Name    : ノム
E-mail  : 
Title   : 四国について
Comments: 
藤田さんはじめまして。四国についてなんですが、僕も「死国」を観た時
気になったのでさっちーさんに聞いたのですが、「小説だから」と言われ
ました。死拍手の話が再燃する前だったので、はっきりとは覚えてないんですが
さっちーさんいわく「国生みの話は淡路島から先は大和と同盟関係にあった国々を
同盟した順に記したもので、四国の瀬戸内海側から順に同盟を結んだと
いう事。讃岐をとばしてまず伊予とそのあと讃岐と同盟したから」とか言って
ました。讃岐は大和に逆らったので大和と戦争になったとかいう話もしてました。
四国の国々は伊予を除いて大和に反抗していたから、四国は伊予の二名島とも
いうといってました。
古代四国の民俗性も本土とはだいぶ違うらしいです。「海人族」というらしい
です。
あんまり参考にはなりませんでしたね、すいません。

ちなみに僕は「四国」を見終わったあと88ヶ所巡りはそういう
意味があったんだと感心してしまいました。今でも捨て難い
意見だと思います。


Time    : 1999/ 4/ 1(木) 00:23:55

Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 数カ月ぶりの疑問 Comments: 覚えていて下さった方、お久しぶりです。 初めてお会いする方、初めまして。石井と申します。 こっちに来るのは数カ月ぶりです。 ここに顔を出したのは他でもない、疑問が生じたので皆様のお知恵を 拝借したいと思ったからです。 古代関係の話題が持ちきりの所にこのような質問を提出するのは気が引けるの ですが、徳川幕府は何故あそこまで農業偏重の社会システムに変遷して しまったのかということです。 家康の頃、東南アジアに日本人街が作られ、家康自身ノビスパンとの交易を 考えるまで商業に関心のあった日本人が、何故「米一筋」の民族になったのかが 分かりません。どなたかご存じでしたら、是非教えて下さい。 お願いします。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 12:16:05
Name : さっちー E-mail : Title : 徳川幕府の農民保護と抑圧政策 Comments: みなさん、こん@@は、石井さんはじめまして。 徳川幕府が農政基本の政策をとり、商業を軽視したのは国内の思想統一と外様勢力 の伸長抑制という目標があったためと思っています。 家康自身は貿易による利益に興味があったと思われますが、(前代の権力、織豊政 権の影響のため)貿易による利益より、貿易と共に移入してくるキリスト教の思想 を排除するほうが天下の平和つまり徳川政権を盤石にするためには必要だったので はないかと思われます。士農工商の身分制確立のため敢えて商業軽視の路線をとっ たのではないかと思います。 この幕府の政策にそって日本人は「米一筋」にかわっていったのです。 もちろん幕府に黙って密貿易を繰り返していた藩もありました。薩摩は琉球統治を 通じて商業重視路線をつづけました。他藩でも国内での商業の活性化は試みられま したが、海外との貿易ほど利得をえられなかったのでしょう。 何よりも貿易によって広がるであろうキリスト教的な思想つまり神の下の平等とい うものを恐れた結果ではないでしようか? キリスト教思想の流入の結果島原の乱が起こったのです。 この結果貿易とキリスト教の流入は分けて捕らえる事ができなかったのです。 また農民のほうでは、税を納める事により士に次ぐ身分だという事を保証される 事になるわけですから、異論はなかったでしょう。 ピントはずれかもしれないのですが以上の考察をしてみました。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 13:30:14
Name : さっちー E-mail : Title : 米本位制と檀家制度 Comments: 追加です。 江戸時代は米本位制ともいえます。大名の資産?をどれだけ米がとれるかという基準 で示したりしたのも「米一筋」となった一因ではないでしようか? また農村では交換経済が続いたという事も「米」の重要性をたかめる結果となるの でしょう。「米」は主食でもあり価値基準そのものだったのです。 一方キリスト教は寺社勢力の権益を保護するために禁じたのですが、その思想は、 幕府にとっても受け入れられないものだったのでしょう。 幕府のみが海外貿易による利益を独占するため様々な禁令を発布し貿易を禁じた のです。「鎖国」は幻だったのです。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 18:21:32
Name : さっちー E-mail : Title : ヤマタイカ Comments: みなさんこん@@は。 邪馬台国については、決定的な証拠があげられないため日本国内はおろか、ジャワ ハワイまでその候補にあがっています。その中で最も私の納得いく比定地は井沢先 生のあげられている「宇佐」であると思っています。その理由については「逆説の 日本史1」「卑弥呼伝説」で使われている通りです。 しかし「東遷」となるとどうも納得できないのです。つまり「東遷」の目的が理解 できないのです。これはkazuさんがあげられた「どうして大和なのか」という事に つながると思います。しかも邪馬台国が大和朝廷の前身であるのなら、どうして自 分達の先祖の出身地を明確に残さなかったのかという事です。 勿論「宇佐」については道鏡事件の神託を求めた地でもあるため、大和朝廷の出発 点として有力ではありますが「東征」した(つまり国家として遷都した)ならば、 その痕跡が宇佐から大和までの地域で明確に残っているはずです。 この点において邪馬台国が東遷したとは思えないのです。 大和の三輪には「大物主」がまつられています。オオモノヌシは出雲系の神であり 三輪の地に出雲の勢力が進入したという事をあらわしているのではないかと推測し ています。その出雲系大和ともいうべき土地に九州で滅んだ国の人々が逃げてきた のではないでしょうか?つまり大和の地は出雲によって拓かれたが、九州から逃げ てきた「神武」に乗っ取られたのではないかと考えています。 神武の神話には今から考えると卑怯な作戦をとって大和近隣の諸勢力を滅ぼしてい く過程が描かれています。宴会で酔っ払った敵対部族の首長をだましうちするよう な作戦です。 これは「スサノオのオロチ退治」に通じる方法でもあります。 出雲系の支配者をだましうちしてその祭祀を乗っ取ったのではないでしょうか? 「国譲り」は出雲ではなく大和で行われたのかもしれません。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 19:00:37
Name : きんたろう E-mail : Title : 検地 Comments: 石井さん、さっちーさん、こんばんは。 石井さんの疑問に対する回答は、さっちーさんが書かれているとおりだとおもいます。 追加するとすれば、「三河武士」がキーワードだと思います。 彼らはほんの少し前まで「中世」の中に生活していたと言われています。 この様な人達が「力」を得ても「精神」まで昇華されるとは思えません。 彼らは武器を持った農民そのものでした。 さらに付け加えるとすれば「太閤検地」により全国の度量衡が基準を持ったという 点も上げられるのではないかと思います。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 19:29:21
Name : きんたろう E-mail : Title : 古代人侮るべからす Comments: さっちーさん、こんばんは。 もし、邪馬台国(そのまま存続し?)が東遷して畿内を目指した理由は地理を知って いたからというのが理由ではないでしょうか。 要するに扇の力点こそがベストポイントだと知っていたのではないかと思います。 (この時代は中部から関東は眼中になかった) Time : 1999/ 4/ 1(木) 20:31:44
Name : さっちー E-mail : Title : 古代人の地理感覚 Comments: きんたろうさんこんばんは。 古代人が地理を詳しく理解していたというのはわかるのですが、京都ではなく 奈良なのがよくわからないのです。京都なら奈良よりも水路の確保が容易だった と思うのです。京都は山陰勢力と直接接していたから避けたのでしょうか。 でも国が移るという事は軍が移るという事です。旧都(宇佐)から離れすぎては 都合が悪いのではと考えています。 しかも扇の要は四方八方から攻められる可能性も高いのです。 私は最初東遷説が一番納得いく説だったのですが、出雲王朝の勃興時は卑弥呼の 時代よりさらに100年ほど溯るのです。九州の勢力が大和の土地に目をつけた のなら出雲や吉備も目をつけていたはずです。 こう考えると東遷はなかったと考えられませんか? Time : 1999/ 4/ 1(木) 21:14:36
Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : お礼 Comments: さっちーさん、きんたろうさん、早速のお答え有り難うございました。 さっちーさん>江戸時代におけるキリスト教の影響というのは私が考えている       以上に大きいものなのですね。なるほど・・・。 きんたろうさん>「三河武士」というのは盲点でした。やはり人間に染みついた        「郷土性」「お国根性」というものは根が深いのですね。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 22:01:17
Name : きんたろう E-mail : Title : はちみつ Comments: さっちーさん、こんばんは。 言葉が足りなくてすみませんでした。茨城在住の私としては、奈良と京都の 区別を意識の中で実際のところはっきりとはしていなかったのは事実です。 本当ですよね。どうしてなのでしょう。 たぶん、当時奈良に「在住の勢力」が存在していたからと考えるのが妥当なのかな と思います。そして奈良には当時としてのインフラが整備されていたので、ここを 中心としたのではないでしょうか。 しかし、すぐ近くの京都の方が数段メリットがある「すぐれた」土地だったという ところだと思います。 「東遷」そのものについてはよく分かりません。 源流の一つではあるとは思いますが、どうなのでしょう?。 「はちみつ」の話は「奈良入り」の時でしたでしょうか?(自信なし) そういえば、常陸の佐竹義宣は対立していた豪族達と「和解」するため、30人以上 を太田城に招待し酒をふるまって接待している最中全員を殺してしまいました。 スサノオの伝説を連想させられます。 石井さん、さらに追加です。 これは朱子学=儒教の影響も考えるべきだと思います。 ご存じのとおり儒教は「周」の政治を理想としています。 ですからその前の「殷」は論理的に打倒されなければなりませんでした。 殷=商は商業が盛んだったと言われています。(どの程度の商業なのかは?) これ以降、殷人=商人は言われ無き差別を受けてきたと言えると思います。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 02:06:19
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 土着神侮るべからず Comments: しばらく帰省していました。またしばらく京都を離れます。 余りにも書き込みが多すぎて全部読めなかったので、 興味のある四国について、 私も「古事記」を初めとする国産神話に四国が出てこないのは不思議でした。 しかし、四国にもちゃんと古い神神はいます。 木花咲姫の父である大山祇神は、伊予の神様です。 現在、尾道今治ルートがある島々の神です。 イザナギ、イザナミはもともと淡路島と阿波の国の土着の神です。 どういういきさつで天照大神の親となったのかは不明です。 神武天皇の母神を単独で祭る唯一の神社が 阿波の国の南にあります。 このように四国出身の神に重要な神がいますが、 彼らが四国を舞台に活躍していないのは不思議なことです。 ちなみに、海神は対馬の神様。 神皇三神(ニニギノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、ヒコホホデミノミコト)は 南九州の神。 ただし、北九州の一部にも伝説を残しています。 神功皇后と応神天皇は筑紫と河内の神 天の日矛(渡来人と冶金の神、息長足姫の祖先)は東山陰の神です。 対馬、南九州、四国、伊勢、若狭を結び付けるのは 海人族だといわれています。 「古事記」は日本中の神が色々な役を演じる 不思議な神話です。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 13:18:20
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 釈迦族混血説 Comments: 釈迦族が混血だったという説はちゃんとあります。 釈迦族はアウトカーストと呼ばれ、 カースト制度の外にいる部族でした。 したがって、アーリア人ではない可能性があります。 釈迦族がアウトカーストであったため、御釈迦様が 自由な思想を作れたという事は、十分考えられます。 NHKの「ブッダ」で、釈迦族の末裔と考えられる2つの部族を取り上げていました。 1つはネパールで現在も原始仏教に近い仏教を信仰する部族。 もう1つはカピラパストが滅ぼされた後逃げて、 農耕以前の原始的な状態に戻ったとされる部族で こちらは御釈迦様の記憶を全然持っていませんでした。 32相は御釈迦様が説法をしていた頃にあったかどうかは分かりません。 元々仏教は偶像崇拝を禁止していますので、紀元前1世紀に ギリシャ系の国クシャーナ朝で仏像が作られたときには、 御釈迦様のお姿は分からなくなっていました。 なお,仏像を作った人達は、アレキサンドロス大王が植民していった人々の末裔です。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 13:30:43
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: 神皇三神ではなく神皇三代です。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 13:38:07
Name : ノム E-mail : Title : はちみつ Comments: みなさん、こんにちわ。 きんたろうさん、はちみつとは何の事ですか? 詳しくおしえて下さい。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 14:53:08
Name : きんたろう E-mail : Title : なめると甘い Comments: ノムさん、こんばんは。 はちみつとは「蜂蜜」の事です。(当たり前すぎてすみません) (原)大和?が各地で敵と戦いを行ってきましたが、かなりの強敵と戦うことになり ました。その勝敗の行方はどうなるか分からない状態が続いた訳けです。 その時、相手が戦いを止め味方になれば(傘下に加われば)この貴重な品を与えよう という事になったそうです。 その品物が「はちみつ」でした。甘い蜂蜜の味は和睦への大きな力になったという事です。 「武力」ではなく「知力」によって相手を制圧するという例だったと思います。 スサノオのバリエーションの一つかなと思います。 たぶんさっちーさんが昨日言われていたことを「美化」した談話ではないでしょうか。 これについては記憶が断片化していてどうしても復元できないので、軽く聞き流して 下さい。(自信なし) Time : 1999/ 4/ 2(金) 19:47:35
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と仏像起源 Comments: 安部さん、マイド オジャマします。Awajiです。 >>32相は御釈迦様が説法をしていた頃にあったかどうかは分かりません。 釈迦生存中に三十二相??マシャカあるワケがないと思います。 三十二相と言うのは、後世釈迦如来を神格化し常人と区別する意味で形成 されたものでは無いでしょうか? ただ、それが釈迦自身に関する何らかの記憶・伝承を反映したものかどう かが問題にされているのでしょうね。 生存中に三十二相があったかどうか分からない(あったかもしれない)と 言うのは、どういう意味なのでしょうか? >>紀元前1世紀にギリシャ系の国クシャーナ朝で仏像が作られたときには、 クシャーナ朝は、北方遊牧民の月氏系と思っていましたが、ギリシャ系 だったんですか?どなたの説ですか? また、仏像の製作は紀元2世紀初を大きく遡らないと思っていましたが、 明らかに紀元前と見られる作例が発見されたのでしょうか? クシャーナ朝の成立と仏像の成立を混同されてはいないでしょうね。 >>なお,仏像を作った人達は、アレキサンドロス大王が植民していった人 >>々の末裔です。 仏像の起源をギリシャ或いはローマ系のガンダーラと、ヒンドゥー系のマ トゥーラと見るかは、なお決着がついていないと思っていました。 この様な言い方では、マトゥーラ仏像は無視されることになりますが、何 か理由があるのでしょうか? ついでですが、 >>イザナギ、イザナミはもともと淡路島と阿波の国の土着の神です。 >>どういういきさつで天照大神の親となったのかは不明です。 この場合「土着の神=地方神?」というのは、どういう意味なのでしょう か?凡そ何世紀頃、淡路島と阿波の国の、どういう人たちの地方神だった のですか?貴方がそのように断定された理由をお教え頂けますか? >>神功皇后と応神天皇は筑紫と河内の神・・・ これら一連の断定についても、その意味や理由をお教え頂ければ有り難い のですが、正直いって何をおっしゃっているのか良く分からないのです。 何しろ基礎的な知識が無いものですから、いろいろお聞きするばかりで、 申し訳ありませんが、よろしくお願いします。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 11:55:07
Name : ノム E-mail : Title : 人丸 Comments: きんたろうさん、説明ありがとうございました。 懐柔策ですね。 さっちーさんによると柿本人麻呂は播磨の守だった そうです。それで播州各地に痕跡があるという事ら しいです。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 13:10:11
Name : 田中 優吾 E-mail : Title : ユーゴスラビア Comments: はじめまして。広島の大学生です。 NATO軍は何故ユーゴスラビアを空爆するのでしょう?また何故こんな事が 許されているのでしょう。歴史とは関係ないのですがご意見をいただけないで しょうか。 よろしくお願いします。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 14:48:44
Name : さっちー E-mail : Title : 出雲王朝について Comments: みなさん、こん@@は。今日は出雲王朝が存在した時期について推測します。 出雲地方に王権勢力が発生した時期は弥生時代晩期、紀元前2世紀ごろではないか と思われます。「漢書」に「倭国大乱」と記されている頃です。 この時代には九州で戦乱が起こっていたようです。吉野ヶ里遺跡もこの頃の遺跡な のですが、環濠や王宮らしき建物跡、楼観そして戦闘の形跡がみられます。 当時九州にあった勢力はさかんに大陸や半島と交易を繰り返していました。 という事は大陸や半島から渡来してきた人もたくさんいたと思われます。 九州島と大陸、半島の直接交易ではなく隠岐や対馬の「海人」と呼ばれる「倭人」 を通しての交易であったと思われます。この時期大陸製の鉄器や青銅器の武器など が日本列島に流入したのです。この新しい武器と共に「国土統一」の思想も流入し てきたのだと思っています。そして思想を直接持ち込んだのは渡来人ではないかと 考えています。この流入以前は縄張り争いの小さな戦闘はありましたが、国を滅ぼ したりするような戦争はなかったのではないかと思っています。もちろん国という 意識も希薄だったのでしょう。 出雲に王権をたてた勢力も渡来してきた人達だったと思っています。しかし出雲で は在地勢力と渡来人との間が支配、被支配に明確に分けられなかった混成王権では なかったのかと推測しています。出雲に進入してきた渡来人の人数自体が九州より 大幅に少なかったのでしょう。これは出雲の方言が東北弁と似ている所から推測し ました。東北は蝦夷の地です。大和朝廷は蝦夷勢力を西日本から駆逐して東北地方 に追いつめました。紀元前二世紀頃には日本海沿岸にも沢山の蝦夷民族が暮らして いたのではないかと考えています。蝦夷の民こそ日本列島の先住者だったのです。 その先住者達と融和策をもって出雲の地に国を作り上げたのです。 出雲国造り神話は出雲の先住民と渡来人の協力によって国が出来たという事を暗示 しているのだと思います。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 23:06:55
Name : さっちー E-mail : Title : ノムさんのフォロー Comments: ノムさんが相変わらずお世話になっています。(私も) まず、柿本人麻呂の件ですが、私の実家がある村には「人丸神社」があります。 創建は昭和になってからですが、創建発起人の方のお宅に人麻呂関係の古文書 があったらしいのです。古文書自体は戦国から江戸時代頃のものらしい(よく 解らないのですが)のですが、その中に「人麻呂の朝臣、播磨の守たりしとき」 という言葉があるそうです。播磨の守だった人麻呂がこの村に物見遊山にきて 何ヶ月か滞在したという事が書かれており、滞在の間に妻を恋うる歌を残して いったという伝説がのこされています。それにちなんでその村の滞在した所を 「妻見」と呼びます。また余談ですがこの近くには応神天皇が狩りをしたという 森があります。そして平安中期に朝廷に反抗した豪族の根拠地も近くにあります。 朝廷は鎮圧軍を繰り出したそうですが結局負けて帰ったらしいです。 あくまでも伝説ですが・・・・。 四国の件なんですが。 四国は国生み神話で産み落とされた後、古事記神代にはその記述がありません。 伊予という名前は登場しますが、他の国は国生みの時以外はでてきません。 四国の国々にはそれぞれ名前がついていて国自体が神でもあるのですが、不思議 な事に神の系譜にはありません。 これは何を意味するのでしょう?他の国々を代表する神は記紀の神の系譜に繋がっ ています。しかし四国の神は系譜の上では繋がっていないのです。 私は四国には本土や九州とは民族性の全く違う先住民がいて、古事記編纂当時も 彼らの祭祀がつづけられていた事を暗示していると思っています。 それは太平洋の海人の祭祀です。日本海や本土とは違う祭祀を継続していたため 記紀の神の系譜に載らなかったのです。またこれは蝦夷の祭祀とも違っていたの でしょう。ですから記紀の編纂者は扱いに困り、その名しか記さなかったのです。 弥生時代の古墳は祭祀の違いを明確に表しています。四国の古墳は石積古墳とよ ぱれるもので四国独特の古墳です。またこの古墳は吉備地方にも分布しています。 これは四国の海人族が瀬戸内海をも根拠地としていた証拠でもあるのです。 瀬戸内海を渡る時、四国の許しをえる必要があったのではないかと考えています。 神武はその東征の時、吉備で何年か過ごしていますが、これは四国の海人と交渉 に費やした時間ではないでしょうか? 四国は死国ではありませんが、大和朝廷にとって扱いにくい国ではあったのです。 Time : 1999/ 4/ 4(日) 00:50:25
Name : A E-mail : Title : 田中さんへ Comments:  初めまして  私は今ニューヨークに住んでいるんですが、ユーゴにしても、イラク にしても、全て、アメリカの思い通りにならないところは徹底的にやられる、 というのが、最近の世界史の法則なのではないでしょうか。  許されることではない、と私は思いますが、最近のイラク空爆のとき、確かに 二回目は批判的な意見も目立ちましたが、一回目の時は、クリントンのセックス スキャンダルをかわそうという意図が見え見えにもかかわらず、一部の意見は、 「やれやれー、もっとやれー」でした。  アメリカ人の全てとはいえませんが、彼らは基本的に自分たちが、正義、と 思っており、日本の閣僚のように本音を漏らしたり、ということをしませんが 隠された差別感は相当のものと思います。  日本の閣僚の話しが出たので、言いますが、彼らは、ミスをしているわけで はありません。職を賭してでもここで言わなくてはならない、と思っているの です。アメリカ人の場合、計算をすれば損になることは言わないだけなのです。  日本人は、損になっても、勝ち目がなくてもやらなくてはならないことは、 やる、というメンタリティーを持っている、という違いだけなのです。  私の思いつく例では、あるインテリの女性と美術の話しをしていて、メトロ ポリタン美術館の話しが出て、私が、ロシアのエルミタージュ美術館も行った、と いうと、彼女は突然、「その美術品は彼らが奪ったものだ」と言い出したのです。  私はメトロポリタン美術館の収蔵品についてそういう疑惑がないと断定できるの か、と言いたかったのですが、黙っていました。彼らが、独善的な正義感を持って いることは認識しておくべきだと思います。  その流れで言えば、NATOイコール、ユーロであり、日本に変わって新たにアメ リカの脅威になりそうなユーロを戦争に巻き込んでユーゴもユーロもともに疲弊さ せようという意図も背後にあると考えています。 Time : 1999/ 4/ 4(日) 00:59:12
Name : きんたろう E-mail : Title : 砂鉄 Comments: おはようございます。 さっちーさんの「出雲王朝」を読ませていただきましたが、非常に魅力的な説だと 思います。 地図を見ると島根県は朝鮮半島がすぐ近くにあると実感できます。渡来人も九州 だけにやってきたと考えるのは不自然ですから、当然日本海側にも訪れているは ずと考える方が自然です。 私は出雲が「中心」足り得たのは鉄の産地だからこそと思っているのですが、 製鉄という先端技術はどんなかたちにしても自然発生的なものではないように 思えます。 そして出雲弁と東北弁(ずーずー弁)の類似性も神話における出雲の勢力範囲が 整合性を持って来るように思えてきます。 東北の安部氏(前九年の役)は大陸と貿易をしていたそうです。 この事からも、以前から交易があったと考えていいのではないかと思います。 Time : 1999/ 4/ 4(日) 08:26:50
Name : 田中 優吾 E-mail : Title : A様へ Comments: こんにちは。お返事ありがとうこざいます。私はアメリカの正義=世界正義 という考えかたには反対です。もちろん他民族国家としてのアメリカの業績 にはすばらしいものがあると思いますが、共産圏なき後の暴走がしんぱいです。 Time : 1999/ 4/ 4(日) 13:53:38
Name : ノム E-mail : Title : 入学式 Comments: みなさん、こんにちわ。今日から入寮します。 しばらくこのページにこられないかもしれません。 みなさん、これからも頑張っていろいろな話しを 聞かせて下さい。モバイルは持っていくので見る事 はできると思います。 Time : 1999/ 4/ 5(月) 13:08:48
Name : Toshy E-mail : Title : 交易 Comments: 「ふぉーらむ」のほうにいつも書き込みさせて頂いているToshyです。 きんたろうさん> >東北の安部氏(前九年の役)は大陸と貿易をしていたそうです。 >この事からも、以前から交易があったと考えていいのではないかと思います。 青森県から出土した三内円山の遺跡から、ストーンヘンジみたいなサークルが出てきました。 石が二重、三重の丸を描いているのです。 この石の列の間隔は、70センチほど。 そしてこの遺跡と同時代のものと見られる北陸(あやふやな記憶)からも、 やはり70センチほどの間隔で石を並べた遺跡が出土しました。 この70センチは「縄文尺」と呼ばれ、古い時代から村と村との交易があった証拠とされています。 またその土地では出てこない翡翠の飾り物も遺跡から出てきています。 交易は、遠く縄文の時代から行われていたと言えるでしょう Time : 1999/ 4/ 5(月) 18:29:06
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ユーゴについて Comments: アウトカーストのシャカ族は、お釈迦様が出身した釈迦族と違ったかもしれません。 お釈迦様のシャカ族の末裔と自称したシャカ族の国がその昔インドにありました。 それだったかもしれません。 もう一度ちゃんと確かめてみます。すみません。  私は日本ではなかなか聞かれないNATOを擁護する立場です。  ミロシェビッチ大統領は、1989年にまずコソボ自治州では少数民族として 憂き目を見ていたセルビア人の民族主義を煽ってコソボ自治州の自治を奪い セルビア共和国内で人気を上げて権力を握りました。それを見たスロベニア とクロアチアは危機感を抱いてユーゴスラビアからの独立を宣言しました。  西欧と米はそれを支持。ここで、セルビアは西欧と米が少数民族を独立さ せる方法で民族問題を処理使用と考えていることに気が付きます。  ボスニアは、ムスリム人が主体になって独立しようとしました。  ユーゴから独立する以上、ムスリム人とセルビアは敵対的にならざるを えない。クロアチアはムスリム人の国が出来ればセルビアとの緩衝地帯がで きるのでムスリム人を援護します。こうしてボスニア内戦が起ります。  ボスニアの民俗構成は大体ムスリム人44%、セルビア人30%、クロアチア 人20%です。結局ボスニア人は独立しますけれども、セルビア人共和国には 国土の49%が割り当てられます。セルビア人がボスニア内戦中に占拠した土 地のいくらかはそのままセルビア人の土地になってしまったのです。是は悪 しき前例を作ってしまいました。  コソボでミロシェビッチ大統領が目指しているのは、ボスニア型の解決だ と私は思います。コソボからアルバニア人を追い出して、なるべく多くの土 地をセルビアが占拠して、セルビアのものにしようという魂胆です。  コソボは聖地だというのは建て前で、真の目的はコソボの侵略です。空爆 を幸いに民族浄化を大々的にやっています。  セルビアはコソボ和平会談中も民族浄化を続けていました。是は明瞭な約 束違反です。和平会談中に軍事行動を取られては、和平になりません。  コソボの和平会談は、NATOの軍事力が後ろ盾になっていました。NA TOの後ろ盾が張子の虎でないことを実証しないと和平会談自体が成り立た ないのです。  セルビアのやり方は明らかにおかしいです。  イギリス人とアメリカ人は、目的が間違っていても、方法が正しければ怒 りません。ただし方法の間違いと約束違反には猛然と怒ります。NATOが あれだけセルビアを叩くということは、セルビアのやり方がどこか間違って いるからです。  コソボの和平を実現するためにはコソボの民族分布を紛争開始以前に戻し て凍結する必要があります。そのためには地上軍を派遣せざるをえないでし ょう。  セルビアを軍事的に援助する国が存在しませんのでいずれセルビアのほう が折れるでしょう。ロシアは政治的に援助はしても、アメリカと決裂してま でセルビアを助けるつもりはありません。ベトナムがアメリカの勝利したの は、ソビエトと中国の物資のおかげです。ただし、欧米で厭戦気運と難民へ の表層的な同情が盛り上がれば、事はセルビアの思惑通りに進むかもしれま せん。  セルビアはミロシェビッチ大統領の指示で動いていると思われますが、も しかしたらセルビア軍やセルビア民兵はミロシェビッチ大統領の手には負え なくなっているのかもしれません。其の場合セルビア勢力を殲滅しなくては 解決出来なくなるかもしれません。    セルビアは和平会談中に戦闘を続けた。  是は約束違反である。  約束違反に対してNATOは空爆をした。  なぜならコソボ和平は、NATOの軍事力が後ろ盾であったから。 平和のためには軍事力が必要なのです。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 15:38:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : NATOの欺瞞 Comments:  コソボに関してはセルビアの約束違反が重大ですが、NATOの欺瞞はク ルド人に対してもっとも顕著に現れています。  クルド人はトルコ、イラク、シリア、イランなどにまたがって分布する、 祖国を持たない民族としては最大の民族です。  アメリカはイラク内のクルド人は援助するのに、トルコ内のクルド人には 手出ししません。なぜなら、トルコはNATO加盟国だからです。  イラクのクルド人は哀れな少数民族ですが、トルコのクルド人は凶悪なテ ロリストだというわけです。  しかし、クルド人の自治権を一番認めているのはイラクであり、クルド人 を一番弾圧しているのはトルコなのです。トルコはクルド人の存在自体を認 めず「山岳トルコ人」と呼んでいます。是は日本の同化政策並みのひどい扱 いです。  しかし、国際社会ではえこひいきは当然のことなんです。  誰も他人なんかかまってはくれないのです。構ってもらうためにはなにか 相手に与えなければならないのです。NATOが中東の友好国としてトルコ を守るのは当たり前なのです。  日本人が外国に行ってもクルド人のように迫害されない理由は、日 本人一人一人の後ろに日本国があるからであり、日本が世界最強の国アメリ カと軍事同盟を結んでいるからです。そしてアメリカが日本と軍事同盟を結 んでいるのは極東の要衝であり、日本のお金が魅力だからです。でなければ こんな辺鄙な国はクルド人並みに扱われるのです。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 15:59:10
Name : 石井一旭 E-mail : Title : アジア的軍隊への恐怖 Comments: 現代情勢のお話が出たので、まあ時代区分でしか共通項はないわけですが、一つ 気になっていることがあります。他ならぬ北朝鮮のことです。 最近は週刊誌にまで「北朝鮮と自衛隊が(あるいは在日米軍が)戦ったならば」 といった特集が組まれていますが、私が不安に思うのは北朝鮮側の兵器の性能云々 よりも、彼らが正確な西欧的意味での「軍隊」であるか、ということなのです。 第二次大戦時の中国軍(国共共に)やベトナムを見ても分かるように、アジアの 「軍隊」は実は軍隊ではないのです。何故かといえば、「ゲリラ」というものを 容認、奨励さえしているからで、これでは近代軍隊とはとても呼べないわけです。 近代軍隊と私がここで言うのは数々の戦争に関する条約等(ジュネーブやハーグ) を規律正しく守っている軍隊のことなのですが、そもそも近代戦争の厳然たる 基本ルールとして、「軍隊は制服を着た軍隊同士で戦い、民間人を巻き込まない」と いうものがあります。 ところがさっき挙げた中国軍やベトナムは「ゲリラ戦術」で敵に当たりました。 ゲリラというのはやられる方は本当に相手国の住民を皆殺しにしなくては掃討 できない性質のもので、それだからこそ禁じられているのですが、彼らはその 「禁じ手」を手段として用いたわけで、結果として一般市民をも巻き込む 戦争に発展してしまったわけです。 そこで私が危惧しているのは、北朝鮮の軍隊は果たしてそのような「ルール」を 教育されているのか、ということです。もしそうでないとするならば、これは 近隣国として迷惑窮まりない話です。戦争がいざ起こった時、(起こらないことを 願いますが)一体どのような行動をとるか、分かりません。 北朝鮮の体制は「前近代的」なものであることは皆さんもお分かりでしょう。 あれはただの独裁国家です。私には彼らの態度はかつての清王朝末期のように 映るのです。即ち「アジア覇権国家」の体現のように見えるのです。 秀吉が攻め入ったとき、朝鮮の国王は「明の援軍を呼ぶべきだ」という主張に対し 「明の軍の略奪行為に比べたら、日本軍の略奪などかわいいものだ」と主張、 最後まで明軍の救援を渋ったということです。(事実、秀吉軍よりも明軍の略奪が 多かったという話もあります。) もしも北朝鮮軍がこのころの明軍の(あるいはWW2の中国軍の)悪い意味でのアジア的影響を残して いるならば、有事には非常に残酷な戦争が起こりうると思うのです。 略奪、虐殺、拷問、強姦、ゲリラ活動のオンパレードである「アジア的戦争」が・・・。 どうすることもできない問題ですが、不安に任せて書いてしまいました。 誤解や間違いがありましたら是非教えて下さい。私は、この考えが間違っていることを望みます。 Time : 1999/ 4/ 7(水) 12:45:25
