Name    : 大阪JF生
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Title   : 科学談義(お騒がせしてすみませんでした。最終回)
Comments: 
 輔住様、お返事ありがとうございました。
やはり、このような数式を使う内容はここでの議論としては
無謀だったようですが、お付き合いくださって感謝しています。
念のため、2次式を導くところまで、述べておきます。
そのためには、運動方程式に寄り道しなければなりません。
風船が一定の速さで膨らむように、力の効果は時間の2乗に
反比例するという話までは終わったとおもいますが、他にそのような
量がないのでしょうか?当然存在します:

 距離わる時間=速度(時間あたり移動距離), 
 速度わる時間=加速度(時間あたりの速度変化)

です。加速度は、時間で2回割っていますので、時間の2乗に反比例します。
そこで、ニュートンは改めて力を「質量と加速度に比例する量」と規定します。
これが「運動方程式」といわれているものです。
したがって、重力のみを考慮した運動では、上記の逆算として、
(時間を2回かけて距離をもとめる)という時間の2次式が得られるのです。
(厳密にまさしくグローバルなレベルでいえば、地球を質点と考えるのですから、
この運動も楕円軌道になるわけですが、力の方向も移動距離も微少なので、
力の方向(真下)・大きさ(重力定数)も一定と考えたものです。)

 以上、へたくそな説明ながら、古典力学の基礎的な概念には一応たどり着いたと
思うのですが、扱っている概念は基本的な量の感覚だけで、時間の2乗を除いて、
小学生にも理解可能なものだとは言えないでしょうか?しかもこれすら、面積が
長さを(長方形では「縦かける横」であるように)2回掛ければえられる概念だと、
納得できれば、(球面の面積はわからなくても)たどれる説明だと考えています。
小学生でも円の面積までは習っているし、「平方」メートルという単位も扱っています。

 つまり近代科学の重要なモデルである古典力学は、定量的に万人に理解可能な物であるはずで、
むしろ現代人としては共通の感覚であるべきではないのでしょうか?
ところが、小生たちにとっては試験管やビーカーといったイメージの染み付いている
化学ですら(差別表現ではありません。素人の単なるイメージで、おそらく一般的でしょう)、
シュレディンガー方程式から理論が始まる時代であるにもかかわらず、
本家の物理教育としては、難しいからといって定量的な物をどんどん避ける傾向にあります。
これでは理科ばなれを自ら推奨しているのではないでしょうか?
それが一番言いたかったことです。
 もちろん、これではいけないと気づいて行動を起こした学者も多くいましたし、
そのきっかけもいくつかありました。一つの大きな変革が起こったのは、世界初の人工衛星
スプートニクの打ち上げでした。世界一の大国を自負していたアメリカは、ライバルに先を
超されて大慌てでした。もっと科学教育をしっかりしなければと必死になりました。
しかし、その結果なされた教育内容の改革は全くひどいものでした。
その当たりの事情は、ファインマンによる
「・・・でしょう?ファインマンさん」
のシリーズに見られますが、当代一流の学者が改革に立ったものの全く実を結びませんでした。
それを支えるべき、数学の教育の方も、全くお粗末な改革しかなされませんでした。
同時流行の「構造主義」に乗っかった数学者集団ブルバキの構想が基本路線になってしまいました。
彼らの構想は、むしろ科学と切り離した数学の自立を目指した思想だったので、彼らの抽象数学が
この目的に合うはずがありません。日本でも同様の事情です。
 かくして、大衆教育としての科学教育は失敗し、現在アメリカ軍ではマニュアルを読む力もない
(もちろん語学上の問題もありますが)兵士ばかりで、軍は大弱りだときいています。
(念のため、小生は軍国主義者ではありません。現象の一端としてひいただけです)
以後も、教育「改悪」はあっても、改善の兆しは見られない状況です。

 ながながと、くだらない独り言を述べてきましたが、今回で打ち切りたいと思います。
また機会があれば、科学史に関る議論を始めてみたいと構想はありますが、様子を伺います。
御意見いただいた方々、お読みいただいた方々、どうもありがとうございました。

Time    : 1999/ 2/ 1(月) 10:23:52

Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 0について一言 Comments:  KANAK様の記事に2000年問題に関連して、0についての考察が ありましたので、一言。 ヨーロッパ人は、0を知らなかったのは本当で、0はインドで発見されたものでした。 それがアラビヤ文化を経由して、輸入された概念です。 数字自体がアラビアの物であるように、西洋文化はもちろん近代科学も含めて、 想像以上にアラビヤ文化に依存していることが、最近指摘されています。 (開始できるか不明ですが)小生の科学史談義のねらいもここにあります。  もちろん、科学的な量概念として、時刻・日付・年号は「階」と同じく 点に過ぎないので、不都合はなかったのでしょう。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 10:44:07
