Name    : さっちー
E-mail  : 
Title   : 墾田永年私財法について
Comments: 
皆さんこん@@は、うーん一度書き込むとくせになってしまいますねー。

inaさん、墾田永年私財法を撤廃した事について感動したらしいですが、この事
が最大の失政だと、私は思っています。こういう前例を作ってしまうと、「法」と
いうものの重みがなくなってしまうと思いませんか?
政略のためだけに法律をいじるのは為政者として軽はずみな行動です。この撤廃が
貴族をはじめとする天下万民に快く受入れられなかったのは当然なのです。
墾田永年私財法は、聖武天皇により天災などで疲弊した百姓や地方豪族をたすける
という大義名分の下発布されました。百姓は当時「おおみたから」といわれ、天皇
家を根底からささえる力であったのです。それをないがしろにして、自分の政敵を
追い落とすためだけに法をなかったものにするというのは、藤原系貴族はもちろん
他氏族からも反発がおこるのは当然だとは思いませんか?
結局この法律は再び力をもった藤原氏により、他氏族の圧倒的支持もうけ復活する
のです。しかも発布当時に設けられた上限をなくすという天皇家に最悪の形となっ
て。これが失政といわずなんというのでしょう。
称徳はもっと慎重に藤原一族をあつかわねばならなかったのです。目先の事だけし
か対処できない、「無策」といわれてもしょうがないと思いませんか?
こう考えれば、真備に暗殺されてもおかしくないでしょう。

ノムさんへ
怨霊が人々に意識されたのは、朝廷が確固とした基盤を成してから、貴族の政争
の道具として広がっていったと考えてるようですが、これはある意味あっている
とおもいますが、「卵と鶏どっちが先?」という感じがします。
なんの素地もないのに、いくら貴族が宣伝してもまったく怨霊など影も形もなけ
れば果たして意識が定着するでしょうか?
安部さんの投稿にもあったとおもいますが、古代「荒ぶる神」といわれていた神
が怨霊の原形と想像できませんか?どちらも怒りによって天変地異を起こし、命
をうばっていくのです。信仰としては別物かもしれないけれど、おなじ内容だと
私は思うんですけど。KANAKさんもいっていたように、単純に怨霊としてひ
とくくりにするからはっきりしないのです。
つまり、私のいいたい事は、「怨霊は進化した」という事です。井沢先生も
「プレ怨霊信仰」という言葉をどこかでつかってらっしゃったと思ったんですけ
ど、皆さんはどうお考えですか?

Time    : 1999/ 3/ 1(月) 00:53:33

Name : ina E-mail : Title : nomusan 、?ノムさん、? 飲むさん? Comments:  こんにちは  ノムさんへ  早く手に入れられることをお祈りします。  VAIOで喫茶店で仕事をしていると、たまにアメリカ人が ’Oh Great’とかいって話し掛けてきますから、 ただで英会話のレッスンが受けられますよ。  日本人はそういうことはしませんけれども。  この日本人のどちらかと言えばシャイなところは、 やはり言霊と関係してると思いますか。  大学では何を勉強されるんですか。いずれにしても、 史料の参照については私などより恵まれた情況に入られる訳ですね。  あまり「飲む」さんにならないよう、お気を付け下さい。    Time : 1999/ 3/ 1(月) 01:04:25
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: おはようございます。 僕は経済学部経済学科です。本当は歴史を学びたか ったんですが、推薦試験が経済と経営しかなかった のでこうなりました。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 08:43:00
Name : ina E-mail : Title : 怨霊信仰 Comments: 逆説の日本史 4 ノムさんへ  旅行は出雲だけですか さっちーさんへ 藤原氏が律令制を骨抜きにして行く過程で抵抗した天皇の存在はそれ自体驚 嘆に値する、というのが、私の感想でした。 ところで、先回のご意見についてですが、「荒ぶる神」というのは、例とし ては一神教のなかでも、旧約聖書の記述などに見られるもので、ここでは創 造者、絶対神のキャラクターのことを言った言葉ですよね。新約の時代にな っても創造者、絶対神、という概念は変化しませんが、キャラクターが愛の 神に変わったという認識が私などの持つものです。これは素朴な信仰、とい うより、一神教の到達点(ユダヤ教の経典たる旧約聖書)における概念の一 つだと思っています。 おっしゃった日本での「荒ぶる神」については、非常に素朴な、自然を恐れ るような信仰に認められるもので、むしろ未開の人々が世界共通にもつもの だと認識していますが定義が少しはっきりしないので教えて下さい。  日本の多神教概念では、創造者と被造物の境界がはっきりせず、人間が死ぬ と怨霊になって、神であるはずのアマテラスよりも強い力で、災厄をもたら す。そこで、この怨霊を押さえるために仏教、陰陽術(平安京の設計)など の導入がなされた、というのが井沢先生の説で、いわゆる学会の説との相違 は成立が、桓武天皇以降か、かなり古く溯るのか、と言うことだと思います。 荒ぶる神、は基本的に一神教の万能の神、あるいは世界共通の未開時代の素 朴な恐れ、一方怨霊はいうまでもなく多神教的概念で、一番偉い神様(アマ テラス)を時には超える、という意味で日本独特だと思います。よって、多 神教的概念の怨霊の起源を「荒ぶる神」に求める考えは日本の特殊性を減殺 する考えだと思いますね。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 09:44:28
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 感想文 Comments:  皆さん、お邪魔します。  あっという間に議論が進んで、・・うーむ真備が主犯? これは意表を突かれました。でも面白い。わからなくなってきましたね。  小生は、井上内親王の件は称徳と重なって感じていましたので、 百川による暗殺ならば、称徳もそうだろうと思っていました。 輔住様は期間の長さを問題にしておられましたが、井上内親王親子は 幽閉後数年かかっているので、弱い毒の蓄積による死?などと、 推理小説のように想像していました。それよりも、皇后でなくなった、 井上内親王を殺すことが、「世のため人のため」というのはやはり おかしいと思いますので、実は称徳暗殺のことを暗に示しているのだと 勝手におもっていましたが。でもさっちー様の意見も一理(いや複数理) あるなと思います。  怨霊の起源についてはよく分かりませんが、今でも「ビデオを 見ただけで、なんの関係もないひとでも死者ののろいにかかって死ぬ」 という話がはやっているぐらいだから、日本人の心の深層に結構 食い込んでいるのかな、「古代においておや」かなといろいろ思い 巡らせていました。単なる連想ですみません。  それにしても、さっちー様は称徳に対し、厳しいですね。 小生もヒステリックな女帝だとは思いますが、私利私欲のみでなく それなりに(万世一系ではないにせよ)天皇家の安定化をもとにして、 日本の将来の事も考えていたのでは? 確かに軽率なやりかただったと思いますが、その分称徳・道鏡の人の 良さのあらわれともみれるように思います。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 10:23:08
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: さっちーさんは、「神様」については詳しいのです こういう話しは長くなるので気を付けた方がいいで すよ。僕は出雲へ行く前にさんざん聞かされたので ・・・。特に「やおろずの神」にはくわしいです。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 11:50:10
Name : 輔住 E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: 大阪JF生さん、返事遅れて申し訳ありません。 >やはり大逆はできれば避けたいと思い、 >望ましい後継者選びの説得、もしくは >その逆に、望ましくない後継者を選ばせないための >幽閉という可能性もありませんか? >さらに、称徳が実は病気でないとすれば、 >この記述は・・・とも想像します。 正直、「議論」としては厳しいでしょうね。 でも、「自分も想像したことが無いか?」、 または「可能性はないか?」と問われれば別です。 私自身、上記のようなことは考えました。 正直、外部と遮断された状態ですから、いやでも 「想像」してしまいます。 歴史書に書いてあることだけでは真実はわからないでしょうし、 事が事だけに闇に消えた部分もあるでしょう。 だから、ありえない話ではないと思っています。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 12:19:31
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: 旅行と風邪の間にだいぶ様相が変わったようです。 KANAKさんとは長い付き合いでしたが、このままでは遺恨を残してしまうので、私 が彼(彼女だったらごめんなさい)のどこに許せない怒りを感じたのかを述べます。この 文章を一番見てもらいたい方は、言うまでもなく、KANAKさん御自身です。 彼の問題点は、自分の反対意見に対して、笑殺する態度をとることです。反対「意見」 といえないような未熟な「意見」であっても、笑殺することは許されません。もしも、自 分の意見に対して自信があるのならば、理性的に、感情を極力廃して、相手を説得するべ きなのです。 語弊のある喩ですが、朝原しょうこうが許し難ければ許し難いほど、裁判官には理性が 求められるのです。でなければ、リンチになってしまいます。 反対意見は耳に逆らいます。従って、相手の意見を覆そうとする人は、その相手以上に 相手の意見を知る必要があります。KANAKさんが、どうしても「逆説の日本史」を買 おうとしないことは、論争上の戦術として拙劣だったわけです。要らぬ弱点を作ってしま うからです。 彼の第2の問題点は、相手を批判するのに社会的立場と道徳を持ち出したことです。 「人生の先輩」などという言葉を持ち出されてしまっては、学生である私は絶句するし かありません。特に素性にかかわらず自由な議論ができるインターネットでは、社会的立 場や、社会規範を議論に持ち込むのは御法度でしょう。 インターネットでは顔が見えません、ですから感情はできるだけ排して発言しなければ ならないはずです。KANAKさんの感覚ではただの「ツッコミ」だったのかもしれませ んが、人によっては自分の人間性を侵す侮辱にも聞こえるのです。 第3の問題点は、互いに相反する意見を並立したまま存続させないで、どうしても決着 をつけたがったことです。このため、議論は泥沼に陥りがちでした。 彼が言いたくて言えなかった、この掲示板で排斥されつつもかじりついた根本的な理由 は、おそらく井沢ファンが井沢教徒になりつつある危惧でしょう。これは日本的臨在感把 握の歴史観と、旧約聖書的歴史観の戦いではないかと私は思っています。これが何を意味 するかはいつかお話します。「逆説の日本史」がやろうとしていることは、実は善良な日 本人にとって背徳行為です。ここら辺を嗅ぎ取ったのでしょう。 何はともあれ、目的は手段を浄化しません。幾ら自説に自信があろうと、嘲笑的言動は 許されません。自分はそうは思っていなくても、文化が異なる人にとってはそうなるかも しれないということに思い至らなくてはなりません。 彼は、井沢ファンは井沢教徒になりつつあるから、それを打破するために挑戦的言動を 使わなければならないと感じたのかもしれない。しかし、本当の「ワル」は、相手の仲間 になりつつ、油断を突いて根本から変革するのです。彼は、根は善良なのだと思います。 この挑戦的言動は、井沢先生にも当てはまります。これが、受け入れられない人には、 無性に勘に障る理由かも知れません。ここら辺は、穏当に見せながら、実は革命的なこと を述べている山本七平さんの文体の方が私は好きです。 嘲笑的言動を無くせば、彼とも楽しく議論はできます。いつでもおもどり下さい。 ただし、2度同じ嘲笑を私になげたあなたを私は一生許しません。人生の先輩とも毛頭 思いません。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 14:02:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 私の文体について Comments: 私の文体について御意見がありました。 貴重な御意見をありがとうござます。 私が断定的な文章を書くのは、その内容の責任が私にあることを明確にするためです。 「思う」を多用するのは、私自身の推理であることを明確にするためです。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 14:10:52
Name : ノム E-mail : Title : 安部さんへ Comments: こんにちは、戻ってこられたんですね。いろいろと 楽しみにしています。日本的臨在感把握の歴史観と 旧約聖書的歴史観とはどういう意味ですか? 右翼系と左翼系とかいう意味が含まれているのです か?是非とも教えて下さい。はじめて聞く言葉なの で、お願いします。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 17:51:56
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 安部さんお帰りなさい Comments: なるほど風邪と旅行だったんですね。 KANAKさんは今はいませんが、とりあえず野村監督と団野村の件、答えてあげて くださいませ。KANAKさんに対する指摘はわからなくもないのです…。しかし、 このまま団野村の件をすまされるのもいかがなものかと思います。質問者はいたっ て「紳士的に」質問されていたと思いますので。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 19:49:22
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 野村監督の件 Comments: もちろんRUGOMAさんのご質問の件に対する御回答です。 なんだか行きがかり上、忘れされれそうな感じだったのであえて補足させていただ きました。と言いながら私も実は気になっていたので、ぜひお答えを伺いたいと 思います。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 19:55:17
Name : RUGOMA E-mail : Title : 「歴史家」と「好事家」 Comments:  みなさん、お久しぶりです。RUGOMAです。  宇津木さん、自分の意見を気にかけて下さって有り難うございます。  しかし申し訳ないんですが、自分としては安部さんに「野村監督と団野村」  に関する反証を求める事が目的だったのではありません。  門外漢(自分は学生時代西欧近代史専攻でした)の自分にも、あの当時の  安部さんの文章はまるでKANAKさんをギャフンと言わせることが  目的であるかのように感情的になっていると感じられました。  とはいうものの自分は日本史の奈良時代に関しては教科書程度の知識しかなく  KANAKさんのように豊富な知識を武器に教え諭すことは出来ないし正直  あまり好みのやり方ではないしなぁと思っておりました。  そんなところにたまたま自分がファンで著作なども多少読み込んでいる  野村監督についての安部さんがなさっていたコメントが、安部さんの  議論の進め方の問題点を示すわかりやすい例になっていると感じました。  自分も正直悩みました。「これは揶揄に当たるのではないだろうか?」  安部さんが当時全力を注いでいた秋篠寺ではなくホンのささいな  コメントの揚げ足をとるような形を取るのは良いことなのだろうか・・・と。  (またすぐに述べることになりますが、自分の根拠もそんなに確かな物では  無かったのです。)  しかし最後に決断しました。「自分が単に知識の多寡だけを競う「好事家」  だったらこの件は冷笑し、黙殺するだろう。でも自分はプロではないにしろ史実の  本質をつかみ、その後世に対する影響を把握する「歴史家」となれといわれ、そうなれるように  勉強してきたつもりだ。その自分の「直感」がおかしいと言っている。  ここは一つ自分の見解を述べて安部さんの役に立ってもらおう。」    後で読み直してみるとあのときのつたない文章では言いたいことの  半分も伝えられていませんでした。そこで長くなって申し訳ないん  ですがもう一度述べさせていただきます。 > ちなみに私は熱烈なヤクルトファンです。 > 野村監督は神様みたいなもんです。 > 野村監督は、野球界では家康扱いされていますが偉大な人物です。  ここまではいいんです。井沢先生の言葉を借りれば  「共産主義が好きだ」「自衛隊は嫌いだ」と思っていたってそれは勝手なんです。  しかし、そういった自分の「主観」は置いておいて・・・ > 野茂、吉井、伊良部の大リーグ入りに野村監督は一枚かんでいます。  新説が出ました。「何故?」と思います。 > 団野村は、野村監督の息子さんです。  確かにそうですが、「義理」の息子です。野村監督との血のつながりはありません。  そしてその「義理の息子」とどう関わっているかについては著書やマスコミ報道という  史(資)料の例で示したとおりです。ただしこれらの例は「大本営報道」とでもいいますか、  野村監督に都合のいい「史(資)料」ばかりなので「もしかしたら安部さんの言うとおり  なのかなぁ・・・」という危惧は正直ありました。 > また野村監督は南海時代に、日本初の大リーガーの村上さん > (間違っていたら失礼)の球を受けていました。  村上雅則(マッシー村上)氏については自分はロバート・ホワイティング  「菊とバット」(文春文庫、1991年)で読んだくらいの知識しかありません。  ちなみにここでも、「主軸打者の野村克也氏が悩めるスター投手に「本来の  働き場所であるホークスに戻ってこい」という電話をかけ、その内容は日本全国に  ラジオで放送された・・・」というこぼれ話が載っています。  しかしこれだって「野村監督に都合のいい史料」だと解釈される可能性はあります。  「好事家」だったら史料を論ずるだけですから議論はここでおしまいです。  しかし「歴史家」(のタマゴ)としての自分の直感は次の文章を見過ごすことは出来ませんでした。 > 村上さんは、日米の契約条件の違いに苦しめられた人で、 > 野村監督はその改善を願っていると思われ、団野村はその以降で > 活動しているのでしょう。  断定はできませんが、安部さんは団野村氏が野村監督の義理の息子であることを  御存じなかったようですし、村上氏の名前も(間違っていたら失礼)とカッコ付け  しているようですので、正確には知らなかったのだと推測させていただきました。  こういったことから考えると、安部さんは「野村監督は偉大である」という自分の  「主観」を補強するために、「メジャーで活躍している野茂たちの代理人団野村氏は  野村監督の息子」「日本人大リーガー第1号(ではありませんが、詳しく書くと長く  なるので省略)村上雅則氏は野村監督が所属していた南海ホークス出身」という2つの(不確かな)  事実から、「野村監督は野茂たちの大リーグ入りに一枚かんでいる」というナベツネさんが  野村監督批判に使った言葉と全く同じ結論を導き出してしまったのだと判断致しました。  これは誰がどのような目的でみているか把握できないインターネットの掲示板です。  阪神ファン、野村ファンも多いようですし、そういった方々にきつい言い方をすれば「嘘」  を教えかねない情報だったので、あえて一言申し上げさせていただきました。   そして、・・・ここからは逆に自分の主観です。直感的な物ですから根拠は示せませんし、ありません。・・・  安部さんの秋篠寺をはじめとする一連の文章は同じ論法を取っているのではないかとそう思えたのです。  少なくとも根拠なしに仮説をバンバン述べる安部さんの筆の進め方は読む人に納得してもらえないだろう  なぁと、申し訳ないんですが端から見ていてそう思えました。  自分はKANAKさんの意見も時には厳しすぎるとは思いましたが、  >今、貴方に必要とされるのは「不知 為不知、是知也」と言う学徒としての  >謙虚さです。(知は単なる知識ではありません。理解力と言う意味です。)  >意見を発表されるのは大いに結構ですが、現在掲載中の論文についても、  >正直読むに耐えません。  >是非もう一度基礎から勉強する心を取り戻され、然るべき歴史学者の所説  >を謙虚に学び、現在の論文を基本的に再点検して見て下さい。  >貴方の実力なら容易な筈です。  という指摘は厳しいながらももっともだと思いました。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 23:24:13
Name : さっちー E-mail : Title : 怨霊の起源とは 1 「荒ぶる神の正体」 Comments: 皆さん、こん@@は。すっかりくせになってしまいました。 inaさん 私のイメージする「荒ぶる神」とは、「古事記」等に登場する「スサノオ」の事で す。ノムさんには出雲に行く前に話していたので省略しました。 スサノオは大国主以前に出雲を治めたとされている神です。大国主はスサノオから 出雲の国を譲られた事になっています。スサノオはツクヨミとアマテラスとの三貴 子といわれる姉弟関係にあるとされています。彼ら三貴子の親はイザナギとされて います。ちょっと説明の順序がおかしくなりましたがなんとか理解して下さい。 一神教と多神教という話があったので、これについて私の考えを聞いて下さい。 一般的に日本は多神教の国とされていますが、厳密にいうと未成熟社会における自 然現象を畏れ神として崇めるという意味の多神教とは違うと思っています。 日本における八百万の神とはそれぞれが国内各地域の一神教的な神の集合体である と思っております。これは大和朝廷が各地域を吸収合併していくたびに増えていっ たものと推測してます。なぜ私が一神教的な神の集合体が日本の多神教の正体だと 思ったかというと、答えは出雲を例として述べたいと思います。 スサノオは出雲において、アマテラスの子孫の侵略まで絶対神であったと推測して おります。大国主やその兄弟達は常にスサノオを意識しその愛娘を娶る事が正当な 出雲の国の主である証明になるかのように努力しています。結果として大国主がそ の栄誉を射止める事となります。スサノオは大国主を自分の意志として後継者とし て認めるのです。誰にはばかる事なく。父イザナギや姉アマテラスになんの遠慮も なく決定してしまうのです。これは、出雲の国は全て自分のものであったという、 宣言でもあると私は思います。とするとスサノオは冥界にいった後、大国主によっ て全知全能の神として祭られたはずだと思うのです。この時点では大和における アマテラスと全く同等の神だったといって差し支えないでしょう。しかし出雲は大 和によって吸収されました。私はここではじめてアマテラスは出雲においても最高 神となったと思います。古代出雲は大和朝廷にとって最大の敵であったと推測され ます。これは出雲各地から発掘されている夥しい数の青銅器からもうかがえます。 アマテラスとスサノオという絶対神が二柱そろった時、二神の性格わけがはかられ ました。天上より人民に愛情をそそぐアマテラス、地下にあって人民に罰を与える スサノオ、という具合に・・・。このようにアマテラス=大和は各地を侵略する事 によって各地におけるそれぞれの絶対神を配下に加えていったのです。各地の住民 を大和朝廷の民とするために、各地の神を完全に滅ぼす事なくそれぞれの神達に性 格と神として能力をわけていったのだと思っているのです。 このように考えてみるとスサノオとアマテラスが姉弟というのは、古事記などの 編纂までにつくられた虚構だといえるでしょう。 出雲国譲りの神話は実際上はスサノオと大国主の間で行われたもので、大和朝廷は 出雲を侵略した後この話を大国主と自分たちにあてはめて出雲を支配する正当性を 出雲の民を納得させたのではないでしょうか? 皆さんはどう御感じになりますか?感想を御聞かせ下さい。 スサノオの活躍については「古事記・神代」をご参照下さい。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 23:45:00
Name : さっちー E-mail : Title : 怨霊の起源とは 2 「荒ぶる神と怨霊の関係」 Comments: うーん、まだまだつづくんですが続きはまた明日かきます。 大阪JF生様へ 称徳と道鏡については、政治家としての先見性がみうけられないという点において 私の評価は低いのですが、井沢先生の説による彼らの人間性と仏教的な政治思想の 紹介については納得しております。ただ理想を求めて足元を見失った事についても のたりない印象をもったのです。人格非難ではありません。 称徳暗殺の黒幕として百川をお考えですか?百川が黒幕だとすると、吉備真備が だまっていないとおもうのですが。称徳の死を望んでいたという点においては、 百川一派がその筆頭でしょうから、かえって暗殺という手段は選ばないと思うの ですが。称徳の周囲も百川に対しては警戒していたと思いますし・・・ 一方称徳に引き上げられた真備はノーマークだった可能性が高いのではないで しょうか?娘を通じ、唐からもちかえった毒(みやぶりにくく、じっくり効く やつ)を称徳にいい薬だと飲まさせ死に至らした。しかし百川の手のものにそ の秘密をにぎられたため、即位争いの時強くでられなかったのではないでしょ うか?この事件の後道鏡は流されたが、彼は自ら退官します。百川になにか 引き換え条件を飲まされたのではと思います。それをかぎつけた光仁は百川 一派を除こうとしたが、井上内親王に別の罪をでっち上げられ逆にプレッシャー をかけられますます彼らの傀儡となっていったのではとも想像します。 なんか推理小説のような白々しい、できすぎた話になってしまいました。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 01:20:39
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : RUGOMAさま Comments: なるほどそういう意図だったのですね。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 03:59:59
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 救世観音 Comments: KANAKさんのいる間にお尋ねすればよかったんですが… 梅原氏の「隠された十字架」では救世観音のことが述べられています。 この救世観音は、きわめて異様な形態をもつと紹介されていました。 で、そこでどなたか仏像関係に造詣の深い方おられたらぜひ教えていただきたいの ですが 1 救世観音のような形態の仏像というのは本当に極めて珍しいものなのでしょう   か? …以前指摘があったように「秘仏」という程度では珍しくも何ともあり   ませんが、光背が頭に刺さっていたり、背中側からすっかり空洞になっている   というのはいささか異常な形態のようにも思われます。   しかし、実は、珍しくも何ともないのに梅原氏がとりあげたって可能性もある   かと思います。 2 この「隠された十字架」はおそらく随分歴史学の専門家からはたたかれたこと   と思われます。で、この「救世観音」についてはどのような反論が行われたの   か…その反論のポイントの要約、または参考図書を教えていただければ幸いで   す。  というわけで仏像・密教に詳しい方ぜひ教えてください。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 04:40:13
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 救世観音 Comments: 追伸 個人的には救世観音が上宮王家の怨霊を封じ込めた人形だ… といった発想は好きなのですが。 ちなみに、救世観音は、春と秋に一般公開しますが、ほぼ正面からしか見えないの です(4年前の話だが)。確かに光背のつきかたなんか、真横からみたら決して 気持ちのよいものではないようにも思いますが… Time : 1999/ 3/ 2(火) 04:56:12
Name : ノム E-mail : Title : 宇津木さんへ Comments: おひさしぶりです。僕の初登場の時は暖かいお言葉 ありがとうこざいました。おかげで書き込む原動力 となりました。三枝さんにもお返事できなかったの で心にずっとひっかかっていました。この場を借り てお礼致します。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 09:17:31
Name : ina E-mail : Title : 皆さんお元気そうで Comments: 逆説の日本史 5 ノムさん、 ご忠告ありがとうございます。しかし私も議論したい! 安部さんへの質問は<鋭い>と私は思います。   さっちーさんへ ご教示ありがとうございました。私としては無知のエリアの知識が増え、 ありがたかった です。一応お考えの道筋は理解したと思うのですが、、、、。 一つご質問ですが、スサノオが既に冥界へ行っていた時点で(既に神と なっていた時点で)、出雲は、まあ例えば、邪馬台国に征服された、と言 うことでしょうか。ということは現役の王である大国主命が出雲大社に 祭られたのと別の次元で、アマテラスと仕事を分担できる存在としての 神になったということでしょうか。(ちょっと自分でも申し訳ない質問だ と認識してるつもりです)  意見ですが、一神教は定義としてはthe Creator を認める宗教のこと で、神と被造物に明確な一線を引くと言うことです。西洋的二元論が必 然的に到達する論理だと思います。この場合、いくら、複数の神が存在 すると考えても、じゃ、この神とあの神と、どっちが偉いんだ?という 思考になり、結局誰が一番偉いんだ?という思考形態が最終的に到達す るのが一神教ですよね。 とすれば、二国が戦争をして、勝った方が、なぜ敗者の神を拝む必要が あるのか、という疑問もあります。勿論負けた方は勝者の神を拝まねば ならないでしょうが。  戦争前の小国がそれぞれの神を持っていた、という考えは納得できる のですが、敗戦国の神を吸収したとすれば、(1)もともとやはり多神教 的要素が強かったか、(2)あるいは怨霊鎮魂の意味で神としたか、しか ないと思います。  前の質問で、スサノオが(1)、大国主命なら(2)に相当すると思っ ています。 ということで、私は「日本における八百万の神とはそれぞれが国内各地 域の一神教的な神の集合体であると思っております。」という考えには反 対なんですよね。そして、一神教は西洋的に見ても、多神教のまあ、言 ってみれば進化した形態と思います。すくなくとも一神教から多神教へ の進化はエントロピーの法則を当てはめれば別ですが、ない、と思いま す。 RUGOMAさんへ (自分は学生時代西欧近代史専攻でした)とのことで、一神教について概 説とかお願いできないでしょうか。私は理系で門外漢というより、本当に 白紙の赤ちゃんみたいです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 10:04:39
Name : ノム E-mail : Title : 不毛にならないで Comments: inaさん、さっちーさんとの議論なんですが、この まま進んで行くと、泥沼にはまってききそうな予感 がするのですが。宗教論にはいってしまうと歴史と は関係なくなってしまうのではないでしょうか? お互い相手を納得させる結論を導き出すのは難しい と思うのです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 11:49:05
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ、 Comments:  インターネットで見たんですが、阪神のノムさんが、 サインミスか何かで不機嫌だったとか。私も期待してます。   ところで、助言ありがとうございます。  ただ、怨霊とか宗教は井沢先生の日本史ではキモの部分ですから、 できればもう少しやりたいです。  ところで、私の文章切れてませんよね。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 13:13:18
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 勇み足でした Comments: 野村監督と村上投手のことは、直感で言ってしまいました。 野村監督が、団野村氏に、「お前の考えは正しいが、やり方が間違っている」と言った と、英字の雑誌に書かれていて、それと、ヤクルトスワローズの投手には大リーグ志望が 多いというプロ野球ニュースの情報から、「もしや」と思って言いました。断定形で述べ てしまったのは私の過ちでした。 団野村氏が、大方から山師扱いされながらも、選手から信頼されているのは、野村監督 がいるからではないかと私は思っていますけれども、確証はありません。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 15:22:11
Name : ノム E-mail : Title : 史観? Comments: inaさん、日本の古代宗教というのは、科学的に解明 しようとすればするほど迷路にはまりこんでいくも のらしいです。(さっちーいわく)つじつまのあわ ない事だらけらしいです。あくまで心の問題という 事なので、古事記などから自分流に解釈する事が大 事らしいです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 15:26:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(10)・・・中間報告 Comments: 称徳天皇が処刑されたというのは、例えば、坂本竜馬の死と同じような意味合いでの処 刑です。 坂本竜馬の暗殺は、市中見回り組による暗殺か、討幕派による粛正のどちらかで、それ 自体は幕末に吹き荒れたテロの嵐の一つに過ぎないでしょうけれども、日本史の分岐点に ある象徴的な事件です。坂本竜馬の暗殺が意味するところは、多くのヨーロッパの王侯が 進んだように、日本も将軍の元に大諸侯の議会が出来て、幕府制が発展して近代国家にな る道が完全に捨てられて、討幕と天皇制の下に近代国家が作られることが決定したことを 象徴する事件でしょう。 幕府制から近代国家にシフトしていれば、近代の日本人の思想的混乱はなかったのでは ないかと私は思っています。この意味で、坂本竜馬の暗殺は大事件なのです。 称徳天皇の死に対する私の感想は、暗殺にしては藤原氏や光仁天皇は罪悪感を抱いてい ない、しかし単なる自然死にしては疑わしさを起こすような遺留品が多すぎる、です。 私は今のところ、称徳天皇は自然死だったと思います。暗殺の必要性が感じられないか らです。藤原永手達は、称徳天皇を軟禁していましたし、朝廷の実権も完全に掌握してい ました。あのまま、1年でも2年でも称徳天皇を閉じ込めておくつもりだったのではない かと思います。 これまた私の想像で申し訳ないのですが、称徳天皇は怨霊になることすら許されなかっ たのだと思います。貴族の言い分は、「称徳天皇は自然に死んだ、怨念は残らなかった、 葬式も普通に行った、さあもうあんな嫌なことは忘れてしまおう、」だったのではないか。 称徳天皇の大葬と突貫工事の墓は、一種のカーニバルだったと思います。貴族はみんな 喜んで称徳天皇をあの世へ御送りしたのだと思います。そういう意味での処刑です。 精神的なことを持ち出してしまえばなんとでも言えるといわれそうですけれども、道鏡 事件は日本の行く末を決めた大事件です。中国思想を完全に取り入れて一君万民で行くか、 中国思想を骨抜きにして律令制を貴族の私利のための道具とするかがここで決定しました。 日本人の心に巣くうデーモン、尊皇思想がここで産声を上げたと私は見ています。 今までの論文を整理すると (1) 秋篠寺は宝亀7年に発願された可能性が高い。 (2) 秋篠王は多良王の子孫である(これはちゃんと学問的に認められています)、場合 によっては川原王の子孫である(これも可能性が高い推理です)。 (3) 秋篠氏と秋篠寺は関係が深い、秋篠氏が開発したと考えられる地域が多く秋篠寺の 寺領となっていると日本地名辞典に書かれていました、秋篠氏が寄進したのでしょ う。 (4) 秋篠寺は、秋篠王の旧宅に建立されたのではないか(私の推論) (5) 称徳天皇は、道鏡事件の失敗の1ヶ月後、敗北宣言とも取れる宣命を読んでいる。 (6) 称徳天皇不予の間に、藤原永手と吉備真備等は大規模な政権交代の準備を行い、崩 御と同時に断行した (7) 光仁天皇の即位は易姓革命ではなかった。桓武天皇は自分の即位を易姓革命と思っ ていたが、貴族達は思っていなかった。 (8) 高野御陵は、秋篠寺から1〜2km北東のあたりにある(私の推理) (9) 称徳天皇は象徴的な意味で処刑された 感情と突飛な部分は除いて要約するとこうなります。 炭坑を掘っているつもりが金脈にぶつかってしまって、正直と惑っているのが今の私の 心境です。 秋篠寺が建立された原因は調べているうちにかえって分からなくなりました。称徳天皇 の怨霊にしても、国家鎮護と施基系皇族の供養にしても、私は納得できないのです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 16:18:07
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : お薦めの本 Comments: 僭越ですが、最近私が読んで、大変おもしろいと思った 本を紹介させて下さい。 「歴史の嘘と真実」井沢元彦、祥伝社(ノンポシェット) 井沢先生が歴史をどういう姿勢で見ようとしているのかが 良く出ている本だと思います。後、網膜剥離というのは、 私たちが想像する以上につらい病気のようです。 「日本人の人生観」山本七平、講談社学術文庫278番 「逆説の日本史」という取り組みが持つ革命的な意味がこ こに書かれています。もちろんこの本が出されたときには 「逆説の日本史」はまだ始まっていませんでしたが、「逆説 の日本史」が週刊誌に書かれたその場限りの史談では決 してないのが分かります。 「存亡の条件」山本七平、講談社学術文庫394番 目から鱗が100枚くらい落ちる本です。私が言う臨在感的 把握はこの本からの受け売りに近いです。私自身も思うと ころがあるからこの本に共鳴を受けるんですけれど。ただ この本を読むと、安穏な心の平安が覆されるかもしれません。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 17:00:05
Name : ノム E-mail : Title : もったいぶらないで Comments: 安部さん、あつかましい願いだと承知でお願いい たします。ずばり貴方がその本から受け取った言葉 の意味を教えていただけませんか?貴方が論じられ る事の背骨のような気がしています。これを僕達が 原典から直接読み取ると貴方の使った意味とは違う 理解をしそうなので。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 17:24:07
Name : ノム E-mail : Title : おおまかに怨霊をイメージするための本 Comments: 本といっても漫画ですが、 「火の鳥」手塚治「暗黒神話」諸星大二郎 「宗像教授伝奇考」星野之宣 などです。特に諸星先生と星野先生は他の作品も いいですよ。 すいません。場違いで。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 17:34:35
Name : 輔住 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(10)の感想 Comments: 安部さん、お久しぶりです。 (9)を読んだ時点では「処刑説」の理由がピンとこなかったのですが、 (10)を読んで分かりました。 今回は(1)から(9)までの内容も簡潔に述べてあって、分かりやすくて 良いと思います。また分からない部分があるときは質問すると思いますが よろしくお願いします。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 17:38:01
Name : RUGOMA E-mail : Title : inaさんへ。 Comments: >RUGOMAさんへ  >(自分は学生時代西欧近代史専攻でした)とのことで、一神教について概  >説とかお願いできないでしょうか。私は理系で門外漢というより、本当に  >白紙の赤ちゃんみたいです。  さらりとものすごいことおっしゃいますね^^;  今あわてて教科書や卒論を書いた際用いた  文献を引っぱり出していますが、  正直「概説」を披露するのはかなり難しいと思います。  時代・民族・階級などどれひとつとっても  一言では言えない物ばかりですからねぇ・・・  幸か不幸か(?)先日図書館で「井沢元彦の世界宗教講座」  なる本も借りることが出来ましたので、2,3日中に  それへの感想も含めて意見を述べさせていただきたいと思います。  ただお気に召す物になる自信はありません。  貴方やさっちーさんのほうがよほど自分より博学です。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 23:17:07
Name : さっちー E-mail : Title : 怨霊の起源 2 「荒ぶる神と怨霊の関係」 Comments: みなさん、こん@@は、ラッシャー木村です。 というのはさておき、本題にはいる前にinaさんのご質問にお答えします。 冥界にいった時点というのは、オオクニヌシに国譲りした時点という意味です。 この時点では大和朝廷(あえて耶馬台国とはいいません)の出雲に対する干渉はな かったものと思っています。単純にスサノオが死に、後継者に祭られた時点ととっ ていただいて結構です。ちなみにオオクニヌシとは称号だと私は推測します。つま り個人をさす固有名詞ではないという事です。なぜそう思うかというと、オオクニ ヌシには異名が多すぎるからです。「古事記」のオオクニヌシの業績、行動は一人 のものではなく、歴代のオオクニヌシの業績を一つにまとめたものだと思います。 ですからスサノオに国譲りされたオオクニヌシは初代、大和朝廷に国譲りしたオオ クニヌシは最後、と考えています。この間五代の交代があったと推測しています。 なぜかというとオオクニヌシの異名が最低五つ確認されているからです。五代の内 に出雲から西は北九州、東は東北南部南は瀬戸内海周辺まで勢力を伸ばしていった と推測しています。これはオオクニヌシを祭る神社の広がりに根拠を見出していま す。出雲弁は東北南部の方言と似ているというのも無視できないでしょう。 一方アマテラスの出雲侵攻も何回も繰り返してやっと成功したものでしょう。 古事記には国譲りの交渉として記載されています。アマテラスの子孫が天皇(当時 はオオキミ?)と呼ばれるまでにも五世代かかってます。このように考えてみれば 出雲と大和はお互いが長年にわたってお互いの神を祭っていたという事になります。 大和朝廷は出雲を吸収した時、スサノオに対する信仰も吸収したのです。この理由 は、土地をとっても耕す良民がいないとなににも役にたたないためです。民心を安 定させるため、以前の信仰を認めざるを得なかったのでしょう。大和と出雲の戦争 はキリスト教の十字軍とは違い、圧倒的に侵略したものではないため激烈な戦闘は なかったのでしょう。大和朝廷は出雲の土地が必要だったのではなく出雲の文化が 欲しかったのでしょう。侵略当時日本海をわたって大陸の文化が直接出雲に流入し ていたと考えられるからです。文化と人材、技術をえるためスサノオの信仰を認め なくては、出雲を大和は手に入れられなかったのでは、と考えられませんか? 最初吸収した時スサノオはアマテラスとほぼ同等の神だった。しかし時がたつうち 大和は出雲の文物をてにいれ、吸収直後よりスサノオの神としての価値が下がって しまった。でもいまさら排斥するわけにはいかない(出雲出身の豪族に遠慮して) そこで、アマテラスとスサノオは姉弟だったという神話をつくり、さらにその親神 を付け足して、天地創造の神イザナギとイザナミの夫婦神とした。天地創造の力は お互い譲る事のできない不可侵部分であったため、たなあげの受け皿として二人の 親神をつくりあげたのではないでしょうか。 一神教は多神教の進化した形という事ですが、逆もまた真です。 この場合勝った勢力は負けた側より、全ての条件で勝っているか、ほぼ同等の条件 の場合起こる現象だと思います。しかし出雲を吸収した時の大和は特に人口が劣っ ていたのではないでしょうか。出雲は文化も最新の大陸文化をもっていた確率が高 いですしね。以外と全ての分野で出雲の方が勝っていたかもしれないのです。 では、どうやって自分たちより強大な敵を下風におく事ができたか? おそらく、だまし討ちのような形で最後のオオクニヌシを捕らえて、国譲りを強要 したのでしょう。最後まで大和に従う事をきらった者達は遠く諏訪の地まで逃亡し たと古事記にも記されています。 閑話休題 皆さんはなぜ出雲大社が「縁結びの神」といわれていると思いますか? 私は出雲と大和の縁を結んだからだと思います。 オオクニヌシの祭られている神社には、「皇族下馬」の札が立っていたらしいです 時の天皇以外は皇族といえども、その神域を通る時には、馬や輿からおりなくては いけなかったらしいです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 23:23:38
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 安部様 Comments: 「秋篠寺(10)」「お勧めの本」拝読しました。 輔住さんもおっしゃるように、秋篠寺(10)を読むとかなり貴方の考えが…という か考え方がわかってきたような気がします。全般に、言葉を補っていただいているよ うですね。きっと随分感情をおさえて書かれた物だと思います。 「勇み足でした」でも自分の非について率直に認めておられました。私なんぞが 申し上げるのも僭越ですが、ずいぶんオトナになられましたね。 私の書きこみで不快な思いをされたかもしれません。どうかお許し下さい。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 05:25:01
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : ちょっとお休み Comments: 私事で恐縮なのですが、救世観音がどうたらこうたらと問題提起をしておきながら 申し訳ないのですが、しばらく、ここにくるのをお休みしようと思っています。 というのも、今、妻が流産しかかっているからなのです。ここ1週間程度がヤマの ようですし、ここをクリアしても、まだまだ道は遠いようです。ただ、どのような 結果であれ、落ち着いたらここに戻ってきたいと思っています。 昨日、この事態が判明するまではのほほんとしておりましたが、さすがに今、正直 なところ「冷静さを欠いて」います。 それにしても、私もやはり日本人。 赤ちゃんが○○…という可能性を考えたくないというのは「言霊」の影響のせい なのでしょうね。口に出しても、あるいはキーボードをたたいても実現してしまい そうに思えてしまう…なんて。 とりあえずしばらく妻の世話に専念(仕事は少し暇になる時期なので)いたしま す。 追伸:できれば「救世観音」も議論してくださいね。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 05:43:36
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : ちょっとお休み Comments: 私事で恐縮なのですが、救世観音がどうたらこうたらと問題提起をしておきながら 申し訳ないのですが、しばらく、ここにくるのをお休みしようと思っています。 というのも、今、妻が流産しかかっているからなのです。ここ1週間程度がヤマの ようですし、ここをクリアしても、まだまだ道は遠いようです。ただ、どのような 結果であれ、落ち着いたらここに戻ってきたいと思っています。 昨日、この事態が判明するまではのほほんとしておりましたが、さすがに今、正直 なところ「冷静さを欠いて」います。 それにしても、私もやはり日本人。 赤ちゃんが○○…という可能性を考えたくないというのは「言霊」の影響のせい なのでしょうね。口に出しても、あるいはキーボードをたたいても実現してしまい そうに思えてしまう…なんて。 とりあえずしばらく妻の世話に専念(仕事は少し暇になる時期なので)いたしま す。 追伸:できれば「救世観音」も議論してくださいね。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 05:43:42
Name : ina E-mail : Title : こんばんは 皆さん Comments: 逆説の日本史 6 さっちーさんへ 「大和朝廷は出雲の土地が必要だったのではなく出雲の文化が欲しかったの でしょう。文化と人材、技術をえるためスサノオの信仰を認めなくては、出 雲を大和は手に入れられなかったのでは、と考えられませんか?」 私の質問に対する回答がすっきりと述べられて心地よいですね。納得しま した。 「おそらく、だまし討ちのような形で最後のオオクニヌシを捕らえて、国譲 りを強要したのでしょう。」 この考えも筋道が通っていて、さっちーの考えが理解できました。必ずし も戦争に強い国が全てにおいて勝っている訳ではないですしね。 ところで、一神教ということではやはり言葉の定義の問題と考えますが、 少なくとも西洋流の定義では、the Creator, 創造者と、被造物、と言った 点で、明確な差を多神教との間に認めるべきだと考えます。 さっちーの一神教の定義は西洋的なものと若干異なっているのでは、とお もいつつ、次回の本論を楽しみにしています。ありがとうございました。 RUGOMAさんへ ご迷惑を掛けて申し訳ありません。 いまのところ、専門教育を受けておられる方はRUGOMAさんだけですし、 よろしくお願いします。さっちーさんの興味深いお話が展開しそうですし、 私個人としては、TERMINOLOGYの問題は議論する場合、特にHPの議 論ではなるべく早期に一致していた方が望ましいと思っています。そうで ないと何となくずれた議論をして、あとで私はこういう意味で言った、と かいうのもしらけますしね。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 07:47:34
Name : ノム E-mail : Title : ふることのふみ? Comments: inaさん、皆さんおはようございます。 inaさん、「古事記」はよみましたか?僕は一応よん だのですが・・・・。 よんどかないと、ここからさらにディープになるら しいので勝手にしてよーと言うことになる確率が 高くなりますよ。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 09:23:18
Name : ina E-mail : Title : RUGOMAさま Comments:  RUGOMAさんへ    このHPの過去の分ですが、半月しかもたないのですね。すごいHPだと思いながら も愕然として、まあ、資料的価値も高いと思われるKANAKさんの発言と、 自分に対するご意見を保存していたのですが、その過程で気づきました。 私はRUGOMAさんに、たびたび意見を補足していただいたり、とてもお世話になって いたんですね。  改めてお礼申し上げると共に、卒論資料などを取り出して下さったことに 感謝しています。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 13:50:38
Name : ノム E-mail : Title : フルコトノフミ Comments: どなたか、古事記をお読みになった方いませんか? さっちーさん以外の感想が聞きたいです。あの人の 読みかたは独特な感じがします。僕はギリシア神話 の移し変えのような気がしました。似ている話しも 多いですし。でも日本にもこんな神話があったとは と感動しました。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 18:40:05
Name : ノム E-mail : Title : フルコトノフミ Comments: ちょっと調べたのですが世界中の神話はある程度パ ターンがあるみたいです。だから登場する神様の名 前が違うだけの、人類共通のモラルを写しだしたも のが神話で事実を反映したものではないんではない かとも感じました。勿論さっちーさんのも一理はあ るとは思いますが Time : 1999/ 3/ 3(水) 18:46:29
Name : さっちー E-mail : Title : 一神教の神の定義 Comments: おしえてーおじいさん おしえてーおじいさん おしえてーアルムの樅の木よー みなさんこん@@は、ハイジです。というのはさておき、inaさん西洋流の定義 というのを詳しく教えて頂けませんか。ずばり正解でなくてもかまわないですから 貴方の認識しているもので結構です。とりあえず貴方と定義について合意していな いと議論の論点がずれてしまう可能性が高くなってしまうでしょうから。 貴方の思っている定義を「定義」と記し、私の認識しているものを「八百万式の定 義」と記して区別するというのはどうでしょう? 八百万式の定義 私の考えている一神教の定義というのは、「ある集団の祭祀において最高の位をも っている神」というものです。くれぐれも誤解しないで頂きたいのは、本来なら、 八百万式の神もそれぞれ天地創造の能力をもっていたと私は考えているという事 です。スサノオもアマテラスもツクヨミもその他の神神もです。ただし後世にお いて新たに加えられた神については別です。とくに貴族の祖神としてまつられた ものは除きます。後世とそれ以前を区別する根拠は神の名前が古事記、日本書紀 にしか登場しないものは後世の神、風土記の逸文などにも登場するのは八百万式 の定義における一神教の神としたいと思っていますが、風土記も古事記もてもと にないので確認できません。自分の記憶に従っていますので間違いをみつけた時 は容赦なくご指摘ください。 それはそうと、皆さん、古事記は読んだ事ありますか?ノムさんに聞くと「普通 そんなもん よまへんでぇ」といわれたので、明日の投稿は古事記の流れの確認 と紹介をしたいのですがよろしいでしょうか? Time : 1999/ 3/ 3(水) 22:43:43
