Name    : Toshy
E-mail  : 
Title   : 関ケ原
Comments: 
inaさん、こんにちは。

関ケ原では、純粋に「豊臣家のため」と戦ったのはごく少数だと思います
宇喜多秀家、石田三成くらいでしょうか
それで、工作の話ですが、250万石の徳川と、
20万石の石田が戦うのでは、勝負は見えています
宇喜多はともかく、他の大名のほとんどは、お家の存続の方が豊臣よりも大事だったのでしょう
ですから、大大名である徳川にとって、日和見大名を抱き込むのはさほど難しくなかったと思います
石田三成としては、「正義」を説く以外に兵を集める手だてはなかったのでしょう

主力戦では、小早川の動向次第では戦いの行方は分からなかったので、
徳川としても「ひやひや」ではあったのではないかと思いますが....

Time    : 1999/ 6/ 1(火) 00:01:24

Name : 勇者ロト E-mail : Title : 火神子の近況 Comments: inaさん、期待は禁物(?)です。 今、火山とか火の神についていろいろ調べているのですが、なかなかうまい考え が浮かびません。火山信仰とかについて何かいい話ないですか? 縄文式土器の写真を図書館でみたのですが、見ようによると火山からの噴煙を イメージしたもののような気がします。縄文文化は弥生文化に駆逐されていき ましたが根こそぎというわけでもなかったようなので、縄文系の祭祀が続けら れた古くからのクニというのも弥生時代に残っていたのではと考えています。 邪馬台国は先進の弥生文化を持つ縄文時代から続く古いクニであるという事です。 その古いクニを倒したのがヤマトの前身という風に進めたいとは思っているので すがなかなか妥当な解釈ができないありさまです。 Awajiさん、質問への答えを変わっていただいた御礼をしていませんでした。 どうもありがとうございます。私ではあそこまで論理的には答えられなかったと 思います。 一ノ谷は「城」というイメージのほうが合うと思います。巨大な城をたった半日 で落とすという事は歴史上にも類を見ない戦争だったと思っています。 城攻めは戦争で最も難しい戦闘ではないでしょうか? 関ヶ原の合戦は、西軍、東軍双方とも既定方針通りに始まったと思ってます。 家康の誘導のためだけではなく、三成の作戦に乗ったというわけでもないと 思います。結局関ヶ原が一番決着をつけやすい地形であったという事でしょう? Time : 1999/ 6/ 1(火) 01:10:20
Name : ina E-mail : Title : Toshyさんへ Comments:  ありがとうございました。  250万石の徳川と、20万石の石田が戦うこと自体が既に壮大なロマンです ね。皆さんの議論の中で「惜しいところだった」「もう少し」といった、石田ひ いきの気持ちが垣間見られるのも当然でしょうね。  もし石田が勝った場合、依然として政治は合議制、ということになったのでし ょうか?とすると、徳川という共通の敵を失って、前田も人物がいま一つ、とな ると、政権は求心力を失い、第二の徳川が出てきたのではないか、と思います。  ところで徳川はいつ頃から、天下を目指していたと思いますか?  井沢理論では、天下を目指していたのは戦国時代といえど少数で、尾張、美濃を 制した程度で天下を目指したところが、信長の英雄たる所以である、と言うことで す。  明智が信長を倒しても本気で天下を考えていた時期が余りに短く、棚ボタに近い 状態だったからこそ、ああいった結末になったかもしれませんね。  秀吉は柴田勝家というライバルを倒したことで政権を固めるわけですが、家康が 倒れた場合、誰が天下を継承したのでしょうか。  私はこう言うことを考え出すと、いつも、クリントンがケネディと握手している 写真を思い出します。クリントンは既にあの時、大統領になろう、と決意していた であろうと。   ロトさんへ  難しそうですね。しかし、火、となると、姫や、豊以上にめでたい一般名詞でな くなるので、音の一致が根拠として強くなるのではないかと思います。  (すみません。私がAwajiさんに教えを受けている部分参照してください)  火山となると、依然さっちー時代におっしゃっていた荒ぶる神との整合もしやす くなりますね。  inaさん、期待は禁物(?)です。とのことですが、これが期待せずにいられま しょうか?  ところで旅行はどうでしたか? Time : 1999/ 6/ 1(火) 04:30:59
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : お返事ありがとうございました Comments:  ノム様  どうも恥ずかしい思いをさせて、すみませんでした。 ところで、大学生活はいかがですか? 大学の計算機センター等も利用されているのですか? 質問してしまいましたが、重要な質問ではありませんので、 一息つかれたときにお気軽に触れていただければ結構です。 気長に待っていますので・・。 それより、興味をもたれている議論に全力を尽くしてください。 このあと、皆さんの議論がどのように発展するか楽しみです。  ina様  お返事ありがとうございます。 守備できるポジションは残念ながらありません。 (どこを守っても、エラーばかりでしょう) たとえれば、かなりレベルの高い草野球を楽しんで観戦している 近所のおっちゃんというところでしょう。 ときどき、強打者にボールを投げさせていただいたり、 豪速球投手の球を打たせてもらったりしている感じです。 それで、ホームランされたり、かすりもせず三振したりして 「すげーなー」と感心している絵が浮かびます。 しいていえば、ポジションは応援団のラッパ吹きぐらいです。  漫画の続きは週末まで読めそうにないのですが、 隆先生の作品は戦国時代以降に限りますので、「逆説の日本史」が もうすぐそこに到達するのを心待ちにしているところです。 小説では、「葉隠」について井沢先生とイメージが違っているようですので、 (「葉隠三百年の陰謀」と「死ぬことと見つけたり」) そのあたりの対談を望んでいたのですが・・・。 (まだ後者は読了していませんが、前者の井沢作品は十分楽しみました。) Time : 1999/ 6/ 1(火) 10:09:18
Name : ina E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments:  葉隠ですか。私は一時、三島由紀夫に狂ったことがあって、葉隠入門、 読みました。現物は教育社の現代語訳を購入してパラパラ読みました。  死ぬことと見つけたり、という鮮烈な言葉だけにとらわれると、ちょっ と違うかな?という印象を持ったのを覚えています。  ただ、当時は三島が私にとって絶対でしたから、三島解釈が絶対で、山 本は二の次になっていました。ボディビルを始めたり、皇居へ新年参賀に 行ったり、、。  大阪JF生さんが実際にはお幾つくらいの方か存じ上げないのですが、 三島自決を当時、どの様に受けとめられたでしょうか?   私は幼稚園児で、盾の会の制服のようなオーバーを持っていたのですが、 親が急に着せてくれなくなった、ということしかわかりません。当時の人の 受け止め方が、今でも気になります。よろしくお願いします。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 10:33:43
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生様へ Comments: みなさん、おはようございます。 学校のパソコンは休み時間に行くと結構混雑してい るので、休講の時に使ってますがサーフィン専門で す。書き込んでいると友人が覗きに来るので少し照 れてしまうから購読中心で利用してます。いつか学 校で長文を書き込むつもりです。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 10:40:55
Name : ina E-mail : Title : 豊臣恩顧? Comments:  豊臣恩顧というのは当時の大名を分類する時に使える用語なのでしょうか?  私としては、秀吉の天下に入った大名が全て入るように思われ、むしろ石田 が仲間を募る時のスローガンとしての意味合いの強い言葉に思われますが?   極限すれば、徳川さえ、石田にすれば、豊臣恩顧であり、その大恩を忘れた けしからんやつ、という思いがあると思うのですが。  ノムさん、良かったら意見をくださいね。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 10:58:13
Name : ノム E-mail : Title : 豊臣恩顧 Comments: 本当の意味での恩顧は、秀吉によって大名にしても らった加藤、福島、石田だと思いますが家康や島津 などの諸大名も本領安堵をしてもらったという意味 で恩顧といえます。関ヶ原は天下を取るためという より豊臣政権内の主導争いが爆発したものであると 思ってます。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 11:06:50
Name : Toshy E-mail : Title : inaさんの質問に、答えます。「恩顧」の方はノムさんにお任せ(笑) Comments: inaさん、こんにちは 「もし」の方面は非常に答えにくいものではあるのですが(^^; 仮に西軍が関ケ原の勝者になったときのことを考えると。。。。 inaさんご指摘のように、合議制が続いていたことは想像できます。 メンツは変わって、 大老筆頭・宇喜多秀家 大老・毛利輝元、上杉景勝、前田利政、佐竹義宣 (我ながら佐竹が入るのは強引だと思う(笑)でも、大大名ですから) 奉行筆頭・石田三成 奉行・増田長盛、長束正家、前田玄以、小西行長 というところでしょうか ところで、豊臣政権には、普通の武家政権と違う「関白」が絡んでいるのが難しい。 小早川秀秋が関白になれるかどうかは疑問ですが、 豊臣秀頼が成人の後、関白に任じられるであろうことは考えられるわけで、 「関白型公儀」ができあがれば、第二の徳川が現れようと気には留めないはず。 どういうことかというと、諸外様大名は年始のあいさつを、 豊臣秀頼を優先にして次に徳川、という順を守っていたそうです 朝廷も大坂の陣の前まで豊臣に勅使を派遣するなど、 もと関白家というだけでも徳川にとっては厄介な存在でした。 武力ではままならない、「官位」という「武器」を豊臣家は持っていました もっとも、第二の徳川に、誰がなりうるかは、まったくの疑問です。 石田三成くらいでしょう(?!) 徳川がいつから天下を狙っていたか、ですが、 織田信長が倒れた時から、徳川は自分こそが大本命だと思っていたのでは? 豊臣の軍門には下ったものの、秀吉の死を待ち、 その後の計画をきちんと立てていたようなフシがあります Time : 1999/ 6/ 1(火) 11:32:22
Name : ina E-mail : Title : おはようございました Comments: Toshyさんへ  どうもさっそくありがとうございました。私は西軍勝利!!まではロマンを 感じますが、その後の政治は今一つですね。ただ、関白ということについては 考えが及びませんでした。関白型公儀ということも考えもしませんでした。  ノムさんへ  どうもありがとうございました。やはり大学からアクセスしていました か(ハハ)。時間的にそうだなと思ってました。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 11:49:29
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ、(皆さんすばやい!!) Comments:  早速お返事いただき、ありがとうございます。 あっという間に多くの投稿があり、驚いています。  ところで、三島ですか・・。 大阪では万博でにぎやかな年だったので、中3だったと思いますが、 三島自身の著作にほとんど触れていなかったものの、 今から思うと、当時は共感を持っていたように思います。 最後の武士的な潔さを感じていました。 欺瞞を強く感じ取っていた学生運動とは、対照的に受け止めていました。 (議論自体は、高校生になってからしかしていないと思いますけど) 周りには死ぬなんて馬鹿なやつという意見が多かったのですが、 君らに死ぬ度胸があるのか?と反感を感じたことが記憶にある程度です。  後に北一輝にも詳しい方から、「三島の最後は必然だな」という 意見を伺ったのですが、いまだ真意を理解できるまでにいたっていません。 また、猪瀬直樹氏の「ペルソナ」を読んで、三島がひ弱なお坊ちゃんだったことを 恥ずかしながらはじめて知りました。 したがいまして、三島個人についてはほとんど小生は無知です。 ご期待に添えない回答で、申し訳ありませんが、こんなところです。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 16:08:46
Name : きんたろう E-mail : Title : 餅は食うだけ Comments: こんばんは、みなさん。 わたしも話題に加わっていいですか? 家康は本当に天下を狙っていたのでしょうか。 本能寺の変で信長が倒れた後、家康は伊賀越えをし兵をまとめ上げました。 しかし、その時にはすでに秀吉が主君の仇討ちに成功していたのでした。 これは家康にとっては大誤算(と言うよりも信じられなかったこと)だったでしょう。 例え、もし秀吉の中国大返しがもう少し遅れて家康が仇討ちに成功したとしても あの時点で天下人を狙っていたとは考え難いと思っています。 この点はToshyさんと意見がちょっと違います。(^^) もし天下取りの考えを持っていたとすれば、秀吉の天才に打ちのめされたのだと 思います。 家康の行動は堅実そのものでした。(よく言えばです) 実際彼がしたこととは周辺を勢力下に収める事だけでした。 家康の行動からするとビジョンというものをあまり感じることが出来ないのです。 ただ1位とは相対的1位のことであり絶対的1位ではない、と言う論理からすると 結果的に天下人になった可能性はあるのかなと思います。 しかし家康は(他の戦国大名も同じだったと思いますが)自国の保全こそが第一 だった(一所懸命、本領安堵)ように私には感じられます。 (駄文にて失礼) Time : 1999/ 6/ 1(火) 19:09:14
Name : 999 E-mail : Title : Toshyさん、みなさんどうもすいませんでした。 Comments: みなさん、先日はちょっと興奮してしまい失礼な事を申し上げました。 どうもすいませんでした。深く反省しております。 Toshyさんに質問があります。 >その後の計画をきちんと立てていたようなフシ との事ですが、どういう点にそうお感じになられたのでしょうか? Time : 1999/ 6/ 1(火) 20:22:12
Name : 999 E-mail : Title : 追伸「Toshyさんへ」 Comments: 失礼な言葉を投げ掛けた上、質問を申し上げて申し訳ございません。 もし、お腹立ちでなければお教え願えませんでしょうか? 先日の暴言は後悔しておりますが、もしお許し願えなければ、無視して戴いて結構です。(本音です。) Time : 1999/ 6/ 1(火) 20:27:17
Name : ノム E-mail : Title : 999さん、今度はああいうのは勘弁してね? Comments: Toshyさん、実は僕も999さんと同じ質問を したいと思っていたのです。僕は信雄と結んだ時か ら具体的に天下取りを意識し始めたと思うのですが 関ヶ原の時点ではまだ隠していたと思っています。 どうですか? Time : 1999/ 6/ 1(火) 21:28:53
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 徳川家康の天下取り Comments: みなさん、こん@@は。999さん、ノムさん私もお聞きしたいです。 ちなみに私は、具体的に意識というと、やはり秀吉の晩年からだと思います。 朝鮮出兵は諸大名にとっても苦痛をともない、しかも結局何の利益もないものだ ったと思っていますので、この不満は家康に対しての期待と比例する形で増えて いったと考えています。 家康はこの秀吉の失敗を目の当たりにしたとき、秀吉の次というのをより強く 意識したのではないかと思います。 皆さんはどうお考えですか? 999さんへ 議論に興奮するのは、解るのですが、今回は行きすぎだと思います。 反省されているという事なのでこれ以上は言いませんが、これからは大人の対応 という事を考慮にいれてくだされば幸いです。 Time : 1999/ 6/ 1(火) 21:44:37
Name : きんたろう E-mail : Title : アンチ予定調和説 Comments: こんばんは、関ヶ原ファンの皆さん。(笑) ノムさんへ。 「関ヶ原の戦い」の前の時点では家康は豊臣家の家臣の立場ですから、本心を明らか にしては逆に潰された可能性の方が高いと思います。 この事は口が裂けても言えなかったと思います。 もし豊臣政権が続いたとすると三成が「執権」のような立場で権力を握っていった と思うのですがどうでしょうか? 三成には意思も能力もあったように思います。 999さんへ 「呉下の阿蒙に非ず」 Time : 1999/ 6/ 1(火) 22:26:18
Name : Toshy E-mail : Title : 実はこういう質問が来るだろうと、 Comments: 先に書いたことを後悔していました(笑) みなさん、こんにちは。 フシについては、あくまでも私の想像みたいなものですが、豊臣には後継者がいないことを考えると、 秀吉の死後は必ず大乱が起きることを予測するのは、家康ほどの人物ならありえると思います 信長が倒れた時点で、というのは、私としても少し早すぎでしたね、訂正します というわけで、長久手・小牧で秀吉と天下を争った時点では意識していたと思いますが、 やはり、それ以前はまだまだかな。ですからノムさんの意見が、一番妥当ですね 秀吉の死後を考えて健康に気をつけたり財を貯えたり(派手な生活・遊びをしなかった)、 そして伊達・小早川をはじめとする大名に恩を売っていたのは、 天下を割って戦う前の工作というものかと考えます きんたろうさんのいう、「石田三成=執権」は私も賛成です Time : 1999/ 6/ 1(火) 23:04:39
Name : Toshy E-mail : Title : 書き忘れましたが Comments: 徳川は豊臣の軍門に下ったとはいえ、トップを狙うNo.2つまり、 マラソンで一位の選手にぴったりと追走する人に例えたいと思います 999さん、前のことは、水に流そう、ということで。(^ ^) Time : 1999/ 6/ 1(火) 23:12:57
Name : slashdog E-mail : Title : 家康の野心 Comments: みなさん こんばんは 実際 家康が天下をとれるのか?と思ったのは、利家がもう長くないと わかってからだと推測します。 簡単にいってしまえば、天下を狙うなんてことは 思っていなかったと思います。 ただ、気が付けば天下が取れる状況になっていたので取ったまでのこと といった感じなのではないでしょうか? まさに大器晩成型ですな!(笑) Time : 1999/ 6/ 1(火) 23:14:56
Name : slashdog E-mail : Title : 西軍が勝っていたら Comments: みなさん またまた こんばんは 西軍が勝っていたら・・・。 当然、輝元の(恵瓊の)発言力が増すということですよね。 その為に三成に力貸したんだしねぇ。 なんか、真面目な三成と恵瓊の意見の食い違いから良からぬ 方向へ行きそうな気がするのですが、 どなたか、意見ございますでしょうか? Time : 1999/ 6/ 1(火) 23:47:47
Name : 999 E-mail : Title : みなさん、ありがとうございます。 Comments: ほっとしました。今後もよろしくお願いします。 関ヶ原で西軍が勝っていたらなんですけど、小早川の裏切りというのがあった 以上考えられないと思います。 もし、小早川が裏切らなかったらと考えたほうが想像しやすいかと思います。 石田三成は行政官としては、当時もっとも有能な人間の内の一人だとは思います が、天下を統べるという才能はなかったと思っています。 そもそも、何故小早川は石田や宇喜田を裏切ったのでしょう? Time : 1999/ 6/ 2(水) 00:45:15
Name : きんたろう E-mail : Title : 安国寺恵瓊 Comments: slashdogさん、今晩は。 毛利と恵瓊の関係は「毛利≠恵瓊」のように思っているのですが、実のところ どうなのでしょうか? 西軍が勝利し徳川の力が減少すれば、毛利と恵瓊のスクラムは崩れたのではないか と思います。(互いにメリットがないからです) 恵瓊という人物も大物だったのでしょうね。 答えになっていないですね。(すみません) Time : 1999/ 6/ 2(水) 00:47:16
Name : ina E-mail : Title : 家康の野望 Comments:  みなさんこんにちは  たくさんの意見、楽しく拝見しました。  私は彼が天下を目指した時点は、信長の天下統一の過程のどこかで、 信長の子供たちの器をそれほどでないと見た時だと思います。  ライバルとして、秀吉、勝家、更に明智を想定したでしょう。  本能寺の変は彼の動きから見ても予想外で、秀吉には出し抜かれた と思ったでしょうが、彼我の年齢差、後継者の器(秀次、秀頼)を見て、 やはり行ける、と思ったと思います。  結果をみると、幸運な偶然が幸いした、という面があるのでしょうが、 なんとなく頑張っていたら、天下が転がり込んできた、とは考えません。  信長、家康、他に秀吉、勝家、更に明智までが、天下というものををか なり早い時期から意識し、そのうち四人が天下人となった。   こう考えます。  あと、目指した時期、と、取れると確信した時期は別だと思います。  取れると確信した時期は秀次の人物、を判断し終えた時だったと考えます。  勿論模試で80%以上合格の確率が出ても、本番では不安がありますから、 例えば関ケ原の陣中で不安になってもそれは勘案しません。  早くから目指していない人に取れるほど天下餅は安くないと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 07:06:13
Name : 999 E-mail : Title : 家康 Comments: >目指した時期、と、取れると確信した時期は別だと思います。 同感ですが、目指した時期というのは推測するのは不可能でしょう。 具体的な動きが現れたというのは、小牧長久手だと思います。 それまで受動的だったのがこの頃から自ら動いていると思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 10:20:32
Name : 999 E-mail : Title : 意見? Comments: 〉なんか、真面目な三成と恵瓊の意見の食い違いから良からぬ方向へ行きそうな気がするのですが、 例えばどういう食い違いでしょうか? 恵瓊はあくまで代理人ですから、西軍の勝ちがきまれば輝元自身が動き出すでしょうし、毛利の代表者という立場は奪われると思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 10:45:05
Name : ノム E-mail : Title : 恵瓊 Comments: みなさん、こんにちわ。 僕も999さんと同じ意見です。彼は毛利家ではそ んなに高い地位ではなかったので、天下が目の前に くれば吉川、小早川そして毛利の譜代家臣にその座 を奪われたと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 11:15:05
Name : slashdog E-mail : Title : 恵瓊の地位 Comments: 恵瓊は毛利の政治・外交顧問であり、僧でもあり、また大名でもあります。 隆景、元春存命中でさえ、(天正四年の西上作戦の決定)二人を黙らせる 地位にあり、二人が亡くなったあと毛利の両川の一方を 務めてきたのです。それ故、西軍の総大将に輝元を担ぐことが できたし、もう一方の「川」である広家を退けることが できました。(この事で広家は、自分の判断で家康に(正確には家康直接ではないが)あの書状を出した。 ということで、もし、西軍が勝っていれば恵瓊の毛利家に対する 恩賞に関する申し出は相当なものと、推測できるのです。 それに対して三成はあくまで、亡き太閤殿下と秀頼様の為 五大老として当たり前の働きとしての恩賞しか ださず、毛利主導の流れには、もって行きたくないので、 ここで意見の食い違いが出るように思います。 (広家は家康に近づいた罪で発言権はなくなると思われる) 恵瓊は、単なる外交僧ではないのです。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 12:24:09
Name : 輔住 E-mail : Title : 家康の天下取り Comments: 家康がいつから天下を目指したかは私もよくわかりません。 ただ「取れる」と確信したのは秀次の死後でしょう。 予定していた後継者がいなくなり、秀吉が死んでしまえば10歳以下の 子供にはなにもできません。 そして秀吉の死後、有力大名と婚姻を結び天下取りのため 彼は動き出しました。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 12:26:26
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 家康応援団 Comments: 私は司馬遼太郎さんと山本七平さんが描く徳川家康が好きなので、 石田三成と徳川家康では人間の格が違いすぎて、 初めから勝負ではなかったと考えています。 けんかをうっているわけではないのよ・・・ Time : 1999/ 6/ 2(水) 12:55:59
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 東京裁判 Comments: 東京裁判は明らかにショウだったでしょうけれど、 A級戦犯として裁かれた人の過半数は大した人間ではないと私は思っています。 東条英機なんか、部下の暴発を恐れる小心者に過ぎませんでした。 井沢先生が「言霊の国解体新書」の中で、 「サルの王様」のたとえ話を使って説明しているように、 動機が正しくても、間違った手段を使ってしまうことは「罪」なのです。 彼らが日本を守ろうとした、あるいはアジアを守ろうとしたといっている人たちは、 ある意味で東京裁判史観にとらわれているといえます。 あの戦争はそんな立派なものではなく、 日本人の精神錯乱に近いのではないかと私は思います。 ユダヤ人が紀元前50年頃に起こしたユダヤ戦争と良く似ています。 最近忙しいのでなかなか返事が出来ません、申し訳ありません。 1,2週間に1回ぐらいしかアクセスできないもので・・・ Time : 1999/ 6/ 2(水) 13:07:03
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正およびユダヤ戦争の説明 Comments: (誤)紀元前 (正)紀元後 ユダヤ戦争は、めちゃくちゃ簡単に言えば、 帝国(ローマ帝国)と王国(ユダヤ王国)をハナカラ認めないユダヤ教と、 ローマ帝国とユダヤ王国の下で、世俗の繁栄を謳歌していた ユダヤ人が心理的に引き裂かれて、 ローマ帝国に対して全く勝ち目のない戦いを起こし、 結局滅ぼされて、ディアスポラの始まりとなった戦争です。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 13:14:38
Name : Toshy E-mail : Title : 石田と徳川 Comments: みなさん、こんにちは 安部さん >けんかをうっているわけではないのよ・・・ 安部さんがそういう人でないことは理解しておりますから、大丈夫です 石田と徳川が対決しても、250万石と20万石では話にならないのは当然です しかし三成はそれだけの小身ながらも当代の大英雄と互角に渡り合い、天下を半分に割ってのけたことは特筆です 人間の格、というのはわかりませんが、三成の才能は抜群であり、 徳川と同じとまで言わなくとも100万石ほど持っていればどうだったでしょう Time : 1999/ 6/ 2(水) 13:35:33
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 損な人 Comments: 司馬遼太郎さんの「関ヶ原」に毒されているせいかもしれませんが、 石田三成には、頑張れば頑張るほど味方が減っていく人 というイメージが私にはあるのです。 もう少し陰に隠れて、毛利輝元や豊臣秀頼を前面に出せば、 いいところまで行ったかもしれません。 つまり策士に徹すれば良かったのではないでしょうか? しかし、石田三成は真面目で正々堂々とした人でしたから、 無理な注文だと思います。 彼は信念を持って行動したのでしょうが、それが「でしゃばり」と感じられたのだと思います。 そこを海千山千の家康にすくわれた、 というより、躍らされてしまったのではないかと思います。 関ヶ原の前哨戦において、家康は正攻法で攻めているのです、 石田三成は小勢力の悲しさから、信念は美しかったのでしょうが、 やっていることは当時の人には策謀に見えたでしょう。 もし100万石あったとしたら、関ヶ原には勝てたかもしれませんが、 やはり当時の人心の機敏を一番つかんでいた家康が最終的に勝利したと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 13:57:25
Name : 999 E-mail : Title : みなさんに質問です。 Comments: そもそも、三成はどうして、加藤、福島、黒田、小早川といった豊臣の親戚筋といわれる大名と敵対したのでしょうか? この答えがいくら考えてもわかりません。みなさんはどうお考えでしょう? Time : 1999/ 6/ 2(水) 14:04:10
Name : 輔住 E-mail : Title : 豊臣家臣団の対立 Comments: 999さんへ 加藤清正、福島正則などは朝鮮にいって 戦いました。 三成は戦闘状況を秀吉に報告していました。 その過程で対立したのです。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 14:37:34
Name : ノム E-mail : Title : 輔住さん、999さんへ Comments: 僕も、対立のきっかけは輔住さんと同じ意見ですが 三成はなぜ彼らとの関係改善の努力をしなかったの でしょうか?こういう努力(したかもしれませんが ?)を怠ったもしくは成功しなかったのが三成に足 りない部分だと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 15:01:48
Name : 999 E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: 恵瓊なんですが、一大名としても関ヶ原に参戦していたのですね。 見落としていました。 しかし、毛利両川に一言いえたのはあくまで秀吉の威光を利用したもののように思います。 毛利としてはそんな人物をいつまでも自由にさせておくわけなはないと思うのですが? Time : 1999/ 6/ 2(水) 15:35:38
Name : 999 E-mail : Title : お礼と追加 Comments: ノムさん、輔住さん、slashdogさん、お返事ありがとうございました。 石田と加藤らの確執については、どなたか詳しくご存じの方いらっしゃいますでしょうか? きっかけについては、輔住さんとノムさんのいわれる事に了解致しました。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 15:42:38
Name : slashdog E-mail : Title : 三成 Comments: 輔住さん、ノムさん 私が思うに、対立と言うのは、不適当と言う感じがします。 清正や、正則にしてみれば、新参者の三成が、秀吉に可愛がられるのは、 我慢ならないものだと思いますし、三成は、朝鮮などの報告も私情を 挟まず、真面目に本当のことを報告しています。 ですから、かってに清正らが、逆恨みしているだけで、 三成に落ち度はないと思います。 (そういうところが人間味がないとか、人望が薄いと言われる所ですが) あのような組織の中では必要な人物です。 なんでも、身内だからとか、なあなあで済ましていては組織が 成り立ちません。 一人悪役が必要なのです。 三成は必要以上に嫌ったりしていないと思うのですが どう思われますか? Time : 1999/ 6/ 2(水) 17:25:33
Name : ノム E-mail : Title : それは、そうなんですが、そうするより仕方がない Comments: というのなら、関ヶ原の合戦を起こした事は三成に とって大失敗という事でしょう。まず加藤や福島を 説得できないのであれば、この戦は絶対に仕掛けて はいけなかったと思います。結果論になりますが、 三成は策士策に溺れるの感じがします。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 17:41:42
Name : slashdog E-mail : Title : 恵瓊 Comments: 999さん 輝元を西軍の総大将にした。という事実に恵瓊の発言権の 強さが証明されています。秀吉が死に天下が揺らいでいるときに 秀吉は問題ではありません。 この戰で毛利が飛躍できるかどうかという問題があるだけです。 要するに恵瓊が死ぬまで毛利の方向性は恵瓊が 握っていたということになります。 御解かり頂けましたでしょうか? Time : 1999/ 6/ 2(水) 17:44:04
Name : Toshy E-mail : Title : 三成 Comments: みなさん、こんにちは ・加藤、福島と対立した理由 slashdogさんと同意見です。 安部さんご指摘の、司馬先生の「関ケ原」はちょっと三成に厳しいところがありますが、 実際に三成は公正な態度を取っていたので、加藤・福島らの態度に問題がありました 三成が諸将を慰めようと茶会を開こうとした所、加藤清正がその場で三成の悪口をいったそうです 早乙女貢先生は、「小西行長を武将の風上にも置けない」とこき下ろしていますが、 私は加藤清正こそ、武将の風上にも置けないと思います ・関ケ原を起こさなかったら? その時は上杉が徳川に蹂躪され(多勢に無勢、徳川にはかなわないだろう)、 次は宇喜多、毛利、の順番で、反徳川勢力は撃破されていたことでしょう ちなみに、先にも記しましたが、挙兵は宇喜多秀家が先頭です これは受け売りの知識ですが、北政所が徳川を討て!と指令を出したとのこと Time : 1999/ 6/ 2(水) 18:35:51
Name : 999 E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: 説明ありがとうございます。 そうすると、広家は毛利家中で自分の発言力をあげるためだけに家康に通じた、という事なのでしょうか? ただ疑問なのは、何故輝元を関ヶ原へ出馬させる事ができなかったのでしょう? Time : 1999/ 6/ 2(水) 18:37:53
Name : ノム E-mail : Title : 三成が公正な態度をとっていたかどうかは関ヶ原の Comments: 勝敗に直接関係していないと思います。要は嫌われ ようと気に入られようと勝つためには加藤、福島の 協力は不可欠だったと思います。それができなかっ た三成の策は絵に描いた餅だと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 21:07:11
Name : ノム E-mail : Title : 豊臣恩顧を意識して戦う以上 Comments: 加藤や福島らの動きをせめて中立に追い込むことが 毛利を担ぎ出すことよりも、先だと思います。 徳川は大義名分のため三成の策謀のため起こった戦 であるとして三成の大義を損なわせたと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 21:14:59
Name : Toshy E-mail : Title : 毛利一族・その他 Comments: 「三本の矢」で例えられる毛利一族ですが(もちろん、これはフィクション)、 それは隆元・元春・隆景の三兄弟だった時代とは違い、 輝元・広家の従兄弟同士+養子の秀秋と来ては、結束力は弱くなります。 世代が代わっていくにつれ、避けられないことでした。 吉川・小早川をして「両川」と呼ばれていましたが、 小早川家の当主秀秋は血のつながりがないため、無視されていたと思われます。 そこで広家と、もう一人の従弟・毛利秀元が両腕として輝元を支えることになりました。 家康と輝元は、もともと敵対する間でもなく、兄弟の契りを交わしていました。 その輝元がなぜ西軍に走ったか。 ぼんぼん育ちということもあり世間知らずの輝元、 三成に担がれてその気になったことが挙げられますが、 雄弁な安国寺恵瓊の説得で、心を動かされたといわれています。 そこで慌てたのは広家だ。 この時徳川寄りの姿勢をとっていた広家は、上杉討伐の軍に参加しようとしていたのです。 広家、急いで家康に対し、他意はないという通知を送ります。 この時広家とともに内通行為を働いたのは、毛利一門の福原氏。 中立を守れば領土安泰、の契約を徳川と交わしたため、 毛利本隊は大阪城を動こうとはしませんでした。 なお、関ヶ原は家康に乗せられた三成、という話が前に出ました。 ノムさんの言うように、仕掛けたのは間違いと考える人は多いようです。 しかし秀吉恩顧ということを考えると、 秀吉の死後2年もすれば、恩など忘れてしまうのが当然。 三成としては、反徳川勢力をまとめるには、それ以上待てなかったのです。 上杉との密約はなかったと考えられますが、 戦略的に徳川と敵対する以上、同盟を結ぶのは自然のことでした。 佐竹は上杉討伐に参加しようとしていたが、 三成との結びつきを思って中立的立場に立ったと考えられるでしょう。 最後に。 三成の人望・人間的魅力を疑問視する意見は多いのですが、 はじめは徳川につこうとしていた毛利・島津を「曲がりなりにも」味方にしたという点で、 才能だけではないものを、私は見出しています。 ノムさんへ 三成は黒田・福島・加藤を味方につけようと苦心したのですよ でもかれらのような武将の風上にも置けない連中には、「大義」というものが理解できなかったのです 三成の落ち度とするのは、酷というものです Time : 1999/ 6/ 2(水) 22:12:46
Name : ノム E-mail : Title : 三成に感情が入りすぎていますよ、Toshyさん。 Comments: 勝つために戦争を仕掛けるのですから、大義を理解 できない相手だから三成の落ち度とするのは酷とい う言訳は通用しません。勝つための戦略を誤ったと いう事だと思います。この点は誰が何と言おうと三 成の失策です。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 22:20:25
Name : ノム E-mail : Title : 大義が理解できないのなら、知略、策略どんな手を使ってでも福島の東軍参陣を阻止するのが、 Comments: 合戦前の準備としてどうしても必要な最低条件だっ たと思います。彼らの存在を無視して大義といって も他者には余計に理解できない事となるはずです。 毛利は恩賞にひかれ参陣したにすぎないと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 22:33:51
Name : 999 E-mail : Title : 恵瓊 Comments: 毛利輝元を西軍の総大将とした功績は恵瓊のものだと思いますが、この事は却って彼を快く思わない家臣たちに疎まれる原因にもなると思います。 特に、吉川家は恵瓊(彼の背後にある豊臣家も含む)を元春の代から疎んじていたと聞いています。 元春の死因となった九州攻めの強要にも恵瓊が一役かっていたとも聞いた事があります。 こういったさまざまな軋轢からみても、毛利の国許の家臣たちは恵瓊を信用していなかった可能性も高いと思われます。 輝元本人には、豊臣の威光を背景に気に入られていたかもしれませんが、毛利家中での発言力が高かったとは一概には言いきれないと思います。 西軍が勝ち、毛利家の地位があがったとしても、豊臣の威光抜きでは恵瓊は毛利家中で浮いた存在になったと思います。 穿った見かたでしょうか? Time : 1999/ 6/ 2(水) 23:15:53
Name : 999 E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: 石田三成のミスとしては、ノムさんの意見に賛成とさせていただきます。 三成の人物評価としては、Toshyさんの言われるとおり捨てたものではないと思います。 Time : 1999/ 6/ 2(水) 23:19:58
Name : Toshy E-mail : Title : 石田三成と Comments: 加藤・福島の対立は感情的なものになっていたので、 これは失策といってもしかたないのですが、三成としては徳川に勝ち目のない戦いを挑み、 五分に渡りあったのだから、戦略的にはまずまずだった なお、三成に感情が入りすぎているのはありますが、 実際に加藤・福島が武将の風上にも置けない存在である事は証明できます 秀吉の死後、豊国神社をまつったのはご存知かと思います 北政所は毎日のようにお参りに出かけていました それが、恩顧大名といわれる加藤・福島といった輩は、一度も参拝していないのです 彼等は豊臣を見限り、徳川につこうとしていたのだと思います 三成は実質上西軍の総大将でしたが、手持ちの兵は僅か6000、 諸大名に圧力をかける力はありません 徳川と、その辺は違っています 身代の違いはどうにもならないのでした 戦略以前の問題で、三成としてはあれが限界だったのでしょう Time : 1999/ 6/ 2(水) 23:53:52
Name : Toshy E-mail : Title : 戦略のミスを後代の我々があれこれといってもしかたないことです Comments: ああすべきだ、こうしたらよい、というのは止めたいと思います それを言えば、石田三成に限らず歴史上どの人物でも貶めることは出来るのですから どうでしょう?? そこで、小早川が裏切った理由を999さんがお尋ねだったので、答えてみます 小早川はもともと東軍寄りでした 一度彼は失脚していて、その原因を石田三成のせいにしていました そして旧領を回復するのは豊臣家の裁量だったのですが、 徳川家康のおかげだと思ったのです(ここは、家康の戦略があたったわけです) 関ケ原の戦いの前哨戦が行われた時、北政所の一族(木下家)はほとんどが西軍につき、 自然の成り行きで小早川も西軍につくしかなかったのですが、 わだかまりは消えていたかったのでしょう 彼が松尾山に布陣したことによって、西軍の戦略は狂いが生じていました 三成はもともと関ケ原を主戦場と決めていて、松尾山の戦略的意味を重視していたのです ここには宇喜田か毛利を入れる予定だったようですが、 西軍の一瞬の隙を突いた小早川の行動は三成の作戦を瓦解させました (もっとも、毛利がはじめから出てきていればこんな事はなかった) なんとか「関白」の地位をひけらかすことで小早川を繋ぎ止めようとしたのですが、 時既に遅しというところでしょう 「裏切った」というよりは、小早川予定の行動です ところで、火縄銃の合図で秀秋がびっくりし、西軍に突っ込んだというのは嘘だと思います 東軍の各陣から松尾山までは離れているので、音すらやっと聞こえる程度です Time : 1999/ 6/ 3(木) 01:01:26
Name : 999 E-mail : Title : Toshyさんへ Comments: 質問に答えていただき、ありがとうございました。 >「裏切った」というよりは、小早川予定の行動です なるほど、そういう事だったのですね。了解しました。 >戦略のミスを後代の我々があれこれといってもしかたないことです >ああすべきだ、こうしたらよい、というのは止めたいと思います >それを言えば、石田三成に限らず歴史上どの人物でも貶めることは >出来るのですからどうでしょう?? 関ヶ原について考える上で、これは妥当な意見だとは、私には思えません。 関ヶ原は戦争であるので、どちらがどういう戦略で優位に戦闘をすすめたかにふれないで関ヶ原を語るのはできないと思います。 それに、敗戦の原因を探るという事がどうして「貶める」に繋がるのでしょか? 以前あなたは「国語力」という文章で私の投稿を一刀両断にされましたが、そのあなたのせりふとは思えません。 東西両軍のとった戦略とその帰趨にこだわる事は、けっして当事者を「貶める」といった類のものであるとはいえません。 >加藤・福島の対立は感情的なものになっていたので、 >これは失策といってもしかたないのですが、三成とし >ては徳川に勝ち目のない戦いを挑み、五分に渡りあっ >たのだから、戦略的にはまずまずだった この部分には私も同感です。 ただし、この部分からは、石田三成を弁護するといった感じが匂います。 私自身も三成びいきなので、弁護していただくのはうれしい限りですが、「勝ち目がない戦をするむのは政治家として、武将として2流である」 という友人の意見に反論できなかった経験があります。 この点はどうお考えになられますか? ノムさんへ 私はノムさんの投稿を読んで、はっとしました。 三成が加藤、福島ら秀吉子飼いの武将の対策さえとっていれば逆の結果がでたかもしれないという事です。 大義を理解できないとかの問題ではなく、例えば個別撃破作戦とかもとれた可能性があるかもしれないですね。 もしくは、加藤らと家康のあいだに離間策を講じるとか、他にも手はあったかもしれないと感じました。 最後に Toshyさんの知識には感服しました。以前の北政所の件にしても、歴史の闇は深いのだなと再認識しました。 「通説を斬る」というのは、けっして皮肉でも悪い意味でもありません。 今までの勝利者によって作られた歴史の嘘を斬るとご理解ください。 じつは、先日の研修がよい結果となり、海外に転勤することになりました。 明日から準備をはじめます。 赴任先に落ち着くまでは、こちらにはお邪魔できないかもしれません。 高卒の私にとってはプレッシャーでもありますが、頑張ってきたいと思います。 日本人として自国の歴史を誇りに思っておりますが、まだまだ勉強不足でもあるようです。 皆様との会話で再認識させていただきました。 明日は夕方までパソコンをつないでいるつもりです。 Toshyさんへの質問の答えが頂けるかどうか心配ですが、最後にもう一度覗いてみたいと思います。 今後ともこのページの発展と皆様の活躍をお祈りいたしまして、ひとまずお別れいたします。 なにかと物議を醸しましたが、また会う日までという事にさせていただきます。 では、さようなら皆様! Time : 1999/ 6/ 3(木) 02:19:12
Name : Toshy E-mail : Title : 家のすぐ前で道路工事しているから寝られず Comments: 覗いてみたら、999さんの書き込みがあったので、お答えしましょう ノムさんや999さんの言うように、豊臣子飼いの大名を味方にしていれば、勝敗の行方は不明でした しかし調略というものは相手がある事です しなかったとすればそれは明らかに落ち度ですが、出来なかったことは落ち度ということは出来ません 私が「貶める」といったのは、無理なことを要求して、出来ないことをもってどうこういうことなのです もし落ち度というのであれば、どうすれば福島・加藤といった豊臣を離れた連中を味方に出来たかを、論じて欲しいのです 答えになるでしょうか 私は本来なら豊臣のために戦うべきであったこの人たちが、豊臣を裏切ったことにはあきれる思いです 三成としては、徳川に媚びを売ることも出来たのでしょう。 豊臣の恩義に報いて戦うのと、恩を忘れて敵にこびるのとでは、 どちらが「落ち度」があるか、論じるまでもないと思います なお、調略できないことを落ち度とする前に、 諸大名の吸引力を失っていた豊臣家そのものに落ち度があるのではないでしょうか >勝ち目のない戦いを挑んで・・・・ これには私も反論できません。 三成には勝算があったのではないでしょうか。 しかしそれは、毛利軍が動いていればの話でした。 毛利が動かなかった時点で、三成はどうすることも出来なくなっていたと思います 999さん、海外転勤ということで、ここへの参加はしばらくなくなるようですが、 いつかまた、ここでお話ししましょう それでは、海外でのご活躍をお祈りしています! Time : 1999/ 6/ 3(木) 04:17:15
Name : ina E-mail : Title : Toshyさんへ Comments:  こんにちは  私のアクセスできない時間帯が皆さんが活発な時間のようですね。  加藤、福島のことは、落ち度とは言えない、ということで、賛成です。 石田と彼らの対立は豊臣政権が磐石であったとしても存在したであろう、 官僚と武断派の対立であり、加藤、福島は石田の反対につくのは当然です。  これは落ち度と言うようなもので無く不可能なことであり、これを落ち度とい うなら、徳川と 戦うまえに徳川を味方に着けなかったのも落ち度になってしまいますね。  構図は、徳川政権の官僚と武断派の対立を利用して徳川が豊臣政権の崩壊 の確実な一歩を進めた、というものでしょう。 三成は加藤たちと一緒にはやって行けなかったと考えます。  三成は私に言わせれば、たかだか20万石で250万石にはむかった、という意味で あれほど雄大なことをやった人はなかなかいない、と賛嘆してもしきれない思いで す。落ち度論には反対です。  999さんがんばってください。実は私も海外からです。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 06:34:59
Name : ina E-mail : Title : correct Comments: <徳川政権の官僚と武断派の対立を利用>、、豊臣政権の間違いです。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 06:36:45
Name : 輔住 E-mail : Title : 武断派VS文治派 Comments: slashdogさん、ノムさん、みなさんこんにちは。 >三成は、朝鮮などの報告も私情を >挟まず、真面目に本当のことを報告しています。 >ですから、かってに清正らが、逆恨みしているだけで、 >三成に落ち度はないと思います。 確かにその通りです。 でも清正たちからすれば、「現場の苦労が分かっていない」と いう気持ちでしょう。 だからこの問題はどっちかが一方的に悪いとは 判断がしずらい。 それだけにこの対立は尾を引いてしまい、関ヶ原で 激突することになるのですが...。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 08:57:59
Name : Toshy E-mail : Title : inaさん、ご賛同ありがとうございました Comments: 「出来なかったから悪い」では、はっきりいって具体性のない会話なので、 これからは具体的な話題にのみ返答することにしたいと思います ところで、999さんへ 勝ち目のない戦いを挑んだことですが、もし挑まなかったらどうなったと思いますか? 上杉は徳川の軍門に屈し、豊臣家にとってますます苦しくなることは間違いないでしょう 石田三成は、決して、無謀な戦いを仕掛けたのではなく、防衛のための戦いだったのです 戦いに勝ち目がないと知っていれば、とる方法は全面降伏です それをしなかったのが二流なら、全面降伏をした輩は三流以下だというのが、私の考えです Time : 1999/ 6/ 3(木) 09:46:30
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 官僚と大名 Comments: 石田三成は豊臣政権の官僚ですから、 彼の忠誠心は豊臣家にのみ向いています。 さらに他の大名もそうあるべきと考えていたでしょう。 しかし、いわゆる武断派は、豊臣政権よりも自分の領土の方が大事でした。 自分の領土を安堵してくれれば、上に立つ人は誰でもよかったのです。 となると、幼年の秀頼と、五奉行ですらなくなった石田三成に安堵の力はない。 名実共に第一人者の徳川家康に擦り寄る結果となります。 西軍についた大名は、石田三成と恵慧の口八丁手八丁にだまされたのと、 少しの野望によって、西軍についたと言えるでしょう。 つまり数と個々の野戦に強くても、このような軍隊を率いて勝利することは不可能です。 毛利輝元は凡庸としか言いようのない人物でした。 小早川隆景は遺言で、恵けいにだまされるなと言っています。 もし西軍が勝つとしたら、あとじえですが、秀頼を軍の先頭に立てるくらいしかないでしょう。 石田三成を見ていると、戦争をペーパーテストと同じように扱った、 参謀本部を見るような気がしてきます。 彼は人間を知らなかったのです。 ただ、石田三成の墓が、毛利家の厚い信仰をえていた大徳寺にあることに 何か意味があるかもしれません。 毛利家は、石田三成に何か後ろめたさがあったのかもしれません。 ちなみに、石田三成の墓がある僧坊は立ち入り禁止でした。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 10:37:55
Name : ノム E-mail : Title : 僕は三成ファンですが、どうしても、 Comments: 個人的好き嫌いがはいってしまうので客観的に彼を みる事ができません。したがってしばらく投稿を控 えます。あまりひいきしているというのが表に出な い投稿をお願いします。999さんまた来て下さい Time : 1999/ 6/ 3(木) 11:17:59
Name : ノム E-mail : Title : 最後に Comments: できなかった事が悪いとは一言もいってません。 Toshyさんは範頼の時もそうでしたが、どうして 「よい・悪い」というような個人的感情で歴史事象を 判断するのでしょう?そこにはついていけません。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 11:21:42
Name : ノム E-mail : Title : 追加 Comments: 「悪い」や「貶める」などという意見には正直がっ かりしています。再評価とは、弁護という事なんで しょうか?僕は三成には悪い印象はもってません。 こういういいかたにはしらけています。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 11:28:14
Name : ノム E-mail : Title : Toshyさんへ、ちょっといいすぎました。すいません。 Comments: しかし、僕の本音でもあります。 好きな人物というのを語る時は自分の主観 に留意する必要があると思います。 どちらにしてもしばらく投稿致しませんので 返事は結構です。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 11:47:47
Name : Toshy E-mail : Title : 誤解されているようですが Comments: ノムさん、私は史実に基づいての論を述べているだけで、再評価とか弁護のつもりはないよ 「貶める」という言い方をしたのは、inaさんもいわれるように、 不可能である事を落ち度とするのは間違っているといいたいのです 大袈裟な話ですが、関ヶ原の戦いで兵6000をもって徳川75000を 撃退できなかったのは石田の失敗だという理論も成立つのです。 正直のところ、具体的な話、つまりどうすれば福島を懐柔できたかをノムさんにお聞きしたい これに答えていただければ、私は自説を引っ込めるつもりですので、 ムキにならず投稿していただければと思います Time : 1999/ 6/ 3(木) 12:42:42
Name : Toshy E-mail : Title : ところで、小早川や毛利の話に、 Comments: どう感情が入っているのか自分では不明なので、 その辺もお教え願えますか? Time : 1999/ 6/ 3(木) 12:55:23
Name : 999 E-mail : Title : 蛇足 Comments: 昨日で、終わりにしようとおもったのですが、意外な点で盛り上がりをみせているようなので一言申し上げます。 ノムさんへ Toshyさんの投稿には、あなたとほぼ同じ感想をもっています。 範頼の時もそうでしたが、「ひいき」というのを必要以上に感じでいます。 おそらく、Toshyさんは客観的にみれないのではなく、論争を起こしたいという意思があるのでは? と考えるようになりました。 そのためには、間違っていようといまいとある程度の主観が必要なのかもしれません。 しかし三成に対して同じような意見をもつものからは、「そんな事解ってるから、何がいいたいのですか?」 というような気分になるのはさけられないとは思いますが、少し聞いてあげてはどうでしょう? inaさんはじめまして、私は東アジア方面です。あなたはどちら・・ と聞いても返答は見られないかもしれませんでした。下記の意見について >官僚と武断派の対立であり、加藤、福島は石田の反対につくのは当然です。 >これは落ち度と言うようなもので無く不可能なことであり、これを落ち度とい >うなら、徳川と戦うまえに徳川を味方に着けなかったのも落ち度になってしま >いますね。 構図は、徳川政権の官僚と武断派の対立を利用して徳川が豊臣政 >権の崩壊の確実な一歩を進めた、というものでしょう。三成は加藤たちと一緒 >にはやって行けなかったと考えます。 これは、極論すぎます。問題外の意見てだと思います。 そもそも、三成が関ヶ原でやりたかった目標は、武断派、文治派の対立よりも、豊臣家の将来の禍根=徳川家康を倒す 事だと思います。 家康を倒すという合戦の第一義を無視して徳川を味方につけた、なかったを論じるのは、解せません。 第一義を達するためには、武断派に対し何らかの手をうつのは、当然の戦略と思うのですが、どうですか? 私も武断派の面々が石田につくとは思えません。 しかし、そのための毛利総大将であるはずです。 毛利を十分に利用できなかったという、作戦本部=石田と三奉行の明らかな作戦ミスです。 ミスを確認していくのは、 >これからは具体的な話題にのみ返答することにしたいと思います という、Toshyさんの一言となに一つ矛盾しないものだと思います。 では、これで本当に最後にします。みなさんお元気で!!! Time : 1999/ 6/ 3(木) 13:05:09
Name : A E-mail : Title : みなさん、こんにちは Comments:  おひさしぶりです。  私はToshyさんは話しのきっかけを非常にうまく作ってくださる方だと 思ってます。源平の話しはちょっとしたToshyさんの発言に私が 因縁をつけたことから始まったと思ってますから。  よりによって源範頼!!なんと新鮮な人。   たとえて言うと、昔、沖雅也とよくドラマに出ていた岡崎由紀。彼女の未だに 熱烈ファンと言う人がいます。こう言う人はいろいろ言われても平気で反論しま すが勿論悪気はなく、その独特の論理を楽しめばいいんですよね。  ですから、どんどん楽しんで議論を売れば(喧嘩でなく)いいと思います。この HPでは意見が違ったって、将棋感覚で楽しめばいいんですからね。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 13:12:24
Name : ina E-mail : Title : 間に合うかな Comments: 999さん  アメリカです。またこのHPで会いましょう。  <そもそも、三成が関ヶ原でやりたかった目標は、武断派、 文治派の対立よりも、豊臣家の将来の禍根=徳川家康を倒す 事だと思います。>  この点は議論の分かれるところだと思いますが、保元の乱などのように、 何層もの対立が折り重なっているのでは? Time : 1999/ 6/ 3(木) 13:18:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 大徳寺 Comments: 大徳寺にあった石田三成の墓の事をもう少し詳しく話そうと思います。 大徳寺は多くの大名の信仰を受け、明治維新後も華族となった彼ら の信仰と保護を受けました。特に毛利家が最大級の檀那だった(今もそうかもしれません)らし いです(聞きかじった知識です)。大徳寺は現在でも禅の大寺院として 活動していて、観光化された寺院とは違った、犯しがたい威厳備え ていました。これは私の感想です。 その一角に石田三成の墓がありました。塀で囲まれた僧坊の中にあり、 はっきりと立ち入り禁止と表札が書かれていました。大友宗麟の墓の ほうは公開されていました。石田三成の墓のほうは現在でも大事に供 養がなされているということだと思います。 ここで「逆説の日本史」のファンとしては、大事に扱われている謀叛人 の墓ということで、「なにかあるのではないか?」とつい思ってしまうわ けです。疑問に思っただけで、それっきり調べていないのでこれ以上は 言えません。 石田三成が徳川家康に勝つためには、徳川家康が死ぬまで待って、 その後、徳川体制の切り崩しを図ればよかったのではないかと思います。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 13:50:56
Name : 999 E-mail : Title : 何度もすいません Comments: みなさんすいません、最後といいつつ何度も書込みまして。 inaさんへ アメリカですか、私は職場はベトナムなのですが、住まいはベトナム国内ではないようです。 向こうの工場につくまで解らないという状態なのです。 >この点は議論の分かれるところだと思いますが、保元の乱などのように、 >何層もの対立が折り重なっているのでは? それは、当然の事だと思います。 戦争という大規模な経済行為を行うのですから、たった一つの理由だけで始まるわけがありません。 私がいいたいのは、三成の最大目標なのです。 この時点で、家康の野望や豊臣家にとっての危険性を看破していたのは、三成とその周辺だけだと思います。 この、洞察力からみても、三成の才能・政治感覚は高いものだったと思います。 ただ、何故その天才三成が敗れたのかを考える時、客観的事象についての考察は不可欠です。 三成は、実は優秀で、才覚も人望も人間的魅力もあったという事をいくら述べても本質には迫れないとは思います。 まず、直接的な敗因から分析をはじめてこそ実りある議論になると思います。 では、これで本当に最後です??? Time : 1999/ 6/ 3(木) 14:38:09
Name : Toshy E-mail : Title : 999さんへ Comments: こんにちは。この投稿を読んでいただければいいのですが ノムさんも >家康を倒すという合戦の第一義を無視して徳川を味方につけた、なかったを論じるのは、解せません 前に書き込みました。しようとしたが、できなかったのです ノムさんも999さんも、それいじょうの議論が進まないので困りました 私は、「しないことは落ち度だが、できないことは落ち度ではない」というニュアンスの文面を書いたのです なお、具体的な離間策というのは、下で安部さんがお書きになったようなことです 私はノムさんに、こういう意見を期待していたのですが、誤解されて残念です Time : 1999/ 6/ 3(木) 23:03:06
Name : slashdog E-mail : Title : 現場の苦労と上に立つ者 Comments: みなさん こんばんは 輔住さん >「現場の苦労がわかっていない」 これは、いつの世も同じですね。 私は清正の言うことよくわかりますよ(笑) しかし、三成を責めたりしません。 三成には、三成の立場があるからです。 安部奈亮さん はじめまして >三成と恵瓊の口八丁手八丁にだまされたのと、 >少しの野望によって、〜〜。 これは東軍とて、同じではないでしょうか? 家康につけば、得すると思い、領地を増やそう!とか おのれの野心で、動くのですから。 清正、正則も家康に騙されたとお思いになりませんか?(笑) >小早川隆景は、遺言で、恵瓊に騙されるなといっています。 これは、初耳でした。隆景もひどい!(笑) 「両川」時代、恵瓊は、隆景派だったのに・・・。 >彼(三成)は人間を知らなかったのです。 ある意味では、そうとも言えますね。 あの時代には珍しく「義」、「友情」(当時の言葉でなにが妥当でしょう?) で、物事を考え、動いた人ですからね。 三成以外はまず、一番に来るのは「損、得」や「お家安泰」だと 思います。(当時はそれが当たり前ですが) 三成にしてみれば、豊臣の為に働いて当たり前という考えでしょうが、 そこがまさに、「人」がわかっていない」と いうところでしょうか。 999さんにも言いたいことがありましたが、 残念です。 Time : 1999/ 6/ 3(木) 23:34:54
Name : Toshy E-mail : Title : 三成の話題は、これで最後にします。 Comments: せっかくノムさん999さん安部さんが三成の落ち度を書いてくれたので、私からも。 三成最大の失策は、北九州100万石の加増を蹴ったことでしょう もしこれがあれば、関ヶ原で兵力不足に悩まなくても住んだだろうし、 他大名への圧力も大きくなったのです 三成は所領欲がなかったのか、近江を離れたくなかったのかは知りませんが、 この加増辞退はのちに致命傷となり、三成の愚痴となるのでした。 もうひとついいます 私は三成を贔屓のひきたおしだと誤解されているようですが、 三成の研究に関してはプロとも言える方々に対し、 「島津と仲間割れしたのは失策」とふっかけたことがあるのです どうせ失策云々を問うのなら、こっちの方がよっぽどだと思います ノムさん999さん、これでいいでしょうか? Time : 1999/ 6/ 3(木) 23:53:50
Name : ina E-mail : Title : Toshyさんへ Comments: 私は、「しないことは落ち度だが、できないことは落ち度ではない」という ニュアンスの文面を書いたのです  とのことで、賛成です。  余り言葉の問題になると、難しいですね。こういった、Terminologyに端 を発する問題は以前にも起こっていましたので特に気にされなくともいいと 思います。又面白い話題を提供してください。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 06:27:28
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 関ヶ原? Comments: みなさん、こん@@は。少し紛糾したようですが、議論としてはなかなか読み応え がありました。Toshyさんくじけずがんばってください。 ノムさんらと、Toshyさんらの議論の論点は微妙にずれていたようです。 ノムさんらは、「関ヶ原の合戦」そのものについての戦略、Toshyさんらは 三成派と徳川派の抗争全体に視点をおいていたような気がします。 ノムさんとしては、関ヶ原の合戦から話をひろげていきたかったのかな?という 感じがし、Toshyさんとしては流れ全体から関ヶ原合戦の意義を問いただし かったのかな?と考えています。 まぁ、これくらいの行き違いはよくあることだと思います。 お互い頑張っていい議論にしてください! Time : 1999/ 6/ 4(金) 07:44:34
Name : XXXX E-mail : Title : 理解できないね Comments: ノムさんは、勘違いもはなはだしい 史実を知らなかったことを教えられて、感謝すべきではないのか。 間違いを指摘されたら、相手に噛み付く前に勉強し直せといいたい。 両者の知識量は、差がありすぎる。最初から勝負にはならない。 ノムさんよ、もう一度勉強し直しなさい。 これはきつい忠告だが、あなたのためを思ってのことだ Time : 1999/ 6/ 4(金) 11:47:01
Name : 輔住 E-mail : Title : 三成の失敗 Comments: みなさん、こんにちは。 slashdogさん >三成には、三成の立場があるからです。 同意します。 清正たちとの対立はある意味仕方がないと思っています。 さて、私も三成の落ち度について意見を述べます。 関ヶ原で西軍を敗北に追いつめたのは 小早川秀秋・吉川広家の両者です。 だが三成ではこの両者に「お願い」はできるけど、 「命令」は出せません。 毛利輝元なら両者に「命令」が可能です。 (秀秋は毛利一族の娘を妻にしているし) 事前に毛利輝元を関ヶ原に呼ばず、大坂に 置いたのが失敗でしょう。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 12:12:31
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : TOSHYさん Comments:  あんたはえらい。999氏とか、ノム氏が勝手に誤解してすねてるのに なんとかしてうまくやろうとする。私にはとても真似できないよ。   特にノム氏はなんか大人物っぽく仕切ろうとしていたのに自分がすねちゃ ったんだからな。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 12:34:27
Name : ノム E-mail : Title : 確かに承りました。 Comments: 返す言葉もありません。Toshyさん、僕の事は気にせ ず、議論を続けて下さい。具体案について書き込み たいと思ったのですが、通信費の問題とか字数の問 題とかがあり、今は無理のようです。 気分の悪い思いをさせて申し訳ございません。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 13:47:49
Name : ノム E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ Comments: あなたは、どうも「ひやかしや」のようです。 他人の議論に割り込むのはいいですが、自分の意見 を何もいわず、一方を持ち上げ一方をけなして楽し んでいるようです。 今後一切あなたの事は無視させていただきますので そのおつもりでお願いします。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 14:40:19