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 0について一言 Comments:  KANAK様の記事に2000年問題に関連して、0についての考察が ありましたので、一言。 ヨーロッパ人は、0を知らなかったのは本当で、0はインドで発見されたものでした。 それがアラビヤ文化を経由して、輸入された概念です。 数字自体がアラビアの物であるように、西洋文化はもちろん近代科学も含めて、 想像以上にアラビヤ文化に依存していることが、最近指摘されています。 (開始できるか不明ですが)小生の科学史談義のねらいもここにあります。  もちろん、科学的な量概念として、時刻・日付・年号は「階」と同じく 点に過ぎないので、不都合はなかったのでしょう。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 11:12:16
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 日本人の宗教の基盤は怨霊信仰である Comments: 「日本の神々(6)」33頁にあるアラミタマ(荒御霊)とニギミタマ(和御霊)に関する 松前健氏の文章を抜粋します。 さらに神の霊にはアラミタマとニギミタマの2種があるとされながら、実際には、アラ ミタマを社名にする神社はあってもニギミタマを名とするものはない。大神神社(三輪山 を祭る神社;引用者注)にせよ、住吉大社あるいは皇大神宮(伊勢神宮の内宮の事;引用 者注)にせよ、ニギミタマを祭るとされる本社の方は、ニギミタマの社と呼ばれた例がま ったくない。要するに、アラミタマに対する語は本来ニギミタマではなく、単なるミタマ だったのであり、神殿の奥に鎮まる神霊「ミタマ」が人間に意思を伝えようと発動する存 在で、いわば神のスポークスマンなのであろう。 神は一般に、平穏に神殿に鎮まっている時には神託を発しない。何らかの不満や怒りがあ ると、巫女や戸童(ヨリマシ;引用者注)などを通じてその託語を伝える。したがって、 その多くは祟りが伴なっている。アラミタマが次第に「荒々しい霊」と感じられるように なったのは当然であろう。 この文章は次のような構造を持っています。 (1) アラミタマを社名とする神社はあるけれども、ニギミタマを社名とする神社はない (2) (事実) (3) アラミタマは神のスポークスマンである(松前氏の研究成果) (4) 一般に、神が人間と接触を持つ時は、神が不満と怒りを持つ時である(事実) (5) したがってアラミタマは「荒々しい霊」と考えられるようになった(松前氏の研究 成果) (2)(4)は松前氏の研究成果であり、(1)(3)は事実ですから、私が(1)(3)を用い て松前氏と違う意見を述べても差し支えないはずです。 私は(1)(3)から、八百万の神は元々すべて怨霊で祟りなす神であったと考えます。 八百万の神は人間の生活と自然の接点に存在します。平原にポッカリとある山、村外れ の森、島、岬と入江等です。 人間が生活するとは、自然を破壊する事です。これは古代も変わらなかったでしょう。 その事によって自然のバランスが崩れて、災害が発生したと思われます。古代人はそれを 神の祟りと捉えたと考えます。 そして、祟りなすアラミタマを祭る事によって、幸いなすニギミタマにする事が出来る と信じたのでしょう。 古代人は、権力者を一種の天災と捉えていた節があります。人間の怨念と人間の怨念は同 じと考えたと考えられます。井沢先生が言う怨霊信仰は、厳密に言うと御霊信仰なのです が、御霊信仰はこうして生まれたと私は考えます。 下の英文はちょっとした悪戯です。日本語とニュアンスの違いがあるかどうか見てみてください。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 12:00:13
Name : DAISUKE ABE E-mail : s00v0128@ip.media kyoto-u.ac.jp Title : Japanese Religion Is Dedication Of Onryo. Comments: Japanese deities have a couple of faces , the one is ara-mitama and the other is nigi- mitama , mitama means the divine soul , ara means the power difficult to control , and nigi means wa which Japanese believe to be the most admiring character We have eight million of