Name    : 勇者ロト
E-mail  : 
Title   : モモソヒメ
Comments: 
Awajiさん、おはようございます。
という事はモモソヒメが卑弥呼であるという可能性が高い?という事ですか?
モモソヒメといえば、尾張を廻って伊勢にはいったという伝説があるヒメですよね。
違いましたっけ?

Time    : 1999/ 5/ 1(土) 09:35:58

Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と百襲姫・・・・ご批判をお待ちしています Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)・夜麻登登母母曽毘売は、孝霊 天皇の皇女とされ、母は倭国香媛・意意夜麻登玖迩阿礼比売(オオヤマトク ニアレヒメ)とされています。大物主神の神意を受けた倭迹速神浅茅原目妙 姫(ヤマトトハヤカンアサジハラマクワシヒメ)とは、同一人とされており、 武殖安彦の謀反を予知する等のシャーマン的能力が記されています。 大物主神の神妻となり(三輪山伝説)、箸墓の主ともされており、古来より 卑弥呼に擬されていますが、事実は勿論分かりません。(記・紀ではかなり 内容が異なっています。) Awajiは、次のとおり Title : 救世観音と卑弥呼妄想 Time : 1999/ 4/18(日) 18:33:24 >従って、卑弥呼や壹与は、記紀においては神との親密性が強調されている >倭迹迹日百襲姫(夜麻登登母母曽毘売)、倭飛羽矢若屋比売等に姿を変え >て記述されている可能性があると思っています。 >この伝統は、更に姿を変えて斎宮として微かに存続している。ナンテ妄想 >しているのですが、一寸無理でしょうか?? 微かに、その可能性を想像しています。年代比定はその想像の可能性を高め ることになるかも知れないと思うのですが、可能性が高いとまではヨウ言い ません。皆さんのご批判をお願いしたいのです。 なお、垂仁天皇の皇女で、天照大神を伊勢に鎮座させた倭姫(ヤマトヒメ) とは別人です。 Time : 1999/ 5/ 1(土) 14:02:48
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 斎宮 Comments: Awajiさん、私は卑弥呼・トヨの次の代から斎宮に変化していったという意味 だと思ってました。卑弥呼自体を斎宮に比すのは無理があると思います。 「女王」と記されている事を考えると、斎宮とはあまりにも違う印象があります。 Time : 1999/ 5/ 1(土) 17:36:58
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=日巫女だとすると Comments: みなさんこん@@は、Awajiさん、ひとつ思い浮かんだのですが。 卑弥呼=日巫女つまり太陽神につかえる女性だとすると、三輪山のオオモノヌシ そして出雲のオオクニヌシ(オオナモチ)が太陽神だという事になりませんか? オオクニヌシとオオモノヌシは同一?とされています。そしてヤマトトトヒモモソ ヒメはオオモノヌシの妻となります。 オオモノヌシとヤマトトトヒモモソヒメの関係は、太陽神と日巫女の関係と同じに なるとおもわれます。 つまり崇神の大和朝廷が完全に成立するまでは、オオモノヌシが大和の太陽神とし て崇められていたという事になり、崇神大和の最高神たるべきアマテラスよりも、 尊崇されていた。大王家以外の豪族と民衆にとってはですが・・・。 オオモノヌシとヤマトトトヒモモソヒメの婚姻は九州系と出雲系の合体を暗示して いるのではないでしょうか? 大和の勢力が完全に出雲を凌いだとき、オオモノヌシは太陽神=最高神では なくなったのかもしれません。 Time : 1999/ 5/ 1(土) 22:44:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と祭祀女王「卑弥呼」・・・再録です Comments: 勇者ロトさん、Awajiです。 >>私は卑弥呼・トヨの次の代から斎宮に変化していったという意味だと思っ >>てました。卑弥呼自体を斎宮に比すのは無理があると思います。 完全な誤解です。再掲載しますが、引用提示した部分の過去ログは確認頂け ないしょうか? Title : 救世観音と卑弥呼妄想 Time : 1999/ 4/18(日) 18:33:24 >Awajiは、2・3世紀の部族王国連合、或いはこれが収斂する過程において >は、宗教的権威の果たすウエイトが強く、祭祀王(シバシバ宗教カリスマ >的な性格の強い女性であった)と世俗王(軍事・行政を施行する男性)で >は、前者が上位を占めていたのでは無いかと考えています。 >(連合を象徴するのは祭祀王であった) >しかし、4世紀以降は部族王国連合から、統一的王国に変化が進み、次第 >に軍事・行政と言う現実政治のウエイトが強まったことにより、世俗王が >上位を占めるに至ったのでは無いかと思うのです。 >特に5世紀に高句麗との覇権争いが激化したため、その傾向が一層強まり >彼等の記憶・伝承からも祭祀女王の存在が薄れていったのではないでしょ >うか? >特に祭祀女王(基本的に世俗王の親族)は、原則的に独身であったため、 >直系の子孫を残すことが無かったのに対し、世俗王は確実に子孫を残した >ので系譜も明確に記憶され、その存在がより強く伝承されたと思うのです。 >従って、卑弥呼や壹与は、記紀においては神との親密性が強調されている >倭迹迹日百襲姫(夜麻登登母母曽毘売)、倭飛羽矢若屋比売等に姿を変え >て記述されている可能性があると思っています。 >この伝統は、更に姿を変えて斎宮として微かに存続している。ナンテ妄想 >しているのですが、一寸無理でしょうか?? 以上のとおり、申しあげているのですが? Time : 1999/ 5/ 1(土) 22:50:09
Name : 勇者ロト E-mail : Title : すいません今確認し直しました。 Comments: Awajiさん、すいません。最後の一行「この伝統は・・」の件が特に頭に残っ ていたので、誤解していたようです。 Time : 1999/ 5/ 1(土) 23:04:57
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と大物主・・・太陽神よりも水神?? Comments: 勇者ロトさん、時間差でしたね。引き続きAwajiです。 これらの神話・伝承が何を意味しているか? については、これ以上の想像は慎重になるべきだと思っています。 (あまりにも、想像の領域が広がりすぎますので・・・。) ただ、大物主神は蛇神のイメージがありますので、神話学・民俗学的には、 太陽神ではなく、水神と考えるべきでしょう。 Awajiは、銅鐸の流水紋等から、出雲系人の主神は、水神だと思っています が、スサノオは大蛇を退治したことになっているので、この意味も考えね ばならず、難しいところですね。 三輪山神話が、九州系と出雲系の合体を暗示しているかどうかについても、 より慎重に考えるべきでしょう。卑弥呼=倭迹迹日百襲姫についても同様 で、これらの神話と史実を直接的に関連付けることは、無理があると思い ます。 Awajiは、所謂 出雲系勢力は九州勢力に追われ、出雲→大和(国譲神話) 大和→東海(神武神話)に本拠を移したのでは無いかと想像しているので すが(完全に駆逐されたのではありません)、崇神・百襲姫神話は東海に 移住した出雲系勢力(関東勢力と合体)や出雲系大和残存勢力との、緊張・ 融和を暗示しているかも知れないとは思います。 しかし、あくまで神話的表現にとどまっているので、当然ながら確信はあ りません。(考古学的所見に期待しています。) これら想定については、可能であれば以下の過去ログを御覧頂けますか? Title : 救世観音と倭国俯瞰 Time : 1999/ 4/19(月) 21:55:25 Time : 1999/ 5/ 1(土) 23:44:09
Name : ina E-mail : Title : ロトさんへ Comments:  ちょっとお邪魔します。  伊勢の二品問題については鷲崎氏も明確でないのでしょうか?  ちょっと質問コーナーを覗いた印象ですが。  とするとあなたの6つの仮説の検討が必要ですね。  ただ、私は恣意的に神託を受ける神社を選べるものか、という疑問は持ちます が。  ただ称徳時代から急に大切にされたということなら、面白いと思います。  あと、四拍手問題もこのHPでは決着済みといって良いと思いますが、私として は、その特別扱い(四拍手継続)を要求し得たところになおも何かの意味を見出し たい気持ちはあります。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 01:49:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 太陽神と銅鐸から暦の作成 Comments: Awajiさん、おはようございます。 オオモノヌシは蛇神ですね。それはよく知っています。銅鐸の流水紋は水神を表わ すといわれていますが私は、水は水でも海をあらわしていると思っています。 「客神信仰」というのがあります。海や山を越えてやってきた文明や文物・人を 神としてあがめる信仰です。 この信仰は海沿いの地域に広がっています。ご存知のようにオオモノヌシは、海か らやってきた神でもあります。国造りの知恵をもって・・・・。 そして、銅鐸の存在意義というのは暦の作成、地図の作成つまり国家としての事業 に関連しているという可能性があるのです。 (この内容については、他のホームページを主催されている方の仮説なのでここに 転用していいかどうか確認していないので、確認がとれてから続けたいと思います) 大和朝廷以前の神は全て各地域における最高神だと以前に仮説をたてましたが、 オオモノヌシやオオクニヌシは各地域における最高神(太陽神)であり、大和朝廷 におけるアマテラスと全く同じに尊崇されていましたが、大和朝廷に参加する事に よりその神格をかえられたのです。水神、蛇神の意味も含んだ最高神だったと推測 しています。 inaさん、恣意的に神託を受けないという事であれば何故称徳は清麻呂に激怒した のでしょうか?当然、道鏡への即位が許されると考えていた期待を裏切られたから だとおもいませんか? 4拍手を継続したのは、怨霊も考えうるとは思いますが、それより出雲のプライド であると考えています。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 07:40:41
Name : ina E-mail : Title : ロトさん、Awajiさんへ Comments:  こんばんは  出雲はそれで納得できます。  Awajiさん。もしおわかりなら教えていただきたいのですが、四拍手問題で 盛り上がった時に、宇佐、出雲以外にも四拍手を継続した神社が あった、という話ですが、それらは皆親王扱いの位階をもらっていた神社、という ことはないでしょうか。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 08:33:27
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 四拍手継続の理由 Comments: 伊勢、出雲など四拍手を続けた神社の共通項としては、それぞれの地域信仰と しても絶大な信仰心を集めていた事があげられるでしょう。つまり信者数の多さ です。二拍手への変更を受け入れた神社より固有の信仰が固まっていたからだと 考えています。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 12:34:31
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 伊勢の一宮? Comments: それぞれの国に、一の宮があります。 もしかして、伊勢の国に一の宮(勿論神宮は除く)があるのであれば、鷲崎 先生が資料とされた「二品」は伊勢の一の宮に授けられたものかもしれません。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 15:36:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 箸墓 Comments: みなさん、Awajiさん何度もすいません。 箸墓は卑弥呼・トヨ・崇神の墓など数々の推測が立てられています。 前と後ろの建設時期に50年ほどのずれがあると聞いた事があるのですが 本当なのでしょうか?前方部は卑弥呼の時代と一致しているとの事ですが? Time : 1999/ 5/ 2(日) 17:57:41
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 箸墓2 Comments: すいません、前方部が、後から付け足されたもので、後円部が卑弥呼の時代と 一致する?という事です。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 20:14:43
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と箸墓・・・ヒミコの意味?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>もしかして、伊勢の国に一の宮(勿論神宮は除く)があるのであれば、鷲 >>崎先生が資料とされた「二品」は伊勢の一の宮に授けられたものかもしれ >>ません。 伊勢一宮は「椿大神社=猿田彦大神」(鈴鹿市)とされていますが、名神大 社でさえなく、おそらく品位を受けることは無いでしょうね。 (別の「都波岐神社」(一宮町)とする説もあります。) これらは、神社史に少しでも関心が有る者ならば誰でも知っていることで、 まさか鷲崎さん(どんな人かは知りません)が、これらを混同する筈が無い でしょう。90%以上の確率で「意図的誤謬」だと思います。 Awajiは、こういった方の議論は一切信じません。 (根拠が更めて明示されれば、話は違ってきますが・・・・) >>前と後ろの建設時期に50年ほどのずれがあると聞いた事があるのです >>が本当なのでしょうか?前方部は卑弥呼の時代と一致しているとの事で >>すが? 先日の箸墓周濠調査現説では、この見解は、ほぼ全面的に否定されていまし た。なお、年代的には箸墓の北東にあるホケノ山古墳が250年頃に近いと言う ことです。 (調査者は、あくまで個人的見解としてですが、箸墓は280+−20年頃と 言う印象を述べておられました。) なお、箸墓が二上山の葺石で作られたと言う記事が記紀にありますが、これ は発掘調査で確認されているのですね。これは3世紀の事実が、7世紀まで 伝えられていた可能性を意味します。 Awajiが大王系譜に一定の信憑性を認めるのは、こういった事にもよるのです。 >>ご存知のようにオオモノヌシは、海からやってきた神でもあります。国造 >>りの知恵をもって・・・・。 これも確信はありません。少彦名神がそうであることは問題無いのですが。 なお、大物主神を太陽神とされる理由も良く分かりませんが、何かその様な 伝承・痕跡があるのでしょうか? ついでに卑弥呼=日巫女(ヒミコ)説ですが、Awajiは巫女(ミコ)と言う言 葉自体が御児(ミコ)にその淵源をもっており、元々は神の児だったと思い ます。 従って、卑弥呼(ヒミコ)を、後世の巫女的に見るのは疑問です。 後世、皇太子が日嗣御子(ヒツギノミコ)と称されたのですから、 3世紀に、祭祀女王が日御子(ヒミコ)と称されても不思議とは思えません。 尤もヒミコを、固有名詞的に見るか、普通名詞的に見るかと言う問題はあり ますね。 Time : 1999/ 5/ 2(日) 22:11:06
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 第二の宗廟とは Comments: みなさん、またまたすいません。 朝廷の江戸期における「第二の宗廟」というのは、石清水八幡宮の事だそうです。 もちろん本当の宗廟は伊勢神宮です。石清水八幡宮は宇佐の分社ではありますが 清和天皇の勧請により創祀され、歴代天皇の参詣がたびたび行われたために「第二 の宗廟」と呼ばれるようになったそうです。 私の一宮にかんする推測は誤りでした。すいません。という事は、鷲崎先生の主張 もどうやら勘違いなのかもしれません。 箸墓の年代推定についても定説が立ち得ないのは、本格的な発掘調査ができない というのも理由の一つだそうですね。Awajiさんのあげられた年代についても 個人的見解という但し書き付きですし・・。 記紀の記述の信憑性は地名などについては、非常に高いものだと私も思います。 あとは年代についての検証が必要なだけだと思っています。安部さんもおっしゃっ てましたが、神としての霊力(サイキックな部分)以外は信用してもいいと思い ます。ただ天皇による統治の正当性を高めるための年代設定(時系列)のたて方が 推測と憶測を生じさせるのです。 オオモノヌシの登場場面は「海を光(て)らしてより来る神あり」と古事記に記述 されています。「海」からの登場でしかも「光らして」より来るのですから、太陽 神であった可能性も十分にあると思うのですが?妄想が過ぎているのでしょうか? 猿田彦の大神、香島の大神(鹿島神宮)といった神武即位以前からの神は太陽神で あった可能性があります。たとえば猿田彦の大神は「天のやちまたに居て、上は高 天の原を光(てら)し、下は葦原中つ国を光(てらす)」と古事記に書かれていま す。香島の大神は天の大神と呼ばれ、タケミカヅチが鹿島の地に祭られるまでの神 でもあります。これは常陸の国風土記に記されています。 さらに卑弥呼の件ですが、日御子であるなら百襲姫という巫女的人格の人物に比定 するのは無理がないでしょうか? ちょっと、堂々巡りになってきました。 ところで、Awajiさんは、この連休は遠出される予定はこざいますか? 私はずっと仕事なので、ここへの書き込みは毎日同じペースだと思います。 もしお出かけならば帰ってこられてから続きをした方がいいと思いまして。 それと「銅鐸」です。Awajiさんはこの祭祀道具は楽器として以外にどういっ た目的で使われたとお考えですか? Time : 1999/ 5/ 2(日) 23:06:00
Name : ina E-mail : Title : 宇佐 Comments:  品位の問題は難しそうですが、朝廷が伊勢神宮に千年以上参拝していなかった、 というのはどう言うことなのでしょうか?  もっとも宇佐はどうだったか、という問題もあって、朝廷の宇佐に対する態度が 称徳ー道鏡時代に変化しているか、がポイントかと思います。  仏教と関連の深い宇佐を神託を受ける神社に選んだ、という仮説は面白いです が、八幡神としての応神天皇を重視するのか、祖先神としての比売大神を重視する か、の違いでしょうか。  あと、宇佐が出雲と同じく敵対勢力の鎮魂のためであった、というのは興味深い のですが、配置などから考えると祖先神を祭ってあると考えるほうが自然のように 思われます。  以上どしろうとの意見でした。 Time : 1999/ 5/ 4(火) 13:57:22
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんへ、私のは、仮説というよりも Comments: 推測の域をでてませんので、楽しんで頂くのにはかまいませんが、まるまる 受け止めないよう注意して下さい。あくまで可能性の一つという事です。 伊勢の斎宮は宮廷内にも同じ目的をもった施設があったと思います。 定かではないですが・・。 Time : 1999/ 5/ 4(火) 14:51:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と比売神・・・銅鐸・大物主?? Comments: inaさん、勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>八幡神としての応神天皇を重視するのか、祖先神としての比売大神を重 >>視するか、の違いでしょうか。・・・・ >>配置などから考えると祖先神を祭ってあると考えるほうが自然のように >>思われます。 当初、八幡神として中央に登場した時に、直ちに応神天皇と同一視された か否かについては、安部さんのご指摘どおり、若干疑問があります。 しかし、「比売大神」が天皇家祖神とされたと考えるのは、尚更無理があ ります。 何故ならば、既に申しあげたとおり、品位を授けられたこと自体に問題が あると同時に、一品位の授受が八幡神は天平勝宝元年(749)、比売神は 天安二年(858)清和天皇と凡そ100年の差があることです。少なくとも奈 良時代においては、比売神は八幡神より格下とされていたのですから、当 時において天皇祖神とされていたと考えることは、有り得ないのでは無い でしょうか? 確かに神殿配列についての問題があり、比売神が主神であるかの様ですが、 その理由は別に考察すべきものであり、あくまで当時の朝廷の認識が問題 なのですから、その格付けを重視すべきだと思いますが? >>オオモノヌシの登場場面は「海を光(て)らしてより来る神あり」と古 >>事記に記述されています。「海」からの登場でしかも「光らして」より >>来るのですから、太陽神であった可能性も十分にあると思うのですが? >>妄想が過ぎているのでしょうか? 了解しました。Awajiは大物主が、しばしば大国主と相似神格とされ、本件 も少彦名神に替わって「是時有光海依来之神」と記述してある様に、水平 移動していますので、太陽信仰と結びつく神格とは考えませんでした。 >>卑弥呼の件ですが、日御子であるなら百襲姫という巫女的人格の人物に >>比定するのは無理がないでしょうか? 繰り返しますが、祭祀女王(日御子)が時代的意識変遷によって、神妻( 巫女)的存在として記述され、さらに斎宮的存在として存続したのではな いか?と申しあげているのです。直接比定するのは困難だと思います。 >>「銅鐸」です。Awajiさんはこの祭祀道具は楽器として以外にどう >>いった目的で使われたとお考えですか? 分かりませんが、鏡・剣・勾玉・矛等と同様に一定の権威を示す依代では 無いかと思います。 敢えて想像を広げれば、Awajiは出雲族の主神は、水神(雷・蛇神)では無 かったかと考えていますので、稲妻と関係付けられないかと思っています。 (雨乞儀式との関係なのですが・・・一寸無理かも??) Time : 1999/ 5/ 4(火) 19:44:00
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 銅鐸文化は出雲文化? Comments: みなさん、こん@@は。 銅鐸はなんのために作られたのでしょうか?この疑問は解ける事はないかも知れま せん。一つの可能性を考えてみたいと思います。 銅鐸は地形や暦を理解するためにつくられた可能性があります。 銅鐸の形状(内角、外角、大きさ)を使い、日没、日昇、そして太陽の動き、南中 角度を観測、特定し、暦の作成をしたという事です。 (詳しくは「出雲から世界へ」というホームページをみてください。yahooで 邪馬台国で検索すればたどりつけます)下記のアドレスです。 http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index.html もし、銅鐸によって暦の作成ができるとすれば(出雲から世界へのページでは理論 上可能であると結論づけておられます)出雲の神神(古代人)は独自の暦を作成し、 太陽の運行を理解して、それを航海や農耕の助けとしていたのです。 暦がつくれるという事は、出雲系の神は水神、竜蛇神だけでなく太陽神としての性 格をも兼ね備えていたということがいえるのではないでしょうか? 銅鐸文化圏という言葉がありますが、これは出雲系の神の支配地つまり出雲文化圏 であったという事なのかもしれません。大和朝廷が畿内に勢力を広げる以前の畿内 文化は、出雲がその中心だったのです。加茂岩倉の銅鐸は紀元一世紀頃に埋められ たと考えられていますがこの頃に出雲から大和へ移住した部族が加茂族であり、彼 らは畿内に初期王権を作り上げたと推測しています。 話が邪馬台国からずれてしまいました。すいません。 宇佐八幡宮は、おそらく鹿島神宮とおなじく、九州南部のまつろわぬものどもへの 押さえとして朝廷に大事にされたのではないでしょうか? 配置にかんしては、もともと祭祀されていた神(地方神)を主にする事により、 宇佐近辺の豪族達と宥和する方針を立てたためではないでしょうか? 比売大神は宗像三神とよばれる地方神にも比定されます。 Time : 1999/ 5/ 4(火) 23:28:25
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と銅鐸・・・観測器具説?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>銅鐸は地形や暦を理解するためにつくられた可能性があります。銅鐸の >>形状(内角、外角、大きさ)を使い、日没、日昇、そして太陽の動き、 >>南中角度を観測、特定し、暦の作成をしたという事です。 HP覗いて見ました。とても膨大な分量なので、全部は読んでいませんが、 大昔、これに類する意見を、読んだ記憶がありましたので、念のため段ボ ール箱をひっくり返したところ、意外なことに保管してありました。 「天照大神と前方後円墳の謎」大和岩雄著ーロッコウブックス S58版です P274に藤芳義男さんの説として、同じ様な図が示されており、夏至・冬至 ・春秋分の観測具説が簡単に紹介されています。 今から約15年前ですが、この意見に刺激され銅鐸のレプリカを子細に観察 した記憶があったのですが、結論的にはとても観測器具としての使用は不 可能だと思いました。それよりもはるかに簡明・正確な観測法がイロイロ 提唱されていますが(山立て法、注連縄法、サークル法 等など)ワザワザ この様な困難かつ不安定な方法を選ぶとは考えられません。 大和さんは甘南備、祭祀遺跡、神社、古墳について太陽観測点と密接な関 係があるとして様々な検証をしておられ、小川さんの「太陽の道」でも同 様の意見が述べられています。Awajiも当時は地図とコンパスを持って、い ろいろな地点に立って実測した思い出があります。 例によって、絶対とは言いませんが観測器具説は90%以上不成立でしょう。 (大きな紙筒模型で、試されれば直ちに実感されると思います。) 銅鐸問題は、際限がありませんので、一旦終了しませんか? Time : 1999/ 5/ 5(水) 09:36:56
Name : ina E-mail : Title : ロトさんへ Awajiさんへ Comments:  またまたちゃちゃを入れに参りました。   ロトさんは出雲に関心が深いようですが、出雲大社の配置については何か 意見をお持ちですか。怨霊封じこめの配置と思われますか。  私の言いたいのは、宇佐の配置、一見比売大神が主神のような配置も、実 は卑弥呼の怨霊封じこめの意図的な配置と解釈できるか、ということです。  Awajiさんへ。  あと、宇佐の品位の授与の時期ですが、これは当時、比売大神が朝廷の 祖先神、卑弥呼である事実が、神功皇后への移し変えや、記紀の年代合わ せによって当時わからなくなっていたとは考えられませんか。そのために、 応神天皇にまず品位を、そして不明ながらも比売大神にも品位を与えたと言う。 Time : 1999/ 5/ 5(水) 12:41:04
Name : ノム E-mail : Title : みなさん、こんにちわ。GWで帰省してます。 Comments: ヤマタイ国から、古代日本へと話しが広がっている ようですね。 inaさんお久し振りです。出雲大社の配置については ロトさんは以前の投稿で怨霊とは無関係だという事 を主張していたと思います。今日の夜にまた投稿し たいと思います。 Time : 1999/ 5/ 5(水) 13:25:10
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と比売神祖神説 Comments: inaさん、今日は。Awajiです。 >>宇佐の品位の授与の時期ですが、これは当時、比売大神が朝廷の祖先神、 >>卑弥呼である事実が、神功皇后への移し変えや、記紀の年代合わせによ >>って当時わからなくなっていたとは考えられませんか。 >>そのために、応神天皇にまず品位を、そして不明ながらも比売大神にも >>品位を与えたと言う。 まことに申し訳けありませんが、おっしゃる意味が良く分かりません。 当時とは、 1.天平勝宝元年(749)聖武・孝謙治世・・・八幡神一品、比売神二品 2.神護景雲三年(769)称徳治世・・・・・・八幡神託事件 3.天安二年(858)清和治世・・・・・・・・比売神一品に昇格 の何れを指しておられるのですか? 比売神が卑弥呼と関連する事実が有ろうと無かろうと、要するに神階授受 の事例から見て、天皇家(朝廷)においては、比売神を祖神と考えたこと はこの間一度も無い。 先ずこの論理をお認めになるのか、ならないのか。 お認めにならないならば、神階授受についてどの様に理解されるのか。 (鷲アさんの所説を、あくまでも信じられるのでしょうか?) お認めになるならば、比売神が卑弥呼と関連すると考える根拠があるのか、 ないのか。 一旦白紙の立場で、一つずつ順序立てて、その蓋然性をお考えになっては 如何でしょうか? 井沢さんは「逆説の日本史T」において、次のように述べておられます。 「・・・にせよ、結論が先に決まっている『史観』は、しょせん歪んだレ ンズに過ぎない。歪んだレンズでは歴史の真の姿は決して見えない」 P68 勿論これは皇国史観、マルクス史観を批判されたものですが、同様にあら ゆる「史観=先入観」についても通ずる危険性です。 井沢さんが、この教訓を自ら活かしておられるか、どうかについては疑問 なしとしませんが、この姿勢はとても大切なものだと思います。 「比売大神が朝廷の祖先神、卑弥呼である事実が、・・・」これが成立し 得るのか、しないのか、一切の先入観を捨ててお考えになることをお勧め いたします。 Awajiには、これ以上申しあげることはありません。 Time : 1999/ 5/ 5(水) 18:00:06
Name : ノム E-mail : Title : ヤマタイ国 Comments: みなさん、こんにちわ。 ヤマタイ国についていろいろなお話を楽しませてもらってます。 皆さんに質問があるのですが、邪馬台国の発音は「やまと」に近いものですよね。 そして、邪馬台国というのは国号ではないとロトさんにも聞いた事があるのですが、 でわ、「邪馬台」の語源は一体なんなのでしょう? きんたろうさんのページには「山」ではないかという意見がでてました。 ロトさんは、「山処」ではないかと言ってましたが、僕もそんな気がしてます。 つまり「山」=「神聖な場所」=「卑弥呼の居場所」という事だと思います。 とすると、卑弥呼は山にいたのではないでしょうか? 魏の使節は、倭の土地まではやってきたが卑弥呼には会えなかったと思います。 北九州まではやってきたが、卑弥呼のいる邪馬台(山)まではいかなかった のではないでしょうか?北九州の倭人は入れ墨をした海人だったので 鯨面分身の記述につながったのではないでしょうか? 同じ北九州に邪馬台(山)があったなら無理にでも卑弥呼に会いにいった でしょうが、遠すぎたので邪馬台(山)にまではいかなかったのだと思います。 つまり、邪馬台国は畿内にあったのではないでしょうか? Time : 1999/ 5/ 5(水) 21:23:14
Name : Toshy E-mail : Title : 邪馬台国の場所 Comments: 私はもともと「邪馬台国=北九州」と思っていたのですが、 Awajiさんのお勧めに従いいろいろと読むうちに、 畿内かもしれないな、と思うようになってきました ノムさんのご意見は、すばらしいですね。 ともあれ、私にはもはや、発言する力がないです あとはみなさんによる議論の成り行きを見守るだけです.... Time : 1999/ 5/ 5(水) 22:27:34
Name : きんたろう E-mail : Title : 久しぶりの登場です Comments: 勇者ロトさんとAwajiさんの討論を楽しく読ませていただいています。 二人ともすごすぎます!! 以前は畿内説9分と書いたのですが、確かに畿内説も信憑性があるなと思われて きました。 今は五分五分くらいです。 前にも書いたのですが、日本各地にパラレルに存在していた「勢力」というのは ある種の共通性があったと考えても良いのではないかと思うのです。 これは同じ文化圏という意味です。(温度差はあったと思いますが) 昨日NHKで放送していたDNAからの検証によると、日本人は日本人のみの特質保持者、 韓国系、中国系、アイヌ系、沖縄系、その他とかなりバラエティーに富んでいて まさに究極のハイブリッドが日本人なのだなと実感しました。 そうした点から見ると「渡来人」重点史観というのは誤りかも知れないと思いました。 また、言語からいっても大量の移民であれば彼らは自身の言葉を維持したはずです。 しかし、日本語が支配言語(変化はあると思いますが)ということは、数的に 多数派ではなかったということの証明だと思います。 もっとも山陰から北九州、韓国南部にかけて私はローマとカルタゴのような イメージでとらえると面白いのではないかと思います。 魏志倭人伝に関しては「吉備」「出雲」について書かれていないところが 畿内説の弱点と言えるかも知れないと思います。 Time : 1999/ 5/ 5(水) 23:45:13
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 銅鐸文化2 Comments: みなさん、こん@@は。 Awajiさん、困難な方法だからこそ、つまりごく限られた地点、地形そして銅 鐸の形式だからこそ暦を作る事に神秘性が増すのです。誰でもどこでもどんな形の 銅鐸でも観測できるのであれば、暦の作成や国土の形状把握という事業は、王権の 偉大さや神秘性には結びつかないとお思いになりませんか? 銅鐸の形式や地形全ての条件が満たされる事によってしか観測器具として成立しな いという事は、その条件を知識として活用できる一部の人間の特権でもあるのでは ないでしょうか?この特権こそが階級意識を育てていったと考えています。 inaさん。 古代の寺社は、所謂「聖地」と呼ばれる土地の上に建てられたと考えています。 例えば伊勢神宮は、日の出を意識した立地であり、出雲大社は日没を意識した立地 です。この意味から宇佐神宮を見てみると宇佐も人為的ではない何らかの意味があ るのではないでしょうか?安部さんが挙げておられた巨石信仰などは自然と人とい う観点からも意味深いものがあると思います。宇佐は古代から続く聖地であり、天 皇の祖神である八幡神という信仰以前にあった巨石信仰の巨石の配置によって神の 配置が決められたのかもしれません。 宗像三女神がそれぞれ別に三柱の神として祭られていた神座に、応神と神功を後か ら合わせたため、三女神を比売大神という一柱の神に見立て、両脇の神座に応神と 神功を配置したのではないでしょうか? 出雲大社の配置というのは、大国主と客座五神の向きという事ですか? もしそうなら、以前の投稿で考察いたしました。私の考察では、怨霊封じとは関係 ないという結論に至りました。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 00:20:39
Name : jin E-mail : Title : おひさしぶりです Comments: どーも、お久しぶりです。なかなか白熱していますね、話に加わりたいのですが、皆さんの討論を見るので 精一杯なので、僕なりに別の視点から邪馬台国が どこにあったのかを考えてみました。 まずは、どの漢字が多く使われているかと言うところから出発したのですが。 なかなか上手く行かなかったので、次に官、副官(?)の呼び名から考えまし た。 狗邪韓國 > 對馬國 > 一大國 > 末盧國 > 伊都國 > 奴國 > 不彌國 > 投馬國 > 邪馬壹國 の順で国名が出てくるのですが、 對馬國 、一大國、 奴國 不彌國では、副官として 「卑奴母離」が使われていて、 伊都國 、奴國には「觚」という字が役人名に良く使われています。また、投 馬國、邪馬壹國には「彌」が、欲張ってみると、伊都國には「彌」ににた、 「爾」が使われています。こういうふうに似たもの同士で区別していくと なんか、伊都國が一大國と奴國 の間に表記しているのは、道順に記していった のではないような気がします。よく、伊都國から放射線状に記しているという 説は聞きますが、もっと前の 一大國や末盧國から放射線状に考えることはできないものでしょうか? すごく無知で、幼稚な意見ですが、みなさんの意見を聞かせて下さい。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 00:26:46
Name : jin E-mail : Title : おひさしぶりです Comments: どーも、お久しぶりです。なかなか白熱していますね、話に加わりたいのですが、皆さんの討論を見るので 精一杯なので、僕なりに別の視点から邪馬台国が どこにあったのかを考えてみました。 まずは、どの漢字が多く使われているかと言うところから出発したのですが。 なかなか上手く行かなかったので、次に官、副官(?)の呼び名から考えまし た。 狗邪韓國 > 對馬國 > 一大國 > 末盧國 > 伊都國 > 奴國 > 不彌國 > 投馬國 > 邪馬壹國 の順で国名が出てくるのですが、 對馬國 、一大國、 奴國 不彌國では、副官として 「卑奴母離」が使われていて、 伊都國 、奴國には「觚」という字が役人名に良く使われています。また、投 馬國、邪馬壹國には「彌」が、欲張ってみると、伊都國には「彌」ににた、 「爾」が使われています。こういうふうに似たもの同士で区別していくと なんか、伊都國が一大國と奴國 の間に表記しているのは、道順に記していった のではないような気がします。よく、伊都國から放射線状に記しているという 説は聞きますが、もっと前の 一大國や末盧國から放射線状に考えることはできないものでしょうか? すごく無知で、幼稚な意見ですが、みなさんの意見を聞かせて下さい。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 00:34:28
Name : ina E-mail : Title : 出直します Comments:  品位からのアプローチでは当時の朝廷が宇佐を祖先神として考えていたとは言え ないですね。  ただ、また、これ以上申し上げることはありませんと言われるのを覚悟で書け ば、 1、宇佐に神託を求めた理由が私には納得できない。 2、当時の朝廷が祖先神とかんがえていなかったことと、実際は祖先神であったこ とは矛盾しない。 という立場は維持したいと思っています。  ちょっと茶々をいれるのを休憩して、じっくり考えてみます。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 06:28:44
Name : ina E-mail : Title : Mr.Awaji Comments: Awajiさんへ  いつもお世話になります。 明確に私へのご意見がありましたので、一応ご返答したいと思います。 「比売神が卑弥呼と関連する事実が有ろうと無かろうと、要するに神階授受の事例か ら見て、天皇家(朝廷)においては、比売神を祖神と考えたこと はこの間一度も無い。 先ずこの論理をお認めになるのか、ならないのか。」  認めません。なぜなら、神託を宇佐に受けに行った、という事実があるからです。 「神階授受の事例から見て、」という条件だけをみればそうでしょうが、一つの条件 だけから歴史を考察すること事自体が不可能で、神託の事実も含めて考えるべきだと 思います。  なお、前回の投稿でも書きましたが、「天皇家(朝廷)においては、比売神を祖神 と考えたことはこの間一度も無い」としても宇佐が卑弥呼の墓であるということへの 決定的な打撃にはならないでしょう。 「お認めにならないならば、神階授受についてどの様に理解されるのか。」   要するに神階授受の問題とは、宇佐の優位性を、従来神託と、両方面、以前は更に四 拍手もからめて展開してきたのが、まあ、段々狭められてきた、ということで、不利 は認めますし、伊勢より宇佐を大切にしたことの例証が一つ減った、という認識です。 (鷲アさんの所説を、あくまでも信じられるのでしょうか?) Awajiさんを信じています。 「お認めになるならば、比売神が卑弥呼と関連すると考える根拠があるのか、ないの か。」  スサノオと日神の子である三女神が比売神という記述が日本書紀にあれば、関連は 充分あると思います。スサノオを誰に比すかというのは問題ですが、卑弥呼との関連 で考える、という立場に私は賛成します。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 10:18:01
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  元気ですか?  まあ、このHPもいいですが、いろいろ楽しんでください。 私としては「今日できることを明日に延ばしてでもやりたいことを やってください」といいたいですね。  まあ、歴史の勉強はもう少し後でもできますし。  ご覧のとおり、私はわずかな知識で、高尚な議論にちゃちゃばかりいれています。  ときにVAIO入手しました?  出雲大社の効果はあったかな?ノムさんなら絶対心配ないとおもいますけど。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 10:29:05
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 伊勢に神託を求める事 Comments: inaさん、「託宣」という儀式は伊勢神宮で行われた事実があるのでしょうか? 前にもかきましたが、八幡神は託宣の神です。つまり託宣の専門店という事はない のでしょうか?私は伊勢を無視したのではなく伊勢に対して質問するつまり神託を 要請するという行為自体を憚ったのではないかと思います。 今の世の中でも会社の方針に対して問いただしたい事があっても、直接経営責任者 に質問する前に直接の上司にまず確認するのが先決でしょう。 同じように、直接最高神アマテラスに問い掛ける以前にそれより下の宇佐に確認を 取ったにすぎないと考えられませんか? もし、宇佐八幡の神託の結果が逆にでれば、その時初めて伊勢神宮に最終確認をと ったのかもしれません。 伊勢神宮のアマテラスは「神勅」は一方的にくだしましたが、道鏡事件以前に神託 、問いかけに答えるという行為を行った事があるのでしょうか? 宇佐八幡(応神)は登場した時に宇佐の宮司に話し掛けています。つまり登場時点 から八幡神と人々の会話が行われているわけです。この事実から称徳は託宣をする 神社に八幡神を選んだだけではないでしょうか? 伊勢のアマテラスは天皇や人間とは直接会話をしないほど尊い最高神なのではとも 考える事も可能ではないでしょうか? 伊勢より宇佐を大切にしたという事はないと思います。宇佐は権力者の勧請により 時代によってその神格が変換しています。この事は「宇佐の神託」というものを単 なる政争の道具として考えてたいた事の裏返しではないでしょうか? Time : 1999/ 5/ 6(木) 11:45:39