Name : RUGOMA E-mail : Title : (続)「歴史家」と「好事家」 Comments:  みなさん、お久しぶりです。RUGOMAです。  唐突で恐縮ですが、石井さんに質問です。 >第二次大戦時の中国軍(国共共に)やベトナムを見ても分かるように、アジアの >「軍隊」は実は軍隊ではないのです。何故かといえば、「ゲリラ」というものを >容認、奨励さえしているからで、これでは近代軍隊とはとても呼べないわけです。 >近代軍隊と私がここで言うのは数々の戦争に関する条約等(ジュネーブやハーグ) >を規律正しく守っている軍隊のことなのですが、そもそも近代戦争の厳然たる >基本ルールとして、「軍隊は制服を着た軍隊同士で戦い、民間人を巻き込まない」と >いうものがあります。 >ところがさっき挙げた中国軍やベトナムは「ゲリラ戦術」で敵に当たりました。 >ゲリラというのはやられる方は本当に相手国の住民を皆殺しにしなくては掃討 >できない性質のもので、それだからこそ禁じられているのですが、彼らはその >「禁じ手」を手段として用いたわけで、結果として一般市民をも巻き込む >戦争に発展してしまったわけです。 >そこで私が危惧しているのは、北朝鮮の軍隊は果たしてそのような「ルール」を >教育されているのか、ということです。もしそうでないとするならば、これは >近隣国として迷惑窮まりない話です。戦争がいざ起こった時、(起こらないことを >願いますが)一体どのような行動をとるか、分かりません。  ということは石井さんは「一般人でない軍人ならばいくら死んでも  かまわない」とおっしゃりたいのですか?  意地悪な質問であることは認めます。しかし最近の現代情勢に関する  書き込みを見ていると、どうしてもみなさん机上の空論を述べている  ように思えてなりません。  例えば安部さんのような意見を、ユーゴの人々の前で言えますか?  ストイコビッチが仮にあの文章を目にしたらどのように感じるでしょうか。                   ↑  本来「弱者」「正義」などと社会的に認められている人々を例示して自分の説を補強  するやり方は、反論を無条件に封じてしまう威力を持ってしまうためあまり用いる  べきではないと自分は考えています。  そういった意味でこの表現を用いたのは卑怯なやり方かもしれません。    しかし、どうしても書かずにいられませんでした。  あまりにも当事者に対する配慮が無さすぎる。  自分は学生時代歴史を学ぶ目的として「過去を知り、現在を知り、未来を知り  日本を知り、世界を知り、そして自分を知るために」学ぶのだと初日の  授業でたたき込まれました。  その後様々な事情があり、また「勉強は必ずしも学校でやるものではない」  という結論に達したため、今は社会人として働いておりますが、歴史を  勉強し続けて行きたいという気持ちは変わっておりません。  そういった自分の目から見て、申し訳ないんですが今までの現代情勢に  関する書き込みを見る限りでは「好事家」の域を出ていないと思われました。  福田恒存の言葉を借りれば、「物事の関係を指摘すれば解決したと思いこんで  しまふ」傾向が皆さんにはあると思います。  繰り返しになりますが侮蔑的な発言を含んでしまった事を重ねてお詫びいたします。  最後に皆さんにお願いがあります。  「現代の問題に対して自分は何が出来るのか、それを考えること。」  その視点は忘れないようにして下さい。  別に政治家になったり国連や赤十字で働くことが全てではありません。  一般の学生、社会人として生きていきながら自分に何が出来るのか、  それを考えられるだけの知識や能力を身につけて下さい。  「アメリカは横暴だから」  「少数民族は差別されるだけだから」  それは事実です。しかしそれをふまえた上で何が出来るのかを  考える姿勢は忘れないで下さい。お願いします。 Time : 1999/ 4/ 7(水) 21:16:51
Name : RUGOMA E-mail : Title : ちょっと訂正 Comments:  いくら何でも「石井さんに対する質問」は誤読も甚だしいですね。  お詫びして撤回いたします。    ただ、中国や北朝鮮の「ゲリラ戦術」に対する恐怖があるにしても、  「軍隊は制服を着た軍隊同士で戦い、民間人を巻き込まない」  というのはいくら何でも空想論すぎるのではないのかな、と思ったのです。 Time : 1999/ 4/ 7(水) 22:51:18
Name : A E-mail : Title : RUGOMAさま Comments:  ご自身で訂正されながらの意見で、少し意見が申し上げにくいのですが、 ちょっと一言。   あまりに感情的な発言であるように思われます。  いわゆる国際法違反のゲリラ戦は軍服を着た者が死んでもいいという 意味でなく、非戦闘員を巻き込まない、という、目的のものです。  別に空想論を述べているわけではなく、戦時であっても、守るべき 最低限のモラル、という意味です。勿論、近代戦になればなるほど、非戦闘員 を全く巻き込まない戦争は困難にはなりますが、そのための努力を放棄して良いこ とにはなりません。  その意味で石井さんの書きこみ自体、机上の空論、あるいは、空想的などと批判 されるべき部分は含まれておらず、自分が何をできるか、を考えることと、現状認 識を述べることも対立することではありませんから、今回、お詫びの部分も含めて 私には感情的な発言としか思えません。  歴史を勉強したということと、現状分析的な議論をしている我々に、「物事の関 係を指摘すれば解決したと思いこんで しまふ」傾向が皆さんにはあるとの批判を されることともどうも関係があまりないように思われます。  軍人ならいくら死んでもいい、といった、あまりに感情的な誤読をして、それを すぐに書きこんでしまう姿勢も、歴史専攻だったと言われると、何か虚しいです。 Time : 1999/ 4/ 8(木) 08:05:57
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : どなたかご存知ですか? Comments:  皆様お久しぶりです。 きんたろう様の「砂鉄」を読ませていただいて、 思い出したのですが、記憶があいまいなので どなたか詳しくご存知の方があればご教示ください。  朝鮮半島には(当然かもしれませんが)古代に製鉄の高い 技術を使っていた記録はあるが、製鉄を行った場所・痕跡が 見つからないという話を聞いたことがあります。 それは本当なのでしょうか? また、なぜそうなってしまったのでしょうか? Time : 1999/ 4/ 8(木) 13:40:04
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 遅ればせながら Comments: ROGUMAさん、初めまして。 ご質問に答えようとしましたら、既にAさんが私とほぼ同意見の回答を(しかも 私が書くよりずっと文章の趣旨が分かり易い明快な回答を) なさっておられました。この場を借りてですが、代弁して下さったAさんにお礼申し上げます。 私も少々断定的な文章を書いてしまい、それが誤解を与える 結果を生んでしまったのかも知れませんね。 こういった現代情勢問題は過去の事象に関わる歴史問題と異なり、ともすれば、 >当事者に対する配慮が無さすぎる。 結果になってしまいます。(私も先の文章を書いた時は、初めに勢いに 任せてブァーッと書き上げてから、「こりゃいくら何でもまずい」ということで よりソフトに訂正したつもりです。私、文章を感情的に書いてしまうたちでして。) しかし、現代情勢問題というのは「過去」である歴史問題と違って、 我々の未来につながっていく、見過ごすことの出来ない問題であるわけです。 「臭い物に蓋」というか、「触らぬ神に祟り無し」というか、そういった態度では イケナイと、私は思うわけです。勿論、ものには限度がありますが。ウン。 念のため追伸(深刻には受け止めないで下さいね。) 勿論私は「一般人でない軍人ならばいくら死んでもかまわない」とは ちっとも思ってませんよ。結局「一般人がユニフォーム(軍服)を着たのが 軍人」なのですから。ハイ。 Time : 1999/ 4/ 8(木) 19:24:27
Name : RUGOMA E-mail : Title : 感情的な誤読 Comments:  Aさん、石井さん、こんにちは。RUGOMAです。  ご批判、厳粛に受け止めております。本当に申し訳ありませんでした。  確かに、あの文章を書き上げたとき、自分は感情的でした。  あの時自分は高校時代起きた湾岸戦争の時の友人の意見を思い出してました。  周りの友人は全て「イラクが悪い」という意見で一致してました。例えば・・・  「でも、イラクの言い分にも一理あるし、アメリカも随分横暴だよ。」  「そんなの関係ないよ。先に攻め込んだのはイラクなんだから。」  「イラクや中東の事情は考慮しなくて良いのか?」  「良い。アメリカに逆らって戦争に反対したら国際社会では生きていくことは出来ない。」  「戦争を回避する方法は?」  「無い。アメリカが決めたことには逆らえない。」・・・こんな感じです。  あの時何を言われても反論できず何とも言えぬもどかしさを覚えたのを  ここ数日の皆さんのやりとりを拝見しながら思い出していました。  しかし出てくる結論が「アメリカは横暴」「大国は傲慢」、そして何より  「現状やむなし」という結論ばかりなので、「本当に皆さん「不満はあるが  このままでよい」という結論なんですか?」ということをお尋ねしたかったのです。  それが石井さんへの誤読に基づく侮辱から書き出してしまい不要な不快感を与えて  しまったことは深く反省しております。本当に申し訳ありませんでした。 Time : 1999/ 4/ 9(金) 12:42:57
Name : 山村貞子 E-mail : Title : RUGOMAちゃんたら・・・・・。 Comments: で!何度もゆうけどー。何がいいたいわけぇ?だれかの意見にチェックいれるのはいいんだ けど、その問題についてRUGOMAちゃんは、どーおもってるわけぇー? Time : 1999/ 4/ 9(金) 21:52:31
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 鉄剣 Comments: みなさん、こん@@は、ノムさんも一人立ち?した事ですし、ハンドルネームを 「さっちー」から「勇者ロト」に統一させていただきます。 しかしまぁ、なんですねぇ。民族と国家、宗教というものは平和的な共存ができな いものなんでしょうか?既得権益を捨てるというのはなかなかできるものではない ようです。 大阪JF生様へ 朝鮮半島に製鉄遺跡が発見されていないというのは知りませんでした。やはり文献 史料が不足しているのが原因ではないでしょうか?日本のように記紀や風土記、万 葉集というような文献史料が多く残っていれば、古地名の変遷の確認や宮殿跡の比 定がしやすくなるので、遺跡も見つけやすくなるのです。文献史料が不足していれ ばたとえ遺跡がでてきてもその重要性に気がつかず、学術調査ができない場合があ るそうです。日本においても発掘調査による工期の遅れを避けるため、現場におい て「見なかった事」になってる遺跡も少なくないはずです。高速道路の工事やゴル フ場建設の時に偶然見つかった遺跡の方が多いと思いますので、偶然見つかったも のを保存、調査するためにはそれなりの信憑性が必要なのです。 しかも半島には「北」が存在しています。全土的な遺跡調査などは出来ていないの ではないでしょうか? もっとも、大規模な製鉄遺跡というのは日本でも吉備あたりにしか確認されていな かったと思います。出雲でさえ大規模製鉄の遺跡は見つかっていないのですから。 あと考えられるのは、古代の朝鮮半島では大規模な製鉄を行う必要がなかったとい う事もあるのではないでしょうか?祭祀の道具としての鉄器は村落単位では作られ ていたかもしれませんが、鉄製武器などは中国から輸入していたのかもしれません 。 日本の鉄器も古墳時代の終わりまでは大陸製のものばかりでした。有名な稲荷山の 鉄剣(銘文のあったもの)も中国の南東部の鉄と成分が合致しているらしいです。 Time : 1999/ 4/10(土) 00:24:38
Name : RUGOMA E-mail : Title : 修行し直して参ります。 Comments:  今回言いたかったのは最後に記したことです。  「(歴史上の問題は)自分の問題として考えるようにしよう。」  皆さんの今回の書き込みについては発言の根拠となる事実関係については  そんなに間違いがあるとは感じませんでした。ただ「結論」の部分になるとどうしても  納得できないものを感じてしまいます。「現状やむなし」というか、「このような事態が  起きるのは当然のことなのです。」「大国は横暴なものなのです。」といったような諦観・  黙認の結論ばかりが目立ち、改善を望む意見が殆ど見受けられなかったからです。  「じゃあRUGOMAさんにはなにか具体的な案があるの?」あるいは「結局ユーゴの空爆  には賛成なの?反対なの?」と聞かれそうですが・・・  すいません。自分も未だ「考え中」です。答えは出てません。前者の答えは強いて言えば「大学」の  「修身斉家治国平天下」  というやつですか、世界のことを考えるにはまず自分が人としてどうあるべきかを  考えて、「道徳」ってものを身につけて、それから・・・ってすいません。  全然具体的じゃ無いですね・・・  ただ、少なくとも世の中の矛盾に対して背を向けたり「こんなもんだ」と  すれた態度で接するのは止めようと思っています。  自分はKANAKさんとは短いお付き合いでしたが、最後に言われた通り  「専門教育」を受けた者として、安部さんその他の方々に議論の進め方の  問題点などを指摘してきたつもりでしたが、どうやら「修行」が必要だったのは  自分の方だったようです。どうもすみません。  しばらく勉強し直してくるつもりです。ちょっと投稿を控えますが、  戻ってきたときにはまたよろしくお願いします。  (まるで批判されたから逃げるようですが、他に家庭の事情もあるんです。  申し訳ありません。) Time : 1999/ 4/10(土) 00:29:34
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と言霊信仰・・・勿論関係ありません Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 今回は言霊に関して、例によっていい加減ですが、一寸考えて見たいと思い ます。 言霊(信仰)については、みなさんも興味を、お持ちだと思いますが、一応 定義としては次のものがあるようです。(ランダムです) 言語にこもる精霊、または霊力をいう。言葉に霊力がこもっているという信 仰は未開民族や古代史族に広く見られ、「ベーダ」や「旧約聖書」にも存在 した。・・・言霊は本来、神の発する詞章や呪言がその神の威力によって言 葉通りの効果を現すという信仰であり、のち神の言葉という意識が薄れて言 語自体の精霊が信じられるに至ったと、折口信夫は説いている。・・・また 、仏教の真言陀羅尼・念仏・法華唱題の行法や、教派神道の神理教など、一 面的には日本古来の言霊信仰の素地の上に成立したものということができよ う。・・・・ 「国史大辞典」 ことばに宿る霊の意。古代の日本人は、ことばに霊が宿っており、その霊の 持つ力がはたらいて、ことばに表すことを現実に実現する、と考えていた。 ・・・ことばに霊が宿っており、ことばとして表したことが実現するという 考えは、日本だけのものではなく多くの民族が持っていた。旧約聖書の「創 世記」に、「神が光りあれよと言われると、光が出来た」とあるのをはじめ として、・・・陀羅尼を尊重するのは、言霊の信仰の一種と考えてよいであ ろう。・・・ 「日本史大事典」 古代日本の信仰で、言語にやどる神霊。言語の霊妙な働き。「新潮国語辞典」 言語の持つ神秘的な霊力。言語にやどる神霊。あらゆる物に精霊の存在を認 める古代人特有の思考方法にもとづくもので、上代人はその用い方により人 間の禍福が左右されると信じていた。 「角川古語辞典」 言葉に内在すると信じられた霊力。言語が発せられると、その内容が実現す ると信じられた。 「岩波国語辞典」 古代日本で、言葉に宿ると考えられた霊的な力。ことばの不思議な働き。 「講談社日本語大辞典」 言葉に一種不思議な働きがあると信ずる考え。宗教的・信仰的な、また言語 学的でもある考え。 「三省堂新明解漢和辞典」 日本の古代から江戸期まであった言語観。言語に霊力がやどり、言語表現の 内容が現実に実現すると信じたこと。特に江戸末期の神秘主義的国学者が信 仰。 「平凡社小百科事典」 原始宗教に関する諸問題ーー ・・呪物崇拝(フェティシズム)の根底にある「呪力」(マナ)の信仰は、 言葉についても認められる。めでたい言葉はめでたい結果を生み、不吉な言 葉は不吉な結果をもたらすが、それは言葉がもつ呪力の作用によるものだと するのが「言霊信仰」である。・・・ 言霊信仰と修辞法ーー 以上「ヨゴト」「ホカヒ」「ヨミウタ」が古代文学のきわめて重要な部分を 占めていることを見たが、その根底にはめでたい言葉の呪力(言霊)はめで たい結果をもたらす、という言霊信仰があることは言うまでもない。 「言霊」とは言葉が内臓する霊力であって、族長や天皇に奉られる寿詞(ヨ ゴト)や寿歌は、その霊力によって族長や天皇の繁栄をもたらす、と考えら れたのである。古代歌謡における枕詞や序詞の修辞法も、言霊信仰がその発 生、発達を促した原動力である。 「日本語に探る古代信仰」中公新書 言葉に宿る霊ー忌み詞ーー 日本は万葉の昔から「言霊のさきはう国」といわれ、言語にすら霊の存在を 認める国である。そうした国柄だけに、歌ばかりでなく言葉そのものを大切 にし、それに神秘的な力がこもっているとする。人名ばかりでなく、動植物 、事物、行為にいたるまで、時と場合によってその本名を避けて忌み詞つま り替え名を用いる風習が今日に生きている。 「日本人のタブー」現代新書 内外の風気わずかに発すれば、かならず響くを名づけて声という。響きはか ならず声による。声はすなわち響きの本なり。声おこって虚しからず、かな らず物の名を表するを、号して字という。名はかならず体を招く。これを実 相と名づく。 「声字実相義」空海 現象世界で発せられる声も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれ であり、名もその本源的な声とつながる。だから名もまた単なる符丁ではな くて、名を呼ぶということは、単なる意志の伝達というだけにとどまらず、 古くから不可思議な現象をひきおこすと信じられた。・・・・ 古代インドにおいて、真実なる言葉が魔をはらい、福をもたらすとされてい たのも、このことと関連している。・・・・ ラテン語のカンターレは、歌うという意味であるが、もともと魔法にかける とか、呪術を行使するということであった。またドイツで名前をいうナーメ は、もとは本源的な言葉の威力によって、不思議をあらわすことでもあった。 古代日本における言霊の信仰も、状況は似ている。 「密教」岩波新書 以上の諸点から見ると、 1.人類共通の原始的精神現象として捉える場合。 2.東アジア、或いは古代人、と言う風に空間・時間を限定的に捉える場合。 3.日本、或いは江戸期、と言う風に更に限定的に捉える場合。 があるように思います。勿論これは対立的ではなく、同心円的に理解すべき でしょうが、言霊について議論する場合には一応念頭に置くべきだと思いま す。 Awajiは、基本的には日本(人)の特異性として言霊信仰を過大評価するの ではなく、1の立場から個別的にアプローチすべきものだと考えています。 「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神なり。」JOHN福音書 「子曰く、必ずや名を正さんかと。・・名正しからざれば、則ち言順わず。 故に君子これを名づくれば、必ず言うべくす。これを言えば、必ず行うべく す。君子その言に於いて、苟くもする所無きのみ」 「論語」子路編 ですね。 例えば別離の言葉で言えば、全人類的に次の2系統があります。 A群 see you again。 auf wieder sehen 。再見。いずれ近々。またね〜。 B群 good bye。leben Sie wohl。安寧ヒカセヨ。お元気で。ご機嫌よろしゅう。 この場合、B群は明らかに「言霊」的発想があると思います。(A群も?) 寿詞であれば、「Good bless you!」「万歳!」等も同様でしょう。 ただ「怨霊信仰」と同様に、「言霊信仰」についても日本(人)の精神構造 に、より多くの影響を及ぼしていることは認めるべきかも知れません。 その程度と、原因について、みなさんはどのようにお考えでしょうか? (上記のように、ヒンドゥー文化圏でより顕著に認められると言う見方もあ りますね。日本における平安初期以降の言霊信仰の定着と、密教思想との関 係も、より深く考察すべきかもしれません。) Time : 1999/ 4/10(土) 21:28:51
Name : きんたろう E-mail : Title : 見つかるといいですよね Comments: こんばんは。 「砂鉄」で大阪JF生様にせっかくレスをいただいたのによく分かりませんでした。 多分理由としては勇者ロトさんが言われたとおりだと思います。 エジプトでも高速道路の建設中に大規模な地下都市が発見されて、記録が事実 だったと話題になりましたが、結局調査の後(それも結構短期間)予定通り高速道路 が建設されたそうです。 残念です。 Time : 1999/ 4/11(日) 01:14:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : お返事ありがとうございました Comments:  勇者ロト(さっちー)様、きんたろう様 変な質問に対し、お返事いただきありがとうございました。 銅のことについては、比較的詳しく論じられていると 思いますが、鉄についての情報が少なく、 疑問に思っていることが多かったので質問させて いただきました。  おそらくはロト様のおっしゃる通りだと思います。 ただ、製鉄技術は、朝鮮半島から伝わったのだろうと 推測されるのですが、ひょっとすると、 技術者たちが何らかの理由でほとんど日本に移住し、 みずからの痕跡を消した可能性もあるのかなと この話を聞いた当時に(勝手に)感じたことを思い出しました。  銅と違って大量生産が可能な鉄は、武器の生産量から見ても 銅の文化圏を駆逐しやすいという話も聞いたことがあります。 日本史ではそのあたりの事情がどうなっているのか 良く分かりません。  さっちー様の邪馬台東移説批判のなかで、「なぜ京都でなく、 奈良なのか?」という問題提起がありましたが、 (銅・鉄に限らず)そのような何か文化圏の違いが影響を 与えている可能性はないでしょうか? 疑問は多くあるのですが、意見を構築するための知識が 不足していて、小生自身もどかしく思っています。 Time : 1999/ 4/12(月) 09:41:55
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 文化圏問題と出雲と大和の関係 Comments: しかし、まぁなんですねぇ。浅香光代とサッチー。どっちもテレビには映ってもら いたくないですねぇ。浅野ゆう子と田中美佐子がけんかしたんならともかく、あの 二人ではどちらにも味方したくないです。67と68やで。ほんま!ええかげんに せいっ!ちゅうんじゃ!というのはさておき、みなさん、こん@@は。 文化圏の話がでましたが、鉄の文化圏というのは存在しない?らしいです。という のは、鐸と剣のように偏在しているものではないからです。希少価値の高い時代が 長くつづいたため、大和朝廷の東北を除く日本支配が確定するまでは国内生産は、 極わずかなものだったようです。とくに剣などの高い技術が必要な鉄製品は、技術 者の大量流入がないと飛躍的には伸びないものらしいです。 鉄製品の国内生産には、鉄鉱山の発見が不可欠です。中国山脈における鉄鉱山開発 は戦国時代にピークをむかえます。吉川氏は鉄の生産によって中国地方では大きな 勢力に成長します。吉川の領地は広島と島根の県境辺りで交通の要衝とは言い難い 地区にあります。しかし鉄の生産技術を持つ事によって吉川は、中国地方の雄とな り得たのです。という事は鉄生産というのは門外不出の性格を持つ先端技術である という事です。鉱山を支配下に置いただけでは鉄は生産できないのです。技術者も まる抱えしなくては鉄が生産できないため、毛利元就は吉川氏を滅ぼさず乗っ取り を選択したのです。 この関係は古代の大和と出雲の関係と同じではないでしょうか? 大和朝廷は畿内や九州の勢力は武力平定という手段によって服属させましたが、出 雲に対しては穏便に、むしろ下手にでる事によって出雲の技術を手に入れたのでは ないかと推測しています。だからこそ記紀の記述においても出雲に配慮していると 考えています。出雲の王権は大和朝廷の支配下ではなくむしろ同等のものだったの でしょう。少なくとも天武朝のころまでには出雲を支配下に置いたのでしょうが、 それ以前については、果たして本当に出雲が大和の完全な支配下にあったのかどう か?疑問だと思います。 何故大和なのか? 三輪山は古代中国思想にある「泰山」として崇められていたのかもしれません。 ここで即位の儀式を行わなければ、正式な天皇=大君として住民を納得させられな かったのでしょう。オオモノヌシとオオクニヌシにより、西日本および日本海側の 勢力は緩やかな統一状態にあったのではないでしょうか? その後継として大和朝廷が成立するために三輪山に対する信仰を利用したのです。 崇神天皇は、その祖神であるアマテラスの御霊を宮殿から追い出してまで、大物主 を祭っています。これは九州からの移住者の人数が驚く程少なかった事の裏返しで はないでしょうか?つまり大和朝廷の始祖は、東遷、東征ではなく、逃亡してきた かもしくは婚姻を結ぶためだけに大和入りしたのではないかと推測しています。 Time : 1999/ 4/12(月) 11:19:27
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様 Comments:  ご意見ありがとうございました。 文化圏のお考え、納得です。 出雲と大和の関係もそうなんでしょうね。  大和移住の話も説得力がありますが、 こちらはもう少し考えさせてください。 (小生にはいくら待っても結論が出せないかも しれませんが) また、いろんなご意見お願いします。 Time : 1999/ 4/12(月) 12:15:26
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 古代への誘い Comments: たびたびすいません。 古代は歴史とはいえないかもしれません。所謂同時代資料というものがないからで す。記紀の成立以前については中国の史書を同時代資料として扱っています。 一般に魏志倭人伝とよばれているものが記紀以前の資料としては有名です。邪馬台 国の存在もこの記述によって証明されています。 しかし肝心の日本の記紀には邪馬台国の事は一行たりとも記されていません。邪馬 台国が大和朝廷の前身だとすると、こんな事があってもよいのでしょうか? 記紀選定の西暦700年頃には、中華との国交もあり、貴族達は三国志を知る機会 もあったと思います。にもかかわらず、大和=邪馬台と判別できる記述は記紀には 盛り込まれてはいません。かろうじて卑弥呼がアマテラスに比定できるか?といっ た所だけが、記紀と魏志の合致点なのです。 卑弥呼は魏志において「鬼道につかへ、能く衆を惑はす」と記されていますが、こ の「鬼道」とは一体なんなんでしょう?鬼という文字を使った点から考えると未開 民族における祭祀を連想させます。弥生文化というより縄文文化的なものつまり、 自然崇拝などの古代祭祀です。魏の使節はこの祭祀に儀礼的なものは感じなかった のではないでしょうか? つまり渡来系の祭祀とは全く違う祭祀であると考えたのではないでしょうか? 民衆の風俗についても大陸の南東沿岸の海人とよく似ていると記しています。 これは、邪馬台国が文化的に遅れた国だという事ではないでしょうか?他の倭の国 の風俗は記されてないようですが、九州の北部沿岸に跋扈したであろう渡来民族の 敵ではなかったはずです。今にも滅びそうだったからこそ魏の国に使節をおくり、 助けをもとめたのではないでしょうか? 私は魏の国と国交していたからといって邪馬台国が日本における最大勢力だったと は思えません。むしろ風前の灯火であったから魏に助けを求めたのではないでしょ うか?そうかんがえれば大和朝廷の原形は北部九州の渡来系勢力か、もしくはそれ に抵抗したであろう出雲や吉備そして南部九州の勢力、そして瀬戸内海に存在した 海人勢力の連合政権だったのではないでしょうか? 宇佐は九州のほぼ真ん中に位置しています。ここから北部九州に発生した渡来系の 勢力に南部に追いつめられたのではないでしょうか? 足利尊氏は「都落ち」で九州までいったん逃げました。これと逆に大和朝廷の始祖 は「都落ち」によって宇佐の地から大和へ逃げ込んだのではないでしょうか? 私は、神武天皇は大和へ逃亡してきた邪馬台国連合の中のどこかの国の王族だった のではないかと推測しています。逃亡中に各地の勢力に渡りをつけたのです。 だからこそ、大和朝廷は各地の勢力が祭祀した神を抹殺する事なく自分達の神話つ まり神の系譜に組み入れたのではないかと考えています。 まとまりのない投稿をしてしまいました。この問題は深く考えれば考えるほど、 迷路にはまっていくようです。 Time : 1999/ 4/12(月) 13:58:05
Name : 輔住 E-mail : Title : 盲点でした Comments: 勇者ロトさん、みなさんこんにちは こちらに投稿するのは本当に久しぶりです。 >私は魏の国と国交していたからといって邪馬台国が日本における最大勢力だったと >は思えません。むしろ風前の灯火であったから魏に助けを求めたのではないでしょ >うか? なるほどこういう考えもありますよね。 飛鳥時代の新羅と唐の関係を考えればありえます。 いわれるまで邪馬台国でそういう可能性を考えたことがありませんでした。 ありがとうございます。 Time : 1999/ 4/12(月) 17:46:30
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と邪馬台国・・・これも全く無関係ですね Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 出雲王朝から邪馬台国に関するご意見、楽しく拝読しています。 Awajiはご承知のとおり、タダノ仏像オタクですので、勇者ロトさんのご意 見を云々する能力はありませんが、以下ご参考までに。 >>しかし肝心の日本の記紀には邪馬台国の事は一行たりとも記されていま >>せん。邪馬台国が大和朝廷の前身だとすると、こんな事があってもよい >>のでしょうか? この点を含め、中国・韓国史書と記紀の記述相違については、概ね次の理 由によるものでは無いかと考えておりますが、如何でしょうか? 1.記紀が意図的に割愛したと思われる主要外交事項 A帥升、卑弥呼、倭五王等の中国(漢・魏・宋等)朝貢・册封・授号記事 B倭の新羅方面に対する度重なる侵略・人民掠取記事 C南韓における高句麗(公開土王)との交(敗)戦記事 2.割愛したと思われる理由 a日本列島内の他王朝(記紀記述者の立場では”偽朝”)の記事と考え(た かっ)た。 b中国・韓三国の自国史を飾る為の歪曲記事と考え(たかっ)た。 c神国思想(一種の倭中華思想)を語るべき「史書」には不適当な記事と 考えた。 を総合した理由であり、特にcが最大の理由では無いかと考えます。 ご承知のとおり「史書=正史」は大なり小なり「思想歴史書」の色彩を持 ちますが、「日本書紀」はこの点では東アジア諸国の中でも傑出?した「 思想歴史書」であり、「神国的中華?思想=万世一系思想」を最大の骨格 としております。 従って、先祖である倭王の中国朝貢・册封・授号、隣国に対する度重なる 侵略・掠取、南韓における敗戦・・・は敢えて割愛したのでは無いでしょ うか?(Bに関しては、度重なる侵略では”神の定めた必然”とは言えな くなりますね) >>鬼という文字を使った点から考えると未開民族における祭祀を連想させ >>ます。弥生文化というより縄文文化的なものつまり、自然崇拝などの古 >>代祭祀です。魏の使節はこの祭祀に儀礼的なものは感じなかったのでは >>ないでしょうか?つまり渡来系の祭祀とは全く違う祭祀であると考えた >>のではないでしょうか? 「鬼道」については道教との関係を指摘する説もありますね。 ここで仰る「渡来系の祭祀」が何を意味しておられるのか、良く分かりま せんが、魏志を読む限り韓半島よりも余程文化的に記述されています。 (韓半島はなお郡の支配下にある村落国家程度の段階で、魏の使節は外交 の対象とはみなしていません。)  男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於 會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈(*3)没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治 之東・・・・  其會同坐起父子男女無別人性嗜酒〔魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋 收爲年紀(*13) 〕見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其 俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盜竊少諍訟其犯法輕者没 其妻子重者没其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交 易有無使大倭監之 なお、縄文期から弥生期への変化は、概ね紀元前300年頃とされており、 卑弥呼は紀元200年から240年頃の弥生末期から古墳期にかけての人 物です。従って縄文文化との連想は一寸苦しいのでは? (最近行われた箸墓古墳調査では、「築造当初から後円部と同時に構築さ れたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器のうち、最 も新しいものは布留0式と呼ばれる時期の土器群であることや、周濠の埋 没時期、前方部での調査結果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合 わせると、箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造された事はほぼ間 違い無いものと考えています。」とされており、布留0式期であれば、ほぼ 紀元270年前後となります。 従って箸墓古墳に先行する巻向古墳群は、ほぼ卑弥呼生存時期と重なります。 これらよりAwajiは古墳時代初期の人物と考えています。) >>九州の北部沿岸に跋扈したであろう渡来民族の敵ではなかったはずです。 >>今にも滅びそうだったからこそ魏の国に使節をおくり、助けをもとめた >>のではないでしょうか? Awajiが魏志東夷伝を読んだ印象では、韓国南部に倭人の関与は認められ ますが、逆に倭国を脅かすような勢力は韓国南部には全く存在していない 様に思います。今にも滅びそうな国に対して魏が使節を派遣し、「親魏倭 王」の金印を与えるとも一寸思えないのですが? なお、Awajiは古田九州王朝説が発表された当時(昭和46年)は、邪馬 台国九州説に魅力を感じていましたが、その後の考古学所見から現在は大 和説に限りなく近づいています。 また、天照大神は弥生中期(紀元前1〜2世紀)、神武は弥生後期(紀元 100年前後)の何らかの事跡を反映したものでは無いかと想像していま す。 まあ、所詮はいい加減な想像ですので、適当にお聞き流し下さい。 Time : 1999/ 4/12(月) 23:50:40