deities in Japan ; both eight and million are saint number in Japan , anyway we have numerous deities and shrines. Japanese call a shrine by the name of the deity dedicated there. Although deities have two faces , there is no shrine which called by the name of nigi-mitama. Therefore , the all Japanese deity had only ara-mitama at the very beginning. The deity is silent when he is satisfied , but once he got anger or dissatisfaction toward men ,he would tell it through priestess , shaman and so on. I think all the Japanese deity was onryo , onryo is the soul which has strong resentment , onryo revenge the men with it power , revenge of onryo is called tatari. Japanese deities live in the ridge of human life and the untouched nature , for example a little mountain in the centre of field , forest lay around a village , an island , a cape and an inlet. The human has to destoy the nature to live , even ancient civilizations had destroyed the nature for long time. It would break down the balance of the nature and had caused disasters. I think that ancient Japanese believed those disasters as tatari of onryo. Japanese believed that they could calm down onryo by dedicating it , and then onryo became nigi-mitama and do good to the men. In addition , ancient Japanese seemed to take their load as something like a disaster. Onryo which Mr.Izawa says is goryo to say neatly ; goryo is onryo of the noble , Japanese owed both the onryo of the nature and the noble , I think dedication of onryo is the ground of Japanese religion. Time : 1999/ 2/ 1(月) 12:03:32
Name : 三枝 貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 桓武の母は渡来系 Comments: 》けれども、これが「革命」でなければなぜ天智系の桓武天皇 は王朝交代 》を意味する儀式を行ったのでしょうか。 》これも壬申の乱が「革命」であったとして初めて理解できるのではないで 》しょうか。  kazuさん、それは本末転倒なご意見なんです。  桓武天皇が即位するまで、大王は、父方の血統だけでなく、母方の血統 まで正しい必要がありました。つまり、母も王族でなければ、大王候補になる ことは難しかったのです。  しかし桓武天皇は、母方が渡来人の血統で、母方の血統を誇ることができ ませんでした。だから殊更、自分の「天智系」という血統を誇り、今までの大王 より自分の血統の方が正しいのだと、強く言わなくてはならなかったのです。  つまり桓武は自分の正しくない血統を正当化するために「革命」という概念 を必要としたのではないでしょうか。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 12:11:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: 日本文の「この文は次のような構造を持っています。」以下の箇条書き (2)は間違いです。(3)(4)(5)を繰り上げて、(2)(3)(4)と直してく読んでださい。 I'm sorry my report has a mistake "owed" is "awed". Time : 1999/ 2/ 1(月) 12:12:05