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 宇佐と伊勢 Comments: 簡単にいってしまえば、宇佐の神託は通常兵器、伊勢の神託は最終兵器(核、科学) という事なのかなとも考えています。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 11:49:44
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=火御子?1 Comments: みなさん、こん@@は。今日は卑弥呼が火御子だとしたらという考察をします。 卑弥呼は、一般的に「日」神に対する巫女または「日」神の御子として考えられて います。しかし「日」が「火」だとするとそのイメージは著しく変わってきます。 「火」の神といえばイザナミの子神として記紀に記されていますが、生まれ出る時 にイザナミ女陰を焼き、これがもとでイザナミは病を得て死んでしまいます。 日神でなく火神だとすると、凄惨なイメージに変化します。 古代人にとって「火」は「太陽」程ではなかったかもしれませんが、畏れ敬う対象 でした。火は物を焼き尽くすこともしますが、土器・青銅器の作成、料理など生活 に密接に関したものでもあります。火とふれる事により、万物は滅んだり、再生し たり、また変化したりします。まさに神の所業です。 縄文時代の前期から中期の遺跡から当時の人口密度(つまり遺跡の数)を推測する と、当時は縄文海進により現在の山間部(当時は海辺?)特に火山帯の周辺に人口 が集中していた形跡があります。つまり縄文人は火山の近くで暮らしていたという 事です。 火山の噴火は現代の人間がみてもある種神々しいものでもあります。この姿に神を 見たのかもしれません。 火の神の子が卑弥呼=火御子だとすると、邪馬台=山処は火山であるといえるかも しれません。とすると畿内地方には火山がありません。一方九州は火山のメッカと もいえるでしょう。とくに阿蘇は世界一の火口をもつ事で有名です。 この項つづきます。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 15:55:55
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 大和盆地の太陽崇拝 Comments: 大和盆地の古墳と名峰を結ぶと、 冬至、夏至、春分、秋分の太陽が昇る位置や沈む位置 になっている事が多いので、 大和盆地には太陽崇拝があったとする説があります。 大和岩雄氏の説だったと思います。 大和盆地の太陽神は男神です。 オオモノヌシ、ニギハヤヒであるとされていますが、 あるいはもっと古い神かもしれません。 大和盆地には女神を主神として祭った神社はそれほどないです。 吉野には一部あります。 女性の太陽神と太陽の御子神はワンセットで、 息長足姫(神功皇后)と応神天皇 天照大神とニニギの命です。 伊勢神宮にはそもそも6世紀頃までは天照大神は祭られていませんでした。 それまでは原始的な太陽崇拝のみだったようです。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 19:08:49
Name : きんたろう E-mail : Title : 別府温泉 Comments: 日本は国土の約2割が平野です。 当然残り8割は山林です。 そうした環境の中、日本全土に置いてある種の共通意識が形成されたのではないで しょうか。 それは山=霊山=神山=火山信仰ともいうべきものです。 事実比叡山を例に挙げるまでもなく「神聖」な場所とは人里離れた場所=山にありました。 これらは過去の記憶の断片なのではないでしょうか。 ヤマトは漢字を当てれば山門こそが最も適していると思います。 しかし私はヤマトとは山徒だと思えるのです。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 20:41:22
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: こんばんわ。適当に楽しんでます。 ただ軍資金が少ないので毎日ではない ですが。パソコンは学生寮に持ち込め ないので、携帯と電子手帳でここを 見ています。大社の効果はまだです。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 22:14:36
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と太陽暦・・・銅鐸観測機器説 Comments: 勇者ロトさん、ノムさん、inaさん、今日は。Awajiです。 >>Awajiさん、困難な方法だからこそ、つまりごく限られた地点、地形 >>そして銅鐸の形式だからこそ暦を作る事に神秘性が増すのです。誰でもど >>こでもどんな形の銅鐸でも観測できるのであれば、暦の作成や国土の形状 >>把握という事業は、王権の偉大さや神秘性には結びつかないとお思いにな >>りませんか? 残念ながら、全く思いません。 ロトさんは忙しい現代人ですから、滅多に日昇・日没をご覧になることは無 いでしょう? Awajiは毎朝7時に家を出て、駅までほぼ真東に車で通っています。 昔と違って絶対時間ですから、今の季節では太陽はかなり上空に見えますが、 冬至の頃であれば、まだ日は昇りません。その後次第に日昇点が明らかにな ります。先週の月曜はあの山の頂上から、今日は山の中腹から・・・さらに 1週間立てば、中空に昇っているだろう・・・その変化は実に鮮やかなもので す。 古代人は絶対時間は知りません。小鳥が騒ぎ、鶏が鳴けば一日が始まり、労 働が始まります。当然、ほとんど毎朝毎夕のように日昇日没を見、日昇日没 点の変化が分かるのです。 春秋分の日昇点から約3ヶ月で南北30度の変化があるのですから、どんなに 鈍感な人間でも日昇点の移り変わりに気がつきますね。 あの山の辺りに来れば太陽は力を失う。これから冷たい風が吹き出すだろう ・・・この山の辺りに来れば太陽は力を取り戻す。そろそろ梅の花が咲き出 すだろう・・・。これこそ公開された神秘なのです。 これを専門的に観測し、体系化する人達が出てきます。冬至に弱りきった太 陽の再生復活を祈り、春秋分に太陽の恵みに感謝する。夏至には強まり過ぎ てて作物をも枯らす太陽の平穏を祈る・・・ これが太陽信仰であり、生活実感に基づく太陽暦の起源だと思うのです。 古代の祭祀場所、神社が多く太陽観測に適した場所にあるのも、その由来は ここにあると思います。 祭主(祭祀を司る”ヒジリ”つまりは”日を知る”者・・・当然古代権力と 関係します)は、より精密にこれを観測し記録するため、大木を立て縄を張 り日昇点の変化を記して行ったかも知れません。(注連縄でしょうか?) 或いは環状に石を置いていったかも知れません。鳥居の如きものに刻みを入 れても良いでしょう。、或いは高い柱を立て太陽の影を記録したかも知れま せん。「六合の中」と言うのは夏至太陽が南中したときの角度・・・つまり 柱の高さと日影の長さの比率を示すと言う考えもあるのです。 そうしておけば、後何日で日昇点は何処に移動し、季節がどう変わるか(種 を蒔き、実りを刈り取るべき)時期を予測できることになるのでしょうね。 その様な方法に比べて見てください。 銅鐸の穴から覗いて、何が分かるでしょう?仮に春秋分の日昇点を確認でき たとしても、その後3ヶ月の間に、ほんの少しでも傾けば約30度の夏至・ 冬至の日昇点は大幅に狂ってしまいます。(実際ためして御覧下さい・・あ んな小さな穴では、とても日昇点の観測など不可能です。) 三輪山の山腹にある檜原(ヒバラ・・なんと言う象徴的な命名でしょう)神 社から見渡せば、春秋分には見事に二上山に日が沈みます。 唐古に立てば、大和青垣はさながら大自然のカレンダーのようなものです。 はるかに正確な日昇点の変化が日々目の前に繰り広げられるのです。 これは大和でも出雲でも九州でも同じです。 この大自然のパノラマを前に、いったい誰が銅鐸を据えて穴を覗きこむでし ょうか? 銅鐸観測機説がいかに現実を無視した机上の空理空論であるか・・・太陽の 運行そのものが何よりも雄弁に物語っていると、お思いになりませんか? ノムさん、お久しぶりです。 >>邪馬台国というのは国号ではないとロトさんにも聞いた事があるのですが、 >>でわ、「邪馬台」の語源は一体なんなのでしょう?・・・ >>つまり「山」=「神聖な場所」=「卑弥呼の居場所」という事だと思いま >>す。とすると、卑弥呼は山にいたのではないでしょうか? 魏志東夷伝は、お読みになりましたか? 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王 之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳{革是} 可七萬餘戸 南 邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。官に伊支馬・・・七萬餘戸 卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢 千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 婢千人を以て自ら侍せしむ・・・・宮室樓觀城柵、嚴かに設け、常に人有り 兵を持して守衞す。 と書いてありますね。この方向、日程、戸数等に問題(誇張?)があること は、ご存知のとおりです。 しかしながら、少なくとも魏志(魏使の報告)においては、正式の国号とは 言えないまでも伊都國、投馬國、狗奴國というような国という場合、一定の 権力と住民が存在するかなり広域(北九州であっても)の地域と認識されて いるのでは無いでしょうか? 従って、この邪馬壹(臺)國=ヤマダイ・ヤマタイから「山」=「卑弥呼の 居場所」を想定し「卑弥呼は山にいた」とするのは、一寸苦しいのではない でしょうか? *ヤマトと読むこと自体無理があるのです。 後世に大和(ヤマト)と呼ばれる地域も、奈良盆地を中心とするかなり広範 囲な地域ですね。(地名の拡張は考慮せねばなりませんが「ヤマトはクニの マホロバ」なのです) 例えばノムさんと同様の視点から、邪馬壹(臺)國は「山に囲まれた大きな 国」(・・・大は「大倭」のように漢語を流用?)即ち大和盆地である・・ とでも言えるかも知れませんよ。 inaさん、了解しました。歴史考察に際して何に重きを置くか、論理をどの様 に組み立てるかは、所詮はご自由でしょうね。 inaさんの整合性のある論理展開に期待します。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 22:27:07
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: どうも、誤解されているようです。 私の拙い文章では、青銅器による暦の作成と国土把握の仕方については簡略に記す 事は不可能です。よって「出雲から世界へ」をご覧頂く事をお願いしたのですが。 このページで紹介されている内容は、「銅鐸の穴から覗く」というような事ではあ りません。銅鐸と銅剣(加茂岩倉と荒神谷)のそれぞれのり特徴がつくりだす位置 の特定を水平、垂直の角度から測定を重ねる事によって導きだされる法則の事です。 大自然への畏れとか、鶏がなくから朝だというより、絶対時間に一歩近づいたもの を造り出せた可能性があるという事です。 机上の空論とは一線を画すものであると思います。確かに貴方のいう通りもっと、 簡略な方法があったでしょう。巨木文化もストーンヘンジもその流れの内の一つだ と認識しています。 ただそこから一歩、絶対時間というものに踏み込んだものが青銅器による暦の作成 と国土把握だという事です。 つまり、出雲の古代人が夏至、冬至、太陽の運行、国土把握に対する認識をより深 く認識しようとしたため考え出した方法の一つである可能性という事です。 聖という文字の意味は聖=ひじり=日知りという事は暦の秘密を握った者、暦を使 いこなせた者という意味でもあると思います。 「公開された神秘」をより深く理解するために、加茂岩倉と荒神谷の青銅器は使用 されたのではないでしょうか? 黒塚古墳から出土した鏡の数(30数枚)と加茂岩倉から出土した銅鐸の数(39 個)は何らかの関係があるのかもしれません。 関係があるのかもしれません。 Time : 1999/ 5/ 6(木) 23:38:44
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: Awajiさん、こん@@は。 こちらから無理やり銅鐸の話しにおつきあいさせてしまいながら、申し訳ない のですが、この話は邪馬台国とは、はなれすぎなので今度機会があれば続きを したいと思ってます。どうもすいません。 Time : 1999/ 5/ 7(金) 13:52:10
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments: 邪馬壹(臺)國をヤマトと読むこと自体無理があるのです。  とのことですが、以前私も井沢先生にならって中国人に発音してもらいました。 若干こもった感じですが、やまと、の発音に近いと思いました。 このアプローチのどこに問題があるのでしょうか?よしんばあるとしても、 当時どう日本人が呼んでいたか、の問題の、これ以上のアプローチがあるのでしょ うか?  邪馬台国問題はそれぞれの説がそれなりの弱点を抱えており、結局はロマンの問題 だと思っています。   私に就いて言えば、はるばる宇佐まで神託を受けに行った、という事実 がロマンを掻きたてるのです。 Time : 1999/ 5/ 7(金) 13:54:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 銅鏡に対して、意地悪な意見をいいますと・・・ Comments: 銅鏡は日本中で大量に発見されています。 もしかしたら、権威を表す重要なものではなく、 単なる日用品だったかもしれません。 Time : 1999/ 5/ 7(金) 16:58:08
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とヤマタイ・コク・・・ Comments: 勇者ロトさん、inaさん、今日は。Awajiです。 銅鐸の件、了解しましたです。なお、蛇足ですが・・・ 風葬については、某新聞社の管理職で出雲神官の末裔と称される方が、門 外不出の秘伝を公開するとの触れ込みで詳しく論じておられました。 (昔のことで詳細は忘れました。書籍も既に処分してしまったようです。) inaさん、 >>以前私も井沢先生にならって中国人に発音してもらいまし >>た。若干こもった感じですが、やまと、の発音に近いと思いました。 >>このアプローチのどこに問題があるのでしょうか? ご存知だと思いますが、漢字の発音は大きく分けて漢音(華北系)、呉音 (華南系)が有ります。日本における発音はこれが混用されており、同じ 漢字で別の読み方をするのはこのためです。 現在の中国人の発音ならば北京官話だと思いますが、どちらかと言えば漢 音に近いのでしょうね。(「日本=ルゥーベン」ですね) さらに上古音、中古音等時代により発音が異なることも明らかであり、 漢ー魏晋ー唐のころの発音についても膨大な研究がなされています。 従って、現代中国人の発音は必ずしも参考にならかも知れません。 その結果、現時点では「邪馬臺=ヤマダイ・ヤマタイ」が妥当だろうと言 うことで、ほぼ一致しています。 従って、教科書では「ヤマタイ・コク(漢音)」が採用されているのです。 (「台」は「臺」の当て字です。) 勿論、倭人の発音を音訳しているのでしょうから、正確なことはわかりま せんが、「ヤマト」と言う読み方には無理があり、それを前提としての推 論は慎重になさっては?・・・ノムさんに申しあげたかったのは、それだ けのことです。 Time : 1999/ 5/ 7(金) 22:55:25
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  ご教示どうもありがとうございました。  今後ともよろしくお願いします。  ところでAwajiさんは畿内説なのですか?  私は九州説の本ばかり読んでいるわけではなく、直木孝次郎先生の御本も三冊 程読んだので、理論武装が出来たら又胸を借りるつもりでAwajiさんにぶつ かっていきたいとおもいます。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 06:17:58
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  こんにちは  もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、伊勢はどういう経過で内宮、外宮という形で祭られる ようになったのでしょうか。  そして、豊受大神とはなんなのでしょうか。  よろしくお願いいたします。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 07:26:54
Name : ina E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments:  こんにちは  私の神託事件に対する例え話はこうなります。   東京に本社のある大企業があり、既に同族会社の域を脱し、現社長、 前社長の会長と、血縁のない生え抜きが勤めている。  会長は東京郊外に住んでいる。この会社に重大事が起こって、社長が相談するの は会長じゃないでしょうか。近くに住んでいるわけですし。  ここでもし他のところに行くなら、田舎に引っ込んでいる創業者の未亡人しかな いのでは。そこで墓参りをしながら相談した結論はかなり説得力があると思いま す。そして紛糾しそうな問題であればあるほどこの方法がもっとも収まり 易い方法だと思います。  なお、銅鐸の説については、私はあの銅鐸の中に大宇宙を見るような、ロマン を感じます。   Time : 1999/ 5/ 8(土) 07:40:05
Name : ノム E-mail : Title : inaさん、おはようございます。でも会長は自分の子孫にしか社長になって Comments: はいけないという社則を作っていますから、社長の 目的は会長に相談すれば、達成できなくなるのは目 に見えていると思うのですけど。この件については どう思いますか? 社則とは「古事記」に書いてあるアマテラスの言葉 です。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 10:02:49
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっとした質問 Comments: こんにちは。 楽しく読ませていただいていますが、頭の中がレッドゾーンに突入しそうです。 (ついていくのがやっと) Awajiさんへ質問なのですが「ヤマタイ」に現代の漢字を当てるとするとどの文字が 最も適していると思われますか? 「ここがヤマ場だ」などという言葉が浮かんできました。(あまり関係ないかも) 出雲さんのホームページは斬新なアブローチだと思いました。 inaさんの言われるように「ロマン」を感じます。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 10:10:29
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と伊勢神宮 内宮・外宮・・・ヤマタイ?? Comments: inaさん、きんたろうさん、今日は。Awajiです。 inaさん、ご丁寧におそれいります。 >>ところでAwajiさんは畿内説なのですか? Title : 救世観音と倭国朝貢・・・・年代推定法も  Time : 1999/ 4/23(金) 01:25:33 > ロトさん、ご承知のとおり、Awajiはあくまで畿内6割です。 >より正確に言うと5割5分程度であり、畿内以外の可能性も充分有りうると >思っています。 >しかし、このHPの方は井沢説の支持者が多いので、九州説が優位のように >感じました。そこで、畿内説にもかなりの根拠があり、畿内説の弱点として >指摘される諸問題(幸いロトさんが具体的に指摘されているので)について >もさほど無理の無い解釈で、それを補うことが出来、逆に九州説に有利とさ >れる諸問題についても、同様に解釈次第では、それほど有利とは言えなくな >ることを申し上げていますので、ご了承願います。 目下のところ、以上のとおりです。 >>伊勢はどういう経過で内宮、外宮という形で祭られるようになったのでし >>ょうか。 そして、豊受大神とはなんなのでしょうか。 難しいご質問ですが、先ず豊受大神については、 1.天孫降臨の随神・・・「次に登由宇気(トユウケ)神、こは外宮の度相に 坐す神ぞ。」(古事記) 2.天照大神の御饌神・・「丹波国比沼真奈井の吾が御饌神、等由気大神を呼 び寄せ給え。」(止由気儀式帳・・雄略治世記事) 3.等由気大神由来・・・「豊宇賀能売神の天女伝説」(丹波国風土記逸文) 等の伝承があげられます。従って公式的には御饌神ですが、元々伊勢の土着神 、丹波の和奈佐氏の氏神との説もあります。 伊勢神宮の由来ですが、 1.同床共殿忌避・・・「故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、 倭の笠縫邑に祭る」(崇神紀) 2.伊勢遷坐・・・・・「豊鍬入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。 ここに倭姫命、大神を鎮め坐せさむ処を求めて、・・・伊勢国に到る。 ・・・故、大神の教えの随に、其の祠を伊勢国に立てたまふ。」(垂仁紀) 倭姫命の大和・伊賀・近江・美濃・伊勢の遷座を諸国宣撫とし、伊勢を東国経 営の拠点と見なす見方もあります。(日本武尊の東征記事) さて、そこでAwajiの妄想ですが、これらの伝承は次の時期に当り、 Title : 救世観音と倭国俯瞰・・・思い切って言っちゃいます Time : 1999/ 4/19(月) 21:55:25 4.古墳時代初期(紀元200年から紀元300年 ) かくして西日本の大部分 (韓国南部にも影響を及ぼしていた)に支配権を拡大した邪馬台国は、 中国(魏・呉)の韓国進出をにらみ、中国外交を再開するに至った。   一方、東海関東勢力も狗奴国を中心として次第に連合を強化し、倭国 (邪馬台国)に対抗したが、倭国が結束している限り、その対抗力は 弱かった。   この頃の倭国(邪馬台国)の権力を象徴的に示すのが箸墓を初めとする 古墳の巨大化である。・・・ほぼ開化・祟神期に相当。 5.古墳時代前期(紀元300年から400年)  倭国連合国の象徴であった卑 弥呼の死後、一時的に倭国の結束が乱れ、倭国内の旧出雲大和勢力に対 する懐柔等策等が講じられたが、最終的には倭国は安定し、さらに倭国 内の支配権を強化した。(徳川幕府成立時程度の求心力?)   さらに東海関東にも積極的に和戦両用の進出を行った。  (しかしながら、九州南部、出雲、吉備、越等の旧地方勢力の反抗の危機 は常に継続しており、これらが日本武尊伝承に反映された。) 倭国連合の西日本支配権強化、東国進出本格化を想定していますので、伊勢 は海上東国経営の軍事拠点であり、全国統一の精神的拠点でもあったので、 この場所に皇祖神を祭ったのでは無いかと思っています。 (当時の祭祀女王であった「卑弥呼」或いはその後継者は、東国(狗奴国) との抗争・進出の精神的支柱として、天照大神を奉じて伊勢に駐屯していた。 丹波は兵糧供給地であったのかも?? 「卑弥呼」は高齢をおして伊勢に駐 屯中にそこで没したと考えるのも面白いかも知れませんが・・・ ここまで来ると、いささか拡大誇大妄想です。) きんたろうさん、 >>Awajiさんへ質問なのですが「ヤマタイ」に現代の漢字を当てるとすると >>どの文字が最も適していると思われますか? 一寸意味が良く分かりませんが、「邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」 (後漢書)にならい、 「ヤマト」であれば、この「邪(耶)摩惟」か「夜麻登」でしょう。 「ヤマタイ」であれば、「耶馬臺(台)」です。 これって回答になっていますか? Time : 1999/ 5/ 8(土) 12:32:03
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  こんばんは  そうですね。おっしゃる通りですね。会長の作った規則を 破る許可を会長にもらうことは難しいですね。  それに私の例えもなんか妙な例えですね。すみませんでした。    とすると、もし、宇佐がOKを出したらどうなったのでしょう?  藤原氏が伊勢の許可が必要だとか言い出して結局は天壌無窮の神勅は 守られたのでしょうか。  私には神託は一回きりのものだと言う印象があるのですが。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 12:32:57
Name : ina E-mail : Title : Awajiさま Comments:  ありがとうございます。 ところで、  「卑弥呼」或いはその後継者は、東国(狗奴国)との抗争・進出の精神的支柱として、天照大神を奉じて伊勢に駐屯していた。  ここで後継者をとれば、天照大神は卑弥呼と言える、という論理はいかがでしょうか?  あと、卑弥呼の墓についてはなにかご意見おもちでしょうか。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 12:57:55
Name : ノム E-mail : Title : 神託は何回もおこなわれたはずです。 Comments: inaさん、うっすらとした記憶なんですが宇佐八幡 が先に(聞きもしないのに)「皇統をうつす方がい い」と言い出したのがはじまりではなかったでしょ うか?その後、称徳が清まろに確認にいかせた結果 「皇ちょをたてよ」と命じられたんではなかったの でしょうか? Time : 1999/ 5/ 8(土) 13:16:09
Name : ノム E-mail : Title : 宇佐が Comments: 許可すれば、その時は伊勢へ最終確認の託宣を 受けにいったと思います。 Awajiさん、ご意見参考になりました。 ありがとうございます。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 13:18:42
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とヤマタイコク追加 Comments: きんたろうさん、ゴメンナサイ。Awajiです。 「ヤマタイ=耶馬内」を期待しておられましたか? 音訳と意訳ですが、これならば「山の内=盆地」だなんて! Time : 1999/ 5/ 8(土) 13:26:25
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と・・・ヒミコ=アマテラス Comments: inaさん、すばやいですね。Awajiです。 >>「卑弥呼」或いはその後継者は、東国(狗奴国)との抗争・進出の精神的 >>支柱として、天照大神を奉じて伊勢に駐屯していた。 >>ここで後継者をとれば、天照大神は卑弥呼と言える、という論理はいかが >>でしょうか? あと、卑弥呼の墓についてはなにかご意見おもちでしょうか。 「天照大神=卑弥呼」とすれば、天照大神に関する全ての伝承や、それ以降 の神武伝承、その他全ての系譜伝承が、宙に浮いてしまいます。 また、三世紀に倭国(大)王家では祖神伝承を持っていなかったことになり ます。これは一寸想像できませんので、やはり卑弥呼は「太陽神=祖神」を 奉じた祭祀女王と考えた方が妥当でないかと思います。 ただ、その時点で「天照大神」と言う神名が確立していたかどうかは分かり ません。 卑弥呼の墓は分かりません。現時点で敢えて想像を逞しくすれば・・・ Title : 救世観音と箸墓・・・ヒミコの意味?? Time : 1999/ 5/ 2(日) 22:11:06 >先日の箸墓周濠調査現説では、この見解は、ほぼ全面的に否定されていまし >た。なお、年代的には箸墓の北東にあるホケノ山古墳が250年頃に近いと言 >うことです。 ホケノ山古墳が、最も臭い?と思っていますが??確証は一切ありません。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 14:07:15
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ホケノ古墳とは? Comments: Awajiさん、こん@@は。前から聞こうと思っていたのですが、「ホケノ古墳」 という古墳は、初めて聞く名前なのです。大きさとか現時点で誰の古墳として 比定されているのか、教えていただけないでしょうか? Time : 1999/ 5/ 8(土) 16:10:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とホケノ山古墳 Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 ホケノ山古墳は・・・ 箸墓古墳の東、主軸の延長線上にあります。墳丘長約85m、後円部径60mの 前方後円墳です。 ただし、前方部が小さい帆立貝式に近い形式です。周濠を持ち、その幅は 北側17.5m、東側10.5mですが旧河川の削平により、全体像は確認されてい ません。 所謂、初期纒向古墳群の中で、規模的には傑出したものではありませんが、 墳丘全体が河原石の葺石で覆われている点で、他の古墳とは異なっており、 特に注目されています。 中央の埋葬施設は未調査ですが、画文帯神獣鏡が出土した可能性がありま す。埋葬者の比定は行われていませんが、出土土器から箸墓古墳より、数 十年(2〜30年?)先行していると見られています。 Awajiも、これに続く大型古墳の先駆となる葺石に関心をもっています。 (かなり労力を要するもので、権力の巨大化を意味します。) *径百歩(7〜80m?)にもほぼ該当するのですが、卑弥呼の墓 云々は、あ まりまともに受け取らないで下さい。密かな妄想です。 Time : 1999/ 5/ 8(土) 18:53:43
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 「SAPIO」10周年記念講演会 Comments:  東京と大阪で行われる井沢の「SAPIO」10周年記念講演会に、それぞ れ5名様前後を、御招待いたしたいと思います。御希望の方は、私あてに、お 名前、年令、御住所、電話番号、御職業を明記の上、メールを下さい。  締め切りは、12日です。申し込みが多い場合は、井沢がアミダくじで選び ます。                       管理人 Time : 1999/ 5/ 8(土) 21:42:13
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 纒向古墳群 Comments: Awajiさん、ご紹介ありがとうございます。 纒向古墳群は調査が進むにつれ、年代が古くなっていくような気がします。 箸墓の年代も280年前後から繰り上がる可能性もあるとかないとか、複雑です。 ホケノ山古墳については、ぜんぜん知らないのですが、自然丘陵を利用したもの ではなく、完全な人口古墳なのでしょうか? 石塚古墳とか箸墓については、いろいろな推測がたてられていますが、ホケノ山 古墳というのは、初めて知りました。 Awajiさんと同じ推測の上にたった学説とかはあるのでしょうか? 私は今、卑弥呼=火御子からカグツチとイザナギの関係が九州と大和の関係なのか もしれないと妄想しています。ますますSF小説のような展開が頭をよぎりはじめ た今日このごろみなさんはどうお過ごしでしょうか? とりあえず、横浜に負けなくてよかったと胸をなでおろしています。 なんの事? Time : 1999/ 5/ 9(日) 00:30:24
Name : きんたろう E-mail : Title : ヤマは盆地だった? Comments: こんばんは、みなさん。 Awajiさん、ありがとうございました。 いつも意味不明瞭な質問ばかりですみません。 耶馬という漢字を使った地名は大分県にあります。 本当にあるとは思いませんでした。(認識不足でした。大分の方すみませんでした) ヤマは「山」の事だと思いますが「神聖な、とか重要」という意味を持っていること に納得のいく説明が出来るはずだと思うのです。 神話で黄泉の国から生還したイザナギは筑紫の国で身を清めますが、どうして「筑紫」 なのだろうと思ってしまいます。 大阪の近くで「禊ぎ」をすれば悩まなくてすむのですが。 きんたろうのホームページ Time : 1999/ 5/ 9(日) 03:07:15
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とヒミコ墓の推測・・・ Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>ホケノ山古墳については、ぜんぜん知らないのですが、自然丘陵を利用 >>したものではなく、完全な人口古墳なのでしょうか? 箸墓と同様に東から伸びる尾根を、切断利用しているようです。 (主軸線上にあるのは、そのためでしょう。ただ段丘等はかなり精密に 作られています。) >>Awajiさんと同じ推測の上にたった学説とかはあるのでしょうか? まず絶対に無いと思います。 ご承知のとおり、考古学の立場からは「卑弥呼」の墓の特定は、極めて困 難であり、下手に比定を仄めかすと、学者としての見識を疑われかねませ ん。 従って、いろいろな古墳について造営年代、方法、副葬物の痕跡等は、よ り明確になると思いますが、今後もそのような推測学説は出ないでしょう。 むしろ中国・韓国の魏晋時代の考古学的解明により、意外な事実が明らか になるのではと期待しています。 (陵墓、参考墓の考古学的調査があれば、何か分かるかもしれませんが、 現段階では不可能でしょう。 現在の考古学は、奥座敷の大金庫には手をつけず、玄関の下駄箱で資産調 査を行っているようなものです。尤も下駄箱の調査も予算不足で、思うに 任せず粗大ゴミと一緒に捨てられていますので、そこに手をつけるべきで しょうね。) Time : 1999/ 5/ 9(日) 21:34:19
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 魏の陵墓 Comments: みなさん、Awajiさん、こん@@は。今日もひやひやの勝利でした。 魏の陵墓方式(自然丘陵)と近いということですね。なるほど臭いです。 推測学説がでないというのは残念な気がしますが、仕方のない所かもしれません。 黒塚古墳から出土した鏡ひとつとっても魏の鏡か、国産鏡かもめているところから みても、「ものは取りよう」ということがよくわかります。 魏志倭人伝の記述から推測しても手詰まりですし、記紀からは「卑弥呼」の比定さ えしかねる現状では、考古学上の発見しか手はないようです。 素人は素人なりに、卑弥呼と邪馬台国の正体に迫ってみようと考えています。 Awajiさんとのやりとりの中で、ひとつ気がついたのは、「自然な流れ」とい う事です。邪馬台国が自然な流れの中で存続しつづけたとすれば、卑弥呼の時代に は大和の地にあったと考えれば、説明のつきにくいことはなくなるという事です。 しかし、卑弥呼という三つの音が記紀に記されていない謎だけは解けないようです。 卑の字は、本当に日につながるのでしょうか? Time : 1999/ 5/ 9(日) 23:27:39
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とヤマタイコク妄想・幻想・・・ホンマカイナ?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>素人は素人なりに、卑弥呼と邪馬台国の正体に迫ってみようと考えてい >>ます。 是非がんばってください。Awajiも一連のご意見をうかがって、昔の邪馬台 国オタクの頃を思い出しています。そこで、言わずもがなですが、かって 考えたことを二三。 >>しかし、卑弥呼という三つの音が記紀に記されていない謎だけは解けな >>いようです。卑の字は、本当に日につながるのでしょうか? これについての一つの考え方は、やはりヒミコを普通名詞的に理解するこ とだと思います。 一般的には、ヒミコを普通名詞とした場合、タイヨ(イヨ?)との整合性 が問題とされるのですが、以下のように考えれば、一応の説明がつくかも 知れません。(一寸肩が凝ります ハイ。) 1.「ヒミコ」は元々「日御子」であり、当時の祭祀女王の称号であった。 2.「魏志」に記述された「ヒミコ」も当然別に固有名詞を持っていた。 3.しかし、祭祀女王になったときには、固有名詞はタブーとされ、単に   「ヒミコ」と呼ばれ、魏使にも明かされなかった。 4.「タイヨ(イヨ?)」は「ヒミコ」の称号を得る前の固有名詞であり、   魏使もこれを知り得た。 5.一方、男子の行政王は「ヒコ」即ち「日子」或いは「スメラ・ヒコ?」   を称号としていた。 6.邪馬台国の倭国統合(支配権強化)までは、各国でも「ヒミコ」「   (スメラ)ヒコ」が使用されていたが、倭国大乱収束後は邪馬台国   がこれを独占使用した。   (通称的には「キミ」「オオキミ」も使用されていた?) 7.しかし、祭祀女王の地位低下・行政王の地位向上にともない「ヒミコ   」の権威・本来の意味が失われ、この二つの権威・称号をまとめた   形での「スメラ・ミコ・ト」が大王称号となっていった。 8.一方で「ヒ・ミコ」は神に仕える女性(巫女)の称号「ミコ」と言う   形に変形して、後世に伝えられた。 それでは固有名詞「タイヨ(イヨ?)」は、何故記紀に残っていないのか? ここが苦しいところですね。後で一寸ジョークを。 次に「ヤマタイ」と「ヤマト」の関係ですが(もっと肩が凝ります)、例 によって責任は一切持ちません。 一種の作業仮定として、三世紀頃の倭国中心国名を、「ヤマ トヒ= yama-tohi」であったとします。 母音の間にある「h」はサイレント化しやすいので、外国人が聞けば、 「ヤマ・トイ=yama-toi」となり、漢字表現では「邪馬臺」となった?? (タイとトイは違うじゃないか? ハイ違います。ここら辺も苦しいんで すが、トォーキョーとトキオの差ぐらいの所でゴカンベンヲ!) 後世(四・五世紀)には、倭人の間においても「hi」が脱落し、「ヤマト =yamato)と呼ばれるようになった?? では、和語の「ヤマ」は山として、「トヒ」とは何か?さらに、大気圏外 にぶっ飛びます。 元来、神武は九州の小国「ヤマ」国の出身であった。 (魏志の最後から六番目の「邪馬国」に残滓がある?) そして尊い「日の神=祖神」の助けによって、奈良の「トミ」を本拠とす る出雲族を征服し、子孫は全国に覇権を及ぼした。 そこで、「ヤマ」と日の神を尊ぶ「トトヒ」をつなげて、「ヤマ トトヒ」 或いは「ヤマト トヒ」を国名とした・・・・ホンマカイナ?? その後、「ヤマ トヒ」→「ヤマ トイ」→「ヤマト」となった?               ↓             「ヤマ タイ」 それでは、その痕跡・状況証拠は??(ますます苦しい) Awajiが密かにヒミコとの関連性について疑惑を持っている、次の人物名 です。 倭迹迹日百襲姫( ヤマト トトヒ  モモソ ヒメ)紀 孝霊子 夜麻登登母母曽毘売( ヤマト ト    モモソ ヒメ)記 倭迹迹稚屋媛( ヤマト トト ワカヤ ヒメ)紀 孝霊子 倭飛羽矢若屋比売( ヤマト トビハヤ ワカヤ ヒメ)記 倭迹迹姫( ヤマト トト ヒメ)紀 孝元子  従来これらは、以上のように読まれています。 「倭=ヤマト」と考えれば当然ですし、極めて自然です。 しかし発想を飛躍させて、本来は「ヤマ トヒ」であったのが、「ヤマ」に 倭を当て「ヤマト」としたため、「ト」「トト」が混入したとすれば、 これらの人物の本来の伝承名は、 ( ヤマ トヒ  モモソ     ヒメ)紀 ( ヤマ トィ  モモソ    ヒメ)記 ( ヤマ トビ  ハヤ ワカヤ ヒメ)紀 では無かったかと妄想するわけです。(コジツケダ! ハイ、ソウデス) ここで、さらに宇宙までぶっ飛んで、 ヤマ トヒ の    ヒミコ である モモソ ヒメ →卑弥呼と記述 ヤマ トヒ の ワカ ヒミコ である トヒヤ ヒメ →臺与 と記述 を炙り出そうという寸法ですが、ここまで来れば立派な精神病理学の対象に なりそうですね。・・・・ハイ オアトガ ヨロシイヨウデ! なお、蒸し返すわけではありませんが、念のため鐸チャンの形状変化を確認 したところ、 初期・・・・扁平な杏型 中期・・・・次第に円に近づく。 終期・・・・殆ど真円 となっていました。Xさんは次第に本来の用途が失われた・・・とされるか も知れませんが、終期でも型持ち穴は確り空いており、当然角度は30度→ 45度近くに変化しています。Awajiは舌を支える紐を通したものでは無いか と思っています。ご参考までに。 Time : 1999/ 5/10(月) 22:05:03