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 司馬懿と曹爽 Comments: みなさん、こん@@は。輔住さん感想ありがとうこざいます。 Awajiさん、ご意見ありがとうございます。私も昨日の投稿文をつくり終わった後、 やはり邪馬台国は畿内か?と考えてしまいました。まだ私の中で邪馬台国問題は、 十分こなれてないようです。 記紀に邪馬台国の事が記されてない理由としては、Awajiさんがあげられた点が、 邪馬台国が大和朝廷の前身と考えると最も妥当な理由だと思います。しかし、別の 形をとって魏国との外交交渉を表わす方法もあったのではないでしょうか? 実際「三韓征伐」として半島との関係を改竄している例もありますし、例えば魏国 の方から国交を求めてきたように神話を造り直せばよい事だと思います。この点が どうにも納得できないのです。 「鬼道」の内容については、日本だけでなく中国の方でも研究が進んでいるらしい のですが、道教の初期形態を卑弥呼の鬼道と同義とされているようです。同じ魏志 の中にある「張魯伝」にも「鬼道」という言葉が記述されているそうです。所謂、 黄巾の乱という道教系の宗教集団の起こした乱についての記述の中で使われている ようです。しかし高句麗や百済の祭祀を表わす場合にも鬼という文字が使われてい ます。ここから推測すると魏志の編纂者は、自分が想像もできないような祭祀につ いて鬼の文字を使っているとはいえないでしょうか? 陳寿は晋に仕えた官僚です。儒教の祭祀、儀礼については勉強したでしょうが、そ れに相対する道教の祭祀については無関心だったため、得体の知れない神・祭祀を 「鬼」という文字をつかってあらわしたのではないかと推測しています。 倭国の祭祀は得体がしれない、つまり使節の話を聞いても理解できなかったために 鬼道という一種侮蔑を含んだ記述をしたとは考えられないでしょうか? 私がつかった「渡来系の祭祀」とは魏の役人達にも理解できる宗教形態の祭祀とい う意味です。 九州の北部沿岸に渡来した勢力とは、朝鮮半島からの渡来人だけでなく、呉と魏の 戦闘により難民と化した、魏呉の住民達も含まれます。彼らは難民とはいえ、当時 の最大の文明国からの渡来人です。ある程度の人数になれば相当な勢力となったと 考えています。魏や呉からの渡来人と彼らの持ち込んだ新文明が東夷とよばれた、 邪馬台国に様々な影響をもたらしたのではないでしょうか? 私は朝鮮半島からの渡来人は北九州より、出雲、越といった日本海勢力地域に多く 渡来し、北九州には中国本土からの渡来が多かったと考えています。 現在でも、中国南部からの難民は北九州に上陸する場合が多いですし、半島や中国 北部からは、山陰や北陸に多く上陸しています。この事からかんがえると潮の流れ は半島からは出雲や北陸に、中国南部からは北九州にたどりつきやすいのでは、と 推測しています。どなたか東シナ海と日本海の潮流に詳しい方はいらっしゃらない でしょうか? 私が邪馬台国が最大の勢力ではないかもしれないと考えた理由は、当時の魏国内部 の勢力争いを考慮にいれたからです。当時の魏には司馬懿と曹爽という二人の大物 がいました。彼らの内司馬懿は、魏の東部を平定するのが職務でした。西部を平定 した曹爽は大月氏国を服属させ朝貢させる事に成功しました。司馬懿はこれに対抗 意識をもち、海の向こうの小国、邪馬台国の使節が救援をもとめてやってきたのを 幸いに、倭国で一番の大国に仕立て上げ、曹爽の功に対抗したのではないかと推測 したのです。海の向こうであれば、だれも確認にはいかないでしょうし、司馬懿に とっては願ったりの状況だったのです。 こうして倭の大国に仕立てあげられた邪馬台国の救援要請使節は魏帝より「親魏倭 王」の金印と、魏の旗を頂いたのです。 と、強引な展開をしてしまいましたが、みなさんいかがでしょう? Time : 1999/ 4/13(火) 21:55:18
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と邪馬台国 U・・・そろそろ逃げ腰です Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 柄にもなく、邪馬台国議論にまで口出ししてしまって少し後悔しています が、ことのついでですので、もう少し続けさせて下さい。 >>やはり邪馬台国は畿内か?と考えてしまいました。まだ私の中で邪馬台 >>国問題は、十分こなれてないようです。 でしょうね。Awajiも何度も九州と畿内の間を行きつ戻りつなんです。 現在のところは、畿内に大きく揺れています。 ただ畿内とすれば、少なくとも瀬戸内から北九州までを勢力範囲としてい たことになりますので、倭国内は勿論のこと当時の東アジアではかなりの 大国ということになるのでは? >>別の形をとって魏国との外交交渉を表わす方法もあったのではないでし >>ょうか? 有り得ることだと思います。倭五王については「呉」との交渉という形で 婉曲的に記述されていますしね。ただ宋とは歴代継続的に交渉があり、時 代的にも約150年を隔てていますので、倭国内の伝承がより薄かったこ ともあるかも知れませんし、直接軍事的援助を受けた屈辱を完全に隠蔽し たかったのかも知れません。 >>道教の初期形態を卑弥呼の鬼道と同義とされているようです。・・・ >>しかし高句麗や百済の祭祀を表わす場合にも鬼という文字が使われてい >>ます。ここから推測すると魏志の編纂者は、自分が想像もできないよう >>な祭祀について鬼の文字を使っているとはいえないでしょうか? 仰るとおりですね。ただ「鬼道」をそのまま道教に擬することについては、 Awajiは少し懐疑的でなんです。要するにシャーマン的祭祀を含め、非儒 教的祭祀と考えておけば良いのでは無いでしょうか?従って >>それに相対する道教の祭祀については無関心だったため、得体の知れな >>い神・祭祀を「鬼」という文字をつかってあらわしたのではないかと推 >>測しています。倭国の祭祀は得体がしれない、つまり使節の話を聞いて >>も理解できなかったために鬼道という一種侮蔑を含んだ記述をしたとは >>考えられないでしょうか? 特に侮蔑的な意味はないと思いますし、非儒教的祭祀は夷狄は勿論、中国 内においても然程珍しいものでは無いと思いますが? >>九州の北部沿岸に渡来した勢力とは、朝鮮半島からの渡来人だけでなく、 >>呉と魏の戦闘により難民と化した、魏呉の住民達も含まれます。彼らは >>難民とはいえ、当時の最大の文明国からの渡来人です。ある程度の人数 >>になれば相当な勢力となったと考えています。魏や呉からの渡来人と彼 >>らの持ち込んだ新文明が東夷とよばれた、邪馬台国に様々な影響をもた >>らしたのではないでしょうか? 三角縁神獣鏡が呉から渡来した技術者によって製作されたという説もあり ますね。従って中国本土からの渡来人は充分考えられますし、文化的影響 力を及ぼした可能性はあるかも知れませんが彼らがロトさんが仰るように、 >>九州の北部沿岸に跋扈したであろう渡来民族の敵ではなかったはずです。 >>今にも滅びそうだったからこそ魏の国に使節をおくり、助けをもとめた >>のではないでしょうか? ような政治的・軍事的影響力を持っていたとは一寸考えにくいと思います。 魏が倭国に重大な関心を示したのは、仇敵である呉が倭国に勢力を及ぼし、 公孫氏の如く魏北部に軍事的影響力を及ぼすことを懸念したこともあるで しょう。従って仮に魏呉の住民達が倭国に対して政治的・軍事的影響力を 持っていたとすれば、当然魏志に記述されたのでは無いでしょうか? >>倭国で一番の大国に仕立て上げ、曹爽の功に対抗したのではないかと推 >>測したのです。海の向こうであれば、だれも確認にはいかないでしょう >>し、司馬懿にとっては願ったりの状況だったのです。こうして倭の大国 >>に仕立てあげられた邪馬台国の救援要請使節は魏帝より「親魏倭王」の >>金印と、魏の旗を頂いたのです。 ところで、そもそもロトさんが邪馬台国を滅亡寸前の小国とみなされる理 由は何でしょうか? 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之 張政等は倭国の土を踏み、皇帝にその状を報告している筈ですね。 彼等の調査が、まるっきり出鱈目とも思えないのですが? Time : 1999/ 4/14(水) 00:06:09
Name : Toshy E-mail : Title : やまたいこく Comments: 道教ですか。・・・・・・どうきょうといえば、私と同郷の金村暁投手、やって くれました。2試合連続完封勝ちだ。今年もタイトル、取ってくれよ! おっと。話題が少しずれましたが、Toshyです。 卑弥呼の「鬼道」というものは、ある説によると天文学ないしは天気予報みたい なものだといわれています。稲作のことはよく知りませんが、植える時期を間違 えると収穫がなくなるというもののようです。卑弥呼の「鬼道」とは、春分や秋 分を見分ける能力、あるいは天気の長期予報みたいなものかも知れませんね。 ところで、「鬼」という字は、「未開」ではなく幽霊をさす、つまり不気味なも ののことでしょう。中国では、未開人に対し「胡」「夷」という字をあてていま す。魏志倭人伝によると、「倭人」というように日本は「人」の字があり人間扱 いですが、朝鮮は「韓」という記載で「人」の字はついていません。邪馬台国は、 未開人ではなく、そこそこの文明国だったのではないでしょうか。中国語もおそ らく読み書きできたのでしょう。 なお「アマテラス=卑弥呼」説のほかには、日本書紀に見られる神功皇后と卑弥 呼とする説もあります。ちょっと時代が違うような気もするけど。それから、邪 馬台国の位置ですが、さほど中国から離れたところではないでしょうね。舟で何 日、という記述ですが、当時は手漕ぎですから、潮待ち、風待ちをあわせてだと すれば、そんなに大陸から遠いところとは思えません。 Time : 1999/ 4/14(水) 01:12:30
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 邪馬台国その後 Comments: おっと!Toshyさんも・・。Awajiさん、私もすこし後悔してます。 私が邪馬台国が滅亡寸前の小国だと思っている理由は、九州だからです。 大和説にたてばこの論理は立たないと思っています。 あと鬼の字については幽霊といったものを表わすだけではないはずです。 続きは夜帰ってからします。 Time : 1999/ 4/14(水) 07:43:17
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 鬼について Comments: 勇者ロト様、 話の展開を楽しませていただいております。 それで、ふと思ったのですが、 中国の星座28宿の朱雀7星(南)のひとつに鬼があります。 なにか方角的なものと関係ないでしょうか? 実は昔、わが娘といっしょに楽しんだ漫画「ふしき遊戯」からの 知識です。 Time : 1999/ 4/14(水) 09:27:45
Name : ノム E-mail : Title : おひさしぶりです。 Comments: しばらくこないうちにヤマタイ国ブームですね。 inaさんは参加しないのですか? 僕にはちょっと難しいようです。 Time : 1999/ 4/14(水) 11:36:35
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっとだけ Comments: こんにちは。 鬼といえば「鬼門」も有名ですよね。 天高く肥える秋に北東方面からやってくる騎馬民族の略奪が多かったからと いうことです。 この理由なのですが「この世のものでない」鬼に通じる道といったニアンスがある のではと思います。 Time : 1999/ 4/14(水) 13:07:26
Name : きんたろう E-mail : Title : 思いつき120パーセント Comments: こんばんは、みなさん。 古代の話もこれだけ盛り上がるとは思いもしませんでした。 さすがだと思います。 渡来人についてですが、朝鮮半島系の人達ばかりではなく、大陸系の人達も 数多く日本にたどり着いたのは確かなのではないかという気がしています。 例えば、対蝦夷で有名な坂上田村麻呂は後漢霊帝の末裔だという事ですから そこまで血統的に確かでない場合はかなりの数になったのではないかと思われます。 また、中国については私たち日本人はかなり誤解をしている点が多いと思うのです。 彼らは日本人が歴史を考える場合とは違って血縁的には古代人とは繋がりがりがない という点をもっと認識すべきだと思います。 例えて言えば、隣の家の住民が数年前に何処からかやってきたという具合なわけです。 その家自体が例え1000年の歴史のある家でも住んでいる人達は関係がないのです。 ちょっと横道にそれました。 例えば漢字の発音では「呉音」が独立してありますが、これは日本に到達した年代が 異なっているという事が説明されていましたが、どうしてこの音だけ特別なのだろう と以前から思っていました。 また以前香港やタイに行ったときに感じたのですが、単語が分からない状態で 聞くと広東語とタイ語、ベトナム語は非常に似ているように感じました。 16世紀末にあっという間にタイなど東南アジアまで進出した事を考えると 渡来人とは朝鮮系、中国系ばかりではなく、タイ、ベトナム系も数多くいた のではないかと勝手に推測しています。 また朝鮮半島でも任那があったとされるところは黄海寄りですから、南京から 船出した人達が任那に到着しなければ、北九州までたどり着いてしまうのは 当然の結果かも知れないと思います。 当時の朝鮮半島で国家意識というのは考えられませんから、北の「高句麗」地方 より、「斉」の方が近かったと考えても良いのではないかと思います。 魏志倭人伝についてですが、これは唯一の証拠書類という歴史的重要性は十分に 理解しているつもりですが、何しろ「白髪三千丈」と平気で記述する人達が書いた ものですからあまり当てには出来ないのではないかと思います。 そうした点から言えば勇者ロトさんが言われた「勝手に日本一の大国とした」 という意見はもっともな事だと思います。 いずれにしても魏志倭人伝から邪馬台国が何処にあったとか大和朝廷の前身である とかを推論することは「労あって役なし」のように思っています。 個人的には「〜たい」と発音していたのを漢字で表現したように思っているのでずが。 Time : 1999/ 4/14(水) 22:18:14
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と邪馬台国・・・最後に一言お許し下さい Comments: 勇者ロトさん、きんたろうさん、今日は。Awajiです。 Awajiとしては、これ以上邪馬台国に深入りすることは遠慮いたしますが、 最後に一言だけお聞きくださいますか? >>邪馬台国が滅亡寸前の小国だと思っている理由は、九州だからです。 >>大和説にたてばこの論理は立たないと思っています。 まことに失礼ですが、この「論理」は一寸苦しいような気がします。 ロトさんご自身が仰るように、邪馬台国が九州か畿内かは、現状では決め 手に欠けており、決着は付けられない状況ではないでしょうか? (Awajiは現時点では、畿内に傾いていますが新たな考古学上の発見次第で は何時でも鞍替えするつもりです。) 従って、九州説或いは畿内説を前提として、何らかの推論を展開するのは 如何なものかと思うのです。 また、仮に九州説に立ったとしても「滅亡寸前」とみなす根拠は余り無い と感じますし、魏志東夷伝における以下の各国の戸数認識に何らかの信憑 性を認めるとすれば、やはりかなりの大国と見ることが出来ると思います。 東夷伝 戸数記事 *扶余・・・・八万 *高句麗・・・三万 *東沃祖・・・五千戸 *わい・・・・二万戸 *邑婁・・・・??  この北部四国で約十四万戸となります。 *馬韓・・・・十余万戸(五十余国のゆるやかな連合体?) *辰韓(秦韓)四・五万戸(弁辰とすれば弁韓ふくむ?) *弁韓・・・・?? これらの南部諸国で約十六万〜二十万戸となります。 *倭    奴国・・・二万余戸       投馬・・・五万戸       邪馬台・・七万余戸    この三国だけで約十四万戸、北部四国に匹敵し、その他二十七国平均五千戸 としても合計二十五万戸は下らず、人口的には最低でも百万は十分有ります。 多少の誇大認識があるにせよ、韓国内部に魏の政庁(郡)があったのですか ら、あながち荒唐無稽とも言えないのではないでしょうか? そして邪馬台国に対抗する狗奴国が最低十万戸とすれば、九州内部に三十五 万戸・・・韓半島全域(満州の一部を含む)より多いことになりますね。 邪馬台国については、方向・日数・風俗等いろいろと矛盾する記事があり、 混乱を助長していますが、この戸数記事からは北九州説は無理があるような 気もします。 きんたろうさん、 >>何しろ「白髪三千丈」と平気で記述する人達が書いたものですからあまり >>当てには出来ないのではないかと思います。 >>そうした点から言えば勇者ロトさんが言われた「勝手に日本一の大国とし >>た」という意見はもっともな事だと思います。 「白髪三千丈」はあくまで文学的表現であって、一種の意識的ジョークです。 これと「史書」の記述姿勢を混同されるのは如何なものでしょうか。 「史書」は外交方針や国策の基礎となったものですし、史官はまさに命懸け で正史を記述しています。外国事情については当然錯誤や誤認はあったと思 いますが、魏志の場合はほぼ同時代の記述ですから、かなり信憑性は高いと 判断出来るのではないでしょうか? いろいろ申しあげましたが、所詮は仏像オタクの感想です。失礼の段はお許 し願います。 Time : 1999/ 4/14(水) 23:30:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 魏志倭人伝の信憑性について Comments: みなさん、こん@@は。今日は何故私が邪馬台国を滅亡寸前の国だったと考えたか について、書きたいと思います。 三国志をまとめた陳寿は、司馬懿に重用されて、後司馬炎の建てた晋に仕えていま す。彼の一族は蜀の諸葛亮から評価されず魏へ亡命したのですが、この確執から、 諸葛亮の評価を恣意的に貶めているといわれています。この一連の流れから、陳寿 は司馬懿を高く評価しているともいわれています。つまり司馬懿の功績について、 過大評価している可能性があるという事です。魏の明帝の時代、つまり邪馬台国の 使節が洛陽を訪問した時、司馬懿は遼東方面の鎮撫を担当していました。司馬懿の 唯一の対抗馬である皇帝一族の曹爽は邪馬台国の朝貢の前に、大月氏国つまりクシ ャン朝ペルシャの朝貢を成功させています。 当時、遠く離れた異国から朝貢使節がやって来るということは皇帝の徳が高いとい う評価に繋がりました。徳治主義の中国にとっては重大な出来事でもあるのです。 しかし朝貢は勝手にやってくるものは少なく、事前に朝貢する事をそれぞれの地域 に担当者を通して各地域の諸国に要求する事が多かったのです。 曹爽はクシャン朝ペルシャという大国を朝貢させる事に成功しました。司馬懿はこ れに対抗して邪馬台国を朝貢させたのです。 ここで重要な点は、クシャン朝ペルシャと同等の国でないと対抗できないという事 です。邪馬台国はクシャン朝ペルシャと同等の国でなくてはいけないために、その 国土や人口などを改竄させられている可能性があるのです。 そして、金印と親魏倭王の称号をおくった理由としては、呉を牽制するといった、 中国の国内事情も考慮にいれなくてはいけないと思います。 呉はこの当時東南アジアの諸国と軍事同盟をむすび魏の侵略に抵抗していました。 これは、交易を介しての結びつきを利用した同盟でもあります。倭国とも呉は、あ る程度の交流をしていた可能性があります。いわゆる三角縁神獣鏡という銅鏡は、 呉の職人の手によるものという説もあります。 邪馬台国を大国であると大陸に噂をながせば、呉にたいしての牽制にもなるのです。 こういった事情からも邪馬台国=大国であるという認識が必要となってくるのです。 また邪馬台国は魏にだけ朝貢したのか?という疑問もあります。上記のような情勢 の中では呉や蜀とも交流があった可能性も捨て切れません。しかし呉や蜀の記録に おいては、邪馬台国の記述がありません。 雄略天皇の時代の遺跡である稲荷山古墳の鉄剣には、蜀の官名らしき銘文が刻まれ ています。つまり蜀とも少しは交流があった証拠ではないでしょうか? 魏・呉・蜀の三国と交流を持ちながら、魏だけから冊封されているのは他の二国か らは評価されなかった。つまり実際は小国だったが、魏においては司馬懿に功をた てさせるため敢えて大国として遇されたのではないでしょうか? 以上が主な理由なのですが、私の中で東遷説に対して納得できないというのも、 邪馬台国が滅亡したと考える理由の内の一つなのです。 つまり、九州の王権である邪馬台国は、大和の王権とは別物として考えたいという 事なのです。 Time : 1999/ 4/15(木) 00:01:21
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: こん@@は、この件については、定説というものが成立していません。 確かに苦しい論理ではありますが、ただ申し上げたいのはこういう場所で 推測をたてるためには、ある程度のたたき台がひつようなのです。 このたたき台というのを、ここにいらっしゃる方がおそらく知っているであろう 井沢説に求めているだけなのです。つまり私がいう九州説とは井沢説という 事です。古田先生やその他の九州説を唱えられている先生方の説を全部知っている わけではありません。もちろん畿内説についても同様です。 仮定を前提としている以上、そこには重大な事実誤認もあるでしょう。 それを含んだ上で、楽しく議論するには貴方のような博識の方が必要なのです。 また私も自分の意見に固執する理由はありません。 可能性の一つとして、ここに書き込ませていただいているのです。 想像の多い説にたいして辟易なさっているのかもしれませんが、深入りする 事もまた、楽しくはないでしょうか? 今後もご意見お願いいたします。 Time : 1999/ 4/15(木) 00:33:29
Name : jin E-mail : Title : 「壹与」の名前について Comments: みなさんはじめまして。こんなところが有るならもっと速くに来ればよかったです。  今日は皆さんに僕の考えを聞いて欲しくて投稿しました。  以前、井沢先生の本(確か、卑弥呼伝説だったような...)の中に卑弥呼が 日巫女もしくは日向であると言うような説が有りましたよね。ならば、「壹与or台与 (台は旧字ですが)」はどうなんだと考えたことが有りました。その結果、僕の頭の 中では 、「壹与」ではなく「台与」であり、「とよ」ではなく 「ドゥヨ」もしくは「タイヨ」だったのではないかと思ったのです。 つまり、卑弥呼=日巫女・日向ならば、台与=太陽であり、さらに突っ込んで考えると、 日巫女と太陽の間に生まれた子=太陽(卑弥呼の子供ではないと思いますが)台与は 卑弥呼の血を受け継ぐ人だったのではないかと思います。  なにしろ、なんの根拠もないのでこれ以上どうともいえないのですか、皆さんどう思います? Time : 1999/ 4/15(木) 00:45:58
Name : Toshy E-mail : Title : やまたいこく Comments: 勇者ロトさんの「三国志」に関する補足です。 魏志倭人伝というのは、「魏はこんな遠くまで支配下にしているんだぞ」という、 ハッタリを書いていたという可能性が指摘されます。 先に記した通り、私は邪馬台国が大陸からはさほど離れていないと考えます。 九州王朝と考えるのが自然でしょう。 聖徳太子が隋にあてたという、有名な「日出ずる国〜」(中身、忘れた:笑)の書簡は、 その九州王朝からのもので、後日大和が九州を滅ぼした時に自分のものにしたとまで言う人もいます。 ところで勇者ロトさん、「諸葛亮の評価を恣意的に貶めている」というのは、 いかがなものでしょう。 どちらかというと、妥当な評価をしているのかも。 諸葛亮は「演義」により、過大評価される傾向がありますからね。 Time : 1999/ 4/15(木) 00:50:15
Name : jin E-mail : Title : 「壹与」の名前について Comments: みなさんはじめまして。こんなところが有るならもっと速くに来ればよかった です。  今日は皆さんに僕の考えを聞いて欲しくて投稿しました。  以前、井沢先生の本(確か、卑弥呼伝説だったような...)の中に卑弥呼が 日巫女もしくは日向であると言うような説が有りましたよね。ならば、「壹与 or台与(台は旧字ですが)」はどうなんだと考えたことが有りました。その結 果、僕の頭の中では 、「壹与」ではなく「台与」であり、「とよ」ではなく 「ドゥヨ」もしくは「タイヨ」だったのではないかと思ったのです。 つまり、卑弥呼=日巫女・日向ならば、台与=太陽であり、さらに突っ込んで考 えると、日巫女と太陽の間に生まれた子=太陽(卑弥呼の子供ではないと思いま すが)台与は卑弥呼の血を受け継ぐ人だったのではないかと思います。  なにしろ、なんの根拠もないのでこれ以上どうともいえないのですか、皆さ んどう思います? 下の投稿があまりにも読みずらかったので、書き直しました。すみません。 Time : 1999/ 4/15(木) 00:55:22
Name : jin E-mail : Title : 「壹与」の名前について Comments: みなさんはじめまして。こんなところが有るならもっと速くに来ればよかった です。  今日は皆さんに僕の考えを聞いて欲しくて投稿しました。  以前、井沢先生の本(確か、卑弥呼伝説だったような...)の中に卑弥呼が 日巫女もしくは日向であると言うような説が有りましたよね。ならば、「壹与 or台与(台は旧字ですが)」はどうなんだと考えたことが有りました。その結 果、僕の頭の中では 、「壹与」ではなく「台与」であり、「とよ」ではなく 「ドゥヨ」もしくは「タイヨ」だったのではないかと思ったのです。 つまり、卑弥呼=日巫女・日向ならば、台与=太陽であり、さらに突っ込んで考 えると、日巫女と太陽の間に生まれた子=太陽(卑弥呼の子供ではないと思いま すが)台与は卑弥呼の血を受け継ぐ人だったのではないかと思います。  なにしろ、なんの根拠もないのでこれ以上どうともいえないのですか、皆さ んどう思います? 下の投稿があまりにも読みずらかったので、書き直しました。すみません。 Time : 1999/ 4/15(木) 01:07:25
Name : jin E-mail : Title : 「壹与」の名前について Comments: みなさんはじめまして。こんなところが有るならもっと速くに来ればよかった です。  今日は皆さんに僕の考えを聞いて欲しくて投稿しました。  以前、井沢先生の本(確か、卑弥呼伝説だったような...)の中に卑弥呼が 日巫女もしくは日向であると言うような説が有りましたよね。ならば、「壹与 or台与(台は旧字ですが)」はどうなんだと考えたことが有りました。その結 果、僕の頭の中では 、「壹与」ではなく「台与」であり、「とよ」ではなく 「ドゥヨ」もしくは「タイヨ」だったのではないかと思ったのです。 つまり、卑弥呼=日巫女・日向ならば、台与=太陽であり、さらに突っ込んで考 えると、日巫女と太陽の間に生まれた子=太陽(卑弥呼の子供ではないと思いま すが)台与は卑弥呼の血を受け継ぐ人だったのではないかと思います。  なにしろ、なんの根拠もないのでこれ以上どうともいえないのですか、皆さ んどう思います? 下の投稿があまりにも読みずらかったので、書き直しました。すみません。 Time : 1999/ 4/15(木) 01:07:37
Name : jin E-mail : Title : 「壹与」の名前について Comments: みなさんはじめまして。こんなところが有るならもっと速くに来ればよかった です。  今日は皆さんに僕の考えを聞いて欲しくて投稿しました。  以前、井沢先生の本(確か、卑弥呼伝説だったような...)の中に卑弥呼が 日巫女もしくは日向であると言うような説が有りましたよね。ならば、「壹与 or台与(台は旧字ですが)」はどうなんだと考えたことが有りました。その結 果、僕の頭の中では 、「壹与」ではなく「台与」であり、「とよ」ではなく 「ドゥヨ」もしくは「タイヨ」だったのではないかと思ったのです。 つまり、卑弥呼=日巫女・日向ならば、台与=太陽であり、さらに突っ込んで考 えると、日巫女と太陽の間に生まれた子=太陽(卑弥呼の子供ではないと思いま すが)台与は卑弥呼の血を受け継ぐ人だったのではないかと思います。  なにしろ、なんの根拠もないのでこれ以上どうともいえないのですか、皆さ んどう思います? 下の投稿があまりにも読みずらかったので、書き直しました。すみません。 Time : 1999/ 4/15(木) 01:08:29
Name : ina E-mail : Title : "TOYOUKE or TAIYO" to Mr. jin Comments: I think your opinion is interesting. But the opinion that Toyo is "Toyouke Taisin" in Ise Jinguu Gekuu is thought to be more reasonable for me. Please tell me more your opinion about this point. Next time, I can write my opinion in Japanese. Sorry. Time : 1999/ 4/15(木) 01:44:01
Name : Toshy E-mail : Title : もっと、やまたいこく Comments: Awajiさん >「白髪三千丈」はあくまで文学的表現であって、一種の意識的ジョークです。 >これと「史書」の記述姿勢を混同されるのは如何なものでしょうか それそれ。 邪馬台国の話を記述した人たちは、ちょっと大袈裟な表現をしていたのです 人口もその例に漏れないでしょう。距離もしかり。 Time : 1999/ 4/15(木) 09:59:22
Name : ina E-mail : Title : 邪馬台国1 Comments: 邪馬台国との直接の関係があるかどうかを議論する知識が 私にはまだありませんが、私のこだわりたいのは宇佐八幡神 託事件でして、この記録のはっきりとした事件にこだわれば、 大和朝廷の起源を九州に求めるのはごく自然な考えに思われ ます。  その上で、畿内説をとれば、邪馬台国は衰亡した国家のうち の一つと考えられ、九州説を取れば大和朝廷の起源としての邪馬台国 が、また可能性の一つとして浮かんできますよね。  現在の議論は称徳の時代の議論とは少し雰囲気が変わり、面白いん じゃないですか?当然想像を自由にめぐらせていい、分野に思われます。  後、卑弥呼=アマテラス、台与=豊受大神の対応に着いては皆さん どう思われますか?(ちなみに私は九州説の人間) Time : 1999/ 4/15(木) 12:57:04
Name : ノム E-mail : Title : まってました。 Comments: inaさんの投稿を待っていました。 僕にはヤマタイ国についての知識が井沢説しかない のでみなさんの仮説を楽しみにしてます。 Time : 1999/ 4/15(木) 14:59:22
Name : 山村貞子 E-mail : Title : jinちゃんへ Comments: はじめまして。ちょっとその説は無理があるんじゃない?だって「たいよう」は 音読みでしょ。inaちゃんの「とようけ」には通じるかもしんないけどー。 ところでやっぱ「イヨ」じゃなく「トヨ」なの?いつの間にかわったの読みかた。 Time : 1999/ 4/15(木) 18:17:23
Name : きんたろう E-mail : Title : 謝謝 Comments: こんばんは。 Awajiさん、丁寧なレスをありがとうございます。 でも、昨日の投稿はタイトルどうり単なる「思いつき」です。 ただ、あそこの大陸に住む人達の「エトス」は正確性には欠けると言っても良いと 断言できると思います。 例えば「清貧でも三代」という有名な諺にしても、果たして三代も本当に食べていける のだろうかと単純に思ってしまいます。 確かに、当時と(ましてや異国)現代の日本とを比べるのは無謀ですが、中国は 果たしてそれほど略奪され続けても「富」が残っているのだろうかと思うのです。 多分大陸に住む人達にとっては「常識」である例え方を私たち日本人は「誤解」 しているきらいがあると思います。 もし方言が現代のものと近いのであれば「ヤマタイ」のタイは方言から来ているように 思うのです。 例えば「カンガルー」や「揚子江」などのように意志疎通が不十分だった場合と似ている のではないかと思います。 Time : 1999/ 4/15(木) 19:09:11
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と陳寿?・・・支離滅裂ですね Comments: きんたろうさん、勇者ロトさん、Awajiです。今日は。 これっきりにしょうと思いつつ、何か気になるのが邪馬台国の魅力ですね。 と言うことで、もう一言。 きんたろうさん、謝謝とはおそれいります。 >>ただ、あそこの大陸に住む人達の「エトス」は正確性には欠けると言って >>も良いと断言できると思います。 何時かも申しあげたのですが、Awajiは中国人は・・日本人は・・ユダヤ人 は・・と言う方には、どうしても抵抗感が抜けきれないのです。 人間は、ある社会(自然)環境に置かれれば、その思考・行動パターンが似 てくるのは事実でしょう。しかし当然のこととして、その環境が変われば、 そのパターンも変わりますね。これは近年100年の日本人の変化で我々が 身を持って経験したことだと思うのです。 この狭い日本においてさえ、かっては東北人と関西人の思考・行動パターン は違っていたと言われています。(或いは現在でも?) まして中国は全ヨーロッパに匹敵する「世界」です。華北と江南ではデンマ ークとスペイン程度の差があるかも知れませんね。 思想的にも法家から墨家、孔子・朱子から老子の広がりがある人達を一括し て断言するのは如何なものでしょうか? 勇者ロトさん、生意気なことばかり申しあげてすみません。 ただ、ロトさんが「やはり邪馬台国は畿内か?と考えてしまいました。」と おっしゃったので、そうなると邪馬台国小国説はどうなってしまうのだろう と思ったものです。 一寸ついでに陳寿の曲筆説について申しあげます。 この問題は、古田さんが「邪馬台国はなかった」で九州王朝説を提唱されて 以降、「臺の論理」「短里論」「行程論」と並んで延々と論争されたものだ と思いますが、Awajiの微かな記憶では、陳寿は宰相張華の後援により三国志 を執筆したものの張華の失脚により正史採用を拒否されものだと思います。 その際に諸葛伝で私怨を晴らしたと悪評がたてられたのですね。にもかかわ ず没後に三国志の優秀性が評価され、既に正史として認定された史書があっ たにも拘わらず、更めて正史に採用されたものだと思います。 このように正史認定には多くの知識人(政府高官でもあります)の評価を得 る必要があり、後世の評価も意識する必要がありますので、誤謬・誤認・誤 写は有り得ても、意図的曲筆は容易には為し得ないと思うのですが如何でし ょうか?(勿論絶対に無いとは、断言できませんが) >>また邪馬台国は魏にだけ朝貢したのか?という疑問もあります。上記のよ >>うな情勢の中では呉や蜀とも交流があった可能性も捨て切れません。 >>しかし呉や蜀の記録においては、邪馬台国の記述がありません。・・・ >>?魏・呉・蜀の三国と交流を持ちながら、魏だけから冊封されているのは >>他の二国からは評価されなかった。つまり実際は小国だったが、魏におい >>ては司馬懿に功をたてさせるため敢えて大国として遇されたのではないで >>しょうか? 蜀は一寸疑問ですが、呉とは何らかの交流があった可能性大だと思います。 しかし、卑弥呼が呉と連携を策した公孫氏滅亡後、直ちに遣使に踏み切った のは、魏・呉の覇権争いの帰趨を判断していた可能性がありますね。 また、三国志において外伝を持つのは「魏志」のみで「呉・蜀志」には無か ったと思います。これは晋は魏からの禅譲王朝であるため、三国志とは言う ものの魏正統思想に立っているためではないでしょうか? 従って、邪馬台国記事が呉志に存在しないのは、呉の邪馬台国評価とは関係 が無いと言う見方が有り得ますが、いかがでしょう? (Awajiは邪馬台国は、呉には正式に遣使していない、魏遣使は韓半島に魏郡 が設置されたため、韓半島権益維持の目的があったと考えています。) 或いは無知を暴露してしまったかも知れません。あくまでご参考にして頂け れば結構です。 Time : 1999/ 4/16(金) 00:12:03
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 邪馬台国東遷説 Comments: Awajiさん、みなさんこん@@は。 私が小国説を通していいたかったのは、東遷がなかったということです。 続きはまた夜にします。 Time : 1999/ 4/16(金) 09:40:14
