、何故に最終的に大和に入ったか・・・ですが、 この様な継体の強行措置は当然大和を本拠とする旧勢力、或いは地方勢力の反 感を招く危険性があるでしょう。継体は即位当時ある程度の年齢に達してたと 思われます。従って自分の死後、若年(或いは凡庸)な後継者と旧勢力との対 立関係を融和しておくため、大和に入ることを決意したのでは無いでしょうか。 (人心一新と改革の目的を、一応達したと判断したのかも知れませんが・・・ 或いは逆に旧勢力との妥協が必要な情勢に至ったのかもしれません。) 次に安閑・宣化と欽明の関係ですが・・・・次回にいたします。 Time : 1999/ 8/ 3(火) 13:16:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 小生自身と意見は違うのですが気になります・・ Comments:  継体論議が深まってきているようで、割り込むのは恐縮なのですが, 並行して関連書籍をよんでいると、ずいぶん違った意見もあると思いました。 基本的な部分の話で逆行しそうなのですが,ご意見承りたく存じます。  違っているという意味で興味を持ったのは岡田精二氏の説で, 基本的には水野説の支持者のようですが,念のため小生自身は意見は違っていて、 ここでの議論も考慮すると,血のつながりは有ったように思っています。 その関連で,ひとつ寄り道して・・  「応神が生まれたとき,角鹿(敦賀)の神様の名からホムダワケとした」 という伝説からも,個人的には日本海側のこのあたりは関係が深いのではないか と思っておりますがどうなのでしょうか。かなり深い友好関係もしくは親戚を 暗示しているようにも思いますし,大陸からは九州からの経路だけでなく, 若狭湾を経由してきた勢力もあって、親戚の一部は湾岸に残って住みついた のではないかとも想像してしまいます。若狭は韓国語「ワッソ」からきているという 話も聞いたことがありますし・・・ それはさておき、岡田氏の説では,  釈日本紀の注釈に有る失われた資料「上宮記」によると、継体の5代前の先祖は  「凡牟都和希王」で「大王」ですらなく、読みからしてホムツワケとせざるを  えない。垂仁天皇の唖の皇子がその名前だが,そうするのも無理があるようだ。 という意見で、継体は、敦賀から坂田(湖北あたり)・息長(湖東あたり)の地一帯の 有力者であり,息長一族だという見解です。和風し号に「息長」が入り出すという, 一豪族としては特異な現象も、その結果だと見ています。 さらに、この方は百済本記の天皇・皇子3人同時の死を継体と解釈せず, 武烈およびその後継者たる皇子たちとされています。 その武烈の「恋敵」平群氏の記述は、継体支持の大伴氏と平群氏の対立のあらわれで、 平群氏をおとしめる記述であり,彼らと武烈系勢力のために、20年も大和入り できなかった。つまり、継体は大伴・息長連合による新王朝としています。  乱暴な要約ですが,ほぼ大筋はこのような感じです。理解を深めるため, あえて違った意見を引用していますが,ご意見いただければ幸甚です。 Time : 1999/ 8/ 4(水) 14:34:26
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「応神ー若野毛二股系譜」?? Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。 岡田精二さんと言うかたは存じませんが、取り敢えずのコメントです。 >>釈日本紀の注釈に有る失われた資料「上宮記」によると、継体の5代前 >>の先祖は 「凡牟都和希王」で「大王」ですらなく、読みからしてホム >>ツワケとせざるをえない。 基本的に「大王」と言う名称は、記紀においては使われていません。 「天皇」「王」「命」なのです。「古事記」でもこの部分は「品太王五世 孫、袁本杼命。」と記述され、「品太王」です。 また「凡牟都和希王」の読み方も、単純には決定できません。 例えば「百済東城王」は「牟都・牟太・末多」等の表記がなされ、原音を 漢字に写音する場合の困難さが窺えるのです。(都=太=多) 上宮記 「凡牟都和希王娶・・名弟比売麻和加、生児若野毛二俣王」 古事記 「品陀和気命又娶・・息長真若中比売、生御子若沼毛二俣王」 日本書紀「誉田天皇・・・・・・・・・・弟媛、生稚野毛二派皇子」 この様な記述から見て、「凡牟都=品陀=誉田」の蓋然性が確認されて いるのですが、これが簡単に否定できるでしょうか? 因みに・・・ 垂仁天皇児・・日本書紀「誉津別命」 古事記「本牟智和気=品牟都和気」 についても「ホムツ≒ホムチ」となっています。この様な表記の揺れは、 逆に伝承の多様性・・・信憑性を裏付けるものなのです。 (後世の創作ならば、むしろ表記は確定的になるでしょう?) また後世、天武天皇は684年有名な八色姓を定めます。 真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置ですが、この時に真人姓を 受けたのは・・・次のとおりとされています(新撰姓氏録等)。 守山公(モリヤマ)・・・難波王     (敏達の皇子)系 路公(ミチ)・・・・・・難波王      (敏達の皇子)系 高橋公(タカハシ)・・・?? 三国公(ミクニ)・・・・椀子王      (継体の皇子)系 当麻公(タギマ)・・・・当麻(麻呂子)王  (用明の皇子)系 茨城公(ウマラキ)・・・?? 丹比公(タヂヒ)・・・・上殖葉王     (宣化の皇子)系 猪名公(イナ)・・・・・上殖葉王     (宣化の皇子)系 坂田公(サカタ)・・・・中王       (継体の皇子)系 羽田公(ハタ)・・・・・稚野毛二俣王   (応神の皇子)系              若野毛二俣王の子 意富富杼王系 息長公(オキナガ)・・・稚淳毛二俣王   (応神の皇子)系  酒人公(サカヒト)・・・菟王       (継体の皇子)系 山道公(ヤマヂ)・・・・稚淳毛二俣王   (応神の皇子)系 つまり、守山〜坂田は継体以降の王族ですが、羽田〜山道は継体即位前 の応神系意富富杼王孫です。仮にこれらの系譜が虚偽ならば、天武が王 (皇)族と認定することは有り得ないでしょう。系譜伝承とはこの様に 彼等にとっては正にレーゾン・デートルなのですね。 >>この方は百済本記の天皇・皇子3人同時の死を継体と解釈せず,武烈お >>よびその後継者たる皇子たちとされています。 この部分は・・・継体崩御を二十八年(534年)か二十五年(531年)かを 判断出来ないので、百済本記 辛亥年(531年)に「又聞 日本天皇及び太子 皇子、倶崩薨」によって二十五年とした・・・と言うことですね。つまり は記事内容よりも年期判断史料として使用されているのです。 この年期を武烈とすれば、継体・武烈がほぼ同時に崩御したことになりま すが、それでは継体・手白香と欽明の関係をどの様に見るのか・・・殆ど 蓋然性の感じられない歴史創作の世界としか思えません。 因みに・・・次の辛亥は591年ですが、この歳は崇峻天皇が暗殺された時に 当たります。この時に崇峻皇子同時暗殺があったと強弁することだって可 能でしょうね。(極端に言えば、どうとでも言える小説の世界でしょう) Time : 1999/ 8/ 4(水) 23:16:31