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: ご教示、ありがとうございました。十分納得のいく展開だと思います。 常識的に考えると、魏志倭人伝にしるされている邪馬台国がほぼ同時代の初期大和 政権のことだと考えるのが妥当だと思います。以後の大和朝廷の進展をみても、2 50年前後にはある程度以上の基盤ができていないとおかしいからです。 しかし、非常識な展開もあり得るのが歴史の面白い点ではないかとも考えられます。 卑弥呼は火御子だったという非常識なシナリオをコジツケてから、邪馬台国のまと めをしたいと思っています。 Time : 1999/ 5/10(月) 23:53:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 宇宙の果てから Comments: 急に頭の中を「闇夜の國から二人で船を...」という歌が駆けめぐりました。 (どうしてなんだろう?) Awajiさんの世界は広いですね。感心しました。 古代世界の広がりを感じるのは楽しいものです。 ありがとうございました。 ところで当時の交通網についてはどのように感じておられますか? 是非ご意見をお願いします。 Time : 1999/ 5/11(火) 11:54:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と発想・・・道路網 Comments: 勇者ロトさん、きんたろうさん、今日は。Awajiです。 >>しかし、非常識な展開もあり得るのが歴史の面白い点ではないかとも考 >>えられます。 そうですね。現時点で、いかに常識的で整合性があり、妥当性があっても、 一片の木片で全ての論理がひっくり返りかねないのが古代史科学です。 従って、おっしゃるとおり史料に残された僅かの材料をもとに、思い切っ た発想を展開するのは、我々ドシロウトならではの特権ですね。 そして、その発想が様々な別史料とどの様に整合性を持ち得るか、につい ての固定観念にとらわれない思い切った発想の転換も同様でしょう。 (かといって、根拠史料も論理展開も示さず、断定的に結論だけを示す方 がいらっしゃるのは、一寸困ったことだと思いますが。) 根拠は的確に、発想は大胆に、検証は緻密に、結論は慎重に・・・ナーンテ きんたろうさん、 >>ところで当時の交通網についてはどのように感じておられますか?是非 >>ご意見をお願いします。 Awajiは、ほんの100年程前まで、交通手段・交通網は殆ど変わっていなか ったのでは無いかと思っています。 よく古戦場や城跡を訪ねましたが、こんな急坂を本当に甲冑をつけて奇襲 できたのだろうか? と疑問を感じたものです。 しかし考えてみれば、ほんの一世代前の帝国陸軍兵士は、あの広大な中国 大陸を、完全武装で徒歩行軍し、戦闘していたのですから、ジャンボやノ ゾミや車に慣らされた我々とは、そもそも感覚が異なっていたのでしょう。 その意味では、動力交通機関出現以前の三世紀と十九世紀の人間の歩行感 覚は、余り変わっていなかったと思います。(時間感覚も) 交通網も橋などは多少は整備され、人口増加により人家(駅舎)は増えた でしょうが、基本的には殆ど同じような自然道、沿岸水路が使用され続け たのではないでしょうか? (どなたかが言っておられましたが、外航水路についても、運搬量を別に すれば、小型船の方が安全確実だったと思います。おそらく我々の常識以 上に、広範囲な交易・交渉が行われていたのでは無いかと思います。) 丁度、NHKで天武天皇時代の道路整備状況が放映されていますが、ある 意味では、明治初期より余程整備されていますね。 ああいった道路が天武一代で作れるものでは有りませんから、其の元にな る幹線は既にかなり充実していたと思います。 ところで、このご質問の意味はなんでしょうか? 正直なところ、フェニキュ人やヘブライ人の渡来説は、いくら発想を大胆 にと言っても、一寸ゴカンベン頂きたいのですが・・・。 Time : 1999/ 5/11(火) 23:02:20
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : スケール Comments: NHKの「ときめき歴史館」はおもしろかったです。 「逆説の日本史」を読んでいたから天武天皇のスケールの大きさに 免疫が出来ていたつもりでしたが、あれほどだとは思いませんでした。 この掲示板では天武天皇渡来人説は分が悪かったようですが、 井沢先生の「黎明の反逆者」を読んでから、 資料云々を越えた真実さみたいなものを感じました。 これは私の心情ですから、他人に強制するつもりはありませんが。 宇佐神宮は渡来人の神社ですから、天武・持統系の称徳天皇は こだわったのかもしれませんね。 天武天皇と応神天皇は非常に経歴が似ています。 応神天皇には、天武天皇が投影されているのではないかと私は思います。 但し、8世紀後半に宇佐神宮に応神天皇が祭られていたかどうかは、 私は確信が持てないのでこの先はなんとも言いようがありません。 日本史を矮小化したのは、やはり藤原氏の罪かもしれません。 Time : 1999/ 5/12(水) 12:42:06
Name : きんたろう E-mail : Title : 街道を行く(海道をいく?) Comments: こんばんは、みなさん。 Awajiさんありがとうございました。 「ときめき歴史観」は再放送するのでしょうか? 目が覚めたときには終わっていました。(失敗しました) 人々が苦労したと思われる運輸手段についてですが、最も有効に活用されてきた のは水運=舟運であることは間違いないと思います。 古代は街道の整備状況は極めて乏しかったと思います。(江戸時代もそうでしょう) 常陸国においてもそうだったと思います。 地方では獣道とほとんど変わらなかったのではないでしょうか。 国道4号線を奥州街道と言いますが、江戸幕府成立時には奥州街道とは国道6号線 のことでした。要するに6号線のバイパスが4号線です。 6号線=水戸街道は陸前浜街道とも呼ばれています。この街道も現在は取手を 通っていますが、古代は鹿島経由で常陸国に通じていたのでした。 ほとんど海沿いに街道ががあったに等しい状態でした。 その他の道路は平地、もしくは川に沿っていた程度だったようです。 これは常陸国の状態なのですが、当時の先進地域においてはどのようなものだった のか知りたかったのです。 古戦場後に立った感想については全く同感です。 重装備をして足場の悪い所を駆け回るのですからすごい体力だと思います。 ユダヤ混同説については先日放送された「ミトコンドリアDNA」の研究により (残念ながら?)否定されたようです。 話は変わりますが >ジャンボやノゾミや車に慣らされた我々とは、 というようなAwajiさんのこの様な表現の仕方が好きです。 Time : 1999/ 5/12(水) 19:17:38
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と街道・・・・応神と天武の相似性?? Comments: きんたろうさん、安部さん、今日は。Awajiです。 >>古代は街道の整備状況は極めて乏しかったと思います。(江戸時代もそう >>でしょう)常陸国においてもそうだったと思います。 ビデオをとり忘れたので確認できませんが、例として挙げられていたのは、 確か常陸国では無かったでしょうか? あんな辺境でも(当時ですよ!)頑張ってるなぁ・・・と言う印象が残っ ています。 ところで、常陸風土記はお読みになりましたか?(当たり前だ! スンマセン) 現在の地勢と対照すると、興味は尽きないようですね。 安部さん、マイドデス。 >>天武天皇と応神天皇は非常に経歴が似ています。 皇位(大王位)継承戦争の勝利者と言う以外に、経歴が似ている点は何で しょう? 二者の事例(経歴)は、以下のとおりですね。 1.継承権     応神・・天皇皇子    天武・・天皇弟 2.継承抗争者   応神・・異母兄弟間   天武・・叔父甥間 3.当時年齢    応神・・幼児      天武・・壮年 4.協力実行者   応神・・母・老臣    天武・・妻・皇子 5.戦争経緯    応神・・九州→畿内   天武・・東国→畿内 6.事後政治    応神・・母の称制    天武・・親政 7.国際環境    応神・・半島戦勝利?  天武・・半島戦敗北 同じく継承戦争において、これだけ異質な事例(経歴)は寧ろ珍しい位で す。 こう言うと、余り似ていると投影であることがバレルので、適当に違えて いるのだ、と言うような議論をする方がいます。 この議論は、あたかも「似ていないからこそ、似ているのだ」と言うよう なもので、一種の詭弁に過ぎませんね。 要するに「経歴は非常に似ていない」と言うことを、出発点にすべきもの では無いでしょうか? ついでに申しあげると、 >>宇佐神宮は渡来人の神社ですから、・・・ についてですが、確かに比売語曽神、豊前戸籍の秦姓、ヤハタと秦氏、香春 神社の辛国、辛嶋氏との関係、精銅業者との関連等から、渡来人と結び付け る説が有るのは事実です。(Awajiもこの可能性は否定しません。) しかし、大神(三輪)氏による祭祀権の掌握等もあり、未だ其の淵源は良く 分からないと言うところでしょう? 従って渡来人の神社と決め付け、その前提に立って何らかの推論を組み立て るのは、無理があるのでは無いでしょうか? なお、本件は質問では有りませんので、ご回答は不要です。 Time : 1999/ 5/12(水) 22:04:48
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=火神子?2 Comments: みなさん、こん@@は。今日は負けてしもた。はぁー。 「卑弥呼」が称号であるということには、私も賛同しています。しかし、魏志倭人 伝と古事記にひとつの一致点を見出してから、私の中でひらめいたものがあります。 それは「伊都」です。魏志倭人伝においては「伊都国」、古事記においては「伊都 之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)」と記述してあります。 まず「伊都国」ですが、これは前原市に比定されています。ここには大集落遺跡と もいわれる「三雲遺跡」があり、この遺跡が「伊都国」の中心地とされています。 次に、「伊都之尾羽張神」という神ですが、これは「国譲り」で有名な「タケミカ ヅチの神」の父としてえがかれている神でもありますが、注目したいのは、この神 はイザナギノミコトの持つ「十拳剣(トツカノツルギ)」の別名でもあるのです。 イザナギはこの「トツカノツルギ」でイザナミが死ぬ原因となった火の神を斬り殺 します。 また、「伊都之尾羽張神」は「天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)」ともいい ます。ここから「伊都国」は「天国」つまり「高天原」につながるのではと考えて います。 天孫は高天原から降臨しますが、この高天原こそ伊都国のことではないでしょうか ?イザナミとイザナギは夫婦神とされていますが、姉弟ではないかとも考えられて います。神話における最初の結婚は兄妹婚または姉弟婚というパターンが多いから だそうです。 卑弥呼には男弟がいます。イザナギとイザナミが姉弟だとすると卑弥呼と男弟との 関係にるのではないかと推測しています。 この項つづく(夜も遅いのでまた続きにします。すいません。この無茶な展開に 嫌気がさすようでしたら、どなたでもおっしゃってください。すぐやめます) Time : 1999/ 5/13(木) 00:07:32
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=火神子? 3 Comments: みなさん、こん@@は。 イザナギノミコトの剣が、伊都之尾羽張という事はイザナギノミコトは伊都国の 出身であるということではないかと考えています。 そして「伊都之尾羽張(いとのおはばり)」という言葉は「伊都之大祝(いとのお おはふり)」につながるのではないでしょうか? 「大祝」とは神道において神職を表す言葉であり、禰宜につづく次官にあたります。 ここから、イザナギは伊都国の次官もしくは副王、皇太子というbQの地位にいた のではないかという推測しています。 伊都国の長官は爾支(ニキ?)と魏志倭人伝に記されていますがこれは禰宜(ネギ )に通じるのではないかとも推測しています。また副官はシマコ、ヒココと記述さ れていますが、これについてはまだ考察できていません。 伊都国は、帯方郡の施設が倭国と行き来する時に常駐する国でもあり、三雲遺跡か らは、大陸製の鉄器や青銅器が多数出土しているところから推測しても戸数こそ2 千戸ですか、軍事、政治、そして交易上の重要拠点であったと思われます。 この項つづく(だんだん苦しくなってきました) Time : 1999/ 5/13(木) 13:31:07
Name : きんたろう E-mail : Title : 常陸国(常道国)=日立国=常世の国=理想郷=桃源郷(梅?源郷) Comments: みなさん、こんばんは。 Awajiさん、ありがとうございました。 常陸国だったのですか。 ますます見みたくなりました。(再放送はするのでしょうか?) 常陸風土記によるとユートピアそのもののように描かれています。 実際平安初期には全国一の水田があったようです。(当然課税負担も全国一) また海山の物産にも恵まれていましたので、当時としては「理想郷」そのもの だったのでしょう。 (だから私の先祖も淡路島からやって来たのかも?、時代が少し違うけど) こうした根底には神仙思想があるという意見がありますが、どう思われますか? 話が邪馬台国からどんどん離れてしまいました。(すみませんでした) Time : 1999/ 5/13(木) 19:21:35
Name : ノム E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: こんにちわ。ごぶさたしてます? 「常陸国風土記」といえば、ヤマトタケル天皇?と 聞いた事があるのですが、常陸の国では、ヤマトタ ケルは天皇として扱われていたのでしょうか? 単なる誇張表現の一つでしょうか? どうおもわれますか? Time : 1999/ 5/14(金) 09:15:13
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「宇佐説」・・・六甲オロシ??支離滅裂 Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 卑弥呼=火神子?・・・頑張っておられますね。 そこで、まことに僭越ながらエールを送らせていただきます。 「名にしおば 臆さず進め 勇者ロト 古代の闇の 深ければこそ」  失礼(ヒツレイ)しました。 もう一句・・・タイホウ大砲の号砲一発! オーオーオオー 「進むにも 退くにも猛し 獣王の 覇気高らかに 蒼天に映ゆ」 ついでと言っては、何ですが・・・     「長き夜の しじまは深き 黄泉の国 明日の日の出を 待ちわびるかな」 チョーさんも、元気を出してチョーだい! 閑話休題・・・ ところで、邪馬台国九州説に立たれる場合でも「宇佐説」はあまり支持者 がおられない様ですね。 Awajiは、可能性はゼロとは言わないまでも、少なくとも現時点ではこれを 積極的に肯定すべき理由は見出せないと思っており、ましてこれを前提と して古代を考察することは、余りにも無理があると考えているのですが、 井沢さんは、今でも邪馬台国「宇佐説」に固執されているのでしょうか? 以前、「逆説の日本史U」飛鳥〜奈良時代については、聖徳太子論から天 武・桓武天皇論に至るまで、井沢さんの所説には疑問が多く、然るべき時 期には見直すべきであろうと言う意見が多かったように思います。 Awajiは、「逆説の日本史T」邪馬台国・卑弥呼論から神話論についても、 同様の印象を持っているのですが、いかがなものでしょうか? Time : 1999/ 5/14(金) 21:30:01
Name : きんたろう E-mail : Title : この世の天国(どこかで聞いたような?) Comments: ノムさん、こんばんは。 常陸風土記の記述は多分にプロパガンダ的要素があったように思います。 何しろ国境紛争を争っている時に編纂されているのですから。 ただ、常陸国が環境的に恵まれていた場所であったことは間違いのないところだと 思います。それは耕地可能面積が最大だったことが最も大きな理由です。 自然災害の無い点も大きかったと思います。 しかし最大の理由は編纂者が藤原宇合と目されている点からです。 藤原氏と常陸国の関係については藤原氏の秘密というタイトルできんたろうの ホームページにありますのでご覧になって下さい。 きんたろうのホームページ 倭武天皇=?倭武命のことですね。 どうなのでしょう。 ただ、大奈母知神信仰が常陸国中部に見られるということですから、出雲の支配が 関東にまで延びていた可能性があるのかも知れません。 Time : 1999/ 5/14(金) 21:43:59
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=火神子?4 Comments: みなさん、こん@@は。Awajiさんエールありがとうございます。 野村阪神とは違いますます苦境に入ってきました。それにしても大豊はまさに大砲 となったようです。去年が嘘のようです。 私が伊都国にこだわるのは、伊都国こそ大和朝廷の原型ではないかと考えているか らです。それは、イザナギとアマテラスの関係が伊都国と大和朝廷の原型の関係だ と思うからです。 イザナギはイザナミと別離しますが、この状態こそ邪馬台国との決裂を表している とかんがえています。 イザナギは火の神を斬る事により、火(火山)をまつる祭祀との決別を宣言したの です。北九州の弥生時代の人口密度は阿蘇山の周囲に集中しています。(弥生遺跡 からの推定)そして縄文遺跡も同じように阿蘇の周囲にひろがっています。 なぜ、弥生時代になっても縄文時代とおなじ阿蘇周辺から移動しなかったのでしょ うか?すぐ北には、筑紫平野がひろがり、西には熊本平野があります。 農耕に適した平野に移らずに阿蘇の近くに居つづけたのは、そこに火山信仰があっ たからだと考えられるのではないでしょうか? もちろん弥生後期には、平野部にも人口の広がりが進んでいます。しかし阿蘇周辺 に居つづけた弥生人が減少したという事ではありません。 新しく増えた勢力が平野部において、環濠集落を形成しひろがっていったという事 です。 うーん泥沼にはいったみたいですがもう少しつづけたいと思います。 Time : 1999/ 5/14(金) 23:17:21
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と倭武天皇・・・・常陸風土記 Comments: ノムさん、きんたろうさん、今日は。Awajiです。 >>「常陸国風土記」といえば、ヤマトタケル天皇?と聞いた事があるので >>すが、常陸の国では、ヤマトタケルは天皇として扱われていたのでしょ >>うか? 行方郡の条ですね。倭武の天皇の巡幸記事があり、后大橘比売の名が見ら れます。(記紀の弟橘比売とは異伝ですね。) 一応Awajiの見解を申し上げておきます。 「常陸・播磨国風土記」においては、郡郷制以前の郡里制で記されており、 或いは『日本書紀』よりも成立が早いのではないかと考える向きもあるの ですが、ここでは藤原宇合(養老三年〜末年迄国司在任)の撰集として置 きます。 さて、風土記と天皇名なのですが、 『常陸国風土記』・・・日本武尊が倭武天皇 『播磨国風土記』・・・菟道稚郎子太子が宇治天皇         ・・・市邊押磐皇子が市邊天皇 として、表記されています。一方で、 『日本書紀』・・・・・日本武尊は仲哀天皇の父、       ・・・・・市邊押磐皇子は仁賢・宣化天皇の父 とされているので、施基皇子=春日宮天皇、舎人親王=祟道尽敬天皇 のように、撰者が太上天皇(追贈)として扱ったと見ることが可能でしょ う。日本武尊の墳墓が御陵に準じて扱われているのも、これを裏付けるも のだと思っています。 (菟道稚郎子太子については別に考察する必要があるでしょうが、話が拡 散しすぎるので、ここでは申し上げません。) Time : 1999/ 5/14(金) 23:42:50
Name : きんたろう E-mail : Title : さすがです Comments: Awajiさん、こんにちは。 ノムさん、どうですか? 先日のノムさんの質問の答えはAwajiさんが書かれたとおりだと思います。 Time : 1999/ 5/15(土) 15:25:03
Name : 管理人 E-mail : k7m-ysd@asah-net.or.jp Title : 「SAPIO」10周年記念講演会 Comments:  今回は、「SAPIO」10周年記念講演会の招待プレゼントに御応募いただきありがとうございました。  東京講演の招待状は、14日(金)に、同誌編集部から直接お手元に郵送されました。  大阪講演の招待状は来週に出来上がりしだい、編集部から発送されます。 なお、大阪講演につきましては、座席に余裕があり、また期日まで日がありますので、 10名様を追加御招待できます。御希望のかたは、私あてにお名前、 年令、御職業、御住所、電話番号を明記の上、メールをください。先着10名様を追加御招待します。                 管理人 Time : 1999/ 5/15(土) 18:27:19
Name : ノム E-mail : Title : 管理人さんへ Comments: 井沢先生の大阪でのサピオの講演会の日程は、いつ なのでしょう?日程があえば応募したいのですが。 Time : 1999/ 5/15(土) 18:38:51
Name : ノム E-mail : Title : ありがとうございます。 Comments: Awajiさん、きんたろうさんありがとうございまし た。撰者が「太上天皇」として扱ったという事で すね。生前から天皇として扱われたわけではない という事ですよね。勘違いしていました。 Time : 1999/ 5/15(土) 21:25:10
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と倭武天皇諸説・・・・イロイロあります Comments: ノムさん、マイドデス。Awajiです。 >>生前から天皇として扱われたわけではないという事ですよね。勘違いし >>ていました。 Awajiの言い方が、不十分だったかも知れませんので、付言しておきます。 >撰者が太上天皇(追贈)として扱ったと見ることが可能でしょう。 と言うのはあくまでもAwajiの見解です。(きんたろうさんも賛同して頂い た様ですが) この「風土記」の「倭武天皇」の解釈については、 1.「常陸風土記」は「日本書紀」に先行していたので、「日本書紀」が 未確定の段階では、倭建命を天皇とする伝承(一書)があり、それが 「風土記」に採用された。 2.倭武天皇は関東王朝の大王であり、そもそも大和王朝とは無関係であ る。その関東王朝の伝承を倭建命にオバーラップさせたものである。 弟橘姫と大橘姫も無関係な別人伝承である。 3.もともと常陸には、倭建(武)に関する伝承等は存在せず、藤原宇合 が中央伝承に併せてでっち上げたものである。天皇としたり大橘姫と したのは宇合(部下の書記官)のケアレスミスである。 4.「記紀」「風土記」ともに、創作・曲筆に満ちており、まともに論じ るべきものではない。 等々があるようですよ。従って必ずしもノムさんの勘違いではありません。 お暇があれば、これらの説やノムさん自身の新たな発想を含め、その蓋然 性をお考えになっては? Time : 1999/ 5/15(土) 23:20:22
Name : Toshy E-mail : Title : 邪馬台国の話題が熱い時に横槍を Comments: 入れるみたいですが。。 井沢先生の本で、気になった個所があるのでちょっと。 逆説の日本史5、94ページです。 >軍事的才能では範頼は義経の足元にも及ばない これは、「戦術」という点だけですね? 「戦略」という点を考えれば、九州を制した範頼はまさに天才です。 Time : 1999/ 5/17(月) 01:37:19
Name : A E-mail : Title : gennji Comments: とすると、京都を制した木曽義仲は戦略的天才なのでしょうか? 私には戦術的天才に思えます。  井沢先生のこの文章に引っかかること自体が私には疑問で、義経は頼朝の兵 を使っているわけですから、戦略とか戦術に分ける議論がどうしてここで必要 になるかわかりません。  範頼は純粋な義経に比べれば世事に長けていたかもしれませんが、かといって 天才といえるかというと? Time : 1999/ 5/17(月) 08:05:10
Name : ノム E-mail : Title : Awajiさん、良く解りました。 ありがとうございました。 Comments: 範頼なんですけど、彼まで天才扱いすると歴史上の 人物はみんな天才という事になると思います。 彼は自分で何も決められないタイプで頼朝につけら れた御家人のいうがままだっただけでは? と思うのですが、変な考えでしょうか? Time : 1999/ 5/17(月) 09:21:46
Name : Toshy E-mail : Title : 言葉不足でした すみません Comments: 九州を制圧し平氏の退路を断つ作戦に出たのは、 戦略上相当の人物でなければ考えないことでした 戦略とは、そのような大局を見ることなので、範頼はその目を持っています。 いかに戦術の天才義経とて、範頼なしには平氏に勝つことは出来なかったでしょう 木曽義仲は京都を制圧したのだから、戦術上は天才です しかし戦略・政治の才能は皆無に近いと思います ところで、戦略に関する評価が日本では低く、 西洋の軍事家があきれたという逸話があります。 Time : 1999/ 5/17(月) 21:04:33
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 卑弥呼=火神子?5 Comments: みなさん、こん@@は。卑弥呼の卑は日ではなく火かもしれないと考察を続けてき ましたが、私の想像力も限界に達したもようです。 とりとめがなくなる前に終わりにしたいと思います。 卑弥呼はアマテラスや太陽信仰の巫女など、日に関わるものとしていろいろと議論 がなされていますが、太陽はすべての日本各地の王権に平等に恩恵を与えるものな ので、なかなかに太陽信仰によって治められた土地を特定するのは無理があると考 えていました。そこで、卑=火=火山と考える事ができ、かつ整合性をもった解釈 ができれば、邪馬台国のおおまかな位置を推測できると思ったのですが、どうも 難しいようです。 安部さんから古代人の「ヒ」の発音は2種類あったとヒントを頂き、Toshyさ んからも、東北のお年よりは「火」を「フィー」と発音するとの意見も頂きました。 そうすると、卑弥呼は「ヒミコ」ではなく「フィミコ」と読めるのか、ということ も考えなければならず相当混乱してきました。 もし、卑弥呼が火神子ならば、記紀におけるイザナミとそれに続く系統が邪馬台国 を表し、イザナギから続く系統が大和朝廷の原型となるのではないかと考えています。 つまり、邪馬台国とは、大和朝廷によって統合される前の地方王権の一つであり、 そのイメージは出雲=黄泉の国に象徴されているのではないか?という事です。 畿内地方と九州との一番の自然環境の違いは活火山があるか、ないかという事であ ると思います。もちろん、平均気温その他違うところはほかにもありますが、目に 見えて違うのはこの点だと思います。 火山信仰と巨石信仰(黄泉の国の蓋)両方が存在する土地という事で九州地方に 邪馬台国があり、大和朝廷はそれを併呑し日本列島統一を進めていったと推測して いますが、今の時点では整合性をもった解釈ができませんでした。 長々と、お目障りだったでしょうが「火神子」はとりあえず終了したいと思います。 また、好い案がうかべば、「火神子」について書き込みたいと思っています。 Time : 1999/ 5/17(月) 22:42:01
Name : ラスカル E-mail : Title : はじめまして Comments: 初めてお邪魔いたします。皆さんのご意見のレベルの高さに驚いております。 こんな中に私がお邪魔してもいいのでしょうか??? 卑弥呼のお話が出ているようですので、私も聞いて欲しいことがあります。 昔見たテレビ番組で(たしか児玉清が出てたような・・・・)は、 卑弥呼は古代の中国語で「ピェミェハ」と読むのだと言っておりました。 そして、「呼」は英語の「called」、呼ばれていたのだということで、 卑弥呼は「ピェミェと呼ばれていた」と解釈するのだとか。 「ピメ」つまり「ひめ」なのですね。 昔高貴な女性がただ「姫」(媛?)と呼ばれていたというのは納得させられる 意見だと思いましたが、皆さんはどう思われますか? そして、その姫はだれか?ということまでははっきりと覚えていないのですが、 「逆説」に出ていた3体の中央に立つご神体の神社(すいません、今本が 手元にないのでどのページか指定できません)だったような気がします。 では、これにて失礼いたします。 Time : 1999/ 5/18(火) 00:54:55
Name : Toshy E-mail : Title : ところで Comments: >範頼なんですけど、彼まで天才扱いすると歴史上の >人物はみんな天才という事になると思います。 どのような根拠でしょうか。理由を、お聞かせ願えますか? >彼は自分で何も決められないタイプで頼朝につけら >れた御家人のいうがままだっただけでは? だとすれば、西国で範頼軍は壊乱し、九州に到達することは不可能だったことでしょう。 なお、井沢先生の明らかな誤謬を指摘することにします。 37ページ <西国では平家の兵に勝てなかった> 備前小島で平資盛を、そして豊後では九州の平家勢力を破りました。 同 <指揮官を更迭した> 更迭していません。範頼の軍は西に進軍したままであり、 義経はあとから別働隊として出発しています。 以上 Time : 1999/ 5/18(火) 01:20:00
Name : ノム E-mail : Title : のりより Comments: みなさん、こんにちわ。 範頼は義経の軍事的成功がなければ西に進む事さえ できなかったと思います。何度も分解しかけたとこ を義経の奇跡によって救われたと思います。頼朝に 指示を仰いだ結果も見逃せません。名将には数えら れるかもしれませんが天才は言い過ぎです。 Time : 1999/ 5/18(火) 08:41:52
Name : ノム E-mail : Title : 質問です。 Comments: 九州をおさえ、平家の退路を断ったという一事をも って、何故天才というのか?がよくわかりません。 当然の動きではないでしょうか?これが範頼にしか できない事だとは思えません。 頼朝の家臣とのいさかいをおこさなかったただけで はないのですか? Time : 1999/ 5/18(火) 08:50:15
Name : 輔住 E-mail : Title : 範頼 Comments: 「天才」は少しおおげさかもしれませんが、現在の評価は 低すぎです。敵地で長期間戦うということはとても 難しい。それに逆に言えば範頼軍がいたからこそ、 義経はあのような戦法ができたのです。 どちらの軍も重要な役割をはたしたのです。 Time : 1999/ 5/18(火) 08:56:03
Name : ノム E-mail : Title : 評価(輔住さんへ) Comments: それは、義経へ対しての評価が高すぎるという事で はないでしょうか? 井沢説はまだ読んでないので大きな事は言えません が、別段、範頼の評価が低すぎるとは思えないので すが? 一般的評価では、どうなんでしょう? Time : 1999/ 5/18(火) 09:03:02
Name : Toshy E-mail : Title : 評価 Comments: ノムさん輔住さん皆さん、こんにちは。 一般的評価は非常に低いです。 >九州をおさえ、平家の退路を断ったという一事をも >って、何故天才というのか?がよくわかりません 私がいいたいのは、そのような戦略眼という意味です。 軍事的なことをいえば、範頼でなくても出来るでしょう。 でも日本地図を頭に描いての軍事行動は、範頼ならではの大戦略なのです。 なお、一般的説に対して、井沢先生が範頼を過小評価しているとは思いません。 ただ一般的に、範頼が過小評価されているのです。 Time : 1999/ 5/18(火) 10:01:26
Name : ノム E-mail : Title : のりよりの戦略 Comments: 範頼の戦略というより、この場合は常套手段であり 誰でも同じ作戦を取ったであろうと思われます。 従って、この事が特に重視される必要はないとも 思うのですが・・・・・・? Time : 1999/ 5/18(火) 10:30:29
Name : Toshy E-mail : Title : のりより Comments: 源範頼を再評価する会の(?)Toshyです。 常套手段といってしまえば、たしかにそれまでなのですが。 でも、屋島・彦島にいる平家の主力を差し置いてまわりから調略、 平家本隊を孤軍にするのは戦略として優秀ですよね。 範頼は戦術が得意ではなかっただけに、 こういった方法を取ったのです。 なお、「誰でも同じ作戦を」は?がつきます。 戦術の天才・木曽義仲はとにかく平家軍と戦うことしかしませんでした。 今は日本地図があるから思い付きそうですが、 当時としてみればそのような考えをとり得る人はほとんどいなかったと思います。 ところで、義経が出発する前に範頼は九州に到達していました 更迭したとか勝てなかったとかいうのはとんでもない間違いで、 井沢先生には、ちょっと改めていただきたいです。 サッカーに例えれば、私は範頼を名サポートだと思います。 名サポートがあってこそ得点王がいるわけで。 天才は過大評価かもしれません、でもノムさんのいうとおり、 範頼は名将の部類にはいる人物です。 Time : 1999/ 5/18(火) 11:18:16
Name : A E-mail : Title : noriyoriyorisenryaku? Comments:  こんにちはノムさん、Toshyさん  のりよりを天才と呼ぶかどうかは、それぞれ異なって当然だと思います。  地方の高校で三年間トップの生徒だって、天才と呼ばれたりしますからね。  私はToshyさんは戦略と言う面を含めて軍事的才能を論じるべきだ、 とおっしゃりたかったのだと思っているのですがいかがですか?  だとすると、始め問題にされた部分、井沢先生は戦術のことをおっしゃって いることは文脈からも当然のことで、Toshyさんのおっしゃる通りです。  戦略の観点は井沢先生の「神霊の国、日本」を読んで下さい。眼からうろこが落ちました。  その内容に沿うと、やはりのりよりは名将ですらなくなるんですけどね。 Time : 1999/ 5/18(火) 11:55:27
Name : 輔住 E-mail : Title : 範頼の評価 Comments: ノムさん、Toshyさん、みなさんこんにちは! >それは、義経へ対しての評価が高すぎるという事で >はないでしょうか? 義経の評価が高すぎとは思いません。 ただ「得点王」義経が100%の力を発揮できたのは 範頼のアシストも大きかったといいたかったのです。 Time : 1999/ 5/18(火) 12:08:05
Name : ノム E-mail : Title : Toshyさん,輔住さん、Aさんこんにちわ。 Comments: 範頼の、アシストというよりも、頼朝のバックアップ ではないでしょうか?範頼軍がもっと速い動きさえ すれば、九州までいかなくても済んだ事だと思いま す。この戦では足を引っ張ったのかもしれないと 思うのですが? Time : 1999/ 5/18(火) 12:33:04
Name : ノム E-mail : Title : のりよりの評価 Comments: 今日までの僕の範頼の評価は「下の上」でしたが みなさんの話しを聞かせてもらって少し変わりました。 「中の下」にしておきます。武将としての評価です。 Time : 1999/ 5/18(火) 13:07:41
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と卑弥呼=called ピェミェ?? Comments: ラスカルさん、はじめまして。勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 ラスカルさん、 どうせ素人同士ですから、どんどんお邪魔?されては、如何でしょう。 ということで、スミマセンがAwajiも遠慮なく言わせていただきます。 >>卑弥呼は古代の中国語で「ピェミェハ」と読むのだと言っておりました。 >>そして、「呼」は英語の「called」、呼ばれていたのだということ >>で、卑弥呼は「ピェミェと呼ばれていた」と解釈するのだとか。 どなたの説かは存じませんが、「女子爲王名曰卑彌呼」「詔書報倭女王曰制 詔親魏倭王卑彌呼」との記述から、”「呼」は英語の「called」”と 解釈するのは、漢文の表記法を無視した意見だと思います。 (その様な用例は、見たことも聞いたこともありません。) 「呼」は不呼國、呼邑國や、狗邪國男王卑彌弓呼としても使われており、90 %以上の確立で、表音的に解釈すべきでしょう。  ただし、 「卑」←←ヒ、フィ、ホ、ピ、ピェ等 「彌」←←ミ、ムィ、ミェ等 「呼」←←コ、クォ、カ、ハ、キャ等 各々、何れの倭原音を写音したのかは、確実には分からないと思います。 (問題は、古代中国で「卑彌呼」をどの様に発音したのかではなく、どのよ うな倭原音を「卑彌呼」と表記したのかにあります。当時の発音を手懸りに して、その倭原音を推理しその意味を考察するのが本来の目的なのですね。 なお、魏時代に「卑彌呼」を「ピェミェハ」と発音したと言う説自体疑問で すが、その倭原音が「ヒメ」だとしたらもっとふさわしい発音の漢字を使用 したでしょう。) 従って、残念ながらご紹介頂いた「卑弥呼=called ピェミェ」は所 謂トンデモの類としか思えません。 まして、さらにそれを倭語「ヒメ」と解釈し、「宇佐神宮 比売神」に擬す る等は論外でしょう。 勇者ロトさん、 >>安部さんから古代人の「ヒ」の発音は2種類あったとヒントを頂き、To >>shyさんからも、東北のお年よりは「火」を「フィー」と発音するとの >>意見も頂きました。そうすると、卑弥呼は「ヒミコ」ではなく「フィミコ」 >>と読めるのか、ということも考えなければならず相当混乱してきました。 卑弥呼=火神子 説は一つの発想として、期待していましたが残念です。 ただ、上記のご意見に関して言えば、 1.後世の万葉仮名においては、自民族の発音を漢字に写音したので、甲類   ・乙類の区別が厳格になされているが、3世紀に発音体系の異なる異民 族(魏使)が写音したものに、その様な厳格な区別がなされていたかど うかは疑問である。(現在の外国の人名地名を正確にカナ表記すること 自体ほとんど不可能ですよね・・・ギョエテ、マァオツァオトン??) 2.古代日本の「ハヒフヘホ」の発音自体「パピプペポ」或いは「ファフィ フュフェフォ」に近いものだとされており、その例として謎謎の「父に は会わず、母には二度会う=唇」が挙げられている。   従って、三世紀における「日」「火」を倭人がどの様に発音したのかに ついても正確なことは分からない。   まして異民族がこれをどの様に聞き、写音表記したかは不明である。 (多分「日=ピに近いヒ」「火=フィ・ホに近いヒ」の辺りだと思いますが)    3.西日本と東日本では、時代変化を越えて現在に至るまで発音が微妙に異 る。これは古代における万葉集東歌表記の混乱(甲類・乙類についても)   によっても明らかである。   従って、現在の東北人の発音は、西日本(九州から近畿)の古代発音を 考察する場合、余り参考にはならない。   (これは、現代中国人に「邪馬臺国」や「卑彌呼」「好古都國」を発音 してもらって当時の写音を類推するようなもので、音韻の時代変化や 地方差異を考慮すれば、それほどの意味はありません。) 混乱に輪をかけるかも知れませんが、以上ご参考までに・・・。 (Awajiは神話解釈はともかく、「卑弥呼=火神(御)子=ホミコ?」が全 く成立しないとは思いません。少なくとも「ピェミェと呼ばれていた」より も、遥かにマトモだと言う気がします。) Time : 1999/ 5/18(火) 22:08:58
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 火神子 Comments: Awajiさん、評価していただきありがとうございます。 火神子の発想は、初めて卑弥呼の名をきいた中学生のころ にひらめいたものです。もう20年くらい前になるのですが、耳からの発想です。 といっても火の字についてのイメージだけなのですが、火に関わる 古代宗教についてよく考えてから続きを書き込みたいと思っています。 Time : 1999/ 5/18(火) 22:39:25
Name : 範頼を再評価する会 E-mail : Title : Toshyです Comments: Aさんノムさん輔住さん、こんにちは。 まず、戦略というものは、損害・疲弊を少なくして勝つための大局的な軍事行動のことです。 簡単に言えば、戦わずして勝つことなのです。 範頼はたしかに戦術面ではぱっとしません。 しかし平家勢力を削ぎ、本軍を孤立させたという戦い方は、 まさに戦わずして勝つ、なのです。 ノムさんの「もっとはやく行動すれば」ですが、 はやければいいというものではありません。 戦略という点では、大包囲網を作り上げることが重要なのですから。 正面からぶつかれば多大な損害が出ていたことは目に見えています。 事実範頼は、そのような戦いが決して強いほうではない。 間接的な軍事行動という点では、範頼は義経をはるかに上回る名将です。 平治物語の、重盛−義平の戦いをご存知ですよね。 戦術という点では、義平が圧倒的に強い。しかし実際は、重盛が勝者でした。 あれは重盛の「おびき出し」という、間接的な戦い方に、義平が敗れたのです。 よく野球で、ファインプレーなんてのを見ますが、 私は派手な横っ飛びのキャッチなどはファインプレーとは思いません。 守備の名手は、なるべく正面でとるようにしています。 (どうしても横っ飛びしなければならないのは別として) もし天才というのがあたらなければ、範頼は名人というのがピッタリでしょう。 なお、頼朝のバックアップというのは、ちょっと行き過ぎでは? それなら、頼朝の政治力は北条時政あればこそ、 義経の戦術は土肥実平がいたから、という理屈も成立つのです。 バックアップがあっても(確かに、あったのでしょう)、 それを確実にこなせるかこなせないかは、その将の裁量です。 Time : 1999/ 5/18(火) 23:07:32
Name : Toshy E-mail : Title : ところで Comments: >地方の高校で三年間トップの生徒だって、天才と呼ばれたりしますからね。 そうですね。範頼は源平時代ではトップの戦略家でしょう。 少なくとも広範囲の間接戦略に長けていた人物で思い浮かぶのは、 源平時代には他に見当たりませんから。 この人は戦術も政治も得意ですから、大天才ですね。 範頼が凡将だという評価は、源平の時代からのことでした。 ですから、私や輔住さんが高く評価しても、 先入観というものはそう簡単に変わりようがありません。 でも、うちのHPを見て考えが変わったといってくれた人が何人かいるし、 ノムさんの評価も僅かとはいえ上がり、 またAさんも関心を示してくれているのですから(今までは話題にもならない人でしたから)、 私の「範頼を再評価する会」は成功をおさめているような気がします。 Time : 1999/ 5/19(水) 00:36:24