Name : きんたろう E-mail : Title : 日本神話の系統 Comments: 日本神話を構成する「素」の多くは海外に由来するようです。 日本の古代文化と同様に、神話もまた隣接地域から伝承したものと 考えられるからです。 国生み神話は洪水型兄妹婚人類起源神話の系統をひく伝承、 国曳き神話は太平洋圏に分布する魚の島創世神話の系統、 そして天孫光臨型は北アジアに多く分布します。 いずれにしても原型(のようなもの)はどこかにあるようですが、 これは同じ人類なので同じような先例はどこかにあるという事なのだと思います。 (何しろ4大文明圏の古さはものすごい) ただパターンが大陸系海洋系が共に存在することから見ても 日本人というのは人種の坩堝だったのではないかと思います。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 23:35:45
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音について・・・ Comments: 宇津木和政さん、はじめまして。Awajiともうします。 法隆寺夢殿「救世観音」に興味をお持ちのようですが、仏像愛好家の端くれ として、ご参考までに。(お暇になったらご覧くださいますか。) 梅原先生の「隠された十字架」による、救世観音の特徴は次のようなものだ ったと思います。(他にあるかも知れません。) 1.背後が作られておらず、内が空洞になっている。 2.「救世観音」が儀軌にない特異な形状である。 3.持物が「宝珠」とされるが、火焔につつまれた「舎利瓶」である。 4.光背・宝冠が火焔模様である。 5.光背の支え木がなく、直接釘でもって頭に止められている。 その他は、非常に感傷的な先生の印象に過ぎないと思います。 そこで、1〜5についての私の感じです。 1.私は梅原先生より制作年代を古いと思っています。つまり「飛鳥仏」だ と感じるのです。そうすると木彫「飛鳥仏」は法隆寺以外には殆ど存在 していません。従って先生が「法隆寺仏」の特徴とされる部分は、木彫 「飛鳥仏」の特徴と考えることも出来ると思っています。 初期「飛鳥仏」に見られる特徴の一つは「正面観照性」とされています が、その点からの理解も必要だと思います。 2.大型木彫像の場合は亀裂が生じ易く、それを避ける為に内刳をするのは 然程不思議では無いと思います。後世では内刳をした上で、更めて蓋を 作り中に胎内仏や願文(さらには五臓六腑まであります)を収めた例も 多く存在します。そもそも、鋳造仏は全て中は空洞ですし「百済観音」 も形式は異なりますが、内刳はなされています。 ただ「百済観音」よりも「正面観照性」が強い時期の制作であるため、 内刳方式が安易になされているのでは無いかと思います。 2.「観音菩薩像」は儀軌の上でも三十三変化と言われる様に、様式が多岐 にわたっています。「宝珠」を持つ様式は四十八体小仏にも存在し、中 国南朝時代にもあると言われています。 3.「舎利瓶」と言う見方も有り得るかも知れませんが、少なくとも「飛鳥 仏」と見れば、その当時「火葬」の習慣はなく、「山背大兄」の「骨壷」 と言う印象は持ち得ません。 4.光背・宝冠の「火焔」模様については、仏像愛好家の立場から見ると、 余りにも多くの「火焔」模様に接していますので、梅原先生の仰る意味 が良く分かりません。 5.光背を直接頭部に接続する方式は、梅原先生ご自身が仰るように「法隆 寺四天王」にも見られます。現代の感覚からすると奇異に見られますが 、木彫像ならではの特殊性(金銅仏では有り得ない方式です)かも知れ ません。 以上のとおり、梅原先生の先入観による部分が大きいと思いますが、あくま でも仏像愛好家の端くれの印象ですので、程々にご理解願います。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 23:45:37
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : やっぱり井沢説? Comments:  皆さんお久しぶりです(2日空いただけで過去の人・・)。 称徳暗殺について述べてきた手前、自説(といっても井沢説+α)に 固執するつもりはありませんが、意見を述べさせていただきます。 安部様も帰ってこられ、仮説に広がりが出たようですが、 改めて、自分なりに比較・考察してみましたが、やはり井沢説が流れと してはもっとも納得がいくもののように思います。ポイントは、  称徳幽閉(?)は永手よりむしろ真備のほうが積極的であり、 道鏡との接触を極力避けたように見える。称徳と直接話ができたのは、 真備の娘(吉備朝臣由利)のみである。永手と真備は道鏡排除の点で、 手を組んだともおもえるが、真備は特に後継者選択では反藤原であった。 という点にあると思います。まず、安部様のご意見 >私は今のところ、称徳天皇は自然死だったと思います。 >暗殺の必要性が感じられないからです。藤原永手達は、 >称徳天皇を軟禁していましたし、朝廷の実権も完全に掌握して >いました。あのまま、1年でも2年でも称徳天皇を閉じ込めておく >もりだったのではないかと思います につきましては、暗殺の必要性はあったとみます。情報操作が可能なのは、 むしろ真備の方なので、藤原氏と立場が逆転していたら、後継者は 称徳の言葉として思いのままに情報操作したでしょう。しかし、 真備側が情報の出口を握っているので、それは不可能で、むしろ 真備が反藤原の後継者をさも称徳の意を汲んだ形で決定しやしないかと、 気が気ではなかったのではないでしょうか。ここで称徳の頑固さが 裏目に出たともいえます。おそらく幽閉中は真備は説得工作をしたでしょう。 暗殺が容易なのもこの位置にいるからで、真備犯人説も成り立ちそうです。  といっても食事後急死すれば原因は明らかです。刺殺等も論外で、 即効性の毒殺もだめでしょう。あくまで病死のように自然の衰弱死を装って ゆっくり殺す必要があったのでしょう。もし仮にこの仮説が正しければ、 藤原氏の手際はほとんどの人をだましつづけるほど見事だったといわざるを 得ません。  それでは、さっちー様・ノム様の真備犯人説はどうかといいますと、 やはり井沢先生ご指摘のように、万世一系を崩すやり方には不満でしたが、 真備は称徳に恩義を感じていたはずで、もし暗殺するのなら道鏡のほうでしょう。 それよりも、もし真備が暗殺するのなら、ただ気に入らないから殺したでは あまり説得力がありません。上記のように情報操作が唯一可能な位置にいるのです。 真備の意味でまともに政治をしてくれる後継者を、確定とはいわないまでも ほぼ決定していなければ殺す意味がありません。事後の状況から見て、 それはなかったと思います。もちろん、中国の秀才たちを出し抜いたといわれる 真備も年でぼけていたのだともいえますが、かりにも恩義を感じていた称徳に 手をかけるのですから、十分慎重にことを運んだはずと見るのが自然です。  以上の考察により、称徳暗殺説はまだ比較上有力な「仮説」と思われます。 安部様は秋篠寺称徳怨霊鎮魂説から手を引かれたようですが、 以前に指摘しましたように、「寺院神社大事典」(平凡社)には、 西大寺の領地内に秋篠寺は建立されたと明記してあります。 もちろん、KANAK様が反論されましたが、あくまで単純比較の 手法でしかありません。あれほど死後ひどく扱われた称徳なのに、 これはやはり異常です(続日本記780年6月、「封一百戸を永く秋篠寺 に施す」の浮いた記事もおかしい)。 小生は井上内親王と称徳はかなり重なって感じていますので、 秋篠寺は2人の怨霊鎮魂を裏の目的として建立されたとしておかしくないと 思いますが、これは初期の安部様のご意見だと思っていたのですが・・・ Time : 1999/ 3/ 4(木) 10:27:41
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 安部様質問させてください。 Comments:  前の記事は安部様がおっしゃりたいことを十分理解した 上で、述べているとはいえないと自分自身感じております。 誤解している可能性大ですので、質問をお許しください。 ご意見を変えられるのは、小生自身は何も問題ないという意見ですが、 変えられた理由がよく分かりません。  一番わからないのが処刑説なのですが、おそらく安部様と竜馬に 対する感覚が違うのでしょう。どうも同列に処刑と説明いただいても 納得しがたいのです。称徳は形の上では死んで当然のようなひどい扱いを 受けています。竜馬もそうだったのでしょうか?  また、井上内親王についてはどのようにご理解されているのでしょうか? 水鏡を信用するならば、幽閉による暗殺はむしろ称徳のはずだと感じています。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 10:29:53
Name : ノム E-mail : Title : 称徳暗殺についての私見 Comments: こんにちわ、みなさん。僕はinaさんと同じ意見で、 暗殺はなかったと思っています。しかし安部さんと さっちーさんの意見を見て称徳は藤原派と真備派ど ちらからも疎んじられていたんだと思います。やは り彼女の政策は竜馬の場合と一緒でどちらにもうけ いれられない政策だ Time : 1999/ 3/ 4(木) 11:17:27
Name : ina E-mail : Title : さっちーさんへ Comments: 逆説の日本史 7 さっちーさん こんにちは  ハイジを再放送でなく、カルピス子供劇場で見ましたね。 私はもう少し年寄りで、アンデルセン童話ぐらいまでしか見ませんでした。 ところで、「私なりの一神教の把握」ですが、 the Creator(創造者)が 1絶対唯一の 2最高神、で 3全知全能 ということになります。 ここから導き出されるのは 4私の他に何者をも神としてはならない。 5偶像を拝んではならない。 と言った要求があるわけです。   多神教との対比で言えば、1では、神々が複数存在することはなく、2では怨 霊などの、もともと被造物であったものが神のようなものになって時に神より も強力、という事はありえない。3「神には何でも出来ないことはない」とい う聖書の言葉になってくる訳ですね。4は、さっちーさんの仮説で言えば他国 の神を取り入れるということもなく、又もともと、被造物であった死者を拝む こともない。4の当然の要求として、人間が木などに刻んだ像を神のように拝 んではならない。 ということになりますね。 三位一体(父,子、聖霊)というのは、一神教としての概念に反すると言う意見 が内部でありましたが、宗教会議でこの考えが正統とされ、これを認めない考 えは異端として退けられました。 一つ、進化と言うことについて少し述べさせて下さい。 私の考える宗教の進化は 1自然などへの畏怖 2人格をもった、神(々)に移行し、お供えなどでなだめたりする 3役割をもった神々 4一神教でも民族宗教 ユダヤ教 5民族を超えて愛を注ぐ、一神教 と言うように見ています。 日本型の信仰を遅れているとは思いませんが、西洋ではこの形をとったと理解 しています。 「ずばり正解でなくてもかまわないですから貴方の認識しているもので結構 です。とりあえず貴方と定義について合意していないと議論の論点がずれて しまう可能性が高くなってしまうでしょうから。」と、excuseを与えて頂い たので書いてしまいました。実は今家から遠く離れてタネ本がないんですよ ね。 「貴方の思っている定義を「定義」と記し、私の認識しているものを「八百 万式の定義」と記して区別するというのはどうでしょう?」 何たる謙虚な方! 赤面してしまいます。 さっちーの定義を「定義」とし、わたしのを「inaの思い込み」にしてくだ さい。 古事記は読みましたか。とノムさんから質問されたときは心臓が止まりそう でしたけども、古事記の話をして頂けると言うことで安心しました。 ちょっと長くなっても、詳しくやってもらいたいですね。 私のWORDに保存して精読します。 RUGOMAさん、お助けを!   Time : 1999/ 3/ 4(木) 11:25:30
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: と思います。つまり道鏡以外に彼女の心を許せる人 はいなかったと言うことです。勿論竜馬には意志の 後継者がいた点でちょっと違うとは思いますが。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 11:41:55
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様 Comments:  おっと御意見がワープしていますね。御主張は分かります。 でもina様も、少しずつ御意見は変化していると思いますので、 どういう理由で暗殺はないと思われますか? また、安部様に対する質問と同じですが、 井上内親王はどう解釈されますか? 少し詳しく御意見お聞かせください。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 14:24:29
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: 理由については長くなるので、今度パソコンを借り る時に書き込みますが、簡単にいうと病気の称徳を 積極的に殺す意味が解らないという事です。井上内 親王については称徳の事件と関係のない事件だと思 っています。彼女についての知識が乏しいので。 では後日にまわします。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 15:17:45
Name : RUGOMA E-mail : Title : あまり期待しないで下さい。 Comments:  inaさん、さっちーさん、みなさん。こんにちは。RUGOMAです。  先日お約束した一神教の概説ですが・・・  やっぱりすごく難しいです。  理由は先日お伝えした「時代・民族・階級」等に加え、  「どのような視点から論じるのか」  「どのような方法でお答えすればいいのか」といったように  5W1Hをもうすこしはっきりさせて問題点を絞っていただかないと、  手のつけようがありません。  もっとも、今回は「西洋近代史専攻」などと曖昧な上何でも知っているような  えらそうなプロフィールを紹介してしまった自分の方に非があります。  じつは自分はまだ大学院に行った友人とも交流があるんですが、彼らはかなり  「歴史学者でない人が歴史に口を出すことをものすごく嫌う」んですよ。  自分はそれには反対してるんですが彼らの言うことも分からなくもないので  (この話はそのうちしようと思います。)自分の専攻などは万一彼らに見つかると  面倒なので、非常に曖昧な答え方をしてしまったわけです。  そうですねぇ・・・あえて定義すれば「民衆社会史」とでもなるんでしょうか・・・  というわけで昨日は浜林正夫(イギリス近代史・社会思想史専門。この人でさえ  「自分は神学者でもなければ教会史の専門家でもない」と言い訳してます。)氏の  「イギリス宗教史」(大月書店、1987年。)と受験時代に買った「世界史テーマ学習80」  (山川出版、1991年。)を読んで付け焼き刃の知識を付けてきました。  その上での感想です。  まず、言葉の定義をしておきます。  「多神教」を広辞苑で引くと     >複数の神々を同時に崇拝する宗教。  >自然現象を人格化したものや、人  >間生活の様々な局面を投影された  >独自の性格と形姿を持つ神々に対  >する信仰。原始的諸宗教や古代の  >宗教の多くはこれに属する。←→ 一神教  となっています。それに対し一神教は  >キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のように、  >唯一の神的存在者だけを認めてこれを信仰する宗教。  とあっさり書いてあります。  自分も、もちろん断定は出来ませんが、古代宗教というものは  その多くがアニミズムから派生した多神教であったと思うのです。  それを例えばエジプト新王国治世下で奴隷化されたヘブライ  (ユダヤ)人などが既存の有力階層に政治的・経済的に反発する  課程で、宗教面では多神教を「堕落」ととらえ、より神の意志に近  づいた「一神教」が出現したというのが自分の解釈です。  (なんつー乱暴な・・・)  本当はもう少し具体例等を挙げて説明するべきなんでしょうが、  「門外漢」の自分にはこれ以上の言及は正直怖いです。  それに宗教的知識に乏しい他の圧倒的多数の方にもわかりやすい説明を  書く自信がありませんので、「定義」についてはこの辺で止めて  おきたいと思います。  (これは嫌味ではありません。浜林先生も「ヨーロッパの歴史や文化  を知るためにはキリスト教を理解せねばならないと言うと(西洋史の  みんなは)うなずくが、いざ宗教の話になると「自分は専門外なので」と  言ってみんな逃げる」と言っているくらいですから。)  ところで、今度は逆に、「門外漢」からinaさん、さっちーさんはじめ  宗教に詳しい方に質問です。  それは、宗教問題はよく「まず宗教の側に解釈の対立・紛争・折伏・・・  といった問題が起こり、それが政治・社会・経済といった現実問題  に波及していった・・・」という「まず宗教」という説明がされる  事が多いと思います。(←・・いいんだろうか?)  しかし「民衆社会史」をやっていた自分の印象ではむしろ「政治・社会・  経済といった現実問題に宗教を含めた既存の社会システムが  応じられなくなり、そこで新たな宗教(あるいは新たな解釈)が  生まれた」というような「宗教後付け」の要素がむしろ多いと思うんです。  だから自分は宗教問題を考える際には宗教的史料以外のアプローチを  試みた方がむしろ新たな解釈が生まれるだろうし、他の傍観者の方も  自分の「得意分野」に近づいた例が出されたらそれなりのアドバイスを  出せるのでよいと思うんですが、どうでしょうか?   Time : 1999/ 3/ 4(木) 15:22:12
Name : 輔住 E-mail : Title : また迷いそう? Comments: 称徳暗殺問題様々な意見が出ていますね。 自分の意見もそんな的外れなことを言ってるとは 思いませんが、みなさんの意見も一理ありますね。 当初はここまで長引くとは思いませんでした。 またじっくり考えます。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 16:34:20
Name : さっちー E-mail : Title : 「古事記・神代」の内容のご紹介 Comments: 「カルピスお子様劇場」(?)って「ルフルン ルフルン 雪兎雪 降る夜は・」と いうやつでしたっけ?アンデルセン物語というのは「ほーら ほーらアンデルセン さーて さぁーて アンデルセン・・」ていうのですよねぇ?というのはさておき、 古事記の紹介をはじめます。一応流れに合わせています。 1.国生み 天地のはじめは混沌としたものでした。高天原(神の住む天界)にはアメノミナカ ヌシ、タカミムスビ、カミムスビをはじめとした神達が現れるのですが、全て独神 で神は次々と自然発生するかの如く生まれてきます。アメノミナカヌシから数えて 5代目までは「別天神」とよばれる特別な神です。更に何代かを経てイザナギとイ ザナミという夫婦神がうまれます。この夫婦神はアメノミナカヌシ達に命じられて 地の国に降り立ち、「まぐわい」によって国土から五穀までこの世のありとあらゆ るもの全てを産み落とします。土地から木からとにかくなんでもです。そして彼ら の生んだものは全てが神なのです。まさに多神教そのものです。イザナミは最後に 「火の神」を生み、女陰を焼かれ病を得てやがて死ぬのですが、その間にも更に、 神を生み続けるのです。遺体は出雲と比婆山に葬られます。 2.イザナギの黄泉の国からの生還 妻に先立たれたイザナギはイザナミを取り戻そうと黄泉の国に向かいますが、イザ ナミは既に黄泉の国の食物を食べており帰る事はできないとイザナギに告げます。 彼女が生き返るためには、夫にその姿を見られずに黄泉比良坂を上らねばなりませ んが、待ちきれない夫は約束を破り妻の姿を見てしまいます。そこにあったのは、 全身崩れ落ち、蛆を纏ってゾンビになった妻の姿でした。夫は驚き逃げ出します。 それに気づいた妻は「みぃたぁなぁ」とばかり、夫に襲い掛かりますが、夫は手に していた剣で妻に切り返します。なんとかイザナギは逃げ切って坂を上りましたが すぐ後ろからイザナミが追いかけてきます。イザナギは大きな岩でなんとかイザナ ミの追撃を食い止め、黄泉の国に蓋をします。ここでイザナミは黄泉の国に留まり 黄泉の国の大神となります。 3.三貴子の誕生 黄泉の国から生還したイザナギは筑紫の国で身を清めます。ここで左目を洗うと、 アマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノオが生まれます。イザ ナギはアマテラスに高天原を治めさせ、ツクヨミには夜の国を、スサノオには海原 を与えますが、スサノオだけが命をきかず泣き出します。すると海も川も干上がり 山の草木が枯れ果て、世の中に悪しき神が広がりました。イザナギが何故泣くのか 問いただすと、スサノオは亡き母イザナミのいる黄泉の国に行きたいと答えます。 それを聞いたイザナギはスサノオを追放します。 4.アマテラスの岩戸隠れ 追放されたスサノオはアマテラスのいる高天原を訪れますが、ここでもアマテラス に「何をしに来たのか」と追い返されそうになりますが、スサノオは邪な気持ちで はないといいはりアマテラスと「うけひ」という賭けをします。この賭けに勝った スサノオは高天原にいる事をゆるされます。しかし高天原でスサノオは乱暴狼藉を 繰り返します。これを恐れたアマテラスは岩戸の中に隠れます。(この顛末につい ては有名な昔話なので省略します。)その後スサノオは捕まり、高天原からも追放 されます。 5.スサノオのやまたのおろち退治 高天原を追放されたスサノオは出雲の国に降臨します。ここから彼は今までの悪行 とはうってかわり、出雲の祖神として悪の象徴「やまたのおろち」の退治、稲作の 伝播の象徴「稲田姫」との結婚など善心をもった神に生まれ変わります。 ここまでが「古事記・神代」の前段となります。相当省略したのでわかりにくい点 があると思います。疑問点があれば御伝え下さい。といってもそれさえ解りにくい かもしれませんが・・・明日は中段を御送りします。「古事記・神代」についての 考察は一応後段が終わり次第始めたいと思っております。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 23:37:12
Name : さっちー E-mail : Title : 一神教と多神教と称徳暗殺について Comments: inaさん、RUGOMAさんこん@@は、お口の恋人ロッテです。というのは さておき、「古事記・神代」わかってもらえたでしょうか?とても不安です。ノム さんが「古事記」を読む前から知っていた話と今後の議論に関係なさそうな神様の 名前、成り立ちについては割愛させて頂きました。ただ「古事記」は上古の文学と しても大変面白い読み物です。講談社学術文庫から600円で出版されています。 上・中・下の三巻ですが、「神代」は上巻です。中巻以後は神武天皇以降の記録で す。イザナギの黄泉の国での活躍(?)のくだりは、へたなホラー映画よりも相当 恐いです。なんたって嫁さんが「ゾンビ」になって迫ってくるんですから・・・・ ぜひ一度読んでみて下さい。 一神教と多神教の定義ですが、広辞苑ですかーなんで気が付かなかったんでしょう そんなになやむ事なかったですねinaさん。これこそ最も意志統一のしやすい方 法でしたね。RUGOMAさん「うーんいいところに気が付いたね」という感じで しょうか。やはり一般的な意味ではinaさんのおっしゃるとおりの意味でしたね 私が何故アマテラスやスサノオが一神教的な神と仮定したかについては「古事記」 の紹介後の考察ではっきりさせたいと思っております。 私の一神教の定義はかろうじて「最高神」という部分しかあっていなかったです。 でも日本における多神教は一神教的な神集合体という当初の発言については今の所 あえて撤回しません。最高神という部分において一神教の要素をもった神として、 論をひろげていきたいと思います。よろしいでしょうか? 大阪JF生様こん@@は、「やんちゃくれ」の水島渚です、姉の講談師なみこもよ ろしくね!というのはさておき、称徳暗殺についてなんですが、真備が称徳を暗殺 しなくてはいけない理由を整理してみます。 1.墾田永年私財法の停止は貴族全員から反対されていた。 この停止は藤原氏の勢力の伸長を阻むだけでなく、藤原氏の専横に反対する他氏族 の成長をも阻み、これ以前に出来上がってしまった藤原氏との差を埋める事も不可 能となり、真備の計画していた朝廷内の勢力地図塗り替えが事実上ストップしてし まった。 2.真備は称徳以後について動きだしていた。 称徳崩御に合わせ、次の天皇候補として天武の孫、文屋浄三を立て、中国皇帝の治 世に習おうとしていた。これは私の推測なのですが、道鏡による仏教主義的な理想 さえ捨てれば殺す所まではしなかったと思います。しかし彼女の決意はたとえ道鏡 を失っても変わらないという事を悟ったのだと思います。 3.道鏡を殺す事はできなかった 敬虔な?仏教僧である道鏡を殺すと、南都の仏教諸勢力との連合による、対藤原対 策に狂いが生じる畏れがあった。造東大寺司長官だった彼は仏教界にも顔が広かっ たと推測されるため避けたのではないでしょうか。 4.都合よく称徳が病に倒れた これは、軟禁ではなく偶然の賜物であり、真備は天命を感じたのではないでしょう か?老いていくばかりの彼にとって藤原氏を出し抜く最大最後のチャンスであり、 恩のある称徳を殺すことも決断しなくては、藤原氏にかわって地方の優秀な後進が 朝廷の政治に加わる事はできないとよんだのかもしれません。 5.真備を後押しする勢力にそそのかされた 真備を支持している勢力は、遣唐使(これを経験する事は当時の公務員上級試験) がえりの後進、中央に虐げられた地方豪族などの朝廷外の勢力が多かったため、 天皇に対する尊崇の心が育ってなかった。 と私の意見はこのようなものです。恩義といっても後世のような美しい君臣論は 当時それほど浸透していなかったのではないでしょうか。しかも相手は仏教狂い の為政者失格者です。個人的な恩義より朝廷自体の危機をさけるため、やむをえ ない選択だったのではとかんがえています。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 01:27:29
Name : さっちー E-mail : Title : あとづけたんやおうらどらさんちょう Comments: RUGOMAさん、宗教の「あとづけ」についてなんですが、その通りだと 思います。とくに情報のいきわたりやすい部分については後づけ的なものが たくさんあるので・・・ただ神話というのは80パーセントのあとづけと、 20パーセントの真実がいり混じっているものだと認識しております。 でも20パーセントの真実をうかびあがらせるためにはとりあえず全部をしら なくては、なにもはじまらないのです。神話にはいると脱線しがちなので おかしいとおもった事についてはチェックをいれて下さい。 日本神話のあとづけについても言及していくつもりなので、その時に詳しく お答えしたいとおもいます。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 02:10:32
Name : RUGOMA E-mail : Title : ↓そうですよね。 Comments:  さっちーさん、お早うございます。RUGOMAです。  >でも20パーセントの真実をうかびあがらせるためにはとりあえず全部をしら  >なくては、なにもはじまらないのです。  はい。その通りでした。自分の発言は「宗教的史料になど当たる必要なし」  ととられかねない浅はかな物でした。お詫びいたします。  しかし正直言って自分の発言は基本的に「嘘ついちゃいけないよ。」  「相手の気持ちになって考えるんだよ」といった極々単純な「常識」  を基本にしてますし、これからもそうなると思うんですよ。  故に本来ならちゃんと最低限の勉強をした後確かな根拠に基づいて  発言するのが筋だとは思うんですが、それは必ずしも出来るとは限ら  ないので、不勉強なまま疑問を呈することがあるかと思います。  ご了承下さい。  最後に、「さっちーさん流古事記紹介」すごく面白かったです。  これからも楽しみにしております。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 06:34:20
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 20面相さっちー様へ Comments:  お返事ありがとうございました(まるで20面相?)。 ご意見楽しませていただきました。 4,5についてはその通りだと思います。 (多少の恩義は感じていたと思いますが。) 2についても状況としては賛同します。 で、わからないのが1なのですが、どこに そのようなことが載っているのでしょうか? 不勉強ですみませんが、ご教示ください。 もし、1が正しいのなら、安部様のいう「処刑」が 意味を持ち、むしろ「みんなが犯人」になるように思います。 真備が犯人である必要もなくなるのでは? (もちろん、共犯ですが。) 3については、やり方次第と思いますので、 大逆より現実味があるように感じます。 まったくの妄想ですが、称徳の回復を(絶食や激しい修行によって) 祈りつづけたために命を落としたとか、称徳とともに幽閉して 病気が移り先に死んだとか、いろんな偽装工作を大秀才真備なら 考えるでしょう。それとも、年でもうろくしていたのでしょうか?  いずれにせよ、小生は自説に固執するつもりはありませんし、 貴方(20面相様、何とお呼びすべきでしょうか?)の説も、 有力「新」仮説だと考えます。その意味でいろんなご意見を 楽しみたいと思っています。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 09:49:51
Name : ina E-mail : Title : さっちーさんへ Comments:  れくちゃーありがとうございました。  続きも楽しみにしています。 まだ、どこが分からないのか分からない状態なので、少し静かにしています。  本論の前に何かとちゃちゃをいれてしまいましたので。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 11:45:12
Name : ina E-mail : Title : RUGOMAさんへ Comments:  どうも御世話になりました。 私のように無責任な立場でものを言えるのも素人の 得なところかもしれません。  相当負担をおかけしたみたいですね。 けれども私はありがたかったです。 さっちーさんも満足されたみたいですし。  最後のご意見はちょっとアプローチの方法論の 問題かと思いますが、私には難しくて意見が述べられません。  すみません。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 11:54:18
Name : kazu E-mail : Title : 一神教と多神教 Comments: 投稿は久し振りです。 RUGOMAさん、はじめまして。 ど素人ではありますが、この問題について私の考えを聞いて下さい。 一神教と多神教という分け方をしますが、キリスト教(ユダヤ教も同系統と考え て)とイスラム教以外の一神教って何があります? 世界地図を見れば分かると思いますが、この2宗教の生まれたところって近いで すよね。 それ以外のところ、日本には八百万の神がいますし、ギリシャにはオリンポスの 神々、北欧にはヴォータン以下の神々がいます。 山や川、あるいは雷のような自然現象に「神」を見、その後、その「神」が顔や 手足を持った「人格神」として人間がする如く恋をしたり争ったりする物語を持 つ、と言うのが人類一般の「神」概念、要するに多神教であり、これに対して一 神教は特定地域で発生した特殊な「神」概念ではないか、と考えています。  (素人がこんなこと言っていいのかな?) ただ、どうしてこの様な「神」概念を持ったのか、歴史的経緯とかあると思いま すが、今のところは分かりません。 また、ローマ以後なぜヨーロッパにこうした宗教が広まったのか(唯一絶対の神 を受け入れたのか)も分かりません。 甚だ中途半端な意見ですけれど、これ以上は... これからもよろしくお願いします。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 13:05:56
Name : ina E-mail : Title : ローマ帝国 Comments: RUGOMAさん  もしお分かりでしたら教えて頂きたいのですが、 ローマでキリスト教を国教として受け入れる前は宗教はどういう状態だったのです か。  KAZUさんの意見を聴いていて、確かにキリスト教はヨーロッパ人の進出と共に 世界に広がった感じがありますけども、ローマ帝国では民衆の間に広がって、渋々 認めたという状態だったと思いますが。   Time : 1999/ 3/ 5(金) 14:14:59
Name : ノム E-mail : Title : やっぱり・・・・ Comments: みなさん、こんにちわ。やはり宗教論にはいってし まいましたね。さっちーさんいわく「宗教は時代を 写す鏡だ」そうですが、なんとなく歴史を解くとい うよりも、それぞれの時代の人達が何を考えて、宗 教をつくったかを解くという感じになってきました ね。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 15:03:49
Name : ノム E-mail : Title : 真備の信仰していた宗教とは? Comments: 大阪JF生さん、真備始めこの当時の貴族達は一体 何の宗教を信じていたのでしょう?仏教なら信仰上 で真備と道鏡はどういう関係だったのでしょう。 宗教についての皆さんの投稿を見ているとふと疑問 が浮かびました。どなたかご存じの方いらっしゃい ませんか? Time : 1999/ 3/ 5(金) 17:10:25
Name : さっちー E-mail : Title : 称徳暗殺について大阪JF生様へ Comments: よばれて とびでて ジャジャジャジャーン ハクション大魔王です。アクビ娘は 素敵な子。というのはさておき、ご質問の1の部分なんですが、これは私の独断と 偏見でした。推測であると明記したつもりですが一部書き直しした時に消去してし まっていたようです。ご迷惑おかけいたしました。ごめんなさい。 当時の大和朝廷は、律令政治の名目をとっていましたが、貴族達に骨抜きにされて 事実上十分な機能をはたしていなかったと認識しています。 今も昔も戦争など非常時以外の政府の仕事は「利害の調整」というのが通常業務で 大事な仕事の内のひとつであると思っています。称徳政権は仏教優遇策をとる事に より寺院勢力を味方につけこれを足場に、藤原氏をはじめとする貴族達を牽制しよ うとしていましたが、これは貴族側からみればゆるされない行為です。寺院だけに 墾田を増やす事を認めると「利害の調整」という観点からは片手落ちという事態を 招き、貴族、豪族からは非難をうけて当然と考え1の表題をつけました。 内容についてなんですが、真備は唐において主に兵法を学びとってきたと認識して いるので、そこからひろげた想像です。私の彼に対するイメージは漢の三傑の一人 張良子房なのでつい先走りしてしまいました。 3については道鏡に手をかけない理由というのを無理矢理作ってしまいました。 道鏡は優秀な僧侶ではあったかもしれませんが、政治家としては単なる理想家にす ぎないと思っています。彼の出世は称徳あってのものです。また本人にも政治に 積極的な情熱があったとは思いません。したがって、大逆をする覚悟さえできれば 殺す程の事もなかったと考えています。また2で考察したように道鏡だけ殺しても 称徳はその政治姿勢を変える事はない、それどころか道鏡の弔いのためいっそう仏 教に傾斜する畏れがあったと思っています。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 22:18:25
Name : さっちー E-mail : Title : 「古事記・神代」中段のご紹介 Comments: だんご三兄弟 だんご三兄弟 だんご三兄弟 ダンゴ! どうも次男のだんごです。 というのはさておき、昨日のつづきをはじめます。 6.因幡の白兎 この話も有名なので、省略します。ここからオオクニヌシの登場となりますがこの 物語はオオクニヌシが兎をたすける優しさをもち魅力的で女性にもてる神であると いう事を現しています。ちなみに彼は80神(人?)兄弟の末っ子として描かれて います。 7.スサノオとオオクニヌシの邂逅 兄達と嫁取りにいったオオクニヌシですが、相手のヤガミヒメからえらばれたのは 彼でした。兄達は彼に嫉妬し真っ赤に焼いた大石を彼にぶつけてころしますが、母 神がカミムスビノカミにオオクニヌシの復活を頼みこみオオクニヌシは生き返りま す。生き返ったオオクニヌシは兄達にしつこく命を狙われたので紀伊の国に逃げま すがここにも追手がきたのでスサノオのところに逃げ込みます。そこでスサノオの 愛娘スセリヒメと出会い、おたがい「ひとめあったその日から恋の花さくこともあ る」とばかり恋に落ちいきなり結ばれてしまいます。その後、彼女にスサノオと面 会させてもらいますが、スサノオはオオクニヌシにいろいろな試練をあたえます。 スセリヒメの助けをうけ、オオクニヌシはすべての試練に打ち勝ちます。スサノオ はオオクニヌシを気に入り、娘と太刀と弓矢を与えて「兄たちを出雲より討ち果し スセリヒメを正妻として出雲の主になれ」と言ってオオクニヌシとスセリヒメを送 り出します。スサノオの言うとおりオオクニヌシ夫婦は出雲に壮麗な宮を建て、兄 神たちを討ち果します。オオクニヌシはその後先にめとったヤガミヒメ、ヌナカワ ヒメとスセリヒメ達との間に子神をつくります。もてもてです。 8.スクナヒコナとの出雲国造り 出雲の主となったオオクニヌシは、カミムスビノカミの子スクナヒコナと兄弟の契 りを結び国造りにはげみます。順調に国造りはできていましたが、スクナヒコナは その途中で死んでしまいます。オオクニヌシは嘆き悲しみひとりでは国造りができ ないと悩んでいましたが、そこへ海から一柱の神があらわれ「大和の三輪山に我を 祭る事を約束すれば国造りを共に行う」というのでオオクニヌシは承諾します。 この神はオオクニヌシの幸魂といわれるオオモノヌシです。幸魂とは和魂ともよば れる幸いをもたらす静かな愛情を現す神の性質の事です。この反対に「荒ぶる神」 を表す性質を荒魂とよびます。 以上が中段となります。この後、後段にはいります。後段はいよいよ「国譲り」 です。乞うご期待。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 23:52:21
Name : ina E-mail : Title : こんばんは Comments: 逆説の日本史 8 さっちーさん、皆さん、こんにちは、   古事記が盛り上がってますよね。静聴しますといっておきながら何ですが、 気になるのは、古事記は戦いの記事が多い、と言うのは本当なんでしょうか。 昔、歴史学者の羽仁五郎、という方が見えまして、少なくとも後半は完全に 人民史観に立った学者でした。私が大学に入学した頃、まだご存命で、学生 紛争が華やかだった頃は、「都市の論理」が大ベストセラーで、各地の大学 で講演されたそうです。私も読みましたが、アジテーターとも呼ばれた方で、 非常に心を動かす文章を書かれる方でした。  その最晩年の著書の中で、日本の神話は戦争の話や、退治の話しばかりで、 余程戦闘的な国民だ、という意味の事が書いてあったんですね。当時の私は 納得していたんですが。今までのところでは、それほど戦闘的でなく、むし ろ多情、というか「まぐわい」が好きな感じですよね。そして、羽仁五郎氏 の論理どおり、戦闘的だったとすると、聖徳太子が「和」、を説いたのは戦 闘的だったからでは?という気にもなります。  要するに、和が常識でなかったから書いたのではないかと考えられるので す。この点の筋道が、井沢先生の本では、第一巻で史料第一主義を批判され る時点では、常識的なことは記述されない、とあるのに、十七条憲法 の段になると、和は日本人の常識だったために聖徳太子が、書かれた、とい う記述があって、前後で矛盾していると思っています。  いずれにしても、後半楽しみにしています。 Time : 1999/ 3/ 6(土) 14:48:17
Name : RUGOMA E-mail : Title : またまた付け焼き刃ですいません。 Comments:  こんにちは。RUGOMAです。仕事柄こんな不規則な時間に登場する事となります。  ご了承下さい。  えー、繰り返し述べさせていただきますが、自分の専門は宗教史では  ありません。だから皆さんとそんなに知識の差があるわけではないので、  とんでもない間違いをすることがあり得ると思います。そのときは  遠慮なく指摘して下さい。よろしくお願いします。  ちなみに今日は図書館で白取春彦「この一冊で「聖書」が分かる!」  (三笠書房、1998年。)という本も借りてきたので、それも参考に  したいと思います。  >一神教と多神教という分け方をしますが、キリスト教  >(ユダヤ教も同系統と考えて)とイスラム教以外の  >一神教って何があります?  >山や川、あるいは雷のような自然現象に「神」を見、  >その後、その「神」が顔や手足を持った「人格神」  >として人間がする如く恋をしたり争ったりする物語を持つ、  >と言うのが人類一般の「神」概念、要するに多神教であり、  >これに対して一神教は特定地域で発生した特殊な「神」概念  >ではないか、と考えています。    まず確認しておきたいのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに  「根っこ」は同じだということです。  例えばイスラム教の「アッラー」はユダヤ教・キリスト教で言うところの  「神」と全く同じ物であり、ただその解釈が異なっているという訳なのです。  そして、この解釈の相違は大きく分けて2つ、  1 イエス・キリストをどう見るか  2 新約聖書をどう扱うか   に大別できます。  前述の白取氏の解釈によればこんな風に見解が分かれているのです。  (ユダヤ教)  ナザレのイエズスはせいぜいユダヤ教の「尊師」の一人にすぎない。  神でも、神の子でも、神から送られた救世主でもない。  故に我々は「旧約聖書」に書かれている神からの救世主を待つ。  (キリスト教)  イエス・キリストは神の子であり、同時に神のもう一つの現れである。  旧約聖書が述べていた神こそ救世主イエス・キリストであり、彼は  「新しい」「契約」を人間と交わしたのである。(故に「新約聖書」を聖書と  認めるのはキリスト教のみ。ただしモルモン教などの例外は除く。)  (イスラム教)  イエス・キリストは人間であり、神の警告を人々に与える役目を持った  「預言者」である。しかしそれでも改悛しない人間のために神は最後の  預言者マホメットを送ったのだ。  このような違いこそありますが、基本的に今まで多くの人々が信仰していた  「アニミズム信仰」に基づく「多神教」(を信じる集団)  への「少数派」の反発が「一神教」を生み出したのだと自分は考えています。  「特殊」というより、彼らは神の「唯一性」を高めたというところでしょうか。  そういう意味では、「逆説の日本史」6巻を読んだ限りでは  日蓮宗などは「一神教」とは言い難いまでもそれに近いのではないかな、  と思えます。  >また、ローマ以後なぜヨーロッパにこうした宗教が  >広まったのか(唯一絶対の神を受け入れたのか)も分かりません。  >ローマでキリスト教を国教として受け入れる前は  >宗教はどういう状態だったのですか。  >確かにキリスト教はヨーロッパ人の進出と共に  >世界に広がった感じがありますけども、  >ローマ帝国では民衆の間に広がって、渋々  >認めたという状態だったと思いますが。  えー、キリスト教が広まる前のローマでは何が信じられていたか・・・  すいません、自分もよく知りません。勉強不足です。  (やはり宗教史の授業で先生が気に食わないからといって  さぼるのではなかった・・・)  ただ、アニミズム的な自然崇拝を伴った多神教で、少なからず  ギリシア神話の影響を受けていたことは確かなようです。  カエサルの「ガリア戦記」で、ケルト人の信仰しているドルイド教  についての記述があるんですが、そこにはメルクリウス(マーキュリ)や  アポロといったギリシア神話の名前が多用されています。これは「ギリシアの  信仰がガリアに伝えられていたというよりは、カエサルがケルト固有の  神々にギリシア神話の神の名前を当てはめたとする説の方が近代では  有力である。(浜林「イギリス宗教史」より)」そうです。    そして、  「ローマ以後のヨーロッパが何故キリスト教を受け入れていったか」  については・・・ちょっと短く説明できる自信がありません。  とりあえず、「政治的、経済的に混乱している中で「救済」を民衆は  求めていた。にもかかわらず既存の政治・宗教はその要求に応じられ  なかった。」という従来の説を繰り返してここはご容赦願いたいと思います。  (すいません。特に最後のテーマは果てしなく長くなりそうで  自信ないんです・・・。) Time : 1999/ 3/ 6(土) 15:21:50
Name : ノム E-mail : Title : RUGOMAさん??????? Comments: はじめまして、よろしくお願いします。つまり一神 教は多神教の神たち同士が仲が悪くて一緒にいられ ない状態になったということなんでしょうか。 Time : 1999/ 3/ 6(土) 17:19:35
Name : ノム E-mail : Title : 認めない Comments: お互いに同じ神を信じながら、「神の教えの解釈の 違いからお互いの存在自体を認めない」というふう にさっちーさんは教えてくれましたがこれでいいの でしょうか?どうおもいます? Time : 1999/ 3/ 6(土) 18:04:11
Name : RUGOMA E-mail : Title : ノムさんへ。 Comments:  >お互いに同じ神を信じながら、「神の教えの解釈の  >違いからお互いの存在自体を認めない」というふう  >にさっちーさんは教えてくれましたがこれでいいの  >でしょうか?  質問の趣旨は、「多神教への反発が一神教の発生につながる」  という自分の主張の意味がよく分からない、ということで  よろしいんでしょうか?  これについてはですね、宗教史の本はあくまで、例えば「イエス・キリスト  はパリサイ派の杓子定規に律法をあてはめることに異を唱え、そのため  処刑された・・・。」というように、あくまで教義の見解の相違から  争いが生まれ、迫害や対立が生まれた・・・と解釈することが多いです。  しかし、教義のことを例示されたって正直よく分からないですよね。  いや、実は自分もそうなんです。^^;  そこで今回はイエスが出現した当時の社会事情の面から主に  「何故多神教への反発が生まれたのか?」  「それはどのような人たちの賛同(あるいは反発)を得たのか?」  ということをご説明したいと思います。  当時パレスティナの一帯はローマ帝国の属州となっていました。  その際ローマは下手にユダヤ教徒の宗教的感情を逆撫でしないよう  なるべく配慮するようにしました。  その一環としてユダヤ教徒の上層階級と結んで大祭司を頂点とする  最高法院(サンヘドリン)にある程度の自治権を認めたりしたのです。  しかしイェルサレム入城の時軍旗を掲げて偶像崇拝を嫌うユダヤ教徒の  逆鱗に触れたり、また水道建設資金として過酷な搾取の上、  神殿の財産を流用するなどしてしまったため、結局はユダヤ教徒の  反ローマ感情は高まり、「救世主」の出現を待つようになりました。    しかし、当時のユダヤ教徒にとって、救済の条件は神との契約である  律法の遵守でした。特にパリサイ派と呼ばれる人々は日常生活にまで  細かくこれを持ち出し、救済とは逆に人々を差別する「律法主義」に  陥っていました。  そんな中現れたのがイエス・キリストです。  イエスは当時の社会の価値観を逆転させ、「律法を守れる強き者、  義(ただ)しき者ではなく、無力な者、価値の低き者こそが神の救済  にあずかることが出来る」と主張しました。  こういった主張はパリサイ派のみならず、ユダヤの治安維持を最大の  課題とするローマ当局にとっても脅威の存在でした。故にイエスは  逮捕・処刑された・・・というのが概説です。  だから「認めない」というのはちょっと違うと思います。  「一神教」側は「お前たちは権力とつるんで形式主義に陥って、  ちっとも(現実的要素も含んだ)「救済」を求める民衆の希望に  応えてないじゃないか。それは本当の神(の教義)をあがめて  ないからだ!」と批判し、それに対して多神教側は「そんなこと  何いきなり言い出すんだ。」と非難・攻撃する。                 ↓  権力側は当初多神教側にたつ(これは、多神教は概して異教徒に  対して寛容であり、そのため属領の統治には多神教を有していた方が  都合が良く、またメシア思想などという物騒な信仰をしていたキリスト教  はやはり都合悪かった・・というのもあると思います。)                 ↓  しかし一神教がそもそも出てきたのは既存の宗教がある程度の集団の  欲求に応じられなくなってきたから発生したのであり、その規模が  小さいならまだしも大きくなってくると逆に取り込むしかなくなる。  (特にイエスの思想は「弱き者」の救済を主張したため、ユダヤ教の  選民思想をも打破し、ユダヤ教徒以外の救済を可能なものとしたため  迫害にも関わらず帝国全土に広まっていった。)  ・・・こういった流れになっていると自分は解釈しています。  ああ、やっぱり日本史に関係ない話をだらだらとしてしまった・・・  興味のなかったみなさんごめんなさい。 Time : 1999/ 3/ 6(土) 19:57:51
Name : さっちー E-mail : Title : エルサレムの神とは Comments: みなさんこん@@は、RUGOMAさんノムさんがお世話になりまして有り難うこざいま した。私は西洋の歴史や宗教については高校時代の授業程度しか解ってないので、 日本史的解釈で彼の疑問に答えてしまいましたがどうも要領を得なかったようです 同じ根っこから変容していったという事は、時代的背景や当時の階層意識、人種的 な問題が絡み合った結果と支配者層の目論見によってという事ですよね? なるほどまさに「あとづけ」的要素がたっぷりですね。 こういう事が起こるという事は、一神教の神には「人格的要素」というものがない という事ですよね。と勝手に解釈してしまいました。 人格らしきものが神にそなわっていると神の行いからモラルというものを感じ、神 の言質というものをとれるわけですから。この視点から日本神話における一神教的 神というものを探すと「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」がこれに当た ります。この神は最初に存在した神ですが、人間になにも教えませんし、何も与え ません。命令もしません。「ただあるのみ」です。にも関わらず、他の神達より一 段上にあるのです。とするとアマテラスはキリスト的です。スサノオはマホメット という所ですか。彼らは彼らより上位の神の意志というものを彼らなりに解釈して 行動していたような気がします。穿ちすぎですが・・・。 ところで神はエルサレムをだれに与えようとしたと思いますか? 私は誰でもないと思います。ただエルサレムがあるだけ・・・・・ Time : 1999/ 3/ 6(土) 21:51:21
Name : さっちー E-mail : Title : 「古事記・神代」のご紹介 Comments: 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」 (やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを) クイズです。上記の和歌は日本最初の和歌といわれています。さてその作者は誰? 正解者には金・銀・パールプレゼント!というのは嘘です。というのは、さておき 後編はじめます。 9.葦原中国への交渉 オオクニヌシはオオモノヌシと一体となり、出雲の国造りをなしとげ約束どうり、 オオモノヌシを大和の三輪山に祭りました。出雲は葦原中国と呼ばれる豊かな国と なりました。その頃アマテラスはその様子を高天原から見て、「あの豊かな国は、 我が子アメノオシホミミの治めるべき国である」と宣言します。アメノオシホミミ はスサノオとアマテラスの「うけひ」の時にできた子です。彼はアマテラスに命じ られるまま出かけますが、「あの国は騒がしい」といってまいもどってきます。 アマテラスは知恵の神オモイカネはじめ高天原の神を集め協議します。「あの国は 荒れており、乱暴を働く神がいる。どうやって平定しよう」と話し合った結果、ア メノホヒを生かせて見る事にした。しかしアメノホヒはオオクニヌシに靡いてしま い帰ってこなかった。続いてアメノワカヒコを向かわせるがこれも同じく戻ってこ なかった。しびれをきらした高天原はナキメという雉をアメノワカヒコの所へいか せるがアメノワカヒコはこの雉をアマテラスから授かった弓矢で射殺してしまう。 その矢はナキメを打ち抜きアマテラスのもとへ戻ってしまった。これをみたアマテ ラスはその矢を打ち返す。すると矢はアメノワカヒコにあたって彼は死んでしまう 。これを表して後世「返し矢、おそるべし」(返し矢は必ず当たる)という言い伝 えができました。 10.国譲り アマテラスはこれでもあきらめず、武力の神タケミカヅチと空とぶ神アメノトリフ ネを送り込み、オオクニヌシに談判させます。(逆説の日本史大国主編参照)出雲 の稲佐(否ノー・然イエス?)の浜に剣を逆さにつきさし、その柄に腰掛けてタケ ミカヅチは「この国をアマテラスオオミカミの神子にゆずるか?」とオオクニヌシ に問い掛けた。オオクニヌシは「自分には答えられない、息子達に聞いてくれ」と 答えたので、息子のコトシロヌシに聞くと「この国を奉ります」と答えて、天の逆 手を打って自殺してしまった。もう一人の息子タケミナカタは納得せず、タケミカ ヅチに戦いを挑むが負けてしまう。その後タケミナカタは諏訪まで逃げるが、捕ま って降伏する。この結果オオクニヌシは天にも届く巨大な宮を建ててもらい、そこ で引退する事に承諾し、黄泉の国の王となり、国譲りが完成する。 11.このはなさくやひめ こうして手にいれた国にアメノオシホミミの息子ニニギノミコトが降臨する。ニニ ギノミコトはアマテラスの孫にあたり、これを称して天孫降臨という。降臨したニ ニギノミコトはコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹に出会う、、二人の父に 二人とも嫁にもらってくれとたのまれるが、彼は面食いだったため不細工なイワナ ガヒメをかえしてしまう。コノハナサクヤヒメは美しかったが花のように寿命があ った。イワナガヒメはブスだが岩のように長く生きる事ができた。この嫁選びのた め天皇には寿命がある事となった。 12.海幸と山幸 このはなしも昔話として有名なので省略します。海幸と山幸はニニギノミコトとコ ノハナサクヤヒメの子供です。この内、山幸(ホオリノミコト)は後の神武天皇の 祖父です。ニニギノミコトから神武天皇までは末子相続の形をとっています。 オオクニヌシも末っ子でした。これがこのころの常識だったのでしょう。 以上で「古事記・神代」は終了です。いかがでしたか?ダイジェスト版でも結構お もしろかったですか?原典はもっと面白い話があります。できたらぜひお読みくだ さい。マンガ化しているものもあります。ガンダムの安彦良和先生の描いた作品で 「ナムジ」「ジンム」というのが古事記の内容に忠実でしかも面白く脚色してあっ てわかりやすいです。「ナムジ」はオオクニヌシの異名「ジンム」は神武東征の内 容です。共に5巻で全10巻というスタイルです。興味のある方はどうぞ。 inaさんへ 古事記の戦争や征伐そして退治というのは、主にヤマトタケルと神武天皇について の事だと思います。神武天皇についてはほとんど神話ののりでえがかれてます。 神代にいれてもおかしくない内容なんですが、一応初代天皇なのでわけられていま す。ヤマトタケルは第12代の景行天皇の皇子でこれもほとんど神話ののりです。 しかもこの二人については一生を征伐の為につかったといっても過言でないほど、 戦いがついてまわっています。 私は他の神話(日本以外)についてはほとんど知らないので、戦いが多すぎるかど うかは比較できませんが、もしそうであるなら古事記の内容は他の神話より、事実 が多く含まれているのではないかとも考えます。できる事なら神様に切ったはった はさせたくないでしょうし。あっ、と考えるとこれでも古事記はセーブしているの かもしれませんね。 「和」についてはなるほどと思いました。聖徳太子の人生は以外と血塗られたもの だったのかもしれません。ただ太子の政治家としてのポリシーであり、「和」の意 味自体の浸透度は常識であったのではないでしょうか?「わかっちゃいるけどやめ られない」ということわざ(ここは笑う所です)もありますし・・・・・・・・・ では感想と意見お願いします。考察は後日いたします。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 00:29:17