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「継体系譜等・・」?? Comments: みなさん。今日はAwajiです。チョット注釈です。 1.酒人公(サカヒト)・・・菟王  (継体の皇子)系 を継体即位以前としたのは、意富富杼王の孫「坂田大跨王」系とす る説があるためです。(継体妃 黒媛の父) 2.若野毛二俣王系から大王妃に立ったのは、次のとおりです。 *允恭皇后 忍坂大中姫(稚淳毛二派女)・・・安康・雄略の生母 (意富富杼王は安康・雄略の伯父に当ります。つまり継体は安康・雄略 の従兄弟の孫になります。現代人にとっては従兄弟の孫は他人ですが、 一族意識が強い時代においては、それなりに認められる存在でしょう。) *欽明妃 広姫(坂田大俣王女) 神前皇女等の生母 *欽明妃 麻積娘子(息長真手王女) 荳角皇女の生母 *敏達妃 広姫(息長真手王女) 押坂彦人大兄皇子の生母 3.若野毛二俣王の生母は息長真若中比売弟媛(河派仲彦女)ですが、 河派仲彦(咋俣長日子王)は 倭建命ー息長田別命ー河派仲彦 (倭建命の孫とされています) つまり、若野毛二俣は倭建の孫(応神)と曾孫(息長真若)の間の 子と言うことになります。継体の子孫が「倭建」をヤタラニ持ち上 げいるのは、この所為かも知れません。 4.継体の母系租 *意富富杼王の生母は弟日売真若比売(河派仲彦女)で、甥・叔母結婚 とされています。 *乎非王の生母は中斯知命ですが、出自は不明です。 *汗斯(彦主人)の生母は久留比売(牟義都国造伊自牟良君女)です が、牟義都国造(美濃)は景行天皇の子大碓命(倭建命兄)孫とさ れています。 *継体(男大迹・袁本杼)の生母は布利比弥(振媛)ですが、 伊久牟尼利比古(活目入彦五十狭茅=垂仁)ー伊波都久和希(磐撞別) ー偉波智和希(石城別)ー伊波己里和気ー麻和加介ー阿加波智君ー 乎波智君ー布利比弥・・・とされています。 磐撞別は三尾君・羽咋君の租とされ、石城別は羽咋国造(能登)の租と されています。・・・三尾君の本拠は近江高島郡ですが、この一族が近 江・越前に勢力を持っていたことが窺えます。汗斯(彦主人)も高島に 本拠を置いていましたので、両族が結びついたのでしょう。 以上の関係で、継体は近江・越前・美濃(尾張)の諸氏族の支持を得た と思われます。 5.息長名称 古代人で息長と言う名称を持った主要人物は次のとおりです。 *ー息長日子 │ ^^^^ 開化ー彦坐王ー山代之大筒木真若ー迦邇米雷ー息長宿禰ー息長帯比売 ^^^^^^ ^^^^^ 景行ー倭建命ー息長田別ー河派仲彦ー息長真若中比売ー若野毛二俣王 ^^^^^ ^^^^^^^ 応神ー若野毛二俣王ー意富富杼王ー阿居乃?−息長真手王(息長真人租) ^^^^^^^ 息長足日広額(舒明天皇) ^^^^^ もっとも、この様な家系伝承は全部ウソッパチ・・・と言えばそれまで ですが、Awajiはかなりの誤謬・誤伝を含みながら何らかの事実が反映 されていると考えています。(曲筆にしては、複雑すぎ、かつ異伝や不 体裁な点が多すぎると言う気がするのです。) Time : 1999/ 8/ 6(金) 09:33:56
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様,ご意見ありがとうございました。 Comments:  昨日は,留守をしてましたので返事のお礼が遅くなってしまい, 申し訳有りません。小生のまずい引用にもかかわらず, 的確にご指摘・解説いただき,良く理解できました。 ありがとうございました。  ホムダワケにつきましては,岡田氏はちなみに同じ文章(上宮記) の中で,都の文字は「那加都比古・伊波都久和希」等「ツ」としか 読みは無いという理由がついていましたので,小生のように知識が 乏しいものは反論が不可能だったのですが,Awaji様の解説を拝見すれば, 全体の流れと表記の乱れ方から見て,「応神」として問題ないように思います。  百済本記の方の問題では,ご指摘どおり岡田氏は25年説を取って おりますが,武烈一族同時死説は特にこの方だけの説のようで, Awaji様のご意見からも無理があるように思います。  おそらく続いて全体のご見解を述べられる予定と存じますが, 息長一族や大伴・平群などの位置付けに関しては, どのようにお考えでしょうか? ご意見合わせていただければ幸いです。 (ここのところ何かと留守にすることが多く,レスがおそくなるかも しれませんが,ご容赦ください。) Time : 1999/ 8/ 6(金) 09:54:49
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、すみません,行き違いがありました。 Comments:  HPの更新をせずに意見を書いておりましたので, すでに息長関連の解説をなされていたのを 知らずに下の記事を書いてしまいました。 どうも申し訳ありません。 Time : 1999/ 8/ 6(金) 09:59:45
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「応神五世孫」?? Comments: 大阪JF生さん、みなさん。今日は。Awajiです。 さて、継体の系譜について「上宮記」を手懸かりに考察してみましたが、 やはり最大の謎は・・・記紀が何故に「応神」−−−「継体」の系譜を 記述しなかったか? だと思います。 古事記・・・故、品太天皇五世之孫、袁本杼、自近淡海国、令上坐而、 合於手白髪命、授奉天下也。(「令」です!) 品太王五世孫、袁本杼命、坐伊波禮之玉穂宮、治天下也。 日本書紀・・男大迹天皇 更名彦太尊 誉田天皇五世孫、彦主人王子之子也。 母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。 ここで考えられるのは・・・・ 1.「上宮記」が「記紀」以降の成立であり、継体の系譜を後補したもの であって、記紀成立時には「継体」の系譜は応神とは繋がっていなか った。 2.「記紀」成立時には「継体」の系譜は「上宮記」等の形で完成してい たが「記紀」制作者はこれを「継体」と「応神」を繋げるための偽作と 考え、記述しなかった。 3.「記紀」制作者は、「継体」系譜が応神とは繋がっていないことを承 知していたが、万世一系を擬制するため、五世孫と記述した。 (しかし、その系譜詳細は作成記述しなかった。) だと思います。しかしながらこの想定は、明らかに「曲筆の論理」に反す るものです。 仮に「記紀(或いはその原史書)」の制作者が虚偽であることを知りつつ、 「応神」と「継体」を繋げたのであれば、あらゆる方法でその信憑性を高 めねばなりません。既に「上宮記」等で偽系譜が完成していたのならば勿 論のこと、その様な偽系譜が無ければ当然曲筆作成する筈です。 五世孫では最早王族とは言えない(或いはギリギリである)と言うならば、 適当な大王の三・四世孫とすることも不可能ではないでしょう。 従って、別の可能性を考察する必要があるのでは無いでしょうか? ある見解では・・・・ 4.「日本(書)紀」は紀三十巻と系図一巻からなっており、系図で明ら かな部分については省略されていることが多い。 意富富杼王と汗斯(彦主人)を結び付ける「乎非」は系譜上は重要人物 であるが、(帝)王紀としては然程の人物ではないので省略された。 とされている様すが、イマイチ説得力に欠ける様な気もします。 Awajiはチョットいい加減な想像ですが・・・ 若野毛二俣===真若弟媛(倭建=小碓命曾孫) │ XX===意富富杼===中斯知(???) │ │ 息長等 乎非===久留比売(大碓命系牟義都国造女) │ 汗斯(彦主人)===振媛(活目入彦七世孫) │ 乎富等(袁本杼・男大迹) のなかで、乎非の生母である中斯知のみが出自不明です。 (曲筆するならば簡単な筈ですが、記述そのものがありません) つまりは(嫌な言い方ですが)卑母と考えることが出来るでしょう。 むしろ正嫡は別系(息長・羽田・坂田)であったのが、当主夭折等で「乎非」 が成り上がり(言わば吉宗の様な者です)、本家に居座ったのでは無いでし ょうか? 継体の子孫達はこの事をアカラサマニ示したく無かった・・・とも思うので すが、矢張りイマイチ説得力に欠けるかも??です。 なお、平群氏については想定の意味が分かりません。 Awajiは武内後裔氏族とされる波多・許勢・平群・紀・蘇我は敢えて言えば、 奈良時代以降の藤原氏の如き存在であり、式・北・南家・・・近衛・一条・ 九条・鷹司等と各家が消長を刳り返したように、平群→許勢→蘇我と変化し たと考えています。 Time : 1999/ 8/ 6(金) 23:42:25