Name : Toshy E-mail : Title : 訂正文 Comments: >この人は・・・・・・大天才ですね これは関係ないです。失礼。 なお、先に野球の話を出しましたが、 私たちには派手なプレーにしか眼が行かない傾向があります。 その点、地味な戦術が評価されにくいのは当然です。 Time : 1999/ 5/19(水) 00:43:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 平家滅亡の遠因 Comments: 範頼を再評価する会のみなさんこん@@は。 軍事面だけがクローズアップされているようなので一言だけ聞いてください。 伊勢平氏が滅亡した理由としては、領国経営の失敗というものがあげられます。 伊勢平氏は、貴族化し本拠地というものを持っていませんでした。平家といば西日 本というイメージがありますが、これは名目上の領国であり、平氏の一門による直 接支配は、畿内の西側と四国の讃岐近辺だけでした。 九州や中国地方では、支持されていなかったと思います。清盛の生存中はまだしも 義仲の挙兵した頃には、西日本一帯の支配というのは平安貴族の荘園と同程度の関 係でしかなかったのです。 しかも、福原遷都以降は西日本で飢饉や天災、疫病が流行していたはずなので、 屋島の合戦で根拠地を追い出された時点で伊勢平氏とそれに祭り上げられた安徳天 皇の運命は決まっていたも同然です。 たとえ九州や山口に上陸できたとしても、立て直すのは至難の業です。 義経や範頼が追い詰めずとも、義平恩顧の九州豪族は平氏をうけいれたかは疑問 だと思います。 それと範頼の進軍なのですが、播磨や吉備でもたついたため、かろうじて九州で 追いついたと考えています。 山陽道では、飢饉・天災のため組織的な反抗はなかったと思いますので、危険= 白兵戦を避けつづけた結果が関門海峡からの弓の射撃に繋がったと思います。 瀕死の平家に敢えて白兵戦をしかけなかったのは船が手に入らなかったためという 事と、頼朝の家臣が危険な戦いをしたくなかったという理由もあるでしょう。 義経の兵は、現地調達の海賊が多かったため平気で向かっていったのかもしれません。 頼朝の軍は、所詮、東国の平氏の寄せ集めです。源氏の与力は殆どなかったと思う ので、危険な戦いを源氏の御曹司に強要されるのは面白くなかったと思います。 「いざ鎌倉!」は幕府成立以後なのです。しかも鎌倉幕府は関東平氏の一族である 北条氏に奪われます。 そこまで考えると源平の合戦の戦略的な勝者は、平氏なのかもしれません。 源実朝の暗殺後、足利尊氏の登場まで、源氏は影を潜めるのですから。 源平の合戦について考察したのは、初めてなので勘違いが多いかもしれません。 間違いがあればご指摘下さい。 Time : 1999/ 5/19(水) 00:56:39
Name : A E-mail : Title : Toshyさん、ノムさん、輔住さん、こんにちは。 Comments:  みなさんこんにちは  結構楽しかったですね。邪馬台国の話しが、吸収すべきことだらけで、 書きこみができなかったのですが、気軽に入れる話題を提供して頂いて Toshyさん、どうもありがとうございました。  最後はなんとなく丸く収まった感じですが、Toshyさん、もしよろしければ のりよりに興味を持たれたきっかけとか教えていただけますか? Time : 1999/ 5/19(水) 09:25:28
Name : Toshy E-mail : Title : 範頼に興味を持ったきっかけ Comments: Aさん、こんにちは。 範頼に興味を持ったというか、私も最初は「範頼=凡将」という説しか持ちませんでした。 しかし、平家物語を読んでいた時に、ふと気づいたのです。 和田義盛が遠矢をいるシーン。 「あれ?和田は範頼軍に属していたのでは?」 梶原景時も同様です。両方とも義経と仲が悪かったですから。 つまり、壇ノ浦の戦いは、義経vs平家ではなく、 範頼・義経vs平家なんだと考えました。 また、平家が逃げられなかったのは九州に範頼がいたからという文章もあって、 範頼の貢献が大きいと考えるようになったのです。 それまでは政治家の頼朝・戦術家の義経、というイメージだけでしたが、 範頼の迂回ということを考えるようになりました。 Aさん、ノムさん、源平の話題はとても楽しいです。おつきあい、ありがとうございました。 他の話題でも盛り上がっていきたいですね。 Time : 1999/ 5/19(水) 11:09:48
Name : A E-mail : Title : Toshy さんへ Comments:  早速ありがとうございます。  日本国を全体でみての雄大な作戦というと、石田三成、と上杉景勝の家康挟み撃 ち作戦を思い出します。  かつてお隣で盛り上がっていたテーマかもしれませんけど、もし詳しかったら 一席ぶってもらえませんか?  私は昔関ケ原でアルバイトをしていて、関ケ原(司馬遼太郎)を読みながら 散策したことがあります。 Time : 1999/ 5/19(水) 12:00:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 挟み撃ち Comments: Aさん、こんにちは 三成と景勝の作戦がうまくいっていたら、 すごかったでしょうね。 東北には東軍に味方した武将が多かったため 上杉軍が西に向かえなかったのが本当に残念。 Time : 1999/ 5/19(水) 12:41:38
Name : ノム E-mail : Title : 源氏と平家 Comments: みなさん、こんにちわ。もう源平については終わり なのですか?残念です。 もうすこしつづけませんか? といっても、電子手帳なので長文の問題提起ができ ないのが、さらに残念です。 Time : 1999/ 5/19(水) 12:43:11
Name : ノム E-mail : Title : 関ヶ原の合戦については、疑問があります。 それは、上杉は本当に西軍との家康挟み撃ち作戦を とる気があったのかという事です。 Comments: 確かに、背後の勢力を無視して、江戸を攻撃するの は難しかったかもしれませんが、もう少し陽動作戦 とかで西軍を援護する事はできなかったのでしょう か?真田は篭城作戦でしたが抵抗しました。 上杉も真田と同じ作戦だけしかできなかったのでしょうか? Time : 1999/ 5/19(水) 13:08:34
Name : Toshy E-mail : Title : 鎌倉vs平家 Comments: みなさん、こんにちは。 勇者ロトさんの書き込みで、まだまだ源平時代の話題は続きますよ、ノムさん! この源平合戦は、もともと「東国の独立」が目的のものであって、 東国武士たちの平家に対する闘志はかなりのものだったと思われます。 井沢先生も述べられていますが、武士の貴族政治に対する抵抗であって、 源氏と平氏の戦いがメインではないのです。 だから、危険な戦いをしたくなかった、というのは考えにくいかな。。。 義経の「ひよどり越え」にしても、あれは郎党だけではなく土肥・畠山といった関東武士が参加しています。 なお、「平」出身の武士が鎌倉軍の主力でした。 大勢力を擁していた平広常は、頼朝の命令に従わなかったといいます。 この辺は勇者ロトさんのご指摘の通り。 ここに関しては、考えをまとめてから書き込みします。 最後に、範頼がかろうじて追いついたというのには、時間的説明を入れましょう。 範頼の豊後制圧が1185年の1月、「屋島」が2月ですから、 もたついたわけでもないと考えられます。 関ヶ原の話題で勇者ロトさんや輔住さんと親しくさせていただいたので、 そっちの話題にもぜひとも参戦させてください(^^) 今回はこの辺で。 Time : 1999/ 5/19(水) 13:25:12
Name : ノム E-mail : Title : ちょっと、Toshyさんの投稿が気になったので Comments: 範頼の、九州到着のほうが屋島の合戦よりも先だと いうことは、九州への進軍は範頼の戦略というより 鎌倉からの指令で軍を移動させたという事になるの ではないでしょうか?つまり範頼や義経の戦略では なく、鎌倉の頼朝や北条氏の戦略として考えた方が いいのではと思います Time : 1999/ 5/19(水) 14:55:35
Name : ノム E-mail : Title : 関ヶ原といえば Comments: 関ヶ原研究家のきんたろうさんのご意見お待ちして おります。よろしくお願いします。 Time : 1999/ 5/19(水) 16:17:00
Name : マッカートニー E-mail : phito@jomon.ne.jp Title : 北の国から Comments: 95年より昨年まで計5回、北朝鮮に入国した。様々な書籍に紹介されているように町中が戦意高揚の スローガンの看板のオンパレードである。「私達は幸せです」「この世にうらやむもの無し」あるいは 「党が決めれば私達はやる(戦争)」など、およそ世界の常識からかけ離れているうえ、「・・・幸せです」 などという誉め殺しが逆効果になるという文化すら持ち合わせていないのである。幸せです、と書けば それが即対外的にストレートに信じてもらえるというメンタリティは50年も鎖国してきたつけであろう。 教育機関も保育園から大学まですべて見学する事が出来たが、その内容はすさまじいまでの個人崇拝 を強制するもので、年端も行かない保育園児に金親子の出生地を暗記させる。また最近では親子の祖父母や妻に いたるまでの様々なおとぎ話しを暗記させる暴挙を繰り返している。また金日成の遺体安置所では 入口にエアカーテンを施し、あまりに長く作りすぎた廊下のため途中で倒れる人が続出し、最近では動く歩道が 新たに設置されている。金日成死後、崇拝は益々エスカレートしているようで妙香山には実物大の 蝋人形まで登場し、参拝への豪華な待合室まで増設されている。 3百万人も餓死させておいて ミサイルや人工衛星が富国のための第一条件とうそぶく金正日。 かの国の出口は戦争しかない。 ガイドラインという有事法制を「アメリカの戦争に巻き込まれる」とプロパガンダする奇形左翼。 巻き込まれるも何も、北朝鮮が日本を攻撃する可能性の方がはるかに高いのである。 そうなればなったで「政府は何をしている。自衛隊は・・」と大騒ぎするのが左翼の常であろう。 平和平和と訴え続ける沖縄の歌手の嘉納昌吉氏。98年4月北朝鮮の高麗ホテルでよど号の代表者 小西隆裕氏と密会しているのを目撃した。なぜ平和平和がテロリストと結びつくのか。 このあたりは井沢氏の著作をお読みいただければ自ずと理解出来る事であろう。 Time : 1999/ 5/19(水) 16:31:11
Name : Toshy E-mail : Title : 範頼の戦略か、鎌倉の指示か Comments: ノムさん、こんにちは。 ご指摘のように、鎌倉からの指示であると考えることは出来ます。 ただ、頼朝が範頼に「九州にいけ」と命令を出したという記録は今のところ見つからないので、 可能性としては五分五分でしょう。 範頼に細かいところを進言したのは梶原景時ではなかったか、と私は思います。 なお、ノムさんのように考えることは出来るのですが、 でも実際に現場で兵を動かすのは範頼しかいません。 細かいところまで、鎌倉から指示するわけにはいきませんから。 例え頼朝の命令だとしても、範頼の手柄を奪うことは出来ないでしょう。 野球でも、監督から指示されてそのとおりに試合が進めば、なんの苦労もありません。 実際は選手自身が自分たちの判断でゲームをしなければならないのです。 −−−ここから下は、ゴミです−−− ごるごさん、こんにちはv(^^)v同一人物ですよ〜 Time : 1999/ 5/19(水) 19:00:00
Name : きんたろう E-mail : Title : IF Comments: 三成達の挙兵がもう少し後で、家康達が上杉と戦闘を開始した後だっら どうなっていたでしょうね。 歴史の結末が変わっていたかも知れないと思います。 源平についてはもう少し充電してから書き込みます。 Time : 1999/ 5/19(水) 21:12:21
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 鬼道について Comments: みなさん、こん@@は。 卑弥呼の行っていた祭祀である鬼道とはどんなものだったのでしょう? 以前の投稿で 1.魏の使節には理解できないもの 2.初期道教 3.太陽を祭るシャーマニズム などを考えてみましたが、3.は無理があるのでは?と思うようになりました。 太陽信仰であるなら、魏の使節は鬼道などという文字をあてるのかという疑問です。 同じ魏志東夷伝の中では、半島内の祭祀に対して「天を祭る」という言葉を使って いたような気がするのです。(記憶違いかもしれません。Awajiさんできまし たら、確認をしていただきたいのですが。お願いします。) もし、私の記憶がただしければ日御子ならば、鬼ではなく天という文字をつかうと 思うのですが? Awajiさん、みなさんはどうお考えになりますか? できましたらお聞かせください。お願い致します。 Time : 1999/ 5/19(水) 23:50:38
Name : Toshy E-mail : Title : 夢のお告げ Comments: で、範頼様がこう言え!といったので(ウソです) 九州進軍が鎌倉からの司令、というように、 範頼の判断がないという仮定が成立するとすれば、 一の谷では範頼が義経に奇襲を命じたのだと考えてもおかしくありません。 ここらへんは、慎重に考えねばならないことです。 関ケ原で、上杉が西軍に荷担したか、しなかったか、まだ決着はつかないですね。 ただ、北政所の側近の一族がすべて奥州戦線に参加していたところを見ると、 (実は北政所=三成支持だったらしい) 上杉と石田の密約はあったと考えられます。 なぜ上杉が関東に出て行かなかったのかは、後日。 以上 Time : 1999/ 5/20(木) 02:53:45
Name : slashdog E-mail : Title : お仲間に入れてください Comments: ここは、はじめてなので  皆様、はじめまして! 「関ヶ原」とちらっと目に入ったものですから・・・(笑) 私は、三成と兼続の連携無かった派 です。 それは、三成の動き出すのが早すぎる点と、もしそれがミスだったとしても 景勝には、充分追撃できたはずですから。 実際 景勝と家康があそこで戦っていれば、充分景勝が勝つ見込み ありましたしね! なんと言っても兼続の麾下には、前田 慶次郎もいましたからね! Time : 1999/ 5/20(木) 03:16:15
Name : 輔住 E-mail : Title : 範頼のてがら Comments: みなさん、こんにちは。 総大将は頼朝なのだから、その意向を無視することは できません。だから大まかな指示は鎌倉から、詳細は 範頼とみていいでしょう。ただToshyさんがご指摘のように 命令を遂行するのも決して簡単なことではありません。 だから九州は範頼軍のてがらと見てかまわないのでは? Time : 1999/ 5/20(木) 08:40:34
Name : ノム E-mail : Title : ウーン Comments: でも、手柄はそうかもしれませんが、戦略という面 からみれば、範頼の独創とかいうものが感じられま せん。九州は源氏にとっても父祖の土地です。 そこをおさえるというのは戦略というより治安維持 という政治的なものだと思うのですが? いかがでしょう? Time : 1999/ 5/20(木) 08:53:35
Name : ノム E-mail : Title : 作戦遂行能力 Comments: 範頼の優れている点は作戦を過不足なく遂行すると いう堅実な所ではないでしょうか? 戦略とかいうものではないと思います。 Time : 1999/ 5/20(木) 08:59:49
Name : 輔住 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: >範頼の優れている点は作戦を過不足なく遂行すると >いう堅実な所ではないでしょうか? >戦略とかいうものではないと思います。 確かに範頼=戦略家と断定するのはきびしいでしょう。 でも、凡将ではないと思います。 Time : 1999/ 5/20(木) 17:32:05
Name : ノム E-mail : Title : 輔住さんへ Comments: 凡将か名将かどうかは僕には、判断しかねます。 ただ天才的な才能を発揮したという事がないという 事がわかっているという事だけです。 Time : 1999/ 5/20(木) 17:55:32
Name : ノム E-mail : Title : 凡庸 Comments: 凡庸な将というのは、確かにほめことばではありま せんが、無能だという事でもないと思います。 九州までの長距離を軍を率いたという事からみても 無能な将ではないといえるでしょう。しかも義経よ りも、ある意味堅実な将であったという事はいえる かもしれません。 Time : 1999/ 5/20(木) 18:03:09
Name : 勇者ロト E-mail : Title : slashdogさん、こん@@は。 Comments: 前田慶次郎とは、「花の慶次」の事ですよね。 まんがでは読んだのですが、本当の慶次の行動というのもあのとおりなので しょうか?できれば彼についていろいろお教え下さい。お願いします。 Time : 1999/ 5/20(木) 20:17:55
Name : きんたろう E-mail : Title : 私からもお願いします Comments: タイトルだけで用件が済んでしまいました。 slashdogさん、よろしくお願いします。 Time : 1999/ 5/20(木) 22:51:20
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「天」「太陽」信仰 Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 >>太陽信仰であるなら、魏の使節は鬼道などという文字をあてるのかとい >>う疑問です。・・・ >>もし、私の記憶がただしければ日御子ならば、鬼ではなく天という文字 >>をつかうと思うのですが? 「鬼道」と表現された古代宗教(信仰)についてですが、その実態を把握 することは困難でしょうし、さほど意味が有るかどうか疑問です。 以下に申し上げることも、有る意味では「神学論争」的になり、あまり深 入りしたくないので、一応の意見としてご参考までに・・・。 1.主な宗教における「天」の概念。 *中国(儒道教)・・・抽象的非人格神「天」、人格神「天帝」 *中東(ヨーロッパ)・「天」の絶対神「ヤーヴェ・エホバ・アッラー」 *グレコ・ローマン・・「天」の最高人格神「ゼウス・ジュピター」 2.太陽の位置付け *中国・・・・・・・・「天」「天帝」の機能の一つ?? *中東・・・・・・・・神による被創造物??あまり重視されていない? *グレコ・ローマン・・下位人格神「アポロン」 3.「天=神」と王権レディテマシー *中国・・・・・・・・「天命」 *中東・・・・・・・・原則「聖俗」分離→「神授」的要素 *グレコ・ローマン・・不明?? 3.日本における「天」と「太陽」と「王権」 「天」そのものは余り意識されず、天を含むあらゆる自然崇拝の象徴として の「太陽神」、同時に支配者の祖神としての「太陽神」が複合??し、王権 レディテマシーは「太陽神=祖神」の血統に求められている。 以上のように原則的に宗教には、「天」信仰の要素は不可欠と言うべきもの でしょうが、「天」信仰と「太陽」信仰は宗教的には別の概念として理解す るべきものでは無いでしょうか? 例えば、古代中国人がエジプトのラー信仰、ギリシャのアポロン信仰に接し た場合、当然中国の「天」信仰とは全く別種(「鬼道」と呼ぶかどうかは分 かりませんが)と考えることがあり得ると思うのです。 中国で「天道、是か非か」と言う場合と、日本で「お天道さんに恥ずかしい」 と言う場合の「天道」も似て否なるものですね。(日本では太陽です。) 従って倭国の「太陽(祖神)信仰」についても祭祀形態等から中国の天信仰 とは異質の宗教として、「鬼道」と表現することは充分あり得ると思うので すが如何でしょう? なお、半島における「天」信仰については、尚更良く分かりませんが、 夫余・・・迎鼓と称し殷暦の正月に天を祭る・・云々 高句麗・・東盟と称し十月に天を祭り、隧神を迎え降し・・云々 韓・・・・五月に鬼神を祭り・・鬼神を信じ天神を祭る者を天君とする。 国に邑あり蘇塗と呼び、鬼神を祭る・・云々 弁辰・・・辰韓と鬼神の祭祀に差が有る・・云々 北韓では中国と類似、南韓では鬼神信仰のようですが、この場合の「鬼神」 も、やはり天と関係がある様に思われます。 Time : 1999/ 5/20(木) 22:54:08
Name : Toshy E-mail : Title : 範頼を再評価する会 Comments: のほうはさておいて、関ヶ原の話題に参加させてください。 石田の挙兵が早かった?いえいえ。それよりも早いやつが、一人。 石田・大谷の挙兵は7月11日。 それよりも前、7月5日に、早くも宇喜多秀家が挙兵したのです。 戦勝祈願の出陣式に、北政所は代理人を派遣し、自身もまた祈祷を依頼したという。 よって、石田三成の挙兵が早いか遅いかに関わらず、 家康は上杉との戦闘を中止、きびすを返していたでしょう。 上杉が家康を追撃しなかったのは、ひとつには余力がなかったこと、 もうひとつには、背後の最上が邪魔だったことが考えられます。 当時の上杉領は、会津・米沢・庄内。会津と米沢は陸続きですが、庄内は飛び地。 そしてこの二つの間には最上領の山形があり、防衛が難しい。 その為、万全を期すために、先に山形を襲撃したのです。 確かに関東に攻め込んだほうが良かったのかもしれませんが、 ギャンブルは出来なかったのでしょう。 そして、関ヶ原が一日で片がつくとは思っていなかったのでしょう Time : 1999/ 5/21(金) 00:05:27
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と範頼?? Comments: みなさん、今日はAwajiですが、範頼について門外漢の一言です。 Awajiの感覚では、やはり範頼は凡将でしょう。つまり義経とは比較になら ない三流の軍人だと思います。(通説的で面白くありませんが) 頼朝は、義経の一の谷における奇襲作戦の軍功と、その名声を懸念し義経を 逼塞させ平家追討を範頼に委ねるわけですが、結局迂遠な戦略により平家の 主力に打撃を与えることができず、補給不足により兵の志気は地に落ち、や っと豊後に上陸したものの逆に袋のネズミになりかねない状況だったと思い ます。(豊後制圧はいささか疑問です。) だからこそ頼朝は危機感を強め、義経に更めて出陣を命じたのでは無いでし ょうか? 義経の屋島奇襲は極めて危険な戦法ではありますが、敵の主力に打撃を与え 、瀬戸内の制海権を奪取することにより壇ノ浦の壊滅作戦に繋がったもので す。 仮に奇襲に失敗したとしても、四国(背後)から平家主力を攻撃し、近畿へ の反攻基地を叩く意味はあったと思われます。 この成功が無ければ、範頼軍は補給を断たれ九州の孤軍となる恐れもあった でしょうし、或いは平家の近畿反攻も充分有り得たでしょう。 兵は拙速を尊び、勢いが肝要です。範頼は乃木と同様に定型的攻撃に終始す るのみで、全くヒラメキがありません。 同時代人も範頼を全く評価していませんし、またその末路も軽率な発言によ り頼朝の疑惑を受け、配流途上で誅殺?されると言う体たらくです。 とても一流の軍人とは思えないのですが、中世史は詳しくないので、この辺 にしておきます。 Time : 1999/ 5/21(金) 00:54:30
Name : 範頼を再評価する会 E-mail : Title : Toshyです Comments: Awajiさん、こんにちは。 >豊後に上陸したものの逆に袋のネズミになりかねない状況だったと思い >ます。(豊後制圧はいささか疑問です。) とすれば、平家が彦島で最後の戦いを挑まなければならない理由がなくなります。 範頼が豊後に到着した時は、まだ平家主力は温存されていました。 義経の屋島攻めはまだ1ヶ月も後のことです。 もし「袋の鼠」になった凡将であれば、 大軍を擁する平家にとって、範頼を殲滅することはたやすかった。 それに壇ノ浦よりも平氏が西進できなかったのは、 範頼軍が強かった−−といってわるければ、 少なくとも平家にたやすく敗れるような凡将ではなかったからです。 そもそも、頼朝が義経の名声を懸念したということから、 「判官びいき」で書かれた軍記物の考えから離れていないのではないでしょうか。 一の谷における義経の奇襲は、いわばスタンドプレー、個人プレーでした。 チーム全体のことは念頭にないから、頼朝は義経を嫌ったのです Time : 1999/ 5/21(金) 01:26:31
Name : Toshy E-mail : Title : もうひとつ Comments: 同時代人も、確かに範頼を評価していません。でもそれの説明はつきます。 野球の守備でも、横っ飛びのスタンドプレーに客は沸きます。 長嶋茂雄の守備はまさにそれでした。 しかし、本当に守備のうまい人は、いとも簡単にとって見せるのです。 観客はそのような名人のプレーには沸きません。 範頼は堅実でした。派手さがありませんでした。 しかし派手=天才という考えには私は賛成できません。 Awaji様が賛成なら、それ以上申し上げることはありませんが Time : 1999/ 5/21(金) 01:32:04
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 範頼を再評価する会の皆様へ Comments: ここまでの討論では、ノムさんの意見に賛成とさせていただきます。 つまり、範頼は天才とはいえないが、無能でもないという事です。 しかし、平家追討の総大将として大軍を預けられた将という側面からみれば、派手 な将軍という感じはします。当時はけっして地味ではなかったでしょう。 地味なのは、軍功という結果のことだと思います。 大軍をもって小功をあげたという事だと思います。 一方の義経は、身一つで鎌倉入りし、当時は地味な存在だったのでしょう。 それを、大功を挙げつづけるうちに目立ってきたということになるのでしょう。 義経が本当の意味で派手な将軍となるのは、壇ノ浦以降だと思います。 Time : 1999/ 5/21(金) 03:27:55
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 鬼道 Comments: Awajiさん鬼道についてのご意見ありがとうございました。 参考にとさせていただきます。 Time : 1999/ 5/21(金) 03:32:46
Name : 範頼を再評価する会 E-mail : Title : Toshyです Comments: 勇者ロトさん、ノムさん、おはようございます やはりノムさんや勇者ロトさんの意見に落ち着きそうなのは私も感じています ちょっと、範頼再評価のためにいい点ばかりを述べてきましたが、.... でも、「並み」というよりは、やや上かな、というのが、私の考えではあります 地味といえば、やはり範頼は地味なのでしょう 義経と頼朝の対面式は盛大(?)でした でも、範頼の対面式に関する史料は、見つからないのです 義経よりも範頼の方が地味で、 しかし頼朝は範頼と義経の人物を見抜いていたからこそ、 範頼に大手を、義経には遊軍を任せたのだと考えます。 勇者ロトさんのご指摘のように、義経は実は「地味」といえる存在かも知れません 平家追討時代の義経には、「認めて欲しい」という焦りが見られます 派手な鎧を着て、派手に暴れまわっていたので、 戦いの現状を知らない一般庶民の目には名将に見えたのではないでしょうか 当時の評判といえば、義経も悪いですね 梶原景時・和田義盛の両者は徹底的に義経を嫌い、 二人は範頼の軍に移ってしまったのですから 後世はこれを、梶原の悪としていますが...... Time : 1999/ 5/21(金) 11:38:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 範頼を再評価する会 Comments: >ちょっと、範頼再評価のためにいい点ばかりを述べてきましたが、.... >でも、「並み」というよりは、やや上かな、というのが、私の考えではあります 私も同意見です。 ただ、悲しいかな、いままで範頼は「3流の武将」というのが世間的な 評価だったので、「普通の武将」ぐらいの評価ぐらいされても いいと思っています。 適度に頼朝の期待には答えていたし、致命的なほどの失敗はしてませんし。 Time : 1999/ 5/21(金) 11:55:44
Name :E-mail : Title : 源平、関ケ原 Comments:  こんにちは、みなさん、  すごいパワーですね。一日に一回見るだけでは話しがわからなくなっています。  ところで関ケ原については歴史のIFを話題にする人が多いのに、源平について それをする人が少ないのはやはり家康の不人気と義経の人気ですかね? Time : 1999/ 5/21(金) 12:44:26
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 忘却の彼方より Comments:  皆様お久しぶりです。 議論のスピードと深さについていけず、ときどき傍観している 今日この頃ですが、議論は十分楽しめました。 一段落ついたようなので、ちょっと横槍を入れさせてください。 Toshy様  ご指摘のように梶原は悪いイメージしかなかったのですが、 梶原と義経の評価を逆転させるような解釈があれば、 面白そうなので、ご教示いただけないでしょうか? 梶原はその末路から見ても、まったく悪いイメージしか持っていませんので。 マッカートニー様  どなたも反応を示しておられないようですので、おこがましくも 意見を述べさせていただきます。  貴重なレポートをしていただき、お礼申し上げます。 小生も(左翼)御用学者(これは矛盾した用語?)たちのレポートに 以前から不満を持ちつづけていました。結局のところ、彼らはエリート なので、せっかく外遊しても、肝心の実態を見てこないで、 特別待遇であることを忘れ、事実を近視眼的に述べるだけで、 共産圏の国々を誉める記事しか出してきませんでした。 共産圏があたかも楽園であるかのごとく・・・。  ソビエト崩壊以降、そんな馬鹿なことはさすがになくなりましたが、 その後でも、身近な人から話を聞いて、うーむとうなったことがあります。 国家元首が殺害されて間もない某国に、招待されていた著名な学者の話ですが、 身の危険を心配されたのにもかかわらず出かけていったところ、 何事もなかったかのように、以前同様の手厚い待遇を受けたとのことでした。 世界中で報道されるような大事件が起こってもこうなのですから、 当事国が本気で隠そうと思っていれば、「まさに平穏無事ないい国」と いうイメージを学者たちに思わせることぐらいたやすいことでしょう。 そんな意味でも、貴重なレポートだと身にしみて感じました。 自称人工衛星のテポドン騒動の時の左翼系知識人たちの反応を見ても、 ご意見にまったく同感です。 Time : 1999/ 5/21(金) 13:11:58
Name : Toshy E-mail : Title : 梶原景時を再評価する会、ではありません Comments: 大阪JF生さま、こんにちは。 梶原景時の評価が低いのも、考えてみれば当時からですね(笑) 梶原が嫌われた理由は、私は3つ考えています 1.頼朝の寵愛に対する、まわりの嫉妬 2.文人・梶原と、武人との肌合いの違いによる確執 3.やはり梶原は性格が悪い(笑) それで、最近は2の説が有力視されているようです 頼朝にとって味方ながら脅威であった平広常の暗殺は、 梶原が鎌倉政権の何たるかを知っていたからなのだといわれています。 梶原は頼朝の命を救ったという伝説の持ち主ですね。 これが史実か、疑問の残るところではありますが、 いずれにしても、頼朝としては主君のために忠節をつくしていた 梶原景時は頼もしい限りであったに違いありません 会社でいえば、経理部か秘書課に相当するのが、梶原です。 営業担当(武人)には、戦いもしないのに権勢を振るう梶原が、 目の上のたんこぶになっていたのでしょうか Aさん > ところで関ケ原については歴史のIFを話題にする人が多いのに、源平について >それをする人が少ないのはやはり家康の不人気と義経の人気ですかね? 気づきませんでした! Time : 1999/ 5/21(金) 13:40:58
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Toshy様へ Comments:  早速のお返事ありがとうございました。 梶原に文人のイメージを抱いていなかったので、 新鮮なご意見を伺えてうれしく思います。  そういえば、あやふやな記憶で申し訳ありませんが、 信長と光秀も武人と文人の肌合いの違いで、殺害にまで 思いいたったという意見をどこかで聞いたことがあります。 光秀は、文人というより公家よりかもしれませんが。 Time : 1999/ 5/21(金) 15:09:14
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Toshy様へ Comments:  早速のお返事ありがとうございました。 梶原に文人のイメージを抱いていなかったので、 新鮮なご意見を伺えてうれしく思います。  そういえば、あやふやな記憶で申し訳ありませんが、 信長と光秀も武人と文人の肌合いの違いで、殺害にまで 思いいたったという意見をどこかで聞いたことがあります。 光秀は、文人というより公家よりかもしれませんが。 Time : 1999/ 5/21(金) 15:27:09
Name : ノム E-mail : Title : 梶原はいわゆる、「チクリ魔」な所が嫌われた原因 だと思います。頼朝の秘密警察という意味合いもあ ったのではないでしょうか? Comments: 範頼や義経は彼からの頼朝へ、役立たずというよう な報告がされていたと聞いた事があります。 本当なのでしょうか? Time : 1999/ 5/21(金) 16:00:42
Name : 輔住 E-mail : Title : 梶原影時 Comments: みなさん、こんにちは 大坂JF生さん、お久しぶりです。 梶原といえば有能でも嫌われる人という イメージがあります。そういう人も必要なのでしょうね。 Time : 1999/ 5/21(金) 16:01:04
Name : ノム E-mail : Title : 梶原はいわゆる、「チクリ魔」な所が嫌われた原因 だと思います。頼朝の秘密警察という意味合いもあ ったのではないでしょうか? Comments: 範頼や義経も彼とはそりがあわなかった事でしょう。 Time : 1999/ 5/21(金) 16:01:57
Name : ノム E-mail : Title : Aさんへ Comments: 源平にIFがないのは、名字が同じ登場人物が多い ためではないでしょうか?単に区別がしにくいから かもしれません。 それと、地方の代表者が鎌倉にしかいませんから、 複雑に解釈しようがないという事もあるかもしれません Time : 1999/ 5/21(金) 16:39:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 常世思想 Comments: マッカートニーさん、 井沢先生が言うように、日本には常世思想というものがあって どこかにすばらしい国があるという信仰が絶えず出てきます。 さらにアジア・太平洋戦争に負けたとき、占領軍のアメリカが「善政?」 を敷いてしまったこともあると思います。 普通なら、「どんなひどい政府でも異民族よりはマシ」というのが世界の常識ですが、 日本では「自国の政府よりは占領軍の方が遥かに良かった」となってしまいました。 実は日本政府が必死でGHQから日本の利益を守っていてくれたおかげなのに・・・ 左翼の存在を鋭く抉って余りある本は、山本七平さんの「存亡の条件」だと思います。 結局彼らが言いたいのは、 「私は正しい、正しい私から見ると右も左も間違っている、 しかしそれを判断する私は正しい、 その私から見ると、右も左も間違っている、 しかしそれを判断する私は正しい・・・」なのでしょう。 無意味で不遜な自己義認 Time : 1999/ 5/21(金) 16:44:57
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 前科 Comments: 戦争中に、大政翼賛体制ができるときに、 一番熱心に協力したのは 日本社会党と労働組合だった事は皆さんご存知ですか? Time : 1999/ 5/21(金) 16:50:42
Name : ノム E-mail : Title : 関ヶ原の合戦は、本当に天下分け目だったのでしょ うか?東軍に参加していた福島や黒田はこの戦で、 天下の趨勢がきまると考えていたのでしょうか? Comments: 僕は、豊臣恩顧の東軍に参加したメンバーは天下わ けめの大合戦として豊臣家の命運あかかっていると までは思っていなかったのではないかと考えていま す。理由は彼らの戦後の態度です。福島などは、さ らにもう何度か大きな戦があると思っていたのでは と思います。 Time : 1999/ 5/21(金) 18:37:15
Name : Toshy E-mail : Title : ノムさん、チクリ魔という Comments: のが、私の書いた3の説、つまり「性格が悪い」なのですよ 事実、畠山重忠などは梶原の告げ口で、無実の罪でぶち込まれたそうです。 義経と仲が悪かったのは確かでした。 例の壇ノ浦で、義経は鎌倉に「私一人で片づけた」と報告し、 梶原は「みんなが力を合わせて」と報告したと聞きました。 贔屓目に見ても、義経一人の戦功というのは無理がありますから、 梶原のいったことは正しいのですが、義経はそれを逆恨みしたといいます。 範頼と梶原は、もともと仲が良かったようです。 しかし頼朝が天下を取り(?)猜疑心が強くなると、 最大のライバル(血筋の上で)であった範頼を、 梶原に命じて殺してしまったのでした。 梶原が北条に追い払われたのは、頼家政権の下での派閥争いです。 頼家に近い比企と梶原は、北条氏にとって邪魔だったのです。 Time : 1999/ 5/21(金) 22:58:26
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と義経の戦略 Comments: みなさん、今日は。範頼について余計なことを言って後悔しているAwajiです。 乗りかかったナントやらで、ご隠居さんの軍事談義です。 (多分に司馬遼さんに影響されています・・。) >>しかし派手=天才という考えには私は賛成できません。Awaji様が賛 >>成なら、それ以上申し上げることはありませんが Awajiは派手か、地味かには興味がありません。 要するに軍事指揮官と言うものは、与えられた兵力で、与えられた任務をい かに迅速かつ効果的に遂行したかで評価されるべきものです。 この場合、源氏の軍事指揮官に与えられた任務は平家の軍事力を早急に壊滅 することです。その観点からすれば、範頼はロトさんのおっしゃるとおり、 >>大軍をもって小功をあげたという事だと思います。 と言う評価しかできません。これを厳しく言えば「大軍(しかも最強の東国 武士団主力)をもちながら小功しかあげられなかった」ですね。 これでは、とても有能な指揮官とは言えないでしょう。 須磨浦の戦闘は、いずれにしても法皇の停戦勧告を利用した奇襲作戦ですが 、その奇襲効果を最大限に高めたのは、やはり一の谷の背後攻撃でしょう。 しかし、本当の天王山は屋島の奇襲攻撃だと思います。これにより平家軍の 京反攻を封じ、瀬戸内の制海権の一部を奪回したことにより戦争の帰趨は明 らかとなったのでは無いでしょうか? つまり義経は、屋島奇襲作戦により「寡軍をもって大功をあげて」います。 これは軍事指揮官として最大限に評価されるべきものだと思うのです。 >>しかし、本当に守備のうまい人は、いとも簡単にとって見せるのです。 >>観客はそのような名人のプレーには沸きません。範頼は堅実でした。 範頼は確かにスタンドプレーをしていません。同時にいとも簡単に戦略目的 を達する名人プレーをしたとも思えません。 従って、堅実なのか、無策なのかが問題だと思うのですね。 >>平家が彦島で最後の戦いを挑まなければならない理由がなくなります。 勿論、屋島で義経軍に敗退し、撤退させられたからでしょう? >>範頼が豊後に到着した時は、まだ平家主力は温存されていました。 >>義経の屋島攻めはまだ1ヶ月も後のことです。もし「袋の鼠」になった凡 >>将であれば、大軍を擁する平家にとって、範頼を殲滅することはたやすか >>った。 訂正します。「袋の鼠」ではなく「袋の山猫」です。何しろ源氏軍の主力を 率いていたのですから。平家は迂闊に手が出せなかったでしょうし、出す必 要も無かったと思います。 そもそも、範頼は何のために九州に渡ったのでしょうか? 当時平家軍の主力は屋島にあり、予備軍は彦島ですね。このことは平家軍の 主戦略は京に反抗することであり、だからこそ屋島に反攻基地を構えたと考 えるべきでしょう。 九州を保全することが主戦略ならば、とっくに屋島の兵力を九州に反転して いたでしょう。つまりは九州は支戦場であり、瀬戸内東部から京を主戦場と 想定していたと思うのです。 範頼が率いていたのは源氏の主兵力ですから、彼を九州に釘付けにし、主戦 場から遠のけておけば、それで充分だったでしょう。 IF・・・平家軍が水上機動力を活かして、彦島と屋島の総兵力を結集し、 福原に再上陸(兵站基地は讃岐)し、京に進攻すれば範頼君はどうするので しょう? 京の防衛(主戦場)は義経君等に任せて九州(支戦場)で大暴れするのでし ょうか? それとも再び危険な渡海作戦を敢行し、山陽道を取って返すのでしょうか? 何れにしても形成逆転になり兼ねない愚劣極まりない行為だと思うのです。 平家軍は京への反攻なんか出来っこない? とんでもないことです。平家軍が形勢逆転するのはこれしかありませんし、 そのために屋島に陣取った筈ですから、当然これに備えねばならないのです。 本来彼が取るべき戦略は、岡山辺りに陣を構え屋島の平家軍の動きを封じ (福原上陸の動きが有れば直ちに急行する)、一方で近畿の水軍を組織して 四国上陸作戦を敢行し、屋島基地を叩く(或いは孤立させる)ことでは無い でしょうか? その上で、九州に追いつめる・・・これを行うのが凡将のチョイ上クラスで しょう。 義経はこの屋島基地の重要性を明確に認識していたからこそ、奇襲作戦を敢 行し成功しました。これが軍事的天才の戦略だと思うのです。 IF・・・頼朝が急死し、範頼と義経が対峙した時に皆さんはどちらの旗の 下に馳せ参じますか? 軍事面だけならば、Awajiは義経の保有兵力が範頼の半分以下でも義経につき ます。(政治面を含めれば別ですよ。) 乃木と児玉でも同様ですが、少なくとも軍事能力では勝負にならないと思い ます。 Time : 1999/ 5/21(金) 23:08:24
Name : ノム E-mail : Title : Toshyさんに質問です。 Comments: 文人というのはどういう事なのでしょう? (梶原景時が) はじめて聞く人物評です。 梶原はそんなに根性が悪かったのですか? 義経と行動を共にすれば衝突必至ですね。 義経も相当頑固な感じがします。 Time : 1999/ 5/21(金) 23:15:17
Name : Toshy E-mail : Title : ひとこと Comments: ごめん、ノムさん。文人じゃなく、才人の間違いでした。 つまり、政治戦略を持つ目のことです。 Awajiさん、こんにちは。 別に攻める気はありません、当方の言葉が尖っていて、すみません。 簡単にというのは語弊がありました、訂正します でもあれだけ戦術面で強かった義仲ですら、 山陽道では平氏に敗退し致命傷となっているのです ところが範頼は、その山陽道で平氏の軍を叩き潰しているのです で、Awajiさん、今詳しい史料をチェックしたのですが、 範頼の使命は早急に平氏を叩くのではなく、 「瀬戸内海における平氏主力を孤立させる」だったのです すると、頼朝の命令で九州に渡ったことになり、 先に私が書いた「戦略家」の説は崩れました(笑) でももし言われた通りにしか出来ない盆暗なら、 咄嗟のことに対処することは出来ません。 よく成績はいいのに、予期せぬ出来事があると働けなくなる人がいるものです 範頼はそのタイプではありませんでした。 きちんと命令を敢行できる人物です。無能はひどいんじゃあないですかね。 また、山猫でもタヌキでも(いってない)、 指揮官が盆暗なら、例え主力でも壊滅できるはずです 範頼は、Awajiさんの言われる通り、決して戦術の猛将でありません しかし猛将すなわち名将ではない。 一の谷の背後攻撃は、生田で範頼軍と平家主力(範頼の約二倍)との衝突があり、 平家の軍がそちらに引き付けられてからのことです。 範頼が主力を引き付けていたというところは評価しなければならないでしょうね。 背面攻撃だけに功をみとめるのであればしかたありませんが、 それなら義経だけではなく土肥実平も最大の功労者です。 なんかわけがわからなくなってきました。 正直、800年の歴史的先入観と戦うのは、疲れます(爆) Time : 1999/ 5/22(土) 00:10:01