Name : きんたろう E-mail : Title : うきうき Comments: こんにちは、みなさん。 ノムさんはパソコンをゲットしたのですか? Awajiさん、すみませんでした。 完全に私の表現力不足だったようです。 私も十把一絡げの捉え方には反対の立場です。 ですから以前Awajiさんが書かれていた >何時かも申しあげたのですが、Awajiは中国人は・・日本人は・・ユダヤ人は >・・と言う方には、どうしても抵抗感が抜けきれないのです。 という意見を読んだときは「我が意を得たり」と思いました。 そうした意識のもとに「あそこの大陸」と書いたのですが、やはりこれでは 大した違いはないですね。 それにしてもAwajiさんの文章にいままで以上の生命力を感じました。 これからもよろしくお願いします。 中国についての感想。 中国は距離的な広がりはほとんどヨーロッパに匹敵します。 これは人間の移動能力から考えると限界を超えた広さだということができる と思います。 中国語と呼ばれるものの中に北京語などが「方言」としてありますが、これは 事実誤認の原因になりやすいのではないかと思っています。 北京語と広東語を聴き比べてみると、これらがとても同じ言葉とは思えません。 これは広州に住む人達も「テレビ等で聞く」北京語は理解できないという 事からみても納得される方の方が多いのではないかと思っています。 (スーパーインポーズがながされています) 表意文字(漢字)の世界なので文章なら同じものになるということです。 ただそのような条件下にありながら中国という世界に存在するというのは 彼らにとっては「共通の意識」があるのだろうと思います。 (例えばヨーロッパ社会におけるキリスト教のようなもの) Time : 1999/ 4/16(金) 09:51:08
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 宮崎県 Comments: 宮崎県の都城盆地では、最近発掘が進んで、 日本最古の稲作跡や、多くの墓陵が見つかっています。 神武天皇が日向(宮崎県)から東遷して来たという江戸時代の定説は、 案外本当かもしれません。 魏志倭人伝は精読したことがないので私はよく解りませんが、 「古事記」に関して言えば、サイッキックな部分以外は、 語義通りの事実が起こったと考えて良いのではないかと私は思っています。 以前も書き込みましたが、 私は、邪馬台国は筑紫にあり、 日向から北進したクナ国(神武天皇)に滅ぼされて、 その後、東遷したと考えています。 Time : 1999/ 4/16(金) 16:06:40
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 安部さんへ Comments: と、いう事は、卑弥呼とイワレヒコはどちらが前の時代の人だとお考えですか? ヤマタイは大和朝廷の前身ではないという事なんでしょうか? 今日メールを送りました。ご確認下さい。 Time : 1999/ 4/16(金) 17:07:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 邪馬台国→大和朝廷への疑問 Comments: みなさん、こんにちは 邪馬台国論争楽しく拝聴してます。 私は畿内か九州かについては 明確な意見はありません。 ただ邪馬台国→大和朝廷には疑問点があります。 邪馬台国は男の王だと国が乱れてしまったため 再び女王が即位したとあります。 それなのに歴代天皇は基本的に男で 女性が即位する場合は後継者が 幼いための「代理」的な場合が多い。 邪馬台国→大和朝廷なら「女帝」が もうすこし多くいても不思議ではないような...。 以上あるど素人の疑問でした。 Time : 1999/ 4/16(金) 17:46:57
Name : 輔住 E-mail : Title : 検討外れな疑問でした Comments: 下記のこと書いてから思ったのですが 良く考えたら日本の天皇家も何度が 王朝交代説があるんだったけ! (私もそれは可能性が高いと思うので) まったく検討外れな疑問だったようです。 ご迷惑をかけました。 Time : 1999/ 4/16(金) 17:53:07
Name : jin E-mail : Title : 壹与or臺与 Comments:  貞子さん、壹与か臺与かは、定説がないみたいです。僕は、高校日本史しか とっていないのですが、その高校の教科書に出ていました。その教科書名と ページはまた後日調べてきます。  あのー、それと、粗朴な疑問ですが、魏志倭人伝に出てくる距離の表記っ て、皆さん、道のりで考えているんですよね?だとしたら、その時代の道を 復元しないとまず、解決できませんよね。(マラソンなんて、42.195kmの道 のりですが、スタートとゴールの距離は0kmなんて事もありますし。) 魏志倭人伝の道程の研究をしている人がどのように考えているのか知っている 人がいたら教えて下さい。 Time : 1999/ 4/16(金) 20:09:45
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 邪馬台国滅亡説 Comments: 皆さん、こん@@は。Awajiさん、お返事ありがとうございます。 九州説では小国、畿内説ではそうとは言えないというのは、確かに浅はかな考えで した。反省致しております。 今日は、もう一度魏志倭人伝をよみかえしてみました。といっても訳文なので、訳 した方の主観が混じっているかもしれませんが、それはおいといてもう一度小国説 を整理してみたいと思います。 1.陳寿の曲筆の可能性 三国志は、確かに魏略やその他の先行の史書よりも、その内容が優れているため、 魏の正史として認められました。これはAwajiさんの御指摘の通りです。 しかし、その主な点はあくまで中国の国内の内容についてです。これは魏・呉・蜀 の三国の紀伝についてのものではないかと思います。外伝である東夷伝などは、他 に比べるべきものがあったかどうか疑問です。しかも晋朝の時代の筆ですので、司 馬懿をはじめとする晋の王族の関与した事跡についても中立で有り得たかどうか、 という点も疑問です。成立直後から諸葛亮の伝について中立に欠けているという指 摘があった事も事実です。 2.邪馬台国の朝貢は、司馬懿の功でもある 邪馬台国をクシャン朝ペルシャに比肩する大国とする事によって魏朝廷内部の権力 争いを優位に進める事となり得ます。 3.邪馬台国はクナ国と戦闘状態にあった 卑弥呼と狗奴国の卑弥狗呼は、魏への朝貢以前から対立していた事が記されていま す。しかもこの記事の中で卑弥呼は「以って死す」と記され、死んだ事が確認され ています。戦乱状態において国の宗主が死ぬという事は戦闘においても劣勢だった 事が推測できます。いくら30国が配下にあるといっても宗主の不在は邪馬台国の 勢力を大幅に減らしたのではないでしょうか? 4.魏の張政の主導による後継者擁立 張政は卑弥呼の死の前後から邪馬台国入りし、邪馬台国の混乱を収拾するため、檄 を出し、壱与を後継としています。壱与を擁立するだけでなく檄を各国へ飛ばして います。これは軍事による援助を行い、強制的に邪馬台国を一本化させたという事 だと思います。 5.張政の帰国による再弱体化 軍事援助を主導した張政が帰国する事は、邪馬台国の再弱体化に繋がる事が考えら れます。卑弥狗呼についての記述がないので、檄に狗奴国が従ったかどうか疑問が あります。魏からの直接介入が途切れれば再び邪馬台国が倭国騒乱に飲み込まれる 可能性は高かったのではないでしょうか? 6.正始6年以降の朝貢 卑弥呼の死後の朝貢は行われたのかどうか?邪馬台国が大国であるなら、朝貢はそ の後も頻繁に行われた事と思いますが、その記述がみつけられません。これは私が 知らないだけかもしれませんが、宋書の五王の記述までの倭の記事を見た事がない ので。好太王の碑文では、倭は高句麗に手もなく捻られています。 もちろん半島まで攻めていってるので国内的余裕があったのかもしれませんが、 国家的な百済の救援ではなく、百済を祖国とする倭国に在住する百済系の倭人の事 かもしれないと考えています。この碑文にも邪馬台国という文字は見えません。 以上の考察から、邪馬台国は魏に朝貢を始めたころから、その国威は落ち始めたの ではないか、もしくは、国威が落ちはじめたからこそ魏との国交をもち魏の後押し による国威向上を狙ったとも推測できると思うのです。 呉の倭国方面への侵攻が開始されたから魏へ援助を求めたという考え方もできます。 畿内説、九州説どちらにたってもこの推測は一つの可能性だと思います。 神武の東征神話は、史実を投影しているとは思います。 しかしこの東征は邪馬台国とは直接関係がないと思っています。日向=ひむかは、 宮崎県だけでなく、太陽が上ってくるのが見える所という意味だと思います。 天孫系の神を祭る神社は現在の宮崎県内に多いとは思いますが、神話時代における 日向は南九州一帯を表わす意味があるのではないでしょうか? 私は神武の東征は、神武の逃亡もしくは婿入りではないかと考えてます。 神武の事跡は紀元前後の出来事であり、その当時三輪纒向を支配していた勢力は 出雲系、もしくは伊勢熊野系の勢力だったと推測しています。 これは、三輪山の神大物主が出雲系である事、熊野地方にも出雲の神の名が見える 事から、出雲と熊野は同系の祭祀を行っていた可能性がある事から推測しました。 Time : 1999/ 4/16(金) 23:34:50
Name : Toshy E-mail : Title : jinさんへ Comments: >魏志倭人伝に出てくる距離の表記って、皆さん、道のりで考えているんですよね? 道のりだけではなく、舟を出すのに風を待ったり、潮を待ったりする時間も含めて 水行十日 らしいですよ。かえってわけをわからなくしたかな。 Time : 1999/ 4/17(土) 00:59:11
Name : 山村貞子 E-mail : Title : jinちゃんへ Comments: 「いよ」も「とよ」もまだわかんないのねー。 昨日ちょっとしらべたんだけど、「とよ」は「豊」つまりー、「豊の国」の女 っていう説もあるそーよ。あっ、おへんじありがとね! Time : 1999/ 4/17(土) 13:27:20
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と邪馬台国妄想・・・お手柔らかに御批判下さい Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 あるいはシツコイと思われるかも知れませんが、乗りかかった船ですの で、もう1〜2言だけ言わせて頂けますか? >>しかし、その主な点はあくまで中国の国内の内容についてです。これ >>は魏・呉・蜀の三国の紀伝についてのものではないかと思います。外 >>伝である東夷伝などは、他に比べるべきものがあったかどうか疑問で >>す。 基本的にはおっしゃるとおりだと思いますが、陳寿三国志Bに先行する 三国志Aには外伝が無かったでしょうか?ご指摘の通り倭国の朝貢は魏 にとって輝ける栄光ですから、当然外伝があり倭に関する記述があった と考えるべきでしょうね。 とすると、三国志Aには戸数記事は無かったのでしょうか?郡太守が常 駐していた韓国諸国の戸数については、魏朝が把握していたと考えるの が、自然であり、その資料によって記述されていたと想像でき得ると思 うのです。 倭国については原資料があったかどうかは分かりませんが、数回にわた って使節が往来し、張政等は政治顧問的立場で駐在していたと思われま すので、何らかの報告資料があり、三国志Aにも記述されていた可能性 は否定できないと思うのです。 それでは、三国志Aと三国志Bの戸数に関する記事が相違していた可能 性はどうでしょうか?仮に、三国志Bで明らかに倭国の戸数記事が誇張 されていた場合、「魏略」等の作者は黙っていないでしょう。 何らかの注釈(或いは誤謬の指摘)がなされた可能性が大だと思うので す。 これらの点より、Awajiは三国志Aにも、ほぼ同様の戸数記事があった と想像することも許されるのではないかと考えています。 勿論、原資料である太守或いは使節の誇大報告があるかも知れません。 また、正確な戸数と言うより、各国の国力を相対的に示したものと見る べきかも知れません。しかし、これを立証することは不可能でしょう。 里数の一万二千は、確かに非現実的ですが、これについては古田さんの 短里説も考慮する必要があるでしょうね。 >>しかも晋朝の時代の筆ですので、司馬懿をはじめとする晋の王族の関 >>与した事跡についても中立で有り得たかどうか、という点も疑問です。 >>成立直後から諸葛亮の伝について中立に欠けているという指摘があっ >>た事も事実です。 このご指摘も尤もですが、陳寿三国志が晋王朝によって一旦拒否された のも事実ですし、父が馬謖に連座して諸葛亮に罰せられた私怨を晴らし たという非難も、結局は正史に認定されたところから、単なる誹謗中傷 であったと見ることが出来ると思います。 史書における曲筆・誤写論は畢竟決め手はありません。 「邪馬臺」か「邪馬壹」か、「臺与」か「壹与」かの誤写論も、「臺の 論理」にもかかわらず、決着はつかないと思われます。 Awajiも三国志記事には、当然のこととして、使節の報告段階からの誤謬 (誇張?)、陳寿の参照記録に関する誤認・誤解、後世の誤写の可能性等 は有り得ると思います。(ご指摘の曲筆も全く否定はいたしません) 従って、常にその可能性を踏まえつつ、なおかつ曲筆・誤認・誤写とは決 め付けないと言う態度で史書に接することが、シュリーマンの教訓だと考 えているのですが、いかがでしょうか? >>しかもこの記事の中で卑弥呼は「以って死す」と記され、死んだ事が確 >>認されています。戦乱状態において国の宗主が死ぬという事は戦闘にお >>いても劣勢だった事が推測できます。いくら30国が配下にあるといっ >>ても宗主の不在は邪馬台国の勢力を大幅に減らしたのではないでしょう >>か? 卑弥呼は「年巳長大=長大はオールドミスと言う意味ではありません」と 記述されています。したがって戦闘において劣勢故の死とは言い切れませ ん。むしろ年齢的に見て自然死と見るべきだと思います。 なお、「爲檄告喩之。卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」に関 して、松本さんは「爲檄告喩之、卑彌呼以死。」と読まれ、井沢さんもこ れを是認しておられる様ですが、これは90%以上の確立で誤読だと思います。 やはり「・・・爲檄告喩之。」で区切り「卑彌呼以死、大作冢。=卑彌呼 死すを以って、大いに塚を作る」でしょうね。 また、確かに宗主の死は勢力減に繋がりますが、その混乱状況で、なお径 百余歩と言う巨大な塚(古墳)を造り、奴婢百人を殉葬する余裕があった のですから、元々相当な勢力があったとは考えられないでしょうか? >>張政の帰国による再弱体化軍事援助を主導した張政が帰国する事は、邪 >>馬台国の再弱体化に繋がる事が考えられます。 「壹與年十三為王、国中遂定」ですから、幼女が纏め得たのですね。 また「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」ですから、張政を 送還しているのです。 逆に完全に邪馬臺国が勢力を回復したためとは考え られないでしょうか? >>邪馬台国が大国であるなら、朝貢はその後も頻繁に行われた事と思います >>が、 「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺、獻上男女生口 三十人 貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹 」(266年) が最期の朝貢記事ですが、奇しくも265年に魏は滅亡し、晋が建国します。 また280年には呉が滅び、286年には高句麗によって帯方郡が滅ぼされます。 つまり中国勢力は壹與時代には韓半島から次第に撤退するのですね。 おそらく、これが朝貢廃止の最大の理由では無いでしょうか? つまり、中国勢力が韓半島に進出すれば擦り寄る。撤退すれば冷たく訣別 するのが、ある意味では倭国外交の原点だったかも知れませんね。 >>好太王の碑文では、倭は高句麗に手もなく捻られています。もちろん半 >>島まで攻めていってるので国内的余裕があったのかもしれませんが、国 >>家的な百済の救援ではなく、百済を祖国とする倭国に在住する百済系の >>倭人の事かもしれないと考えています。この碑文にも邪馬台国という文 >>字は見えません。 ロトさんは、そのように碑文を読まれましたか? Awajiの読み方は少し違います。倭国は百済・新羅を膝下におくだけの力が あったと記述されていますね。それに対抗して公開土王は404年に倭国に一 時的に勝利したものの、結局韓半島南部から倭国の勢力を駆逐出来ず、412 年に早世したと読めると思うのです。 現実に、百済では406年に倭国によって擁立されたと見られる腆支王が420年 に没するまで王位を保っており、新羅では倭国の侵攻が継続していると思わ れますね。 なお、邪馬台国の名が見えないのは、3世紀における邪馬台国を中心とする 連合倭国が3世紀末から4世紀初頭には、おそらく倭国として統一的な姿に なったためでは無いでしょうか? (Awajiは、この統一期が崇神=御肇国天皇=ハツクニシラススメラミコト期に相当する と想像しています。) なお、方向記事とは矛盾しますが、邪馬台国に対抗した狗奴国は、「出雲・ 大和連合国」の残余勢力を含む「東海・関東連合国」=中心は毛野か?とし ておきたいのですが自信はありません。 以下既にご存知でしょうが、5世紀の状況を百済・新羅ではどのように認識し ていたか「三国史記」より抜粋します。 (蛇足ですが「尼師今」は当時の新羅の王号です。) 阿萃王六年(397年)王與倭国結好。以太子腆支為質。 実聖尼師今元年(402年)與倭国通好。以奈勿王子未斯欣為質。 阿萃王十四年(405年)腆支王(直支)梁書名映。阿萃之太子。 阿萃在位三年、立為太子。六年出質於倭国。十四年王薨。王仲弟訓解摂政、 以待太子還国。季弟礫礼、殺訓解、自立為王。腆支在倭、聞訃。哭泣、請帰。 倭以兵士百人衛送。既至国界。漢城人解忠来告曰。大王棄世。王弟礫礼、 殺兄自王。願太子無軽入。腆支留倭人自衛、依海島、待之。国人殺礫礼、 迎腆支、即位。妃八須夫人生子久尓辛 実聖尼師今六年(407年)春三月、倭人侵東辺。夏六月、又侵南辺、奪掠一 百人 実聖尼師今七年(408年)王聞。倭人於對馬島置営、貯以兵革資粮。以謀襲我。 我欲先其未發、揀精兵撃破兵儲。舒弗邯未斯品曰。臣聞。兵凶器、戦危事。 況渉巨浸、以伐人。萬一失利、則悔不可追。不若依嶮設関、来則禦之、使不 得侵猾、便則出而禽之。此所謂、致人而不致於人。策之上也。王從之 実聖尼師今十四年(415年)與倭人戦、於風島克之 訥祇麻立干二年(418年)王弟卜好、自高句麗與提上奈麻還来。秋、王弟未斯 欣、自倭国逃還 腆支王十四年(418年)遣使倭国、送白絹十匹 >>私は神武の東征は、神武の逃亡もしくは婿入りではないかと考えてます。 >>神武の事跡は紀元前後の出来事であり、その当時三輪纒向を支配していた >>勢力は出雲系、もしくは伊勢熊野系の勢力だったと推測しています。 逃亡者を王として迎える国家があるとは思えません。婿入りの場合も同様だ と思いますが? Awajiは、神武は「九州連合王国」のある部族王が「吉備王国」の一部を糾 合して「出雲・大和連合王国」の主力となっていた大和王国に侵攻・征服し た人物だと想像しています。(紀元1世紀頃?) 別の部族王(ニギハヤヒ)は平和的に大和王国に入っていたのかも知れませ ん。そして、神武或いはその子孫は大和・吉備を傘下に収めたことによって 、その後九州連合王国に対しても優位に立ったのでは無いでしょうか? ここで神武が大和・吉備連合国王(大和朝廷の前身)になったことを後世「 始馭天下之天皇」と称したのかもしれません。 (九州連合王国の中心は「倭奴国」であり、神武の大和・吉備王国に圧迫さ れ、盟主の象徴であった「漢の金印」を奪われまいと秘匿した?) その子孫の一人が崇神であり、倭国大乱の末、西日本の大部分を傘下とする、 より強固な連合王国(殆ど統一に近い)を形成し、その際に象徴的祭祀王と して親族の女性を立てた。これが魏志に言う卑彌呼・壹與でな無いかと想像 しているのです。 なお、女性を象徴的祭祀王とするのは、弥生初期から倭人の間にその様な伝 統があり、それらの女性祭祀王の諸々の伝承が「天照大神」に結実したとも 想像しています。(おそらく九州から出雲にかけての部族勢力の和戦・集合 離散にこの様な女性祭祀王が実際に活躍した記憶が保たれていた?) その後も各地方王の統一に対する抵抗はあったが、次第に中央の勢力が強ま り、高句麗の南下による韓半島権益の危機を通じて、一時的には分裂が深ま ったが結果的には倭人の結束が強固となったこともあるかも知れません。 つまり、一時的には韓半島南部における高句麗との覇権争いの渦中で、仲哀 が戦死し、その継承戦争に勝利した神功・応神期に連合王国中心王から名実 ともに統一倭国王となったと想像しておきます。 何時も、硬いことばかり申しあげて、批判的言辞が多かったので、恥ずかし ながら思い切って想像の翼を広げてみました。もとより細部については矛盾 もあり、自信はありませんが、たまには脱線もお許し願います。 Time : 1999/ 4/18(日) 11:29:27
Name : 勇者ロト E-mail : Title : シツコイなんて・・・ Comments: Awajiさん、「シツコイ」などとは思っていません。 私の邪馬台国に対する知識はまだまだだと確認できました。それに、今回の 話は、とても面白いといっては失礼かもしれませんが興味深い内容でした。 今後も是非邪馬台国についてお付き合い下さい。 Time : 1999/ 4/18(日) 13:40:28
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と卑弥呼妄想・・・ここまで妄想を広げていいのかな? Comments: 勇者ロトさん、輔住さん、今日は。Awajiです。 Awajiの妄想を真剣に受け止めて頂き、ありがとうございました。 輔住さん、 >>邪馬台国は男の王だと国が乱れてしまったため再び女王が即位したとあり >>ます。それなのに歴代天皇は基本的に男で女性が即位する場合は後継者が >>幼いための「代理」的な場合が多い。邪馬台国→大和朝廷なら「女帝」が >>もうすこし多くいても不思議ではないような...。 先般、卑弥呼の邪馬台国は大和朝廷の前身であり、ほぼ崇神期に相当する のでは無いか?と申しあげましたが、その場合は記紀に卑弥呼・壹与が女 王として出現しない。さらに特別な場合を除いて女王を立てる伝統が窺え ない。等の疑問があり得るでしょうね。 これに関して、Awajiの想像を申しあげておきたいと思います。 Awajiは、2・3世紀の部族王国連合、或いはこれが収斂する過程において は、宗教的権威の果たすウエイトが強く、祭祀王(シバシバ宗教カリスマ 的な性格の強い女性であった)と世俗王(軍事・行政を施行する男性)で は、前者が上位を占めていたのでは無いかと考えています。 (連合を象徴するのは祭祀王であった) しかし、4世紀以降は部族王国連合から、統一的王国に変化が進み、次第 に軍事・行政と言う現実政治のウエイトが強まったことにより、世俗王が 上位を占めるに至ったのでは無いかと思うのです。 特に5世紀に高句麗との覇権争いが激化したため、その傾向が一層強まり 彼等の記憶・伝承からも祭祀女王の存在が薄れていったのではないでしょ うか? 特に祭祀女王(基本的に世俗王の親族)は、原則的に独身であったため、 直系の子孫を残すことが無かったのに対し、世俗王は確実に子孫を残した ので系譜も明確に記憶され、その存在がより強く伝承されたと思うのです。 従って、卑弥呼や壹与は、記紀においては神との親密性が強調されている 倭迹迹日百襲姫(夜麻登登母母曽毘売)、倭飛羽矢若屋比売等に姿を変え て記述されている可能性があると思っています。 この伝統は、更に姿を変えて斎宮として微かに存続している。ナンテ妄想 しているのですが、一寸無理でしょうか?? Time : 1999/ 4/18(日) 18:33:24
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 邪馬台国は大和朝廷の前身なのか?1 Comments: みなさん、こん@@は、やっとタイガースが勝ちました。ヤクルトから野村監督へ の餞別かもしれません。ドラゴンズはしぶといチームになりましたね。 あんなチームに育てて欲しいものです。 Awajiさん、こちらこそシツコイようですが、先行の三国志に外伝があったとは私 は思えません。高校時代に三国志について調べた時、陳寿の三国志が選ばれた理由 は、「他の史書にくらべ簡潔で、幅広い内容である事」だったような記憶がありま す。この理由から考えても、東夷伝やその他の外伝についての記述が先行した三国 志より多彩だったと推測できます。つまり先行三国志には、戸数や道程までは記述 されていなかったかもしれないのです。 半島内の戸数は改竄しても指摘される可能性が邪馬台国に比べて高いと思われます。 しかも数字も実際的です。倭よりも交流が深かったでしょうし、大幅な改竄は不可 能です。Awajiさんの言われるように魏の政庁もあったようですし・・・・・。 しかし、この観点からの考察では水掛け論的になりそうですので、議論の方向性を 変えてみたいと思います。 私は史書を直接読み下す力もありません。従って曲筆、誤写を決め付ける恣意的な 読解はできません。井沢先生やその他の先生方の説から推論をたてている状態です。 RUGOMAさんに叱られるかもしれませんが、素人的な楽しみの一つだと思っています。 邪馬台国の時代は部族国家レベルという説が一般的です。部族によって支配者が別 れているような状態で、本当に邪馬台国が日本列島においての最大勢力だったのか どうか?という疑問は消せません。魏志倭人伝に記されていない大国がなかったと は考えられないのです。 出雲の荒神谷、加茂岩倉などの遺跡は一世紀前半に埋蔵された可能性が高いらしい のです。あれだけの青銅器を山の中に埋められるには相当な経済力と指導力をもつ 部族国家が出雲の地に存在した証拠だと思っています。 その出雲と邪馬台国の関係を考えると、倭国内の諸勢力はダンゴ状態だった可能性 が高いのではないかと推測しています。つまり統一への流れは「倭の五王」時代か ら始まったのではと思っています。 神武逃亡者説、婚姻による大和入り説は、「何故大和なのか」という疑問の回答と して考えました。東遷する理由がよく解らないのです。東征してまつろわぬ者共を 掃討するのが目的ならば、なぜ故郷に錦を飾らなかったのでしょう? 九州では、遠すぎて畿内以東の諸国を従える事が難しいという理由はあるでしょう が、それならば初めから大和入りせず、九州を固めるほうが先決だと思います。 しかも、神武がいなくなった九州地方は相当後世まで大和朝廷に反抗する姿勢を 見せ、熊襲や隼人として恐れられています。 そして大和入りの際に行動を共にした味方は極少数です。窮地におちいると、スサ ノオ型討伐で、脱出しています。今の大阪近辺でナガスネヒコに散々な目にあわさ れ撃退されますが、熊野廻りをしてまで、大和を目指す意味がわからないのです。 東征してきたのなら大軍を率い、堂々と大和入りすればいいと思うのです。 私は、大和は出雲王朝の版図だったと考えています。三輪山のオオモノヌシがその 痕跡なのです。出雲王朝は邪馬台国連合のような部族連合国家として畿内地方もそ の勢力下においていたのではないかと推測してます。 神武はその出雲系大和に入り込み、橿原の地を本拠としたのです。初めから王では なかったのです。ただ血脈を大和に持ち込んだ大和での初代という意味だと思って います。大和の地で出雲系の豪族達と婚姻をかさね、出雲系大和を徐々に乗っ取っ ていったのではないでしょうか? 婚姻を重ねた10代めに崇神が出雲からの国譲りを完成させ、大和の大王としての 地位についたという考えをもっています。祭祀を奪いとったのです。 小説みたいになってしまいましたが、今日はこのへんで失礼します。 Time : 1999/ 4/18(日) 23:06:54
Name : 勇者ロト E-mail : Title : みなさんに質問です。 Comments: みなさんこん@@は。この掲示板を覗かれている皆さんは邪馬台国はどこに あったとおもわれますか?根拠は希薄でも結構ですので私に教えていただけ ないでょうか?おおよそのお考えをお聞かせください。お願い致します。 Time : 1999/ 4/19(月) 08:12:32
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ちなみに Comments: 私は、北九州が六割、畿内が二割、その他の日本国内が一割、日本以外が一割。 といった感じです。簡単すぎてすいません。 Time : 1999/ 4/19(月) 08:57:57
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 神武東征 Comments: Awajiさん意見が合いましたね、 私も、卑弥呼とイヨが斎宮として生き続けていると思います。 斎宮は700歳という伝説、つまり霊力が代々受け継がれる、 とされていたようですから。 かじった日本神話の知識によると、 アマテラスノオオミカミは、大国主やスサノオに比べて、 新しく(7〜8世紀?)に意図的に作られた可能性が高いようです。 大和朝廷は、この順序でできたと私は考えています。 1、神皇三代が南九州を統一、伊予と土佐を征服 2、北九州の邪馬台国が出雲を征服、 3、南九州の神武天皇が出雲の残存勢力や吉備と同盟して 邪馬台国を征服(以後ヤマトと呼ぶ)、 4、九州のヤマトが吉備を征服、 5、ヤマトが大和盆地を征服 Time : 1999/ 4/19(月) 10:09:21
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: メールありがとうございました。 私は、カンヤマトノイワレビコと卑弥呼は、 全く同じ時代の人物と考えています。 Time : 1999/ 4/19(月) 10:13:47
Name : 輔住 E-mail : Title : 邪馬台国 Comments: Awajiさん、勇者ロトさん、みなさんこんにちは。 >祭祀王(シバシバ宗教カリスマ >的な性格の強い女性であった)と世俗王(軍事・行政を施行する男性)で >は、前者が上位を占めていたのでは無いかと考えています。 >(連合を象徴するのは祭祀王であった) >しかし、4世紀以降は部族王国連合から、統一的王国に変化が進み、次第 >に軍事・行政と言う現実政治のウエイトが強まったことにより、世俗王が >上位を占めるに至ったのでは無いかと思うのです。 なるほど、卑弥呼のシャーマン的性格からいって説得力がありますね。 邪馬台国の場所についてはどうも自分はわかりません。 あえていえば、畿内4割、北九州4割、中国地方2割。 ただ宇佐八幡の事件から現在の天皇家が九州になんらかの 関係があったのは間違いないでしょう。 東遷した理由は近くに強敵がいて、それに対応するためというのは どうでしょうか? (つまり後に足利尊氏が鎌倉ではなく、京都に幕府を開いたのと同じ理由) ちょっと支離滅裂になりましたので、この辺で。 Time : 1999/ 4/19(月) 12:42:02
Name : 山村貞子 E-mail : Title : どこ? Comments: あたしは、畿内が五割、北九州が四割、他が二割ってとこかしら。 根拠はないでーす。みなさんの記事からの想像です。 Time : 1999/ 4/19(月) 14:55:56
Name : 天狗党 E-mail : Title : はじめまして Comments: 初めておじゃまします。 井沢先生の掲示板なので、室町が話題かと思ってましたら、なんと! 「ヤマタイ」ですか。僕も興味があります。僕は、畿内地方だとおもいます。 東遷は卑弥呼以前だと思います。 Time : 1999/ 4/19(月) 15:30:37
Name : ろばのパン屋 E-mail : Title : なんだ Comments: なんだヤマタイ国やってるじゃないですか。 前回は私も感情的になってしまいました。すいませんでした。 ところで私は、九州中部だと思います。 畿内はヤマタイとは別の部族連合国家があったと思います。 Time : 1999/ 4/19(月) 15:44:51
Name : きんたろう E-mail : Title : きんたろうパンチ2!!! Comments: 北九州9割、畿内9分、そして韓国南部1分です。 理由は銅鐸が岡山付近ではっきりと二分されることと、コロンブスのように 「インド」と思いこんでいたのではとの推論からです。 Time : 1999/ 4/19(月) 16:39:10
Name : ina E-mail : Title : yamataikoku Comments: 私は宇佐10割です。 Time : 1999/ 4/19(月) 19:49:37
Name : Toshy E-mail : Title : 九州に Comments: 邪馬台国があったのでは、と私は思います。 「水行十日」という記録からの推測。 そんなに大陸から遠いところにはないでしょうね。 当時は地図などありません。 衛星写真みたいなものがあれば直線距離をとれますので、 大陸から十日で離れたところまでいくことが可能です。 しかし、当時はそんなものがありません。 陸づたいに舟をこぎ、島から島、という経路をとれば、 沖縄か九州ぐらいがやっとでしょう。 Time : 1999/ 4/19(月) 19:56:42
Name : 勇者ロト E-mail : Title : みなさんありがとうございます。 Comments: みなさん、こん@@は、うーん思ったより、見解が別れてますね。 inaさん10割ですか!すごい自信ですねー。しかも単独地点でくるとは。 思い切りがいいです。そういう姿勢は大好きです!(まじですよ) そういえばノムさんが登場してないですね、ちゃんと学校行っとうかー! おかあさまがうちの店にきて、「なんの連絡もないんよー」とぼやいてました。 これをよんだら家に電話する事!いいですね? すいません私用で使って貴重なページを使ってしまいました。 大阪JF生様とjinさんはどうなんでしょう?邪馬台国の位置については。 よろしければお聞かせ下さい。 Awajiさんは畿内の方にゆれているという事でしたよね。 斎宮についての見解は、すばらしいと思います。説得力のある説だと思います。 これについては、私の考察の中に入ってなかったので参考になりました。 ありがとうございます。 Time : 1999/ 4/19(月) 21:14:45
Name : ゆみこ E-mail : Title : わたしにもいわせて Comments: 邪馬台国は卑弥呼やトヨの時代は北九州。その後大和に東遷。 Time : 1999/ 4/19(月) 21:41:29