Name : ノム E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ2 Comments: ただ、今回のご意見は謹んでおうけいたします。 僕は、範頼論のとき別のHPでToshyさんと派手な 言い合い?をしました。(人物像について) その経験から、なるべく思い込みの討論にならない ようにしたつもりが逆にでてしまったようです。 ご忠告ありがとうこざいました。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 14:45:13
Name : ノム E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ3 Comments: すいませんでした。 ありがたいご忠告をいただいてるのに「無視する」 とは失礼な事をいいました。 改めて謝罪しときます。 どうも、すいませんでした。以後気をつけたいと思 います。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 18:13:20
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : ここは歴氏談義の場所だ Comments:  最近どうなってんだ?人の意見が感情論だといったり、しらける といってみたり、そんなカキコで満たされて、常連さんも沈黙しち ゃったよ。いちいち怒るほうも怒る方だし、999氏、ノム氏の発 言はどうも失礼な表現が多い。そんな中、矢面に立ったTOSHY氏の 態度は立派だったと言っているだけだ。オレだってこんなカキコ したくないよ。 Time : 1999/ 6/ 4(金) 20:06:12
Name : slashdog E-mail : Title : 秀秋と広家 Comments: 輔住さん こんばんは 三成の第一の失敗は、秀秋を松尾山に入れたことだと 思います。それから、輔住さんの言われるとおり、輝元を 呼ぶのが遅かった事。(呼べなかった)(これは色々噂が飛んで動けなかった 事情がありましたが) あと広家ですが、これはかなり難しい問題だと思います。 もし輝元が松尾新城に入っていたとして、催促しても なんだかんだと理由をつけて動かなかったのではと思うのです。 広家自身が動くと家康との約束がなかったことに なってしまいます。(逆に輝元が到着していれば当分、 動く必要なかったかもしれません。) やはり最大のネックは、輝元の新城入りが実現しなかったことでしょうか? Time : 1999/ 6/ 4(金) 21:46:15
Name : 名探偵 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : アトムボーイ1さん、同感です。 Comments: はじめまして、皆様。いつもはロムしています。 確かに最近はちょっと雰囲気悪いと思います。 ところで、アトムボーイ1さん、あなたは以前、安部さんの時も個人攻撃 していた、「あきんど2」さんではないですか? 何故、こういうときにしか登場しないの? もしかして、たのしんでいるってことはないですよね!! (わたしはちょっとたのしかったりする>内緒よ!!) 違ってたらごめんね! あなたの正論はよいとおもうんたけど、他人の名前を出しすぎるのはちょっとね? もしかして、書込み評論家? わたしもアトムボーイ1さんのいうとおり、感情的になるのはこういう場所では いけないと思うの。 皆様!気をつけましょう!!!! という事でこの話は終わりにしない? わたし、感情的とかそういうのあきちゃったの。 そろそろ関ヶ原にもどりましょー? ね!みなさん!!! という事で、毛利輝元って、どうしたかったのかなぁ? せっかく大阪城まででてきたっていうのに、あっさりひきさがちゃって。 わたし元就の寝技がすきなんだけどー。 寝技のマニュアルも残してくれてたらよかったのにぃ? なんておもったりなんかしてます。 みなさんは、輝元の目的ってなんだったと思います? 目的なんかなくって、ただ三成ちゃんとえけいちゃんに踊らされちゃっただけなのかなぁ? どなたか、ご意見おねがいしまぁーす!! Time : 1999/ 6/ 4(金) 22:12:10
Name : 名探偵 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : 失礼しました。 Comments: あっなんだー。戻ってたのね関ヶ原に。 よけいなひとことだったかなー? アトムちゃん、めんご!! Time : 1999/ 6/ 4(金) 22:16:41
Name : Toshy E-mail : Title : ありがとうございます Comments: ノムさん、こちらこそ済みませんでした。それと、ご理解くださったこと、ありがとうございます。 また今までどおりにやっていきましょう。。あまり熱が入らないように と、すれ違いを避けよう、で(笑) アトムボーイ1さん、暖かい声援、うれしいです。。。おかげで戻ってくることができそうです 名探偵 金田一耕介の孫娘さん 毛利輝元の話、明日の夜にでも書いときますです。 先に誰かに書かれてたりして(爆) Time : 1999/ 6/ 4(金) 23:24:42
Name : outsider E-mail : Title : 無題 Comments: 1 関ヶ原の合戦において、おそらくは西軍が優勢な状況下で小早川秀秋が裏切ったのでしょう。東軍が優勢 だったならば、小早川の行動は是認されていて不名誉な印象は後世には残らないでしょう。前田利家の前例か らしても勝ち組にのることに非難はされない。優勢な味方を裏切るような輩には同情の余地はない。 2 関ヶ原の合戦において西軍が有利だったとすれば、布陣の利だけではなく兵力の点で西軍が優勢であった はずです。たとえば池田輝政の指揮する部隊は岐阜城攻めで大損害を被っていた可能性が大きい。徳川家康に しても、上杉への備えや中山道部隊を除けばどれだけの兵力を動員できたか全く疑わしい。なにより、1万石 につき300人を動員すると仮定することが無理なような気がする。 3 通説によれば石田三成の人格的な問題が全ての敗因であるかのように書かれている。大谷吉継が石田に友 情から苦言を呈したとするならば、その話が後世に伝わるわけがない。少なくとも人払いをした上で一対一で 苦言を直接伝えたはずである。 4 歴史において敗者に敗因を求めることには意味がない。確定した結果に対しては全ての原因が成立する。 例えば東軍は太陽を背にして戦ったから有利だったと主張されても反論の余地はほとんどない。因果関係は主 観的なものである。精々のところ、西軍がどれほどの勝機を逃したか、東軍がどれほどの不利を克服したか、 それらについて意見を述べることが限界であろう。 5 確定した事実において、東軍の勝利は日本の歴史にとってどれだけ好ましいことであったであろうか。平 和、その代償としての農村での間引きや鎖国、浸透し始めていた貨幣経済への抑圧。けれども、徳川家康に天 下取りの野望が無ければもっと健全な歴史が実現していたのでは無かろうか、そういう思いが尽きない。 6 中国や一時期の日本では後世に名を残すことに大きな価値があった。その意味では、歴史を学ぶものにと っては精一杯生きた人間達の行動を多面的に理解することに意義があるのではなかろうか。 Time : 1999/ 6/ 5(土) 00:44:47
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  こんにちは  仏教関係で教えていただきたいのですが、 かつて空海と最澄が留学して帰った後、最澄が度々経典を借りたそうですね? その時に、ついに空海が断ったのは、理趣経であったと言う話しはあるんでし ょうか?何でもセックスに関するお経だということなんですが。  情報ソースは松本清張「密宗律仙教」です。 Time : 1999/ 6/ 5(土) 06:35:21
Name : ノム E-mail : Title : みなさんへ Comments: どうも、すいませんでした。 Time : 1999/ 6/ 5(土) 08:53:12
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 名探偵 金田一耕介の孫娘さま Comments:  皆さん、お騒がせして申し訳無い。 今後の楽しい議論を期待している。  ところであきんど2氏の名誉のために言っておくが、私は断じて彼ではない。   なぜなら、彼は次男、私は長男であり、彼の近くにはあきんど寿司があるが、 私の近くにはアトムボーイしかないからである。しかし、そういう推測をした あなた、今回はずいぶん若作りだが山村貞子さんではないのかね?  寝技を勉強したいとか?なにか我々は気が合いそうだ。もし女性なら、他の寝技 を一緒に勉強しないか? Time : 1999/ 6/ 5(土) 11:03:58
Name : 名探偵 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : そうねぇー Comments: いいわねぇ、ね・わ・ざ。 でもわたしも、貞子ちゃんじゃないわよ。 だって、推理はできるけどー、呪えないもん!! まぁ、これから、お互い歴史のねわざ談議でもしましょうか? じゃあまたね!!!! Time : 1999/ 6/ 5(土) 11:14:49
Name : A E-mail : Title : mouriterumoto Comments: 毛利は要するに金持ち喧嘩せず、じゃ無いでしょうか。西軍が負けたのに 結局は大大名として幕末まで生き抜き、最後は倒幕までしてしまうわけですから。 どっちでもよかったのでは? Time : 1999/ 6/ 5(土) 12:46:52
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と理趣経 Comments: inaさん、今日は。Awajiです。 何だか。このごろのコメントはチョット近寄り難い感じがしますね。 それはさて置いて、ご照会の件ですが、 >>ついに空海が断ったのは、理趣経であったと言う話しはあるんでしょう >>か? この経緯については、司馬さんの「空海の風景」にも書かれていますが、 弘仁四年(813)不空訳「理趣釈経」の借用を求め、拒否されています。 ただ「般若理趣経」そのものは玄奘以下の訳(大般若経理趣分)が有りま すので最澄も既知のものであって、ここで言われているのは正確に言えば 「大楽金剛不空真実三摩耶経般般若波羅蜜多理趣釈」つまり理趣経の注釈 書とされています。・・・「理趣経」−松永有慶著(中公文庫) 「理趣経」そのものは真言宗の常用経典であり、華厳宗(東大寺)におい ても空海により基本経典とされていますので、特別秘密的なものでは無い と思います。 ただ、通常の経典が「呉音」で読まれるのに対し「漢音」で読まれるので、 理解しにくいとされていますが。 (Awajiにとってはどちらにしても聞いただけでは分別できません。) >>何でもセックスに関するお経だということなんですが。 非常に誤解され易い部分ですので、素人の解釈は差し控えますが、敢えて 言えば「愛欲」をも肯定的に捉えることにより、「空」を肯定的に把握し、 「即身成仏」に導くことだと思います。 ところで、このご質問の意味は何でしょうか? Awajiには、とても密教を論ずる能力は有りませんが・・・。 Time : 1999/ 6/ 5(土) 13:58:06
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : Awaji氏へ Comments:  お初にお目にかかる。  実は私、初登場のころから、貴君のカキコを注目して、ずっと楽しませていただ いた。改めてここに感謝申し上げたい。ところが、肝心の救世観音の話しがなかな か登場せず、最近はしびれを切らしてしまったという次第である。  お伺いしたいのだが、貴君は救世観音についてここで語ることはないのだろうか? Time : 1999/ 6/ 5(土) 20:26:27
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「救世観音」コメントについて Comments: アトムボーイ1さん、はじめまして。Awajiです。 ササヤカなコメントに、ご注目頂きおそれいります。 >>肝心の救世観音の話しがなかなか登場せず、最近はしびれを切らしてし >>まったという次第である。  誤解を受けやすい表題で申し訳ありません。 実はAwajiがこのHPに参加させて頂いたいたのは、ある方から救世観音に 関するご質問があり、それについて仏像オタクとしてササヤカにコメントし たのが切っ掛けでした。 それ以降すべてのコメントについて「救世観音・・」を表題といたしており ます。 >>お伺いしたいのだが、貴君は救世観音についてここで語ることはないのだ >>ろうか? 従って、救世観音様については既に以下の部分でコメントいたしております ので、ご了承願います。 Title : 救世観音について・・・ Time : 1999/ 3/ 3(水) 23:45:37 Title : 救世観音について補足します Time : 1999/ 3/ 7(日) 10:03:57 Title : 救世観音と宝珠 Time : 1999/ 3/12(金) 22:54:07 Title : 救世観音と法隆寺怨霊寺説? Time : 1999/ 3/15(月) 22:08:38 なお、Awajiは帝国陸軍軍人の口調には、余り良い印象を持っておりませ んので、今後ご質問頂くにあたっては、出来るだけ一般庶民の言葉をご使 用頂ければありがたいのですが・・・。 ところで救世観音については、どのような興味をおもちでしょうか? Time : 1999/ 6/ 5(土) 22:35:07
Name : Toshy E-mail : Title : もうりてるもと Comments: やはりAさんに先を越されていたか(笑) 毛利輝元が大坂城に乗り込んだのは、もちろん恵瓊の言葉巧みな誘いに動いたわけですが、 それ以前から徳川との暗闘も見られないわけではないのです。 例えば、家康が秀吉の遺言を破って専横が目立つようになると、 四大老・五奉行の名前で抗議文を声明しました。 (奉行浅野長政は徳川寄りという印象が強いが、この当時は豊臣寄り) しかし反徳川の中心的人物である前田利家が死去、 石田・浅野両氏は家康の謀略で奉行の座を追われ、 あっというまに徳川の天下となったのです。 前田利家の死の翌年、家康と輝元は講和しました。 家康が「兄弟のごとく、交わろう」みたいな親書を送り、 輝元からもまた同様の誓紙を取り交わしました。 これで徳川=毛利連合が出来ると、前田利長はすでに徳川に服従を誓っているため、 あと残るはNo.3の上杉。これが徳川による、会津征伐につながるのです。 そこで宇喜多・石田・大谷らによる挙兵。三成と親しい小西行長もこれに参戦しました。 徳川は、ここまでは読んでいたのでしょう。 しかし、講和したはずの毛利までもが反徳川について、しかも総大将だ。 なぜ恵瓊の誘いで輝元が動いたのか。輝元の目的は、何だったか。 それは不明。やはり輝元の、優柔不断としか考えられません。 また恵瓊・三成によって「総大将」ともちあげられていい気になったのでしょうか。 お人好しの輝元らしいといえばそれまで。 その後の行動を見ても、「打倒徳川」を唱える積極的な人物とは思えないのです。 ではその後、とはどんなものか、それは次回で。(「三国志演義」風) Time : 1999/ 6/ 6(日) 00:14:32
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : RE Comments:  TOSHY氏へ  あなたはこうだんし(好男子、講談師)のようだ。今後もこう言う楽しいカキコ をお願いしたい。拙者は武士の口調でカキコしているつもりだったが、帝国陸軍軍人 と認識されてしまった。自分の無教養が返す返すも恥ずかしい。ところであなたも ホームページを持っているのだろうか?もしそうならアクセスしてみたいので、 アドレスを教えてもらえないだろうか。  Awaji氏へ  失礼しました。過去の解説もみないで失礼な質問をし、なおかつ口調では不快 をお与えして。  過去のログを見てから又コンタクトいたします。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 01:34:24
Name : ina E-mail : Title : 理趣経 Comments:  こんにちは  Awajiさま  どうも、いつも明解な回答をありがとうございます。 << 非常に誤解され易い部分ですので、素人の解釈は差し控えますが <<、敢えて言えば「愛欲」をも肯定的に捉えることにより、「空」を <<肯定的に把握し、「即身成仏」に導くことだと思います。  これは在家の信者にのみ適応されるのでしょうか。 ふと、前回のようなご質問を差し上げたのは、一時盛り上がっていた、道鏡 のことで、井沢先生は道鏡の破戒僧説を否定的にとらえていらっしゃい ますが、こう言った経典があったりすると、戒律、というものがどの程度の 拘束力を持っていたか、というのが疑問に思えるのです。  これこそ、現代風の曲がった解釈なのかもしれませんが、、。  私自身、RUGOMAさまか、Awajiさまか、KANAKさまだったかに仏教に就いての無知 をご指摘いただいたような気もするのですが。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 06:23:58
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 道鏡と戒律 Comments: みなさん、こん@@は。 戒律とはいいますが、これもまた経典の一部であり、経典の他の部分と一見、相反 する解釈がなされる場合もあるのではと、思います。 たとえば、憲法で保証されているさまざまな自由と今回のいわゆる組織犯罪防止三 法案などは相反する解釈を含むものだと思います。 従来の解釈とは違う解釈をもって経典を解釈する事によって、従来の解釈では解決 できない問題にあたるわけです。これが宗派の発生に微妙に関係していると思って います。 道鏡と称徳の場合は、破戒による男女関係はなかったかもしれませんが、宗教的な 意味による男女関係はあったのではないかとも考えられると思います。 もちろん、単なる推測ですが??? もし、男女関係があったとしても、それは即破戒につながるわけではないという 事です。愛欲と淫欲は、その発露において、似て否なるものであるのです。 しかし、当時の戒律というものは、絶対的なものであったと考えてよいと思います。 したがって、もし男女関係があったとしても、道鏡には淫欲はなく愛をもって称徳 を導いたという事になるのでは? 在家とか出家とかでなく、経典解釈の問題ではないでしょうか? すいません、素人のつぶやきです。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 07:20:31
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロト Comments:  どうもご無沙汰してました。  すみません。あなたが下の書きこみで言われた男女関係はインサートを さすのでしょうかそれとも精神的な交わりのことでしょうか?  そこが曖昧では話しがわかりませんので、ちょっと露骨ですが。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 10:05:50
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  すみません、手元に資料がなくて、うろ覚えなのですが、法相宗の大きなお寺は どこでしたっけ?どこかで東大寺、という記載を読んだ記憶があるのですが。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 10:09:03
Name : ina E-mail : Title : Toshyさんへ Comments:  今、私は松本清張に凝っていて「軍師の境遇」を読んでいます。  輝元は吉川元春と小早川隆景と言う素晴らしい叔父に守られて、やはり 甘やかされたのか毛利家の 膨張政策も信長の急成長も理由の一つでしょうが、彼の世代では止まって しまってますよね。  そこら、やはりお坊ちゃんで、なおかつ人の意見に左右されやすい、 まあ、付き合いやすい人物像が浮かぶ、と思います。  上杉がつぶされたのに毛利が生き残ったのは、吉川尽力のおかげなんでしたよ ね? (忘れてしまったのです。ここらのいきさつ) Time : 1999/ 6/ 6(日) 10:31:24
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と破戒僧?? Comments: アトムボーイ1さん、inaさん、みなさん。今日は。Awajiです。 アトムボーイ1さん、ご理解頂き、ありがとうございます。 inaさん、 >>仏教に就いての無知をご指摘いただいたような気もするのですが。 Awajiはノムさんに対して、その様な趣旨のことを申し上げた記憶が有 りますが、inaさんに関しては記憶が有りません。 仮にその様なニュアンスが有りましたら、お詫び申し上げます。 >>これは在家の信者にのみ適応されるのでしょうか。ふと、前回のよう >>なご質問を差し上げたのは、一時盛り上がっていた、道鏡のことで、 >>井沢先生は道鏡の破戒僧説を否定的にとらえていらっしゃいますが、 >>こう言った経典があったりすると、戒律、というものがどの程度の拘 >>束力を持っていたか、というのが疑問に思えるのです。  ご趣旨了解いたしました。 非常に難しい問題ですので、自信はありませんが取り敢えず以下のとお り申し上げておきます。 1.道鏡は性的破戒僧であったか・・・ 分かりません。ただ道教の時代は密教的思想は体系的に導入されていま せんので、理趣経の存在と破戒の問題とは関連付け無い方が良いと思い ます。(少なくとも理趣経をもって破戒を正当化したとは思いません。 従って、仮に道鏡が称徳と性的関係を持っていたとすれば、僧として許 され得ない破戒であり、Awajiもどちらかと言えば否定的に捉えています が真実は分かりません。) 2.理趣経は性的破戒を是認しているか・・・ ご承知のとおり、釈迦は戒律において出家僧の性行為を認めていません。 (在家者については、所謂婚姻関係・・この概念自体も絶対的なモノで はありませんが・・における性行為は当然ながら認めています。) つまり僧にとっては破戒になるわけですが、それでは空海は理趣経に よって僧の性的破戒を認めているかと言うとそうではありません。 従って、道鏡が密教僧であったとしても、称徳との性的関係はやはり、 破戒行為でしょう。 後の真言宗立川流(所謂左道仏教=中世インドにおけるタントラ・ヴァ ジラーヤナ・ブディズムに近似している。)では、性的破戒そのものを 是認するかの様な傾向が認められますが、真言宗本流は、むしろ戒律に 関しては非常に厳しいものです。 (しかし本質的にはマハーヤナを超越したタントラ・ヴァジラーヤナで はあるのです。) この辺が密教の難しいところで、空海が最澄に対して密教を文章で理解 する(筆授相承)ことを拒否した所以だと思います。 つまり、純粋理論的には破戒(敢えて言えば殺人さえ)と言う概念すら 破壊(超越)すべきものとしつつ、宗教実践的には戒律を厳守すると言 うことかも知れませんが、この辺は百尺竿頭を一歩進めねば理解できな いでしょう。(Awajiには勿論理解不能の宗教的境地です。) この問題については、このようなHPにふさわしく無いと思いますので、 この程度でご勘弁下さい。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 10:58:51
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「法相宗」「華厳宗」?? Comments: inaさん、Awajiです。 >>法相宗の大きなお寺はどこでしたっけ?どこかで東大寺、という記載を >>読んだ記憶があるのですが。 法相宗の大寺は「興福寺」「薬師寺」です。 「東大寺」は華厳宗です。 ところで、このご質問の意味は何でしょうか? Awajiは百科事典ではありませんので(勿論そんな能力もありませんが)、 単なる確認ならばご勘弁頂きたいのですが・・・(^0^)" Time : 1999/ 6/ 6(日) 11:21:21
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ハカイダー Comments: inaさん、残念ながらよくわかりません。妄想の段階では「インサートは」 「なきにしもあらず」かなとも思います。 配流された後も僧として人生を全うしている事から「発射」はなかったと思います。 すいません。くだらない感想です。聞き逃して下さい。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 13:57:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 道鏡エピソード Comments: 道鏡は下野国薬師寺別当として左遷されました。 茨城県のはずれ栃木県との境に御前山村という那珂川沿いの村がありますが、 この村の名前の由来が道鏡だと言うことです。 ここから見る那珂川の景色が京都の鴨川、嵐山を思い出させたと言われています。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 18:57:31
Name : Toshy E-mail : Title : 毛利一族・吉川の行動編 Comments: アトムボーイ1さん、過大なお褒めの言葉、ありがとうございます。・・・・・・・ これからやりにくくなるなぁ(笑) 総大将になった毛利輝元の頭には、 徳川亡き後の大臣の座がちらついていたことは想像に難くありません。 毛利輝元・宇喜多秀家の名前で徳川家康の罪状を諸大名に送り、 西軍は畿内一円を瞬く間に制圧してしまったのでした。 さすがの家康も、毛利を敵に回しては勝利は難しい。 毛利は一門あわせて200万石、6万の兵を率いる大集団なのです。 しかし、実は家臣団の足並みが揃っていない毛利氏。 輝元を支える毛利秀元は積極的人物で、 西軍についた以上は西軍として戦うことを決める硬派の武将でした。 一方、吉川広家はじめ、ほとんどの家臣は逃げ腰です。 徳川家康と石田三成では格が違いすぎる。 まして恵瓊は人気がなく、この妖僧にだまされてきたのが何とも馬鹿馬鹿しい。 そこで登場したのが、東軍No.1策士の黒田長政でした。 黒田長政は、親密だった吉川広家に書簡を送ります。 領土の安泰と命を保証されると、吉川は毛利不戦を約束したのです。 前田氏と同様、毛利氏も東西を天秤にかけて様子を見ることにしました。 優勢なほうにつくのは当然のことで、吉川は徳川についたと思われがち。 事実上毛利は戦っていないし、吉川の内通行為も有名。 ところが実は吉川は、黒田を通して徳川を騙していたのでした。 では吉川の戦略とはいかなるものだったのか。それは次回で。 (これは史実に基づいて書いていますが、Toshyの想像も多分に入っております) PS. inaさんへ。そのとおりです。 Toshyは百科事典ではありませんので(勿論そんな能力もありませんが)、←あはは、Awaliさんのパクリ 私なぞよりも詳しいお方に同意を求めていただいたほうが身が楽なのですが(^ ^) いずれそのことも書いてみます。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 20:54:00
Name : Toshy E-mail : Title : ところで今回の投稿、前回とずれたことを書いてしまいました。 Comments: 大変失礼しました。 それと、アトムボーイ1さん、うちのHPは二つあります。両方とも歴史とは無縁です。 http://village.infoweb.or.jp/~fwjd2293/ http://village.infoweb.or.jp/~fwjd2293/akutagawa.htm Time : 1999/ 6/ 6(日) 21:02:01
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさま Comments:  前回は呼び捨てにしてしまい、申し訳ありませんでした。  私は前に議論した時もそうでしたが、称徳、道鏡の成果を認めたい方です。最近、仏教そのものではないですが、 関連した小説など読み、妄想が結構広がって皆さんにご迷惑をおかけしています。 ロトさんの区別は、、  厳密ですね。私は単に入ったか入らなかったかだけで分類可能と思ったのですが、 発射の有無で分類するわけですね。我がアメリカの大統領の、オーラルは性 行為に含まない、という解釈もそれで充分納得できます。ん?待てよ、発射がそ れであった場合はどうなるんだ? Time : 1999/ 6/ 6(日) 21:19:34
Name : きんたろう E-mail : Title : 思いつき「毛利編」 Comments: こんばんは、みなさん。 恵瓊は尼子の出身だったような記憶?があります。 その様なところからも「獅子身中の虫」的に見た人間も多かったのだと思います。 (不人気説の一因かも?) あの時点で「天下の概念」を持っていた人物が家康と三成の両名くらいしかいなかった のではないでしょうか。(多分) 「一所懸命−安堵」と言った常識からすると毛利が「草刈り場」として選ばれたのは 明白だと思うのですが、これは歴史の結末を知っているから言えることなのかも知れ ません。 Time : 1999/ 6/ 6(日) 21:25:36
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさま Comments:  前回は呼び捨てにしてしまい、申し訳ありませんでした。  私は前に議論した時もそうでしたが、称徳、道鏡の成果を認めたい方です。最近、仏教そのものではないですが、 関連した小説など読み、妄想が結構広がって皆さんにご迷惑をおかけしています。 ロトさんの区別は、、  厳密ですね。私は単に入ったか入らなかったかだけで分類可能と思ったのですが、 発射の有無で分類するわけですね。我がアメリカの大統領の、オーラルは性 行為に含まない、という解釈もそれで充分納得できます。ん?待てよ、発射がそ れであった場合はどうなるんだ? Time : 1999/ 6/ 6(日) 22:26:15
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 下品な会話? Comments: inaさん、下品な会話はそろそろ終わりにしましょう? 厳密というより、ちょっと変な区別です。 ただ、関係をもって発射しないというのは「苦行」に通ずるものがあるのかも? あっすいません。下品な事は止めようとおもったはずなのに・・・・。 これでほんとに終わりです。みなさん突っ込みいれないで下さい。 性的関係は、なかったのでしょうね。天皇は寝るときでもそば近くに仕えている人 がいるでしょうから、もしあったのなら良質な資料にも「そういう噂がたった」 程度の事は記されていてもおかしくないですからね。人の口には戸が立てられぬ ともいいますから、でもどちらにしても「藪の中」という事ではないでしょうか?        Time : 1999/ 6/ 7(月) 00:08:37
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: 藪の中、芥川ですね?  ロトさんは文学も興味がありますか? Time : 1999/ 6/ 7(月) 02:12:09
Name : ina E-mail : Title : Toshyさん Comments:  あなたのおなまえなんてえの?  Toshiじゃないわけですね?  ところで話しが飛びますが、私は坂本九ちゃんの新八犬伝で育ったのですが、 三国志演義とはNHKの人形劇のことですか? Time : 1999/ 6/ 7(月) 05:31:31
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  こんにちは  どうもすみません。おっしゃるとおり、百科事典を引くような質問ですね。  前回ご回答を頂いた時に、華厳宗というのが引っかかって確認したかったので す。すみませんでした。  法相宗が出てきた理由ですが、以前大阪JF生さんとお話しした時にも申し上げた 通り、私は三島の崇拝者です。月修寺という、法相宗のお寺が登場して、輪廻の物 語が終わるのですが、大乗の唯識論など見ていくと、歴史の発想上、面白そうな妄想が 沸いてくるのでは?と思ったのです。どうもちんぷんかんぷんな状態で質問しましてす みません。それでも回答いただいてありがたかったです。  ときにAwajiさんはHP上で名言を生んでいますね!私も機会があったらパクッテ見たい。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 05:47:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 彼は優柔不断だから... Comments: slashdogさんこんにちは。 >あと広家ですが、これはかなり難しい問題だと思います。 >もし輝元が松尾新城に入っていたとして、催促しても >なんだかんだと理由をつけて動かなかったのではと思うのです。 確かに広家は家康派だから反対するでしょう。 でも輝元が「主人」なのだから彼が強く「命令」すれば従うでしょう。 とは書いたものの、優柔不断な輝元では無理かな? Time : 1999/ 6/ 7(月) 09:09:29
Name : きんたろう E-mail : Title : 訂正 Comments: 先日の投稿の「恵瓊は尼子の出身だ...」 は私の記憶違いでした。 お詫び申し上げます。 恵瓊は安芸の守護大名・武田氏の直流で、甲斐の武田家と同族です。 元就に敗れ死んだ元繁の次代光和の甥、信重の子です。 毛利氏は、仇敵であったといえますが、家を再興せず僧として育ちました。 名僧・竺雲恵心の弟子となり、師の一字をもらい諱を恵瓊と称しました。 安芸・安国寺の住持も兼ねていてどれだけ偉くなっても、住持の座は手放さず 自らの名を「安国寺恵瓊」と記すようになりました。 (slashdogさん、ありがとうございました)(^^) Time : 1999/ 6/ 7(月) 09:28:52
Name : Toshy E-mail : Title : むだい Comments: inaさん 私の名前はToshiではないです。本名はHPのどこかに出てくるので、探してみてください 輔住さん、slashdogさん 広家の戦略の続きを、お楽しみに! Time : 1999/ 6/ 7(月) 10:27:31
Name : Toshy E-mail : Title : むだい Comments: Awaji様 お名前をAwaliさんと書いてしまっていました。大変申し訳ございません。 inaさん 「三国志」は人形劇で子供の頃見ていました。 「三国志演義」とは、その原作になった らかんちゅう の書いた本です。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 11:12:02
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : TOSHY氏へ Comments:  先回はHPのアドレスをご教示賜り、かたじけない。  貴君は極めて広範囲の教養と経験を持ち、そして社長さんでさえあるというではないか。 拙者は驚いた。一通りリンクしているものを渉猟してみたのだが、面白 かった。その一方でこの老体には応えたよ。あと、このHPに登場してるメンバー の多くが貴君のHPにも登場、なかには個人的にも交流しているものがあるようで、 これもひとえに貴君の人間的な魅力のおかげじゃろうて。わしももう歳じゃ。  老兵は消え去るのみじゃて、、。モゴモゴ。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 11:44:13
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : いとしの名探偵 金田一耕介の孫娘さまへ Comments:  ご無沙汰しておる。あなたさまはどうして再登場されないのであるか? 毛利の解説(byTOSHY氏)に就いての感想はないのかね?  別に説教を垂れようというのではない。ただ、私はあなた様が好きになっ てしまったので、声が聞きたいのである。寂しいのである。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 12:10:27
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 講演会へ行ってまいりました Comments: 先日、井沢先生のSAPIOの大阪講演会を拝聴いたしました。啓発される話ばかりで した。昭和ヒトケタ病、軍法、新聞社の情報公開とプラスアルファ(これはヒ・ミ・ツ)、 でした。詳しくは、次号以降のSAPIOをご覧ください。招待していただいたのだから 宣伝くらいしないと、でも掛け値なしで面白い内容になると思いますので、皆さんぜひ読 んで下さい。それと、「逆説のニッポン歴史観」が、近い将来リニューアルされるそうで す。 石田三成逆転のシナリオを(これは一種のSF)ですので、ちゃんとした史論には耐え ないことをご了承ください。 豊臣秀頼の補佐をして、事ある毎に「徳川家康は五大老の一人に過ぎない」事を諸大名 に植え付ける。やがて徳川家康が家督を秀忠に譲る時に介入し、徳川家を4つくらいに分 割相続させてしまう。そして、徳川家を分裂させて、個別撃破をしていく、これだと思い ます。 少なくとも、大阪の陣の時に淀殿の隣にいたのが大野治長ではなくて石田三成であれば、 事態は大いに違ったのではないかと私は思います。大野治長がスカタンであることには誰 も異論はないでしょう。石田三成なら、自己の保身を考えずに、豊臣家の勝利のみを考え て行動できます。ただし、人と折り合うのが苦手の人だったようなので、一番上には立て ないでしょう、誰か後ろ盾になってくれる人がいないと才能を発揮できない人物だと思い ます。 ただし、井沢先生がおっしゃているように、人々はとにかく安定を求めており、上に立 つのは豊臣家でも徳川家でもどっちでも良かったのです。汚い手を使ってでも、当時の人 が求めて止まなかった平和を実現した家康は、やはり神君なのです。 石田三成が評価されたのは、徳川家が否定された明治時代から、それも尊王思想の影響 でしょう。プチ・大楠公だと思います。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 12:50:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 石田三成の怨念 Comments: わ−い休講だ(先生見てないだろうなあ)、久々に書き込むぞお。 石田三成のお墓の事で思わせぶりな事を書きましたが、私が想像する真相はこうです。 毛利輝元は関ヶ原では受け身の役しか演じなかったとされていますが、実は、もっと積 極的な役割を演じていたのではないかという事です。主役は石田三成だと思いますが、毛 利輝元は石田三成のパトロンのつもりで、あわよくば毛利幕府を開くつもりだったのかも しれません。ただし、輝元が三成に上手く乗せられてしまったのか、それとも確信犯だっ たのかは、私はまだ判断をつけかねています。 毛利家(といってよいと思います)が三成の供養をしていたという事は、やはり三成に 後ろめたい所があったのでしょう。一家のうちから決定的な裏切り者を出してしまった事、 あるいはこれは想像ですが、西国に逃げて徹底抗戦しようとの石田三成の提案を蹴ってま たは石田三成をかくまう事を拒否して、徳川家に売るぐらいの事をしたのかもしれません。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 13:24:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 「逆説の日本史ー江戸時代編」先取り Comments: いつか、「逆説の日本史」を先取りして論じてみませんかと提案していた方がいらっし ゃいましたので、江戸時代のいくつかの事を「逆説の日本史」の手法で論じてみようと思 います。 まず徳川綱吉については、今まで井沢先生が日本論で骨子としてこられた「和・言霊・ 穢れ」をベースにして話が進められるのではないかと思います。「日本史再検討2」(世界 文化者)の第7章で、井沢先生は綱吉について既に論じられています。「生類憐みの令」 を一種の文化大革命(あまり好きな言葉ではないですが)とされています。更に、NHK の「堂々日本史」で取り上げられていた(これは井沢先生ではありませんが)日本最初の 社会福祉制度を作った人物として綱吉を再評価されるかもしれません。「日本史再検討 2」の論旨で行くと。綱吉は日本人総平安貴族化を推し進めた人物としてみる事ができま す。ただの犬公方ではなく、日本史に大きな足跡を残した人物だったのです。 しかし、江戸時代に生まれて、その後の日本を大きく動かしたものとして、尊王思想と 勤勉の哲学の右に出る思想はないでしょう。この2つが、和・言霊・穢れとどのように関 連付けられるのか、あるいは井沢先生独自のもっと新しい説明が成されるのか、私は大変 興味があります。 尊王思想については、推理する鍵として「現人神の創作者たち」(山本七平)、「元禄十 五年の反逆」、「葉隠・三百年の陰謀」があります。「現人神の創作者たち」を取り上げた のは、尊王思想の研究家は山本さん以外に多くいるのでしょうが、私は山本さんしか知ら ないのと、井沢先生が「言霊の国解体新書」において、尊王思想を読み解く好著として取 り上げてらっしゃるからです。 「現人神の創作者たち」において山本さんは忠臣蔵(赤穂事件と呼ぶべきかも知れませ ん)を「応用問題」として解いておられます。「元禄十五年の反逆」は言うまでもなく井 沢先生が赤穂事件と仮名手本忠臣蔵を解き明かした著作です(ミステリーなので内容に触 れる事ができなくて残念です)。「元禄十五年の反逆」と「現人神の創作者たち」はお互い 全く独立した論ですが、「逆説の日本史」において、井沢先生がどう関連付けられるかが 楽しみです。なぜなら、山本さんは赤穂事件が尊王思想に市民権を持たせるきっかけとな ったと考えていたらしいからです。 「葉隠れ・三百年の陰謀」の舞台は幕末の佐賀藩ですが、真のテーマは朝幕併存体制の 矛盾としていいでしょう。(これまたミステリーなのでこれ以上内容に触れられない)こ のテーマを説明するに当たって、これ以上分かりやすい題材はないと思います。さすが井 沢先生です。 江戸幕府はイデオロギー的には、自らの正当性の拠り所として朝廷の権威を求めてしま った所に行き詰まります。その矛盾を広げてしまった人物として綱吉(と吉宗)が再登場 します。 綱吉と吉宗は徳川家の直径にはありません。この2人は、徳川家の後継者というだけで 諸大名を統率するには、弱さを抱えていました。この事が、2人をして自己の正当性を徳 川家の後継者だから偉いのだ、から、将軍職は天皇から頂いたから偉い(だから徳川家の 直系でなくても偉い)のだ、にシフトさせてしまいました。また、当時進んでいた家督の 法人化に拍車をかけました。この事は「日本の歴史(集英社)」にも書かれています。 私はこのようにして、先に上げた3つの本が結び付けられると思うのですが、皆さんは どう考えますか。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 14:04:02
Name : 名探偵 金田一耕介の孫娘 E-mail : Title : お返事 Comments: お礼をしとかなくちゃとおもったんだけどー。ごめんねー!! 質問した以上私も毛利について少しは勉強しなくちゃと思い立って、勉強してるところでーす! 考えが、まとまったらまた書くねー。じゃあね、ばいばい!!! アトムちゃん口説こうったって無理だからね! Time : 1999/ 6/ 7(月) 21:35:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「大徳寺」石田三成墓?? Comments: 安部さん、マイドのAwajiです。 大徳寺 石田三成の墓について、考えて見ましょうね。・・・安部さんの 論理は次のように展開されていますよね。 >>ただ、石田三成の墓が、毛利家の厚い信仰をえていた大徳寺にあること >>に何か意味があるかもしれません。毛利家は、石田三成に何か後ろめた >>さがあったのかもしれません。ちなみに、石田三成の墓がある僧坊は立 >>ち入り禁止でした。 ↓ >>特に毛利家が最大級の檀那だった(今もそうかもしれません)らしいで >>す(聞きかじった知識です)。・・・・・・ >> その一角に石田三成の墓がありました。塀で囲まれた僧坊の中にあり、 >>はっきりと立ち入り禁止と表札が書かれていました。大友宗麟の墓のほ >>うは公開されていました。石田三成の墓のほうは現在でも大事に供養が >>なされているということだと思います。 ↓ >>毛利家(といってよいと思います)が三成の供養をしていたという事は、 >>やはり三成に後ろめたい所があったのでしょう。 ところで、ご承知のとおり大徳寺は多くの大名家寄進の塔頭からなってお り、各家の墓所が有りますね。代表的な例で言えば・・・ 黄梅院・・・(小早川隆景寄進)小早川隆景夫妻・毛利元就夫妻 蒲生氏郷(昌林院より移設)墓 竜源院・・・(畠山義元・大友義親・大内義興等寄進) 大慈院・・・(筒井順慶寄進?)筒井順慶・立花宗茂 墓 瑞峰院・・・(大友宗麟 寄進)大友宗麟夫妻 墓 興臨院・・・(畠山義綱 寄進)畠山歴代 墓 三玄院・・・(石田三成・浅野幸長・森忠政寄進)石田三成・森忠政 古田織部 墓 *三成の墓は江戸時代は公表されず、明治40年改葬されたもの。 大仙院・・・(六角政頼 寄進) 芳春院・・・(前田利家夫人寄進)前田利家夫妻・前田家歴代 近衛・一条家等 墓 聚光院・・・(三好義継 寄進)千家 墓 総見院・・・(豊臣秀吉 寄進)織田家・近衛家 墓 竜翔寺・・・(移設 )秀吉母(大政所)墓 高桐院・・・(細川忠興 寄進)細川三斎 等 墓 玉林院・・・(片桐且元 寄進)山中鹿之介・片桐家・佐竹・有馬等墓 竜光院・・・(黒田長政 寄進)黒田家・吉川広家 等墓 大光院・・・(藤堂高虎 寄進)羽柴秀長 墓 等々だと思います。(誤認脱漏があるかも知れません。) さて、これらの中から「毛利」と「石田三成」を抽出して、 「毛利家(といってよいと思います)が三成の供養をしていた」・・・・と 推定出来るでしょうか? そしてさらに、その推定に基づいて、 「という事は、やはり三成に後ろめたい所があったのでしょう。」・・・と 推論出来るでしょうか? Awajiにはチョット理解できない手法なのですが、一度じっくりと貴方の 歴史科学考察に関する基本姿勢をご説明頂けないでしょうか?? Time : 1999/ 6/ 7(月) 22:03:44
Name : Toshy E-mail : Title : 家康・三成・広家 Comments: どうもどうも。 アトムボーイさん、いつもながらの過大なお褒めの言葉、ありがとうございます。 ここの常連さんたちがうちに来るのは、すべてきんたろうさんのおかげなのです。 ところで、「一般人立ち入り禁止」のリンクまで覗いたのでしょうか。 それは人生を破滅に追い込むので、やめましょう(笑い) 東西どちらが勝つかを見守ることにした吉川広家、 毛利別働隊を率いての行軍はまさに「牛歩」そのものでした。 あまり早く参陣すると、東軍との戦いは避けられなくなるためです。 毛利軍3万をあてにしている三成、この吉川の計算外の行動に、 つぎつぎと戦略を変更せざるを得ませんでした。 吉川の考え。 もし一度でも三成に手を貸せば、「毛利は不戦」の約束を反古にしてしまう。 それでわざと進軍を遅らせたばかりか、 戦いが始まってもそれを避けることのできる南宮山の上に登っていったのです。 吉川・毛利秀元の軍はともかく、輝元はどうしているのか。 「総大将」にまつりあげられたものの、いざ徳川から「本領安堵」をいわれると、 ついつい危険を冒してまで、と思ってしまいます。 輝元のそばにあって戦略を担当するのは増田長盛、 これまた臆病者だから、毛利をけしかけてまで戦う気はさらさらありません。 こうして毛利本軍は、大坂城から一歩も出ようとしないのでした。 さて、徳川家康が美濃に到着し、西軍本隊と激突。 城攻めが苦手な家康は、大垣城を避けて菩提山に陣を取りました。 吉川ら毛利軍陣取る南宮山から、北に約7キロ。 もし東軍がさらに西に進めば、京都(朝廷)と大坂(豊臣)を手中にできるため、 西軍としてはそれを防がなければならない。 この時、広家は明らかに東軍寄りの態度を示していました。 西軍がここを攻撃しようと垂井に来たら、吉川は背後から攻め込むつもりだったのです。 しかし、三成は決してそれを見破れぬほどの愚将ではない。 西軍は南宮山の南を迂回、関ヶ原に陣を取って、東軍を迎え撃つ姿勢を示しました。 これでまた、吉川は東軍荷担を考え直します。 三成を挟撃して殲滅できれば手柄はもらったようなもの。 中立に徹しただけでも、毛利を西軍から切り離したという功は大きい。 だが関ケ原に西軍が陣取ることによって、形勢は逆転しそうでした。 大津城を攻略した毛利秀包の1万5千、田辺城の1万5千が合流することによって、 数日のうちに、西軍有利に傾くからです。 徳川としては、これ以上待てないから進軍するしかない。 東軍が関ケ原に入ったら、伊吹山、南宮山、松尾山の三方から包囲し、 西軍の勝利は確実となるのでした。 家康、三成、広家・・・・まさに狸と狐と貉(むじな)の化かしあい。 この続きは次回で。 Time : 1999/ 6/ 7(月) 22:44:12
Name : 輔住 E-mail : Title : 増田長盛 Comments: Toshyさんの家康・三成・広家を拝見しました。 続きが気になりますね! ところで >輝元のそばにあって戦略を担当するのは増田長盛、 >これまた臆病者だから、毛利をけしかけてまで戦う気はさらさらありません。 この増田長盛は本当に良く分からない。 西軍首脳の一人でありながら、輝元暗殺を計画が噂されたり、 家康に三成の挙兵を知らせたり。 鵺も真っ青な行動だ! 西軍が勝ったら帰って危なかったと思うのは 私だけ? Time : 1999/ 6/ 8(火) 08:55:22
Name : きんたろう E-mail : Title : 私も楽しみにしています Comments: こんにちは、みなさん。 Toshyさんの「ぽんぼこ合戦」の続きが楽しみです。 アトムボーイ1さん、きんたろうのところにいらしゃったときは、「痕跡」を残していって下さいね。(^^) Time : 1999/ 6/ 8(火) 10:02:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 私も楽しみにしています Comments: こんにちは、みなさん。 Toshyさんの「ぽんぼこ合戦」の続きが楽しみです。 アトムボーイ1さん、きんたろうのところにいらしゃったときは、「痕跡」を残していって下さいね。(^^) Time : 1999/ 6/ 8(火) 10:05:57
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : RE Comments: きんたろう氏へ  かたじけない。実は赴いたのだが、楽しそうだったので、拙者のような無粋者 の出番で無いと思ってしまったのじゃ。貴君もチェスをやるのかな?  拙者は軍人将棋しか知らん。   TOSHY氏へ  狸と狐と貉(むじな)のぼんぼこ合戦、、。ところで狢とはなんなのだろう?   名探偵 金田一耕介の孫娘氏へ  ガックリ! ところで、無理というのは生物学的に、という意味かな? Time : 1999/ 6/ 8(火) 10:40:31
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 「逆説の日本史ー江戸時代編」先取りを見て思い出したこと Comments:  安部様の「逆説の日本史ー江戸時代編」先取りを楽しませていただきました。、  それでまた思いだしたのですが、以前、何度か某女史を絶賛して、 皆様のご意見を伺ったのですけど、当時はまったく反応が有りませんでした。 かなり、メンバーも代わりましたので、この機会に再度コメントさせてください。  新進の歴史家・山室恭子女史のことなのですが、東大史料編纂所の助手を経て、 コンピュータも駆使した労作    「中世のなかに生まれた近世」(吉川弘文館)(残念ですが未読) でサントリー学芸賞を受賞して注目され始め、現在東京工大(!)にお勤めの方です。 「黄金太閤」(中公新書)も面白いですが、なんといっても    「黄門さまと犬公方」 (文春新書) が秀逸です。軽妙な語り口で精力的に追求していく点、まさに本領発揮という感じです。 その割に注目度がなぜこんなに低いのかわかりません。おふざけムードが好みを分ける のでしょうが、説得力も強い分、拒否反応も強いのかもしれません。 綱吉については、基本的には、安部様が解説されている井沢説とコンパチブルだと思います。 (儒教)啓蒙主義者(変な造語ですみません)として、武士階級の意識改革を図ったという 評価で、生類哀れみの令の見方が変わってしまいます。 綱吉・光圀両者ともはからずも後継ぎになってしまったゆがみが、どのように2人に影響を 与えているかをうまく解き明かしているので、小生は非常に楽しめましたが・・・。 どなたかご意見お聞かせいただければ有りがたく存じます。 Time : 1999/ 6/ 8(火) 11:07:59
Name : ina E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments:  ご無沙汰しています。  お元気ですか?  この、軽妙な語り口、とは、このHPでは金田一さんみたいな?  大阪さん、安部さんと最近役者が揃ってますね。KANAKさんも久しぶりに顔を 見せて欲しいな。ご家族のご都合で休まれてるかたもありますし、寂しいですね。 Time : 1999/ 6/ 8(火) 11:35:07
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments:  早速反応いただきありがとうございます。  山室女史の雰囲気は金田一女史とよく似ていますが、 もう少し薄口といったところです。 (念のため、貞子女史も金田一女史も、面白いと思っています。(失礼?)) この掲示板でも、正体の探り合いのような記事がいくつかあり、 楽しませていただいていますが、以前ina様も述べられたように、 awaji様は、KANAK様と似た「におい」を持っていますので、 小生自身は身近にいるように感じたままです。特に、たとえば    救世観音と「大徳寺」石田三成墓?? で展開されている手法は、懐かしく感じています。 Time : 1999/ 6/ 8(火) 11:55:48
Name : ina E-mail : Title : 大阪さんへ Comments:  早い!  安部さんとAwajiさんの論争は楽しみです。以前私も邪馬台国でAwajiさんに胸を 借りたことがあり、ためになりました。安部さん、頑張ってください。  今は大阪さんと安部さんが最古参ですか? Time : 1999/ 6/ 8(火) 12:09:14
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様、拝復 Comments:  ひょっとしてとおもって覗けば、やはりでした。 最古参は恐らく安部様です。 当初のほとんど投稿がなかったときからいらっしゃったようで、 なんと、井沢先生ご本人とやり取りをされていたような・・・。 もはや、この掲示板の繁盛振りでは不可能な伝説です。 うらやましい限りですね・・。 Time : 1999/ 6/ 8(火) 12:25:03
Name : 輔住 E-mail : Title : 大坂JF生さんへ Comments: >最古参は恐らく安部様です。 そうだったんですか。 私が初めてこのHPを見た時から (98年の7月頃、初投稿は約2ヶ月後) 安部さん、大阪JF生さん、きんたろうさんが 常連さんでしたね。 (他のみなさんも元気かな?) 初投稿した頃、私は「1発屋」で終わるつもりでしたが、 いつの間にか...(笑) Time : 1999/ 6/ 8(火) 17:48:22
Name : きんたろう E-mail : Title : 記憶をたどると Comments: 多分デビューは安部さんと同じ頃です。 あの頃、安部さんのエネルギーはものすごかったですね。 伝わってくるフィーリングがこれほど似通っている人がいるのかと思いました。 負けじと投稿しようとする気持ちはあったのですが、なかなか時間的余裕が無く たまにしか投稿できませんでしたが、読んでいるだけでも楽しかった記憶があります。 (勿論、今もです) 大坂JF生さんの話の進め方の巧みさにはいつも舌を巻いていました。 輔住さんの意見はズバリと意表を突く意見が多かったように思います。 やはり色々な意見に接するのは楽しいことですね。(^^) Time : 1999/ 6/ 8(火) 23:02:36
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とキッカケ Comments: 大阪JFさん、inaさん、みなさん。今日は。Awajiです。 inaさん・・・Awajiは男性には金も胸も貸さない主義ですので、誤解無き ようお願いします。(^.^; ところでKANAKさんのことが、話題に上がっていましたね。 「におい」が似ていると言うことですが、実際その様な面があるかも知れ ません。 かなり以前から、あるフォーラム(Nifty)を通じて良く存じているので すが、どちらかと言えばAwajiよりは原理原則に厳格な方だと思います。 でも資料根拠とか論理構成とか、トカク理屈っぽくって、面白みに欠ける (カッコ良く言えば実証主義・・・・ナ〜ンテ)のは同じかな?? 最初にこのHPにアクセスしたのも、KANAKさんと井沢さんのNifty対論 がきっかけでしたが、救世観音から何故か居着いている仏像オタクです。 ああ、それから・・・顔文字ご紹介しますね。良ければ使って下さい。 (^0^)” (^o^) \(^o^)/ (^▽^) (^_^)/~バィ (^!^)~ (^^;) (>_<;)アチャ (^.^; (-_-)"プン (・_・;)ジトッ m(-_-)m ヘイ <(_ _)>ペコ (・・?)アリェ σ(^_^)ボク (^▲^)ヒヒッ Time : 1999/ 6/ 8(火) 23:27:24
Name : Toshy E-mail : Title : 貉と狸 Comments: 水を差すようですが、貉のことでご質問があったので、答えます。 貉(むじな)とは穴熊のことです。日本書紀によると、推古天皇の35年に貉 が歌を歌ったと記されています。 また小泉八雲の「のっぺらぼう」も、貉の仕業だということです。おそらくこ こでいう貉は、狸のことでしょう。貉は毛皮の色が狸と似ているため、後に狸 を指す言葉となりました。貉が狸を指すようになると今度は狸が人を化かすよ うになり、やがて狸の親戚である狐までもが人を化かすようになりました。 なお、犬・オオカミが人を化かさないのは、日本人のオオカミへの敬意が関係 していると思います。オオカミ=大神であり、「送りオオカミ」とはもともと、 狸などに化かされないよう、オオカミが人里まで送ってくれることでした。 日本でオオカミが悪になるのは、明治時代にヨーロッパの思想が入ってきてか らのことです。 Time : 1999/ 6/ 8(火) 23:58:17
Name : ina E-mail : Title : 無題 Comments: Awajiさまへ  了解いたしました。<(_ _)>ペコ 下の書きこみからすれば、KANAK=Awaji説 は成立しない訳ですね?m(-_-)m ヘイ これからもよろしく。 大阪JF生さまへ  このHPでも結構混乱した時はありましたがそんな時の古参の方々のお力はおっき かったですよね。では。(^_^)/~バィ Time : 1999/ 6/ 9(水) 07:52:50
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title :Comments:  TOSHY氏へ  解説どうもかたじけのうござる。オオカミにそんな意味があったとは驚きじゃワイ。特に送りオオカミ、、。  ところで、ワープロでむじなを変換すると、前回拙者の間違えた、画数の少ない 狢も出てくると思うのじゃが、これはどうちがうのかの?  いつも質問ばかりで誠に申し訳ないのじゃが、現在このHPもティータイム、といった 趣なので、勘弁してくれ。   安部氏へ  学業第一で良いと思うのじゃが、拙者も貴君の投稿を楽しみにしておる。  またそのうち何かカキコしてくれ。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 10:19:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : コメントありがとうございます Comments:  コメントいただいた皆様ありがとうございます。 輔住様  登場の時期は、あまりかわらないと思いますので先輩扱いはどうも・・。 実は小生も一発屋で終わるつもりでしたが、ずるずるときてしまいました。 いずれけじめをつけたいと思っているのですが、次々と繰り出される 興味ある投稿にひきつけられ、なかなか離れられません。 きんたろう様  最古参のお歴々にお名前を挙げるべきところ、失礼いたしました。 身に余るお褒めのお言葉、いたみいります。  安部様の印象が大きかったので、記憶違いしていたようです。 安部様は当初は(も)、堂々たる論陣を張られていたりしたので、 名の有る学者さんかなと思っていたのですが、そのうちK大学のしかも理科系の 学生と判明し、さらに驚きました。  今後も、きんたろう様のさまざまなご意見も楽しませてください。  awaji様  実は、小生も以前(嫌がられながらも)胸を貸していただいた一人です。  拙記事を寛容に受け止めていただき、ありがとうございます。 確かに時々想像(=創造?)の翼を広げられていますので、KANAK様の剛球一本槍とは 違う点もありますが、どちらの面も楽しませていただいております。 これからも大胆な議論の展開をお願いいたします。 ina様  小生は混乱を引き起こした方ですので、功なしとげた最古参の方々からは はずしておいてください。今「慶次」はあと3巻のところまできました。 また以前のコメントをきっかけに「死ぬことと見つけたり」も楽しんでいます。 無理に対比するなら、井沢先生の歴史小説は団体競技(歴史の潮流)の妙で迫り、 隆先生の方は個人競技の魅力で迫っているように感じます。 各個人の魅力があふれています。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 11:23:15
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Toshy様、質問お許しください Comments:  続けて失礼します。 アトムボーイ1様の記事にひきつけられ、貴HPを覗かせて いただいたのですが、芥川の専門家でいらっしゃったのですね。 そこで、井沢先生の作品で芥川が主人公のものがいくつか有りますが、 そこで描かれている人物像は、どのようにお感じになっておられるのでしょうか? 小生はまったく無知ですので、専門家としての厳格なご意見ではなく、 気軽な感想程度でよいのですが、該当作品をお読みでしたら、 お聞かせ願えないでしょうか? Time : 1999/ 6/ 9(水) 11:33:59
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信ありがとうございます Comments: 大坂JF生さん >登場の時期は、あまりかわらないと思いますので先輩扱いはどうも・・。 特別そういうことは考えていたわけではありません。ごめんなさい。 ただ投稿を見てて、「初めてこのHP見た時のことでも書こうかな」と 思って軽い感じで書きました。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 12:03:11
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 本当のことを話そう Comments:  ちょっと我慢できなくなった。  みな、茶飲み話みたいなことをやっておるが、ことごとく「安部さん、安部さ ん」と言っておる。貴君を待っているのだよ。安部君! Time : 1999/ 6/ 9(水) 12:08:10
Name : Toshy E-mail : Title : 芥川とムジナ Comments: みなさん、おはようございます。。 大阪JF生さま まず、私は専門家ではなく(^^;熱狂的読者のひとりです。ですから幻覚・・・いや、厳格も何もないのですが。 それで、井沢先生の芥川関連の本は、未だ読んだことがありません。(すみません) ところで、うちのページに遊びに来ていただいて、ありがとうございます。 せっかくですから、痕跡を残していただくとうれしいです。(^ ^) アトムボーイ1さん 貉と狢。国語辞典を調べると一緒に載っているので大差はないと思うのですが、  貉=穴熊  狢=狸 くらいの違いはあるのでしょうか。わかりません。 みなさまにくらべれば新参者ながら、最近は登場回数の多いToshyでした。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 12:36:32
Name : やま E-mail : Title : 善光寺 Comments: はじめまして、最近井沢先生の講演会で、蘇我氏の鎮魂について質問した やま、と申します。 質問は、「蘇我氏は中大兄皇子達に殺されて、更に、記、紀では悪口まで 書かれていますが、あれでは蘇我氏が浮かばれないんじゃないでしょうか」 という質問でした。実は続けて、蘇我氏と善光寺の関係について聞きたか ったのでしたが、時間も無くて質問できませんでした。あとで家に帰って 調べてみたのですが、私の疑問は更に深まって、 1、斎明天皇が九州で崩御したときに、朝倉山の上から喪の様子を見ていた 鬼がいたということ。そしてそれが蘇我蝦夷の霊ではないかと噂されたこと。 2、善光寺は644年に皇極天皇の勅願で建立されたとしていること。 3、一光三尊の秘仏が難波の堀江に捨てられた、蘇我稲目が祭った仏像であること。 4、紀、記の中で(どちらかは忘れました)皇極天皇と蘇我入鹿の雨請い比べがあって その中で皇極の呪力のほうがまさっていた、という記述があること。 5、善光寺は長野に来る前は、飯田にあり、そこがはやくから馬の産地であり、 鞍作氏や馬との関係の深いと思われる蘇我氏となんらかの因縁がありそうな こと。 ざっと、これだけのことを見てもなんか、善光寺と蘇我氏の間に関係があるよう に思えてなりません。皇極天皇の644年の勅願も、644年だと、入鹿が、 聖徳太子の一族を殺害した年ですが、わずか一年後の645年ならば、中大兄 皇子達が蘇我本家を殺害した年となります。さらに、中大兄皇子がなかなか皇位 につかなかったのも、蘇我氏の御霊を恐れてのことだったとしたら?そういう 推測は成り立たないでしょうか?皇極は斎明として重ソしていますが、蘇我氏の 霊をなぐさめるミコとしての役割があったのではないでしょうか。 まずは、思い付くままに書いてみました。BBSのみなさまのご意見お待ちして おります。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 16:01:30
Name : slashdog E-mail : Title : 輔住さんへ Comments: >西軍が勝ったら却って危なかったと思うのは 私だけ? 私も同感です。 しかしあの裏切り者の多さでは やはり勝つのは無理だったのでしょうかねぇ・・・。(笑) とにかく、あの体制にまで持っていけた(人数の問題やその他もろもろ) 三成と恵瓊の頭脳に乾杯!といったところでしょうか?(笑) Time : 1999/ 6/ 9(水) 18:20:24
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とオオカミ?? Comments: Toshyさん、今日は。Awajiです。 >>日本人のオオカミへの敬意が関係していると思います。オオカミ=大神で >>あり、 大神(オホカミ)と狼(オホカミ)の関係ですが、両者は表記(甲・乙類?) が区別されており、全く別の言葉だと記憶しているのですが、間違っている でしょうか? 狼(オホカミ)の(カミ)は「神」や「上」では無く「噛み」に由来するの では無いかと思うのですが? (オホカミイヌ→オホカミ)・・・単なる記憶で、確認していません。(・・?) また「狼(山犬)」が「狐・狸」以上に特に敬意を持って見られた事例は、 記憶に無いのですが、何かありましたでしょうか? >>貉=穴熊、狢=狸くらいの違いはあるのでしょうか。 「貉と狢」は「狸と貍」「犲と豺」「獏と貘」同様に単なる異字体ですので、 元々漢字としての意味に差は無いと思います。 むじな【×狢・×貉】 アナグマの別名。 ▽混同して、タヌキをさすこともある。 細かいことで恐縮ですが、一寸気になりましたので・・・(・_・;) Time : 1999/ 6/ 9(水) 21:54:20
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 蘇我馬子=聖徳太子説? Comments: みなさん、こんばんは。タイガース堂々の首位です!!!!! なんか、去年までのスワローズのような試合展開が多いとおもいませんか? 監督の影響でしょうか?女性誌によると「かわいかずみ」・・いや、やめときます。 「聖徳太子=蘇我馬子」というのを雑誌の広告かなにかでタイトルだけ見たことが あるのですが、どなたか詳しい方がいらっしゃれば是非内容を教えていただけない でしょうか? やまさん、はじめまして。やまさんの投稿を読ませて頂いたら、ふと上記の事を思 い出してしまいました。関係なくてどうもすいません。 ところで、善光寺では、戒壇めぐりというお参りがあるそうですが、どういうもの なんでしょうか?暗闇の中を歩くとかなんとか聞いた事があるのですが、本当なの でしょうか?(回廊?) 今日は質問日です。ご存知の方おられましたらぜひ、お教えください。 お願いいたします。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 22:51:45