Name : ラスカル E-mail : Title : 失礼いたしました・・・・。 Comments: Awajiさん、丁寧なご説明ありがとうございました。 この場で「とんでも論」を発表してしまったことをお詫びします。 つくづく自分の知識のなさをさらしてしまった、なさけない気分です。 しかし、長年気になっていた件が解決したようですっきりしました。初めて聞く 解釈が、いつまでも心のどこかに引っかかっていたような気がしていたので。 感謝すると共に、もっと勉強しなくては、という思いです。 Time : 1999/ 5/22(土) 00:13:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 抜け駆けの功名(ぬけたけのくようじゃないよ) Comments: こんばんは、みなさん。 盛り上がっているうちに参加させて下さい。 源平合戦では誰もがはっきりと目立つ鎧を身にまとい戦場に参加していたという 事です。矢にまで自分の名前を書いていました。 義経が軍事的天才であったことは間違いのないところですが、大将というよりは 猪武者のような働きぶりです。 「先駆け」「討ち取り」「強弓」の三つが手柄として最大のものでした。 この中で非力といわれた義経が選択できるのは「先駆け」しかなかったのです。 彼が大将としての役目よりも「個人」の手柄を優先したのは、指揮官としては 失格だと思います。 ですから頼朝の評価は低いものでした。 そうした点から言えば範頼は「大将」だったと思います。 Time : 1999/ 5/22(土) 00:17:08
Name : Toshy E-mail : Title : 梶原 Comments: ちょっと梶原の話にいっていいすか? 別に歴史上評価の低い人を弁護する気はないのですが、 質問があったので書き残しを少し。 ノムさん> 畠山の件は、確かに根性が悪いですね。 ただ、その前に頼朝と畠山の間に対立があったので、 もしかすると後世のでっち上げで梶原のせいにされたのかもしれません。 この辺は、不明です。 それから、もし梶原が頼朝を救ったのが事実だとすると、 (井沢先生は肯定的ですね)梶原はいいやつです。 というのは、恩に着せることなく頼朝に忠誠を誓っていましたから。 これは「石橋山」の件が事実であれば、という条件付き。 「曾我兄弟」の仇討ち物語でも、梶原は少年二人を救うために頼朝に掛け合っている。 とてもいいやつです(笑) 梶原景時は、鎌倉を離れた後、九州に新政権を樹立しようとしていました。 しかし北条市の待ち伏せに遭って一族は全滅、 野望はならなかったのです Time : 1999/ 5/22(土) 01:14:03
Name :E-mail : yohoka@sahs.med.osaka-u.ac.jp Title : Toshyさんに質問2 Comments: 源範頼についての再評価興味深く拝読いたしました。歴史上、不当な評価をさ れてきた人物を、史実から再評価することには大賛成ですけれど、範頼の再評 価についての根拠について等色々教えていただきたいことがあります。 1)源氏中国西進軍において範頼が実際に指揮権を発揮していたことを現すよ うな、史実や伝説があるのですか?私が疑問に思うのは、例えば南北朝期や幕 末の朝廷軍はかならず名目上の総司令官、親王等を置いていますが、実際に指 揮をしていなかったことは明らかです。実際幕末の東北、北陸の幕府側の諸藩 を、各個撃破していった功績は、薩長土肥の指揮者達にあり、まつりあげられ ていた親王達が、その結果だけから判断して軍事、政略等に優れていたと云う 人はいないでしょう。つまり頼朝は範頼や義経に、先に述べたような、名目上 の指揮権を与えていただけで、実質的な行動方針は梶原等の諸将の合議によっ て進められることを期待していたし、(軍事権は北条氏が握っていたようです し)範頼はその方針に忠実に従っていたが、義経は、その方針を無視、理解で きなかった故、頼朝や諸将の反発を買ったのではないのでしょうか? 2)範頼について、私はあまり知らないのですが、彼の非凡な資質を伝える様 なエピソードがあるのなら教えて下さい。 3)梶原景時について、私も根性の悪い武将のイメージしか無かったのですが、 彼について云われている悪口は、後年の石田三成に対する江戸幕府が広めた悪 口と非常に性質が似ている感じがします。つまり余りに石田三成の場合と類型 的なので、史実を反映していない可能性が結構あるのではないかと思います。 判官贔屓の故、梶原景時は歴史上不当な扱いを受けてきたと思われますが、範 頼を評価する前に、梶原景時を再評価する方が先決ではないでしょうか? 以上が私の疑問点ですが、何分この時代については余り知識がないので、色々 御教示いただければ幸いです。 Time : 1999/ 5/22(土) 01:17:53
Name : slashdog E-mail : Title : きんたろうさん、勇者ロトさん、Toshyさんお久しぶりです Comments: Toshyさんに質問が・・・ 7月5日の秀家の挙兵というのは、初耳なので よろしければ教えて下さい。 それから、連携があったならどうして家康が、戦いを始めてから挙兵しなかったのか?と、言うのが最大の疑問です。 追撃の件ですが、Toshyさんの言われるとおり、領地の事もあったにせよ なぜしなかったのか?喧嘩を売った相手が小倅に変わった(秀康が書いた挑戦 状を読んだのち、前線から会津若松に帰っている) ことで戦う気が失せたと思います。 ようするに、景勝は売られた喧嘩を買っただけで、あの時点で西軍もなにも 関係なかったと言えるのではないでしょうか。 前田慶次郎ですが、ほとんどマンガと同じと言っても過言ではない! と、私は思います。 そもそも慶次は前田家を継ぐ人でしたが、信長の都合で利家が継いだ為 利久(先代の利久は利家の兄)は、慶次と共に城を追い出されました。 これが「傾奇者」の第一歩でした。 天正十五年、利久が死んだのち浪人となり自由の身になった。 慶次の凄まじさを伝える最後の戦いは、山形城の出城、長谷堂城を攻めて いた時に、三成敗れる!の知らせが届き退却戦をする羽目になった。 殿軍三千に対して義光の追撃軍二万! どんどんやられていく中、兼続もさすがに諦め、我が首を敵の手に渡すことなかれ と、言った所、慶次は我手に御任せ候ヘ と言い、皆朱の槍の四人を 集めた。この四人を先頭に本陣めがけ突撃を開始! 義光の軍は真っ二つに割れ、みるみる崩れていった。 この隙に、兼続は、退却できたのです。 ちょっと長くなりましたね(笑) Time : 1999/ 5/22(土) 01:26:09
Name : Toshy E-mail : Title : 大さんへの返答・・・・・・になるかどうか Comments: 大変むずかしい質問、ありがとうございます 私としては返答になるとも思えぬ返答ではありますが、 答えられるだけのことはいたします 私の智識の大半は平家物語などの軍記モノや吾妻鏡程度です。 大した文献など持っていません ただ私の専攻は文学ですので、「裏読み」を得意としているだけです 1の質問と2の質問・・・・・・おっしゃる通りです 私とて全部の手柄を範頼に帰すつもりはないのですが、成り行き上。申し訳ありません しかし指揮官が無能なら軍は秩序を乱し、とても九州到着どころの話ではないでしょう。 苦戦したとはいえ、曲がりなりにも九州に到着しているのです。 陰には梶原のような知恵者がいることは確かでしょう。 配下が優秀であれば、それをまとめる将も優秀でなければ務まりません それから、地味な活躍の人ですから非凡の話題は知りません 私が考えたのは、なにも「ひらめき」だけがすべてではないということですよ。 当たり前のことをきちんとこなす人間のことを「有能」というのではないでしょうか。 私も会社員の経験がありますからわかりますが、 あたりまえのことができない社員が多いではないですか。 合議制というところは賛成ですね。 そして最善策を選ぶ決断を迫られるのは、だれでしょうか。範頼以外にはいないのです。 名目上でも大将は大将、その程度の判断は出来ていたからこそ、 武将たちの反感を買わなかったのです。 これは単なる私の推理ですから、反論は多いと思います。 でも凡将だったというエピソードもないのですよ 山陽道でもたついたことが、その評価の根拠となっているようですが、 義仲に比べまともだということは歴史が証明しています 梶原のことですが、興味ある人物ではないから論じないだけです。 Time : 1999/ 5/22(土) 02:04:37
Name : Toshy E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: あれは受け売りの知識です 申し訳ないのですが、「歴史と旅」4月号をお読みください あるいは私のHPのリンクから、らしきところへ飛べば情報があります 上杉と石田の密約に関する可能性は、五分五分と見ました。 あったとすれば、上杉が攻めていかなかったのは、やはり戦力が足りないということが考えられます。 宇喜田の決起は早すぎです。まだ石田・大谷・小西が立つ前ですから。 理解できません Time : 1999/ 5/22(土) 02:12:00
Name : Toshy E-mail : Title : (∞)アカレンジャーです Comments: というギャグはさておき、 下の書き込みではだれも納得しないことはわかっているので、 突っ込みが入る前に言います。 先に書いたように、勇者ロトさん&ノムさんの、 「無能ではないが有能でも」というところに考えが落ち着くのだと思います。 私は過小評価というか、ほとんど戦功を認められることのない範頼のことを、 理解してもらいたいわけで。 決して無能というほどではなく、とりあえずは頼朝の命を確実に実行できたという点を、 評価したいと思います。 私はもともと範頼ファンでもなんでもありません。 ただ、「裏読み」から違った側面を見つけたので主張して見ました。 このように、史料の読み方というものによって、人物観などはどうにでもなるのです。 ただ、井沢先生を非難するつもりではなかったのですが、 「逆説の日本史5」のあきらかな間違い点については論じておきたいと思いましたので。 それと、梶原を再評価する会ではないので、(笑) その気はありません。ただ質問があれば知っている範囲で答えます。 以上 (−)今度はキレンジャーです。 Time : 1999/ 5/22(土) 03:08:30
Name : 999 E-mail : Title : 範頼 Comments: みなさん、はじめまして。範頼が話題のようなのでひとこと。 範頼は、どちらかといえば無能の部類です。 Toshy様、苦言を申し上げます。 あなたの、おっしゃる事は、「深読み」などといえるものではないのです。 たんなる妄想です。文学が専門なら想像をどこまでひろげてもいいのですか? まぁ議論を楽しむというための意見の提示としては面白いかもしれませんが。 もっとすなおに歴史をみるのも重要です。お願いします。 Time : 1999/ 5/22(土) 07:47:52
Name : 999 E-mail : Title : すいません Comments: 下の投稿「深読み」は「裏読み」の間違いです。あしからず。 Toshy様、いいすぎかもしれません。お許しください。 ただ、無理やりの要素がつよすぎなもので・・・・・。 Time : 1999/ 5/22(土) 08:55:57
Name : Toshy E-mail : Title : 気にしていません Comments: 999さん、ありがとうございます さて、ちょっと理解してもらえなかったので、説明します 壇ノ浦には範頼は参加していないといわれています。 ですが、和田義盛が遠矢をいるシーンがありますね 和田義盛は、範頼に従軍していました。 これはふたとおりに解釈できるわけです 1.平家物語のフィクション 2.実際に範頼が参戦していた 裏読みというのは、こういうことです 可能性としては二つありえるのです。 素直にといいますが、命令を確実に守れるという点は素直ですよ、私は。 Time : 1999/ 5/22(土) 09:07:25
Name : 夢之介 E-mail : syuuya@ma4.justnet.ne.jp Title : 始めまして井沢先生の一ファンです Comments:  始めまして。  大阪の夢之介と申します。  結構昔から井沢先生の本、特に「逆説の日本史」のファンです。  しかし、先生の新作が出ているかどうか、たまに本屋に顔を出して やっとわかる。という状況の中で先生のHPを見つけることが出来て よかった。  たまに寄らせてください。  僕自信もちょっとしたHPを作って、現実の生活の中では絶対知り 合うことがないであろう知り合いも出来て、喜んでおります。    僕も歴史物は大好きなほうですから、そのうち質問もさせていただ きたいと思います。  今日はこのへんで失礼します。 Time : 1999/ 5/22(土) 09:39:41
Name : Toshy E-mail : Title : それで、先にも言った通り Comments: 「無能でも有能でも」という結論に落ち着くかなとは思います。 ところで、無能という点では、義経は頼朝の考えを理解していないという点では、 「無能」といっていいのです。 Awajiさんの、範頼と義経が戦争になったら問いには、私は義経につくと答えます しかし範頼と義経、どちらを部下にするかと聞かれたら、仕事をきちんとしてくれる範頼を選びます しかしもう、どうでもよくなってきました。 最後に言うと、私は、範頼より義経のほうが好きです(自分と性格も似ているしね) Time : 1999/ 5/22(土) 09:42:50
Name : ノム E-mail : Title : みなさん、おはようございます。範頼の話題も そろそろ、終わりを向かえたようです。 ロトさんに言わせると結局解釈の仕方という事だ という事でした。 Toshyさん、きのうはいろいろすいません。 ところで Comments: せっかく源平時代?にはいったので、奥州の事にす すみませんか?義経が身をよせた奥州藤原氏には 奥州じゅうなな万騎(だったかな?)が存在したら しいですが、中央にたいして、たいした動きはとっ てないような気がします。奥州にはそれほどの力が あったのでしょうか? Time : 1999/ 5/22(土) 10:31:21
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と軍事指揮官の資質?? Comments: きんたろうさん、ラスカルさん、今日は。Awajiです。 こちらこそ、失礼しました。 ラスカルさん、 お詫びなんてとんでもありません。何でも言ってみて、他人の意見もきい て、ご自分で判断されればいいことだと思います。 きんたろうさん、 要するにAwajiも軍事指揮官としては、義経の才気と勇気が好きで、範頼 のような生真面目さ(愚直と言って偏見?)が嫌いなんでしょうね。 それと、もともとの出発が範頼天才論だったので、チョット待って!と言 う気持ちがあったかも知れません。 きんたろうさんの定義では、乃木だって無能ではないと言うことになるか も知れないんですが、Awajiは即刻更迭すべき無能さであったと思っている のです。この様なトップリーダーに関する評価の不徹底(そのくせ下位指 揮官には厳しい)に対する問題意識かも知れません。 (必ずしも、現在の高級官僚や大企業経営者のことを言っているのでは有 りませんが(^0^)" ) >>彼が大将としての役目よりも「個人」の手柄を優先したのは、指揮官と >>しては失格だと思います。ですから頼朝の評価は低いものでした。 >>そうした点から言えば範頼は「大将」だったと思います。 ただ、壇ノ浦攻めに当っては、結構慎重でしたよね。 その点ではもう一人の軍事的天才である信長(勿論 義経より上ですが)も そうです。 目的を達するために緊急不可欠であれば、率先して自ら身を挺することも 軍事指揮官の重要な資質の一つだと思っています。 (何時もそうであれば単なる猪武者ですが。要は結果を出すことです。) >>しかし範頼と義経、どちらを部下にするかと聞かれたら、仕事をきちん >>としてくれる範頼を選びます この点では全く違います。Awajiは平時においては義経は使いません。 しかし、ここ一番危急存亡の時には義経を使います。或いは使い捨てにす るかも知れませんが、軍事的天才と言うのはそういう運命でしょう。 >>義仲ですら、山陽道では平氏に敗退し致命傷となっているのですところ >>が範頼は、その山陽道で平氏の軍を叩き潰しているのです 義仲と範頼の保有及び予備兵力(質)では、一寸比較にならない様に思う んです。同兵力(条件)で戦えばどうなったでしょうか? >>また、山猫でもタヌキでも(いってない)、指揮官が盆暗なら、例え主 >>力でも壊滅できるはずです その様な危険を冒す必要が無いと思うのです。敵主力を支戦場に止めてお く方が余程賢明でしょう。東国武士団の戦闘力は矢張り脅威だったでしょ うから、わざわざ引掻かれに行くのはアホラシイでしょう? 京を制し(出来たかどうかは分かりません)、天下の形成が変われば(そ うなったかどうかも分かりません・・しかし平家軍にはそれしか道はない でしょう)、九州の孤軍は自壊するに任せればいいと思うんです。 いろいろ貴重なご意見、ありがとうございました。 Time : 1999/ 5/22(土) 10:42:54
Name : ノム E-mail : Title : 奥州十七万騎 Comments: について、詳しい方はおられませんか? 本当に、それほどの戦力があったのでしょうか? Awajiさん、大きな視野からの解釈ありがとうござい ます。僕もそう思います。ただロトさんもいってま したが九州は戦略外だったのですね。 そこまでは考えが及びませんでした。 Time : 1999/ 5/22(土) 11:06:54
Name : Toshy E-mail : Title : Awajiさん Comments: ごめんなさい、「天才論」は行き過ぎでした、 でもAwajiさんが書き込みする前に、訂正しているじゃないですか!(笑) で、999さんの「妄想」という言葉ですが、皮肉ではなくありがたいと思うのですよ 私だって常に妄想ばかりの人間ではなく、資料に基づいた考え方だって出来るわけです。 いわば、常識と非常識と、 両方の面を使い分けることが出来る(非常識の方が多いかもしれませんが:笑) 考え方を持つのは、文学者として当然です。 でも、面白かったですよ。 前にも書いた通り、今まで話題にもならなかった範頼に対して、 こうしていろんな意見が出たわけですから。 範頼を再評価する会としては、大成功の部類です。 Awajiさん、これからもよろしくお願いしますね Time : 1999/ 5/22(土) 12:16:55
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ノムさんへ Comments: 私は、「九州が戦略外」とは言ってません。都人のプライドとして九州まで 落ちていく事は考えなかったかもしれないという事です。 Time : 1999/ 5/22(土) 12:19:13
Name : Toshy E-mail : Title : 奥州17万騎 Comments: ノムさん、じゅうななまん は明らかに誇張です。 戦国期ですら伊達が1万5千を越える程度、上杉が4万ですから、東北全体あわせても10万がやっとでした。 Time : 1999/ 5/22(土) 12:29:20
Name : A E-mail : Title : 子龍さんへ Comments:  東京裁判こちらではだめですか? Time : 1999/ 5/22(土) 13:54:45
Name : きんたろう E-mail : Title : どうして義経は突入したのか Comments: こんにちは、皆さん。 源平合戦について急激に収束に向かうと言うことですので最後に少しだけ書かせて下さい。 源平合戦というより範頼について再評価しようという今回のToshyさんの試みは成功 したと言っていいと思います。 比較対照の相手がどうしても義経になりがちです。 義経についてはあまりにもファンが多いため範頼の存在はかすみがちでした。 ですから、こうしてスポットが当たっただけでもよかったと思います。 義経はどうしてあのように大将としての立場よりも「個人」の立場を優先し続けた のでしょうか。 確かに義経は戦いの天才そのものです。 義経は頼朝のところへほとんど一人で参陣しました。 この時、頼朝やその他の武将達は義経をどう見たのでしょうか。 部下のいない大将など(それも源氏の嫡流)軽蔑の対象でしかなかったように思います。 あの時奥州藤原17万騎(と言われている)の中5000人も率いていれば義経の評価は 決定的に違っていたのではないかと思っています。 源氏は「貴族」ですから直属の軍隊は持っていません。 義家が奥州戦線で戦う時も各地で兵を募りながらやってきたわけです。 要するに「源氏」とは兵を集める磁石のようなものだと思います。 ところが義経は「源氏」であるにも係わらず「磁石」足り得ませんでした。 こうした点から義経はコンプレックスをかなり持っていたと想像されます。 義経の戦功とは主力部隊が正面から対峙しているときに(戦っているときに)側面攻撃を して大成果を挙げる事につきると思います。 これは当然主力部隊の力攻めがあって初めて成功するものです。実際平家軍は屈強と 言われた関東軍以上の強さだったようですから、義経がいなければ源氏の勝利はあり 得なかったように思います。 その結果平家、源氏、藤原と三国が形成されたかも知れません。 源氏軍の勝利はこうした観点から見ると全軍総力を挙げた結果だったと思います。 ところが義経はそれを一人占めしようとしたように受け取られます。 確かに武士として「武功」は欲しいに決まっています。でも大将の立場の人が そればかりやっていては回りからは浮いた存在になるのは当たり前だと思います。 事実屋島へ到着した義経がまず行った事は鎌倉の頼朝へ「先駆け」の事実を知らせる ために飛脚を出したことでした。 義経はいつも頼朝の方ばかり向いて戦っていたような印象を受けます。 そうしたことは頼朝も知っていたはずです。ですから兵を集める力のない義経を (頭領としての資質のない)悪意を持っては見ていなかったように思います。 Awajiさんへ。 乃木将軍と範頼を比較したことはないのですが、乃木については無謀な突入の件 だけから見ても無能だと思います。 一方範頼にはそうしたことはないと思うのですが。 壇ノ浦の勝利は関門海峡で岸辺から平家の船に矢を射かけた事だと言われています。 ここの大将こそが範頼でした。 平家を滅亡に追いやったこの戦いの最大のポイントはここです。 ですから源平合戦最大の功労者は範頼になってしまうかも知れません。(?) 奥州17万万騎についてはかなり誇張のある表現だと思います。 人口の3パーセント位が動員できる兵力だと言うことですから最大10万人が 限度だと思います。 ただし遠征軍ではなく自国領内で戦う場合は皆兵策がとれますからもう少し増えると思います。 奥州藤原氏が義経を使って関東に攻め入ればどうだったのだろうと思ってしまいます。 Time : 1999/ 5/22(土) 15:53:46
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と水軍編成?? Comments: きんたろうさん、今日は。Awajiです。 >>乃木については無謀な突入の件だけから見ても無能だと思います。 >>一方範頼にはそうしたことはないと思うのですが。壇ノ浦の勝利は関門 >>海峡で岸辺から平家の船に矢を射かけた事だと言われています。ここの >>大将こそが範頼でした。 >>平家を滅亡に追いやったこの戦いの最大のポイントはここです。ですか >>ら源平合戦最大の功労者は範頼になってしまうかも知れません。(?) 海戦勝利の最大の要素は、屋島を失った平家から瀬戸内(四国)水軍が離 反し、紀伊・熊野を併せた源氏水軍が優勢となったためでしょう。 海岸弓射は単に有効な付随作戦に過ぎません。 義経はこの水軍の糾合の為に慎重に時間をかけていますね。 (この打って変わった慎重さも名将の条件だと申し上げました) また、海岸から矢を射掛けた中心勢力は、義経の命令による和田義盛の手 勢ではないでしょうか? 彼は範頼の命令を無視して義経に合流したと思うのですが、違いました? 本来ならば、範頼はこの決戦場に何を置いても駆けつけねばならないので すが、彼の姿は見えなかったと思います。これも違ってますか? (Awajiの先入観かも知れませんので、誤解ならばご指摘下さい。) 範頼の愚策は、既に何度も申上げたとおり、屋島(四国)に手を付けず、 従って水軍編成に成功しないまま九州に拘ったことです。 戦争には必ず急所がありますが、これを的確に読めない指揮官は(仮に総 大将の命令に忠実であったとしても)無能だと思います。 ワーテルローの戦いでもナポレオン麾下のXX将軍は、命令を墨守して参 戦の機を失うと言う愚を冒しています。 (やってきたのはプロシアンだった!) 乃木の最大の無能も、旅順攻撃の急所が旅順艦隊砲撃(二百三高地に観測 点を設ける)であることを充分理解せず、無謀な要塞攻撃を主戦場とした ことでしょう・・・つまりは同類だと思うのですが? Time : 1999/ 5/22(土) 18:22:15
Name : よしこ E-mail : Title : 範頼軍への声援 Comments:  はじめまして。よしこといいます。  いつも楽しく拝見させていただいてますが、鎌倉ファンとしては、時代が中世 となればついついしゃしゃりでてきてしまいます。源平にはあまり詳しくないの ですが、範頼の議論も終わりそうだということで、ミーハー的感想をひとこと。  ということで、範頼軍の評価は低すぎるというのは私も同意してます。井沢さ んの見解を読んだときには私も「違〜う」といってました。以下、範頼軍の弁護 を。  ちなみに頼朝が、範頼に九州の武士をひきいて屋島を攻撃するよう手紙をだし たという記述をどこかでみたことがあります。九州進軍は頼朝の作戦だと思いま す。それを阻止しようとする平家との駆け引きが隠れた源平合戦の楽しみ方だと 思ってます。 「範頼軍はえらい」はなはだ曖昧な根拠 1.どうみてもあらかじめ長期戦を覚悟していた節がある。本拠地をあれほど離  れ、平家の地盤につっこんで、何ヶ月も持久戦をやる度胸。しかも、結局それ  をやり通したのだから大したものだ。 2.資盛が敗れたあと、平家は戦争をしかけてこないが、これはもしかして彦島  の知盛の戦略か? 自陣の奥深くに遠征軍をひきずりこみ、船をおさえて兵糧  責めにして自壊させるという。もしそうなら知盛も大したものだが(何となく  ナポレオンのロシア遠征に近い)、その間隙をぬって豊後に使者を派遣し、見  事援軍をひきだして九州にわたったのだから、鎌倉軍も大したものだ。九州で  も相変わらず腹をすかしていたようだが。  いずれにせよ、範頼軍と知盛の、兵を使わずに火花ばちばち状態はみごたえあ  ると思う。九州上陸によって、彼らは周防と豊後を抑えたわけで、屋島と彦島  をおさえている平家との海をめぐる攻防がおもしろい。 3.もっとも評価するのがこれ。やれ兵糧がないの士気がはなはだおちただのい  われながら、現地略奪をすることなく、持久戦にたえ、軍は崩壊せず、ついに  は地元の武士の中で兵糧を献じるものまであらわれるところをみると、鎌倉軍  の規律とモラルはは大したもの。鎌倉殿はいないのに。頼朝も地元の武士とも めごとをおこすのを一番おそれていたが、もしそんな事態になれば、戦をする以 前に鎌倉軍は崩壊していただろう。やっぱりえらい。壇ノ浦のときに平家ではな く鎌倉軍につくものが多くでたのも在地の武士に「嫌われなかった」ことが大き かったのでは。これも立派な戦略でしょう。兵をどう動かすかぐらいの戦略はあ る程度の人ならもつだろうが、さらに広い視点で勝利を導く方法を考えられる人 というのはあまりいないのでは。 4.もちろん、義経の働きがなければ勝利はなかったし、そういう意味では、そ  こまで頼朝が計算して鎌倉軍を近畿に残していたのだとすれば、一番すごいの  はやはり頼朝か。だが、うがった見方をすれば、「もうだめですう、皆帰りた  がってますう、このままでは崩壊しまあす」という範頼の泣き言の手紙が頼朝  を仰天させ、義経出陣を決意させたといえなくもない。だって、そこまで泣き  ついているわりには、何ヶ月ももっているし、結局みんな無事でちゃんと壇ノ  浦の合戦にも参加してるんだもん。まあ、これはあくまで妄想の部類です。す  いません。  思いっきり思いこみの弁護をしたのですが、実は範頼軍の功績=範頼の功績・ 才能とはいえないとこれまで思ってました。そういう意味で、「なるほど、範頼 ねえ」ときづかされて楽しかったです。私の説は、「北条義時=政略・軍略の天 才」説なので、今回もこれで解釈してます。範頼軍の参謀は、義時と中原親能。 彼らが範頼の片腕となってあれこれ知恵を授けたり、軍政を担当していたのでは ないでしょうか。西国遠征軍の顔ぶれの中にこの二人の名前があるのをみたとき には、「おおっ」と思ったものです。 Time : 1999/ 5/22(土) 18:33:00
Name : ノム E-mail : Title : のりよりはいずこ? Comments: ではみなさん、範頼はいったいどこへいってたんで しょう? 終わるはずなのにますます謎が深まります。 へんな奴ですね。のりよりは。 Time : 1999/ 5/22(土) 18:46:49
Name : きんたろう E-mail : Title : 立場の差 Comments: Awajiさん、こんばんは。 >戦争には必ず急所がありますが、これを的確に読めない指揮官は(仮に総 >大将の命令に忠実であったとしても)無能だと思います。 この事は正に義経について当てはまると思います。 一ノ谷の戦いはやはり義経の有名な「逆落とし」によって大勝利を得たと言うのが 通説ですが、あの時義経は別働隊2万を率いた大将でした。 あの時当初の予定どおり義経軍が西側から攻めていればあの程度の勝利ではなく 「完璧に大勝利を得た」と言われています。 私も義経が独断行動さえしなければ平家軍は壊滅されていたと思います。 ところが義経の行動により本来義経が守るべき搦手から多くの武将が脱出してしまいました。 この行動がなければこの後の戦い(屋島も含む)はあり得なかったと思います。 いずれにしても義経個人は好きな武将であり、「天才」であることには違いないと思います。 しかし、「名選手名監督に非ず」の例えどうり「大将」の立場からすると不合格だった と言えるのではないでしょうか。 >海戦勝利の最大の要素は、屋島を失った平家から瀬戸内(四国)水軍が離 >反し、紀伊・熊野を併せた源氏水軍が優勢となったためでしょう。 >海岸弓射は単に有効な付随作戦に過ぎません。 >義経はこの水軍の糾合の為に慎重に時間をかけていますね。 >(この打って変わった慎重さも名将の条件だと申し上げました) この件についてはちょっと意見が違います。 やっと平家水軍と互角になったというのが正しいと思います。 とすると、いつもの義経のポジションにいたのが範頼と言うことですね。 義経の悲劇は一武将の資質としては最高のものを持った源氏の嫡流が大将としての 資質に欠けていた事だと思います。 そうでなければ「常勝将軍」の回りには人が集まるものです。 Time : 1999/ 5/22(土) 19:40:07
Name : A E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: きんたろうさんへ 「事実屋島へ到着した義経がまず行った事は鎌倉の頼朝へ「先駆け」の事実を知ら せるために飛脚を出したことでした。 義経はいつも頼朝の方ばかり向いて戦っていたような印象を受けます。」  とのことなのですが、これは梶原らへの対抗上のものではないですか?  そう言う行動や、軍功をあせるような行動に向かわせたのは頼朝の態度や、 当時の軍の状況であり、義経本来の性質として捉えるのはすこし疑問ですが。 Time : 1999/ 5/22(土) 20:34:11
Name : きんたろう E-mail : Title : 判官贔屓史観 Comments: Aさん、こんばんは。 梶原は義経にとってはきっと不倶戴天の敵のようなものだったのでしょうね。 しかし、義経と梶原の確執と捉えることは真実を矮小化し見失うように思います。 梶原は「代名詞」として捉えるべきだと思います。 >そう言う行動や、軍功をあせるような行動に向かわせたのは頼朝の態度や、 >当時の軍の状況であり、義経本来の性質として捉えるのはすこし疑問ですが。 プレッシャーがあったのは当然だと思います。 だからこそ義経はポジションを全うすべきでした。 あるいは「磁石」として能力がない事を自覚し過ぎていたのかも知れないですね。 Time : 1999/ 5/22(土) 22:12:43
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: こんばんは。 >この件についてはちょっと意見が違います。やっと平家水軍と互角になった >というのが正しいと思います。 >とすると、いつもの義経のポジションにいたのが範頼と言うことですね。 という事ですが、平家の水軍は、屋島の合戦で敗退していらい補給らしい補給が できていないのではないでしょうか? 互角というよりも、平家側は劣勢だとおもうのですが? さらに範頼は壇ノ浦には参戦していなかったと思います。和田義盛の手勢だけが 壇ノ浦にかけつけたという事だったと思います。 いかがでしょう? Time : 1999/ 5/22(土) 22:21:44
Name : ina E-mail : Title : 義経 Comments:  自分の手勢のない、権威の基盤のない司令官。その立場に本人と周囲で 乖離がある。作戦能力は抜群、自分は非力で兵士としての能力は低い、 ふと思ったのですが、幕末の、超天才司令官、大村益次郎と共通点が実は 多かったりして。 Time : 1999/ 5/22(土) 22:45:40
Name : Toshy E-mail : Title : 999さん Comments: こんにちは >さらに範頼は壇ノ浦には参戦していなかったと思います。和田義盛の手勢だけが >壇ノ浦にかけつけたという事だったと思います それはありえることですが、根拠を指摘してください そうでないと、私同様の「妄想」でしかないのです 別に根に持っているわけではないので、誤解なさらないで下さいね Time : 1999/ 5/22(土) 22:58:04
Name : 999 E-mail : Title : 根拠は Comments: 平家物語に範頼の動向が記されていないからです。 間違っていますか? Time : 1999/ 5/22(土) 23:04:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と源平戦の事実認識?? Comments: きんたろうさん、今日は。チョット事実認識が異なっているようなので、 確認させて下さい。 >>あの時義経は別働隊2万を率いた大将でした。 一の谷の合戦時、源氏の総兵力はどの位ですか? 別働隊2万ならば範頼は 少なくとも4〜6万、合計6〜8万と想定されているのですか? Toshyさんによれば、 >一の谷の背後攻撃は、生田で範頼軍と平家主力(範頼の約二倍)との衝突 >があり、平家の軍がそちらに引き付けられてからのことです。 とされていますから、平家主力は少なくとも8万になりますが本当ですか? Awajiの認識では、別働隊は元々土肥軍を含めても最大千名台と思っていま すが? 2万とはチョット考えもしませんでした。 >>あの時当初の予定どおり義経軍が西側から攻めていればあの程度の勝利 >>ではなく「完璧に大勝利を得た」と言われています。私も義経が独断行 >>動さえしなければ平家軍は壊滅されていたと思います。 予定どおりと言うのは明石口からでしょうか?義経と土肥とは三木で分か れたのですね。何故三木で分かれたために完全勝利を逸したのでしょうか? 当時平家軍は海上部隊を有しており、地上軍を回収していますね。源氏は 海上部隊を持っていなかったと思うのですが、一体どのようにして壊滅さ せられるのでしょうか? >>ところが義経の行動により本来義経が守るべき搦手から多くの武将が脱 >>出してしまいました。この行動がなければこの後の戦い(屋島も含む) >>はあり得なかったと思います。 どの武将がどれくらい脱出したのですか? また、どの記録に出ているの ですか? 以上の諸点で、一の谷の合戦に関する認識がAwajiと全く違うので、戸惑っ ています。(おそらく通説とも異なっていると思うんですが、どなたがど の記録をもとに構成されたものでしょうか?) この認識では、義経は軍事的天才どころか平家壊滅の機を妨害した、明ら かに愚将です。 >>やっと平家水軍と互角になったというのが正しいと思います。 でも結構です。優勢か互角かは分かりませんが、結局海戦で圧倒的勝利 を得たのですから。 ただ海戦の勝利は本当に海岸弓射によるものとお考えですか? これは、あらゆる海戦の常識を覆すもので、とても信じられません。 (海岸に近づいた艦船に対する有効な補助作戦であるとは思いますが) >>壇ノ浦の勝利は関門海峡で岸辺から平家の船に矢を射かけた事だと言わ >>れています。 一体どなたがこの様なことをおっしゃっているのでしょうか? >>いつもの義経のポジションにいたのが範頼と言うことですね。 壇ノ浦には範頼の姿は全く見えないのですが、彼はどの位置でどのような 直接的役割を果たしたのでしょうか? どう考えても和田義盛を派遣した(これすら疑問)ことぐらいしか無いと 思うのですが? Awajiには良く分からないので敢えて指摘しなかったのですが、もしこの 決戦に何の直接的役割も果たしていない(果たせなかった)とすれば、愚 将としか言いようがないと思うんですが? もう終了しようと思っていたのですが、これほど事実認識が異なっている のならば、一から遣り直しになっちゃいますね。 Time : 1999/ 5/22(土) 23:10:04
Name : きんたろう E-mail : Title : 天才の証明 Comments: こんばんは、999さん、inaさん。 きょうは登場が多くてすみません。 天才を理解することは難しいことです。 信長も「うつけ者」と呼ばれていました。 >さらに範頼は壇ノ浦には参戦していなかったと思います。和田義盛の手勢だけが >壇ノ浦にかけつけたという事だったと思います。 >いかがでしょう? そうだったのですか? 堂々日本史では「範頼軍」といっていたように思いますが。 Time : 1999/ 5/23(日) 00:01:41
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 奥州十七万騎 Comments: みなさん、こん@@は。ノムさん奥州十七万騎について一言。 この時代は、兵農分離ができていません。したがって十七万騎というのは、農民の 中から徴兵し得る最大限の兵数という事だと思います。 きんたろうさんやToshyさんが誇張といわれていましたが、ある程度の数値の信頼 性があるのかもしれないと思っています。 どうして十七万なのか?考えた場合、何かもととなる数字があるはずです。 誇張だけなら他の数値でもいいはずですが、資料上は十七万というのが記されてい るみたいなので、ここから推測するとまんざらでたらめではないようです。 しかし、あくまでも最大という意味なので、農繁期やさまざまな収穫の季節によっ て激しくかわったでしょう。 奥州藤原氏は、駿馬と砂金によって財を蓄え、その最盛期には十七万騎を揃える 事ができたのかもしれません。 頼朝の奥州征伐の時には、2万騎を集めたという記録が残っています。 この少なさは、勝ち目のない戦と見限った勢力が多かったのでしょう。 農繁期と重なったという事も無視できません。 しかし、対する鎌倉軍は公称二十八万騎です。なぜ二万騎の敵に二十八万騎も必要 なのかを推測すれば、奥州十七万騎という数が当時信用されていたからだとも推測 できます。 まったくのでたらめな誇張であるなら、公称とはいえ二十八万騎を揃える意味がな いのです。 何かの信憑性をもたせる根拠が、奥州に存在した事は確実なんではないかと考えて います。 なんだかよくわからない投稿になってしまいました。どうもすいません。 slashdogさん、前田慶次情報ありがとうございました。 ところで彼は江戸時代まで生きたのでしょうか? 妙に興味がわいてきました。 Time : 1999/ 5/23(日) 00:28:37
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音の誤解・・・・スミマセン Comments: スミマセン・・・Awajiです。 >ところが義経の行動により本来義経が守るべき搦手から多くの武将が脱 >出してしまいました。 >>どの武将が脱出したのですか? また、どの記録に出ているのですか? これは、Awajiの誤解かもしれません。 ここで、きんたろうさんがおっしゃっている「脱出」はヒョットシタラ平 家軍のことですね。 Awajiは平家軍の海上脱出に関して、義経の責任があるとは全く考えもしな かったので、「脱出」を源氏軍の「脱走」と誤解しました。 従って、この質問は無視して下さい。 それにしても、平家軍の海上脱出を義経の行動のせいにされるのは、無茶 じゃあないでしょうか? Time : 1999/ 5/23(日) 00:32:53
Name : きんたろう E-mail : Title : 実像? Comments: こんばんは。 くどいと言われそうですが勘弁して下さい。 虚像と実像というものがありますが、実像は歴史の流れを追っていった場合 自然であると思われる場合正しいと思います。 例えば三国志で劉備軍は魏軍を何度も打ち負かしますが、次に登場してくる時には さらに巨大になっているという具合です。 これはどう考えても不自然です。 同様に信長はまるで超能力でも使ったかのようなイメージを持たれていますが 実際はそうではありませんでした。 非常に現実的な人だったと思います。 義経はどうなのでしょうか? あれほど全戦全勝の「常勝将軍」がどうしてあのような目に遭わなければならないのか 不思議でした。 義経は当時の武士達に「支持されなかった」のが真実なのです。 それには様々な理由が考えられるとは思いますが、「大将の器」でなかった事が 最大の理由なのではないでしょうか。 義経に対してはこのような印象を持っていました。 Awajiさんの質問の件ですが、 >この認識では、義経は軍事的天才どころか平家壊滅の機を妨害した、明ら >かに愚将です。 同様に頼朝も判断したのだと思っています。 なおNHKの堂々日本史で同じような説が紹介されていたはずです。 Time : 1999/ 5/23(日) 00:44:01