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、お返事ありがとうございます。下手なコメントです。 Comments:  コメントありがとうございます。(予定通り?返事が遅くなってすみません。) 小生なりに調べてはみたのですが,系図に関しては詳しいことは 良く分かりませんでした。しかし、おっしゃっておられる主旨は良く分かります。 いくつか挙げられた説のうち,4は小生なりに納得できました。 系図は一定度正確に表現されていたと思われますから,Awaji様が 想像なさったような「アカラサマニ示したく無かった」ことも記載されて いたのではないでしょうか? 重々ご承知とは存じますが,岩崎小弥太氏の 指摘では「弘仁格式」の序に系図は民間にあるだろうという記述からして この時期にはすでに系図が失われていたとされているようですね。 あまり表に出したくなかったという思いから系図の巻は秘匿され,失われるのを 早めたように思います。これ以上は、小生が感想を述べるレベルでも有りません ので,ご容赦ください・・。  平群氏の問題に関しましては,貴記事:救世観音と「継体の樟葉宮」?? にて継体の大和入りの遅れの原因を分析されていましたが,そのうち, >2.仁徳家系の断絶に至った原因の一つが、大和豪族間の権謀術数にあると >考え彼等の勢力圏から距離を置こうとした。 の中心勢力が平群氏ではなかったのかと思ったので,質問に加えたのでした。 でももともとの考えが,岡田精司氏(すみません,前記事でお名前をミスって いました)の対立説から出たものですから,根底部分ですでに批判されて いますので,もはや質問の意味を失っていたかもしれません。  ミスタイプのついでですが,貴記事:救世観音と「応神ー若野毛二股系譜」?? における真人一覧で,「稚淳毛二俣王」とあるのは「稚渟毛二俣王」 (わかぬけふたまたおう)のミスタイプでしょうか? 小生の調べた範囲では, この人は「若野毛二俣王」自身だと解釈されているようですが,あえて区別されて いるのでしょうか? とんでもないド素人の質問でしたら,ご容赦ください。  またまたついでながら,応神の母親とされる神功皇后は実在すらも疑われている いわくつきの方ですが,どのように位置付けておられるのですか? 直木孝次郎先生らが, 「神功伝説は住吉神を守る津守氏らが、推古・斉明天皇あたりの女帝伝説をもとに でっち上げたものではないか。また、息長足姫というのも、タラシが7世紀あたりの 天皇に使われているもので,想像上の人物である可能性が高い」 とおっしゃっていますが、かなり脚色はされているものの、でっちあげはいいすぎて いるように「感じて」いるのですが,どうなのでしょうか? (小生が現在も住吉大社の近くに住んでいて、なじみの人物だからかも・・・?)  また、質問ばかり挙げておきながら,お盆休みで返事が遅くなりそうです。 テンポがあわせづらいかも分かりませんが,よろしくお願いします。 Time : 1999/ 8/10(火) 10:19:41
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「口承伝承」?? Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。コメントありがとうございました。 >>「稚淳毛二俣王」とあるのは「稚渟毛二俣王」(わかぬけふたまたおう) >>のミスタイプでしょうか? ご指摘のとおり漢字検索のミスです。スミマセン <(_ _)>ペコ 若野毛二俣王 若沼毛二俣王 稚渟毛二俣王 稚渟毛二岐王 稚野毛二派王・・・は全て同一人物と理解しています。 >>「神功伝説は住吉神を守る津守氏らが、推古・斉明天皇あたりの女帝伝 >>説をもとにでっち上げたものではないか。また、息長足姫というのも、 >>タラシが7世紀あたりの天皇に使われているもので,想像上の人物である >>可能性が高い」 についてですが、Awajiには津守氏程度の弱小豪族に大王家の家系伝承を 左右する力があったとは思えません。 (大王家の権威ガタオチで、大豪族の笑い者になるだけでしょう) また推古・斉明天皇あたりの女帝がモデルになったとすれば、継体・欽明 時代には勿論のこと、聖徳太子時代の史書にも神功・応神伝承は無かった ことになりますが、これも無理があり過ぎると思います。 なお「足=帯(タラシ)」名称は、景行〜神功期の大王位を示す一種の称 号だと思っています。 応神期に正式な大王名称である事が廃止され、後世の略号となり、さらに 舒明・斉明の和風諡号等に変化したのでは無いでしょうか? Awajiは「神功」は実在の人物で、応神の母であったと考えています。 さらに「足=帯」名称から想像するに、応神称制(摂政)ではなく、大王 位についた可能性が大きいと思います。本来の名称は「息長大姫」程度か も? また系譜的には多少の誤謬があるかも知れませんが、概ね・・・ 開化ー彦坐王ー山代之大筒木真若ー迦邇米雷ー息長宿禰ー息長帯比売 に近いと思います。つまり大王家とはかなり疎遠な王族出身です。 (開化五世孫ですね) ここで、少し(多いに?)飛躍しますが、Awajiは倭国大王家には、大王 家(或いは倭国)の危機に当っては、女王を立てる密かな慣習があったの では無いかと睨んでいます。所謂「祭祀女王」の流れ(伝統)です。 これが「天照大御神」祖神伝承であり、倭国大乱後の「卑弥呼・壹(臺) 與」女王であり、「斉明」重践(或いは「推古」も?)では無いかと思う のです。 おそらく「神功」もこの流れの変形として捉えれば良いのでは無いでしょ うか? それでは、何故に後世大王として公認されなかったか? 何故に神功・応神について異常なほど神話的潤色が為されているのか? これについては以下のとおり想像しています。 1.仲哀には「大中姫」との間に既に「香坂王・忍熊王」が生まれていた が、「大中姫」は次の系譜??を持っており、むしろ「神功」よりは 出自が良いのでは無いか? 訶具漏比売=======景行=====伊那毘能若郎女 │ │ │ 白銀=== 大江(枝)王 倭建 日子(彦)人大兄? │ │ │ 大中(津)比売 仲哀 大中姫? *記では訶具漏比売は倭建の曾孫の子とされており、年代的に無理があり 過ぎ(二人の倭建命説もある)右の系譜に敢えて手を加えたのでは無い かと思われる。 2.従って、本来は「大仲姫」が正妃(オオキサキ)であり、「香坂王・ 忍熊王」が正嫡であったのでは無いか? 3.「神功」は「仲哀」が南韓前進基地を北九州に設けたのに伴い、随伴 していた劣位の妃であり(誉屋?・誉田の二児も同伴)準祭祀女王的 役割も果たしていた??(書紀では誉屋は別系) 4.仲哀は恐らく高句麗との戦乱の中での「戦死」か「暗殺」であり、そ の後直ちに「香坂王・忍熊王」の何れかが大王即位したものと思われ る。 5.南韓戦争方針を巡り、中央(香坂王・忍熊王)政権と実戦武将(豪族   )の間に亀裂が生じ、ついに実戦武将は神功(の二児?)を奉じて反 乱を起こした。(中央の南韓撤退方針に反して戦線を拡大した?) 6.その結果、祭祀女王的立場にあった神功の神威?で勝利を収め、中央   政権を打倒した。(5・6の前後関係は逆かもしれない) 7.この後、神功が大王として南韓戦略を指導した・・・しかし、後世の   史官はこの大王位簒奪を隠蔽するため、神功大王即位を秘匿し応神称   制と位置付けた。   さらに、応神即位(簒奪)と南韓支配を正当化するため、様々な神話   的潤色を加え、応神が神の意志により南韓の支配権を与えられ、倭国   の大王位に着くべき人物として誕生したと記述したものと思われる。 8.この様な大王位簒奪があった場合には、新大王の権威は弱体化或いは   強大化するかの何れかとなるが、神功・応神は南韓の勝利と神威を盾   にとって、大王権の権威を高めるのに成功したのでは無いか? Awajiは祟神(卑弥呼)期前後(三世紀後半)に並立的連合王国から、中 央集権連合王国に変化し、南韓戦争と大王位簒奪を経て、神功・応神期前 後(四世紀末)に中央集権的(大)王国に発展したのでは無いかと想定し ています。 