Name : Toshy E-mail : Title : おおかみ Comments: Awajiさん、こんにちは。 オオカミの話ですが、これまったくの受け売りなので、自信なしです(^^;) ただ、どこかでなんとかの神という、オオカミを奉ったところがあったと聞いていて、 もしかすると、これかな、と。。 あなたを拝むから、人を食べないで下さい、という信仰らしいです。 ちょっと手元に資料がないので、また後日書かせていただきます。  関係ありませんが、私は某サイトで「オオカミ」を名乗っています。  何の話ですか、輔住さん?!(笑) 貉と狢のこと、ありがとうございました。。 Time : 1999/ 6/ 9(水) 22:53:13
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と善光寺?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>「聖徳太子=蘇我馬子」というのを雑誌の広告かなにかでタイトルだけ >>見たことがあるのですが、 まったく飽きもせずに、良く続くものだと思いますが、あるフォーラムで紹 介されていた次の書籍の類ではないかと思います。(>_<;) (応神陵の被葬者はだれか)1990年 (蘇我馬子は天皇だった) 1991年 (聖徳太子はいなかった) 1992年 いずれも著者は石渡信一郎、出版社は三一書房 小林千恵子氏の「天武 新羅人→高句麗人説」同様のトンデモだと思います。 (勿論、読んではいませんが、彼等の手法は見え透いていますので・・・) >>暗闇の中を歩くとかなんとか聞いた事があるのですが、本当なのでしょう >>か? 善光寺以外にも同様の施設は沢山あり、善通寺のも有名です。 概ね本堂の地下にトンネルが掘ってあり、暗闇の中で結縁を計るものですが、 (胎内巡りと言う場合もあります)Awajiは「死と再生」を象徴する古代信 仰に関係があると睨んでいます。 取り敢えずです・・・・(^0^)” Time : 1999/ 6/10(木) 00:07:54
Name : Toshy E-mail : Title : ぽんぼこ関ケ原 Comments: しばらくぶり、関ヶ原の話です。(史実と小説の中間みたいなものと考えてください) 東西の大軍同士、関ヶ原で対峙しています。 東軍はほぼ全軍が参戦しているのに対し、西軍は石田・小西・宇喜多・大谷だけ。 しかし地の利をもつ西軍は強い。約二倍もの大軍相手の善戦です。 特に石田隊、東軍の半数近くを一手に引き受け、一歩も引かないのです。 この時広家は? 「勝つほうにつく」 これが彼の考え。今動かなければ、毛利を中立にした功が東軍に認められるし、 もし西軍が勝ちそうなら徳川軍の背後を突いてやればいい。 カギを握っているのは、松尾山の小早川秀秋でした。 その小早川は、というと、三成からもらったおいしい話、「関白」が頭から離れない。 東西どちらが勝っても、恩賞は間違いなし。彼は迷うに迷っていました。 と、石田隊とにらみ合っていた黒田隊の鉄砲隊が、 石田隊切り込み隊長の島左近を撃ったのです。 もんどりうって馬から落ちる島左近。石田隊は崩れて、柵の後ろへと下がりはじめます。 この隙を狙って東軍は石田に突っ込みました。 しかし三成の秘密兵器、フランキー砲が東軍をまた追い散らす。 まさに形勢は互角、このまま戦いは膠着状態に。 なぜ徳川家康が、即日決戦を挑んでいたのか。 三成の策、畿内一円の西軍勢力20万による、東軍包囲網のことを知っていたからです。 それを家康に流していたのは、もちろん増田長盛でした(笑) しかし三成も、苦戦が続く。 ついに援軍を求めて、吉川・毛利あての狼煙を上げるのです。 ここで主戦派の毛利秀元、どんな行動をとるのか。それは次回で。 輔住さん 三成は、増田長盛の「良心」に訴えていたのではないでしょうか。 なんかそんな気がします。 Time : 1999/ 6/10(木) 00:32:44
Name : ina E-mail : Title : 善光寺 Comments: 「三島」と善光寺 やまさん、Toshyさん・・・こんにちはinaです。 やまさん・・・初めましてinaです。  私も善光寺行きました。真っ暗な回廊で、眼が慣れても何も見えない暗黒ですね。 確か途中で金属のわっかが壁に固定されており、それに触る、というのがあった ように記憶しておりますが。  蘇我と善光寺の話し興味深いので、もう少し続きをお願いします。突っ込む人材 には事欠きませんからその点はご心配なく。 Toshyさん  私は島左近というのはこの上なく貴重な人材であったと思います。どちらかと言 えば融通無碍とは行かない石田の欠点を補ってきたのが彼で、確か石田には出来す ぎの家老と言われてたんですよね。  こう言う言い方は問題かも知れませんが、やはり西軍破れてこそ、大谷などとて もロマンチックに見える、と思うのは私だけでしょうか。 私もToshyさんのHPリンクの三島のHPにちょっとだけ痕跡を記しました。 Time : 1999/ 6/10(木) 08:48:53
Name : ina E-mail : Title : ピンストライプ Comments:  勇者ロトさんへ  今年はピンストライプの年になって欲しい。 タイガースとヤンキース、日本シリーズとワールドシリーズ制覇できまり! Time : 1999/ 6/10(木) 08:51:59
Name : Toshy E-mail : Title : 三成に過ぎたるもの Comments: 三成に過ぎたるものがふたつあり     島の左近と佐和山の城 inaさん、こんにちは。島左近はまことに不思議な人で、 素性、本名、経歴、そして関が原合戦後まですべてなぞの人です。 関ケ原の戦いの前、左近は「俺は家康をやっつけたことがあるから、今度も」といったそうです これを作家の海音寺潮五郎氏は「島の杓子定規」としていますが、 左近は士気を高めるためにいったのだろうから、「杓子定規」と決めるのは何とも。。 全力をつくして敗れた者にロマンを感じるのは、みな少なからずあるのでしょうね。私もです。 義経、楠木正成・・・・あと、だれだ?! Time : 1999/ 6/10(木) 10:54:08
Name : 輔住 E-mail : Title : 西軍の方おつかれさま! Comments: slashdogさんへ >とにかく、あの体制にまで持っていけた(人数の問題やその他もろもろ) >三成と恵瓊の頭脳に乾杯!といったところでしょうか?(笑) あそこまでやったのだから本当に敬服します。 並の20万石の大名では不可能でしょう。 (例えば清正ら武断派の大名は 8〜10万の軍勢を集めるのは向いてないでしょう。 だからといって彼らが三成より劣るという訳ではありませんが) Toshyさんへ >三成は、増田長盛の「良心」に訴えていたのではないでしょうか。 >なんかそんな気がします。 そうでしょうね。増田だけでなく、大名には 「豊家を守る」という良心に訴えたでしょう。 しかし三成ぐらいの良心を持つ人は極めて少ないでしょうが! >関係ありませんが、私は某サイトで「オオカミ」を名乗っています。 >何の話ですか、輔住さん?!(笑) 同様に私は某サイトで「亀」を名乗っています(笑)! ぽんぼこ関ケ原、次回も期待しています。 Time : 1999/ 6/10(木) 12:15:49
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ありがとうございます Comments: ホントに最近忙しくて、 今だって次の講義に出なくちゃいけないので・・・ そおいえば途中で投げ出している仕事が多い気がします。 秋篠寺は、一応考えがまとまりました、 来週にでも書こうと思います。 常識的な線でまとまったのですが、私は満足しています。 法隆寺の話は、図書館で高田氏の本が見つかれば書きます。 「やんちゃくれ」に出てた人は、高田氏の親戚だそうな。 法隆寺に住んでたと言っていた(これは余談) 他に、私が投げ出している事があれば教えて下さい、 一つづつかだつけようと思います。 AWAJIさん、大徳寺に関して,資料ありがとうございます。 暇がありましたら、大徳寺と石田三成に関して調べてみたいと思います。 今のところ、参拝した時に感じた感想の域を出ていません。 Time : 1999/ 6/10(木) 12:57:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか・・・徳風謚号と称徳天皇の死因 Comments: 秋篠寺を論じるに当たってやはり「徳風謚号」は避けて通れない。 手元に資料がなく、記憶をたどっているので漏れているかもしれないが、確実に事実で あろうと断言できる6世紀から9世紀にかけて、怨霊と関わりの深い天皇陛下ならびに有 名な皇族を並べてみる。 崇峻天皇:死因・暗殺:怨霊になる要素・暗殺された:鎮魂のモニュメント・創建法隆寺? 聖徳太子:病死:晩年は失脚していた、子孫が全て殺された:再建法隆寺 山背大兄皇子:自殺:蘇我氏に殺された:再建法隆寺 孝徳天皇:憤死?:中大兄皇子以下百官に見捨てられた: 有間皇子:処刑:中大兄皇子に謀殺された: 天智天皇:暗殺?:井沢先生の説では大海人皇子に暗殺された:三井寺? 大友皇子:戦死:壬申の乱で敗北:近江、尾張、下総に主に分布する寺社 長屋皇子:賜死:藤原四兄弟に謀殺される:東大寺 淡路廃帝:憤死:称徳天皇によって配流された:桓武天皇によって改葬、名誉復権 称徳天皇:憤死?暗殺?:道鏡事件で失脚、崩御の前後に朝廷で不審な動き多し:秋篠寺? 井上内親王、他戸親王:暗殺:桓武天皇によって、配所で暗殺される:御霊神社 崇道天皇:憤死:桓武天皇によって配流、ハンガーストで崩御:御霊神社 藤原吉子、伊予親王:処刑:平城天皇から疎まれ、藤原仲成に謀殺される:御霊神社 平城天皇:自然死:薬子の乱で失脚: 阿保親王:不明:藤原良房により失脚(違ったかもしれません): 文徳天皇:自然死:井沢先生によると、六歌仙などと共に、政治的敗者らしい: こうして見てみると、KANAKさんがかつて言ったように、徳風謚号がついている方 は少数派になる。特に疑問に感じるのは、井沢先生ご自身が、暗殺されたとしている天智 天皇が徳風謚号になっていないことである。 返って、自然死だった方に与えられていることが分かる。異常な死をとげた方々には、 美称が与えられていない。 ここから私が推理するに、古代においては恨みを持っていても、自然死だった貴人は強 力な怨霊にはならないと考えられていたのだろう。そこで、適当な美称を与えてお茶を濁 した。 逆に、いくら貴人の死であっても、異常な死はやはり「穢れ」であり、美称を付けて公 に弔うことはしなかった。 この推測で行くと、称徳天皇の死は自然死ということになる、一歩進んでも憤死で、暗 殺までは行かないだろう。 この古代人の怨霊観に一大衝撃を与えたのが菅原道真公の怨霊である。 道真公は恨みを抱いて亡くなられたが、自然死である。それにもかかわらず、これまで にない祟りをなした。ここで古代人の怨霊観は一大変換を迫られたのだろう。自然死でも 安心できない。平安貴族が道真公の怨霊を畏れたのは、当時としては怨霊になるはずのな い人が超強力な怨霊となったからではないか。 私は、道真公の怨霊が強調される理由はこれだと思う。 Time : 1999/ 6/10(木) 17:31:19
Name : やま E-mail : Title : 蘇我氏と仏教 Comments: >蘇我と善光寺の話し興味深いので、もう少し続きをお願いします。突っ込む人材 >には事欠きませんからその点はご心配なく。 それでは、お言葉に甘えることにします。。。が、おてやわらかに。。。(^^;;; 蘇我氏と仏教 仏教の日本への伝来は日本書紀では552年(欽明13年)とされており、蘇我大 臣稲目が私的に礼拝を許されたとあります。 蘇我氏のこの仏教への帰依は、稲目の時代と馬子の時代に物部氏らの迫害を受け て仏像を難波に捨てられるという事件が起きている。(いずれも日本書紀) これを期に、蘇我氏と物部氏の対立が激化し、物部守屋の代に至って、物部氏は 蘇我氏に滅ぼされる。 様々な寺の縁起などから実際には仏教伝来は538年(欽明7年)のことらしく、 更に古くは522年(継体16年)の 案部村主(くらつくりのすぐり)司馬達止の仏 教信仰の話しなどがあることから、実際には6世紀の前半には日本にすでに仏教 が来ていたと考えて良いのでしょう。書紀でそれをわざわざ552年のこととし て、さらにその礼拝者が蘇我稲目としたことが注目に値すると思います。 更に、実際には敏達天皇自身もこの仏教を面白く思っていなかったふしがあり、 天皇の周囲では当時の仏教への風当たりは、祟峻天皇あたりまで、かなり厳しか ったように思われます。 604年(推古12年)聖徳太子が十七条憲法を定める。 この十七条憲法の第2条に、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である」。 とありますが、これを見ると、日本書記ではわずか半世紀で仏教が日本の政治の 中心へと持ち込まれたことになり、しかもその最大の功労者は、文脈上からは蘇 我氏ということになります。聖徳太子は、言ってみれば、不世出の天才ですが、 その一切のお膳立てをしたのが、蘇我氏ということになっていて、書記ではここ までは蘇我氏礼賛とまでは言わなくても、かなり蘇我一族を立てています。 この後、蘇我氏の滅亡へと進む訳ですが、以上のお話しは蘇我氏という一大臣が 祭っていた宗教が、正しく皇統を継ぐ聖徳太子によって国家の宗教に祭りあげら れる。という話しになっているわけで、ちょっとうがった見方をすると、本来の 神道がありながら蕃神も礼拝することになった、8世紀当時の皇室の言い訳のよ うなものを感じないでもありません。蘇我氏は、そういう意味では宗教改革者で あるわけですね。 祭政一致の時代にこのような改革を行うことは、例え外来の文化に鷹揚な日本と 言えども大変なことだったのではないでしょうか。 こう見ただけでも、日本仏教最大の功労者の蘇我氏を滅ぼすということがどれだ け大それたことか、そういう思いが私にはあります。梅原猛氏は「隠された十字 架」で聖徳太子の鎮魂の寺としての法隆寺を説いていますが、ならばなおさら蘇 我氏を祭らないということは無いと思うのです。 勇者ロトさんご指摘の「聖徳太子=蘇我馬子」説だと梅原氏の話と併せて法隆寺 =聖徳太子=蘇我一族の鎮魂の寺、ということになりそうですが、この「太子= 馬子」説は読んだ事が無いのでノーコメントです。(^^; さて、蘇我氏と馬ですが、ちょっと話が長くなりましたので、回を改めて書く ことに致します。まずはこれまで。。。 Time : 1999/ 6/10(木) 18:47:51
Name : ゆみこ E-mail : Title : 推古天皇 = 聖徳太子 = 蘇我馬子 ? Comments: 勇者ロトさん. たぶんあなたが広告で見られたのとは違うと思いますが,創元推理文庫の「邪馬台国はどこですか?」 (鯨 統一郎著)という本の中の「聖徳太子はだれですか?」というところに,聖徳太子と蘇我馬子は 推古天皇の分身であるという説が載っています.ご参考までに. Time : 1999/ 6/10(木) 19:31:04
Name : ゆみこ E-mail : Title : またやってしまった... Comments: ↓ すみません.読みづらくて.改行がうまくできにゃい...(ToT) Time : 1999/ 6/10(木) 19:38:54
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 単独首位? Comments: みなさん、こん@@は。いやー巨人軍、強いですね?このままいくと阪神の単独首 位が(暫定)きまりそうです。明日からの三連戦が楽しみです!!!というのは、 さておき、Awajiさん、ゆみこさん情報ありがとうございました。 蘇我馬子=聖徳太子というのは、文字にしただけでもなんだかいかがわしい感じが します。しかし、面白そうな話でもあります。一体どんな内容なのか気になります。 さらに、推古天皇まで同一人物(分身というのはそういう意味ですよね、ゆみこさん) というところまで来ると超古代史(九鬼文献、竹内文献、宮下文献など)のような 印象があります。 inaさん、Awajiさん善光寺の情報ありがとうございました。 トンネル状のものや洞窟、輪など何かをくぐることによって、魔除や生まれ変わり の儀式とする神事は各地にいろいろ残っていますがそういう種類のものなんでしょ うか?いつか私も善光寺に行ってみたくなりました。 やまさん、蘇我氏も謎の多い一族ですね。でもどうして善光寺なんでしょうか? なぜ飛鳥地方ではないのでしょうか?飯田の地は蘇我一族にとってどんな意味が あるのでしょう? 蘇我氏については、知らない事だらけなのでお教え願えれば幸いです。 最後にヤンキースの調子はどうなんですか?大リーグはよくわかりません。 伊良部は頑張ってるのですか?inaさん。 Time : 1999/ 6/10(木) 21:53:24
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と善光寺創建?? Comments: やまさん、はじめまして。仏像オタクのAwajiと申します。 今のところ、善光寺議論に参加することは差し控えますが、一つだけ確認 させて下さい。 >>2、善光寺は644年に皇極天皇の勅願で建立されたとしていること。 このご意見は何に準拠しているのでしょうか? 事実はAwajiには分かりませんが、寺伝では推古10年(602)だと思います し、有名な聖徳太子の善光寺如来書簡の伝承もありますので、皇極勅願創 建説はあまり一般的では無いと思うのですが・・・(・・?)ハテ Time : 1999/ 6/10(木) 22:04:30
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と基本姿勢?? Comments: 安部さん、ご多忙中に申し訳ありません。 どうぞ、学業に集中して下さい。Awajiへの回答などは全く急ぎません。 ただ、以下に厳しいことを申し上げますので、ゆっくりお考え下さいね。 1.大徳寺問題 >>暇がありましたら、大徳寺と石田三成に関して調べてみたいと思います。 >>今のところ、参拝した時に感じた感想の域を出ていません。 当然そうでしょうね・・・。つまり単なる感想を推定・推論の根拠として 以下の歴史考察を論じておられる訳ですね。 >>毛利家(といってよいと思います)が三成の供養をしていたという事は、 >>やはり三成に後ろめたい所があったのでしょう。 やはりもう少し真剣に歴史科学を取り扱って頂きたいと思いますね。(-_-)" 最初の意見が1999/ 6/ 3(木)で、三回目が1999/ 6/ 7(月)でしょう? この間に感想を検証する時間は十分ある筈です。それなのに単なる感想を 確信的表現に進め、さらに推論を発展させておられるのですね。 これでは貴方の史学に対する基本姿勢に疑問を持たざるを得ないのです。 (三回目が無ければ、黙っているつもりでした・・・。) いかに素人の意見と言えども、史学を論じる以上は最低限の科学的姿勢は 保つべきだと思いますので・・・ね。(・_・;) 感想は感想、SFはSF、史論は史論として論じましょうよ! 2.法隆寺問題    1999/ 3/15(月) 22:08:38 >>法隆寺の話は、図書館で高田氏の本が見つかれば書きます。 ・・・これも、そうだと思いました。つまり原書籍を充分読まずに以下の所 見を述べられたのですね。(当初から流し読みとされていますが・・・) >>創建法隆寺は、聖徳太子が崇峻天皇を鎮魂するために建立したという説を >>法隆寺管主の高田良信氏が述べておられます。・・・ >>5年前の著作を見る限り上宮王家鎮魂であるとほぼ確信しているようです。 >>細かい部分では、梅原猛先生と違う部分があるようです。 しかし流し読みにせよ、高田さんのお立場を考えれば、この様な泥田引水的 紹介は社会人として無責任の謗りは免れないでしょうね。 充分確認もせずに、この様な立場の人の意見をに紹介する事自体問題ですが、 それに関しての問題指摘を行ったのですから、即座に訂正・釈明されるべき ものでは無いでしょうか? それなのに、三ヶ月後未だに「見つかれば書きます」で済ませるのですか? 貴方は自分の発言に関して無責任な小児なのでしょうか? 3.仏像起源問題   1999/ 4/ 3(土) 11:55:07 >>32相は御釈迦様が説法をしていた頃にあったかどうかは分かりません。 >釈迦生存中に三十二相??マシャカあるワケがないと思います。 >・・・・・ >生存中に三十二相があったかどうか分からない(あったかもしれない) >と言うのは、どういう意味なのでしょうか? >>紀元前1世紀にギリシャ系の国クシャーナ朝で仏像が作られたときには、 >クシャーナ朝は、北方遊牧民の月氏系と思っていましたが、ギリシャ系 >だったんですか?どなたの説ですか? >また、仏像の製作は紀元2世紀初を大きく遡らないと思っていましたが、 >明らかに紀元前と見られる作例が発見されたのでしょうか? >>なお,仏像を作った人達は、アレキサンドロス大王が植民していった人 >>々の末裔です。 >仏像の起源をギリシャ或いはローマ系のガンダーラと、ヒンドゥー系のマ >トゥーラと見るかは、なお決着がついていないと思っていました。 >この様な言い方では、マトゥーラ仏像は無視されることになりますが、何 >か理由があるのでしょうか? に関しても、ご回答を頂いて無いのですが、正直言ってご回答頂くまでも 無い内容ですね。この様な明らかに訂正すべき(でしょう?)ご意見に関 しては、即座に対応頂きたいと思いますね! 4.イザナギ・応神の地方神問題   1999/ 4/ 3(土) 11:55:07 >>イザナギ、イザナミはもともと淡路島と阿波の国の土着の神です。 >>どういういきさつで天照大神の親となったのかは不明です。 >この場合「土着の神=地方神?」というのは、どういう意味なのでしょう >か?凡そ何世紀頃、淡路島と阿波の国の、どういう人たちの地方神だった >のですか?貴方がそのように断定された理由をお教え頂けますか? >>神功皇后と応神天皇は筑紫と河内の神・・・ >これら一連の断定についても、その意味や理由をお教え頂ければ有り難い >のですが、正直いって何をおっしゃっているのか良く分からないのです。 ・・・これに関しては、未だに何を根拠に仰っているのか分かりません。 おそらく誰かの所説の受け売りだと思いますが、良く内容を吟味してから仰 る方がいいでしょうね。(回答は不要です。) 5.応神投影問題等   Time : 1999/ 5/12(水) 22:04:48 >>天武天皇と応神天皇は非常に経歴が似ています。 >>応神天皇には、天武天皇が投影されているのではないかと私は思います。 >皇位(大王位)継承戦争の勝利者と言う以外に、経歴が似ている点は何で >しょう?・・・・ >>宇佐神宮は渡来人の神社ですから、・・・ >従って渡来人の神社と決め付け、その前提に立って何らかの推論を組み立 >てるのは、無理があるのでは無いでしょうか? これに関しては、敢えてご回答を求めませんでした。その理由はお分かり 頂けるでしょうね? 以上・・・貴方にとっては、厳しすぎる苦言かも知れません。 この様な私的なHPでの意見交換においては、非科学的であろうと無責任 であろうと他人がゴチャゴチャ言う筋合いでは無いかも知れませんね。 しかしながら、Awajiは理科系の学生が真剣に歴史を考察しようとしている 姿勢そのものは高く評価しているのです。 それだけに貴方のこういった基本姿勢が残念でならないのです。 敢えて憎まれ役を買って出ていることを頭の片隅において頂ければ結構です。 ・・・今後のご活躍をあらためて期待いたします。 Time : 1999/ 6/10(木) 23:44:35
Name : やま E-mail : Title : Awaji Comments: >>2、善光寺は644年に皇極天皇の勅願で建立されたとしていること。 >>このご意見は何に準拠しているのでしょうか? これは痛いところをつかれました。実は手元に善光寺に関する資料が無く インターネットで調べたものです。 資料の出処は、 http://www.zenkoji.or.jp/ です。このページの概要と縁起を参考にしました。 よろしかったら Awaji さんの知っておられる善光寺に ついての出典などお聞かせ下さい。 Time : 1999/ 6/11(金) 01:41:31
Name : やま E-mail : Title : Awaji Comments: >>2、善光寺は644年に皇極天皇の勅願で建立されたとしていること。 >>このご意見は何に準拠しているのでしょうか? これは痛いところをつかれました。実は手元に善光寺に関する資料が無く インターネットで調べたものです。 資料の出処は、 http://www.zenkoji.or.jp/ です。このページの概要と縁起を参考にしました。 よろしかったら Awaji さんの知っておられる善光寺に ついての出典などお聞かせ下さい。 Time : 1999/ 6/11(金) 01:59:27
Name : やま E-mail : Title : Awajiさんへ お詫びと説明 Comments: 下のコメントは Awaji さんへ というタイトルの つもりが敬称を落してしまいました。更に二重投稿してしまっているし。。。 どうも、失礼いたしました。 m(_ _)m Time : 1999/ 6/11(金) 02:04:20
Name : ina E-mail : Title : やまさん Comments:  こんにちは ちょっとせこいつっこみですが、 仏教の日本への伝来は日本書紀では552年(欽明13年)とされており、・・・蘇 我大臣様々な寺の縁起などから実際には仏教伝来は538年(欽明7年)のことらし く、・・・欽明と西暦の対応がよくわからないのですが。どちらか違うのでしょう か。  本論楽しみにしています。 Time : 1999/ 6/11(金) 12:49:12
Name : Toshy E-mail : Title : おおかみのはなし Comments: Awajiさん、こんにちは。 この前オオカミのことでお話をいただいたので、それらしい話を今本で読んでいます。 秩父一帯には、オオカミ信仰があるらしく、三峰神社にはオオカミの絵馬が飾られている、とのことです。 やはり古代の日本人は、オオカミを敬っていたのかと思いました。 「おおかみ=大神」は、少し無理かも知れませんが(^^; なお、先日記したのは、大口の真神という、大和地方の話です。 日本書紀にはオオカミにまつわる話が少なくない、ということで、 これから読み直してみたいと思います。 あと、平家物語かなにかに、木曽義仲のオオカミ退治のことがありました。 オオカミを山の神の使いとしていた当時の人たちの信仰があったように書いてあります。 これからもご指導のほど、お願い申し上げます。 PS 関ケ原、なぜ小早川は西軍を「裏切った」のか?! Time : 1999/ 6/11(金) 12:56:31
Name : Anon E-mail : Title : はじめまして。 Comments: 古代史の議論に参加するのは久しぶりなんですが、 いくつか思いついたことなど・・・ 隋書倭国伝に目を通せば明らかなように、上宮王家 に関する日本書紀の記述は虚偽であろうと思われます。 もっと言うなら、日本書紀のコスモロジーである讖緯説 に着目すれば、白村河以前の記述はすべて創作された ものである可能性があります。 議論をテクストクリティークに差し戻す必要があるのでは ないでしょうか。 もう一つ、上代特種仮名遣いは、当時の日本語が 8母音であった証拠にはなりません(5母音でよい)。 また、これに基づいた古事記偽書説批判も当たらないと 思われます。 逆説の古代史シリーズはすばらしい仕事と思いますが、 とりわけ古代史の部分には、井沢氏がかつてから言われ ている歴史学会の常識(という名の非常識)が少なからず 見受けられるように、私などには思われます。 Time : 1999/ 6/11(金) 13:16:56
Name : やま E-mail : Title : ina さん Comments: >・・・欽明と西暦の対応がよくわからないのですが。どちらか違うのでしょう >か。 552年 =欽明13年説は日本書紀で欽明の即位を己未(つちのとひつじ)(539年) としている点にあるようです。即位の翌年540年を欽明元年として計算すると13 年は552年となりますね。 なお、552年は百済の聖明王が仏像と経論を送って来た年ですが、日本書紀以外では 奈良時代末以前にできた文献からはすべて、欽明第7年戊午(つちのえうま)(538年) となっていることから、欽明の即位を531年という説があるようです。この欽明の即 位についてはいろいろ議論があるようですが、538年が聖明王から仏像が送られた年 とする点は定説になっているようです。 Time : 1999/ 6/11(金) 19:36:47
Name : やま E-mail : Title : 蘇我氏と馬 Comments: さて、蘇我氏と馬ですが、馬そのものについては、応神天皇当たりまで 遡れるようですから、6世紀半ばの日本で馬がそれほど特別なものだっ たとは言えないかもしれません。ただ、先述した仏教伝来と関係し馬と も関係のあった氏族に、司馬達止(等)を祖とする、「くらつくり」とい う一族がいます。 「くらつくり」氏は、案部、鞍部、鞍作、などと書かれ書紀や寺院の縁 起、ひいては遣随使にも顔を見せます。鞍作氏の祖、司馬達止は南梁 の人で仏教に帰依しており、朝廷に仕えて馬具の造作を担当した工人と なったということです。今で言えばテクノクラートですね。 馬子の時代には、司馬達等の子、嶋が尼となって馬子の建てた仏殿を供 養しています。また達等の子、多須那は出家して徳斉を名乗り、その子 鞍作鳥(くらつくりのとり)は仏師として活躍しています。 さらに、607年(推古15年)には小野妹子と共に通訳として鞍作福利 (くらつくりのふくり)という人が遣随使として随を訪れています。 この鞍作一族は以上のように、仏教の伝来から蘇我氏に影のようにつき まとって歴史の中に顔を見せており、蘇我氏との密接な関係を物語って いると思います。そしてこの鞍作氏の本業の馬具の制作と馬の産地の関 係が私には気になる一点です。馬の産地では馬具は必須ですから、当然 なんらかの関わりがあったと考えて良いのではないでしょうか。 本善光寺のある飯田市は、古来、馬の産地であり、最近では富本銭も 発見され8世紀の中央との密接な関係が伺われます。 さらに捕捉すれば、蘇我入鹿の名前を書紀の中で鞍作と言っている点も 興味深いところではあります。 蘇我氏と馬の関係について私が知り得たのはここまでですが、他に何か ご存知でしたら、ご教授ください。 Time : 1999/ 6/11(金) 19:38:50
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と善光寺創建年代 Comments: やまさん、今日は。Awajiです。 >>このページの概要と縁起を参考にしました。よろしかったら Awaji さ >>んの知っておられる善光寺についての出典などお聞かせ下さい。 早速のご回答、有り難うございました。 HPで紹介されている善光寺縁起は、おそらく所謂「応永縁起」によるも のだと思います。 善光寺の縁起について最も古いものは、おそらく「扶桑略記」だと思いま すが、欽明13年(552)百済伝来の阿弥陀三尊を、推古天皇10年(602)勅 命により信濃国に移したと伝えています。 その他の諸縁起も、推古天皇10年遷座(善光による等)では概ね一致して います。 皇極天皇との関係については、「善光寺古縁起」等で皇極天皇元年(642) 頃に勅願寺となり、伽藍が建設されたと記述されており、発掘調査でも七 世紀後半様式の古瓦が発見されています。 つまり、創建は推古天皇10年頃、勅願寺として整備されたのは皇極天皇元 年(642)以降というのが一般的伝承です。(事実は分かりませんが、考 古学的所見から見てもある程度の信憑性があると思います。) 飯田の元善光寺との関係は分かりません。 取り敢えずこんなところで、ご勘弁頂けるでしょうか? Time : 1999/ 6/11(金) 22:01:20
Name : やま E-mail : Title : Awajiさん Comments: いえいえ、こちらこそ丁寧な解説を頂いてありがとうございます。 なるほど、創建は推古10年にさかのぼるのですか。皇極天皇の勅願寺 というのはそれはそれであるのですね。なるほどやはり古代のことだけ あって、なかなかすぱっと割り切れるというわけには行きませんね あたりまえですが。。。(^_^;) 飯田の元善光寺は、私のうろ覚えだと、善光寺が今の長野に来る前 に本尊が置かれた寺だったと思うのですが。。。 これもいろいろ調べないとまだわからないところです。 とても参考になるご意見ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。 Time : 1999/ 6/11(金) 22:29:28
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と蘇我氏 Comments: やまさん、Awajiです。チョット言い忘れました。<(_ _)>ペコ 善光寺と蘇我氏の関係では、チョット(カナリ)信憑性は疑問ですが、 聖徳太子「善光寺如来書簡」に関する伝承で、最初に善光寺に使者として 赴いたのは、蘇我大臣であったとされています。(聖徳太子傳秘抄) また、蘇我氏と馬については、推古20年正月宴の天皇御製 「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき 」 がありますね。 あまり関係ない話でスミマセン・・・・(^0^)" Time : 1999/ 6/11(金) 22:33:18
Name : ina E-mail : Title : 黒田 Comments:  みなさん、こんにちは  ところで、秀吉が、「オレが死んだ後天下を取るのは黒田如水官兵衛」だといっ たのは有名ですが、ちょっと無理な話しだと思います。  結局戦略(?この場合戦略?戦術? Toshyさん )が優れていても、資金力 とか、強力な家臣団がなければ無理だと思うのですが。ここには真田昌幸だって入る と思います。 (余りに当然の話しかもしれませんです。すみません) 安部さん・・・  秋篠寺の結論部分、楽しみにしてますのでよろしく。 Time : 1999/ 6/12(土) 12:30:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とテクストクリティーク?? Comments: Anonさん、はじめまして。仏像オタクのAwajiと申します。 随分難しそうなコメントで、Awajiのような素人には良く分からないので すが、少し教えて頂けますか? >>隋書倭国伝に目を通せば明らかなように、上宮王家に関する日本書紀の >>記述は虚偽であろうと思われます。 何故そんなに単純な結論が出せるのでしょうか? 外国史書を含め、光背・露盤・石碑・木簡その他のあらゆる史料には矛盾 点があります。それを如何に整合的に理解するかと言う努力を重ねるのが、 史学では無いでしょうか? >>日本書紀のコスモロジーである讖緯説に着目すれば、白村河以前の記述 >>はすべて創作されたものである可能性があります。 何故「讖緯説に着目すれば」その様な結論が導けるのでしょう? 勿論、あらゆる史書には曲筆・創作・伝承誤謬・誤写等の可能性がありま す。しかし何らかの史実を反映している可能性も充分にあるのですね。 津田史学によって、単純に全ての伝承を抹殺してきたステロタイプこそ反 省さるべきでは無いでしょうか? >>議論をテクストクリティークに差し戻す必要があるのではないでしょう >>か。 Awajiはシュリーマンの直感を嘲笑し続けた所謂テクストクリティーク権威 者の愚を繰り返してはならないと思うのですが? (最近では、三星堆の例も似たような面があります。) 特にこの様な素人のHP談義においては、一定の史料根拠と論理さえ提示さ れていれば、大いに発想を展開させれば良いと考えています。 具体的に「テクストクリティークに差し戻す必要」性とは、どのような意味 なのでしょうか? >>とりわけ古代史の部分には、井沢氏がかつてから言われている歴史学会の >>常識(という名の非常識)が少なからず見受けられるように、私などには >>思われます。 KANAKさんを始めとする聖徳太子〜称徳天皇までの一連の批判や、最近の邪 馬台国宇佐説等の批判は、御覧になられたでしょうか? Awajiは井沢さんが、厳密なテクストクリティーク的視点に立てば、おそら く無茶苦茶ながら、日本史をジャーナリスチック、或いはイラストマップ的 視点から新たに見ようとされている努力は、それなりに評価しています。 しかし、歴史学会に対する批判は全く的外れだと思いますし(歴史学会と言 う捉え方自体が無意味です)、古代の歴史認識についても極めて多くの基本 的誤認があるのは事実だと思います。 (KANAKさんは等は、史学について無垢な一般読者を誤謬に導く危険性を強 く指摘されていました。その点は同感ですが、おそらく近々全面的に訂正さ れるものと期待しています。) Anonさんは・・・ どのような点が「歴史学会の常識(という名の非常識)」だとお考えでしょ うか。具体的にご指摘頂けるでしょうか? Time : 1999/ 6/12(土) 12:34:10
Name : ina E-mail : Title : やまチャンへ Comments:  蘇我氏と善光寺の関係はAwajiさん、の書きこみからも実証されたわけですね!  すると、あなたの言いたいのは、善光寺が蘇我氏の鎮魂の寺、ということなのでしょうか?  ただ、ふと思ったのは、鎮魂の寺(神社)、というのと、氏神とか氏寺、というのは 区別する必要があると言うことです。  この場合、氏寺、とは言えそうな気がしますが、、。 Time : 1999/ 6/12(土) 12:38:26
Name : ina E-mail : Title : 氏寺? Comments:  すみません、こう言う言い方が出来るか分かりません。 静聴させていただきます。 Time : 1999/ 6/12(土) 12:49:40
Name : slashdog E-mail : Title : inaさんはじめまして Comments: なぜ、秀吉は官兵衛に十二万石程度しか与えなかったのか? やはり、警戒していたのではないでしょうか? 官兵衛に百万石、いや、五十万石与えるのも危ないでしょう。 関ヶ原の動きを見れば、いかに少ない駒で最大限の成果を出すか?を 実践していますし、 戦略、戦術面においても、ひじょうに優れています。 秀吉が警戒して当然だと思います。 秀吉が言いたかったのは、官兵衛に多くを与えれば、と言う 意味合いでの発言ではなかったのでしょうか? Time : 1999/ 6/12(土) 13:53:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と氏寺??? Comments: inaさん、やまさん、今日は。Awajiです。 >>蘇我氏と善光寺の関係はAwajiさん、の書きこみからも実証された >>わけですね! 誤解を受けるようなコメントを入れてしまって申し訳ありません。 これは全く違います。 >聖徳太子「善光寺如来書簡」に関する伝承で、最初に善光寺に使者とし >て赴いたのは、蘇我大臣であったとされています。(聖徳太子傳秘抄) 伝承があるのは事実ですが、「聖徳太子傳秘抄」は南北朝時代に聖徳太 子信仰の中で作成されたものであり、これを持って蘇我氏と善光寺の関 係を論ずる様なものではありません。<(_ _)>ペコ なお、寺院の性格について言えば・・・ 1.官寺・・・・・・国家(天皇家)鎮護、君臣安寧、仏教(学問)発 展等のため、国(天皇家)により建設されるもの。 2.氏寺・・・・・・氏族が先祖の霊をとむらい、現世利益(自氏族の 繁栄・厄除け・無病息災・子弟の学問等)のために自力で建設するもの ・・・併せて建て前として国家安寧・万民安楽等を標榜します。 3.僧寺・・・・・高僧或いは宗教者等の主導により、広く勧進を求め 建設するもの。(天皇の支援があれば・・・勅願寺となる) 取り敢えずこんなところで如何でしょう?(時に混在、変化しますが) これとは別に・・・・ A.鎮魂供養寺・・・正確な定義はありませんが、天皇家(国家)等が 単に先祖、或いは特定の皇族等の鎮魂供養のために、建設するものと仮 に定義しておけばいかがでしょうか? B.怨霊鎮魂寺・・・特定の政治的敗者、或いは一族が怨霊となり、崇 りを為すことを防ぐために、政治的勝者が建設するものと定義しておけ ば如何でしょうか? C.祈願供養寺・・・特定の天皇等の病気回復等の現世利益を祈念して 建設されるものと定義しておけば如何でしょうか? Awajiは古代においては、明らかにBとみられる寺院は知りません。 法隆寺は上宮家の鎮魂供養寺・・・2A(上宮家が極めて天皇家に近い ため、1Aに近似。) 東大寺は国家鎮護の官寺・・・・・1(或いは1A) 薬師寺は祈願供養の官寺・・・・・1C 興福寺は氏寺・・・・・・・・・・2(藤原氏の権勢により1に近似) 善光寺は僧寺・・・後に勅願寺・・3 ・・・としておけば良いと考えていますが、如何でしょうか?? 善光寺を蘇我氏の氏寺と考える根拠は見当たりませんので・・・ 飛鳥寺、山田寺等は元々蘇我氏寺に近い性格があったと思いますが。 チョット強引な分類かな?(・_・;) Time : 1999/ 6/12(土) 14:31:28
Name : ina E-mail : Title : 氏寺と官兵衛 Comments:  Awajiさん、Slashdogさん・・・今日はinaです。  Awajiさん、ご教示ありがとうございました。私が何気なく書きこみをした 後であせって、言い訳をしたところを的確にご理解、ご教示頂きましてありがとう ございました。氏寺という以上、建立の主体が蘇我氏でないとだめですよね。  それに言葉の定義があいまいなまま発言していることに気づいたの で、、、。  おかげさまで多分、やまさんもすっきりと論を進められることと思います。 ありがとうございました。 Slashdogさんへ  初めまして。犬がお好きですか?私は日本に置いてきた犬が恋しいのですが、こ ちらの犬は誰にでも愛想が良いので浮気をしてしまいそうです。  ところでどうもご教示ありがとうございました。つまり、秀吉の警戒策が功を奏 した、ということかもしれませんね。何の警戒もなく百万石与えていたら関ケ原の 大将は変わっていたかもしれませんね。  (もし、Slashdogというのが、なにかのロックグループ名だったりした ら お許し下さい。流行には疎い方なんで、、。他のHPでToshyさん達がSpe edの女のこの区別がつくか、という話しをされてましたが、私はキャンディーズ までですね) Time : 1999/ 6/12(土) 22:24:16
Name : やま E-mail : Title : 蘇我氏と善光寺 Comments: ina さん >>蘇我氏と善光寺の関係はAwajiさん、の書きこみからも実証されたわけですね!   とんでもない!それどころか、私は元善光寺(飯田市)と今の善光寺の関係も いまいちはっきりしてませんし、善光寺だって、瓦が出たってだけで、それだけ ではなにがなんだかわからないという状態です。 >>すると、あなたの言いたいのは、善光寺が蘇我氏の鎮魂の寺、ということなの >>でしょうか? そうです。が、事はそう簡単じゃないようですね。 >> ただ、ふと思ったのは、鎮魂の寺(神社)、というのと、氏神とか氏寺、という >>のは区別する必要があると言うことです。 >>この場合、氏寺、とは言えそうな気がしますが、、。 氏寺というのは、Awajiさんの言われる通りでしょう。敢えて加えれば、 豊浦寺も入るでしょう。 7世紀というのは、中央も判然としていないのですが、ましてや地方となると もっとわかりませんね。謎は謎として、過去の歴史学者の説や伝承を迷路 のように楽しみながら、しばらく散策することにします。(^_^;) Awaji さん >>聖徳太子「善光寺如来書簡」に関する伝承で、最初に善光寺に使者として >>赴いたのは、蘇我大臣であったとされています。(聖徳太子傳秘抄) 私は、当時の中央政府の東国経営と伝承の関係が気になります。 というのも、ご紹介の歌で >>馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 とある通り、中央政府の人々にとっては「馬」と言ったら、日向なんですよね。 「刀」ならば、呉って言っているわけで、いずれも畿内より西です。 だから東国の馬の産地が重要になったのは、東国の支配が進められる 段階で起きたんでしょう。言わば、大和にとってのフロンティアに軍馬を 提供する兵站としての意味が飯田にあったのではないでしょうか。 ところで、「応安縁起」だと、本田善光という人は、信濃国麻績郷の人 ということになっており、これは、今で言う飯田市座光寺(元善光寺)の ことですから、この縁起だとそのまま仏像の移動を、 大和→飯田→長野 というふうに説明しています。これでいくととても納得が行くのですが いかんせん、この縁起の出所由来をもっとよく調べないとなんとも 言えません。縁起の内容は水鏡にも見られるそうですから、とりあえ ず次のターゲットは水鏡でしょうか。。。 Time : 1999/ 6/12(土) 23:11:59
Name : Toshy E-mail : Title : くろだ Comments: inaさん、slashdogさん、こんにちは。 黒田如水のことはよく知らないのですが、ご指名なので出てきました。 slashdogさんがさきにいってしまったので、補足だけ。 黒田如水は、ありあわせの兵8500を引き連れて、 九州の西軍勢力の城をつぎつぎと落城させたのです。 そしてその度に手勢が増えていきました。 裏切り者は許さず、しかし投降者は許す、という方法をとっていたのです。 当時九州は、黒田・加藤・寺沢の三人だけが東軍でしたが、 如水はまたたくまに九州を制圧してしまいました。 これがslashdogさんのいった、「少数の兵で・・・」です。 ところで、SPEEDの話が出ましたが、 まるで私が話の中心にいたみたいですね(笑) あれは私の掲示板での会話ですが、私は巻き込まれただけです。 だれだぁ、うちでSPEEDの話を持ち出した人は?! 何の話だ。 Time : 1999/ 6/12(土) 23:49:22
Name : きんたろう E-mail : Title : 二流の人? Comments: こんばんは、みなさん。 黒田如水の話題が出ましたのでちょっといいですか? 官兵衛と長政はあまり意思の疎通が無かったように思っているのですが、実際は どうだったのでしょうか? Time : 1999/ 6/13(日) 01:38:40
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と善光寺妄想?? Comments: inaさん、やまさん、みなさん、今日は。Awajiです。 善光寺について、極めて無責任かつ非科学的な妄想講談を申し上げます。 <(_ _)>ペコ・・・・なお、お代は無料です。(^0^)" ポイントは次の諸点です。 1.百済聖明王、伝来の金銅仏(釈迦仏?)は難波の堀江に投棄されたか? 2.投棄されたのは、敏達14年(585)=書紀か、欽明31年(570)=元興 寺縁起・・・か? 3.善光寺金銅仏(阿弥陀仏)は、百済伝来の釈迦仏か? 4.同一仏とすれば、何故に推古10年(602)に信濃国にもたらされたか? 5.本田善光とは何者か? 6.聖徳太子善光寺書簡の意味は?また蘇我氏との関係は? さて、お立ち会い!! まず、百済王から贈呈された金銅仏を投棄することは、外交上チョット有 り得ないと考えます。 当時は新羅の攻勢に対し任那加羅の回復を目指し、百済との友好関係を維 持することが、極めて重要だからです。 物部氏による投棄伝承は、物部氏を滅亡させた行為を正当化するために生 み出されたものと、想定します。(・_・;) そこで、百済伝来の金銅仏は、欽明期に蘇我稲目薨去に際し、日本に滞在 (渡来)していた百済王族?に下げ渡された(570)と想像しておきます。 百済王族は、この仏像が物部・蘇我の政争に巻き込まれることを恐れ、両 氏の対立が緊迫した敏達期(585)に遠隔地の信濃在住の百済人に託した と想像します。(イワユル疎開ですね。) しかし、用明期(587)に蘇我氏は物部氏を滅ぼします。 その後、この金銅仏を畿内に遷座するかどうかが問題になりますが、既に 信濃における宗教拠点となっていました。 推古(蘇我・聖徳太子)は東国の拠点である信濃にも仏教を興隆させ、か つ百済渡来人を宣撫する意義を認め、信濃遷座を公認します(602)。 聖徳太子は渡来人を統括する蘇我氏に、それを伝えると共に、金銅仏祭祀 のための支援を命じます。 これが太子書簡における蘇我大臣使者の伝承に転化したと想像します。こ れを実際に主導したのは、蘇我大臣だったでしょう。(・・?) 善光は百済王善光( 〜693)が誤り伝えられたものと想像します。(・_・;) 善光は百済義慈王の王子で、舒明期(631)に豊章と共に入質しています。 おそらく当時20歳台でしょう。 彼は新羅との緊張関係の中で、国内の百済系渡来人を糾合しますが、馬匹 供給の拠点である信濃の百済系人の志気昂揚のため、皇極に勅願寺許可を 願い(642)伽藍建設を行います。 この際、伽藍建設の場所として長野を選び、飯田から遷座します。(・・?) これらが中世にいたり、仏教説話として様々に潤色され、善光寺縁起とな ります。 平成善光寺縁起のお粗末でした??・・・蒙御免デス (>_<;) Time : 1999/ 6/13(日) 10:51:51
Name : Toshy E-mail : Title : くろだ Comments: きんたろうさんのご質問には、うちの掲示板で答えていましたが、ここでも。 有名な話で、関ケ原の戦後、長政が手柄話をしたところ、 如水「俺が九州で戦ったのは家康のためではなく、天下を取るためだ。 簡単に家康に勝たせおって、馬鹿者が!」 これは言葉どおりにも とれますが、如水は自分が悪者になることで、 長政が家康に疑われずに済むだろう、という策略だともいわれています。 なお、オオカミの話、やはり狼=大神の意味らしいです。 Time : 1999/ 6/13(日) 20:05:10
Name : slashdog E-mail : Title : くろだ(二) Comments: Toshyさんに続いて、もうひとつの逸話を・・・。 官兵衛は死を前にして、家臣をつぎつぎに病床に呼びつけては、 いろいろ嫌味をいって家臣の顰蹙を買った。 長政が、みかねて注意すると、官兵衛は耳元でこう言った。 「この乱心はお前の為を思ってのことじゃ。 こうすれば 早くお前の代になって、安堵したいと、みな思うであろう」 この二人は、奥深くで分かり合っていたのでしょう。 Time : 1999/ 6/13(日) 21:40:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 黒田長政と後藤又兵衛 Comments: は仲が悪かったというのは本当でしょうか? タイガースが負けたので本日はこれから、フテネします。あ〜あ。ふっ・・・・。 Time : 1999/ 6/13(日) 21:59:06
Name : やま E-mail : Title : Awajiさん Comments: 百済王善光ってどんな人なんでしょうか。豊章は知っているのですが、 名前が名前だけに気になります。 質問だけですみませんが、まずはとりあえず。。。 Time : 1999/ 6/13(日) 22:46:41
Name : slashdog E-mail : Title : 長政と又兵衛の仲 Comments: ロトさん こんばんは 二人の確執は子供の頃からのようです。 又兵衛は長政より七つ年上で、又兵衛の父が戦死した時、官兵衛が 引き取り、我が子のように育てました。そのような環境から、 又兵衛は、長政を「主人」と見ることができなかった ようです。 それから謀反の風評がたち、黒田家を出て行きました。 その後も長政は、又兵衛の仕官を許さず妨害したので どこへも仕官できませんでした。 長政も又兵衛を認めていたが故、許すことができなかったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 6/13(日) 22:51:15
Name : きんたろう E-mail : Title : やはり一流の人 Comments: こんばんは、皆さん。 又兵衛は如水に仕えていたので、長政ではないといった意識を持っていたのではない かと思います。 当時は仕官についてかなり流動性があったのは間違いのないところです。 この流動性の高さが戦国時代の特徴であり、また戦国時代を続かせた要因の一つ であったのではないでしょうか。 また、長政が家康に評価された事を喜んでいるのを見て息子の器を見切ったと言った 話もありますが、それにしても関ヶ原に至るまでは如水からの「遠隔操作」は 見ることが出来ないようです。 やはり「関ヶ原」があまりにも短期であったことが誤算だったのでしょうか? Toshyさん、slashdogさん、返答ありがとうございました。 Time : 1999/ 6/13(日) 23:20:57
Name : 池内晴紀 E-mail : ninzya@snake.interq.or.jp Title : 後藤又兵衛関連については Comments: 明石氏が興味深いですね。 三木合戦のおり、播磨衆では、黒田と明石だけは秀吉側についた。 明石氏は、各種合戦で黒田に劣らぬほどの活躍をし、出世もしたようですが、 秀次謀反事件で連座の濡れ衣を着せられて、 一族ことごとく処刑されました。 そして、その存在も歴史から消しさられてしまった。 この点は、武功夜話の前野氏に似ていますね。 前野氏もかなり歴史上活躍したし、出世もしたのに、歴史から抹殺されてしまった。 唯一生き残った明石全登は、最後は旧友の後藤又兵衛と行動を共にしたそうです。 Time : 1999/ 6/14(月) 00:02:28
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と百済王善光?? Comments: inaさん、やまさん、みなさん、今日は。Awajiです。 善光寺妄想??について補足します。 善光寺が百済王善光に因んだ命名であれば、それは皇極期に勅願寺となっ た時以降の寺号になります。 それでは、推古期に既に善光寺と呼ばれていたと言う伝承と矛盾すること になります。・・・果たして、善光寺の寺号は何時からか? 取り敢えずは、山階寺→興福寺、飛鳥寺→法興寺、元興寺の様に寺号は変 化しますので、皇極勅願寺までは科野寺(科野阿弥陀堂)等としておきま しょうか?? (>_<;) やまさん・・・ >>百済王善光ってどんな人なんでしょうか。豊章は知っているのですが、 >>名前が名前だけに気になります。 既に申し上げたとおり、豊章の弟で同時に入質したと伝えられる人物です。 豊章は帰国して百済王となりますが、善光は日本にとどまります。 「禅広」とも言われ、天武崩御に際しては百済王族を代表して誄を言上す べきところ、老齢のため孫が代行したとされています。 持統期に百済王を賜姓され、後の百済王敬福等の祖となりますが、持統7 年(693)没とされています。 ・・・こんな所でよろしいでしょうか? Toshyさん・・・ >>なお、オオカミの話、やはり狼=大神の意味らしいです。 1.風土記逸文 「むかし、明日香の地に老狼在りて、おほく人を食ふ、土民畏れて大口の 神といふ・・・」 2.崇峻紀元年 「始めて法興寺を作る。此の地を飛鳥の真神原と名づく・・・。」 3.万葉集1636 舎人娘子 「大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに」 4.万葉集4264 「空みつ 倭の国は 水の上は 地往くごとく 船の上は 床にをるごと 大神 の いはへる 国ぞ ・・・・」 確かに、狼(オホカミ)=大口の神 或いは 大口の真神 とされていた可 能性がある様ですね。 しかし、大神(オホカミ)は大(オホ)+神(カミ)で神の尊称であり、 狼(オホグチ+カミ)とは別の概念ではないでしょうか? 少なくとも(当たり前ですが)万葉集4264 の「大神」は「狼」ではあり ませんね。 Time : 1999/ 6/14(月) 00:10:18
Name : Toshy E-mail : Title : 前野氏 Comments: 前野長康は、秀吉創業期からの功臣でした。 有名な竹中半兵衛が1000石を支給されていた時代、 3000石という優遇を受けています。 その後関白秀次の後見役を命じられました。 石田三成とは仲がよく、武断派と呼ばれる加藤・福島らによる 主張・・・・朝鮮に出て領地を拡大する・・・・に危惧を示し、 豊臣秀長や三成とともに早期和平をめざしていたといいます。 ちょっとまとまらなくなってきたので、また今度。 Time : 1999/ 6/14(月) 00:12:17
Name : Toshy E-mail : Title : Awajiさん、こんにちは。 Comments: おおかみが山の神の使いといわれていたことや、「狼」=「大神」は国語辞典からの引用なので、 これ以上はなんとも・・・すみません。。詳しい文献が見つからないものですから。 ちなみに狼を悪にしているのはヨーロッパ的思想で、「送りオオカミ」は私の書いた通り、です。 無事に帰れたときは、塩をあげてお礼したそうです。 Time : 1999/ 6/14(月) 00:18:28
Name : やま E-mail : Title : 善光寺幻想 Comments: Awaji さん 面白いので、私流のおとぎばなしを。。。 >物部氏による投棄伝承は、物部氏を滅亡させた行為を正当化するために生 >み出されたものと、想定します。(・_・;) ここは、実際にあった、物部氏の仏教への抵抗というものを象徴的に記述し たと見れば良いようにも思います。 >百済王族は、この仏像が物部・蘇我の政争に巻き込まれることを恐れ、両 >氏の対立が緊迫した敏達期(585)に遠隔地の信濃在住の百済人に託した >と想像します。(イワユル疎開ですね。) ここは、ちょっとノーコメント。わからないので。。。(^_^;) 私は、もうちょっと穏便に、東国の調査(589年に近江臣満を東山道に派遣) の前後に、百済系の馬具の工人集団が仏教をたずさえて伊那に移動。定住す る。(座光寺)と見ます。 >推古(蘇我・聖徳太子)は東国の拠点である信濃にも仏教を興隆させ、か >つ百済渡来人を宣撫する意義を認め、信濃遷座を公認します(602)。 >聖徳太子は渡来人を統括する蘇我氏に、それを伝えると共に、金銅仏祭祀 >のための支援を命じます。 >これが太子書簡における蘇我大臣使者の伝承に転化したと想像します。こ >れを実際に主導したのは、蘇我大臣だったでしょう。(・・?) 伊那から更に東国を開発する必要が出て、兵站を水内郡に進める必要性が 生じて、それに伴う工人集団の移動と寺院建設の認可が出ます。 ここで、初めて公に寺院建設の許可が出たのは、用明天皇が崩御して、推古 天皇の即位と聖徳太子立太子で蘇我氏の体制が整い、仏教が本格的に政治の 中に取り入れられたことを示すのではないでしょうか。 中央政府の仏教の威光を地方に知らせる目的もあったようにも思えます。 丁度、銅戈や銅鏡が東遷したように。 水内は当然、兵站ですから、前線はどこか?というと私はその後の動きから 見て、後に信濃川河口の渟足の柵となる地、当たりではないかと思います。 この原善光寺建設にともない、本尊となったのは、当然伊那の地で私的に祭 られていた仏像(おそらく百済仏)です。この時点では、まだ仏像は秘仏に はなっていないと思います。 >善光は百済王善光( 〜693)が誤り伝えられたものと想像します。(・_・;) >善光は百済義慈王の王子で、舒明期(631)に豊章と共に入質しています。 善光の名前についてですが、司馬達等の娘の出家した名前を、善信尼、と 言ったこと、同じときに出家した大伴連狭手彦の娘の出家名が善徳であっ たことなどが気になるところです。百済王善光ですかぁ。うーむ、そのも のではないですかぁ。。豊章については、白村江の戦いの前に百済からの 要請で帰国してますよね。善光王はどうなったんでしょうか。 本田善光は、あとから創られた名前でしょうね。当時の伊那にいた豪族の 名前は、やはり地名にある通り、麻績氏だったのではないかと思います。 麻績の地名は長野の近くにも見えますから、この麻績氏も工人達(おそら く鞍作氏の関係氏族)と共に移動したのではないでしょうか。 これじゃ、全然面白くないじゃないかって?えー、私の話しが飛躍するの はこれ以降でして、皇極天皇の勅願のお話当たりからが本論ですので、ご 容赦を。。。(^_^;) Time : 1999/ 6/14(月) 00:21:10
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments:  何か最近さっちーが叩かれているそうですが、困りましたねー。 阪神の躍進には、さっちーが外で仕事をしていることが貢献しているらしいのに。 Time : 1999/ 6/14(月) 08:49:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 突っ込み歓迎 Comments: AWAJIさん、ご指摘ありがとうございます。 私が嫌いなのは「揶揄」でして、 私がKANAKさんを嫌うのは、彼が自分の反対意見を揶揄する悪癖があったからです。 厳しいご指摘は大歓迎です。 淡路島に関しては、以前紹介した「日本の神々」という本に書いてありました。 宇佐神宮や豊の国の渡来人に関しては、やはり「日本の神々」 に載っていたのと、私が宇佐神宮に参拝して、 建物、お祭り、奉納物を見ての感想を合わせて書きました。 近くの阿蘇神社や京都の神社と比べて、異国情緒が感じられる神社でして、 渡来人の神社ではないかという確信を強く持ちました。 「日本の神々」によると、豊の国というのは渡来人が多い所で、 その関係でシャーマニズムが広まっていたそうです。 神仏混合の発祥の地ではないかという説も載っていました。 渡来人以前の巨石信仰と、シャーマニズム、私家仏教 この3つ合体して八幡信仰が出来たのではないかという説が載せられていました。 宇佐神宮の入り口に合った説明版には、 宇佐神宮は元々朝鮮式の山城であったという説も紹介していました。 最初から神社しかなかったという説もあります。 宇佐神宮に関して私が知っているのはこんなところです。 Time : 1999/ 6/14(月) 16:49:21
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 法隆寺に関しては Comments: 高田良信氏の本を図書館で読んだのですが。 自分に興味のある部分しかまだ読んでいないので、 さすがにそれだけで掲示板に紹介するのもおこがましいと思い、 あれ以上は書きませんでした。 ただそれ以降貸し出し中が続いていてなかなか借りられないのです。 でもはっきりと、藤ノ木古墳は崇峻天皇の古墳ではないか、と書いてありましたし、 創建法隆寺は聖徳太子が崇峻天皇を弔うために 建立したのではないかと書いてありました。 再建法隆寺に祭られているのも、上宮王家ではないかとも書いてありました。 もしかしたら、この5年のうちに高田氏の意見が変わったのかもしれませんが、 それは私には分かりません。 そう言えば、梅原先生と高田氏の間には、何か確執があるのですか? Time : 1999/ 6/14(月) 17:02:02
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 渋川寺 Comments: みなさん、こん@@は。後藤又兵衛情報ありがとうございます。 又兵衛は、リストラの対象となり、自ら黒田家を離れたのだと思っていました。 戦国時代が終わると、武功派の人物は無用の長物となりかねませんからね。 又兵衛の場合は、大阪の陣という次の職場があったわけですが、再就職というより 死に場所を求めたという印象があります。 大阪の陣は、又兵衛本人は勝ち目がないと思っていたのでしょうか? それとも、人生の一発逆転を狙ったのでしょうか? 大阪の陣は人生の逆転を賭けた最後の大舞台だったのでは?と思います。 渋川廃寺は、物部氏が中心となって建立した寺だと、聞いたことがあります。 はっきりとした記憶ではないのですが、物部本家の滅亡以前だったような気がしま す。とすると、廃仏派vs崇仏派という対立以外の原因が、蘇我対物部の争いには あったのではないでしょうか? 陸上経済(馬による)を支える蘇我氏と水上経済(船による)を支える物部氏とい う説も聞いた事があります。経済を独占するための戦いという事でした。 馬といえば、聖徳太子も厩戸皇子でしたね。そして蘇我馬子という名前。 以前にこちらで質問させていただいた、馬子=聖徳太子という説もここからの連想 を飛躍させたものなんでしょうか? inaさん、サッチーの噂がメリケンの地でも聞かれるのですね? サッチーもある意味で本望なのかもしれません。なんたってコロンビア大学卒? だそうですから。 Time : 1999/ 6/14(月) 22:39:23
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と歴史科学?? Comments: 安部さん、今日は。Awajiです。 厳しい言い方をしましたが、真面目に対応頂き有り難うございます。 しつこい様ですが、もう少し申し上げます。(^.^; 法隆寺について・・・ >>でもはっきりと、藤ノ木古墳は崇峻天皇の古墳ではないか、と書いてあり >>ましたし、創建法隆寺は聖徳太子が崇峻天皇を弔うために建立したのでは >>ないかと書いてありました。再建法隆寺に祭られているのも、上宮王家で >>はないかとも書いてありました。 Awajiは次のように申し上げましたね。Time : 1999/ 3/15(月) 22:08:38 >>創建法隆寺は、聖徳太子が崇峻天皇を鎮魂するために建立したという説を >>法隆寺管主の高田良信氏が述べておられます。(安部さんコメント) >これは「法隆寺の謎と秘話」高田良信著ー小学館ライブラリー >の以下の部分でしょうか? (以下Awajiのコメント) >「それらのことをもとに憶測することが許されるならば、非業の最期をとげ >られた崇峻天皇を聖徳太子が秘かにこの古墳に改葬したのではなかろうか。 >・・・・・そのようなことから、私は太子がその古墳の東に斑鳩宮を作り、 >さらに用明天皇や崇峻天皇をはじめとする歴代天皇の菩提を弔う意味をこめ >て、法隆寺を建立したのではないかと思われてならない。」 >ここでは、高田さんは「用明天皇や崇峻天皇をはじめとする歴代天皇の菩提 >を弔う意味・・」とされていますから、どう見ても安部さんの様には解釈で >きないと思います。高田さんが説を変えられたのかも知れませんので、出典 >をお示し頂けますか? いいですか?Awajiがお聞きしたのは、貴方の紹介の出典なのですよ・・・。 (「法隆寺の謎と秘話」は1993年2月20日 初版、1998年11月「法隆寺の秘話」 、1990年「法隆寺の謎を解く」両書の再編集版です。) >>もしかしたら、この5年のうちに高田氏の意見が変わったのかもしれません >>が、それは私には分かりません。 等と言う貴方の憶測を言う前に、貴方の読んだ「著書」が「法隆寺の謎と秘話」 なのかどうかを確認して頂ければそれで良いのです。 もしそうであるならば、Awajiが引用紹介しているのですから、貴方が不正確な 読み方をし、誤った紹介をされたことが明らかでしょう? 所論の検証とは、こう言った単純な事実確認の積み重ねなのですが、お分かり でしょうか? 再度お伺いします。高田良信さんのなんと言う「著書」なのですか? 以下の部分も同じなのですよ。 >>5年前の著作を見る限り上宮王家鎮魂であるとほぼ確信しているようです。 >>細かい部分では、梅原猛先生と違う部分があるようです。(安部さん) >私は、高田さんの講演をお聞きしたこともありますが、梅原さんの怨霊鎮魂 >寺説を一笑にふしておられました。本著でも、(以下Awaji) >「もし梅原氏のように怨霊を封じるために中央に柱を設けたのであれば、い >っそのこと夢殿の南門のように、絶対に開かないという不明門にするべきで >あろう。二つもの入口を作ったならば、怨霊はよけいに出入りしやすくなる >のではないかと思われてならない。」 >と冷やかしておられます。「鎮魂」と「怨霊鎮魂」は根本的に違いますので、 >著者の真意を良くご理解頂きたいと思います。 斑鳩が聖徳太子薨去の地であり、山背大兄王の悲劇の地であることは、殆ど 異論がないところですね。ところが梅原説は「怨霊鎮魂寺」とし、高田さん は、単なる「鎮魂の寺」としているのです。細かい部分ではなく、基本的違 いなのですが、この違いはお分かりですね? >>そう言えば、梅原先生と高田氏の間には、何か確執があるのですか? そんなものはありませんよ。 ただ高田さんは、誤った認識に基づき「法隆寺」を「怨霊鎮魂寺」とされた 梅原さんに婉曲的に再考を促しておられるだけです。 Awajiも全く同じ思いなのです・・・・。 宇佐神宮について・・・・ 貴方は以下のとおりおっしゃったのです。 >>宇佐神宮は渡来人の神社ですから、天武・持統系の称徳天皇はこだわった >>のかもしれませんね。 つまり、渡来人の神社と言う前提を立て、称徳の態度を推論されているので すね。 従って、Awajiは以下のとおり、その非論理性を指摘したのですよ。 >についてですが、確かに比売語曽神、豊前戸籍の秦姓、ヤハタと秦氏、香春 >神社の辛国、辛嶋氏との関係、精銅業者との関連等から、渡来人と結び付け >る説が有るのは事実です。(Awajiもこの可能性は否定しません。) >しかし、大神(三輪)氏による祭祀権の掌握等もあり、未だ其の淵源は良く >分からないと言うところでしょう? >従って渡来人の神社と決め付け、その前提に立って何らかの推論を組み立て >るのは、無理があるのでは無いでしょうか? 今回の貴方のコメントにおいても、何ら確定的な立証はなされていないでし ょう? 貴方のコメントには、この様に何ら立証性が無いにも拘わらず、断定的に表 現し、さらに推論を展開することが実に多いのですね。 この様な手法を多用されていると、必ずトンデモ説に堕落していきます。 此れを非科学的・非論理的手法だと申し上げているのですが、お分かり頂け るでしょうか? >>淡路島に関しては、以前紹介した「日本の神々」という本に書いてありま >>した。 ・・・でしょうね。それならば何故貴方は以下のように、それが正しいと確 信されたのでしょうか? >>イザナギ、イザナミはもともと淡路島と阿波の国の土着の神です。 おそらく、明確な理由はお示しになれないでしょう? 貴方が、単に紹介されるならばともかく、自己の意見として掲載されるなら ば、やはり貴方自身が充分咀嚼され、明確な根拠を示されるべきでしょう? 今後、不束ながらAwajiが申し上げたことにご留意頂ければ幸いです。 Time : 1999/ 6/14(月) 23:58:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と東山道?? Comments: やまさん、今日は。Awajiです。 どうも一寸噛み合わないような気がしていたのですが、信濃の地政的位置 づけが違っているようですね。 まず、Awajiは倭国(大和朝廷)の北方領域は、既に4世紀中頃には越後、 下毛野、常陸(新潟・栃木・茨城北部)に及んでいたと考えています。 従って、4世紀初に信濃は完全な倭国内部であり、半島渡来人を入植・開 拓させていたと想定しているのです。 東山道は 近江→美濃→信濃→上毛野→上毛野地方を示すものですが、これ らを結ぶ幹線道路でもあります。信濃では(伊那→錦織→碓氷峠)でしょう。 崇峻紀「東国の調査(589年に近江臣満を東山道に派遣)」は下毛野を越え て蝦夷地である陸奥(福島)に踏み込んだことを意味すると理解しています。 一方、錦織→麻積→多古(善光寺)→沼辺 は東山道地方と北陸道地方を結 ぶ支線道路でしょう。 Awajiの誤解かもしれませんが、やまさんの想定では6世紀末の推古期に到 っても、信濃が北方経営の兵站部であるかの様に感じられます。 これはチョット時代的に合わない様に思うのですが、如何でしょう?? また、馬具工人集団と馬飼育集団とは必ずしも同一ではないとも思います。 つまり都会的織物技術集団と田舎的養蚕技術集団の差があると思うのです。 以上の観点から・・・ >>東国の調査(589年に近江臣満を東山道に派遣)の前後に、百済系の馬具 >>の工人集団が仏教をたずさえて伊那に移動。定住する。(座光寺) >>と見ます。 >>伊那から更に東国を開発する必要が出て、兵站を水内郡に進める必要性が >>生じて、それに伴う工人集団の移動と寺院建設の認可が出ます。 についてはチョット疑問なのですが、お互い妄想比べですから、この辺で 失礼します。 Time : 1999/ 6/15(火) 00:22:05