Name : DAISUKE ABE E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : I'm sorry my mail adress was wrong. Comments: wrong -> s00v0128@ip.media kyoto-u.sc.jp right-> s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Time : 1999/ 2/ 1(月) 12:28:18
Name : kazu E-mail : Title : 母親も大切ですね Comments: 三枝様へ >桓武天皇が即位するまで、大王は、父方の血統だけでなく、母方の血統まで >正しい必要がありました。 確かにご指摘の通りですね。知らないうちに「腹は借り物」に染まっていました。 (私の好きな時代が戦国〜江戸時代、といえばお分かり頂けると思います。) 桓武以前の天皇の母親は皇族か、さもなくば蘇我・藤原という大豪族の出、と 分かっていながら、また古代社会における母系の重要性のことは全然考えていませんでした。 まだまだ勉強不足ですね。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 15:22:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 官位の力 Comments: 「逆説の日本史(魔王編)」に関連して、 戦国時代というと、治安が滅茶苦茶だったと考える人が多いです。しかし、宣教師は、 世界一治安が良いといっています。何故でしょう? 戦国時代は、あくまで国と国が戦争をする時代だったからです。大名の領地の中では、 平和が保たれていました。領国が治められない大名はすぐに攻め滅ぼされたでしょうから。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、それを日本全国に広げたといえます。 では、南北朝時代はどうだったかというと、人と人が戦う時代でした。 天下分け目の戦いがない変わりに、慢性的な小競り合いが続いたのです。隣に住んでい る人、それどころか自分の親でさえ信用できません。この混乱が、足利義満が天皇と将軍 を頂点とする古典的な官位の秩序と莫大な財力を背景にして、・・停止します。解決したわけ ではないのです。さらに、天皇になることによって、日本の分裂を解消しようとしたので す。 したがって、足利将軍家が無力だったとはいえ、織田信長が現れるまで、家柄、官位と いうのは実際に力があったのです。 力の差がない以上、それぐらいしか秩序をもたらす方法がないからです。 15世紀の武士は、その秩序に従うことによって、皆して生き残ろうとします。「和」で す。 16世紀の戦国大名は、「和」を壊して、相手を倒すことによって生き残ろうとします。 その最たるものが織田信長であり、その行きつく先は皇帝だったはずです。 織田信長が絶対王政を目指していたことは、境屋太一さんが「欣求浄土」で書いていま す。 戦国時代の前期まで、室町幕府の職というのは力のあるものだったのです。ですから、 応仁の乱は、やはり、室町幕府の実権を握る争いだったのです。応仁の乱が終わった後も、 畿内においては、「ミニ応仁の乱」が何回も起こります。そしてそれは、三好と松永の戦 いまで続くのです。 虚位といえども官位の力は絶大なのです。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 14:28:49
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 雑談 Comments: 安部さんの「官位の力」、拝見させて頂きました。 戦国という乱れた世の中だからこそ「官位」という 規律の下に生まれた肩書きが役立つのですね。なるほど。 そういえば平安時代には藤原基経が「アコウの紛議」で憤慨していましたが、 あの頃は「官位」が実際に機能していたから問題になったんですね。 >虚位といえども官位の力は絶大なのです。 「天皇」なんかはその最たるものですね。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 14:50:57