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音について補足します Comments: 一寸蚊帳の外のお話ですが、3月3日掲載の救世観音についてです。 >大型木彫像の場合は亀裂が生じ易く、それを避ける為に内刳をするのは >然程不思議では無いと思います。 この内刳について補足しておきます。 「・・乾燥が進むにつれて、材の心を中心にして表面に割れができてく るのです。この干割れを防ぐためには、まず材の心を取り去ることを考 えねばなりません。そういうわけで、大略の形が彫り上がりますと、像 の背面に、長方形の窓を部分的にあけて、そこから像内を刳りぬいて、 木心をとりさるのです。これを内刳り、または背刳りと呼んでいます。」 ・・「仏像の見分け方」西村公朝・小川光三著(新潮社) >光背を直接頭部に接続する方式は、梅原先生ご自身が仰るように「法隆 >寺四天王」にも見られます。現代の感覚からすると奇異に見られますが >、木彫像ならではの特殊性(金銅仏では有り得ない方式です)かも知れ >ません。 これも少し分かり難かったかも知れませんので、補足します。 法隆寺四十八体小仏の例でみれば、金銅仏において光背を直接頭部に接続 する場合は、頭に一定の突起物を、一方光背に穴を作って置き、それを嵌 め込む方式だった様です。木彫仏ではこの方式は取り得ないので、金属を 頭部に打ち込んで接合するしかないでしょう。 しかし、何れにしてもこの直接接続方式は不安定であったため、分離方式 が主流となったと思われます。 なお、仏像の体に釘を打ち込むことは、それ程不思議なことではなく、木 造像を補強するために極く一般的に行われていますし、宝冠・白毫・螺髪 ・瓔珞を装着するため頭であろうと、顔であろう、胸であろうと、行われ ているようです。 Awajiが仏像制作を見学した時に、ある仏師さんは「仏さんを作るちゅうて もワシらがお作りしてる時は、只の材木じゃ。頭に跨ることもあれば、踏 みつけることもある。これが有り難い法要で魂を御入れして、皆さんに拝 んで頂いて始めて仏さんになりはる。 長う皆さんに拝んで頂くような仏さんを、御造りするためやったら釘でも 鎹でも、何でも打ち込みまっせ。そんなもんビビッテおれまっかいな。 救世観音ハンだっか、あれはワシも恐ろしゅうてようせんな。恐いちゅう ても別の問題やで、あの方法をワシらがやっても100年もよう保たん。 ヤッパリ光背は別にさしてもらいますわ。そやけどドナイシテモ一体に造 れちゅうんやったら、当時あれしか方法はありまへんな。・・・」 と言うようなことでした。 仏師さんにも色々な方がおられると思いますが、一つの考え方だと納得し たものです。ご参考までに。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 10:03:57
Name : ina E-mail : Title : 仏像 Comments:  逆説の日本史 9 皆さんこんにちは Awajiさん、かなり高度な話のようですが、少しシリーズでやっていただ いたらどうでしょうか。ここに来ている皆は絶対興味を持つと思います。 私は仏像といえば、和辻哲郎「古寺巡礼」ですね。学徒出陣のきまった学生 が、この文庫を携えて奈良の古寺を巡ったエピソードにならい、私も巡った ことがあります。和辻の個人的な感傷も時に色濃く出ていて、懐かしいです ね。 一つ質問させて下さい。 私は出身地と、赴任地の関係で、円空仏に興味があり、かなりの数をみたの ですが、その時の疑問です。 中央の仏像によって、侍仏とか、決まりがあるわけですよね。 ところが、円空仏の場合、名前が合わない場合があるんです。そこで、研究 家の長谷川先生に質問したところ、教育委員会の比定で名前が着くと展示の 場合に、勝手に改めることができないらしいんですね。 それはいいのですが、天照大神が、男性像になっています。これは比定の間 違いではないらしく、円空の時代、戦国から江戸初期は女神ということが広 く知られていなかったからだ、と言うことだったんです。 他にも男性像の天照大神を見たことがおありでしょうか。 あるいは男性として考えられていた時代をご存知でしょうか。 ちょっと仏像の話と飛びますが、円空でむりやりこじつけてしまいましたね。 さっちーさんにも、女神が、最高神であることの理由とか、仮説をおもちな ら伺いたいですね。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 14:04:03
Name : ノム E-mail : Title : RUGOMAさんへ Comments: 丁寧な解説ありがとうございました。日本史を過去 から縦にみるのも楽しいですが、世界史と見比べる のも、また違ったおもしろさがありますね。僕は、 選択の関係で世界史はならってないので解らない事 だらけです。また何かあったらお願いします。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 17:13:34
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音から円空仏へ? Comments: inaさん、はじめまして。 救世観音ご覧いただき、ありがとうございました。 Awajiは、ただの仏像好きですので、残念ながら皆さんのような難しいこと は分かりませんが、円空仏は大好きです。 円空の場合は、素材と彼の宗教的イマジネーションによって、かなり大らか に作仏したと思われ、あまり厳密に儀軌にとらわれていないような気がしま す。 ただ、彼が男性像の天照大神を制作していたのは知りませんでした。 そこで、以下のご質問ですが(Awajiのいい加減な憶測で、スミマセン) >>円空の時代、戦国から江戸初期は女神ということが広く知られていなかっ >>たからだ、と言うことだったんです。 >>他にも男性像の天照大神を見たことがおありでしょうか。あるいは男性と >>して考えられていた時代をご存知でしょうか。 1.男性像の天照大神を見たことがあるか? ・・・残念ながらありません。と言うよりマトモナ「天照大神神像」を見た 記憶がありません。ご存知のとおり天照大神は皇祖神として特別な地位を保 っており(私幣禁断の制)、殆ど神像は造られなかったと思います。 2.戦国から江戸時代に女神であることが忘却されたか? ・・・記紀は神官の基礎教養でしたから、一寸考えられないのですが、神仏 混合思想が主流となった時代は、天照大神=大日如来とされていましたので、 (両部神道等)円空の場合も大日如来(ビルシャーナ)の男性イメージが重 なっていたのかも知れません。 なお天照大神は普通名詞であって、本来名はオオヒルメムチであるとし、男 性日神に使える巫女(日の妻)が神に昇華したとする考えもあります。 (折口信夫)このような本身男性神という考えの淵源は意外に古いのかも知 れません。 ただし、Awajiは弥生期の首長は(祭祀王=女性、行政王=男性)であった 可能性があると思っています。そして古墳前期においても統一過程の連合王 国の象徴的祭祀王はシバシバ女性(卑弥呼)であったとも想像していますの で、天照大神は弥生期の女性首長の民族的記憶に由来すると思っています。 (後世、形を変えた「推古・聖徳太子」、「斉明・中大兄」と相似関係?) これもイイカゲンにお聞き流しておいて下さい。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 21:55:58
Name : さっちー E-mail : Title : アマテラスとスサノオ Comments: 人に姿は見せられぬ 獣の様なこの体 「早く 人間に なりたーい」というのは、 さておき、みなさんこん@@は、Awajiさんはじめまして。 今日は古事記の事について私見を述べたいと思います。 私は学校で古事記という名は覚えましたが、内容については全く教えてもらえませ んでした。日本書紀についても同様です。どうして興味をもったかというと大学生 の時に知り合った「全学連」の学生のお陰です。当時は学生運動もすっかり下火に なっていまして総員10名程のグループでした。彼らは「北方領土返還」と「天皇 制の反対」を学校の門の所で訴えていました。北方領土はなんとなく理解できたの ですが、なんで天皇制に反対するのかという事がよく理解できませんでした。テレ ビでたまに見る昭和天皇はとてもいい人そうで、政治にも参加していないと認識し ていたのでせっかく日本の象徴として何百年も続く「家柄」をなくそうとしている のかがよくわからなかったのです。それで天皇について調べてみようと思い立ち、 とりあえず一番最初からあたってみようと思い、図書館で「古事記」を手に取った のがはじめです。そこには想像を絶する荒唐無稽な物語がありました。 死んだはずの神がいきなりでてきたり、男であるはずの神が子供を生んだり、ゾン ビがでてきたり、どう考えても理不尽な国譲りとか、最初に読んだときはわけがわ かりませんでした。そこで当初の目的「天皇制の是非の確認」などはどこかへとん でいってしまったのです。とにかくこれを理解してみたいと思い解説本などをよみ あさりました。といっても学術的なものは古語のものが多くさらにわからない状態 をつくりあげるだけでした。そんな時に週刊ポストの逆説の日本史を偶然みつけて オオクニヌシについての井沢先生の考え方をしってその観点から読む事が理解への 近道だと確信しました。井沢先生の観点から出発しなおしたんですが、調べていく うちに井沢先生の説とは違ってきました。次回からは私なりの古事記の解釈を述べ たいと思います。 きんたろうさんとノムさんから神話の類型の話がありましたが、この観点からみる とアマテラスの性別は、最初は男神だったとおもいます。太陽の象徴とされる神は 本来男神というのが通説らしいです。それがなんで女神となったかというと、RUGO MAさんの指摘した「あとづけ」という皇祖神が女神でなくてはならない理由という ものがあったと推測されます。なにしろ古事記の成立は大和朝廷の畿内、西日本の 支配圏の確定以後ですから、編纂したものの意志が入りこんでいるのが明白ですか ら。そしてスサノオが乱暴ものに描かれている点もそうでしょう。こういった編纂 時の「あとづけ」部分を見抜いていけば残ったものが真実に近い内容だという事に なると思っています。 仏像についてなんですが、私は学生時代あまり興味がありませんでしたが、去年 テレビ番組で偶然みかけた「はんかしゆいぞう」はとても美しく感じられ「とし とったらこーいうもんをながめるのもええなぁ」と思っていましたので、良いもの があれば紹介して頂きたいです。 「かまくらや みほとけなれど しゃかむには びなんにおわす なつこだちかな」 という歌を記憶しているのですが、だれの作でしたっけ? Time : 1999/ 3/ 8(月) 00:00:00
Name : ina E-mail : Title : アマテラス Comments:  Awajiさま  ご教示ありがとうございました。  「私幣禁断の制」とは要するに勝手に神像を作ってはならない、という令でしょうか。 偶像礼拝の禁止のような。 とすると、割と西洋に比べておおらかな日本 の神観のなかで厳しい令ですね。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 08:58:54
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ほそぼそと称徳談義 Comments:  20面相さっちー様、お返事ありがとうございました。 1については、ちょっと残念でしたが、道鏡に対する イメージは納得いくもので、小生もそう思います。 小生が1に対し、少し疑問だったのは、続日本紀の記述を 自分なりに解釈しただけで、確信を持っているわけではありません。 退屈かもしれませんが、一応引用しておきます:  墾田永年私財法停止 765.3.2 「・・・勢力ある人々の間では、人々を追い立てるように 開墾に 使役し、貧しく困窮している人々は自活する暇もない程である。 そこで、今後は一切開墾を禁止し・・・」  その後、称徳は、飢饉のため租税の取りたてを待つことを指示しました。 さらに、称徳が飢饉のために物を与えた日を挙げてみます: 3.9.伊賀・出雲 3.13.上野 3.16.尾張・参河・播磨・石見・紀伊・阿波 4.4.美濃・越中・能登 4.22.駿河 4.27.丹波 6.8.備後  一方、直接的な貴族たちの反応は記載されていないようですが、 次のような記述がありました。 藤原氏は鎌足以来の永代恩賞を不比等の時忠誠のしるしに辞退しましたが、 5千戸を2千戸割かれただけで恩賞を受け続けていました。 それに対する、次の申入れを見れば、藤原氏のなかにも称徳の上記の行為に 感じいった者がいたようです: 4.15.藤原朝臣豊成の上奏文を受け入れる: 「・・今私たちは凶逆の謀反人である囚人(仲麻呂のこと)の一族でありながら、 なお忠誠の先祖が授かった封禄のお陰にうるおっています。何の面目があって みだりに格別の厚恩を受けて良いものでしょうか。謹んで願いますには、 先代が賜った功封を返納させて頂くことによって、少しでも天下に対する責任を 埋め合わせたいと思います。・・・」  墾田永年私財法は上記のように、やはり人民に対する悪法であるということで 停止したように思われます。その後の称徳の行動の記録を見れば、自然な解釈に 見えます。確かに、朝令暮改を頻繁にやると信用を失いますが、法を実施して 具合がよくなければ、改めるのも英断だと思います。ただし、すでに得た土地は 認めていますので、藤原氏にとってはあまり打撃ではなく(恩賞を返しても 大丈夫)、中途半端だと思いますが。 現在でも、医療費値上げ・消費税アップによって日本を不況のどん底に叩き込んだ わけですから、商品券などとけちなことをいわずに、次期政権が撤回に近い形を とっても人民はそれほど反発しないでしょう。むしろ、現代における政治的 駆け引きで、政権担当者は辞任に追い込まれそうです。悪くないと突っ張れば、 たとえ国がどうなっても辞任せずにすみ、悪いところを改めれば辞めざるを得ない という現在の政治システムのほうが変だと思いませんか? 称徳は一応「大神は神にしわせば・・」の系統ですから、豊成の行動を見ても この形にはなりにくいように思っています。あくまでも一つの仮説ですが。  先日高校の参考書がどう記述してあるか調べてみましたが、この私財法停止に ついて触れてあるものはほとんどありませんでした。ただし、河合塾の参考書のみ 記載があったのは驚きました。井沢先生ご指摘のように、もっと注目されてよい 行動だと思いますが・・・。  ノム様のご質問には答えるのは難しいので、単なる想像ですが、 真備はやはり儒教派ではないでしょうか? Time : 1999/ 3/ 8(月) 09:56:52
Name : ina E-mail : Title : 墾田永年私財法停止 Comments: 逆説の日本史 10 大阪JF生さん、皆さん、こんにちは  「飢饉のため租税の取りたてを待つ」 「称徳が飢饉のために物を与えた」 「藤原氏のなかにも称徳の上記の行為に感じいった者がいたようです」 墾田永年私財法は上記のように、やはり人民に対する悪法であるということで 停止したように思われます。  「先日高校の参考書がどう記述してあるか調べてみましたが、この私財法停止に ついて触れてあるものはほとんどありませんでした。ただし、河合塾の参考書の み記載があったのは驚きました。井沢先生ご指摘のように、もっと注目されてよ い行動だと思いますが・・・。」 丁寧な史料のご紹介ありがとうございました。 私はこの称徳の行動には感激した(勿論井沢先生の本で知って)方ですので 、ありがたかったです。私は単に藤原氏に対抗すると言うためであっても感動 的だと思うのですが、本当の善政であった可能性もあるのですね。 しかし藤原氏のなかにも感動した人がいたとは!この人の藤原氏としての家格 とかはどうなのか気になりますが、まあ、人による、と言うところでしょうか。 河合塾のテキストに載っていたと言うことは、著者の個人的趣味、というより、 かつてどこかの大学で出題されたと言うことではないでしょうか。とすると、 井沢先生と同じく、大学の先生の中にも、あまり注目されていないこの事件に 熱いまなざしを注いでいる方がいらっしゃるのかも知れませんね。 ところで大阪JF生さんの学生時代は学生運動とかどうでしたか。天皇制の問 題は避けて通れなかったのでは?私は当時は羽仁五郎にはまってましたが。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 12:36:27
Name : ノム E-mail : Title : 称徳天皇と井上内親王 Comments: みなさん、こんにちは、久しぶりにパソコンをかりました。 称徳天皇に関しては、「暗殺はない」としか思えません。大阪JF生さんのおっし ゃるように、墾田永年私財法の停止は民衆にはうけいられたと思うからです。 貴族にしても民衆の逃亡や反発は避けたい、と思うので特に暗殺してまで逆らうと は思えないのです。今日教えて頂いた豊成の上奏文を見ても、ある程度の同調はあ ったという事ですし。この時点では藤原家は罪人を出した家という事で、たいした 影響力はなかったと想像しています。称徳天皇は仏教からの知識と唐の知識から「 徳」のある政治を心がけたと思っていますので、暗殺などの秘密がもしばれた時の リスクを考えても暗殺するメリットが少なすぎると思います。 しかも称徳は病に犯されていたので死ぬのを待つだけで十分ではないかとも思いま す。鎮魂のために秋篠寺が建てられたとするなら、それは称徳を殺した贖罪ではな く、「称徳の遺志」を殺した、つまり墾田永年私財法の停止を取り消したためとみ るのが妥当だと思います。井上内親王の呪詛というのも墾田永年私財法の是非つま り称徳の遺志を守りつづけようとした事が、藤原氏の「あとづけ」の政治姿勢から の「でっち上げ」ではないでしょうか?「不倫」の話もこういう「あとづけ」的な 方法で広められたと思っています。 出雲見聞記 卒業旅行に出雲を選んだのは、正直いうと「縁結び」が目的でした。3人でいった んですが、全員彼女がいないもんで出会いがありますようにと絵馬に書いてきまし た。ついでに「日本最初の大怨霊」がまつられている神社をみてみたくていってき ました。あの大きなしめ縄には圧倒されました。しかも普通とは逆むきになってい るらしいです。近くには竹内まりやの実家がありました。旅館をしているらしいで す。大社では、正面の拝殿からは「四拍手」して祈ってきました。西側からは通常 の「ニ拍手」をしてオオクニヌシに直接挨拶して祈ってきました。これで彼を少し は慰められたと思っています。(?) その他は、大社のすぐ近くの「島根ワイナリー」というワイン工場の見学をしてき ました。観光地なのでお土産とかも置いてました。 一日目はそれだけで松江の温泉にとまりました。 二日目は「荒神谷遺跡」を見学してきました。ここは青銅器の剣が358本もまと めて出土した事で有名です。公園化されており子供の遊び場にもなっているようで した。レプリカが発掘当初の状態で見学できるようになっていて、不思議さが溢れ た空間でした。さっちーさんは出雲王朝の存在を信じているらしいですが、「さも ありなん」といった感じでした。その近くに加茂岩倉遺跡があります。ここにはた ちよらなかったのですが、ここからは銅鐸が39個もまとめて出土しています。ど うして出雲の山奥にこんなにも大量の青銅器が人為的にうめられているのか?とか んがえると、さっちーさんの意見も捨てたもんじゃないかなとも思いました。 その夜は石見の国にいって温泉津温泉という鄙びた温泉街にとまりました。案内し てくれた人がこの近くの出身なのでそこへいったんですが、なんと!去年の10月 に井沢先生がこの地で講演したらしいのです。「難読町名サミット」という催しで 講演が行われたらしいです。聴きたかったなぁと残念に思いました。 あとは松江城とかラフカディオハーンの家とかの観光地をみてきました。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 12:52:46
Name : kazu E-mail : Title : RUGOMAさんへ Comments: 一神教と多神教の話、何か大変な思いをさせてしまったみたいですね。 ありがとうございます。 >まず確認しておきたいのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに >「根っこ」は同じだということです。 これはその通りで、みなセム系ですね。先回の投稿、この辺曖昧にしていました。 それと、あまり「分かりません」というのも無責任なので少し補足させて下さい。 多神教というのは、要するに自然の恵みに対する感謝、また脅威に対する畏怖の感 情であり、それは一神教の発生した地域でも同じ事だと思うのです。 一神教を発生させたいちばんの要素は農耕と牧畜だと考えています。これらは狩猟 採集があるものを取ってくるのに対し、自然に対する働きかけが出てきます。 ところがそこらじゅうに神様がいてはおいそれと手を着けるわけには行きません。 そこで出てきたのが「自然を支配する絶対者」の概念だと思うのです。 ただ、神々に君臨する「神」ではなく、他の神を一切否定して「唯一の神」を創造 したところが甚だ特殊だと思えるのです。 全く素人の僅かな知識で考えが及ぶのはこんなところです。 すっかり日本史とは関係のない内容になってしまった... 次回からは日本史にもどります。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 12:59:39
Name : ina E-mail : Title : 暗殺 Comments: ノムさんへ、 楽しい旅行記をありがとうございました。 暗殺に関しては、仲麻呂の乱のあとの藤原氏の情況 が大切かも知れませんね。  ところで、かつてKANAKさんが挙げられた四拍手問題の 反証について教えて頂けませんか。  あとあなたの拍手の意味も、当時私はいなかったもんで、、。すみません。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 13:09:36
Name : ina E-mail : Title : 一神教 Comments:  kazuさんへ  私の無責任な印象ですが、一神教は砂漠で起こりやすい気がします。  一対一で神と対する、という状態、我も一人、神も一人と言う状態。  反対に森林地区では多神教、、、。どうでしょうか。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 13:24:54
Name : ノム E-mail : Title : 四拍手問題について Comments: inaさん、実は僕も知らないのです、僕は今年に入って少ししてから、 このページを見るようになったので「徳」についての議論しかみていない のです。さっちーさんからの話でも「四拍手」についてはなかったので、 彼もみてないかもしれません。 僕が「ニ拍手」した理由は、普通の神社では「ニ拍手」が通常の儀式(?) だと小さい頃祖母に教わっていただけなので深い意味はないです。 inaさんのいわれるKANAKさんの、井沢説への反論がなされていた のなら僕もとても知りたいです。 大阪JF生さん、教えていただけないでしょうか?この前も、以前のこの ページの雰囲気を教えていただいたところなのですが、あつかましいお願い だと思いますが、お手数でなければお願いいたします。 一神教は砂漠で生まれたとは、いい喩えですね。なんとなくそんな感じもし ますよねぇ。でもエジプトにはたくさんの神様がいたように、「世界不思議 発見」でやっていたと思うんですが。 でも、エジプトはピラミッド建設当時森林地帯だったと聞いた事もありますし。 要は、他の意見を聞き入れてお互いの妥協点を見つけられなかったのが一神教 なんではないでしょうか。話し合うという思想がなかったから、選民思想のよ うな、人種差別に直結する考えが生まれたのだと思います。まあ話し合う以前 に血を流しすぎたのかもしれませんし、いくらなんでも自分たちの祖先を野蛮 人あつかいして、惨殺されたら子孫同士仲良くといっても無理でしょうし。 神様を一つにしぼるしか自分たちの正当性を主張する方法はないとも思います。 人間のしでかした事を神様のせいにしているという感じもいだきますが・・・ 皆さんどう思いますか? Time : 1999/ 3/ 8(月) 14:13:45
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様、ノム様長いお返事すみません。 Comments:  ina様、お返事ありがとうございます。 小生の学生時代は学生運動末期の時代で、ほぼ失敗に終わって、 成果がなかったというか、それに幻滅した世代が出始めたころです。 小生は後者に属していましたので、学生運動には 批判的なほうでした。政治的な本はあまり読まず、 哲学的で普遍的なものを求めていたように思います。 (といってもそんなに勉強しませんでしたが。) 当時は「左」でなければすべて「右」でしたので、支持しないのは 右翼だと思われていたかもしれません。(井沢先生もそうなのかも・・。) とくに、昭和天皇が戦争に反対したことを知っていましたので、 ずっと戦争責任はなかったと思っていました。議論すれば、 こいつは天皇制復古主義者だと思われていたかもしれません。 (ただし、当時はほとんどそんなことを口にしたことはありません。)  ところで、豊成のことですが、藤原氏総体に与えられていた恩賞を 断るわけですから、格はわかりませんが、実質代表者といえるのでは ないでしょうか。  ノム様、ご意見ありがとうございます。 4拍手問題に関しては、  出雲大社・宇佐八幡以外にも、新潟県越後一宮弥彦神社が4拍手だという 指摘が鈴木トオルとおっしゃる方からあり、この件で検討中とのことでした。 その後、登場されていないので残念ですが。  KANAK様は、遣唐使の船数は4であることから見ても4に不吉な影はない という坂本太郎氏の意見を引き、古式の参拝では4拍手が正当だったこともあって、 (伊勢神宮でも正式には4拍手だそうです)特別な意味はないというご意見でした。 ただ、なぜそれが全国的に2拍手に変貌したのかは不明なので、決着はつかなかった と思います。あまり詳しい記録が残っていないのでこの程度しか分かりません。 ところで称徳については、さっちー様とはずいぶん異なったご意見ですね: >称徳天皇に関しては、「暗殺はない」としか思えません。 >・・・墾田永年私財法の停止は民衆にはうけいられたと思うからです。 藤原氏は四家にわかれており、内部では微妙な勢力争いがあったと推察されます。 表向きはおとなしくしていても、実際はさっちー様のおっしゃるように 「いまにみておれ」と多くの貴族たちの反感をかった可能性は十分あります。、 一応豊成の意見に従わざるを得なかったと思いますが、荘園がおいしいものだ ということは藤原氏はすでに十分わかっていたでしょう。 この私財法停止では、「寺院」が省かれています。おそらくその点が、 道鏡よりの仏教政治といわれるゆえんでしょう (ほかに具体的に何が「仏教政治」なのか小生にはよく分かりません。 称徳が、趣味的に仏教に傾倒していたのはよくわかりますが)。  このままでいくと、寺社勢力が藤原氏をいずれ圧倒するのは目に見えています。 藤原氏全体が民衆のことをそれほど気にしていたようには見えません。 (現在でも、選挙の「票」に直接絡まない限り、気にしてなさそうですし・・。) すると、誰が邪魔になるでしょうか・・? 暗殺はないと断言するのは、難しそうにおもえるのですが・・・。 (もちろんあったと断言するのも難しいです。それで、決着を好む KANAK様は、この議論を嫌われたのでしょう。)  そこへ持ってきて、称徳は皇位の「禅譲」を考えていたのですから、 藤原氏としては、あまり有能な人材が次々に天皇になられては、 「寄生」しにくいでしょう。また、血統でさえ血をみてきたのに 実力主義になると、もっと過酷な争いが常に皇位継承で起こることになり 真備などは、やはり万世一系を保つべきだと思ったのかもしれません。 火種はたくさんありそうです。  井上内親王の話が藤原氏によるでっち上げというのは同意しますが、 元斎宮ということもあって、そんなに政治的な人間にはおもえません。 荘園政策が藤原氏の生命線だという認識は、当時藤原氏以外の人間には あまり理解できなかったのではないでしょうか。すると、丸め込むのは容易だと 思いますので、幽閉までして殺す必要は称徳に遠く及びません。 そう考えなくても、井上内親王を殺す必要はほとんどないと思います。 なぜ、でっち上げが必要なのでしょう? 井上内親王は称徳暗殺を疑っていて、 ある時点で証拠を握ったのではと(ほんど妄想ですが)疑います。 でも大逆が発覚すれば、藤原氏の政治生命は絶たれる可能性が高くなります。 せっかく恩賞まで返上して雌伏していても、まったく意味がありません。 それなら、内親王を殺す必要が生じます。「世のため人のため」でなく、 「藤原氏のため」であることは明白です。いかがでしょうか? Time : 1999/ 3/ 8(月) 15:20:59
Name : RUGOMA E-mail : Title : ちょっと待って下さい。 Comments:  kazuさん、inaさん。ノムさん。こんにちは。RUGOMAです。  みなさんが疑問に思われている点は・・・どうしようかなぁ・・・  ハムラビ王前後のエジプト・メソポタミアを例に説明させて頂きます。  地図を見ていただきたいのですが、メソポタミアというのは三国志  でいうところの除州に匹敵する(?)豊かではあるが「攻めやすく、  守りにくい」地形です。  紀元前20〜18世紀(異説あり)頃はセム系アムール人のバビロン第一王朝  が統治していましたが、その以前から(そして、それ以降も)  統治する民族はコロコロ変わっておりました。  それに対してエジプトは・・・北は海、南は絶壁、東は丘陵、そして  西は砂漠と非常に守りやすい地形です。  途中内紛や外敵の進入もあるにはあったものの基本的にハム系の王家が  続き、「平和」(この言い方がまずければ、「メソポタミアに比べれば  遙かに外敵の進入に怯える必要のない」)状態でした。  そして彼らは農耕を営む関係で自然にただならぬ関心を寄せる必要があり、  その課程でアニミズム→多神教という流れになっていきました。(←強引な  まとめ方ですみません。なお、この違いは両文明の特質や法制などにも  特色を与えるのですが、それは割愛させていただきます。)  ついでに古代インドと華北地方の宗教についてもざっと調べてみましたが、  やはり「農耕社会」=「自然への畏怖」=天地、自然などを「神」とみなす  「多神教」の概念・・・といった流れが古代においてはほぼ統一されて  いると思いました。  「では一神教は?」と聞かれるとちょっと困るんですが、どうも迫害の  課程で選民思想を生み出したヘブライ人といい、王権の絶頂期にアトン  一神教を強制したアメンホテプ4世といい、どうも「俺(たち)は他の奴ら  とは違うんだ!」という点を強調するときに持ち出しているようで、古代宗教史  全体からすると何だか浮いているような気がするんですよね。  そういった意味ではむしろ一神教は秦の始皇帝と概念的に近いのかも  しれません。それまで多くの「同種」があった中で「これこそ唯一のものだ」と  主張し、そのために一層の反発を招き、衰退(滅んで)しまう。  しかしその概念は後の世で発展、あるいは主流になる・・・  これでどうでしょうか?  最後に申し訳ないんですがちょっとだけ言わせて下さい。  仕方ないのかもしれませんが、少し皆さん「現代日本人」の感覚が  歴史を学ぶには強すぎるような気がします。  別に持ってはいけないと言うわけではないですが、(またそんなことは  不可能ですが、) >そこらじゅうに神様がいてはおいそれと手を着けるわけには行きません。 >一対一で神と対する、という状態、我も一人、神も一人と言う状態。 >要は、他の意見を聞き入れてお互いの妥協点を見つけられなかったのが一神教 >なんではないでしょうか。話し合うという思想がなかったから、選民思想のよ >うな、人種差別に直結する考えが生まれたのだと思います。  こういった発想はあまりにも現代的で、正直違和感を覚えます。  井沢先生もおっしゃっているように、古代における宗教は「絶対」のもので  それに異を唱えるとなれば、イエスのように「最低でも」死刑です。  そういった状態の中ではたして「私」と「神」を同列に扱う発想が  果たして出てくるでしょうか?(自分は正直「私」という概念が  古代において果たして存在したのかという疑問すら感じています。)  自分は以前、「宗教問題を考える際は宗教的史料以外のアプローチを  試みた方がいいのではないか」と主張したことがありました。  これは人によっては「「歴史(日本史)の呪術的側面を重視せよ」  という井沢先生の主張と違うのではないか?」と思われた方も  いらっしゃるかもしれませんが、全くの正反対です。  自分は「当時、特に古代における宗教問題は宗教のみならず、政治・経済  も含んだ・・・いや、宗教こそ「すべて」の問題になりうる可能性が  あり得るので、教義のみの解釈ですませるのは危険だ。」ということを  申し上げたかったのであり、この点においては井沢先生と同感なのです。  そういった意味で、申し訳ないんですがちょっと皆さんには  古代史における「神」の概念が不足しているんじゃないかなぁ、  と思いました。(気に障ったらごめんなさい。)  (追伸)ノムさんへ。  「人種差別」については井沢先生は以前言及なさっていたので、読み進めて  いけばそのうちこれに関する説明が出てくると思いますよ。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 17:07:21
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: 丁寧なご返事ありがとうございます。 「四拍手」問題は決着つかなかったのですね。古式では四拍手が通常の儀式 だとしても、「死」につうじる縁起の悪い数というのは感じます。出雲へ一緒 にいった友人たちの中に、一人井沢説をしらずにいった奴がいました。彼は なにも気にならないようで、平気で「四拍手」してましたが・・・・・・ つまりものは見方なんでしょうね。ちなみに彼は「ニ拍手」が通常だとも知り ませんでした。 称徳問題についてのさっちーさんとの意見の食い違いは、さっちーさんいわく 「最初の知り方に問題があるんや」といってました。 僕は称徳と道鏡について詳しく知ったのは井沢説が最初でしたが、彼は古事記 の内容から当時の大和朝廷は僕たちが想像しているよりも、もっと弱体な政権 だと確信しているみたいです。つまり表面上は律令制度をもって天皇中心の政 治をしていたが、実質的には「まつろわぬものたち」が想像を絶するほど沢山 いたという事です。天皇はあくまで畿内周辺の政治だけを行っていて、一応全 国にむけていろいろな布告をおこなってるが、ほとんど無効だったのではない かと考えているみたいです。そうすると藤原氏やほかの貴族達あっての連合政 権の域をでてないという事です。つまり天皇家あっての貴族ではなく、貴族あ っての天皇家という状態だと思っているようです。 なぜかというと、古事記、日本書紀によって天皇の由来が広まったとすると、 奈良朝後期の時点では、天照皇大神の子孫だけがこの国の王となるという「 あとづけ」が絶対条件たり得ないという意見らしいです。古事記が完成してか ら100年もたってないですからね。あくまでも奈良周辺の貴族、豪族の利害 調整と勢力バランスの上にのっかった形での朝廷という認識らしいです。 それを考慮にいれれば、天皇は奈良の代表として貴族たちの利権の保証という ものをしなくてはいけない。そうしないと天皇の支持率に関わる問題になると いうのが、彼の理論らしいです。 僕たちの想像している天皇の威厳というのが固まったのは平安遷都以降だと 思っているようなのでこの点においてどうしてもずれてしまうのです。 突飛すぎる意見だと僕は思っているのですが、皆さんはどう思いますか? Time : 1999/ 3/ 8(月) 17:47:48
Name : 輔住 E-mail : Title : リスク Comments: みなさん、お久しぶりです。称徳問題もかなり盛り上がっていますね。 暗殺はなかったと私は見ていますが、おそらく「病死」待ちでしょう。 確かに大阪JF生さんの言う通り火種は腐るほどありますが、それだけに 暗殺が発覚し、弱みを握られてたときのリスクがあまりにも 大きすぎます。藤原も真備も「後継者問題」のことを第一に 考えたはずだと思います。 そのとき相手に弱みを握られるのは絶対に避けたいはず。 井上内親王のことは「天武系」復活阻止のためでしょう。 別の事件として考えた方が良いでしょう。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 17:58:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音から鎌倉大仏へ?? Comments: inaさん、こんにちは。 >>「私幣禁断の制」とは要するに勝手に神像を作ってはならない、という >>令でしょうか。偶像礼拝の禁止のような。 「私幣禁断の制」については、言葉足らずで申し訳ありませんでした。 これは「延喜式」で定められたもので、「伊勢神宮=天照大神」には天皇 以外何人たりと「幣」をあげることを禁じたものです。 これは同時に「天照大神」を祭神とする神社(宮)の建立を禁じたことを 意味していると考えています。 (その後、ごく近世には「皇大神宮」として建立されますが。) 従って「天照大神」の神像は原則的に有り得ないだろう、という意味で申 し上げたものです。 なお、対馬にはアマテル神の痕跡があるとされていますが、これが「天照 大神」と同一神であるかどうかについては、問題があると思っています。 そもそも、神道における「神」は西行法師の名歌、 「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」 に示されているように、神像として具象化するには馴染まないものがあるの では? さっちーさん、はじめまして。 >>「かまくらや みほとけなれど しゃかむには びなんにおわす なつこだちかな」 >>という歌を記憶しているのですが、だれの作でしたっけ? 与謝野晶子の歌ですね。 実はこの歌は仏像の印相を語るときによく話題にのぼるもので、「手違い?」 の歌とされています。 ご存知でしょうが、ここで歌われているのは鎌倉高徳院の阿弥陀大仏です。 従って、釈迦牟尼(シャーキャームニ=釈迦族の尊者)ではありません。 釈迦如来と阿弥陀如来(アミターバ・アミターユス=無量光・無量寿)では 印相が異なり容易に見分けられますが、鎌倉大仏は上品上生の阿弥陀定印で あり、釈迦如来等の禅定印ではありません。(所謂手が違います) 与謝野晶子はこれを知ったうえで、敢えて釈迦牟尼としたのか? 文学作品ですから、どちらでも良いのですが、Awajiは承知の上で歌ったと 思っています。 つまらない蛇足を申し上げてしまいました。スミマセン。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 21:30:28
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(66)番外・・「四拍手再録」 Comments: 大阪JF生さん、おひさしぶりです・・・KANAKです。 >>4拍手問題に関しては、 出雲大社・宇佐八幡以外にも、新潟県越後一宮 >>弥彦神社が4拍手だという指摘が鈴木トオルとおっしゃる方からあり、こ >>の件で検討中とのことでした。 >>その後、登場されていないので残念ですが。 KANAK様は、遣唐使の >>船数は4であることから見ても4に不吉な影はないという坂本太郎氏の意 >>見を引き、古式の参拝では4拍手が正当だったこともあって、(伊勢神宮 >>でも正式には4拍手だそうです)特別な意味はないというご意見でした。 >>ただ、なぜそれが全国的に2拍手に変貌したのかは不明なので、決着はつ >>かなかったと思います。 この問題については、未決着とのご理解のようですが、私自身は以下のよう なご意見もありましたので、一応決着したと考えておりました。 >>・・・「四拍子」については、あなたの意見の方が正いと思います。 >>4という数は、調和の取れた数として古今東西重んじられました。「四拍子」 >>については。梅原先生も井沢先生も考え過ぎの気がします。・・・ 要するに・・・なぜ全国的に2拍手に変貌したのかが不明であっても・・・ 1.『本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』という明確な文献証拠がある。 2.「伊勢神宮」でも正式には古儀としての「四拍手」が伝えられている。 3.「梅原・井沢説」では「伊勢神宮」と対極の敗者(被征服者)「出雲大社」 の「死の儀礼」としての「四拍手」を意義付けられている。 これらの矛盾は説明できない筈です。まさか「伊勢神宮」も「死の儀式」と しての「四拍手」を保っていると、お考えではないでしょう? さらに、「坂本説」の古代における「四」の意味から見ても「四=死」は完全 に否定されている筈です。 以下念のため・・・「四拍手問題」について再録させて頂きます。 (この時期はHP発言と会議室発言が輻輳していますので、一寸ややこしい のですが・・・ご了承願います) ********************************** 私は、確かに井沢さんの「怨霊史観」については良く知りません。 しかしながら、井沢さんがほぼ追随されている(?)「梅原怨霊説」について は明確に疑問を抱いています。 例えば・・・昭和48年に坂本氏が「梅原怨霊説」を批判された次の論文があ ります。(当然井沢さんもご存じの筈ですし、或いは著書の中で既に反論され ているかも知れませんが・・)私はこの坂本氏の見解の方が遙かに納得出来る ものだと考えていますので、皆さんも興味をお持ちの「四拍手問題」を中心に 一部抜粋紹介いたします。 法隆寺怨霊寺説について(二) 二 法隆寺と出雲大社の対比、及び偶数性四と死との連想  梅原氏の法隆寺怨霊寺説には重要な前提がある。それはたたり神についての氏 一流の理解に始まる。氏によると、個人で神々に祭られるのは、 (1)一般に政治的敗者が多い。 (2)その時彼等は罪なくして殺されたものである。 (3)その罪なくして殺された人が、病気とか天災・飢饉によって、時の支配    者を苦しめる。 (4)時の権力者は、そのたたりを鎮め、自己の政権を安泰にするために、そ    のたたりの霊を手厚く祭る。 (5)それと共に、そういうたたりの神の徳をほめたたえ、良き名をその霊に    追遣するのである。 神話に伝えられる大国主神や平安時代の菅原道真などには、こうした筋書きは ピッタリであろう。しかし、これが一般的に日本の神のあり方だとは言えない。 ・・・・・・ 出雲大社にしても大国主神の死霊を祭っているというのは独断である。 ・・・・殿内に閉じこめて、魂の外に出ることを禁ずるという思想は、毛頭そ こには存在しない。 このように、法隆寺と出雲大社との類似を説くのは、もともと無理であるが、 梅原氏は別に偶数性の原理、四と死との連想から法隆寺に死の影のまつわるこ とを力説する。偶数が奇数に比して不吉であると果たして言えるのであろうか。 周易では・・・・・しかし、日本では偶数の方を貴ぶ。神話の伝説でも、八百 万神といい、大八州国といい、・・・・・。 四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈良 の時代にはなかったことであると思う。・・・遣唐使が四船で組織されたこと などは、死の恐怖にもっとも敏感な人の間でも四の数が決して忌まれていなか ったよい証拠になろう。・・・・ 梅原氏はまた四と死との連想を強調しようとして、出雲大社ではカシワ手を四 つ打つ。カシワ手を四つの神社は他にはないという。しかし、このことは出雲 大社が大国主神の死霊を祭ったという証には少しもならない。神に対し四拝ま たは四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったこと ではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えて いるだけのことである。 四拍手が古礼であることは、『儀式』巻三践祚大嘗祭儀に、・・・・跪いて手 を拍つこと四度とあり、・・・・・『日本後記』延暦十八年・・の文もある。 これによって正月朝賀の拝は通例四拝であったことがわかる。渤海使の参列を 慮って四拝を再拝にかえたというからである。 これについて、平安時代 藤原公任の著した『北山抄』の説明は丁寧である。 『本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』・・・これらの文献によって、四拝が 決して珍しいことではなく、古来から伝えられた慣習であること、従って死の 観念などの介入する余地の全くないことは、明らかであると思う。            「日本古代史叢考」 坂本太郎著 吉川弘文館                        98/10/26 ********************************** 先般、10/27#2183 で「梅原説=四拍手問題」に関する「坂本氏批判」をご 紹介いたしましたが、それに対し ”この問題については既に井沢さんが論破 している筈・・・”との意見が有ったようです。 考えて見ればあまりにも当然の話で・・・「四拍手問題」における梅原説と井 沢説の主要部部分は次のとおりであり・・・ 梅原説(隠された十字架ー法隆寺論)・・・昭和47年5月発行 「まして、八世紀という時代、死という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に 響いたかは、はかり知れない。しかるに、法隆寺においてこの忌むべき死を示 す四が、しきりに繰り返されるのである。・・・・ 出雲大社において、カシワ手は四つ打つ。カシワ手を四つ打つ神社は他には ない。出雲大社に限って、カシワ手を四つ打つのはなぜか。また出雲大社は柱 の大きさが、いずれも四の倍数となっている。法隆寺と出雲大社の類似点につ いて、先にもいい、また、別稿でも詳しく論じたいと思うが、この二つには、 死のイメージがまつわりつかねばならぬ然るべき理由があったのである。」 井沢説(逆説の日本史1ー古代黎明編)・・・平成5年発行?? 「全国の神社の中で、出雲大社ともう一つの大きな神社しか持っていない、極 めて不可解な作法がある。それは大社に参拝する者は柏手を四回うたなければ ならないことだ。・・・・・ では忌詞の最たるものは何かと言えば、それは「死」である・・・ だから、「シ」という言葉は神道の普通の考え方から言えば絶対に避けねばな らない。それなのにどうして「四拍手」なのか。「四」は「シ」であり「死」 に通じる。縁起の悪いことこのうえもない。しかし大社がオオクニヌシという 「死の国の王」の神殿であり、それを建てた大和朝廷が何を願っていたか、そ れを考えるとこの謎も解ける。・・・」 以上のとおり、基本的には約20年前に発表された「梅原説」を蒸し返(或い は発展??)されたものだと思われますが、この間昭和48年に「坂本氏批判」 が発表され、 *四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈  良の時代にはなかったことである。 *神に対し四拝または四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲  大社に限ったことではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは  旧儀を忠実に伝えているだけのことである。 *従って四拍手について、死の観念などの介入する余地は全くない。 ・・・・ことを様々な根拠資料を明示された上で論証されているのです。 従って、如何に井沢さんでも「坂本氏批判」に関する「反証」なしで「梅原説」 を蒸し返(発展??)すことは有り得ないはずです。 ところが・・・井沢さんの具体的「論破」がどの様なものであるかイマイチ良 く分かりません。取り敢えずこの点について是非HPの何方かに、お教え頂き たいのですが・・・無理なお願いでしょうか?                               98/11/09 *********************************** この質問に関しては、明確なご回答は得られず・・・具体的「論破」はなされ いないと言うことで、決着したと思います。 ***********************************  当時4=死でないというのは、遣唐使の船の数が根拠で、4拍手が一般的だっ たのことですが、それなら現在はなぜ2拍手中心になってしまったのか、史料 的に何か裏付けがとれるのでしょうか?正確には、志田様がおっしゃるように どの程度まで、4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思い ますので、多くの時間を要すると思いますが、 Time : 1998/11/17(火) 09:56:05 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以下に私の考えを申し上げます。 まず、坂本氏批判における「四と死」の関係については別途#2257で熊谷さんか らもご指摘いただきましたが・・・完全に私の手抜きによるもので、みなさん にご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。 (言い訳になりますが・・私は後段の「四拍手の由来」を重視しておりました。) あらためて、以下に坂本批判における該当部分を再録いたします(11/15#2265) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「・・中国古代においても、四神、四宝、四善、四器、四聖など、大体佳事と 考えてよいものに四を用いた例が多い。(各の説明省略 K)書籍を分類して 四部とし、それを蔵する所を四庫といい、『礼記』を抜粋して四書を選び、大 学につぐ学校として四門学をおく。四を忌避した様子は全くない。 日本でも崇神紀の四道将軍、仲哀紀の四大夫、応神紀の工女四婦女、天智紀の 四嬪・四宮人などは『日本書紀』で自由に四の字を用いている例である。 遣唐使が・・(既出により省略 K)。 『万葉集』でも字音仮名として、四の文字を使っている例が多い。 ・・・「大和にしては」原文「倭尓四手者」とある。 ・・・「朝夕にして」・・原文は「朝夕四天」とある。 ・・・「君無しにして」・・原文は「君無二四天」である。 ・・・「家にして」・・原文は「家二四天」である。 ・・・「侘びそしにける」・・原文は「和備曾四二結類」である。 ・・・「気の緒にして」・・原文は「気緒尓四而」とある。 『万葉集』の歌人たちには、四は死と連なるような不吉な文字だという思想は いささかもなかったことがこれらの例でわかる。・・・」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は、梅原・伊沢説における「四と死」の語呂合わせについては、ほぼ十分な 「反証」であると考えています。 さらに(既出)後段の『儀式』巻三践祚大嘗祭儀・『日本後記』延暦十八年の 条・『北山抄=本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』によって四拝(拍手)が 古式であったこと、略儀として二拍手に移行したことも殆ど立証されていると 考えます。 また、坂本氏は触れておられませんが、HPで発表のあった「弥彦神社」 「伊勢神宮=正式には四拝重礼?」の例もある意味ではこれを裏付けるものだ と理解しています。 ただ、大阪JF生さんのご指摘にある・・・ >>4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思いますので、 等についてはさらに検証の必要があるかもしれませんね。 しかし、私がまず伊沢さんに申し上げたいのは、 ”何故このような「梅原=四拍手説」に対する明白な「坂本氏批判」を無視さ れたのですか?” ・・・と言うことなのです。 私は、大阪JF生さんが「伊沢反論がある筈・・・」と仰ったときに、正直言 って救われた気がしました。少なくとも古代史研究者の良心として、一般読者 に対する義務として・・・坂本批判を無視して「四拍手問題」を論ずることは あり得ないと信じたかったからです。 (例え伊沢さんが見当違いの批判だと考えられたとしても・・・です。 一般読者が「坂本説」を参照することは殆ど不可能に近いことでしょう。 私が微かな記憶を頼りに「坂本説」にたどり着くため、図書館の検索機を十回 近く叩いたのですから・・・・殆どの読者は「坂本批判」等は知らないままで、 「梅原・伊沢=四拍手説」を理解してしまうのではないでしょうか?) 私は、新たな史論の発展は先行説を「無視」することではなく、「論破」する ことでのみ遂げられるものだと考えています。 坂本氏は「法隆寺怨霊寺説について(二)」論文を発表されるに当たり次の様 に記述されています。 「法隆寺怨霊寺説について(一)は、『隠された十字架』に対する、史家とし ての最小限度の反論である。誰も議論の余地はあるまいと思う部分について述 べただけである。しかし、書中にはなお史料の誤読や、認識の付会が各所に存 在する。一々アラを挙げるのは本意でないが、一般読書人にそれが事実と受取 られるのは宜しくないと思うので、その若干を付け加える。」 この気持ちがお分かり頂けるなら、今からでも遅くは有りません。井沢さんご 自身が、正々堂々と真正面から「坂本氏批判」を取り上げ「論破」されんこと を切望いたします。 98/11/17 *********************************** 4拍手問題についてのみ意見が異なり、未解決だと捉えています。井沢先生は 、恒に現代との関りにおいて歴史の流れを観ておられますので、それがなぜ変 容したのかを解明しない限り解決していないと思います。したがって志田様の 路線を行くべきだと思っています。 もちろん4拍手問題が崩れたところで、井沢説は大して打撃を受けないでしょ う。なぜなら、本筋である井沢史観を表明されているのですから、どの主張が 重要で、どの部分が枝葉であるか判断可能であるからで、石井様の「小さく」う んぬんの誤りも枝葉の部分なので、ほとんど取るに足らないことと思います。 逆に、それが不明なKANAK説についてはその区別が不可能なので、一つ一 つが等しい重みを持ち、一つでも崩れたらひどくいいかげんなものに見えてし まうわけです。・・・・ Time : 1998/11/20(金) 10:48:23 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「四拍手問題」については、要するに「梅原・井沢説」と「坂本説」とどちら に整合性があるか・・・みなさんの理性的判断にお委せいたします。 ただ、枝葉か何かは知りませんが、井沢さんが自説として主張された以上、そ の主張には責任があるはずです。 あらためて「坂本説」に「反論・論破」されるならばそれで結構です。 それがお出来にならないならば・・・「自説の無誤謬」に拘泥されることなく、 訂正されるのが研究者の良心であり、読者に対する義務ではないでしょうか? 梅原さんはこの問題ではありませんが、『隠された十字架』序文で・・・ 「・・日本神話、あるいは『記紀』にかんする私の研究が不十分であり、種々 の誤謬をふくんでいることが分かったからである。・・・神話と『記紀』に関 しては、もう一度書きなおすより仕方がないであろう。・・・」 と述べられています。当然といえば当然ですが、私は梅原さんの良心と勇気を 感じました。云うまでもなく井沢さんの著書は梅原さんの著書よりも遙かに多 くの一般読者を対象とされています。それだけに、その責任はより大きなもの があると思うのです。 私は、小林さんが「天武 高向漢人玄理実子説」から「天武 淵蓋蘇文説」に 鞍替えされようと、どうされようと特に興味はありません。読者がごく限られ たマニアックな範囲に止まっているからです。 しかし、井沢さんの読者には「日本書紀」を読んだこともない、或いは読むこ ともないであろう人達や、中高生をも含んでいるでしょう。 それだけに枝葉であろうと無かろうと、大であろうと小であろうと、学者であ ろうとドシロウトの批判であろうと、議論を回避されることなく真剣なご対応 をお願いしたいと思いますが、如何でしょうか? (勿論、時間的制約がおありでしょうから、取り敢えず「反論」予告のあった 9/18 #1996 についてだけでも結構ですが・・・) 98/11/21 ********************************** なお、最近気が付いたのですが・・・「皇大神宮儀式帳」によれば「伊勢神宮」 に勅使が赴くことを「四度幣」と称していたようです。年間四回の奉幣ですが、 「四」が吉祥的に用いられています。「四=死=出雲大社」の連想はここでも 完全に破綻しているのでは無いでしょうか? Time : 1999/ 3/ 8(月) 23:37:26