Name : ina E-mail : Title : さっちー(じゃ無かった勇者ロトさん)へ Comments:  じゃ、叩かれても引っ込まず、ノムさんの邪魔をすることはない、 となるとピンストライプ万歳ですね。 Time : 1999/ 6/15(火) 03:09:13
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 隋書倭国伝には、当時の倭人世界の状況がかなり 具体的、客観的に記述されており、中国史書の 一般的な性質(邪馬台国等、特種事情ではない) からして、信憑性は高いと考えられます。 その記述と日本書紀に記された推古朝は、まったく 整合しません。従って合理的に判断するなら、日本 書紀の推古朝の記述は虚偽となります。このあたりを 無理に整合させようとして、定説は奇妙な曲解だらけに なっています。 讖緯説を正しく理解すれば(ちなみに那珂通世らによる 定説は明白な誤りです)、革命は西暦661年、革令は 西暦664年です。この年号の意味は言うまでもないと 思われます。 とすれば日本書紀(実際にはおそらく日本紀)の 編賛意図は、中国史書同様、「正統」の宣言、それも 百済の正統の宣言ということになります。 しかし現存する日本書紀の記述では、この革命、革令は 見えなくなってしまっています。 ちょっと話をはしょりますが、この矛盾を解決するもっとも 単純な理解は、日本書紀が改竄されていると言うことです。 当初、百済の正統を宣言した「日本紀」が天智朝で編纂され、 これを嫌った天武朝以降の誰かが改竄して、現行の日本書紀 が完成したと考えるのです。 とすれば、百済正統をうち消した記述、つまり白村河以前の記述 に、歴史性を求めることはできなくなります。 シュリーマンの時代のテキストクリティークと現代のものは別物 と考えて見て下さい。現代のテキストクリティークは、シュリーマンの 事例を知っているのです。 Time : 1999/ 6/15(火) 09:51:33
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 皆様ご意見お聞かせください Comments:  ご無沙汰しております。善光寺談義も一区切りついたのでしょうか。 妄想と称されていた部分も十分面白い内容で楽しめました。  で、私事ですが、まだ望みを捨てていないものの,山室女子に関する皆様のご意見を 今回も聞けずに終わりそうで残念です。でも、本心として,もっとご意見を伺いたい ことがありますので,現在のHPの話の流れと関係がない上に、少し長くなりますが, 話題を述べさせてください。  ina様に守備範囲を聞かれて以後、考えていたのですが、 少し私的な事情の記述をお許し願うなら,もともと小生は一応理系ですので、  「近代科学がなぜヨーロッパでおこったのか?」 というのが中心的な興味としてあって、以後、近代化・資本主義化と流れ、  「それらが、なぜ(勘違いを多く含むにせよ)アジアでは日本がトップを   きって受容できたのか?」 という問いかけを抱くようになりました。  以前Awaji様に嫌がられた日本人論も、その文脈での寄り道の意見で、 いたずらに自虐史観になったり、持ち上げたりする気は毛頭ありませんでした。 小生が学生のころは、近代科学成立にかかわって、   「ルネサンスの三大発明は、火薬・羅針盤・活版印刷」 というでたらめを教えられてきましたが、それらはアジアで発明されたものであり、 その意味でも、   「近代科学創始が中国でなく、なぜヨーロッパなのか?」 という疑問は強かったのですが、謝世輝氏の意見を乱暴に要約した   「儒教的な古典教養中心主義が、自由でグローバルな発想をさまたげた」 という視点で,とりあえずのところ納得しています。 (「新しい科学史の見方」、講談社ブルーバックス) それでも、まだまだ西洋史偏重でその呪縛から解かれていませんし, 12世紀ルネサンスの問題も残されていますが・・。  それで、日本の急速な近代化を可能にしたのは,上層部の政策もありましたが, むしろそれを受け入れることができた庶民の能力の高さにあると思っています。 たとえば戦争の相手国の評価   「日本軍は上層部はだめだが,下士官以下は世界一優秀だ」 を見ても,その一端が伺えるように思います(すみません,出典を失念しました)。  小生のような問題意識から見ると,井沢史観は非常に示唆に富んだ興味深いものです。 現在までいろいろ指摘されていた,多少の細かい誤りがあったとしてもです。  前置きが長くなりましたが,多くの方が「逆説の日本史」の読者であることを仮定して 皆様にご意見を伺いたいのですが,第6巻第3章で、   「禅宗のもつ『あらゆる職業の活動=修行』テーゼの浸透によって、    日本の近代化への精神的基盤が確立された」 という意見を,井沢先生は道元と宋の老典座との対話(典座教訓)を引きながら, 述べておられます。これは小生にとって最も重要なご見解で,ある意味で, アメリカ資本主義についてマックス・ウェーバーが、「プロテスタンティズムの倫理」に その精神的基盤を求めたのに匹敵するぐらいすごいことではないかと思っています。 いずれ、このことでご意見を伺おうと思っていたのですが,実はいまだ時期尚早の危惧を ぬぐえません。それは,このHPのレディネスというよりも,小生自身まだ詰めきって いない,いわば穴だらけの状態のままで意見を述べているからです。  多くの矢のようなご批判は、もとより覚悟の上ですが,勝手で一方的な願いながらも 建設的な議論になることを祈って,小生にとって最大のテーマのひとつを 皆様に問いかけさせていただきたいと思います。 Time : 1999/ 6/15(火) 09:53:12
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 大阪JF生様へ Comments: お久しぶりです。非常に難しい話ですね?戦争というのは、勿論WW2ですよね? 「日本軍は上層部はだめだが,下士官以下は世界一優秀だ」 この言葉は額面とおりにうけとってよいのでしょうか? 元阪神のオマリーがよくいっていた「阪神ファンは一番やー」というのと同じで いわゆるひとつのお世辞であり、本音でもあるでしょうが、日本の上層部に対する 皮肉の意のほうが強いように思われます。 つまり、野村監督が、巨人の選手を誉めることで、長島監督の采配の悪さをこき おろしているようなせりふに近いのではないでしょうか? 本当に、下士官以下が世界一とは、とても思ってはいなかったのではないでしょうか? この評価を喧伝する事により、戦後処理と占領時の日本庶民の反連合軍感情を和ら げるための方便という事はないのでしょうか? すいません、このような話題に興味はあるのですが、はっきりいってよくわかり ません。いままでろくに考えたことがないのです。 ピント外れだと思います。 Time : 1999/ 6/15(火) 11:44:09
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様へ、補足です Comments:  レスありがとうございます。どうもご無沙汰しておりました。 小生がしゃべるレベルですから、あまり難しくうけとらないでください。 ご指摘部分はもちろんWW2のことですが、額面どおりだと小生はとらえています。 このような評価は、いろんなところでなされているようです。 大雑把で不正確な知識で申し訳ないのですが、たとえば、種子島の伝来以降、 その発達の速度に外国人自身が驚いたという話とか、 列車の中で、(もちろん日本人の)女工さんたちがまじめに話をしているので、 色恋の話かなと思って耳を傾けると、なんと自分たちが担当している、 (恐らく何らかの部品の組み立てのたぐいだと思いますが,) 仕事について、なんと図面にいろいろ書き込みながら議論していたので, 見ていた外国人はびっくりしたとか・・・・。 (この場合は、工員に対するその国の人の差別感情も入っています。 エリートやホワイトカラーと、ブルーカラーは違う人種のように扱われるそうです。) 日本企業が海外進出をしてきたとき、一番驚かれたのは、トップレベルの話し合いに, 技術主任が出てくることだったそうです。今はどうか知りませんが、「現場」で働く人は, 専門的知識などもっていない(必要のない)、機械の歯車のような扱いが普通だったようです。  ロト様がおっしゃるように、われわれの目から見ても日本のトップは頼りなく, まったく世界に通用しないのはよくわかると思いますが、庶民パワーに支えられた トヨタイズム(オオノイズム)やホンダイズムは高い評価を受けています。 もちろん、日本の悪い面は多くあるのですが、このような点は評価されていたようです。 Time : 1999/ 6/15(火) 12:11:13
Name : ina E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments:  こんにちは  かつて私も確か大阪さん、がチラッと述べられたときに意見を出した覚えがあります。   私は基本的に日本の特殊性を認めたいほうです。ただ、こう言う論理には、 時代的必然性と民族の特性がたまたま一致しただけ、という反論があり、かつて世 界を制覇した、ギリシャ、ローマ、トルコ、スペイン、イギリス、あるいはモンゴル、勿 論中国、と言った国が昔日の栄光を惜しむだけの国になっている現象がこの反論を サポートしていると思います。  今外国で却って日本人について考えさせられ、混沌とした考えが渦巻いています が、近いうちに纏めて書きこめれば幸いです。  問題提起ありがとうございました。 Time : 1999/ 6/15(火) 12:12:47
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 庶民の意識? Comments: 大阪JF生様、確かに技術の伝播(鉄砲)は他の国に比べて早いような気がします。 しかし、鉄砲伝来が太平の世であったらどうでしょう? 技術の伝播速度には歴史的なタイミングというのも関係していると思います。 日本人は、勤勉だとよくいいますがアメリカ人だって勤勉だと思います。 ただ仕事にたいする義務感と使命感のバランスが各国によって違うのではと 考えています。 日本人には、義務感より使命感のほうが好まれるのではないでしょうか? 赤穂事件も討ち入りという事実の中に家臣としての使命感を見出せたからこそ (本当の動機はよくわかりません。)、長年にわたり民衆の支持をうけてきた のではないでしょうか? Time : 1999/ 6/15(火) 12:46:16
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments:  では、例えば、開国前後の列強(要するに黒船)への対応はドウでしょう? 国が植民地にされるという危機において、中国と日本は同じだと思いますが、 対応も結果も多いに異なったわけですが、、。 Time : 1999/ 6/15(火) 13:02:59
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんへ Comments: どう応えてよいのかよくわかりません。 清朝と江戸幕府による庶民統制の強さの違いがあったのではないでしょうか? だからこそ、段階的に西洋文化をうけいれられたのではないでしょうか? 清朝のように、西洋文化を一度に流入させてしまうと、国内での混乱がより一層 巻き起こるようになりますし、なによりも日本は清朝の先例を見ているわけです から、「同じ轍は踏まぬ」という意識が幕府や朝廷、各藩の上層部にはあったので はないかと思います。 五人組みと呼ばれるような相互監視機能が、混乱に歯止めをかけ得たのではないで しょうか? 欧米列強にしても、中国で戦争をしている最中ですから、日本とも戦火を起こすと いう事態はとりあえず避けたかったという事情もあるのではと思います。 ピントが外れた回答かもしれません。 Time : 1999/ 6/15(火) 13:34:13
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 隋書倭国伝には、当時の倭人世界の状況がかなり 具体的、客観的に記述されており、中国史書の 一般的な性質(邪馬台国等、特種事情ではない) からして、信憑性は高いと考えられます。 その記述と日本書紀に記された推古朝は、まったく 整合しません。従って合理的に判断するなら、日本 書紀の推古朝の記述は虚偽となります。このあたりを 無理に整合させようとして、定説は奇妙な曲解だらけに なっています。 讖緯説を正しく理解すれば(ちなみに那珂通世らによる 定説は明白な誤りです)、革命は西暦661年、革令は 西暦664年です。この年号の意味は言うまでもないと 思われます。 とすれば日本書紀(実際にはおそらく日本紀)の 編賛意図は、中国史書同様、「正統」の宣言、それも 百済の正統の宣言ということになります。 しかし現存する日本書紀の記述では、この革命、革令は 見えなくなってしまっています。 ちょっと話をはしょりますが、この矛盾を解決するもっとも 単純な理解は、日本書紀が改竄されていると言うことです。 当初、百済の正統を宣言した「日本紀」が天智朝で編纂され、 これを嫌った天武朝以降の誰かが改竄して、現行の日本書紀 が完成したと考えるのです。 とすれば、百済正統をうち消した記述、つまり白村河以前の記述 に、歴史性を求めることはできなくなります。 シュリーマンの時代のテキストクリティークと現代のものは別物 と考えて見て下さい。現代のテキストクリティークは、シュリーマンの 事例を知っているのです。 Time : 1999/ 6/15(火) 14:30:14
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : レスありがとうございます Comments:  ina様、ロト様ご意見ありがとうございます。 確かに「時」も重要な役割を果たしていますので、例がよくなかったかも しれません。 またまた大雑把な話で申し訳ありませんが, こんな比較話を聞いたことがあります。  儒教色の強い韓国では、(科挙に相当する試験などに合格し、) 文人になることが職としてすばらしいことで、 商いや、モノつくりやさまざまな店など、3代も続けてやっていては 恥ずかしいという意識があったらしいです。つまり、「老舗」の概念が 日本とぜんぜん異なり、多くの他の国と同様、職業に貴賎の差が非常に 大きいようです。  それに対して、日本では職業に対する差別が比較的少なく、 たとえば、油を銅銭の穴に見事に通して注ぐ油うりの技術ですら すばらしいとされていました。つまり、日本では何でも「○○道」化 するというわけです。武道はもちろんのこと、華道・茶道・・・はでは グルメ道・ギャンブル道に至るまで、何でも修行の対象にしてしまいます。 単なる技術習得と違って、何か精神的なものを付加しているように見えます。 それがおそらく井沢先生が指摘された、 「禅宗的なテーゼが、日本人のひとつの特性として染み付いた」 ということではないでしょうか。小生がウェーバークラスだと評したのは、 それこそ日本のぬきんでた近代化を支えた精神的基盤であるという指摘です。 Time : 1999/ 6/15(火) 14:44:05
Name : やま E-mail : Title : 蘇我氏と東国経営 Comments: Awajiさん 百済王の件、重複して質問したみたいになってしまって、申しわけありませ ん。 実は、Awajiさんの発言をみて、すぐに質問したのですが、その前 に書い ておいた文から同じ質問を削除しておくのを忘れてしまってペースト したもん だから、文は重複するわ、善光寺の呼称についても提案は無視する わで、てん こしゃんこになってしまいました。。。(-_-;) 水内郡内に作られた、最初の寺院ですが、ご提案の名前でよろしいんじゃな い でしょうか。特に依存はありません。科野寺でいきますか? さて。。。 >どうも一寸噛み合わないような気がしていたのですが、信濃の地政的位置 >づけが違っているようですね。 >まず、Awajiは倭国(大和朝廷)の北方領域は、既に4世紀中頃には越後、 >下毛野、常陸(新潟・栃木・茨城北部)に及んでいたと考えています。 >従って、4世紀初に信濃は完全な倭国内部であり、半島渡来人を入植・開 >拓させていたと想定しているのです。 とのことですが、私は蘇我氏が目論んでいたのは、仏教を使った中央集権体 制の確立だったと思っています。ですから、それまでのいわゆる地方豪族 の 国々のゆるやかな連合体から、より明確な中央と地方の関係を目指して地 方 と新たな軋轢があったのではないか、と思っているのですが。 もちろん、6 世紀において、飯田→長野の移動はそれほど問題があったとは 思いません。 ただ、Awajiさんもご指摘の、「都会的織物技術集団と田舎 的養蚕技術集団 の差」ほどの差であっても軍事戦略的には最新技術を兵站部 に置くことに意 味はあろうかと思います。 >峻紀「東国の調査(589年に近江臣満を東山道に派遣)」は下毛野を越え >て蝦夷地である陸奥(福島)に踏み込んだことを意味すると理解しています これはご説の通りかもしれません。ただ、後の記述から考えて、いわゆる 支線の踏査も行われたと、仮定したわけです。 兵站の意味ですが、あくまで も私は、これを後方部隊という意味で使って います、つまり敵の手の届かな い安全なところだから補給部隊を置けるわ けです。奈良→飯田→長野→沼垂 は支線ではありますが、畿内から羽後方 面へ抜ける最短路です。 こう考えさ せた歴史的なできごとは、先に述べた647年の渟足の柵や、更に 648年の磐舟 の柵(山形県村上市岩舟町)を作って蝦夷に備えたという書紀 の記述です。 この記述には「ここへは越と信濃の民をうつして柵戸とした」 と書かれてい る点も気になるところです。いずれも大化の改新直後のできご とですが、蘇 我氏がお膳立てをしてあった、と考えるとうまくいくような。 。。当時の東 国の経営がどこまで行っていたかが、問題ですが、少なくとも 上越の当たり は、現在の新潟から山形県境当たりに周辺があったと感じてお ります。 4世紀における、半島渡来人の入植ですが、これは畿内からというよりは、 当時はもっと自由に日本海を渡って越当たりから直接に入植したりしていて 、その入植者達と畿内との間の明確な支配関係は部分的にしか成立していな かったのではないかと妄想しております。(交流は当然あっても良いと思い ますが)信濃の特に北部に韓半島の影響が強い文化が古くからあったことは 異論はありません。 大和の支配体制を見ると、6世紀初頭の継体大王の世に九州で磐井の反乱が 起きたとされています。これを地方の一豪族の反乱と見る人もいますが、私 は、ここは(別に権威の力を借りるわけではありませんが)森 浩一氏の著書 の「古代史の森」で紹介されているように磐井を王朝と見る考えに惹かれて います、とだけ申し上げておきます。 とは言え、この辺はだいぶ微妙なことは確かなのでしょう。関東、信濃、上 越方面のほとんどはある程度掌握していたかもしれません。 ただ、私には それでも当時の東国が律令国家として組み込まれるのはもっと 後のことです から、徴税制度ができるような体制までは疑問です。下手に徴 税!なんて やると「何を!やったるど!」という地方豪族が多かったんじゃ ないか、と 思っているんですが。 Time : 1999/ 6/15(火) 20:18:43
Name : きんたろう E-mail : Title : じつはマクロ経済 Comments: こんばんは、みなさん。 さすが大阪JF生さんですね。 興味深いテーマを出していただいてありがとうございました。 勇者ロトさん、inaさん、素早い反応ですね。(^^) 私は近代化学がヨーロッパで確立したことと、ヨーロッパが世界を制覇したことは段階的なものであり、 これらを同一のものとしては捉えない方がいいのではないかと思っています。 近代化学=産業革命がヨーロッパで起こった理由についてはイスラム世界が過去の文献を保存していた からだというのが基本として考えられると思います。 こうした人類の英知の積み重ねの記録がなければ。果たしてヨーロッパにおいて近代化学が花開いたか どうかは疑問だと思います。 これをヨーロッパが成し得て中国では出来なかった、また日本のみが後発として成功したというのは、 ヨーロッパ諸国と日本においてベースとしての部分で共通するものがあったと考えられるのではないでしようか。 こうした文化人類学は私にとっても興味のあるテーマです。 過日のAwajiさんの言われたことはその特殊性のみに焦点を当て、そこから結論を導き出すと言った論点に 反対されていたのだと思います。ですから大阪JF生さんの意見を否定されると言う意図ではなかったと思っています。 私は基本的には環境が人を造るといった考えを持っています。 ですから、ヨーロッパと日本との共通項を見つけだせば、それこそが近代化学を会得した根本理由だと思うのです。 ヨーロッパが世界を席巻し、遅れて日本がそれをマスターできた理由としては、日本におけるルネッサンス=戦国時代 を民族として体験したことが挙げられるのではないかと思います。 この時代の捉え方の基本は生産力の増大を理解することだと思っています。これにより生産活動に従事しないで生計を 立てられる人間の数が飛躍的に増大しました。 信長の楽市楽座も生産の増加により座の管理を離れた商品が数多く出回ったことが基本としてあると思います。 日本はその山間部が多いという地理的要因により国土面積よりは分割=独立性が保たれてきました。 これは逆の立場からすると強大な権力の成立を阻害する大きな要因になったと思います。 そのスケールにおいては比べものにならないといわれるかも知れませんがヨーロッパの環境と非常によく似ていると思います。 ヨーロッパ列強諸国は世界を征服しましたが、本拠地ではついに勝敗を決することが出来ませんでした。 Time : 1999/ 6/15(火) 21:40:31
Name : きんたろう E-mail : Title : じつはマクロ経済 Comments: こんばんは、みなさん。 さすが大阪JF生さんですね。 興味深いテーマを出していただいてありがとうございました。 勇者ロトさん、inaさん、素早い反応ですね。(^^) 私は近代化学がヨーロッパで確立したことと、ヨーロッパが世界を制覇したことは 段階的なものであり、これらを同一のものとしては捉えない方がいいのではないか と思っています。 近代化学=産業革命がヨーロッパで起こった理由についてはイスラム世界が過去の 文献を保存していたからだというのが基本として考えられると思います。 こうした人類の英知の積み重ねの記録がなければ。果たしてヨーロッパにおいて 近代化学が花開いたかどうかは疑問だと思います。 これをヨーロッパが成し得て中国では出来なかった、また日本のみが後発として 成功したというのは、ヨーロッパ諸国と日本においてベースとしての部分で共通 するものがあったと考えられるのではないでしようか。 こうした文化人類学は私にとっても興味のあるテーマです。 過日のAwajiさんの言われたことはその特殊性のみに焦点を当て、そこから結論を 導き出すと言った論点に反対されていたのだと思います。ですから大阪JF生さんの 意見を否定されると言う意図ではなかったと思っています。 私は基本的には環境が人を造るといった考えを持っています。 ですから、ヨーロッパと日本との共通項を見つけだせば、それこそが近代化学を 会得した根本理由だと思うのです。 ヨーロッパが世界を席巻し、遅れて日本がそれをマスターできた理由としては、 日本におけるルネッサンス=戦国時代を民族として体験したことが挙げられるの ではないかと思います。 この時代の捉え方の基本は生産力の増大を理解することだと思っています。これに より生産活動に従事しないで生計を立てられる人間の数が飛躍的に増大しました。 信長の楽市楽座も生産の増加により座の管理を離れた商品が数多く出回ったことが 基本としてあると思います。 日本はその山間部が多いという地理的要因により国土面積よりは分割=独立性が 保たれてきました。 これは逆の立場からすると強大な権力の成立を阻害する大きな要因になったと 思います。 そのスケールにおいては比べものにならないといわれるかも知れませんがヨーロ ッパの環境と非常によく似ていると思います。 ヨーロッパ列強諸国は世界を征服しましたが、本拠地ではついに勝敗を決すること が出来ませんでした。 すみません。 ブラウザを変えたら勝手が違うようです。 Time : 1999/ 6/15(火) 21:45:20
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「百済正統の宣言」?? Comments: Anonさん、今日は。Awajiです。早速のRESありがとうございます。 (二度にわたるRESですか?)\(^o^)/ >>信憑性は高いと考えられます。その記述と日本書紀に記された推古朝は、 >>まったく整合しません。従って合理的に判断するなら、日本書紀の推古 >>朝の記述は虚偽となります。このあたりを無理に整合させようとして、 >>定説は奇妙な曲解だらけになっています。 Awajiは日本書紀については、そのように考えておりません。(^!^)~ 使節記事などは、かなり整合性があります。両記事で決定的に矛盾してい るのは、国王問題位でしょう。 これについては、倭国(日本)と中国の「皇」問題を現実的に解決するた めの「皇・王」擬制体制と考えれば、奇妙な曲解とは言えないでしょう? (所謂ところの綏遠之才です・・・・・。) 後世の足利「国王」外交、秀吉「国王」外交不成立、徳川「大君」朝鮮外 交等と同様に倭国(日本)の基本外交政策と言っても良いものですからね。 (これらの大陸外交においても「皇」問題を避ける意味もあって「天皇」 は存在しないものとみなし、執権者が「王(或いは大君)」として一種の 擬制外交を行ったと考えられます。)(^.^; それは、さておき・・・・ >>「正統」の宣言、それも百済の正統の宣言ということになります。しか >>し現存する日本書紀の記述では、この革命、革令は見えなくなってしま >>っています。ちょっと話をはしょりますが、この矛盾を解決するもっと >>も単純な理解は、日本書紀が改竄されていると言うことです。・・・ >>当初、百済の正統を宣言した「日本紀」が天智朝で編纂され、これを嫌 >>った天武朝以降の誰かが改竄して、現行の日本書紀が完成したと考える >>のです。とすれば、百済正統をうち消した記述、つまり白村河以前の記 >>述に、歴史性を求めることはできなくなります。 出ましたね!「百済の正統の宣言」・・・これが「テキストクリティーク」 の結果とは、流石のAwajiもびっくり仰天するばかりです。(・・?) ところで、このHPの殆どの方にとって、「百済の正統の宣言」とか「天 武朝以降の誰かが改竄」とか「百済正統をうち消した記述」等はチンプン カプンだと思います。ごく簡単に解説されては如何でしょうか? >>現代のテキストクリティークは、シュリーマンの事例を知っているので >>す。 勿論ご存知でしょうし、テキストクリティークそのものは極めて重要な手 法です。 ただ矢鱈にテキストクリティークを強調する方が、伝承の評価について、 その教訓を本当に活かしておられれば結構なのですが・・・・?? Time : 1999/ 6/15(火) 23:02:25
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : きんたろう様へ Comments:  ご意見ありがとうございます。お褒めにあずかり恐縮ですが、 きんたろう様のご意見こそ、啓発されるものが多く含まれていると存じます。 なかでも小生にとって興味深い点について、コメントさせてください。  もっとも斬新に感じたのは   戦国時代=日本のルネサンス(あるいはプレ産業革命?) という視点です。この説はきんたろう様のオリジナルですか? オリジナルならさらに詳しく掘り下げ、そうでないなら影響を受けた 先人の名前を教えていただけませんでしょうか? わくわくする説ですので・・。  実は西洋の本家ルネサンスの評価は、現在揺れているように思います。 ひとつは宗教改革のほうが、精神的に与えた影響が大きいという視点で、 これがウェーバーの説にもつながると思います。 もうひとつは、きんたろうさま様がご指摘のように「イスラムの役割」が 再評価されているからです。外国の基本的な文献より、 現国際日本文化研究センター教授・伊東俊太郎先生の著書の方がすばらしいのですが、 イスラムにおける「12世紀ルネサンス」が注目されています。 ダヴィンチの万能の天才振りは、ほとんどがイスラムの文献の翻訳からきていることなども わかってきました。上記の本は岩波から出ていたと思いますが、恐らく絶版です。 (いい本がすぐに絶版になるのはなぜなんでしょうね?) ガリレイに始まるとされる科学的方法も、すでに何世紀も前に、アルハーゼン (イプンアルハイサム)というエジプトの光学者が創始していたことも 明らかになっているようです。その他興味深いことが多いのですが、 これらを簡単に紹介したものとして、前に触れた方の別の著書  謝世輝「これでいいのか世界史教科書」(光文社カッパブックスだったと思います) を挙げておきます。気軽に読めて、しかも問題提起が多く面白い本です。  質問してばかりになりそうでしたので、知っていることも吐き出しておきました。 上記の質問の方、(急ぎませんが)よろしくお願いします。  ところで、まだ逆説の日本史も終わっていない段階で気が早いのですが、 今までの世界史はどうしてもひどく西洋史偏重ですので、 井沢先生にはぜひ「逆説の世界史」を手がけてほしいと願っています。 Time : 1999/ 6/16(水) 11:08:57
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様、もう一言追加します Comments:  補足の補足ですみません。 有名なエピソードですので、ご存知かもしれませんが、 前記の戦時における日本軍の評価が正直なものらしいと思わせる話を 添えるべきだったと反省しています。  八木博士の八木アンテナの話です。戦前にすでに発表され、 後にその優秀さが認められたのですが、当時は日本では全く 評価されず、軍備に直結する技術であるのもかかわらず、 軍上層部にさえ見向きもされなかったそうです。  ところが、戦っている相手国のアンテナには、なんとYAGIの 名前が明記されていたとか・・・。 変な言い方ですが、なんとフェアーな扱い! それに対して・・・。 Time : 1999/ 6/16(水) 11:24:55
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 大和岩雄らも指摘する「秦王国」問題をはじめ、 当時の倭人世界には多数の中国人が往来して いました。裴世清は「公式訪問」ですが、使節団の 報告をサポートする情報には事欠かなかったわけで、 隋書の記述は例えば皇・王問題で片が付くものでは ありません。さらには、国書では「日出る処の天使」 を謳っているのですからなおさらです。 日本書紀の編纂者たちは、当然、隋書を読んでいました。 であるにもかかわらず重要項目(王名など)をはじめ 少なからぬ点を摺り合わせていません。この杜撰さは、 様々な都合のつじつま合わせ(つまりは虚構)の中で 生じたものと考えられます。 「正統」というのは中国世界を支配する政治的、宗教的 概念です。天の意志(天命)にそぐうただ一つの姓が 天使(皇帝)となって世界(中国世界だけではなくて)を 統べるのですが、天命が改まり(革命)、禅定放伐が 発生すると、次代の王朝は、自らが「正統」であること、 つまり天命であることを証明しなければ成りません。 中国の史書とはつまり、「正統」の宣言であり、現代的 な意味での歴史書ではありません。ちなみに「正」とい う字と「政」という字は同音であり、同一の言葉です。 日本書紀も、本来この「正統」の概念の中に位置して おり、中国史書と同様の動機で編纂されています。 しかしながら、現行の日本書紀では、このあたりの 思想性が(恐らく改竄のため)ぼやけてしまっています。 そこで、当時の世界観の常識であった「讖緯説」に よって、日本書紀の基本構造を解析する作業を試み ます。すると、百済滅亡を「革命」とする書記の本来の 構築が、あっけなく現れてきます。 また、逆にその前史としての1320年を創作し、 書記を本来の姿から変えた(改竄した)事実が 浮かび上がるのです。 Time : 1999/ 6/16(水) 11:55:07
Name : 輔住 E-mail : Title : 大坂JF生さんへ Comments: >井沢先生にはぜひ「逆説の世界史」を手がけてほしいと願っています。 これもすばらしいことだと思いますが、 私は「新逆説の日本史」を手がけてほしいです。 この掲示板だけでも「逆説の日本史」には様々な意見・反論がありました。 (他にもたくさんの意見・反論がきているでしょう) 井沢先生の意見が変ったところや再反論などもあるでしょう。 実現するとしても、かなり先の話になるでしょうが期待しています。 Time : 1999/ 6/16(水) 12:05:26
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさま Comments:  確かに民族の特殊性という捉え方はかなり曖昧で、ある、という言い方も、 ない、という言い方も解釈次第といえる、という気になってきました。  現象として現れた八木アンテナも、たとえば最近のゴルゴ13で書かれたように 日本人の特許を踏みにじるような事件として現れる場合もあるでしょうしね。  植民地化の例はロトさんの解釈の方が正しいと思います。また芥川の方でも 意見が出ていたら覗くつもりです。 Time : 1999/ 6/16(水) 12:52:12
Name : きんたろう E-mail : Title : 偉大なる世紀 Comments: こんばんは。 大阪JF生さん、みなさん。 最大級のほめ言葉をいただきありがとうございました。(え!違いましたか?) 昨日は時間的余裕がなかったため、思いついたままに書き込んでしまいました。 改めて読み返してみると、日本語として意味不十分の箇所がかなり多くて申し訳 ありません。すみませんが笑い飛ばして下さい(^^) 私は竹村先生や渡辺先生、堺屋先生のファンでした。(今もでした) 少し系統をはずれますが、大前先生のファンでもあります。 以前に恐らく?堺屋先生が(渡辺先生かも)戦国時代について述べられていたこと があったと思います。 (本をほとんど紛失していまして、かすかな記憶が頼りなのです) 戦国時代という区分は俗称ですが、いまではこちらの表現の方が広く一般的に なっていると思います。ヨーロッパでは戦国時代とほとんど同時代にルネッサンス という名称で呼ばれる時代に当たります。 よく年表を平行に見ていたことがありました。 ルネッサンスと呼ばれる復興の時代は人間の活力に満ちあふれていたように思い ました。 ルネッサンスとは現世の肯定、個性の重視、感性の解び積極的に評価しています。 個人の可能性の限界を意識から取り除いたという画期的な時代だったのではないか と思います。 これを成しえる基礎として、イスラム世界が過去の英知保存していたという事実が あったにしても、人類の可能性を高めた時代だという観点から見るとルネッサンス の価値は決して曇ることはないと思っています。 一方、日本でもほぼ同じ時代に同様に人間の可能性を高めた時代がありました。 これは偶然だと思いますが、どうして日本ではこうした活力ある時代を 「戦国時代」と呼び、マイナス面から捉えようとしたのかずっと疑問として ありました。 物事は一面的にとらえるべきものではないと思っています。 多面的存在であるというのが真の姿ではないでしょうか。 ですから「長所も逆から見ると短所に変わりえる」という格言のごとく、どちらの 面をより積極的に評価するのかという事こそが大事なのだと思います。 日本では、16世紀を積極的に評価しようとはしなかったのではないでしょうか。 なお、16世紀編については私のホームページの「エポックメーキング」の コーナーをみていただければ嬉しいです。(長々と書いてあります...) Toshyさんのページから飛んでいけます。(^^) Time : 1999/ 6/16(水) 20:47:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と史書?? Comments: Anonさん、今日は。Awajiです。 >>使節団の報告をサポートする情報には事欠かなかったわけで、・・・ 唐書(新)においても、倭と日本の混乱があることは、ご存知のとおりで す。理由についてはイロイロな理由が考えられますが、政治情報には混乱 が、ありうるのですね。 >>隋書の記述は例えば皇・王問題で片が付くものではありません。さらに >>は、国書では「日出る処の天子」を謳っているのですからなおさらです。 だからこそ「皇・王」の擬制外交が必要だったと申し上げているのですが、 お分かりになりませんか?? 倭国が「皇=天子」を主張すれば、外交は成立しないのです。此れを避け つつ外交を成立させる双方の擬制だと申し上げているでしょう?? (足利国王の例まで挙げているんですがね!) >>当然、隋書を読んでいました。であるにもかかわらず重要項目(王名な >>ど)をはじめ少なからぬ点を摺り合わせていません。この杜撰さは、 摺り合わせすることなんか実に容易なことでしょう?しかし行わなかった のですね。これも同様で、擬制を承知なのです。杜撰とは全く異なること がお分かりいただけませんか? >>日本書紀も、本来この「正統」の概念の中に位置しており、中国史書と >>同様の動機で編纂されています。しかしながら、現行の日本書紀では、 >>このあたりの思想性が(恐らく改竄のため)ぼやけてしまっています。 中国皇帝のレディテマシーは天命思想と革命ですが、倭国天皇のレディテ マシーは中国と異なるとはお考えになれませんか? つまりは神国思想と天孫万世一系なのです。そして「日本書紀」はその思 想を明確に示すための思想的史書だとは考えられませんか?? 貴方は自ら定義した史書の概念に合致しないことを以って、改竄と決め付 けられているだけのことでしょう?? >>そこで、当時の世界観の常識であった「讖緯説」によって、日本書紀の >>基本構造を解析する作業を試みます。すると、百済滅亡を「革命」とす >>る書記の本来の構築が、あっけなく現れてきます。 これも全く同じですね。貴方の想定する思想で解析すれば、貴方の想定す る結論が出て来ただけのことです。 百済滅亡が「革命」だとする理論なんか、どこをどう押せば出てくるので しょう? 申し訳けありませんが、これ以上のテキストクリエートとのお付き合いは ご容赦願います。 Time : 1999/ 6/17(木) 00:34:34
Name : 勇者ロト E-mail : Title : アンテナ Comments: みなさん、こん@@は。 大阪JF生様、アンテナの話ははじめて聞きました。 それでも、額面通りには受け止めかねます。日本人の特性として下士官と庶民が 似合ってるというふうにもとれるような気がします。 つまり、人を指導するには、向いてない人種という意味もあるのではないでしょう か?少し意地の悪い受け取り方ですが。 下士官や庶民としての能力はあるが、世界をリードするような能力は存在しない というような印象をうけています。 inaさん、民族の特殊性というのは、きんたろうさんの言う通り環境によって 醸成されるものではないでしょうか? 環境に合わせた社会ができあがり、法ができ、それが積み重なっていくことによっ て国民性というものに反映されていくと思います。 では、日本における社会性とは何か?を考えると、所属意識というものに行きつく のではと思います。 古事記においても、スサノオが出雲に地に降臨して初めて会った神に「おまえは何 者だ」と問い掛けますが、この問いに答えて曰く、「私は国津神オオヤマツミノ神 の子でアシナヅチと申します」という風に、まず自分が所属する立場から自分の説 明をはじめています。自分の名を明かす前にまず所属名を述べているのです。 現代においても、「何々株式会社の誰々です」と名乗る事が多いように思います。 これが、西洋ではまず自分の名からはじめると思うのですが、実際の所よく知りま せん。 大阪JF生様 「禅宗のテーゼ」というのは、週刊ポストの連載でも書かれていたと思うのですが その部分が記載された単行本を持ってないのでどういう意味だったかはっきりと 覚えてないのです。お手数でなければご教示願えませんでしょうか? Time : 1999/ 6/17(木) 00:35:35
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : お返事ありがとうございます Comments:  きんたろう様  解説およびHPの紹介、ありがとうございました。 (どうも誉め言葉が下手ですみません。) 覗かせていただいたところ、堂々たる分量でしたので, ゆっくり読ませていただきます。 多面的評価が大切とのこと,同感です。 一般論として,われわれ(ちょっと世代が違いすぎるかも?)が受けてきた 歴史教育はかなりの偏りを見せた、一面的なものだったでしょう。 その意味でも,このHPにおける議論は有意義だと思われます。  勇者ロト様  確かに、戦争の評価としては,ロト様のおっしゃるとおりかもしれません。 その意味で,例が悪いということでしょう。まあ、理屈に合う事例が 簡単に転がっていないというほうが真実に近いかもしれませんが・・。 まったくよく似た外国人による評価(だと思っていましたが, ロト様のご意見でかわりました)で,  「日本の初等教育はすばらしいが,高等教育(特に大学)はぜんぜんだめだ」 というのは納得がいきませんか? この場合,またほかの要素が入りますが, 少なくとも,日本人に学問をする能力が欠けているとは到底思えません。 差し障りがあるのでぼやかしますが,日本の某大学の某学部のことを,   「天下の秀才を集めて,○○にするところ」 という悪口を耳にします。また、確か堺屋さんの言葉だったと思いますが,  「日本発で世界に通用するものは,アニメ・カラオケ・・・」 も、鋭い指摘でしょう。小生が,マンガ第1世代だからいうわけでは有りませんが, 日本のマンガは芸術的なレベルにきていると思います。能力的に劣っているのでは なく、単なるミス・リーディングに思えます。  ところで「禅宗テーゼ」のことですが,やっと突っ込みがきたとうれしいものの、 小生の解釈が間違っている可能性は否定できませんので, (記憶に頼っていますので,間違っていたらどなたでも突っ込んでください。) その前提で少し・・:  道元が宋に留学中、飯炊き係の老僧に話し掛け,   「あなたのような立派な方は,このような仕事をなさるより,    もっと僧としての修行をなされたほうが・・」 というと、老僧は笑って 「飯炊きも(ほかの仕事も)立派な修行だということにお気づきでありませんか?」 という意味の言葉を返され,道元は目からうろこが落ちたという。 たとえば,マス大山が、外国人の道場生に、道場の雑巾がけをさせるのに苦労したという 話でもわかるように,「えらい人はそれなりの仕事があって、下々の仕事はしない」というのが, 一般常識のレベルでしょう。中国の「大人」の概念も,そのような下働きができないくらい, でっぶりと太った人(つまりはえらい人)で、初めて信用されるわけです。 そうではないことを,道元はさとっとのだと思います。 人生のあらゆる仕事が修行であり,「道」であるわけです。またそれによって, (社会)全体としても,よい方向に向かうにちがいないということでしょう。 前に挙げたオオノイズムなどの日本企業の長所も、そのあたりにあると評価されています。 「一工員であろうとも,全体の目標をふまえて,個人として何をなすべきか考えて行動する」 という分業感覚は、日本人特有らしいのです。通常の分業はトップダウンでなされ, 全体のプロセスを、単に処理可能なレベルに分解し,簡単なルーティンワークとして, 仕事の能率を上げるものでした。身の前の仕事をきちんとすれば、むしろ余計なことを 考えなくてもよいというのが,通常の「分業」でしょう。  ノムさん野球も、そのような日本的伝統に沿ったものだと思っています。 一選手でも,監督と同じように考え,ここで何をなすべきかを自覚して行動する。 そのことによって勝利を得ると・・。 でも、そんなにうまく行けば,昨日は広島に負けなかったのですが・・・ (広島ファンの方すみません) おあとがよろしいようで・・・ Time : 1999/ 6/17(木) 10:32:22
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: ご理解いただけないのが残念ですが・・・。 倭国の国書は、漢と匈奴の国書に由来しており、 高句麗を挟んでの合従連衡を企図したものです。 擬制外交どころか、これは一種の恫喝です。 「正」は「政」です。事実がどうかではなくて、政治 的に好ましい、かくあるべきが、当時の史書に 書かれています。結果、書記の記述は隋書と 大きく食い違ってしまったのです。歴史を創作する のですから、もう少し勉強してから・・・と現代人の 私なら考えるのですが。 推古記の中国王朝名が「唐」であったり、年代に 食い違いがあったり、杜撰としか言いようがありま せん。 中国世界の「正統」は"legitimacy"ではありません。 由緒正しいとか、血統が正しいという意味ではなくて 世界に一つしか存在しない、それ以外は存在しない というものです。 従って、当初の日本書紀によって中国世界(正統世界) と決別せざるを得なくなって以降、日本は新たな始源 幻想を作り出さなければならなくなりました。 それが天孫万世一系思想であり、この思想の元に 日本書紀は改竄されていると推定されます。これに 関わる記述はまさに「政」であり、歴史性はほとんど 含まれないでしょう。 讖緯説が書記の根本思想であることは、別に私が 述べるまでもなく、那珂通世以来の定説です。ただ、 信じがたいような誤解(1260年ではなく1320年が単位) がまかり通ってしまっているのです。 書記の記す日本の起源年に1320年を単純に加算する と、西暦661年となります。もちろん辛酉年です。言う までもなくこの年は百済滅亡の翌年です。百済滅亡を 革命とするコスモロジーが一切の推測を挟まず、示され ます。 Time : 1999/ 6/17(木) 10:49:43
Name :E-mail : Title : はじめまして、Anonさん。 Comments: おっしゃる事がよくわからないのですが、百済と日本(天智以前の朝廷)は、 同一のものということなんでしょうか? お教えいただければ幸いです。 Time : 1999/ 6/17(木) 11:29:34
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 妄想です Comments:  きんたろう様のHPを覗きかけているのですが, 本能寺の変の光秀について触れてありましたので, 小生の妄想をひとつ。  「変」後の秀吉の行動も少し変ですが, 家康の行動もおかしいと,井沢先生もどこかで 指摘されていたように思います。 隆先生は,光秀を天海僧正として描いています。 更なる妄想ですが,隆先生はいずれ,家康と光秀の 間に何らかの連携を指摘し、小説として描くお積もりだったのでは? 家康が,光秀を殺された事にして、天海としてそばに置いたという 可能性は,全くないのでしょうか? 1%でも可能性が有れば,おもしろいのですが・・・。 Time : 1999/ 6/17(木) 12:26:36
Name : Anon E-mail : Title : ?さんへのres Comments: 少なくとも、天智王は百済の後継国(あるいは 亡命政権)を志し、その名残が書記にははっきり と残っています。しかし、天武王が、そのような 動きを許さなかったのでしょう。 このあたりは、新唐書、旧唐書を虚心に読むと 史実が見えてくると思います。つまりは、壬申の 乱の実態ですね。 井沢氏も述べられるとおり、天智、天武は兄弟 ではあり得ませんし、天智は天武により殺され たのでしょう。しかし、このあたりの史実は、新旧 唐書に従えば、さらに「常識」を越えたものになります。 Time : 1999/ 6/17(木) 16:08:14
Name : 輔住 E-mail : Title : 大坂JF生さんへ Comments: 光秀生存説は以前「ふぉーらむ」で 議論になりましたが、私は 光秀=天海説は否定します。 信長の家来たちが光秀の偽首に 気づかないのはおかしいと思うし。 生きている可能性があるなら 必死に探すはずです。 また生き延びたとして なぜ再起をはからなかったのか? という疑問にぶつかります。 私は春日局が光秀の重臣の 娘なのが原因で出てきた噂だと 思います。 Time : 1999/ 6/17(木) 17:03:23
Name :E-mail : Title : Anonさんへ「ご回答ありがとうございます。」 Comments: 天智と天武が兄弟でないとされる根拠はなんなんでしょう? 唐書は読んだ事がないのでよくわからないのです。 唐書の新旧のどの部分からそういう結論に落ち着かれたのかおきかせ頂けないでしょうか? 厚かましくもお願いいたします。 Time : 1999/ 6/17(木) 17:38:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と逃亡?? Comments: ?さん、今日は。敵前逃亡(?)のAwajiです。 「百済正統説」とやら、お引き受け頂きまして、ありがとうございます。 おそらく、この様な結果になると思っていましたので、三舎を避けました。 Awajiにはとてもお付き合い致しかねる代物ですので・・・後はよろしく お願い致します。 Time : 1999/ 6/17(木) 18:00:02
Name :E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: はじめまして。どういう事なんでしょうか? 私は古事記と日本書紀を読んだかぎり、改竄部分はごく一部だと思います。 まるまる想像だけで紡ぎあげたものなら、正史として語り続けられるわけはないと思ってます。 Time : 1999/ 6/17(木) 18:33:25
Name : やま E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: >三舎を避けました。 あははは、それが正解だと思います。(^.^)/ Time : 1999/ 6/17(木) 20:16:17
Name :E-mail : Title : Anonさんへ Comments: >少なくとも、天智王は百済の後継国(あるいは >亡命政権)を志し、その名残が書記にははっきり >と残っています との事なんですが、日本書紀のどういう部分からこのようにお考えになられたのでしょう? >唐書に従えば、さらに「常識」を越えたものになります 唐書には、どのように記述されているのでしようか? またもや、あつかましいお願いです。以上の点についてご教示お願いいたします。 Time : 1999/ 6/17(木) 22:10:11
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と記紀改竄?? Comments: ?さん、今日は。Awajiです。 既に存じ上げている方のニックネームだと誤解してしまいましたが、 「はじめまして・・・」だったのですね。大変失礼いたしました。 >>まるまる想像だけで紡ぎあげたものなら、正史として語り続けられるわ >>けはないと思ってます。 基本的に全く異存ありません。 その意味で、Anonさんとの対論は大変だろうと思いますが、ご健闘をお祈 りいたします。 「讖緯説」や「新唐書、旧唐書」について疑問部分があれば、及ばずなが ら協力させて頂きます。今後ともよろしくお願いします。 Time : 1999/ 6/17(木) 23:10:40
Name : はてなマン E-mail : Title : ?と名乗っていたものです。 Comments: Awajiさんよろしくお願いします。すでにこの?というネームをつかってらっしゃ る方いらっしゃるのですね。紛らわしいといけないので「はてなマン」と名乗らせ ていただきます。 皆様、今後ともよろしくお願い致します。 所で、前回の投稿で改竄といいましたが、潤色とか脚色というふうにとって頂ければありがたいと思います。 記紀は基本的に天皇がこの国の統治者であることを宣言するための思想的歴史書だと思っています。 従って中華の国の史書との整合性は敢えて無視していると思われます。 使者の態度や上奏した内容は日本と中華、お互いが潤色した内容にはなっているとは思います。 しかし、国内での事件や血統までを改竄する理由はないと思います。 勿論血で血を洗う抗争を、嫁取りに見たてたり、事件を起こした当事者の内勝者を正義としたりの潤色はあると思います。 血統を改竄するという事は、先祖の御霊に対して不敬というものではないでしょうか? 私には、史書の知識は全くといっていいほどありませんので、見当違いの発言があるとは思いますので、ご指摘頂けたらありがたいです。 Anonさんと対論するほどの知識はないと思いますがよろしくご教示ください。 Time : 1999/ 6/17(木) 23:33:34
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と道元さん!! Comments: 大阪JF生さん、お久しぶりです。Awajiです。 はてなマンさん、記紀に関する認識(潤色脚色あれど、創作曲筆あらず。) は完全に同意です。\(^o^)/ ところで・・・・ Awajiの敬愛して止まない道元さんのお話ですので、一寸割りこまさせて下 さい。<(_ _)>ペコ この部分は「典座教訓」として良く知られたもので、井沢さんも「恨の法 廷」で強調しておられたと思います。 道元さんファンとしては、とても嬉しいのですが、これを日本人の精神文 化の中でどの様に位置付けるかと言う問題になりますと・・・一寸疑問で す。(・・?) 1.道元は内大臣源通親の子(孫説もある)として生まれた貴族僧侶です が、天台の既存宗教に満足せず、新たに中国禅に真の仏道を求めた方です。    2.従って、仏道修行(弁道)を学問として捉えていたのですが、阿育山 及び天童山の典座から、修行生活そのものの中に真の仏道修行の道がある ことを教えられたのです。 (阿育山典座は、道元が慶元府(寧波)で足止めを余儀なくされていた時 に、椎茸を買いに来て、道元の求めにも係らず急いで食膳の支度をするた め帰っていく時の挿話です。天童山典座は炎天で椎茸を干していた時の挿 話です。・・・他は是れ吾にあらず。) 3.従って、このテーゼは宋時代の中国僧侶に脈々と流れる思想だったの です。それが何故中国で失われ(たのか?)、日本で受け継がれ(たのか ?)たと考えるか・・・それが重要だと思うのです。 4.また、この道元の思想が日本の精神文化に如何程の影響を与えたか? と言う問題もあります。ご承知のとおり道元の教えは曹洞宗に受け継がれ ますが、曹洞宗は必ずしも禅の主流ではなく、道元の教えそのものでもあ りません。 (道元は金襴僧衣(紫衣)や、大師・国師号を決して求めませんでした。 寧ろ忌避したのです。しかし、後世の曹洞宗は道元を尊敬する心情からと はいえ、これを積極的に求めました。これは道元の思想に反するものです。) 日本の中世・近代の仏教界の主流はむしろ他力の親鸞・蓮如にあるでしょ う。蓮如に至っては、典座教訓どころか僧侶を宗教界(のみならず)の貴 族として庶民の崇敬を集めるべく努力しています。 5.つまり東アジアにおける日本の特質を道元の思想=禅のテーゼに求め るのは、残念ながら些か過大評価(筋違い)だと言う気がするのです。 それよりも、日本において労働を卑しむ儒教文化が根付かなかった結果( その理由・・・)と考えた方が有意義だと思いますが、如何でしょう? Time : 1999/ 6/18(金) 00:11:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 禅宗? Comments: 大阪JF生様、禅宗のテーゼの説明ありがとうございました。 確かに、そうなのかもしれませんね。 でも最近はかわってきているようです。以前の日本的分業というやり方は欧米の方 が、今は盛んに推奨されているようですし、時短の流れが起こっている日本では欧 米型の分業がすすんでしまってるような気がします。指示待ち世代というのは、欧 米型分業と肌があうようです。 教育についてなんですが、確かに専門教育という側面からみれば日本の大学は欧米 よりも甘い気がしないでもないです。しかし、これも学生次第という感じがします し、けっして日本の特性として上げられるようなものではないでしょう? 初等教育の成果として昨今の大学生があるわけですから、かえって初等教育の方に こそ、問題がひそんでいるような気がしています。 禅宗の影響に関しては、後日に考えさせていただきたいと思います。 外国人の日本評価は得てして表面的な事象に限られると思っています。 阪神もソロソロ限界?かもしれないト思っています。 もうひとふんばりがほしい今日この頃です。 Time : 1999/ 6/18(金) 00:17:49
Name : やま E-mail : Title : 物部氏の氏寺? Comments: 勇者ロトさん >渋川廃寺は、物部氏が中心となって建立した寺だと、聞いたことがあります。 >はっきりとした記憶ではないのですが、物部本家の滅亡以前だったような気がしま >す。 これ本当なのですか? どなたかご存知の方おられましたらよろしく御教示下さい。 Time : 1999/ 6/18(金) 00:33:49
Name : きんたろう E-mail : Title : ライク科学上の発見 Comments: こんばんは、大阪JF生さん。 ありがとうございました。 「足跡」をつけていっていただけると、もっと嬉しいです。(^^) よろしくお願いします。 第二次世界大戦の時、議会で開戦反対を表明した女性議員がいたということを聞いた ことがあります。(真偽については確認していません) またイギリスでは悪名高いアヘン戦争開戦について、ほとんど同数の票だったとの 記憶がありますし、有名なアヘン戦争に反対する演説がありました。 民主主義の原則により、アヘン戦争は多数可決され実行されましたが。 さすが民主主義の「本家」だなと思った記憶があります。 禅宗テーゼについてですが、これによって日本民族の価値基準を形作られたという よりも、どちらかというと「科学上の発見」により近いものではないのかという気が しています。 元々存在していたことを端的に表しているのが道元の逸話なのではないでしょうか。 額に汗して労働することは当時(その後もずっとか?)の日本では日常的であり、 当たり前すぎるほどの事だったと思います。 ところで、それでは当時何故日本がアジア的「見栄っ張り主義」に陥らなかったのか といえば「日本開拓時代」のさなかだったからなのではないでしょうか。 もしくは開拓のエネルギーの方が強かったからだと思います。 平将門の乱の要因の一つは「労働力の奪い合い」ではないか、という説があります。 富の蓄積が十分ではなかったことも要因の一つとして挙げられるのではないでしょうか。 もしくは異民族との接点がないため「素顔のままで」いられたからかも知れません。 Time : 1999/ 6/18(金) 01:03:33
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ Comments: はじめまして、Awajiさんとはてなマンさんとあなたの議論を 議論を読み返して疑問に思ったことを 質問します。 その前に私も「日本書紀」は天武系に都合が悪い個所は 処理している部分があるとは思っています。 しかし、これらの説はちょっと理由がわからないのです。 >当初、百済の正統を宣言した「日本紀」が天智朝で編纂され、 天智がそういうものを作ったというのは初めて聞いたのですが! >それも百済の正統の宣言ということになります。 仮に歴史書を作成したとしてもそこまでいえるものですか? 多少の贔屓は入るにしても、混乱期の天智朝が他国の 「神皇正統記」をつくる余裕があるとは思えませんが。 わたしのように知識がないものには分からないことが 多すぎます。申し訳ありませんが、ご説明して いただけるとありがたいのですが。 Time : 1999/ 6/18(金) 08:32:07
Name : Anon E-mail : Title : ?さんへのres Comments: 天智と天武が兄弟ではないというのは、日本古代史の いわばタブーみたいな問題です。古代史研究者は必ず と言って良いほどこの問題の解答を迫られ、様々な「解釈」 を試みています。 最大の問題は年齢ですが(天武が遙かに高齢)、その他にも 系図上の問題など、書記の「書き間違い」とか「編者の錯誤」 といった理由付けなしには、この兄弟問題は回避できません。 このあたりの研究で、もっとも参考になるのは小林恵子氏の 著書です。あまりに突飛でトンデモ本と思われている方も いるかと思いますが、議論の建て方にトンデモなところは ありません。結論は確かにちょっとトンデモですが。 新唐書、旧唐書の記述も、「謎」あるいは「矛盾」とされることが 多いのですが、そんなことはありません。書記にとらわれずに 文面をそのまま読みとればよいのです。 旧唐書では、倭国(複数)とは民族の異なる「日本」という 小国があったが、この「日本」が倭国(複数)を併合し、中国が これまで承認してきた倭国の後継国として「日本」を国名 とした、となります。 新唐書では、一見逆に、倭国(複数)が「日本」なる小国を 併合し、その国名を奪って、「日本」と称した、となります。 この記述を、壬申の乱以降、桓武天皇までの状況とつき あわせてみるだけのことです。 Time : 1999/ 6/18(金) 09:36:01
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 古事記は偽書(来歴を偽った書)です。鳥越憲三郎氏 岡田英弘氏、大和岩雄氏らによって議論はほぼ尽くさ れています。なぜこれが定説でないのか、疑問です。 日本書紀の改竄問題は、日本古代史だけを見ていては 何も見えてきません。なぜ日本書紀が編纂されたのか、 その動機から詰めていく必要があります。犯罪捜査 みたいなものです。 当時の東アジア情勢はどのようなものだったのか、 隋唐王朝とは何なのか。その理解なしに、日本書 紀の素性は語れません。逆に、そのあたりが見えて くると、日本書紀の必然性が明らかになります。 隋唐王朝の特異性、それを取り囲む突厥、高句麗、 吐蕃といった国々の動き、そんな中に、当時の倭人 世界はあります。 Time : 1999/ 6/18(金) 09:54:29
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 日本書紀の問題の一つに書名の混乱があります。 「日本紀」という当初の記述がいつの間にか「日本 書紀」にすり替わるのです。しかも、その後に編纂 された国家史書名は「続日本紀」です。 この問題も、既に門脇貞二等の研究があり、西暦 720年成立したのは「日本紀」であり、その後、西暦 748年以降、別の史書「日本書」を参考に、「日本書 紀が」編集された、と結論づけています。 天智王の没年は671年ですし、この「日本紀」の 編纂を誰が手がけたのか、その証拠はありません。 しかし、先に述べたように、讖緯説による日本書紀の 基本構造の解析では、天智王の政策が色濃く出て きます。 Time : 1999/ 6/18(金) 10:19:25
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ご意見いただいた皆様、ありがとうございます。 Comments:  いろいろコメントをいただき、うれしい悲鳴をあげております。 ほかにも興味深い記事が出ていますが,手を出す余裕がありません。 コメントいただいた皆様にまとめて返事する失礼をお許しください。 また、多くの質問をしながら週明けまで登場できないと思いますので, その点もご勘弁ください。 輔住様  いくつもコメントいただきながら,返事が遅れてすみませんでした。 偽の首の話は,義経もその疑いがもたれていますよね。 ついでに、この件もご意見伺えますか? ただ、(もし、頼朝が義経の首が偽者だと知っていた場合は,これと同様に) 知っていてもあえて表ざたにしない可能性もありますので、 「変」後の秀吉や家康の不審な動きがすべて承知の上のことだったならば, 問題はなくなりそうです。つまり,すべて出来レースで,家康は、 堺という最も近くにいたにもかかわらず、力関係から見て次は秀吉に譲るため, あえて光秀をうたせた(ことにした)とも思えます(もちろん妄想です)。 光秀は命を助けてもらう見返りとして,出家させられたという反論も可能です。 あくまで可能性の話ですので,輔住様のご意見に真っ向から反対しているわけでは ありません。小生も可能性はあまりないかもと感じています。 その上での「あがき」と受け止めてください。 Awaji様  ご無沙汰いたしております。コメントありがとうございます。 宗教に疎いので,詳しい方に解説いただけて大変ありがたく思います。 多少過大評価かなとは感じておりましたが,道元にルーツを求めないまでも, 心情としてこのテーゼに全く同感できるので,このテーゼはどこが起源なのか 知りたいのですが・・・。道元一派が主流でなくても,民衆の共感を呼び起こすことは, 可能性として残っていると思いますので。 また,3で述べられている >このテーゼは宋時代の中国僧侶に脈々と流れる思想だったのです。 >それが何故中国で失われ(たのか?)、日本で受け継がれ(たのか?) >たと考えるか・・・それが重要だと思うのです。 も全く同感ですが,どのようにお考えでしょうか?ご教示ください。また >それよりも、日本において労働を卑しむ儒教文化が根付かなかった結果 >(その理由・・・)と考えた方が有意義だと思いますが、如何でしょう? この部分重要だと思うのですが,少し意味がとりづらいので, 詳しく述べていただけないでしょうか? (禅宗テーゼが、結果論なのかこの原因なのか迷うのですが,) 文脈から結果論だと思うのですが,ではなぜ儒教文化が根付かなかったのでしょうか? Awaji様が余り気が進まなさそうな日本人論の質問ばかりで, まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。 勇者ロト様  ご意見ありがとうございます。 ご指摘のように,この分業概念は「終身雇用制」が揺るぎ無い時代の話で、 現在の話では有りませんでした。断りを入れ忘れてどうもすみません。 同様に,教育問題も一時代前の評価です。 (理論化され、文献が世に出るというプロセスのタイムラグで,著書どころか 最近は多くの学術論文でさえ,出版されたときは時代おくれです。) 前回言い忘れたもうひとつのことは,教育による能力の均一性が日本の 経済成長を促したということで,確かに外国人の視点は表面的かもしれませんが, それなりに傾聴に値すると思っています。ただ、彼らが触れられたくない問題が, 常に存在することだけは,自覚しています。それは階級(人種も含む)の問題です。 日本ではほとんど意識されないでしょうが,やはり多くの国々では階級差が明確に有り, (サッチャーにはじまり)故ダイアナ妃が多くの指示を受けたのは、 その階級差を越えた珍しいケースだったからだという評価もあります。 (小生には単なる色ボケおばさんなのですが。) その意味で,ロト様のおっしゃるように,日本人はリーダークラスでも, エリート意識のよい面も欠如しているのかもしれませんね。よく言われるように ノブレス・オブリージュの感覚が日本人エリートには全く感じられませんが, 逆に本家イギリスではそれが勝ちすぎて、将来国を支えるべきエリートたちの 一世代がごっそり戦争で奪われ,没落の大きな原因になったといわれているようです。 教育問題に戻りますと,過度の均一性への要求によって,突出した能力の存在を 排除する方向に現在は向かいすぎ,いじめや学級崩壊の大きな原因になっているのでは ないかといわれているようです。  最後に、昨日も雨に負けたとはいえ,弱気な発言をしないでください。 もちろん,「絶対優勝やー」と張り切られてもこまりますが・・・。 きんたろう様  まだ全貌を見ていませんので,エポックメイキングについては週明けでご勘弁ください。 ご意見伺いました。 >元々存在していたことを端的に表しているのが道元の逸話なのではないでしょうか。 >額に汗して労働することは当時(その後もずっとか?)の日本では日常的であり、 >当たり前すぎるほどの事だったと思います。 は、同感です。Awaji様のご意見も同じ方向だと思います。 道元の話は,ひとつの象徴として,今は捉えています。 それで、同じように疑問に思うのですが,この至極当たり前と思われるテーゼが なぜ,日本で日常的になったのでしょう?難しい問題だと思いますが, ご意見いただければ幸甚です。 Time : 1999/ 6/18(金) 10:36:12