概ね以上のとおりですが、如何でしょうか? なお、蛇足ですが・・・・ 現代人は文字記録に頼りすぎていますので、口承伝承を軽視しすぎている 様に思います。 Awaji自身の体験ですが、小学校低学年まで母方の祖母と同居していました。 当時はテレビも無く、娯楽が少なかったためでしょう・・祖母から昔話を 随分聞かされた様です。その中に祖母の父(Awajiの曽祖父)の道楽話が ありました。おそらく幕末から明治初期の話で、祖母が母親から聞かされ た話だと思います。 (絶対年期は聞かされなかったのですが・・・米相場の推移から概ね時期 が推定できます・・・いわば外国史書との照合ですね(^0^)" この話について言えばAwajiは祖母の話を完璧に記憶しています(何故完璧 かと言うと・・・祖母の十三回忌に親戚の叔父叔母や姉と偶々照合したの ですが、全員全く同じ話を記憶していたからです) 仮にAwajiが孫と同居していたとして、この話を伝承させようと努力すれば、 不可能ではありません。恐らく孫達が60歳近くになっても完全に記憶して いるでしょう。・・・・Awajiの孫はこの人物の五世孫に当ります。 つまり、テレビのポケモンや英語の単語を覚える必要が無い時代に、何世 代かが同居しており、その家系を記憶する事が社会的に必要とされる場合 には、十世代程度の系譜と主要事績を伝承させるのは、極めて簡単なこと だと思います。 (土地や水利を巡る協力・抗争・仲裁、談合和解、結婚、養子縁組、にお ける氏族関係の確認は、おそらく現代人が想像する以上の意味を持ってい たでしょう。) 関東(当時で言えば辺地です)の大豪族ですら・・七世孫の系譜を誇って いるのです。 意富比土危ーー多加利足尼ーー弖巳加利獲ーー多加坡次獲居ーー多沙鬼獲居 ーー半弖比ーー加差坡余ーー乎獲居臣 何故に大王家で十世孫程度の系譜が残らないとお考えになるのか良く分か りません。 (崇神〜雄略で八世孫、継体で十世孫、聖徳太子は十三世孫になります。) Time : 1999/ 8/10(火) 23:10:02
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 遅くなりましたが,Awaji様,解説ありがとうございます Comments:  大変詳しく解説いただきありがとうございました。 レスが遅くなってどうもすみません。皆さんもお盆休みで しょうか、ほかの方の記事が出ませんね。さて、 >推古・斉明天皇あたりの女帝がモデルになったとすれば、 >継体・欽明時代には勿論のこと、聖徳太子時代の史書にも >神功・応神伝承は無かったことになりますが、 >これも無理があり過ぎると思います。 は確かに強い説得力があると思います。 タラシ名称の変遷の件や、危機時の女帝擁立の流れも良く分かりました。 ただ、小生が津守氏の件で間違ったことを書いていましたので, 訂正とお詫びをさせていただきます。該当個所を 「神功伝説は住吉神を守る津守氏自身の伝承と, 推古・斉明天皇あたりの女帝伝説をもとに 朝廷や記紀関係者がでっち上げたものではないか」 とするべきでした。直木説についてあまりにも下手な要約でしたので, あらためて少し詳しく述べることにします。  Awaji様もおっしゃっているように、津守氏は大した豪族では 無かったようで,せいぜい百済や高麗の外交で活動したぐらいですが, それを逆に神功伝説捏造の根拠のひとつにされています。 あまり重要な位置にいなかった津守氏ですが,万葉集(巻2、109)をみれば、 津守連通が大津皇子についてスパイ行為をしたことが伺え,天武・持統の 諜報部の幹部ではないかという仮説を立てています。それとシンクロして, 神功以来ほとんどなかった住吉神・住吉大社の記事が、天武期末期から 持統(6年あたり)にしばしば記述が出始めることをあわせて述べています。 神社関連で言えば,同様に、新羅征伐の重要拠点であるはずの香椎宮も、 新羅との緊張関係が有った斉明・天智朝にも記事が見えず,天平9年まで 言及されない。神社関連では,これらの問題点を指摘されています。  さらに、「神功期の新羅遠征が史実に基づくものならば,当時建国間も無い 弱小新羅よりも、最大のターゲットは高句麗であり,好太王碑に見られるような 実際の戦いの話がもっと語られてしかるべきであろう。それは、むしろ6世紀以降に 新羅が現実の最大敵国になってからの話のほうに近いのではないか」 という推論や、その他後世との多くの類似性・整合性をもとに比較検討され、 結論として神功は、推古・斉明・持統がモデルであるとされています。 ついでながら、直木先生は水野説支持ですので当然かもしれませんが、 危機時の女帝擁立で卑弥呼に結びつけるのは,時間的・空間的(および血縁的?) 隔たりが大きいので,無理があるという意見のようです。上記の説も基本的に 継体別王朝説の一環としての仮説でしょう。  もちろん,高句麗に触れていないのは,逆に真実の部分のみを記した証左であるとも 解釈可能ですので,小生は直木説を支持していませんが,Awaji様の ように知識も無く,自力で漢文も読めない小生の力量では(もちろんベテランの 学者なのであたりまえですが)直木説に強く反論は難しいというところです。  記述にミスがありましたので,後ろめたさから少し直木説に深入りしてしまいましたが, Awaji様のお説に戻ります。「劣位の妃」ゆえに脚色がなされたという視点は 魅力的ですが,話の流れのうち、やはり断り書きされている5、6あたりが少し捉えにくく 感じます。疑問点は,  「劣位の妃が、なぜ仲哀死後も引き続き指揮を取りつづけ、中央の方針に逆らってまで   攻めつづけたのか? さらに多くの支持を得て中央政府に勝てたのか?」 というところで,小生なりに想像してみたのですが、  「もともと神功は祭妃的な力を認められており,仲哀に同行したのもそれが大きな理由で,   仲哀の死の直後も(おそらく生存中も)提案した作戦・戦術等がみごとに成功しつづけ   まさに実戦武将たちから神様扱いされ、心酔されていた。この方がいれば,絶対に   負けるはずが無いとまで思われた。それに対し中央の逃げ腰が反感を買い,   神功支持へ大きく傾いていった」 という流れで,Awaji様の7、8へとつながるのではないでしょうか? 全くの素人考えですが、小生なりにAwaji様のご説明とも整合的な流れだと考えました。  後半の口承の部分については,説明部分はもちろん問題無く思いますが, 何に対するご説明をなさっているのかが少しわかりづらいです。 小生は日本書紀の系図一巻が消失した理由を想像して,重要機密とされていたので 本もあまりなく、後世に伝わらなかったのではないかと述べたつもりですが, そのことでしょうか? 小生は口承伝承を軽視したつもりは無いのですが、一般論を 述べられたのでしょうか? Time : 1999/ 8/17(火) 13:05:26