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と倭国俯瞰・・・思い切って言っちゃいます Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 勇者ロトさん、コメントありがとうございました。 邪馬台国の所在地については、現時点では次のように考えています。 畿内(大和)6割、北九州3割、その他(海外・架空を含む)1割 かって古田説出現当時=昭和40年代は、北九州6割でした。 逆転の最大の理由は、大和の初期古墳群の築造推定年代が、4世紀初頭から 3世紀中頃(卑弥呼と同年代)に引き上げられた事。縄文・弥生期における 集落集団(プレ国家)形成年代が大幅に引き上げられた事。4世紀の古墳が 量質ともに他地域を圧倒している事等によります。 安部さん、ご賛同ありがとうございました。 ついでと言っては何ですが、法隆寺問題・仏像成立問題・イザナギ問題。応 神問題等につきましても、お暇なときで結構ですからご見解をお寄せ下さい ますか? >>大和朝廷は、この順序でできたと私は考えています。 >>1、神皇三代が南九州を統一、伊予と土佐を征服 >>2、北九州の邪馬台国が出雲を征服、 >>3、南九州の神武天皇が出雲の残存勢力や吉備と同盟して邪馬台国を征服 (以後ヤマトと呼ぶ)、 >>4、九州のヤマトが吉備を征服、 >>5、ヤマトが大和盆地を征服 この想定に、凡その年代を入れて頂けないでしょうか? Toshyさん、 >>「水行十日」という記録からの推測。そんなに大陸から遠いところにはな >>いでしょうね。 度々、このご意見を提示されているようですが、 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王 之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳{革是 すぐ上に「南至投馬國水行二十日」とありますね、従って、この「南至邪馬 壹國女王之所都水行十日陸行一月」の起点が帯方郡か、伊都国か、投馬國か が議論されているのです。大陸からの行程と考えるのは、一寸シンドイと思 いますが? Awajiの想定は、先にお示ししましたが、以下に再度要約します。 (弥生期区分・古墳時代区分は通説と少し違っています。年代についても敢 えて大雑把に示しました。) 古代史については、殆ど無知識に近い仏像オタクの妄想ですので、様々な問 題があると思いますが、極めて大雑把な俯瞰図です。通説を無視した思い切 った想定ですので、矛盾点については徹底的にご批判下さい。タダチニヘンコウシマス (どちらかと言えば、出来る限り記紀に沿って考察したものです)    ロトさんも、こう言った形式で凡その俯瞰図を、お示し頂ければ幸いです。 1.弥生前期(紀元前300〜紀元前)  中国南部の米作民族が、北部漢人   (戦国〜前漢王朝)の圧迫に抗して大量に韓国南部から、日本列島西南 部に移住し、先住縄文人等と混血融和して倭人を形成した。   (彼等の先祖伝承や記憶が後世イザナギ神話に結実した。)   しかし、韓国は米作不適地が多く、主力は北九州・出雲に展開した。そ れらの諸部族が次第にプレ国家的発展をとげ、また吉備・大和方面にも 拡大していった。 2.弥生中期(紀元後から紀元100年頃)  北九州・出雲方面において次 第に部族国家が形成され、複雑な連衡合従(抗争)が生じた。1〜2に かけては女性(祭祀)首長の権威が高く、外交・戦争にも大きな役割を 果たした。この記憶が後世「天照大神」神話に結実した。   この頃九州北部の盟主「倭奴国」は韓国南部にも影響を及ぼしていたの で、後漢の韓国進出に応じて中国外交を開始した。    3.弥生後期(紀元100年から紀元200年)  これら部族国家が次第に地域 (同族)連合に統合され、それぞれより強固な連合国家(比較的緩い連合)   を形成していった。主要な地域連合は九州北西部、吉備瀬戸内、出雲大 和、若狭北陸(越)、東海、関東(縄文性が強い)であったが、必ずし も固定的では無かった。   *荒神谷遺跡は、ほぼこの2〜3頃に相当か?   この頃、九州北西部の部族王が出雲大和連合国の中心となっていた大和 方面への進出(出雲大和連合国は2の頃から、九州北西連合に圧迫され 中心を大和に移していた?)を企図し、盟主「倭奴国」の協力と、吉備 連合国の一部の糾合のもと大和侵攻を開始し、奇跡的に成功を収めた。  (この成功により邪馬台国の前身が畿内に成立し神武東遷神話となった。)   *従って、国を挙げての東遷についてはAwajiも否定的なのです。    なお京都盆地は、当時は排水技術の関係で、まだ未開地であり後世秦 氏等の努力によって開発されたと考えています。   出雲大和の一部の反抗勢は東海方面に逃れ、その一部となった。   *銅鐸の流れは、出雲から大和さらに東海に移動・発展していると判断 しています。   吉備から畿内を手中にした神武及びその子孫は、次第に北九州西北部連 合国に対しても優位にたち、西日本のかなりの部分に極めて緩やかな支 配権を及ぼすに至ったが、紀元150年頃からその支配権の強化に乗り出し 、激しい抗争を展開した。(倭国大乱)   その結果、邪馬台国を中心とする倭国が成立したが、その支配権確立の ため女性祭祀王の宗教的権威を大いに利用した。 これが女王卑弥呼である。(概ね室町幕府や豊臣政権初期程度の求心力?)    4.古墳時代初期(紀元200年から紀元300年 ) かくして西日本の大部分 (韓国南部にも影響を及ぼしていた)に支配権を拡大した邪馬台国は、 中国(魏・呉)の韓国進出をにらみ、中国外交を再開するに至った。   一方、東海関東勢力も狗奴国を中心として次第に連合を強化し、倭国 (邪 馬台国)に対抗したが、倭国が結束している限り、その対抗力は 弱かった。   この頃の倭国(邪馬台国)の権力を象徴的に示すのが箸墓を初めとする 古墳の巨大化である。・・・ほぼ開化・祟神期に相当。    5.古墳時代前期(紀元300年から400年)  倭国連合国の象徴であった卑 弥呼の死後、一時的に倭国の結束が乱れ、倭国内の旧出雲大和勢力に対 する懐柔等策等が講じられたが、最終的には倭国は安定し、さらに倭国 内の支配権を強化した。(徳川幕府成立時程度の求心力?)   さらに東海関東にも積極的に和戦両用の進出を行った。  (しかしながら、九州南部、出雲、吉備、越等の旧地方勢力の反抗の危機 は常に継続しており、これらが日本武尊伝承に反映された。)      また、韓国南部においては中国勢力の後退に伴い、国家形成の動きが進 み、百済・新羅が成立した。(340年〜360年頃)最南部の任那加羅に おいては倭国勢力圏にあったこともあり、それらの動きは鈍かったが徐 々に進行していた。   なお、中国外交は廃止され、戦乱を避けた漢系韓国人等の移入を推進し た。・・・ほぼ祟神から垂仁・景行・成務期に相当 6.古墳時代盛期(紀元400年から500年) 中国勢力の後退に伴い、高句麗 が巨大化し、韓半島南部に勢力を拡大したので、倭国との覇権を巡って 戦乱が拡大した。倭国は高句麗の騎馬戦法に苦慮し、一時は敗戦を余儀 なくされ国内も動揺したが(恐らく仲哀は戦死か?)、この混乱を収束 した神功は騎馬戦法も採り入れ、継承戦争に勝利し応神の即位に成功し た。   これを機会に、倭国の中央権力はさらに強化され、戦乱を避けた韓人の 大量移入もあって倭国の生産力も拡大した。これらを象徴するのが河内 ・和泉の世界的巨大古墳である。   また、韓半島においても、戦闘から外交手段の時代となり、所謂倭五王 の中国外交が展開された。しかし、所詮は中国は頼りにならないと判断 され、倭天下(中華)思想の発展と共に中国外交は廃止された。   この間百済・新羅の実力涵養とともに、韓国南部の倭勢力は後退を余儀 なくされた。(多くの任那加羅系人が流入した)   また、倭国大王の権力が飛躍的に高まったことにより、継承争いが激化 し、一時的に大王位空白時代も生じたが、大王一族の継体擁立により収 束した。 Time : 1999/ 4/19(月) 21:55:25
Name : Toshy E-mail : Title : やまたい Comments: Awajiさん、御返答ありがとうございます。 私も実は、書き込んだ後それを思ったのですよ。 (出発点はどこ??) 出発起点については、考えてみたいと思います。 ところで★ いちいち、「仏像オタク」を強調しなくても(笑) Time : 1999/ 4/19(月) 22:05:04
Name : jin E-mail : Title : 邪馬台国の位置 Comments: 邪馬台国の位置ですか、う〜ん、感情的には、鹿児島生まれですから、九州に あって欲しいななんて思いますが、実際は、九州が8割、朝鮮半島が2割かなぁ 遣隋使や遣唐使の時代でも十数隻の船の内1隻でも、2隻でも向こうの大陸に 着けばいいって言うほどの大変な旅だったでしょうから、十日でそんなに遠く まで来れるのかな?というわけで朝鮮半島が2割、同様の理由で畿内がなしと なっております。ただ、畿内でもいろんな発見が有ることを考えると難しくなりますが...。  そうそう、今思ったのですが、ちょっと前、邪馬台国は、滅亡寸前の小国だ ったという意見がありましたが、船を中国大陸まで着かせる事ができたこと を考えるとやっぱり、ある程度の国力はあったと思います。勇者ロトさんいか がでしょう? Time : 1999/ 4/20(火) 02:34:21
Name : jin E-mail : Title : 帝と女帝 Comments: 続いてでなんですが、邪馬台国は女王で、大和朝廷以後は、男の天皇が多い 事について、ちと、考えることが有り投稿します。 邪馬台国では太陽神を崇拝し、大和朝廷以後は現人神を崇拝しているような ふしがありますよね。もし、天照大神が、従来のような女性神ではなく、男性 神だとしたら、邪馬台国では男性神に仕える女性が大王になることや、それ が、大和朝廷では、天皇自体が神だから女性である必要がない(もっと言え ば、男性でなければいけない)という事に対し説明がつくような気がするので すが、いかがでしょう。  また、過去のログを読み飛ばしていることがありますんで、もう、決着 が着いたことに重複していたらすみません。 Time : 1999/ 4/20(火) 02:56:01
Name : 出雲人 E-mail : Title : 私も邪馬台国 Comments: みなさん、おはようございます。邪馬台国の話が盛り上がってますね。 私は、関門海峡近辺だと思います。やはり潮の流れなどをよむには、 地元の漁民でないと難しいと思います。 総合してかんがえると、北九州6割、中国地方西部1割、畿内1割、出雲1割、 その他1割です。 勇者ロトさんに質問です。出雲王朝が邪馬台国だという可能性はないので しょうか? jinさん、はじめまして。出雲出身の出雲人です。 船を大陸に着かせるには、大国である必要はないのです。 出雲の国には「モロタブネ」という手漕ぎ船が古代の船として 博物館などに展示されています。これは少々の嵐でも沈まない らしいです。ちょっと記憶が薄いですが、博物館の紹介コメント に書いててたと思います。 それに、船を運航していたのは、邪馬台国の国営?ではなく 交易や漁業しか産業のない壱岐や対馬そして隠岐の海人だと思います。 遣唐使の頃のような一隻が大きいのではなく、小さな船数隻に 別れて渡航したと思います。これならかえって沈みにくいのです。 私のおじいさんは隠岐で漁師をしています。潮さえ読めれば、 小さい船の方が早くつくらしいです。 しかも、大陸直行ではなく、朝鮮半島経由なんですから。 魏志倭人伝には、確かに倭国で一の大国とは書いてないですよね。 戸数比較で、大きいという事だとおもいます。邪馬台国連合以外 は記述してなくて、他にも国があるとすれば、大国というのは、 小国ではないにせよ、思い込みだったのかもしれません。 Time : 1999/ 4/20(火) 07:25:20
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 勇者ロト様 Comments:  皆様の熱の入った議論を楽しませていただいています。 意見をお聞きですけれど、うーむ、正直迷っていますが、 今のところ、まだ井沢説から出るところまではいっていません。 それぞれもっともなのですが・・・。 まったく優柔不断といわれそうですので、意見は控えています。 何か確信が持て始めたら発言します。どうもすみません。  ところでノム様心配ですね。 (やっといつぞやの「緑良」と違って助っ人が逃げずに戻ってきたのに・・ 関係ないか) 大学生活の最初にはめをはずしすぎると、ずるずるといってしまう人が 多いので、老婆心ながら心配です。 おーいノム様! ina様も発言されていますよ! こっちおいで! Time : 1999/ 4/20(火) 10:31:21
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生様、勇者ロト様へ Comments: みなさん、こんにちわ。 ロトさん、こんな所でへんな事言わないで下さい。 今日、家に電話します。 大丈夫です。学校にはちゃんと行ってます。心配し ないで下さい。このページも一日一回は見ています ヤマタイについては、まだよくわかりません。 Time : 1999/ 4/20(火) 16:34:58
Name : きんたろう E-mail : Title : なんと Comments: ノムさんじゃないですか。 こっちにも遊びに来て下さい。ところでパソコンはゲットしたのですか? 邪馬台国についてですが、当時は「日本人」はいない訳です。 (韓国人もいないと思いますが) ですから北九州、山口、韓国南部は同エリアと考えた方が「自然」のような 気がしています。 国境線がなかった時代であるということを第一に考えて見ようと思います。 Time : 1999/ 4/20(火) 19:12:01
Name : Toshy E-mail : Title : ところでAwajiさんは、 Comments: どこを出発地点とお考えでしょう。 私はやはり大陸から、としか思えないのですが。 (大陸といっても、広いけど。少なくとも朝鮮半島ではないと思う) Time : 1999/ 4/20(火) 22:59:32
Name : きんたろう E-mail : Title : 考えがまとまらないのですが Comments: 邪馬台国の200年前に同じく有名な「奴国」は福岡県にあったと思われますが 邪馬台国との関係はどうなんでしょうか。 また大和の葛城氏も相当有力だったらしいです。 Time : 1999/ 4/20(火) 23:13:51
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と邪馬台国いろいろ・・・ Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 Toshy さん、実はAwajiはかって20年ほど以前に、かなりの邪馬台国オ タクだったのですが、あるきっかけで邪馬台国とは絶縁し、仏像オタクに変 身したのです。書籍もほとんど処分してしまいました。 従って、ほとんど当時の記憶でコメントしていますので、邪馬台国の最新情 報については無知識であると自分に言い聞かせているのですが、お耳障りで あれば取りやめます。 >>どこを出発地点とお考えでしょう。私はやはり大陸から、としか思えない >>のですが。 >>(大陸といっても、広いけど。少なくとも朝鮮半島ではないと思う) 申しあげたつもりなのですが、 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王 之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳{革是 ですから、 1.投馬国から(通説であった路程説) 2.伊都国から(榎さんの放射説) 3.帯方郡(あらゆる記事の起点です。古田説) の順に可能性があるとされています。しかしAwajiは榎説を支持しますので、 伊都国説です。中国大陸直行は絶対に有り得ません。 出雲人さん、 >>私は、関門海峡近辺だと思います。やはり潮の流れなどをよむには、地元 >>の漁民でないと難しいと思います。・・・・ すみませんが、これって邪馬台国の所在と何の関係があるのでしょうか? 邪馬台国が北九州にしろ、畿内にしろ、出雲人さんご自身がご指摘のとおり、 対馬海峡や関門海峡の海人族等は当然支配下に置いていたのではないでしょ うか? >>邪馬台国連合以外は記述してなくて、他にも国があるとすれば、 他の国として、狗奴国が記述されているのは、ご存知のとおりですが、その 他にも記述はありますね。ただし詳細は不明です。(九州説では「復有國皆 倭種」を吉備・大和としているようです。Awajiは倭国・狗奴国以外に倭地 に大国があれば、当然魏の使節は報告すると思っているので、他に見るべき 国は無かったのでは?と判断しています。勿論、邪馬台国側が秘匿した可能 性もあるんですが。)  女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千 餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島(*1)之上 或絶或連周旋可五千餘里 jinさん、 >>実際は、九州が8割、朝鮮半島が2割かなぁ 失礼ですが、魏志東夷伝(倭人条)をお読みになってのご意見ですか?  從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千 餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所居絶島(*1)方可四百餘里土地山險 多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千餘 里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許 家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴  又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱(*2)山海居草木茂盛行不見前人好捕 魚鰒水無深淺皆沈(*3)没取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄(*4)謨 觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰ジ (*5)馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有 千餘家 それとも韓国(狗邪韓国)をへて、海を渡り對海國(対馬?)・一大國(壱 岐?)を経て末盧國・伊都國に着く行程は全て出鱈目というご認識でしょう か?朝鮮半島が2割というのは良く理解できないのですが、そのようにお考 えになった理由をお教え頂けますか? ところで、かっての邪馬台国オタクとして、 勇者ロトさんのコメントにより、倭国(或いは邪馬台国)の大国・小国論が 議論されていますが、この場合、議論を有効に進めるために、大国・小国の 定義を統一しておく必要があるのではないでしょうか? Awajiはロトさんのコメントに基づき、次のとおり定義すれば良いと思いま すが、いかがでしょう? 1.相対的大国・・・倭地(日本列島)の諸連合国の中で最大級。   相対的小国・・・倭地(同)の諸連合国の中では、他により大きな連合 国があり、最大級ではない。 *この場合、扶余・高句麗等との戸数比較は問題とせず、単に倭地(より正 確に言えば、東北地方を除く日本列島の主要部分、或いは九州・中国・四 国西部とされる立場もあるかも知れませんが)における相対的大小のみを 議論のポイントとする。 2.絶対的大国・・・十万戸以上   絶対的小国・・・二万戸以下 *魏志東夷伝では、扶余八万戸、高句麗三万戸と記述されています。  これらの国は、中国にとって衆知の国ですから、あまり誇張はないと思い ます。従って、扶余よりも大きい国であれば(と認識されていれば)大国 とし、高句麗より小さければ(同)小国とする。 ロトさん初め、皆さんが倭国(或いは邪馬台国)を大国・小国と言っておら れるのは、どの意味(レベル)なのでしょうか? Awajiは、東夷伝に一定の信憑性を認めていますので、倭国は二十五万戸に 近い(と認識された)大国であり、その中心国である邪馬台国は七万に近く (同)、北九州のみでは、十万戸程度??であり、これに対抗した狗奴国は 少なくとも十万戸に近いと考えています。(倭地全体では概ね四十万戸以上?) 従って、相対的にも、絶対的にも大国とみなしています。 かつ、この点からも倭国は北九州に止まらず、ほぼ西日本の大部分(中心国 の邪馬台国は畿内)と見るほうが妥当だと考えているのです。 (勿論、東夷伝曲筆論に立てば、この戸数比較そのものがナンセンスになり ます) また、卑弥呼時代から約百数十年後に南韓で、百済・新羅に対し圧倒的優位 に立ち、巨大化した高句麗に対抗するためには(渡海作戦を考慮すれば)、 既に卑弥呼時代には、この程度の国力が備わっていたとも思っています。 (これも、好太王碑文別解釈論、三国史記曲筆論に立てば、ナンセンスですが) なお古田説では、魏志東夷伝・好太王碑文・三国史記を是認した上で、なお かつ邪馬台国博多湾岸説・・・天智時代まで九州王朝存続としておられます。 また、邪馬台国宇佐説はAwajiの知る限りでは名探偵 神津恭介氏によるも のですが(著者高木さん)、当時小説家の倫理に関して黄道説のパクリ等で、 古田さんや松本清張さんに徹底的に非難され、かつ宇佐周辺には弥生遺跡、 主要古墳が極めて少ない(宇佐神宮の下ぐらい?)こともあって、全く賛同者 が無かったように記憶しています。 (これも遺跡未発見論に立てば、問題ないかも知れませんが、少なくとも現 段階で論じる限り、ほとんど説得力はないと思っています。)  國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國〔案今名邪摩惟音之訛也〕樂 浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東 冶之東與朱崖擔(*2)耳相近故其法俗多同(後漢書)  其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里  男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會 稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈(*3)没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍 以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東 ついでに帯方郡から邪馬台国の距離一万二千里についてですが、現在我国で は一里は約4kmですから、48,000kmになりますが、漢・唐代では 約400mとされ、4,800kmとジャワ島周辺?になります。 しかし、古田さんは三国志の多くの例から魏・晋代には約80mの短里が使用 されていたと主張されています。(後漢書も魏志をそのまま記載) もし仮にそれが成立するならば、約1,000kmになるのですが、帯方郡 の推定地から会稽までが直線距離で約1,000km、同じく北九州を経て 大和までが約1,200km強となり、方向を無視すれば凡その近似値にな るのですが、良く分かりません。単に偶然かも知れませんね。 (其西北界拘邪韓國七千餘里とは少し矛盾します) 方向的には会稽・東治の東にあると記述されていますが、緯度的にはほぼ種 子島周辺?に相当します。(古田さんは東治・東冶については別解釈です) 恐らく中国の伝統的地理感覚では、倭地は南に伸びた島だと考えられていた ようで、陳寿は、魏使の報告書には東と記述されていたのを、この感覚・風 俗に従い南と改変した可能性もあるかも知れないのですが、これも良く分か りません。 Time : 1999/ 4/20(火) 23:25:03
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と魏志東夷伝倭人条・・・ご一読願います Comments: みなさん、再びAwajiです。 みなさんが邪馬台国について、いろいろ発言されるのは、とても素晴らしい と思うのですが、ヒョットシタラ魏志東夷伝倭人条を、お読みになっていな いのでは?と思われる発言が散見されます。 ついては、余計なことかも知れませんが、一応「倭人条」のみ掲載いたしま す。まだお読みになってない方は、どうぞ御一読願います。 漢文が苦手な方は「岩波文庫33-401-1 魏志倭人伝外」「ちくま学芸文庫 正史三国志4 魏志W」をお勧めします。 ◎『魏志』倭伝全文  いわゆる『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、正しくは『三国志 魏志』 巻30・東夷伝倭人条ということになる。  この『三国志(さんごくし)』は、3世紀末に晋の陳寿(ちんじゅ)(233 -297)によって書かれた『魏書(ぎしょ)』30巻・『呉書(ごしょ)』20 巻・『蜀書(しょくしょ)』15巻から成る中国の正史である。内訳は、魏 の本紀・列伝、呉の列伝、蜀の列伝であり、呉・蜀には本紀がない。また、 それぞれ、『魏志』『呉志』『蜀志』と通称される。  『魏志』巻30・東夷伝の最後に、「倭人伝」がある。古くは、魚豢(ぎ ょけん)の『魏略(ぎりゃく)』を第一史料としたと考えられていたが、近 年の研究により、両者がほぼ同時期に成立したことがわかり、両者が同一の 史料をもとにしたとする説が主流になった。  以下は、百衲本『三国志』を底本として、ほぼ忠実に原文を再現したもの である。また、文節の区切りについては、岩波文庫版『新訂 魏志倭人伝・ 後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(石原道博編訳 1985)を参考 にした。  現存する『魏志』には、南朝宋の裴松之(はいしょうし)が元嘉6年(4 29)に施した注、いわゆる「裴注」がついている。ここでは、〔〕でそれ を明記した。  原文中で、該当する文字フォントの無いものについては可能な限り代用字 で表記し(*) でその個所を明記した後、正しい字体を文末に示した。また、 文字を組み合わせることで表現できる場合は、{}で表記した(例:「訳」 ={言尺})。 【原文】  倭人在帶方東南大海之中依山島(*1)爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所 通三十國  從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千 餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所居絶島(*1)方可四百餘里土地山險 多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千餘 里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許 家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴  又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱(*2)山海居草木茂盛行不見前人好捕 魚鰒水無深淺皆沈(*3)没取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄(*4)謨 觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰ジ (*5)馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有 千餘家  南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王 之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳{革是} 可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳  次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次 有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼 國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏 奴國次有奴國此女王境界所盡  其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里  男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會 稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈(*3)没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍 以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東  其風俗不淫男子皆露{糸介}以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被 髮屈{糸介}作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵{糸兼} 緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃所有無與 擔(*6)耳朱崖同  倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥(*7)息異處以朱丹塗其身體如 中國用粉也食飲用邊(*8)豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不 食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去{虫幾}蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若 行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹  出真珠青玉其山有丹其木有{木冉}杼豫樟{木柔}櫪投橿烏號楓香其竹篠 幹(*9)桃支有薑橘椒襄(*10) 荷不知以爲滋味有爾(*11) 猴黒雉  其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火タク(* 12)占兆  其會同坐起父子男女無別人性嗜酒〔魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收 爲年紀(*13) 〕見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國 大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盜竊少諍訟其犯法輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使 大倭監之  自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使 詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯  下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説(*14) 事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對 應聲曰噫比如然諾  其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰卑 彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人 自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞  女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千 餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島(*1)之上 或絶或連周旋可五千餘里  景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣 京都  其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫 難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在 踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方 太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲 率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹〔臣 松之以爲地應爲{糸弟}漢文帝著皀(*15) 衣謂之弋{糸弟}是也此字不體非 魏朝之失則傳寫者誤也〕絳地{糸芻}粟ケイ(*16) 十張茜(*17) 絳五十匹紺青 五十匹答(*18) 汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ(*16) 五張白絹 (*19) 五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛(*20) 丹各五十斤皆裝封付難 升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也  元始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金 帛錦ケイ(*16) 刀鏡采(*21) 物倭王因使上表答(*18) 謝詔恩  其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青{糸兼}緜衣 帛布丹木付(*22) 短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬  其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授  其八年太守王{斤頁}到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭 載斯烏越等詣郡説(*14) 相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米 爲檄告喩之  卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當 時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣 倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠 五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹 *:「詣」は、「ヒ」を鍋蓋にした字形 *:「喪」は、2つの「口」のいずれかが、「人」の場合有り *:「餘」は、偏が「食」 *1:「島」と同字で「鳥」の下に「山」 *2:「濱」の俗字で傍が「声」の「士」のかわりにウ冠、その下に「貝」 *3:「沈」と同義で傍が「冗」 *4:「泄」と同義で傍が「丗」 *5:「凹」の下に「儿」 *6:「擔」の手偏を人偏にした字形 *7:「臥」の俗字で{臣卜} *8:「邊」に竹冠 *9:「幹」に竹冠 *10:「襄」に草冠 *11:「爾」に獣偏 *12:土偏に「訴」の傍 *13:「紀」の同字で「己」ではなく「巳」 *14:「説」と同義で「ソ」の下に「ロ」ではなく「公」 *15:「皀」の正字で「白」の下に「十」 *16:四頭の下に{炎リ} *17:「茜」と同義で草冠の下に{イ青} *18:「答」の同字で草冠 *19:「絹」の同字で「ロ」ではなく「ム」 *20:「鉛」と同義で傍が「公」 *21:「采」と同義で「ノ」の下に「米」 *22:「付」に行人偏 Time : 1999/ 4/21(水) 00:06:57