Name : きんたろう E-mail : Title : 神話の定義 Comments: さっちーさん、みなさんこんばんは。 神話、宗教について私も参加させて下さい。 神話とは、世界の初めての時代における一回的な出来事を語った物語で、 その内容を伝承者は真実であると信じている。 よって神話は聖なる物語である。 神話は存在する者を単に説明するばかりでなく、その存在理由を基礎づける ものであり、その出来事は人間が従い守るべき範型を提出している。 神話には世界・人類・文化などの起源を語る創世神話と、神々と英雄の波乱に富む 生涯を語る英雄神話に分けることが出来る。 神話の定義とはものすごく簡単に言うと以上のようなものですが、 神話は世界中の部族の間に存在すると言っても良いと思います。 つまり古代に於いては部族の数だけ神がいたと言うことに他なりません。 日本以外の国においては神話と王の出目が完全に別のものになっていますので (共和制の国もかなり多い)神話は現実とは完全に切り離されています。 しかし、日本ではそれが天皇家の歴史につながっている?というところが 世界唯一の特徴だと思います。 私も去年出雲に行ったのですが「強者どもが夢の後」というか「歴史の抜け殻」 といった印象を受けました。 (竹内まりあさんの実家を見て感激しました) スサノオは出雲に来る前と比べるとまるで別人のような印象を受けます。 これは恐らく複数の事例をスサノオ個人のものに無理矢理したためだと 思っています。 宗教は神がいて初めて存在します。 だから原始的かどうか、普遍性はどうかという点を別にすると、それこそ 部族の数だけ宗教があったことになります。 環境が人を造ると言われますが、これは思想においても同様だと思います。 より苛烈な環境の中でこそ世界的に通用する宗教が成立するのではないでしょうか。 その点日本は恵まれていると思いますのでちょっと無理だったような気がします。 キリスト教が世界宗教になれたのはローマ帝国で普及したからですが、それはひとえに 聖パウロのおかげだと思います。(パウロ無ければキリスト教の今はなかった??かも) Time : 1999/ 3/ 9(火) 00:25:45
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 謝罪と補足 Comments:  KANAK様、お元気そうで何よりです。 4拍手問題に関しては、個人的な意見にすぎないというのを 申し添えるのを怠っていました。 少しフェアーではなかったことを謝罪いたします。 ただ、個人的には4拍手の捉え方が、ある時点で 変わってしまった可能性がありますので、 未解決ではないかと思っていました。 (最後まで、しつこくそう言っていたのは小生だけ・・。)  ina様、  豊成に関して推測だけでものを言ってしまいました。すみません。 実は不比等の4子のうち長男の南家武智麻呂の長男(仲麻呂の兄) ですので、豊成は形式上嫡流ですね。仲麻呂には押え込まれたようですが。 直接の兄弟ということで、余計に責任を感じたのでしょう。 ちなみに永手は次男北家房前の子で、広嗣と百川は3男宇合の子です。 乱を起こした兄弟を持つ人は、表向きは自嘲せざるを得ないでしょう。 とりあえず、永手が力を持ち、百川がそれに取って代わったと思いますが、 4家間の微妙な駆け引きをうかがわせます。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 09:55:09
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 称徳をめぐって Comments:  ノム様、ご意見を整理していただき、ありがとうございました。 さっちー様との見解の差がよく分かりました。 小生の感覚では天武がもっとも権力が強かったように思います。 (記紀編纂・制度や法の整備を行っていますので。) 平安以降は後醍醐などの例外を除いて、天皇の権力はほぼ形骸化して いたように思います。律令制も骨抜きですし。 ただ、まさに象徴としての偶像的権力はあったと思いますが・・。 そのあたりで、意見が違ってくるのですね。 結果論かもしれませんが、この後ごく一部の例外を除いて、 天皇に取って代わろうとした貴族がいないことから見ても、 「血統による天皇家」は確立していたように思います。 もしそうでないなら、道鏡問題は別の解釈が必要でしょう。 ただ個人的な意見はこのようなものですが、この件ではいろんな方の ご意見を聞かれた方がよさそうです。  輔住様、ご意見ありがとうございました。 暗殺の件に関しては、違いがよく分かりました。 長屋王・広嗣・仲麻呂と藤原氏の天皇をも恐れないやりたい放題を 考えて、その延長で捉えたのが小生の意見ですが、 輔住様のご意見は、今度こそは慎重にと永手たちが対処したと いうことですね(違っていたらすみません)。  でも、井上内親王の件はまだよく分かりません。 いったん皇后にし、子供も皇太子にしたのは、 真備ら(反天智勢力?反藤原?)の押え込みのための偽装工作で、 最初からおろすつもりだったとお考えでしょうか? なぜ、そのようなややこしいことをせずに、皇后にする前に 呪詛の疑いで押え込まなかったのでしょうか? 単なる時間稼ぎにしては、皇后・皇太子にしてしまうと、 結構リスクが大きすぎるようにおもえますが、 ご意見お聞かせいただけたらありがたく存じます。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 10:36:30
Name : 輔住 E-mail : Title : レベル Comments: 大阪JF生さん、ご意見ありがとうございます。 井上内親王を皇后にしたのはおっしゃられた通り 反藤原、及び反天智対策だと思っています。 確かに皇后・皇太子を罠にはめることもリスクを負うでしょう。 しかし、皇后・皇太子を罠にはめることはこの時代以降もあることを 考えれば「天皇暗殺」と同レベルに考えることはできません! KANAKさん、お久しぶりですね。再びいらっしゃるのを 楽しみにしています。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 13:05:04
Name : kazu E-mail : Title : もう少しだけ宗教問題 Comments: inaさん、RUGOMAさん、こんにちは。 一神教が砂漠で生まれた、半分賛成です。 繰り返しになりますが、多神教が自然に対する感謝・畏怖だとして、砂漠にも 最低限太陽や月はあり、それらに対する信仰というのは発生すると思うのです。 一神教の神は「太陽神」とかではなく、もっと抽象的な存在で、そのような「神」 概念を持ったというのは...(やっぱり現代人かな?) それと、古代の中東は森林地帯だったはずで、「レバノン杉」と言うのもありま すが今では殆どないか、考古学上の存在になっているはずです。 (すみません、このあたり勉強不足です。) 先回農耕と牧畜を持ち出したのは、ギルガメッシュのことを考えてのことです。 梅原猛氏は、著書の中で環境破壊の問題を訴えられていますが、それは昨日今日 の問題ではなく、既に文明の黎明期に森の神を殺しており、文明と共にあった 問題とされています(中東もギリシャも古代文明のあったところは森がなくなっ てしまいました)。 万物を創造した「神」と生殺与奪の権を与えられた人間、一神教にはそんな構図 が見て取れるのです(偏見かな?) RUGOMAさんの言われることは納得です。 多神教から一神教に変わったとは思うのですが、かつての神は全く伝わっていま せん。 3月のMarchは軍神マルスにちなむもので、これは古代ローマ以来のもので す。古代ローマはキリスト教を受け入れた後も古い神の名前だけは残った(信仰 はしていないでしょうが)訳ですし、ギリシャ神話も今日のこっています。 しかし、そうではなく一切否定してしまう、それが特殊だと思えるのです。 だんだん深みにはまってきましたが、正直、シンドクなってきました。 やっぱり現代人かな... Time : 1999/ 3/ 9(火) 13:18:48
Name : ノム E-mail : Title : 泥沼? Comments: inaさん、RUGOMAさんこんにちわ、kazuさんはじめま して。難しくなってきましたね。「神」はほんとに わかりにくいモノですね。神こそ全てという情況に ならない限り理解しにくいのだと思います。「仏」 は多神教的概念なんでしょうか。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 13:58:15
Name : ノム E-mail : Title : KANAKさんありがとうございました。 Comments: 四拍手問題の再録ありがとうございます。 なるほど、確かに決着のついた感がします。 でも、ちょくちょく見にきてくれてたんですね。 とてもうれしく思います。今後もたまにでも意見 下さい。お願いします。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 14:06:15
Name :E-mail : Title :Comments: みなさんはじめまして・ 「神」が発生するためには「奇跡」が必要なのです 自然への畏怖などとは無関係なのです。 「奇跡」をともなわなければ「神」たりえないのです Time : 1999/ 3/ 9(火) 16:10:27
Name : さっちー E-mail : Title : すいません Comments: みなさんすいませんでした。 下の「Q」というのは私でした。 気にしないでください。 本当にすいませんでした。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 16:27:16
Name : さっちー E-mail : Title : 独断と偏見「古事記の解釈」1 Comments: ひー ふう みー よー いつ むう なな やー!ダチョウクラブです。というのは、 さておき、古事記の分析?に入りたいと思いますがその前に、「四」は「し」」と 読むのと、「よ」「よん」と読むのとはどちらが日本古来の読み方なんでしょう? ご存知の方がいらっしゃれば是非教えてくださいませ。 前回までに、古事記には「あとづけ」の部分があるというのは申し上げたと思いま すが、ではどこがそうなんでしょうか?私は前半の高天原の部分全部と後段の天皇 の寿命と海幸山幸の部分、そしてスサノオのおろち退治と因幡の白兎があやしいと おもっています。その理由は類型神話にあたると思うからです。類型神話とは、他 の国、民族の神話にも似たような話がある事をいいます。つまり、古代人の知恵と モラルを現したものであるからです。これは縄文、弥生時代のうちに世界中から少 しづつつたわった、また伝えたものだと推測されます。 では何故他の部分が事実に近いといえるのか? 古事記編纂の目的はあくまで天皇がこの国の正当な国主?である事を証明し、宣伝 、教育していく事です。つまりアマテラスの子孫天皇こそがこの国に君臨する事を 認めるためのものであるという事なのです。 この点に関係ない部分は事実か、あるいはそれに準ずる内容だと考えられます。 それは出雲に関する内容です。天皇が正当性を証明をするためには必要のない部分 だとは思いませんか?わざわざ国譲りしてもらった事を公表する必要はないのです。 最初からアマテラスの子孫が降臨してこの国を開いたとすればすむ事なのに、わざ わざ「国譲り」を記したというのは、天皇制が成り立つ以前にこの国を支配してい た別の勢力があったという事に他なりません。そしてこれは多くの人々がそれぞれ の部族、氏族の歴史として残していたと思いませんか?古事記の序文にもかずある 「旧辞」から撰録したと記しています。これは天武天皇の命によって選ばれていま す。穿ちすぎかも知れませんが天武天皇によって「万世一系」が正式に決められた 事の裏返しではないかと考えています。 と考えれば出雲には、出雲王朝といっても差し支えないほどの勢力が存在した、そ の後誕生した大和朝廷の原形である勢力によって吸収合併されたという構図が浮かびあがってくるのです。 私は以前、アマテラスとスサノオは全く同等の神であると主張しました。それは、 大和朝廷におけるアマテラスと出雲王朝におけるスサノオの地位が同じという事で あります。つまりアマテラスとスサノオはそれぞれの祖神であるという事において です。そして大国主と個人名ではなく称号だと思います。 アマテラス=スサノオ。天皇=大国主。これが私の仮説です。 きんたろうさんから、スサノオの性格の話がでましたが、私は出雲降臨の前のスサ ノオはアマテラスより祖神としてはふさわしくないとにおわすための大和朝廷によ る「あとづけ」だと思っています。スサノオが高天原で「うけひ」したあとの話は 類型神話にも「日神」「月神」として似たような話があります。この「月神」の部 文をスサノオの「あとづけ」として採用したのだと思っています。そのため本来、 「月神」として登場するはずの「ツクヨミ」の記述が古事記にはほとんど見えない のです。 以上のように考察していくと、やまたのおろち退治から国譲りの記述が真実に近い ものと想像できます。(ちょっと、いやだいぶん強引ですが・・・・・) スサノオを祭る出雲王朝はアマテラスを祭る大和朝廷に吸収合併されたと私は考え ています。皆さんはどうお考えになりますか? Time : 1999/ 3/ 9(火) 22:32:29
Name : さっちー E-mail : Title : 称徳問題その他(支離滅裂ですみません) Comments: 大阪JF生様、輔住様こん@@は。今回はねたぎれなのでいきなりいきます。 なにかいいネタがあれば教えてください。(なんのネタや!) 墾田永年私財法の発布の時にも「民衆のため」という言い方をしています。 この時は「三世一身の法」が発布されてから三世の時をへて逃亡者や浮浪者があふ れたためその対策としてこの法が発布されたのです。結局天皇や朝廷の貴族は自分 の事を第一としていただけなのです。それは停止の時にも同じようなものだったと 推測しています。称徳は弓削の里に行幸した時にはじめて民衆の貧困を目の当たり にしたのだと思います。しかし弓削の里は道鏡の徳政のおかげで藤原氏を始めとし 貴族達の荘園よりも穏やかな雰囲気だったらしいです。僧侶だった彼は「物欲」と いうものを貴族よりもってなかったのだと思います。 この事も私財法停止の一つの理由であり、道鏡を天皇にしようと考えた理由だった のでしょう。しかし専横を極めた藤原氏や貴族への牽制という意味もあったのでし ょう。たった一つの理由では法を停止する理由にはなりきらないでしょうから。 大和朝廷は天武の時にその内容を整えたと思います。しかし古事記の考察で記した ように、「万世一系」の思想は大和朝廷内部だけの常識であり、日本全体の思想で はなかったとおもっています。ですから記紀の編纂により、それを日本全体に宣伝 する必要があったと考えています。藤原氏はその祖神をアマテラスの系譜にいれて います。他の有力貴族も同様です。彼らは天皇と一身同体になる事を望み、祖神を アマテラスの系譜にいれたのだとおもいます。天武によって強制されたのかもしれ ませんが。その天皇が自分たちを見放して道鏡を寵愛するというのはある意味うら ぎりです。自分達がまもり育ててきた大和朝廷をぽっと出の僧侶に奪われるという のは私達の想像以上にゆるせない出来事だったのではと昨日今日ひらめきました。 しかし藤原氏は仲麻呂の乱でみそをつけてしまいました。従って暗殺などという下 調べがいるような動きは、なかなかできなかったのではないでしょうか? 称徳が藤原一族を断固として処分するつもりであったなら、起死回生の一打として 暗殺を企てるという暴挙にでたかもしれませんが、豊成の上奏をうけいれた所をみ るとおとなしくしていたほうが後々のためではないでしょうか?しかも閨閥として 貴族の中では天皇と一番近い血縁をもつ藤原氏です。無理に動く必要性はなかった とおもいませんか? 一方真備は、遣唐使として2度とうに渡りましたが、一度は僧侶玄肪の巻き添えの 形で仲麻呂によって左遷されています。この恨みを仲麻呂の乱で晴らしました。 僧侶兼政治家というものにいい印象をもってなかったのではないでしょうか? 称徳の皇太子時代の師でもある彼は、称徳が道鏡を優遇する事に危惧を覚えていた のではないでしょうか? 何がいいたいのかわからなくなってきたのでこの件は次回にまわします。 Awajiさんありがとうございます。与謝野晶子でしたね。 今高校時代の教科書をもう一度探したら載ってました。私もわざと「手違い」を 歌にしたんだと思います。 一神教の神については、「奇跡」がキーワードだと思います。 なんか支離滅裂ですいません。ちょつと風邪ひいてまんねんひつ・・・ そろそろ寝ます、おやすみなさいませみなさま。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 23:59:13
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 称徳問題も潮時? Comments:  輔住様、お返事ありがとうございました。 後でも述べますように、多少違和感は残っているのですが、 ご見解としては、筋がとおっていると存じます。  さっちー様、ご意見ありがとうございます。 私財法・道鏡および万世一系に関してはその通りだと思います。 最後のほうはあれれ?という雰囲気になってきましたが、 輔住様やおそらく安部様と同様に、藤原氏は今度は慎重になって 手を汚すのをやめ、称徳は見殺し(実質処刑あるいは都合よく自然死) という線に落ち着いてこられたのでしょうか? 道真犯人説、非常に面白かったのですが・・・。  いずれにせよ、道真も称徳を(病死にせよ暗殺にせよ)見殺しに したことは、共通認識としていいのでしょうか? 最後に引っかかっているのは(もとに戻ったのかもしれませんが) 称徳がなぜ後継を遺言として残さなかったのかということです。 病気によって死を予感したならば、あれほど後継者にこだわったの ですから、少なくともセカンド(ワースト?)ベストとして候補者を 挙げたはずだと思います(それで殺害を今もって疑っているのですが)。 もちろん、都合よく自然死、あるいは藤原氏・道真共謀による 握り潰しなど、可能性はいくらでもありますし、意志の強い人は (手塚治虫氏のように)自分が最期まで死ぬことが信じられないことも ありますので、あくまでも想像でしかありませんが。  道真は文室浄三あるいは大市(以前長屋王の子といいましたが、 長親王の子の誤りでした)を候補にしていたらしいですが、 称徳は承知しませんでした。失望した道真と藤原氏が組めば暗殺など たやすいことでしょう。それほどリスクはないようにもおもえます。 (これは、さっちー様のご意見によって気がついたことです。) でも実際には手を下すまでもなかったのかもしれませんね・・・。  で、しつこいようですが、井上内親王にはどうも引っかかります。 小生自身はこう思っていました:  内親王は上記の共謀については蚊帳の外だった。しかし、光仁や桓武は  当然知っていた。知っているもの同士の会話によって内親王は称徳が  殺害(あるいは見殺しでも可)されたこと(おそらく首謀者は藤原氏)を知って、  大逆であることを公にしようとした。そこで、藤原氏は急遽呪詛をでっち上げて  封じ込めを行った。 その後、誰も内親王を救おうとした動きが全くありません。もし、天武派を 納得させるための皇后・皇太子決定だったならば、ここで黙っているのは 変です。道真の権力の衰えをまっていたということでしょうが、その程度で 押え込めるならば、わざわざ皇后・皇太子を立てるまでもないのでは? やはり不測の事態が生じて、降ろしにかかったと見るのが自然に思います。 それは、小生が描いているような原因ではないかもしれませんが。  ところで一通り意見を述べ尽くしたと思いますし、称徳暗殺は結局小生 一人の説になってしまいましたので、そろそろ称徳問題も潮時かなと 思っています。ina様は、もう待ちくたびれて興味が失せたかも しれませんが、話題を桓武にシフトしてはどうでしょうか。 Time : 1999/ 3/10(水) 10:24:58
Name : ina E-mail : Title : やはり怨霊? Comments: 逆説の日本史 10 大阪JF生さん、さっちーさん、みなさん、 こんにちは 怨霊信仰の成立時期 大阪JF生さんへ  いつも気を使っていただいてすみません。 パソコンが少し調子が悪くて。 ところで、最近の議論はすばらしいんじゃないかと思いますね。 井沢史観は怨霊史観ということで、宗教の話をあいまいにしていてはいつまでも かみ合わないですしね。ここらでかなり話したこともよかったと思います。 さっちーさんへ 多分、、、古事記は読む機会はないと思いますので、さっちーさんにもお礼を申し 上げたいと思います。  ところで、去年、オペラで、オルフェオとエウリディーテェを見ました。オペ ラはなんとなく華やかさがなく、演出も好きではなかったのですが。 この話はまさに、妻の死を悲しんだ夫が霊界に迎えに行く話ですよね。  ところで、意見です。 「理由は類型神話にあたると思うからです。類型神話とは、他の国、民族の神話 にも似たような話がある事をいいます。つまり、古代人の知恵と モラルを現したものであるからです。これは縄文、弥生時代のうちに世界中から 少しづつつたわった、また伝えたものだと推測されます。」  類型神話は、私は伝わってきた、というより、人類共通の深層意識からきた、 というか、心理的な現象か、と捉えていたのですが、いかがでしょうか。つまり、 それぞれの地域で同じ神話が発生した、そのもとは、深層意識に求めることがで きる、という。   皆さんへ、 桓武天皇に急ぐわけではないのですが、日本の怨霊信仰の成立をいつ頃、と思わ れますか。理由も教えていただけたら幸いです。  私は、前にも述べましたが、怨霊という考えが、古代、災害や、天災、敗戦な どの責任をとって、殺される運命にあった、支配階級が、excuseとして持ち出 した、という考えで、むしろ、史料に残すのをはばかる理由はない、ということ から、史料通り、に桓武天皇のころ、と、考えています。   Time : 1999/ 3/10(水) 14:13:01
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  四拍手の問題、教えてもらえてよかったですね。 ところで、ノムさんの予想通りの展開になって、 宗教でもりあがってるわけですが、RUGOMA さんにもご教示いただいたごとく、私など、現代的感覚に どっぷり浸っているのかもしれません。  仏教のことがでたので思ったのですが、この問 題を難しくしているひとつの点は宗教も変貌してい るからではないでしょうか。例えば、釈迦の当時の 仏教と、現在の仏教はかけはなれているようですし。  とふと思いました。それで、井沢先生の紹介されて いた、道鏡の破戒はありえないという説にとても感激し てしまったということなのですが。 Time : 1999/ 3/10(水) 14:28:57
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: こんにちわ。怨霊の起源はさっちーさんのいう通り 古代の神だと思うようになってきました。しかし、 「信仰」という形に整えられたのはやはり貴方のい う通り平安期だと考えています。古代の怨霊はけっ して人には鎮められなかっただけなのです。(理論 、方法として) Time : 1999/ 3/10(水) 17:05:02
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ 2 Comments: それと質問があるのですが・・・。よくつかわれる 「excuse」と「エントロピー」という言葉の意味が よくわかりません。辞書では「勘弁する」するとあ りましたが、どういう意味で使われているのでしょ うか?申し訳ありませんが教えて下さい。 お願いします。 Time : 1999/ 3/10(水) 17:47:15
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ 3 Comments: 僕の見解としては、「神話」は伝播したしたものだ と思います。そうでないと何千年も前の「やじり」 の石(アジアでしかとれない石)が、ヨーロッパや アメリカ大陸の化石から発見される事はないと思い ます。やはり古代人は海を渡り、山を越え、移動し ていったと思います。 Time : 1999/ 3/10(水) 19:36:08
Name : ノム E-mail : Title : 間違えました。 Comments: 下の投稿で「化石」と書いたのは「遺跡」の間違い でした。 Time : 1999/ 3/10(水) 19:38:16
Name : きんたろう E-mail : Title : 十戒 Comments: 一神教の原点はユダヤ教だと思いますが、ユダヤ人もモーゼ以前は多神教でした。 モーゼは十戒の映画でも有名ですが、紀元前14世紀にエジプトから脱出した時 に神の啓示を受けたと言われています。 ですからユダヤ教はモーゼの強烈な意志が生み出したものと言えるのかも知れま せん。(?) その後ユダヤ人の国はイスラエル王国とユダ王国とに分離し、どちらも滅ぼされて しまいました。 そしてあの有名なバビロン捕囚の後ユダヤ教の教団が成立したということです。 恐らくユダヤ人内においてもモーゼの説は賛否両論があったのだと思います。 そして民族の滅亡の危機に瀕した時、民族としての生き残ろうとする意志が 働いたような気がします。 選民思想というのは例えて言えば朱子学のようなもので、一種の負け犬の遠吠えに 似ていると思うのですが、ある思想が誕生した原因はともかくそれが後世に普及 するという事は別におかしい事ではないと思います。 確かにエジプトを脱出するときに神の奇跡が行われたのです。 Time : 1999/ 3/10(水) 22:26:40
Name : さっちー E-mail : Title : そろそろ本題にもどりましょうか? Comments: みなさんこん@@は、神話の紹介も一段落しましたので、そろそろ「怨霊」の話に 戻りたいと思います。 さて、長々と寄り道してしまいましたが、何故「荒ぶる神」が「怨霊」の起源であ るのかを整理してみます。 1.どちらも天変地異、疫病の流行を示すものである。 2.皇祖神の直系以外の神は天皇家に滅ぼされたか、臣従した氏族の祖神である 3.「じさい」と呼ばれるような人身御供の変わりに、敵対する氏族のまつる神を 天変地異やえき病の根元として退治するという思考がはじまった 4.「死」「死後の世界」への恐怖 以上は「古事記」の内容から推測できるものとアニミズムという観点から考え得る 平安以前までの「荒ぶる神」と「怨霊」の一致点です。 この段階では、「怨霊」はまだ人々にとって「神の仕業」であり、とても調伏でき うるものではなく、むしろ関わり合いたくないものであります。 しかし、遣唐使などにより、積極的に先進国「唐」の医療対策や科学としての仏教 儒教の導入がすすめられたため「荒ぶる神」との対決の方法がだんだんとつかめて きたのだと思います。このような流れの中で「荒ぶる神」は降魔、調伏できうる「 怨霊」に変化していったのです。「荒ぶる神」ではただ祭り、祈るしかできません ので改めて信仰が流行するとは思えませんが、「怨霊」ならば唐仕込みの数々の呪 法、先進医療で対抗できるのです。これによって「怨霊」は新しい「信仰」となっ て広がっていったのです。 つまり、平安以前は「荒ぶる神」として認識されていた天変地異や疫病が、遣唐使 のもたらす先進文化によって「怨霊」と認識しなおされたのです。 こう考えれば、「怨霊信仰」をはやらせられる土壌はすでに民衆や貴族の中に存在 していたといえるのではないでしょうか? inaさん、「古事記の紹介」に対するコメントありがとうございます。 類型神話は古代人の深層意識から芽生えたもので、長い時間をかけて伝播したもの ではないとお考えですか?確かに、単純な「日神」「月神」への信仰や、部族の掟 などを記したものに関してはそうかもしれません。ではその深層意識とはどこです りこまれたものなんでしょう?すりこまれたという事はどこかで見聞きしたという 事に他なりません。また太陽、月などに対するおそれや神格化に関しては自然発生 する可能性はあると思いますが、物語性までは別々に発生したものが似てくるなど という事はない、と思っています。しかもこの物語の伝承は古代の文物の流れる「 道」にそってひろまりを見せています。たとえば「シルクロード」のような「道」 です。またこの文物の流れのコースから離れると類型神話はそれ以上先にはないの です。こういった事象や人類の祖先はアフリカで発生したという最近の学説を考慮 にいれればやはり類型神話は伝播したと考えるべきだと思います。 怨霊信仰を貴族のexcuseとしてしかみないのなら貴方の言うとおり、桓武以 後の平安時代がそのはじまりでしょう。 相変わらず支離滅裂でしたどうもすいません。 Time : 1999/ 3/10(水) 23:18:33
Name : さっちー E-mail : Title : 称徳の政策は大和朝廷の貴族たちにはうけいれがたかった Comments: 桓武天皇にはいる前に、これだけは確認したかったのですがよろしいでしょうか? Time : 1999/ 3/10(水) 23:28:08
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と金色 Comments: みなさん、本題とは外れますが、またまた お邪魔します。Awajiです。 法隆寺救世観音も勿論そうですが、多くの仏像は金色に輝いていますね。 現在は金色がはがれて地肌になったり、黒光りしている多くの仏像にも微 かに金色の痕跡が残っているのは、ご承知のとおりです。 東大寺大仏建立に当たっても、黄金の調達に苦しみ、陸奥産金の知らせに 「聖武」は狂喜しています。 何故これほど金色に拘ったのか? 勿論、単なるキンキラ趣味に基づくものでは有りません。これも一種の「 儀軌」によるものなのです。 「大智度論」という仏典によれば、如来には三十二の身体的特徴があると されています。所謂「如来三十二相」と言われるものです。 その中に「金色相」という部分があり、これによって如来、或いは如来に なるべき菩薩は、金色の肌で表す必要があったのです。 その他にも「真青眼相」「毛上向相」「正立手摩膝相」等があり、手が不 自然に長すぎるのもこのためです。 青い目、金色の肌、巻毛・・・とくると白色人種を思わせますが、この理 由についても諸説があります。 実際にお釈迦さんは白色人種であった?本来禁止されていた仏像の制作が ギリシャ系人(ガンダーラ)によって開始された?単に理想的肉体を描い たものだ?等々ですがよくわかりません。 ところが、仏像を金色にするためには、主として二つの方法があります。 一つは石仏・木仏等に用いられたもので、下漆に金箔を貼り付ける方法。 もう一つは金銅仏に用いられたもので、水銀アマルガムで蒸着させる方法 です。 後者は非常に危険な方法で、水銀中毒或いは水銀汚染を、もたらしかねな いものです。 東大寺大仏等は、あれだけの規模ですから平城京北東部が水銀で汚染され た可能性を指摘する意見もあるようです。 常に金銅仏を持仏としていた皇族・貴族と水銀中毒の関係、平城京を捨て ようとした「聖武」の遷都の動き、「恒武」の遷都の決意に水銀汚染(廃 水汚染も有り得ます)問題もあったのか? 金銅仏(天平期以降急激に衰微します)と遷都にも意外な関係があるのか も知れませんね。 なお、仏教が一神教か、多神教かと言う議論があったように思いますが、 後世インド土俗宗教の影響(タントライズム=密教)により、一見多神教 であるかのような様相を呈するものの、飽くまで基本は人間が解脱するこ とにより仏になることにあり、その意味では無神論に近いものだと思いま す。(釈迦・薬師・阿弥陀・大日如来といえども元は凡夫であり、先師で あるに過ぎません) 我が国においても禅宗(特に道元)はこの原理を徹底して説いていると思 います。 「仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍 もあり。痴もあり。然れども皆 改めて知識に従い、教行に依りしかば、 皆仏祖と成りしなり。」 Time : 1999/ 3/10(水) 23:29:16
Name : きんたろう E-mail : Title : 十戒2 Comments: モーゼの出エジプトにおいては、奴隷のユダヤ人が脱出することが 出来たこと事態が「奇跡」だったと思います。 その時、例えば日蝕のような事態があって引き潮(それもかなり大きな) が実際に起きたのかも知れません。 もしそのようなことがタイミングよく起これば、これは3500年前の人々 にとってみれは「奇跡」そのものだったと思います。 でも「奇跡」を目の当たりにしてもモーゼの説が圧倒的多数に支持された訳では なかったようですから、案外科学的な知識は豊富だったのかも知れませんね。 Time : 1999/ 3/11(木) 00:22:57
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ 4 Comments: こんにちわ。パソコンの調子が悪いというのは、ど こか壊れたのですか?ノートは故障しやすいと聞い たのですが、本当ですか?ノートを使われている方 がおられましたら教えていただけませんか? Time : 1999/ 3/11(木) 12:58:25
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 皆様お久しぶりです Comments: 旅行と、頭を整理していたので、しばらくこちらから遠ざかっていました。 宇津木さん、奥様とお子様のご健康を心からお祈りします。 実は私自身も流れかかった経験がありまして、もちろん記憶はないですが(当たり前です)、 流れぞこないにしてはよく育ったと親に言われます。 これから勉強が忙しくなるのでしょっちゅうはこられなくなるのですが、 時々書かせて下さい。 今日は原稿を忘れてしまったのですけれども、そのうち「続日本紀」の信頼性を崩す文 を書くつもりです。桓武天皇は情報を隠そうとする傾向があります。藤原不比等は情報を 創作しましたけれどもね。桓武天皇は消極的な手段で歴史を書き換えた疑いがあります。 秋篠寺が西大寺の中に建立されたというのは、西大寺が秋篠寺の寺領を取り込もうとし た時に地図が書きかえられたからだという説があります。 秋篠寺は、井上内親王鎮魂の寺社の系列とは一線を画しています。これも後で書きます。 秋篠寺の周囲はどんどん判明するのです、しかし肝心の秋篠寺がさっぱり見えてこない のです。とにかく秋篠寺は情報が少ないです。しかし、秋篠寺を取り巻く人物は桓武天皇 の影とも言える人々で、やはりただの寺ではないと思います。 お勧めの本から私が受けたものが何なのかは、秋篠寺が終わったら書きます。 日本神話に私が抱いている感想を言いますと、天つ神による国つ神の飼い慣らしです。 その総仕上げが日本書紀で、その下書きが古事記です。 柿本人麻呂は、初めは古事記制作に協力しますが、やがて藤原不比等の真意を見抜いて 反旗を翻します。万葉集は、国つ神の最後の抵抗及び悲鳴ではないかと思っています。 大伴家持がそれに政治的敗者の悲鳴を加えます。 平城天皇は、歌の芸術的な価値と大伴家持の意図に共鳴したでしょうが、柿本人麻呂の 意図までは思い至らなかっただろうと思います。 梅原先生を突き動かしているのは、万葉集ではないかと私は思います。梅原先生は、学 徒出陣の時、万葉集だけは戦場まで持っていった方です。 Time : 1999/ 3/11(木) 16:52:31
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 聖書を読んだ感想 Comments: スエズ地峡に、何時間も大風が吹き続けると、 紅海から水がひいていく現象が起こり得ると、 新聞に書いてありました。 聖書は、骨を折って動けなくて暇でしょうがない 時に読みました。 私が一番衝撃を受けたのは「申命記」です。 あれを読んで、私たちとは生きている世界が違う と思いました。旧約聖書には「あの世」という言葉 は一度も出てきません。 新約聖書にもほとんど出てきません。 キリストは、この世とは別のあの世があるというよう なことは一言も言っていません。 聖書は、気休めが一切ない読んでいて苦しくなる本 でした。聖書とくに旧約は、現実をこれでもかこれで もかと見せ付ける本です。 イザヤ書は好きですが、エレミヤにはついていけな いと思いました。 Time : 1999/ 3/11(木) 17:04:28
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 旅行の話 Comments: 四国に行ってきました。 こんぴらさんと松山と伊予大洲です。 金毘羅神宮の奥の院は見晴らしは良かったですが、疲れました。 讃岐はぼた餅みたいな山が多いと思いました。 松山で、チンチン電車に初めて乗りました。 道後温泉には、歌碑が沢山ありました、さすが文学の町です。 伊予大洲は、穴場です。 城跡も風情がありましたし、おはなはん通りには 明治の古い民家が並んでいました。 シーボルトイネが住んでいた街で、「花神」の舞台でもあります 一番感動したのは、臥竜荘という山荘です。 とにかく、美しかったです。 Time : 1999/ 3/11(木) 17:41:04
Name : さっちー E-mail : Title : なぜ? Comments: なぜ なぜ なーぜ どうしてなの?というのはさておき、安部さん、はじめまして あなたの留守中に参加させていただきました「勇者ロト」ことさっちーです。よろ しくお願いします。 不躾な質問なんですが、安部さんは、なぜ「怨霊信仰」は平安以前の歴史資料から 隠されたとお思いですか?また、なぜ桓武以後は歴史の表舞台にでてきたとお思い になりますか? できたら無視せず、お答え頂きたいのですが、お願い致します。 Time : 1999/ 3/11(木) 21:24:03
Name : きんたろう E-mail : Title : たたら Comments: こんばんは。 安部さん久しぶりです。 遊びに来てくれてありがとうございます この後もう一度追加を書きますので見に来て下さい。 金比羅山の階段は何段でしたっけ?。 景色がよかったという記憶しかないのですが、うどん屋が多い所ですよね。 (さすが本場です!) さっちーさん、具合はいかがですか。 出雲王朝のイメージは例えて言うならば尼子氏といったところでしょうか。 そして吉備王国は毛利氏かなと思います。 (吉備王朝については安部さんが詳しいので補足をお願いします) 出雲王朝は大和朝廷より最高の位である「臣」をうけています。 これは出雲の勢力がかなり大きかったことの証明になるのではないかと 思っています。 神話を自分なりに解釈すると大国主は案外あっさり降参したような気がします。 しかし、彼の息子達は最後まで戦い抜きました。 義経の逃亡記、または太平記のように今の新潟から諏訪まで逃れてきて果てました。 (尼子十勇士の鹿之助にイメージがダブってきます) その時、大和側の大将が茨城県鹿島出身者だったことは間違いがないと思っています。 茨城県の鹿島には鹿島神宮という有名な?神社があります。 そして大化改新の昔から「鹿島立ち」という有名な言葉がありました。 これは当時辺境のこの地においては異例のことだと思います。 現在鹿島は住友のコンビナートが立ち並んでいますが、実際ここは 鉄の産地だったのです。 (コンビナートの立ち並ぶその地が1000年以上も前に製鉄の煙が上っていた!!) 豪族達が割拠するなか、有力な地位を占めるためにはどんな要因が必要なのでしょうか。 生産性が高い肥沃な耕地があることや、天災が少ない自然環境に恵まれていることは 尤もなことですが、当時においては鉄の産地と言うことが一番大きな要因を占めていた のではないでしょうか。 青銅の剣が主流の時代に鉄製の剣を装備した軍隊は無敵とも言えると思います。 だから鹿島は最新の武器の産地として大和朝廷からも重視されたのではないでしょうか。 (当然敵にまわせば強敵となることは必至だったので大和朝廷は懐柔策を採った) その様な訳で大和の傘下に入ってもかなり重要な地位を占めることが出来たような気がします。 ちなみに大化改新の立役者の一人として中臣鎌足は有名ですが、彼は鹿島の出身者です。 あの当時、辺境出身者が重要なポストにあることなど普通では考えられないことだと思います のでこれは証明の一事例になるのではないかと思います。 出雲についてまず思ったのは「もののけ姫」の故郷だという事です。 あの中で製鉄のシーンがありましたが、出雲王朝もまた鹿島と同様に 鉄の産地だったからこそ、強力な軍事力を備えることが出来たのでは ないでしょうか。 それは当然の事ながら鹿島とは比較にならないほど大和にとっては驚異だったという 事を意味します。 Time : 1999/ 3/11(木) 22:11:20
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 疑自中華 Comments: 「逆説の日本史」を先取りしてみては、という話がありましたので、以前の投稿ですが もう一度書き込みます。話の糸口にでもなればいいなと思います。 以下述べることは、山本七平さんの尊王思想の研究を私なりにまとめたものです。完全 な私自身の考えも混じっています。でも、決して山本七平さんの考えそのものなどと取ら ないで下さい、私というフィルターを通しています。 7,8世紀、日本が初めて民族規模の国家を造るに当たって、中国の思想と機構を丸ごと 取り入れる方法を取りました。ここまでは、新羅や越(ヴェトナム)と同じです。しかし、 日本は柵封国として中華文明のシステムに収まる途を行かないで、日本自ら「中華」とな る途を選びました。皇帝である天皇が日本を治め、朝鮮、隼人、蝦夷が朝貢する、これが、 古代日本人の無邪気な世界観でした。この世界観は、公家と民間で残ります。武士は、現 実的な世界観を持っていましたが、それは常に「国辱外交」として、非難の対象になりま した。 17世紀になって、漢民族の王朝の明が滅びて、女真族の王朝の清が中国を征服します。 多くの漢人が日本に亡命します。漢人の儒者達は、「女真族が治めている中国は中華では ない」としました。この儒者達の教えを受けて、江戸時代の儒学は始まります。やがて、 朱子学の正統論が屈折した格好で日本で結実し、「有史以来王朝が交代したことが無い日 本こそが中華である」という尊皇思想が生まれます。これは必然的に、天皇陛下から実権 を奪った幕府を倒せと発展する。これが、討幕の理論的根拠です。 要するに、明治維新は、そのvery beginningにおいて、日本を中華本来の姿に戻す「中 国化革命」でした。因みに、「尊皇攘夷」の「攘夷」には、京都から見た徳川家の意味が 含まれています。西欧列強は、本来は「南蛮」か「西戎」です。中国化革命、勤皇思想を 受け継ぐものが、天皇親政アナーキストです。この思想は、今も日本人の心に残っていま す。 日本国内で「中華ごっこ」をする分には罪がないですが、外国(主に中国と朝鮮)と日 本人が交渉を持つ段になると、疑自中華は危機に立ちます。中華が2つある筈ないのです から、中国と朝鮮は日本を中華として扱ってくれない。それどころか、日本の意図すら理 解できません(豊臣秀吉と明の交渉ががいい例です)。ではどうしたのか?公家は現実逃 避することにした。室町時代以降は、彼等は実権を持たなかったのですから、それもまあ いいでしょう。擬自中華に基づく文化的権威だけが公家支えていたのですから、公家は現 実を直視する訳にはいかない。 では、武士はどうしたかというと、将軍が日本国王・大君として中国に朝貢し(徳川氏 は中国と通商はしたが国交は持たなかった)、朝鮮国王と対等に付き合う形を取った。朝 貢は「土下座外交」であり(もしも本当に中国の宮廷に日本国王が行ったら、三コ九礼し なければならない)国辱外交として知識人からは常に糾弾された。対等な家関係を認めな い中国人が悪い気がするが、東アジアには国家を治める思想は儒教しかなかったのだから しょうがない。しかし、明治維新は幕府というクッションをなくし、擬自中華はむき出 しになった。 征韓論の際の朝鮮外交は政変臭を覆い隠すために創作された部分が多いです。しかし、 日本を中華として遇さない朝鮮に対して、日本人の感情は激発します。そして、日本がア ジアに侵出するに従って、その線で、征韓論は粉飾されるのです。 擬自中華と化城(「逆説の日本史第6巻」参照)が結びついた時に何が起こるのか? 日本は中華なのだから、軍閥に簒奪された中国を統治すべきであるという考え(妄想)で す。 中華はこの世に一つしかいらないのだから、インチキ中華(本当は日本こそインチキ中 華なのですが)を打倒しなければならないのです。ここで、日本人の中国観は尊敬から侮 蔑に180度転換します。おそらく、日清戦争に勝って中国恐るに足らずとなり、日露戦 争に勝って日本は中国などのアジア人よりも上等な欧米列強人という新人類にでもなった つもりだったのでしょう。そして、精神的には、西洋人よりも勝ると信じていました。日 本人の中国人蔑視はここに始まります。柵封国の朝鮮はもっと蔑視して良いことになりま す。西洋思想と中華思想のグロテスクな結合がここに生まれます。 昭和12年(1937)10月から、トラウトマン駐支独大使の斡旋による日中和平交渉が始 まります。ナチスドイツは、日本と中国の和解と、両国とソ連の緊張を望んでいました(シ ベリアに赤軍を引き付けるため)。12月2日、中国政府(蒋介石)は日本案を受諾(無条 件降伏に近いです)、日中戦争は終結するはずでした。 然るに、日本軍は軍事行動を止めるどころか首都南京に侵攻しました。中国政府は日本 政府の要求を全て受け入れたのに何故?世界中が首をひねり日本に対して「理解不能」と 怯えました。更に、近衛文麿は「重慶政府(蒋介石)を相手とせず」と、意味不明な宣言 をして、和平の可能性を無にしました。これは、擬似中華のなせるわざです。日中戦争は、 インチキ中華から中国人を救うための解放戦争でした。和平は相手の存在を認めることで す。かつて、レバノンの大統領が、「敵の参加する和平会談になんか出席できるものか」 と言ったそうです。このように、和平は解放戦争の名にそぐわない、従って日本と中国の 間に和平はありえない。 石井さんが「ふぉーらむ」で書いていた、「日本人はまともな戦争が出来ない」という のは、中華思想にも一因があります。中華思想は、対等な国家関係を認めませんで、文明 に上下関係を作ってしまいます(「恨の法廷」参照)。 中華を治める皇帝は、北狄、南蛮、東夷、西戎を征伐しその迷妄から救った。中華たる 日本も宜しく大東亜を帝国主義から解放すべきである…という方向に進むのは時間の問題だった。 Time : 1999/ 3/12(金) 10:25:03
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(11)・・・「続日本紀」撰定 Comments: 「続日本紀」は藤原朝臣継縄の指揮のもとに、秋篠朝臣安人、菅野朝臣真道、中科朝臣、 中科巨都雄によって撰定された。 藤原継縄は、藤原仲麻呂の兄の豊成の次男である。重職を歴任し、安殿親王が立太子す ると、東宮傳に任ぜられ、安殿親王御元服のおりには手づから冠を加えている。「続日本 紀」の撰定の総指揮を行い、延暦13(794)には別邸のあった山背国葛野への遷都を建議、 つまり自分の所有地に平安京を誘致している。その経歴から、桓武天皇が最も信頼した腹 心であったことが分かる。 藤原継縄は桓武天皇が最も信頼した腹心、秋篠安人も桓武天皇に信頼されて異例の出世 を遂げ、高野新笠は秋篠氏と同族の土師氏の大枝氏(大江氏)であり、秋篠安人は桓武天 皇の外戚に当たる。菅原氏も土師氏である。菅野真道と中科巨都雄は、百済系渡来氏族の 津氏であり、やはり高野新笠を通じて桓武天皇の外戚に当たる。桓武天皇は最も信頼でき るスタッフに「続日本紀」選定を任せたのだろう。藤原継縄以外の3人は学者でもある。 菅野真道も桓武天皇に重用されている。藤原継縄が東宮傳のときに東宮学士と皇太子学 士を勤めている。延暦24年(805)1月には、秋篠安人と同時に参議に任ぜられている。 彼は実力もあったことを思わせる記録もある。 中科巨都雄は政治の世界で活躍した形跡がない。学者を専業としていたらしい。 「続日本紀」と後半部は延暦15(796)に撰修奏上し終わっていて、藤原継縄は見届け るようにしてその年の7月に薨去する。 このように、「続日本紀」は、翌延暦16年に完成したとされている。しかし実は、前半 部に関しては撰修案こそあれ、語が細かくてわずらわしかったり、疎漏だったりした上に、 天平宝字元年(757)の記述が欠けていた。 天平宝字元年とはどういう年だったかというと、橘諸兄が没し、養老律令が施行され、 橘奈良麻呂の乱によって橘氏と大伴氏が弾圧されて、藤原豊成とその長男乙麻呂(継縄は 次男)が失脚して、藤原仲麻呂の主導権が確立した年である。藤原継縄には書けないこと が行われたのであろうか。他の藤原氏に対する遠慮か、あるいは継縄が父と兄を売ったの か。 このように前半が不完全だったにもかかわらず、延暦16(797)2月に、「続日本紀」完 成の功により、秋篠安人、菅野真道、中科巨都雄の3人は昇叙されている。 その後前半部を中科巨都雄が中心になって7年間かけて20巻にまとめ上げて「続日本 紀」撰定はようやく終了した。 このことから、桓武天皇が興味を持っていたのは後半部だったことが分かる。実際前半 部は記述が少なく、後半部は記述が多い。藤原継縄と秋篠安人と菅野真道は後半部を作る 命を受けたのだろう、延暦16年以降秋篠安人と菅野真道は政界で活躍しているので、「続 日本紀」撰定にはタッチしていないらしい。前半部は、本職の学者である中科巨都雄がじ っくりと選定したのだろう。 おそらく桓武天皇が「続日本紀」を撰定した目的は、称徳天皇から光仁天皇への皇位移 譲のの正当化であろう。これは、暗殺、易姓革命に関わらず、充分考えられることである。 さて称徳天皇大葬の総責任者は藤原魚名と藤原継縄であった。藤原魚名一族は延暦元年 (782)6.14に左遷されている。理由は「事に罪して」であり、左大臣正二位兼太宰帥を 左遷する理由としてよく分からない。そして、翌年7.25に薨去していて、5日後の7.30 に本官に復され、前年6.14の詔勅官符を焼却せよとある。よく分からない事件である。 桓武天皇は自分に都合の悪い記録を消そうとする悪い癖がある。早良親王廃太子のこと は「続日本紀」には匂わすようにしか記録されていない。また桓武天皇は朝廷にあった朝 鮮関係の記録を破棄している。藤原魚名左遷にはちゃんとした理由があるのかもしれない けれども、このようにして分からない。 従って、称徳天皇大葬の総責任者は、延暦年間には藤原継縄1人だけしかいなくなって いた。この事は、称徳天皇の大葬に関しては、藤原継縄の書きたいように書けたことを意 味する。まさか虚偽を書くことは出来なかっただろうけれども、要所をぼかすことぐらい は出来ただろう。 秋篠安人は「続日本紀」撰定よりも前、延暦8(789)9月に大納言藤原継縄にしたがっ て、征東将軍紀朝臣古佐美の敗軍を責めている。この2人は以前から関係がある。 「続日本紀」は中立公正な歴史書ではなく、桓武天皇の意思が反映されていると疑って いい。 Time : 1999/ 3/12(金) 11:37:22