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「神功・応神神話」?? Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。RESありがとうございました。 Awajiも明日から暫く国内を離れますので、取り敢えず・・・ >>あまり重要な位置にいなかった津守氏ですが,万葉集(巻2、109)をみれば、 >>津守連通が大津皇子についてスパイ行為をしたことが伺え,天武・持統の諜報 >>部の幹部ではないかという仮説を立てています。 Awajiは、津守連通の属人的な役割であり「諜報部の幹部」は疑問に思いますが、 仮にそうであっても記紀の神功伝説が本来彼等の伝承であった事にはならないと 思います。(津守氏は尾張氏同系氏族で海人(部)族との縁が深く、南韓争覇戦 においても、然るべき役割を果たした可能性は大きいと思いますが・・・) >>「神功期の新羅遠征が史実に基づくものならば,当時建国間も無い弱小新羅よ >>りも、最大のターゲットは高句麗であり,好太王碑に見られるような実際の戦 >>いの話がもっと語られてしかるべきであろう。それは、むしろ6世紀以降に新 >>羅が現実の最大敵国になってからの話のほうに近いのではないか」 この問題に関して言えば記紀が・・・・ 1.「倭五王」朝貢・册封記事を抹殺したこと。(呉外交記事に痕跡あり) 2.新羅に対する度重なる侵略、略奪を全て抹殺していること。 3.神功の南韓戦が極めて神話的に語られていること。 と関係すると考えますが、要するに記紀が「神国思想」に基づく「思想的史書」 であるためと思われます。 つまり記紀の立場では、「神国」が中国の従属国であったことは認め得ない事 であり、南韓に対する支配権も武力侵略等人為的なものでは無く、神の意思に よるものであると主張したかったのでしょう。従って「倭武王」のような露骨 な軍事支配権ではなく、神威による必然的支配権としたのだと思います。 応神が胎中天皇とされたのも、神意により生まれながらにして「倭国の大王」 であり「南韓の支配者」であることを強調するためでは無いかと想像していま す。(これは神功・応神による大王位簒奪を正当化することでもあります。) 神功の大王位簒奪と南韓作戦の成功の影に、個人的祭祀力(呪術力)があった 可能性はご指摘のとおりだと思います。加えて神功(応神)が天日矛の血統を 受継ぐものとして任那加羅人の支持を得たことも南韓作戦遂行に有利に働いた のでは無いかと想像します。 (忍熊との戦闘にも参加した可能性があるかも知れません。) 多遅摩俣尾 │ 天之日矛===前津見 │ 開化 多遅摩母呂須玖 │ │ 彦坐王 多遅摩斐泥 │ │ 山代之大筒木真若 多遅摩比那良岐 │ │ 迦邇米雷 多遅摩比多訶ーー多遅麻毛理 │ │ 息長宿禰======葛城高額比売 │ 息長帯比売 口承伝承に関しては、あくまで一般論ですが、多くの学者がこれを軽視してい る様に思えてならないのです。 大王家系譜は大王家は当然ですが、大豪族も当然熟知している筈です。(政略 的同化伝承もあったと思いますが、多くの大豪族は大王家との関連口承伝承系 譜を持っていたでしょう。また、勇者ロトさんが御指摘される様に大王の祖神 との霊的つながりも無視できません。) 従って、応神にしろ継体にしろ簡単に自己の系譜を創作、詐称出来るとは思え ないのですが、水野さんはじめ多くの学者が創作、詐称、曲筆論に立っておら れることに対する実体験的批判です。 Time : 1999/ 8/17(火) 17:38:32
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様ありがとうございました Comments:  お忙しい中、小生の疑問をほとんど片付けていただき, ありがとうございました。 (ほとんどというのは控えめな表現で,本当はすべてといいたいのですが, 考察の浅さゆえにまた疑問が起こる可能性があるのでそう表現しました) また考えがぐらつくかもしれませんが,そのときもご教示お願いいたします。 まずはお礼まで。 Time : 1999/ 8/19(木) 11:53:09
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天之日矛の伝承 Comments: みなさん、おひしぶりです。Awajiさん、外国はどうでしたか? いよいよ夏休みも終わりが近づいてきました。みなさんはどうお過ごしでしょう? 最近、私はYahooの掲示板の日本史に凝ってまして大国主についてのトピックを 作成していろいろな方にお話を聞かせて頂いております。 そちらのほうでも天之日矛は話題に上がってます。 さて、その天之日矛なんですが、大国主(あしはらのしこおのかみ)と播磨の国の 取り合いしたことで有名です。 息長氏(姓は君でしたっけ?)の祖先としても天皇家(天孫)の系譜に連なってい るのはAwajiさんのご紹介にもあります。 口承による伝承は、錯誤や誤謬を招くおそれもあるとは思いますが、祖神伝承や、 祖先の大きな転換期(例えば分家したとき)などは、それに連なる説話などもある でしょうから信憑性も十分あると考えております。 このように考えると継体天皇の「応神五世の孫」というのも信憑性はあると思います。 武烈とは直接の血縁がないため「王朝交替」と捕らえることも可能かもしれません が、朝廷内の勢力基盤自体に大きな変動がない以上この言い方をするのは早計なの かもしれません。 以上が「継体天皇について」の私なりのまとめとさせていただきます。 Time : 1999/ 8/29(日) 21:56:43
Name : 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 毛利輝元 Comments: おひさし〜!!! みなさん元気ですか?最近投稿がすくないですね? 以前棚上げしてた毛利輝元くんについてのはなし聞いてくださ〜い。 毛利輝元は何を考えて大阪城にやってきて、西軍総大将をひきうけたか? なんですけどー。 わたしは、やっぱり三成とえけいに一杯くわされたんだと思います。 何故かというと、毛利の中でも「豊臣派(三成派)」と目されていた秀元までが 輝元の上洛を止めようとして諫言しているからです。(毛利家文書) これは、毛利家という集団は、「元就以来の旧領だけは守る」という1点でしか 意思統一が出来ていないという事を表わしているとおもうんだけど・・・・? 毛利輝元もこれは理解していたと思うのですが、偉大な祖父や叔父たちに負けない 功績を残したいという個人的な欲望が大きかったため三成たちに利用された形にな ったのでは? 毛利は中国地方から動かず、豊臣と徳川のバランスを左右していたほうが得策だっ たのかもしれません。 でも、戦国の世に大名となれば「天下を掌握する」という夢はすてられないですよね!! この時の毛利家としての挫折が明治維新につながる怨念を生んだのでしょうか? Time : 1999/ 8/29(日) 22:27:43
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 金田一耕介の孫娘さん、なつかしいぞよ! Comments: >これは、毛利家という集団は、「元就以来の旧領だけは守る」という1点でしか意 >思統一が出来ていないという事を表わしているとおもうんだけど・・・・? これは卓見だと思う。賛成だ。  しかし、いっぱい食わされたという点はどうかな?  勝ち目がないのに、だまされて担がれた、という意味だとおもうが、今でこそ 徳川家康と石田三成は比べ様も無いほどネームヴァリューに差がある。しかし、当 時 豊臣秀頼を担いで上杉が後方から徳川を衝く態勢さえ整えたかに見える西軍が 必ず負ける、と判断した者が多数とは思えないのだが。  もし西軍が勝てば、毛利は第二の徳川にもなり得たのではないかな? Time : 1999/ 8/30(月) 01:50:14
Name : 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 違います Comments: >勝ち目がないのに、だまされて担がれた、という意味だとおもうが、 そうではなく、三成たちは別の用件で毛利の意見が聞きたいと呼び出したのです。 毛利輝元自身も西軍の総大将になるために大阪入りしたのではなく、あくまで 上杉討伐に出かける家康の代理として大阪の政務を行うために入城したはずです。 勝ち目のあるなしでなく、家康と戦う事を隠していたのではないでしょうかという 意味で〜す! それと結局勝ち目があると踏んだから西軍の総大将になったのであって この時点では西軍の三成のほうがうまく事を進めていたのだと思います。 大阪入場を阻止しようとした毛利秀元も関ヶ原では主戦派となってますから 前段階では余程西軍が有利だった証拠です。 一杯くわせたのは西軍の総大将になったことではなく、大阪に呼び寄せる口実のことだよー! それと >もし西軍が勝てば、毛利は第二の徳川にもなり得たのではないかな? これはどうかな?西軍が勝つという事は石田三成に足りなかった「武功」がつく ということだから、官僚主体の豊臣政権が出来あがることにつながるの。 つまり〜、豊臣型中央集権が進み、第2の徳川は存在できなくなると思うの。 毛利は第2の徳川というよりも宿願だつた九州北部への進出を進め、豊臣政権の 大宰府に祭り上げられたんでは?とおもいま〜す!! Time : 1999/ 8/30(月) 02:31:41