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ロト版、古代史の大まかな年表 Comments: みなさん、こん@@は。今日は、古代の時間軸を私なりに組み立ててみたいと思い ます。出雲を中心に日本列島の勢力組成についてもふれてみたいと思います。 1.BC300年頃から200年頃まで 中国南東部から、米作が伝わりはじめる。 まず北九州から、日本海沿いに出雲そして越辺りまでが初期の広がりだと思います。 米作地帯の広がりは、縄文文化を徐々に駆逐していったと思われますが、畿内地方 や瀬戸内海沿岸地方は、気候も温暖で食物も豊富だったのでかえって縄文文化的な ものが遅くまで残ったと考えています。 米作は、土地に関する争いを生み、高地性集落が環濠集落=クニに変化していった と考えています。 2.BC200年頃からBC100年頃 北九州、出雲、越など初期に米作が伝わった地域では、環濠集落同士が争い、同様 の祭祀をもつ部族国家に収斂され、王権の基礎が出来上がった。 この頃から、米作が畿内や南九州、瀬戸内海沿岸そして東海地方にまでひろがって いったと思います。広めたのは、中国南東部からの移住者ではなく、勃興した各地 域の王権の手によるものと思います。この米作の広まりは、そのまま弥生時代の文 化の広がりでもあり、先行した地域王権の影響をうけた文化が広がりました。 銅鐸や銅剣の広がりがその証拠だと思っています。 北九州と中国地方西部銅剣、出雲から銅鐸文化、越から玉がそれぞれの祭祀道具と して祭祀と王権がひろがり、この頃から畿内は出雲王権の勢力下に入ったと考えて います。 3.BC100年頃から紀元頃 出雲、北九州、越の王権が拡大し、その王権の境で大規模な戦争が起こり、戦争に 勝利した部族国家を中心にゆるやかな部族連合国家が出来上がる。 この頃の資料として後漢に朝貢した「漢倭奴国王」の印綬があり、北九州地域では 大陸や半島と頻繁に交易していたと思われます。一方出雲や越では、婚姻などによ り結合をはじめ本格的に畿内地方への入植が行われたと思っています。 漢書地理誌に記述されているのは、100余国もありますが、これは北九州の環濠 集落の数だと思います。この頃には出雲王朝が北九州近くまで勢力をひろげますが 関門海峡はわたりきれなかったと思います。この衝撃から北九州王朝は連合を強め 後漢への朝貢により出雲勢力を牽制したと思います。これはアマテラスとスサノオ の高天が原での確執に投影されていると思います。 4.紀元からAD100年頃 北九州を中心に南九州、中国地方西部、瀬戸内海西部にまたがる九州王朝が全盛期 を向え、一時出雲や畿内、瀬戸内海東部まで勢力を広げるが、これも出雲を中心と とた出雲王朝に撃退される。やや遅れて出雲王朝も全盛期を迎えます。出雲王朝の 範囲は西は石見東は畿内、北は越、南は瀬戸内海東部までの広大な地域を影響下に おき、その王はまさにオオクニヌシと呼ぶにふさわしい王権を打ち立てたと思って います。出雲荒神谷の遺跡は、北九州王朝の祭祀道具銅剣を地中に埋めたもので、 対北九州戦において戦果を大いに上げた記念に埋められたのではないかと推測して います。これは、国譲りの前段のアメノホヒ、アメノワカヒコの帰順が投影されて いると思っています。 余談ですが、古事記にツキヨミの活躍が記されていないのは、ツキヨミが越の象徴 であったかも・・と考えています。越はスサノオの国出雲王朝に服属し、アマテラ ス(北九州)と直接交渉がなかったためではないかとひらめきました。 AD100年頃から200年頃 出雲(オオモノヌシ、カモタケツノミ)や越からの入植者により、畿内地方にも王 権が出来上がるが、これは出雲の祭祀(縄文系弥生文化=巨木文化)によるもので 出雲系大和と呼ばせてもらいます。この頃、九州では全土で大乱が起こり九州王朝 の再構築が行われ邪馬台国がその盟主となり九州をほぼ勢力下に置きます。 この大乱からの脱出者が神武だと思います。神武は邪馬台国が盟主となる前に、邪 馬台国と婚姻をもっていた王族(神皇三代)の子孫だと思います。南部の狗奴国が 琉球や台湾方面から進んできた呉との交易を拡大し、邪馬台国連合の諸国を南から 撃破していく事によって滅ぼされ、海上から脱出したと考えています。そして狗奴 国と本格的に戦闘を行おうとした邪馬台国の女王卑弥呼からの命により、出雲と一 時休戦するための人質(婚姻)として、出雲系大和に送られたと推測してます。 AD200年から300年頃 狗奴国の勢いは、邪馬台国連合には止められず、邪馬台国の勢力は北九州まで押し もどされ、危機感を感じた卑弥呼は狗奴国の背後にいる呉と敵対する魏へ朝貢し、 その後押しをうけ勢力挽回を狙うがついに果たせず寿命を向えます。イヨが後継 として立ちますが、邪馬台国は、狗奴国の反撃により急速に求心力をうしなってい きます。さらに魏の滅亡により後ろ盾を失い、270年代に滅亡したと思います。 一方出雲王朝も、大国主の代変わりが進み、徐々に求心力を失い、ついに大和が 独立してしまいます。大和では、出雲系の民と神武が連れてきた民の混血が進み 出雲王朝でも邪馬台国でもない新しい王朝が立ち上がります。 AD300頃からAD400年頃 大和に起こった新しい王朝は、崇神の頃完全に出雲と袂を分かちます。そして畿内 各地を従え、原大和朝廷となりますが、出雲の文化は根強く残り、これを完全に払 拭できなかったため内部混乱が起こります。崇神は三輪山の祭祀を出雲系大和時代 にもどす事により、この混乱をおちつけますが、他地域にまで侵攻はできなかった と思います。景行天皇時代のヤマトタケルの討伐の話は、討伐が目的ではなく、各 地の王権に対する交渉が目的だったのです。これにより大和に新しい王権が起った 事を宣伝してまわり、邪馬台国の残党や出雲王朝からの離脱者を募る旅だったので はないかと推測しています。 この期間に畿内で巨大化していった古墳は邪馬台国からの逃亡者の墓であると思い ます。邪馬台国の残党は敗退者とはいえ大陸や半島からの最新の文化をもっており 大和が出雲から独立する過程において活躍したと思います。その人々の墓を、出雲 系大和の人々が祭られる三輪山や多くの神宿る青山に比して、巨大化させていった (信仰の対象として)と推測しています。 うーん小説のシナリオみたいになってしまいました。Awajiさんの説よりも だいぶ幼稚なものとなってしまいました。これ以降の時代については後日とさせて いただきます。 私は大和朝廷の本当の祖は神功と応神の親子だと思っています。応神以前について は出雲王朝と邪馬台国の婚姻による合体政権であり、しかも大和近辺だけの小勢力 であったのではと考えています。勿論他の勢力からは頭一つリードしていたかもし れませんが、どんぐりの域は出ていないと思っています。 北九州に邪馬台国があったと想定しての仮説です。韓半島への干渉は、日本あげて のものでなく、出雲や北九州の地方勢力がバラバラに行ったと推測しています。 もちろん韓半島からもいろいろな形で干渉があった事でしょう。きんたろうさん がいわれているように、日本海と東シナ海沿岸には国境はなかったと思います。 大陸の三国時代の混乱は、海を渡り日本や韓半島にまで様々な影響を及ぼしたの だと思います。 出雲人さん、出雲は邪馬台国を凌ぐ大国だったと思います。即ち敵対勢力だった 可能性の方が強いと思っています。 jinさん、その質問には、今回の投稿で答えを出したつもりです。しかし、 滅亡寸前の小国に自信があるわけではありません。出雲人さんのいわれている ように、魏志倭人伝に記されている国以外の国があった可能性もあると思います。 また大陸渡航の件については、出雲人さんの意見と同じです。 それと、神=男=天皇ならアマテラスは男のほうが都合がよいと思います。 この件についてはどうお思いになりますか? 大阪JF生様、きんたろうさん、ノムさんに気を使っていただいてありがとう ございます。 Time : 1999/ 4/21(水) 00:48:23
Name : jin E-mail : Title : ありがとうございます Comments: どーも、jinです、う〜ん、魏志倭人伝は、確かに軽くしか読んだことなかった です、すみません。Awajiさんの載せて下さったのや、紹介していただいた本を 読んでみようと思います。ただ、僕が、朝鮮半島もあり得るかな?と思ったの は、ここに来る前に http://www2s.biglobe.ne.jp/~takao-3/ で、そのような事を言ってた人がいて、こんな考え方もあるんだ、というのが 印象に残っていたからです。もう一度しっかり自分の解釈をしてこようと思い ます。申し訳ありませんでした。 Time : 1999/ 4/21(水) 01:33:49
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 私が小国といったのは、Awajiさんに定義していただいた「相対的小国」 です。日本の中にほかにも邪馬台国に比肩する大国があったと思っています。 狗奴国以外にもです。 魏志倭人伝の抜粋ありがとうございます。 確かに、根拠が曲筆説(これも根拠といえるかどうか?)しかないような状況です が、畿内の初期古墳の想定年代は50年ほどの誤差があり、これも十分な根拠とは いえないと思います。考古学の測定も完全ではないそうです。 副葬品の鏡なども煩雑すぎて、素人にはわかりにくいものです。 去年黒塚古墳からは三角縁神獣鏡が32枚もまとめて出土してますが、 「鏡の祭祀」は本当に邪馬台国の象徴だとお思いになりますか? 私は滅びた邪馬台国出身者が大和に持ち込んだものと考えています。 「魏志倭人伝に一定の信憑性・・・」 という事ですが、その一定というのは地名列記と戸数記事以外のものですか? Awajiさんが地名、戸数記事以外での信憑性を確信しておられるならそれは どの部分なのでしょう?教えていただけませんか? それと、邪馬台国と縁をきった「あるきっかけ」というのは個人的なものなんで しょうか?個人的なものでなければ教えていただけませんか? Time : 1999/ 4/21(水) 01:52:28
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 質問および謝罪 Comments: Awaji様  魏志東夷伝倭人条の掲載ありがとうございました。 小生も含め、ちゃんとお読みになった方は多くないと思いますので、 正確な知識を身につける絶好の機会だと思います。 ところで、昔の知識(といってもはるかに深いのですが)で結構なのですが、 古田説の評価はどうだったのでしょう。 小生も読んだのですが、「タイ」が「イチ」であるという指摘は 反論を受けて葬られたのでしょうか? ぶしつけな質問ですみませんが、ご教示お願い申し上げます。 ノム様  大変失礼な記事を載せて申し訳ありませんでした。 でも、こちらの勘違いでよかったと思います。 これからもご活躍を期待しております。 Time : 1999/ 4/21(水) 09:29:04
Name : Toshy E-mail : Title : Awajiさん、ご指摘 Comments: ありがとうございます。 私自身、邪馬台に関する記述は高校時代のウル覚え程度なので、 あらためて考え直さなければなりませんね。 ただ私、「魏志倭人伝」の信憑性に関してはいささか疑問を持つものでして、 往来の比較的楽な九州地区であれば、 あちらの記録にも載るはずだと思っているのです。 畿内は、少し難しいでしょう。とくに奈良となれば山の中ですから、 船を持っているかどうかも怪しいほどで。 あちらだって、なにも好んで遠出するとは思えません。 なお、魏志倭人伝の信憑性については、 もう少し考えがまとまってからカキコさせていただきます (しなかったりして?!) Time : 1999/ 4/21(水) 16:54:36
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 斎宮 Comments: 今日、斎宮の意味を考えてみました。 結果、私の中で卑弥呼時代から畿内にも邪馬台国の影が濃くなってきました。 しかし、北九州の広範囲にわたる弥生遺跡の数々も捨て難い。うーん。 北九州五割、畿内四割、その他一割に修正します。 Time : 1999/ 4/21(水) 17:36:50
Name : きんたろう E-mail : Title : ヘルプ!Awajiさん フォーミー Comments: こんばんは。 Awajiさんの博識ぶりには驚くばかりです。 ところで魏志倭人伝を読んでみたのですが、読めば読むほどよく分かりません。 単なる読解力不足だとは思うのですが、Awajiさんはこの文章をどう訳されているのか 教えていただけないでしょうか。 出来ればAwajiさん訳を載せていただければ有り難いのですが。 Time : 1999/ 4/21(水) 21:30:44
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 斎宮について Comments: みなさん、こん@@は。 「いつきのみや」の祭祀については、知ってはいましたが、この祭祀形態が、卑弥 呼の邪馬台国の祭祀に通じるとは考えてもみませんでした。崇神がアマテラスの御 霊を宮殿から追い出したのが、「いつきのみや」の始まりなので、この流れはむし ろ祖先神より出雲系の神を祭る事が大和の安定に不可欠だったという推測しか考え られませんでした。斎宮を祭る内親王=未婚の皇族女性というのは確かに卑弥呼や トヨといった邪馬台国の祭主に繋がる可能性は高いと思います。 Time : 1999/ 4/21(水) 23:03:46
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と倭国いろいろ? Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 jinさん、出過ぎたことを申し上げましたが、ご了解頂きありがとうございま した。また、いろいろなご意見をお聞かせ下さい。 Toshyさん、 >>往来の比較的楽な九州地区であれば、あちらの記録にも載るはずだと思っ >>ているのです。畿内は、少し難しいでしょう。とくに奈良となれば山の中 >>ですから、船を持っているかどうかも怪しいほどで。あちらだって、なに >>も好んで遠出するとは思えません。 古代人の航海・旅行能力を過小評価しておられませんか? 魏の北端から呉の南端まで2,000km以上、洛陽・玉門関で1,700 km以上あるんですよ。博多から大和までは、ほんの500km強です。 また、登美から僅か5kmで生駒山の鞍部にでます。眼下は大阪湾です。 さらに生駒を下れば、河内湖がひろがり難波の津なんですよ、平群から大和 川に乗れば、15km位で同じく河内湖に浮かびます。山辺の道を竜王山に 上がれば、大阪湾の船が見えるんです。奈良は山の中ではありません。 きんたろうさん、岩波文庫版は☆一つです。魏志・後漢書・宋書・隋書まで 掲載されています。お買い得ですよ。 ちくま学芸文庫は1,500円。いずれも基本的部分は訳文に異存ありません。 大阪JF生さん、 古田説については、当時いわゆる邪馬台国マニアから圧倒的支持を得られた と思います。(不肖Awajiもその一人でした) それに対して、アカデミーの反応は極めて冷ややかで、無視に近い態度のよ うに思われ、Awaji等はその事情も知らずに憤慨したものでした。 しかしながら、古田説が天智天皇時代まで九州王朝存続を主張されだした辺 りから一寸疑問を感じだし、その後の様々な反論(残念ながらアカデミー以 外が主力)を通じて、資料の選択がかなり恣意的であることが理解できまし た。アカデミーが無視に近い態度をとったのも、そこに原因があったことも おぼろげながら察することもできました。(それが良いとは思いませんが) しかし古田さんが、実践された原典を緻密に点検する手法を、我々に公開さ れたことは、大いに評価出来ると思いますし、我々のような古代史好きにと って貴重な示唆を与えて下さったと思います。 「邪馬臺國」か「邪馬壹國」か、「臺与」か「壹与」かについては、おそら く中国遺跡発掘で、より古い三国志の木簡でも発掘されない限り決着はつか ないと思いますが、後漢書その他の史書の表記を考えれば、7:3で「邪馬臺 國」正当(壹は誤写)と思います。 (しかし「臺の論理」=”臺に詣る”と言う場合に”臺”は皇帝の居城を意 味する貴字であり、蛮夷の国を表記する為には使用されない、にも一理はあ ると思いますので、アカデミーが言うほどは誤写絶対とも思えません。) Awajiは以前にも申し上げたとおり、所詮、誤写論や曲筆論は、決着を着け 難いものであり、それを前提に論理を展開すべきものでは無いと思ってい ます。従って、「邪馬壹國」であることも常に頭の片隅に置きながら、その 時代を考察すれば良いと思うのです。 勇者ロトさん、今回の率直なご修正に敬意を表します。 もう不必要かも知れませんが、一応コメントさせて頂きます。 >>日本の中にほかにも邪馬台国に比肩する大国があったと思っています。狗 >>奴国以外にもです。 あったかも知れませんし、無かったかもしれません。しかし少なくとも、当 時を記述した史書からは、その存在は窺えませんし、魏使がその存在を知り つつ報告を怠ったとも思えないのです。 (まして、陳寿が敢えて抹殺したとは思えません) 良く非アカデミーの方は、史書に記述が無いからといって、無かったとは言 えない。記述があるからと言って、事実あったとは言えない。と主張されま す。 これは一般命題としては、全く正しいと思います。しかし、その方々が何を 根拠に歴史を語られ解説されるのかと言うと、やはりその大半は史書に拠っ ておられますね。これは文献史学の宿命であり、限界だと思うのです。 しかも、ロトさんは別として、ともすれば自説に有利な部分は事実とし、不 利な部分は誤謬・曲筆・誤写・脱漏とされることが多い様に思います。 基本的に曲筆だとされたならば、根拠とされる部分については、逆に一つ一 つその真実性を立証されるべきものです。誤謬・脱漏だとされた場合も同様 です。しかし、その様なことは不可能で、多くは憶測に止まらざるを得ない でしょう? 例えば、魏志東夷伝は基本的に司馬氏追従の曲筆であり、信頼できないとし ましょう。その場合、先ず遣使そのものを疑わねばなりません。郡の太守を も巻き込んだ司馬氏のデッチ上げかも知れないのです。 さらに、魏使が邪馬台国に赴いたと言うのも怪しいことになります。帯方郡 で昼寝でもしており、適当に報告書をデッチ上げたのかも知れません。 当然、陳寿がさらにそれに輪をかけて、大袈裟に記述したのかも知れません ね。 その場合、狗奴国の存在記事や抗争記事、卑弥呼・臺与の存在や、まして卑 弥呼の死亡記事等を史実とする根拠は全くありません。要するに何も根拠に は出来ない。従って、極論すれば魏志東夷伝を根拠として歴史を考察するこ とは、不可能になってしまうしかないと思うのです。 そう言った立場の人も当然いらっしゃいますし、それも一つの考え方でしょ う。 しかし、Awajiは文献史学の立場から、可能な限り歴史の真実に迫りたいと 考えたのです。そして基本的には特に明らかな矛盾が無い限りこれを信頼し、 矛盾については出来るだけ幅広くそれを解釈で補おうと考えているのです。 (これも憶測の一種だと言われれば、その危険性は否定いたしませんが。) それを補うのものとしては、外国史書・近接時代史書・文学書・民間伝承等 があります。しかし、当然ながらそれらが、より正しいという保証は何処に もありません。Awajiは、文学書等は作者の芸術的主観を表現することが目 的ですから、信頼性においては、一歩譲らざるを得ないと考えています。 (後世の野史はさらに不確実だとおもいます。) 一方で考古学・民俗学・宗教学・人類学等が果たす役割は極めて大きいとは 思いますが、当然これとて絶対では有り得ません。年代測定についても様々 な疑問があるでしょう。しかし、この分野は確実に信頼度を高めていること は事実です。 特に年輪測定法等は、試料さえ間違い無ければ、日本列島という狭い範囲で は殆ど絶対年代まで確実に測定しうる可能性があります。それらを元に古墳 時代が確実に引き上げられているのは、事実だと判断しています。 お信じになれないかも知れませんが、神話的潤色だらけの記紀においてすら、 その立場を守りたいと思っています。 神武が九州から大和に侵攻したと言う記述があれば、原則的にその基本認識 に沿って、考察したいと思いますし、天孫族が出雲族を圧迫したと記述して あれば、その線に沿って想定したいと思っています。神武から聖武まで同一 家系が存続していると記述してあれば、それに沿って可能性を考察したいと も思っているのです。 従って、神武は紀元200年代ではなく、紀元1世紀後半(帥升107年の少し前) 位を想定しています。大国主(複数か?)はそのさらに前で、おそらく倭奴 国に圧迫され、大和方面に新天地を求めて、それこそ東遷したと思います。 (出雲を放棄したのでは無いと思いますが。所謂国譲り神話の元では?) 高句麗は、あれだけ中国や北方民族に痛めつけられながらも、紀元直後から 7世紀の滅亡まで、ほぼ同一家系を保っています。百済ですら高句麗・新羅 に脅かされながらも300年以上命脈を保っています。外敵の侵入が殆ど無か った日本列島において、それが有り得ないとは思えないのです。 (勿論、支配力の弛張強弱は有り、南九州・出雲・関東等の向背も有ったで しょう) >>去年黒塚古墳からは三角縁神獣鏡が32枚もまとめて出土してますが、 >>「鏡の祭祀」は本当に邪馬台国の象徴だとお思いになりますか?私は滅び >>た邪馬台国出身者が大和に持ち込んだものと考えています。 逃亡者(入質者)が王になる可能性、亡国の祭祀・宗教が強国に持ちこまれ る可能性、敗者の古墳が巨大化する可能性、勝利の記念に祭祀器を埋める可 能性、何れも皆無とは言いませんが極めてシンドイのでは無いでしょうか? それ以外に可能性が想定できないならともかく、他の可能性があればAwaji はそれを採用したいと考えています。 つまり、征服者が王になる可能性、本来持っていた祭祀・宗教の可能性、隆 盛を象徴する巨大古墳の可能性、劣勢に伴う祭祀器(多量の銅鐸も含め)秘 匿の可能性と考える方が、より自然だと思うのです。 >>地名、戸数記事以外での信憑性を確信しておられるならそれはどの部分な >>のでしょう?教えていただけませんか? 確信しているわけではありません。いったんそれを信じて歴史を考察してみ よう。その結果明らかな矛盾があれば、再考察しようと言うことです。 例えば、魏使の邪馬台国来朝、倭国の統治機構、狗奴国との抗争、魏勅によ る狗奴国との和解勧告、卑弥呼の死亡と古墳造営・大量の殉死、臺与の即位 と倭国の安定(?)、魏使の送還と最後の朝貢、魏滅亡・韓半島撤退にとも なう中国外交の中止、等は類推部分を含み一応信じようと考えています。 ただ、漢文史書を考察する場合、もっとも留意すべきは松本さんのような誤 読の危険性です。(卑弥呼死亡事情ー既述) 漢文は誤読の危険性が常にありますが、これは本来かなりの確率で回避でき る筈です。つまり漢文に習熟しきった先学・中国人の解釈が90%以上正しい と思うのです。それを奇をてらって新解釈を提示された場合、殆どが誤読で しょう。我々現代日本人は、残念ながら三才にして日々素読を行った人たち には適うべくも有りません。原則として謙虚に従うべきだと思います。 ここで誤読を重ねては、余計に支離滅裂になってしまうでしょう。 なお、狗奴国の背後に「呉」ありとのお考えは、可能性皆無とは思いません が、 1.233年公孫氏の裏切りにより、韓半島の拠点を失った。 2.238年公孫氏の滅亡、魏の郡設置により、韓半島は魏の勢力圏となった。 3.250年に江陵の戦いで魏に大敗し、勢力は著しく衰退した。 4.263年蜀滅亡により、さらに魏の圧力が強力になった。 2.280年魏・晋の王朝交替という回復絶好期にもかかわらず遂に滅亡した。 3.魏志(魏使 張政)は、狗奴国の背後に呉有りとは全く触れていない。 4.仮に、背後に呉があれば、和平勧告を行うとは考えにくい。 等から見て、一寸無理があると思うんです。 そもそも、邪馬台国が狗奴国に敗退したと、お考えになる理由は何でしょう か? 確かに邪馬台国九州説を採る限り、 1.邪馬台国は、300年〜400年にかけて、大和に本拠を移した(東遷説) 2.邪馬台国の王は400年前後の「応神?」で、大和国を征服した(征服説) 3.邪馬台国はその後も九州王朝として存続した(古田説) 4.邪馬台国は270年頃に狗奴国に滅ぼされた(ロトさん説) のいずれかを想定せざるを得ないとは思いますが、Awajiは何れも苦しいと 考えており(主として記紀既述との整合性と、考古学的根拠が薄弱ですし、 4については、九州全土を席捲した狗奴国と大和国との関係が不明です。 景行の遠征と考えるしかないでしょうが、そんなに簡単に平定出来るとも思 えません。)これが逆に邪馬台国畿内説を採る一つの理由となっています。 >>邪馬台国と縁をきった「あるきっかけ」というのは個人的なものなんでし >>ょうか?個人的なものでなければ教えていただけませんか? 1.古田さんが、意地を張って、牽強付会を拡大しているように思えたこと。   (一時ファンだっただけに、見るに忍びなかった) 2.高木さんが、見え見えのパクリ説を唱えたのに対しマスコミが臆面もな く持ち上げた。その他非アカデミーの方々が、碌な根拠も示さず好き勝 手を言い出した。 3.このままでは千日手で、新たな考古学的発見が無い限り進展しないと思 った。 4.その他に、仏教・仏像等、興味を持って勉強したいことが出来た。 等です。 Time : 1999/ 4/21(水) 23:31:24
Name : Toshy E-mail : Title : なるほど、 Comments: 古代の航海技術を過小評価しているかもしれません。 Awajiさん、ご指摘ありがとうございます。 もう少し修行してきます。 あと、お約束の「信憑性」に関しては、その時にでも。 またいろいろと教えてください(^^) Time : 1999/ 4/21(水) 23:37:15
Name : きんたろう E-mail : Title : 明日本屋に行って来ます Comments: Awajiさん、アドバイスどうもありがとうございました。 訳され方についてほとんど同じということであれば一安心です。 Time : 1999/ 4/22(木) 00:12:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様、ありがとうございました Comments:  Awaji様の記事の中に、古田説が以前から見え隠れ していましたので、ひょっとして一時的にでもファンだったのかなと 以前から感じておりました。 ぶしつけな質問にこたえていただき、本当にありがとうございます。 このようなことは、継続して追及されている方以外にはわかりませんし、 文献であとおいするのも困難ですので、思い切って聞いてみました。 事情がよくわかりました。重ねて御礼申し上げます。 Time : 1999/ 4/22(木) 09:29:59
Name : 輔住 E-mail : Title : どこなのかな? Comments: うーん困りました。みなさんの意見を聞くと それぞれ説得力があります。 以前、九州と畿内が4割づつ・中国地方2割と 申上げましたが、分からなくなりました。 ただ勇者ロトさんご指摘の通り、中国に援軍を 求めた可能性もあります。 中国を宗主国のように対応していますから。 だから中国から比較的近い場所だと思っていますが、 それにしても(日本国内・国外含め)候補地が多すぎます。 GWにはAwajiさんお勧めの本を探して読んでみようと 思います。 Time : 1999/ 4/22(木) 17:57:59
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 邪馬台国について Comments: みなさん、こん@@は、魏志倭人伝の記述から、その風習(鯨面文身)から、海人 の文化を連想しています。とすると、大和は海から遠いと思い、北九州の沿岸部や 対馬、壱岐といった島国の方がしっくりきます。(個人的印象ですが) Awajiさんは、大和は山の中ではないとおっしゃられてましたが、盆地である 以上、生活様式は海人より山人の様式をとっていたと考える方が自然です。国中の 男子が大小を問わず入れ墨をしているわけですから、ここから推測すると北九州の ほうが確立の高い気がします。 もちろん、入れ墨ではなく、化粧だっかもしれません。化粧なら海人だけものと いうのはあたらないと思います。 Awajiさん、みなさんは、この「鯨面文身」という部分についてはどうお考え ですか? 邪馬台国が狗奴国に滅ぼされたと考えた理由は、 1.狗奴国との戦争は、魏に応援を求めるほど劣勢の時があった。 2.卑弥呼の後継者では一時しのぎにはなるが、長期にわたりしのぎ切れたのか? 3.晋朝開幕直後から、朝貢が途絶えた。 というのが、おもな理由です。狗奴国の背後に呉の存在を考えたのは、呉帝孫権が 呉国の東の島々で兵の徴用をしたという呉志の記述によります。 呉はこの島々に兵を送り込んだのですが、徴兵するどころか呉の兵さえ戻ってこ なかったらしいです。徐福伝説の島をさがすというのも目的の一部でした。 この島々が夷洲、亶洲と呼ばれるもので台湾か日本列島の一部と考えられています。 もし、日本列島の一部であるなら呉の影響が狗奴国に現れたかもしれないという、 個人的な推測です。 Time : 1999/ 4/22(木) 22:03:02
Name : まつばら E-mail : sengen@mxb.mesh.ne.jp Title : はじめてで、長くて申し訳ありません。 Comments: 魏志倭人伝の距離、日数問題をおもいっきり単純化する 方法を思いつきました。ちょっと長い文章で申し訳ない のですが、つきあってやってください。できればご批評 もお願いします。 いままでも距離は水増ししたのでは、という説はありま したが、日数については不思議とそのまま採用としてい るんですね。全体の距離を水増ししてるのに、日数だけ 水増ししていないなんて、ちょっと考えにくいのです。 では、どれだけ水増ししたのか、これは簡単です。実際 の距離と倭人伝の距離との比の5です。帯方郡からの距 離は短里で記述してあるとか、けっこう苦し紛れの解釈 がありますが、単純に実際の距離、日数を5倍して記述 した、として考えれば、きれいに説明がつきます。 以下、その考えにしたがって倭人伝を解釈してみます。 方角はすべて倭人伝の方角にしたがうものとします。日 数は1/5しています。 1,伊都国までは一般的な解釈でいいとします。そこか らは、放射状解釈とします。 2,伊都国を出発、海岸ぞいを現福岡市方面にすすみ、 御笠川を遡上現太宰府付近で上陸するとします。ここま でで水行2日です。ここから、伊都国からみて南の筑紫 野市、夜須、甘木方面に陸行で6日進むものとします。 到達した場所が邪馬台国で女王が存在する場所(都?) です。ここに邪馬台国の都?があったとれば、連合国家 である邪馬台国の国々は邪馬台国の都?からみて、倭人 伝にあるように、ほぼすべて北にあるように見えます。 3,投馬国について、伊都国を出発海岸沿いに現北九州 市方面に進み、遠賀川を遡上します。合計で4日進んだ ところに存在するとします。これで、投馬国は倭人伝に 記述してあるように、邪馬台国の都?から見て北に、伊 都国からみて南に、存在することになります。 4,なお、筑後川上流域に邪馬台国の都?が存在すると すれば、その連合国家の一つ、もしくは邪馬台国そのも のに宇佐地方を含んでも不思議はないでしょう。これ で、女王国の東海を渡る千余里に倭種ありの記述をも クリアできます。 5,筑後川上流に邪馬台国の都?があったとすれば、 伊都国に一大率をおき、さらに、奴国、不弥国、一支 国などには副官にひなもりを派遣するなどして、筑後 川流域から現韓国への通行路を確保しているのがよく 理解できます。 Time : 1999/ 4/22(木) 22:43:40
Name : 勇者ロト E-mail : Title : まつばらさんは Comments: じめまして、確かにおっしゃる通りです。 しかし、どうして五倍なんでしょう? 倭種の国の一部が大和という事なんでしょうか? 狗奴国は邪馬台国の南でしたよね? とすると、一番の敵国と邪馬台国の都は境を接していたという事なんでしょうか? いきなり、質問ばかりで申し訳ないです。 私も里程記事と戸数記事には誇張があると思っています。 この推測から九州島内に邪馬台国があったと感じています。 しかし、文化と歴史、祭祀の流れからは、卑弥呼時代に畿内に大国があった可能性 が高いとも考えています。 畿内についてはどうお考えですか?よろしければお聞かせ下さい。 Time : 1999/ 4/22(木) 23:12:16
Name : きんたろう E-mail : Title : 古代日本のイメージ Comments: こんばんは。 今日は本屋に寄ってきたのですが、Awajiさん推薦の「岩波」がありませんでした。 (2軒とも、残念) やはりこれはどう読んでも「歴史的迷文」であることは間違いがないと思います。 まつばらさん(初めまして、よろしくお願いします)の説も魅力的なのですが いずれにしても普通に読むと太平洋のど真ん中まで行ってしまうと思います。 これはタイトルどおり「伝聞」を記したものだ思います。 ですから、正確なところもあれば、あやふやなところも出てくるのではないでしょうか。 マルコポーロが「東方見聞録」を書きましたが似ていると思います。 また漢文の持つ限界かなと思ったりもしています。 Time : 1999/ 4/22(木) 23:35:51
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と鯨面文身・・・ Comments: 勇者ロトさん、マイドデス。Awajiです。 >>Awajiさん、みなさんは、この「鯨面文身」という部分についてはど >>うお考えですか? Awajiは、神武が九州から出雲系大和国に侵攻し征服した。その後倭国の中 心国「邪馬台国」になった。と申しあげたはずですね。 >この頃、九州北西部の部族王が出雲大和連合国の中心となっていた大和 >方面への進出(出雲大和連合国は2の頃から、九州北西連合に圧迫され >中心を大和に移していた?)を企図し、盟主「倭奴国」の協力と、吉備 >連合国の一部の糾合のもと大和侵攻を開始し、奇跡的に成功を収めた。 >(この成功により邪馬台国の前身が畿内に成立し神武東遷神話となった。) 当然のこととして、九州の風俗がもたらされたでしょう。神武が大久米命に 命じ、伊須気余理比売に求婚した時の歌、 「あめつつ、ちどりましとと、など鯨ける利目」 「媛女に、直に逢はむと、我が鯨ける利目」 これが「鯨面文身」ではないかと思いますが、無理ですか? >>邪馬台国が狗奴国に滅ぼされたと考えた理由は、 >>1.狗奴国との戦争は、魏に応援を求めるほど劣勢の時があった。 >>2.卑弥呼の後継者では一時しのぎにはなるが、長期にわたりしのぎ切れた >> のか? >>3.晋朝開幕直後から、朝貢が途絶えた。というのが、おもな理由です。狗 >> 奴国の背後に呉の存在を考えたのは、呉帝孫権が呉国の東の島々で兵の >> 徴用をしたという呉志の記述によります。呉はこの島々に兵を送り込ん >> だのですが、徴兵するどころか呉の兵さえ戻ってこなかったらしいです。 >> 徐福伝説の島をさがすというのも目的の一部でした。この島々が夷洲、 >> 亶洲と呼ばれるもので台湾か日本列島の一部と考えられています。 >> もし、日本列島の一部であるなら呉の影響が狗奴国に現れたかもしれな >> いという、個人的な推測です。 については、 >>張政の帰国による再弱体化軍事援助を主導した張政が帰国する事は、邪 >>馬台国の再弱体化に繋がる事が考えられます。 >「壹與年十三為王、国中遂定」ですから、幼女が纏め得たのですね。また >「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」ですから、張政を送 >還しているのです。 逆に完全に邪馬臺国が勢力を回復したためとは考えら >れないでしょうか? >>邪馬台国が大国であるなら、朝貢はその後も頻繁に行われた事と思います >>が、 >「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺、獻上男女生口 >三十人 貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹 」(266年)が最期の朝貢 >記事ですが、奇しくも265年に魏は滅亡し、晋が建国します。 >また280年には呉が滅び、286年には高句麗によって帯方郡が滅ぼされます。 >つまり中国勢力は壹與時代には韓半島から次第に撤退するのですね。 >おそらく、これが朝貢廃止の最大の理由では無いでしょうか? と申しあげているのですが、ご納得頂けませんか? そもそも、倭国(邪馬台国)が劣勢だったとは、言い切れ無いと思いますが? 呉帝孫権は水軍を活用しています(南船北馬ですからね)。 しかし、先般申しあげたとおり、(補足します) * 230年孫権、甲士万人を海に浮かべ、夷州・亶洲を求めしむ。 1.233年公孫氏の裏切りにより、韓半島の拠点を失った。 2.238年公孫氏の滅亡、魏の郡設置により、韓半島は魏の勢力圏となった。 A.239年卑弥呼、帯方郡に遣使。 B.240年建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王 C.243年卑弥呼、朝貢。 D. 247年魏使 張政来朝、告喩す。 E.248年卑弥呼没?(北史) 3.250年呉、江陵の戦いで魏に大敗し、勢力は著しく衰退した。 4.252年呉帝孫権没す。孫亮即位 5.258年孫亮廃帝さる。 6.263年蜀滅亡により、さらに魏の圧力が強力になった。 7.265年魏滅亡、晋建国(禅譲) F.266年壹與、張政を送還、朝貢。 8.280年呉は魏・晋の王朝交替という回復絶好期にもかかわらず遂に滅亡。 9.286年高句麗、帯方郡を襲う。 * 魏志(魏使 張政)は、狗奴国の背後に呉有りとは全く触れていない。 * 仮に、背後に呉があれば、和平勧告を行うとは考えにくい。 * 呉志には倭国(狗奴国)記事が一切無い。 以上の状況から、270年頃に狗奴国が呉の支援で、倭国(邪馬台国)を滅ぼ したと想定できるのでしょうか?如何考えても現実的ではないような気がす るのですが。 Time : 1999/ 4/22(木) 23:45:14
Name : outsider E-mail : Title : 鯨面文身? Comments: 司馬遷の史記の呉太伯世家に基づく記述なのでは? Time : 1999/ 4/23(金) 00:10:40
Name : Awaji E-mail : Title : 誤字です Comments: 鯨→黒+京 が正当です。ゴメンナサイ。 Time : 1999/ 4/23(金) 00:57:25