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 雑説 Comments: 大和の国宇智郡にある八所御霊神社に祭られている 八所御霊の1柱である火雷命は、井上内親王の娘と されています。もちろん伝説ですけれども。何故こうい う伝説が生まれたかは考慮に値します。 平安時代から怨霊信仰が公式に記録されるようになった 原因ですか、思いもよりませんでした。 ただ、「続日本紀」では井上内親王や早良親王を鎮魂 する記事はありますけれども、怨霊とはいっていません。 八所御霊として、井上内親王と早良親王が名前明記で 怨霊とされたのは平安時代が下ってからだと思います。 つまり、恥も外聞も捨てて怨霊を権力者がおおっぴらに 祭るようになるのは、天神様以降ではないかと思います。 それまでは、崇峻天皇、上宮王家、柿本人麻呂、長屋王も 井上内親王、早良親王も同じ方法で祭られていたのでは ないかと思います。 平安時代から怨霊信仰が公式になるというのは、もしか したら学者のあまり根拠のない先入観かもしれません。 Time : 1999/ 3/12(金) 11:57:32
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊鎮魂は恥? Comments: みなさん、こんにちわ。あべさんこんにちわ。 ということは貴族たちの間には怨霊を鎮魂すること は恥と思っていたんでしょうか? Time : 1999/ 3/12(金) 14:01:01
Name : A E-mail : Title : 安部さん、はじめまして Comments: 安部さんへ <平安時代から怨霊信仰が公式になるというのは、 もしかしたら学者のあまり根拠のない先入観かも しれません。>の部分、どういう意味でおっしゃっ てるのでしょう?  根拠がない、と考える根拠を示してください。 Time : 1999/ 3/12(金) 14:48:10
Name : A E-mail : Title : 安部さん Comments:  疑自中華って何ですか?  擬似中華じゃないんですか? Time : 1999/ 3/12(金) 14:53:03
Name : ノム E-mail : Title : 公式 Comments: 怨霊信仰は平安時代から公式になったのですか? どなたか本当かどうか教えて下さい。 お願いします。 Time : 1999/ 3/12(金) 16:20:00
Name : 山村貞子 E-mail : Title : Aさんへ Comments: 「疑自中華」とは「みずからをちゅうかにぎす」 という意味の彼が造った新造語じゃないかしら? Time : 1999/ 3/12(金) 16:57:08
Name : 山村貞子 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: 「公式」というのは、一般で使う政府の公認した物という意味じゃないと、思うの。 良く考えてみて。だって怨霊はまず個人をたたるのよ。 ここでの意味は祟られた事を隠さなくなったとみるべきよ。 Time : 1999/ 3/12(金) 18:26:40
Name : さっちー E-mail : Title : 鎮魂だったのですね。 Comments: みなさんこん@@は、安部さん「雑説」が私の質問への答えとうけとってよろしい ですか?手間をとらせてすいませんでした。 「怨霊」として認識された最初は菅原道真で、同じように鎮魂されたであろう例を 溯ればす峻天皇がその原形?であろう。と理解してよろしいですか? もし違うのなら、ご指摘下さい。 Time : 1999/ 3/12(金) 22:25:34
Name : さっちー E-mail : Title : もしかして・・・・・ Comments: 下の書き込みされている方、もしかしてそのお名前は「リング」にでてくる怨霊 からとられたのですか?本名ではないですよねぇ? Time : 1999/ 3/12(金) 22:29:25
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と宝珠 Comments: 難しい議論が続いているようですが、ノホホンと救世観音のAwajiです。 梅原先生の宝珠に関する解釈は、次のとおりです。 「この持物はふつう宝珠と考えられているが、明らかに宝珠ではない。そ れは、すでにわれわれが法隆寺の至るところで見てきた舎利瓶の形である。 蓮台にのった舎利瓶、しかもその背後にはめらめらと火焔が燃えている。 そして救世観音がこの瓶を持つ手の形もまた妙である。あまりもちたくな いものをもっているようでもある。・・・・・・・ 炎々と燃える火焔の中に、聖徳太子は亡霊の如く立っている。放心したよ うに眼を空しく開け、体からは不思議に生々しい生気を漂わせて、舎利瓶 を、おそらくは自分の息子たちの舎利瓶をもって、そこに立っているので ある。・・・・・・ 哀れな太子よ、あなたの子孫を殺した者の子孫は、あなたを、かってあな たが住んでいた宮殿の跡に立たせて、この地で惨殺されたあなたの子孫た ちの骨をあなたにいだかせたのだ。あたかも、あなたがあなたの子孫たち を葬り、彼らの不幸な霊を慰めねばならぬかのように。怒れ、太子よ。 あなたの子孫を全滅させたのは彼らだ。・・・・」 かって、この文章を読んだ、我が家の奥方は一言。 「梅原さんは自己陶酔が激し過ぎるね。こんなんでは冷静に歴史なんか見 られへんのとチャウ?」・・・・でした。 まず、 1.この観音像は天平仏か、飛鳥仏か? 2.これは舎利瓶か、宝珠か? 3.舎利瓶とすれば仏舎利か、山背王達の骨瓶か? 4.手の形は何を意味するか?持ちたくないものを持っているようか? 5.火焔は何を意味するか? 等を冷静に分析すべきでしょう。 1.擬古作と言われれば、それまでですが、宝珠型光背・赤楠材・杏仁目 ・アルカイックスマイル・細面鼻高・正面観照性・不完全な背刳等は 明らかに白鳳仏以前の特徴を備えています。 2.確かに舎利瓶と見れば舎利瓶。宝珠と見れば宝珠です。他の小金銅仏 の持つ宝珠はこれよりはるかに小さいので、形状は分かりませんが、 少なくとも宝珠を持つ観音像が存在する以上、舎利瓶と決め付けるの は無理があります。 3.火葬の慣習が天平以降のものであることから、山背王の骨瓶と言う見 方には無理があるでしょう。敢えて舎利瓶とするならば、仏舎利であ ると見るのが妥当だと思います。 4.手の形は主観的なものですから、何とも言えないのですが、宝珠の全 体像を示すため、不自然な形をとったとも見えます。小金銅仏の場合 は、このような微妙な手の形は表現できないので、両手で上下を包み 込むような形になっています。 5.火焔に付いては、既に申しあげたとおり、時代を超え仏像には付き物 とすら言えます。 ところで、飛鳥時代の宝珠と言えば、すぐに思い出すのは隋書の次の部分 です。 「 有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭有如意寶珠其色青大如 鷄卵夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以タイ爲大國多珎物並敬仰之恒通使徃來  大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽之不 悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞」 つまり鶏卵大の夜光性の「如意寶珠」が特記されています。これが実際に如 何なる物であったかは良く分かりませんが、仏像で如意寶珠と言えば如意輪 観音の持物を連想させるものです。Awajiには舎利瓶と言うよりこの記事の 「如意寶珠」との関係に想像が掻き立てられるのです。 Time : 1999/ 3/12(金) 22:54:07
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と数詞・・・ナンヤテ?? Comments: さっちーさん、こんにちは。Awajiですが、次のご質問はコメントが付き ましたか?(只今 ナイトスクープ終了です) >>「四」は「し」」と読むのと、「よ」「よん」と読むのとはどちらが日 >>本古来の読み方なんでしょう?ご存知の方がいらっしゃれば是非教えて >>くださいませ。 或いは重複しているかも知れませんが、以下のとおりだと思います。 和 語 呉音 漢音 麻雀? 一 ひ いち いつ い 二 ふ に りゃん(ある)・・両 三 み さん さん 四 よ し す 五 い ご う 六 む ろく りく る 七 な しち しつ ち 八 や はち はつ ぱ 九 こ きゅう く ちゅう 十 と じゅう 百 も ひゃく はく 千 ち せん 万 よろず まん ばん ところで、和語数詞には次の倍法則があると言われていますが本当かな? 1・・・FI 3・・・MI 4・・・YO 2・・・FU 6・・・MU 8・・・YA 5・・・(T)I 10・・TO これは? 7・・・NA 9・・・KO 救世観音と何のかんけいがあるんや? 色即是空 空即是色! ギャーテー・ギャーテー・ハラギャーテー・ハラソウギャーテー ボジソワカー Time : 1999/ 3/13(土) 00:30:04
Name : きんたろう E-mail : Title : 出雲の置きみやげ Comments: 出雲王朝は歴史の彼方に消え去りましたが、その痕跡はまだ私たちの何処かに 残っているはずです。 例えば神無月ですが、出雲ではこの月のことを神在り月(漢字については当て字 、未確認)というそうです。 日本語の音では「かみ」と発音する漢字は「神」「守」そして上下の「上」という 字があります。 そしてこの場合は支配者、非支配者という関係から考えると元々は「お上」「下々」 という上下関係の意味が最も多く含まれる漢字を使う事こそが正しいのではと思います。 おそらく大国主と呼ばれる王の配下であった武将達が全国各地の代官=大名として 派遣されてい多のではないかと思います。 そして彼らは税の徴収権を持っていたのでしょう。 収穫が終わった後、本拠地である出雲に税を納めに行ったのではないでしょうか。 だから毎年ボスが出張するその月は出雲以外の地域では「上=守=神」がいなかった ということだと思います。 Time : 1999/ 3/13(土) 12:33:11
Name : きんたろう E-mail : Title : 数え方 Comments: Awajiさんこんにちは。 初めまして。 沖縄に行ったときの事です。 沖縄の方言で数を数える言い方は、ひとつ、ふたーつといった言い方をしていました。 四は「し」とは言ってなかったような気がします。(記憶が曖昧です) Time : 1999/ 3/13(土) 12:40:16
Name : さっちー E-mail : Title : 死国 Comments: みなさんこん@@は、Awajiさん、数字の読み方を教えて頂いて感謝しており ます。ありがとうございました。 「四」に「死」のイメージがかぶさったのは、漢字の読み書きが十分に広まってか らの事のようですね。学生時代、「中国古典」関係の本をいろいろと読んだ時にも 特に「四」と「死」のイメージが重なるような事はなかったと思います。 とするとやはり「死拍手」は井沢先生の思い込みなんでしょうか。 私は出雲大社に何度かいった事があるのですが、怨霊を封じ込めるというより、 むしろかつての出雲地方の隆盛を偲ぶためのモニュメントという感じを受けました 本殿の奥には「スサノオ社」が後背の山を祭り鎮めるがごとくひっそりと建ってい ました。その山の裏手にはスサノオ本人?を祭る日御碕神社が日本海に寄り添うよ うにそびえていました。もちろんこういった神社の配置が何かを意味しているよう には感じませんでしたが、古代、あの辺りで起こったであろう「国譲り」のシーン を思い浮かべると、ただならぬ雰囲気はしました。 出雲の大国主は、天孫に自らの国を奪われた時なにを思ったのでしょう? また、彼に付き従っていた民衆は、支配者の交代をどういう風に感じたのだろう? 言代主は、なぜおとなしく国を明け渡すのをうけいれたのだろう? ここ数年、出雲の地では考古学上の大発見がつづき、かつての定説を覆しています 出雲にはヤマタイ国と大和朝廷を結ぶ鍵が潜んでいるような気がします。 Time : 1999/ 3/13(土) 22:13:38
Name : ♪ケロ恵♪ E-mail : Title : モルモン教会の欺瞞 Comments: こんにちは!! 元モルモン教徒のケロ恵と申します。 モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)の欺瞞を伝えるべく、 HPなどで反モルモン活動をしています。 なにかのおりにでも、お力になればと存じます。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~exmormon/youkoso.htm Time : 1999/ 3/14(日) 00:33:50
Name : 香山 E-mail : Title : ケロ恵さん Comments:  私は医者をやっているのですが、モルモン教といえば 輸血拒否です。  モルモン教のパンフレットで読む限り、理屈にはあっ ており、裁判所も強引な輸血には次第に批判的になって いますね。  しかし私のいる大病院の会議などでは、やはり命を救 うことが至上命令という考え方が大勢で、モルモンの立 場は笑止、という考えが目立ちました。特に熱心な医師 ほどそういう考えで、私には傲慢にさえ思えましたが、 この問題について少し教えてください。(欺瞞を暴く立 場で勿論結構です)。 Time : 1999/ 3/14(日) 01:41:25
Name : 元 斎藤由貴のおっかけ E-mail : Title : モルモン教とエホバの証人 Comments: はじめまして。モルモン教とエホバの証人は違うものなんでしょうか? どなたか教えて下さい。 由貴ちゃんはモルモン教徒らしいです。 Time : 1999/ 3/14(日) 12:05:06
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と関係ない「四」と「死」? Comments: さっちーさん。ご丁寧におそれいります。 >>「四」に「死」のイメージがかぶさったのは、漢字の読み書きが十分に >>広まってからの事のようですね。学生時代、「中国古典」関係の本をい >>ろいろと読んだ時にも特に「四」と「死」のイメージが重なるような事 >>はなかったと思います。 おっしゃるとうりだと思います。 「シ」と言う発音で示される「漢語」は、主なものでも次のとおり沢山あ りますね。 士・子・氏・司・史・(四・死)・至・旨・志・私・使・姉・思・師・紙 ・嗣・詞・詩・誌・賜・諡・紫 これらの漢語の意味を見れば、かなり一般的使用例もあります。 武士・士大夫・士分・子孫・孔子・子曰く・氏族・氏姓・司令・至尊・至誠 ・聖旨・宗旨・志士・大志・使者・姉妹・思惟・恩師・師事・嗣子・歌詞・ 詩歌・詩聖・地誌・賜杯・諡号・紫衣 これらの中で、「四」=>「シ」=>「死」の連想をのみ強調するのは如何 考えても無理があるでしょうね。 それと私の印象ですが、「死」と言う漢語が多用され出したのは、むしろ文 語優位となった明治以降であり、古代中世では一般的には以下のような和語 が多く使われたのではないでしょうか。 死・・・・かくれる。みまかる。なくなる。いく。さる。 死体・・・なきがら。むくろ。(し)かばね。 従って、 「シ・シャ」と言えば「死者」ではなく「使者」 「シ・シ」と言えば「死士」よりも「志士」や「嗣子」「獅子」 「シ・ショ」と言えば「死所」よりも「史書」か「四書」 「シ・ボ」と言えば「死母」ではなく「思慕」でしょうし、 「シ・ソン」と言えば「死損」ではなく「至尊(天皇)」でしょうね。 Awajiには、難しい理屈は分かりませんが、豈に「四拍手」のみ「死拍手」な らんや? と思います。 Time : 1999/ 3/14(日) 19:14:03
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 死四問題の感想 Comments:  死と四の感想です。 中国文化の影響下では、四と死は違うものと思われます。 音は同じでも四声が異なりますので(ただし、古代音は不明)。 したがって、その影響下にある四から死の影を伺えないのは 当然だと思っていますし、坂本氏・KANAK様の説明も 基本的にそうだったので、その点は小生も異論ありません。  問題は、日本語として死と四を意識し出したとき、 あえて残っていくものはそれなりに理由があると思うのです。 四拍手が二拍手に略式化された背景にもそれがあるのではないか と疑っています。  awaji様は明治以降と推察なされていますが、小生は むしろ平安期にはすでに意識されていたと勝手に想像しています。 そういう意味で、四拍手問題未解決と、小生のみがいっていたのかも しれません(ほかにも同じ意見の人がいたように思いますが、 すでに記憶の彼方です)。 Time : 1999/ 3/15(月) 10:07:15
Name : ノム E-mail : Title : 平安遷都 Comments: みなさんこんにちは。そろそろ桓武が平安遷都を 断行した理由について、話しませんか? 794年平安京に都を移したとされていますが、 何故彼は平城京を捨てたのでしょう? 1. 教科書には奈良の仏教勢力から決別し、政治を 新たにするため、大規模な移転を行ったとあります。 2. 更に、称徳天皇までの各天皇は奈良、大阪近辺に多く の宮を建てて行幸していた。その出費と手間を考えれば 永久の都としての大規模な都城を建てた方が経済的にも いいという判断があったとありました。 3. 渡来人の秦氏がその根拠である山城に都を建てる事をすす めた。平安京は秦氏を始めとする渡来系の貴族によって、 経済援助をうけて行われた。 4. 渡来系の貴族が、朝廷内の発言権を高めるために、渡来系 の母を持つ桓武にすすめた。 5. トピックスとして桓武は弟の霊を恐れていたという事が 紹介されています。 僕は、3.4が主な理由だと思います。5は桓武の個人的な 問題なのでそれだけでは遷都は無理な事だと思います。 Time : 1999/ 3/15(月) 10:21:38
Name : 輔住 E-mail : Title : 平安遷都に対する意見 Comments: ノムさん、みなさん、おひさしぶりです。 桓武が平安遷都を断行した理由についての私の 意見です >5. >トピックスとして桓武は弟の霊を恐れていたという事が >紹介されています。 これが一番の理由だと思っています。 理由は天皇が祟られてなにか天変地異が起これば、 一個人の問題では済まなくなりますし、 平安京の鬼門の方向になぜ延暦寺があるのか? というのも理由の一つです。 Time : 1999/ 3/15(月) 12:02:27
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様、阪神タイガース好調ですね Comments:  御意見伺いました。なかなか桓武にいかないので、 突破口になるかと存じます。  もう少し慎重な考察が必要だとおもいますが、第一印象としては、 ずいぶん小生のイメージと異なります。  桓武は、高野新笠の出自から皇太子になるのを反対され、 藤原百川が座り込みまで行ってようやく擁立した人です。 藤原氏の影響を無視するわけにはいかないでしょう。 そのとき、3、4が主要な理由にはなりがたいとおもいます。 教科書の視点とは異なりますが、藤原氏から見ると寺は対抗勢力で、 1の方がまだ大きな理由のような気がします。 それから、5は当然藤原氏も共犯(むしろ主犯?)でしょうから、 個人的問題でなく、むしろ大きい問題だとおもいます。 とりあえず、個人的にまず感じた事を書かせていただきました。 Time : 1999/ 3/15(月) 12:03:35
Name : ノム E-mail : Title : 長岡京? Comments: みなさんこんにちわ。輔住さん、大阪JF生さん、 早速のご意見ありがとうございます。 なるほど、そうですよね。 僕の書き方が悪かったです。もう一度自分の意見 を整理してみます。 まず、第一に政策?の最終決定者は桓武なので、 怨霊を恐れるという事は桓武が遷都をしたくなる 動機としてはむしろ一番の理由であると僕も思い ます。そして、南都仏教勢力との決別は藤原氏の 意向にも沿ったものだと思います。 でもこれだけでは遷都の方針を固める事はできても どこに移すか?でまたもめる原因となるのではと 思います。比叡山延暦寺は平安京に遷都が決まって から、「鬼門」だという考えが出てきたので建てた のではないでしょうか? という風に考えると長岡京で十分だったのでは? Time : 1999/ 3/15(月) 13:15:59
Name : 輔住 E-mail : Title : 補足 Comments: ノムさん、すいません説明不足でした。 >比叡山延暦寺は平安京に遷都が決まって >から、「鬼門」だという考えが出てきたので建てた >のではないでしょうか? つまりこういう考え方が出たこと自体から いっても「遷都」と怨霊は結びついている ということが言いたかったのです。 Time : 1999/ 3/15(月) 14:35:15
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : RE-モルモン教とエホバの証人 Comments:  香山さん、元 斎藤由貴のおっかけさんこんにちは。  確かモルモン教は、ソルトレークシティに総本山を置く、キリスト教の流 れを汲む、酒タバコがだめな戒律の厳しい一派です。2002年の冬季五輪では 選手たちは酒が飲めるのでしょうか?  一方エホバの証人は「もろみの塔」が本当の名前で、輸血を拒否するキリ スト教の一派のはずであり、両者は別物だと理解していますが。 Time : 1999/ 3/15(月) 17:19:39
Name : ノム E-mail : Title : 長岡京での事件 Comments: みなさん、すいません。早良皇太子の疑獄事件は、平安京遷都 が決定されてからだと思っていました。長岡京建設中に起こった のですね。すいません。 長岡京への遷都を熱心に推し進めたのは藤原種継です。彼は南都 仏教勢力から朝廷を切り離すために計画したのだと思います。 種継は長岡京造営の総責任者として権勢を誇っていました。「中外 の事皆決を取る」といわれて桓武の代理として相当な勢いだった らしいです。これをよく思わなかったのが大伴氏や佐伯氏です。 彼らの策略によって種継暗殺は行われました。これはすぐに発覚し、 彼らの証言によって早良皇太子は関連、共謀を疑われて皇太子の座 を追われました。 早良皇太子は本当にこの暗殺事件に無関係だったのでしょうか? そして大伴氏と佐伯氏は本当に早良の即位のために、種継を殺し たのでしょうか? 輔住さん補足ありがとうこざいました。 Time : 1999/ 3/15(月) 17:24:56
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 歴史の切れ目 Comments: 「擬自中華」とは、山村貞子さんがおっしゃるように みずからをちゅうかにぎするの意味です。 ワープロの変換や辞書(広辞苑では調べていません)に は出てこないのですけれども、あの文章の内容からす ると「擬似」より「擬自」の方がふさわしいかと思って書 きました。 通常怨霊進行は早良親王から始まるとされています。 しかし、私はここで本当に早良親王と早良親王以前の、 この場合怨霊になりうる要素を満たす人の間に扱い方 の違いがあったのかどうかという疑問を提示したいです。 平安時代、江戸時代という時代分類はあくまで目安であ って、この分類ほど意味のない時代の分けかたもありま せん。 平城京から長岡京と平安京への遷都は、同じ価値観の基 に行われた遷都であり、遷都という事実が、むしろ奈良 時代と平安時代初期の歴史の同一性をあらわすと私は考 えます。 桓武天皇は意欲的で多くの改革を断行しましたけれども、 桓武天皇の性格はむしろ「中興の祖」であって、徳川吉宗 で時代が変わっていないように、794年をもって歴史を分 けることには意味がありません。称徳天皇ー光仁天皇ー 桓武天皇ー平城天皇の間で価値観は同一です。怨霊信仰の 開始は、日本人の精神史に一代画期をなすものであるはず であり、桓武天皇のときに突然怨霊の扱いが変化したとは 私には思えない。実際、早良親王と上宮王家の鎮魂方法に さして違いがあるようにはみえない。違うかのように思っ たのは、摂関政治以降の平安貴族と794年で歴史を分けた ことにとらわれてしまった人々ではないでしょうか。 Time : 1999/ 3/15(月) 17:38:56
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 崇峻天皇と法隆寺に関して Comments: 創建法隆寺は、聖徳太子が崇峻天皇を鎮魂するために建立した という説を法隆寺管主の高田良信氏が述べておられます。 まだ流し読み程度ですので詳しいことはまた後でお伝えします。 なお、高田氏は再建法隆寺建立の理由は、5年前の著作を見る限り 上宮王家鎮魂であるとほぼ確信しているようです。細かい部分では、 梅原猛先生と違う部分があるようです。 Time : 1999/ 3/15(月) 18:23:40
Name : 山村貞子 E-mail : Title : 安部ちゃんへ Comments: つ・よ・が・り・チュ!そういうあなたが好き!呪ってあげる。 嘘です。これからもがんばってね! Time : 1999/ 3/15(月) 19:04:42
Name : ノム E-mail : Title : 平安遷都の理由 Comments: みなさん、こんばんは。教科書での記載ではないのですが、 学校でもらったプリントには、最大の理由として「早良の怨霊」 から逃れるためと載っていました。そのプリントは日本史の 先生が普通の参考書を自分でコピーして、作り直したものです。 彼は古代から鎌倉時代にとても熱心で、3年の2学期終了時点 でまだ江戸時代が終わってない状態でした。時代の変わり目に 特に時間を裂くので、安部さんがおっしゃるような事はなかった と思います。勿論安部さんの標的は高校の先生のようなレベルの はなしではないと思いますけど。 いちいち学者批判をいれる必要はないと思うんですけど・・・・・ 気を悪くしたらすいません。でも学者の先生がたにもいろいろな 考えがあると思うんです。自分の説を新説としてうけいれさせる には膨大な資料考察と、思案をめぐらす必要があるはずです。 僕のような者でさえ、それなりに調べてからここへ書き込んでい ます。もちろん安部さんはもっとしらべられていると思います。 それなら学者の苦労?も少しはわかるはずです。 それをとっぱひとからげ(使い方はあっているのでしょうか?) に学者批判するのはなんだかおかしい事だと思います。 井沢先生の真似をしているだけではないんでしょうか? 生意気いってすいません。でもせっかくの安部さんの観点のすばらしさ が「学者批判」がはいってしまうと色褪せてしまうと 思うのは僕だけでしょうか? Time : 1999/ 3/15(月) 19:45:57
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と法隆寺怨霊寺説? Comments: 安部さん、はじめまして。救世観音マニアのAwajiです。 何時も数々のご高説を披露頂き、楽しく拝読しています。 >>創建法隆寺は、聖徳太子が崇峻天皇を鎮魂するために建立したという説を >>法隆寺管主の高田良信氏が述べておられます。 これは「法隆寺の謎と秘話」高田良信著ー小学館ライブラリー の以下の部分でしょうか? 「それらのことをもとに憶測することが許されるならば、非業の最期をとげ られた崇峻天皇を聖徳太子が秘かにこの古墳に改葬したのではなかろうか。 ・・・・・そのようなことから、私は太子がその古墳の東に斑鳩宮を作り、 さらに用明天皇や崇峻天皇をはじめとする歴代天皇の菩提を弔う意味をこめ て、法隆寺を建立したのではないかと思われてならない。」 ここでは、高田さんは「用明天皇や崇峻天皇をはじめとする歴代天皇の菩提 を弔う意味・・」とされていますから、どう見ても安部さんの様には解釈で きないと思います。高田さんが説を変えられたのかも知れませんので、出典 をお示し頂けますか? >>5年前の著作を見る限り上宮王家鎮魂であるとほぼ確信しているようです。 >>細かい部分では、梅原猛先生と違う部分があるようです。 私は、高田さんの講演をお聞きしたこともありますが、梅原さんの怨霊鎮魂 寺説を一笑にふしておられました。本著でも、 「もし梅原氏のように怨霊を封じるために中央に柱を設けたのであれば、い っそのこと夢殿の南門のように、絶対に開かないという不明門にするべきで あろう。二つもの入口を作ったならば、怨霊はよけいに出入りしやすくなる のではないかと思われてならない。」 と冷やかしておられます。「鎮魂」と「怨霊鎮魂」は根本的に違いますので、 著者の真意を良くご理解頂きたいと思います。 Time : 1999/ 3/15(月) 22:08:38
Name : A E-mail : Title : あべさんこんにちは Comments: 安部さん  前回私が質問したのは、<平安時代から怨霊信仰 が公式になるというのは、もしかしたら学者のあま り根拠のない先入観かもしれません。>の部分です が、あなたが平安以前に怨霊信仰が広まった、と考 える理由をたずねたのではないのです。  なぜあなたが、学者が根拠なく発言していると言 えるのか、と言うことです。    擬自中華ですが、あなたの投稿では擬と疑が混ざ っていますね。擬自が正しいと考えてよろしいでし ょうか。  山本七平氏は擬似中華を使ってらっしゃるのでし ょうか。一応山本先生の文章の紹介なのですから、 勝手に言葉を作るなら、注がないとね。  一般論ですが、顔の見えない議論をしている場で、 断りなく造語をして、論をすすめるやり方は「とに かく黙ってオレの言うことを聞け」と言うようにと れます。   Time : 1999/ 3/16(火) 09:25:04
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ、第2報です。 Comments:  前回の記事を書いてから、小生なりに調べてみました。 ノム様が最初注目されたこと(帰化人勢力による遷都要因)は、 それも一つの大きな要素だと思い直しました。  百川も死んで、桓武即位後の藤原氏の影響は、種継が暗殺され、 魚名の左大臣解任以来在位中26年も左大臣をおかず、右大臣も老人に 限ったことからみても、「谷間」だったようですね。 805年に百川の子若干32歳の緒嗣からの遷都事業および蝦夷征伐の 中止要請を受け入れるまで、あまり中心になった実力者は見当たらないように 思いました。  桓武が大陸かぶれだったのは、いろいろ伺えるようです。 即位した年は、革命が起こるとされる「辛酉」であったことも偶然では ないでしょう。百済王系統の百済人たちは、聖武の大仏建立以来力をつけ、 交野あたりに住んでいたそうですが、その地で785,787年には、 昊天上帝をまつる儀礼を行っていますし、母親の血筋から親戚みたいに 思っていたようです。また、百済系武術の鷹狩も好んだそうです。 新笠のおい和家麻呂を従三位中納言にするなど、外人の公卿登用も 桓武時代が最初のようです。  それでも小生は怨霊鎮魂が主たる理由だと思います。800年には、 早良親王に崇道天皇を追贈し、鎮魂に勤めると同時に井上内親王を 皇后であったと認め、墓を山陵と指定し直したことからもても、 それが伺えます(井上内親王まで戻るのがさらに何か臭いますが)。 種継事件の関係者は、死ぬ直前に許されています(おそらく無実)。 大伴氏の疑いは桓武の死後、主犯といわれた大伴家持が許され、 万葉集が出されたことから見ても「晴れた」といえるでしょう。 逆説の日本史3巻は、このあたりをじっくりと描いていますので どの説を支持するにせよ、再度確認されることをお勧めします。  桓武は気力・体力・知力共に充実し、精力も絶倫で、みずからを 中国皇帝になぞらえていたでしょう。でも子、安殿親王(平城)は 病気がちで、精神的にもあまり正常ではなかったようです。 いくら年老いても、当時怨霊信仰が一般化していなかったら そんなに弱気にはならないでしょう。そういう意味からも、桓武以前に 怨霊信仰は一般化していたという意見で、安部様のご意見に賛成です。 Time : 1999/ 3/16(火) 10:24:36
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生様へ Comments: こんにちわ。僕もさっちーさんの怨霊の原形の話か ら、遷都以前から怨霊信仰のようなものはあったと 思っています。安部さんの意見にも反対という訳で はないのですが学者批判が入るとしらけてしまうの です。批判したいために意見を載せているような気 がするのです。 Time : 1999/ 3/16(火) 12:23:15
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺はなぜ建立されたのか(12)・・・光仁天皇の政治 Comments: (1) 緊縮財政 聖武天皇は大土木工事を連発し、称徳天皇は地方豪族に冠位(それには恩給や権益が伴 うだろう)を連発したらしく、半世紀に渡ってばらまき行政が行われた。 口分田の制度は崩壊の兆しを見せており、光仁天皇が帝位を受けた頃に国家財政は破綻 に瀕していた。 光仁天皇の御治世には、組織の縮小整備、綱紀粛正が多く行われている。首を切られた のは多く新興の地方官僚や地方豪族だった。その結果、意図してか意図せずしてか、職員 は少数の古来からの貴族でまかなうことになり、貴族優遇になっている。 戸籍の整備が行われている。もちろん公地公民制を立て直して税収を増やすためである。 この事は地方に動揺を与えたらしく、郡の倉庫への放火が頻発している。 僧侶の整理も手がけていて、桓武天皇に引き継がれる。僧侶は免税特権があったので、 財政再建の意味もある。 (2) 宥和政策 主に称徳天皇の勅斟(ちょくかん)を被った人物の復権が行われた。藤原仲麻呂の関係 者の復権が目立つ。藤原氏の影響力が回復したのだろう。藤原仲麻呂を追放した側も引き 続き用いられていて、報復人事は見られない。 (3) 蝦夷征伐 蝦夷征伐は、桓武天皇の御代に大きな成果が上がるが、称徳天皇の御代に既に活発にな っていた。 不足した口分田を補う面もあったらしく、全国(主に関東)から入植者が募集されてい る。入植者は数年間免税だった。 征服された蝦夷は全国に分割で強制移住させられ、異民族に対する扱いは時代と場所を 選ばないと思い知らされる。 このように、光仁天皇の内政はアンチ称徳天皇、プレ桓武天皇といえる。桓武天皇の大 事業は、光仁天皇の地道な建て直しあってのものだろう。 Time : 1999/ 3/16(火) 16:40:16
Name : ノム E-mail : Title : 平安京遷都の理由2 Comments: みなさんこんばんは、教科書と逆説の日本史3をよんでみての 僕の説を聞いてください。 1. まず桓武天皇は、南都仏教勢力を朝廷から除こうとする藤原氏 の意向をうけ、長岡京の造営をきめる。これは天武系から天智 系への皇統の転換と称徳の政策からの転換をも表明した事にな ると思われます。それと貴族達への踏み絵の意味もあったと思います 2. 長岡京造営においては藤原種継が実権をにぎり、ますます 藤原氏の権勢が高まりますが、これは他氏族から反発があったと 思います。桓武も面白く思ってなかったのではないかと想像して います。いくら即位で藤原氏の力を借りたとはいえ、藤原氏の 単独の突出はいろいろとやりにくかったのではないかと思います。 3. 種継が暗殺されますが、この首謀者はもしかして桓武天皇だった のではないでしょうか?桓武は藤原氏をよく思ってない大伴氏を 利用して種継を暗殺して、ついでに後継問題の火種を消そうとし た一石二鳥の策略ではないかと思います。 4. 藤原氏にかわる協力者として、渡来系の豪族達を朝廷に参画させ 朝廷内の勢力バランスをとろうとしたのではないでしょうか? 既存の有力氏族を登用すると、藤原氏の二の舞になるので元々の 官位のひくい渡来系氏族を優遇する事によって前政権とは違う色 を出そうとしたと思います。 5. 自分の目的のため早良を追い落としますが、早良の断食抗議をうけ 良心の呵責に耐え兼ねた桓武は怨霊に祟られる恐怖心を感じだします。 これを知った渡来系氏族達は弱気になっている桓武を一気に引き付ける ため、自分達がスポンサーとなって平安京の造営を建議します。 特に秦氏は、平安京となる土地を所有していた事もあり、積極的に 薦めたのではと思います。新しい都は大陸の先進文化を中心とした 計画の下造営されます。 6. 種継暗殺の現場となった長岡京は、流血の現場であり、早良の怨霊 も顕われます。こんな所には桓武でなくてもいられないでしょう。 ここまで書いて思ったのですが、天皇は神の子孫です。天皇自体が 神であるのにもかかわらず、なぜ怨霊をおそれるのでしょう? もし、心底怨霊を恐れているとしたら、貴族や民衆達には天皇という 存在自体が無意味に感じられるのではないでしょうか? Time : 1999/ 3/16(火) 22:42:35
Name : RUGOMA E-mail : Title : 中華思想 Comments:  みなさん、RUGOMAです。お久しぶりです。  久々に覗いてみたらまた安部さんに対する  コメントが増えているようですね。  今回の「擬自中華説」については、基本的には賛成です。  確かに、豊臣秀吉の朝鮮出兵や征韓論などの背景には  日本独自の「中華思想」があったと自分も思います。  ただ、この考え方って、便利な分「危険」なんですよ。  本来ならばちゃんと歴史的背景・史実・思想などを吟味して  考察せねばならないことが、「この国には伝統的にこういう考え方  だからねぇ。」の一言ですまされてしまう可能性が非常に高いんです。  特に人口、文化、経済力その他圧倒的な(日中間の)「国力」の差が原因で、  「日本」は必要以上に「中国」を「我々には想像もできない怖ろしい国」  とみなす傾向が、日清戦争など軍事経済面で凌駕した以降においても  思想面などで根強く残り、そしてそれが現在まで続いている傾向は  未だに結構強いらしいです。(以上、学生時代の恩師の意見。  「「中国は中華思想だから。」ですぐ意見をまとめようとする」と  よくこぼしていました。)  故に中華思想を論じるときは「それが何に影響を及ぼしたのか」  「何故この史実において中華思想を考慮せねばならないのか」  といったように理由や目的をはっきりさせておかないと、単に薄っぺらい  決めつけにすぎなくなってしまう、ということだけは指摘しておきたいと  思います。  (ただ、今回は何故安部さんが山本七平氏の尊王思想論を持ち出したのか  正直よくわかりません。(だから良いとも悪いともこの段階では言えない)  とりあえず、「こういう考え方も面白いけど、これだけじゃ困る。」  と思っただけです。)  最後に立花隆「僕はこんな本を読んできた」からこの言葉を  紹介したいと思います。  「・・・僕は本を読むときには猜疑心を忘れないようにしている。  ・・・「おや?」と思う箇所(良い意味、悪い意味両方あり)に  出会ったときには著者はこの情報をいかにして得たか、あるいは  その判断の根拠はどこにあるかを考えてみよ。それがいい加減な場合は  デタラメの場合が多い。・・・」 Time : 1999/ 3/17(水) 00:18:26
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様への感想文。  リベラに自信回復させてやって! Comments:  ご意見楽しく読ませていただきました。 1,4,5,6については、そのように思います。 2,3がノム様独自のご意見ですね? 面白いと思います。種継にある程度の信頼は置いていたのは 間違いないでしょうが、実際は煙たかったのかも知れませんね。 ありえる話だと思います。 桓武が井上内親王のことまで気にしていたことを考えれば、 称徳末期から、むしろ主導権を握っていたのかもしれません。 光仁は東大寺に押さえの利く早良親王を良かれと思って 立てたのでしょうが、桓武にはありがた迷惑だったのでしょう。 光仁には明確な「革命的転換」という意識が薄く、はっきりと (中国皇帝的な)天皇を目指すという強い意志を桓武は 持っていたに違いありません。即位年のあまりの符合からみても 称徳死後、  光仁擁立→井上内親王・他戸王排除→立太子→即位→遷都 は最初から桓武が描いていたシナリオかもしれませんね。 Time : 1999/ 3/17(水) 10:42:57
Name : 輔住 E-mail : Title : 私もノムさんへの感想文 Comments: みなさん、こんにちは ノムさんの説を楽しく読ませてもらいました。 3を除けば基本的にご意見に賛成です。 (でも3の可能性もないとはいえません) 桓武は名実ともに「最高権力者」になりたかったでしょうから、 家臣(特に藤原氏)が力を持ちすぎてもこまるでしょう。 そのために他の人たちの登用もするでしょう。 後、最後の部分についてですが >ここまで書いて思ったのですが、天皇は神の子孫です。天皇自体が >神であるのにもかかわらず、なぜ怨霊をおそれるのでしょう? >もし、心底怨霊を恐れているとしたら、貴族や民衆達には天皇という >存在自体が無意味に感じられるのではないでしょうか? 神が怨霊をおそれても不思議はないでしょう。神とはいえ弱点はあるでしょうから。 貴族も民衆も「怨霊を恐れない」という視点では天皇をみてないのでしょう。 (そうでなければ「怨霊思想」はここまで広まらないでしょうし、「神」としては 「失格」です。天皇家は続いていないでしょう) Time : 1999/ 3/17(水) 12:24:12
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺はなぜ建立されたのか(13)・・・父子鷹 Comments: 光仁天皇と桓武天皇の間には強い絆があったようだ。 光仁上皇が崩御された時、桓武天皇は何日間も号泣しつづけたと「続日本紀」に書かれ ている。 光仁天皇は半生を酔っ払いとして過ごして、権力争いに巻き込まれるのを防いだ、しか しこれは仮の姿で、称徳天皇の頃には何時の間にか皇族でナンバー1(天皇を除く)の地 位にいた。光仁天皇即位に陰謀はあったかもしれないが、その後帝は見事朝廷を再建して 桓武天皇に受け渡している。ただ者ではないことがわかる。 称徳天皇の末期あたりから山部親王(桓武天皇)が出てくる。私は、山部親王は光仁天 皇の影として藤原氏と交渉していたのではないかと思っている。光仁天皇は、山部親王だ けには御自分の真意を明かしていたのではないだろうか。光仁天皇は天智系の最後のホー プで、もしも天智・天武系の争いがなかったとしても、一族をしょっている。光仁天皇が こけたら、志基系皇族が皆こける、だから、危険なことは山部親王が受け持ったのではな いだろうかと私は考えている。 桓武天皇は光仁天皇の政治を受け継いだけれども、光仁天皇が遷都を考えていたかどう かはわからない。 もし遷都を考えていなかったとしたら、秋篠寺建立の理由としてこういう説も考えられ る。光仁天皇は、秋篠寺を天智系を守る、東大寺にも匹敵するような大寺院にするつもりだ ったが、遷都によって計画は尻すぼみになってしまった。 称徳天皇鎮魂とどちらがふさわしいかは実は私もまだよく分からない。 Time : 1999/ 3/17(水) 12:40:52
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 神を畏れる現人神 Comments: 日本人が絶対的に帰依しているのは「人間」であり 具体的に言えば「和」であると思います。 「人間」に関しては山本七平さんの著作や人情話 の類を読めばよく分かると思います。 「和」は井沢先生が力を入れて説明しておられます。 桓武天皇が、怨霊を畏れない、これはつまり「和」を 畏れないということですが、態度をとれば、これは称 徳天皇と同じであり、かえって排除されてしまうでしょう。 それに、古代の天皇制は戦前の現人神とは異なって、 そんなに強い神格はなかったと思います。 怨霊が「和」を絶対的なものとする思想から生まれて くるというのは、井沢先生が「逆説の日本史」で説明な さっています。 私はその奥には日本人の自然崇拝があるのではない かと思っています。 Time : 1999/ 3/17(水) 12:52:44
Name : A E-mail : Title : あべさんこんにちは Comments: <聖武天皇は大土木工事を連発し、称徳天皇は地 方豪族に冠位(それには恩給や権益が伴うだろう) を連発したらしく、半世紀に渡ってばらまき行政 が行われた>  質問ですが、当時の土木工事はばらまき行政と 言えるのでしょうか。人民を徴用して工事にあた らせたのではないでしょうか。今みたいな、土建 屋さんと行政の関係があったとお考えですか?  また、恩給というのは根拠があるのでしょうか。 もしなければ、ばらまきに値しないでしょう。 <口分田の制度は崩壊の兆しを見せており、光仁 天皇が帝位を受けた頃に国家財政は破綻に瀕して いた>  これは別に称徳のせいではないでしょう。むし ろ崩壊を食い止める努力をしたのは例の永年私財 法の停止で明らかでしょう。  口分田の制度は崩壊の兆しどころじゃなくて崩 壊していたのですよね。だからこそ<光仁天皇が 帝位を受けた頃に国家財政は破綻に瀕していた> のでしょう。 <蝦夷征伐 蝦夷征伐は、桓武天皇の御代に大き な成果が上がるが、称徳天皇の御代に既に活発に なっていた>  この部分、アンチ称徳天皇でなく、継承してい ますよ。  穿ったことを言いたいのはわかりますが、<光 仁天皇の内政はアンチ称徳天皇、プレ桓武天皇と いえる>とは思えませんね。  Awajiさんの疑問に付いては是非答えてくださ い。  あなたが紹介する文献の信頼性に関する大事な 質問だと思います。 高田良信師の言葉、<それらのことをもとに憶測 することが許されるならば>という枕を付ける謙 虚さを学んでほしいですね。  私は安部さんは将来どでかいことをやりそうな 気がしますが、若者が世界的発見をする数学や物 理とは、医学、歴史学など根本的に違うと思いま す。長い経験を経て、初めて出てくる発想が求め られる分野だと思いますし、根拠なく先人をこき 下ろす態度はやめてほしいですね。古文書ひとつ にしても先人の手ほどきがなければ読めないでし ょう。 Time : 1999/ 3/17(水) 13:15:32
Name : ノム E-mail : Title : 奈良から平安にかけての商業 Comments: みなさんこんにちわ。大阪JF生さん、輔住さん感 想ありがとうございます。 みなさんに質問があります。この時代の商業経済は どのようなものだったのでしょうか? もう貨幣は流通していますよね。 商業的な発達はなかったのでしょうか? Time : 1999/ 3/17(水) 13:24:15
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ Comments:  再度ちゃんと調べるつもりですが、 称徳が貨幣鋳造をしたという記録を 見た覚えがあります。 商業経済の実態は、手に余りますが。 Time : 1999/ 3/17(水) 14:12:27
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : たった一人の四死問題? Comments:  四死問題に広がりを持たせる意味で、前記事を書いたのですが、 それまでかなり盛り上がっていたにもかかわらず、反応がなくて、 火を消してしまったような感じで残念です。 まだいい足りなかったので、時期外れですが書かせてください。  前にawaji様が、多くの「し」の例を挙げ、 >難しい理屈は分かりませんが、豈に「四拍手」のみ「死拍手」 >ならんや? と思います。 とおっしゃっていましたが、(現在の)歴史学としては そのとおりで決着がつくのでしょう。が、歴史の範囲を超える要求かも しれないのですが、小生には不満が残ります。 といいますのは、数多くある「し」とよむ漢字の中で、   「現在」なぜ、四のみがそれを連想させるのか? という問いに歴史が答えてくれないからです。 今でも四は、病院・ホテルの部屋番号では避けられています。 どんな歴史的根拠があるのでしょう?(ちなみに、キリスト教圏で 13が忌み嫌われる歴史的根拠ははっきりしています。) 井沢先生の歴史には、常に「現代を考えるための素材として」という 視点があると思います。つまり、現在の日本・日本人を捉える材料と して、歴史の見直しをされていると個人的に考えています。 その一環として、(真偽はここでは置きますが)四拍手問題を とりあげられたのだと思っています。 少なくとも、四と死の関連について歴史的に説明したものを 井沢先生(もちろん先達の梅原先生たちを含んで)の説以外には 不勉強で知りません。どなたかご存知でしたら、 ご教示いただけないでしょうか?  ところで、四の変容にかこつけて、ちょっと一般論。 常々感じていることですが、いい意味でも悪い意味でも 日本人は勘違いの天才(ほめすぎ?)と思っています。 安部様の疑自中華論だけでなく、まともに受容された 外来文化はほとんどないように思います。  言葉の「音」の問題のみでいいますと、英語ではrとl、 bとvなどはほとんど区別されていないでしょう。 現在やっている某食品CMでも、berryとveryを 引っかけた洒落を耳にします。ネイティヴが聞いたら、 何の事か分からないかもしれません。個人的には、 小生のように自分自身いいかげんだと思っている人間でも このようないいかげんさはあまり許せないのですが、 しばしば指摘されていても直そうともしない、この日本人の いいかげんさはどこからくるのでしょう?  もちろん逆のケースもあり、たとえば、グラスとガラス, コップとカップ、ストライキとストライク、ブレーキとブレークなど (例が偏っていますが)同じ音を分けることで、明確に意味を 区別したりしています。本家も驚くでしょう。 この日本人の性質はいったい何なのでしょう? (単に小生が海外事情に無恥なだけかもしれませんが。) Tell me your 納得できる story ! (Japanese, please!) Time : 1999/ 3/17(水) 14:15:42
Name : あきんど2 E-mail : Title : 安部君へ Comments:  しばしば貴君の文章を読んでいて不愉快になることがある。 それは、貴君が自己の説を得々と述べる反面、他者からの 問いかけに対して無視するケースが目立つからだ。  ここ2、3週間のログだけでも、貴君に名指しで質問が いくつもあった。それに対して貴君は誠実にどれだけ回答して きたと言えるのか。  多忙かもしれない。しかし、貴君が自説を論ずるに割く時間の 少しを割けばある程度の回答は可能と思われる。にもかかわらず 貴君は多くの場合答えないかはぐらかしている。  貴君が回答せずに済ませた質問を考えてみると確かに回答しに くいだろうと推定される質問が多い。しかしそれでも貴君は答え るべきである。  このままでは貴君は自分の説だけをまくしたてて、反対者には 「俺の考えを認めない奴は無視する」というただのガキにすぎな くなってしまうぞ。今までにも何度も似たようなことを言われて きたはずなのにまるで進歩がない。  根拠を正確に示さない(それとも示せないのか)。そして史料 の読解力にやや(かなり)難がある上、史観という名の「思いこ み」に基づいて無意識に(意図的ではないと信じたい)自説に 都合よく解釈する。  大学などで歴史学を学んでいないからいけないとは、この場の 誰も言わない。それがこの場でのルールである。でなければ、 この場で議論できるものはほとんどいないだろう。  しかし、きちんと勉強していないくせに先人の議論をあそこま でこきおろせるのかと思うとさすがに不思議である。しかも、そ のくせ自説が論破されるとふてくされる。仮に貴君が渾身の力を 注いで作り上げた説を、根拠もあやふやなくせに馬鹿にする人が いたら貴君はどう思うだろうか。解る訳もないか。貴君が先人に 対してとっている礼儀と同じだと思うがね。  貴君はかつて年齢を議論に持ちこまれて憤慨していた。その 怒りは正しい。しかし、貴君の議論の進め方を見ていると正直な ところ幼稚ですらある。自説を主張するだけで突っ込まれたり 非難されるとすねるか無視する人間を大人とは言わんだろう。 それともノム氏の言っていたように「つっこまれる」のに慣れて いないのか。先人達に「つっこむ」のは得意なのにね。  また激怒して一生忘れないとでも書くかね。それは一向にかま わないが、その際には必ずAWAJI氏の質問くらいは答えてか らにしてくれたまえ。非礼の限りの文章ですまないが、貴君には 謙虚さと誠実さを身につけていただきたい。 Time : 1999/ 3/17(水) 17:48:15
Name : 輔住 E-mail : Title : 4からの連想 Comments: 大阪JF生さん、みなさんこんにちは たしかに4というと死をイメージすることが ありますよね。 でもあんまりこだわらないときもありますよね。 だから私は四死問題に明確な考えがないままです。 少なくても欧米の「13」程の意識はないでしょう。 4といえば「しあわせ」をイメージする場合もありますから。 Time : 1999/ 3/17(水) 18:18:31