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 金田一耕介の孫娘さまへ Comments: 早速の Res、うれしいよ〜ん >そうではなく、三成たちは別の用件で毛利の意見が聞きたいと呼び出したので す。  ごめんな! 余りの嬉しさに勇み足だった。ごめん。 >つまり〜、豊臣型中央集権が進み、第2の徳川は存在できなくなると思うの。  石田の理想は官僚主導の政権だったから、全て彼の思い通りなら、そうなった ろう。このHPでも以前、関白豊臣秀頼の権威という公武合体型の政権が出来たので はないか、という意見があったが、ワシは時代の要請、というものがまだないと思 う。明治維新の場合、やはり武力制圧によって達成されたのに官軍側の大名さえ 武装解除され家臣団は解体されてしまう。これは外国勢力による侵略の危機、とい う条件下で達成されたものなのではなかろうか?  Time : 1999/ 8/30(月) 06:49:59
Name : 輔住 E-mail : Title : 西軍勝利!その後 Comments: みなさん、お久しぶりです。 >つまり〜、豊臣型中央集権が進み、第2の徳川は存在できなくなると思うの。 すぐそういう形になるのは厳しいと思います。 輝元を総大将にしたため、毛利の勢力は大きく伸びるでしょう。 太宰府に左遷など飲むことはないでしょう。 もちろん、三成ら5奉行の発言力も大きくなるでしょう。 ですから、彼らが対立する可能性もあるでしょう。 そうなったばあい、宇喜多秀家や上杉景勝らが どちらにつくかによって、豊臣政権の形は変わるでしょうね。 (そうした西軍の大名がどちらにつくかは今の段階では予想できませんが) Time : 1999/ 8/30(月) 12:15:16
Name : きんたろう E-mail : Title : 西軍勝利!!関東編 Comments: お久しぶりですね、みなさん。(^^) 夏休みはいかがお過ごしでしたか? もし西軍が勝利した場合、関東から東北にかけての勢力図も大きく変化したことは 間違いのないところだと思います。 会津の上杉は「関東管領」ですから強引に江戸に移封を迫ったものと思われます。 これに対して、豊臣政権としても拒絶する訳にもいかなかったのではないでしょうか? 江戸は上杉の本領となったと思います。 それでも全ての徳川領を引き継ぐことはできなかったと思いますので、 (巨大すぎると徳川の二の舞になると思われますので)150万石位の領土に なったのではないでしょうか。 そうすると会津80万石が空き屋になりますが、この地は佐竹、伊達がお互いに 総力をかけて覇権を争った所でもありますから、芦名家が再興されるか、佐竹の 分家がここに興ったかのどちらかだと思います。 そうすると佐竹家も150万石以上の大大名になりますので、おそらく大老の 地位に着いたのではないでしょうか。 ただ、上杉、佐竹はともに三成派ですから三成としてはやりにくい状態ではなく、 逆に権勢はかなり高まったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 8/30(月) 12:46:25
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 輔住さん、ひさしぶりじゃの Comments:  結局石田は関白秀頼あるいは天皇を背景とした官僚制(中央集権体制) が理想、そしてソウでなければ目がない。  一方の毛利はその路線でいけば面白くない、というより、中央集権体制 が徹底すれば、明治維新のような武装解除ということになる。  結局この両者は相いれなかったのではないかな?  この時代やhりまだ軍事政権が続くと思うので、第二の徳川が必要となるだろ う。  ところで、明治維新のときに、どうして旧藩主が武装解除されるような方向 に進む事が出来たのか、どなたかおしえてくださらんかのう? Time : 1999/ 8/30(月) 12:57:46
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >上杉、佐竹はともに三成派です  これは反徳川と言うことではないのかな?  こだわるようだが、もし石田を側近とする秀頼政権が明治維新のようなこと をやり始め、軍閥たる大名を解体する方向に向かったらたら上杉、佐竹はどう しただろうか? Time : 1999/ 8/30(月) 13:05:14
Name : slashdog E-mail : Title : ひさびさの書き込みです Comments: 輔住さん、こっちではお久しぶりです(^^ >輝元を総大将にしたため、毛利の勢力は大きく伸びるでしょう >もちろん、三成ら5奉行の発言力も大きくなるでしょう。 >ですから、彼らが対立する可能性もあるでしょう。 遥か昔(笑)、ここで「関ヶ原」の話題が上がったときに、述べたのですが 恵瓊としては、義昭を頂いての西上作戦の時のように、毛利に天下を!と言う 野望に燃えた結果が、西軍総大将ですから、西軍が勝っていれば 三成との意見の対立は避けられないかも知れません。 三成にしても恵瓊の協力がなければ、あそこまで人数集らなかった訳ですから 厳しい選択を迫られるのではないでしょうか? ということで輔住さんの意見には賛成です。 Time : 1999/ 8/30(月) 16:22:48
Name : slashdog E-mail : Title : アトムボーイ1さん お元気でしたか? Comments: >ところで、明治維新のときに、どうして旧藩主が武装解除されるような方向に >進む事が出来たのか、どなたかおしえてくださらんかのう? 私も詳しくはありませんが、私なりの考えでは順調に武装解除は行われなかったのではないかと思います。 4年に廃藩置県で禄を奪われて、6年に徴兵令、この辺りで少しずつ藩兵を 解体しているようですが、下のほうでは反対勢力による反乱もあちこちで 起こっています。そして10年に西南戦争があって、これが「武士」に よる最後の戦いでした。 ですから、藩主クラスでは、政府に逆らう度胸のある人はいなかったと言うことに なりますね。藩主も無駄に戦うことで藩を潰したくなかった。 やはり、時代の流れには逆らえなかったのでしょうか? 何方か、詳しい方の書きこみ、私もアトムボーイ1さんと同じく待っています。 Time : 1999/ 8/30(月) 16:52:55
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : slashdogさま Comments:  こんにちは。おひさしぶりじゃ。ワシは夏ばて中じゃ。  石田は大久保利通にはなれなかったということかも。  しかし大久保の時代でさえ困難は極まっていたわけで、結局彼が畳の上で 死ねなかったのも当然かもしれないな。 Time : 1999/ 8/30(月) 20:00:20