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : アダになった先進性 Comments: 畿内では「ミニ応仁の乱」が続いたと書きました。 その理由の一つとして、畿内の先進性があります。 畿内は進んでいたため、南北朝が終了する頃には、 国単位ではなくて郡単位で戦国大名体制が完成してしまったのです。 国人が大勢割拠していたため、北条氏、武田氏、毛利氏、のような大大名が 育たなかったのです。 その代わり、国人の間では、室町幕府の秩序には従うという同意ができていたようです。 ですから、織田信長は、足利義昭を担ぐだけで畿内を掌握できました。 そのかわり、足利義昭が信長に反抗した時に畿内は手がつけられなくなってしまうわけです。 それに懲りた信長は、ますます中央集権を目指したと思われます。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 15:27:17
Name : 輔住 E-mail : Title : 京都 = 伏魔殿? Comments: みなさん、こんにちは たしかに、京都は南北朝後から 「ミニ戦国」というイメージがぴったりです。 将軍、管領、山城の守護大名がいて 対立は絶えず、さらに寺院の勢力も無視できない場所です。 もちろん公家も無視できません。 これでは争いが起きないほうがおかしいでしょう。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 17:45:40
Name : 小松 E-mail : Title : 京都 Comments: 阿部さんこんにちは。 確かに、近畿地方では、強大な地方大名成立してないですよね。 それには、確かに先進性という要素も大きいと思いますが、 僕は京(権力)のせいだと言う気もします。 中央の権力に近いとちょっと力をつけるとすぐ権力に寄って行きたく なります。しかし、権威を担ぎ権力を利用すると言うことは、金も 労力もかかります。一方地方にあると言うことは、権力に地理的に 近寄れないがために、富国強兵に専念できます。つまり、京に近い勢力は ちょっと力をつけるとすぐ権力に寄り、ために自らの体力を消耗して しまったんではないでしょうか?だから、信長は上洛したにもかかわらず 京に本拠を構えず、京と距離を置いたのではないでしょうか? 権力とは、諸刃の刃だと言う気がします。 Time : 1999/ 2/ 4(木) 18:32:27
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 鹿苑寺参拝記 Comments: 京都は魔物ですよね。木曽義仲も源義経も、大きい目で見れば室町幕府と江戸幕府も京 都に関わったばかりに身を滅ぼしています。朝廷が明智光秀に接近していたとしたら、織 田信長も京都に滅ぼされたことになります。 源頼朝は、それを知っていたようです。彼は、出来るだけ京都には行かないようにして います。幼少期を京都で過ごしていたからその魔力を知っていたのかもしれません。後白 河法皇を「日本一の大天狗」と呼んでいますしね、彼はあだ名を付ける名人でした。また、 頼朝と政子の確執は、京都の妻問婚と東国の一夫一婦制の戦いと永井路子さんが言ってい ます。 「アダになった先進性」の方は、私の推測が多く入っているので、間違っていたら指摘 して下さい。 昨日、雪の金閣へ行ってきました。 立春と同時にテストも終わり、文字通り春休み(学生ばんざーい!)昼過ぎに目覚めた ら一面の雪景色でしたので、バスに飛び乗って、金閣へ。これがやりたくて今の大学を受 けたようなものです。 私の趣味には合わないのですが、綺麗でした。 そして思ったのは、鹿苑寺に祭られているのは、お釈迦様ではなくて金閣だと言うこと です。 当時は、周りに大御殿が立ち並んでいました。そのいちばん奥に、義満の金閣があった わけです。下界とは隔絶した別世界だったのではないでしょうか。 そう考えると、彼は「天皇になろうとした将軍」と言うよりは天皇を越えようとした将 軍だったと思われます。天皇は愛児の義嗣にして、彼は太上天皇になるつもりだったと思 われます。 だとしたら、義持の太上天皇の謚号拒否は、義満の宿願を土足で踏みにじる行為です。 井沢先生は、「逆説の日本史」で、室町幕府は守護の連合体であると述べていました、 そういえば「太平記」では斯波義将を足利義将と呼んでいます。南北朝時代には、斯波氏 と足利氏は同等だったのです。確かに斯波氏は、南北朝では足利氏に楯突いて新田氏と連 携します。足利氏は隔絶した存在ではなかったことが分かります。 一休禅師の大徳寺にも行きました。こっちの方が私はいいと思いました。石田三成の墓 と大友宗麟の墓と芳春院(前田お松さんがいたところ)がありました。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 12:08:51