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ2 Comments: Anonさん返信ありがとうございます。 >720年成立したのは「日本紀」であり、その後、西暦 >748年以降、別の史書「日本書」を参考に、「日本書 >紀が」編集された、と結論づけています。 >天智王の没年は671年ですし、この「日本紀」の >編纂を誰が手がけたのか、その証拠はありません。 この返事からするとそれ以前の >>当初、百済の正統を宣言した「日本紀」が天智朝で編纂され、 ^^^ >>それも百済の正統の宣言ということになります。 というのはおかしいあるいは大げさだと思います。 たとえ天智の子孫が「日本紀」の編纂をしたとしても、 命じたのは年代から見て天武系の天皇でしょう? 「日本紀」→「日本書紀」で(Anonさんがおっしゃるほどの)大幅な改竄は ないと思うのですが。 Time : 1999/ 6/18(金) 12:13:07
Name : 輔住 E-mail : Title : 大坂JF生さんへ Comments: >「変」後の秀吉や家康の不審な動きがすべて承知の上のことだったならば, >問題はなくなりそうです。つまり,すべて出来レースで, 面白そうですが、家康はともかく、秀吉の立場からすれば、光秀が 生きていたら困るでしょう。(笑) Time : 1999/ 6/18(金) 12:23:21
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様へ Comments:  せっかくお返事いただきましたので, もう少し詳しくご意見お聞かせいただけませんか? 政治家でいえば,政治家として完全にリタイアさせられる ということにあたるのですが,それでもなお困ることが, 秀吉にはあるのでしょうか? Time : 1999/ 6/18(金) 12:39:25
Name : 輔住 E-mail : Title : 危険人物 Comments: 大坂JF生さんへ まず、私は秀吉が「本能寺」に関係してるとは 思ってませんし、そうだとしたら なおさら光秀は危険人物です。 人はいつ裏切るか解らないし、 秀吉からすれば針の筵の上にいるような ものだと思います。 Time : 1999/ 6/18(金) 13:17:42
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「讖緯説」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 最近「讖緯説」と言う言葉が良く出てきますが、この言葉は色々な形で 使用されますので、一応Awajiの理解する範囲で簡単にコメントさせて頂 きます。(妄想のおまけつきです) 要するに「讖緯説」とは易姓革命に関する予言説のようなものです。 「讖」は謎とか予言、「緯」は「経」に対し「解説」と言う意味を持って います。 中国で漢代〜六朝に道教(五行説)と習合して盛行したもので、戦国期の 時令説・天人感応説等とも関係したものですが、隋の煬帝により禁圧・焚 書され、その後は衰微しました。 干支60年のうち、革運は戊辰・革命は辛酉・革令は甲子に起こることを予 言しています。(一種の政変周期説です) 日本においては、三善清行の「革命勘文」による紹介が良く知られており、 「延喜」年号等は、この説により改元されたものです。 近代では、那珂通世の研究が著名です。 「日本書紀」との関係では、神武即位「B.C.660年」を算定したのは、この 「讖緯説」によるものとされています。 即ち、大変革は「1蔀」周期で起こるとされているので、この周期を適用し たと考えられているのです。 ただ、この周期が21元か22元かと言う点では以下のとおり見解が分かれて います。 三善清行「革命勘文」1元=60年 1蔀=21元(21*60=1260)? 三善清行・・・・・・1元1蔀=22元(22*60=1320)? 那珂通世・・・・・・1蔀=21元(21*60=1260) これを「書紀」制定当時に当てはめると、次の関係が生じます。 革運・・・戊辰 688 608 548 488 428 ・・・・・-653 革命・・・辛酉 721 661 601 541 481 ・・・・・-600 -660 革令・・・甲子 724 664 604 544 484 ・・・・・-597 541年・・・欽明2 任那復興 544年・・・欽明4 601年・・・推古9 聖徳太子斑鳩宮 604年・・・推古12 十七条憲法制定 661年・・・斉明7 斉明崩御 664年・・・天智3 冠位二十六階制定 そこで、 1260年説であれば・・・601年推古9 聖徳太子斑鳩宮 1320年説であれば・・・661年斉明7 斉明崩御(百済滅亡の翌年??) を神武即位算定の起点にしたのでは無いかと、考えられているのです。 しかし、Awajiの見解は少し違っています。(以下妄想オマケ) Awajiは、神武即位を算定するに当たっては、現実の推古9年・斉明7 を 革命と見なしたのではなく、単に「書紀」制定時には既に「1蔀」周期は 経過している・・・ことを強調したかったのだと考えています。 つまり、「讖緯説」による「1蔀」周期が仮にあるとしても、それは日本 国においては易姓革命等に至らず無事平穏に過ぎ去りました・・・次の 「1蔀」周期は1000年以上先ですよ・・・ということを示したに過ぎない と考えています。 つまりは、天皇家万世一系支配の宣言だと思うのです。 因みに聖徳太子等の知識人は、大王家の系譜伝承等から「神武」を紀元 1世紀頃と考えていたと思います。しかしそれでは「倭国」の歴史が 「高句麗」などより短い事になります。 また「神武」が建武中元二年(57年)倭奴國奉貢・・光武賜以印綬、 安帝永初元年(107年)倭國王帥升等・・願請見等と同一視される危険性 もあります。 従って、「神武」年代を大幅に引き上げたと思います。 それでは、何処まで引き上げるか?  Awajiは一旦は紀元前200年頃としたのでは無いかと思いますが、 (説明は省略します)それでは500年後に「1蔀」周期が来ますし、 「神武」と「徐福」の同一説も生じかねません。そこで思い切って 「書紀」では紀元前660年としたのでは無いかと想像しています。 これならば「1蔀」周期の懸念は、殆ど無くなるからです。 しかし、その結果として系譜と年代が著しく乖離してしまいます。 我々ならば・・・系譜を付け加え(創作)るでしょう。 至極簡単なことです。 しかし、彼等は敢えて各大王(天皇)を異常な長命とする事を選び、 系譜を弄らなかったのです。 それほど系譜伝承に拘ったのは、彼等の先祖崇拝意識の強さと、伝承に 対する信頼の強さがあったのでは無いでしょうか? Time : 1999/ 6/18(金) 14:04:02
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様、何度もすみません Comments:  ご意見を述べられている前提が異なっていると思いますので, 議論がかみ合っていないようです。 秀吉が本能寺に無関係という前提なのですね?  小生の妄想は、そこをハナから疑っています。 (理由は「変」後の秀吉の行動のあまりの早さです。) 妄想ながら,光秀は信長を裏切りましたが,秀吉を裏切っていないと 考えています。 (それでももちろん、いつ誰が裏切るかは、この時代、ハラの探りあいでしょう。) 輔住様のご意見は,小生の妄想を否定されるのではなく (当初そのつもりで、対応してしまいましたが), 独立にご見解を述べられたと解釈してよいのでしょうか? その点を計りかねております。 Time : 1999/ 6/18(金) 15:23:01
Name : 輔住 E-mail : Title : 大坂JF生さんへ Comments: わたしの「本能寺の変」に対する妄想は 秀吉より家康のほうが怪しいと思っています。 月曜日(6/21)に詳細な投稿をします。 (申し訳ないですが、それまでまとめる時間を下さい) Time : 1999/ 6/18(金) 16:07:11
Name : 輔住 E-mail : Title : ごめんなさい! Comments: 大阪JF生さん 名前を大坂JF生と間違えて打ってしまいました。 ^ Time : 1999/ 6/18(金) 16:28:43
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 日本書紀の問題の一つに書名の混乱があります。 「日本紀」という当初の記述がいつの間にか「日本 書紀」にすり替わるのです。しかも、その後に編纂 された国家史書名は「続日本紀」です。 この問題も、既に門脇貞二等の研究があり、西暦 720年成立したのは「日本紀」であり、その後、西暦 748年以降、別の史書「日本書」を参考に、「日本書 紀が」編集された、と結論づけています。 天智王の没年は671年ですし、この「日本紀」の 編纂を誰が手がけたのか、その証拠はありません。 しかし、先に述べたように、讖緯説による日本書紀の 基本構造の解析では、天智王の政策が色濃く出て きます。 Time : 1999/ 6/18(金) 16:53:54
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: ダブルポストすみません。 天智王が百済亡命政権を志した書記の骨格と、 実際の記述に見られる天孫万系一世の思想は、 180度の大転換です。これが改竄です。 Time : 1999/ 6/18(金) 16:59:14
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのコメント Comments: 讖緯説の「恐怖」は黄巾の乱を見ても、(冗談ですが) 現代のノストラダムスの大予言の比ではありません。 いわば当時の最新科学です。 さしずめスティーブン・ホーキングがミレニアムの終わりに 地球が滅びると正式報告するようなものです。661年の 「革命」は、当時の人々には自明なのです。 それから、長命は異常でも何でもなく、世界の神話の記述 によく見られるものです。 Time : 1999/ 6/18(金) 17:07:21
Name : はてなマン E-mail : Title : しんいせつ Comments: が、当時最高の科学の結晶だとしても、どうして百済の後継となるのでしょう? 天智は、百済を継ぐ資格があるのでしょうか? 倭国は当時百済の一部だったという事でしょうか? それと隋・唐の特異性とはどういう事なのでしょう? 質問ばかりですみません。 Time : 1999/ 6/18(金) 17:24:17
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ3 Comments: >天智王が百済亡命政権を志した書記の骨格 正直言ってそのような史書が天武系全盛期に成立 するとは思えないのですが。 またそれだけの史書が(書紀より古いのに関わらず) 無視(それに近い)されたのはなぜなのですか? 質問ばかりで申し訳ないのですが 初めて耳に聞くことばかりなので。 Time : 1999/ 6/18(金) 17:25:54
Name : はてなマン E-mail : Title : 桓武 Comments: 天智系の桓武は、なぜもとにもどさなかったのでしょう? すいません。輔住さんの下の投稿もこの投稿もAnonさん宛です。 Time : 1999/ 6/18(金) 17:35:21
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「日本紀」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 「日本書紀」と「日本紀」についてですが・・・・ 『続日本紀』養老四年・・・に『先是一品舎人親王奉直勅修日本紀・・・』と ありますので、舎人親王撰修史書の正式名が「日本紀」であることは明白です。 それでは現在、我々が目にしている「日本書紀」は・・・この「日本紀」とは 別の史書か? これについては、「新撰姓氏録」その他の様々な引用文を比較参照の結果、そ れらは全て現在の「日本書紀」によるものである事がテクストクリティーク的 にほぼ確認されています。 勿論ですが「日本紀」とは別の史書が撰修されたと言う記録は一切存在してい ません。 また平安期の文章には「題詞には日本紀といい、本文に日本書紀と記して、少 しも矛盾を感じないようである。どちらが正しいとか、正しくないとかの論を こえて、いずれも公式の名と認めていたとしか思えない。・・・」 と言う例もあり、「日本紀」の通称名が「日本書紀」であることが証明されて います。 仮に密かに「舎人親王日本紀」が抹殺され、新たに改竄史書が撰修されたとし たら、その史書は抹殺の事実を秘匿するため「日本紀」であることがことさら 強調される筈であり、「日本書紀」の名前が一般化することは有り得ないでし ょう。 「古事記」偽書説ですが・・・・ 同じく偽書説と言っても、前文偽書説と全体偽書説があります。 誰がどの説かは偽書説を紹介されている方が、詳細に解説されると思います ので、ここでは差し控えさせていただきます。 小林トンデモ説「天武・天智非兄弟問題」については、既にKANAKさんが詳 細に論じておられ、ほぼ決着済みと考えていますので、ここでは論じません。 なお、「讖緯説」がそれほど真剣に受け取られたかどうかは、60年毎の 辛酉 721 661 601 541 481 ・・・・に何が起こったかは当時みんなが知っ ていることですから、常識で考えれば分かるはずです。要するに縁起担ぎ位 の気持ちでしょうね。 Time : 1999/ 6/18(金) 17:47:33
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「(新)唐書」?? Comments: 「百済正統論」のみなさん、ご苦労様です。Awajiです。 「旧唐書」「新唐書」についてですが・・・・・ 何と言うこともありませんが、虚心担懐に読みましょう!\(^o^)/ ◎『旧唐書』倭国伝 『旧唐書(くとうじょ)』は、五代後晋のリュウク(887-946) 等によって 書かれた中国の正史である。全200巻(本紀20巻・志30巻・列伝1 50巻)からなり、945年に成立した。 唐代においても『唐書』(130巻)・『唐暦』(40巻)・『続唐歴』 (22巻)などの国史が編纂されたが、唐末の内乱でその多くが焼失・散 逸した。この『旧唐書』も少ない史料をもとに作られたために不備も多い。 巻199上の東夷伝に「倭国伝」が収められている。『日本書紀』に見え ない記事もあり、7〜9世紀の日中関係を知る上でも貴重な史料といえる。 【原文】関係部分のみ抜粋  貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州勅使高表仁持 節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還 至二十二年又附新羅奉表以通起居 ◎『旧唐書』日本国伝 『旧唐書(くとうじょ)』には、「倭国伝」に引き続き「日本伝」が収 められている。従来は、「倭国日本伝」と一つにまとめて表記し、かつ、 扱うことが多かったが、原文では明らかに別記しているので、ここでは両 者を別けた。倭と日本について、古くは『釈日本紀』、近世では松下見林 が『異称日本伝』で問題にしている。現在でも諸説があるが、敢えて言及 しない研究者が多い。  ちなみに、中国の正史を見ると、『後漢書』『三国志』以降『旧唐書』 までは「倭伝」「倭人伝」「倭国伝」などとするが、『旧唐書』以降は全 て「日本伝」「日本国伝」としており、『旧唐書』のみが「倭国伝」「日 本伝」を併記している。 【原文】同上  日本國者倭國之別種也以其國在日邉故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅 改爲日本或云日本舊小國併倭国之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑 焉又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外 即毛人之國  長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進徳冠其 頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史解屬文容止温雅則天宴之 於麟徳殿授司膳卿放還本國 ◎『新唐書』日本伝全文 『新唐書(しんとうじょ)』は宋代に成立した正史である。本紀10巻・ 志50巻・表15巻・列伝150巻から成り、1060年に成立した。本 紀・志・表は欧陽修(1007-1072)、列伝は宋祁(998-1061)により書かれた。  先に成立した『旧唐書』は、唐末の内乱後に残った少ない史料をもとに 編纂されたものであったので、首尾一貫せず、記載にも不備が多かった。 宋の統一後、唐代の史料が多く現われたのを機会に「唐書」の再編纂が行 われ、『新唐書』が成立した。  『新唐書』は、『旧唐書』が原史料をそのまま記載していたところを全 般的に補正した上に文章を簡略化したために誤った解釈も多く、史料価値 は低いとされる。『新唐書』巻220・東夷伝に「日本伝」が収められて いるが、『旧唐書』のように「倭国伝」はない。したがって、両者の表記 を比較することにより、倭が日本と改名した原因や時期を考える上で格好 の史料になると考える。 【原文】同上 日本古倭奴也去京師萬四千里直新羅東南在海中島而居東西五月行南北三 月行國無城郭聯木爲柵落以草茨屋左右小島五十餘皆自各國而臣附之置本 率一人檢察諸部俗多女少男有文字尚浮屠法其官十有二等 其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊爲號居筑紫城 彦瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州次曰綏靖次安寧次懿徳次孝昭次天 安次孝靈次孝元次開化次崇神次埀仁次景行次成務次仲哀仲哀死以開化曾 孫女神功爲王次應神次仁徳次履中次反正次允恭次安康次雄略次清寧次顯 宗次仁賢次武烈次繼體次安閑次宣化次欽明 欽明之十一年直梁承聖元年次海達次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始 與中國通次崇峻崇峻死欽明之孫女雄古立次舒明次皇極其俗椎髻無冠帯跣 以行幅巾蔽後貴者冒錦婦人衣純色裙(*1)長腰襦結髪于後至煬帝賜其民錦 綫冠飾以金玉文布爲衣左右佩銀花(*2)長八寸以多少明貴賎 太宗貞觀五年遣使者入朝帝矜其遠詔有司母拘歳貢遣新州剌史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還久之更附新羅使者上書永徽初其王孝徳即 位改元曰白雉獻虎魄大如斗碼碯若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽 書令出兵援新羅未幾孝徳死其子天豊財立死子天智立明年使者與蝦夷人偕 朝蝦夷(*3)亦居海島中其使者鬚長四尺許珥箭於首令人戴瓠立數十歩射無 不中 天智死子天武立死子総(*4)持立咸亨元年遣使賀平高麗後稍習夏音惡倭名 更號日本使者自言國近日所出以爲名或云日本乃小国爲倭所并故冒其號使 者不以情故疑焉又妄夸其國都方數千里南西盡海東北限 Time : 1999/ 6/18(金) 21:43:35
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 渋川廃寺 Comments: みなさん、こん@@は。やまさん、渋川羽廃寺についてなんですが、6.7年前に 見かけた本の記憶なので、はっきりしないのです。すいません。 渋川廃寺は、飛鳥時代の初期に建立されたとされており、物部氏の氏寺でした。 今の大阪府八尾市渋川にあったそうです。渋川は日本書紀に記されている「河内 渋河」の事で、ここは物部氏の本拠地とされています。この事からの推測なのか もしれません。 ここには、鞍作村主氏つまり鞍作部が置かれていたらしいです。蘇我氏に近い鞍作 部との血縁などは、あったかどうか不明だそうです。 曖昧な記憶ですので、自信はないのですが、廃仏と崇仏という対立の図式は蘇我と 物部の朝廷内での対立(経済、軍事)がまずあってから、両者を担ぐ勢力の旗とし て掲げられたものという側面があるという事です。 戦国時代のキリスト教のように、仏教自体よりも仏教と同時に入ってくる大陸や半 島の文物は、物部氏ら廃仏派とされている豪族にとっても魅力的なものだったとい う事だと思っています。 本の題名など思いだしたらここに書きこみます。 Awajiさんは、渋川廃寺については何かご存知ないでしょうか? Time : 1999/ 6/18(金) 22:05:58
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と儒教文化?? Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。 今日は折角の代休が雨ばかり・・・(>_<;) >>Awaji様が余り気が進まなさそうな日本人論の質問ばかりで,ま >>ことに申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。 仰るとおり、タダノ仏像オタクには荷が重すぎますので、少しチャラケ ますが、ご勘弁下さい。 中国(儒教)文化を一言で語るなどとは、不遜極まりないことですが、 井沢さん流に言えば・・文霊信仰が支配する文化だと思うのです。 つまり流麗極まりない名文が、天地人(現実政治)を動かすという信仰を 持った文化だと仮定してみます。(・・?) これは一面では、複雑な民族・言語構成を持つ大帝国を、統一的に支配す るためのやむを得ない仕組みであったと思いますが・・・ 従って、政治家も官僚も名文を書くことをもって、その任を果たしたと考 え、現実を直視しない傾向が生じます。科挙制度がその基礎となり、さら にその傾向を助長して行きます。(ホント??) 実務家や軍人すら、見事な報告書を作成することでしか評価され無い傾向 が生じ、現状対応力が低下して行きます。その典型が朱子学でしょう。 仏教僧侶が何を言おうが、何を行おうが・・・それは圧倒的儒教文化に飲 み込まれてしまいます。 倭国は、その様な大帝国ではありません。従って中央専制的政治では無く、 地方分権的政治が可能でした。(特に鎌倉期以降・・) 中国とも海を隔て、常に独自の文化を保ち得る地政的位置にあります。 従って、支配階級といえど現状対応能力が要求され、中国以外の多くの国 と同じく、労働の価値を認める文化を育んだのでしょう。 中国のような文尊武卑ではなく、武尊文卑・・・文尊技卑ではなく、技尊 文卑の文化と言っても良いと思います。 韓国は・・・中国に近すぎ、中国に事大主義的対応を余儀なくされました。 ある意味では中国以上に中国文化を尊重せざるを得ない必然性があったと 思います。 しかし、時代が変わり、地政的状況が変われば文化(社会的価値観)も変 化します。韓国も大きく変貌するでしょう・・・日本は地方分権的文化を 復活出来るでしょうか? 実学尊重の精神文化を保てるでしょうか? 道元さんは、どの様にお考えになるか・・・Awajiには分かりません。 Time : 1999/ 6/18(金) 23:54:49
Name : やま E-mail : Title : 物部氏の氏寺? 渋川廃寺 Comments: 勇者ロトさん >渋川廃寺は、飛鳥時代の初期に建立されたとされており、物部氏の氏寺でした。 >ここには、鞍作村主氏つまり鞍作部が置かれていたらしいです。蘇我氏に近い鞍作 >部との血縁などは、あったかどうか不明だそうです。 なるほど、そうなのですか。だとすると、物部、蘇我対立は純粋な権力闘争だった と見たほうが良いのかもしれませんね。鞍作氏については、生き残りのための二股 (というと聞こえが悪いかもしれませんが)を掛けていたという見方もできると思 いますよね。 では、当時の天皇のこの仏教に対する立場はどうだったのか、ということと 実質的に宗教を司っていたといわれる、忌部氏、中臣氏の立場はどうったの か、というところも気に掛かりますが、ちょっと深入りし過ぎなのでここら で止めておくのが無難かもしれませんね。(まあ、鎌足も長男を僧にしてい るからなぁ) この辺のことを知るのに良い、論文、書籍等ございましたらご教示いただけ ませんでしょうか。 Time : 1999/ 6/19(土) 09:36:46
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「渋川廃寺」?? Comments: 勇者ロトさん、お久しぶりです。Awajiです。 渋川廃寺が物部氏の氏寺と言う推測に関しては・・・・ 「・・・『崇仏論争』として史上有名であるが、この対立は、・・・大臣 ・大連二人体制から大臣一人体制へと収斂されていく過程として捉えるべ きであり、たんに仏教受容に関する対立のみに帰するべきではないであろ う。物部氏もまた当時最新の文化である仏教を受容していたであろうこと は、渋川廃寺(八尾市渋川)が物部氏の氏寺と推測されていることからも うかがわれる。・・・」−日本古代氏族人名辞典 などで記述されていますが、その推測の根拠が示されていませんので、良 く分かりません。 或いは「守屋」敗死の後に、物部一族によって建設された可能性もあろう と思います。(蘇我馬子の妻・・・守屋の妹?かもしれませんね。)(・・?) ただ、蘇我・物部の抗争が単なる『崇仏論争』ではなく、権力抗争の一つ の要因として、『崇仏論争』があったとは思いますが・・・。 鞍作村主氏に関しては・・・ 鞍作と言う氏族名は、河内国渋川郡に「鞍作」と言う物部氏支配の場所が あり(現在の大阪市平野区)、渡来系司馬氏がここに居住したことに因ん で、鞍作村主と名乗ったとされていますが、逆の関係かもしれません。 「鞍作部」は東漢氏を通じ、蘇我氏の管理下にあったと思われますので、 一部は飛鳥地方にも居住していたと思われます。 蘇我入鹿が「鞍作」と称されたのは、天皇家皇子が壬生氏族名を名乗った のと同様の慣習によるものとされていますが、この「鞍作」が渋川か飛鳥 かは分かりません。(母が物部氏出身であれば、どちらも考えられます) 折角のご指名ですが、取り敢えず、こんなところでご勘弁下さい。 Time : 1999/ 6/19(土) 12:25:10
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 渋川廃寺の解説ありがとうこざいました。たいへん参考になります。 崇仏派と廃仏派の争いは、蘇我対物部ではなく朝廷対蘇我だったのではないか? と考えています。 おっとタイガースの応援の時間がきたようです。 それでは、失礼致します。 ありがとうございました。 Time : 1999/ 6/19(土) 18:40:28
Name : 古仁志一範 E-mail : josui@din.or.jp Title : 関ケ原と黒田如水 Comments: はじめまして、古仁志一範(こにしかずのり)と申します。 歴史好きの若輩ですが、以後よろしくお願いします。 過去の書き込みを観て、皆さんにお聞きしたいことがあります。 歴史群像シリーズや、いろいろな作家の小説を読んでみて、 黒田如水が関ケ原の役に前後して、九州で戦を起こしたとあります。 その中で、「もし、(関ケ原の)戦が長引けば、畿内に兵を進めて 天下を取る」といったニュアンスの文章が随所に見受けられました。 もし、関ヶ原が長引いていれば、本当に、如水は畿内に進んでいたのでしょうか? 皆さんのご高説をお願いしたいと思います。 阪神ファンの方々へ> 負けちゃいましたね。私は三代続いた巨人ファンなので、 マルちゃんの二発に驚きました。 乱筆乱文失礼しました。それでは、また。 Time : 1999/ 6/19(土) 21:25:31
Name : 黒田半兵衛 E-mail : Title : 如水 Comments: 古仁誌さんはじめまして。 如水は、徳川と毛利の動きにもよりますが、関ヶ原の時点では 畿内には攻め上がる気はなかったと思います。 毛利が優勢なら、九州全域の統一に向かったでしょうし、徳川 が優勢なら、毛利領に進出したと思います。 畿内という爆心地に攻め込むためには、調練をした軍隊がどう してもひつようです。寄せ集めの手持ちの兵では統制がとれな いですし、本拠地を遠く離れる愚は冒さなかったと思います。 黒田家の精鋭は長政が連れていっていますので、周辺を鎮圧す る事によって、まず自分を高く売れるほうに付き、そこで軍を 整えてからなら畿内突入も考えたかもしれません。 天下を取るという意識はあったと思いますが、現実的判断を優 先させる事のできる将だと思っていますので、混乱に乗じて畿 内を目指すという事はしなかったと思います。 Time : 1999/ 6/19(土) 23:16:23
Name : slashdog E-mail : Title : 官兵衛「最後の悪戯」 Comments: 古仁志さん、黒田半兵衛さん こんばんは はじめまして 私は時間的余裕があれば、九州を平らげた後、(その時の状況に よっては)やる気はあったと思います。 (それが成功する、しないは別問題として) 官兵衛の戦略では、九州は、落ちたも同然でした。 しかし何と言っても、「関ヶ原」が、まったくうまく運ばず 本来なら完全な長期戦のはずが、あの短さでは、(官兵衛も後の世から 見た我々も)その先のシュミレーションは非常に難しいでしょう。 九州の先を考える余裕もないままに、すべてが終わりました。 まあ官兵衛にしてみれば、歳も六十五で人生最後の悪戯をするつもり だったのでは?と思います。命を賭けた「悪戯」を。 私の意見は以上です。 お二人様いかがでしょうか? Time : 1999/ 6/20(日) 00:12:29
Name : 黒田半兵衛 E-mail : Title : 加藤清正との関係は? Comments: slashdogさん、はじめましてこんばんは。 加藤清正は九州中部から南部方面に兵をだし、小西行長の領地 を奪取し、あとは城攻めという状況にしていました。 島津の援軍がきたとはいえ小西軍は壊滅直前だったという事で すが、如水が九州を統一し平定するにあたっては加藤清正は 難敵となると思います。 さらに、南部には島津の大軍がいるわけですよね? どうやって九州を平定したとおもわれますか? 表向きは、徳川派ということで行動をおこしている わけですから加藤とは直接の戦闘状態にはならないかも しれませんが、島津とは開戦せざるをえないと思います。 九州全土を支配下に置くことはかなりの時間がないと無理 だと思います。 私は、まず加藤清正と結び南部の押さえとしたあと、 上層部が不在であった毛利領へと攻めこむと思います。 勿論島津と開戦しこれを撃滅できるほどの勢力が育っていると すれば九州全土の平定も無理なくできるかもしれませんが。 九州北部の次は、まず中国地方西部に進出したと思います。 その後、畿内には行かず反転して九州全土の攻略にとりかかった のではないでしょうか? 九州の備えさえしておけば、瀬戸内海を海路東上する事は容易 になると思います。 ただ年齢的なあせりがあれば、早いうちに畿内地方にむけて 進発した可能性も十分あると思います。 Time : 1999/ 6/20(日) 00:55:43
Name : 古仁志一範 E-mail : Title : 加藤清正は服従していたはず Comments: すぐに返答が来て嬉しいです。 黒田半兵衛さん> >どうやって九州を平定したとおもわれますか? たしか、加藤清正、及び鍋島直茂は如水に対して、ほぼ服従して いたと思われます。この二人の武力、及び家臣の母里太兵衛、 井上九郎右衛門などの力を合わせれば、九州制覇は可能ではない でしょうか? 如水軍は寡兵だったとはいえ、無血開城をさせて、その城兵を どんどん軍に組み込んでいましたから。 slashdogさん> >本来なら完全な長期戦のはずが、あの短さでは、(官兵衛も後の世から見た我々も) >その先のシュミレーションは非常に難しいでしょう。 ですよねぇ。やはり、一日で終わってしまっては、戦略も何も あったもんじゃないですよね。 そうそう、揚げ足取りをしてしまいますが、関ヶ原の時点での 如水の年齢は、五十五才です。 Time : 1999/ 6/20(日) 01:49:41
Name : slashdog E-mail : Title : 清正と直茂 Comments: 古仁志さん 失礼した!(笑) 五十九で死んだのに有得ない(笑) ところで、九州は古仁志さんの言われるように清正、直茂とは連携(官兵衛の真意 は別の所にあるが)していたので、可能だと思われます。 島津を攻略するのに利用するつもりだったようです。 官兵衛がどこまで二人をうまく騙し続けられるか?に 掛かってると思います。 島津を片付ければ九州は落ちたも同然です。 これから先のシュミレーションは後ほど考えたいと思います。 Time : 1999/ 6/20(日) 03:12:10
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「隋書の謎」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 「隋書」における多利思北孤と利歌彌多弗利について、以下・・・・ 「開皇二十年、[イ妥]王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣 闕。(中略)王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。」     (隋書 列伝第46 東夷 [イ妥]國) と記述されていますが、この「多利思北孤」及び「利歌彌多弗利」が何を 意味するかが、謎とされています。 まず「利歌彌多弗利」については、ある方がNIFTY会議室において、 「名○○為XXX」と言う場合の「XXX」は、普通名詞 「名○○曰XXX」と言う場合の「XXX」は、固有名詞 であることを多くの用例から立証されています。つまり太子のことを倭 語で・・・「リカミタフ(ホ)リ」と言う、と記されているわけです。 さらに、 1.倭語においては普通名詞の語頭にR音は立つことはない。 2.随書文中に「和」と「利」を誤って使用している例がある。 3.『翰苑』(660年頃成立)注に「王長子号(和)哥弥多弗利華言太子。」 と記されている。 ことから、「和歌彌多弗利=ワカミタフ(ホ)リ」の誤記である可能性が高 いことを指摘され、皇族を示す「ワカンドホリ」という古語の原形ではな いかと仮定されています。つまり、 「皇太子=ワカミタフ(ホ)リ」→「皇族=ワカンドホリ」に変化したと言 う推理ですが、Awajiもこのご意見に説得性を感じています。 同様に「字多利思北孤」については・・・・ 1.「字」の下は例外なく個人名(固有名詞)である。 2.「新唐書(1060年成立)」では「用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇 末始與中國通。」 3.「宋史(1345年成立)」では「隋開皇二十年倭王姓阿毎、名自多利思 比孤遣使致書。」 4.「通典(801年成立)」では「隋文帝開皇二十年倭王姓阿毎、名自多 利思比孤、其國號阿輩[奚隹]彌、華言天兒也、遣使詣闕。」 ことから、本来は「名 自多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌」であり、 「自」を本来の意味である「〜以来」という意味の前置詞と仮定されてい ます。 つまり、この記述を・・・ 1.倭王の姓は「阿毎=アメ」であり、 2.「多利思北孤=タリシホ(ヒ)コ」以来、 3.「阿輩[奚隹]彌=アハキミ≒オホキミ」と号した。 と解釈されているのですが、有力な可能性を示したものだと思います。 これらを要するに・・・・ 1.「倭国」は「隋」に対し「皇=天子」を称して、対等外交を開こうと した。(聖徳太子の主導?) 2.「隋」としては、これは到底認めがたいものであったが、一方では、 「高麗=高句麗」に関する遠交近攻策から「倭国」との外交を模索した。 3.つまり、 「隋 」は、「中国皇帝・・倭国王」の関係 「倭国」は、「中国天子・・倭天子」の関係 を目指した。 しかしながら、この原則論に拘っていれば、外交関係は成立しない。 4.そこで、現実外交手段として「倭国」の天子=推古を外交面から棚上 げし、現実政治担当者である聖徳太子を倭国王とみなす擬制外交を、 展開した。(国書紛失問題もこのことを意味している。) 5.これは、後世の足利外交で「天皇」を棚上げし、足利「国王」を称し た擬制外交の嚆矢とも言うべきものであろう。 6.双方の史書に於いては、この擬制外交を公認出来ないため、記述に矛 盾(謎)が生じた。 Awajiは、以上のとおり考えておりますが、いかがでしょう? Time : 1999/ 6/20(日) 10:28:55
Name : 黒田半兵衛 E-mail : Title : 加藤らの服従? Comments: 古仁志さん、こんにちは。 加藤らが従ったといっても、それは如水の天下取りに従ったという事ではないと思います。 明智光秀と細川、筒井のような関係だったのではないでしょうか? 如水自身の天下取りに従うとは思えません。 Time : 1999/ 6/20(日) 12:15:19
Name : slashdog E-mail : Title : 黒田さんへ Comments: こんにちは 前回の書きこみは、一応黒田さん宛てだったのですが・・・。 前回も述べましたが、清正らをうまく騙しながら 連携を取れるか?に掛かっています。 官兵衛に服従している訳ではありませんし、官兵衛も あくまで「東軍」のフリをして、兵を動かしているにすぎません。 その先の話は、関ヶ原の様子によって作戦内容が変わってくる筈です。 この続きは小説家に任せたほうが良いかもしれません(笑) ここから先のストーリーは、分岐点が多すぎます。 Time : 1999/ 6/20(日) 13:45:35
Name : 黒田半兵衛 E-mail : Title : 夢想 Comments: slashdogさん、同感です。 ある程度まで想像するのは楽しいですが、これ以上やると脱線してしまうかもしれませんね。 如水は、結局九州よりでられなかったのですからね(笑) Time : 1999/ 6/20(日) 17:31:47
Name : はてなマン E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: こんばんは、詳しい解説ありがとうございました。 私は、中国史書などを読む機会がなかったので非常にありがたかったです。 隋唐との擬制外交についての論はなっとくのいく論だと思います。 邪馬台国問題も同じですが、和語の中国史書での音訳がさまざまな解釈と憶測を生むきっかけとなっている のだとおもいます。 Time : 1999/ 6/21(月) 00:18:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 妄想総進撃 Comments: これから書く事は妄想が95%以上閉めていると思ってください。 自分自身、絶対正しいなんて思っていません。 「神君伊賀越え」をでっち上げ扱いするとんでもないしろものです。 実行犯である明智光秀は伝統を重んじる性格のため 信長のやることに段々ついていけなくなっていた。 さらに佐久間や林のように追放されるかも知れないと ノイローゼに近い状態だった。 近衛前久などの朝廷の実力者も不安を持っていた。 現在は無官の信長だが正親町天皇に退位を 迫ったり圧力をかけてくる。信長をなんとかしたい、 そこで自分達とも太いパイプを持っていて、さらに 近畿管領的立場で信長の行動を把握してる光秀を動かして 信長を殺すことを考えた。さらに協力者として 徳川家康を誘った。 徳川家康からすると今川や武田も滅び、同盟のメリットが無くなった。 (滝川一益を関東管領にするなど信長も 東国に目を向けはじめ状況が変わった) 徳川も織田が邪魔になってきた。 しかし、正面から戦っては勝ち目がない。そこでこの誘いに乗った。 そこで朝廷は信長を京都に誘き寄せた。 (信長は正親町退位を断られて怒り、1年以上京都に来てない、 おそらくそれらの問題で譲歩する姿勢を見せたのだろう) しかし、光秀は迷ってるみたいだったので、機内にきていた 家康もバックアップするといって決心させた。 私がなぜ家康を疑ったかといえば旧武田領は安定しておらず、 家康はそこに目を付けた! (信長が死ねば間違いなく旧武田領は混乱する) ただ帰国後すぐに甲斐・信濃に向かわず 京都に向かおうとしたのはポースで甲斐の一揆の拡大などを 理由に(秀吉のことがなくても)引き返したと思う。 (すぐ甲斐・信濃に向かえば怪しまれる) そして甲斐・信濃が一段落したころ機内の情勢も 決まっているだろうから臨機応変にやるつもりだったのではないか。 また信長の死後、甲斐で一揆が起きるが、 家康の動きは実に奇妙だ。 6/02 本能寺の変 6/10 家康の使者 本多信俊、甲斐の河尻秀隆の所に到着。 6/12 家康、加賀見氏に所領を宛行う。 6/14 秀隆、本多信俊を殺害。 6/17 家康、窪田氏に所領を宛行う。 6/18 秀隆、一揆勢に殺害される。 12日や17日に家康が宛行った領土は河尻の領地であり、 おかしい。秀隆の死を前提にやっているみたいだ。 この一揆の黒幕が家康であると疑いたくなる。 (またこのような状況からすると京都より 甲斐を重視しているとしか考えられない) 最後にこの妄想からなぜ秀吉を外したかといえば、 毛利の状況によっては帰って立場が悪くなることや 柴田勝家などが光秀を倒してしまう可能性もあることなどが あげられる。 それに引き換え家康は悪くても旧武田領の 3割から4割ぐらいは「ほぼ確実」に手に入る。 私の妄想は以上です。 せっかくですから大阪JF生さんの 本能寺に対する説の詳細も聞きたいのですが どうでしょうか? Time : 1999/ 6/21(月) 09:30:26
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様,解説ありがとうございました Comments:  お返事ありがとうございました。 オチャラケどころか,大変参考になりました。 御礼が遅くなってすみません。 とりあえず,大局的な理解を得ることが出来, ありがたい限りです。  大国ゆえの対応の悪さというか、儒教のもつ 文霊信仰なるもの、感覚的に納得です。  それに対し,中小企業の小回りのよさというか、 ある意味でお気楽な日本で,技尊文卑も納得です。  儒教について疎いのでありがたかったのですが,最近  浅野裕一「儒教 ルサンチマンの宗教」 平凡社新書 を読み始めて,(内容は題名どおり)、まさに牽強付会から 始まった儒教なるものの一面をはじめて知りました。 儒家たちが現実をいかにゆがめた一派であるかを これでもかと論じています。 (儒教の専門家からはトンデモ扱いをうけるかも・・・) Time : 1999/ 6/21(月) 10:08:22
Name : はてなマン E-mail : Title : 儒教? Comments: 大阪JF生さん、はじめまして。 儒教は、現実をゆがめるなどというものではないでしょう。 現実を作り上げるための、いわばソフトだと思います。 儒教自体より、利用する者の意識が問題なんでしょうね? Time : 1999/ 6/21(月) 10:31:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様,詳細な解説ありがとうございます Comments:  力作をご披露いただき,ありがとうございます。 (名前のことは,もともとその字だったのですし,気になさらないでください) この力作以前のご意見を伺って、あまり違わないような感覚を持っていましたが, 文面上は否定的なご意見でしたので,少し突っ込んでしまいました。  で、この力作を読ませていただき,やはりかなりコンパチブルだと感じました。 輔住様ほどきちんと検証された「妄想」でなく、小生のは本当の妄想です。 (というより、単に可能性の追究に過ぎません。)  秀吉と家康の間に密約があったかどうかは全くわかりませんが, 輔住様もご指摘のように,家康が本気ならもっと違う行動をとったと思います。 それは光秀も同じで,圧倒的武力差で信長を討つのに時間がかかりすぎていますし, 変後も近江あたりをうろうろしているのは何か変です。 それよりも,変後の勝算もなく信長を打つのは、確かに精神病以外の何物でも ないような突発的な行動でしょう。そうとるのが自然です。 しかし、これが計画的なことではなかったとも言い切れないように思います。  光秀が変をおこすにあたって,内部から裏切り者が出なかったのはおかしいという 意見があります。もちろん,裏切り者は必ず殺すと徹底されていたとしてもです。 光秀が,天下を取るに十分な資質と,財力・兵力を持っていれば別ですが, 信長を討てば,よほどのことがない限りいずれは命がなくなるでしょう。 命が惜しくて,全員が従うはずがないと思います。下っ端の兵ならいざ知らず, それぐらいの知能を持った武将が、光秀の軍の中に一人もいないはずは有りません。 ましてや,精神病的・突発的な行動だったとすれば,とめない(裏切らない)ほうが おかしいと思います。それで、出来レースではないかと疑うのです。 また、このような状況を狸親父が少なくとも静観するはずはありません。 この点,輔住様の家康分析は非常に心強く思います。 小生はもっとナイーブなのですが,信長の方法は統一には適しているが, それを維持するのに向いていないことは気づいていたと思います。 (馬上を持って・・・ということわざは意味がちがうという説もありますが・・・) 秀吉にもその才能はない(武士たちを平和維持の時代に導く能力がなかったのは, 朝鮮出兵が示しています。家康は心中馬鹿にしていたでしょう。)のは承知で, いずれは自分がその役目をするつもりではなかったかと思います。 それに対し,光秀の才能は戦時より平時のに適していることは、自身も家康も そう高く評価していたのではないかと思います。 そこで、実際に光秀は殺されたことにして,結果として,家康・秀吉の行動はシンクロした 形となり,秀吉が中国大返しを成功させ,信長の後継者であることを基本的に確定する形と なったとおもいます。  家康は秀吉に一応恩を売って、従うポーズを取ったのだと思います。 それで、密約の程度によるのですが,強ければ,そのままで光秀を殺させたことにし、 弱ければもしくは無ければ,(影武者徳川家康の作者・隆先生に習って)光秀の影武者を討たせた。 かくして、光秀は完全に武士を捨て,家康のブレーンとして生きることになった・・ という妄想です。 失礼ながら,輔住様の「妄想」とそんなに違うほうを向いていないように小生自身は感じます。 隆先生あたりならもっと精密化して,うまくノベライズされると思いますが, 小生の妄想はこんなところです。おさがわせして,どうもすみませんでした。 Time : 1999/ 6/21(月) 11:11:51
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : はてなまん様へ Comments:  はじめまして,レスありがとうございます。 小生自身、儒教について少しはかじりましたが, 全く落ちこぼれです。  ご指摘の部分は小生の意見でなく,著者の浅野氏の モノです。孔子自身も周の「礼」について詳細に 知るはずの無い立場であるにもかかわらず, 一番の権威として売り込み,誰も採用してもらえないので, すねた様子が描かれています。それをあまり気の毒に思った 弟子たちが,孔子の履歴や業績を改ざんし、 「春秋」などは実は孔子の作だなどと、触れ回ることによって, 世間を欺いた・・・というようなことが書いてありました。 小生は真偽はよくわかりません。またいろいろご教示ください Time : 1999/ 6/21(月) 11:27:57
Name : 輔住 E-mail : Title : ありがとうございます Comments: 大坂JF生さん、返信ありがとうございます。 >それぐらいの知能を持った武将が、光秀の軍の中に一人もいないはずは有りません。 >ましてや,精神病的・突発的な行動だったとすれば,とめない(裏切らない)ほうが >おかしいと思います。それで、出来レースではないかと疑うのです。 正直、この視点は私には欠けていました。この視点から見るとまた少し 異なる結論になるかもしれません。 ありがとうございました。 Time : 1999/ 6/21(月) 12:12:03
Name : きんたろう E-mail : Title : 謎は深まるばかり Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、こんにちは。 「本能寺の変の真相」についての考察をありがとうございました。 私は、正常な判断力をあの時点で光秀は失っていたと思うのですが (歴史の結末を知っているからかもしれませんが)、部下に知らせた事については 「敵は本能寺にあり」の名言のとおり直前まで知らされていなかったのだと 思っています。 腹心達は知らされた時点で反対を表明したものもいるはずだと思います。 しかし、いままでの光秀の実績から考えるとあれほど杜撰だとは思いもしなかった のではないでしょうか。 Time : 1999/ 6/21(月) 12:57:07
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : きんたろう様、見当違いの感想文になってすみません Comments:  こちらから返事を書く前に、お返事をいただいてしまって,恐縮です。 本能寺の件は,「可能性」として額面どおりに捉えていただければ結構です。 もちろん,きんたろう様がおっしゃる状況は有ったと思います・・。  それで、「大発展時代」から,「秀吉から家康へ」までの大作を 一通り読ませていただきました。(まだ未完ですね?) マクロ経済学的視点から,戦国時代および信長の評価を 詳細になされていて,楽しめました。 (本能寺の変については、輔住様とのやり取りでお分かりのように 違った意見ですが,それ以外は)大変説得的なご意見と存じます。  異論があるわけでは有りませんが,従来の戦国時代のイメージを 払拭しようとなさるあまりに,暗いイメージについてあまり触れて いないように思いましたので,その方向で少しコメントさせてください。 まさにきんたろう様がおっしゃっている,いわずもがなの多面性ですが、 たんなる感傷的な感想文になりそうなので,あらかじめお断りしておきます。   「戦争」が産業を活性化するのは否めない事実ですし,実力主義の 時代は人間も活性化すると思います。しかし、戦争は悲惨ですし, その記憶の生々しい世代に、その暗さを抜きにした評価を求めるのは ある意味で酷ではないかと思います。不遜な言い方かも知れませんが, 学者も時代の中に生きた人間ですし,その呪縛から逃れるのは、信長クラスの 天才で無い限り無理なように思います。史料もその点を考慮すべきこと, 井沢先生をご存知ならいうまでも無いと思います。 しかも、こういう時代は全体像を非常に把握しにくい面があって, ますます悲惨さに目を奪われても仕方の無い状況です。 小生の恩師も(もう80を超えていますが)自分自身の体験した「戦争」は、 あくまでローカルなものに過ぎず,全体像をいまだに追い求めても 評価定まらずと、聞いたことがあります。だからこそ興味深いのですが・・。  たとえば、コンピュータや原子力も戦争の産物ですが, 双方の発明にかかわった天才フォンノイマンの伝記:  ノーマン・マクレイ「フォン・ノイマンの生涯」朝日選書 をみると、研究者仲間では,広島原爆を長崎型ではどのように改良し, 威力を大きくするかという議論が平然となされていて,いくら客観的な 記述といえども小生などは(おそらく原爆関係者の方も)感情抜きで 読み飛ばすことは出来ません。(フォンノイマン個人は尊敬していますが。) そのような感情がベースにあって,「戦=暗黒の世界」という枠に はめられたのでしょう。  それで、ルネサンスは逆にプルクハルトらが「明るき良き時代」にしたのですが, 前に述べた12世紀ルネサンスに注目したハスキンスなどの反発以外にも, 暗黒面も押さえておくべきだと思います。 ある人が,オーソン・ウェルズの言葉 「スイス300年の平和は鳩時計しか生まなかったが,ボルジア家の 圧政はミケランジェロを生んだ」 をひっくり返して, 「いや、ミケランジェロ(らの芸術家)こそが、ボルジア家の圧政を可能にした」 とルネサンス国家を評しています。確かにチェーザレ・ボルジアは、塩野女史の いうように,マキヤベリ、ダビンチ(この場合,建築技師として)やミケランジェロらの 芸術家と交流以上のものが有り,メジチ家なども芸術家を雇うことによって, ルネサンス国家の見せ掛けの繁栄を支えたことになると思います。 見栄の張り合いで,戦争するなどばかげていますが,それによって命を 失った人を思うとやはり悲惨です。 このあと,「知」が力を得て,資本主義さらには帝国主義・戦争に向かうのは, ある種歴史的必然のように小生には思われます。  まったく何を言いたいのかわからず感傷的になってしまいましたが, 戦争経験を聞いた最後の世代として,ひとこといわずにはおれませんでした。 老人の感傷がうつった中年のたわごととして,聞き流してください。 Time : 1999/ 6/21(月) 13:30:18
Name : 勇者ロト E-mail : Title :Comments: みなさん、こん@@は。 「荒深又五郎」という人物をご存じですか? Time : 1999/ 6/21(月) 13:30:50
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: 感想ありがとうございます。 本能寺の変に関する意見を述べましたが、きんたろうさんのHPが 随分参考になりました。 改めてお礼申し上げます。 Time : 1999/ 6/21(月) 14:36:39
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : わかりました、AWAJIさん Comments: なるほどAWAJiさんが私に言いたいことは良く分かりました。 私はこのページでそこまで資料を厳密に要求されるとは思っていなかったものですから。 それにほとんど図書館で借りてきた本から得た知識ですから、 後から資料を請求されても分からなくなってしまうことが多いわけです。 これからは資料の信憑性にもっと気を遣おうと思います。 高田氏の本は、まだ貸し出し中で書名は分かりません。 しかし、私にはどう見ても梅原先生と高田氏が、 私が読んだ範囲では全く同じ事を述べているように見え、 梅原先生はそのことに言及していますが、 高田氏の本の中で梅原先生のうの字も出てこないのが不思議で、 何か確執でもあるのかな?と邪推してしまったわけです。 高田氏の本をもっと読んでみれば正確に分かることかもしれないと思いました。 今週も勉強とバイトが忙しい・・・ Time : 1999/ 6/21(月) 16:42:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 感想アゲン Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、こんにちは。 お二人はさすがに急所をついた論陣を張っているなと思いました。 正につぼを突かれた感じがします。おかげで肩がすーとしました。(^^) ただ戦国時代については一つ疑問があります。 それはいつ誰が戦国時代と名付けたのかという疑問です。 先週の話題ですが思いつくままに書いていたら、ちょっと長くなってしまいました がそのまま載せますのでよろしくお願いします。(まだまとまってはいませんが) 環境が人をつくるとは非常に他力的な言葉ですが、これは言い換えると人間は環境 に対応することが出来る動物だと言うことになろうかと思います。 環境とは地理的環境と歴史的環境とに分けることが出来ます。 まず地理的環境があり、その影響下において歴史的環境が形成されると思います。 日本は島国であり、それも平野面積が国土の20パーセントしかない山国でもあり ます。海からちょっとした平野部分を越えればその先にはもう山がそびえている といった風景を日本中至るどころで見ることができます。 地理的に大きなスペースを望むことが出来ない、これが大きな要因として挙げる ことが出来ると思います。 これが日本の地理上の基本的要因です。 そして歴史的にはどうかというと、こうした地理的制限下で育まれてきたのは 言うまでもありません。 関東地方は例えば後世のアメリカのようなものだったのではないでしょうか。 開拓地として大きな意味を持っていたように思います。 広大な平野が関東にはあります。ここでは日本の常識(当時の)とは逆に土地が 余っている場所でした。 しかしその反面人手が足りなかったのです。 労働力不足(労働力の奪い合い)こそが10世紀においてこの地で起きた大乱 (平将門の乱)の真の理由だと私は思っています。 人口に比して面積が大きいこの関東の地においては現代の日本人の常識 (日本は国土が狭い)は全く通用しないと思います。 狭いどころではなく逆に広すぎたのではないかと思います。 藤原氏、将門に代表される平氏はこの地方の開拓集団として捉えるべきでは ないでしょうか。 そしてこのイメージは西部劇のようなものと思った方が間違いが少ないような 気さえします。切り取り自由とは正にこの事でした。 富の蓄積の多寡は非食糧生産者の存在に密接に連動しています。 食糧の余裕が無ければ美辞麗句など一切無用の長物だったからです。 いみじくもキリストは人はパンのみに生きるに非ずと言いましたが、 人はパンがなければいきられないのです。 この真理の前にはあらゆる思想もその普遍性を発揮することが出来ないのでは ないでしょうか。 以上が経済的な見方からの要因だと思います。 思想的にはどうなのでしょうか。より完成された思想とは他民族と接してこそ 初めてクリアされるのではないでしょうか。 何故ならば異なった習慣や常識に対応できなくては普遍性を持つことが出来ない からだと思います。 ところが日本ではそうした環境にはありませんでした。 ですから知識としては当時も日本人は持っていても厳密には理解できなかった のだと思います。また、論理を完璧にする必要もなかったのではと思います。 漢民族はどうなのでしょうか。 儒教の成立の要因はそれこそ様々な理由づけがなされていると思いますが、 基礎的要因としては大家族主義を挙げることが出来ると思います。 これぱ、歴史的に見れば開拓集団者達が自衛のためにまとまった形態であると 見ることが出来ると思えるからです。 彼らは異民族の略奪という現実に対抗しなければなりませんでした。 天高く馬肥える秋に鬼門からやってくる略奪者から我が身と財産を守るために 英知を絞ったのだと思います。 それこそが「感覚の血縁」の創出であり父系名字主義だと思うのです。 この父系名字の下に団結した集団は大きなパワーを持つことが出来ました。 これによって初めて騎馬民族に対抗し得たのではないでしょうか。 この根本は早く生まれた者の年齢を逆転する事はできないという物理的な (誰にでも分かる単純な)事実から成り立っています。 こうした事が歴史的背景の基礎にある事を思えば夫婦別姓問題については中国、 朝鮮半島の事例は全く参考にならないと思います。(話題がそれました) 空間的には中国大陸は広大ですが、障害物が少ないため強力な勢力は一気に全土を 制覇しやすい環境にあるように思います。 制覇の後半になるとほとんどドミノ倒し状態だと思います。 中国はその広大さ故、東アジアで最も富の蓄積が大きい地域でした。 また、彼らは異民族とのコンセンサスを持たなければならなかったといった 地理的必要がありました。 朝鮮半島はどうなのでしょうか。 この地域は有史以来侵略された歴史がある訳ですから、日本人よりは遥かに異民族 と接している(交渉した)経験を持っているわけです。 ですから漢民族に感覚的には近いものがあるのではないかと思います。 事実は歴代の中国王朝の影響下にありました。 「鎖国」こそが儒教の特長を表しているように思うのですが、まだ考えが まとまってはいないのです。 Time : 1999/ 6/21(月) 17:39:52
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「倭国・日本国」?? Comments: はてなマンさん、みなさん、今日は。Awajiです。 安部さん、ご理解頂き有り難うございます。 資料の厳密性は問題によるでしょうね。また「〜です」的、「〜かも」的、 「〜でしょうか?」的に表現するかにも、よるでしょう。 謙虚に皆さんのご意見を聞く態度も併せおとりになれば、貴方にとってより有 益だと思います。(^0^)" さて、「倭国・日本」問題です・・・・ 既にご承知のとおり、歴代中国史書のうち、後晋945年に成立した「旧唐書」 のみは「倭国伝」「日本伝」を並立させており、その理由を巡って古田さん 等の「九州王朝説」が唱えられています。 そこでこの問題について、簡単に考えてみたいと思います。 まず、「隋書」の成立時期ですが、隋滅亡(618)約20年後の、唐代初(636・ 656補)に記されたとされています。 何故か歴代史書と異なり「倭」の部分を「イ妥」と表現していますが、後世 の史書にはこれに関するコメントが有りませんので、誤写ではないかと考え られています。(従って、以下の部分では「倭」と表現します。) 次に、「旧唐書」の成立時期ですが、唐滅亡(907)から約40年後、遣唐使 廃止(894)から約50年後に書かれたものです。 しかし、唐は黄巣の乱(875〜884)等の混乱のうちに滅亡しますので、多く の資料が散逸し史書として不完全とされたため、あらためて、その115年後 の北宋1060年に「新唐書」が撰修されたものです。 従って、魏から禅譲を受けた晋で間もなく成立した魏志等とは、信頼性にお いて全く異なることに注意しなければなりません。 しかし、幸い唐代に成立した「通典」等の史書があり、これを補うことが出 来ます。(「通典」は当代に書かれたため「正史」としては扱われません。) そこで、これらの史書を対照することで、「倭国伝」「日本伝」並立の理由 を考えたいと思います。 隋書(636年・656年補成立)・・・・舒明期、遣唐使派遣(630)の頃 「倭國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島・・・漢光武時遣使入朝 自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之倭奴國・・・」 通典(801年成立)・・・・・桓武期、空海入唐(804)の頃 「倭、自後漢通焉。在帶方東南大海中、依山[鳥/山]為居。凡百餘国。・・・ 倭一名日夲、自云『國在日邊、故以爲稱』。武太后長安二年、遣其大臣朝 臣眞人貢方物。・・・・」 旧唐書(後晋945年成立)日本国伝・・・・朱雀期、天慶乱(939)の頃 「日本國者倭國之別種也以其國在日邉故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅 改爲日本或云日本舊小國併倭国之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑 焉・・・」 旧唐書(後晋945年成立)倭国伝 「倭國者古倭奴國也・・・貞觀五年(631)遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司 無令歳又遣新州勅使高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命 而還(632)至二十二年(648)又附新羅奉表以通起居。」 新唐書(北宋1060年成立)日本伝・・・後冷泉期、前九年役(1051〜)頃 「日本古倭奴也・・・後稍習夏音惡倭名更號日本使者自言國近日所出以爲 名或云日本乃小国爲倭所并故冒其號使者不以情故疑焉又妄夸・・・長安三 年(703)其大臣朝臣眞人來貢方物・・・・」 以上のとおり「隋書」の認識は「倭奴→倭」であり、「通典」「新唐書」 においては・・・・ 「倭奴→倭→(一名)日夲」「倭奴→(倭)→日本」と言う基本認識で一 致しています。 ただ、「新唐書」は「或云」として「倭」が「日本」を併合し、その国号 を取ったと言う「異説」を述べた上で、これに疑問を呈しています。 従って、これら二史書の間に書かれた「旧唐書」のみが、唯一の並立論 「倭奴→倭国→??ー日本」を記していることになります。 しかし並立論と言っても、その内容は以下の三つの認識を述べたものです。 1.「日本国」は「倭国」の別種である。 2.或曰「日本国」は「倭国」が国号を改めたものである。 3.或曰「日本国」は「倭国」を併合したものである。 勿論、基本認識は1.の別種論ですが、それでは「日本国」はどのような 国であるのか、「倭国」はその後どうなったかについては、一言も記して いません。 この事自体が史書としては極めて異例のことで、史官自身が倭国・日本国 についての詳細を知らなかったことを暴露していると思います。 そこでAwajiなりに、この間の事情について、以下考えて見ました。 1.「隋」「倭」は「倭天子」棚上げの擬制外交を開いた。 2.しかし「唐」の使節「高表仁」はこの様な擬制外交を理解せず、建前   どおりの「皇ー王」外交を求めた。(無綏遠之才與王子争禮) 3.このため両国の擬制外交は破綻し、その後は百済を巡って交戦するな   ど、国交断絶常態となった。 5.しかし、倭国としては唐との対立を回避し、中国先進文化を取り入れ   る必要があり、唐には新羅を牽制する意味があったので、政経分離形   体での外交が再開された。 6.その後ほぼ時期を同じくして、倭は「日本」に対外国号を改めた。 (703年頃?) 7.「通典」の史官は、「倭→日本」の事実を知っていたので、その様な   認識で記述した。 8.しかし後の中国史官にとっては、同一王朝において国号を改めると言   うのは常識外の行動であり、充分な理解が出来なかった。 9.しかも日本使節は、唐においても倭奴国以来の中国册封体制を認めず、   これらを自国の歴史では無いと主張していた。(多自矜大不以實對) 10.そこで、「旧唐書」時代の史官は「通典」見解に疑問を感じ、詳細不   明ながらも「倭」と「日本」を別国と解釈してしまった。 11.その後宋代には中国国内も安定し、過去の諸資料も整備されると共に、   私的交易も盛んになったので、日本人からの情報も入るようになり、   「新唐書」では「通典」の見解に立ち戻った。 12.しかし、一部の史官は「旧唐書」の見解を固守したので、倭国一元論   ながら倭の国号改訂の理由として、日本国統合論を併記した。 概ね以上のとおりですが、如何でしょう? Time : 1999/ 6/21(月) 22:47:35
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : きんたろう様、前回は失礼いたしました Comments:  拙記事をうまく読んでいただきありがとうございました。 某球団の低迷とともに,気持ちも沈んで感傷的になってしまいました。 どうもすみません。こりないのですが、また感想を書かせてください。  「環境は人を作る」同感です。 全くナイーブな感想で,申し訳ありませんが, やはり日本人はお気楽で,外交・防衛はむかしから苦手なのも、 そのせいですね。  井沢先生も指摘されていますが,神話を見ても,日本では 親しみを抱くくらい、やさしい神で,天罰もそれほどではありませんが, 西洋の神は,一部族皆殺しぐらい平気ですし,異教徒に対しては 残虐であってもへとも思っていないようです。 いまだにその感覚で紛争が起こるのですから困ったものです。  見知らぬ人の出入りが激しくないというのは、たとえば犯罪にも 反映されるように思います。もはや、日本でもそんな平和な時代は オウムに象徴されるように、去ってしまったのでしょうが・・。 昔読んで,面白かった本に   高島俊男「中国の大盗賊」講談社現代新書 があり、中国史を盗賊という視点できったものです。 この方は水滸伝に関する著書などもあり,当時は大学の研究者だったのですが, 今は在野で文筆業を営んでいるようで,雑誌に載った記事を見たことがあります。 この本が何か問題になったせいではないかと邪推もしますが, 単にモノ書きで食えるとふんだだけかもしれません。 またあらぬ方向へ行きそうなので,ここまでといたします。 Time : 1999/ 6/22(火) 09:55:28
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 書紀に明記されていることなんですが、 「韓人、鞍造臣を殺しつ」の韓人は明らかに中大兄 を指しています。この時代の「韓人」は百済を指すと みて間違いありませんから、中大兄は百済人だと 書いてあることになります。 つまり天智王は百済を継ぐ資格を有する出自だった ということです。 Time : 1999/ 6/22(火) 10:22:14
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 当時の史書というのは、繰り返しになりますが、 自らの正統を証明するものです。正統を名乗れ なければ、王朝は成立できません。 百済の正統という「日本」の成立は、まがりなりにも 天智王により為されています。その天智王朝を 簒奪した天武王もまた「正統」であることが求められ ます。 そのために「奉禅」なども試みたと解釈できますが、 やはり天智王からの正統なのです。つまり、この 時点では、百済正統をひっくり返すことができません。 書紀の改竄、そして百済正統を否定し、万系一世を 宣言するためには、多くの時間(つまりは死人に口なし) と膨大な労力が必要だったと推測されます。 Time : 1999/ 6/22(火) 10:38:40
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 桓武天皇の時代には、既に万系一世が確立しています。 それまでに多くの史料の廃棄改竄も完了しており、 多少の遺漏(扶桑略記など)こそありましたが、この あたりの事情に通じた知識人も少数派となっていた ことでしょう。 このあたりは、万葉集などの成立とも関わっているか と思われます。 いずれにせよ、日本は正統を引き継ぐことを廃棄し、 このとき独自、独立の道を選んだということでしょう。 Time : 1999/ 6/22(火) 10:42:58