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「息長氏」?? Comments: 勇者ロトさん、みなさん今日は。Awajiです。 近世史で盛り上がっていますが、相変わらず仏像オタクの古代史です。 >>天之日矛なんですが、・・・・息長氏(姓は君でしたっけ?)の祖 >>先としても天皇家(天孫)の系譜に連なっているのはAwajiさんの >>ご紹介にもあります。 ロトさんは充分ご理解の上でのコメントだと思いますが、チョット誤 解を招きやすい部分ですので・・・・ 通常言われる「息長氏」・・・ 公(キミ)姓から、八色姓制度で真人(マヒト)姓となる・・・は、 応神→若野毛二股→→息長真手の系統ですので、基本的には天之日矛 とは無関係です。 ただ敢えて言えば、若野毛二股の祖母=応神母は、息長足姫=神功で あり、彼女の母である葛城高額姫は天之日矛の五世孫とされています から、息長大足姫も母系的には天之日矛の子孫であり、その子である 応神→若野毛→息長氏も天之日矛の子孫であると言えますが、そこま で言えば、継体も同様であり系譜的にそこまで広げるのは無理があり ます。 一方で、息長大足姫の父系は開化四世孫の息長宿禰とされていますが、 この息長も天之日矛とは基本的には無関係であり、つまりは天之日矛 と息長氏を結びつけることは系譜的には不可能です。 このような分かり切った事をグダグダ申し上げるのは、XX氏と言う 場合には、基本的に父系主義が貫かれており、その母系が問題にされ ることは殆ど無いにも係らず、息長氏と天之日矛を結びつける議論が 意外と多いからです。 例えば・・・蘇我韓子の母は、韓人系であった可能性が高いと思いま すが、その母の系統は不明ですし問題にもされていません。 韓子は満智の児として蘇我氏なのであり、その祖先はあくまで父系の 武内宿禰とされ、各々の母系が云々されることは一切ありませんね。 大王家に関しても蘇我氏やその他の大豪族の様々な血筋が導入されて いますし、その大豪族の母系には更に様々な血筋が混入している筈で すが、その母系をもって大王家の系譜(先祖)に連なるとは言えない でしょう。・・・些細な表現上の問題ですが、念のため。 なお、今回は台湾中部の花蓮(例の爆発事故の前日に離れました)等 に遊びに行ったのですが、チョット気づいた事がありました・・・ それは「ワッショイ」と言う掛け声に関してです。 近年、これを韓国語「ワッソ」に結びつける俗説がまことしやかに語 られ、「天王寺ワッソ」等と言うイベントもあるほどです。 (「ナラ」も同様です。韓国では「ナラ」が韓国語であると言う俗説 を殆どの人が信じているようですね。) ところが、台湾山岳少数民族の歌舞の中で若者が立ち上がる時の掛け 声が明らかに「ワッショイ」だったのです。 これに関して言えば・・・ 1.日本統治時代に「ワッショイ」と言う日本風掛け声が取り入れら   れた。 2.倭人と台湾山岳民族との古代における血縁(交流)の痕跡である。 3.自然発生的掛け声であり、両者の類似は偶然の結果にすぎない。 等が考えられますがガイドさんの話では、1は考え難いとのことでした。 Awajiが子供の頃に祖母から聞いた話では「ワッショイ」は「我背負い」 によるもので、「儂が・・神さんを・・背負っているんだ」と言う誇り を強調する言葉だと言うことでした。 ・・・このバアちゃんの解釈が正しいかどうかは分かりませんが、何れ にせよ台湾山岳民族の「ワッショイ」と韓国語の「ワッソ」を結びつけ るのは1以外には不可能です。 そして1の蓋然性が少ないとすれば、台湾山岳民族と日本に共通する掛 け声「ワッショイ」を韓国語「ワッソ」と関連づけること自体に無理が あると感じた次第です。 Time : 1999/ 8/30(月) 22:05:43
Name : Toshy E-mail : fwjd2293@mb.infoweb.ne.jp Title : きましたよ〜 Comments: 「関ヶ原」はノムさんと激しくやり合っていらい避けていましたが、やはり黙っていられない(笑) 好敵手ノムさんの登場も待たれます まず、金田一女史様のご意見<いっぱい食わされた>に対する疑問。 ただ呼び出されたとすると、毛利が大軍団を率いての上洛、というのは不自然だと思います。 ここはやはり、毛利が天下を狙って、つまり騙されたふりをして出てきた、と考えてはいかがでしょう? 西軍勝利の暁には、毛利・宇喜多・上杉・石田の対立が予想されます。 この中では宇喜多と石田が手を組み、豊臣を守り立てようとするのは想像に難くありません。 上杉と毛利が手を組むことは想像しにくい。 石田としては、佐竹と手を組んで上杉を牽制し、 宇喜多と結んで毛利を防ぐ、という考えがあったかもしれないですね。 ただ、西軍が勝った場合、東軍の徳川に匹敵する絶対強の者がいないだけに、 戦国の世に逆戻りしたのではないでしょうか。関白秀頼が誕生する前に。。。。。。 Time : 1999/ 8/30(月) 23:08:16
Name : きんたろう E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ Comments: 素速いレスですね(^^; ありがとうございました。 17世紀前半に明治維新が起こる可能性については考えてもみませんでした。 当時の戦国大名達はそのほとんどがユナイテッドステーツ形態だった訳ですから その権力が部下に及ぼす影響は江戸時代を経ていない当時は遥かに低いもので あったはずです。 信長のように全てを打ち倒すといった方針を貫くことが出来なければ強力な中央 政権は誕生しなかったのではないかと思います。 秀吉は政権奪取に「寝技」を使いすぎたきらいがありますので、その執政官たちが 例え画策しようとしてもそれは自分たちの政権の崩壊を意味する事と同義語だった (当時においては)のではないでしょうか。 おそらく室町期のように大老に代表される大大名たちと、豊臣政権執政官たちの バランスの上で運営されたのではないでしょうか。 三成達の優秀さはスタッフという点においてだと思います。 Time : 1999/ 8/31(火) 00:05:18
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天之日矛と息長氏 Comments: みなさん、こん@@は。Awajiさんレスありがとうございます。 「わかりきった事」という事ですが、俗説通説の乱れ飛ぶ古代史ファンの世界では Awajiさんのおっしゃるように天之日矛=息長公というような記述が多く見られます ので、神功皇后は天之日矛の子孫としてある意味王朝交替説の理由のひとつとして 考えられる事が多いと思います。私もそう思ってました。 父系を重んじる傾向が強い以上、母系が天之日矛の子孫という側面は当時の人々 は大した意味はなかったという事なんでしょうか? 父系主義的な系譜上では母系はあまり問題とされてないにも関わらず、天之日矛が 系譜伝承として残された点には非常に興味をそそられます。 天之日矛とは一体何者なんでしょう?一般的には但馬あたりから上陸した武装勢力 を神格化したものとかんがえられているようですがAwajiさんはどうお考えになら れますか? 話を突然変えてすいません。 台湾でのワッショイの話は古代史を考える上でいろいろと示唆するものがありますね。 所でAwajiさんは以前ご先祖が淡路出身のためこの名前を考えられたとおっしゃって ましたが、{izawa}をひっくり返してjとzを入れ替えてらっしゃるのでは? もしそうなら「反井沢」という意味にとれますね(笑)もしくは井沢先生ご本人 とか???(勝手な推測、すいません) Time : 1999/ 8/31(火) 00:24:16
Name : くずみ ゆら E-mail : Title : 関ヶ原西軍勝利後の状況についての疑問 Comments: みなさん、はじめまして。以前からここを覗いていたのですが、書き 込むのは今回が初めてです。 史実では、関ヶ原の戦いにおける敗者は、そのほとんどが完全に牙を 抜かれてしまったような状態になってしまった訳ですが、それは戦後 の処置が、家康だけの思惑でやれたからではと思います。 西軍が勝者になった場合は、あそこまで各大名に対してやれなかった のではと思います。 その場合、関ヶ原後も東軍に荷担した、あるいはそう見える行動をと った大名で、豊臣政権に影響力を持ち続けることができる者が存在で きたのではと思います。 そのような大名の存在の可能性を考えずに、関ヶ原戦後の状況を考え るのは難しいと思うのですが、みなさんはどのように思われますか? いろんな方の考えをお聞きしたいので、よろしくお願いします Time : 1999/ 8/31(火) 00:45:36