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 八所御霊 Comments: 上御霊神社(京都府京都市上京区) 祭神…八所御霊、即ち崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人(吉子)、橘大夫(橘 逸勢)、文大夫、火雷神、吉備大臣(吉備真備) 元々は平安遷都以前からある出雲氏の氏寺であった。その上出雲寺の鎮守社に井上大皇 后が祭られ、次いで早良親王が祭られた。後、上出雲寺の方は廃れ、御霊信仰の高まりと 共に鎮守社の方は発展して上御霊神社となった。 下御霊神社(京都府京都市中京区) 祭神…八所御霊、即ち吉備聖霊、崇道天皇、伊予親王、藤原大夫人(吉子)、藤大夫(藤原広 嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫、火雷神 平城天皇(安殿親王)の即位を巡り、藤原仲成の陰謀によって、謀叛の疑いを受けた伊予 親王(桓武天皇第三皇子)は、母藤原吉子と共に川原寺に幽閉されて自殺した。社伝によれ ば、当社はこの霊を鎮めるために承和6年(839年)仁明天皇によって創建されたという。 元々は、下出雲寺の鎮守社。 崇道天皇神社(京都府京都市左京区) 祭神…早良親王 慶長18年(1613年)に、裏山から墓誌を伴う小野毛人の墓が発見され、この地は小野氏 一族と関わりの深い「和名称」愛宕郡小野郷の地とされている。 出雲氏の居住地「出雲郷」がこのあたりまで伸びていたとする説もある。 「日本の神々(5)」より、 秋篠寺(奈良県秋篠町) 光仁天皇と桓武天皇の勅願寺。奈良時代最後の寺院。近くに八所御霊神社がある。 ここには八所御霊が祭られているのは間違いない。もしかしたら、称徳天皇も祭られているかもしれません。行って調べてきます。 一度に8人もの怨霊の居場所が突き止められました。 特に重要なのは吉備真備が祭られていることです。彼は天武朝に忠実でした。また彼は 平安時代には霊力を持つスーパーマンとして物語で描かれるようになります。これも吉備 真備が怨霊であることを物語っています。この事は、光仁天皇即位が異常な手段によって 進められたことを暗示します。 御霊神社は両社とも平安京の鬼門にあります。 光仁天皇が、天武朝の怨霊が自分に崇りをなす、と思っていたことは秋篠寺の存在によ って分かります。やはり、天武朝は怨霊になったのです。そして、称徳天皇の怨霊もきっ とどこかにいるはずです。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 13:01:20
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ついに発見!!!称徳天皇の怨霊 Comments: 秋篠寺 奈良市にある寺。もと法相宗であったが、真言宗、浄土宗(西山派)を経て、現在は単立 寺院。創建年次については776年(宝亀7)と780年の2説がある。もと内教寺と言われ たが、秋篠の地にあり、秋篠寺と称せられるに至った。後世、秋篠寺の善珠と言われた興 福寺の名僧善殊を開山とする。780年に寺封100戸、798年(延暦17)に大和の無二公田 24町が施入され、812年(弘仁3)3月に引き続いて100戸が寄せられるなど、光仁・桓 武・嵯峨三帝の帰依を受けた。1135年(保延元)6月に講堂を残して罹災し、平安時代末 期には西大寺との間に秋篠山の帰属をめぐって争論が生じ、以後2世紀に渡って争われた。 その間太元師法に用いられる香水は、当寺の閼伽井(香水閣)より汲み取られて、東寺に 運ばれて用いられた。鎌倉時代には講堂が大修理されて本堂となり、罹災した諸仏も修理 されて安置されている。ことに伝伎芸天立像は乾漆造りの頭部を残し、下半身を木造で修 理されて今に伝わっている。参考文献「大和古寺大観」5、岩波書店、1978年。 日本史大事典(平凡社)より、 秋篠寺は、西大寺に接しています。西大寺は称徳天皇と道鏡の共同作業によって作られ た寺です。称徳天皇の死後も西大寺の造営は続けられ、桓武天皇は蝦夷征伐と平安京造営 のために財政が逼迫しているにもかかわらず続けました、なぜでしょう? 秋篠寺最大の宝物は、伝伎芸天立像です。これは秘仏になっています。秘仏と言えば… そお!法隆寺夢殿の聖徳太子像と伝えられる救世観音像ですね。梅原先生の名著「隠され た十字架」を思い出して下さい。秘仏には怨霊の影があるのです。では、伎芸天とはなん でしょうか? ぎげいてん(伎芸天) 梵名マケイシュラはインドのバラモン教の主神で、世界万象の造物主とする。人間の受 ける苦楽・悲喜はすべてこの神の支配下にあり、この神が喜ぶとき衆生も安楽を得、この 神が怒るとき衆生も苦患を受けると信ぜられている。仏教に取り入れられて御法神となっ たが、もともと諸業に堪能な神なので、学芸・技術の伸長と、その守護を担当し「大自在 天」と名づけられた。 さて伎芸天は、この大自在天の一化身として、この世に出現した天女である。容姿端麗・ 技芸百般に通じて、諸天中で彼女に勝るものがないと言われ、「伎芸天」と言い、異名を 大自在天女ともいう。伎芸の守護神で諸芸成就・福徳円満を司る神として崇拝される。 なら時代から既に伎芸天の信仰があり、平安時代以降は一般伎芸上達を求める者が「伎 芸天女法」によって福徳と伎芸上達を願い、その道の人々の信仰を集めたが、一般庶民の 信仰までには発展しなかったので、彫刻像はきわめて少なく、奈良の秋篠寺にただ一躯だ け現存するにすぎない。 奈良時代の作品で損傷がひどく、頭部のみのままの乾漆造で、体部は鎌倉時代に運慶に よって補修され、一個の完成した伎芸天に作り上げられているが、技術の秀抜さは不自然 さを少しも感じさせず、気品の高い立派な像に造りあがっている。 