Name : Toshy E-mail : Title : 999さんへ Comments: ありがとうございました で、私のご意見はきんたろうさんがいってしまったのでやめます ところで、あくまで私の「範頼の再評価」は成功したので、今後範頼の話題は出しません。 Awajiさんへ きんたろうさんと私との別働隊の数は、食い違っています 私の手元の本では1万ということで、 きんたろうさんのいわれた数よりも少ないのでした これは史料によって異なるから、なんともいえません 勇者ロトさん 十七万の説明、納得が参ります 鎌倉と対決した時ですら2万の兵が集まったのは、それだけの底力があったからなのですね ところで鎌倉軍は実数7万だったと聞いています Time : 1999/ 5/23(日) 00:54:23
Name : Toshy E-mail : Title : 妄想と源氏三兄弟 Comments: おれって、ばか?自分に「ご意見」と敬語使っているよ(大笑) というのはさておき、きんたろうさんの奮戦、とても興味あるので参加します。 >それにしても、平家軍の海上脱出を義経の行動のせいにされるのは、無茶 >じゃあないでしょうか? Awajiさんの言うように、水軍を持たない源氏が平氏を全滅させることは無理でした 範頼(出しちゃった)や義経の責任とするのは、酷かな Awajiさんの、平家軍の数について、今本を引っ張り出してみました 誇張はあるだろうとの説明付きですが、平氏10万源氏5万だそうです だからきんたろうさんの兵の数から考え出したAwajiさんの推測は、あたっていました 余談ながら、平氏の半分以上が生田口に集中しているようです きんたろうさんのいう、「武士たちに支持されない」という点は、私も同感です。 井沢先生の説の通り、義経は、鎌倉政権の何たるかを理解せず、 朝廷から官位をもらっては頼朝の不評を買っていました。 頼朝にしてみれば、朝廷からの独立が目的なのです これは妄想ではなく、史料による解釈なので少し我慢してください 源平合戦の前、関東武士の間では「退嬰論」が強まっていました (平将門のように、関東八州の独立が目的だったのです) これは平広常が梶原によって殺されたことにより 頼朝の力が強まって西国に兵を送ることになったのですが、 朝廷の支配から独立することを望んでいたことにはかわりません 後のじょうきゅうの乱でも、関東武士は院宣など無視して鎌倉側についています 義経はどうかというと。 朝廷に密着し、官位ばかりを望みました 腰越状の文からも、それはあきらかです。 義経が京都を逃れる時に従っていたのは、僅か200騎。 頼朝と対立して義経についたのは源三位頼政の孫、有綱だけです。 武士の支持があったとは思えません ところで井沢先生もご指摘ですが、頼朝や実朝も宮廷に接近しようとしたため、 御家人たちによる不評を買っています そこで一部御家人たちによる頼朝暗殺計画が練られたわけです 有名な(?)曾我兄弟の話です 何人の御家人が頼朝を狙ったのか不明ですが、岡崎、大庭といった宿将が荷担していたということ。 彼等の構想としては、頼朝を殺して範頼を担ごう、という作戦なのでした あ〜あ、またのりより出しちゃったよ。 でもこれは井沢先生の本・源平関連の解説書・曾我兄弟関連の本のをつなぎあわせたものだから、 私の妄想じゃないよ Time : 1999/ 5/23(日) 01:48:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と義経愚将論?? Comments: Toshyさん、きんたろうさん、今日は。Awajiです。 ご意見ありがとうございました。 一つずつ片づけていきたいのですが、Awajiは当時の政治情勢や義経・範 頼の政治能力(東国武士団における人気・人望を含む)について論じてい るわけではありません。 (これらについては殆どToshyさんの認識=通説と同じ考えです。) 勿論、人物論としては軍事能力と政治能力は密接不可分ですが、ここでは 純粋に彼等の軍事指揮官としての戦争遂行能力について考えているのです。 先ずこの点に絞って頂けないでしょうか? 因みに、Awajiは義経の政治能力(人心収攬術を含め)については、全く評 価していません。敢えて言えば「孤高の天才的軍事芸術家」という印象です。 以下で申し上げたとおり、典型的な「狡兎死して、走狗煮らる」のタイプ だと思っています。 >Awajiは平時においては義経は使いません。しかし、ここ一番危急存亡の時 >には義経を使います。或いは使い捨てにするかも知れませんが、軍事的天 >才と言うのはそういう運命でしょう。 範頼は軍事能力的には平凡な軍事官僚(せいぜい師団長クラス)だという 印象です。 しかし、何れにしても前回申し上げた「一の谷」「壇ノ浦」に関する基本 認識が乖離していれば、彼等の軍事能力判断以前の問題です。 NHKが娯楽番組でどういう歴史認識を放映したのかは別として、「救世 観音と源平戦の事実認識??」で申し上げた、きんたろうさんのご発言に 関する疑問点にお答え頂けないでしょうか? そうでないと、以下の頼朝の判断の理由が分かりませんし、その様な愚将 を危急存亡の時期に何故再び平家追討の軍事指揮官として起用したのかが 説明不能でしょう? >この認識では、義経は軍事的天才どころか平家壊滅の機を妨害した、明ら >かに愚将です。 >>同様に頼朝も判断したのだと思っています。なおNHKの堂々日本史で同じ >>ような説が紹介されていたはずです。 Time : 1999/ 5/23(日) 11:40:17
Name : 999 E-mail : Title : 範頼軍? Comments: みなさん、おはようございます。 そんな番組があったのですか? しりませんでした。 勉強不足でした。 でも、和田以外は何をしていたのでしょう? Time : 1999/ 5/23(日) 12:27:48
Name : きんたろう E-mail : Title : 遊撃隊隊長クラス? Comments: こんにちは、Awaji、みなさん。 義経に対して評価が分かれるのは(誤解されているのは)大将として全体を統括する 能力には欠けるが、自身が一部隊を率いた場合の才能は日本史上最大のものという点 を混同している(されやすい?)ことだと思います。 かくいう私も判官贔屓に属する一員です。(たぶん) しかし、感情と公平な判断は別だと思うのです。 太平記を読んだのは遥か昔のことです。(記憶は風化しています) もっともこれは歴史書というよりは文学ですよね。 一ノ谷では明石方面から進軍し挟み撃ちにするべきだったと思います。 それでも何故大将であり続けたのかと言えば「源氏嫡流」だったからという理由だ と思います。 「貴種」でなければ旗頭になれなかったからだと思います。 壇ノ浦の説は奥富敬之先生が言われています。(同様に堂々日本史で) 記憶に自信がなかったので図書館に行ってみると「堂々日本史」の本がおいてありました。 Time : 1999/ 5/23(日) 13:53:29
Name : Toshy E-mail : Title : 源氏主力の動向 Comments: みなさん、こんにちは。 >でも、和田以外は何をしていたのでしょう これは範頼の評価に関わるのであまりふれませんが、 源氏主力(範頼に従って九州に渡った部隊)が壇ノ浦で義経の軍に合流したというのが、 多くの方の考えのようですよ。 というのも、義経の軍だけでは少なすぎるのです。 堂々日本史の内容はよく知らないのですが、「範頼軍」という表現があったのは、 主力全軍挙げて参戦するのが当然だとすべきだからだと思います なお、和田以外の軍も矢を放っていたと考えてもいいのでは? (和田はとくに弓矢の名手ですから、「平家」で取り上げられて当然) 範頼軍が岸にいたため、平氏の軍が上陸できず追いつめられたということになっているみたいです (これは昔読んだ小説に書いてありました、題名は忘れた) 壇ノ浦の地形をご存知ですよね。 戦闘が行われた場所と平家の本陣がある彦島との間には、 赤間関という狭い水道があります ここの水道に範頼軍(あるいは源氏陸軍)があり、主力部隊の退却をはばんでいたと推測されます Time : 1999/ 5/23(日) 14:23:53
Name : ノム E-mail : Title : 明石?(きんたろうさん、こんにちわ) Comments: 明石方面から攻め掛かるのは、非常に困難です。 地形上、六甲山系を大回りしないとたどり着けない と思います。そうすれば平家に背後をとられる形と なる確率が高くなります。そもそも一の谷に陣をひ いたのは、挟み撃ちとなるのを防ぐためだと思います。 Time : 1999/ 5/23(日) 15:35:18
Name : Toshy E-mail : Title : 福原・生田・一の谷 Comments: ノムさん、きんたろうさん、Awajiさん、999さん、こんにちは 一の谷における平氏の全滅は、やはり不可能と考えます。 大手軍の攻める生田、義経軍の攻める一の谷、 間は10キロほどの距離があり、一の谷そのものは狭くとも、 主戦場というべき場所は広域に渡っています。 「一の谷の戦い」という名前が、ちょっと誤解を招きますが。 さて、平氏が脱出を試みた和田岬は生田と一の谷の中間点にあり、 一の谷で火の手が上がったのを見て福原にいた平氏のお偉方はびびって、 速攻で船に乗って逃げたのでした。 全滅を狙うためには、まず和田岬を押さえなければならなかったのです。 これは義経の責任とはいいがたいと。。。。 きんたろうさんの主張する、義経の大将としての才能ですが、 梶原と作戦のことで口論したり、自分一人で突撃していくという軽々しさには、 私も評価しにくいところです。 結果的に勝利を得ているから我々の評価は高いのですが、 周りから見ればハラハラドキドキの人ですから、 きんたろうさんの言うように遊撃隊の隊長程度にしか感じられません 999さん、源氏主力の動向ですが、 三浦が水軍を率いて義経に合流という記録を見ましたから、 ほとんどがやはり壇ノ浦に向かっていたと考えてもいいと思いました。 Time : 1999/ 5/23(日) 16:27:47
Name : ノム E-mail : Title : 高師直 Comments: 義経と高師直は似ていると思います。 頼朝と一緒に行動しさえすれば名軍師となれたかも しれません。 結局は粛清されたと思いますが・・・。 彼の兵法は、非の打ち所がなかったと思います。 Time : 1999/ 5/23(日) 17:17:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と義経天才論 Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 きんたろうさん、一の谷合戦についての認識は変更されるのですか? 変更されないのですか? 壇ノ浦の勝利要因は沿岸弓射によりもたらされたとお考えですか? それとも義経が平家軍を屋島から駆逐して以降の水軍強化によるとお考え ですか? それ無しに、以下のような評価論を展開してもあまり意味が無い様に思い ますので、先ずこういった点ははっきりさせませんか? >>義経に対して評価が分かれるのは(誤解されているのは)大将として全体 >>を統括する能力には欠けるが、自身が一部隊を率いた場合の才能は日本史 >>上最大のものという点を混同している(されやすい?)ことだと思います。 何度も言いますが、Awajiの評価は義経が戦争の急所を的確に判断し、果断 に実行したところにあります。部隊を率いての才能ではありません。 そんな人物は歴史上はいて捨てる程いますが、戦略を立て得る天才は殆どい ないのですよ。(その意味ではinaさんの村田類似論やノムさんの名軍師論 に近いのです。) 念のため、きんたろうさんの一の谷合戦認識は次のとおりですね? 1.義経は別働隊2万を率いた大将であった。 2.当初の予定は義経軍が西側から攻めることであった。 3.西側から攻めていればあの程度の勝利ではなく「完璧に大勝利を得た」 4.義経の行動により本来義経が守るべき搦手から多くの武将が脱出した。 5.義経が独断行動さえしなければ平家軍は壊滅されていた。 6.義経の行動がなければこの後の戦い(屋島も含む)はあり得なかった。 7.従って義経は軍事的天才どころか平家壊滅の機を妨害した愚将である。 8.頼朝は義経の軍事能力について以上のように判断した。 (しかし、再度平家追討を、その愚将に委ねた・・・んですね?) Awajiの判断は以下のとおりです。 1.当時、平家上陸部隊は最大2万、源氏軍は1万以下であった? 2.平家軍は六甲山系南麓の海岸沿いに深縦陣地を構成していた。 3.さらに、海上部隊が和田岬にあり援護体制を引いていた。 4.そのため、法皇による調停工作で平家軍を油断させ、奇襲を計った。 5.しかし、東部戦線(生田)方面からの攻撃のみでは、勝利の可能性は 極めて薄かった。 6.そのため義経?は平家軍の西部(背後)攻撃を企図し、少数(1千程 度)迂回軍を編成・指揮した。(篠山・小野・明石→一の谷) 7.しかし明石方面からの攻撃では効果不足と判断し、主力部隊を土肥に 委ね、直接一の谷付近の平家本陣を急襲する部隊を分離した。 8.この部隊は、その運用が極めて困難であるため自ら直率した。 9.東部戦線では平家軍が優勢であり、次第に源氏軍は苦戦を強いられた。 10.しかし、一の谷急襲部隊の出現と、放火により平家軍は浮き足立ち、 上層部が海上に逃れたため、総崩れとなった、 つまり、優勢な深縦陣地を攻撃するには、その中核を奇襲すべきであると 言う天才的戦略の企図と実行が、一の谷の(奇跡的)勝利をもたらした。 Awajiが評価しているのは、勝利のためのこの戦略(実行)なのです。 Toshyさん、 >>999さん、源氏主力の動向ですが、三浦が水軍を率いて義経に合流と >>いう記録を見ましたから、ほとんどがやはり壇ノ浦に向かっていたと考 >>えてもいいと思いました。 この部分については、三浦部隊は範頼の豊後進攻の後、帰路を確保する意 味で残留させられていたと記憶しています。 従って、元々は和田部隊同様に範頼軍ですが範頼の参戦とは無関係と思う のですが、違いましたか? Awajiが確認した限り、やはり壇ノ浦には範頼の影も姿もありません。 三浦・和田以外の部隊が参戦した記録もありません。 ノロノロと豊後辺りの局地戦に忙殺されていたのではないでしょうか? Time : 1999/ 5/23(日) 20:43:39
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と義経天才論・・・言い忘れていました Comments: きんたろうさん、スミマセンAwajiです。トラに見とれて以下の部分について 言い忘れていました。 >>それでも何故大将であり続けたのかと言えば「源氏嫡流」だったからとい >>う理由だと思います。「貴種」でなければ旗頭になれなかったからだと思 >>います。 「貴種」であれば、他の兄弟を任命すればいい筈ですね。 何も「愚将」の、しかも勝手に任官した義経を使う必要は無いのでは? (他の兄弟の大将としての器量は、Awajiの知るところでは有りませんが、 「愚将」の義経よりは、ましじゃあないでしょうか?) Time : 1999/ 5/23(日) 21:19:38
Name : Toshy E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: ご指摘ありがとうございました。三浦のことは、私の勘違いです。 ところで弓矢が勝敗を決したということに関するところに、 私から一言いわせていただくと。。。 義経の「舵取り攻撃」によって、平氏側の舟は潮流に流されるままになりました。 先に記した赤間関は狭いので、平氏としては浜につけて逃げたかったかもしれません。 しかしそこには陸上部隊がいたため、逃げられなかったということです。 勝利に導いたのは、確かに義経の「卑怯な」戦法でした (「」をつけたのは、戦争に卑怯も何もないからです) しかしそれは、包囲網があり相手を袋の鼠にしていたからこそ、という意味に捉えました。 弓矢で勝敗が決したというのは堂々日本史でもやっていたと思います 当時の舟ですから、弓矢で穴があいて沈むこともありますから (「義経記」にもそんな場面が。。) なお、これは単なる妄想ですが、範頼はともかく、 鎌倉軍主力のほとんどが壇ノ浦に駆けつけていたことは想像に難くないのです。 >「貴種」であれば、他の兄弟を任命すればいい筈ですね。 >何も「愚将」の、しかも勝手に任官した義経を使う必要は無いのでは この言葉は、範頼にもあてはまります。 Time : 1999/ 5/23(日) 21:44:35
Name : きんたろう E-mail : Title : 特化された天才 Comments: こんばんは、Awajiさん。 前の投稿でお答えしたと思っていた?つもりだったのですが、言われているとおり の認識をしています。ただ5.6はあくまで自分の想像です。 7については例えば韓信のように100万の兵を自在に操るといった面において 疑問だということです。 Awajiさんへ質問なのですが、1の兵力数の根拠についてどのような基準を もって言われているのですか?またその自信度はどの位あるのですか? 7についてですが、予定道理進攻していた場合同様に平家軍にダメージを与えたとは 思われませんか? またそうであれば脱出経路は海上だけになると思うのですが。 遥かに上策だと思いませんか? いずれにしても基礎的認識が違うことは分かりました。 私も一方的な資料だけではなく調べてみることにします。 ありがとうございました。 追伸 他の兄弟では誰が適任だと思いますか? Time : 1999/ 5/23(日) 21:48:28
Name : きんたろう E-mail : Title : さらに追加(すみません) Comments: Awajiさん、すみません。 もう一つ質問がありました。 一ノ谷の時、天才義経を主力軍の大将に起用しなかったのはどのような理由から だと思われますか? Time : 1999/ 5/23(日) 22:18:49
Name : Toshy E-mail : Title : ちょっとした思い付き Comments: Awajiさんのいうように、三浦は周防にて水軍を招集し、義経に合流しました。 和田は三浦一族だから、範頼の命で周防に残っていたのかもしれない。 ところで、頼朝の弟というと、範頼・義経の二人が思い浮かぶのですが、もう一人いました。 義経の兄全成です。 ついでに、前のカキコ(義経についた人物)で、重要なのを忘れていました 新宮十郎行家です。 この人はとかく評判が悪い。私も再評価する気はないです(笑) Time : 1999/ 5/23(日) 22:47:53
Name : K2 E-mail : Title : サピオ読んでます。 Comments: http://www.05.alphatec.or.jp/~kunihiko/history.html 宣撫の話や、信長の爪のアカの話、面白かったです。ファンより。 Time : 1999/ 5/23(日) 22:58:57
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 私見「合戦!一の谷」 Comments: いやー!今日も勝っちゃいましたね!タイガースは清盛状態でしょうか? それとも野村は義経か?新庄が三割!ノストラダムスの予言があたりそうな勢い だとおもいませんか?というのはさておき「ロト版一ノ谷合戦の解説」お暇な人 は読んでいってちょーだい! 一ノ谷とは、神戸の西須磨のあたりとなります。一ノ谷とはいいますが平家の陣 は東は生田、西は明石という長大な陣を構えていました。 ここで注意していただきたいのは、なにも生田から明石までの一帯に兵が充満して いたわけではありません。生田には平知盛、明石には平忠度という平家一門の勇将 智将が柵をはり、いわゆる防衛ラインを作って源氏の軍勢を待ち構えていました。 この一帯は北に六甲山系の山々が連なっており、平地はわずかしかありません。 兵が侵入してくるのはこの二箇所だけのはずでした。あとは眼前の播磨灘です。 平家の本陣一ノ谷は源氏の攻撃が開始された時点では、いまだ建設中でありました。 したがって総大将の宗盛はどこにいたのかはっきりしません。海上にいたという説 もあります。 そして肝心の一ノ谷の本陣とはどのような規模であったかもよくわかりません。 一ノ谷とはおそらく本陣への入り口の一つであったと考えられます。 東西の柵が完成していた事をかんがえればそうとう大きな範囲を本陣としたため 完成がおくれたのではと考えています。 戦国時代の城をイメージして下さい。堀や壁などの防御施設があります。 平家の陣は自然の城壁(六甲山系)、堀(播磨灘、明石川、湊川)を利用した大規 模な要塞に、人口の柵を付け足した巨大な城とも呼べるものでした。 平家は長期戦を考えていたのでしょう。陣地の中は普通の生活がおくれるほど 充実した内容だったとおもわれます。ノムさんの情報によると都の生活を模して 宴会さえしていたようです。 さて肝心の合戦なのですが、まず範頼が生田口から、知盛に攻撃をしかけます。 しかしどうやら劣勢だったらしいです。柵による平家は弓攻撃ですが、範頼軍 は白兵攻撃をしなくてはいけません。強固な防衛線をはってますからなかなか 前へはすすめない状態です。 平家からすれば篭城戦ですから、柵を破られない限り楽勝の展開なのです。 補給は海からできますし、長引けば長引くほど優勢になるはずでした。 源氏はそうはいきません。補給線は常に確保しなくてはいけませんし長引けば 退却するしかないのです。 これは、範頼と義経が京をでる頃には覚悟していた展開でもあります。 源氏が勝つためには、一気に勝負にでなくてはいけないという事です。 しかし、防衛線をまともに攻撃するだけでは絶対に源氏の勝ちはありません。 ここで義経は城壁(六甲山系)を越えるしかないと考え、京から伊丹方面に向かう 範頼から離れ六甲の裏を通り、播磨の小野から山へ入ります。 平家もこの作戦は読んでいました。ちゃんと裏山にも兵を派遣してたのです。 しかし、義経はこの北の防衛線を夜襲をかけていともあっさり奪います。 この夜襲を三草山の合戦と呼びます。一ノ谷の前日の事です。 ここで義経はつれていた兵を二つに割り、一つは明石方面へ向かわせます。 さらに、鵯越の道にでて、平家の陣を偵察したあとさらにへいを分け、自らは精鋭 70騎を率い一ノ谷の本陣の真裏へ到着したのです。 つまり、義経はつれていた約一万の兵の殆どを平家の防御線が張られている地点 へ陽動作戦を行うため配置したのです。範頼の生田口の攻撃があってもなくても 陽動作戦はすでに成立していたという事になります。 一ノ谷合戦は範頼軍の攻撃によって始まりましたが、前述したようにこの時点では まったく役にたっていません。無益な犠牲を払っていたのです。 一方義経が配置(最初に分けた)した明石方面も同じように前へは進めませんでした。 合戦が始まって二時間ほどたち、平家に余裕がでてきたそのとき義経の率いた70 騎の兵は、本陣の真裏から一気に襲いかかったのです。 本陣に火をかけ、混乱を誘い、鵯越で別れた軍(二度目に分けた兵)と合流した のです。 平家の東西の防衛線の大将は、慌てて兵を分け本陣に向かわせますが混乱のため まともに行動ができません。 この混乱を知った範頼は、平家の陣で裏切りがあったと考え全軍を突撃させます。 西の防衛線では義経の軍が背後から迫ったため挟み撃ちとなりまもなく壊滅します。 西の防衛線が破られたと知った生田の知盛の軍は裏切りものや脱出するものがでて 範頼の軍に押し切られます。 平家の公達は皆慌てて海上の船に逃げ込み、ここに一ノ谷の合戦は終了します。 始まってから5.6時間という短期決戦となってしまったのです。 平家の敗因は、義経の策を見抜き切れなかった事です。鵯越にも兵を置き防衛線 をつくりましたが、義経と精鋭70騎はさらに奥の山道から突撃したのです。 これは、義経の臨機応変の策です。まともに鵯越から突撃すればとめられていた かもしれません。 このように、義経は戦う直前まで敵の情報を探り、弱点をついています。 一気呵成に攻め立てるだけでなく、彼の奇襲は信長の桶狭間につうじる情報戦でも あり、奇跡のようにみえますが、算盤尽くの作戦だったという側面ももっている のです。 義経は幼少の時、鞍馬山で兵法を学んだという伝説がありますが、あながち伝説 というものではないかもしれません。 「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」 この兵法の基本というものをしっかりと実践したのが一ノ谷の合戦での勝利に 繋がったのではないでしょうか? Time : 1999/ 5/23(日) 23:55:31
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と義経評価?? Comments: きんたろうさん、Toshyさん、今日は。Awajiです。 早速にありがとうございました。 Toshyさん、 海岸弓射部隊の効用についての認識は同じです。 つまり、平家水軍が海岸に接近した場合にこれを攻撃し、海戦の帰趨が決 した後の殲滅戦における平家の戦線離脱を不可能としたのは事実だと思い ます。つまりは補助的効用ですね。 >>なお、これは単なる妄想ですが、範頼はともかく、鎌倉軍主力のほとん >>どが壇ノ浦に駆けつけていたことは想像に難くないのです。 少なくとも記録はないと思います。(参加していれば必ず論功行賞の主張 が為されますから、記録が残る筈です)・・記録が有れば訂正します。 >>この言葉は、範頼にもあてはまります。 おっしゃるとおりです。頼朝は範頼の無能に失望したでしょうが、山陽道 ・九州で解任することは出来なかったでしょう。 だから不本意ながら政治音痴の軍事的天才義経を投入せざるを得なかった のでは? 事後に範頼は参河守を辞任しますが、実質上は引責解任かも知れません。 (勿論、頼朝の猜疑心を避ける為の保身術かも知れませんが) きんたろうさん、 >>1の兵力数の根拠についてどのような基準をもって言われているので >>すか? 「日本の歴史」7鎌倉幕府 大系「日本の歴史」5鎌倉と京 「日本の歴史」4鎌倉武士 「義経」司馬遼太郎・・・これは参考程度 の各記述を読んで、Awajiが総合判断したものです。従って(?)です。 >>7についてですが、予定道理進攻していた場合同様に平家軍にダメージ >>を与えたとは思われませんか? 思いません。奇襲効果は全く違います。足に噛み付くのと、首に噛み付く 位の差があると思っています。 >>またそうであれば脱出経路は海上だけになると思うのですが。 明石口からの平家軍の逃亡が防げたと言う意味でしょうか? どれくらい明石口から逃亡したのかは不明ですが、少なくとも平家軍の 主要人物は海上に逃れているのですから、殆ど意味は無いと思います。 それよりも、源氏軍が敗れた可能性が高いと思います。 >>7については例えば韓信のように100万の兵を自在に操るといった面 >>において疑問だということです。 意味が良く分かりませんが、中世・近世の日本人でそれが可能な人物は、 信長くらいでしょうか?奇襲隊長とは余りにもかけ離れた基準ですね。 >>他の兄弟では誰が適任だと思いますか? 分かりません。Awajiは義経しか源氏軍の危機を救えなかったと考えていま す。 しかし、仮に頼朝が義経を「愚将」と考えたのならば、他の兄弟を起用す るのでは無いですか? とお聞きしているのです。 >>一ノ谷の時、天才義経を主力軍の大将に起用しなかったのはどのような理 >>由からだと思われますか? 頼朝が義経の天才に気づいたのは、一の谷合戦によるものでしょう。 従って、範頼を更迭する理由はなかったのです。 (一の谷合戦の開始については、頼朝は充分了知していなかった可能性も ありますが・・・) Time : 1999/ 5/23(日) 23:56:29
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と一の谷合戦実況放送?? Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 一の谷合戦、実況放送ありがとうございました。 兵数以外(これも単にAwajiの想像です)は全く同様の認識です。 Time : 1999/ 5/24(月) 00:12:48
Name : Toshy E-mail : Title : 鋼鉄と更迭 Comments: Awajiさん、みなさん、こんにちは。 範頼は、尾張墨俣で御家人と先陣を争い、頼朝の不興を買っていました。 まるで義経と範頼を書き間違えたのではないかと思うくらいです。 それでも範頼が大手軍でした。 本来なら、ここで更迭されてもしかるべきとは思いますが。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:04:00
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 義経の情報戦略 Comments: Awajiさん、兵数については、平家物語・盛衰記・吾妻鏡などでそれぞれ ばらばらです。一万という数は、範頼の軍と同等だと考えています。 義経の軍は騎馬を主体としていたであろうと思いますので、いっしょに行動する 補給部隊や現地で投降してきたであろう在地武士、新規採用の兵などは加わって いないと思われます。範頼は大方5万の軍の大将で義経がこれより少ない兵である 理由は非戦闘員や日和見の勢力も範頼軍には従軍していると考えました。 範頼は5万の軍でも、歩兵が主であったと考えます。軍維持費を考えると騎馬は 歩兵より相当費用がかかるのではと推測しています。 要は賃金換算すると、ほぼ同等ではなかったかと思っています。 ただ命をかけて戦闘に携わった人数は源平双方とも、公称数のうちごくわずかで あったと思います。 御恩奉公という封建制度はまだ完全には育っていないとおもわれます。 従って各小領主たちは、勝ち目のあるほうへすぐさま乗り換えたでしょうから 源氏の軍は拡大の一歩をたどり、平家の軍は一戦ごと激しく減少したでしょう。 生け捕りや、 殺された人数より、脱出した直後、平然と敵軍に参加するような 奴がいっぱいいたのではないでしょうか? 義経の勝利は、一見奇跡のようですが、彼は常に情報をしいれています。 敵の状態を確認した途端に戦術をめまぐるしく変更しています。 これについていけない部隊は多かったことでしょう。 しかも情報提供者とは直接面談しています。相手が猟師でも、農民でも海賊でも 自分で聞いて判断しています。これが情報を大事に考えていた証拠ではないかと 考えています。情報を得るためには名門の出という事はまったく意識してない ようです。平家の公達には考えられない行動だったでしょう。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:09:14
Name : Toshy E-mail : Title : 恩賞 Comments: ついでにいうと、範頼は「一の谷」のあとで、その三河守に任じられています。 恩賞がその軍功に比例するものとすると、頼朝は範頼の、生田口への攻撃を高く評価していたことになります。 そして山陽道から九州へ軍を率いる役目を、義経ではなく範頼に委ねています。 これは頼朝が義経よりも範頼を買っていた証拠ではないでしょうか。 命令に忠実だから、という理論は、範頼が尾張で暴れたことを考えれば、 義経と範頼は五分五分と見ました。 山陽道では、和田義盛が戦いに嫌気を差し、国に帰ると暴れたそうです。 それを範頼は制止しました。義経がそれを出来たかどうかは疑問。 ところで、Awajiさんのいうように、義経を戦術面の大天才だとする認識は私も同じです。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:11:24
Name : きんたろう E-mail : Title : 寝る前の落書き Comments: こんばんは、勇者ロトさん。実況ありがとうございました。 Awajiさん、たびたびすみません。 この状態だとしてもこれが万の単位を指揮する指揮官として相応しいと思いますか? 私は思いません。 やはり遊軍隊長だと思います。 勝てば官軍ですから、義経の評価は平家滅亡までは確かに高いです。 義経は九州で再起しようとした時も同様に嵐の中を船出しました。 それは迅速をモットーとし、敵の意表を突くためです。 しかし、この時は「奇跡」は起こりませんでした。 この失敗によって義経はますます窮地に立たされたわけです。 このように見ると義経の作戦はリスクがかなり大きいものだったといわざるを得ません。 ですから全軍の指揮をこのような人物がもし執っていたとすれば、大勝利もあり得ますが 壊滅する可能性も大きいと思います。 勇者ロトさんは「鞍馬山で兵法を学んだという伝説」といってられますが、義経の戦法 から判断すると流浪時代に身につけた「ゲリラ作戦」のような印象を受けます。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:19:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 何故頼朝は範頼をえらんだのか? Comments: Toshyさん私の考えを聞いてください。 義経には屋島で京都奪回を目論む平家対策として、京の治安維持の役目があったの ではないでしょうか? 一ノ谷の合戦で義経は平家の面々に強烈な印象を植え付けました。 兵数はすくなくても、うかつには京へ攻め込めないという印象が平家にはあったと 考えられます。範頼と義経が逆の命令をうけていれば屋島から再び上陸する恐れが つよくなります。平家へのけん制として義経を京においたのではないでしょうか? 実際に範頼軍は山陽道各地で平家にちょっかいをかけられています。 一方兵数的にはすくなかった京都方面にはなんの作戦行動もしかけていません。 義経の存在自体が平家に対するけん制となると頼朝は考えたのかもしれません。 九州への進軍はそもそも、二次的な戦闘を優位にすすめるというのが目的であり、 屋島、四国への攻撃こそが一次的な軍行動となるのでこれに義経をあてるため 温存したとも考えられます。 義経は多分、義盛が国に帰るというのをとめないと思います。あるがままの戦力で 戦う事を第一として考えたと思います。 屋島への出発時に景時と別行動をとった事から推測しました。 しかも義経軍なら騎馬隊となるでしょうから国に帰るという前に九州についていた かもしれません。ただ騎馬隊はその特徴として兵糧その他は現地調達となります。 すなわち略奪がおこる確率がたかくなります。各地の土豪達と協調していきたい 頼朝にとって義経=騎馬隊に行かせるのは避けたかったのかもしれません。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:45:06
Name : きんたろう E-mail : Title : 明日どうしよう Comments: 勇者ロトさん、こんばんは。 関東武士の強さの秘密は騎馬軍団にあったと言われています。 義経だけの専売特許ではなかったようです。 ただし騎馬武者のみ(徒兵なし)という意味で使われているなら、多分義経だけが 移動スピードの価値を見いだしたと思います。 Time : 1999/ 5/24(月) 01:57:40
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 義経の適性 Comments: 義経はきんたろうさんのいう通り、大将には向いていないようです。 しかし100万の軍勢を手足として動かす事はできたと思いますが、100万 の民に君臨する事はできなかったでしょう。私はこう考えます。 Time : 1999/ 5/24(月) 08:48:28
Name : Toshy E-mail : Title : 範頼と義経 Comments: また範頼の話題に戻ってしまいました。 勇者ロトさんの言うように、和田が暴れる前に義経なら九州についていたか、 あるいは和田が暴れるようなことにはならなかった、と思うのです 京都に義経を残したのは、 ・軍事的に義経の力量を認め、京都の守備を任せた ・また範頼の戦闘力はともかく、統率や協力体制の方面を重視して山陽道を進ませた という考えです 義経、軍事的には強いです。でも、ここで疑問が湧いてきました。 鎌倉からの義経追討軍が京都に向かった時、義経はなぜ戦わなかったか。 兵力の多寡は問題ではない。義経は常に、少数で多数を倒してきたから。 不破の関(関ヶ原)あたりで迎え撃つ構想はなかったか。 または、長駆鎌倉をめざして攻めていくことは出来なかったか。 昨夜寝ながら、疑問に思ったところです Time : 1999/ 5/24(月) 10:06:12
Name : 999 E-mail : Title : 義経が鎌倉の討伐軍を迎え撃たなかった理由 Comments: 義経は、ゲリラ戦は苦手だったのでしょう。 一の谷では、少数突撃という作戦をとりましたが、別動隊の存在を意識 しての行動のようです。 追討軍と闘うならゲリラ戦しかありませんから、勝ち目がないと判断した結果だと思います。 Time : 1999/ 5/24(月) 12:28:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 義経の評価 Comments: しばらく見てないと随分議論が進みますね! 私の義経への評価はゲリラ的戦術は得意ですが、 大軍を率いるのは苦手だったのではないでしょうか? だから頼朝軍が「攻めてくる」という 「守りの戦」はきびしい? Time : 1999/ 5/24(月) 12:46:14
Name : ノム E-mail : Title : ただ今、再修業中! Comments: みなさん、こんにちわ。 「ゲリラ戦」という言葉がよくでてきますが、 この戦の方式はどういう方式なのでしょう? いろいろな解釈があるようなので、こまってます。 Time : 1999/ 5/24(月) 13:17:11
Name : Toshy E-mail : Title : 義経 Comments: 義経が頼朝と戦って勝ち目がない、と判断したてんについては、 私も999さん輔住さんの意見に賛成とさせていただきます。 だから九州に下がるしかなかったのですね ノムさんへ ゲリラ戦の解釈ですが、白兵戦ではなく背面攻撃等のことと考えてみては、 いかがでしょう? Time : 1999/ 5/24(月) 13:42:31
Name : 999 E-mail : Title : ゲリラ? Comments: 義経の一の谷や屋島での行動はゲリラ戦とは呼べないと思うのですが? 「背面攻撃」がゲリラというのもおかしいような気がするのですが? Time : 1999/ 5/24(月) 16:29:38
Name : きんたろう E-mail : Title : ゲリラ的とは Comments: よく言えば斬新なアイディアで悪く言えば卑怯な手だと思います。 例えば壇ノ浦ではこぎ手(当時は非戦闘員だった)を狙って射殺した事など。 これによって平家軍の船は動きが止まったと言われています。 Time : 1999/ 5/24(月) 16:43:37
Name : 999 E-mail : Title : 策略とゲリラ Comments: きんたろうさん、ご回答ありがとうございました。 勇者ロトさんの投稿を読ませてもらった限りでは、義経は部隊を三つにわけ、それぞれに 行動を命じているようですので、これは連動した策略だと感じました。ゲリラ戦とは一線 を画す策略ではと思うのですが? Time : 1999/ 5/24(月) 17:58:00
Name : 999 E-mail : Title : 陳謝 Comments: 読み返すとなんか、私の投稿へんですね。 妄想の世界にいってるみたいです。下の投稿忘れて下さい。お騒がせでした。 すいません。 Time : 1999/ 5/24(月) 18:41:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 言葉が足りなかったかも Comments: 999さん、こんばんは。 ゲリラ戦ということではなく「ゲリラ的=正規軍の戦い方ではない」とご理解下さい。 当然、斬新=奇抜=ワンダフルという好意的な評価も生まれます。(勝てば官軍方式) しかし、同じ人間が利益を独占するには何か裏があるはずです。(と思う) 一ノ谷では義経の選んだ経路こそが非常識=ワンダフルな経路だったのです。 ゲリラ的な発想でなければ思いつかないと思います。 Time : 1999/ 5/24(月) 18:54:07
Name : slashdog E-mail : Title : ゲリラとは・・・ Comments: 突然、申し訳ないのですが、今の話題について行く知識御座いませんので 読ませていただいてます。ゲリラとは、なんなのか? これに少し気に なったところ有りましたので、失礼して・・・。 ゲリラ・・・小人数で、敵の不意をついたりして撹乱する部隊       と言うことになっております。                       失礼しました。 Time : 1999/ 5/24(月) 19:17:04
Name : きんたろう E-mail : Title : 野球の話? Comments: 昔、源氏軍と平氏軍が野球の試合をしたという事です。 両軍とも互角の戦いをしていました。 手に汗を握る熱戦が繰り広げられていたということです。 そしてついにこの試合のヤマ場がやってきたのです。 バッターは義経、ベンチのサインはスクイズです。 何故ならばこの試合は「日本シリーズ」だったからです。(後がない) ところが天才義経には素晴らしいアイディアがあったのです。 ここで俺がホームランを打てば大勝利だし、なおかつ一躍ヒーローだという考えでした。 ツーアウト満塁、平氏は中間守備をとりました。 源氏ベンチからは相変わらずスクイズのサインです。 義経は知らん顔です。そして義経はバットを振りました。 弾かれた打球は大きなカーブを描きながら外野スタンドへと吸い込まれました。 さすがに天才です。自分がバットを振れば必ずホームランになると確信があったのです。 スクイズなんて地味な方法など彼にとって下策でした。 翌日のスポーツ新聞には「義経満塁さよならホームラン」という大きな見出しがでました。 誰もが義経の活躍を喝采しました。 ただベンチの監督だけが苦虫をかみ殺したような顔をしていたという事です。 Time : 1999/ 5/24(月) 19:19:29
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: どうして、そんなに「義経は目立ちたがり」という自説にこだわるのですか? ちょっと、強引すぎるのではないでしょうか? 私はなんとなくしらけてしまいました。 もうここにはこないと思います。 どうもおじゃまさまでした。 Time : 1999/ 5/24(月) 20:05:16