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのコメント Comments: 日本書紀の改竄目的は、繰り返しになりますが、 661年の革命の打ち消しにあります。従って、それ 以前の1320年の記述をそっくり付加したと考えられ ます。以後の記述に大差がないのは当然です。 これも繰り返しになりますが、小林恵子氏の議論は 決してトンデモではありません。諸賢が一読の上 判断していただきたく思います。 讖緯説の重要さは、書紀を一読すればどなたにも 分かります。「4本足の鶏」とか、「日食」とか、 訳の分からない記述が多数見つかると思いますが、 あれが讖緯説的な記述です。残念ながら、現代人の 私には解読できませんが。 それから辛酉になにかがおこるのではなくて、1320年 に意味があります。ついで、古代史を現代人の「常識」 で考えてはいけません。古代人の常識を推定する 必要があります。 Time : 1999/ 6/22(火) 11:06:28
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 隋書の記述をそのまま読めばよいのです。 倭王には姓(アメ)があり、王名はタリシホコ であり、オホキミと自称したということです。 この倭国を無理に書紀の記述に摺り合わせる 必要はありません。中国世界にとって最重要の 情報である王の姓がここにあり、書紀にはない のですから、両者の摺り合わせは徒労です。 むしろ、なぜ書紀が、この倭国の時代を記述し ていると思われる部分(推古紀)にあのように 記述したのか、その訳を考えるべきでしょう。 旧唐書の記述も重要なヒントになると思います。 Time : 1999/ 6/22(火) 11:17:59
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 旧唐書、新唐書も、無理な解釈などせず、そのまま 読めばよいのです。 つまり、倭国(連合)と日本は、当初はべつの国だった ということです。「別種」とは現代の感覚では別人種 あるいは別民族くらいの意味ですから、従来知られていた 倭国(連合)とはまったく別の連中だということです。 このあたりは、古田氏に基本的に同意です。 その日本が、旧唐書では倭国(連合)を併合し、 従来の倭国の後継国家として「日本」を国名とした と記し、新唐書では倭国が日本を併合して、その 国名を盗んだと記述しています。 そのまま書紀の記述に当てはめれば、倭国(=上宮 王家and/or天智王)は日本国(=天武王朝)に簒奪され 、倭国の後継という形で「日本」を国名とした。 その後、桓武天皇(倭国系)が天武朝(日本国系)を滅 ぼしたが、国名は「日本」のままとした。 逸年号問題なんかも、このように考えれば、疑問は 氷解しますよ。 Time : 1999/ 6/22(火) 11:35:35
Name : 輔住 E-mail : Title : ちょっとパニック Comments: Anonさん返信ありがとうございます。 しかし、なおさら訳が分かりません。 >簒奪した天武王もまた「正統」であることが求められ >ます。 「正統」であることと「百済」がどういう関係にあるのですか? この天武系全盛の頃に滅亡した国の正統を説く必要など 全くないと思います。 新羅と不仲ならともかく、むしろ友好的です。 >「韓人、鞍造臣を殺しつ」の韓人は明らかに中大兄 >を指しています。この時代の「韓人」は百済を指すと >みて間違いありませんから、中大兄は百済人だと >書いてあることになります。 申し訳ありませんがそれは「誤読」だと思います。 「書紀」によれば天智と天武は父母を同じくする兄弟です。 それなのに天智=百済人などと書くとは思えません。 (私は古文書のことは全くわかりませんが) Time : 1999/ 6/22(火) 12:15:52
Name : はてなマン E-mail : Title : 百済 Comments: Anonさんこんにちは。 百済の王統を継ぐということは、百済の権益を継ぐということに過ぎないのでは? 別に本当に百済の血をひき、百済王族と天智王朝が=で結ばれるという意味はないのではと思います。 王統の変換が行われたのなら、貴族たちの粛清も行われなくてはいけなくはないのですか? 称徳から桓武の間に上級貴族の入れ替えはなかったように思います。 渡来人の重用ということは行われていますが秦氏が中心だったと思います。 秦氏は中国の秦王朝にちなむ姓で、半島系でなく大陸系の渡来人だと思います。 輔住さんと同じくますます訳がわからなくなってきました。 Time : 1999/ 6/22(火) 12:31:48
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 当時の「常識」では、正統であることが、 国家に先立ちます。百済正統をもって 「日本国」を宣言したのですが、これを 否定した場合、いかなる正統も持ち得ない 状態=非存在ということになります。 そのような不合理(当時の)は考えられない ことです。このような不合理をパラダイムシフト して万世一系思想に辿り着くには、長い 努力が必要だたわけです。 「韓人」は添削漏れでしょうね。 Time : 1999/ 6/22(火) 12:44:24
Name : はてなマン E-mail : Title : 日本は島国 Comments: Anonさん、今までの所はAwajiさんの説に信憑性をつよく感じます。 唐書の新旧、隋書を虚心に読めとおっしゃいますが、それぞれの内部に矛盾を抱えている状態で一義的に読む事は不可能でしょう。 Awajiさんの示されたように何らかの解釈と推測なくしては「虚心に読む」という事自体不可能です。 虚心というふりをして解釈付けしているというのが小林氏らの説だと思います。 ただ、私には小林氏の説を読んでも「トンデモ」かどうか判断できる知識はないですが・・・。 Time : 1999/ 6/22(火) 12:48:25
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 「正統」という概念は権益とは直接関係ありません。 国家としての思想基盤です。 天智王が百済人だというのは、中国史書には 出てきません。つまり政治的には倭人と見なされて いるのでしょう。 しかし百済後継を宣言するには資格が必要です。 恐らく百済王族の出なのでしょう。もちろん、書紀に そんなことが書かれているはずもありませんが(前 回指摘の添削漏れはともかく)。 貴族達の粛正云々は、この時代の「貴族」を視点を 変えてみればよいと思います。 倭国というよりは倭国連合なのですが、多数の小国 の総称です。当時の「貴族」の正体は、そんな小国 郡の王族とその取り巻きのことです。一枚岩などではなく、 勝ち馬に乗るのですよ。壬申の乱を、そんな視点で 再構成すると、なんとなく当時の状況が見えてきますよ。 Time : 1999/ 6/22(火) 12:55:00
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Anonさんはじめまして。 Comments: いつも、ご意見を拝見させていただいております。 私は、天武以前の日本は、中央集権国家というより小国連合体だったのではないか? と疑っています。しかし、どうして大和朝廷が他の小国家群を従えることができ たのか?という事が説明できないのです。 小林先生の本は聖徳太子が騎馬民族(突厥)だったというのは読んだのですが、 賛同できる内容ではありませんでした。だいぶ前のことなので実際殆ど全く覚えて いません。 なぜ天智は、上宮王家と繋がりの深い蘇我氏を暗殺し、しかも暗殺を公言している のか?という事をかんがえると天智は上宮王家とは違う血統しかも赤の他人である という事も考えましたが、それだと他の小国家群をどうやって抑える事ができたの か?という疑問がより一層強くなります。 万世一系が天武の頃から確立されたといっても、倭の国内において血統や祭祀上の 連続性がないと再び王統が切り替わることは可能で桓武の即位がそれを証明してい ると思います。では、何故桓武は百済正統を再び公言できなかったのかという理由 は、時代が下って壬申の乱の真実をしる知識人が少なくなったからなどという理由 では、到底納得のいく話ではありません。 確かに古代天皇の系譜は、王朝交代説などもあり、まるっきり信用できるものでは ないかもしれませんが、血統を改竄するということまではできないと考えています。 神聖なる血統自体を改竄して王の座につくというようなことが、古代とはいえ、い や、古代だからこそできないと考えています。 天智がそれほど百済正統にこだわったというなら、その血統により即位した桓武は 百済正統を無視して、天武改竄による記紀をさのままにしておくわけがないと思い ます。 日本紀にしても日本書にしても、旧事本紀にしても血統の改竄はなかったと思いま す。古代においては、血統こそが王の証だと思うからです。 だからこそ、蘇我氏も藤原氏もとってかわる事を憚ったのではないでしょうか? Time : 1999/ 6/22(火) 14:49:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 「外交」と「正統」 Comments: Anonさん、返事ありがとうございます。 天智が親百済だったのは事実です。 (だからといって百済の正統をそこまで主張したかは疑問ですが) しかし、仮にそうでも、 「外交」と「正統」というものは無関係ではないでしょうか? それを一遍にまとめようとしても無理があると思います。 天智の頃と史書を編纂した頃とでは外国の事情、 外交路線は全く異なります。 「外交」が異なる=非正統というのはおかしいと思います。 Time : 1999/ 6/22(火) 15:01:44
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 大阪JF生さん、ちょっと待って Comments: 一神教は日本ではかなり歪められて伝わっていると思います。 西欧のキリスト教には確かに残忍な面もありましたが、 ユダヤ教、イスラム教は少なくとも、 出エジプトやヨシュア記に見られる面を克服してきました。 それはイザヤ、ミカ、アモス、エレミア等の預言者に見られます。 申命記もそうです。 ユダヤ人は世界で初めて社会福祉制度を作った民族です。 ムスリムが親切で寛大なのは猿岩石の例の旅行でも分かります。 原理主義は決して多数派ではないことは覚えておいて下さい。 Time : 1999/ 6/22(火) 15:23:41
Name : きんたろう E-mail : Title : またよろしくお願いします Comments: 大阪JF生さん、こんばんは。 ありがとうございました。 Time : 1999/ 6/22(火) 22:49:08
Name : Anon E-mail : Title : 勇者ロトさんへのres Comments: 大和朝廷(というより上宮王家)の権威の根拠は まさに中国です。随のお墨付きで倭国連合を従えた のです。 しかし、随は 鮮卑系であり、周辺国にとってはその 「正統」には納得できないものがあり、それが例えば 百済の造反を生むのです。 天智と天武は、少なくとも系図通りの関係ではあり得 ません(これは井沢説でも同様です)。また新旧唐書 の記述は、王統の交代を明確に記しています。つまり、 書紀の描く血統を疑うに十分な根拠があるのです。 というか、書紀の描く血統は信じない方がいろいろ 都合がよいのです。上宮王家の滅亡の謎も、より一般的 (つまりはグローバルスタンダード?)に理解できます。 水野裕ら以来の王朝交代説は、いかにも津田史観らしく 書紀を批判しているように見えて、実はどっぷり書紀史観 です。書紀の描く古代史をいったん離れて、当時の国際 情勢から古代史像を描き直すと、意外に見通しの良い 日本の古代史が見えてくると思います。 Time : 1999/ 6/23(水) 07:33:02
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 「正統」というのは、現代風に言い換えれば、まさに 「外交」にもなります。このあたりは朝貢貿易の誤解 も含めて、多くの日本史研究家の欠陥というか、 外交音痴(現代日本もまた同様ですが)とでもいうべき 状況があると思います。 繰り返しになりますが、「正統」とは中華世界を 成立させている思想です。その特異性は、中華世界 の外部を想定していないことです。つまり「正統」 でない国家概念が存在しない(考えないと言うことで はなくて無ということです)のです。 当時の東アジアに、この「正統」思想を覆すような 対抗思想は存在しません。従って、日本国を成立させ るためには、まさにこの「正統」が必要なのです。 さて、随王朝は 鮮卑系であり、その「正統」を疑うことは 可能でした。そのあたりの雰囲気が、倭国の国書(日出 る処の天使)によく現れています。 そんな思想闘争の中で揺れ動いたのが韓半島の人々 です。彼らは、随王朝を築いた鮮卑系に較べ、より漢 民族に近い血筋です。自身の「正統」を意識するように なり、百済となった人々は造反を選び、新羅となった 人々は恭順を選択します。 このとき、正統思想は新たなだんかいにはいることに なります。つまりは正統の分裂です。この思想的背景 には、三国時代があったでしょう。 日本国の成立には、そんな中華世界、そして世界情勢 、国家思想の変遷が背景として存在します。 Time : 1999/ 6/23(水) 07:49:34
Name : 輔住 E-mail : Title : かなりパニック Comments: Anonさん、返信ありがとうございます。 どうも私とAnonさんの「正統」のイメージにかなりずれがあるようです。 >繰り返しになりますが、「正統」とは中華世界を >成立させている思想です。その特異性は、中華世界 >の外部を想定していないことです。つまり「正統」 >でない国家概念が存在しない(考えないと言うことで >はなくて無ということです)のです。 ここの意味は全くわかりません。もう少し分かりやすいように 説明してもらえるとありがたいです。 それに私は世界情勢が変れば外交が変わってもおかしくないと いっているだけなのですが。 Time : 1999/ 6/23(水) 08:28:30
Name : はてなマン E-mail : Title : Anonさん、勇者ロトさん、割り込みすみません。 Comments: >書紀の描く血統は信じない方がいろいろ都合がよ >いのです。 という意見には何の科学的根拠もなく小説のネタにしかならないと思います。 むちゃくちゃな言い分だと思います。 Time : 1999/ 6/23(水) 09:31:28
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ Comments:  はじめまして。いつも専門的なご意見ありがとうございます。 すこしわれわれ素人には説明不足でわかりづらいところがあり, いろいろな方から質問の攻勢を受けて大変だと思いますが、 これからもよろしくお願いします。  小生は,小林女史を支持はしていませんが, トンデモとも思っていません。その点が,以前登場されていた KANAK様という方と意見が大きく違っていました。  天智を「韓人」と表現してあると聞いて驚きました。 輔住様は誤読と断定しておられますが,調べたところ, 日本書紀の大化の改新645年(皇極4年6月12日)の記事に、確かに  古人大兄が「韓人が鞍作臣(入鹿のこと)を殺した。われも心痛む」 といってふさいだと,(うじ谷氏の訳本に)載っていました。 そこで質問なのですが,韓人は、当然、中大兄とも解釈できますが, その前に,佐伯連子麻呂・稚犬養連網田が入鹿にとどめをさしたという ように記述があり,この2人と解釈する可能性は無いのでしょうか? もちろん主犯が中大兄であることは明らかなのですが・・。 よろしくご教示お願い申し上げます。 Time : 1999/ 6/23(水) 09:39:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「小国連合」?? Comments: 勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 正統論??・・・一種の朱子学的観念論なのですかね? Awajiには異次元のオハナシですが、ご苦労をお掛けしています。<(_ _)>ペコ ところで・・・ >>私は、天武以前の日本は、中央集権国家というより小国連合体だったの >>ではないか?と疑っています。 確か「磐井の乱」についても、磐井王朝的な発言を提示しておられた様に 思います(ですね?)。(・・?) Awajiも、これを全面的に否定するつもりは、無いのですが、この場合の 「小国」とか「王朝」とかの概念を、もう少し明確にしておいた方が良い のではないかと思うのです。 例えば徳川幕藩体制は島津藩等の「小国王朝」による小国連合体と呼ぶべ きでしょうか? この時代の藩は、外交を除いて、ほぼ完全な自治権(軍事・徴税・裁判・ 通貨)を有しており、世界史的には「地方国・地方王朝」だと思います。 しかし册封・軍役と言う形で、中央政府の支配を受け、理論的には国替え ・取り潰しもありうるのですから、法制的には独立国ではありませんね。 仮に「島津王朝」と呼ぶならば、当然「磐井王朝」と言う事が出来るでし ょうが?(チョット乱暴な例えではありますが・・・・) 同様に北条、足利、織豊各体制における諸大名は・・・・ 奥州藤原は一時は非常に独立性が高かったのですが、これは王朝と呼ぶべ きものなのでしょうか?足利関東管領(公方)はどうでしょうか? これは神聖ローマ帝国や中世の英・仏(公侯伯領)と比べればどのような レベルと考えれば良いのでしょうか? Awajiは応神以降・・・天智までの倭国においては、時代により強弱の変 化はあるものの徳川幕藩体制よりも、むしろはるかに中央集権的なレベル の国家体制をとった小国連合体?(南九州・東北・その他山間部を除く) だったと思うのです。(寧ろ豪族連合体と言うべきかも知れませんが?) 既に3世紀邪馬台国時代には、傘下諸国に監督官を置くレベルの連合王国 だったと思いますし、4世紀(仲哀・神功・応神と想定しています)には 海外に出兵して高句麗と韓半島において覇権を争い、5・6世紀を通じ半 島に政治・軍事介入を続けた国です。 7世紀には(隋の認識でも)新羅・百済に比し大国と見られ、隋と対等外 交(天子並立)を主張し、さらに国外で超大国唐に挑戦した国家ですね。 (広開土王碑文、三国史記、魏志、宋書、隋書) ・・・高句麗も隋・唐と戦っていますが、これは単に防衛戦であり、倭国 の百済救援戦争とは性格が異なると思います。 さらに半島において唐・新羅連合に惨敗しても、なお新羅に対し優位を保 ち、唐に対しても直接関東(畿内よりも直轄的地域だったかも知れません が)の正丁を徴兵して九州の防衛最前線に送り、西国の重要拠点には強力 な防衛要塞(山城)を築き、完璧な防衛体制を保ち得た国家だと理解して います。 (結局は宋代の武王の後は、中華册封体制の枠外であり続けましたね。) ロトさんは、この様な統治・軍事体制を持った国家(例えば欽明〜天智時 代)を、どのレベルの小国連合体とお考えでしょうか? それとも国家形成期と封建体制期をこういった形で比較すること自体が無 意味なのでしょうか? 今日から出張で暫くアクセス出来ませんが、一度ご意見をお聞かせ頂けれ ば幸いです。  <(_ _)>ペコ Time : 1999/ 6/23(水) 09:56:20
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 安部様、お忙しそうですね Comments:  お久しぶりに意見をいただき,ありがとうございます。 ただ、小生にはわかりづらい例示でした。 (猿岩石の名前と顔ぐらいは知っているのですが・・)  小生の乏しい経験からも、個人的には彼ら異教徒もいいひとばかりです。 ずっと前に,ユダヤ人の学者数名と食事しながら話をする機会がありました。 (もちろん、日本人も小生一人ではありません。) 余談ながら、彼らの母国語は母音が無く,日本人と正反対の「なまり」で、 英語のヒヤリングがもともと弱いのに,非常に苦労しました。 さらに余談ですが,このことを思い出すたびに連想することがあります。 中学のときに友人たちと英検を受験しにいったときの思いでです。 聞きなおすときの常套句を教えられ,友人の一人は非常にそれを気に入って 何度も練習していました。それで、スピーキングのテストでもそれを連発し,   You say, "I beg your pardon ?", too many times ! と試験官に注意されて落っこちてしまいました。 (もちろん次回のテストで友人は軽く合格しましたが。) で、ユダヤ人学者との対応では、意図的でなく全くその状態だったのですが, どうにか意見を理解することは出来ました。それでわかったことは, 彼らはそろいもそろって,おそろしく頭の回転が速く,こちらが たどたどしく質問しても,その意図を即座に理解し,適切な例を挙げて (こちらのそれぞれのレベルに合わせて)心憎いほど的確な説明を返してくるの でした。以後,小生はユダヤ人を畏敬の念を持って見るようになりました。 しかも、来日するくらいだから親日家かもしれませんが, 自らの信条・宗教などおくびにも出さずに,日本のやりかたに溶け込んで, そのうえ意見は鋭く客観的に述べるのですから,仰天しました。  おそらく、個人的にはそういう人たちも多くいるでしょう。 しかし(不特定)多数の集団としての行動を見るとき,心の奥にある自らの信条が やはり大きな影響を与えているように思うのですが,いかがでしょうか? Time : 1999/ 6/23(水) 10:07:56
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 中華世界の概念には、「外」がないのです。 天子の居ます正統王朝が世界の中心にあり、 そこから離れるにつれて文明度(中華度)が 減少し、最果ての地(夷戎蛮狄)で中華度は ゼロとなります。 しかし、その外はないのです。そこから先は どこまで行っても夷戎蛮狄が続きます。世界の 総てが中華世界の内部世界です。化外という 言葉がありますが、これは王権が及ばないと言う ことであって、中華世界の外という意味ではありません。 正統というのは、そんな世界のただ一つ中心を 決定する法則のことであり、そんなただ一つの 姓が世界の唯一の支配者である、そういう思想 なのです。 この思想は当時の東アジアの、いわば「常識」 でした。しかし、三国時代から隋成立に至る過程 で、この確信が大きく揺らぎます。 それまでは中華世界の一部であった、例えば三韓や 倭といった地帯は、隋の正統を承認(=朝貢)するか、 それとも別の正統(例えば百済)を主張して隋王朝 を否定するかの選択を迫られることになるのです。 それまで(隋成立まで)の倭とは、化外の地ではある けれども中国世界の内部にあるということも重要な 視点です。鳥越憲三郎氏が既に明らかにしていますが、 倭人とは野蛮化(東夷化)した中国人なんです。三韓 も同様です。 Time : 1999/ 6/23(水) 11:19:36
Name : ina E-mail : Title : 安部さんこんにちは 大阪JF生さんこんにちは Comments:  お忙しそうですね。  毎回インパクトのある書きこみを楽しみにしています。私としては、最近安部さ んの書きこみが少なくて残念です。ユダヤ人といえば、私の周りはユダヤ人だらけ ですが、個人としての印象は、例えば、ソ連へはじめて行った時のロシア人の印象と、 日本人一般のソ連に対する印象と同じく全く異なるように思います。  大阪さんは、良い例、を上げられましたが、私は必ずしも良い経験ばかりはして おらず、そう言った、個人的な人格は総括的議論では余意味が無いような気もします。 (すみません。突っ込んでる積もりではないのですが、、、。)  ところで、安部さん、ユダヤの福祉制度というのは何をさしてるのか、教えて 頂けますでしょうか。  あと、秋篠の続き、是非よろしく。 Time : 1999/ 6/23(水) 11:20:28
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: そもそも歴史学は科学ではありません。 科学とは「検証可能な仮説体系」と定義されますが、 既に過去となってしまった歴史を改めて検証する ことは不可能です。 例えば古代史を論ずるのであれば、何らかの視点 を宣言(つまり史観)して、それを元に歴史的事実と されるものの因果関係を内部矛盾のないよう設定す ることになります。 私は中国王朝の動きと、周辺諸国と連動しつつ、その 内部から外部へとシフトしていく日本という国という 視点(東アジア相対史観とでも名付けましょうか)を とります。 この史観からは、書紀の記述には明白な虚偽が多く 含まれます。大風呂敷を広げるまでもなく、中国史書 の記述とつき合わせるだけで、書紀の異常さは明白 です。 つまり、書紀の描く血統の少なからぬものが虚偽で あるとすることは可能なのです。 Time : 1999/ 6/23(水) 11:29:13
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 井沢氏のことだま説を引き合いにする必要も ないかとは思いますが、誰が殺人の意志を 持ったか、誰が命じたか(ことあげしたか)こそが 重要であり、下手人など誰でも良いのです。 当時は現代とはまったく質の異なった身分社会 であり、古人大兄がこのような場合に発する人名は 高貴のものに限られます。高貴の人物は高貴の 人物のみによって殺される、それが当時の「常識」 です。下手人が誰であれです。 Time : 1999/ 6/23(水) 11:34:55
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのコメント Comments: 魏志東夷伝の記述は、真に受けない方が よろしいかと思います。このあたりは岡田 英弘氏の詳細な研究があり、倭人条などは ほとんど架空に近いものです。 広開土王碑文には大幅な誇張(露布は10倍 が当時の常識)があるうえ、この倭人が日本列島 から渡ってきたとする記述はありません(渡海は 海から攻めてきたという意味)。後の日本建国との 関係はあるでしょうが、そもそもこの倭冦は日本 以前の歴史空間です。 「倭の5王」は河内王朝と関係があるかもしれ ませんが、書紀の記す誰かに比定するという 作業は徒労でしょう。 Time : 1999/ 6/23(水) 11:49:36
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へのお願い Comments:  早速お返事いただきありがとうございました。 小生の質問の件に関しては納得いたしました。 ただ、ほかの人へのレスに割り込むのは気が引けますが, このHPで長く議論してきた立場から,一言申し上げます。 >例えば古代史を論ずるのであれば、何らかの視点を宣言(つまり史観)して、 >それを元に歴史的事実とされるものの因果関係を内部矛盾のないよう >設定することになります。 小生はその通りだと思いますが,大多数の方はそう思っていらっしゃいません。 先ほど挙げたKANAK様と、その方向でずいぶんしつこく議論しましたが,      「あらゆる史観を排除して歴史を見たい」 といって譲りませんでした。そのときこの点ではどなたの援護も無かったと 思いますので,小生以外の方は反対ではなかったのかもしれません。 つまり、丹念に史料を検討し,いわばフィールドワークのように, 少しずつでも「真実」に接近したいと、努力を重ねておられるのです。 それを,方法論が異なるからやり直すべきだとおっしゃるのは無理があります。 結局,お互いに立場を認め合うしかないのではないでしょうか? そのときに,小生に対するお答えのように >古人大兄がこのような場合に発する人名は高貴のものに限られます。 >高貴の人物は高貴の人物のみによって殺される、それが当時の「常識」です。 というご意見を史料の裏付け(例で結構です)なしに主張されると, 多くの方は納得なさらないでしょう。この件については本人が納得しましたので 良いのですが,ほかの質問者の方々にとっては,説明(検証)不足と 取られると思います。それから、個人的には >そもそも歴史学は科学ではありません。 >科学とは「検証可能な仮説体系」と定義されますが・・・ というご意見には異論があります。小生は本家「科学」ですら、 仮説の集合体だと思っていますから,基本的に社会科学と ことさら区別したいとは思っていません。 ブラックホールやビッグバンやスーパーストリングなど、 どのように検証されるのでしょう?検証そのものが,やはり, 「史観」に相当する「理論」内のローカルな行為に過ぎません。  後半部分はあくまで個人的な意見ですので無視されても良いと思いますが, 前半部分は十分考慮いただきたく存じます。 あくまでも、実りある議論に向けての苦言と受け止めてください。 Time : 1999/ 6/23(水) 12:09:43
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ Comments: Anonさん、返信ありがとうございます。 >倭といった地帯は、隋の正統を承認(=朝貢)するか、 >それとも別の正統(例えば百済)を主張して隋王朝 >を否定するかの選択を迫られることになるのです。 つまりこの場合、「正統」=「宗主国」 Anonさんの説は ”天智は「百済」を「宗主国」とした”と解釈してよろしいのでしょうか? 仮にそうだとしても「百済」は滅び、日本は白村江で敗れました。 その時点でその「正統」は無効だと思いませんか? 天智や天武にとってもそれ以後他国との対応は重要な問題です。 百済滅亡後、新しい道を歩むのは当然です。 Time : 1999/ 6/23(水) 12:17:57
Name : はてなマン E-mail : Title : Anonさんへ Comments: 返信ありがとうございます。 つまりは、中華思想(史書)を絶対視することによって古代史を組み立てようと言うことでいいのでしょうか? 両者が矛盾した場合中国の史書が正しいと言うことですね? Time : 1999/ 6/23(水) 12:22:28
Name :E-mail : den10755@epdc.co.jp Title : 初めまして Comments: 先生の著作はかなり目を通しております。 特に「逆説シリーズ」に始まる、古代から続く日本人の感覚「穢れ」等は 目から鱗!!の発見でした。 それ以来、友人には先生の著作を布教しております。 これからもお体に気をつけて、お仕事がんばって下さい。 Time : 1999/ 6/23(水) 13:42:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : あと28人で30,000アクセス! Comments: ユダヤ人はすでに紀元前6世紀後rに、 神の部族神つまりユダヤ人をえこひいきする神という次元を抜け出して、 慈悲と倫理を選ばれた民族であるユダヤ人に課する神としました。 敵を人間の都合で殺し尽くす神という性格はその時点でなくなっています。 預言者は、そういった神を伝えました。 確かにバビロニアもアッシリアもいずれ神が滅ぼしてくれるとは言いましたが、 人間の残虐行為を正当化するのとは違います。 私は仏教徒なのですが、「聖書」はぜひ日本人全員に読んで欲しい。 Time : 1999/ 6/23(水) 13:45:55
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 史観を排除した歴史というのは存在しません。 というか、歴史は実在物(例えば物理的存在) ではなく、共同幻想に属します。より具体的には 、例えば世界史は人類意識の共同幻想と等値 です。立場の問題ではありません。 ブラックホールやビッグバンは検証可能な形で 理論が形成されています。完全な検証はまだ 実現しませんが、部分的、あるいは局所的検証 は実現しており、その結果は理論の正しさを 示唆しています。 「検証可能性」こそが科学の本質なんです(クー ン等参照)。 Time : 1999/ 6/23(水) 15:23:22
Name : Anon E-mail : Title : 輔住 Comments: 「宗主国」ではありません。この時点での三韓 なり日本(倭)なりは、現代の私たちが思い浮か べるような国家ではありません。 隋を正統と認める認めないというとき、日本(倭) なりは、その世界(中国正統世界)に参加して いるのであり、その外部という概念がないのです。 百済の正統と言うとき、その意味するところは、 隋ではなくて百済が中国正統だ、ということです。 しかし、百済が滅びたため、結果的に「正統」のもって 行き場がなくなり、そのとき初めて外部(中国世界の 外の「正統」)という概念が産まれてきます。 Time : 1999/ 6/23(水) 15:30:04
Name : はてなマン E-mail : Title : Anonさんへ Comments: つまり、国家の正統という概念は「中華」にしか、あるいは「中華を指す場合」にしか有り得ない。 という事なのでしょうか? Time : 1999/ 6/23(水) 15:35:09
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 中国史書はその性格上、読み方を 間違えなければ、かなり信憑性があります。 少なくとも書紀よりは信憑性があります。 その中国史書によって、当時の東アジア情勢は ある程度の確からしさで理解可能です。 後の日本もそんな東アジアの一地域であり、 東アジアの歴史の流れと無縁ではありません(と いうより大いに影響を受けています)。 そのような東アジアの歴史の流れを、書紀は あたかも無視する、あるいは曲解するように 記述されています。 逆に、そこに書紀の成立背景、成立理由を読み解く 鍵があります。 繰り返しになりますが、書紀は日本王権の正当 性を主張したものですが、そこには中国正統と 袂を分かつ強い意志が働いています。そして、 そんな思想運動は北方遊牧民族の動きと 見事に連動しています。 Time : 1999/ 6/23(水) 15:38:43
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 中華にしかあり得ないのではなくて、中華世界 という概念しかないのです。当時の人々の世界 認識には、中華世界の外部という概念がない のです。現代人の認識とは根本的に異なって います(といいつつ、現代中国には、まだこの考 え方が生き残っていますが) この正統概念は別に民族とか人種とかを規定 するものではありません。従って中華世界を 構成する諸集団が納得すればなんですが、 例えば倭国が正統にだってなり得ます。 実際、後になりますが秀吉の朝鮮出兵の思想的 背景にこれがあります。 Time : 1999/ 6/23(水) 15:46:17
Name : はてなマン E-mail : Title : Anonさんへ Comments: >当時の人々の世界認識には、中華世界の外部とい >う概念がないのです。 何度もすいません。 どうして、それが言い切れるのですか? Time : 1999/ 6/23(水) 17:01:14
Name : kaz E-mail : Title : 崇峻天皇暗殺と天皇家の断絶について Comments: 崇峻天皇暗殺について、思いついたことを一言 崇峻天皇が暗殺されたら、殺した蘇我家が王となるのが歴史の鉄則のはず! したがって、推古天皇は、全くの作り話で、実は大化の改新までは、蘇我大王家の時代であったのでは? 崇峻天皇家を鎮魂するために、法隆寺が建てられた(出雲大社と同じ)。ここで鎮魂をしていたのが、 山背大兄王とその一族(蘇我系の支流)。 これを、倒した蘇我入鹿は、前天皇家の祟りで滅んだ。。。? 尚、馬子、蝦夷、入鹿、という名前は、絶対に後世の権力者に変えられていると思います。当然苗字が 変わっている可能性もあると思いますが如何でしょう? Time : 1999/ 6/23(水) 22:48:42
Name : 游惟 E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Anonさん説の自己流解釈 Comments: 初めまして。游惟と申す者です。 Anonさんとはてなマンさんの議論が大分白熱してきたようですが、私なりにAnonさんのご意見を解釈 してみました。。 国家が国民(豪族であれ一般民衆であれ)を支配するには正当な根拠が必要であり、それは古代でも中世でも 現代でも同じです。 国民が時の政府(支配者)に従うのは、従うのが当然という何らかの理由に納得してのことであり、さもなけ れば実力のある者が支配者に取って代わってなんら差し支えないわけです。 実際サル山のボスザルは年老いて実力を失えば若いサルにその座を奪われます。サルの世界では実力こそが支 配の正当性の根拠であり、ボスの子供でも実力がなければその座を世襲することはできないのです。 人間の世界だって猿人から原人に至る時代ぐらいはサルと同じように支配者を決めていたでしょうが、新人 (現代人の直接の先祖)の時代に入ると、支配者の物理的な実力以外に観念体系を以て支配の正当性を裏付け、 支配−被支配関係の永続化をはかるようになりました。そうでないと人間社会にホッブズのいう「万人の万人 に対する闘争」が起こりますが、サルなら素手の喧嘩でけがするぐらいで済んでも、道具を使うようになった 人間の場合は殺し合いになり、人類そのものが滅亡してしまうからで、人間の種の保存本能とでもいうべきでしょう。 M.ウェーバーはその支配の類型として、カリスマ的支配・伝統的支配・合法的支配という三類型をあげています。 カリスマ的支配というのは、神や精霊や祖霊やマナといった超自然的存在から与えられた力(カリスマ)が支配者 に宿っているという神話的説明を以て、支配の正当性を被支配者に納得させる形態です。特にジンギスカンのよう な英雄が現れ実力を以て国家統一をしたような場合、このような説明がよく為されます。(ジンギスカンは蒙古民 族の神、青き狼の種を宿した子ということになっています) ただ、カリスマ的支配の弱点はそのカリスマの担い手である初代支配者が死んでしまえばそれで終わりになってし まうことで、故に二代目以降の支配者はその初代のカリスマを継承した者であるとして支配の正当性が説明されま す。これが伝統的支配であり、多くの場合初代支配者の血縁者が後継に選ばれます。 徳川幕府の正当性も、徳川家康は実は乱世を収めるために仮の姿でこの世に現れた神(東照大権現)であり、その カリスマを継承した子孫が天下を治める、という形で説明されています。(それに加え、皇室から官位を与えられ ることで合法性も加味しています) さて問題の古代日本及び東アジアはどうであったかというと、儒教思想に発する「天命」という「カリスマ」を受 けた皇帝が世界(当時の交通手段による限界で東アジアに限られますが)を支配するのが正当という観念が中国・ 朝鮮・日本に広まっており、皇帝の配下にある「王」は「皇帝」から柵封されることによりそのカリスマを分けて もらって支配の正当性を主張するのが一般的でした。 ただ問題なのは、中国においていくつかの王朝が併存する場合誰が「天命」というカリスマを受けた正当な皇帝か ということです。倭の五王が北朝でなく南朝に使者を送って柵封を求めたのは南朝が「正統」だと認めていたからです。 さらに「天命」は儒教に同化しそれを体現する能力を持つ者なら漢民族でなく異民族に下ってもかまわず、また当 該の皇帝が今日の地理的な意味での中国内にいなくてもかまわないのです(世界中が中国なのだから)。秦・漢の ように化内の地(?)殆どを支配している王が「天命」を持つ皇帝であると主張するならともかく、鮮卑族の北魏 王ごとき者でも皇帝だと主張できるなら、朝鮮族(だったかどうかはわかりませんが)の百済王が「天命」を帯す る皇帝だと主張してかまわないわけです。 そして三国時代以後の中国を見ればどの王朝もとても「天命」を帯し、その理想を実現するものとは思えない。故 により儒教の理想を体現していると確信した百済王が自分こそが「天命」を帯する皇帝であると主張しはじめ、天 智天皇もそれを正統と認め、百済「皇帝」のカリスマを分けてもらって倭国正当性の根拠としようとした・・・・・ ところが当の百済が滅びてしまったため、天武は皇帝のカリスマを分けてもらって支配の正当性を主張するのをや め、神話を捏造することで別の源泉に発するカリスマを以て支配の正当性を主張するようになった・・・・・ 私はAnonさんの主張をこのように理解しましたが、いかがでしょうか。 但し、Anonさんの説が正しいかどうかを判断する能力はありませんが。 Time : 1999/ 6/23(水) 23:01:33
Name : 游惟 E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Anonさん説の自己流解釈 Comments: 初めまして。游惟と申す者です。 Anonさんとはてなマンさんの議論が大分白熱してきたようですが、私な りにAnonさんのご意見を解釈してみました。 国家が国民(豪族であれ一般民衆であれ)を支配するには正当な根拠が必要 であり、それは古代でも中世でも現代でも同じです。 国民が時の政府(支配者)に従うのは、従うのが当然という何らかの理由に 納得してのことであり、さもなければ実力のある者が支配者に取って代わっ てなんら差し支えないわけです。 実際サル山のボスザルは年老いて実力を失えば若いサルにその座を奪われま す。サルの世界では実力こそが支配の正当性の根拠であり、ボスの子供でも 実力がなければその座を世襲することはできないのです。 人間の世界だって猿人から原人に至る時代ぐらいはサルと同じように支配者 を決めていたでしょうが、新人(現代人の直接の先祖)の時代に入ると、支 配者の物理的な実力以外に観念体系を以て支配の正当性を裏付け、支配−被 支配関係の永続化をはかるようになりました。そうでないと人間社会にホッ ブズのいう「万人の万人に対する闘争」が起こりますが、サルなら素手の喧 嘩でけがするぐらいで済んでも、道具を使うようになった人間の場合は殺し 合いになり、人類そのものが滅亡してしまうからで、人間の種の保存本能と でもいうべきでしょう。 M.ウェーバーはその支配の類型として、カリスマ的支配・伝統的支配・合 法的支配という三類型をあげています。 カリスマ的支配というのは、神や精霊や祖霊やマナといった超自然的存在か ら与えられた力(カリスマ)が支配者に宿っているという神話的説明を以て 、支配の正当性を被支配者に納得させる形態です。特にジンギスカンのよう な英雄が現れ実力を以て国家統一をしたような場合、このような説明がよく 為されます。(ジンギスカンは蒙古民族の神、青き狼の種を宿した子という ことになっています) ただ、カリスマ的支配の弱点はそのカリスマの担い手である初代支配者が死 んでしまえばそれで終わりになってしまうことで、故に二代目以降の支配者 はその初代のカリスマを継承した者であるとして支配の正当性が説明されま す。これが伝統的支配であり、多くの場合初代支配者の血縁者が後継に選ば れます。 徳川幕府の正当性も、徳川家康は実は乱世を収めるために仮の姿でこの世に 現れた神(東照大権現)であり、そのカリスマを継承した子孫が天下を治め る、という形で説明されています。(それに加え、皇室から官位を与えられ ることで合法性も加味しています) さて問題の古代日本及び東アジアはどうであったかというと、儒教思想に発 する「天命」という「カリスマ」を受けた皇帝が世界(当時の交通手段によ る限界で東アジアに限られますが)を支配するのが正当という観念が中国・ 朝鮮・日本に広まっており、皇帝の配下にある「王」は「皇帝」から柵封さ れることによりそのカリスマを分けてもらって支配の正当性を主張するのが 一般的でした。 ただ問題なのは、中国においていくつかの王朝が併存する場合誰が「天命」 というカリスマを受けた正当な皇帝かということです。倭の五王が北朝でな く南朝に使者を送って柵封を求めたのは南朝が「正統」だと認めていたから です。 さらに「天命」は儒教に同化しそれを体現する能力を持つ者なら漢民族でな く異民族に下ってもかまわず、また当該の皇帝が今日の地理的な意味での中 国内にいなくてもかまわないのです(世界中が中国なのだから)。秦・漢の ように化内の地(?)殆どを支配している王が「天命」を持つ皇帝であると 主張するならともかく、鮮卑族の北魏王ごとき者でも皇帝だと主張できるな ら、朝鮮族(だったかどうかはわかりませんが)の百済王が「天命」を帯す る皇帝だと主張してかまわないわけです。 そして三国時代以後の中国を見ればどの王朝もとても「天命」を帯し、その 理想を実現するものとは思えない。故により儒教の理想を体現していると確 信した百済王が自分こそが「天命」を帯する皇帝であると主張しはじめ、天 智天皇もそれを正統と認め、百済「皇帝」のカリスマを分けてもらって倭国 正当性の根拠としようとした・・・・・ ところが当の百済が滅びてしまったため、天武は皇帝のカリスマを分けても らって支配の正当性を主張するのをやめ、神話を捏造することで別の源泉に 発するカリスマを以て支配の正当性を主張するようになった・・・・・ 私はAnonさんの主張をこのように理解しましたが、いかがでしょうか。 但し、Anonさんの説が正しいかどうかを判断する能力はありませんが。 自動改行機能がついてないのですね、この掲示板は。 内容は下と全く同じです。 Time : 1999/ 6/23(水) 23:07:45
Name : はてなマン E-mail : Title : 游惟さんへ Comments: はじめまして。おかげでAnonさんのいいたいことがわかってきたような気がします。 百済正統というのは、日本国王=天智=百済ではなく、天智天皇が百済王こそ天命をうけた天子であると考えていた、という事ですね? そして、天子である百済王から冊封をうけ、百済滅亡後は自らが百済王の後継者であるということを宣言したのが最初の日本紀に記されていたはずだ。 という事ですか? それを天武以下の朝廷が改竄して、現在残っている記紀を作成したという事ですね? 以上の事から、記紀は改竄されたもので信用のおける記述ではないとされたわけですね? なるほど、これならAnonさんが何がいいたかったのか理解はできます。 解りやすく説明、解釈していただいてありがとうございました。 どうも、Anonさんとは史観という大げさなものではないですが、基本的な解釈の時点で大きくずれていたようです。 話が噛み合わない理由がよくわかりました。 Time : 1999/ 6/24(木) 00:01:08
Name : 輔住 E-mail : Title : 游惟さんへ Comments: はてなマンさんと言いたい内容は同じです。 本当に助かりました。 Time : 1999/ 6/24(木) 08:22:10
Name : Anon E-mail : Title : 游惟さんへのres Comments: 私の稚拙な記述を整理していただき、ありがとうございます。 (天命思想は儒教なのか?みたいな些末な問題はありますが) 日本古代史のこのような理解もまた可能ではないか、その程度に 受け止めていただいて構いませんが、書紀の真偽を問うのではなく、 書紀の世界観からひとたび離れてみたら、どのように古代史が見えるか 例えば游惟さんの援用されたウェーバーであり、例えば経済人類学 であり、援用できる確立した学問体系が、いくつも存在します。 Time : 1999/ 6/24(木) 09:35:46
Name : ina E-mail : Title : 安部さんへ Comments: 「聖書」はぜひ日本人全員に読んで欲しい。 そうでしょうね。私は始めから読もうと二回トライしましたが、中断しました。 確か太宰の作品にマタイを読むのに二年かかったとか言う記載がありましたが。 Time : 1999/ 6/24(木) 09:48:09
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ Comments:  拙記事が全く役に立たず,残念です。 あまりちゃんと読んでいただけなかったようですね。  全く不正確なことをいわれるので,少々がっかりしますが, クーンは科学の本質が「検証(反証)可能性」にあることを 否定する立場です。残念ながら,おっしゃっているのは カール・ポパーの説のことでしょう。 もはやナイーブにポパーの説を支持している人はいません。 基本的には,クーンの説は間違っていないと思いますが, 乱暴に言うと,彼は単に科学の営みは,  「パラダイム内のルールにのっとったゲームに過ぎない」 といっているのです。Anon様も述べていますが,小生も最初から お断りしているように,検証はひとつのパラダイムというローカルな 範囲で可能であるに過ぎません。絶対的検証がないのなら, 違うパラダイムから見れば,「検証になっていない」とクレームがでて 当然なのです。 小生は無駄な軋轢を避けたいがゆえに,申し上げたのですが, >史観を排除した歴史というのは存在しません。というか、 >歴史は実在物(例えば物理的存在)ではなく、共同幻想に属します。 >より具体的には、例えば世界史は人類意識の共同幻想と等値です。 >立場の問題ではありません。 もひとつのパラダイムに過ぎません。違うパラダイムも存在すると 申し上げているのです。 (しかも小生はAnon様と類似のパラダイムに属しています。) このように固執される限り,限りなく質問を受けることになるでしょう。 「共約不可能性」もクーンの理論にあったはずですが・・・。 小生には早々と論争から撤退された、Awaji様の気持ちがわかります。 あえてそれに挑まれるというならば,何もいいませんが, 上記のように強く主張される限りは,Anon様の「史観」を 明確にされるのが,筋かと存じます(小生も伺いたいと思います)。  また不正確な記述は信用を落としますので,ご注意ください。 科学論争は小生は一通り眺めてきましたが,その結果クーンは テニュアを取りそこなったそうです。あれほど話題になった 説を出したのにもかかわらずです。 当時彼を批判したのは,両者とももはや故人となってしまいましたが, ポパーの弟子ラカトシュと、自由人ファイヤアーベントです。 上記のような枠組み設定は結局あまり意味を持たないことが 示されています。ちなみに小生の立場(史観も含めて)は正確には ファイヤアーベント的な知的(痴的?)アナキズムです。 Time : 1999/ 6/24(木) 09:54:34
Name : はてなマン E-mail : Title : 史書 Comments: みなさん、おはようございます。 Anonさんの投稿の意味が解り一段落です。 さて、中国史書の日本と倭国の併用は二つの国が日本列島にあったという事なのでしょうか? みなさんは、どうおもわれますか? Time : 1999/ 6/24(木) 10:02:24
Name : はてなマン E-mail : Title : 倭国と日本国 Comments: ちなみに私は、国号日本で、倭はあくまで日本列島を表す地域名だと思います。 二つの国が存在したのではなく、隋唐時代に倭国が日本と自ら号しため、史書の記述に、 混乱が生じた結果だと思ってます。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:02:18
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: このような議論になるとは想像しませんでしたが、 ではもう少し。 歴史意識が共同幻想であると言うとき、その「外部」 は措定できません。つまりそれは、選択可能なパラ ダイムではなく、自己存在の枠組みそのものです。 科学が「検証可能な仮説体系」であるということと、 「パラダイム内のルールにのっとったゲーム」は等値です。 科学は方法論であり、本質は問いません。ただ検証可能 性を保証するというルールの元にあります。 以上2つの議論の間には階層の違いがあります。科学という パラダイムは、歴史意識の下層構造です。 私の史観は既述の通り、人類意識=歴史意識です。 局所においては「東アジア相対史観」でしょうか。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:06:09
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ Comments:  残念ながら,おっしゃる意味は間違っていると思います。 要約すれば,Anon様の言い方では, パラダイムはひとつしか存在し得ません。 それと逆のことをクーンは述べているのです。 当初からAwaji様とのやり取りで気になっていたのですが, パラダイムがひとつのみという考えは,まさに中華思想そのものです。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:19:17
Name : 輔住 E-mail : Title : はてなマンさんへ Comments: >さて、中国史書の日本と倭国の併用は二つの国が日本列島にあったという事なのでしょうか? >二つの国が存在したのではなく、隋唐時代に倭国が日本と自ら号しため、史書の記述に、 >混乱が生じた結果だと思ってます。 私もそう思います。 特別な理由はありませんが、別の2つの国と仮定すると 「いつ一つになったのか」疑問がわきます。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:20:05
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様,承前 Comments:  あまりに一般論過ぎて,皆様が敬遠なさりそうですから, 個別の問題でお尋ねします。 たとえば,Anon様が >当時の人々の世界認識には、中華世界の外部とい>う概念がないのです。 とおっしゃるとき,聖徳太子の国書はどう位置付けるのでしょう? どうみても中華思想パラダイムと異なるパラダイムではないでしょうか? 人類意識からみて、上記の意見を言い切られるのは, 倭(あるいは小生も)人類と認められていないのでしょうか? Time : 1999/ 6/24(木) 12:48:51
Name : Anon E-mail : Title : 自己res Comments: といいつつ、もう少し突っ込んだことを 書いてしまおうかと・・・ 科学というパラダイムは交換可能でしょうが、 実際には等価交換可能な別パラダイムは 存在できないでしょう。 科学の発生の背景には近代自我があり、 そこでヒトは徹底的に追いつめられます。 「検証可能性」は究極のシェイプアップで しょうし、代替物があるとして、科学以上の 有効性は持ち得ないでしょう。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:51:02
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 等価交換は恐らくないでしょうが、等価でない パラダイムは存在し得ます。 例えばインド医学、例えば漢方医学、例えば ニューエイジ哲学・・・ ちょっと冗談めきますが、超能力には科学ほどの 有効性は期待できません。 Time : 1999/ 6/24(木) 12:57:07
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、拝復 Comments:  タイムラグの関係で,ずれることになるかもしれませんが, レスをいただいたので,一般論についての補足です。   >当時の人々の世界認識には、中華世界の外部という概念がないのです。 というご意見をパラフレーズすれば,  現代の人々の世界認識には、科学世界の外部という概念がない のです。このほうが、ずっと説得的だと思われます。 小生も含めて,ほとんどの人がこのパラダイム内に属しています。 当時の中国人が「中国以外はみな夷敵」というのと, われわれが、「科学以外に有効な方法はない」は大差の無い意見なのです。 したがって、その意見は客観性を持ち得ないというのが小生の意見であり, 歴史の見方です。 意見を説得力のあるものにするためには,個人のパラダイムを 大上段に一般論を押し付けるので無く,個別に有効性を示せば 良いのではないでしょうか? 井沢先生はそうなされていると思います。 Time : 1999/ 6/24(木) 13:16:02
Name : はてなマン E-mail : Title : 輔住さん、返信ありがとうございます。 Comments: 私には、当時の日本人々がすべて、Anonさんのおっしゃる概念を理解していたのかという方が疑問です。 確かに、外交・留学などで大陸との交渉を直接もっていた一部の人間はその概念の中に存在したでしょう。 地方勢力の中には大陸の常識と掛け離れた概念もあったと思います。 Time : 1999/ 6/24(木) 14:10:38
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 聖徳太子の国書は、隋の正統を暗に 疑っていますよ、ということです。倭国も 正統を主張し得るんだという脅しです。 この国書は突厥に由来しており、中国王朝 に揺さぶりをかける定石です。中国世界の 諸集団が、例えば隋の正統を承認しなくなれば 自動的に隋は滅びるのです。 もっともその後、倭国は外交政策を誤り、存亡の 危機にたたされるのですが。 Time : 1999/ 6/24(木) 14:16:39
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 歴史に客観性を求めることはできません。 現代という時間点に生きる存在が、そのとき そのときの意識によって歴史を引き受ける しかありません。 どの歴史パラダイムが有効か、なのではなくて、 その意識のあり方、現代人においては人類意識 (日本人としての意識でも可)と個の関係性の 一表現として、歴史が立ち現れるでしょう。 Time : 1999/ 6/24(木) 14:29:16
Name : はてなマン E-mail : Title : Anonさんへ(割り込みすみません) Comments: という事は、貴方のいう古代世界の概念(中華思想)というものさえ現代の物で、 当時の概念とは違うという事にもなるのですね。 「私はこう思います。」と宣言すればなんでも自己実現するという事でしょうか? Time : 1999/ 6/24(木) 14:41:30
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ Comments:  質問に答えていただきありがとうございます。でも >聖徳太子の国書は、隋の正統を暗に疑っていますよ という解釈はAnon様のパラダイム内における解決であって, 太子が中華思想は問題にしていなかったとも解釈可能なのです。 >この国書は突厥に由来しており という部分は説明(検証)不足です。根拠不明です。 >もっともその後、倭国は外交政策を誤り、存亡の危機にたたされるのですが。 これも恐らく,Anon様のパラダイム内の解釈であって, 何を持って「存亡の危機」とおっしゃっているのか不明です。 小生は本当の意味の「客観性」や「真実」は存在しえないと思いますが, その確度を高める努力をしないと学問あるいは研究として成立しないと思います。 はてなマン様が抱かれる疑問はもっともなもので、真摯に受け止める必要が 有ると思います。 >どの歴史パラダイムが有効か、なのではなくて、 >その意識のあり方、現代人においては人類意識(日本人としての意識でも可) >と個の関係性の一表現として、歴史が立ち現れるでしょう。 歴史パラダイムが複数存在することはお認めなのかどうか不明ですが, 意識のあり方・人類意識とこの関係性など多種多様で有って当然だと思います。 個人個人ですら異なってくるでしょう。  小生はKANAK様たちと立場も意見もずいぶん違っていましたが, 「どの史観も排除したい」といわれた意識の中には,下手に史観をたてると, 虚心坦懐にモノが見れなくなるので,それを極力押さえて, 歴史を考えていこうという立場(歴史パラダイム)と捉えています。 当然,人類や個を意識されていたと思いますし、そのように発言されていました。 その立場に立てば,おっしゃっていることが全く分からなくなってしまうのです。 最初にお断りしたように,小生はAnon様の説をトンデモ扱いしているのではなく, むしろ面白いと思っているからこそ,説明の方法の不適切だと感じられる部分を 申し上げているだけです。自らのパラダイムを一歩も出ないで説明なさると, どうしても、良く言えば独創的,悪く言えば独善的・トンデモに聞こえてしまうと いう意見です。もちろんそう思っているのが小生だけなら問題は有りません。 Time : 1999/ 6/24(木) 15:37:33
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 時間概念を議論して良いものかどうか 迷うところですが・・・ 時間が「流れている」という直感は正しいとも 誤っているとも言えないのです。ただ歴史という 概念範疇で時間を規定する場合、それは 現時点というピンポイントにスタックしたものを 恣意的に解きほぐすという表現にならざるを 得ません。 現代からレトロスペクティヴに振り返る過去 というあり方があるだけで、現代のもの、過去 のものという展開はできません。歴史というものの あり方がそのようになっているのです。 Time : 1999/ 6/24(木) 16:13:25
Name : 輔住 E-mail : Title : はてなマンさんへ Comments: はてなマンさん、返信ありがとうございます。。 >確かに、外交・留学などで大陸との交渉を直接もっていた一部の人間はその概念の中に存在したでしょう。 >地方勢力の中には大陸の常識と掛け離れた概念もあったと思います。 私もその意見に賛成です。 あと日本は中国(隋・唐)に対する考え方が3韓など陸続きの国とは異なっていたでしょう。 海が間にあるためか、中国が怒ったら攻めてくるということがあまり頭になかったのでしょう。 (白村江以前は) Time : 1999/ 6/24(木) 16:17:08
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 歴史パラダイムと史観は同一の概念です。 倭国の国書で「中華思想は問題にしなかった」 とする解釈は、まさに書紀の史観です。 「存亡の危機」は、上宮王家の滅亡と天智王の 政策の背景になります。これを蘇我氏の専横と 大化改新、近江遷都などとするのが書紀史観です。 説明の不適切との指摘は、謹んで承ります。 Time : 1999/ 6/24(木) 16:27:26
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのコメント Comments: 倭人というのは海洋民族です。海は最良の 交通手段であり、多数の中国人が往来していたと 推測できます。 白村江はそんな状況だからこそおこったのです。 海がどちらかというと障壁と認識されるようになったのは、 江戸時代以降のことです。 Time : 1999/ 6/24(木) 16:32:35
Name : はてなマン E-mail : Title : 海洋民族 Comments: 倭人が海洋民族を主流とした人民だった事は理解できます。 しかし、海洋民族の世界概念と大陸人のそれがどういう理由で同じと言えるのでしょうか? 倭人は天命思想を知ってはいたかもしれませんが血肉としてうけいれたとは思いにくいです。 Time : 1999/ 6/24(木) 17:01:58
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ Comments:  一定度ご理解いただきありがとうございます。 でも、使用されている用語の意味が少しずつ変わって いるようで,戸惑っています。 多少の用語のすれ違いは仕方ありませんが, 史観という存在そのものをどう捉えるかの 歴史パラダイムの話をしていたはずですが・・・  それはさておき、おそらく「書紀史観」にもとづいて おられるかたはほとんどいないと思います。 基本的に大本営発表なのですから,皆疑いは持っているでしょう。 >倭国の国書で「中華思想は問題にしなかった」とする解釈は、 >まさに書紀の史観です。 をどういう意味でおっしゃっているのか判断しかねますが, 小生は書紀はかなり怪しいと思っていますが, 太子は中華思想を問題にしなかったと思っています。 とすると、書紀史観とは・・・? 額面どおりにご意見を承れば,全く見当はずれの判断と いわざるを得ません。これは、Anon様のパラダイムにおける 解答なのではないですか? また、このような断定的なご意見の提示のされ方を小生は 問題にしているのですが・・・ Time : 1999/ 6/24(木) 17:07:42
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信&お願い Comments: Anonさん、コメントありがとうございます。 私は「航路」としての認識と「海軍」としての認識は 別物と考えています。事実。日本は近代以前は 外国との「海戦」は負けてばかりです。 また中国と白村江以前は戦っていません。 その点で認識が甘かったと思うのですが。 あとお願いなのですが、 >どの歴史パラダイムが有効か、なのではなくて、 >その意識のあり方、現代人においては人類意識 >(日本人としての意識でも可)と個の関係性の >一表現として、歴史が立ち現れるでしょう。 のようにどうも抽象的な言い方が多いように感じるのでので 私が理解するには時間が掛かりすぎます。 みなさんの返信を呼んでAnonさんのおしゃっていることが 理解できるというのが、私の現状です。 説明する時、簡単な具体例をいれていただくと助かります。 わがままなお願いだと思っていますがよろしくお願いします。 Time : 1999/ 6/24(木) 17:18:58
Name : 游惟 E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Anonさんと大阪JF生さん論争の自己流解釈 Comments: Anonさんと大阪JF生さんの議論が白熱してきたようですが、お二人 の議論をまた私なりに解釈させて頂きます。 史実を問題にする場合は別として(例えば蘇我入鹿を止めを刺したのは本 当は誰かといったこと)、解釈を目的とする歴史学は文化人類学に似てい ると思います。 文化人類学には主として二つの解釈方法があります。 @ 一つは対象とする社会の成員が、自分たちの行為体系にどのような意 味づけを与えているかなどということは無視して(参考にはしますが)、 客観的に彼らの行為体系を記述し、彼ら自身さえ気づいていない社会の構 造や機能を発見しようとする方法です。 例えていえば、箱庭の中の蟻の行動を大所高所から観察して、蟻自身が気 づいていない蟻社会の法則を発見しよう、というような方法です。 ラドクリフ=ブラウン、マリノフスキーなどのいわゆる「構造機能主義」 や、さらに徹底したレビ=ストロースの「構造主義」なんかがこれにあた るでしょう。 A もう一つは、逆に当該社会の成員が自分たちの行為にどのような意味 づけをしているか、その主観的意味から彼らの行為体系を記述し、それを 以て当該社会を理解しようという方法です。 例えていえば、自分が箱庭の中の蟻になりきって、蟻の気持ちで蟻社会を 理解しよう(そんなことできるはずもないですが、譬えです)というよう な方法です。 エバンス=プリチャードやクリフォード・ギアツなんかの方法が(どちら かといえば)こちらにあたるでしょう。 浅学非才の者はクーンだのポパーだのというのは全然わかりませんが、何 となくこの@とAのどっちの方法がいいかで揉めていらっしゃるような気 がします。どちらかというとAnonさんはAの方法を主張し、大阪JF 生さんは@の方法がいいと主張なさっているような気がしますが、時々で お二人の立場が入れ代わっているような気もするし・・・。 でも、どちらの方法がいいか二者択一ではなく、相互補完的なものだと思 います。 またこの論争の発端となったAnonさんの「そもそも歴史学は科学では ありません。科学とは「検証可能な仮説体系」と定義されますが、既に過 去となってしまった歴史を改めて検証することは不可能です。」という言 葉は「史実」を問題にする場合の事だと私は理解していますがどうでしょ う。 確かに、蘇我入鹿に止めを刺したのは本当はだれか、とか、関ヶ原の合戦 に集まった両軍の正確な数は、とか、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは本 当にあったか、などということは今日からでは検証しようがありません。 でも解釈というのであれば、社会学や人類学や経済学なんかも応用して科 学的に仮説を立て、それを近似的にせよ検証できるのではないでしょうか 。 全然ちがってたらごめんなさい。 Time : 1999/ 6/24(木) 17:55:36
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 古代の小国連合体について Comments: みなさん、こん@@は。Awajiさん、磐井の乱については意見を申し上げた事 がありませんので、その発言は別の方の意見です。 小国連合体についてなんですが、今の今まで幕藩体制との比較は思いもよりません でした。私が考えていたこの時代の小国連合体というのは、軍事、政治、経済の国 内のパワーバランスという側面を比較すれば、江戸期の幕藩体制に近いものではな いかと思っています。 幕藩体制との違いは、各地域勢力内の人事権や祭祀についてまで強制的な指導がで きていなかった事、交易や外国との民間交流?に制限を設けていなかった(もし くは制限できなかった)事などです。 改めて考えてみると、法律(成文法)が存在しなかったためで、小国連合体とい う表現はそぐわないかもしれません。 ただ国造などの各地の首長の相続や交代などの権限は朝廷にはなかったのでは ないかと思うため(地方豪族、弥生期の小国の王族をそのまま国造などに追認 した)小国連合体という言葉を使いました。 中央からの出向、地方からの出仕が多くなってきた飛鳥時代には相当強固な支配 を地方にも広げて行ったと思われますが、畿内から離れるほど朝廷の支配をうけ ているという意識は地方勢力の側にはなかったのではないでしょうか? 小国連合といっても、祭祀や軍事などの分野で西日本の朝廷の勢力圏内に全く違 う系統の王朝が存在したとまでは、思いかねています。 ただ、山陰の上淀廃寺などの飛鳥時代の遺跡から、朝廷とは関係のない外交を 各地の豪族は頻繁に行っていたとは思います。 これをもって地方王朝と呼べるか?は正直いってわかりません。 出雲王朝などの、弥生時代からの王権勢力の残存勢力は残ってはいたと思ってい ます。それらの勢力は飛鳥時代まで王権といえるほどの勢力は保ってなかったと 思っています。 十分な考察ではありませんので、感想程度の考えです。 Time : 1999/ 6/24(木) 23:41:33