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 鯨面文身 Comments: Awajiさん、こん@@は。 晋への最後の朝貢が266年です。高句麗の勢力拡大と呉の滅亡は280年代に 入ってからです。少なくとも266年から10年の間は、晋と邪馬台国の国交は 両者の政治状況が混乱してなければそれまで通り行われるのが当然ではないかと 思います。 晋が徐々に半島から撤退したといっても、266年を過ぎてすぐに半島での活動 を縮小したわけではないと思うのですが? 邪馬台国が劣勢でなければどうして魏の張政らは、檄をとばし旗をあたえる必要 があったのでしょう? そもそも優勢に戦闘をすすめているのなら魏への使節をあれだけ頻繁におくる 理由は、半島内の権益保全のためだけという事になります。 高句麗の勢力が拡大すればするほど晋への朝貢が必要となるのではと思ってます。 神武東征によって、畿内の民すべてが「鯨面文身」するものでしょうか? それとも、支配者層(神武と共に大和入りしたものの子孫?)に限ってその 風習が残ったのでしょうか? Awajiさんが想定した神武と卑弥呼の時代関係があっているとしても 東征から相当の年月が経っています。入れ墨の風習は少しづつなくなったと考える のが自然だと思います。 あげていただいた歌には、目についてしか読み込まれていません。 しかも「利目」というのは目尻の鋭いという意味ですよね? (ちょっと訳には自信がないのですが・・・・。) 目を鋭くする程度の入れ墨が、魏の使節にはそんなに印象に残ったとは思えません。 狗奴国と呉の関係については、根拠はありません。想像です。 しかし、南九州西部に呉との国交(交易程度)があり、九州北部は半島を通じて魏 との国交があった。 南九州との不和があったからこそ邪馬台国は魏との正式な交渉を望んだと考えても おかしくないと思うののですが。 あくまで北九州説としての意見です。 畿内にあった場合についての考察は、まだまとめきれません。 昨日申し上げたように、祭祀上の継続があるなら(斎宮として)歴史の流れの中で 邪馬台国(?)は畿内に存在したかもしれません。 深くかんがえれば考える程わからなくなってきています。 そもそも、邪馬台国時代の支配体系は国しかも大国として海を渡り朝貢する程、 もしくは、海の向こうの支配圏を確立しなくてはいけないほど強力な内政を行って いたのでしょうか? ちょっと混乱してきました。 Time : 1999/ 4/23(金) 01:25:33
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 古代天皇の在位年数 Comments: これは安本美典氏の説なのですが、古代の天皇の 平均在位年数は11年だそうです。 私も確かめました。南北朝時代までの天皇陛下の平 均在位年数は10〜12年です。 これが仁徳天皇以前にも当てはまるとして計算すると、 神武天皇は卑弥呼とほぼ同世代の人間になります。 私は、聖徳太子が帝記を作った時に、実際の在位年数 の6倍にしたのではないかと考えています。 そうすると神武天皇が3世紀初頭の人物 崇神天皇が4世紀前半の人物 応神天皇が4世紀末〜5世紀初めの人物 になります。 夏王朝が実在したかもしれないといわれる時勢です から、日本の古代王朝もまんざら眉唾物ではないと私 は思っています。 Time : 1999/ 4/23(金) 16:36:08
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : えらいこっちゃ Comments: 岡山で大変なものが発見されましたね。 縄文時代前期に稲作が行われていたかもしれなくなりました。 あるいは国家だってあったかも知れません。 6000年前といえば、黄河文明とインダス文明はまだ黎明期、 長江文明も農耕が始まったばかりです。 常識的に考えれば、諸文明の開始がもっとさかのぼるので しょうが、ここまで来れば日本文明が中国大陸とは独立して 始まったと考えていいとも思います。 4大大河文明というのは大嘘で、20以上の文明が独立して 始まったというのは、教科書には載っていませんが、定説 ですので、日本もその中の1つだったかも知れません。 Time : 1999/ 4/23(金) 16:44:46
Name : 超古代 進 E-mail : Title : 銅鏡 Comments: 銅鏡は、ヤマタイ時代の通貨だったのです。 Time : 1999/ 4/23(金) 16:52:58
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と倭国朝貢・・・・年代推定法も Comments: 勇者ロトさん、 01:25:33!! 何時お寝みになるのですか? Awajiも宵っ張りですが、一寸信じられない時間ですね。安眠妨害でしたか? 安部さん、平均在位推定法は、古代天皇の系譜を無視しています。むしろ、 直系継承が明らかな場合は、世代・25年オバーラップ法を試されては、いか がでしょう?(干支推定法もあるのですが、これは複雑過ぎるし疑問です。) 即ち、25歳で長子出生、同時(OR35歳)即位、50(OR60)歳で死亡、在位25 年を重ねる方式です。(非直系継承は無視します。) 神武1世、崇神10世、応神十15世、継体20世、敏達22世、天武22世、 桓武28世になります。 この場合、起点を誰に置くかによって結論は変わり、誤差幅も拡大しますが、 おそらく神武は1世紀、崇神は3世紀頃の人物となるはずです。 (古田さんは倍暦法を提唱されていますが、Awajiは疑問に思っています。) なお、この方式については、神武〜祟神が全て直系継承であることの不自然 さが指摘されるのですが、Awajiは、この間の系譜は大王系譜と言うより、 血統譜と見たほうが良いと思っているのです。(あくまでも一つの仮想法で す。これが正しいと言うような方法は、有り得ません。)   ロトさん、ご承知のとおり、Awajiはあくまで畿内6割です。より正確に言う と5割5分程度であり、畿内以外の可能性も充分有りうると思っています。 (以下長文でご迷惑かも知れませんが、これ以上は繰り返しませんので、一 通りお読みくださいますか?) しかし、このHPの方は井沢説の支持者が多いので、九州説が優位のように 感じました。そこで、畿内説にもかなりの根拠があり、畿内説の弱点として 指摘される諸問題(幸いロトさんが具体的に指摘されているので)について もさほど無理の無い解釈で、それを補うことが出来、逆に九州説に有利とさ れる諸問題についても、同様に解釈次第では、それほど有利とは言えなくな ることを申し上げていますので、ご了承願います。 (方向記事が畿内説の最大の弱点ですが、それは宇佐説も同様です。宇佐は 明らかに博多周辺の東に当たります。その意味で九州説に立つとすれば、九 州中部の山岳部か有明海方面に求めざるを得ないでしょうね。 距離記事は短里説に立てば畿内、誇張とすれば参考外。日程記事は解釈次第 ですが、どちらかと言えば畿内、誇張とすれば参考外。戸数記事は畿内、誇 張とすれば参考外でしょう。) それでは、ご指摘のその他問題について、一つずつ片付けていきましょうね。 >>邪馬台国が劣勢でなければどうして魏の張政らは、檄をとばし旗をあたえる >>必要があったのでしょう? 先ず、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に告げたこと。魏がこれに間接的に軍 事介入したこと。(直接兵力は送っていないでしょうね。)の意味ですね。 ご存知のとおり、册封体制に入ると言うことは、中国皇帝(具体的には魏) を天子(世界の主)と認め、自らをその外臣とすることです。この場合(建 前としては)倭国は魏の領域になり、倭国に対する攻撃は即ち魏に対する攻 撃とみなされるのですね。 従って、倭国に対する攻撃は魏に報告すべきものとなり、魏はそれに対して 何らかの対抗措置を採る必要が生じます。 多くの場合中国は、直接軍事介入することを避け(実際にはその力が無い) 攻撃側を威嚇するに止まるのですが、場合によっては出兵し、或いは他の封 国に出兵を命じることがあります。(倭国における張政の場合は、前者の例 です) 一方、封国側は中国の脅威が薄れた、或いは対抗措置に効力が無いと判断す れば、さっさと册封体制を脱し、逆に中国を攻撃することがあります。 高句麗のように中国と接している国は、まさに国運をかけて、これを幾度と 無く繰り返していますね。 (一般的には中国の脅威が薄れ、自国の国力が増せば册封を脱しています。) 倭国の場合は、中国の直接の脅威は遥かに弱いので、いわばフリーハンドで 册封体制を選択できます。 従って、册封体制に入る入らないは、主として中国(魏・晋)の韓半島にお ける影響力次第であり、倭国の盛衰とは別に考察すべきものだと思うのです。 或いは倭国にすれば、一旦宗主国と仰いだ魏が余りにもあっけなく崩壊し、 晋に変わったことに失望したとも考えられるでしょう。(これらは倭武王以 降の册封体制脱出も同様です。宋の崩壊とともに遣使朝貢は断絶します。) また、本当に狗奴国が呉の傘下にあったとすれば、これは一種の魏・呉の代 理戦争ですから、単に告諭に止まらず、もう少し本格的な軍事介入を行った とも考えうるでしょう。 つまり、これら一連の倭国の動きを、邪馬台国の劣勢云々と理解することは、 必ずしも当を得ていないと思うのです。 (絶対とは言いません。あくまでも蓋然性の比較の問題です。) >>そもそも優勢に戦闘をすすめているのなら魏への使節をあれだけ頻繁におく >>る理由は、半島内の権益保全のためだけという事になります。高句麗の勢力 >>が拡大すればするほど晋への朝貢が必要となるのではと思ってます。 次にこの問題ですが、おっしゃるとおり「半島内の権益保全」特に金属資源 の安定的確保が最大の目的だと思います。 それでは、誰の脅威に対して「権益」を保全するのか? ですね。 卑弥呼の最初の遣使に当たっては、魏そのものでしょう。ご承知のとおり高 句麗は魏によって壊滅的打撃を受け、公孫氏を滅ぼした魏が韓半島北西部を 制圧南下しています。従って、倭国は韓半島においては魏と直接対峙する可 能性があったと思うのです。この脅威を和らげるのが最大の眼目でしょう。 次には、呉でしょう。ご指摘のとおり、呉は公孫氏の裏切りまでは、東アジ ア最大の水軍を擁し、倭国にも脅威となっていた可能性があります。 しかるに呉は公孫氏滅亡、江陵大敗、孫権死亡により東アジアにおける勢力 を大きく減退させたと考えることが可能だと思います。 倭国は魏・呉の東アジアにおける力関係を冷静に見つめ、魏の優位を確信し て親魏外交に踏み切った可能性があると思いますが、依然として呉の脅威も 皆無とは言えないでしょう。 次には、南韓諸勢力の動向でしょう。漢の衰退にともない、南韓諸勢力も国 家形成の動きが生じていたと思いますが、これらの諸勢力が魏と結託し、倭 国を排斥する脅威を封ずる必要があったとも思います。おそらく当時におい ては、高句麗は殆ど問題にならなかったでしょうね。 これら列島外問題を別とすれば、狗奴国問題も当然有り得たかも知れません。 >>高句麗の勢力拡大と呉の滅亡は280年代に入ってからです。少なくとも >>266年から10年の間は、晋と邪馬台国の国交は両者の政治状況が混乱し >>てなければそれまで通り行われるのが当然ではないかと思います。 しかし、高句麗はその後急速に勢力を回復拡大したと思われます。 魏の韓半島直接支配は、遂に韓半島北西部の沿岸地帯(帯方・樂浪郡)に止 まったようですが、壹与の册封体制脱出(266年以降)時には、既に魏の韓 半島諸郡は、286年の帯方郡攻撃を前にして、やや衰退に向かっていたのでは 無いでしょうか? (これは憶測です。或いは上記の魏・晋王朝の交替に関する失望が主要素か もしれませんが) しかしながら、高句麗勢力が既に南韓に及んでいたとは思えません。 後の高句麗の攻撃目標は楽浪郡から北部であり、南韓諸勢力が帯方郡方面を 攻撃しています。 このような情勢が生じた場合、倭国の南韓政策は晋と結んで高句麗に対抗す ることでは無く、晋に対抗する南韓諸勢力(主として国家形成を進めつつあ った百済・新羅等)に適切に対処ことに移るのでは無いでしょうか?  従って、高句麗勢力の拡大と、倭国の晋朝貢の必要性は、必ずしも結びつか ないと思うのです。(むしろ逆効果となるおそれがあります。) 少し倭国の外交政策を単純化しすぎたかも知れませんが、その後の南韓動向 を見れば、このような見方もありうると思うのですが? (繰り返しますが、あくまでも有りうると言うことです。) >>神武東征によって、畿内の民すべてが「鯨面文身」するものでしょうか? >>それとも、支配者層(神武と共に大和入りしたものの子孫?)に限ってその >>風習が残ったのでしょうか?Awajiさんが想定した神武と卑弥呼の時代 >>関係があっているとしても東征から相当の年月が経っています。入れ墨の風 >>習は少しづつなくなったと考えるのが自然だと思います。 Awajiは神武の大和定着以降も、九州との密接な関係(対抗も含みます)があ り、人的交流もあったと考えています。倭国の中心が畿内にあったとしても、 依然九州は倭国の最重要部分の筈です。 従って、必ずしも次第にその風習が失われたとは思いません。逆に支配者の 風習が浸透していったことも充分有りうると思いますが? (これも蓋然性の問題であり、Awajiには明確な結論は出せません。) >>あげていただいた歌には、目についてしか読み込まれていません。 >>しかも「利目」というのは目尻の鋭いという意味ですよね?(ちょっと訳に >>は自信がないのですが・・・・。) >>目を鋭くする程度の入れ墨が、魏の使節にはそんなに印象に残ったとは思え >>ません。 おっしゃるとおり、この歌の内容については様々な解釈があり、定説はあり ませんが、目の周囲に入れ墨があったという点では、ほぼ一致していると思 います。 中国で言う「鯨面」そのものが、どの程度の入れ墨であったかも良く分かり ませんし、魏の使節の印象がどうであったかは勿論分かりません。 北九州であったとしても、入れ墨の程度は分かりませんし、それは同じこと が言えるのでは無いでしょうか? 要するに、大和においても顔面入れ墨の習慣があり、それが神武によっても たらされた可能性が有る。 そしてそれが大和において次第に失われたとは言い切れず、かなり後世まで 残った可能性が有る。 それは魏使にとって(上陸地の九州から大和に及ぶ)異俗として受け取られ た可能性が有る。 Awajiが言いたいのは、事実の完全な立証ではなく(それは不可能です)、 この可能性の問題なのです。 >>しかし、南九州西部に呉との国交(交易程度)があり、九州北部は半島を >>通じて魏との国交があった。 これも同様です。Awajiは呉人との私的交易であれば、九州南部でも、九州 北部でも有り得たし、事実あった可能性が高いと思っています。 そして、それが九州北部で行われても同時に倭国としての交易であったはず です。(既に申し上げたとおり、三角縁神獣鏡の一部が、呉製或いは呉の渡 来人の製作である可能性も否定しきれないと思っています。) しかし、朝貢・册封・軍事援助等とは一線を画すべきで、その様な外交事項 は必ず中国の公式記録に残りますから、史書に既述される可能性が高いと思 っているのです。 (既に申し上げたとおり、三国志は魏・晋正統論に立っていると思われます ので、呉の外交については過小評価することは有り得ますが、その場合でも 完全抹殺は出来ないと思います。) >>そもそも、邪馬台国時代の支配体系は国しかも大国として海を渡り朝貢す >>る程、もしくは、海の向こうの支配圏を確立しなくてはいけないほど強力 >>な内政を行っていたのでしょうか? 何故そんなに疑問を持たれるのでしょうか?最近の考古学所見でも、倭国の 歴史は一部文献学者の否定的意見を嘲笑うかの様に、どんどん引き上げられ ています。 Awajiの学んだ縄文時代は、毛皮に身を包んだ狩猟段階のイメージでした。 しかし、最近では既に集落定着があり、栽培農業(一部稲作も)があり、交 易があり、階級分化さえ窺えるとされているのです。 (Awajiにとっては、既に20年以上前に縄文式土器が、当時確認される世界最 古期に属するとされていましたので、別段驚くべきことではありませんでし た。) さらに後漢初期57年には、曲がりなりにも?朝貢を果たし、蛮夷の国として は異例の金印を授受されているのですね。 それから約200年後に、東アジアにおける大国として登場し、さらに約100年 後に南韓で高句麗と覇を競うのは、ごく自然な流れだと思いますが? (それに比して韓国の発展段階が遅きに過ぎます。今後はこれも引き上げら れると期待しているのですが。) ただ所詮、我々には歴史の真実を100%解明することは出来ません。 文献史学は、有る意味では奇跡的に残された、極めて不完全な史書等の文献 に基づき、出来るだけ多くの可能性を想定し、周辺諸学の支援を得て、その 想定の僅かな蓋然性の大小を比較検討することで、少しでも歴史の真実に近 づこうとするものですね。 Awajiは邪馬台国からは逃避した人間であり、その知識・能力は、もとより 皆さんに比すべくもありませんが、”我、古代の歴史を解明せり”とされる 多くの方々が、明らかにこの努力を怠たり、一方的解釈を展開されているこ と位は分かります。実に悲しむべき風潮では、無いでしょうか? つい余計なことを言ってしまいましたが、私の意見が正しいとは申しません。 こう言う考え方も有りうる、と言うことでご参考にして頂ければ幸いです。 Time : 1999/ 4/23(金) 22:45:45
Name : Toshy E-mail : Title : みなさん、クイズ Comments: です。 日本から600キロ離れ、人口2億を持つ工業先進国、とは、どこでしょう? 答えは、アメリカ合衆国です。 私はウソを言っていません。沖ノ鳥島−マリアナ諸島間は、500−700キロほど。 魏志倭人伝の信憑性とは、こんなものだと思われますが、いかがでしょう? Time : 1999/ 4/24(土) 01:19:28
Name : 米子の泣きうさぎ E-mail : Title : はじめまして Comments: はじめてこちらをのぞかせていただきました。皆様、知識が半端じゃないですねー。圧倒されて しまいました。 私は今、広島の大学に在籍している関係で東広島市に住んでいますが、地元は島根県のすぐお隣、 鳥取県米子市というところです。出雲関係のことがずいぶん話題になっていたようですね。そこ で質問なんですけど、古代出雲文化圏の国際性、というか、朝鮮半島との関連性などについて教 えてください。 朝鮮半島との関連性の高さとくれば九州、のイメージのほうがつよいかもしれませんが、山陰に とっても朝鮮半島はわりと近さを感じさせる存在です(実際、現在でも、夜中にラジオを聞いて いると韓国の電波がはいってきますし、北朝鮮の兵士の遺体も流れてきましたし)。こういう地 域に強大な勢力を持っていたということは、朝鮮半島との交流も活発だったのではないかなあ、 と思っているんですけど・・。それをよみとれる発掘物とか、あるんでしょうか? なにぶん歴史を学んだのは高校生までですし(大学では法律を勉強中です)、その他の知識は小 説などを読んでえた程度ですので、皆さんみたいに、推論を立てたり、何らかの資料でそれを裏 づけしたり、専門的な著書を読んだり、といった力が、私にはありません。 素人のソボクな疑問ですが、教えていただけるとうれしいです。 Time : 1999/ 4/24(土) 06:32:14
Name : 米子の泣きうさぎ E-mail : Title : はじめまして Comments: すいません、さっきのが改行していなっかたために読みづらいものになっていましたので、 かきなおしました。 はじめてこちらを覗かせていただきました.皆様、知識が半端じゃないですねー。 圧倒されてしまいました。 私は今、広島の大学に在籍している関係で東広島市にすんでいますが地元は島根県のすぐお隣、鳥取県の米子市というところです。 出雲のことがずいぶん話題になっていたようですね。 そこで質問なんですが、古代出雲文化圏の国際性、というか朝鮮半島との関係などについて教えてください。 朝鮮半島との関連性の高さといえば九州、といったイメージのほうが強いかもしれませんが、山陰にとっても朝鮮半島は近さを感じさせる存在です。 現代でも、夜中にラジオを聞いていると韓国の電波が入ってきますし、北朝鮮の兵士の遺体が漂着したりしましたし。 こういう地域に強大なせ威力を持っていたということは、朝鮮半島との交流も活発だったのではないか、 とおもったんですけど・・・。それを示す発掘物とかあるんでしょうか? なにぶん歴史を学んだのは高校までですし、その他の知識は小説を読んで得た程度なので、 皆さんのように推論を立てたり、何かの資料でそれを裏づけしたり、専門的な著書を読んだり、 といった力が、わたしにはありません。 素人のソボクな疑問ですが、教えていただけるとうれしいです。 Time : 1999/ 4/24(土) 07:37:28
Name : まつばら E-mail : Title : 勇者ロト様。「全行程5倍水増し説」のご質問への回答です。 Comments: 新説(?)であるところの「全行程5倍水増し説」へのご質 問ありがとうございました。回答です。 1、5倍について 魏里400m(435m?)と実測値(80m〜120m) との比です。5倍は別として、公称と実測の違いはいろんな 説で認められています。 2、倭種について 魏志倭人伝のとおりで、女王国の東にも倭人のすむ国がある とされています。私の説では現山口県です。 3、狗奴国について 都が直接接していたかどうかはよくわかりません。でも邪馬 台国は確実に接していたでしょう。で、狗奴国ですが、方角 的にはまともに南なら宮崎方面でしょうか、方角が許される なら、球磨方面のほうが妥当な気がします。 4、畿内について 当然にいろんな国々があったでしょう。しかし、邪馬台国は 存在してなかったと思っています。どちらかといえば、邪馬 台国東遷説に魅力を感じています。その理由として、筑後川 流域の地名が畿内の地名に酷似していること(安本美典先生 のご説です)、北九州での埋葬方式と三種の神器との関連、 などをあげておきます。 Time : 1999/ 4/24(土) 09:23:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と年代推定・・・誤記訂正 Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 年代推定法に誤記がありましたので、訂正します。 天武22世→天武25世 です。 併せて、以下に算定方法を簡単に説明します。 *まず、記紀により直系系譜を確認すると、次のとおりとなります。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 神武ー綏靖ー安寧ー懿徳ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開化ー崇神ー垂仁ー 12 13 14 15 16 17 18 19 景行ー(倭建)ー仲哀ー応神ー(若野毛二俣)ー(意富富抒)ー(乎非)ー(汗斯)ー 20 21 22 23 24 25 26 27 28 継体ー欽明ー敏達ー(押坂彦人)ー舒明ー天智ー(施基)ー光仁ー桓武 *次にかなり信頼出来る人物の没年を確認し、一世25年として逆算 します。(このサンプル次第で推定値は変わります。) *それを平均して、古代人物の没年を推定します。 神武 崇神 応神 20継体   531年 19*25=475 56 10*25=250 281 5*25=125 406 21欽明 571年 20*26=500 71 11*25=275 296 6*25=150 421 22敏達   585年 21*25=525 60 12*25=300 285 7*25=175 410 23押坂彦人 (600年) 22*25=550 50 13*25=325 275 8*25=200 400 24舒明 641年 23*25=575 66 14*25=350 291 9*25=225 416 25天智 671年 24*25=600 71 15*25=375 295 10*25=250 421 25天武 686年 24*25=600 86 15*25=375 311 10*25=250 436 66 291 415 *これにより、推定値は次のとおりとなります。 神武没年・・・ 66+-24 崇神没年・・・291+-15 応神没年・・・415+-10 Time : 1999/ 4/24(土) 10:21:41
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Awajiさん、愚問にお答えいただき、 Comments: ありがとうこざいました。私が今、感じている疑問については、Awajiさんも 通ってこられたのではないかと考えています。まだ整理がつけられる状態では ないのですが、参考とさせて頂きたいと思います。 まつばらさんご回答ありがとうございました。 Time : 1999/ 4/24(土) 14:31:21
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と水行路程・・・質問です Comments: まつばらさん、はじめまして。Awajiです。 勇者ロトさん、ありがとうございました。 路程・日程ともに5倍曲筆説、なかなか面白いアイデアだと思います。 ところでAwajiは、九州は不案内なのですが、次の点はどのように考えれ ば、いいのでしょうか? 1.伊都国から、大宰府付近に向かうのに、水行が妥当な行程でしょうか? (通常は博多周辺で上陸し、陸路をとるのでは?) 2.博多から、大宰府までは約12km位だと思いますが、伊都国から通算 2日を要するものでしょうか? 3.太宰府付近から、陸路6日ですと、1日15〜20km(かなり、ゆ っくりとした想定です)約90km〜120kmの距離になると思い ますが、かなり迂回路であったとしても、阿蘇より南になると思いま す。安本さんの甘木・夜須付近とは合致しないのでは? (太宰府から、甘木・夜須付近では約20km位だと思います。) 4.同様に遠賀川は、水路で遡上するような川なのでしょうか? (通常日本の中級河川は、余り遡上に適していないと思いますので。) 5.伊都国から、海路を経て、遠賀川を遡上し合計で4日進んだところ とは、どの辺になるのでしょうか? また、その辺には弥生遺跡が存在するのでしょうか? 何しろ、九州は福岡しか知らないものですから、見当違いの質問かも知れま せん。面白い考え方だと思いますので、以上の諸点を確認しておきたいので、 よろしくお願いします。 Time : 1999/ 4/24(土) 18:02:04
Name : yarole E-mail : yarole@pop11.odn.ne.jp Title : 初めまして Comments:  初めまして。yaroleと申します。  井沢先生のHPを発見して覗いてみて、このBBSを知りました。  書込量が多すぎて読むのについていけませんが、耶麻台国で 話題が盛り上がっているようなので、ついつい書込をしてしま いました。(^^;  ここで発言されている方は皆さん「九州」説なのでしょうか。 私は「大和」説支持者なので、だとすると肩身がせまい。  あまり(というよりほとんど)専門知識がないのでここの書込 は少々怖い(!?)のですが私の今思っているところを書き込んで みたいと思います。  耶麻台国は大和の纏向であろうと思っています。耶麻台国は現在 の(というより応神王朝)直接の先祖ではないだろうと思います。  応神王朝は九州起源であると考えています。応神王朝は中部九州 東部起源で大分・宮崎方面に根拠地を持っていたのではないか、と 思います。  つまり、神武から欠史八代までは応神王朝以後の架上で、応神王朝 は耶麻台国の正当な後継者であるという位置付けをしたかったため、 「応神」東征を「神武」東征に話を作り替えた。しかし、応神が九州 から来たことが隠し切れない(というか正当性を主張する)ため仲哀 〜神功皇后の話を挿入した。と思っています。  だから、応神以前の書記に出てくる「熊襲」が応神王朝の祖先であ り、倭人伝の「狗奴」国ではなかろうか、と考えているのです。 Time : 1999/ 4/24(土) 20:01:16
Name : yarole E-mail : yarole@pop11.odn.ne.jp Title : 初めまして Comments:  初めまして。yaroleと申します。  井沢先生のHPを発見して覗いてみて、このBBSを知りました。  書込量が多すぎて読むのについていけませんが、耶麻台国で 話題が盛り上がっているようなので、ついつい書込をしてしま いました。(^^;  ここで発言されている方は皆さん「九州」説なのでしょうか。 私は「大和」説支持者なので、だとすると肩身がせまい。  あまり(というよりほとんど)専門知識がないのでここの書込 は少々怖い(!?)のですが私の今思っているところを書き込んで みたいと思います。  耶麻台国は大和の纏向であろうと思っています。耶麻台国は現在 の(というより応神王朝)直接の先祖ではないだろうと思います。  応神王朝は九州起源であると考えています。応神王朝は中部九州 東部起源で大分・宮崎方面に根拠地を持っていたのではないか、と 思います。  つまり、神武から欠史八代までは応神王朝以後の架上で、応神王朝 は耶麻台国の正当な後継者であるという位置付けをしたかったため、 「応神」東征を「神武」東征に話を作り替えた。しかし、応神が九州 から来たことが隠し切れない(というか正当性を主張する)ため仲哀 〜神功皇后の話を挿入した。と思っています。  だから、応神以前の書記に出てくる「熊襲」が応神王朝の祖先であ り、倭人伝の「狗奴」国ではなかろうか、と考えているのです。 Time : 1999/ 4/24(土) 20:15:22
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 米子のなきうさぎさん、はじめま Comments: して。出雲と朝鮮半島の関係としては、まず出雲国風土記における「国引き神話」 があります。八束水臣津野命(ヤツカミヅオミツノノミコト)という神が、新羅の 余った土地を大山と三瓶を杭にして引っ張って来たのが島根半島だ、という話です。 出雲は、北九州が半島交易の表玄関とすると、勝手口という感じです。 潮流の関係もあり、半島南西部から直接出雲に到着するのは、危険だったのです。 しかし、半島の東部地方(つまり新羅)からは、出雲や越といった日本海側勢力の 土地に到着する場合が多かったという事です。冒頭の神話はこういった航海事情を 反映しているのではないかと思います。 つまり、国土形成神話に新羅が登場するという事は、古代それもかなりの昔から、 新羅と出雲の関係が深かったという事です。 それを示す出土品というのは、山陰地方で作成されたと思われる土器が新羅の故地 からも出土しています。そして新羅からのものとしては、出雲国内の神社の御神体 となってるものもあるそうです。(詳しくは解りません、すいません) こういった関係からも、弥生時代の前期頃から新羅と出雲の古代人達は、互いに行 き来していたのではないかと思っています。 もっと推測を深めると新羅=出雲だったのかもしれません。つまり国境の判然とし ない古代においては、出雲の住民は新羅の住民と同一の部族だったかもしれないと いう事です。ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・・・・。 それと、四隅突出型古墳という古墳があります。この古墳は日本国内では山陰地方 に集中しています。上空からみるとヒトデのような形に見えるそうですが、これに 似ている古墳(山陰地方のものより小型なんですが)が、やはり半島南部に見つか っているという事です。 日本海を内海として半島南東部と出雲は繋がりをもっていたのかもしれません。 あくまで推測です。 米子が地元なのですか?米子には何度か行った事があります。弓ヶ浜でしたっけ? 夏になるとキャンプに訪れる人が多い所? 米子近辺には上淀廃寺という遺跡もあります。飛鳥時代の遺跡なんですが、 大和経由ではない仏教文化を示す遺跡だそうです。 島根や鳥取では、遺跡発掘ラッシュだそうです。もし行かれるような事があれば レポートして頂きたいです。 ちなみに私は播磨の人間です。 Awajiさん、邪馬台国についてはもう少し考えてみます。 Time : 1999/ 4/25(日) 00:31:48
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と宇佐神宮・・・不遜ながら井沢説批判です Comments: みなさん、今日は。Awajiです。 確かinaさんだと思うのですが、宇佐100%説でしたね。 おそらく井沢さんがそれに近い立場を採っておられる?ので、その説を受け ておられるのだと思います。 Awajiは、九州説に関する問題点の中で、宇佐説についても断片的に触れて きましたが、ここで更めて宇佐説について考えて見たいと思います。 既に申し上げたとおり、Awajiの知る限りでは宇佐説を積極的に取り上げた のは、高木さん(神津名探偵)のみだと思いますが、この小説については細 部は全く記憶していませんので、井沢さんの「逆説の日本史T」の関係部分 に限ります。 1.卑弥呼の死因 先ず、松本さん、樋口さんの「卑弥呼殺害説」ですが、これらはとても 検証に耐え得るものではありません。特に松本さんの「卑弥呼以死」が 90%以上の確率で誤読であろうと言うことは、既に申し上げた通りです。 学会が否定したのは「以殺」と「以死」の問題では無く、漢文の読み方 (区切り)が理由だと思います。(P244〜257) 従って、この想像を前提として邪馬台国問題を考察するのは、絶対に不 可とまでは言い切れませんが、あまり妥当ではないでしょう。 (日食についても、同様です。各地の古代人は何度も日食を経験してい るでしょうが、これが王の殺害に結びついた確証例はまずありません。) 2.伊勢神宮と宇佐神宮 井沢さんは「道鏡」事件で、称徳天皇が宇佐神宮の神託を求めたことを 重要視され、宇佐神宮を伊勢神宮よりも重要な皇祖神(卑弥呼?)の祖 廟と位置づけておられる様です。そして、そのことを邪馬台国宇佐説と 関連付けておられるようです。(Awajiの誤解かも知れませんが) Awajiも東大寺建立以降のの宇佐神宮神託問題については、別に考察す べきだと思いますが、宇佐神宮の位置付けを伊勢神宮を陵駕する最高神 とするのは不可能だと思います。 それを何より明快に示しているのは、聖武による神階の授受です。 宇佐(八幡)神宮は、東大寺建設に関する功績により、聖武天皇により 一品を与えられています。つまり如何に崇敬されようと、所詮は天皇に より品位を与えられる対象なのです。(つまりは、極めて大雑把に言う ならば、親王並みに取り扱われているのです。) 如何に天皇でも、伊勢神宮に位を与えるような不敬は、絶対に行い得な い得ないでしょう。そこに伊勢神宮が神々の頂点に立つ皇祖神だとされ る所以があるのです。 神功や応神は、one of 先祖神ではあっても、皇祖神では無い(少なくと も奈良時代には、無いと考えられていた)と見なすべきでしょう。 従って、宇佐神宮神託問題によって邪馬台国の所在を論ずることは、あ まり妥当だとは思えません。 3.卑弥呼と記紀 これについては、既に斎宮論で申しあげましたので、重複は避けますが、 卑弥呼を天照大神とする、或いは卑弥呼の存在が記紀に記載されていな いことを不審とする論議についても、このように解釈すれば然程無理な く理解できるのではないかと思います。 4.邪馬台国東遷論 安本さんは、九州中部の地名が大和と酷似していることをもって、 邪 馬台国東遷説の一つの根拠としておられる様です。 しかしこれもどちらが元かは分からない筈です。後世全国に「小京都」 と呼ばれる場所があったように、この地方の首長が大和に擬えて地名を 付けた可能性があるかも知れないからです。(あくまで可能性です。) また、応神期に九州王朝が大和王朝を征服したと言う東遷論について言 えば、何故彼等が自分達の祖神・祖先伝承を全て捨て去り、被征服王朝 の祖神・祖先伝承を継承せねばならないのか?自己の祖先を大和王朝に 蔑視された熊襲と卑しめねばならないのか? について合理的な解釈が 困難です。 (大和王朝を神意に逆らう逆賊と決め付け、その様な神話を後世に残せ ば良い筈です。) みなさんは、これらについて、如何お考えになるでしょうか? Time : 1999/ 4/25(日) 17:07:12