Name : Toshy E-mail : Title : 一段落ついたようだから、 Comments: みなさんのご意見を聴きたいと思います 少し前に話題になった、関ケ原における上杉−石田密約説について、 あったか、なかったか、どのように思っていらっしゃるのでしょう。 私は半々の可能性と見ましたが。。。 と、かってに司会者になって申し訳ありません。。。 999さん 自説にこだわるというところでは、やはりみんなしかたないのかもしれません 私だってその一人ですから 意見の違う人が集まって議論する、それでいいと思うのですよ こないといわず、また参戦してください Time : 1999/ 5/24(月) 20:45:14
Name : きんたろう E-mail : Title : 999さんへ Comments: 申し訳ありませんでした。 情緒不安定だったようです。 Time : 1999/ 5/24(月) 20:49:03
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とゲリラ戦法?? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 随分議論が進んでしまいましたね・・・999さん。お気持ちは分かりま すが、ワイガヤ精神で是非ご参加下さい。 いささか時期遅れになってしまいましたが、ご質問もありますので、以下 >>「ゲリラ的=正規軍の戦い方ではない」とご理解下さい。 >>「背面攻撃」がゲリラというのもおかしいような気がするのですが? まさにおっしゃるとうりで、古来「背面」「側面」攻撃により、敵の急所 を突き崩し、全軍崩壊の切っ掛けとするのは最も名誉有る戦闘であり、い わば正規軍(特に騎兵)の花形です。 しかし、攻撃のタイミングや急所の判断が難しく、凡将が行えば単なる兵 力の分散になり、各個撃破され殆ど失敗します。 中国の野戦例では、正面軍の四分の一位の精兵を投入することが多い様で すが、「孫呉」を待つまでもなくいわば兵法の常識です。 「ゲリラ」の定義は様々ですが、要するに・・・ 非正規軍(農民・流民)による奇襲攻撃、或いは正規軍が非正規軍を意図 的に活用する戦術で、騎士道(武士道)の美学に反するものとされていま す。 義経の水夫射殺戦法は、馬を射るのと同様に武士道の美学からすれば、あ る意味では「ゲリラ的」だと言えるでしょう。 義経がこれを採用したのは、奥州の地方戦では特に忌避されていなかった ことによるとの説も有りますが、真偽は分かりません。 しかしながら「ゲリラ戦法」そのものは、非正規軍を組織的に活用する必 要があり、定地性の強い土豪の防衛戦に適した戦法です。 従って、貴族のご落胤であり、農民との連帯感がなく、プライドが高く、 貴族趣味で、、政治性が無く、人心収攬術が下手で、天才肌で、戦略眼が 異常に優れている人物にとっては、最も適していない戦法でしょう。 >>鎌倉からの義経追討軍が京都に向かった時、義経はなぜ戦わなかったか。 腹が減っては戦が出来ず、兵がおらねば戦に成らず・・・でしょう。 義経は政治的には幼児に等しい人間で、武家と公家との政治駆け引きや、 頼朝の微妙な政治的立場については無理解でした。つまり「政将」として は全くの無能力者です。 所詮、軍事的天才は政治的天才には勝てっこ無いのです。 頼朝が義経をギリギリまで平家追討に起用しなかったのは、政治的に危険 人物であり、大軍を預け大功を立てさせることに躊躇したことによると思 います。 (第二戦線の構築のためならば、もう少し権限を与えて準備させているで しょう。ただ結果的に平家の再進攻を牽制する効果はあったと思われます) >>命令に忠実だから、という理論は、範頼が尾張で暴れたことを考えれば、 >>義経と範頼は五分五分と見ました。 武人としての先陣争いに関する統制違反と、政治性のある任官に関する統 制違反は全く次元が異なります。 後者は頼朝による東国武士団の統制・結束を危うくするもので、これを五 分五分と見ては当時の政治情勢は理解できないでは? >>恩賞がその軍功に比例するものとすると、頼朝は範頼の、生田口への攻 >>撃を高く評価していたことになります。 範頼は軍最高司令官で、義経は方面軍司令官です。論功行賞の基本はお分 かりですね。 なお、きんたろうさんにお願いしますが、ご指摘部分に関してお答えして も、ご了解頂いたのか、頂いていないのか良く分からないことが多いので す。新たなご指摘の前に回答部分に対する見解を、お示し頂ければありが たいのですが? Time : 1999/ 5/24(月) 22:51:15
Name : 999 E-mail : Title : こちらこそ、少し興奮してしまいました。 Comments: ぽっと出のくせに、生意気を申し上げましてすいませんでした。 きんたろう様Toshy様Awaji様あたたかいお言葉ありがとうございました。 いきなり、野球のたとえばなしがでてきたので、私なんかはまともに相手にしてもらえないのかと 思ってつい興奮してしまつたのです。 よくよく考えてみれば、なにも私への非難でもなんでもなかったのに・・・・。 どうもすいませんでした。 Time : 1999/ 5/25(火) 01:32:58
Name : 輔住 E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: 源平の話題も区切りがとりあえずついたと思うので、 石田・上杉の関ヶ原について話したいのですがよろしいでしょうか? 以前「ふぉーらむ」などで述べたように、私は密約があった派です。 理由 1.「徳川家康」ではなく「豊臣政権による征伐軍」では 上杉に勝ち目は全くないこと。 (上杉が単独で行動したのならそうなってしまう可能性もある) 2.それなのに「直江状」などで明らかに 家康(当時、豊臣政権の実権を握っている)を挑発し、 「会津攻め」の口実を与えていること。 3.石田と上杉は仲が良く、両者とも家康を危険人物と見ていた。 わたしの意見は以上です。 ところでToshyさんが前にアカレンジャーやキレンジャーを作ってましたよね。 (∞) (↑) (-) (V) 4人はとりあえずできました。モモレンジャーごめんなさい。(_ _) Time : 1999/ 5/25(火) 12:36:16
Name : 999 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: ひとつ、気になる事がありますので質問させて下さい。 一の谷のお話で「柵」「防衛線」とありますが、あれほど(山から海)長い距離に、柵を張り巡らしていたのでしょうか? ちょっと不自然な感じがするのですが・・? Time : 1999/ 5/25(火) 13:03:32
Name : 999 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ2 Comments: あと、騎馬軍団の事なのですが義経だけの特権だとお考えなのですか? ここは、きんたろうさんの言うとおり、関東武士一般の特徴だと思うのですが? Time : 1999/ 5/25(火) 13:56:24
Name : ノム E-mail : Title : 999さんへ Comments: こんにちわ。 残念ですがロトさんは、2,3日お出掛けらしいの で、貴方の質問にはこたえられないと思います。 Time : 1999/ 5/25(火) 14:29:55
Name : slashdog E-mail : Title : 輔住さん はじめまして Comments: 私は石田・上杉密約なかった派です。自分の推測を並べてもあれなので、 輔住さんのご提示くださった理由1〜3に沿った私の意見を少し。 まず理由1から 景勝に勝ち目はなかったのか?表面上のデータのみを見れば とても勝ち目はありません。が、しかしあの戰、双方の意気込みに雲泥の差が あること。(家康以外、乗り気ではない) 景勝側は上杉の名にかけて全員討ち死に覚悟の戰だったこと。 (背水の陣をしいた作戦のみにすべてを賭けていた) 本体さえ叩けば、他の大名はほうっておいても引き上げる可能性が 高いこと。(家康に義理も恩もないし、上杉が憎い訳でもない) と言う理由からどう転ぶかわからない戰だったと思います。 理由2 直江状の真偽のほどは別として、あれは兼続が、調べてくれれば解かる 事なのに、まだ難癖つける気ならその喧嘩買うぞ! と言う 上杉の決意を述べたものだと思います。 直江状が無かったとしても、上杉攻めは、あったでしょうしね。 (前田家に上手くかわされて他に行くところ無い(笑)) 理由3 たしかに三成と兼続は、親交がありました。 (これが石田・上杉密約説ありと言われる所以ですけどね) しかし、三成と兼続が示し合わせたのにあんな風だったのか? と思うのは、私だけでしようか? 以上ですが、どうでしょうか? Time : 1999/ 5/25(火) 16:09:31
Name : 999 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: そうですか、残念です。 Awajiさんは、兵数以外は勇者ロトさんと同じ認識ということですが、この件についてはいかがでしょう。 関ヶ原について わたしは密約という程ではないという認識です。 Time : 1999/ 5/25(火) 17:12:57
Name : 輔住 E-mail : Title : ご意見ありがとうございます Comments: slashdogさん、ご意見ありがとうございます。 slashdogさんのご意見に対して私もご意見を 述べさせてもらいます。 まず1に対して、 >景勝側は上杉の名にかけて全員討ち死に覚悟の戰だったこと。 >(背水の陣をしいた作戦のみにすべてを賭けていた) たしかに上杉単独行動でしたら本隊のみを叩き潰す 一か八かにかけたと思います。この場合 家康が三成挙兵後、強硬に会津を攻めた場合も含めて 可能性があると思います。 >直江状が無かったとしても、上杉攻めは、あったでしょうしね。 確かにどんな難癖をつけてでも上杉を攻めたでしょう。 でも、城を改築したり、家康に反感を持ってる人にアプローチ をしてみたりする時間もほしいと思います。 私ならむしろのらりくらりと時間を引き延ばしますが。 >しかし、三成と兼続が示し合わせたのにあんな風だったのか? 結果的に失敗してしまいました。 上杉軍は伊達・最上・結城秀康などのため 西に向かえなかったし、関ヶ原も1日で決着がついてしまいました。 しかし関ヶ原が長期戦になっていればまた違った局面になったかもしれません。 Time : 1999/ 5/25(火) 18:03:51
Name : きんたろう E-mail : Title : やってきました関ヶ原 Comments: 輔住さん、slashogさん、Toshyさん、こんばんは。 みなさん、こんばんは。 関ヶ原の戦いは慶長五年に行われました。 石田三成が率いた西軍と徳川家康が率いた東軍が美濃平野で戦い、勝者になった 東軍の将である徳川家康は天下の実権を握り江戸幕府を開きました。 簡単に言うと以上のようなことです。そしてこれは広く知られています。 しかし、この戦いもその詳細についてはいろいろと説があるようです。 今回Toshyさんから提案された石田上杉密約説もその一つだと思います。 果たして実際はどうだったのでしょうか? 石田三成は関ヶ原の戦いの敗者でしたから江戸時代はまともな評価を得てはいなかった と言っても過言ではないと思います。 同様に上杉家も敗者の家系として肩身の狭い思いをしてきたようです。 石田−上杉ラインとは上杉景勝=直江兼続と理解していいのでしょうか? 密約説については五分五分と見ているのですが、かなりアバウトな打ち合わせ(夢物語) を含むという広い意味であった派にします。 詳細な打ち合わせは恐らくなかったと思うのですが。(具体的にシミュレーション をすると言う意味です) Awajiさん、間違いなく読んでいますのでご安心下さい。 Time : 1999/ 5/25(火) 22:34:50
Name : Toshy E-mail : Title : 密約説について Comments: きんたろうさん、輔住さん、slashogさん、みなさん、こんばんは 徳川が上杉と対立したのは、 反徳川勢力の個別撃破を考えいたのではないか、と思いました。 前には、前田氏を攻めると公言して前田氏から人質を取り、徳川に逆らえなくしています。 一般に「おびき出し」という説(司馬遼太郎先生の小説からもわかるように)が唱えられていますが、 石田としては徳川の策に乗ったつもりで、 逆に徳川をやっつけようくらいに思っていたのでは? 上杉と徳川の対立を石田・宇喜田が利用、と考えます。 密約というほどの密約はないのでは。 確信は持てません Time : 1999/ 5/25(火) 23:04:59
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と一の谷防衛線 Comments: 999さん、今日は。Awajiです。 >>一の谷のお話で「柵」「防衛線」とありますが、あれほど(山から海) >>長い距離に、柵を張り巡らしていたのでしょうか?ちょっと不自然な >>感じがするのですが・・? 不束ながら、ロトさんの代役です。 「福原の旧里に居住して、西は一の谷を城郭にかまへ、東は生田の森を 大手口の木戸口とぞさだめける・・・十万余騎とぞきこえし。一の谷は ・・・北の山ぎはより南の遠浅まで、大石をかさねあげ、大木をきって 逆茂木にひき・・・」 「大手生田の森にも源氏五万余騎でかためたりけるが・・・馬にも乗らず げげをはき、弓杖をついて、生田の森の逆茂木をのぼりこえ、城のうちへ ぞ入ったりける。・・・足軽どもに逆茂木取りのけさせ・・・源氏大手ば かりでは、かなうべしともみえざりしに・・・」 平家物語の抜粋です。その現実性ですが・・・ 1.生田の森は、生田川沿いにあったと思われます。現在の「新神戸」か ら海岸まで約3kmですが、長年の鉄砲水による土砂流入と干拓を考 慮すれば、当時の防御線は1,5km〜2Kmでしょう。 2.元々この周辺は廃都福原の外門に当りますので、何らかの施設が残っ ていた可能性があり、その後部(西側)にかけても同様です。 3.平家の進駐は前年のこととされていますから、開戦迄少なくとも2ヶ 月はあり、少なくとも約3万(Awajiは戦闘要員2万と見ていますが) の労働力があれば、相当堅固な柵・塀等の防護施設が設けられるでし ょう。 4.当然生田川のみではなく、湊川その他の自然障害を利用し、各要所に は同様の施設が有り得ると思います。 (城と表現している点も注目されます。) 5.戦闘描写も緒戦においては、騎馬戦と言うよりも徒歩白兵戦の印象が 強いですね。(抜粋以外の部分も・・・) 以上の諸点より、かなり強固な防護施設が何重にも施されていたと考えて いるのですが、いかがでしょうか? 義経は、この防衛施設の深さを承知していたので、敢えて中心部を奇襲し、 両端の防衛部隊を混乱させる戦略を取ったものと思います。 平家が防衛深度を浅くし、指揮集中陣形を採っていれば、別の方法を考え たでしょう。 単なるスタンドプレーではなく、戦略的必然性に基づいた行動であるから こそ天才なのでしょうね。 きんたろうさん「堂々日本史」立ち読みしました。はっきり申し上げます が、酷い内容だと思いました。彼等には戦略等と言う高等な事項は理解で きないでしょうね。 特に明石口の閉鎖に関して言えば、奉天会戦でロシア軍を補足殲滅出来な かったことで、大山・児玉を無能呼ばわりした馬鹿学者を思い出しました。 壇ノ浦海戦についても海岸弓隊を持ち上げていますね。これは野球で言え ば、九点差の最終回で駄目押し3ランホーマーを最優秀と称える評論家み たいなものでしょうね。 Time : 1999/ 5/25(火) 23:39:02
Name : slashdog E-mail : Title : 確かめておきたいことが Comments: 輔住さん、ありがとうございます。 ところで輔住さんや、きんたろうさん達に確かめておきたい事があります。 密約あった、なかったの線引きが何処なのか? きんたろうさんの意見を聞くと、私から見れば「なかった派」になるんですけど ね(笑)私が思うのは 三成・・「兼続殿がそっちに引き付けてる隙に兵を挙げるのでよろしく」 兼続・・「兵を返せばそこに追撃をかける!」     「返さねば、時間を稼ぐ!」 三成・兼続・・「それではよろしく!!」 と言う感じなのが密約あった派と 思っているのですが、どうなんでしょう? きんたろうさんへ >石田ー上杉ラインとは上杉景勝=直江兼続と理解して〜。 それで良いと思います。 追撃に関してなのですが、あの時点で政宗は和議を申し入れてるし、 義光の押さえに兼続を置いていけば、充分追撃は可能だったと 思うのですが・・・。密約があればですが・・・。 Time : 1999/ 5/26(水) 00:14:35
Name : きんたろう E-mail : Title : おっしゃるとおり Comments: slashdogさん、こんばんは。 今日はかなり暑かったですね。(何の話ですって?) 確かに線引きをどこにするかで変わってしまいます。 実は以前には「三成、家康にとって予期しない出来事」と書いていたのでした。 今回はロマン派に転向してみました。 優柔不断ですみません(??) Time : 1999/ 5/26(水) 00:27:08
Name : 999 E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: なるほど、よくわかりました。 勇者ロトさんの投稿では、細かい点まで言及しておられないのですこし疑問が残っていたのです。 しかし、みなさんいろいろ推測されるのはいいことだとは思いますが妄想に終わらないようがんばってください。 これからも、参加はさせていただき Time : 1999/ 5/26(水) 00:34:15
Name : slashdog E-mail : Title : Toshyさんこんばんは Comments: この前の書きこんだらToshyさんの書きこみ発見したので またまた、書きこみます! Toshyさんの意見に賛成です。 三成は家康に誘き出されたと言われていますが、最初から三成の作戦の 一部だったと思います。 Time : 1999/ 5/26(水) 00:35:31
Name : 999 E-mail : Title : 追加 Comments: この前の投稿の一番最後に「ます。」を追加して読んでください。 Time : 1999/ 5/26(水) 00:37:25
Name : Toshy E-mail : Title : 密約説はあったのか Comments: 密約説を証拠づけるものとして、三成から兼続にあてられた、 六月二十日づけの書簡があります。 「家康は十八日に伏見を出馬した。我らは来月佐和山を立ち、 大坂に向かう予定。宇喜田・毛利ら無二の味方もいる。」 <密約なし説> 「毛利」の名が出てくるので、偽作ではないかと思われる。 毛利の出馬はかなり後になってからのことで、 六月にその名が出るのは、おかしい。 ちなみに、この書簡は「東国太平記」に出てくるものですが、 原本は見つかっていないとのこと。 <密約あり説> 原本が見つかっていないとはいえ、「ない」とはいいきれません。 毛利はもともと徳川よりは石田と親しく、 石田が密約がなくてもあてにしていたと考えても不自然ではありません。 もしかすると、 1.最初は密約などはなかった。 2.しかし、徳川が上杉と事を構えたので、石田はそれを利用して挙兵 3.上杉側に、「我々が味方する」くらいのことは言ったかもしれない と考えました。どうでしょう? Awajiさん 研究には、さまざまな結果がつきものだと思います 私の文学方面の研究でも、諸説分かれて議論が毎日進んでいます そして、それをきんたろうさんに「酷い」といっても仕方のないことです Time : 1999/ 5/26(水) 01:00:07
Name : 輔住 E-mail : Title : 失敗した時の対策 Comments: slashdogさん、みなさん、こんにちは >三成・・「兼続殿がそっちに引き付けてる隙に兵を挙げるのでよろしく」 >兼続・・「兵を返せばそこに追撃をかける!」 >    「返さねば、時間を稼ぐ!」 >三成・兼続・・「それではよろしく!!」 と言う感じなのが密約あった派と >思っているのですが、どうなんでしょう? 私はそんな感じであったと思っています。 「直江状」で家康を怒らせたのも家康の出陣時期を明確にさせるためだと思っています。 上杉が単独で勝利を得る場合、奇襲をかけて家康の首をとるしかありません。 リスクはかなり大きく(反乱軍の汚名を着て)失敗する可能性も高い。 (奇襲に成功しても家康が生き延びてしまえば失敗です) そうすれば家康の方に軍勢が集まってくるので勝ち目は全くなくなる。 (実際、会津攻めに向かおうとしたが、三成の挙兵のため なりゆきで西軍になってしまったものも多い) 少なくても上杉ぐらいの大名が失敗した時の対策を全く考えていないとは 思えないし、三成や秀家などの反徳川の人間に全く協力を求めないのは おかしいと思います。 (彼らとの関係も悪かったのなら話は別ですが) >追撃に関してなのですが、あの時点で政宗は和議を申し入れてるし、 >義光の押さえに兼続を置いていけば、充分追撃は可能だったと >思うのですが・・・。密約があればですが・・・。 「旧領回復」が悲願で、「曲者」である政宗をどこまで信頼できるかでしょうね。 Time : 1999/ 5/26(水) 12:28:55
Name : ノム E-mail : Title : 密約はなかったでしょう。 Comments: みなさん、こんにちわ。 密約の件は、すくなくとも、西軍と上杉の間ではな かったと思います。みなさんがおっしゃる通り、石 田と直江の個人的なつながりに期待した希望的な推 測であると思っています。でないと直江は事後殺さ れていると思います。 Time : 1999/ 5/26(水) 12:35:09
Name : 999 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: >でないと直江は事後殺されていると思います。 というのは、誰に、何のためにころされるのですか? もう少し詳しく理由や情況を記し投稿されればよいのではないですか? Time : 1999/ 5/26(水) 16:57:40
Name : 輔住 E-mail : Title : 上杉への処分 Comments: 関ヶ原後の上杉・直江への処分は少し甘いかなとも 思いましたが、秀家も助命されているので 不思議はないと思います。 Time : 1999/ 5/26(水) 17:35:52
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「酷い」説?? Comments: Toshyさん、999さん、今日は。Awajiです。 >>研究には、さまざまな結果がつきものだと思います私の文 >>学方面の研究でも、諸説分かれて議論が毎日進んでいます >>そして、それをきんたろうさんに「酷い」といっても仕方のないことです Awajiはきんたろうさんに「酷い」と言った覚えは全くありませんが、その 様に読めるのでしょうか? もしそうであればお詫びいたします。 あくまでも「堂々日本史」の内容が「酷い」と皆さんに言ったつもりなので、 誤解無きよう願います。 研究にはさまざまな結果があり、諸説があるのは承知していますが、 ここでクローズアップされている説は、あくまでも、 「合戦(歴史)には、こういった要素もあるので、それを全く無視した議論 は避けるべきであろう・・・」といった局所部分論に過ぎないと思います。 にもかかわらず、この学者(及びNHKの編集方針)は、 「コレコソが、合戦(歴史)の真相である・・・」と言わんばかりの議論を 展開されています。 しかも論者は、他の学者の説を根拠として、自己の検証も無く判断していま す。(弓の有効射程距離300m等) こういった歴史娯楽番組では、面白さが求められますので、ある程度やむを 得ないかも知れませんが、NHKの視聴者のレベルでは明らかに歴史認識を 誤誘導しかねません。それを「酷い」と申し上げたものです。 999さん、 >>みなさんいろいろ推測されるのはいいことだとは思いますが妄想に終わら >>ないようがんばってください。 ご忠告ありがとうございます。 出来るだけ、具体的資料根拠にもとづき、現実的に推理すべく心がけている のですが、所詮は素人ですし資料に当たるのにも限界がありますので・・・ かなりの妄想があるでしょうね。 まあ、それも素人の特権だと思っていますので、ご容赦下さい。 ただ目に余る部分について(でなくとも)は、ご遠慮なくご指摘頂きたいと 存じます。 Time : 1999/ 5/26(水) 22:14:20
Name : Toshy E-mail : Title : 石田三成とAwajiさんへの謝罪文 Comments: Awajiさん >Awajiはきんたろうさんに「酷い」と言った覚えは全くありませんが 私の言い方が適当ではなく、Awajiさんにご不快な思いをさせたこと、謝罪いたします もちろん、きんたろうさんが酷いのではないことは理解しています。(^^; ただ、きんたろうさんにあの番組の「酷さ」をいっても、の意味なのでした ところで、研究においては、先にも記した通り、新説というものがつきもので、 従来の説と新説と、どちらが正しいかなどは私のような素人には区別がつきにくいものです きんたろうさんがNHKの新説を紹介したのは、 なにもAwajiさんの主張する説を真っ向から否定するためではないと思います 私が(訂正したものの)「範頼=天才」を唱えたのは、 従来の説を知らないからなのではなく、 従来の説を知っていたからこそ、こんな解釈はどうでしょう?という提示だったのです きんたろうさんも、従来の説をしっかりと踏まえた上での、 旧説と新説とを比べて選択を下したのではないでしょうか NHKの新説だって、いろいろな角度から下した結論なのでしょう 従来の説が正しい、新説は間違い、という判断は、 私たちが選ぶべき事なのかも知れません Time : 1999/ 5/26(水) 22:27:16
Name : ノム E-mail : Title : 999さんへ Comments: 失礼しました。 上杉家によって、とかげのしっぽきりとして、もし くは徳川政権に参加するための人身御供としてです。 Time : 1999/ 5/26(水) 23:09:57
Name : 999 E-mail : Title : 弓の射程距離 Comments: >しかも論者は、他の学者の説を根拠として、自己の検証も無く判断しています。 >(弓の有効射程距離300m等) この部分には、どのような問題があるのでしょう? ノムさん、景勝ではなく「上杉家」なのですね? Time : 1999/ 5/27(木) 00:11:50
Name : 999 E-mail : Title : 下の投稿 Comments: 弓の射程距離はAwajiさんへの質問です。 よろしくお願いします。 えらそうに、チェックをいれておりますが私の知識不足のためであります。念のため Time : 1999/ 5/27(木) 00:14:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「堂々日本史」批判・・・弓の有功射程距離 Comments: Toshyさん、999さん、今日は。Awajiです。 今日は遅出の出張ですので、取り敢えずのコメントです。 Toshyさん、 謝罪などとおっしゃらないで下さい。そんな積もりは全く有りません。 >>きんたろうさんも、従来の説をしっかりと踏まえた上での、旧説と新説 >>とを比べて選択を下したのではないでしょうか >>NHKの新説だって、いろいろな角度から下した結論なのでしょう >>従来の説が正しい、新説は間違い、という判断は、私たちが選ぶべき事 >>なのかも知れません おっしゃるとおりだと思います。Awajiは当初きんたろうさんが主張された 次の認識の意味(根拠・論理)が良く分かりませんでした。 >>あの時当初の予定どおり義経軍が西側から攻めていればあの程度の勝利 >>ではなく「完璧に大勝利を得た」と言われています。私も義経が独断行 >>動さえしなければ平家軍は壊滅されていたと思います。 >>壇ノ浦の勝利は関門海峡で岸辺から平家の船に矢を射かけた事だと言わ >>れています。ここの大将こそが範頼でした。 >>平家を滅亡に追いやったこの戦いの最大のポイントはここです。ですか >>ら源平合戦最大の功労者は範頼になってしまうかも知れません。(?) 従って、これに関して主として次の疑問点を述べさせて頂いたのですが、 Awajiにとっては充分理解できるご回答は得られませんでした。 *源氏軍の一の谷合戦の勝因(防御体制と兵力劣勢の中での奇襲効果) *迂回奇襲作戦とゲリラ戦との混同 *平家軍の制海権(海上逃避)と壊滅(殲滅)の可能性 *義経愚将論と頼朝の評価 *源氏軍の壇ノ浦海戦の勝因(海岸弓隊の効用) *範頼の壇ノ浦参戦と軍功評価 そこで、おそらく「・・・いわれています」が「堂々日本史」にあると思 い確認(立ち読みレベルですが)したところ、論者の長谷部さんの議論は 単に他の学者がそう言った(その学者の根拠も示された限りでは何ら根拠 らしいものでは無いと判断しました)程度のものでした。 正規軍の迂回奇襲作戦(既に申上げたとおり、正規騎兵の華です)とゲリ ラの奇襲の区別や、激突戦闘作戦の勝因と掃討殲滅作戦の成功の相違さえ も充分理解されていない「酷い」レベルと考えたのです。 Awajiの判断が間違っていれば何時でも訂正し、長谷部さんにお詫びいたし ます。 999さん、 >(弓の有効射程距離300m等) >>この部分には、どのような問題があるのでしょう? チョットご質問の真意が分からないので、的外れかもしれませんが、 「堂々日本史」の論者は、海岸弓射隊の活躍が壇ノ浦合戦を左右(勝因)し た根拠として、関門海峡(赤間関)の幅と弓の有功射程距離300mを関連付 けておらる様なのです。(他の学者の意見?をそのまま受容) しかしながら、ご承知のとおり平家水軍が関門海峡に追いつめられたのは、 海戦での勝敗が明らかになった後ですし、弓の有効射程距離は100m以下で すから、平家水軍の海岸接近(これは海戦中にも多少の効果発揮)と上陸逃 亡の阻止には有効ですが、海戦そのものの勝敗と関連付けるのは無理がある と言うことなのです。 300mと言えば、ミドルホールのティゲラウンドからグリーンの距離です。 グリーンが軍船ですね。その上でしゃがんで芝を読んでいる人を弓で狙う ようなものです。そんな馬鹿武者が、一体何処にいるでしょうか? (単に力量を競うエキシヴィジョンであって、実戦での効果はない。) このような非常識な認識で戦史を論じ、軍事能力を評価されていることを 批判しているものです。回答のポイントがズレていますか? Time : 1999/ 5/27(木) 08:40:21
Name : 999 E-mail : Title : 弓芸 Comments: なるほど、飛ばせるからといってねらってあたるというわけでもなく、効果としては不十分だという事ですね。 上杉家としてならば、兼次を殺すまたは、徳川からの処分をまたず処分するという事もありうるかもしれません。 Time : 1999/ 5/27(木) 13:33:12
Name : きんたろう E-mail : Title : きんたろうには頼光四天王以外の意味がある Comments: こんばんは、みなさん。 Toshyさん、フォローを有り難うございました。お手数をおかけして申し訳ありま せんでした。 Awajiさん、私には十分に意図が伝わっていたものと解釈していました。 やはり伝えるというのは難しいですね。私の説明力不足だったようです。 すみませんでした。 義経は一ノ谷で再び勢力を盛り返してきた平氏を追討するため京を出発しました。 一ノ谷は要害の地でしたが、義経の「鵯越え」によって平氏は敗北を喫し多くの 有力武将を失ったのです。 屋島へ落ち延びた平氏をさらに追い、義経は嵐にもかかわらずまたしても奇襲を かけました。 壇ノ浦では最初のうちは潮流に乗った平家軍が善戦しましたが、義経はそれまでの 常識を破って非戦闘員である船の水夫を殺す作戦にでたのです。 このため潮流が変わったとき、平家の運命も潮の流れと共に滅亡へと向かいました。 平家の総大将であった知盛も死んでいきました。 安徳天皇を抱いて入水した二位の尼や建礼門院など一門の女性も投身自殺を図りました。 源平の戦いの軌跡とは簡単に言うと以上のように知られていると思います。 以下が質問にあげられたところですが、 >*源氏軍の一の谷合戦の勝因(防御体制と兵力劣勢の中での奇襲効果) >*迂回奇襲作戦とゲリラ戦との混同 >*平家軍の制海権(海上逃避)と壊滅(殲滅)の可能性 >*義経愚将論と頼朝の評価* >源氏軍の壇ノ浦海戦の勝因(海岸弓隊の効用) >*範頼の壇ノ浦参戦と軍功評価 >*源氏軍の一の谷合戦の勝因(防御体制と兵力劣勢の中での奇襲効果) 一ノ谷の奇襲成功の理由としては 1.本陣が少数だった 2.本陣が戦闘態勢に入っていなかった が考えられます。 義経は少数で奇襲を行ったのは間違いないと思います。 いかに奇襲でも少数の人数で成果がある事には理由があると思います。 防御柵が張り巡らされていても、物だけでは単なる障害物にすぎません。 兵力もかなりの部分を投入して防御にあたったと考えていいのではないでしょうか。 それで本陣が手薄になっていたのかも知れません。 知られずに移動が可能であり、獣道使用では必然的に義経隊は少数(だから当然精鋭)部隊に なると思います。 2については戦時体制なのですから常識ではあり得ないと思います。 >*迂回奇襲作戦とゲリラ戦との混同 これについては真意が伝わっていないようです。 私の発言については以下のとおりですが、ゲリラ戦とは言っていません。 1>勇者ロトさんは「鞍馬山で兵法を学んだという伝説」といってられますが、 義経の戦法から判断すると流浪時代に身につけた「ゲリラ作戦」のような印象を 受けます。 2>ゲリラ的とは Comments: よく言えば斬新なアイディアで悪く言えば卑怯な手だと思います。 例えば壇ノ浦ではこぎ手(当時は非戦闘員だった)を狙って射殺した事など。 これによって平家軍の船は動きが止まったと言われています。 3>ゲリラ戦ということではなく「ゲリラ的=正規軍の戦い方ではない」と ご理解下さい。 当然、斬新=奇抜=ワンダフルという好意的な評価も生まれます。(勝てば官軍方式) しかし、同じ人間が利益を独占するには何か裏があるはずです。(と思う) 一ノ谷では義経の選んだ経路こそが非常識=ワンダフルな経路だったのです。 ゲリラ的な発想でなければ思いつかないと思います。 以上三回ゲリラについて話しています。 ちなみに広辞苑では以下のように説明しています。 ゲリラ【guerrilla スペイン】 (小戦争の意。ナポレオン一世のスペイン征服当時、スペイン軍のしばしば用いた 戦法に由来する語) 遊撃戦を行う小部隊。また、その遊撃戦法。「―戦」 遊撃については以下の通りです ゆう‐げき【遊撃】イウ‥ あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、戦列外にあって臨機に味方を助けたり敵を 攻撃したりすること。 >*平家軍の制海権(海上逃避)と壊滅(殲滅)の可能性 あの時点では平家は制海権を握っていたと思います。そして壊滅の可能性は低かった と思います。 >*義経愚将論と頼朝の評価* >遊撃隊隊長クラス? 義経は少数(当然精鋭となる)を率いて戦う時に最大の戦果を挙げていると思いました。 ちなみに義経隊の人数は最大でも200名くらいだと思っています。 >源氏軍の壇ノ浦海戦の勝因(海岸弓隊の効用) 壇ノ浦の最後に平家方の女人までも海に飛び込んで行きますが、船から海へ飛び降り るという理由は船の上にはいられない事態が発生したからだと思います。 例えばタイタニック号のように沈没しかかっているとか、火事になどが考えられます。 壇ノ浦ではどうしてかと考えましたが、文字通り船の上にはいられなかったからでは ないでしょうか。 動きの止まった(=水夫を射殺したため)船に矢が降りかかったからと考えた方が、 源氏が海上で「奮戦したからだけ」と言う理由よりも納得し易いと思います。 もし源氏にただ負けただけでは平氏は通説通りの弱兵だという事になります。 私は海上戦の経験のない関東軍が海上で平家軍と互角の戦いをしたのですから、 かなりの奮戦をしたのは間違いないと思っています。ですから、そのために禁じ手を 使ったのでしょう。 これは恐らく揺れる船の上では弓をまともに射る事が不可能だったからだと思います。 弓矢についてですが、専門家によると甲冑を着た相手に対する殺傷能力は20メートルくらいと言うことです。 しかし、負傷させる(戦闘力をそぐ)だけでしたならば、もっと距離は伸びます。 >*範頼の壇ノ浦参戦と軍功評価 範頼軍と言う言葉をAwajiさんもご覧になったと思います。 以上で説明を終わりにします。 ご理解いただけましたか?(^^) Time : 1999/ 5/27(木) 22:40:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 関ヶ原の疑問 Comments: 佐竹と上杉はどのような関係だったのでしょうか? 三成−兼続、三成−佐竹義宣とあれば兼続−義宣も成立してもいいと思うのですが どうもはっきりしないように思います。 Time : 1999/ 5/27(木) 22:59:35
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >義経は少数(当然精鋭となる)を率いて戦う時に最大の戦果を挙げていると >思いました。ちなみに義経隊の人数は最大でも200名くらいだと思っています。 あなたはこの作戦を実行したことと、作戦を立てたことを混同されていると思います。 実行した事はあなたのおっしゃっていた{遊撃隊長}仕事ですが、 立案したことはノムさんのおっしゃっていた{名軍師}の仕事です。 {名軍師}の仕事にふれないで一の谷を語るのは解せません。 Time : 1999/ 5/27(木) 23:33:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 999さんへ Comments: おっしゃるとおりでした。 プランナーとしてもすごいと思います。 Time : 1999/ 5/28(金) 00:09:31
Name : slashdog E-mail : Title : 佐竹家 Comments: きんたろうさん こんばんわ 義宣は、義重に頭上がらなかったのでは? それとやはり、「家」を 守る為に(戦国の世のならいと、言いましょうか)確実な(この 場合、「義重の読み」)方に付いただけではないでしょうか? 結果、義重の読みは当りましたが。 輔住さんへ 上杉の処分のお話ですが、あれは秀吉が家康を潰さなかったのと 同じではないでしょうか? あの時に景勝または、兼続の首を出せ といえば間違いなく 戰になるでしょう。秀吉も家康も無駄に戦力などを消耗 したくなかったのだと思います。 Time : 1999/ 5/28(金) 00:20:49
Name : 999 E-mail : Title : 遊撃ゲリラ隊長? Comments: >おっしゃるとおりでした。プランナーとしてもすごいと思います。 では、結局あなたの義経に対する評価はどうなるのでしょう? Time : 1999/ 5/28(金) 00:44:57
Name : きんたろう E-mail : Title : 義重 Comments: slashdogさん、こんばんは。 義重は家康と同世代ですから、まだまだ全てにおいて充実していたはずだと思います。 佐竹と上杉がスクラムを組めば佐竹の組下大名を含めると200万石くらいになります から、かなりのパワーだったと思うのですが。ちょっと残念?です。 徳川家は単独で200万石以上でしたから単独では勝負になりません。 Time : 1999/ 5/28(金) 00:45:18
Name : Toshy E-mail : Title : 上杉・佐竹・石田 Comments: 関ヶ原の話題になったのでまた登場です >佐竹と上杉はどのような関係だったのでしょうか? はっきりいうと、ないといわざるをえません これは密約があったと仮定すればですが、 石田三成の名のもとに結束したと考えるしかないようです 密約なしとすれば、佐竹のあいまいな態度は、 あとで石田三成からの打診を受けて、徳川と戦おうかと迷ったのではと思います ところで、上杉と佐竹が組んでも200万石にはなりませんが、 徳川は単独で255万石でした しかも徳川方には伊達のような大物もついていたので、 スクラムを組んでも思うようにはいかなかったでしょう Time : 1999/ 5/28(金) 01:02:13
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: >プランナーとしてもすごいと思います。 で、無視されるのですね?軍師、戦略家としての義経は。 そういうのを曲学というのではないのですか? Time : 1999/ 5/28(金) 07:32:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 999さんへ Comments: みなさん、こん@@は。島根県を一周してきました。 質問の答えはAwajiさんが答えていただいたようなので敢えてふれません。さん 999さん、そういう貴方は義経について、どうお考えですか? 質問ばかりして自分の意見はどうなのですか? Time : 1999/ 5/28(金) 08:18:15
Name : 輔住 E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: >上杉の処分のお話ですが、あれは秀吉が家康を潰さなかったのと >同じではないでしょうか? たしかに上杉軍と戦えば戦力は激減するでしょうからね。 できればやめたいですよね。後のため。 後、政宗の100万石を阻止するというのもあったと推測しています。 Time : 1999/ 5/28(金) 08:47:35
Name : Toshy E-mail : Title : 上杉をつぶさなかったのは Comments: これは徳川が、でっち上げの罪で上杉にケンカをうったからではないでしょうか 上杉の無実は知っていたから取り潰さない、しかし抵抗してきたから減封、と考えます (抵抗せずに人質を出した前田は、領地を増やしました) もっとも、密約があったとすれば、この考えはぽしゃります Time : 1999/ 5/28(金) 10:48:26
Name : 999 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: 質問するのは、迷惑ですか? Time : 1999/ 5/28(金) 11:24:20
Name : ina E-mail : Title : お元気ですか Comments:  大阪JF生さんへ  ご無沙汰しております。inaです。  最近はどんな感じですごされていますか?私は直木孝次郎先生 の本は三冊よみました。自由な発想と、他の先生方が敢えて踏み込まれない 点(例えば被葬者の推定など)も大胆にされたこともあったようですね。  邪馬台国は勿論広汎ですが源平、関ケ原も自分では結構詳しいつもりでしたが みなさん深い知識で議論されているので感心しています。 Time : 1999/ 5/28(金) 12:47:16