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 游惟様へ、感想です Comments:  解説ありがとうございます。 実は,小生が游惟様の役割をするべきだと思っていましたが, 前回のご解説でみごとに多くの方に納得のいく説明をなさいました。 小生だったら,あのようにうまく出来なかったでしょう。 何度も宣言していますように小生の立場はAnon様に最も近いのです。  しかし、今回のご意見は少し違っています。 小生は「いろいろな立場を認めるべきで,史観をたてないものも 歴史パラダイムとして認めていきませんか?」という提案をしました。 したがって,個人的にはもちろんひとつの立場に立っていますが, いろいろな立場を擁護しているのです。それで,游惟様の分類でも 入れ替わったりしているのでしょう。  対して,Anon様は、ご指摘のように微妙に言葉をすり替えられて, 「いったいあなたの立場は?」という疑問を小生も抱くような発言をなされています。 それについては,直接Anon様へ質問したいと思います。  ところで,個人的には構造主義には反対の立場ですので,少し見立て違いを なされているようです。構造主義は構造の共通性を強調するあまり, 個別の事情について軽視する傾向があり,むしろAnon様がその立場でしょう。 したがいまして、小生には「同じ構造なのだから、日本でもこうなのだ」式の Anon様の議論の展開のなさり方には、反対しています。 それで、游惟様が挙げられた後者のアプローチですが,正直良く知りませんでした。 しかし、このように考えていることのほうが多いと思います。 もちろん「当事者が自分のことを最も理解していないのだ」という逆説的意見も 認めるのに吝かではありませんが,とりあえず,当事者の一人の感想です Time : 1999/ 6/25(金) 09:36:39
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 游惟様へ、すみません追加です Comments:  すみません,いい忘れていました。 小生が,本家科学でさえも、 「ある一定のルールにのっとったゲームのような」 営みであるというクーンの通常科学規定をあえて持ち出したのは, それがAnon様のパラダイムにおいて,説得的だと 思ったからです。(ただし,これと検証可能性と同一視 されるという暴挙をなさっていますが。) この立場に立つとき,ほとんどの現代の学問は、 構造的に同じでしょう。小生の言いたかったのは, それで、なぜことさら「科学」のみを特別視するのか? という反論なのでした。そういうことで、 >でも解釈というのであれば、社会学や人類学や経済学なんかも >応用して科学的に仮説を立て、それを近似的にせよ検証できる >のではないでしょうか。 とおっしゃるのはまさにその通りなのです。 それで、小生を構造主義者と勘違いなさったのですね? でも、拙記事を注意深くお読みいただければ, その立場に批判的な方の立場ですと書いたつもりでしたが・・・  多くの立場を認めないと、実り有る議論にはなりません。 たとえていえば,異種格闘技戦の難しさといったところでしょうか。 「寸止め」空手の選手と,タップによるギブアップまたは失神を持って 勝敗を決する実践格闘技の選手と、ルールのすりあわせを十分行わず 戦うようなものです:  空手家が相手の致命的なポイントに「寸止め」した瞬間,相手はわずかに ポイントをずらしたかと思うと同時にサブミッションを極めた・・。 寸止め空手家は「勝負は最初の一撃で決まったので,こちらの勝ち」 と主張し,相手は「攻撃を見切った上で,剣術でいう「後の先」を 取ったのだから,明らかにこちらの勝ち」と主張します。  お互いに自分のパラダイムから出なければ,勝負になりません。 やはり、適度にネゴシエートして、ルールを設定し, たとえば防具をつけた上,有効な攻撃かは中立的な第3者の立場の レフェリーに判定してもらうとかしないと・・  皆様難しそうにお考えなので,無理やり例を挙げましたが, あまり適切な例では無かったかもしれません。 別に勝負にならなくても良いという考えもあるでしょうが, 引き分けも勝負のうちで,それすらはっきりしないような勝負なら, コミュニケーションとはいえないと思います。 その意味で,苦言を述べたとご了解ください。 Time : 1999/ 6/25(金) 10:04:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、更なる質問お許しください Comments:  一連の質問に対して,お返事いただきありがとうございます。 まだ最後のお返事をいただいていない段階でさらに 質問するご無礼をお許しください。 今回は,個別の歴史に関する質問に限りたいと思います。 小生の一連の質問にお答えいただいたのですが,最初のもの以外は 残念ながら納得できるご意見をいただくことが出来ませんでした。 さらに、ご意見の展開および対応ぶりから見て,多くの点で 疑義を抱かざるを得ない状況になってきました。  たしか,テキストクリティークの話から切り出されたと思いますが, 中国史書については,どのようになされたのですか? 自国の歴史についてならまだしも、海を隔てたちっぽけな部族のことに ついては,不正確かもしれないと思うのは,完全に中国史書は正しいとする 「中華史観」以外の方なら,当然疑うべき点ですね。一般論でなく, その点に限ってお答えいただければありがたく存じます。  それから、はてなマン様の疑問と重なりますが,今までの話を 総合すると、  太子や天智は海の一族で,しかも大陸(突厥など)からやってきた。 ということになりますね。当時高度な造船技術を持っていたという根拠は どの辺に有るのでしょうか?どうも既成概念にとらわれすぎているのかも しれませんが,彼らが海の一族であるというイメージがわかないのですが。 もちろん,大陸の人たちがどのように海の一族に変貌したかも疑問です。  せっかくいったんは納得したのですが,最初のご解答についても 疑わしく思えてきました。 >当時は現代とはまったく質の異なった身分社会であり、 >古人大兄がこのような場合に発する人名は高貴のものに限られます。 >高貴の人物は高貴の人物のみによって殺される、 >それが当時の「常識」です。下手人が誰であれです。 とお答えいただきましたが,「韓人」は尊称か蔑称か分かりませんが, 正確には名前では有りませんね。また、なぜ、多くの人の手による偽の 史書が、隠したかったことを残してしまったのでしょう。 その後もいつでも書きかえるチャンスは有ったでしょう。 さらに、「常識」は本当なのでしょうか? 天皇を殺害した東漢直駒はそんなに高貴な身分の方なのですか? 次から次へと疑問がわきますが、ご解答お願い申し上げます。 Time : 1999/ 6/25(金) 10:32:11
Name : はてなマン E-mail : Title : 海洋民族 Comments: 大阪JF生さん、みなさん、こんにちは。お世話をおかけします。 海洋民族が、上陸してきてすぐ大王として認められるものなんでしょうか? 大王家は弥生時代には、海からやってきた家系なのかもしれません。 しかし「和」は突然できた思想(?)なのでしょうか? Time : 1999/ 6/25(金) 11:43:19
Name : Anon E-mail : Title : はてなマンさんへのres Comments: 倭人は海洋民ですが、倭国の支配階級には 少なからぬ中国人、北方遊牧民起源の人々が いたことでしょう。 イメージ表現は避けたいところですが、古代東アジア のアメリカ合衆国とでも比喩しましょうか。 天命思想以外の国家思想(史書に現れるような国家 という意味です)は、当時存在しませんから、天命思想 を「うけいれ」ていない人々は、とりあえず考察の対象とは なりません。 Time : 1999/ 6/25(金) 12:33:52
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 歴史パラダイムとは、まさに史観のことです。 書紀は聖徳太子を中華思想など問題にしない 聖王として描き、万世一系思想の一つの頂点 としています。まさに書紀史観なのです。 Time : 1999/ 6/25(金) 12:38:41
Name : 輔住 E-mail : Title : 即、大王は厳しいと思います Comments: みなさん、こんにちは。 普通に考えて他の国からやってきていきなり 最高権力者になることなど不可能でしょう。 大軍でくれば戦争になるだろうし、 小人数で渡ってきて、政府で重宝されても、 最初は「顧問」程度かもしれないし、 かなりの権力を握ったとしても、 最初は傀儡の天皇(大王)を建てるでしょうね。 「和」の思想は太子以前から人々の頭の中にあったと 考えた方が納得いきますが、どうなのでしょう? Time : 1999/ 6/25(金) 12:38:50
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 航路は重要な利権であり、海軍力以外に これを保持する方法はありません。 当時の航路利権を握っていたのは中国人 でしょうが、実際の船員、戦闘員は倭人でしょう。 白村江で戦ったのは、倭国側の倭人水軍と 隋側の倭人水軍であったかもしれません。 Time : 1999/ 6/25(金) 12:42:16
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 国家観念 Comments: みなさん、こん@@は。 概念なき国は、存在しえないものなのでしょうか? 例えば軍事政権の初期に国家概念というものはなくても勢力として疑似国家が起 こる事は考えらると思っています。 国家といい難い「国」は存在したと思います。 Time : 1999/ 6/25(金) 12:50:17
Name : Anon E-mail : Title : 游惟さんへのres Comments: 歴史とはつまるところ記述であり、同時代人の 記述を後世からレトロスペクティヴに振り返り 考察するのです。 このとき2重のフィルターがかかり、「史実」 というフィクションが作り出されます。 具体的には、同時代の観察者(記述者)は、 彼の存在様式(国家、宗教、身分など)と史観 (時代精神)という、いわば偏見を通して「史実」 を記述します。 次に歴史研究者もまた、同様の偏見をもって 歴史を再発見して行くことになります。 前者の検証は、古代史ではほぼ不可能ですし、 後者の検証もまた、時代とともに推移することに なります(「偏見」が推移するからです)。 歴史学はこのような検証不可能性から逃れる ことはできません。従って歴史学は科学ではなく、 文学に近いと考えられます。 Time : 1999/ 6/25(金) 12:52:19
Name : 勇者ロト E-mail : Title : クニ Comments: 追加です。 国家概念を持たない集団を「国」とはしないという事なら古代倭国は「国」では、 なかったと言えるかもしれません。 しかし、倭の地に王権勢力が存在したのは紛れもない事実です。 その王権の概念を即中華に当て嵌めるのはどうでしょう? Time : 1999/ 6/25(金) 12:54:54
Name : Toshy E-mail : Title : 史料とはなんぞや Comments: Anonさまの言葉を、Toshyなりに解説させてください。 まず、史料を書く人物は自分でこれは書く、あれは書かない、という選択をしながら記述していきます。 ですからこの時点で客観から遠ざかるということです。 その客観的事実から遠ざかった史料をもとに、我々もまた主観を交えて考えていくので、 正確な歴史とはかけ離れた世界になる、ということです。 Time : 1999/ 6/25(金) 13:07:57
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ Comments: Anonさん返信ありがとうございます。 >航路は重要な利権であり、海軍力以外に >これを保持する方法はありません。 この点はおっしゃる通りだと思います。 ただ白村江以前、海戦を経験してない日本が そういう考えを持っていたかは疑問です。 >白村江で戦ったのは、倭国側の倭人水軍と >隋側の倭人水軍であったかもしれません。 私は白村江は中国・新羅VS日本と 習いましたし、通説もそうなっています。 なぜ上記のように考えるのでしょうか? 理由を教えてください。 Time : 1999/ 6/25(金) 13:12:34
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 中国史書の特徴は、繰り返しになりますが、 それが現王朝の正統を証明するものであり、 現代的な意味での歴史書ではないと言うことです。 とすれば捏造だらけになりそうなものですが、 そうはなりません。秦の始皇帝以来、中国世界は テクノクラート(官僚)による文書管理支配システムを 発達させています。嘘を書いても証拠がそこらじゅう に残ってういるので、すぐにばれてしまいます。 嘘がばれれば史書の権威が失われ、王朝は倒れます。 従って、基本的にはそれなりに正確という特徴が あるのです。 けれども、許容される捏造というものもあったようです。 典型例が魏志東夷伝です。東夷は化外ですから、 文書による証拠が少ないと言うこともありますが、 そこで貿易をやってる中国商人には、嘘がすぐに ばれてしまいます。 しかし、中国人の好むバランス(いわば風水)的記述で、 大勢に影響のない範囲ということなのか、それとも 晋後の混乱(晋書は唐代に成立)もあってか問題とは されませんでした。 上宮王家の起源は大陸でしょうね(見事な仏教王国 を築いたのですから)。彼らが海の一族と言うよりは、 その支配下にある倭人が海洋民ということです。 当時、少なくとも貴人を名前で呼ぶなどと言うことは ありません。この「韓人」が中大兄でないとするためには 面倒な議論が必要となります(多くの研究者は「謎」で 片づけています)。 Time : 1999/ 6/25(金) 13:17:48
Name : Anon E-mail : Title : 勇者ロトさんへのコメント Comments: 水軍を中心とした軍事勢力として倭(国) ははじまったのでしょうね。で、このときの 倭(国)とは、海軍力に不安のある北方系の 中国王朝や高句麗(北方系)の傭兵であった 可能性があります。 この傭兵が軍事国家としての倭(国)を築く スタートラインだった、ま、このあたりは証拠が ないのですが、私はそのように見ています。 Time : 1999/ 6/25(金) 13:23:35
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 当時日本列島は重要な貿易先であり、多くの 中国商人が日本海や東シナ海を行き来して いました。 貿易船が行き来すれば、必然的に海賊が発生 します。海賊と対抗するためには海軍力が必要に なります。世界の歴史が示す、こんな時の海軍力 とは、当の海賊を雇い入れることです。 この海賊と中国水軍の実態は、ともに倭人水軍と いうことになります。 海賊と中国水軍の戦闘は常時起こっていたで しょうね。ただ史書に現れてこないだけのこと です。白村江とは、そんな戦いの大型化したもの あるいは政治化したものでしょう。 Time : 1999/ 6/25(金) 13:31:01
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ、お返事についての質問です Comments:  ご解答いただきありがとうございます。 その上で,当方にとって不明な部分がありますので, その点(2通目)に限りお尋ねいたします。 (2通のうち,最初の方の以下の点 >歴史パラダイムとは、まさに史観のことです。 >書紀は聖徳太子を中華思想など問題にしない聖王として描き、 >万世一系思想の一つの頂点としています。まさに書紀史観なのです。 は論じるだけ無駄なようです。言葉のすり替えに過ぎません。) 小生は同じ繰り返しが答えになりうるような質問はしていないつもりです。 注意深く質問しているつもりですが,あまり意図が伝わらないようです。 中国本家のことについては論じてほしくなかったのです。 日本のことで,どれだけ中国の史書の信憑性があるかという質問でした。  この点で,許容される捏造として倭が入る例があるなら,どうして 日本のことについては確信が持てるのでしょう? むしろ素直にご意見を受ければ,全く信用できないと読めますが。 どのような論じ方をされているのか意味不明です・・  また、再度確認しますが,「韓人」は名前ではありませんね? それも名前と同じで口に出来ないのですか? その言葉すら,実際に口に出したものと寸分の違いもないという 保証もありませんね。(つまり、同義であるという範囲内で) さらに、なぜ議論が面倒になるのでしょう? 小生が最初から指摘するように,下手人2名が「韓人」であって、 どうしていけないのですか? 再度申し上げますが, 小生は同じ繰り返しが答えになりうるような質問はしていないつもりです。  上記のように疑いを持たざるを得なくなった一つの原因 >>さらに、「常識」は本当なのでしょうか? >>天皇を殺害した東漢直駒はそんなに高貴な身分の方なのですか? については,お答えをいただいておりませんが・・・ Time : 1999/ 6/25(金) 13:47:06
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 科学的実験について(Toshy様ご意見お借りします) Comments:  Toshy様のご意見になぞらえて,一言述べさせてください。 科学的な実験は、実験が設定される段階ですでに恣意的です。 その前に,あらかた理論が組み立てられ, 「恐らくこうなるだろう。そのためにはどのような実験をすれば良いか・・」 という意味でです。本当にそれで検証できるかの客観性は実際は余りありません。 たいていは,余計な要素を切り離して考えられるのですが,何が余計かは 神のみぞ知るでしょう。ある要素を切り離してしまっては,真実から遠ざかる 結果を生むかもしれません。科学的実験も「全く手探り」なのです。  その客観性から少し遠ざかった実験をもとに,研究者もまた主観を交えて 考察していくので,真実とはかけ離れる可能性も有る、 ということなのです。 正確には思い出せないのですが,小生が学生時代にやった,気体比の実験で, 1対2になるべきところ,1対4とかのレベルで,せいぜい1対3程度でした。 それでも教師は「誤差が多少ありますが,理論的なことは一応良しとする」 と述べました。  だから悪いというのではありません。むしろそんな実験から理論値を 見抜いて導き出した科学者たちをえらいと思います。  しかし、これは歴史的検証と,全く次元の異なるものなのでしょうか? Time : 1999/ 6/25(金) 14:07:05
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ Comments: 私は「海賊同士の小競り合い」と「国同士の戦争」では レベルも性格も違いすぎて「戦力計算」に役立つとは思えないのですが。 もうひとつ >貿易船が行き来すれば、必然的に海賊が発生 >します。海賊と対抗するためには海軍力が必要に >なります。世界の歴史が示す、こんな時の海軍力 >とは、当の海賊を雇い入れることです。 >この海賊と中国水軍の実態は、ともに倭人水軍と >いうことになります。 ということは逆に言えば 日本水軍は中国人も大勢いたと考えてるのですか? Time : 1999/ 6/25(金) 14:29:01
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Anonさん、もしかして・・?違ってたらごめんなさい。 Comments: 海洋民族を祖としてもつ倭人とは、中華思想の中では部族、国家を意味する呼び名 ではなく、倭人という階級、職能を表すものである。という事なのでしょうか? 倭国とは「幻」で海洋に職場を持つ人々があつまった島の名前というのが、 中華思想の中での倭国なのでしょうか? Time : 1999/ 6/25(金) 17:33:55
Name : 金融亭丸祐 E-mail : Title : 大阪JF生さまへ Comments: 初めて参加させて頂きます。 金融亭丸祐(本名 丸山祐一)と申します。 大阪JF生さまのご意見「科学的実験について」に対し、 理科系の立場から一言申させて頂きます。 >科学的な実験は、実験が設定される段階ですでに恣意的です。 >(中略) >たいていは、余計な要素を切り離して考えられるのですが、何が余計かは >神のみぞ知るでしょう。ある要素を切り離してしまっては、真実から遠ざかる >結果を生むかもしれません。 例えば、ガリレオの提唱した落体の法則 (真空中では、全ての物体が同じ加速度で落下する)にしても、 「真空中」という前提条件自体が、その当時の人々には 恣意的に感じられたかも知れません。 (真空状態自体が、当時は実現不可能なのですから) 自然の本質を捉えるためには、 現象そのものを「ありのまま」見ているだけでは、 かえって物事が見えなくなることがあります。 かつての天動説は、惑星の運動を「ありのまま、限りなく正確に」 記述することを目的として組み立てられたため、 途方もなく複雑な補正式と補正係数の塊となってしまいました。 その結果、初期の地動説よりも、はるかに「正確に」惑星の運動を 予測することが出来ましたが、 そこに欠けていたのは、自然の本質を見極めようとする哲学です。 やたらと補正項を積み上げて予測精度を競う前に、 一歩踏みとどまって 「それらの現象を、より単純で広範な原理から導出できないか」 と問いただす観点が全く欠けていたのです。 「より単純で広範な原理」を見出すためには、 表面的な現象を「ありのまま」見るだけではなく、 そこから余分な要因を取り除いた観点が必要となることがあります。 時として、「単純な状況」を人為的に作り出して実験することになります。 ところが、確固たる哲学に基づく単純化であっても、 その哲学を理解していない人には、 「恣意的な単純化」に見えてしまうことがあるのです。 実際の所、両者の区別は紙一重であって、 結局の所「より単純で広範な原理」に到達することに 成功したかどうかで判定するしかないのでしょう。 Time : 1999/ 6/25(金) 18:43:56
Name : はてなマン E-mail : Title : 金融亭さんはじめまして。 Comments: >「単純な状況」を人為的に作り出して実験することになります この古代の話題の、場合上記に当たるものが、「日本側資料を除き、中国側資料から歴史を読み取る」。 ということになるのでしょうか? Time : 1999/ 6/25(金) 19:13:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : モンゴル Comments: といえば騎馬民族、倭人といえば海洋民族。 と、漢民族は考えていたという事なんでしょうか? だから、海賊=倭人=倭寇。 というふうに、後年大陸人達は判断したのかも? Time : 1999/ 6/25(金) 20:23:01
Name : やま E-mail : Title : 磐井王朝 Comments: Awaji さん、勇者ロトさん、こんXXわ。 磐井王朝云々を言った「別の方」です。 Awaji さんの古代小国家連合と徳川幕府の比較面白く拝見しましたが、 私は、徳川幕府の幕藩体制は、地方政治の独自制は認めるものの、参勤交替と 江戸での各藩の役割を考えた場合、徳川幕府のほうがはるかに集権国家的である と思います。 やはり、中央集権国家とそれ以前の国家の違いは戸籍の有無が一番大きいのでは ないでしょうか。そういう意味では、やはり中央集権体制というのは八世紀以降 だと思います。 では、それ以前はどうだったのか、というと私は地方豪族が大和へ臣下の礼を取 って朝貢するような形をとっていたのだと思います。したがって、中央の体制が 変われば、地方は様子を伺いながら対応したのでは無いでしょうか。 このへんの状況は、大和と韓半島の関係と対して変わらなかったと思っています。 韓半島はたまたま、文化的な入口だったので文献等が多く残っていますが、東国で は、そういう文献が残されなかったのでわかりにくいということだと思います。 Time : 1999/ 6/25(金) 22:30:08
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「史料的解釈」?? Comments: 大阪JF生さん、勇者ロトさん、みなさん、今日は。Awajiです。 ずいぶん議論が進みましたね。以下短評です。 大阪JF生さん・・・・ >>小生はその通りだと思いますが,大多数の方はそう思っていらっしゃい >>ません。先ほど挙げたKANAK様と、その方向でずいぶんしつこく議論し >>ましたが, >>     「あらゆる史観を排除して歴史を見たい」 >>といって譲りませんでした。そのときこの点ではどなたの援護も無かっ >>たと思いますので,小生以外の方は反対ではなかったのかもしれません。 ・・・別に何方かの肩をお持ちするつもりは、無いのですが、既に申し上 げたとおり。 Title : 救世観音と比売神祖神説 Time : 1999/ 5/ 5(水) 18:00:06 >井沢さんは「逆説の日本史T」において、次のように述べておられます。 >「・・・にせよ、結論が先に決まっている『史観』は、しょせん歪んだレ >ンズに過ぎない。歪んだレンズでは歴史の真の姿は決して見えない」 P68 >勿論これは皇国史観、マルクス史観を批判されたものですが、同様にあら >ゆる「史観=先入観」についても通ずる危険性です。 >井沢さんが、この教訓を自ら活かしておられるか、どうかについては疑問 >なしとしませんが、この姿勢はとても大切なものだと思います。 少し『史観』についてのニュアンスは異なりますが、井沢さんご自身は、 『史観』先行の歴史考察手法を批判されていると思うのですが? もっとも、百済を倭(国)が中華的正統国と考えることは、如何なる『史 観』からも、如何なる『史書』からも絶対に導き得ないものであることだ けは確言します。(広開土王碑文、三国史記でも明らかなように、百済は 元々高句麗=Huyo系統の分国が独立したものであることを自認しているの です。 さらに百済が度々倭国に王子を人質に入れていることも、三国史記に明記 されています。宋代に倭国王が百済の軍事支配権を主張したことも宋書で 明らかなのです。その国を倭国が中華的正統国とし、その後継国であるこ とを自国の正統性とする?? ・・・確かにこの意見は史料の検証によって、その成立の蓋然性を論じる ことは出来ませんので、科学ではありませんね。(^0^)") >>太子は中華思想を問題にしなかったと思っています。 についての解釈ですが、「隋書」を事実(だと思いますが)とすれば、 「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝 拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽 之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞」 明らかに天子並立論です。従って言わば中華並立思想と言っても良いと思 います。「天皇」の称号も「皇」並立論によるものでしょう。 なお、倭国が倭中華論に立っていたことは、稲荷山鉄剣(471年)において 「吾左治天下」の「天下」において既に示されていると考えます。 つまり、5世紀末には既に倭国は単一中華思想から脱却していたと見ること が可能でしょうね。 ついでに「高句麗」「新羅」も「唐」と戦っていますが、もとより「唐」と 正統性を争ったわけではありません。「唐」が中華正統思想を主張しようが、 それを各国が認めようが、自国の利益が侵されれば、戦う・・・戦いが不利 であれば不本意ながらもこれに従う(事大主義)。 現実の政治とは、こういったもので、朱子学的観念論で動くものではありま せんね。 勇者ロトさん・・・・ 磐井の乱にかんしての誤解お詫びいたします。<(_ _)>ペコ 小国連合に関するご意見了解いたしました。 Awajiは防人の東国からの直接動員、富の中央集中等から見て、地方豪族の 中央政権(敢えて言えば大和朝廷)への従属度は、少なくとも欽明以降は 徳川幕藩体制より高いと見ていますが、仮に同等と考えても小国連合と言 う表現には、かなり抵抗感を持っているものです。 やまさん・・・・ >>このへんの状況は、大和と韓半島の関係と対して変わらなかったと思っ >>ています。韓半島はたまたま、文化的な入口だったので文献等が多く残 >>っていますが、東国では、そういう文献が残されなかったのでわかりに >>くいということだと思います。 残念ながら、韓半島には極く例外的な金石文を除き、殆ど文献は残ってい ないのです。(三国史記は良質な部分もありますが、何しろ遥か後代の成 立です。) 韓国の古代史は、文献的には大半は日本の史料によったものです。 なお、稲荷山鉄剣等は5世紀に関東が中央に従属していたことを示すもの と解釈していますが、如何でしょう? はてなマンさん、輔住さん・・・・ >>ちなみに私は、国号日本で、倭はあくまで日本列島を表す地域名だと思 >>います。二つの国が存在したのではなく、隋唐時代に倭国が日本と自ら >>号しため、史書の記述に、混乱が生じた結果だと思ってます。 倭と言う名称は、元来は中国人が名づけた民族名(及びその民族の居住地域 )だと思います。 しかし、少なくとも宋代(倭の五王)時代には、対外自称(国号)となって いたと見るべきでしょう。 「弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍 倭國王」(宋書) 武王は「百済・新羅・任那」等の南韓の軍事支配権を持つ「倭國王」と自称 しているのですからね。 その後、「倭→日本」と改称したことは、「隋書」「通典」「旧唐書」「新 唐書」等のテクストクリティークからほぼ明らかなのです。 Title : 救世観音と「倭国・日本国」??Time : 1999/ 6/21(月) 22:47:35 なお「続日本紀」には、以下の記述もあり、 秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人、自唐國至。初至唐時、有人來問曰 「何處使人?」答曰「日本國使。」我使反問曰「此是何州界?」答曰「是、 大周楚州塩城縣界也。」更問「先是大唐、今稱大周。國號縁何改稱。」答曰 「永淳二年、天皇太帝崩。皇太后登位、稱號聖神皇帝。國號大周。」問答畧 了。唐人謂我使曰「亟聞海東有大倭國。謂之君子國。人民豐樂、禮義敦行。 今看使人、儀容大浄、豈不信乎。」語畢而去。                    (續日本紀 慶雲元年七月条) 粟田朝臣眞人は、「唐が周」と国号を変えたことと「大倭が日本」の改称 を対照させています。(その内容・改称事情は異なっているのですが・・) 何故にこういった史書(史料)を無視されるのでしょうか? kazさん・・・・ >>崇峻天皇が暗殺されたら、殺した蘇我家が王となるのが歴史の鉄則のは >>ず!したがって、推古天皇は、全くの作り話で、実は大化の改新までは、 >>蘇我大王家の時代であったのでは? その様な「歴史の鉄則」は、全く存在いたしません。 王家を陵駕する権力を手にした臣下が王を(暗)殺或いは廃立し、王家の 別王を立てるのは幾らでも例があります。 しかし、此れは多くの場合王朝交替の前兆であり、だからこそ「中大兄」 は危機感をもって、蘇我本宗家を打倒したのでしょう。 一度世界史・東洋史を御覧になることをお勧めいたします。 >>当然苗字が変わっている可能性もあると思いますが如何でしょう? なお、持統天皇はご存知のとおり、蘇我氏の血統を引いています。 後に「石川」に改姓したのは事実ですが、「蘇我」の姓が変えられている ことを窺わせる痕跡は存在いたしませんし、改姓の理由も想像出来ないの ですが? Time : 1999/ 6/26(土) 00:02:18
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「中央集権国」?? Comments: やまさん、スミマセンAwajiです。チョット舌足らずでしたので、追加し ます。 >>やはり、中央集権国家とそれ以前の国家の違いは戸籍の有無が一番大き >>いのではないでしょうか。そういう意味では、やはり中央集権体制とい >>うのは八世紀以降だと思います。 >>では、それ以前はどうだったのか、というと私は地方豪族が大和へ臣下 >>の礼を取って朝貢するような形をとっていたのだと思います。 >>したがって、中央の体制が変われば、地方は様子を伺いながら対応した >>のでは無いでしょうか。 ここで、問題にしているのは当時の大(地方)豪族の小国としての独立性 ですね。 従って、彼等が臣下の礼をとって、どの程度中央政権に従属(軍事指揮権 に従うことを含む))していたかがポイントであり、戸籍云々はチョット 違うような気がします。 隋唐時代の「高句麗」「新羅」「百済」は中央集権国家ですか、それとも 地方分権国家とお考えでしょうか? Awajiは倭国とほぼ同レベルの古代中央集権国家と見なしていますが・・・ 同様に「朝貢」と言うのは、基本的には册封国にとっては定期的な義務で はありません。寧ろ宗主国は大変なお返しを求められますので、回数を制 限している位です。 これに対し、おそらく国内の豪族が中央に負っていたのは、定期的な調 (ツキ)であり、即ち一種の徴税では無いでしょうか? つまり中央からの一定の保護は期待できるものの、原則的に物品のお返し は期待出来ない性格だと思うのです。 倭(日本)国で言えば、渤海が行ったのは朝貢と見なしていますが、新羅 に求めたのは調なのです。国内の豪族に要求したのも当然ながら、より厳 しい調では無いでしょうか? (少なくとも、大量のお返しがあったとは思えません。) Time : 1999/ 6/26(土) 01:26:10
Name : 游惟 E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Anonさん、みなさんへ。科学についての自己流解釈 Comments: 歴史学が科学かどうかの論争はどうも認識論にかかわっているよう なので私の自己流解釈をさせていただきます。ただこれは私のオリ ジナルではなく理論的基礎にはフッサールに始まる「現象学」(の 自己流解釈)があります。 科学というものは自然科学、社会科学、人文科学を問わず、すべて 事象を説明する仮説の体系に過ぎません。つまり、言語や数式等で 表現された命題の体系です。 命題の体系は科学の他に宗教や迷信などといったものがありますが、 様々な事象を説明するのに、人々を知的に納得させることが出来る 説得力を持った仮説の体系が科学です。但しここでいう「人々」と は、一定水準以上の知的能力を持ち、その事象に興味や関心を持ち、 その仮説が何を意味するか判断できるだけの能力を持った人々、即ち 「専門家」のことです。分野によっては赤ん坊や精薄者などを除けば 殆ど全ての人が判断力を持つ場合もあるし、量子力学のような特殊な 分野は世界中で何百人程度しか判断力を持たない場合もあります。 そして個々の仮説が正しいか間違っているか(あるいは部分的に正しい、 部分的に間違っている)は、そのことについて判断力を持つ人のいわば 多数決によって決められるのです。認める専門家が少ない仮説は仮説に とどまり、専門家の多くが認める仮説が「定説」となります。 ○○学という体系は、これまでその分野の専門家達が多数決で「正しい」と 認めてきた仮説(定説)の体系に過ぎません。 要するに「この仮説に賛成の人は手をあげて」「ハーイ」といって決め ているわけですが、専門家達が「ハーイ」というかいわないかは、彼らが 持っている知識を総動員して当該の仮説の妥当性を判断したうえでの事です。 自然科学の場合、専門家達は通常実験や観測を通じて仮説の妥当性 を判断します。そして実験や観測は再現性があり、方法さえ正しければ 誰がやっても同じ結果がでるためその判断は「客観的」といわれるのです。 例えば金融亭丸祐さんがおっしゃるように、天動説と地動説のどちらが 妥当かを判断するには、両説から演繹される惑星の予測位置が観測事実と 合っているかをみます。精緻化された天動説と初期の素朴な地動説と では天動説のほうが誤差が少なかったため、天動説を支持する専門家が 多かったのですが、次第に地動説が精緻化されてきて誤差が少なくなり、 しかも天動説よりはるかにシンプルな数式で説明できます。 そうして次第に地動説を妥当とする専門家が増えて最終的には100%に達し、 天動説は廃棄され、地動説が定説になりました。 「リンネの法則」にせよ「フレミングの法則」の法則にせよ「一般相対論」に せよ、みなこういう過程を踏んで定説化されてきたのです。 ただ、人文・社会科学の場合は実験や観測を通じて仮説の妥当性を検証する ことが困難な場合が多く、主観的判断の介在する余地が広いという点で自然 科学とは異なります。 経済学や社会学などの場合は統計的手法を用いて検証出来る仮説もあります。 例えば「片親家庭の子供は両親健在の家庭の子供より非行に走りやすい」 という仮説は定説となっていますが、少年犯罪統計などを調べれば統計的 に実証出来るからです。 しかし、前にあげたM.ウェーバーの「支配の三類型」説などはこうした方法 では検証できず、論文を読んで「なるほど」と納得する人が多いか少ないかそれ だけの問題になります。即ち「この仮説に賛成の人は手をあげて」「ハーイ」と いうかいわないかに主観の介在する余地が増えてくるわけです。 これが歴史学になると、タイムマシンでも発明されない限りは、殆どの仮説は 実証的に検証することが不可能であるという点で他の社会科学に比べれば特殊 です。各専門家がその仮説を妥当だと思うかどうかは、その仮説がどれだけ現 存する史料を合理的に配置し解釈しているか、ということにかかわってくると 思いますが、「山本勘介架空説」のようにその仮説を唱えた学者が権威者であ るが故に盲目的に「ハーイ」というような「専門家」もおり、また史料の制約 から有効な反対仮説を提示できないということが歴史学の弱点でしょう。 だからといって、歴史学が科学ではないということにはならないと思います。 物理学のある分野のように、実験や観測の結果が100%仮説と一致しない限り、 当該の仮説を妥当とは認めない、というような厳密性を求めることは無理ですが、 ある事象についての仮説をたて、様々な方法でその妥当性を検証してゆくとい う事では物理学も歴史学も同じです。ただ妥当性の検証方法が自然科学とは 異なるだけです。 Anonさんは歴史学は文学だとおっしゃいますが、その論理からいうと M.ウェーバーの「支配の三類型」説なども科学ではなく文学だということに なってしまいますが、どうでしょうか。 (なお便宜的に、「客観的」という言葉を使っていますが、現象学的に言えば 客観的事実などというものは存在せず、相互主観的あるいは間主観的な事実 が存在するだけです。「相互主観的事実」というのはAnonさんのおっしゃる 「共同幻想」に近いかもしれません。吉本隆明はよく知りませんが) Time : 1999/ 6/26(土) 09:49:16
Name : Awaji E-mail : Title : 百済観音と「天智韓人説」?? Comments: 大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 「韓人」問題についてですが・・・・ 宇治谷さんの現代語訳では「韓人が鞍作臣を殺した。われも心痛む」とさ れていますが、原文は「韓人殺鞍作臣(謂因韓政而誅)吾心痛矣」という ( )注が記されています。 確かに、この注も難解なのですが、 1.三韓の貢調に託して殺人があったことを言った。 2.自分は中大兄の殺人なんか知らない。韓人がやったんだろうと言った。 (局外者であることを強調し、身の危険を回避した。) 3.三韓の貢調に偽の韓人を立たせていたが、実際に手を下したのは、そ の人物であると言った。(中大兄は指揮を執っただけである。) 等といわれています。或いは「子麻呂」がその役を果たしていたのかも知 れません。 ただおっしゃる様に、この「韓人」が「中大兄」であり、ウッカリ削除漏 れと考えるのは、改竄者達?の能力を見縊りすぎでしょうね。 なお、トンデモさん達が天智韓人説?の手懸かりとするのは、この部分の 外に天智十年条百済人大量叙爵を批判した?童謡・・・ 「橘は 己が枝枝 生れれど 玉に貫く時 同じ緒に貫く」があります。 次に韓三国と隋・唐との関係ですが・・・ 隋建国(581年)と同時に高句麗・百済は共に遣使し、 高句麗・・・大将軍遼東郡公高句麗王 百済・・・・上開府儀同三司帯方郡公百済王 新羅・・・・上開府楽浪郡公新羅王(ただし594年遣使) に授号されています。 (ただし陳にも遣使し、イワユル二股外交を行っています。) また、唐には624年に三国ともに遣使し、 高句麗・・・上柱国遼東郡王高句麗王 百済・・・・帯方郡王百済王 新羅・・・・柱国楽浪郡王新羅王 に授号されています。 要するに三国ともに「隋・唐」を中華正統国としたのですが、隋・唐は基 本的には漢・魏時代の直轄郡化を目指し、遠交近攻策による各個撃破を狙 った。(夷を以って、夷を制する・・・) 倭国は隋・唐との対等関係において、南韓の権益確保を目指した・・・。 これが当時の国際関係であり、正統論も讖緯説も関係ないパワーポリティッ クスです。 Time : 1999/ 6/26(土) 11:15:40
Name : 早大生 E-mail : Title : 広末情報 Comments: 今日、広末涼子が、ついに登校いたしました! ばんざーい? 失礼しました。 Time : 1999/ 6/26(土) 19:03:03
Name : はてなマン E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: Awajiさん、おはようございます。質問があるのですがよろしくお願いします。 >橘は 己が枝枝 生れれど 玉に貫く時 同じ緒に貫く という歌はどういう意味が含まれているのでしょうか? また、この歌をどう解釈すれば、Awajiさんが「トンデモ」と呼ばれている解釈となるのでしょうか? 倭を国号として、自称していたという事ですが、倭王達は中華の国号と同じ意識の上でこの名称を使っていたのでしょうか? それとも、中華での通称をそのまま使用していたという事なのでしょうか? 早大生さん、うれしそうですね? まぁ学校は通って当然でしょうから広末と早稲田の皆さんもいろいろと大変ですね? マスコミに負けずに(?)頑張ってほしいものです。 Time : 1999/ 6/27(日) 01:06:42
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「国号」?? Comments: はてなマンさん、今日は。Awajiです。 >橘は 己が枝枝 生れれど 玉に貫く時 同じ緒に貫く >>という歌はどういう意味が含まれているのでしょうか?また、この歌を >>どう解釈すれば、Awajiさんが「トンデモ」と呼ばれている解釈と >>なるのでしょうか? 歌の意味は、百済王族・高官の叙爵に関して、その身分・能力・功績等が 各々異なっているにも係わらず、厳密にそれを斟酌せず一括して比較的高 い地位に就けたことを、世論が批判したものとされています。 「トンデモ」さん達は歌の意味を、天智と百済王族がモトモト同族(甚だ しきは、同一政権と考える)であり、そのため百済王族・高官を高い地位 に就けたと考え、それを世論が批判したものと解釈します。(・・?) つまり、この歌を古人大兄発言と同様に、天智百済王族(韓人)説の根拠 とするものです。(>_<;) >>倭を国号として、自称していたという事ですが、倭王達は中華の国号と >>同じ意識の上でこの名称を使っていたのでしょうか? >>それとも、中華での通称をそのまま使用していたという事なのでしょう >>か? ご質問の意味が良く分からないのですが・・・取り敢えずです。 まず、はてなマンさんは、倭武王が宋に示した書類(通常国書と呼びます) において「武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安 東大將軍倭國王」と記していたことを史事とお考えですか? 次にここで「武が自稱した倭國王」の「倭国」は日本列島内に存在したと お考えですか? 次に「武」が「倭國王」と称した場合、この「倭国」は所謂「国号」とお 考えですか? 所謂「国号」ではないとした場合、この「倭国」を何と呼ぶ べきだとお考えでしょうか? 同様に「高麗(高句麗)」「百済」「新羅」は「国号」と呼ぶべきか、或 いは別の名称で呼ぶべきだとお考えですか? 以上・・・はてなマンさんの健全な理性的判断にお任せいたします。 Awajiには、「倭国王武」が中華の国号と全く同じ意識で「倭国」と称して いたかどうかは分かりません。 極論すれば、我々が「日本(国)」と呼ぶ場合と、中国人が「中華人民共 和国」と呼ぶ場合も、全く同じ意識で使っているかどうかは分かりません。 しかし「一定の地域とその住民を支配する権力機構」の最高の地位を占め る者が、その「一定の地域とその住民を支配する権力機構」の総称として 中華国家「宋」に示した名称だと思います。 この名称が、過去に中華で通称とされていたものに由来するかどうかは、 分かりませんが、その可能性は高いと思います。 早大生さん、余計なことですが・・・・ かって吉永さんが早大生であったとき、早大生は極力無関心を装いました。 そのプライドは何処へ行ってしまったのでしょうね。(>_<;) Time : 1999/ 6/27(日) 11:47:26
Name : ??? E-mail : Title : 早大生さんへ Comments:  、、、 Time : 1999/ 6/27(日) 11:54:58
Name : はてなマン E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 歌についてのご教示ありがとうございます。 百済正当は少し穿ち過ぎの解釈だと思います。 国号については、武の国書についての私の認識が甘かったと思います。 倭国は、半島にまで力を及ぼした国家だと思い直しました。 国書を読んだ事がなかったので有り難かったです。 Time : 1999/ 6/27(日) 13:03:00
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「倭国基本外交政策」?? Comments: はてなマンさん、みなさん、今日は。Awajiです。 先週は、「飛鳥池」発掘現地説明会に行ったのですが、今日は大雨で、 外出もままなりません。(>_<;) はてなマンさん・・・生意気な言い方をいたしましたが、ご了解頂きあ りがとうございました。<(_ _)>ペコ ことのついでに、倭王武の上表全文をご紹介いたします。 順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬環(*1)甲冑跋渉山 川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融 泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百 濟裝治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰 進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪 父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵 申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝徳覆載摧此彊敵克 靖方難無替前功竊自假開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都 督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王 ご覧のとおり、武王の自称から「百済」を除いて「六国」としています。 「自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」 これは「百済」が既に416年以降、宋から綬号(册封)されているので、 宋としては認め得ないものだからです(新羅は認めています)。 逆に言えば「倭王」は明らかにそれを知りつつも、宋に百済の支配権承 認を求めているのです。「渡平海北九十五國」とともに、倭国の南韓に 関する意識が窺えます。 武王以降の中国関係断絶も、中華册封国である限り「百済」「新羅」 (新羅が册封国となれば)と同レベルの国となってしまうからだと考え ます。(晋書は疑問) なお、この機会にその後の倭と百済の関係の中で、百済滅亡にいたる経 緯を見ておきたいと思いますが、百済は明らかに倭に対し半従属的立場 にあり、このことは隋も概ね認めているのです。 「新羅百濟皆以倭爲大國多珎物並敬仰之恒通使徃來」(隋書) 聖徳太子が何故に隋・唐との対等外交(天子並立論)を主張したか・・ は、これらの南韓政策からご理解頂けると思いますが、仮に「倭」が「隋 ・唐」の册封国になれば、「百済」「新羅」と同レベルの国となり、これ らに対する優越権を主張出来なくなってしまうからと考えるのが妥当でし ょう。(つまり、倭国の基本的外交政策なのです。) 出来るだけ中国・韓国史書の裏付けがあるものを主としましたが、疑問 があればご指摘願います。 554年 百済 威徳王昌即位 555年 百済 王弟 恵 来朝? 562年 新羅 任那併合 579年 新羅 真平王即位 581年 隋建国、百済上 開府儀同三司帯方郡公百済王(威徳王昌) 587年 物部氏滅亡 588年 用明没 崇峻即位 589年 隋の中国統一 592年 崇峻暗殺、推古即位 597年 百済 阿佐太子 来朝? 598年 百済 恵王即位 598年 高句麗、隋の遼西を侵す 599年 百済 法王即位 600年 百済 武王璋 即位、倭 新羅出兵 604年 隋 煬帝即位、聖徳太子十七条憲法 607年 百済 隋に高句麗出兵を請う、聖徳太子 遣隋使 608年 隋 裴世清 来朝 612年 高句麗 隋に大勝 613年 高句麗 隋(第二次)を退ける 614年 高句麗 隋(第三次)を退ける、百済 新羅を侵す、倭 遣隋使 618年 隋滅亡、唐建国、高句麗 栄留王即位 622年 聖徳太子没 624年 百済 帯方郡王百済王(武王璋)叙爵 628年 唐の中国統一、推古没 舒明即位 630年 倭 遣唐使 631年 百済王子 豊璋入質(同時に善光?) 632年 唐高表仁 来朝、新羅 善徳女王即位 641年 百済 義慈王即位 642年 舒明没 皇極即位、高句麗 泉蓋蘇文 栄留王殺害 宝蔵王擁立 643年 蘇我入鹿 山背大兄殺害、唐 新羅に王の派遣を要求 百済 新羅を侵す 645年 中大兄皇子 蘇我本宗家誅殺 孝徳即位(大化改新)、 唐 高句麗侵入 646年 新羅 金春秋 来朝 647年 唐 高句麗侵入、新羅 田比 曇の乱(善徳女王没 真徳女王即位) 648年 新羅 金春秋 入唐 649年 蘇我石川麻呂 誅殺、新羅 金多遂入質 654年 倭 遣唐使 655年 孝徳没、斉明重祚、新羅 百済侵入、倭 遣高句麗使 658年 唐 高句麗侵入 659年 倭 遣唐使 660年 唐・新羅 百済を滅ぼす 661年 斉明没 天智称制、百済 福信等が豊璋帰国を請う 662年 百済 豊璋即位 663年 唐・新羅 白村江に倭を破る・・・百済完全に滅亡 668年 唐・新羅 高麗(高句麗)を滅ぼす 670年 旧百済・高麗の支配権を巡り、唐と新羅の戦闘はじまる(倭に接近) 671年 天智没 壬申の乱 677年 唐 新羅の統一を認め和平成立 Time : 1999/ 6/27(日) 14:49:07
Name : はてなマン E-mail : Title : 倭国 Comments: みなさん、こんばんは。Awajiさん宋書の抜粋ありがとうこざいます。 聖徳太子の時代、倭国=日本としては、中華世界は無視できないが中華の支配(冊封)からは脱却したい。という事だったのでしょうか? それがあの有名な国書によって表明されたというわけですね。 しかしわざわざ国書を届けるという事は、日本も中華世界の一員だという意識はあったという事なんでしょうか? Time : 1999/ 6/28(月) 00:08:40
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 金融亭丸祐様に返事を書くつもりが、単なる一般論です Comments:  はじめまして。コメントありがとうございます。 小生も理科系で,科学にどっぷり浸かっています。 その意味で,内部からの反省を込めて意見を述べています。 大筋ご意見の通りと存じますが,多くの方のご意見は Anon様のように,科学を絶対視している方が多いのも事実です。 そこで、金融亭丸祐様は重々承知されていることと存じますが, 一般論として補足させてください。科学の悪口を述べているのではなく, 他の多くの学問同様,科学者という「人間」が研究しているのだということを 訴えているだけなのです。絶対視することへのクレームに過ぎません。  小生は直に何人もの本物の(?)科学者たちと話をする機会はありましたが, 科学のみが優位性を持ち得るという意見を述べる人にほとんどめぐり合ったことは ありません。 幸運なだけかもしれませんが,不思議なことに彼らは異口同音にいいます:  「我々は真実を求めているが,それがたやすく手に入るとは思っていない。   また、今正しいと思われていることも,いつくつがえされるかわからない。   ただ、それにあまり疑いを持ちすぎると研究が進まないので、   真実というより信仰に近い信念として扱っている感じだ。」 もちろん、照れ隠しの面はあって、発言については割り引く必要がありますが, かれらは、自分たちだけが真実に手が届く神の使徒だなどとはほとんど思っていません。 実際の科学者たちの発言をもっと真摯に受け止めるべきでしょう。 (また、クーンについて論じるなら,著書をよく読むべきですが,少なくとも 解説書ぐらいはちゃんと読んでから,議論すべきだと思います。 往年の「駒場のジュリー」こと、村上陽一郎氏の著書などすぐ手にはいります。) もちろん科学について語るなら,最小限の歴史程度はひととおり見ておくべきです。 金融亭丸祐様はよくご存知のようですが,どうも一般的にはその点も不安がありますので, へたくそながら,少し述べてみたいと思います。  前の記事で、実験の設計において余計な要素を排除する話を書きましたが, 少し舌足らずの説明でした。その排除は,意図的に行われるとは限りません。 実験を設定した研究者の見落としということもありますし, その要素に対する無知あるいは未発見ということもありえます。 いまや検証可能性(正確には反証可能性)が科学を規定しないことは常識です。 科学史をかじれば,いくらでも事例が出てきます。 もし科学がそのようなものだったら,偉大な理論はほとんど初期段階で 姿を消しています。  地動説のコペルニクスですら,プトレマイオス派の理論のほうがデータとは 整合的であったことは認めていました。実際,ティコ・ブラーエは当時としては, 最高に正確なデータによって検証し,地動説が間違っていることを指摘していました。  それを擁護するガリレイは、一応、科学的・実験的方法の祖とされていますが、 彼の本来の「実験」は結構いいかげんで,とても信頼に耐えるものでは ありませんでした。むしろ、「思考実験」の方が優れていて,実際に実験したのか 怪しいものでした。そのときのガリレイの言い分を聞けばわかります(新科学対話):   シンプリチオ:あなたは100回のテストをしたわけではないのですね?・・   サルヴィアチ:・・実験をしなくても私には確かなのです。なぜなら、          そうならなければならないからです。・・・ これが科学的方法の祖の言葉です。でもこれがニュートン力学を支えます。  そのニュートン力学はといえば,初期段階では月の軌道で検証を受けて不合格とされ, 原因を解明するのに50年以上かかりました。(その間でも支持は揺るぎません。) また、天王星の軌道のずれのかなり正確な測定からも,反証されかかったことがありました。 明らかにデータと食い違い、当時はほぼ完璧に間違いだという科学的な検証で, 反論の余地はありませんでした。 実は、その当時はまだ海王星が発見されておらず,その影響を計算にいれなかった からでした。反証可能性が科学の本質ならば,その前の時点で,ニュートン力学は 葬り去られていたでしょう。しかし、科学者たちはそうしませんでした。 その時点でも,水星の軌道ともデータと矛盾していたにもかかわらずです。 理論の美しさと,他のデータには(矛盾もあるが)よく合致することもあるので 総合的にみて信念を持っていたのでした。それで、ニュートン力学は, ほとんど「真実」の扱いを受けました。  それでも、マクロに見ると,アインシュタインの相対論によって, ローレンツ収縮の修正項が抜け落ちていたということになりました。  さらに量子力学にいたっては・・・  このような足跡を見,真剣に研究に打ちこんでいさえすれば, 上記のような感想を抱くのは,皆様当然だと思われませんか? (すみません、まったく金融亭丸祐宛ての記事ではなくなってしまいました。) Time : 1999/ 6/28(月) 09:46:45
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 游惟様のご意見を読んで Comments:  コメントありがとうございます。 ただ、小生は「歴史も科学だ」と主張しているのではありません。 自然科学と社会科学の間にことさら大きな溝を作らない、 いわば、C.P.スノーの2つの文化の溝をなくしたいと思っているだけです。 違った学科という意味なら,「歴史は科学ではない」でしょう。 (茶化したような発言ですみませんが、説明上断っておきました。) 誤解されがちなので,断りをさらに入れますが,真の意味の「真実」「客観性」は、 ほとんど手に入るものではないと思っています。 しかし、多くの学問は,何らかの方法でそれに苦労しながらアプローチしています。 現代人が科学パラダイムに浸かっている以上,科学的方法が一応の前提となるでしょう。 「その典型的なモデルをニュートン力学以降の近代科学は与えた」というのが、 小生の評価です。 その意味で,游惟様や金融亭丸祐様とは,あまり意見の差は無いように感じます。 Time : 1999/ 6/28(月) 10:01:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、出張からお帰りですね? Comments:  お留守の間にお名前を勝手に使ってどうもすみません。 小生の「Awaji様理解」が違っていましたら,お許しください。 百済観音と「天智韓人説」??では、詳しく解説いただき, ありがとうございました。まだトンデモ扱いはしたくないのですが, 現段階ではそのように扱われても仕方が無いような議論と思います。 それに反して,Awaji様の解説は説得的です。 よほど精密な議論で反論しない限り,勝負にならないでしょう。 小生実はAnon様を応援したかったのですが,議論がひどく 杜撰でしたので,この点認めざるを得ません。  また、救世観音と「史料的解釈」??での井沢先生の件ですが, 小生は「史観なしには論じるのが難しい」という意見ですので, Awaji様がおっしゃる危険性を常に心にとめておくならば, 良いと思っています。この点ご異論は有ると思いますが、 そのような立場も有るだろうぐらいでご理解ください。 そのような一般論よりも、現在Awaji様がなされているように 個別の議論で切磋拓磨されたほうが,有益だと思っております。 Time : 1999/ 6/28(月) 10:19:33
Name : 輔住 E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 私も国号については知らないことが 多かったので、色々と勉強になりました。 ありがとうございます。 Time : 1999/ 6/28(月) 12:01:56
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 金融亭丸祐様すみません Comments:  前記事で,全く返事になっていない上に 最後の行で,敬称を忘れていたのに気づきました。 どうも申し訳ありません。お許しのほどを・・ Time : 1999/ 6/28(月) 14:42:47
Name : はてなマン E-mail : Title : 隋からの返書 Comments: 皆さん、こんにちは。 聖徳太子の国書の隋からの返書にはどのような内容が記されていたのでしょうか? 帰国の途中に紛失したらしいですが、隋書などの資料には残ってないのでしょうか? Time : 1999/ 6/28(月) 15:29:41
Name : 金融亭丸祐 E-mail : Title : 大阪JF生さまへ Comments: 早速のご返事ありがとうございます。 「返事になっていなかった」とのことですが、科学的検証に関する 新たな話題に入ったと考えて、意見を述べさせて頂きます。 大阪JF生さんの意見(6/28)の要約: 「科学が完璧な検証の上に成り立っているように考えている人が多いが、 歴史的に見ると検証が不十分な段階で容認された理論も数多くある。 もし『完璧な検証』が必須要因であるなら、現在認められている多くの理論は、 その初期段階で葬り去られていただろう」 それぞれの理論の構築段階では、必ずしも完璧性を求められていた訳ではない、 という点では、その通りだと思います。 あまりにも厳しい批判にさらされ過ぎたため、 その発展が阻害された(かも知れない)例としては、分子論があります。 すべての物質を分子や原子の集まりと考えることにより、 熱現象と力学とを統合できる可能性が19世紀頃に気づかれ始め、 マクスウェルやボルツマンといった人たちが、 その理論の構築に心血を注ぎました。 しかしいかに美しい理論であっても、 「どうしてもその理論を用いなければならない」との証明が出来ずに、 マッハなどの反対論者から熾烈な批判を浴びせられました。 要はアボガドロ数が確定出来なかったために、 分子論は単なる「思考上の虚構」と非難されたのです。 このことへの反省から、演繹的手法が見直され、 「自然界は単純な法則で成り立っている筈である」との指導原理のもと、 特殊及び一般相対性理論が構築された(発見と言うよりも一種の発明!?) とのことです。 この様に、理論の構築段階では「完璧な検証」を求められている訳ではないし、 求めるべきでもないのですが、 最終的にその理論が正しいかどうかの判定に際しては、 厳密な検証がなされている筈です。 (その意味では、一般相対性理論はまだ検証済みではありません) 科学を盲信するのは良くないけど、はっきりと検証済みのものについては、 それなりの信頼を置いても良いのではないでしょうか? ところで歴史学における「真実」とは、これと同等なものなのでしょうか? ゆうすいさん(と読むのか?漢字が見つかりませんでした)が 指摘されている様に、タイムマシンでその時代に戻って確認できないために、 本当の意味で検証できる事実は限られてしまいます。 例えば、刑事裁判における事実認定と同程度の厳しい判定基準なのでしょうか? (「疑わしきは罰せず」即ち「少しでも疑いがあれば事実と認定しない」) そうすると、歴史理解の方法がかなり限られてしまう様に思えるのですが。 Time : 1999/ 6/28(月) 20:07:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「中華思想」?? Comments: はてなマンさん、大阪JF生さん、みなさん、今日は。Awajiです。 はてなマンさん・・・ >>しかしわざわざ国書を届けるという事は、日本も中華世界の一員だとい >>う意識はあったという事なんでしょうか? 中華世界の一員と言う意識ではなく、東アジア諸国の一員と言う意識では 無いでしょうか? これは「観念」に基づくものではなく「現実」の地政的意識だと思います。 ところで、まことに失礼ですが、ご質問自体が中華思想の幻影を過大に評 価していらっしゃるような気がいたします。 元々が中華思想(中華的世界=国家観)と言うものは、 「漢人の、漢人による、漢人のための思想」であり、他民族(国家=王朝) にとっては、それを尊重する義理も謂れもありません。 ただ、漢人が統一国家を形成した場合は、文化的にも軍事的にも超大国と なりますから、自民族(国家=王朝)の安危利害得失を計り、これに屈服 ・迎合することもあれば、なお抵抗・対抗することもあるでしょう。 漢人国家が衰弱すれば当然のこととして反攻・侵略することもあり得ます。 諸民族は夫々のパワーポリティックスの原理に従って行動する・・・ただ それだけのことでは無いでしょうか? 「高句麗」などは、直接に漢人国家に接していますから、幾度と無くこれ を繰り返しているわけですね。「北方遊牧民族(国家)」も同様です。 「倭国」の場合は海を隔てていますから、その選択は大陸半島諸国より一 層フリーに行い得ます。何方かが「海は障壁ではない」とおっしゃってい ましたが、とんでもない認識です。少なくとも万里の長城を遥かに上回る 防衛障壁でしょう。 唐招提寺御影堂にお座りになっている方の苦難を偲び、志賀島でモンゴル 襲来の帰結を思い起こして頂きたいものです。 要するに「倭国」は、漢人国家をはじめとする東アジア諸国の諸情勢(政 治・軍事・文化)を勘案し、「倭国(倭王朝)」の安全と繁栄のため最善 と判断した外交方針により、行動しているに過ぎないと思いますが? (結果的に最善であったかどうかは、当然ながら別の問題です。) 大阪JF生さん・・・・ ご意見ありがとうございます。 Time : 1999/ 6/28(月) 21:46:27
Name : kaz E-mail : Title : 聖徳太子への隋からの返書 Comments: 非常に興味のある話題です。隋側に”写し”は無いのですかね! 想像ですが、当時の力関係から言えば、隋が「倭の王を殺せ。さもないと、倭国人を皆殺しにするぞ」と書いて来ても不思議ではない。 この返書によって、時の政権が倒れたとしても不思議ではない。 国書が盗まれたという事実も信じがたい。。。と思います。 ところで、この国書を書いたといわれる聖徳太子について、彼が、「聖徳」の名で鎮魂されてる理由を教えてください。  (追記:この掲示板はメーリングリストにしたほうが便利だと思いますが!) Time : 1999/ 6/28(月) 22:51:39
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「隋の実力」?? Comments: kazさん、今日は。Awajiです。 確か「歴史の鉄則」を語られた方ですね。 642年 ・・・高句麗 泉蓋蘇文 栄留王殺害 宝蔵王擁立 「史書」はお読みになりましたか? >>当時の力関係から言えば、隋が「倭の王を殺せ。さもないと、倭国人を >>皆殺しにするぞ」と書いて来ても不思議ではない。この返書によって、 >>時の政権が倒れたとしても不思議ではない。 598年 高句麗、隋の遼西を侵す 599年 百済 法王即位 600年 百済 武王璋 即位、倭 新羅出兵 604年 隋 煬帝即位、聖徳太子十七条憲法 607年 百済 隋に高句麗出兵を請う、聖徳太子 遣隋使 608年 隋 裴世清 来朝 612年 高句麗 隋に大勝 613年 高句麗 隋(第二次)を退ける 614年 高句麗 隋(第三次)を退ける、百済 新羅を侵す、倭 遣隋使 618年 隋滅亡、唐建国、高句麗 栄留王即位 以上・・・既にご紹介のとおり、 当時の隋は高句麗に遼西を侵され、反攻を目指しますが、大敗を重ねて結 局は人望を失い滅亡にいたるのです。 何故に隋が天子並立論を唱えた倭国に使節を送ったか、隋は倭国に何を求 めたか、何故に国書紛失が咎められなかったか、隋の国力はどのようなも のであったか・・・良くお考えになれば(・・?) Time : 1999/ 6/29(火) 00:10:09
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 中国史書の日本についての記述ですが、 中国側にとっての重要情報、例えば王家の姓 や王名はほぼ正確と考えるべきでしょう(特に 古代では)。 しかし、例えば邪馬台国のように、大月氏国と のバランスが重要と判断される場合には、「正」 ではなくて「政」が優先されています。 何が中国史書にとってより重要なのか、その意図 を正しく読み解く必要があります。 「韓人」ですが、書紀を読んでいただければ これを中大兄以外とするには何か理由付けが 必要であることが分かります。つまり、そのまま 読めば中大兄なのです(これは別に私の意見と かではなくて、研究者の暗黙の一致です)。 崇峻暗殺の犯人は、蘇我馬子であると明記され ています。東漢直駒は下手人です。、 Time : 1999/ 6/29(火) 09:42:04
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのコメント Comments: 科学における「検証可能性」というのは、 端的に言うなら「有効性」ということです。 科学は本質とか真実を扱わないのです。 従って科学的実験は有効性を実証できれば よいのであり、恣意的であれ何であれ結果 オーライです。 Time : 1999/ 6/29(火) 09:46:01
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 海賊と正規軍の距離は、つい数百年前までは あまりありませんでした。大英帝国海軍は十分に 巨大な国家の海軍だと思いますが、彼らの一部は 海賊です。 繰り返しになりますが、倭人というのは堕落(中国側 から見れば)した中国人です。より歴史的記述としては 江南地方の越人が倭人の祖に当たります。 Time : 1999/ 6/29(火) 09:49:25