Name : RUGOMA E-mail : Title : (続)安部さん、頑張って下さい。 Comments:  あべさん、こんばんは。RUGOMAです。  また貴方に対する厳しい意見が続いているようですが、  どうか頑張って下さい。  貴方のように自説を展開できるという人は(良い意味で)なかなか  いないんですよ。  自分の恩師はこれを「サッカーのゲームメークのセンス」に  例えていました。(ちなみに自分は「ボールが来そうな所に飛び込むセンス」  は多少あるにせよ、ゲームを組み立てる才能は無いなぁ、と思って  「プロ」になるのを断念しました。大学院に行かなかった理由の1つはこれです。)  だから荒削りながら自説を組み立てられる貴方はすごいんです。  その点は自信もって下さい。  ただ、残念ながら貴方は特定の「戦術」から全く踏みだそうとしていない。  貴方の書き込みをみていると、井沢先生や山本七平氏といったイデオロギーが  似通っている人の著作しか読んでないんだな、ということはすぐ分かります。  これは・・・正直こんな事言って良いのか分かりませんが、山本氏の著作は  歴史学界においてはトンデモ本扱いされています。  彼が著した(とはされていないが)「日本人とユダヤ人」(文春文庫)  にいかに学問的誤謬が多いかは浅見定雄「にせユダヤ人と日本人」(朝日文庫)  と言う本によって完璧に論破されています。  (ただし、だからといって自分は山本氏の著作に全く価値が無い、と主張  するつもりはありません。確かに従来の歴史学が見落としていた部分を  少なからず補完している主張もあります。また浅見氏はこの本の中で  朝日新聞や本多勝一氏を少なからず擁護していますが、では朝日新聞に  なんら誤りがないかといったら、答えは言うまでもないでしょう。)  今現在山本氏(や井沢先生)の主張は貴方の中で「核」となっている  のでしょう。それは結構です。(哲学や社会批評などの視点には  自分も大いに共感できる部分があります。)  しかし「歴史観」の部分は、正直それしか知らないのであれば  攻め込まれるのは必至です。主張の善し悪しではなく、(「根拠」という)  ディフェンスがなっていないからです。(自分も学生時代他学部の授業に出た時に  他の人って随分根拠をはっきりさせないで物言うんだなぁ、と思いました。  井沢先生は「史料絶対主義」と批判的におっしゃっていましたが、一つでも  通説と違うことを述べると矢のように反証を求められるんですよ。  だからよっぽど確かな根拠を示しておいて、1論文で一つくらい異説を  述べるのが、通常の歴史学論文では精一杯です。)  安部さん、貴方の「核」を守りたいのなら、あえてそれを捨てて1から  やり直す必要が今はあるのではないでしょうか?  前にも申し上げますが、まずは片っ端から本を読んでみて下さい。  (そのとき「猜疑心」を忘れないで。)  そうすれば、あるいは主張が変わるかもしれませんし、変わらなかったら  単なる山本氏の受け売りではない確かな根拠がに基づく主張がきっと  出来るようになっているはずですよ。 Time : 1999/ 3/17(水) 19:46:14
Name : ノム E-mail : Title : 桓武はなぜ早良を廃したのか? Comments: みなさん、こんばんは。今日は何故早良が怨霊と化したのかを推測して いきたいと思います。 僕は、光仁は桓武より早良に位をおくりたかったのではないか?と 考えています。 1.光仁は百川ら藤原氏によって即位できましたが、所詮彼らの傀儡 でしかない自分を情けなく思っていたのではないかと推測します。 何故かというと、早良を東大寺の総帥として仏教勢力の代表として 藤原氏以外の後ろ盾を作ろうとしています。 2.早良が皇太子となった時すでに安殿は生まれている。こういう状態 だと、後継問題が噴出するのは予想できたはずです。 3.光仁は、自分と同じく藤原氏を後ろ盾とする桓武には期待していな かったと思います。むしろ桓武は藤原氏とともに光仁に譲位を迫った のではないでしょうか? 4.とすると、早良の立太子は光仁の最初で最後の藤原氏への抵抗だった のではないかと考えています。 5.光仁は、反称徳路線というより、称徳の方針つまり仏教勢力による 藤原氏勢力の牽制のため早良を利用したのではないでしょうか? 6.結局、藤原氏には抗いきれなくなり、桓武への譲位の引き換え条件 として、早良の立太子を認めさせたと推測できます。 以上のように、推測してみました。桓武も立場上藤原氏に遠慮していたが 光仁の考えもよく理解していたため、いつか機会があれば藤原氏の勢力を 削ぐことを考えていたのではないでしょうか?その機会を種継暗殺により 手に入れた桓武にとっては早良はもはや必要のない皇太子となったと推測 しています。ただ早良の死後の怨霊への恐れをかんがえると、早良を殺す つもりはなく、時がくればまた皇族の一員として迎えようと思っていたの ではないでしょうか?貴族たちへの手前もあり、ただ廃太子にするには、 誰もが納得する理由がなかったための手段であったのではないかと考えて います。 Time : 1999/ 3/17(水) 22:39:28
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と日本人論??・・・何の関係もありませんね Comments: 大阪JF生さん、Awajiです。救世観音オタクの無責任な意見ですので、適 当にお聞き流しのほど、よろしくお願いします。 >>常々感じていることですが、いい意味でも悪い意味でも日本人は勘違いの >>天才(ほめすぎ?)と思っています。・・・・・・ >>まともに受容された外来文化はほとんどないように思います。 >> 言葉の「音」の問題のみでいいますと、英語ではrとl、bとvなどは >>ほとんど区別されていないでしょう。現在やっている某食品CMでも、b >>erryとveryを引っかけた洒落を耳にします。ネイティヴが聞いた >>ら、何の事か分からないかもしれません。個人的には、小生のように自分 >>自身いいかげんだと思っている人間でもこのようないいかげんさはあまり >>許せないのですが、しばしば指摘されていても直そうともしない、この日 >>本人のいいかげんさはどこからくるのでしょう? 所謂日本人論において、日本人が外来文化の受け入れについて、いいかげん だ と良く言われるのですが、本当にそうなのでしょうか?Awajiのささやか な海外経験では、どの民族(国家)も大した相違は無いように思います。 例えば、LとR或いはBとVの差などは元々日本語にはその差が無いので、 判別できないだけのことでで、文化論の問題とは思えません。 英語とほとんど同言語系のドイツ人でも、LとRの発音は英語とは明らかに 違っています。フランス人の語尾におけるLとYは英国人には聞き分けられ ないそうですが、だから如何と言う話は聞きませんね。 タイでは「Taxi」などは平気で「Takusi?」というような現地発 音のローマ字で表記されています。韓国人が清音を苦手とするのはご承知の とおりで、Dogは「トック」に近い発音ですし、Golfも同様に「コルプ」です。 江沢民氏の演説でもお分かりのとおり、中国人の英語発音も極めていい加減 ですね。ただ、何れの言語も日本語よりは発音体系が複雑ですので、我々が 聞けば英語的に聞こえるだけだと思います。 要するに外国語の発音がイイカゲンなのは、文化論とは関係ないことで、 むしろ、日本人の特徴は異文化に不慣れなため、リゴリスティックにこれら 厳密な発音や文法にこだわりすぎて、失語症になるところに有るのではない でしょうか?(真面目過ぎると言ったほうが、いいような気がします) 夫々の民族(国家)は長い歴史にわたる固有文化・言語習慣を持っています。 従って、外来文化・言語を受容する場合も、当然夫々の固有文化との融和が 必要であり変容があるでしょう。 仏教を見ても、中央アジアを経て中国、中国から韓国、中国・韓国から日本 に伝播する間に夫々の固有文化の影響を受け、著しく変容していますね。 だからこそ、我が国の仏教僧は韓国(朝鮮)仏教を脱して中国へ、さらには 印度(天竺)を目指したのでしょう。 (残念なことに、その印度における変容が最も激しかった) 印度、チベット、モンゴル、ビルマ、タイ、中国、韓国、日本、夫々の民族 は夫々の固有文化に応じて仏教を受容しています。或いはキリスト教も、そ うなっていくかも知れません。(韓国のキリスト教を見ていると、これがキ リスト教?と思われる部分も生じかけている様です。) Awajiには、豈に日本のみならんや?だと思われますが、いかがでしょう? なお、擬似中華論についての感想ですが、これも「日本人論」に拘りすぎて いるような気がします。他民族を侵略する場合、どの民族も大なり小なりの 中華論(正当化)を身に纏うと思うのです。 ジンギスカンに率いられたモンゴルは、我等こそ世界の主と考えたでしょう し、ヌルハチのマンチュリもそうでしょう。 アレキサンダーのマケドニア、シーザーのローマ、無敵艦隊を誇ったスペイ ン、七つの海を支配したブリテン、ナポレオンのフランス、ヒトラーのドイ ツ、スターリンのロシア、彼らはすべてイーバ・ーアレスの中華論?に立っ ていたと思うのです。 韓国(朝鮮)といえど、パワー・ポリテックスが許容すれば、事大論をかな ぐりすて、独自中華論?に立って、敢然と清国を侵略したかも知れません。 (実際それに近い議論がありました。) Awajiには秀吉の朝鮮侵略、征韓論を擬似中華論で見るのは一つの見方では あると思いますが、決して主要素とは思えません。 日本の伝統的国際観は、擬似中華と言うより複数中華。即ち、 其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有 無禮者勿復以聞 だったと思うのです。周辺諸国も対中国軍事情勢が許せば、当然その態度を とりますね。無知識者の戯言ですが、何かおかしいでしょうか? Time : 1999/ 3/17(水) 22:58:01
Name : RUGOMA E-mail : Title : 中華思想 Comments:  Awajiさん、こんばんは。 >なお、擬似中華論についての感想ですが、これも「日本人論」に拘りすぎて >いるような気がします。他民族を侵略する場合、どの民族も大なり小なりの >中華論(正当化)を身に纏うと思うのです。  日本人論として有名なポール・ボネ「不思議の国ニッポン」に確か「・・・  ここだけの話、我がフランスの「中華意識」も相当なものである。」といった  記述があったと記憶しています。こう言ったことから考えると中華思想とは、  「自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識」  が芽生えたときどこの国でも持ち出すものなのかもしれませんね。  ちなみに上の定義は「中華」に関する広辞苑の記述です。ただし対象は  「漢民族」のみで、日本その他の国の「自国優越主義」を「中華思想」と  呼ぶ、という例は広辞苑にはありません。ただしこの掲示板で何人もの方が  既に辞書になくてもこういった定義を用いているので、以後は「中華思想」  =「周辺民族を文化的に遅れたものとみなして自分を高める思想」と考えて  良いと思います。ということは冊封体制等も考える必要が出てきますね。  自分は「日本」と「中国」の「中華思想」を考える際には少なくとも2つ  ・「皇帝(天皇)」の概念  ・周辺民族をどうみなすか  この2点は多少他の国の「中華思想」とは違った点が出ていると思います。 Time : 1999/ 3/17(水) 23:57:55
Name : A E-mail : Title : あべさんこんにちは Comments: 安部さんこんにちは。 私の質問が無視されるので 今回、読解力の成績表を作ってみました。 評価1 現代日本語が読めない。 評価2 現代日本語を読み間違えるが、指摘されれば理解できる。 評価3 現代日本語を正しく読解できる。 評価4 印刷された古文を読めない。 評価5 印刷された古文を読み間違えるが、指摘されれば理解できる。 評価6 印刷された古文を正しく読解できる。 評価7 古文書が読めない。 評価8 古文書を読み間違えるが、指摘されれば理解できる。 評価9 古文書を正しく読解できる。  前回あなたが称徳の宣命体についてでたらめな現代語訳をつけて世界 史的迷文だと決め付けたとき、KANAKさんの指摘を認めたので、評価5 を与えられると思ったのですが、今回、Awajiさんの指摘に反応がないの で、評価1、すなわち、現代語すら理解できない、ということになりそう ですよ。 Time : 1999/ 3/18(木) 07:21:01
Name : 香山 E-mail : Title : 藤田 潔 Comments:  ご教示ありがとうございました。別物だったのですね。医局会でも何か輸血 を拒否している団体がいるから、という程度の認識だったので。  ところでケロ恵さんはもうこのHPをみていないのでしょうか。  宗教問題が盛り上がっていたところで何かご教示頂けるかと思ったのですが。  今はし拍手の時代になってますけどね。 Time : 1999/ 3/18(木) 12:00:38
Name : 輔住 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: ノムさん、みなさんこんにちは。 ノムさんの説を楽しく読ませてもらいました。 私も光仁は桓武より早良に期待していたと思います。 ただ同腹の兄を先に天皇にしないわけにはいかなかったのでしょう。 それに仏教勢力とつながりの強い早良は藤原氏からは警戒されていたでしょう。 しかし危険ですよね。鎌倉時代に朝廷が2つに別れた状況に良く似ています。 (持明院(後の北朝)と大覚寺(後の南朝)に別れた) 下手をすると南北朝時代のようになってしまったかもしれません。 Time : 1999/ 3/18(木) 12:24:35
Name : kazu E-mail : Title : 怨霊のこと Comments: ノムさん、さっちーさん、はじめまして。みなさん、こんにちは。 ここしばらく怨霊のことを考えていて、以下のようなことに思い至りました。 怨霊の淵源が贖罪意識や良心の呵責にあるとすれば、怨霊信仰ははるか以前から あったはずで、その意味で聖徳太子は怨霊であるといって良いと考えます。 山背大兄一族を滅ぼした者たちの前には、太子の怨霊が現れたと思います。 ただ、現れたと言ってもそれは暗闇の中で憎悪の目を向けて立っているだけの 存在です。 法隆寺は彼らにとっては太子鎮魂の寺であったかもしれませんが、これは歴史の 問題というよりは内心の問題であると考えます。 少なくとも、奈良以前は怨霊を恐れていたとは思えません。そうでなければ太子 の怨霊化を招くような山背大兄一族を滅ぼすことなど、出来るとは思えません。 ほかにも、この時期の政争は蘇我と物部の争いのように死ぬか生きるかで、相手を 滅ぼしてしまう(子孫を根絶やしにして怨霊化を招く)ようなことをしています。 オオモノヌシは祟りをなしましたが、これは「神」の仕業です。というよりも、 祟るのは「神」の仕業であって、「怨霊」といえども人間にすぎないのですから そんな心配はなかったと考えられます。 ところが、ここで「奇跡」が起きました。長屋王の死後の藤原四兄弟の相次ぐ死。 現代人から見れば単なる偶然であっても、当時の人にとってこれは「人」が「神」 になった瞬間、「祟らない怨霊」から「祟る怨霊」への教義の変更です。 この事件から桓武の時代まで約半世紀ありますが、これは新たな「怨霊教?」が 定着するまでの時間であると考えられます。 いかがでしょうか。 Time : 1999/ 3/18(木) 12:40:51
Name : ノム E-mail : Title : 輔住さんへ Comments: 感想とご意見ありがとうこざいます。 僕も、桓武の手際は悪ければ内乱が起こったのでは ないかと思います。この事件の前にも天武系との こぜりあい(?)があったみたいですし。 Time : 1999/ 3/18(木) 15:05:28
Name : あきんど2 E-mail : Title : 安部君 Comments:  貴君は何故あそこまで先人の業績を馬鹿にした態度が とれるのか?それが不思議だ。そこで貴君に尋ねたいこ とがある。といってもどうやら今回も貴君はふてくされ てしまったようなので、そのうち御回答願いたい。  貴君は様々な時代について自説を述べているし、その 都度と言ってよいほど、学者の固定観念だの史料至上主 義だのを批判している。貴君がどう思うとも勝手だがね。  ちなみに私は貴君の考えを批判しているのではない。 ただ、根拠が不明瞭なくせに画期的な自説を展開し、歴 史学者を批判し、貴君の論の弱点を突かれるとふてくさ れ無視する態度を批判しているだけだ。  もちろん誰もが厳密な論証を確固たる史料等を添えて 議論すべきだとは思わない。この掲示板は素人が歴史談 義を楽しめばよい場所だと思うし皆そう思っているだろ う。  にもかかわらず貴君にこのように手厳しく書きこんで いるのはなぜかと言えばあまりにも先人の業績を馬鹿に する態度が目に余るからだ。確かに現在の歴史学会、に 限らず日本の学会は閉鎖的であり権威主義であろう。さ らに井沢氏や貴君が批判しているような唯物史観の貴君 流に言えば、大馬鹿野郎の学者もまだ生息しているかも しれない。だが敢えて君に問う。  君はその批判の対象にした学者の著作・論文をどの程 度読んできたのだ?多忙かもしれないが、せめて10冊 ぐらいの著書の名を列挙していただけないだろうか?  それとも貴君の批判の対象となった学者とは井沢氏や 山本氏の著作に出てくる学者だけなのか?存外、そうな のかもしれないね。RUGOMA氏も指摘していたよう にどうも貴君は井沢氏と山本氏のような流れの人間の作 しか読んでいないような気がする。唯物史観の大馬鹿野 郎と批判する気もわからんではない。しかし、特定のイ デオロギーに染まった著作だけを読んでその著作の尻馬 に乗って学者批判するだけで、しかも他人の忠告に耳を 貸さないようであれば、貴君の大嫌いな唯物史観学者と どの程度違うと言えるのだろう?  この掲示板は楽しい場所のはずだったと貴君は2月22 日に述べていた。そのとおり。ここ1ヶ月ほどの新人諸 氏の議論は実に楽しい。彼らは謙虚さを備えているから だ。先人の業績を否定するにはどれだけの準備が必要で あるかを判っているからだろう。それを踏まえた上で、 素人は素人なりに自己の意見を述べそれを交換しあう。 本来のこの掲示板のあるべき姿のように思える。  然るに貴君は自説のみを捲し立て、他者の批判を無視 し、問いかけにも応じない。貴君がたとえ50すぎのおじ さんであったとしても、この態度がいかに子供じみてい るかそろそろ気づいてもよかろう。違うというならば、 AWAJI氏やA氏、そして私の問いに答えてくれても よいはずだ。私が今一番知りたいことは貴君が批判して きた学者についてどれだけ勉強しどれだけ理解している かだ。あそこまで辛辣にするからには相当な準備がなさ れていたものと思うのは私だけではあるまい。それとも 貴君は単なる井沢氏と山本氏のエピゴーネンなのか? Time : 1999/ 3/18(木) 15:48:23
Name : ノム E-mail : Title : kazuさんへ Comments: こんにちわ。僕の意見はさっちーさんに話していま す。今晩からさっちーさんが投稿する予定なので そこに僕の意見もいれてくれるらしいです。 基本的には貴方と同じような意見です。 ぜひ見て下さい。 Time : 1999/ 3/18(木) 16:51:00
Name : 山村貞子 E-mail : Title : RUGOMAちゃんへ Comments: はじめまして、貞子でーす! おもうんだけどー。 あなたのいってることって、安部ちゃんといっしょでよく わかんないんだけどー。けっきょくなにがいいたいのー? 自分の意見をいったほーがいいよー。 Time : 1999/ 3/18(木) 19:17:36
Name : さっちー E-mail : Title : 怨霊について Comments: いやー恐かったですね。さっきの「リング最終章」。井戸の水の中に顔だけ浮かべ るなんて・・・びびりました。えっご覧になってない?こりゃまたしんづれいすま すた!はらほろひれはれー、というのはさておき、kazuさん、みなさんこん@@は。 さて怨霊なんですが、これの原形はやはり、「荒ぶる神」といわれる「神」のこと と考えてもいいのではないかと思います。どうしてかは前回までの投稿で記しまし たので、今回はkazuさんが例にとられた聖徳太子について、考えてみたいと思い ます。 聖徳太子は怨霊なのか?という問いかけがあればこれは「否」といわねばなりませ ん。あくまでも彼の霊は死んだ直後から神であるからです。神として祭られた後に 天変地異などを起こしても、「神の仕業」であるからです。ただ心の問題として、 後悔をもってその「神の仕業」を恐れるものにとってはその臨在感は「怨霊」と全 く同じものであると思います。つまり「神」であるかないかは認識の問題なのです。 では、その認識の違いをどう見分けるか?という問題がでてきます。井沢先生はこ の点を弔いの仕方や埋葬の仕方にもとめられました。そして死ぬ時の状況証拠によ って総合的な判断をされていると思います。つまり鎮魂の方法です。安部さんにも 確認しましたが同じ意見だったと思っています。これは間違いではないか?と考え ています。怨霊であるかないかはあくまで認識の問題であります。これを方程式の ように解く事は不可能ではないでしょうか?方程式にとらわれたため「怨霊」を見 誤っているのではないかと昨日ひらめきました。読者が混乱しないようにとの配慮 で「怨霊」または「怨霊信仰」という言葉に統一されていると思います。これが、 いろいろな摩擦?の源ではないでしょうか? 「怨霊信仰的」な信仰は、人類が社会性をもった時点で芽生えるものではないでし ょうか?「三国志演義」にも関羽の怨霊がでてきますがこれはその一例ではないか と思っています。 日本において怨霊としてだれもが認める最初は、菅原道真です。ここまでの怨霊は 怨霊的なものであり、怨霊そのものではないのです。怨霊として天変地異を起こす か、神(神の子孫である皇族も含む)となって天変地異をおこすかということだと 思います。道真は死んだ直後から怨霊です。それ以前は怨霊的な神ではないでしょ うか?神の怨霊的な部分が、遣随使や遣唐使のもたらす呪法や仏教的な世界観によ ってクローズアップされてきたのではないでしょうか? 神仏習合という言葉があります。これは本朝つまり日本の神と仏教の神を同一とし てとらえる考えでありますが、これが奈良時代から平安時代にかけて流行します。 この考えを「本地垂迹の説」と呼びます。 本地垂迹説の進展と完成によって怨霊の認識が広がっていったと考えています。 怨霊信仰とほぼ同じ信仰は神が意識されたのと同時にはじまり、怨霊信仰そのもの は、菅原道真の霊の怨霊化によって完成したといえるのではないでしょうか? Time : 1999/ 3/19(金) 00:12:32
Name : A E-mail : Title : あべさんはやくかえってきてください Comments: <平安時代、江戸時代という時代分類はあくまで目安 であって、この分類ほど意味のない時代の分けかたも ありません>。  他の、意味のある、分け方を提示していただけます か。あなたには容易な質問ですよね。 <平城京から長岡京と平安京への遷都は、同じ価値観 の基に行われた遷都であり、遷都という事実が、むし ろ奈良時代と平安時代初期の歴史の同一性をあらわ すと私は考えます>  遷都がどうして同一性をあらわすか説明してくだ さい。 ―この部分、あなたの論の特徴ですが、むしろ、、と つけてトンデモの論を続ける、そして根拠は示さず、 聞かれても答えない。ただ注目して欲しいだけ。 <称徳天皇ー光仁天皇ー桓武天皇ー平城天皇の間で 価値観は同一です。>  <光仁天皇の内政はアンチ称徳天皇、プレ桓武天 皇といえる>と述べられたのと矛盾しているのにお 気づきですか。もしこれがお分かりにならないよう であれば、もう申し上げることはありません。   <怨霊信仰の開始は、日本人の精神史に一代画期をな すものであるはずであり、桓武天皇のときに突然怨 霊の扱いが変化したとは私には思えない。> この部分はまあ、めちゃくちゃですね。もう一度整理 して書きこんでもらいたいです。  今度は旅行ですか?風邪ですか?試験ですか?早 く帰ってきてくださいね。 Time : 1999/ 3/19(金) 07:43:08
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様 Comments: 四死問題に回答いただき、ありがとうございました。 お礼が遅れてすみません。 1日あくと、あっという間に取り残される感じですね。 実は小生も明確に四死問題について意見が固まっていません。 それで、もっと多面的にご意見を伺いたいだけなのです。 Time : 1999/ 3/19(金) 10:34:41
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : awaji様へ Comments:  救世観音と日本人論、読ませていただきました。 御意見ありがとうございます。これからの意見がまともに受け取り すぎでしたら、お許しください。  おっしゃっておられることは、ほぼそのとおりと存じます。 言葉の「音」のみに限った議論では、文化論とは言い過ぎでした。 ただ、日本では英語文化はかなりの部分受容しているはずで、 他の国から見ても英語文化かぶれで、一般のポピュラーソングでも 英語の歌詞は使っていない方が不思議なぐらいです。 それにもかかわらず・・・と言いたかったのですが、 音だけをとり上げての議論は無理だと思います。 ただ、後述しますように、引用部分の次に続く音の区別と、 セットで論じていただきたかったのですが、わがままですか?  一般論として論じるのは難しいかもしれませんので、 このパラグラフは無視されて結構ですが、2つ質問させてください。 音の区別以外の外来文化受容で、日本とそれ以外の国で、 差がないという例はあるのでしょうか? もしくは、この文化的な側面は、日本はほぼ完全に受容できたと いう例もよく知りませんので、典型的な例があれば教えていただけませんか?  もっと皆さんの御意見を聞きたかったのは、実は引用されている部分以外の ところだったのです。前半部の四死問題、及び、後半部の音の区別の工夫です。 日本人の外来文化受容がいいかげんだという意見が一般的だとは知らなかったの ですが、「いいかげん」の長所もあわせて論じられているのでしょうか? このような区別は、日本以外にもあるのでしょうか? ただ自虐的に「日本はだめだ」という意見には小生は賛同していません。 軽い議論のつもりで結構ですので、御意見いただければ幸甚です。  ところで、ネームの由来は地名ですか?本名ですか? 差し支えなければ教えてください。 Time : 1999/ 3/19(金) 10:40:13
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ、遅れてきた2つ目の報告 Comments:  あっという間に次の議論に進んで、もう興味は 過去のものになってしまったかもしれませんが、 貨幣のことについて調べてみましたので報告します。  鉱山の開発により、朝廷にも鉱物の寄進が 天武あたりから、はじまったようです: 天武時代 674 対馬から銀 銀・銅銭 持統・文武時代 701 対馬から金 鋳銭司設置 元明時代  708 武蔵から銅→「和同開珎」 このように自家製の貨幣を使い始めたのですが、 続日本紀には、次のような記事があります: 淳仁時代 760.3.16.(天平宝字4)称徳による勅: 「銭を流通・使用させてから既に久しい。 公私にわたって必要かつ便利なことこれ以上のものはない。 しかしながらこの頃偽造が多くなり贋金が全体の半分にも 及んでいる。急に禁断すれば混乱が起こる恐れがある。 そこで新しい様式のものを作り、旧銭と併用させたい。 民に損が無く、国に益があるように願う。・・・」 このとき、造られた貨幣は、  新銭「万年通宝」=和同開珎10枚  銀銭「太平元宝」=新銭10枚  金銭「開基勝宝」=銀銭10枚 さらに、 称徳時代 765.9.8.(天平神護元年)  新銭「神功開宝」 万年通宝と合わせて通用させた。 という記事もありました。称徳は、貨幣の便利さに注目し、 2度もつくっていたのでした。以後も貨幣の偽造という問題が しばしば登場しますので、それなりに流通はしていたようですが、 一般的にはまだまだ交換経済だったようです。 ちなみに、「皇朝十二銭」と呼ばれるものは、上記の「和同開珎」、 「万年通宝」、「神功開宝」と以下の9つだそうです:  隆平永宝(796),富寿神宝(818),承和昌宝(835),  長年大宝(848),饒益神宝(859),貞観永宝(870),  寛平大宝(890),延喜通宝(909),乾元大宝(958) Time : 1999/ 3/19(金) 10:44:58
Name : ina E-mail : Title : ノムさん元気ですか Comments: 逆説の日本史12 ノムさんへ ご活躍のご様子、こころからおよろこび申し上げます。 @ 私のパソコンがおかしくなったのは、OFFICE 97の日本語版と英語版を 同じじパソコンで同居させている先輩に憧れて、かつ女の子にカッコをつけよ うとして、システムを混乱させてしまったのです。VAIOの責任ではありませ ん。VAIOはとてもよく働いてくれます。  ドスンと落とすと、液晶がすぐにだめになる、という記事は読んだことがあ りますが、とにかく私はVAIOを愛しています。 A excuseというのは、言い訳ですよね。つまり、天変地異が起こっても、支配 B 者の私の徳がないわけじゃなく、怨霊が悪いんだ、という意味です。 ただ、久しぶりに過去のログを読んでいて、ちょっと自分の説に自信がなくな りました。「怨霊は支配者から来た、と言う考え」ノムさんは一応支持してくだ さったみたいですが。 Bエントロピーの話ですが、ちょっと長くなっていいですか。  宗教の話は四拍手から、言語学へと展開しているようですが、ノムさんは神 様は本当にいるのか、と考えたことがありますか?  私は大学生の頃に考えたり、友人と議論したのですが、私は「いる」派だっ たんです。 「いない」派のひとつの論点は、創世記の天地創造ですよね。つまり、人間は 始めから人間だった、という説が、進化論で論破されている、と言うわけです。  これに対して、私の反論が、以下です。 1. エントロピーの法則、すなわち、物は自然の状態ではより低いエネルギー 2. 状態である、無秩序のほうに向かう、がある。進化は秩序のある方向へ向 3. かってますから、エネルギーが外から与えられない限りはありえない現象 4. だ。という論なんです。 5. とすれば、ダーウィンのいう進化論はエネルギーのもとを何か考えなくて 6. はならない。 7. それができなければ、ダーウィンのいう進化論は反証として意味を持たな 8. い、と言う意味です。  まあ、わかったようなわからないような話で申し訳ありません。 ただ、言いたかったのは、歴史でも宗教でも流れは逆行しない、と言うことで しょうか。  すみませんでした。遅くなって。 Time : 1999/ 3/19(金) 11:51:30
Name : -○○○- E-mail : Title : ↑ だんご3兄弟のつもり Comments: あきんど2さんっ!Aさんっ! 安部さんはメールアドレスを公開してるんだから、そこで質問すればいいのでは? 確かに客観的に安部さんの投稿を読めば、お二方のおっしゃるとおりですよ。 それを、いちいち公開の場で、どーこー言わなくてもいいのでは? 東京スポーツのUFOや宇宙人ネタの見出しに、いちいち抗議しますか? ふむふむ、と思ってればいいじゃありませんか。 安部さんの投稿が我慢できなければ、前述したように私信で問えばいいでしょう。 Time : 1999/ 3/19(金) 12:13:16
Name : -○○○- E-mail : Title : 場の雰囲気 Comments: いつか誰かが言ってた (ずいぶん前だったと記憶してます) 「なんかヘタなことを言ったら、叩かれそうな雰囲気」そのものだと思います。 Time : 1999/ 3/19(金) 12:18:49
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 場の雰囲気について Comments: 黙っていると、何か認めているようでどう言おうか迷っているうちに、 団子3兄弟様が取っ掛かりをつけてくれましたので一言。 このところ確かに安部様宛ての攻撃がきつくなっています。 公開の場で正論を述べるのは何ら悪いことではないとおもいますが、 あまり個人攻撃の度が過ぎるのはいかがなものかと思います。 もうすこし、いたわりの心を持ってオブラートに包んで (ひょっとして死語?) 御意見を発表されたらいかがでしょうか? 個人的にどうしても聞きたい質問があれば、メールで するべきで、答えをあまり強要すべきでないとおもいます。 もちろん、小生も質問を無視されている口ですので、 答えていただければありがたいのですが、興味を持っていただけないなら、 仕方がないとおもっています。 小生はどんな意見でも基本的に述べるべきという態度ですが、 もう少し貞子様のように寛容の心で、(ちょっと趣味が違いますが) 楽しく議論していただけませんでしょうか? Time : 1999/ 3/19(金) 12:41:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 一言 Comments: みなさん、こんにちは。 私自身、KANAKさんと論争をしていたとき、ここをいやな雰囲気に してしまったと思います。 だからあまり偉そうなことは言えないのかも知れませんが、 最近、話題になっている安部さんのことで一言。 安部さんがここに書いたことを質問しているのだから ここに書いて良いと思います。 質問の内容も-○○○-さんの言う通りおかしくありません。 ただ安部さんを挑発しているみたいな感じが気になります。 Time : 1999/ 3/19(金) 12:48:20
Name : ノム E-mail : Title : メールで質問? Comments: みなさんこんにちわ。だんご三兄弟さん、それは駄 目でしょう。このページの中での投稿についての 質問なんですから、ここで答えるのが筋だと思いま す。だって僕も知りたいからです。僕はパソコンを もってないので、アドレスがないのです。 Time : 1999/ 3/19(金) 16:42:21
Name : 山村貞子 E-mail : Title : やぼねぇー Comments: ちょっとみなさん。頼まれもしないのに勝手に援護しちゃったら、 かえって安部ちゃんも出にくいんじゃない?きっとあべちゃんの事 だから巻き返しの文をだすって!気長にまちましょ。 Time : 1999/ 3/19(金) 17:49:45
Name : 山村貞子 E-mail : Title : あきんど2さんへ Comments: はじめましてー貞子でーす。質問があるんだけどいいかなぁ?2ってことは 1もあるの?いるんなら今度つれてきてよ。おねがいねー。もしつれてこなければ あなたは呪われるよ。ふっふっふっ。嘘です。 貞ちゃんの素朴な疑問でした。 Time : 1999/ 3/19(金) 18:13:31
Name : ノム E-mail : Title : お礼 Comments: 大阪JF生さん、質問の答えありがとうこざいます。 この方面からの遷都の意義も考えてみたいです。 inaさんお久しぶりです。パソコンは全快ですか? 怨霊についてはさっちー説に傾いています。 用語説明ありがとうございました。 Time : 1999/ 3/19(金) 18:53:58
Name : RUGOMA E-mail : Title : 山村貞子さんへ。 Comments:  >おもうんだけどー。  >あなたのいってることって、安部ちゃんといっしょでよく  >わかんないんだけどー。けっきょくなにがいいたいのー?  >自分の意見をいったほーがいいよー。  ごめんなさい^^;  自分も毎回書き込んでから後悔してるんです。  「推敲しすぎて変な文になっちゃった。」と・・・  毎回一度書いた文を「これは根拠不十分だ」などと  削っていくスタイルを取っているので、日本語としても  おかしくなってますね。どうもすみません。  そうですね。これからはせめて文頭か文末に  自分の意見を要約しておくよう心がけます。  ご指摘どうも有り難うございました。 Time : 1999/ 3/19(金) 21:14:54
Name : さっちー E-mail : Title : 四は死につうじるのか? Comments: みなさん、こん@@は、「死拍手」について少し考えたいと思います。 八百万の神を祭り、天照皇大神を中心とする神を信仰する宗教の名前はなんと言う かご存知ですか?そうです。「神道」です。これは祭ってある神の名がなんであろ うと、その神が天御中主神と天照皇大神に連なる系譜にある限り、神道の神として 神社に祭られているのです。たとえ天照皇大神にさからおうと、たたかおうと、神 社にまつられ、神主が神と人との「取り次ぎ」を行う形式を持つまたは持っていた 以上動かせない事実なのです。 では、「神道」はいつできたのか?という疑問がわきあがります。これはいうまで もなく、「古事記」以後であります。それまでそれぞれの部族、地域、集団におい てまつられていた神を、一つの系譜にまとめたものが記紀であり、それを教義化し 儀式化したものが「神道」なのです。そしてこれは、平安遷都以後に急速に発展し ます。なぜでしょう?これは、神仏習合のながれにそって神を仏教的な世界観の中 で理解、認識したためです。つまり神道は仏教導入以後に形式化されたものなので す。これを見誤るとこの問題は解決しないと思います。 八百万の神は仏教以前から存在していたにも関わらず、仏教によって宗教化したの です。儀式や教義も古代から続くものもこの時点で整理されたとおもわれます。 四は神道の世界でどうとらえられているか?以外かも知れませんが、「良い数字」 なのです。四は「シ」でなく「よ」つまり「よい」のです。 「一霊四魂」という言葉があります。これは神道の根本概念のうちの一つで、 万物の霊性をあらわすことばです。「四魂」とは、「荒魂、和魂、奇魂、幸魂」 の四つです。 以下次回に乞うご期待! Time : 1999/ 3/20(土) 07:23:51
Name : A E-mail : Title : みなさん、すみませんでした Comments: みなさんこんにちは、Aです。  私の言動が不快感をお与えしたようで、深くお 詫び申し上げます。  ただ、若干の意見も出ていたように、このHP の意見に対して、このHPで質問ができず、直接 E-maleで、と言うことになったら、これは本当 の一方通行の掲示板になってしまいます。  皆さんは、安部さんを除いては、質問したり、 されたりする過程を楽しみに来ていらっしゃる と思いますから、これは困った事態だと思います。  もしその考えが正しいなら、安部さんこそ、歴 史学会の先生に直接手紙を書くべきで、 この暖かいHPに歴史学会の先生の根拠なき批判 を、独り善がりに述べているべきではないのです。 私には、以下の文をKANAKさんに投げつけたの が安部さんとはトテモ考えられないのです。 <彼の問題点は、自分の反対意見に対して、笑殺 する態度をとることです。反対「意見」といえな いような未熟な「意見」であっても、笑殺するこ とは許されません。もしも、自 分の意見に対して自信があるのならば、理性的に、 感情を極力廃して、相手を説得するべきなのです>  私はもう発言しませんが、皆さんで、楽しい HPを作っていってください。ご発展をお祈りし ております。 Time : 1999/ 3/20(土) 07:42:27
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と外来語??・・・ますます関係ないですね! Comments: 大阪JF生さん、こんにちはAwajiです。 >>ところで、ネームの由来は地名ですか?本名ですか?差し支えなければ教え >>てください。 父祖伝来の地が淡路島で、三好一族の末だそうです。(真偽のほどは不明) >>日本では英語文化はかなりの部分受容しているはずで、他の国から見ても >>英語文化かぶれで、一般のポピュラーソングでも英語の歌詞は使っていな >>い方が不思議なぐらいです。 他の国とは、どの国々を指しておられるのでしょうか? Awajiは少なくともアジアにおいては、日本は北朝鮮・中国・モンゴルを除け ば最も英語文化かぶれしていない国の一つだと考えています。 世界的に見ても、おそらくそうではないでしょうか? >>音の区別以外の外来文化受容で、日本とそれ以外の国で、差がないという >>例はあるのでしょうか? >>もしくは、この文化的な側面は、日本はほぼ完全に受容できたという例も >>よく知りませんので、典型的な例があれば教えていただけませんか?  Awajiは、以下で申しあげたとおり、 >夫々の民族(国家)は長い歴史にわたる固有文化・言語習慣を持っています。 >従って、外来文化・言語を受容する場合も、当然夫々の固有文化との融和が >必要であり変容があるでしょう。・・・ 外来文化の受容は時代背景・外来文化の性格・固有文化との融和性等により、 夫々差があって当然で、日本だけが特別イイカゲンともマジメとも言えない と考えていますので、一般論として言えば差があるという例も、差がないと いう例もないと思いますし(我ながら変な言い方ですね!)、外来文化を完 全に受容できた例も知りません。 (正直いえば、質問のご趣旨が良く分かりません。どこか噛み合っていませ んね。) >>後半部の音の区別の工夫です。 基本的には、その方が便利だから、或いは受容した時代と受容経緯が異なる からでしょうが、次のように理解することも出来るのではないでしょうか? つまり、日本はヨーロッパ系外来語を取り入れた歴史が、他のアジア諸国に 比べ、より重層的であるように思います。 1.安土桃山時代・・・・・・・・ポルトガル語 2.江戸時代・・・・・・・・・・オランダ語 3.明治〜戦前時代・・・・・・・ドイツ語(哲学・軍事・医学等学術用語) ・・・・・・フランス語(文化・芸術語) ・・・・・・英語(経済・商業) ・・・・・・米語(野球・その他日常語) 4.大戦後・・・・・・・・・・・・米語(あらゆる分野語) 例えばドクトルはドイツ語(或いは元来はオランダ語?)ドクターは英語 (米語)ですが、その流入経緯(背景)により微妙に用例がちがいますね。 コップとカップはオランダ語?と英語の相違?(責任は持てませんが)等 による部分もあるかも知れませんね。 カルタとカードになれば原語が別と言うことが明らかなのですが、ものに よっては原語自体の発音が類似しているため、独・蘭起源の言葉を英語( 米語)起源と理解すると、どうしてこんな風に発音するの?となるのでは ないでしょうか。 Awajiはタダノ仏像オタクですので、難しい文化論は分かりませんが、山本 さんを含めて所謂「日本人論」には日本の特殊性を強調しすぎている部分 が多いように感じています。 (あえて言えば、島国という地政的特殊性は有ると思いますが。) Time : 1999/ 3/20(土) 11:08:20
Name : ina E-mail : Title : ちょっとまぜてくださいな Comments: 逆説の日本史13 Awajiさん 大阪JF生さん、こんにちは、  お二人とも礼儀正しい方だからか、少し内容がわかりにくいのですが、混ぜ てもらっていいですか?  私は基本的に日本の特殊事情を強調しすぎるのは問題だと思うのですが(つ まりAwajiさんに賛成)、明治維新と、その後の国力の展開についてどう思わ れますか?  アジア地区ではわずかに日本とタイ、アフリカではエチオピアですか。少数 の例外を除いて植民地化されたわけですが、これはやはり特殊事情を考えたい ですね。「和」が至上の国、というのは聖徳太子が和を称揚してからで、実は 相当戦闘的な、、という気がしてしまうのですが。それも太平の世のあとでこ んな芸当ができるとは、今更ながらに驚いてしまいます。 Time : 1999/ 3/20(土) 14:43:18
Name : ina E-mail : Title : ノムさん Comments:  パソコンは全快なのですが、相変わらず、 パソコンが出過ぎた真似をするのには悩まされています。  勝手に数字をつけたりとかね。 Time : 1999/ 3/20(土) 15:08:06
Name : 山村貞子 E-mail : Title : RUGOMAちゃんへ Comments: わかってくれて、ありがとー。これからもがんばってねー。いやみじゃないからね。 ねんのため。じゃあね! Time : 1999/ 3/20(土) 17:44:09
Name : あきんど2 E-mail : Title : 私もしばらく投稿を控えようと思います Comments:  私もしばらく投稿を控えようと思います。  言いたいことは既に述べてきた通り。ここで立場を はっきりさせておきたい。私は安部氏の考え方が気に いらないからあんなことを書いたわけではない。した がって <ヘンなこといったらたたかれる という指摘はいささか心外である。私はたとえ自分の 気に入らない意見であってもそれを叩き潰すつもりな ど毛頭ないのだ。むしろ井沢氏のファンである私はど ちらかと言えば思想的に安部氏よりであるかもしれな い。その私が今風に言えばぷっつんしてしまったのは なぜか。それは既に述べた通りである。繰り返しにな るがもう一度だけ書いておきたい。  安部氏は自己の主張はするが、それに対する批判や 質問には答えようとしない。ノム氏の質問の一部は、 後日述べるそうだから待つとしても、他はどうなのか。  少なくともAWAJI氏の指摘には真摯な回答をす べきと思うのは私だけであろうか?  またA氏の指摘も表現は私同様いささか行きすぎか も知れないが急所を突いていると思う。  確かに見ようによっては重箱の隅を突つく意地悪な やり方ととられるかもしれない。  しかし安部氏がああまで従来の学者を一括りに批判 するからにはやはりそれだけの着実な検証を求めてし まうことはいけないことなのだろうか?しかもどう考 えても安部氏は井沢氏や山本氏の著作のような同じイ デオロギーの流れを汲む書物しか読んでいないように 思われる。当然のことであるがどんな人間にもイデオ ロギーというものはある。そして文章をかけばそのイ デオロギーも当然表出する。そしてまた当然のことだ が、人は自分のイデオロギーに似た、あるいは許容し うる文章を好むのであり、安部氏が単なる読者である ならば井沢氏や山本氏の著作だけ読んでいても何の問 題もない。安部氏にとって唯物史観の学者の文章を読 むことはさぞかし苦痛だと思われる。  しかし、安部氏はその著作を読んでもいない学者を 平気で批判する。回答がないので多分読んでいないの だと思うが間違ってたら回答により訂正してほしい。  つまりは井沢氏や山本氏が批判しているから従来の 歴史学者は大したことはない、いや間違っている、歴 史学会は凝り固まった固定観念などは捨ててもっと ちゃんと研究しろ! と言っているようにしかとれな いのだ。 <ヘンなこと言ったらたたかれる という書き込みがあったが、立場を替えて見るとよい だろう。安部氏は旧来の学者を常に批判する。つまり 安部氏は学者がヘンなこと(間違ったこと)を言って いると批判しているわけだ。ただ、この掲示板では誰 が何を書いたかをみて検証することも可能だからかま わない。問題なのは安部氏が自分で確かめることなく 学者がヘンなこと(間違っていること)を言っている と非難しているところにある。その根拠はと問われる と無視する。おそらくその根拠は井沢氏や山本氏の著 書にはあると思うのだが。  この掲示板という場所はオープンな場所である。だ からどんな意見の持ち主であってもその思想のゆえに 排除されるべきでないと私は思う。一連の私の書き込 みが、安部氏排斥の意図を持つものと思われたなら心 外である。ただ、そのようにしか取れない文章を書い てしまった私に責任の大半はある。許していただきたい。  私は単に安部氏がどのように回答するか。それを読み たかっただけなのだ。回答を強要すべきでないという 大阪JF生氏の意見はもっともである。私も少しくらい 問いに回答がなくてもかまわないではないかと思う。  しかし、安部氏の場合、それがあまりにも多すぎる。 しかも、安部氏の急所をつく質問にはまず答えない。そ して秋篠寺や中華思想など自己の意見のみ並べる。それ はやはりおかしくはないだろうか?  安部氏に限らずこの掲示板に立ち寄る人間の圧倒的多 数は歴史学を専門としないものばかりだ。充分に史料を 検討し厳密な議論を重ねる性質の場所ではない。時には 単なる思いこみや勘違い、史料の読み取りかたの独創的 といえば聞こえはよいがめちゃくちゃな解釈もでてくる こともあろう。発言が多くなればなるほどそのような失 敗も当然出てくるはずだ。それがいけないとは私は全く 考えていない。  安部氏に願うことは簡単なことなのだ。従来の歴史学 者を批判するならば、とりあえず彼らがどのような説を 述べているかくらい勉強していただきたいのだ。かつて KANAK氏が述べていたように。多くの人にとってそ れは実に困難な作業だ。自分とは異なるイデオロギーを もつ書物を読むことはかなり苦痛であるしそんな時間も ない。だからこそ多くの人は安部氏ほど激しく学者批判 などしないのだ。不充分な勉強で井沢氏たちの著書から 得た生半可な知識で学者を否定することさえやめていた だけば別にかまわないのだ。ノム氏にしてもおそらく、 学者批判以外の点で安部氏を否定するつもりはないとみ たのだがどうだろうか?   そして質問にはできれば真摯に答えていただきたい。 確かに私やA氏の質問はいささかきつい表現であり気分 を害したかもしれない。その点は私の分に関してはすま なく思っている。  だがやはり自説を主張するだけで反論からは逃げ回る という態度はあまり気持ちのよいものではない。誤りが あれば認めることも大事であるし、異議があれば再反論 すべきである。他の考えを持つものからの忠告を一顧だ にしないのはいかがかと思うのだ。  以上前2回と同様な話になってしまったが、安部君。 そのうち帰ってきていただきたい。私を一生許さなくと もかまわない。許してもらう筋合いのものでもないが。 ただ、もう少し謙虚な学者批判と誠実な検証および回答 をお願いしたいだけなのだ。独創的という点では RUGOMA氏の指摘どおりである。ただ、根拠もなし に、またはあやふやな根拠に基づいて学者を批判し自説 を並べまくるのは独創的とはまた違うものと思われる。  さて長々と駄文をつらねもうしわけない。私は安部氏 が帰ってくるまで待とうと思う。彼にも言いたいことは 山ほどあるだろうし。  なお、貞子さんに回答させていただく。私の名の由来 はその日の昼食を回転寿司のあきんどで食べたからであ り次男なので2としただけである。大した理由なくて申 しわけない。   Time : 1999/ 3/20(土) 18:12:07
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と和??・・・これもあまり関係が無いですね! Comments: inaさん。はじめまして。Awajiです。 いろいろと、難しい議論が続いていますが、蚊帳の外で失礼しています。 (幸か不幸か、貞子媛神の呪いも免れていますので、) ただの仏像オタクが柄にもなく、何時の間にか日本人論にまで参加してしま い、我ながら戸惑っていますが折角のご指摘ですので、 >> アジア地区ではわずかに日本とタイ、アフリカではエチオピアですか。 >>少数の例外を除いて植民地化されたわけですが、これはやはり特殊事情を >>考えたいですね。 Awajiは基本的には、日本の特殊事情を強調しすぎるのには疑問を持ってい ますが、逆に言えば各民族(国家)は夫々の時代における特殊事情を持って いると考えています。(その意味で、民族性を固定的に考えすぎるのも疑問 です。)例えばナポレオン全盛期のフランス人は、世界最強の兵士ですが、 僅か数十年後にはドイツ人にその軟弱を嘲笑されることになりますね。 敗戦までの日本人も、おそらく世界最強の兵士だったでしょう。しかし現在 の日本人は?? この間僅か一世代か二世代です。 幕末において、日本が植民地化される危険性は確かにあったと思いますが、 おそらく西郷・勝の決断がなくとも、それは回避されたのでは無いでしょう か?その要因は様々に考えられますが、 1.国内的に藩意識を超え「日本人」という統一意識がほぼ確立していた。 2.これを支えたものとして、「読み書き算盤」という民衆レベルの基礎 教養( 実学)の異常な普及と全国的市場経済の発展が有った。 3.基本的に中国的文人統治ではなく、武人統治の伝統が有り、パワーポ リテックスに敏感であった。 4.為政者レベルで、他のアジア諸国の植民地化の先例を充分に学び得る余 裕があった。 5.地政的に重要な位置を占めており、列強の利害が対立的で相互牽制が 一国の植民地化を許さなかった。 等が挙げられるとおもいます。(ザットした思い付きです厳しい突っ込み は、ご容赦を!) >>「和」が至上の国、というのは聖徳太子が和を称揚してからで、実は相 >>当戦闘的な、、という気がしてしまうのですが。 お言葉を返すようですが、聖徳太子の「和」は平和主義を意味しているの ではないと思います。以前に次のような意見がありましたが、Awajiも同感 です。(現実に新羅攻撃を企図していますよね。) ********************************* 言うまでも無く・・・内に「天皇家」中心の「和」を説き、国内の団結を固 めることによって・・・外に「新興強国『隋』」に対等外交を主張し、「隋」 と対抗する「高麗」との連携を保ちつつ「南韓の自国権益」を確保する強硬 路線を採る。(逆もまた真)こんなことは「政治」の初歩の初歩でしょう?  そしてそれを敢然と行うのが国際緊張下における(当時の)「政治家」と言 うモノではないですか? 十七条憲法(とされるモノ)では・・・まさにこの「天皇家」中心の「和」 の理念が説かれているのではないでしょうか。  一曰 「以和為貴、無忤為宗。・・・然上和下睦、・・・」  二曰 「篤敬三宝・・・萬国之極宗・・・」  三曰 「承詔必謹。君則天之。臣則地之・・・」 十二曰 「・・・国非二君。民無両主・・・」 十四曰 「・・・千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国」 十五曰 「背私向公、是臣之道矣・・・」 ********************************* また、倭人の組織的団結力(武力主義的傾向)は、時代により変化するもの の、かなりの固有性が有るようですね。これは中国史書でも窺えると思いま すが、「三国史記」でも繰り返し倭人(倭国)の脅威の歴史が記述されてい ます。後世の「倭寇」が「中国・朝鮮」に与えた脅威もご承知のとおりです。 何しろ時代の要請とはいえ、鉄砲伝来(1543)以降わずかに30年で、世界史 上はじめての組織的銃撃戦を行った(1575年長篠の戦)ケッタイナ国ではあ ります。あれこれ考えると、民族の時代的特殊性と固有性を判断するのは、難 しいですね。 Time : 1999/ 3/20(土) 20:59:46
Name : 山村貞子 E-mail : Title : あきんど2ちゃんへ Comments: やだー!あきんど2ちゃんたら!おかたいのね。こんなことでひかえる必要 ないのに。これからもばんばんつっこめばいいのにぃー。 おへんじありがとうね、またここであいましょう。 Time : 1999/ 3/20(土) 21:25:20