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 西軍勝利のシュミレーション Comments:  歴史のIFほど面白いものはないですな。  ワシには西軍勝利後も石田を主体とした(豊臣)政権が出来たとは思えんよ。  彼自身が軍事政権の盟主たるには非力であり、実権を一時的にせよ握ったなら ば中央集権化を目指さなくてはならないと思うからじゃ。  となれば、バックが天皇であれ、関白秀頼であれ、後醍醐天皇の建武の新政の ようになった、と思うな。  秀吉は朝鮮出兵をしておるから、このときに国家意識が高まって、明治維新 のように、石田の目指す中央集権化が出来たのではないか、という思いもあるが、ちょっとわからん。  ということで、Toshyさんと同意見じゃが、第二の徳川がでるまで内乱が続いた と考えとるよ。第二の徳川の候補者としては、、やはり毛利かな。  きんたろうさんのおっしゃる、>おそらく室町期のように大老に代表される大大 名たちと、豊臣政権執政官たちのバランスの上で運営されたのでは< 石田のシナリオのなかでは最上のものの一つであろうな。  ところで小早川はこのシュミレーションではどう扱うんじゃ? Time : 1999/ 8/31(火) 02:13:40
Name : Toshy E-mail : Title : 西軍勝利?? Comments: もし西軍が勝利した時、というお話ですが、 くずみゆらさん(はじめまして!)のおっしゃるように戦後処理は難しかったでしょうね。 徳川にとどめを刺すことが出来たかどうかも疑問ですが、 もしそれが出来たとしても、伊達・黒田といった地方の強豪への処分は一歩間違えば大乱のもとになる。 ちなみにToshyは前に、五大老(宇喜多・毛利・上杉・前田利政・佐竹)と 五奉行(小西・長束・増田・大谷・前田玄以)による合議制、 そして石田三成は執権みたいになる、と考えたこともあるのですが、 なんか秀頼による政権をもくろむ淀君と三成が対立し、 別の形で大阪の陣が起こったのでは?なんてふと思いました。 なお第二の徳川候補は、やはり石田三成しかいないような・・・・ これは戦後処理で100万石の大名になったら、の話。 能力的に三成を上回る人材は、見つからない。 Time : 1999/ 8/31(火) 09:46:25
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 石田 Comments:  Toshyさん、どうも  そうか、確かに石田は"勝てば官軍”の親分ですからね、一気に大大名 にも成れたわけだ。とすれば石田?それも執権として、。これは大賛成。  不確定要素としては徳川の残存勢力があるが、家康さえ死ねば、石田の 智謀でじわじわとつぶせた気がしますな。  ところで古代に中央集権だとか、公地公民といったとがどうしてできたのかが 今更ながらに不思議だ。こうして石田政権について考えていても、中央集権体制 への道のりはまだまだ遠いような気がする。 Time : 1999/ 8/31(火) 10:50:00
Name : 輔住 E-mail : Title : 三成 Comments: 西軍が勝ったとしても、三成が100万石の大名になれたかは、 少し疑問です。50万石ぐらいな気もします。 そう考えると輝元や他の大名と対立すると少し不利な気もする。 そのあたりを人脈でカバーできるか? Time : 1999/ 8/31(火) 12:47:32
Name : 待兼右大臣 E-mail : Title : 関ヶ原について Comments:  もし、西軍が勝った場合、上杉景勝ー直江兼次+石田三成の体制ではないでしょうか。確か島左近が「三成が大将 では勝てない。5大老の誰かを総大将にする必要がある」という旨の事を言ったと思います。その伝で行くと、関ヶ 原で勝った場合、戦わなかった輝元よりも、実際に徳川軍と対峙した景勝の方が武勲が上になるのではないでしょうか。  贅沢を言うのならば、前田利家(5大老の中で衆目の一致するNo2)が健在のうちに彼を総大将にしておけばその点 ではもめなかったのかもしれません。(家康と対抗するには、利家でも輝元でも小者過ぎます)  もう一つ贅沢を言うと輝元ー小早川隆景と景勝ー直江兼次連合+石田三成なら何とかなったかもしれません。(但し、 隆景は関ヶ原の前に死去) Time : 1999/ 8/31(火) 16:18:45
Name : きんたろう E-mail : Title : 西軍勝利!東国編2 Comments: これは歴史上のイフですから確かに難しいでしょうね。 でもシミュレーションとしてあらゆる可能性を検討することは決して無駄なことで はないと思います。 くずみゆらさん、はじめまして。(それにしてもどこかで聞いたような...名前 ですね、笑) さて東国における巨大勢力伊達氏についてですが「西軍勝利」の結果によってまず 間違いなく改易されることだろうと思います。 運が良くても(宝寿院の影響力が最大に発揮されたとしても)、正宗は死罪と なり、無害の跡取りが選ばれ領地も半分以上削られて地縁のない所へとばされた 可能性が大だと思います。 Time : 1999/ 8/31(火) 22:13:10
Name : きんたろう E-mail : Title : 名推理!!!かも Comments: Awajiさん、勇者ロトさん、今晩は。(^^) 内容はタイトルですんでしまいました。 Time : 1999/ 8/31(火) 22:19:22
Name : 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 三成は Comments: 100万石の領地(実)より、豊臣家や天皇家などと同化する(名)をとる方策 を考えていたのだと思います。それは大義名分主義的な発想だったのでは? 秀吉から、大きな領地を与えられようとしたとき、近江15万石でいいと言った のは秀吉から警戒されないため、または三成の謙譲の精神(言葉使いが変?)を あらわしてるとかよく言われます。 私はこの話は「三成が豊臣政権内部の政策決定に更に重きをなすために自領地の 経営に携わる時間が惜しかったのでは?」と思ってます。 実際、宇喜多秀家、毛利三家、上杉家などは領地経営に苦労して中央の政局から 離れざるを得ない状態になっていてると思います。宇喜多などは秀家が豊臣重視 の路線をとったため地元では混乱がよく起こってます。 こういう想像から、三成は豊臣政権を中央集権的な政権体制に変更したいと思って いたのではないか?と思ってます。 畿内に近い大名には少ない領地のかわり思い官位をあたえ、地方勢力には大領地を 与えるかわり政権へ影響力を少なくしようとしたのではないでしょうか? 毛利が大宰府になると書いたのは、官位の上であり領地を減らされるという意味 ではありません。 ちょつと想像部分が多すぎたかな? Time : 1999/ 8/31(火) 23:01:36
Name : Toshy E-mail : Title : 総大将は、宇喜多 Comments: みなさん、こんにちは。 歴史のイフを考えるのは非常に難しいし、人によってはこれを愚の骨頂という人もいます。 でも、いろいろと想像するのもまた楽しいことです。 実際に戦闘に関わったものの中では、なんといっても宇喜多秀家の存在が大でしょう。 北政所の後押しも大きい。 西軍勝利の時には、実質的な総大将であった三成と宇喜多秀家の体制になると見ました。 上杉は関東になだれ込まなかったため、そんなに権力は得られないと思います。 毛利一族と石田・宇喜多・上杉らはうまくやっていけないでしょう。 ですから三成がもし100万石をとれなくても、諸大名との連携で毛利に対抗すると考えます。 Time : 1999/ 8/31(火) 23:06:36