Name : 米子のなきうさぎ E-mail : Title : ロトさん、ありがとうございました Comments: 勇者ロトさん、早速のお答えありがとうございました。 山陰の土器が新羅の故地で発掘されているという話は初耳です。驚きました。 いろいろ勉強させていただいて、嬉しい限りです。国引き神話にしても、地元の 昔話という程度の認識でしたが、改めなければいけませんね。 上淀廃寺についてですが、レポートできるほどではないですけれども、上淀廃寺跡 発見をきっかけに整備された「ほうき古代の丘公園」に行った事があります。 一時期新聞をにぎわせた壁画等については、まだわかっていることが少ないためか あまり充実した展示などはありません。すべてを見てまわったわけではないのです が、古代史の見識を深めるのを目的として訪れるには、まだ発展途上の段階という 印象でした。研究がすすむにつれて変わっていくことでしょう。 蛇足ですが、蓮の池はとてもきれいです。私が行ったのは去年の夏休みでしたが、 たくさんの種類の蓮が白や薄桃色の花を咲かせていました。それと、お土産屋さん と併設している食堂では、どんぐり餅があって、古代の味を楽しめます。 最近話題の「むきばんだ遺跡」には、公開されれば行きたいと思っていますが、よ うやく保存が決定したばかりの段階では、いったい何時になるのやら・・。 そのほか、太平記に出てくる船上山などは、いずれも比較的近くにありますので、 ご要望があれば夏休みに帰ったときにでもくわしくみてきます。ちなみに、私の 祖父の実家は後醍醐天皇関係の説話が伝わっておりまして、現在名乗っている苗字 も後醍醐天皇から賜ったものだそうです。山岡壮八氏の小説をよんだらそのエピソ ードがでてきてびっくりしたことがあります。歴史と自分との接点って、以外な所で感じるものですよね。 Time : 1999/ 4/26(月) 01:05:41
Name : K2 E-mail : kunihiko@05.alphatec.or.jp Title : なぜ日本人は事実をみたがらないのか Comments: 1300円を買いました。とても、おもしろかったです。 僕は、作家志望の若者です。アドバイスください!!! 下記に原稿あります。 http://www.05.alphatec.or.jp/~kunihiko/history.html Time : 1999/ 4/26(月) 01:13:49
Name : ina E-mail : Title : Awajiさんへ、男性像アマテラス以来のご無沙汰です。 Comments: Awajiさん。ご無沙汰しております。inaです。  毎度膨大な資料、知識、そして労力のかかった書きこみで私も勉強させて頂いているのですが。一応名前が 出ましたので、少しだけ。 おっしゃるとおり、宇佐の神託事件は私にとってかなりの根拠になっています。 「それを何より明快に示しているのは、聖武による神階の授受です。 宇佐(八幡)神宮は、東大寺建設に 関する功績により、聖武天皇により一品を与えられています。つまり如何に崇敬されようと、所詮は天皇に より品位を与えられる対象なのです。(つまりは、極めて大雑把に言うならば、親王並みに取り扱われて いるのです。)如何に天皇でも、伊勢神宮に位を与えるような不敬は、絶対に行い得ない得ないでしょう。 そこに伊勢神宮が神々の頂点に立つ皇祖神だとされる所以があるのです。」とのことですが、 1. 769年の道鏡事件の時に伊勢神宮は無視され、宇佐神宮の神託が決定的な意味を持ったことをどう説明されますか? 2. また江戸時代まで宇佐神宮が一品、伊勢神宮が二品であったことをどう考えられますか?伊勢の二品も天皇が与えたのではないでしょうか? 3. 勿論、これは宇佐と天皇家の深いつながりを示してはいても、この論理だけで邪馬台国宇佐説が成立するわけでないことは承知しているつもりです。 Time : 1999/ 4/26(月) 08:31:01
Name : ina E-mail : Title : Awaji Comments: Awajiさん。ご無沙汰しております。inaです。  毎度膨大な資料、知識、そして労力のかかった書きこみで私も勉強させて頂 いているのですが。一応名前が出ましたので、少しだけ。 おっしゃるとおり、宇佐の神託事件は私にとってかなりの根拠になっています。 「それを何より明快に示しているのは、聖武による神階の授受です。 宇佐 (八幡)神宮は、東大寺建設に関する功績により、聖武天皇により一品を与え られています。つまり如何に崇敬されようと、所詮は天皇に より品位を与 えられる対象なのです。(つまりは、極めて大雑把に言うならば、親王並みに取 り扱われているのです。)如何に天皇でも、伊勢神宮に位を与えるような不敬は、 絶対に行い得ない得ないでしょう。そこに伊勢神宮が神々の頂点に立つ皇祖神 だとされる所以があるのです。」とのことですが、  769年の道鏡事件の時に伊勢神宮は無視され、宇佐神宮の神託が決定的 な意味を持ったことをどう説明されますか?  また江戸時代まで宇佐神宮が一品、伊勢神宮が二品であったことをどう考 えられますか?伊勢の二品も天皇が与えたのではないでしょうか?  勿論、これは宇佐と天皇家の深いつながりを示してはいても、この論理だ けで邪馬台国宇佐説が成立するわけでないことは承知しているつもりです。 Time : 1999/ 4/26(月) 08:35:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんに、質問があり Comments: ます。「宇佐八幡宮神託」以外にも宇佐説の根拠がおありのようですが、 それ以外に邪馬台国が宇佐にあったと考えておられる理由を、お教え願い たいのですが。 よろしくお願い致します。 Time : 1999/ 4/26(月) 12:49:40
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と神託・・・憶測だらけです Comments: Inaさん、今日は。Awajiです。 >>また江戸時代まで宇佐神宮が一品、伊勢神宮が二品であったことをどう考 >>えられますか?伊勢の二品も天皇が与えたのではないでしょうか? Awajiは奈良時代の神階授受を前提にしていましたので、伊勢神宮が二品と されていたことは、頭に無かったのですが、ご指摘の点はごもっともです。 ところで、伊勢神宮に二品が授受されたのは、どの時代(天皇)のことか、 またそれはどの史料によるものか(どなたの説か)お教えいただけ無いでし ょうか?(恥ずかしながら、知りませんでした。) >>769年の道鏡事件の時に伊勢神宮は無視され、宇佐神宮の神託が決定的 >>な意味を持ったことをどう説明されますか? 1.宇佐神宮(神官)は、東大寺建設時にも積極的役割を演じていますが、 後に八幡大菩薩として信仰されたように、もっとも早く神仏混交的立場 を示したと思われます。(僧法蓮等) 2.そのため、特に仏教に傾倒した奈良時代後期(聖武・称徳)の時代的風 潮に合致し、聖武の崇敬を獲得し得たのでは無いでしょうか。 (隼人の反乱に際し、演じた役割も大きいと思いますが、754年厭魅の罪 等、正直言えば立ちまわりがアザトすぎると言う印象を持ちますが。) 3.穿った見方かも知れませんが、廬舎那仏(大仏)は太陽崇拝に関係が あり、天照大神に擬された可能性があります(神仏混交思想においては   大日如来です)。一方八幡大菩薩は如来(仏)より格下の菩薩ですが、   人間社会においてより身近な存在として、如来を補佐する役割を持って   います。伊勢神宮と宇佐神宮をその様な関係と捉えることも出来るかも   知れません。 4.後に道鏡配流に神官阿蘇麻呂が連座処分されている処から察するに、道 鏡との癒着があったことも考えられます。 (道鏡が称徳に強力に宇佐神託を推奨した?) 5.或いは、ギリシャにおいては、デルフィの神託(アポロン)が最も重視 されているように、神託に関しては必ずしも最高神ではなく、宇佐八幡 が神託に適した神と認められていたかもしれません。(いささか飛躍気 味ですね?) 6.宇佐八幡神は応神に擬されているので、天皇家の先祖神の一人(特に継 体以降の天皇家においては最大限に尊重されている神格)であると認め られており、称徳等に天皇家の後継者問題に関する一応の権威が備わっ ていると主張されれば、それに対抗できなかったでしょう。 等々の理由(思いつくままに挙げたもので、その他にもあるでしょうね)が 考えられると思いますが、要するに称徳が何らかの事情で、宇佐神宮の神託 を強力に主張したのに対し、当時の皇族・貴族はこれに抗し切れなかったの では無いかと考えるのですが、如何でしょう? (勿論これも一つの可能性でしかありませんが) 仮に、伊勢神宮と宇佐神宮の神託が相反し、宇佐神宮の方が重視されたのな らともかく(そうなったら大変でしょうね)、称徳は宇佐神宮神託に後継者 問題を賭け、逆に宇佐神宮(神官)に裏切られた?のかも知れませんね。 畢竟この茶番劇の真相は、後世の我々には分からないかもしれません。従っ て神階問題を重視したのですが、そこに誤認があれば再考します。 Time : 1999/ 4/26(月) 21:56:14
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 称徳と道鏡が宇佐八幡宮に神託をもとめた理由について Comments: みなさん、inaさん、こん@@は。 何故、伊勢ではなくて宇佐だったのか?という問題は興味深いと思います。 私の個人的な推測なのですが・・・・・・。 1.八幡宮に祭られている応神を自分の祖先の中で一番大事に思っていた。 2.八幡宮は、その創建前に渡来系の人々の聖地であった。つまり天皇は渡来人 だという事を称徳は知っていた。 3.素晴らしい託宣を連発する神社だった。 4.「豊国法師」という仏僧らしき名の人物が雄略天皇(おそらく5世紀後半) の病を治しています。これが、仏僧だとすれば公式の仏教伝来(538年) よりも早くから豊国つまり宇佐には仏教が伝わっていたと考えられます。 仏教の熱心な信者(保護者?)であった称徳は、仏教による政治改革を目指 していた事もあり、仏教色のつよい豊国にある宇佐八幡宮にも傾倒していた。 5.八幡神の出自は記紀には記載されていません。皇統の守護神である伊勢より 皇統を移す事に寛容であると称徳らは考えていた。 6.本来の皇祖は八幡神である。 などが考えられます。私としては4の理由が妥当だと思っています。 なんせ仏教狂いの称徳ですから。 6であるなら邪馬台国=大和朝廷が宇佐から東遷した理由になると思います。 Time : 1999/ 4/26(月) 22:48:53
Name : ina E-mail : Title : Awajiさん ロトさんへ Comments:  こんにちは  早速の反応、うれしいのですが、それぞれの項目がかなり 自由ナ発想、あるいは想像に基づいているように思われ、正直 言って、戸惑っています。この分野で、自由ナ想像が展開でき ると言うことは素晴らしいことであり、邪馬台国の魅力の一つ ですよね。  私もロトさんの自由な発想に、着いていこうとしながら、 ちょっと自分の頭の程度に自信を失っていったのも事実です。  今回、Awajiさんからも自由な想像による意見を頂き、 ちょっとどう応えて良いかわからないのです。  つまり、これに反論するなら自由ナ発想を、やはり、資料 にないものは認めない、とか、常識的にない、とか、つまら ない書きこみになりそうで、、、。  例えば「伊勢神宮と宇佐神宮の神託が相反し、宇佐神宮の 方が重視されたのならともかく(そうなったら大変でしょう ね)」という形で否定されると、要するにAwajiさんの 作った条件に合うかどうか、問題にナって、神託事件の意義 が否定されてしまっているのですが、私にすれば、現在教科書 にある事実だけで充分に思われます。  いずれにしても私がベテランなら、こう言う議論も反応でき ますが、前にも書いたようにもう少し勉強の時間を下さい。 Time : 1999/ 4/27(火) 09:54:54
Name : まつばら E-mail : Title : Awaji様ありがとうございます。 Comments: Awaji様ありがとうございます。稚拙な「説」に対してのご質問ありがとうございます。遅くなりましたが (2000年問題対応中ですので)お答えします。 #1.伊都国から、大宰府付近に向かうのに、水行が妥当な行程でしょうか? # (通常は博多周辺で上陸し、陸路をとるのでは?) 現福岡市周辺は結構河川が多いですよね。福岡平野自体、沖積平野だと思い ますが、こういう場所の未開拓時代ってのは結構湿地やなんかで歩きにくい のでは、と考えたからです。もうひとつ、いまから1700年前となれば、 まだ海進時の名残があり、水位が現在より高かったためもある、と思います。 (大和へも船で入れたのでしたね。) #2.博多から、大宰府までは約12km位だと思いますが、伊都国から通算 # 2日を要するものでしょうか? 福岡からではありません。伊都国からの放射状解釈に従っていますから、 伊都国からの距離です。河川通行には潮の状態待ちが考えられますから、 この日数で十分だと思います。 #3.太宰府付近から、陸路6日ですと、1日15〜20km(かなり、ゆ # っくりとした想定です)約90km〜120kmの距離になると思い # ますが、かなり迂回路であったとしても、阿蘇より南になると思いま # す。安本さんの甘木・夜須付近とは合致しないのでは? # (太宰府から、甘木・夜須付近では約20km位だと思います。) 一日あたりの距離数ですが、10km程度とさせてもらいました。邪馬 台国九州説においてはむろんのこと、畿内説でも一日10km(上陸地点 を播磨、但馬、丹後等からみて)程度となっていますので、そんなもんか なと思った次第です。それから、邪馬台国の都の比定地ですが、甘木、夜 須方面より日田付近までのどこかにさせてください。それから、筑後川流 域ですが、支流が非常に多い場所を横切るように進む場合、いまのように 橋などの設備があまり整っていない時代、山肌にそって歩くようになると思 いますので、地図上の距離はあまり参考にはならないのかな、という気がし ます。 #4.同様に遠賀川は、水路で遡上するような川なのでしょうか? # (通常日本の中級河川は、余り遡上に適していないと思いますので。 ) 私がいますんでいる所は、全長40k程度のまさに「中級河川」のすぐ そばです。河口から7〜8kmの地点ですが、満ち潮になりますと、さ らにもう2〜3kmは楽に遡上できました。(いまは河口に橋ができち ゃいまして)。川によってはいけるんではないですか?。水位がいまよ り高かったことも考慮に入れて「中級河川」の遡上としました。 #5.伊都国から、海路を経て、遠賀川を遡上し合計で4日進んだところ # とは、どの辺になるのでしょうか? # また、その辺には弥生遺跡が存在するのでしょうか? 残念ながら知りません。「水行」という文字に引っ掛かりましたので、そこ にしました。たいした意味はありません。地図で見ると王塚古墳があったの で、古墳があるくらいだから、まあ、この付近でもいいか、と思ったのです。 (どなたの説かは忘れましたが、山口県防府市でもいいのですが、でも、方 向が若干気にくわない・・・。海岸沿いを進むのも「水行」ですが) でも、投馬国の比定地の近所に住んでいるのですが(鞆ですね)ここに弥生 時代の大きな遺跡は無いのですが、どうして比定地になったのでしょう? Time : 1999/ 4/27(火) 10:14:33
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : Awaji様へ Comments:  ina様もおっしゃっているように、議論についていけず、 傍観者に徹していますが、おこがましくもina様の代わりに >伊勢神宮に二品が授受されたのは、どの時代(天皇)のことか、またそれは >どの史料によるものか(どなたの説か)お教えいただけ無いでしょうか? についてコメントさせていただきます。正確な資料はよくわかりません。 ただ、単なる推測とお断りしたいのですが、ina様は、小生が以前紹介した 鷲ア弘朋氏のホームページ http://member.nifty.ne.jp/Washizaki/ をご覧になるようなことをおっしゃっていましたので、 そこで読まれた知識が記憶に残っていたのではないでしょうか? 伊勢神宮は江戸時代まで二品という記述が、そのHPの概要にありました。 とりあえずご報告まで。 Time : 1999/ 4/27(火) 10:40:13
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 私も鷲崎先生のホー Comments: ムページをみてきました。九州説として納得のいく展開だと思います。 Time : 1999/ 4/27(火) 19:07:31
Name : 勇者ロト E-mail : Title : inaさんへ Comments: いいじゃないですか!つれづれなるままにかきつくれば! 私も自分の考えをちゃんと整理してから書き込んでいるわけではありません。 確かに想像しただけのものを書き込むのは間違う事もありますが、間違えれば、 訂正すればいいだけの事です。 過ちを改むるを憚る事なかれ(だったかな?)と誰かもいってました。 意見を出さなくては、自分の考えがあってるかどうかもわからないわけですから。 邪馬台国の位置については、まだまだわからないでしょう。 憶する事なく言っちゃいましょう! 魏志倭人伝の方位、戸数、里程を無視して考えても、250年頃には大和と北九州 には、ある程度大きな勢力があった事だけは確実です。その勢力は敵対してたのか あるいは同盟していたのかそれとも同じ勢力の本店支店の関係なのか? それ以外の勢力は当時どうしていたのか? 大和朝廷とはどんな関係となるのか? どこが邪馬台国なのかという事は何百年も研究してもわからない事です。 称徳が伊勢神宮でなくて宇佐八幡に神託を聞きにいかせたのは、伊勢ではほぼ間 違いなく道鏡の即位をみとめる神託がおりる訳がない事を称徳は知っていたのです。 アマテラスは国譲りの際、天壌無窮の繁栄を皇孫だけに許しているのですから。 皇族でないものを天皇にする事を、アマテラスが許すわけはないでしょう? だから当時まだ新しい神であった八幡様(仏教の影響がある神)に聞いてみたの です。ちなみに応神以前の宇佐の神とはウサツヒコとウサツヒメとい2柱の神だ ったそうです。ここに大和の大三輪一族がやってきて応神信仰がはじまったらしい です。 ですから神託問題と天皇の祖先問題は切り離して考えたほうがいいでしょう。 九州から大和への流れと思われたものも、実は大和から九州の流れなのかも しれません。 Time : 1999/ 4/28(水) 01:13:12
Name : ina E-mail : Title : Awajiさんへ Comments:  一品、ニ品については大阪JF生さんの おっしゃる通りで、誠に申し訳ありません。  要するに論文で参照論文を直に読まず、 引用している先行論文の孫引きによって記載したのと 同じ行為でした。申し訳ありませんでした。  よって、原典はわかりません。 Time : 1999/ 4/28(水) 10:00:38
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様ごめんなさい Comments:  余計なことを言ってしまったようでどうもすみません。 ここは論文誌ではありませんので、責める気持ちは毛頭 有りませんでした。お詫びいたします。  ただ、HPを紹介したのに感想が聞けなかったので、 この際、もう一度PRしようと思っただけなのです。 実際勇者ロト様が感想を述べてくださいました。 小生もそうおもっていたのですが、なにぶん自説を 組み立てるための材料が乏しすぎて、間接的に 皆様のご意見を求めたのでした。 どうぞお気を悪くなさらないでください。 Time : 1999/ 4/28(水) 12:02:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 宇佐神宮 Comments: 宇佐神宮の神功皇后=卑弥呼と言う推定だけは、 私は井沢先生に反対です。 神功皇后=卑弥呼はありえても、 宇佐神宮にいるはずがないからです。 宇佐神宮は、古代の巨石崇拝と、渡来人の私家仏教とシャーマニズム の合体によりできました。 そこに天皇家が入る余地はないです。 宇佐神宮は神仏混合の発祥の地であると言う説もあります。 そして奈良時代にはまだ宇佐神宮の祭祀と、神功皇后、応神天皇は 結びついていません。 ただし、神功皇后が渡来人だと言うなら話は変わります。 先祖神として祭ったと考えられますが、神功皇后=卑弥呼ではなくなります。 Time : 1999/ 4/28(水) 12:48:56
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 世代 Comments: 私は、神話の代の天皇陛下の系譜は、直径系譜ではないと思っています。 大体1世代で2〜4人の天皇陛下が出ていますから、 それが神話の代にもあてはまるのではないかと考えています。 例えば、神武天皇ー2代ー3代ー3代ー崇神天皇と言った具合です。 Time : 1999/ 4/28(水) 15:39:21
Name : 勇者ロト E-mail : Title : Re世代 Comments: 私も、欠史八代の相続は、兄弟相続が混じっているのではないかと思います。 神世の後段の海幸・山幸の説話はそれを暗示しているのではと推測しています。 Time : 1999/ 4/28(水) 16:08:19
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と系譜伝承・・・・伊勢神宮二品説・邪馬台国行程 Comments: inaさん、まつばらさん、勇者ロトさん、安部さん、今日は。Awajiです。 伊勢神宮二品説の出所については、了解しました。 何も気にされることは、ありません。我々にとって原典にあたると言うのは 、結構大変な手間ですから先行論文の孫引きは、むしろ当然ですし、それこ そアマチュアの特権だと思います。これからもいろいろとご紹介願います。 ただ、論者(鷲崎さんについては分かりません)によっては、全く根拠や原 典を示さずに「・・です。」と断定的に主張されることがあるので、Awajiは 原則として原典を示さない意見については、論者の誤解或いは時代錯誤かも 知れないので、出来るだけ検証することにしているのです。 ですから、孫引きの場合でも論者が何を根拠としているかを、一応お示し頂 ければ結構かと存じます。 現在のところ、伊勢神宮についての参考文献では二品説は確認できていない のですが、もし可能でしたら、鷲崎先さんが主張されている該当部分を要約 掲載頂けないでしょうか? 確認の手間が省けますので。 神託問題については、論点は少し異なる部分もありますが、結論としては、 >>神託問題と天皇の祖先問題は切り離して考えたほうがいいでしょう。 に示されたロトさんと同じように考えており、同時に邪馬台国の所在と関係 づけることは、なおさら無理があると考えています。 要するに、宇佐神宮の起源や、神託問題の解釈については、様々な可能性が 想定できる(すべき)であるにも係らず、宇佐神宮=天皇祖神=卑弥呼=邪 馬台国にのみ拘泥された井沢さんの基本姿勢に問題があると思います。 なお、両神社の神託が並存すれば云々は、単なるレトリックです。この為に 余計な混乱を招いたのであれば、お詫びして撤回いたします。 まつばらさん、ご解説有り難うございました。 率直な印象としては、少し日程がかかりすぎるように思いますが、成立の可 能性は充分ありうると思います。 >>まだ海進時の名残があり、水位が現在より高かったためもある、と思い >>ます。(大和へも船で入れたのでしたね。) ただ、大和に関しては大和川が改修までは、北流して河内湖に注いでいま したので、地形が全く変化しており、一寸比較は出来ないと思います。 >>福岡からではありません。伊都国からの放射状解釈に従っていますから、 >>伊都国からの距離です。 福岡からとは申しあげていません。 ”伊都国から通算2日を要するものでしょうか?”ですので念のため。 >>一日あたりの距離数ですが、10km程度とさせてもらいました。邪馬 >>台国九州説においてはむろんのこと、畿内説でも一日10km(上陸地 >>点を播磨、但馬、丹後等からみて)程度となっていますので、そんなも >>んかなと思った次第です。 了解しました。ほぼ道程で50〜60km圏内になるわけですね。 Awajiは近畿説に立つとすれば、投馬は「出雲=i-tumo、i-dumo」??位 かと想像しています。 また途中の各国(瀬戸内行路ならば、特に吉備)にも滞在しつつ進んだと 思いますので、博多周辺から(同じく放射説を採っています。)大和まで 600km程度(水路・陸路含む最短道)を実質35日前後で進んだとして 15km〜20kmと想定しました。 この速度が九州内部で適用できるかどうかは、よく分かりません。 因みに、延喜式では、太宰府から京までの運脚は27日とされていたよう です。(道路は整備されていたと思いますが、600kmとしてほぼ22km 位、現在の新幹線では博多・京都間約662kmですから、陸路だけならば、 ほぼ25km位になります。) >>投馬国の比定地の近所に住んでいるのですが(鞆ですね)ここに弥生 >>時代の大きな遺跡は無いのですが、どうして比定地になったのでしょ >>う? 単なる語呂合わせだと思います。邪馬台国比定地が全国に広がっているの は、魏志の記述の問題もありますが、この様な語呂合わせが、多すぎるこ とにもよるのでは?。(明治迄であれば考古学が未発達のため、やむを得 ないでしょうが、いまだに生きているのはおかしいですね。) 単なる感想でした。(Awajiは近畿5割5分程度で、現段階では確定は不可 能と考えています。) 勇者ロトさん、安部さん、 >>私は、神話の代の天皇陛下の系譜は、直径系譜ではないと思っています。 >>私も、欠史八代の相続は、兄弟相続が混じっているのではないかと思い >>ます。 実にご尤もなご意見で、通説的には「架空系譜」が主流であり、ある程度 系譜に信憑性を認められる方でも、せいぜい兄弟継承説でしょうね。 当然Awajiもその様に考えていました。 ところが稲荷山鉄剣の直系系譜を見たときに、ある想像が浮かんだのです。 祟神までの系譜は、大王系譜ではなく或いは血統系譜ではないかと言うこ とです。既に申し上げたところですが、より詳しく説明すると、 つまり、祟神までは大王と言う地位が必ずしも確立しておらず、当然王位 については傍系継承や並立さえもあったであろう。しかし、それらの不安 定な王位継承よりも直系血統のほうが強く意識され、伝承されたのでは無 いか? 傍系継承で大王位についた人物がいたとしても、子孫が絶えれば、その伝 承も途切れてしまうだろうが、直系血統系譜は子孫が残っている限り容易 には失われない。 そして後世においては、そのように伝えられた血統伝承があたかも大王伝 承と見なされたのでは無いか?と言う事です。 旧約聖書の系譜も族長系譜と言うよりも、血統系譜ですよね。 言うならば神武の継承者が崇神と言うより、崇神の先祖が神武と言うこと ではないかと考えたわけです。 あくまでも想像の域を出ませんが、全く無理な想像でしょうか? 基本的な矛盾があれば、ご指摘願います。 Time : 1999/ 4/28(水) 22:09:50
Name : A E-mail : Title : 安部さん Comments:  私は子龍さんに賛成です。  山本の発言は戦争のプロとしての正確な認識を述べたもので、 非常に正確だったことが後にわかるわけです。  開戦は政治的に決められるわけで、山本には批難される(安部さんのような形 で)筋合いはないのでは?  ー人間には、最初から無謀とわかっていても、やはりやらなければならぬことが あるからである。日露開戦のときがそうであり、日米開戦のときも同じだった。  勝った戦が義戦で、負けた戦は不義の戦だと分類してみても、戦端を開かなけれ ばならなかったときの、切羽詰った心情を今更その侭に喚起できるものでもない。 況や方略が良ければ勝てたはずだ、いや戦はそもそも避けられた、という態の議論 に至っては、人事は万事人間の力で左右できるという、当今流行の思いあがりの所 産というべきではないか。 江藤淳 「南州残影」  という文章を紹介したいと思います。  私は今ニューヨークアメリカ住んでいますが、一流のアメリカ人が時として如何 にみにくい態度を取るか、日本の精神文化が一部では熱狂的に尊敬されているか を知って、日本の軍人はああだ、というステレオタイプな見方はやめた方が良いと 思います。 Time : 1999/ 4/30(金) 09:32:50
Name : ina E-mail : Title : Awajiさんへ Comments: 鷲ア弘朋氏のホームページhttp://member.nifty.ne.jp/Washizaki/ 中、卑弥呼と宇佐神宮の祭神の部分に以下の記載がありました。 「そして宇佐神宮と伊勢神宮は天皇家の二所宗廟とされ、769年の道鏡事件では 伊勢神宮はまったく無視され、宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけました。また 江戸時代まで宇佐神宮が一品、伊勢神宮が二品と宮中での位は宇佐神宮が上であ り、宇佐神宮が実質的にはより重視されていました。」  私はこの論文に非常に感心して、今自分なりの骨組みを作ろうと何回も読んでい るところです。 Time : 1999/ 4/30(金) 12:15:41
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 宇佐神宮2 Comments: 宇佐神宮の原始祭祀は 3個の巨石に対するものと考えられます。 その後4〜6世紀になって渡来人がシャーマニズムを持ち込みます。 豊前に来た渡来人は、渡来人の中では後に日本に来た部類に入ります。 だから、卑弥呼の時代には、宇佐には巨石信仰しかなくて、 卑弥呼が存在し得ないのです。 神功皇后を祭る神社は、筑紫に大勢あります。 ここに祭られているのは、元々は卑弥呼だった可能性も十分あります。 Time : 1999/ 4/30(金) 12:46:39
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 大王の系譜 Comments: みなさんこん@@は,Awajiさん、血統系譜ですか。崇神の先祖が神武という事 を証明するための系譜なのかもしれません。私は、神武の時点では大王と呼べる だけの力は持ってなかったと考えてますので、そう解釈したほうがいいかもしれません。 Time : 1999/ 4/30(金) 18:33:00
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と伊勢神宮二品説真偽? Comments: inaさん、今日は。Awajiです。 伊勢神宮二品説に関する、ご紹介ありがとうございました。 ただ、率直な感想としては、まことに残念ですが、鷲ア弘朋氏のご意見は、 ほとんど検証に値しないもののように思われます。 つまり、延喜式やその後の一宮制度における両神宮の位置付けと言う確実な 史料的根拠に反することを、何の根拠も挙げずに一方的に主張されているに 過ぎないからです。 延喜式当時における伊勢神宮の位置付けは、以前に以下でも述べたとおり、 極めて厳しいものでした。 Title : 救世観音から鎌倉大仏へ?? Time : 1999/ 3/ 8(月) 21:30:28 >「私幣禁断の制」については、言葉足らずで申し訳ありませんでした。 >これは「延喜式」で定められたもので、「伊勢神宮=天照大神」には天皇 >以外何人たりと「幣」をあげることを禁じたものです。 禁を犯した場合の処罰も「遠流」と言う厳しさでした。 これに対して、宇佐神宮はあくまで全国に285座もある地方の一名神大社 に過ぎず、奉幣の手続きも一般の官幣神社と変わりはありません。 (伊勢神宮の奉幣に対して、班幣と呼ばれています。) 平安末期から鎌倉時代にかけて一般化した一宮制度においても、当然に伊勢 神宮は枠外ですが、宇佐神宮は国司が奉祭すべき豊前国一宮とされています。 これらから見て、両神宮の位置付けが隔絶していることが明らかなのですが、 鷲アさんは、知ってか知らずか、これらについては全く言及されていません。 伊勢神宮二品説そのものについては、かなりの文献に当りましたが、未だ確 認できていません。或いは神祇制度が乱れた鎌倉期以降にそのような俗説が あったかも知れません。 しかし「神社の古代史」−朝日カルチャーブックス において岡田精司さん は次のとおり述べておられます。 「そして『神階』のことがあります。・・・位を与えるということはどうい うことかというと、臣下の扱いということでしょう。・・・その中で例外的 に特定の社が皇族扱いで品位、つまり親王の位階をもらうというようなこと があります。宇佐八幡なんかそうです。・・・しかし非常に尊ばれながら位 階を全くもらったことのない神社があるんです。それは伊勢神宮です。・・」 岡田さんは三重大学教授で神社史、特に伊勢神社については、お詳しいかた ですから、岡田さんさえ知らないことを、鷲アさんがどうしてご存知なので しょうか? つまりは、この論文は、Awajiのようなドシロウトから見ても、お粗末極まり ないもの。敢えて言えば「意図的誤謬」と申し上げざるを得ないのです。 参照文献 *日本史小百科「神社」−東京堂出版 *神々の伝承と神社の謎ー歴史と旅 *聖なる神々と神社ー新日本往来社 *神仏混淆の歴史探訪ー東京美術 その他神道・神社関係書籍等 Time : 1999/ 4/30(金) 22:50:44
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と年代比定・・・誤差大有りです Comments: 勇者ロトさん、今日は。Awajiです。 血統系譜説に、ご理解をお示し頂き、ありがとうございます。 これに基づき、世代・25年オバーラップ法を適用すると、年代比定は次の ようになります。勿論25歳で嗣子誕生という想定によるものですから、 個々に適用する場合は、かなりの誤差を認めねばなりませんが、(50歳 嗣子誕生があれば、一世代のずれが生じますので・・) 結構もっともらしい姿になるんですよね。 (さらに25年を減数すれば生存年代になります。神武ならば16〜66です。) 41〜66 神武 建武中元二年(57年)倭奴國奉貢・・光武賜以印綬 66〜91 綏靖 91〜116 安寧 安帝永初元年(107年)倭國王帥升等・・願請見 116〜141 懿徳 141〜166 孝昭 倭国大乱? 漢・桓帝(146〜167) 166〜191 孝安 漢・霊帝(167〜189) 191〜216 孝霊・大吉備津彦 216〜241 孝元・倭迹迹日百襲 241〜266 開化・大彦 景初二年六月(239年)倭女王遣詔書親魏倭王 卑弥呼没(248年?)(北史) 266〜291 崇神・彦坐 壹與(266年)遣送政等還因詣臺 (以上 魏志) 291〜316 垂仁 楽浪郡滅亡313 、晋滅亡316 316〜341 景行 341〜366 (倭建)・成務 百済建国(346年?)・新羅建国(356年?) 366〜391 仲哀・神功 秦和四年(369?)七枝刀 故為倭王旨造・・ 391〜416 応神・忍熊 広開土王元年(391年)而倭以辛卯年来渡海 広開土王九年(399年)己亥百残違誓与倭和通。 広開土王十年(400年)庚子・・倭賊退。 広開土王十四年(404年)甲辰倭不軌侵入帯方界 倭寇(潰)敗斬殺無数 広開土王没(412年) (以上 高句麗碑文) 416〜441 (若野毛二俣)・仁徳 百済腆支王十四年(418年)遣使倭国送白絹 高祖永初二年(422年)詔曰倭讃萬里修貢 太祖元嘉二年(425年)讃又遣司馬曹達奉表獻 讃死弟珍立遣使・・詔除安東將軍倭國王 441〜466 (意富富抒)・履中・反正・允恭 二十年(442年)倭國王濟遣使爲安東將軍倭國王 二十八年(451年)倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍 新羅慈悲麻立干二年(459年)倭人以兵舩百余艘襲東辺 世祖大明六年(462年)詔曰倭王世子興安東將軍倭國王 466〜491 (乎非)・安康・雄略 高句麗 百済国都を陥し、百済南遷(475年) 新羅慈悲麻立干二十年(477年)倭人挙兵五道来侵境 順帝昇明二年(478年)遣使上表・詔除武使持節都督 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王 辛亥年(471?)七月中記乎獲居臣・・獲加多支鹵大王(稲荷山鉄剣) 宋滅亡(479) 491〜516 (汗斯)・清寧・顕宗・仁賢  516〜541 継体・武烈 新羅 任那加羅金官国併合(532年) いかがでしょうか? Time : 1999/ 4/30(金) 23:30:35