Name : Anon E-mail : Title : 勇者ロトさんへのres Comments: 私は勇者ロトさんの理解に近い考え方を しています。倭国は幻と言うよりは、中国 によって定義づけられた存在なのであり、 実態は、倭人の営む漁村を足場とした貿易 拠点郡、あるいはプランテーションの総称で あったろうと考えています。 Time : 1999/ 6/29(火) 09:53:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 金融亭丸祐様、コメントありがとうございます Comments:  ご意見ありがとうございました。 小生も,科学の結果にそれほど疑いを抱いているわけではありません。 が、「真実か?」と聞かれたら,Noと答えるでしょう。 つまり、信頼度はすこぶる高いが,厳密な意味では「仮説」でしょう。 (小生は「真実」という単語を出来る限り避けています。)   「いつが最終的な検証なのか?」 というのも神のみぞ知ることでしょう。 もう少し正確に言うならば,科学理論は,「真実」に対して、 人間が考え出した(暫定的な)「近似モデル」だと考えています。 感想を言えば,限りなく「修正項」を必要としていくのではないか ということです。 (もちろん,現時点で何千年も耐えうる完璧な仮説かもしれません。) >「自然界は単純な法則で成り立っている筈である」との指導原理のもと、 >特殊及び一般相対性理論が構築された というご意見ですが,この考えにとらわれた当のアインシュタインは、 量子力学の考えに反対し,   「神はサイコロを振らない」 といった有名な話はご存知だと思います。しかし、時代は量子力学の 正しさの方を選択したようです。さらに素粒子が数10次元の スーパーストリングだなどという考えは,単純な法則と言えないように 思えます。さらにまだまだ「4つの力」を統一するためには複雑な理論が 出てくるでしょう。 やはり、お考えには少し無理があるように思います。 「そうあるべきだ、あるいは、あってほしい」と思われる気持ちは 分かりますが,現状認識としては,少し違うようです。 たとえば,乱暴に言えば,ヘーゲル的に 「テーゼに対し,アンチテーゼが生まれ,とりあえずアウフヘーベンされて, 科学は弁証法的に発展していく。」 というような言い方も可能で,しかも反論は難しいと思います (小生はもちろんそこまで言いません)。 要するに「信頼度の高さの違い」は当然認めますが,歴史で言う仮説と (再度お断りしますが,「真実」ではありません) 科学で言う仮説に、幻想以上の違いはないのではないかといいたいのです。 したがって、金融亭丸祐様のご意見が, 「歴史の仮説は,科学のそれに比べて信頼度がかなり低くならざるを得ない」 というものならば,賛同いたします。  小生の周りにはいませんが,よくTVにでているW大学のO教授は, (ト学会からもトンデモ扱いされていたりしますが) 現在の科学で解明できないものはないという態度をおとりになっています。 小生も,この方が監修された「○○学最前線」というシリーズ本の専門書を 持っていますが,このことからも一応権威者でしょう。 それにもかかわらず,素人でも「変だ」と思われる発言をなさります。 基本姿勢として,科学が得た「真実」は絶対であるということでしょう。 小生は,それに反対しているだけです。 Time : 1999/ 6/29(火) 09:57:46
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 稲荷山鉄剣の年代を471年とすることに、 私は異議があります。ここに現れる「天下」 概念はAwajiさんのご指摘通り(笑)で、これは 471年では成立できません。 ちなみに同様の疑義は、古田氏、井上氏、李氏なども 述べられています。 Time : 1999/ 6/29(火) 10:04:01
Name : Anon E-mail : Title : 游惟さんへのres Comments: 毎度明快なコメント、ありがとうございます。 ウェーバーの説はケースコントロールスタディが 可能です(あくまでも可能性に過ぎませんが)。 プログラミングの技術にもよりますが、シミュレーション も可能です。この説が有効であると判定されれば、 科学の要件を満たすことになります。 しかし、過去を検証することはできませんし、レトロ スペクティヴスタディの限界が立ちはだかります。 Time : 1999/ 6/29(火) 10:11:38
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様へ、拝復 Comments:  お返事ありがとうございます。 その中で,科学についてのご意見; >科学における「検証可能性」というのは、 >端的に言うなら「有効性」ということです。 で、有効性という意味なら,異論はありません。 ただ、それは「検証可能性」という用語の誤用だと思います。 また、 >科学は本質とか真実を扱わないのです。 >従って科学的実験は有効性を実証できればよいのであり、 >恣意的であれ何であれ結果オーライです。 というご意見も,全面的に賛成とは言いませんが, 納得できる考え方だと思いますし、そう言う意見も耳にします。 科学についてのご意見は,一応納得できる返事をいただけて うれしく思います。ただ、当初から注意深く用語を使用されて いれば,問題無かったと思いますが・・・ それで、歴史の部分; >「韓人」ですが、書紀を読んでいただければこれを中大兄以外と >するには何か理由付けが必要であることが分かります。つまり、 >そのまま読めば中大兄なのです >(これは別に私の意見とかではなくて、研究者の暗黙の一致です)。 については(まだ繰り返しといわざるをえませんし),Awaji様のご意見; >1.三韓の貢調に託して殺人があったことを言った。 >2.自分は中大兄の殺人なんか知らない。韓人がやったんだろうと言った。 > (局外者であることを強調し、身の危険を回避した。) >3.三韓の貢調に偽の韓人を立たせていたが、実際に手を下したのは、 >  その人物であると言った。(中大兄は指揮を執っただけである。)等といわれています。 >或いは「子麻呂」がその役を果たしていたのかも知れません。 >ただおっしゃる様に、この「韓人」が「中大兄」であり、ウッカリ削除漏れと考えるのは、 >改竄者達?の能力を見縊りすぎでしょうね。 と対立しており,現時点ではAwaji様の解説のほうがずっと説得的です。 もう少し,精密な説明を要すると思います。 Time : 1999/ 6/29(火) 10:14:35
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 「検証可能性」は斉一性を隠し持っています。 しかしこの斉一性は検証不可能です。 では実際の検証可能性とは何かといえば、 それは游惟さんの記述通りとなります。 「真実」を求めるものでは決してない科学を 人々が採用する理由は、それが有効だから であり、この有効さは、局所的斉一性(人間 だけによければよい)に依存しています。 さらに、現象学的には、科学とは世界に対する 開示請求であり、エロスを隠し持っています。 つまり、検証可能性のみを保証すると言うことは、 逆にこのエロス性(有効性)によって有意と されているのです。 Time : 1999/ 6/29(火) 10:28:17
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様のお返事への感想 Comments:  うーむ。最後はフロイトかユングの本を読んでいるような・・ でも検証可能性の用語は使用されないほうが良いと思います。 有効性と読みかえれば言いのですが、ご意見を分かりにくく 表現する必要はないと思います。 歴史のほうもよろしくお願いします。 Time : 1999/ 6/29(火) 10:36:51
Name : 輔住 E-mail : Title : Anonさんへ Comments: Anonさん、返信ありがとうございます。 ただどうしても答えてほしい部分が未解答なので 再度質問させてもらいます。 その前に整理します。 私は海のため中国が攻めてくるという考えがあまりなかったのでは?と 意見を言ったところ、Anonさんは海賊同士の小競り合いは 白村江以前からあったとおしゃってさらに下記のように答えましたよね。 >海賊と対抗するためには海軍力が必要に >なります。世界の歴史が示す、こんな時の海軍力 >とは、当の海賊を雇い入れることです。 >この海賊と中国水軍の実態は、ともに倭人水軍と >いうことになります。 つまり、倭人水軍は中国水軍に引き抜かれたということですよね? 一方的に引き抜かれてばかりでは日本側の水軍はあまりに脆弱だし、 白村江で戦う(中国と海戦する)というレベルにはなりませんよね。 だからAnonさんの考え方からすると互いに引き抜いたりしたとなり、 日本の水軍にも中国人がいたという風に思えてしまいそのことを 質問したのですが、どのようにお考えですか? Time : 1999/ 6/29(火) 12:15:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、承前 Comments:  科学についてのご意見は納得しましたが, よくよく考えてみれば,今までおっしゃってきた 歴史に対するご意見との整合性はどうなっているのでしょう? 普通に解釈すれば,科学も歴史も差がないと 言えそうですが・・・  ただし、次のような極端な解釈も可能ですので, この立場に立つと確かに違いますが・・・  「科学は真実でなく有効性のみを追究している。   それに対し,歴史は有効性でなく真実を   追究している。したがって、大きく異なる。」 ・・・まさかね。 Time : 1999/ 6/29(火) 12:35:52
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「稲荷山鉄剣」?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。お昼休みの呟きです。 みなさんは、稲荷山鉄剣の年代を、どのようにお考えでしょう? Awajiも471年説に異論を唱える学者が、少数ながらおられる事は承知し ていますし、それを100%否定する事は出来ないと思います。 それならば、一元(60年)繰り下げ531年としましょうか? その時点ならば、「天下」概念が成立すると仰るならば、それでも結構 ですよ・・・・・。 さら、もう一元オマケして(どんな学者も認めないと思いますが)591年 としましょうか? 589年 隋の中国統一 592年 崇峻暗殺、推古即位 のころですね・・・・崇峻も推古も架空の存在ですか? ハイハイ・・・それならば蘇我の暗殺だの、東漢も出鱈目ですなんですね。 それでも、倭王の誰かが隋に遣使したとき以前に「天下」概念が成立する 訳ですね・・・・もう沢山ですワ!! Time : 1999/ 6/29(火) 12:38:33
Name : 游惟(ゆうい) E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Anonさん、大阪JF生さん、金融亭丸祐さんへ Comments: またまたAnonさんと大阪JF生さんの議論が白熱してきたようですが、また また自己流に解釈させていただきます。 歴史研究というものは部品の欠落したジグソーパズルを並べるようなもので はないでしょうか? 完成品のジグソーパズルに描かれた絵がその時代の事実(といっておきます )で、史料は部品だということになります。 近現代史だと部品はすべてあるいは殆ど揃っていますが、時代をさかのぼる に連れて欠落した部品が多くなり、古代史になると残されたほんの数片の部 品から絵全体を想像しなければならないということです。しかもその数片す ら傷だらけで何が描かれているかよくわからない。しかもこれは二次元では なく三次元パズルかもしれない。 そういった条件化で、断片的な部品を色々並べ替えて「これはこういう絵だ 」「いやそうじゃないこういった絵だろう」と考えていくのが歴史研究では ないでしょうか。それぞれの主張が仮説(史観)であり、多数の支持を集め る主張が定説だということになります。 いずれにせよ、新たに部品(史料)が発見されない限り、精密に元の絵を再 現することは不可能ですが、だからといってその試みが全く無意味というこ とはないでしょう。日本古代史だって、いつの日か天皇陵の発掘でも許可さ れれば膨大な新史料が出てこないとも限りませんし。 今までの議論を聞いていると、Anonさん、大阪JF生さん、金融亭丸祐さん、 そして私も言っていることは大して違いないような気がします。 すべての学問(ここでは「科学」と区別しておきます)は仮説を立てそれを できうる限り客観的な方法で検証するものであること、支持者の多い仮説が 「定説」となること、但し定説も所詮仮説に過ぎず「真実」そのものではな いこと、どんなに完璧と思われていた「定説」も廃棄されたり修正を余儀な くされる可能性があること、などは皆認めていますね? 「歴史」に関して言えば「史観」(仮説)のない歴史なんかあり得ない、と いうことも一致していますね? ただ、自然科学や他の社会科学では再現可能な実験や観察といった「客観的 方法」で仮説の検証ないし追試が可能であるのに対し、歴史ではそういった 方法が不可能であるが故に「歴史は科学ではない」と主張するAnonさん と、仮説を立て再現可能な方法でなくともあらゆる知識を動員してそれを検 証しようとするものは「すべて科学である」と主張する私が両極端におり、 大阪JF生さんと金融亭丸祐さんはその中間というところではないでしょうか 。 そういうことであれば、それは「科学」の定義が人によって違うと言うだけの 問題でしょう。 ドイツ語のWissenschaftと英語のscience では意味がちがうかも知れません し、日本語で「学」「学問」「科学」を同じ意味で使う人もおれば、区別し て使う人もいます。私はそれらを同じ意味で使っているというだけです。 以前ちょっと的の外れたコメントをしましたが、「すべての史観を排して歴 史をみたい」という人は「箱庭の中の蟻になって、蟻の気持ちで蟻社会を理 解しよう」という人類学的方法(エスノグラフィー)に似ていると思ったか らです。つまり、最初から仮説なんか立てず、史料に素直に入り込んでその 時代の人の目でありのままにその時代の社会を見たい、ということなのでは ないでしょうか。(それは不可能だと私も思いますが) Time : 1999/ 6/29(火) 12:52:09
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 游惟様のご意見を読んで Comments:  解説ありがとうございます(初めてネームの読みが分かりました)。 大筋では,合意できていると小生も感じていました。 でも定義だけの違いといいきれないところもあります。 こだわりますが,細かい点で少しだけコメントさせてください。 >ただ、自然科学や他の社会科学では再現可能な実験や観察といった >「客観的方法」で仮説の検証ないし追試が可能であるのに対し,・・ これは小生は認めていない点です。何が排除された「要因」かは、 われわれ人間には不明で,まったく「同時刻」「同じ場所」での 再現が可能でない限り,「再現可能」ではないと思います。 つまりは、「厳密な意味での再現は不可能」ということです。 同時代・同じ場所という枠をはずしてよいのなら、歴史でも 実験は可能です(ただし、時代は現代に限られますが)。  何光年も離れたところから来る,どんなノイズが混じっているやも知れない わずかな光のデータから,その星の状態を科学的に推測することもあるでしょう。 この場合、能動的に働きかける実験は不可能です。 しかし、類似の実験を地球上で行うことで,代用することもありえます。 まったく同じ結果が得られる保証はありません。 行って確認することが出来ないので,このような学問は「科学」から外れるのでしょうか? その点で,やっぱり歴史とも、おっしゃるほどは大差ないように思います。  (実験)結果が,時刻や場所に依存していないと思うのは人間の恣意です。 (歴史的考察で,このように考えたら,トンデモ扱いされるでしょう) もっと言えば,時刻や場所ですら本当に正しい概念かどうかは分かりません。 一応ワイルの指摘によって,場所3次元・時間1次元の座標軸4つの空間に われわれは属していることになっていますが,さらにもっと別の座標軸が あるかも知れません。しかも時間軸のみ逆戻りできないということになっています。 (なぜ3と1でその1が特別なのか、それが必然なのか,誰も説明・証明できません。 ということは,まったく違っているという可能性は残されています。) また、その枠組み自体が間違っていて,将来全く別の枠組みに取って 代わられるかもしれません。 その結果,現在超能力とか超常現象とされていることの一部は「科学的に」 解けるかもしれません。その意味で,O教授に反対しているわけです。 Time : 1999/ 6/29(火) 14:58:18
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 游惟様、違っていたらごめんなさい Comments:  下の記事は勘違いしているかもしれません。 引用部分は游惟様のご意見と思ってのコメントですが、 ただAnon様の考えを代わりにまとめただけかも しれませんね。すると、見当違いの意見を述べたことに なります。どうも申し訳ありません。  ただ、Anon様のご意見は変化しているように見えます。 両極端とおっしゃっていますが,それこそ游惟様と同じかも しれません。Anon様の返事待ちというところです。 Time : 1999/ 6/29(火) 15:17:13
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 倭人水軍(海賊おあるいは貿易船)と倭国(もちろん 日本も)は同一ではありません。「引き抜かれる」 ということではなくて、当初から倭国側に着く倭人 水軍と中国側につく倭人水軍がいたであろうという ことです。 その水軍の発生をたどれば、恐らく中国や高句麗の 傭兵として形を成してきたのだろう(証拠がありませ んが)と推測しています。 この傭兵として組織を成したものの中から、中国王朝の 権威のもとで「倭国王」を名乗るものが現れてきた、 それがこの時代の「倭国」であり、複雑な王統の推移 (新旧唐書によれば)の後、近江朝として「日本」という 国家概念に到達したのであろうということです。 Time : 1999/ 6/29(火) 15:53:22
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 歴史概念もまた「真実」など取り扱えません。 繰り返すしかありませんが、歴史の記述者 と歴史意識の構築者の双方の主観からしか 歴史は構成できません。 従って歴史学は科学としての性格を有さず、 むしろフィクションに近いと言うことになります。 学問分野で類似物を探せば、それは文学です。 Time : 1999/ 6/29(火) 15:58:23
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 私はいちおう591年説です。 崇峻、推古は架空ではないでしょう。ただ、書紀の 記述とは当時の実際の倭国の状況が違うだろう ということです。 逸年号の存在でも傍証されるように、この時代の 王統は書紀が描くほど単純なものではないでしょう。 Time : 1999/ 6/29(火) 16:05:21
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 斉一性と検証可能性が同レベルで論じられ ているように読みとれますが、この両者は存在 する層が違います。斉一性の下層に検証可能性が 位置します。 大阪JF生さんは、斉一性を認めないと言う立場 なのでしょうか?とすれば議論すること自体がそもそも 無意味となります。 斉一性は検証不可能であるけれども受け入れる しかない、ヒトの置かれる立場とはそんなものでしょう。 Time : 1999/ 6/29(火) 16:19:08
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、またわからなくなってしまいました Comments:  やっと納得できるレベルにきたと思ったら, また、元に戻ってしまいました。 ちょっとご意見が矛盾していると思うのですが, >科学は本質とか真実を扱わないのです。 歴史も科学も真実は取り扱わないとお認めですね。 つまり、はっきり言えば,両方フィクションです。 >従って科学的実験は有効性を実証できればよいのであり、 >恣意的であれ何であれ結果オーライです。 とおっしゃることと、 >歴史の記述者と歴史意識の構築者の双方の主観からしか >歴史は構成できません。 は、ちぐはぐです。フィクションであり主観であることも (レベルが違うにしても)おなじであるならば、 「従って歴史は未来を観るための有効性を実証できればよいのであり、 恣意的であれ何であれ結果オーライです。」 と言い換えて,なぜいけないのですか? むしろ、そんな甘い基準で, 歴史を論じてほしくないと逆に言われるでしょう。 (それで、前回冗談的な解釈を述べておいたのです。)  自然は正直に姿をさらけ出しているかもしれませんが, 観察者がそれを素直に受け取れるかは保証の限りではありません。 (心理学実験で,だまし絵的な物はいくらでも挙げられています。) ましてや、不要なノイズが含まれていればなおさらです。 そのような実験データの記述者と,科学理論の構築者が しばしば一致する点は、たしかに「歴史」と異なりますが, 「主観」から誰も逃れられない以上、決定的な差異を 述べておられるとは思えません。  それから、用語の使用がしばしば不適切で分かりにくいのですが, 「斉一性」をどのような意味で使われているのですか? 通常はホモジーニアスの意味と思いますが,ポランニーのように    「暗黙のうちに了解・合意されている事実」 という意味でお使いですか?それなら行きがかり上パラダイムと 言っておくべきです。その意味で解釈すると, >斉一性を認めないと言う立場なのでしょうか? >とすれば議論すること自体がそもそも無意味となります。 では、またパラダイムがユニークだと主張なされていますね?  それではパラダイムは無意味です。 どのように解釈すれば良いのですか? あいかわらず「検証可能性」も使用しておられますが, これと共に,用語の使用法を誤っておられませんか? Time : 1999/ 6/29(火) 16:59:13
Name : 輔住 E-mail : Title : 再パニック Comments: Anonさん返信ありがとうございます。 >当初から倭国側に着く倭人 >水軍と中国側につく倭人水軍がいたであろうという >ことです。 ------------------------------------------------ >海賊と対抗するためには海軍力が必要に >なります。世界の歴史が示す、こんな時の海軍力 >とは、当の海賊を雇い入れることです。 ------------------------------------------------ 上下の文章は少し矛盾があるようなきがしますが。 (こういうことは揚げ足をとるようであまり好きじゃないですが) また当初から別れていたとしら原因は何かあるのですか? (倭人水軍同士が新羅や唐を目の前にして) さらに倭人水軍同士がこのような状態で 中国や新羅の水軍と戦う道を選ぶとは思えないのですが。 いつも質問ばかりで申し訳なく思ってはいますが...。 Time : 1999/ 6/29(火) 17:36:47
Name : 金融亭丸祐 E-mail : Title : 大阪JF生さまへ Comments: 一度意見を投稿すると、際限なく続いてしまうのではないかと危惧しています。 議論が混乱している様なので、もう一度意見を整理します。 大阪JF生さんの意見(6/28)の要約: 「科学が完璧な検証の上に成り立っている様に考えている人が多いが、 歴史的に見ると検証が不十分な段階で容認された理論も数多くある。 もし『完璧な検証』が必須要因であるなら、現在認められている多くの理論は、 その初期段階で葬り去られていただろう」 金融亭丸祐の意見(6/28)の要約: 「科学理論の構築段階では『完璧な検証』を求められていた訳ではないし、 求めるべきでもない。(例:分子論、相対性理論) しかし最終的にその理論が正しいかどうかの判定に際しては、 厳密な検証がなされている筈である。 歴史学における検証は、どのような判定基準でなされているのか?」 大阪JF生さんの意見(6/29)の要約: (1)科学の結果は「真実」とは言えず、「仮説」あるいは 「暫定的近似モデル」であり、どこまで行っても修正を要する。 (例:アインシュタイン、超弦理論など) (2)歴史の仮説と科学の仮説との間に、信頼度の違いはあっても、 本質的な違いはない。 (3)TVに良く出てくるW大のO教授は、科学絶対主義者であり、 自分はそれに反対している。 一つお願いがあるのですが、反論をされる際には こちらの意見を良く読んで欲しいということです。 私は何も科学絶対主義を主張してる訳ではないし、 「アインシュタインが『自然界は単純な法則で成り立っている筈である』 と考えた」と言っただけであって、 私が全く同じように考えている訳でもありません。 ましてや「そうあって欲しいと願っている」訳でもないのですから。 私が述べているのは、 「科学理論に完璧な検証を求めるべきかどうかという点については、 理論の構築段階と最終判定段階とでは、区別して考えるべきである」 ということなのですから。 マッハは「構築段階においても、検証できないものは排除すべきだ。 一切の仮説は立てるべきでない」と考え、 それがあまりにも行き過ぎだったという反省から、アインシュタインは 「自然界は単純なはず」との指導原理のもとに相対論を構築しました。 この指導原理自体は、根拠のないものです。 それまでの科学の歴史において、森羅万象の多くの物事が 驚くほど単純な原理にまとまりつつあったことは事実ですが、 それまでがそうであったからと言って、 その後もそうであるという根拠にはなりません。 単なる「信念」でしかないのです。 マッハは「その様な信念自体が予断であり、けしからん」 と考えた訳であり、アインシュタインは 「いやいや、信念を持つこと自体は構わない。 最終的な検証を実験や観測に基づいて厳密にやれば良いのだから」 と考えた訳です。 なお私は、「歴史学の仮説が科学のそれよりも信頼度が低い」 と主張している訳でもありません。 「歴史学では、どのような基準で検証を行っているか?」 と問いかけただけなのですから。 私の理解している所では、科学理論の検証基準は、 (1)誰がいつどこで実験しようとも、その理論を検証できること。 (2)どのように意地悪く考えても、その理論を用いて記述するのが 最も合理的であること。 (3)理論自体が内部に矛盾を含まないこと。 の3つです。 JF生さんは異論があるかも知れませんが、 この3つの基準により認められた理論は、 将来、修正(あるいは、より広範な原理への吸収)の可能性があるにせよ、 その時点では信頼して良いと思います。 (それを「真実」と呼ぶか「仮説」と呼ぶかは、 どちらかと言えば神学論争です) しかし逆の意味で、上述の検証基準が厳しすぎるために、 確かに存在する現象や原理であっても、科学の判定基準に照らし合わせて、 「そんなものは証明できない」とされてしまう可能性があります。 例えば我々人間を初めとする生物は、 自分の自由意志で行動していると考えられています。 この文章にしても、私自身は 「自分が書こうと思って書いている。自分の体を形づくる物質が 物理の法則により、自動的に動いてキーボードを操作している訳ではない」 と考えています。 しかしこのことは、上述の検証基準に照らすと、必ずしも明白ではありません。 けれども我々は「多分それで間違ってないだろう。 自分は自分の意志で動いているのだ」と考え、日常生活を送っています。 だからこそ、「責任」という概念も生まれる訳です。 従って、私自身のスタンスは 「きちんと検証された理論や法則は信頼して良いが、 検証されてないからと言って、必ずしも信頼できない訳ではない」 というものです。 そのような意味において、私は科学絶対主義者ではありません。 Time : 1999/ 6/29(火) 17:46:16
Name : だむす E-mail : Title : こちらでは、はじめまして Comments: みなさん、こんにちは、ノストラダムスの信者だむすです! 歴史は科学かどうか?と考えた場合科学的に連想すれば科学であり、文学的に物語をくみたてれば、文学なのでしょう。 たった一つの事象をとりだしても、物の見方によっては解釈がことなってきます。 これは、ノストラダムスの「諸世紀」の翻訳と解釈をみてもさまざまな解釈が成り立つことが如実にあらわしていると思います。 Anonさんの中での、古代倭国は、中華の一部でしかないという観点から出発しているようにみうけられます。 つまり、倭人も中華の民であり独立した部族でも民族でもなく、ましてや国家などではありえない、という事だと思います。 つまり倭国と隋や唐、そして半島の国々の争いは内乱にすぎないという考えだと思います。 そしてこれは、古代の人々にとって当然の意識であったという事なんですが、果たしてそうなんでしょうか? 山や長城、そして河さらには海という地域を区別するものがあり、その中でしか 生きられない大多数の古代人にとって、 中華国家というものは絶対的な国を表す評価の基準として存在し得たとは私は思いません。 ヨーロッパでは、全く同じ平野の中に数カ国が混ざっています。 これは、国というものの実際的な目的に支えられて必然的に生まれたものです。 同じように、アジアでも超大国中華があるにせよ、絶対的な国としての目的をもつ集団が発生してもおかしくないでしょう。 観念的な意味での国家思想を持った国は中華だけだったかもしれませんが、それと歴史の中での国という意味は違ってとうぜんです。 輔住さんが水軍という事にこだわられていましたが。それに対する答「傭兵」というのもよくわかりません。 倭国の水夫たちは自分の権益を放棄してまで中華に尽くすという洗脳と教育を誰によつてなされたのでしょう? 傭兵として一時的に褒美をもらうより、子々孫々にわたっての権益を育み守ることの方がよほど人間の本能に従順だと思います。 Anonさんいかがでしょう? Time : 1999/ 6/29(火) 17:46:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「蟻の一歩」?? Comments: 游惟さん、はじめまして。 「すべての史観を排して歴史をみたい」蟻ん子仲間のAwajiと申します。 Awajiは、タダノ仏像好きですので、難しいことは分かりませんが、 貴方は、「史観」と「仮説」を混同しておられませんか? ここでKANAKさんやAwajiが批判している「史観」は、特定のイデオロギー や、ある方が示されている特定の思想的前提のことです。 例えば、稲荷山鉄剣に関して言えば、 1.日本列島で製作されたものか渡来品か? 2.稲荷山古墳はいつ頃造営されたものか? 3.鉄剣の持ち主は、古墳に埋葬された人物か? 4.「天下左治」「獲加多支鹵大王」は何を意味するか? 5.辛亥年は、411・471・531・591年の何れを意味するか? ここには必ず史実(事実)があります。 これらを、鉄剣の形状・材質・象眼技術、銘文の字体・用語・用法、古墳 の形状・規模・副葬品・埋葬方法、地形等・・・から考察すれば、現時点 で最も蓋然性が高いと思われる推定(仮説)が導き出せると考えています。 この知的作業に何らかの「史観」が必要でしょうか? Awajiは、これら個々の判断材料から、様々の作業仮説を経て・・・ この鉄剣は、日本列島において製作されたもので、近畿に存在した大王に 仕えた関東の豪族の、5C末〜6C初造営の稲荷山古墳と呼ばれる墳墓埋葬の 副葬品で、辛亥年は471年である可能性が高いと判断しています。 これに反する仮説(592年)に対しては、上記の諸判断材料との整合性を 個々に検証することが可能だと思っています。ここでも何らかの「史観」 は不要でしょう? そして、以上の推定(仮説)と外国史書・記紀等の文献史料とを総合判 断すれば、5Cの日本列島の権力構造(国家体制)を解明する有力な手 懸かりになると考えます。 これらの事象を積み重ね、過去の史実(真実)に接近(解明)すること が歴史科学であると考えます。 それを蟻ん子の無駄な努力とお考えになるのは貴方の勝手ですが、傲慢 に過ぎるのではないでしょうか? Time : 1999/ 6/29(火) 21:51:07
Name : XXXX E-mail : Title : なんだかさっぱりわからん Comments: 茶化し屋のXXXXです。 ずいぶん前にはノムさんに酷いことを言った、許してください。 しかし、ここの掲示板では、熱が入るとすれ違ってばかりだな。 Anonさんのいうことは、さっぱりわからん。 難しい言葉を使えば相手が納得すると思っているのかね。 誰にでもわかる、簡単な言葉を使いなさい。 Time : 1999/ 6/29(火) 23:17:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「書紀の出鱈目」??? Comments: 大阪JF生さん、今日は。Awajiです。 天智韓人説批判に関するご理解、ありがとうございます。<(_ _)>ペコ Awajiにとっては、とても意外だったのですが、(・・?) >>隋書倭国伝に目を通せば明らかなように、上宮王家に関する日本書紀の >>記述は虚偽であろうと思われます。 >>もっと言うなら、日本書紀のコスモロジーである讖緯説に着目すれば、 >>白村河以前の記述はすべて創作されたものである可能性があります。 とのご意見でしたので、当然ながら崇峻、推古は架空と断言頂けると期待 していたのですが、残念ながら実在していたそうです。(>_<;) ただ契丹人なのか、漁師の女将さんであるのか、何故実在していたと考え られるのかは良く分かりませんね。(^0^)" 崇峻暗殺の犯人は、蘇我馬子であると(書紀に)明記されているので、事 実とお考えのようです。すべて創作ではないらしいのですが、その真偽は どのように判断されるのでしょうね。(・_・;) どうやら、古人大兄も実在していたらしいですね。ところで、この古人大 兄と言う方は何者なのでしょうか? 天智は韓人(百済人)だそうですが、古人大兄は天智を指して韓人(百済人) と言ったのならば、おそらく韓人では無いのでしょうね。 とすれば、天智の異母兄弟ではなく、倭国の王族でも無いのでしょうか? そういう人間が、何故に蘇我誅殺の現場にいたのでしょうね。 彼は倭姫の父なのでしょうか? そして天智に誅殺されたのでしょうか? 虚実の判定は、すべて何方かの胸三寸にあるのでしょうね。(^0^)” 天智韓人説は、研究者の暗黙の一致だそうですよ。この方は「研究者の暗黙」 をどうしてご存知なのでしょうか? あるいは超能力者かもしれませんね。 どうやら逸年号の存在も認めておられる様ですが、年号の制定は「天子」の 特権(属性)です。とすれば、この方はやはり中華とは無関係に「倭国天子」 が存在していたとお考えなのでしょうか?(・_・;) 「倭の武王」等と言う胡散臭いものは、勿論「宋書」の出鱈目なのでしょうね。 (^_^)/~ Time : 1999/ 6/30(水) 00:15:37
Name : だむす E-mail : Title : わかんない Comments: わかんないことでもいいんじゃないんですか? ただみてるだけにしてたら? Time : 1999/ 6/30(水) 00:17:06
Name : だむす E-mail : Title : 下の投稿 Comments: 下の投稿は、XXXXさんへのものです。 私はノストラダムスの信者なのであちこちの掲示板で迫害?されてきました。 XXXXさんはなんの権利があってさんは尊大な態度(下記のような)がとれるのでしょう? >難しい言葉を使えば相手が納得すると思っているのかね。誰にでもわかる、簡単な言葉を使いなさい。 ロムしている人を代表して文句をいったつもりですか? それとも個人的な意見なのですか? 私は小小のすれ違いがあっても議論が見れるのは楽しいです。 あなたはなんのためにこのページにきてるのですか? 文句をいうためですか? 私はあなたのような人こそ何がいいたいのかわかりません。 どれだけ素晴らしい知識をお持ちかはしりませんが、なんの努力(例えば大阪JF生様 のように)もせずにいちゃもんだけつけるのはおかしいと思います。 議論のすれ違いに我慢できないのなら、もう少しちがった方法で意見を述べるべきです。 私にもあなたに苦情をいう権利は勿論ありません。 気を悪くされたのなら深くお詫びいたします。 「申し訳、ごいませんでした。」 もしあなたが素晴らしい知識をお持ちなら、まずあなたの意見をおきかせください。 もし本当に、Anonさんの使う言葉の意味がわからないのであれば、それをお尋ねになればいいのではないですか? >誰にでもわかる、簡単な言葉を使いなさい などという高慢な表現は、はっきりいって不快です。 以上XXXXさんの投稿への、私の個人的感想です。 無視していただいても結構ですよ>XXXXさん。 Time : 1999/ 6/30(水) 00:49:48
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : XXXX氏へ Comments:  今の内容拙者は楽しんでおる。だむす氏の言うように、分からなければ 黙っておれば良い。  拙者と紛らわしい言い方はやめていただければ幸いである。 Time : 1999/ 6/30(水) 06:37:16
Name : XXXXXXX E-mail : Title : アトムボーイ1へ Comments: おまえもな!!! Time : 1999/ 6/30(水) 07:40:02
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: 歴史とは何なのか、「有効性」を求めるものなのか? 私はそう考えません。やむを得ずの繰り返しですが、 歴史とはヒトの意識のあり方を規定するものであり、 現代では人類意識と呼びうるものと等価です。 日本史に話を絞っても、それは日本人というあり方 を規定するものであり、日本人意識と等価です。 古代史を含めて日本史を論ずるという過程は、 自己像を探り当て、場合によっては解体(解放) する作業となります。 斉一性は言うまでもないことですが、"uniformity" の訳です。パラダイムとは関係なく、論理を含めた 存立の基盤です。 「検証可能性」ですが、私の用法は誤りではありま せん。 Time : 1999/ 6/30(水) 07:45:53
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんへのres Comments: 矛盾はありません。 倭人世界と倭国は別物と考えてみて下さい。 倭人世界は海洋民世界であり、多くの集団に 分かれていました。そのうち強大で中国を後ろ盾と したものが倭国です。倭国に含まれる以外にも 多くの倭人集団がおり、海賊/貿易に従事して いたことでしょう。 彼らの多くが倭国ではなく中国側に着くのは 当然のように思われます。 Time : 1999/ 6/30(水) 07:52:44
Name : Anon E-mail : Title : だむすさんへのres Comments: 古代の国家意識は、現代(特に近代国家以降) のものとは根本的に異なります。そもそも、領域 国家(領域が定まり国境がある)は、近代以降に 発生したもので、古代には存在しません。 では古代の国家意識とはどのようなものかを 推定してみると、東アジアの場合は、中華思想 (天命思想)しか存在しないことが分かります(東 アジア以外は、例えば游惟さんリファのウェーバー 等参照)。 天命思想ではない別物(例えば万世一系思想) を発明することは極めて困難であり、事実、この 万世一系もまた、北方遊牧民文化からの影響で ようやく産み出されたものです。 中国王朝の傭兵になることが、倭人意識(アイデン ティティ)の醸成に不可欠だったのではないかと、 私は推定しています。 傭兵になることで失う権益というのはありません。 逆に中国王朝というカリスマを背景にするという 多大な権益を得ることになります。 Time : 1999/ 6/30(水) 08:04:11
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのコメント Comments: 「史観」が必要なのです。 Awajiさんは歴史学と考古学を混同されています。 この両者は概念範疇が異なり、そのまますりあわせ ようとすれば(また事実、日本の古代史家はこの誤り を安易に侵すのですが)カテゴリーエラーとなります。 カテゴリーエラーは気がつかれにくい問題ですが、 だからこそ厳密な立論が求められます。表面上、 歴史学と考古学のカテゴリーエラーを回避する 方策は、両者を包含する集合、つまり「史観」を 設定することです(実際の「史観」はもう少し広い 概念です)。 Awajiさんは無意識に「史観」を設定していることに なります。 Time : 1999/ 6/30(水) 08:10:34
Name : Anon E-mail : Title : Awajiさんへのres Comments: 上宮王家の滅亡は、一つの王統の滅亡でしょう。 この王統(国)は、仏教王国という特性を有し、中国 正統に挑戦していますから、かなり明確な輪郭を たどれる、一つの王国だったのでしょう。 石舞台古墳が暴かれている(らしい)ことからみて、 この上宮王国を滅ぼした勢力は、大陸的な心性 を持っていたと推測できますし、「韓人」という、 おそらく添削漏れは、その傍証となります。 新旧唐書の記載と併せ、推古記の記載には、 少なくとも合理的な疑義があるのです。 天智韓人説は「暗黙の一致」ではありません。 この「韓人」という言葉を棚上げにするというのが 暗黙の一致と言うことです。 逸年号と「日出る処の天使」は対応していますよ と言うことです。 Time : 1999/ 6/30(水) 08:22:32
Name : 輔住 E-mail : Title : 深まる疑問 Comments: Anonさん返信ありがとうございます。 >矛盾はありません。 >倭人世界と倭国は別物と考えてみて下さい。 ------------------------------------------------ >海賊と対抗するためには海軍力が必要に >なります。世界の歴史が示す、こんな時の海軍力 >とは、当の海賊を雇い入れることです。 ------------------------------------------------ だとすると何のためにこの文章を書いたのかが まず、分かりませんが...。 また貿易などに関連していた海賊が 勢力の大半が中国につくのはなぜですか? 私の感覚だと中国人は中国側 日本(倭)人は日本(倭)側に大半が つくと思いますが。 Time : 1999/ 6/30(水) 08:59:31
Name : はてなマン E-mail : Title : 輔住さんへ Comments: おはようございます。 Anonさんによると、この当時「日本人」はいないそうです。 アジアに住む人々は皆中国人ということです。 倭とか(とっけつ)は地域名らしいです。 倭に住んでいる中国人らしいです。 観念的でついていけません。 Time : 1999/ 6/30(水) 09:14:00
Name : だむす E-mail : Title : Anonさんの史観を学ぶ会? Comments: みなさん、おはようございます。 いやー、楽しくなってきましたね? つまり、中央政府(中華)に反抗する勢力(倭など)は国家ではなく、一地方のゲリラみたいな感じでしょうか? そうすると、中央軍がでてくると民は中央軍に味方する、という事でしょうか? Time : 1999/ 6/30(水) 09:53:22
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、残念なご意見です Comments:  レスを拝見しましたが,残念ながら,議論は無駄なようです。 通常,研究的な活動をする人たちは, テクニカルタームを正確に使いこなそうと努力します。 逆に,用語を不正確に使うと信用を無くします。 最初から,その点ご注意くださいと申し上げたのですが, >斉一性は言うまでもないことですが、"uniformity"の訳です。 >パラダイムとは関係なく、論理を含めた存立の基盤です。 クーンは論理を含めた存立の基盤をパラダイムと呼びました。 >「検証可能性」ですが、私の用法は誤りではありません。 このように開き直られるならば,もはや小生が意見を述べる 必要もないでしょう。 Anon様の歴史的な考察も,小生にとっては信頼を無くしました。 Time : 1999/ 6/30(水) 10:14:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様,対象は小生? Comments:  救世観音と「書紀の出鱈目」???拝見いたしました。 内容はもっともなご意見ですが,小生宛ての記事ですか? それとも、Anon様を応援するつもりという小生の 発言から,身代わりにされたのかな?  それでももちろん,いつもながら勉強になるご意見です。 都合の良い書紀の記述は採用し、ほかはでたらめだというのは、 ちょっといただけませんし,説明・検証不足は明らかです。 小生が,科学についてAnon様がどうとらえておられるかを たずねたのは,「検証」をどのようにお考えなのか疑問に 思ったからです。  前記事に書きましたが,残念ながらトンデモだったようです。 Time : 1999/ 6/30(水) 10:23:42
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 金融亭丸祐様、反論していたつもりではなかったのですが Comments:  ご意見ありがとうございます。 非常に奇異に感じますが,小生は記事をちゃんと読んで 返事を書いているつもりです(すこしオコッテルかな?)。 別記事で触れましたように,金融亭丸祐様とも大筋で 合意したと解釈していましたが,違うのですね? でも、今回の記事をみても、以下の点を除いて, 意見が違っているとは思えないのですが。小生も >その時点では信頼して良いと思います。 とおっしゃることに何ら異存はありませんし, それを否定したことは無いはずですが・・・ むしろ小生を要約された部分は,少し勘違いをされていますが, あえてそれには触れませんでした。 小生の文章を良くお読みになれば,すぐわかることですが、 >検証が不十分 だとは、小生は言っていません。当時は信頼に足ることだったのです。 また、金融亭丸祐様が御自身を要約されていますように, (この場合,あまり勘違いは無いはずですが) >しかし最終的にその理論が正しいかどうかの判定に際しては、 >厳密な検証がなされている筈である。 というご見解が少し違っていませんかと、のべているのです (いつが最終なのですかという質問もこめて)。 記事を読んだまともな反応だと思いますが、違っていますか? 基準の1)については,同じ繰り返しは避けたいので, 拙記事「游惟様のご意見を読んで」(1999/ 6/29(火) 12:52:09) をご覧ください。 >2)どのように意地悪く考えても、その理論を用いて記述するのが    最も合理的であること。 と主張なさるお気持ちはわかりますが,不可能なお題目です。 そのような基準に絶えうるものはないでしょう。 仮にそうなら、量子力学の場合のように科学者同士の論争は起こり得ません。 最もこの基準を適用できそうな「数学」の分野でさえ, 学問的な論争は起こっています。 >3)理論自体が内部に矛盾を含まないこと。 というのも,厳密には無理な注文です。「どんな厳密な論理体系に おいても、矛盾が生じて判定不可能な問題がある」と証明されています。 (ゲーデルの不完全性定理ですが、ご存知ありませんか?) 理論は論理的に表現されていないと無意味でしょう。 したがって、あらゆる理論は内部矛盾を内包しています。 だから、悪いのだといっていません。それが実態だといっているだけです。 データとの矛盾を含みつつも発展してきた科学の姿を記述してきたつもりです。 >「歴史学では、どのような基準で検証を行っているか?」 これについては,小生は答える資格が無いので黙っていましたが, さまざまな立場で、検証を行っているというのは,游惟様の記事で, ご承知だと思いますが。 科学と違って,「何が検証にたる基準か」ということ自体が, 議論になり得ます。統一見解は難しいでしょう。 個人的には,游惟様と同様に多くの他の学問的な成果を総動員して, チェックすることと捉えています。当然未解決問題が多く残るでしょうが, それは科学においてもありえることです。 以上のことは,別の言い方でずっと主張してきたことなのですが・・  その上で,逆に質問したいのですが,上記の意味で割り引いて >「きちんと検証された理論や法則は信頼して良いが、 >検証されてないからと言って、必ずしも信頼できない訳ではない」 とおっしゃることに全く異存はありませんが, >「歴史学の仮説が科学のそれよりも信頼度が低い」 と違うのであれば,多くの基準が乱立している歴史学においては, 信頼度という以前のレベルだとおっしゃるのですか? 何に強く反論されているのか,判断に苦しみます。 Time : 1999/ 6/30(水) 10:35:02
Name : Toshy E-mail : Title : 歴史は文学?! Comments: 文学部出身のToshyです。 この前Anonさんの「歴史観」を自分なりに解釈しましたが、 どうやら私の考えはAnonさんのものと違っていたみたいです。 私は、歴史は文学という点でAnonさんに近い考えを持っています。 それは、歴史とは史書の読み方によって違った側面を出すからなのです。 たとえば、だれかが「範頼天才」をここで書いていましたが(だれだ?!)、 あれは範頼にとって都合のよい記事だけを抜粋すればこうなるのです。 また「伊達騒動」で逆臣とされた原田甲斐ですが、 山本周五郎氏の「もみの木は残った」で名誉を回復しました。 史書とは当時の人々、そして後世の人々が、自分なりに考えたことをまとめて書いたものです。 ですから、史書とは文学といえるのです。 そして歴史研究というものは、物理化学のように、実験で正確な結果が出るものではありません。 私は小説を書くように歴史を作り上げるのが好きですね。 自分で話がわからなくなった。。。。。 アトムボーイ1さん、しばらくですね。ノリをみると関西系のようですが、どうですか? Time : 1999/ 6/30(水) 10:38:46
Name : Anon E-mail : Title : 輔住さんとはてなマンさんへのres Comments: 時代にもよりますが、突厥の国家意識は 中央アジアの影響から、早くから天命思想 を抜け出していたと考えられます。 倭国が日本として、中国世界から独立した 国家思想を持つのは、近江朝以降です。 白村江の時点では、倭人世界は中国世界の 辺境であり、倭人としての自己アイデンティティ は希薄です。より有利な方につくことでしょう。 Time : 1999/ 6/30(水) 10:48:30
Name : Anon E-mail : Title : だむすさんへのres Comments: 倭国が隋への疑義を表明したのは、隋が 鮮卑系王朝であったということと、やはり 北方遊牧民の思想が、この時期の倭人世界に 流入したからでしょう。 「ゲリラ」というのも近代的な概念で、古代には 適用できません。 戦国時代以降の中国正統王朝の支配領域の縮小 の結果、東夷に取り残された(あるいは逃げて 来た)中国世界人の一部が倭人であり、しばしの 空白の後、再び出現した隋王朝と再接触し、 かつての中国世界に戻るか、決別するかで揺れ 動いた状況が、倭国→日本という歴史です。 Time : 1999/ 6/30(水) 10:57:02
Name : Anon E-mail : Title : 大阪JF生さんへのres Comments: "uniformity"をパラダイムと言われるのであれば 再び概念の存在層を混同されています。”uniformity” を受け入れることにより、初めて歴史を論じることが 可能となります。歴史パラダイムと言うとき、こちらの パラダイムは"uniformity"を前提とします。 "uniformity"を受け入れるかどうかは、実は「信仰」 の問題となってしまいます。大阪JF生さんは「真実」 を求められているのでしょうか? Time : 1999/ 6/30(水) 11:03:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Anon様、拝復 Comments:  用語が違っていてすれ違いばかりなので, もう、内容について論じるのはやめました。 小生自身は,真実という怪物に立ち向かう, ドンキホーテのようなものだと思っています。 求めはしますが,手にはいらないでしょう。 でも、いくらか近づくことは出来そうです。 Time : 1999/ 6/30(水) 12:13:40
Name : 輔住 E-mail : Title : うーーーーむ Comments: みなさん、こんにちは。 >アジアに住む人々は皆中国人ということです。 >倭とか(とっけつ)は地域名らしいです。 >倭に住んでいる中国人らしいです。 私もこの感覚が分からないから、 Anonさんの言葉が理解できないのかな? Time : 1999/ 6/30(水) 12:16:04
Name : AWAJI E-mail : Title : 救世観音と「言い訳」・・・ゴメンナサイ Comments: 大阪JF生さん、申し訳ありません。Awajiです。 ご指摘のとおり、対象不明のコメントを発信し、ご迷惑をおかけいたしました。 言い訳になりますが、 原文は「Awajiにとっては・・・」の頭に「Awajiの呟き・・・」としていたの ですが、発信時の添削でこの部分が飛んでしまっていました。 あらためてお詫びいたします。 Awajiの呟き・・・・・ **天智韓人説は「暗黙の一致」ではありません。この「韓人」という言葉を棚   上げにするというのが暗黙の一致と言うこと・・・だそうですが、 >>「韓人」ですが、書紀を読んでいただければこれを中大兄以外とするには何か >>理由付けが必要であることが分かります。つまり、そのまま読めば中大兄なの >>です(これは別に私の意見とかではなくて、研究者の暗黙の一致です)。 要するに「これは」が次の何れを指し示すかと言うことでしょうね。 A.「これは」=韓人はそのまま読めば中大兄なのです=天智韓人説 B.「これは」=韓人という言葉を棚上げにすること 上記の文章からBと解釈することが、日本語として一般に通ずるかしら? 一般的には直前に要約されたAと考えるべきだと思うんですよね。 さらに、これを判断する一つの補助材料として・・・ C.「これは」=別に私の意見とかでなく=私だけの意見ではない と仰っているのですが、私の意見=天智韓人説・・・ではなかったかしら? 言い訳をするのなら、もっと堂々と言ってほしいんですよね。 **歴史学と考古学を混同してはいけない・・・そうですが、 Awajiは、歴史学とは主として文献史学と実物史学(考古学)から成り立っ ており、この二つの史学を統合理解することによって、過去の事実(史実) を解明するのが歴史学の使命(本旨)だと思ってるんです。(勿論この事 実には思想・宗教もふくまれます。) 正確な例えではありませんが、医学が病理学と臨床医学で成り立っている ようなものでは無いでしょうか?(犯罪捜査が鑑識・情報収集・推理等か ら成り立っていると言う方が適当かな?) マア・・・どうでも良い問題かもしれませんが?? Time : 1999/ 6/30(水) 12:57:05
Name : きんたろう E-mail : Title : 幻想 Comments: みなさん、こんにちは。 久しぶり(でもないと思うのですが)の投稿です。 日本人は四方を海に囲まれて自然の強力な境界線の中にすんでいますから、海の 向こうの世界は「からとてんじく」のみで、かつ恒久的なものと思いがちなのかも 知れません。 実際に漢民族が歴史的に支配してきた地域の広さは日本の国土の約10倍ほどに なります。 Time : 1999/ 6/30(水) 13:12:45
Name : Anon E-mail : Title : AWAJIさんへのres Comments: 私の考えは、天智王百済起源です。 記述上の問題はご寛恕下さい。 すみませんの揚げ足取りですが、医学は おおまかに基礎医学と臨床医学から成り 立っていますが、医学という同一のカテゴリー 内にあります(ちょっと例外がありますが・・・)。 「実物史学」という概念範疇は存在できません。 Time : 1999/ 6/30(水) 13:47:12
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : Toshyさんへ Comments:  ひさしぶり!!  範頼のホームページはどうなったんですか。  というか、再評価する会は?  またカキコしてくださいよ。 XXXXさんへ  もしあなたが、あきんど2さんだったら、本当に申し訳ありませんでした。 あまりに素晴らしいネーミングだったので、もじってしまったのです。 Time : 1999/ 6/30(水) 14:32:18
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >向こうの世界は「からとてんじく」のみで、かつ恒久的なものと思いがちなのかも >知れません。 そんな風に考えてしまう部分がどこかあると思います。 どこか自分たちとは別世界というかそんなイメージが...。 Time : 1999/ 6/30(水) 15:31:10
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >向こうの世界は「からとてんじく」のみで、かつ恒久的なものと思いがちなのかも >知れません。 そんな風に考えてしまう部分がどこかあると思います。 どこか自分たちとは別世界というかそんなイメージが...。 Time : 1999/ 6/30(水) 15:31:34
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >向こうの世界は「からとてんじく」のみで、かつ恒久的なものと思いがちなのかも >知れません。 そんな風に考えてしまう部分がどこかあると思います。 どこか自分たちとは別世界というかそんなイメージが...。 Time : 1999/ 6/30(水) 15:31:51
Name : 輔住 E-mail : Title : すみません Comments: 間違えて同じ内容のものを3度も送ってしまいました。 管理人さん2つは消去してください。 すみませんでした。 Time : 1999/ 6/30(水) 15:34:47
Name : Toshy E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ Comments: 私のHPにお立ち寄りくださって、ありがとうございました(^ ^) 今は本業の(?)芥川の方で忙しく、のりよりどころではないのです。。すみません。 ところで、古代の人は海外をどのように思っていたのでしょう。 例えば安部よりとき公は、源義家との戦いを避けるために北の土地を目指しました。 北海道のようなのですが。。 そこは「胡人」と呼ばれる騎馬民族の住む土地であり、いそいで逃げ帰ったというのです。 また唐と日本を往復する船が途中で立ち寄った島を「とらの島」と呼んでいたり、 佐渡の北には巨人が住む島があったりと、海の向こうに対する思いは、 まさに輔住さんがお書きになったようなところがあります。 以上、ユートピア文学研究家のToshyでした (肩書きがしょっちゅう変わっている) Time : 1999/ 6/30(水) 15:57:53
Name : 志田 糾 E-mail : Title : 独り言 Comments: 皆様、議論を横から見る立場として、ちょっと独り言。 立場からいうと游惟さんと近いかもしれませんが、私の考えることは 游惟さんが述べられていることで有り余ります。 但し、科学論の世界では、パズル的な発想も素晴らしいのですが、現在と 過去との相違の大きさは時間概念の広さによる曖昧さですが、空間概念でも その曖昧さも増しますし、運動概念でも曖昧さが増すもので、この認識の 宿命については、今のところ、ネットワークによるコミュニティでしか補え ないような気がしています。 科学という概念が死語になっているのは、科学が工学(実証性、有効性)の 世界に取り込まれた以降であると私は思っています。死語以前の科学というと難 しいですが、仮説性と予測性が保証されることを前提とすると思います。 もちろん、予測性は工学の力を必要とします。 ところで、科学や学会という概念が氾濫し、本来の科学が何であったのかという 問いかけの中で、井沢さんは歴史に対する仮説を立てられ、その予測の作業に 入られたのは素晴らしいことで私もうきうきしながら、ファンクラブに入って いる気分です。 本掲示板での議論も各自そうした認識での議論が繰り返されているのを楽しく 読ませて頂いております。ずるい方法ですが、史書を読みこなせない人間が史書に 触れる数少ない場所として重宝しています。だから、こぐらい常識といわれると ぐっと胸を突かれます。KANAKさんを取り巻く議論もそうでしたが。 しかし、こうした掲示板こそが紙文化に代わって真実を伝達できる社会になろうと いう感触を私は持っています。すなわち、ネットワーク文化がようやく、日本で も根づき始め、そこでの真価が問われるこのごろです。したがって、ここの掲示 板での議論はすごく貴重です。勝ち負けではなく、真実が検証される過程があるか らです。実験室や学会でのシンポジュームよりもはるかに素晴らしい議論が可能で すし、そうあるべきです。アマ・プロは極限られた世界で通用する言葉ですが、 最初は全員が白紙でしかないのですから、こうしたこうしたコミュニティが白紙を 真っ黒にして、真実を埋め合わせることこそ重要です。 私には白地図のような歴史があります。時間も、空間も、運動量も完全に不足です が、この白地図を何とか埋めたいという希望と、これを埋めないと世界はとんでも になるという焦りの中で、楽しく、皆様の議論を観戦しております。 事実の類は明確な記述がうれしいです。史観については自己主張が必要です。 仮説については予測したいことを述べて頂くと助かります。私たちは現在から 未来を予測する宿命にあります。そのためにも過去の歴史は正確に知っておき たいのですが。 ちょっと虫のいい話ですみません。 Time : 1999/ 6/30(水) 16:35:38
Name : だむす E-mail : Title : Anonさんへ Comments: 古代の倭が中華世界の一部だという事は理解できました。 しかし、朝貢空白の間、倭国はどういう動きをしていたのでしょう? 倭国の指導者はぼんやりと、中華の指示をまっていたのでしょうか? 海洋民なら大陸ともう少しつながりがあって当然ではないでしょうか? Time : 1999/ 6/30(水) 19:01:09
Name : 游惟 E-mail : kanpon@ops.dti.ne.jp Title : Awajiさんへ Comments: Awajiさん初めまして。きつーいご挨拶ありがとうございました。何か突然 思わぬ方角からボディーブローがとんできたような気分です。 「『史観』とは、特定のイデオロギーや、ある方が示されている特定の思想 的前提」 という定義がみなさん協議の上でなされ、参加しているみなさんがすべてこ の定義を前提として議論を進めているということであれば、新参者の悲しさ 、それを知らなかったということでお許し願うしかありません。 しかし「史観」を一般的な意味で使っているのなら、Awajiさんがいわれる ようなものに限られるわけではありません。 Awajiさんは これに反する仮説(592年)に対しては、上記の諸判断材料との整合性を個 々に検証することが可能だと思っています。ここでも何らかの「史観」は不 要でしょう? とおっしゃっていますが、すでに「この当時の日本は中国の文化的影響化を 受けている国家連合体」という前代の歴史家たちが構築した「史観」を前提 に議論を進めていらっしゃる。そんなのは「常識」であって「史観」などと いうものではない、とおっしゃるかもしれませんが、それはまちがいです。 歴史家たちがある社会のある時代を論じる時、暗黙の合意としている常識的 知識なりイメージなり解釈なりはすべて前代の歴史家達が築いた「史観」の 影響をうけています。 千年後の歴史教科書が20世紀の日本を1〜2ページで記述するとき、それ がどのような内容になるか今日予測することは不可能です。今後日本がより 繁栄の時期を迎えるなら、繁栄の準備期と捉えられるかもしれませんし、衰 退を迎えるなら20世紀は日本の極盛期であったと捉えられるでしょう。少 なくとも何十年か何百年か経た後に歴史家達が他の時代との対比で20世紀 日本を特徴づける史観を示し、それが後代の人の常識になるのであって、同 時代人には同時代の客観的評価や解釈などはできないのです。 さらにもう一つ重大なことをAwajiさんは忘れていらっしゃる。それは これらの事象を積み重ね、過去の史実(真実)に接近(解明)することが歴 史科学であると考えます といういわゆる「歴史学」(大学の西洋史学・東洋史学・日本史学などの専 攻で教えられるもの)自体が一つの相対的な「史観」に過ぎないということ です。 歴史を研究するのは歴史学者だけの特権ではありません。哲学者・社会学者 ・経済学者・文化人類学者などがそれぞれに問題意識をもって歴史を研究し ますが、その方法や目的、さらには「歴史」の定義自体が「歴史学」とは違 います。文字通り「史観」がちがうのです。 「歴史学」では史料に基づいて再現された過去の事実(史実)こそを歴史と 呼ぶでしょうが、ヘーゲルが「世界精神の弁証法的発揚」と定義した如く哲 学者や社会学者・経済学者・文化人類学者などは史実そのものよりもそれら の底流にあってそれらを生起させる法則のようなものをこそ「歴史」と呼び 、それを概念やパターンとして図式的に把握しようとします。歴史学は史実 が主、解釈が従の史観ですが、哲学や社会学は解釈が主、史実が従の史観で す。 このような様々な史観が歴史学の「史実史観」以外にいくつも併存しており 、それは歴史学内部の「マルクス史観」とか「皇国史観」より一段上の次元 の問題です。 この次元から眺めれば、Awajiさんはオーソドックスな史実史観をもつ歴史 研究者であり、すべての史観を排して歴史を眺めている研究者ではありませ ん。 無限定に「すべての史観を排して歴史をみたい」という命題は、@歴史学内 部の皇国史観やマルクス史観のようなものだけでなく、Aもはや常識になっ ているような背景仮説的史観さえも否定し、B歴史学の「史実史観」はじめ 哲学や社会学その他の史観も一切排除して歴史をみる、という意味ではあり ませんか? 私はそういう意味に解釈し、これらの史観すべてを排除して、 なお歴史を見る方法があるとすれば「箱庭の中の蟻になって蟻の目から蟻社 会を理解しよう」というエスノグラフィーの様な方法しかないといっただけ です。この時点ではすでにAwajiさんは「史実史観」に基づく研究者として 除外されています。 エスノグラフィーというのは、何の仮説も立てず当該社会に参与観察してた だ記述しまくるという方法です。例えば暴走族のグループに入れてもらって 、中の人間関係や出来事などを、暴走族になったつもりで詳細に記述してゆ くという方法です。(本当は仮説を立てるのですが、結局記述だけに終わる ことが多い) 歴史でこれをやろうとすると、たとえば朝日文左右衛門の「鸚鵡籠中記」( 「元禄お畳奉行の日記」)の様に何十年にわたって同一人物によって詳細に つけられた日記などをひたすら読み、それを現代語に訳すだけというような 方法になるでしょう。これなら確かに「すべての史観を排して歴史を見」て いることになります。ただし、こんな史料がいくつもあるわけではなく、故 に「すべての史観を排して歴史を見る」のは不可能だといっただけです。( このようにできる場合もあるので「不可能」は言い過ぎだったかも知れませ ん) Awajiさんが私の「史観論」を認めるかどうかはご自由ですが、私の分類に よればAwajiさんは特定の史観に立つ研究者であって「蟻ん子」扱いした 覚えはなく「傲慢に過ぎる」などといわれるのは心外です。 Time : 1999/ 6/30(水) 20:08:55
Name : Toshy E-mail : Title : 朝貢 Comments: だむすさまへ 邪馬台国のような辺境の小国が「朝貢」をするのは、 見返りとして莫大な経済援助を得られるからです。 「朝貢」を行わなかったという空白は、 経済的にも自立できたといえるのではないでしょうか。 Time : 1999/ 6/30(水) 22:29:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「史観」誤解??・・・お詫びいたします Comments: 游惟さん、今日は。Awajiです。 長文のご意見ありがとうございました。 おっしゃるとおり、ここでAwajiが問題とした「史観」は・・・・・ >>ここでKANAKさんやAwajiが批判している「史観」は、特定のイデオロ >>ギーや、ある方が示されている特定の思想的前提のことです。 であり、井沢さんが・・・ >>「・・・にせよ、結論が先に決まっている『史観』は、しょせん歪ん >>だレンズに過ぎない。歪んだレンズでは歴史の真の姿は決して見えない」 と言われた意味でのカッコ付きの「史観」です。 そもそもこの問題は、KANAKさんを非難された方々の・・・ >>単なる歴史文献にのみ依存して井沢先生は非兄弟説を主張されていない >>のは、井沢史観として基本的なことだろうと思います。 >>もし「怨霊説など信じない」というのでしたら、話をそこから進めねば >>ならなくなります。井沢先生の説は独自の「井沢史観」を用いて出され >>たものであり、 >>ところであなたは「怨霊」問題に関しては保留しておられますが、井沢 >>先生の「日本の歴史は怨霊が動かしている。」といった考えをどうお考 >>えでしょうか? と言う様な様々なご意見に対しKANAKさんが、反論された・・・ >>なお、井澤氏の主(史)観的意見や考察については興味がありませんの >>で、一定の資料的事実により、個別問題について具体的にご指摘頂くよ >>う匿名氏さんにお伝え願います。 >>私は、既に申し上げたとおり、「キリスト教」「イスラム教」「中華」 >>「マルクス」「ナチ」「ユダヤ」「皇国」・・・「怨霊」の如何を問わ >>ず「史観」と言う「主観的フィルター」を通して歴史を考察するつもり >>は全くありません。 >>先日のRESでは「史観」に関する私の一般論のみを申し上げましたが、 >>いわゆる「怨霊史観」についての考えを以下のとおり追加いたします。 ・・・・等という意味で論議されてきたものなのです。 AwajiもKANAKさんと同様に、「特定史観」を排するということでは、游惟 さんの言われる「史実史観」に近い立場なのですが、游惟さんがこれらの カッコ付き「史観」に関する経緯をご承知の上で、 >>「すべての史観を排して歴史をみたい」という人は「箱庭の中の蟻にな >>って・・・・云々 の見解を提示されたものであると理解(誤解)いたしました。 その他の部分については少しニュアンスの差はありますが、特に議論すべ きレベルのものではありません。 基本的に本件は、Awajiの早とちりによるものであり、あらためて深くお 詫びいたします。 Time : 1999/ 6/30(水) 23:53:30