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: 古代史はどうでした? ロトさんの「火神子」が中断したままなのですが、 まだ続くらしいです。 inaさんの、古代史観もぜひおきかせ下さい。 楽しみにしてます。 Time : 1999/ 5/28(金) 12:55:32
Name : 999 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: 質問の仕方が悪いという事でしょうか? 私の義経観は、軍略家だと思っています。 一見奇跡に見える勝利は計算づくのものだったと思っています。 西国落ちの時は、軍略的には正解だったが天候に恵まれなかっただけだと思っております。 Time : 1999/ 5/28(金) 17:06:08
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 私見!義経の実像 Comments: みなさん、こん@@は。999さん質問してはいけないという事ではありませんよ。 すこし揚げ足とりな感じがしたので、もう少し質問も丁寧にすればいいと思ったま でです。悪気はありません。もちろんあなたもないですよね? では、あなたの義経観を聞かせていただいたので私のも聞いてください。 私は「源平合戦」についてはこちらで「範頼の再評価」という話がでるまでよく 知りませんでした。もちろん簡単には知ってましたが範頼のおかげで詳しく知り たいと思うようになり軽く勉強してみました。 勉強しなおすまでの私の義経像は「一気呵成、猪突猛進の神懸りな武将」といった 所でした。なにしろ突然現れ、平家を一気においつめ壊滅させてしまうのですから。 しかし、一ノ谷、屋島、壇ノ浦という一連の戦いをしらべる内に一つの事に気がつ きました。それは「物見」という言葉です。義経は常に物見を送り込み敵の情報を 得ています。義仲や平家の戦いにはあまりでてこないキーワードです。 戦の直前だけではなく、前もって送り込んでいるのです。 プロ野球にたとえると先乗りスコアラーです。しかもスパイまで使っているようです。 「やーやーわれこそは・・・・・。」のこの時代にすでに情報戦をしているのです。 一ノ谷の合戦でもただ斬りこむのではなく、到着後すぐに本陣に火をかけています。 屋島においても同様です。これは敵に「ここはもう落としたぞ」という宣言でも あり、敵に「もうだめだ」と思わせる効果も狙ったものでしょう。また、「もうだ めだ」と味方のふりをして言いまわったという事もあったでしょう。 この時代の兵や足軽は、勝ち馬に乗るのが当然なので撹乱情報を流すという事は 非常に効果的であったと思います。 屋島から壇ノ浦までは一気に攻めあがったようですが、屋島の勝利のあと海戦の 準備に一ヶ月をかけ、しかもスパイを送り込んだりしています。寝返り工作もし ていたようです。 以上の事跡から判断すると、義経は999さんやノムさんAwajiさんinaさんのい われたように、相当な軍略家だといえるでしょう。 しかし、きんたろうさんのおっしゃった遊撃隊長ですが、義経をよく思わない梶原 などの御家人はそう考えていたかもしれません。 彼らの常識とはちがった戦争の方式をとっていますから、大将の器ではないと感じ るのは当然の事だと思います。 そして彼らにそう思われたまま放っておいた義経には、軍才はあったが将器はなか ったといえるのかもしれません。 実際、頼朝による討伐軍が義経に向けられた時、義経に味方するのは極僅かの兵だ けでした。 常に頼朝の近くで行動すれば、「大軍師」として名を残したと思います。 大将にまつり上げられたのは、義経にとって幸でもあり不幸でもあったでしょう。 Time : 1999/ 5/28(金) 23:21:55
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「堂々日本史」再批判・・・軍事的天才の悲劇」 Comments: きんたろうさん、今日は。Awajiです。 随分長文のご回答を頂き、ありがとうございました。 要するに、長谷部さんの「堂々日本史」にもとずく、以下の意見・・ >>あの時当初の予定どおり義経軍が西側から攻めていればあの程度の勝利 >>ではなく「完璧に大勝利を得た」と言われています。私も義経が独断行 >>動さえしなければ平家軍は壊滅されていたと思います。 を以下のとおり否定されているのですね。 >>あの時点では平家は制海権を握っていたと思います。そして壊滅の可能 >>性は低かったと思います。 >>一ノ谷は要害の地でしたが、義経の「鵯越え」によって平氏は敗北を喫 >>し多くの有力武将を失ったのです。 それならば結構なんです。Awajiが確認したかったのはこの部分です。 これは同時に義経に関する以下の意見、 >この認識では、義経は軍事的天才どころか平家壊滅の機を妨害した、明ら >かに愚将です。(Awajiの疑問) >>同様に頼朝も判断したのだと思っています。なおNHKの堂々日本史で同じ >>ような説が紹介されていたはずです。(きんたろうさんの見解) 義経の軍略・軍功についても評価しておられるのですから、頼朝が愚将と判 断したと言うご見解も否定されるわけですね。これも結構です。 >>知られずに移動が可能であり、獣道使用では必然的に義経隊は少数(だか >>ら当然精鋭)部隊になると思います。 これも義経の行動に一定の軍略にもとずく必然性があることを認めておられ るわけですね。それならば、 >>「遊撃戦」=あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、戦列外にあって臨機 >>に味方を助けたり敵を攻撃したりすること。 とは全く異なることも認識されているわけですね。これも結構です。また、 >>一ノ谷では義経の選んだ経路こそが非常識=ワンダフルな経路だったので >>す。ゲリラ的な発想でなければ思いつかないと思います。 >>勇者ロトさんは「鞍馬山で兵法を学んだという伝説」といってられますが、 >>義経の戦法から判断すると流浪時代に身につけた「ゲリラ作戦」のような >>印象を受けます。 軍略にもとづく必然的作戦ならば「ゲリラ作戦」ではなく、迂回背後・側面 攻撃と言う「正規騎兵作戦」と考えるべきですね。当然ながら奇襲隊長レベ ルと言うご意見も否定され得る筈ですね。 印象はご自由ですが、既に為朝時代に「好漢惜しむらくは兵法を知らず」と 言う伝承があるのですから、源家の再興を目指す義経が「兵書」を学んだと 考えることも可能ですね? Awajiもその方に説得力を感じます。 次に壇ノ浦合戦ですが、 >>義経は少数(当然精鋭となる)を率いて戦う時に最大の戦果を挙げている >>と思いました。 壇ノ浦では、東国武将・阿波・伊予・(熊野)水軍・周防在庁船所等の雑多 な大部隊を見事に指揮したのですよ。これは義経の戦果ではないとおっしゃ いますか? 要するに義経が瀬戸内水軍の殆どを傘下に従え(阿波水軍を裏切らせ)、こ れを統一指揮下にまとめた時に、大勢はほぼ決していたのです。 >>壇ノ浦ではこぎ手(当時は非戦闘員だった)を狙って射殺した事など。 >>これによって平家軍の船は動きが止まったと言われています。 これが、武士道の美学に反すると言う意味で、馬腹を射ると同様に「ゲリラ 的」発想であることは認めます。これが奥州の地方戦の影響であると言う説 があることも申上げました。 しかし、この戦法を過大評価するのは疑問です。 何故ならば源氏軍がこの戦法を取ると同時に、平家軍も同様の報復を行う筈 です。従って単に僅かな時間差の問題であって、両軍がこの戦法を取れば両 軍の条件は変わらないわけですね。 >>文字通り船の上にはいられなかったからではないでしょうか。 >>動きの止まった(=水夫を射殺したため)船に矢が降りかかったからと考 >>えた方が、源氏が海上で「奮戦したからだけ」と言う理由よりも納得し易 >>いと思います。 船に矢が降りかかったのは、当然ながら御座船を包囲した源氏水軍の船から でしょう? 海岸弓隊は、有効射程距離(100m以下)から見ても脱出する平家軍の上陸 を阻止する役割がせいぜいだと申し上げているのですよ。 さらに、水軍は敵船に横付けし、乗り込んで来るのが常道です。 だからこそ敵の手に掛かる(捕獲される)より入水をえらんだのです。 >>専門家によると甲冑を着た相手に対する殺傷能力は20メートルくらいと >>言うことです。 >>しかし、負傷させる(戦闘力をそぐ)だけでしたならば、もっと距離は伸 >>びます。 だから、有効射程距離は100m以下と申し上げたでしょう? 長谷部さんの匂 わせておられる300mは馬鹿げた数字であり、従って海岸弓隊を過大評価し過 ぎだと批判しているのですよ。 >>範頼軍と言う言葉をAwajiさんもご覧になったと思います。 この意味は、既に申し上げたとおりですが、 >この部分については、三浦部隊は範頼の豊後進攻の後、帰路を確保する意 >味で残留させられていたと記憶しています。 >従って、元々は和田部隊同様に範頼軍ですが範頼の参戦とは無関係と思う >のですが、違いましたか? >Awajiが確認した限り、やはり壇ノ浦には範頼の影も姿もありません。 >三浦・和田以外の部隊が参戦した記録もありません。 >ノロノロと豊後辺りの局地戦に忙殺されていたのではないでしょうか? と考えています。(三浦と和田は同族ですから、両者に何らかの連携が あったのでは無いかと言う尤もなご指摘もありましたね。) つまり長谷部さんは範頼軍と言う概念を充分理解されていないと批判し ているのです。 要するに長谷部さんの「堂々日本史」による以下の見解について、 >>壇ノ浦の勝利は関門海峡で岸辺から平家の船に矢を射かけた事だと言わ >>れています。ここの大将こそが範頼でした。 >>平家を滅亡に追いやったこの戦いの最大のポイントはここです。ですか >>ら源平合戦最大の功労者は範頼になってしまうかも知れません。(?) が「一の谷合戦」に関すると同様に、妥当なものかどうかをご判断願いたい のです。Awajiは明らかに奇をてらった妄説だと判断しています。 勇者ロトさん、お久しぶりです。 >>常に頼朝の近くで行動すれば、「大軍師」として名を残したと思います。 >>大将にまつり上げられたのは、義経にとって幸でもあり不幸でもあった >>でしょう。 殆どの点で同意見です。 ただ、この時代には(その後においても)名門武将一門の誇りにかけて、 「軍師」の道はなかったでしょうし、少なくとも壇ノ浦においては見事に 大軍の指揮官としての能力を示したと思います。 源氏の頭領の庶子に生まれた軍事的天才の悲劇だと思いますし、魅力でもあ るでしょう。 Time : 1999/ 5/29(土) 00:22:34
Name : 999 E-mail : Title : 義経の軍略について Comments: 私の意見としては、勇者ロトさんとAwajiさんに賛成とさせていただきます。 遊撃隊長という言葉の解釈は勇者ロトさんの使い方ならわかるのですが・・? ただ物見というのは、どういう働きをしていたのでしょう? きんたろうさんへ >文字通り船の上にはいられなかったからではないでしょうか。 >動きの止まった(=水夫を射殺したため)船に矢が降りかかったからと考 >えた方が、源氏が海上で「奮戦したからだけ」と言う理由よりも納得し易 >いと思います。 平家の上層部や女官、安徳天皇が乗っていた船は唐船つまり屋根付きですから 矢が降ってきてもそれが入水自殺するほどの効果があったとは考えられません。 私は、知盛の言葉「名こそおしめ」というのに反応した結果だと思います。 つまり「あずまえびす」=「関東武士」に囚われるくらいならという事だと思ってます。 当時の貴族の関東武士にたいする差別意識を計算にいれると当然の事です。 勇者ロトさん、私の文はまだ揚げ足とりでしょうか? 気をつけたいとは思うのですが、いんたね歴が短いものですいませんでした。 Time : 1999/ 5/29(土) 00:54:05
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  ノムさんも守備範囲が広いですね。  私はやはり、宇佐説が捨てきれなくて、 以前、AWAJIさんが、発音の類似からの卑弥呼 =比売説を一刀両断にされましたが、発音から のアプローチはそれほど捨てたものではないと 思っています。あと、私は伊勢の豊受大神(外宮) =台与説も信じたいんですよね。  信じたい、というのは科学的態度でないことは わかりますけども、やはり、ロマンなんです。  かなり昔、テレビで森鴎外のドラマを佐藤慶主演 でやってましたが、 長男の森おと(後に東大医学部教授) が、余りに偉大な父に比し、自分の非才を感じて悩む場面 がありました。そこで鴎外は、「自分の思いたい様に考え れば良い。人間は優しいものだと考えたければればそう考 えることだ。権現さまが実在しないと思っても、そう信じ たければ、頭を下げればいい」と言うわけです。  ところで、ノムさん、鴎外の「かのように」を読みましたか? この作品は戦前の神話研究の困難さを書いた小説です。  ところで、ロトさんの「火神子」説は一応、発音の類似が少しは 関係していますよね。期待して待ってます。 Time : 1999/ 5/29(土) 07:30:01
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「ヒメコ=比売神」 Comments: inaさん、今日は。Awajiです。 >>以前、AWAJIさんが、発音の類似からの卑弥呼=比売説を一刀両断にさ >>れましたが、発音からのアプローチはそれほど捨てたものではないと思 >>っています。 念のために申し上げますが、 >>従って、残念ながらご紹介頂いた「卑弥呼=called ピェミェ」 >>は所謂トンデモの類としか思えません。 >>まして、さらにそれを倭語「ヒメ」と解釈し、「宇佐神宮 比売神」に >>擬する等は論外でしょう。 「called ピェミェ」→倭語「ヒメ」を否定しているのであって、 漢字表記「卑弥呼」が倭語「ヒメコ」を写音している可能性を否定してい るわけではありません。 さらにこれが「姫子」或いは「姫(御)子」である可能性も否定しません。 ただ「ヒメコ」としても「ヒメ神」との共通部分は「ヒメ」と言う極めて ありふれた普通名詞であり、これをもって単純に「宇佐神宮 比売神」に 比定するのは無理がありすぎると申し上げているのです。 Awajiは「宇佐神宮 比売神」は、都怒我阿羅斯等 神話で豊国国前の島に 移ったとされる「比売語曽(ヒメコソ)」との関連を想像していますが、 かと言って「卑弥呼(ヒメコ?)=比売語曽(ヒメコ ソ)」の発音類似に は何の意味も感じません。 この様な普通名詞的言葉における発音類似は幾らでも有り得るからです。 Time : 1999/ 5/29(土) 10:21:04
Name : ina E-mail : Title : Awajiさんへ Comments:  こんにちは  早速ご教示ありがとうございました。  積極的に肯定する根拠とはしがたいですが、否定しきることはできませんね?  普遍名詞の一致が意味を持たない、というのはおっしゃる通りだと思います。  あと、同じく音の一致からの話しで、叱られるかもしれませんが、豊受大神の 台与説はどうですか?とよという音は一般に頻用されるものではないと思うので すが。 Time : 1999/ 5/29(土) 11:34:30
Name : きんたろう E-mail : Title : 動機の説明 Comments: Awajiさん、こんにちは。 源平についての深い考察をどうも有り難うございました。 何事にも結果があれば必ずそこには原因があります。 動機についてお話しいたしますね。 あれは何故常勝将軍であった義経があのようにあっけなく滅んでしまったのか?と いう疑問に対するシミュレーション(と言えるかどうかは自信がないけど)だった わけです。 >所詮、軍事的天才は政治的天才には勝てっこ無いのです。 だけでは私には説明が十分とは思われませんでした。 例えば、佐竹氏は平氏との関係が深く源氏でありながら鎌倉に兵を送りませんでした。 そのため頼朝は4000人の兵を率いて佐竹討伐(好きな言葉ではありませんが)に 向かったわけです。 当時佐竹氏は常陸三代豪族の一つでしたが、多数の地元豪族が頼朝軍に参加しました。 これは勝ち馬に乗るという当時の風習だと思います。 このように考えたとき義経が勝つと考える武士がいなかった理由についていろいろと 考えていたのです。 Awajiさんの言われた源平の戦いの説(従来の説)は私も十分に承知しております。 ただ、私の疑問を解くにはそこから疑う必要があったのでした。 このため不快な思いを与えてしまったとすれば幾重にもお詫び申し上げます。 999さんへ 今回の投稿以下の部分については素晴らしいと思いました。 >平家の上層部や女官、安徳天皇が乗っていた船は唐船つまり屋根付きですから >矢が降ってきてもそれが入水自殺するほどの効果があったとは考えられません。 >私は、知盛の言葉「名こそおしめ」というのに反応した結果だと思います。 >つまり「あずまえびす」=「関東武士」に囚われるくらいならという事だと思>ってます。 >当時の貴族の関東武士にたいする差別意識を計算にいれると当然の事です。 このように論点を述べられて大きな意見として発表されればいいと思いますよ。 いままでの投稿については?があると思います。 Time : 1999/ 5/29(土) 12:21:01
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: 褒めていただいて恐縮なんですが、だからといって遊撃隊長という見かたは曲解しているとしかいえません。 まぁ問題点の呈示という事で大袈裟にする必要もあるかと思いますがよく考えてからの方がいいと思います。 Time : 1999/ 5/29(土) 12:58:39
Name : 999 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: 下の投稿はちょっときつい表現になっていますが、あなたを攻撃する意図ではありません。 最初から、この動機というものを書いてくれれば私にもあなたの意図がわかったのですから。 いきなりゲリラ、遊撃隊長では驚いてしまいます。 勇者さんの言うとおり悪気はないです。 Time : 1999/ 5/29(土) 13:50:31
Name : slashdog E-mail : Title : 関ヶ原に誘いこんだのは? Comments: 通説では、すべて家康の作戦どおりだと言うことに なっていますが、私は三成の作戦が順調に 進んでいたと思うのですが、 皆さんどう思われますか? Time : 1999/ 5/29(土) 17:26:54
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「軍事的天才・政治的天才」?? Comments: きんたろうさん、今日は。Awajiです。 >>このため不快な思いを与えてしまったとすれば幾重にもお詫び申し上げ >>ます。 別に不快な思いもしておりませんし、お詫び頂く理由もありません。 Awajiにとっては、歴史の真実に近づくことが重要なのです。 従って、ここまでしつこく申し上げたのは、「堂々日本史」の長谷部さん の様な奇をてらって真実に目をそらす議論が許せないからです。 きんたろうさんも、一の谷合戦の認識については、長谷部説を否認されま した。しかしながら、壇ノ浦合戦については未だ否認されているのかどう か未だに見解を示されないので、良く分かりません。 壇ノ浦の源氏軍勝利の最大の要因が義経の戦略・指揮によると認めて頂け さえすれば、彼が日本史上最大の海戦を、全く経験も無く指揮し勝利に導 いた名将であり、 それは同時に彼が奇襲隊長レベル等と言う様な議論を吹き飛ばすからです。 >>このように論点を述べられて大きな意見として発表されればいいと思い >>ますよ。いままでの投稿については?があると思います。 ただ、こういった表現は正直極めて不愉快です。 貴方の疑問点については、全て具体的にお答えしてきた筈です。 それに反論されるならば幾らでもお受けしますが「?があると思います」 と言うような言い方に何の意味があるのでしょう? 疑問があれば、具体的にご指摘願いたいものです。 入水の件については、 >船に矢が降りかかったのは、当然ながら御座船を包囲した源氏水軍の船か >らでしょう? >海岸弓隊は、有効射程距離(100m以下)から見ても脱出する平家軍の上陸 >を阻止する役割がせいぜいだと申し上げているのですよ。 >さらに、水軍は敵船に横付けし、乗り込んで来るのが常道です。 >だからこそ敵の手に掛かる(捕獲される)より入水をえらんだのです。 と申し上げましたね、 つまりは周囲の軍船(長谷部さんの言うような海岸からではなく)から矢を 振り注ぐことにより、敵船の抵抗を完全に奪い、敵船乗舷を可能にする。 それによってって平家の主要人物を殺戮(捕獲)するのが海戦の常識であり、 平家はこれを避けるために入水をえらんだと申し上げているでしょう? これは必ずしも差別意識だけではありません。宗盛のような人物は兎も角、 戦いに敗れた貴族の誇りを全うする(名をおしむと言うことです)ために、 捕獲されるよりも自尽を選んだ例は、歴史上枚挙にいとまがありません。 (勿論、その意識の中に関東武士に対する差別意識が含まれると考えるこ とを否定するわけではありませんが、仮に源氏水軍が全て西国水軍により 構成されていたとしても、もっと言えば頼朝の権力が東国武士ではなく、 西国武士を主体としていたとしても、彼等は活きて虜囚の辱めを受けるよ り、貴族の誇りを持って自尽を選んだ可能性が有ると考えています。) >所詮、軍事的天才は政治的天才には勝てっこ無いのです。 >>だけでは私には説明が十分とは思われませんでした。 だからと言って、義経が軍事的天才であり、名将であることを否定し、単な る奇襲隊長レベルであるとは言えないでしょう? 何度も申し上げているとおり、名将の最大の条件は勝つべきして戦争に勝つ ことであって、政治闘争を勝ち抜くのは別の要素です。(以下のとおり) >勿論、人物論としては軍事能力と政治能力は密接不可分ですが、ここでは >純粋に彼等の軍事指揮官としての戦争遂行能力について考えているのです。 >先ずこの点に絞って頂けないでしょうか? >因みに、Awajiは義経の政治能力(人心収攬術を含め)については、全く評 >価していません。敢えて言えば「孤高の天才的軍事芸術家」という印象で >す。 >以上で申し上げたとおり、典型的な「狡兎死して、走狗煮らる」のタイプ >だと思っています。 >Awajiは平時においては義経は使いません。しかし、ここ一番危急存亡の時 >には義経を使います。或いは使い捨てにするかも知れませんが、軍事的天 >才と言うのはそういう運命でしょう。 因みに、きんたろうさんご推薦の名将「韓信」はどのような運命を辿りまし たか? 百万の軍を指揮する名将(軍事的天才)ではあっても、劉邦(政治的天才) に簡単にひねり潰されたでしょう? このことを比喩的に申し上げたのですが、ここまで言わなければならないの でしょうか? 一体何が(?)なのでしょうか? Time : 1999/ 5/29(土) 18:20:53
Name : 999 E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: 通説ではそうなのですか? 私が学校でならった話では西軍の方が陣取りなど済ませていますので石田三成の主導だったと思います。 二・三年前の話なので記憶違いはないと思うのですが? まさか高校で通説以外を習うとは思えないのですが? Time : 1999/ 5/29(土) 18:24:04
Name : 999 E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: >このように論点を述べられて大きな意見として >発表されればいいと思いますよ。いままでの投 >稿については?があると思います。 きんたろうさんのこのせりふは私に向けられたものだと思うのですが? Awajiさんへの言葉ではないので気になさらない方がいいと思います。 Time : 1999/ 5/29(土) 18:43:05
Name : きんたろう E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 999さんの言われるとおりです。 Time : 1999/ 5/29(土) 19:06:10
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「臺与=豊」?? Comments: inaさん、今日は。Awajiです。 >>積極的に肯定する根拠とはしがたいですが、否定しきることはできませ >>んね? 仰るとおりです。史学は蓋然性の大小を論じるものですから、厳密には如 何なる説であっても100%肯定も否定も出来ません。 従って、現段階において蓋然性が極めて高いものを、史実に近いだろうと 見なすことで論理を発展させますね。 逆に蓋然性が極めて低いにも拘わらず、史実だと主張される場合はトンデ モ説と見なします。(我々が発想を展開するのは良いと思いますが・・) >>豊受大神の台与説はどうですか? >>とよという音は一般に頻用されるものではないと思うのですが。 まず、「臺与」が倭語のなんと言う発音を写音したかですね。 既に申上げたとおり、邪馬臺国を「ヤマタイ・ヤマダイ」の写音とすれば、 臺与は「トヨ」ではなく「タイヨ・ダイヨ」の写音と考えるべきでしょう。 しかし一方で「豊」を「タイ・ダイ」と読むのは難しいと思います。 従って、写音の上で両者を比定するのは如何なものでしょう? 「邪馬壹国」が正当ならば、「壹与」は「イチヨ・イッヨ」ですから尚更 「豊」と関係付けるのは無理でしょう。 さて「トヨ」と言う音は「ヒメ」ほど一般に多用されないでしょうね。 しかしながら、美辞形容詞として「大きい」とか「豊か」と言う意味で 「豊秋津島」「豊国」「豊雲野」「豊旗」「豊玉姫」等で使用されています ので、神名としては然程個性的なものとも思えません。 取り敢えず、こんな所でよろしいでしょうか? Time : 1999/ 5/29(土) 19:27:16
Name : ina E-mail : Title : Awajiさんへ Comments:  どうもありがとうございました。  納得いたしました。蓋然性の低い説に、ロマン、という思いこみから 固執していた自分を反省しました。  それにしてもAwajiさんの書きこみはすごいですね。量的にはもちろん、 内容的にも資料の根拠を詳細に示されて、論理は明解ですし、なおかつ、 遅出の出張、というような言葉から推察される、多忙なビジネスマンであ られる。驚嘆してしまいます。  ちなみに私は研究職です、、。 Time : 1999/ 5/29(土) 19:53:48
Name : Toshy E-mail : Title : 通説 Comments: 999さんへ 石田三成は徳川家康におびき出されて挙兵 また大垣城からおびき出されて関ケ原に進出 という説が、司馬遼太郎先生の「関ケ原」以来主流になっているようなのです ちょっと関ケ原関連の本を読んだ人なら、ほとんどのかたはご存知だと思います 「石田=淀君派」vs「徳川=北政所派」という説はご存知でしょうか これは一応「通説」ですが、最近は否定されつつあるようです Time : 1999/ 5/29(土) 23:15:29
Name : 999 E-mail : Title : Toshyさんへ Comments: 北の政所の件は初めてききました。 しかし、学問は日々進化しています。昨日の新説は、明日の通説という事ではないでしょうか? 通説を斬るというつもりがおありなのでしょうが、定説に負けない信憑性を提示していただきたいものです。 >石田三成は徳川家康におびき出されて挙兵 >また大垣城からおびき出されて関ケ原に進出 >という説が、司馬遼太郎先生の「関ケ原」以来主流になっているようなのです >ちょっと関ケ原関連の本を読んだ人なら、ほとんどのかたはご存知だと思います この件は存じておりますが、本当に定説と呼べるものなのですか? 通説といっても、いろいろな細かい解釈があるのではとも思いますが? ほとんどの方が司馬史観を通説としてみとめているのでしょうか? 時系列的に表面に現れた事跡をおっていけば三成の動きが先なわけですから(関ヶ原にかぎれば)一概には断定できないと思います。 今回slashdogさんに聞きたかった事はなんでそれが通説なのかを確認したいという事です。 また揚げ足とりといわれるかもしれませんが、ねんのためです。 気を悪くしないで下さい。 質問に対する答えなのですが、それが通説であるかどうか別にすれば私の考えはslashdogさんに賛成します。 三成と家康の関ヶ原への動きは一部偶発的な要素も含んでいたのではないかとも思います。 三成はおびき出されたのではなく、家康の動きを計算していたと思っています。 その結果が関ヶ原の地を選んだ理由ではないでしょうか? (大垣城までは家康の計算かもしれません) 明日から、少しのあいだ研修のためここにはこれません。 こなくていいと思われているかもしれませんが一応報告させていただきます。 Time : 1999/ 5/29(土) 23:59:01
Name : Toshy E-mail : Title : 国語力 Comments: 999さん、もう少し、冷静になってもらえますか? >通説を斬るというつもりがおありなのでしょうが 私のカキコから、どうすればそのように読み取れるのでしょうか 私は、最近は否定されつつあるようだといっているだけなのですが。 それと、誤解を招く書き方は避けてくださいね slashdogさんに対する最初のご質問では、おびき出し説そのものを知らないように受け止めました >北の政所の件は初めてききました だってそうです これでは定説の「徳川=北政所派」を知らないのか?と一瞬思ってしまいますから Time : 1999/ 5/30(日) 00:30:51
Name : 救急九 E-mail : Title : Toshy Comments: けんかをうっておいて冷静にもないものです。 あなたこそれ.い.せ.い.に。 いままでのとうこうをよめばだれでもそのおつもりなのがわかるはずです。 では、さようなら。またこんど。 Time : 1999/ 5/30(日) 07:38:21
Name : ノム E-mail : Title : 楽しく! Comments: 999さん、Toshyさん、楽しくやりましょう よ!文章だけではなかなか伝わらないという事を前 提にすれば細かい行き違いはなくなるのではないで しょうか? つっこむのもいいですが書きかたとかではなく内容 に突っ込みましょう!! Time : 1999/ 5/30(日) 10:08:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と誤解・・・ゴメンナサイ <(_ _)>ペコ Comments: きんたろうさん、999さん、今日は。Awajiです。 誤解により、失礼なことを申し上げました。お詫びいたします。 ただ、Awajiは自説を述べず、単に疑問を呈されるのも一つの参加の方法 だと思います。少なくともAwajiにとっては、自分の考えを更めて検証し、 再考する機会を与えて下さる様な具体的・論理的ご質問は大歓迎です。 (通説を知ってるかどうかと言うような抽象的なご質問はチョットご勘弁 願いたいのですが。) これからも、ドンドン突っ込んで下さい。疑問・質問については、こちら も回答と共にドンドン逆質問しますので、その節は無視・沈黙しないで何 らかのRESをお願いしますね。 (これって、意見交換のマナーだと思うんです。) inaさん、 有り難いお言葉ですが、過大評価なさらないで下さい。 要するに年の功ってやつで、多少イロイロな本を読んではいますが、所詮 ただの仏像オタクです。 なお、我々素人にとってロマンを持って歴史発想を広げるのは素晴らしい ことだと思いますし、折角の発想は大切に育てれば良いと思います。 そして最初の発想に拘らず、議論の進展の中でこれを修正・転換するのも 育てることの一つだと思います。 お互いに遠慮無く提唱し、遠慮無く批判しあいましょう! よろしくお願いします。 Time : 1999/ 5/30(日) 10:52:18
Name : Toshy E-mail : Title : みなさま、お騒がせしてすみません Comments: 私には喧嘩を売る気は毛頭ないので、ご了承ください Time : 1999/ 5/30(日) 10:54:10
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: 返事が遅れました。すいません。僕は鴎外の本は 読んだ事がありません。本は歴史物ばかりなので 学生の内に他もいろいろ読もうと思っています。 Awajiさんに推薦してもらった仏教の本を読んだ のですが感想を書けるほど理解できませんでした もっと簡単な物から読み始めます。 Time : 1999/ 5/30(日) 21:18:28
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : 999さん! Comments:  私は最近のHPをチェックしてみましたが、どうもあなたの 国語力を疑うような事例が多すぎるので困惑してしまいます。  最近の例でいえば、 Toshyさんの「石田=淀君派」vs「徳川=北政所派」という 説はご存知でしょうかこれは一応「通説」ですが、最近は否 定されつつあるようです。 という書きこみの次のあなたの書きこみが、 こなくていいと思われているかもしれませんが一応報告させ ていただきます。 となっており、(喧嘩腰?) Toshyさんから 999さん、もう少し、冷静になってもらえますか? と言われて、 けんかをうっておいて冷静にもないものです。 と来ています。  普通に読めば、喧嘩を売られたのは時系列的にこの前に なるわけですが、どう読んでもToshyさんは喧嘩を売ってい るようには思えません。 つまり、あなたのいう 「いままでのとうこうをよめばだれでもそのおつもりなのがわかるはずです。」 というのはトンデモであり、どなたもそのようには思えないとおもいます。  真摯に書きこみ、楽しくやろうとしているToshyさんや、きんたろうさん、 我々にも失礼ではないでしょうか?  内容についての議論は活発に、感情的な発言(例えば曲学であると言っ てみたりということ)はなし、というのが一応のルールだと思いますが。 Time : 1999/ 5/31(月) 08:46:05
Name : ノム E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ Comments: はじめまして、ノムです。 もっともなご意見なのですが、どちらかに味方する ような発言はかえって感情の暴発を招きます。 発言の仕方はこのさい無視して内容についての議論 を進める方が賢明かと存じます。Toshyさんともそう いう話になってますのでよろしくね。 Time : 1999/ 5/31(月) 09:21:53
Name : ノム E-mail : Title : アトムボーイ1さんへ2 Comments: 特に「国語力」などは、個人攻撃とうけとられる確 率が高いと思います。僕も「国語力」に関しては、 自信のない方なので、「国語力がない人は書き込む な」という気もしないではありません。 どうも生意気申し上げました。すいません。 Time : 1999/ 5/31(月) 09:34:31
Name : アトムボーイ1 E-mail : Title : ノムさま Comments:  すみませんでした。 Time : 1999/ 5/31(月) 10:12:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments:  小生宛てにメッセージがあることを見落とし、 返事が遅くなって申し訳ありません。 元気にしていますが、貧乏暇なしを地で行っていますので、 あわただしい日々を送っております。 最近の書き込みの量・深さ・速度についていけず、 まったく受動的に観戦している感じですが、皆様の議論は十分 楽しませていただいております。ここでだされた諸説を確認したりしも していましたが、それすらフォローできないこともありました。  小生は井沢先生ファンですが、隆慶一郎ファンでもありますので、 ここで少し触れられた前田慶次郎がどのように漫画で描かれて いるのかを「花の慶次」の単行本を古本屋で買い込んで、今読んでいます。 以前、slashdog様が、小説と変わりないような感想をかかれていた と思いますが、昔連載中にちらっと見たときは違うような印象を持っていましたので、 恥ずかしながら今確認しているところです。現在、8巻あたりですが、 視点の置き方にもよりますけれども、やはりずいぶん違うように思います。 「おふう」という新設定の少女は、名前こそ「影武者徳川家康」に出てきた、 家康暗殺者の六郎の妻(風魔小太郎の娘)と同じですが、むしろデビュー作の 「吉原御免状」に出てくる「おしゃぶ」に類似しています。 その他、登場人物の設定が微妙に違っていて、総合的に隆先生の作風が巧みに 織り込まれているように思われます。脚色者は(不確かな知識ですが)隆先生の 娘さんではないでしょうか?この漫画は、そういう意味で、「一夢庵風流記」と いうよりも別の「特別編」というふうに(まだ途中ですが)思います。  ついでといってはなんですが、小生の趣味からして当然の意見ですけれど、 三成と兼続の間に密約はなかったが、「義理」と「阿吽の呼吸」で兼続は対応した のではと思いこんでいます。  まったく現在の話題からずれて申し訳ありませんが、近況報告のかわりと させていただきます。 ところで、ノム様の今回のフェアーな対応ぶり、たのもしさを感じさせてくれました。 (ノム様は誤解されないと思いますが、単純に賛同し、賞賛しているつもりです) Time : 1999/ 5/31(月) 11:03:18
Name : 輔住 E-mail : Title : 関ケ原で Comments: 関ヶ原での決戦は必ずしも「東軍の誘導」とは言い切れないと思います。 (西軍に有利な陣形であったことも理由の一つ) 両軍とも関ヶ原で戦うこともありうると考えていたと思います。 (戦争は生き物だから様々なケースを想定していたでしょう) Time : 1999/ 5/31(月) 13:58:45
Name : slashdog E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: はじめまして 「前田 慶次郎」の件でコメントされていましたので すこし述べます。 あれは、「慶次が漫画のような、(実際に)人物だったのか?」 と言う 問いに私が、「実際あのような人物だったと思う」と答えたのです。 小説と漫画は、設定が違うのは、存じております。(両方読んでおりますので) 両方とも慶次が、よく描かれていると思います。 そう思いませんか? 大阪JF生さん? Time : 1999/ 5/31(月) 14:10:32
Name : slashdog E-mail : Title : 輔住さんお久し振りです Comments: まさに、三成側から見れば、関ヶ原での布陣は 「よしよし!」と言った感じでしょう。 あと、輝元と秀頼が松尾新城に入れば 三成の思惑どおりだったのに・・・。 残念です。 布陣までは順調だったと思います。 Time : 1999/ 5/31(月) 14:34:39
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : slashdog様 Comments: ご意見ありがとうございました。 前記事では、こちらの思い違いで、どうも失礼致しました。 お詫びいたします。  人物評ならば、抱いている感想は同じようで、 ご意見に強く共感いたします。 どちらの作品も非常によくできていると思います。  隆先生は生前、小和田哲男先生と対談されていたようですが、 もし生きていらしたら、井沢先生との対談がいずれ実現しただろう と思うと、残念でなりません。(対談話は、別の掲示板でされていますが)  これからもご意見をお聞かせいただければ、ありがたく存じます。 Time : 1999/ 5/31(月) 16:55:30
Name : 輔住 E-mail : Title : slashdogさんへ Comments: >あと、輝元と秀頼が松尾新城に入れば >三成の思惑どおりだったのに・・・。 とくに秀頼が出陣すれば...西軍の士気は高まり、 東軍は動揺する。逆に東軍から裏切りが続出したでしょう! 本当に惜しい! Time : 1999/ 5/31(月) 17:36:02
Name : ノム E-mail : Title : 花の慶次 Comments: 大阪JF生様、おひさしぶりです。そんな大層に言わ ないでください。(恥ずかしいです) 漫画は僕も途中まで読みました。最後はどうなるの でしょう? Time : 1999/ 5/31(月) 17:53:43
Name : ina E-mail : Title : おはようございます Comments:  大阪JF生さんへ  どうもありがとうございました。  劇画を現在は楽しんでいらっしゃるんですね。大阪さんの場合、守備範囲 というのはどこになるのでしょうか?  ノムさんへ  最近大活躍ですね。がんばってください。  ロトさんへ  火御子、期待して待ってます。 Time : 1999/ 5/31(月) 20:55:52
Name : Toshy E-mail : Title : アトムボーイ1さん、ノムさん Comments: 温かいお言葉、ありがとうございましたm(__)m 関ケ原は一日で片がついたため、即日決戦と思われているようなのですが、 徳川はともかく、石田には長期戦の構想があったのでは? 石田から増田にあてて、「20日のうちに敵をやっつける」というニュアンスの書簡が送られました。 (これは徳川方に押収され届きませんでした) 三成は関ケ原に有利な陣形で長期戦に持ち込み、 大津城攻撃に手間取っていた毛利秀包はじめとする1万5千の兵の到着を待っていたと考えられるのです さらには大阪城や若狭に西軍勢力が多数あり、もしそれらがすべて駆けつけていれば、 東軍をほぼ倍する大軍になっていたのです(秀忠の軍をあわせても、東軍ははるかに少ない) Time : 1999/ 5/31(月) 21:39:09
Name : ina E-mail : Title : Toshyさんへ Comments:  ふと思ったのですが、石田の立場は西軍の総数が多 くても、譜代の軍勢が少なく、反対に徳川は東軍総数は 少なくても譜代の軍勢は多かった、というのが、裏切りや、 事前の工作に影響を与えたのかな?と思いました。  話題の義経の立場にも、石田は少し似ているかな?と 思いましたが。  要するに徳川もひやひやの勝利だったのでしょうかね? Time : 1999/ 5/31(月) 22:37:05
Name : ノム E-mail : Title : 石田家対徳川家 Comments: 三成対家康では三成には勝ち目がないわけですから 三成としては豊臣恩顧の大名を集結する必要があっ たわけです。家康は豊臣家の大老ですから豊臣恩顧 の大名を使えて当然です。関が原の勝敗をきめたの は二家の戦闘能力より豊臣恩顧の大名たちの支持で あったと思います。 Time : 1999/ 5/31(月) 23:22:42