Name : ina E-mail : Title : Awajiさん おはようございます Comments: 逆説の日本史14 Awajiさん、ありがとうございました。 「民族の時代的特殊性と固有性」、これこそ相対的な観点から柔軟に歴史を見る、 と言うことでしょうか。  私は観念的には、日本の特殊性を認めたいほうです。ですから、日本とドイ ツの安全保障理事会入りがとり沙汰されれば、やはり、「大戦で完全に破壊され た両国が再び台頭していることに民族の固有性を見たい気になるのですが、考 えてみれば、トルコ、スペイン、イタリア、など、過去世界帝国を築いた国家 でも現在の状態が必ずしも良くない国家がありますから、日本人とドイツ人は 優秀だ、というような論理には無理があるかもしれません。時代的特殊性―両 国の特性が今の時代状況にマッチしている、ということでしょうね。  引用はKANAKさんの投稿ですよね。納得。私もKANAKさんの過去のログ は保存しておきたいなあ。私、もともとはKANAKファンとしてこのHPに混 ぜていただいたのです。  では又、よろしく  ちなみに私にはオブラートは不要です。頭が悪いもんでオブラートがあると 理解できなくなっちゃうんですよ。 Time : 1999/ 3/20(土) 21:46:43
Name : さっちー E-mail : Title : 四は死につうじるのか?2 Comments: みなさんこん@@は、だれも期待していないようですが続きを書きます。 「四魂」は、字の如く四つの魂のことです。一霊(一つの現象、物体、生命)には 四つの魂があるという事を「一霊四魂」と呼ぶのです。私は四回の拍手はこの「四 魂」を表していたのではないかと考えています。 また、「寿詞」というものがあります。これは天皇にたいして臣下が唱える祝いの 言葉です。この読み方は「じゅし」ではなく「よごと」と読みます。この場合の「 よ」は「いのち(四魂)」「寿命」などを指します。神道の奥義にはこの「寿詞」 を唱えることにより、臣下は天皇に「命」つまり「一霊四魂」を預けるというもの があったとされています。このような神道的な儀式においては「四」は神聖な数詞 であり、不吉感のともなう「死」にはつうじないものなのです。 つまり、「四拍手」の「四」はいのちの象徴の「よ」を表すものであり、「死」 ではありえないものなのです。という事は出雲大社以外の神社でも昔は、そして 正式の儀式としては「四拍手」をしていたのではないかと推測されます。 では何故、出雲大社をはじめとするいくつかの神社以外では四回の拍手ではなく 二回の拍手になったのかという疑問が湧きあがります。これについては、江戸時代 に盛んとなった「国学」つまり仏教的な世界観をとり除いた「神道研究」をつうじ 「日本国の正統」を考える学問の影響ではないかと考えています。 この研究家として有名な人物が本居宣長と平田篤胤といった国学者です。彼らは 古事記に対しての研究などをおこない、日本の正しい姿はどんなものなのかを思索 しました。この国学は当時の幕藩体制に対する批判にも繋がっていきますが、これ はまた別のおはなし・・・・・・・・・・。というどこかできいたせりふとともに 本筋にもどります。 この研究の中でかれらは「魂魄」という二つの霊により日本人は成り立っていると 考えました。この「魂・魄」の二つの象徴として二回の拍手が行われるようになっ たのではと考えています。もちろん想像なのですが。そして単純に「略式」という 可能性もあります。四回が二回になった理由のあとづけで「四」は「死」につなが るという理由がつけたされたかもしれません。 そしてオオクニヌシが牢屋にいれられているという説?についてなんですが、これ は明治以後の国家神道の影響だとおもわれます。国家神道における最高神はいうま でもなくアマテラスです。出雲大社においてもオオクニヌシにかわりアマテラスを 祭るように政府によって命令されたため、ああいった配置でないと許可がおりなか ったのではないかと思われます。古代においては「御神体」は「山」「岩」といっ た自然物です。出雲大社の本来の御神体は大社の裏にある「山」であったと思われ ます。したがって拝殿はあくまで拝殿であり御神体では有り得ないのです。 しかし、国家神道による強制のため拝殿の中にアマテラスを祭らざるをえなかった ためああいった配置であると出雲国造はいいのがれオオクニヌシを同時にまつる事 を許されたのではないかと考えています。 ちなみに神道が国家神道になった時に全ての神道系の宗教はアマテラスを祭る事に よってその存続を認められたのです。これは歴史事実です。 みなさん、できれば感想をお願いします。 Time : 1999/ 3/20(土) 22:45:11
Name : ina E-mail : Title : さっちーさんおひさしぶりです Comments:  こんにちは  要するに出雲大社の配置は明治以降ということですか。  すると、なぜはっきりとした記録がないのでしょうか。  あと、国造家との関係が井沢先生の説明ほど明確でなくなる気がしますが。  そして、諏訪大社の配置も気になります。諏訪大社ではどう言う形で祭られてい るのでしょうか Time : 1999/ 3/20(土) 23:28:01
Name : PLost E-mail : Title : どこから来て、どこへ行くのか Comments: 井沢先生、皆さん、はじめましてPLostと申します。 私が歴史に興味を持つきっかけは、アイヌでした。当時、北海道に住んでいた私の目にアイヌは、どう見ても 外国人でした。 彼らが外国人なら、彼らの起源は中国か韓国だろう(風貌からして白人とは思えないし、 ヨーロッパから日本まで、渡ってくれば足跡が残るはず)  しかし彼らと同じ、または似たような風習、言語を持つ民族がアジアにはおろか、日本、そのほかの諸外国 にも見あたりません。  アイヌは先住民と言うが、それならば天皇家、大和朝廷に あイヌの色が全く見あたらないのは何故か?  中学で教えられた歴史では、[縄文人が、海外から入ってきた稲作文化の影響を受けて、弥生人と変貌した。]  すなわち、[縄文人の子孫が、弥生人である。]とのことですが、それならば ■(1)大和朝廷の大豪族[物部、蘇我、等]が、渡来人なのか。  (2)(1)の問題と併せて、卑弥呼の時代から、わずか2、300年で、朝鮮との結びつきを、どう構築したのか。  それまでは、この疑問に結び付くような答を出しているような、人間はいなかったように思われます。 ■■しかし、従来の論、説に縛られず、別の方向から真理に光を当てようとしている、それが井沢さんではないかと思います。 ■■長くなったので、今日はこれでやめます。私の意見に異論、疑問もある人もおりましょうが、述べさせて頂ました。 ■■井沢先生、くれぐれもお体を大事に、そしてお仕事に頑張ってください。 From PLost Time : 1999/ 3/20(土) 23:45:57
Name : PLost E-mail : Title : どこから来て、どこへ行くのか Comments: 井沢先生、皆さん、はじめましてPLostと申します。 私が歴史に興味を持つきっかけは、アイヌでした。当時、北海道に住んでいた私の目にアイヌは、 どう見ても外国人でした。 彼らが外国人なら、彼らの起源は中国か韓国だろう(風貌からして 白人とは思えないし、ヨーロッパから日本まで、渡ってくれば足跡が残るはず)  しかし彼らと同じ、または似たような風習、言語を持つ民族がアジアにはおろか、日本、その ほかの諸外国にも見あたりません。  アイヌは先住民と言うが、それならば天皇家、大和朝廷に あイヌの色が全く見あたらないのは何故か?  中学で教えられた歴史では、[縄文人が、海外から入ってきた稲作文化の影響を受けて、弥生人と変貌した。]  すなわち、[縄文人の子孫が、弥生人である。]とのことですが、それならば ■(1)大和朝廷の大豪族[物部、蘇我、等]が、渡来人なのか。  (2)(1)の問題と併せて、卑弥呼の時代から、わずか2、300年で、朝鮮との結びつきを、どう構築したのか。  それまでは、この疑問に結び付くような答を出しているような、人間はいなかったように思われます。 ■■しかし、従来の論、説に縛られず、別の方向から真理に光を当てようとしている、それが井沢さんではないかと思います。 ■■長くなったので、今日はこれでやめます。私の意見に異論、疑問もある人もおりましょうが、述べさせて頂ました。 ■■井沢先生、くれぐれもお体を大事に、そしてお仕事に頑張ってください。 From PLost Time : 1999/ 3/20(土) 23:52:30
Name : さっちー E-mail : Title : 国家神道による変化 Comments: inaさん、おひさしぶりです。何処かへ出張でもなされていたのですか? パソコンの具合がよくなかったそうですね。パソコンを入院させていたので しょうか?ノムさんはなかなか桓武に進まないのでここにくるのをやめたのかと 思い、桓武へ一人でいってしまいました。輔住さんと大阪JF生さんが話相手に なってくれてるようです。 出雲大社の神座の配置は正直いってまだ確認がとれていません。しかし、国家神道 が国津神(オオクニヌシをはじめとする天孫以外の神、天孫系は天津神といいます) の祭祀を認める引き換えにアマテラスおよび天津神の合祀を強制したらしいです。 つまりこれをうけいれないと神社神道として許可しないという事です。 出雲国造の80代めにあたる千家尊福(1845−1918)はこの措置に反対し 国造の地位を自ら降り、弟にその職をつがせ、自らは出雲大社教(いずもおおやし ろきょう)を開いたとされています。この話は出雲へ旅行にいったとき案内所でき きました。国造をおりてまであたらしい宗教を起こすという事は、出雲大社はこの 時明治政府の指揮下におかれなんらかの変化を強制されたと推測しました。 国家神道の事務局に神社神道として登録されれば政府の援助が受けられるという事 です。80代出雲国造は援助をことわってまで出雲大社の祭祀にこだわったという ことです。という事は今伝わっている祭祀と国家神道以前の祭祀ではある程度の差 があるという事です。 何故そこまでこだわったかについてはすごく長くなります。簡単にのべると、この 国造は出雲の祭祀は天皇の祭祀よりも上位にあるべきだと信じていたようです。 この考えは江戸時代の国学に根差したものです。 いいですか、出雲国造の家柄は神武より古いのです。同時ではありません。 何故かはわかりますよね。国造は神武の生誕より前に出雲に降臨しているからです そうでないと「国譲り」は成立しないのです。国造が国を譲りうけたからこそ 神武の父は降臨できたのです。これが国学的な古事記の解釈です。 ですから、天皇は国造とオオクニヌシに「借り」があるのです。 日本の統治者としてみとめて貰ったという。 その「借り」をわすれたかのような振る舞いに抗議したのです。 宗教の解釈については時代によってさまざまな形となるのです。 ちょっとちんぷんかんぷんとなりましたが、いかがでしょう? 諏訪大社は古事記には出雲系の神として記してありますが、本来縄文時代の ご当地の神がまつられています。援助をうけたいのなら祭祀は変更したでしょうし 援助がいらなければ、そのままだったでしょう。 出雲は援助はうけて当然だが、祭祀の変更はうけられないという立場だったのでは ないでしょうか? Time : 1999/ 3/21(日) 00:54:38
Name : ina E-mail : Title : satti-sann JF Comments: さっちーさんへ  パソコンをリストアしていました。 その間に多くの興味深い論点が噴出しているようですね。 「出雲国造の家柄は神武より古いのです。同時ではありません。何故かはわかりま すよね。国造は神武の生誕より前に出雲に降臨しているからです そうでないと「国譲り」は成立しないのです。国造が国を譲りう けたからこそ神武の父は降臨できたのです。」  なるほどね。  アメノホヒの同じ世代が、天皇家の祖先としてはアメノオシホミミ、とすると、神武同世代の国造とかはわかるのですか。  複雑ながら、雄大な想像の世界へ引き込まれるような話ですね。  大阪JF生さん。  KANAKさんへの尊敬絶ちがたく、直木孝次郎先生著、「日本古代国家の成立」 講談社学術文庫を買ってきました。前に大阪さんが推薦されていたのはこの本で したっけ? Time : 1999/ 3/21(日) 04:39:56
Name : ina E-mail : Title : tyotto tuika Comments: 逆説の日本史15 さっちーさんへ 「それ以上に彼の新見をより深ところで支えたのは、日本は万国に優れた国であ るとする強烈な国家意識、すなわち国学の精神であった。尊いわが国の、しかも 宣長が理想とする古代の朝廷が「いやしき」中国に朝貢することを彼は認めるこ とができない。そんなことをするのは「皇国」の中心から遠くはなれた辺地の酋 長でなければならない。」以上、直木孝次郎先生著、「日本古代国家の成立」講談 社学術文庫P31より引用  宣長が邪馬台国九州説を述べていることに関する説明の部分です。これからす ると、国学の立場は、大和の政権をなによりも高貴、と考えると言うことだと思 われます。  その理解からすると、「簡単にのべると、この国造は出雲の祭祀は天皇の祭祀よ りも上位にあるべきだと信じていたようです。この考えは江戸時代の国学に根差 したものです。」 の部分に結びつきにくいのですが、、、。  少し説明を加えていただければ幸いです。 大阪JF生さんへ 直木先生は今年80歳になられるのですね。 Time : 1999/ 3/21(日) 15:54:10
Name : さっちー E-mail : Title : 神道について Comments: みなさんねこん@@は、inaさんその説明は神道の教義解釈となってしまうので、 割愛させていただきました。なかなか簡単には述べられないのです。私も15年程 前に神職の方に説明してもらった事なので100%の正しいものではないと思うの ですがよろしいでしょうか?もしかすると間違った説明になるかもしれません。 そして何よりその方の主観が混じっているというのは十分考えられる事ですし、私 の記憶違いもあるでしょう。私自身が神道の信者(この表現でいいのか?)ではな いので細かい教義などはわからない事もあります。 このような不確かな情報でよろしければお答えしたいと思いますが、よろしいでし ょうか?御面倒ですがお返事下さいませ。 Time : 1999/ 3/21(日) 20:58:16
Name : ina E-mail : Title : さっちーさん Comments:  よろしくお願いします。  直木先生の文章そのものを私は触っておりませんので、先生の 解釈に基づいての私への回答で勿論結構です。    昔、西洋の絵画を理解するのに宗教的知識が大切だ、と痛感 したのですが、我々の今の話にも当てはまりますね。 Time : 1999/ 3/21(日) 23:31:57
Name : ina E-mail : Title : さっちーさんへ Comments: その方、というのは神職の方のことですね。 すみません。はやとちりしました。 Time : 1999/ 3/21(日) 23:35:05
Name : RUGOMA E-mail : Title : 金曜まで研修に行きます。 Comments:  というわけで自分宛に何か回答・質問などがあっても  お答えできません。ご了承下さい。 Time : 1999/ 3/22(月) 08:49:35
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : まとめてお返事お許しください Comments:  ご意見いただいた皆様ありがとうございました。 Awaji様  ご説明および、ネームの由来のご回答ありがとうございました。 小生の説明のまずさのため、少しかみ合わなかったこと お詫び申し上げます。 >夫々の民族(国家)は長い歴史にわたる固有文化・言語習慣を持っています。 >従って、外来文化・言語を受容する場合も、当然夫々の固有文化との融和が >必要であり変容があるでしょう。・・・ は当然のことで、それに反することをいった覚えはないのですが・・・。 井沢先生も基本的にそうだと(勝手に)思うのですが、小生も 日本人の特殊性を殊更強調したいとは思っておりません。 単に「日本人の特殊性とは何か?」を知りたいだけなのです。 「救世観音と和??」の記事ではその方向でお話でしたので、 そういうご意見をお聞きしたかったのでした。 つまり、ケッタイな国の特性を質問したかったのでしたが、 勝手なお願いですが、続いていろいろ論じていただければ幸甚です。 また、 >Awajiは少なくともアジアにおいては、日本は北朝鮮・中国・ >モンゴルを除けば最も英語文化かぶれしていない国の一つだ >と考えています。世界的に見ても、おそらくそうではないでしょうか? は完全に小生の認識不足でした。このご意見を聞けただけでも 質問した甲斐はありました。重ねてお礼申し上げます。 ina様  上記のような趣旨で、ご理解いただきたいのですが、 ことさら特殊性を求めるのではなく、素朴に特殊な部分は どこかを知りたいのです。その線でご意見いただければ幸いです。 あきんど2様  拙文の趣旨をご理解いただき、ありがとうございました。 団子三兄弟様も、本当は質問はすべてメールでとおっしゃっているわけ ではないと思います。もしそうなら、それも意見の排除になりますから。 ただ、少しきつい言い方だといいたかっただけでした。 ご批判はおそらくおおいに歓迎されると思います。 A様  上記の趣旨でご理解ください。ご意見を排除しようという気持ちは 全くありませんので、そういう風に聞こえたのでしたらお許しください。 さっちー様  お久しぶりです。四死問題にご意見いただき、ありがとうございます。 国学の影響もあるかもしれないのですね。ただ単純に4が2に略式化 されたというより、理由付けがこのようにないと変だと思います。 ほとんど2に変化しているようですから、ina様のエントロピー論では ありませんが、秩序を感じさせる方向に動いていますので、 何か原因があると思います。まったくの妄想ですが、たとえば偉い神社が 他の神社を差別化するために2拍手に略式化するよう要請があった」とか (まずないでしょうが)、そんな理由でもいいから欲しいところです。 Time : 1999/ 3/22(月) 10:01:13
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様、言い忘れていました Comments: 質問を受けていたのに答えるのを忘れて、失礼しました。 > KANAKさんへの尊敬絶ちがたく、直木孝次郎先生著、 >「日本古代国家の成立」>講談社学術文庫を買ってきました。 >前に大阪さんが推薦されていたのはこの本でしたっけ? 特に推奨した本はありませんでした。 ただ、秋篠関係が載っている本を挙げただけでした。 直木先生は古代史に造詣が深く、また、エコール・ド・ロイヤル とかいう研究集団で、ご意見も発表されているようで、 その方面の本も1冊読みました。 読まれた本のご感想もよければお聞かせください。 Time : 1999/ 3/22(月) 10:09:18
Name : きんたろう E-mail : Title : ローマ Comments: ローマは他国との戦いに連戦連勝し続けました。 敵地を征服する際にローマ兵は真っ先にその神殿を略奪し、その神々を自国 へ持って帰ったということです。 何しろ当時のローマ兵は神々を人質?(神質?)にとっておけば復讐される 心配はないと信じていたからだという事です。 この捕囚の神々以外にも異国の神々が大量にローマ入りしました。 外国人が大量に移住する際に異境の淋しさを慰めるため神々をつれてきたからです。 この祭殿は外国人達が自費でしましたが、ローマもこれを歓迎しました。 その様な訳で外来神は次々と公認され神々は増え続けました。 2000年前、ユダヤではいつの日か降臨して人民を悪の手から解放してくれる 救世主の待望論がありました。 この救世主は「人の子」、つまり伝説のダビデ王の後裔で悪を駆逐し愛と平和と 繁栄を確立するのです。悪とはローマのことを指します。 この期待はローマ支配下の他の諸国にも広がり始めていました。人々は自国の将来 の信念を失っていましたので、それを精神の世界へ移し始めていたのです。 でもその期待がパレスチナほど強烈だったところはありませんでした。 イエスが自分を「人の子」だと宣言した時、問題が生じました。 ユダヤ教の長老会議がイエスを逮捕しましたが、それは恐らく政治的なこと が主な理由だったと思います。 ローマに対して反乱を引き起こされれば、また大量の殺戮が行われてしまう事 は容易に想像できたからです。 このキリストに対する信仰はユダヤ人にしか広がりませんでした。 キリストは全人類の救世主ではなくあくまでユダヤ人の救世主だったからです。 また、キリストの名言集もユダヤ教の中に昔からあるものばかりでしたから ユダヤ教としては新しい解釈の一つという捉え方だったようです。 キリスト教が何故世界宗教になれたのかといえば、ローマ帝国があり(帝国内の 移動は容易に出来ました)、ペテロの準備した組織(教会)があり、パウロの 精力的な布教活動を挙げることが出来ると思いますが、当時の退廃した都市生活 から見ると「健康で節度ある生活」はすごい威力を発揮したようです。 人は物理的な限界に達したときその閉息感から脱しようとします。 そのようなタイミングが何重の意味でも合っていたのだろうと思います。 周回遅れの話題ですみませんでした。 Time : 1999/ 3/22(月) 11:42:27
Name : きんたろう E-mail : Title : 補足 Comments: さっきのの文章は、キリスト教が世界宗教になれた背景(言うまでもなくキリスト教 に中身は当然あります)と、その背景の要因になったローマの連戦連勝の歴史について でした。 ローマが統治のために(他の理由もあるのかも知れませんが)、他国の神々をオリンポス の祭壇に加えて行く様は、八百万の神々にも通じる所があるのではないかと思います。 Time : 1999/ 3/22(月) 12:11:35
Name : ina E-mail : Title : きんたろうさん Comments:  きんたろうさん  どうもありがとうございました。 私の質問「キリスト教が国教になる以前のローマ」 に対するご教示ですね。なるほど、敗戦国の神を吸収した、 ということではさっちーさんの、固有の一神教を持った国家 が戦争をし、敗戦国の神を吸収して多神教になった、という説と 同じですね。あの時私は一応同意しない、と書いたのですが、ロ ーマでそういうことがあると万国共通というか、、、。  ところで岡山のご出身ですか? Time : 1999/ 3/22(月) 12:47:09
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: もしかして「ももたろう」との勘違いですか? 「きんたろう」はあしがらやまです。 出典「まんが日本昔ばなし」より。 なーんて。 平安京についても参加してください Time : 1999/ 3/22(月) 13:49:28
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  そうですね。「そういえば桃太郎ってのもあったな」 確かキビ団子、、、。と布団のなかで考えてました。 サンキューベリーマッチ。  今直木先生の本で勉強中なのですが、平安は先生のご 専門をはずれるんですよ。 Time : 1999/ 3/22(月) 14:38:29
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっとした補足 Comments: ina様、こんにちは。 初めまして。 ローマが都市国家間戦争に勝ち続けイタリア半島を支配し、地中海帝国へと領土が 拡大して行く過程で神々は増え続けました。 ただ、ローマが一神教的だったとは言えないと思います。 ローマではユピテルが抜きんでてはいましたが、ギリシアのゼウスのように神々の 王ではありませんでした。同格の神にマルスとサトゥルスがいました。 軍神マルスはロムロスの実父です。 ただ日本の状態とイコールではないにしても、似た事例として参考になるとは 思います。 ちなみに私は茨城の出身です。 800年ほど前に淡路島から流れ着いたのが先祖だという事です。 Awajiさん、こんにちは。よろしくお願いします。 Time : 1999/ 3/22(月) 16:29:32
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と「四拍手から二拍手」・・・勿論関係ありません Comments: 大阪JF生さん、さっちーさん、今日は。Awajiです。 >>何か原因があると思います。まったくの妄想ですが、たとえば偉い神社 >>が他の神社を差別化するために2拍手に略式化するよう要請があった」 >>とか(まずないでしょうが)、そんな理由でもいいから欲しいところです。 四拍手から二拍手の変化については、さっちーさんのご意見も有り得るとは 思いますが、大阪JF生さんのご想像も充分考えられると思います。 実はAwajiも、救世観音オタクとして坂本先生の論文を確認しているのです が、次のように記述されています。 「『日本後記』延暦十八年春正丙午朔には、 皇帝御大極殿受朝。文武官九品以上蕃客等各陪位。減四拝為再拝、不拍手。 以有渤海国使也。 の文もある。これによって正月朝賀の拝は通例四拝であったことがわかる。 渤海使の参列を慮って、四拝を再拝にかえたというからである。・・・」 当時の感覚では天皇と神(天照大御神を除く)は、ほぼ同格とされている様 です。 従って、天皇家で拝礼が四拝から再拝に簡略化された場合、各神社において も四拝(四拍手)は遠慮(自粛)せざるを得なかったのでは無いでしょうか? ただ、皇祖神である伊勢神宮(遠慮の必要が無い)、及び地方の出雲・宇佐 ・弥彦等では(神社の格もあるかも知れませんが)自粛が徹底せず、古式が 残ったと考えられないでしょうか? なお、天皇と神の関係については「神社の古代史」岡田精司著ー朝日カルチ ャーブックス の次の部分を参考にしました。 「祈年祭の時に天皇の使いという形で勅使が幣物を持って出かけてお供えを するのは伊勢神宮だけです。これが奉幣です。それ以外の神社に対しては” 神主と祝集まれ”と命令して祈年祭の幣物を神祇官に集まった神職に配布す るということなんです。・・・ですから祈年祭というのも「神名帳」にあげ られた神々に対しては、豊作をお願いするのではなくて命令する。・・・ 伊勢神宮には「奉幣」といっているのに、他の神々には、はっきり「班幣 (頒幣)」といってるんです。班の字はワカツ、で班田制の班です。・・・ そして朝廷が尊んでお祭りする対象の神と、朝廷に服従して命令される神々 とがはっきり分けられていることを示しています。・・・」 「神階」という制度も天皇が「神社=神」に位を授けるわけですから、同格 以上と認識されていたのでしょうね。 Awajiは、祈年祭に集まった神職達に神祇官が四拍手自粛の旨を申し渡した 可能性も全く有り得ないとはいえない、ナンテ想像していますが如何でしょ うか? Time : 1999/ 3/22(月) 21:52:51
Name : 中とろ E-mail : Title : 団子を改めました Comments: 団子のアイデアは、顔文字と一緒で、あっちこっちで使われているらしいのです。 今度の「中とろ」は、わたしの好きな寿司ネタです! Aさん、あきんど2さん、その他のみなさん、ごめんなさい。 わたしが、言いたかったことは、大阪JF生さんのおっしゃるとおりです。 言い方が少しきついのでは?と思っただけです。 もちろん、議論は活発に行われるべきだと考えます。 ただ、過去もそうでしたが、安部さんは議論の応酬というより、 自説の発表を得意?としておられるようです。 そういうタイプなので、あまり目くじらをたてるのもどうかと・・・思った次第なのです。 (決して安部さんを非難している訳ではありませんよ!) Time : 1999/ 3/22(月) 22:35:31
Name : さっちー E-mail : Title : 神道について2 Comments: みなさん、こん@@は。inaさんから国学についての質問がありましたので、その 話をしたいのですが、あやふやな部分が多いので、「それ、ちゃうでー」という事 がありましたらご教示くださいませ。 国学という学問は江戸時代末期に流行した学問で、記紀の解釈などによって、日本 のあるべき国体を論じたものです。内容的にはもっといろいろなものが含まれてい ますが、ここでは主に神道の事につながる部分をお話したいと思います。 国学の大家といえば、本居宣長です。彼は古事記の解釈によって日本国の正統な統 治者は天皇である、という観点をもち、国学の基礎を組み立てます。彼は当時の神 道を批判していました。神道は平安時代に神仏習合によって儀式化、教義化された と以前の投稿でお話しましたが、彼は神道の中から仏教的な世界観と儒教的儀礼を のぞかなくては本当の日本の宗教ではないと考えました。何故かというと天皇は神 の直系の子孫であるから、外国の神や仏の力を借りる事を良しとしなかったのです。 ですから記紀から直接解釈を行う必要があったのです。神道の儀式は仏教や儒教の 影響を多くうけていたからです。この考えは国粋主義の原形となります。 彼の国学は弟子達によって大きな広がりを見せます。政治的なもの、文学的なもの 民衆の教化などさまざまに変化、進展していきます。彼の門人の中で、特に神道の 分野において成果をあげたのが平田篤胤です。門人といっても直接指導をうけた訳 ではありません。平田は宣長の古事記解釈に心酔していましたが、宣長の解釈では どうにも納得できない点を疑問に感じていました。それは「黄泉の国」即ち「死後 の世界」でした。平田はこの研究をつづけ一つの結論に達しました。それは出雲の 神こそ本来の日本の統治者であるという考えです。アマテラスはオオクニヌシから 日本の統治を委ねられたという古事記の記述から、こういった考えに達したのです。 つまり出雲の許しによって、はじめて天皇は統治者に正式に認められたと解釈した のです。日本の統治者の正統は天皇である、しかし祭祀の上では出雲の神こそ上位 に位置づけられるものであると考えたのです。今風にいえば政教分離です。 つまり、アマテラスとスサノオは同等の神であると考えたのです。なぜ平田が、「 死後の世界」にこだわったのかというと、当時「死」を扱うのは仏教の仕事として 認知されていたからです。これを仏教にまかせたままでは日本魂といったものを育 てられないと考えたのです。記紀における「死後の世界」の統治者はオオクニヌシ です。これこそ拝むべきだと考えたのです。 この考えにそって80代出雲国造は出雲大社の祭祀の優位を主張したのです。 国家神道が最高の祭祀として認めたのはアマテラスでしたが、出雲国造はこれに、 反発していたと思われます。しかしアマテラスの上位にオオクニヌシをおくことは 絶対認められない事でした。それでせめて下位にはおかれないように抵抗したので はないでしょうか? 大阪JF生さまへ 四拍手が二拍手になったのは、神社神道が国家神道によって統合された時に、アマ テラスの祭祀の優位性を確立するためにとられた措置です。出雲大社も二拍手を求 められたらしいですが、上記のような理由でつっぱねたというのが真相です。 このため伊勢神宮と出雲大社は四拍手がつづけられたのです。他の神社で四拍手の 所は出雲大社のように、自社の言い分をみとめられた所か、もしくは戦後旧に復し た所らしいです。この内容は明治8年までに国家神道によってまとめられた、 「神社祭式」という文書にあるようです。これによって国教としての国家神道が 正式に儀礼化されました。神祇省の管掌となったのです。 Time : 1999/ 3/22(月) 23:20:12
Name : さっちー E-mail : Title : つけたし Comments: 下の投稿の最下行の文の主語は「全国の神社」です。 抜けています。意味が通じない所も指摘して下さい。 Time : 1999/ 3/23(火) 06:50:48
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 4拍手問題の感想 Comments:  Awaji様、さっちー様、 解説していただき、ありがとうございます。 Awaji様のご推察をさっちー様が裏付けて くださったのですが、明治8年のことなのですね。 もっと古い時代だと思っていました。 個人的には、ようやく4拍手問題が解決して、 すっきりしました。 本当にありがとうございました。 この件では、梅原先生・井沢先生の勇み足だったようですね。 Time : 1999/ 3/23(火) 09:34:37
Name : ina E-mail : Title : ただいま勉強中 Comments: 逆説の日本史 16 さっちーさんへ ご教示ありがとうございました。  今の話と、四拍手の話を考え合わせると、死=四のごろ合せを用いなくとも、 四拍手の維持された神社は、訳あり、の神社、ともとれるような気がします。要 するに二拍手への簡略化に抵抗、あるいは特別扱いを求めた、という点からのア プローチでも、怨霊説に到達できそうな気が、ふとしました。  三輪山の大物主ですが、なぜ出雲から三輪山に祭られたことになっているとお 考えですか、この、崇神天皇時代のエピソードはまさに怨霊神ですね。子孫に祭 らせて収まるという。直木先生の本では、この大物主は、三輪政権とも言うべき、 崇神天皇以前の別系統の大和政権という考え方が紹介されていますが、、。  あと、オオクニヌシが称号だ、という説についてご教示願えれば幸いです。  今私は古事記をちゃんと勉強して、顔を洗って出直したい気分です。 Time : 1999/ 3/23(火) 09:46:15
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : マイッチングな神道 Comments: 嵐を呼ぶ(呼んでしまった?)男安部奈亮です。 諸々のことに関しては、じーっくりと考えてお答えしよう と思います。 神道についてちょっと発言させて下さい。 明治時代に消されてしまったのですが、日本の 神道は生殖と密接につながっていました。 例えば伊勢神宮の大元の祭祀は、「芯の御柱」 と呼ばれる太い木の棒を布で飾り、その上に神殿 を立てて、処女が夜にその神殿に入るというものでした。 その意味するところは神との結婚、一歩踏み込ん で交ぐ合いと言っていいでしょう。 卑猥な歌を祭で歌う神社も多かったようです。 こういう目で見ると、神道の新たな面が見えてくる かもしれません。 Time : 1999/ 3/23(火) 11:10:47
Name : 輔住 E-mail : Title : しばらく見ないうちに話しは進んでしまった Comments: みなさん、おげんきですか 四死問題も区切りがついたみたいですね。 安部さん、お帰りなさい。 これからもよろしくお願いします。 Time : 1999/ 3/23(火) 11:54:06
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ミトラス教 Comments: ローマには紀元後1〜4世紀にミトラス教 という謎の宗教がありました。この宗教は、 ペルシャの神を大本としながら、インド、エジ プト、ギリシャなどあらゆる宗教を飲み込む 包容力を持つ宗教でした。無節操といえば 無節操です。 キリスト教と宗教界の覇を争いましたが、 遂に敗北し、跡形も無く消えてしまいました。 Time : 1999/ 3/23(火) 12:09:36
Name : 奥村真 E-mail : oku@total.co.jp Title : ロシヤ反動思想 Comments:  安部さんの「謎の宗教」から思いついたまま、手元に何の資料もないのでうろ覚 えで書きます。間違いだらけかも知れませんが御容赦。 「第二のローマ」コンスタンチノーブルからブルガリアを経て、ギリシャ正教を伝 導すべくキリル文字がロシアに入りました。その後、何世紀だったか忘れましたが 、祈る際のしきたりを変える「ニコンの改革」とかいうのがあったように覚えてい ます。ドストエフスキー『罪と罰』ラスコーリニコフは、その旧教徒の名をもじっ たものらしいです。  泥沼に幻の都「ペテルスブルグ」を捏造したピョートル大帝近代批判の作品化が 『白夜』です。 Time : 1999/ 3/23(火) 15:47:07
Name : 出雲人 E-mail : Title : 大国主の西向きの件 Comments: 皆様はじめまして。いつも楽しみにしております。 「四拍手」は一応の決着がついたようですが、 大国主の神座が正面を向かず西向きなのは、どういう事になるの でしょう?西は浄土の方角ですよね。 この理由について教えて下さい。 Time : 1999/ 3/23(火) 17:39:57
Name : きんたろう E-mail : Title : おおらかな時代 Comments: 風俗からの解釈ですが、性については昔も?おおらかだったと思います。 生殖行為は恥ずべき事ではないからです。(ただ倫理観の問題が別にあるだけだと 思います) 日本では全国各地「村祭り」で男女は仲良くなったそうです。 ヨーロッパでもキリスト教以前はかなりおおらかだったと言われています。 きっと自然の摂理だからでしょう。 カソリックが権威を保つことが出来たのは牧師=僧が独身を貫いたからです。 この禁欲の姿勢は周りの人々に驚異と尊敬の念を抱かせるに十分でした。 この様な事実は日本でも例えば例の比叡山の僧たちとの共通点が余りにも多いのに 驚かされます。 Time : 1999/ 3/23(火) 22:15:14
Name : さっちー E-mail : Title : オオクニヌシとオオモノヌシ Comments: みなさん、こんばんは。出雲王朝についての問題はいよいよ核心に近づきました。 私が「大国主」とは称号ではないかとかんがえた一番の理由は、記紀における登場 回数の割りに存在感が薄いというか、気持ちの入りにくいキャラクターだなと感じ たのが最初でした。「国譲り」によってその座を奪われるのですが、もうひとつ、 例えばスサノオやタケミカヅチ、アメノワカヒコ、サルタヒコといった個性的な神 に比べて出来すぎなくらいおとなしいというか悠然としすぎている印象をうけたの です。これはアメノミナカヌシやアマテラスにも感じた事です。 しかしオオクニヌシは、風土記の世界では途端に魅力的で勇猛なリーダーになるの です。しかも出雲だけでなく播磨や越の国、但馬そして大和まで舞台にして大活躍 するのです。しかもその名前はたくさんあり、場合によっては時間的にも飛んだ所 に登場します。最初は各地方の首長の記述を一人?のオオクニヌシに投影している のか?と思いました。しかしこう考えていた頃、荒神谷遺跡が発掘されました。 この遺跡は358本もの銅剣が人為的に埋められていた事で有名な2世紀ころの 遺跡です。大和にも九州にも見当たらない珍しい遺跡です。この発見により、出雲 地方には、大和や九州に優るとも劣らない勢力が出雲に存在したという確信をもち ました。つまり記紀にある出雲についての記述に信憑性を感じたのです。 オオクニヌシが一人もしくは同時代の他勢力の首長の投影だとしても、2世紀から 大和朝廷の原形が大和の地に誕生したであろう4世紀(古墳時代)では200年近 くの開きがあります。この時間差をかんがえるととても同時代では説明がつかない とかんがえたのです。そして何より「大国主」と漢字で書けば大きな国の主という 意味にとれます。出雲一国だけの王であるならあまりにも大袈裟な名前です。 以上のような思考の末、オオクニヌシの数々の異名は歴代の大国主の名前であり、 大国主は称号ではないかという結論に達したのです。 それとオオモノヌシとの関係なのですが、最近の研究では全くの別人?だと言われ ていますが、オオクニヌシが称号であるとするとオオモノヌシは大国主の配下の名 ではないかと考えています。古事記の紹介でも触れましたが、オオモノヌシは海か らつまり日本海からやってきてオオクニヌシの国造りを手助けします。そして三輪 の土地に祭ってくれと自分から申し出ます。国造りの手伝いの褒美として大和の土 地の支配者としてオオクニヌシに認めてもらったという事ではないかと考えていま す。日本海から現れたという事はオオモノヌシは大陸か半島から渡来してきたので はないかと推測しています。そして大和の土地に目を付けて国造りに必要な先進の 知識とひきかえにその土地をてにいれたとは考えられないでしょうか? オオモノヌシは大国主の許可を得て、出雲の民をひきつれて大和の三輪に入植した というのが私の説です。あとオオモノヌシが祟りをなすくだりは、神武が大和には いる時の直接の敵がオオモノヌシの一族だったのではとかんがえています。 となると神武とすじんは同一であるという説にあてはまっていくのではないかと 考えます。 inaさんはこれらの事についてどうお考えですか、あなたの意見を聞かせて下さい。 Time : 1999/ 3/23(火) 23:16:40
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : re-おおらかな時代 Comments: きんたろうさん、フォーラムの方で名前を間違えてすいません。 なお、あなたのupに対し、少しだけ訂正させてください。 >カソリックが権威を保つことが出来たのは牧師=僧が独身を貫いたからです。 >この禁欲の姿勢は周りの人々に驚異と尊敬の念を抱かせるに十分でした。 >この様な事実は日本でも例えば例の比叡山の僧たちとの共通点が余りにも多いの >に驚かされます。  カトリックの僧は神父です。牧師はプロテスタントで使う言葉です。そして牧 師こそが妻帯可能となり、ちょうど浄土真宗で親鸞が妻帯を認めていたのとよく 似ています。 Time : 1999/ 3/24(水) 07:57:07
Name : きんたろう E-mail : Title : お礼 Comments: 藤田さま、どうもありがとうございました。 語彙力不足、認識力不足を反省しています。 それにしても、宗教が尊敬の対象になるにはその行為者の態度によるところが 大きいと思いますが、「進化形」も似ているのですね。 Time : 1999/ 3/24(水) 08:35:42
Name : ina E-mail : Title : kojiki Comments: さっちーさんへ  ご紹介ありがとうございました。  なにぶんにも、全貌が掴めていないので、ちんぷんかんぷん かも知れませんが。   「オモノヌシが祟りをなすくだりは、神武が大和にはいる時の直接の敵がオオモノ ヌシの一族だったのではとかんがえています。」 この点だけを見ると、神武と崇神を同一視してクリアできますが、  オオモノヌシの祟りは崇神天皇の時代、という事になっています。 崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、イリヒコ系の名前をもつことから、三輪政権の初 代ではないのでしょうか。オオモノヌシは三輪政権を象徴すると考えられますから もう一つ政権を想定しないと、三輪政権を象徴するオオモノヌシが三輪政権の崇神 を祟ったことになってしまいます。  なんて考えいてます。まだ、本当に勉強が進行中ですので、 もう少しお時間をください。すみません。  Time : 1999/ 3/24(水) 13:48:12
Name : きんたろう E-mail : Title : 多国主? Comments: さっちーさん、力作をどうも有り難うございます。 さすがです。 日本人は元々文字を持たない民族でした。ですから言葉が先に存在していたわけ です。ですから「活字」化されたものに弱いという日本人の特徴があるのかも 知れません。 色々な意味で「卑弥呼」や「出雲」「大国主」などもその範疇にはいるのではないか と思います。 大国主傘下の武将=守が全国に代官として派遣されていたと前に書きましたが 「かみ」が代名詞であるように「おおくにぬし」もまたそうであると考えた方が 自然だと思います。 「おおくにぬし」と言う言葉が先にあったとすれば、「多国主」と漢字を当て はめた方がより意味が近いような気がします。 Time : 1999/ 3/24(水) 21:51:01
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と神道??・・・ますます遠ざかるばかり! Comments: 出雲人さん、はじめまして。救世観音オタクのAwajiと申します。 >>大国主の神座が正面を向かず西向きなのは、どういう事になるのでしょう? >>西は浄土の方角ですよね。この理由について教えて下さい。 この件について、日本の神々ー平野仁啓著(講談社現代新書)によれば、千 家尊統さんは次のように解釈されているようです。 「竜蛇さまが大社の西方の稲佐の浜によってくることを、大社神殿の神座が 西の稲佐の浜の方向をむいていることと関連させて、オオクニヌシ神はもと もと、海の彼方の常世の国からよりきたった霊威ではなかったか、と考えて いる・・」 *御忌祭(十月神有月)と竜蛇信仰 これについて著者は、さらにその解釈を拡大し、 「わたしは出雲大社の原型として、オオクニヌシ神ではなく、海の神がまつ られていたと考えている。おそらくその海の神の信仰のうえにオオクニヌシ 神の祭祀が重ねられたにちがいない。」とされています。 古伝新嘗祭(熊野神社)においても、四方拝の後必ず西方献があり、祭祀線 が西方にあるようですね。 Awajiは現在の神殿(拝殿)の多くが南面しているのは、中国思想の影響で、 本来の祭祀線は東西方向(日昇・日没線)だったと考えており、大和盆地の 多くの古社は今も参道等にその痕跡を残している様におもいますが、これが 出雲大社の神殿南面・主神西面と関係が有るかどうかは分かりません。 また神殿建築についても、次のように記述されています。 「平安初期にあらわされた『口遊』に「雲太 和二 京三」とあるように、 ・・日本においてもっとも高い建物であった。そして、しばしば転倒したこ とが記録されている。どうしてそのような高い建物であることを必要とした のか。千家尊統は、現在の拝殿を新築するとき、地下から掘立柱が出土し、 その下が海であったことが立証された、と書いている。海のなかに建てられ たために、きわめて高い高床建築としなければならなかったのである。 ・・・このような出雲大社の原型は、海人のような海に生きるひとびとがま つる神社であったはずである。」 また一説には、出雲大社建築は拝殿様式ではなく、住居様式を起源としてい るため、主人の居住空間からすれば、正面を向いていないことも理解できる との解釈もあり、また、一種の望楼説等も提起されているようです。 神社や神々の由来については、常に重層的に考察せねばならず、Awajiには、 これらの意見を判断する能力はありませんし、全面的肯定も出来かねるので すが、少なくとも浄土信仰とは無関係だと思います。いい加減なコメントで 申し訳ありませんが、ご参考までに。 安部さん、今日は。Awajiです。 今度は「神道」ですか、何でも良くご存知で羨ましい限りです。 以下は、仏像オタクの初歩的な質問です。 >>例えば伊勢神宮の大元の祭祀は、「芯の御柱」と呼ばれる太い木の棒を >>布で飾り、その上に神殿を立てて、 この「芯の御柱」というのは、通常「心の御柱」と呼ばれるものでしょうか? この柱が布で飾られていると言うのは、伊勢神宮自身のの説明だと思います が、恥ずかしながらAwajiには初見です。どなたの解説か出典を教えて頂け ますか? 或いは遷宮と由貴大御饌が混同されていることはないでしょうか。 >>その上に神殿を立てて、処女が夜にその神殿に入るというものでした。 >>その意味するところは神との結婚、一歩踏み込んで交ぐ合いと言っていい >>でしょう。 これは斎王の三時祭式における太玉串奉奠或いは由貴大御饌等のことでし ょうか?これを神婚と見るか否かについても議論が分かれるところだと思 いますが、同様に解説者と出典をお教え頂けますか? >>卑猥な歌を祭で歌う神社も多かったようです。こういう目で見ると、神道 >>の新たな面が見えてくるかもしれません。 「神道」については、原始的フェティシズム(呪物崇拝)、アニミズム(霊 魂崇拝)、トーテミズム(動物崇拝)段階から農業社会の豊穣祈念(生殖崇 拝)信仰、氏族祖神信仰、国家統合時代の氏族祖神組織化、仏教受容以降の 理論化段階、怨霊信仰の顕在化段階、神仏混交時代の再理論化段階、中世の 民衆信仰中心の混迷段階、幕末国学派による古神道復活段階、明治以降の国 家神道段階等々が重層かつパラレルに存在し、Awajiには良く分からない部分 が多いのですが、(書いているうちに余計に分からなくなりました)あなた のいわれる神道とは主として、どの段階を指しておられるのでしょうか? 性は、豊穣のビーナスと称される土偶信仰、バール、バッカス、テラ信仰を 見るまでもなく、土俗的(多神教的)精神世界の最も基本的命題として必ず 論じられる問題ですね。 我が国でも豊穣女神の縄文土偶から、男性根石棒、夥しい男女象徴信仰の存 在、男女一対道祖神等々、性の問題は民衆信仰を論じる場合に欠かせない命 題です。 記紀においてもオノコロ島の創生から、イザナギ・イザナミのミトノマグワ イ国生み説話、天岩戸開きの裸身饗宴等はこの問題を離れては論じ得ない筈 です。 「神道」の新たな面というのはどのような面でしょうか?一度整理の上でご 解説をお願いします。 ・・・ツッコミではありません。本当に良く分からないのです。初心者向け に平易にお教え願います。 Time : 1999/ 3/24(水) 22:43:02
Name : さっちー E-mail : Title : はつくにしらす すめらみこと Comments: みなさん、こん@@は、きんたろうさんご意見ありがとうございます。 inaさん、「神武と崇神が同一」というのは尊称が同じであるためによく唱えられて いる学説の一つです。この説によると神武から9代の開化までは架空の話であると いう事です。第二代から第九代の天皇達には具体的な行動の記録がないため「欠史 八代」といわれています。つまり大王としての天皇は崇神が初代であるという説ら しいです。この場合神武は「神」という事になります。 今日のタイトル「はつくにしらす すめらみこと」は神武と崇神の尊称です。 「はつくにしらす」は「はじめて国を統治した」という意味です。「すめらみこと」 は「天皇」です。 Time : 1999/ 3/24(水) 22:47:03
Name : さっちー E-mail : Title : 出雲大社の御神座について Comments: 出雲人さんはじめまして。Awajiさんこん@@は、神道についても深い洞察をもたれ ているご様子でその知識のひろさには心底感服しております。想像ばかりの私の話 は、お目ざわりかもしれませんが読んでいただければ幸いです。 出雲大社の御神座が、本殿が南向きなのに大国主は西向きであるのについて以前に 考えてこちらに投稿したのですが、どうもしっくりこないのでもう一度考察してみ たいと思います。 まず、本殿の方向が南向きである事についてなんですが、これはやはり本殿を通し て後背にある山にたいして祈りを捧げた名残ではないかと思われます。創建当時、 出雲大社のあるあたりは古代、海だったという事です。これは周辺の地質調査から 推定されています。つまり現在の島根半島は本土から分離した島であったらしいの です。とするとAwajiさんに紹介して頂いた通り海の神の信仰とも関係があったと 思われます。半島が島であった当時はアニミズム的な信仰があったと推測できます。 このように考えると、神の象徴として山そのものを崇めていたと推測できます。 後背の山にそって原初の本殿が建てられたのではないでしょうか? そして中国の思想にある「天子は南面して政をとる」という影響もあったかもしれ ません。しかしこれだけでは大国主が西を向いている説明にはなりません。 大国主が出雲の王の称号だとすると、その宮は政庁としての役割と住居としての役 割りがあったはずです。政庁としてだけ考えると南向きの方がしっくりきます。 しかし住居としてみるとその主人が入り口と同じ方向を向いているのはへんだと思 いませんか?しかもあんなに間仕切りの少ない住居では万が一敵が攻めてきた時に 大国主の部屋まで一直線となってしまいます。大国主自身が西を向いてくつろいで いたのかもしれません。 それとAwajiさんご指摘の祭祀線は太陽の昇り沈みに合わして東西にあったという お考えですか?この考えも考慮にいれる必要があります。 つまり伊勢神宮との対比です。伊勢は太陽の昇る方角、出雲は沈む方角という象徴 としてという考えも成り立つのではないでしょうか? 太陽の沈む方角は、「黄泉」の方角でもあると考えられます。「黄泉の国」の支配 者となった大国主は気になる方角であったかも知れません。 あと客座の五神は、高天が原に最初にあらわれた独神でもあります。つまり世界の 象徴です。アニミズムから発展した初期の神として大国主自身も崇めていたのかも しれません。その自分の信仰する神を配下や民衆にも祭らせていた名残かもしれま せん。 客座の神は「牢屋の番人」ではなく、「大国主の住居の門番」かもしれません。 神道と一口にいってもAwajiさんのおっしゃる通り、いろいろな段階があります。 記紀に統一される前の段階、神仏習合の段階、廃仏棄釈の段階、国家神道の段階。 記紀によってまとめられて、儒仏の影響をうけ儀式化教義化される前は神道とは いえません。安部さんのおっしゃる「卑猥な歌」というのは記紀以前の段階の祭 祀が色濃く残っている産土神信仰の一種だと思われます。 Time : 1999/ 3/25(木) 00:19:32
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : うろ覚えで恐縮ですが Comments: 伊勢神宮の原始的な祭祀とは、 朝廷ではなく、地元の豪族によって続けられてきた祭祀 の事です。 天照大皇神の信仰が始まる前に、地元の人々の間で、 海と太陽と大地を祭っていまして、大和朝廷が天照大 皇神を伊勢山田の地に祭ったのは、この信仰が大本に 会ったからだと考える説もあります。 高さで言うと「雲太、和二、京三」かもしれませんが、 建築物の広さで言うと(境内全体の広さではなくて) 吉備津彦神社(吉備津神社だったかもしれません、 この2つの神社は隣り合っていて、同じく大吉備津彦 を祭っています)が全国最大規模と言われました。 吉備津彦は四道将軍の一人です。 出征前は「イサセリヒコ」と呼ばれましたが、 吉備の豪族を退治した後に「吉備津彦」と呼ばれるよ うになりました。 岡山の郷土史家のなかには、「吉備津彦」というのは 吉備の王者の称号で、それを征服したイサセリヒコに 与えられたのではないかと言っている人がいます。 クマソタケルからタケルの称号をもらったヤマトタケル と同じことです。 その郷土史家は、吉備津神社は元々滅ぼされた方の 吉備津彦を慰めるために建立されたのではないかと推測 していました。 吉備津彦神社と吉備津神社は吉備の中山と言う山に背中 合わせにしてあり、それぞれ備前の国と備中の国一の宮です どっちがどっちだったかは忘れました、すみません。 備前と備中の国境線は平野の真ん中に引かれた不自然な もので、特に吉備の精神的中心の吉備の中山を真っ二つに していて、大和朝廷が吉備の力を弱めるために引いたと考え られます。 吉備の中山の山頂には中山茶臼岳古墳がありまして、大 吉備津彦の墓として宮内庁が管理しています。中山茶臼岳 古墳は箸墓古墳の2分の一スケールです。形が非常に良く 似ています。これはちゃんとした考古学者が書いていました。 面白い話です。 ヤマトタケルは、同じく吉備津彦と呼ばれる大吉備津彦の 弟の孫です。 Time : 1999/ 3/25(木) 11:45:44
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 吉備哀歌 Comments: ヤマトタケルが景行天皇に疎んじられたのは 吉備の血が入っているからとも言われています。 でなくとも、ヤマトタケルは性格破綻者に近 い気がしますけれどね。もしもあんな息子がいたら、 誰だって恐ろしくなるでしょう。 性格描写が妙に生々しいので、あれほどの大活躍 はないにしても、ヤマトタケルと言う人物は実在したの ではないかと私は思います。 吉備は、雄略天皇死後もクーデタを起こそうとして 失敗しています。河内王朝では、葛城氏と吉備が実権 を握る争いをしていたらしいです。 耕地の面積では、出雲はそんなに広いとは思えない ので、製鉄や貿易で栄えたのでしょうか。だから、ヤマト にあっけなく負けてしまったのかもしれません。文化が 高い国は戦争が弱いのが相場です。しかしあの豊かな 神話は、出雲の文化的な高さを示すのかも知れません。 Time : 1999/ 3/25(木) 12:02:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ばの国 Comments: 丹波、但馬、因幡は「バ」「マ」が語尾についていて 一つの地域を形成していたのではないでしょうか。 位置的に出雲の属国だったとも考えられそうですが。 「バ」と「マ」は転化しうると思いますので、同じ音だった と考えてもいいでしょう。 Time : 1999/ 3/25(木) 12:25:48
Name : 輔住 E-mail : Title : Re ばの国 Comments: 安部さんこんにちは >丹波、但馬、因幡は「バ」「マ」が語尾についていて >一つの地域を形成していたのではないでしょうか。 面白い説だとは思いますが、そのように考えた 理由も教えて下さい。 Time : 1999/ 3/25(木) 14:18:09
Name : 山村貞子 E-mail : Title : 安部ちゃんへ Comments: おひさしー。あいかわらずねぇ。あんしんしちゃった。 けどー。よくわからない投稿はやめてね!あなたは省略しすぎ! さっちーちゃんやAwajiちゃんみたいにちゃんと説明をいれること! わかったわね? さもないと今度こそ呪っちゃうから! Time : 1999/ 3/25(木) 15:06:50
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ほとんど思い付きでして・・・ Comments: 例の3国は「古事記」にも数回出ていて歴史も あるようですし、出雲系の神が多く祭られていたり、 崇神天皇のとき、三輪山から飛び立った鳥がこ の地を通っていて、出雲、大和、越の中間地点にあ って、悪く言えば草刈り場、良くいえば文化の交流地 になっていたのではないかと想像しています。 丹波を攻めた四道将軍もいます。丹波だけなら何故 大和が必死になって攻めたか分かりませんが、 東山陰一帯を攻めたのなら分かる気がします。 まあ思いつきの域を出ませんので、今回の神話の話の エピソードとでも思って下さい。 Time : 1999/ 3/25(木) 17:35:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 「神道の新しい面」について Comments: Awajiさんくらい深く知っていればそれで充分なのですが、 生殖と神道は普段の考えではなかなか結びつかないので、 生殖との関係を考えれば神道がもっと親しみやすくなる かなと思って書きました。 井沢先生が和、言霊、穢れを使って歴史を新しく読み直した ように、日本の神話をそのような性的なものとの関係から 全体的に見直してみても面白いのではないでしょうか。 この場合、先人の研究がだいぶ進んでいると思いますので、 資料は多いですし、発展の可能性も高いと思います。 Time : 1999/ 3/25(木) 17:44:08
Name : きんたろう E-mail : Title : 黄金色の波動 Comments: こんばんは。 「金色の輝き」は人々に精神の安定を働きかけると言われていますが、私の場合も 当てはまります。 ヨーロッパの宗教画ではキリスト(もしくはそれに類する聖者)の頭の周りには 必ずと言っていいほど黄金の後輪が描かれています。 仏教においても釈迦(等)の頭の周りには同様に描かれています。 仏教についてはAwaji様が過日述べておられましたが、接点のあまりないこの両者 において「聖なる光」が同じように描かれていることに対して非常に興味があります。 時代劇では「越後屋」と「悪代官」が「山吹色はいいのう」と言っていますが 99.99のメイプルリーフの輝きは私にも同様に?心の安らぎを与えてくれています。 Time : 1999/ 3/25(木) 19:05:13
Name : 出雲人 E-mail : Title : ありがとうございます Comments: さっちーさん、Awajiさんありがとうございます。私は出雲で 育ったのですが、井沢先生の本を読むまで大社の拍手や御神座の事 は疑問に感じた事はなかったのです。でも先日友人から四拍手とか のことを質問された時にはじめて先生の本を読んでみて不思議に感 じていたのです。「死」とか「牢獄」とか出雲にいる時はまったく 聞いた時なかったのでなんとなく納得できなかったのです。 どう感じるかは人それぞれなのですかね? 出雲王朝とかも全く知りませんでした。でも故郷にそんなものが あったと思うとなんとなくうれしいです。 安部さん。出雲は出雲平野が広がる日本海側有数の農業国だった らしいです。特に山陰では最大の面積を誇っています。 平安時代以前は畿内に負けない耕地があったと郷土歴史の時間 に聞いた記憶があります。(自分の記憶に自信はないのですが) さっちーさんは出雲の人ですか?私は今東京の西の外れで暮らす 大学生です。みなさんまたお邪魔するかも知れませんがよろしく お願いします。 Time : 1999/ 3/25(木) 20:57:22
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音とエジャナイカ・・・糸の切れた凧みたい! Comments: さっちーさん、今日は。Awajiです。 仏像オタクが柄にもなく、神道なんて難しいものにコメントを入れてしまっ て一寸後悔しています。あまり冷やかさないで気楽に雑談させて下さい。 安部さん、聖と性、生と死、食と殖、古くて新しい問題ですね。了解。 >>まず、本殿の方向が南向きである事についてなんですが、これはやはり本 >>殿を通して後背にある山にたいして祈りを捧げた名残ではないかと思われ >>ます。・・・・・・・ >>このように考えると、神の象徴として山そのものを崇めていたと推測でき >>ます。後背の山にそって原初の本殿が建てられたのではないでしょうか? Awajiが出雲大社に参拝したのは、随分昔のことなので周囲のロケーション がイマイチ明確では無いのですが、神奈備山の南麓に神殿が位置している。 従って神殿は南面(神殿を通して北方の神奈備を拝する)している、と言う ことでしょうか? この辺にになると「鶏と卵」になるのですが、何故東麓や西麓ではなく、南 麓に神殿が位置しているかという問題になりますね。 (三輪神社はご承知の通り、三輪山の西麓に拝殿が位置していますので、 西面しています。Awajiは多神社=現在は南面 も含めて三輪山からの春秋分 日の日昇を拝するという祭祀線を想定しているんですが。) また、北方に位置している小山?が神奈備山の体裁を持っていたか、と言う 問題もあります。ノムさんはどの様に観察されたでしょうね。 >>大国主が出雲の王の称号だとすると、その宮は政庁としての役割と住居と >>しての役割りがあったはずです。政庁としてだけ考えると南向きの方がし >>っくりきます。 大国主(オオクニヌシ)が一種の称号、或いは大和政権側の呼称であるとい う考え方は有りうると思います。九州王朝説の古田さんは、大(オオ)を出 雲地方の国名と解釈されていたようです。Awajiも本来の名称は大穴持(オ オナムチ)に近いものだったと思っています。(風土記等ではオオナムチ・ スクナヒコという方が一般的で、大国主は使用されていませんね。) いずれにしても、然るべき宮殿(政庁)があった可能性は大でしょうね。 (熊野神社の辺りかも??) ただ、現在の出雲大社は、あくまでも海上神殿であって宮殿・政庁・住居等 には立地的に適さないと思います。(或いは海上交易拠点の意味もあったか も知れません。Awajiとしては、出雲神殿灯台説なんて愉快な気もしますが) また、弥生期?の宮殿・政庁・住居の方向性(南向きが一般的であったかど うか)については現在の考古学知見では結論は導き得ないのではないかとも 思っています。 >>しかし住居としてみるとその主人が入り口と同じ方向を向いているのはへ >>んだと思いませんか?しかもあんなに間仕切りの少ない住居では万が一敵 >>が攻めてきた時に大国主の部屋まで一直線となってしまいます。大国主自 >>身が西を向いてくつろいでいたのかもしれません。 前半は一寸どうでしょうか。入り口は南向き、主人は西向きでは? 後半はAwajiの言い方が悪かったのかも知れませんが、神殿が住居様式に起源 を持っているのではという意味です。(伊勢神宮は穀倉様式起源かと思いま すが)神殿そのものが宮殿(住居)と全く同型とは考えておりません。 >>つまり伊勢神宮との対比です。伊勢は太陽の昇る方角、出雲は沈む方角と >>いう象徴としてという考えも成り立つのではないでしょうか? >>太陽の沈む方角は、「黄泉」の方角でもあると考えられます。「黄泉の国」 >>の支配者となった大国主は気になる方角であったかも知れません。 これはおっしゃるとおりだと思います。比婆山も大きく言えば同方向ですし 有る意味では通説的見解と言ってもよいでしょうね。 (本当は、夏至の日没線より冬至の日没線の方が良いんですが・・・) ただ、かっては出雲に強大な権力が存在していたことについて否定的意見が 多く、観念的に論じられていたと思いますが、荒神谷遺跡等の考古学的知見 により出雲権力の存在がより強く認識されつつある様です。 従って、単なる観念論(方向性)からの「黄泉の国」論議ではなく、神話に 関する一定の史実性と権力の実態性を伴った論議に移りつつあるような気が しています。 >>あと客座の五神は、高天が原に最初にあらわれた独神でもあります。つま >>り世界の象徴です。アニミズムから発展した初期の神として大国主自身も >>崇めていたのかもしれません。 この問題については、一寸意見は差し控えさせていただきます。<(_ _)>ペコ >>記紀によってまとめられて、儒仏の影響をうけ儀式化教義化される前は神 >>道とはいえません。 厳格には、おっしゃるとおりだと思うのですが、それ以前の日本的宗教(信 仰形態)及び民衆レベルにおいて連綿と引き継がれたその残滓をなんと呼べ ばいいか、困ってしまうのです。 山本さんのように「日本教」でも良いのですが、一寸ニュアンスが違います ので、「大和神教」とでも呼びましょうか? >>安部さんのおっしゃる「卑猥な歌」というのは記紀以前の段階の祭祀が色 >>濃く残っている産土神信仰の一種だと思われます。 その意味では、室町・戦国・江戸期にかけて産土神信仰をも包含する「大和 神教」は、民衆エネルギーを発散させるものとして、健康なエロティシズム を伴い極めてダイナミックに発展したと思います。 「伊勢信仰」等も正規の神道というより「大和神教」として捉えた方が良い ような気もします。 「オカゲデナ、クルリトナ、ヌケタトナ、エジャナイカ、エジャナイカ、オ カゲマイリハ、エジャナイカ。ショウジンオトシモ、エジャナイカ、サケハ ウマイシ、サダチャンモキレイ、カミモホトケモ、エジャナイカ・・・ヒノ モトノ、ヤマトノクニハ、カミヨカラ、オンナナラデハ、ヨノアケヌクニ、 ソレモソウダヨ、エジャナイカ」 例によって、いい加減なヨタバナシです。適当にお聞き流しください。ハイ! Time : 1999/ 3/25(木) 22:20:41
Name : きんたろう E-mail : Title : 追加と疑問点 Comments: 先ほど書いた文章に追加なのですが、ちょっとした疑問です。 今過去ログを読み返していたのですが3/10付けでAwaji様が >その中に「金色相」という部分があり、これによって如来、或いは如来に >なるべき菩薩は、金色の肌で表す必要があったのです。 と述べられていますが、「金色相」について説明をお願いしたいと思います。 (現在の話題のスピードについていけなくてすみません) Time : 1999/ 3/26(金) 02:01:08
Name : 輔住 E-mail : Title : ありがとうございます Comments: 安部さん、返信ありがとうございます。 しかしこの時代の話は深いですね。 この時代のことは私は何も知らないので驚くばかり。 Time : 1999/ 3/26(金) 08:47:08
Name : kazu E-mail : Title : 出雲のこと Comments: さっちーさん、こんにちは。 先週末の寒さにやられてダウンして少しご無沙汰していたら、すっかり話題が変わってしまいましたね。(流れが速くてついていくのが大変です。) それにしてもいつも精力的な投稿に感心して読んでいます。 怨霊の話は、機会がありましたらまた投稿します。 出雲のことは興味が尽きないですね。 出雲は、大和の人にとってよほど重要な地のようですね。古事記の中でも、出雲の ために相当のスペースを割いていますし、オオクニヌシに国譲りをさせた後さらに ヤマトタケルにも征伐されていますしね。 吉備や越も古代においては出雲に負けず劣らず重要な地だと思うのですが、出雲だ け特別扱いと言う印象を受けます。 疑問に思うのは、なぜ天孫ニニギは国譲りの後、日向の高千穂に降臨したのでしょ うか? 思うに、大和の政権は、ルーツは九州にあって、後に大和に進出したことを、つま り、神武東征の話は史実を含んでいるのではないでしょうか。 でも、なぜ神武は大和を目指したのでしょう? まとまりのない投稿ですみません。 Time : 1999/ 3/26(金) 13:00:46
Name : genskb E-mail : genskb@anet.ne.jp Title : 天智天皇陵 Comments: 「隠された帝」を再読しました。 天智天皇陵がある山科盆地北辺は、私の父祖の土地 です。 「ここに、陵があるのはおかしい」といい ながら、それ以上のことにふれるのをはばかるところ が山科の人にはあったように思います。井沢先生には 小説の形ながらタブー視された伝説を語られたことを 歓迎します。 天智天皇陵は、淡路島の淳仁天皇陵、 明石の吉田王塚古墳とともに、宮内庁の管理する 後期古墳のなかでは、王家の谷とは言えない場所に 位置します。尋常ではない死を、伝える伝説を持つ ところも共通します。ただ、私も山科にルーツを もつ人間として、この話題はここまでにしたいと 思います。 Time : 1999/ 3/26(金) 20:11:23
Name : さっちー E-mail : Title : 出雲大社の裏山について Comments: みなさんこん@@は、Awajiさん、私の夢想に付き合っていただいてありがとうござ います。昨日は姫路図書館へ行って出雲大社の裏山の事について調べたのですが、 「神南備山」かどうか確認できませんでした。山の名前は解りました。 「八雲山」または「宇迦山」と呼びます。八雲といえば出雲の象徴です。スサノオ が詠んだ日本最初の和歌にも詠み込まれています。 そして宇迦なんですが、これは、「ウカノミタマ」つまり大国主の名前の一つです。 これだけの事では八雲山が御神体であったかどうか断定しかねますが、この山自体 にオオクニヌシとスサノオを連想させる名前がついているのは、彼らの霊魂が投影 されているといえるのではないでしょうか? スサノオはオオクニヌシに出雲を譲るとき「宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふ としり、高天原に氷ぎたかしりて居れ」(宇迦の山の麓に、太い宮柱を深く掘り立 て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め 次田真幸著古事記より)と言ったそう ですがその通りに彼の宮は建てられました。オオクニヌシの手ではなく大和朝廷に よって建てられたのですが・・・・。 それと大国主が西を向いている理由として傑作なのを考えました。本殿の東隣には 「タギリヒメ」が祭られています。彼女は大国主の愛妾の一人?でスサノオの娘で もあります。彼女の方を見やっているのでは・・・ちょっと変ですよね? 客座の五神については、80代国造の千家尊福氏が私の意見と同じような事を言わ れていたらしいです。大国主がもともと祭祀していた神と言われています。 話は変わりますが、千家尊福氏は正月に歌われる「年の始めのためしとて・・・」 という歌をつくられていたのですね。びっくりしました。司法大臣にもなられたら しいです。 昨日は休みだったので一日中図書館にいて出雲関係の本をチェックしてきました。 だいぶ脱線してしまいましたが。 kazuさん、興味をもっていただいてうれしいです。 ニニギが日向に降ったのは、ニニギが日向の神であった証拠だと思います。 私の個人的な妄想なんですが、大和朝廷のルーツは九州にかぎらないと思います。 出雲も吉備も越もその源流であると思っています。 ヤマタイ国は九州にあったと考えています。そして九州で滅んだのではないかとも 思っています。ヤマタイの生き残りが(つまり神武)が大和に逃げ込んだのかもし れないと思っています。そしてそれを庇護したのか゛出雲系のオオモノヌシではな いかとにらんでいます。 少し妄想がすぎたので今日はこの問題はここまでにしたいと思います。 Time : 1999/ 3/26(金) 22:05:22
Name : さっちー E-mail : Title : 出雲王朝について「オオモノヌシ」と「タケツノミ」 Comments: 今日は加茂岩倉遺跡について考えてみます。 平成8年に加茂岩倉遺跡が発掘されました。この遺跡では銅鐸39個がまとめて出 土しました。銅鐸は畿内地方を中心とした文化圏で製造、使用された祭祀の道具と されていました。所謂「銅鐸文化圏」というものです。銅鐸の主な産地は近畿地方 とされていましたが、この発掘により出雲においても銅鐸を製造していた可能性が でてきました。しかも大量にです。この説は鋳型や制作場が発見されなくては、成 りたたないのですが、いつの日か発見されると思います。 ではこの銅鐸が何を意味するのか?を考えてみたいと思います。 銅鐸を祭祀の道具として使用していたとされる代表的勢力は大和地域に成立した勢 力です。つまり大和朝廷の前身とされている勢力です。西日本各地に広がる銅鐸の ほとんどは大和近辺で製造されたものと思われています。 私はこの説は違うのではないかと思っています。銅鐸は出雲から大和及びその周辺 に配られたのではないかと考えています。何故そう思うのかなんですが、これは「 三輪のオオモノヌシ」が出雲系の神であるからです。前回のオオクニヌシとオオモ ノヌシの投稿でも書きましたが、オオモノヌシは出雲から三輪へ出雲の民を率いて 入植したと考えられるからです。大和に祭られている出雲系の神の中に「カモタケ ツノミ」別名「アジシキタカヒコネノカミ」という神がいます。オオクニヌシとタ ギリヒメの子とされています。高鴨神社にまつられている神です。鴨族の祖神とい われる神でもあります。もう気がつかれた方もいらっしゃるかもしれません。 私はタケツノミはオオモノヌシに従って大和入りしたと推測しています。また神武 東征のくだりで八咫烏となり大和入りの案内をする神でもあります。タケツノミは 神武の忠臣として日本書紀に描かれています。この神は大和の中に領地をもらい、 その土地に自分の出身地の名をつけたのではないかと考えています。つまり出雲の 加茂すなわち加茂岩倉遺跡の土地です。出雲の加茂で祭祀につかっていた銅鐸を大 和に持ち込んだのではないかと推測しています。銅鐸は大和から出雲に伝わったの ではなく出雲から大和へ伝わり、大和から全国各地に広がったのではないでしょうか? 出雲の加茂から大和に旅立つ時に、自分達の祭祀道具である銅鐸を地中に埋めたの ではないか、と考えられないでしょうか?この行為には故郷の祖神達を祭り、鎮め る意味があったのではないかとも考えています。 Time : 1999/ 3/27(土) 00:52:12
Name : さっちー E-mail : Title : 訂正 Comments: 「ウカノミタマ」は大国主の別名ではありませんでした。 出雲大社に祭られている「食」を司る神の名前でした。 どうもすみません。 Time : 1999/ 3/27(土) 10:35:58
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と金色相・・・やっと本題にもどりました! Comments: きんたろうさん、今日は。Awajiです。 淡路出身の水戸烈士というのは、お珍しいですね。よろしくお願いします。 >>「金色相」について説明をお願いしたいと思います。 「如来三十二相」の一つで、文字どおり「身体全体がすべて黄金色である」 ということなのですが、どのような説明が必要なのでしょうか? この由来についても、釈迦=白人説、釈迦像=ギリシャ人創作説、がある のも申しあげたとおりなんですが。(他にも有るかな?) なお、何方かが「光背=後光」におけるクリスチャン像との近似性をお話 になっていたと思いますが、「如来三十二相」には「丈光相」というのも ありまして、「身体から放たれる光が四方一丈に広がっている」というも のです。(オーラでしょうかね?) さて・・・どちらがどちらに影響を及ぼしたのか? メソポタミア・エジプト・ギリシャの神像における「光背」の存在は如何 に? これらを考察するのも一興かと存じます。 Time : 1999/ 3/27(土) 16:51:15
Name : きんたろう E-mail : Title : 原色の時代 Comments: Awajiさん、こんにちは。 回答有り難うございます。単なる軟弱者です。 以前フォーラムの方へ少し書いたことがあるのですが、淡路島は我が家の「伝説」 の出身地ということで親近感を持っているのですが、実はまだ行ったことがない のです。(すぐ近くまでは何度も行ったことがあるのですが、なかなか機会に恵ま れないのです) 古代ギリシアにおいても、建造物、神々の像は鮮やかな彩りがなされていたと言わ れています。日本でも同様で例えば神社など修繕したときは「違和感」を覚えるほど 原色が使われています。 まず第一にどうして「金色」が選ばれたのだろうという素朴な疑問が湧きました。 当然根拠があるはずだと思うのです。 先日書いた黄金の後輪=後光についてはその類似性に対してのこれもまた素朴な疑問 です。 Awajiさんはかなり「詳しい」方と見込んでの質問です。 よろしくお願いします。 Time : 1999/ 3/27(土) 17:31:07
Name : さっちー E-mail : Title : 実は・・ Comments: きんたろうさん、Awajiさん。 私の母は淡路島出身です。母方の墓地はいまでも淡路にあります。 だからどうしたと言わないで下さい。 Time : 1999/ 3/27(土) 17:39:35
Name : きんたろう E-mail : Title : さっちーさんも!! Comments: こんばんは。 淡路島へはどのくらい行かれたことがあるのですか? Time : 1999/ 3/27(土) 20:52:13
Name : さっちー E-mail : Title : 古代勢力地図 Comments: みなさんこん@@は。今日は出雲や吉備、大和そして九州がどうやって離合集散を していったのかを考えてみたいと思います。 大和朝廷成立以前の各地域は、争いを繰り返していたと想像されていますが、どの ような戦争の仕方でどのように決着をつけていたのでしょうか? 私は隣接勢力による縄張り争いのような戦闘しかしていなかったのではないかと推 測しています。そしてその決着の付け方は祭祀によってつまりそれぞれの国の呪術 者による、超能力合戦のような体裁だったのではないかと思います。 具体的な方法というのは想像もつきませんが、太占(ふとまに)やうけひとよばれ るようなお互いの祭る神の霊力を試合うような方法で決着がつけられたと考えてい ます。この結果勝った方が上位にたったとおもわれます。 古事記において高天原でアマテラスとスサノオがうけひによって決着をつけた所か ら推測しました。呪術の強い国の神が負けた国の神を配下に加えていったのです。 呪術とは現在の科学に匹敵する国のレベルを表すものであり、優秀なシャーマンを かかえた国が他の国より優位にたてたのです。 ではその優位関係を何によって表したのでしょうか? 婚姻ではなかったのかと思っています。負けた国は勝った国に人質の役割も担った 「嫁」「婿」を送り臣従する形をとったのではないでしょうか。 オオクニヌシには沢山の「嫁」がいます。越や因幡、播磨などから「嫁」を娶り、 傘下に加わる事を許したのです。この関係は一代限りに近いものです。 次の代には出雲ではなく吉備の王に「嫁」を送ったりしたのだと思います。 もちろん嫁は一人きりではなかったでしょうし同時に出雲や九州に嫁婿を送ったか もしれません。この方法によって古代日本で独自の勢力を打ち立てたのが出雲であ り、吉備、大和といった各地の大勢力だったのです。 とくに吉備王国?は出雲と大和双方と婚姻関係をもっていました。いわば統一に向 かう過程でキャスティングボードをにぎった勢力でもあったのです。 Time : 1999/ 3/28(日) 00:29:25
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と金色相U・・・宗教芸術と美 Comments: きんたろうさん、本音を言えば一寸困っているAwajiです。 >>まず第一にどうして「金色」が選ばれたのだろうという素朴な疑問が湧 >>きました。当然根拠があるはずだと思うのです。 >>先日書いた黄金の後輪=後光についてはその類似性に対してのこれもま >>た素朴な疑問です。 釈迦白人説では駄目でしょうか? ラテン系人は黒髪が多いので、確かに一寸シンドイかも知れませんが、ゲ ルマン系人の金髪産毛は、光線の具合で金色に輝きますので、あながち無 理とも思えないのですが。(紅顔碧目と言う捉えかたもありますが) 因みに、明王(天部)という下位の諸像は赤、黒、黄、青、等ですね。 これはドラブィダ系、アジア系人を示していると言う考え方もあります。 ただし、シャーキャー族についてはアジア系と言う見方が有力ですし、ガ ンダーラやマトゥーラの初期如来、菩薩像が金色であったか?については、 確信がないので、苦しいところです。 もう一つ、仏像制作が禁止されていた時期には、ジャータカ等で如来を示 す場合に「日輪」が多く使用されています(菩提樹もありますが)。 この「日輪」との連想で金色とされた。ナンテこれはもっと苦しいですね。 その他に、「尊貴=黄金」のイメージによる可能性もありますね。 誰だったか忘れましたが、「人間とは黄金に異常な執念を持つ猿である」 なんて警句をいった人もいました。 それでは、何故人間は黄金に異常な執念をもつのか? 1.耐酸性が強く、いつまでも金属光沢を失わない。 2.光沢が太陽と類似しており、太陽信仰と関連付けられやすい。 3.延展性があり、箔として利用しやすい。 4.柔軟性があり、細工(加工)がしやすい。 5.自然状態(砂金等)で発見され得る(精練技術無しに利用できる)が 一方で希少性がある。 このような「尊貴=黄金」のイメージと、金属特性が仏像に利用されたか も知れません。 ところで、日本の仏像は現実に信仰の対象となっていても、金色を剥落、 脱色するにまかせ、滅多に補修しません、つまりはAwajiの好きな「滅び の美学」です。 ところが、韓国に永住すろフランス人、ロジェ・ルベリエさんによると 「これは、わたしの日本の芸術に対する不感症のせいだろうか。”仏をつ くって魂入れず”という諺があるという。日本の伝統芸術が表相的な美を 超越できないのは、諺どおりなのかもしれない。 美人の死体は美しいものに見えるかもしれないが、すでに魂はなく外見 上の美しさにすぎないものだ。しかもどんなに美しくても愛の対象になり 得ない。わたしは日本の仏教美術とは、なぜか『美人の死体』のように思 えてならなかった。」ー日本人はなぜ韓国人を理解できないか kappaBooks ・・・だそうです。宗教芸術における「美と精神性」「製作美と崩壊美」 ってのは難しいものです。 畢竟如何? ようわからんが、美は我が心の響きにあり。チュウところでしょうか? Time : 1999/ 3/28(日) 13:20:34
Name : ノム E-mail : Title : 何日かぶりの登場です。 Comments: みなさん、こんにちわ。 Awajiさんに質問があるのですが、 「釈迦白人説」とはどういうものでしょう。 呼んで字の如くだとは思いますが、できれば詳しく 教えていただけないでしょうか? Time : 1999/ 3/28(日) 15:21:08
Name : ノム E-mail : Title : 平安京は・・・・ Comments: みなさんこんばんは。四月からの寮生活の準備と引越しのため しばらくごぶさたしてました。4月7日が入学式なのですが、 大学生活になれるまでここにはこれないかもしれません。荷物 の制限のためパソコンなどは持ち込み禁止らしいです。 学校でインターネットができるらしいのでそちらから投稿 してみたいと思っています。 今日から3日間さっちーさんにパソコンを借りたので投稿 します。 すっかり神話の時代の話になっているのでびっくりしました。 平安京の話はどうなってしまったのでしょう? 大阪JF生さん、輔住さん何か目新しい情報はないのでしょうか? 平安遷都の経済効果についていろいろ考えてはいるのですが うまくまとまりません。 神話の感想としては弥生時代も結構複雑な社会だったんだなぁ というのが本音です。神武天皇は大和に逃げ込んだというのは おもしろいと思います。 Awajiさんへ 出雲大社の裏山についてははっきり見ていないのでなんとも いえません。表の方はうろうろしたのですが裏側までいかなかった ので。案内してくれた大学生の方が「いずもかんなびやま」と いっていたような気もするのですが・・・覚えていません。 裏にスサノオが祭られているのもさっちーさんに聞くまで しりませんでした。情けない気分です。でも出雲大社に遊びにいって うらの神社まで見ていく人は何人くらいいるのでしょうか? とひらきなおっています。 Time : 1999/ 3/28(日) 22:00:10
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と釈迦白人説 Comments: ノムさん、杵築大社裏山情報すみませんでした。Awajiです。 >>Awajiさんに質問があるのですが、「釈迦白人説」とはどういうものでし >>ょう。呼んで字の如くだとは思いますが、できれば詳しく教えていただ >>けないでしょうか? まことに失礼ですが、もう少し質問の要領を工夫されては如何?(^0^)" この質問ではノムさんが何を詳しく知りたいのか、サッパリ分かりません。 「釈迦白人説」は以下の経緯によるものですが、 Title : 救世観音と金色 1999/ 3/10(水) 23:29:16 「大智度論」という仏典によれば、如来には三十二の身体的特徴があると されています。所謂「如来三十二相」と言われるものです。・・・・・ 青い目、金色の肌、巻毛・・・とくると白色人種を思わせますが、この理 由についても諸説があります。 実際にお釈迦さんは白色人種であった?本来禁止されていた仏像の制作が ギリシャ系人(ガンダーラ)によって開始された?単に理想的肉体を描い たものだ?等々ですがよくわかりません。 Title : 救世観音と金色相 1999/ 3/27(土) 16:51:15 「如来三十二相」の一つで、文字どおり「身体全体がすべて黄金色である」 ということなのですが、どのような説明が必要なのでしょうか? この由来についても、釈迦=白人説、釈迦像=ギリシャ人創作説、がある のも申しあげたとおりなんですが。(他にも有るかな?) Title : 救世観音と金色相U 1999/ 3/28(日) 13:20:34 釈迦白人説では駄目でしょうか? ラテン系人は黒髪が多いので、確かに一寸シンドイかも知れませんが、ゲ ルマン系人の金髪産毛は、光線の具合で金色に輝きますので、あながち無 理とも思えないのですが。 ノムさんの興味が奈辺にあるのか、それによって回答が変わってきます。 貴方のように知識欲旺盛な方には、出来るだけ的確にお答えしたいので、敢 えて申上げました。気を悪くしないで下さいね。(^^;) Time : 1999/ 3/28(日) 22:19:32
Name : きんたろう E-mail : Title : 侘び寂 Comments: Awajiさん有り難うございます。大変に参考になりました。 きっと「色」には「ランク」があったのだと思います。その最高位にあるのが 「金色」なのでしょうね。 そしてその理由としては、Awajiさんが書かれた事にもう一つ追加するとすれば、 「金色の輝き」を見つめていると心の安定を得ることが出来るということが挙げ られると思います。 きっとあの輝きの波長は視界を通じて脳に働きかけるというアロマセラピーのような ものでもあるのかなと思います。(思いつきです) >ところで、日本の仏像は現実に信仰の対象となっていても、金色を剥落、 >脱色するにまかせ、滅多に補修しません、つまりはAwajiの好きな「滅び >の美学」です。 私も仏像に限らず神社や仏閣も色が褪せている方が趣があって好きです。 赤や青の原色は私には今一つという感じがします。ギリシアでも大理石に同様に 塗られていたそうですが、きっと生々しかったのでしょうね。 ところでノムさんが質問されていましたが、「白人説」とはどういうものなのでしょうか。 インド人はアーリヤ人ですからヨーロッパ人と同種ではありますが?仏像のモデル を「白人」にしたという事なのでしょうか。ガンダーラ美術の影響と捉えてもいいのでか? フランスでもパリ市の一桁区では「歴史的建造物」景観を守るため、いろいろと制限がある ようですから伝統があるところでは「美人の死体」が同様に好まれるのではないかと思います。 Time : 1999/ 3/28(日) 23:29:54
Name : きんたろう E-mail : Title : すみませんでした Comments: この前の文章で「釈迦白人説」について書きましたが、「救世観音と金色」のタイトルで すでにAwajiさんが回答されていたのですね。 すみませんでした。 よって、この分は省いて読んでいただけたらと思います。 Time : 1999/ 3/28(日) 23:38:13
Name : ノム E-mail : Title : 釈迦白人説についての質問 Comments: Awajiさんすみませんでした。もっと詳しい質問をすればよかったですね。 1.僕が聞きたかったのは釈迦白人説というのは一般的に知られていること なのか? 2.もし一般的な説なら、いつごろ、どんな人が唱えた説なのか? 3.白人説にAwajiさんは賛成しているのか? 釈迦についての事をさっちーさんに聞くと「釈迦はシャーキャ族からとった 部族名の事で個人の名ではなく、モンゴル系の種族らしい。米を食べていた らしいから農耕民族かもしれない。そして家族に飯を意味する名をもった 人がいる。」というような事を言ってました。この意見と白人というのは ぜんぜん違うんじゃないかと思って興味をもったのです。 僕のイメージではさっちーさんのモンゴル系という意見の方がピッタリ あうのです。 これで解っていただけたでしょうか? Time : 1999/ 3/29(月) 01:06:36
Name : ろばのパン屋 E-mail : Title : ヤマタイ国はどこ? Comments: はじめまして、よろしくおねがいします。 ヤマタイコクは一体どこにあるのでしょう? Time : 1999/ 3/29(月) 22:11:49
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と釈迦如来の出自・・・多少かんけいあり? Comments: ノムさん、今日は。Awajiです。 一寸厳しいことを申しあげましたが、早速のご回答ありがとうございます。 釈迦白人説は、彼をインド・アーリアンのクシャトリア(武士貴族階級) 出身と考えるところから発展したもので、植民地時代の多くのヨーロッパ 学者はその様に考えていたようです。 中村 元 氏の定義によれば、アーリア人とはインド文化形成の主流をなす 人種で、西洋人と同じ種族・・・とされています。 即ち、人種的にはコーカソイド(白色人種)を源流に持つと考えられてい ます。 一方で、彼(ゴータマ・シッダッタ)の属するシャーキャ族は、イクシュ ヴァーク王を祖としているが、この王はプール族の祖ともされており、プ ール族はインド・アーリアン人の敵として「リグ・ヴェーダ」に記述され ています。その意味でシャーキャ族は非インド・アーリアン人という考え も有力です。かって英国の歴史学者スミスは「仏陀はチベット系山岳民( モンゴロイド)が平地に展開した種族の末である」と主張して、ヨーロッ パ学会に一石を投じたそうです。 彼の父はシュッドーダナ王とされていますが、この名は「清らかな乳粥」 と言う意味で、「浄飯王」と漢訳されています。その兄弟もシュクローダ ナ、ドロノーダナ、アムリトーダナと「ダナ=飯」の語を共有しており、 米作との関係が指摘されています。母のマーヤーはコーリヤ族出身とされ ており、これも非アーリアン人のようです。 おそらく、さっちーさんはこの様な説を示されたのだと思います。 ただ、ゴータマ・シッダッタの生地である現在のネパール国タライ地方の カピラ・ヴァストゥは古くからアーリア人の進出が認められていますので 人種的に混在しており、混血も進んでいたようです。 従って、単純にモンゴロイドと決定できるかどうかは、Awajiには分かり ませんが、少なくともモンゴロイドの血が濃かったことは認めてよいと思 います。 その意味で、如来三十二相における白色人種的特徴について・・・ >実際にお釈迦さんは白色人種であった?本来禁止されていた仏像の制作が >ギリシャ系人(ガンダーラ)によって開始された?単に理想的肉体を描い >たものだ?等々ですがよくわかりません。 >ただし、シャーキャー族についてはアジア系と言う見方が有力ですし、ガ >ンダーラやマトゥーラの初期如来、菩薩像が金色であったか?については、 >確信がないので、苦しいところです。 と申しあげたものです。極めて大雑把ですが、取り敢えずこんなところで、 よろしいでしょうか? Time : 1999/ 3/29(月) 23:08:09
Name : ノム E-mail : Title : Awajiさんありがとうございます Comments: Awajiさん解説ありがとうございます。 釈迦つまり仏陀はアーリア人説とモンゴロイド説が あったのですね。知りませんでした。 僕は単純にインドはアジア地域なのでモンゴロイドだろうな という風に漠然と思っていました。 さっちーさんはこの所忙しいようなので、簡単にしか教えて くれなかったのです。 文章で教えて頂けるとよくわかりました。 結局の所人種についてははっきりと解らないということですね。 釈迦の教えは残っているのに、人種については解ってないという のは何か不思議な気がします。 僕も釈迦は混血した部族だったと思います。だからこそしがらみ のない「悟りの境地」を目指したのではないかと思っています。 これもさっちーさんから聞いたのですが仏教のお経というのは、 キリスト教の聖書のようなもので物語のような事が記されている らしいですね。僕にはお経の意味は全く理解できません。 仏教もキリスト教のようにダイジェスト判のお経を作ってもっと 布教したらいいのに、なんて思っています。 どうもありがとうございました。 Time : 1999/ 3/30(火) 00:34:32
Name : ノム E-mail : Title : きんたろうさんのホームページ Comments: みなさん、おはようございます。 きんたろうさんのホームページにさっちーさんの コーナーができました。 興味のあるかたは是非みてください。 Time : 1999/ 3/30(火) 09:27:57
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ヤマタイ国のコメント Comments:  皆様御久しぶりです。このところ、ずっと観客です。 ノム様、何も情報がなくてすみません。  ところで、ろばのパン屋様 (このお名前は、小生の世代以降は分からないでしょうね) ヤマタイの話が出たら、紹介しようとおもっていたのですが、 面白いホームページがあります: http://member.nifty.ne.jp/Washizaki/ 鷲ア 弘朋氏の自著 「邪馬台国の位置と日本国家の起源」 を自己紹介したものなのですが、 かなり詳しいので、一見の価値があるとおもいます。 興味のある方、どうぞ。 Time : 1999/ 3/30(火) 13:14:33
Name : 輔住 E-mail : Title : ノムさんへ Comments: こんにちは 私の方も「掲示板」の方では特別に 新しいネタ(?)はないです。 またいずれ何か書きます。 Time : 1999/ 3/30(火) 16:48:08
Name : ノム E-mail : Title : 邪馬台国について Comments: 大阪JF生様お返事わざわざすいませんでした。 ところで邪馬台国なんですが、大阪JF生様は興味 ないのですか?僕はよくわかってないんですが、何 故九州と大和でもめているのでしょう?それが解る とどうなるのでしょう?うーんわかりません。 Time : 1999/ 3/30(火) 16:53:55
Name : ろばのパン屋 E-mail : Title : つまり Comments: 「ヤマタイ国のことはよそでやれ」という事ですか? Time : 1999/ 3/30(火) 17:29:24
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 大目に見て下さい Comments: こんばんは、きんたろうです。 ノムさん、すみませんでした。宣伝を有り難うございました。 私のホームページもネット上に載って少し立ちましたが、今度さっちーさん=勇者ロト のコーナーを無事立ち上げことができました。 非常にマイナーなサイトではあるのですが見に来ていただけたら嬉しく思います。 (管理人様、すみません) このアドレスです。 http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/ Time : 1999/ 3/30(火) 18:56:27
Name : きんたろう E-mail : Title : 言い分けなし Comments: すみませんでした。 勇者ロトさんのところの敬称が抜けていました。 ゴメンです。 Time : 1999/ 3/30(火) 18:58:48
Name : ゆみこ E-mail : Title : しつもん Comments: みなさん,おひさしぶりです.しばらくインターネットができず,久しぶりにこちらに来てみましたが, 完全についてゆけなくなっています.ところで井沢先生に質問なんですが,知人によりますと昔(10 年位前?)に先生がコマーシャルに出ておられたらしい,とのこと.本当ですか?(「とまり木」ネタ かと思いましたが,私の機種では書き込みができないもので・・・) Time : 1999/ 3/30(火) 22:44:50
Name : ゆみこ E-mail : Title : ↓ すいません,読みづらくて. Comments: すいません.書き込みだけでなく改行もできないみたいです. Time : 1999/ 3/30(火) 22:48:34
Name : ノム E-mail : Title : 感想 Comments: みなさんこんばんは。輔住さんお返事ありがとうございます。 ろばのパン屋さんへ そういう事じゃありません。意見を書くのは自由だと思います。 柿本人麻呂について(やっと3巻読み終わりました) 柿本人麻呂が歌聖と呼ばれる理由は十分納得がいきました。実在も 疑われていたらしいですね。言霊についても「成る程」と思いました。 ただ今回はRUGOMAさんのいわれる通り疑いをもってもう一度読み直し たいと思います。万葉集とかは今のところ興味がわかないのですが。 和歌は日本人の心の歴史なのかもしれませんね。 山部赤人が歌聖と呼ばれなかったのは紀貫之が赤人の歌より、人麻呂の 歌が好きなだけという事は考えられないのでしょうか? 神話と古代史について さっちーさんが、がんばっていますが学校などでの知識が全くないので 難しいです。神話は古代史をうつしているのかよく解らないのです。 出雲の遺跡の事を考えるとそうなのかなという気もしています。 ただ井沢先生の理論から考えるとまるっきりのでたらめを自分達の祖先 でもある神の世界について書き残すような事はしないでしょうし、そう 考えると神話は古代の歴史そのものかもしれません。 ではこの神話の時代というのは一体どの位前の時代なんでしょう? これをさっちーさんに聞くのを忘れていました。 Time : 1999/ 3/30(火) 23:13:55
Name : Awaji E-mail : Title : 救世観音と経典・・・これも多少は関係あり?? Comments: ノムさん、今日は。Awajiです。 引き続き一寸厳しいことを申しあげます。(>_<;) >>僕も釈迦は混血した部族だったと思います。だからこそしがらみのない >>「悟りの境地」を目指したのではないかと思っています。 貴方はおそらく「経典」どころか仏教入門書すら読んだことが無い。従っ て「悟りの境地」どころか印度哲学の初歩さえ一切理解できていない。 その様な状態で釈迦の思想と出身について一定の解釈を行うのは不遜に過 ぎますよ。(^0^)" 発言は大いに結構ですが、道聴塗説にならないよう にして下さいね! まず、本物を知ることです。そして考えることです。知らずに考えても実 りはありません。 >>仏教のお経というのは、キリスト教の聖書のようなもので物語のような >>事が記されているらしいですね。僕にはお経の意味は全く理解できませ >>ん。仏教もキリスト教のようにダイジェスト判のお経を作ってもっと布 >>教したらいいのに、なんて思っています。 「経典=お経」と言っても「阿含経」「法句経」から「理趣経」まで様々 です。勿論ダイジェスト版もありますが、特定の宗派に偏っていますので、 あまりおすすめ出来ません。 若し仏教(経典)に興味をお持ちならば、入門書としては次の書籍をおす すめします。日本(思想)史・日本文学を考察するためには、仏教思想に 対する理解は不可欠ですので、せめてこれらのうち一冊は読破された方が 良いと思います。 「お経の話」渡辺照宏著ー岩波新書 「仏教経典散策」中村元編著ー東書選書 「バウッダ」中村元・三枝充悳著ー小学館ライブラリー 「仏教入門」岩本裕著ー中公新書 「仏教入門」三枝充悳著ー岩波新書 「般若心経講義」高神覚昇ー角川新書 「仏教」ベック著・渡辺照宏訳ー岩波文庫 「日本仏教史」末木文美士著ー新潮文庫 仏像オタクの余計なお節介かもしれませんね。程々に聞いておいて下さい。 Time : 1999/ 3/30(火) 23:25:14
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: このところお見かけしませんがお元気でしょうか? 古代王権の話は面白いですか? 僕もさっちーさんにすすめられて古代史関係の本を よみましたがなかなか難しいです。しかも著者によって 古事記などの文献と遺跡関係の解釈が違うので定説という のがはっきりしないらしいですね。 inaさんの投稿を楽しみにしてます。でわ。 Time : 1999/ 3/30(火) 23:29:28
Name : ノム E-mail : Title : わかりました Comments: Awajiさん連日のお教えありがとうございます。 ここ40日くらいでこのページの話についていくために いろいろと読んだのですが確かに仏教関係の本は一冊も 読んでません。寮生活が始まったら大学の図書館で探して 読んでみます。どの本が一番初心者むけですか? やっぱり「仏教入門」のどちらかですか? Time : 1999/ 3/30(火) 23:42:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ろばのパン屋様へ Comments: >「ヤマタイ国のことはよそでやれ」という事ですか? というように聞こえたならば、謝罪いたします。 ノム様のおっしゃるように、自由に意見を言える場所だと了解していますので、 そのように受け止められるとは思っていませんでした。 一応ここは井沢先生のホームページなので、 井沢先生のお考えは承知されている方が多いと思います。 批判がある場合も賛成される場合も、ここで意見を発表 されたら良いと思います。 小生は、井沢先生の説(九州近畿移動説)で納得していますので あえて意見をのべるまでもないと思っていました。 ただ、漠然と質問されても大方の人は答えにくいと思いますので、 まず、自説を展開されてやりとりをされたらどうかと思い、 材料を提供しただけですので、そうご了解ください。 Time : 1999/ 3/31(水) 09:49:45
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生様へ Comments: こんにちわ。質問なんですがヤマタイ国については この「掲示板」で議論というか話がでた事はあるの ですか? Time : 1999/ 3/31(水) 10:08:29
Name : ina E-mail : Title : ノムさん、ありがとう Comments: ノムさんへ 親切なお便りありがとうございました。私は、今、直木孝次郎先生の、私としては二冊目 にあたる、日本神話と古代国家、で勉強中です。邪馬台国のことを述べようと思ったので すが、大阪JF生さんの紹介されていたHPが面白そうなので、それにあたってからにしよ うかな、と思っています。  古代史の研究として、記紀が必須のものであることは疑いを入れないのですが、津田左 右吉の研究によって指摘されたように、さまざまの作為が見られ、勿論その後、再評価も されるのですが、古事記中で祖先が明らかな氏族が二百前後で、すなわち天武天皇時代の 不安定な政治状況を、日本書紀中祖先が明らかな氏族が百前後で成立時期の、文武、元明、 元正といった、ヒエラルキーの成立に向かった時代、といった、当時の政治状況を露骨に 反映していたり、(つまり、天武時代はより多くの氏族を統合しようとし、書紀の時代は代 表的な氏族の系譜を明らかにすればよい、と考えられた、と思われる)あるいは、天孫降 臨ひとつでも、日本書紀の各書、古事記で記述が違っていたりと、ちょっと、一筋縄では いかないな、と思って読んでいます。  あと一冊読んでから、自分なりの感想をのべられるか、と思います。 参考 日本神話と古代国家 直木孝次郎 講談社学術文庫 日本古代国家の成立 直木孝次郎 講談社学術文庫 記紀神話異伝研究の一齣 三品彰英  ところで、最近のAwajiさんの投稿、顔文字の使い方が、なんとなくKANAKさんを思 い出させますね。  大阪JF生さんへ、 ご無沙汰してます。すこし直木孝次郎先生の本をよんで見ましたが、直木孝次郎=KANAK 説を望みながら、ちょっと違うんでは?と最近思っています。 ロバのパンやさんへ、 ぜひやりましょうよ、邪馬台国、私の子供の頃はロバでなく、馬の引いているロバのパン やがありました。なつかしい、、(;_;)涙が出ます。 Time : 1999/ 3/31(水) 10:44:44
Name : 輔住 E-mail : Title : 個人の好み Comments: ノムさん、みなさん、こんにちは 柿本人麻呂については逆説の日本史で読んだことぐらいしか知らないのですが、 山部赤人の歌が評価されていないというわけではなさそうなので 「鎮魂」の可能性が高いと思っています。 話は変わって軍記物語なんかは「個人の好み」が良く出ますよね。 「義経記」における源義経や「太平記」における楠木正成などは その典型だと思います。 Time : 1999/ 3/31(水) 12:16:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 拝復 Comments:  ノム様 何度かヤマタイの話は出ましたが、 本格的な議論はなかったように思います。 個人的に興味がないわけではないのですが、 議論は神話以上に難しいように感じています。  ina様 御久しぶりです。直木先生=KANAK様説に興味を 持ち続けていただいて恐縮です。 言い出したくせに、小生も性格的には違うように思っています。 ただ、人間の本性は分かりませんので、空想をめぐらして みただけでした。あしからずご了承ください。  ところで、awaji様はKANAK様と性格・考え方が似ているように 思っていましたが、小生だけの思いではなかったのですね。  ちなみに小生の子どものときには、本当のロバがひいている パン屋がいました(「ロバのパンヤが・・・」という歌付きでした)。 Time : 1999/ 3/31(水) 13:14:08
Name : さっちー E-mail : Title : 邪馬台国 Comments: みなさん、こん@@は。私もこの問題は議論するに は難しすぎるとおもいます。 Time : 1999/ 3/31(水) 17:10:39
Name : ノム E-mail : Title : レンタル延長 Comments: みなさんこんばんは、大阪JF生さん、輔住さんお返事ありがとうございます。 邪馬台国についての話は、さっちーさんや大阪JF生さんが 敬遠したくなるほどややこしいのですね。井沢先生は東遷説を とられていましたね。他の説についてはよく知らないので何とも いえないのですが。 柿本人麻呂は明石の人丸神社にまつられている人ですよね? どうして石見で死んだのに?明石にまつられているのでしょう? 謎だらけの人物ですね。もしかしてペンネームという事はないんでしょうか? inaさん、難しそうですね。僕はさっちーさんに借りた「邪馬台国論争」 (岡本健一著講談社選書メチエ)という本を読みはじめました。 投稿楽しみにしてます。がんばって下さい。 Time : 1999/ 3/31(水) 22:49:42
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : どうして四国は死国なの? Comments:  四死問題が解決して一週間たちますが、ちょっと気になる問題です。 最近「死国」という映画が封切られました。それによると「四国」は「死国」だ そうです。  でも誰が考えても四国は伊予、讃岐、阿波、土佐の4国で構成されているから 四国であると思われます。以前邪馬台国が四国にあったと述べた人も、四国が日 本国の発祥の地であることを隠し、それを封じ込めるために88カ所の巡礼をして いると述べています。でも、20年以上四国に住んでいますが、ちょっとそんな説 は信じがたいですけどね。皆さんはどう思いますか? Time : 1999/ 3/31(水) 23:22:13