しかし損傷以前の像が果たして、かかる姿勢であったか否か、また天部像が蓮華座に立 つのが常識にもとるし、いろいろな疑点を持つ像である。 「仏像ガイドー必携仏像用語事典」(三上三樹雄 燈影社)より、 なんともミステリアスな像なのです。 伎芸天信仰が廃れても、頭だけになっても、この象は守られ、しかも史上最高の仏師運 慶によって修理されています。秋篠寺が祭っているのは、おそらくこの伎芸天立像です。 そして、これは称徳天皇を映しているのでしょう。 光仁天皇は、当時流行していた伎芸天信仰をカモフラージュにして、称徳天皇の怨霊を 祭ったのです。光明子は、吉祥天像のモデルにされていますから、実在の人間を仏像のモ デルにすることは珍しくありません。 秋篠寺が西大寺の隣にあるのも称徳天皇説を強めます。西大寺には道鏡が、秋篠寺には 称徳天皇が祭られているのです。仲良く並んで。 しかも秋篠寺は奈良時代に作られた最後の寺です。天武朝へのレクイエムだったのです。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 16:05:54
Name : 私家医師 E-mail : Title : 心配です Comments: >秘仏と言えば… >そお!法隆寺夢殿の聖徳太子像と伝えられる救世観音像ですね。 >梅原先生の名著「隠された十字架」を思い出して下さい。 >秘仏には怨霊の影があるのです。 話しの筋が全然通ってないんですけど・・・。 特に密教系の寺院などでは、秘仏なんて珍しい存在ではないと思いますし。 Time : 1999/ 2/ 6(土) 04:16:25
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺・・・気持ちを落ち着けて Comments:  確かに興奮しておりました。気持ちを落ち着けて、称徳天皇の怨霊がいらっ しゃる根拠を書かせていただきます。  秋篠寺に関する事実は以下です。 (1)光仁天皇の勅願によって建立された(776年建立説の場合)    光仁天皇と桓武天皇の勅願によって建立された(780年建立説の場合) (2)光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇の帰依を受けた (3)西大寺の隣に位置する (4)鎮守社として八所御霊神社を持つ (5)本尊は木造薬師三尊像(室町時代の模古作) (6)創立当初から残る仏像は、木造伝伎芸天立像、木造梵天立像、木造伝救脱菩薩立像 (7)「続日本記」の記述 続日本記巻三十六光仁天皇宝亀十一年(780年) 六月の戊戌(五日)、勅すらく、「封一百戸を永く秋篠寺に施す。それかりに 食封を入れることは限令条に立つ。比年(としごろ)行ふ所、甚だ先典に違え り。天長く地久しくして帝者代り襲ぐ(つぐ)。者は点かの物にして一人の用 に非ず。然して(しかして)念ふ所あるに縁りて(よりて)、永く件(くだり) の封を入る。今永といふは是れ一代のみ。今より以後、立てて恒例となせ。前 後施す所、一ら(もっぱら)此れに准へ(ならえ)」と。 (8)奈良時代最後の寺院である。 以上8つです。  (1)(2)から、光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇に共通する理由で建立さ れたと考えられます。建立が光仁天皇と桓武天皇の2方の勅願によってなされ た事は、この2方の願いが強く入っている事を思わせます。  (4)から、祭られているのを、井上内親王と考える事も出来ますが、彼女 は上御陵神社が出来る前は、秋篠寺以外の場所に祭られていた事が判明してい ます。  (3)のよって、称徳天皇との関係が出てきます。西大寺は、称徳天皇と道 鏡ゆかりの寺です。西大寺は、光仁天皇と桓武天皇によって造営が続けられま す。此れはやはり、称徳天皇と道鏡に対して負い目があったからだと思われま す。特に桓武天皇は奈良仏教と決別しようとしたにもかかわらず、西大寺の造 営を続けるのです。それに隣して秋篠寺が建立された事は、秋篠寺と称徳天皇、 道鏡の関係を疑わせます。  (2)のうち、光仁天皇の時に天武朝が滅び、桓武天皇は平城京を捨てまし た。嵯峨天皇は、平城天皇を討伐(薬子の乱)する事によって、平城京に戻る 意志が無い事を示しました。3方とも、平城京とそれを造った天武朝に負い目 がある方々です。(8)から、秋篠寺は天武朝に捧げられた寺、特に最後の天 皇称徳天皇を祭った寺と考えてもよいでしょう。  そして、(5)(6)から、秋篠寺が一番大事にしているのは伝伎芸天立像 と考えられます。どの資料を調べても、秋篠寺とこの像はセットで出てきます。 美術的な価値からでしょうが、本当にそれだけだろうかと私は思うのです。  奈良時代に建立された寺院が多く権力者の意志、特に怨霊鎮魂を目的にした ものだとしたら、秋篠寺もその一つと考えられます。しかも、勅願時なのです。 昨日まで私も知らなかったマイナーな寺ですが、東大寺や国分寺や西大寺と同 等な寺院なのです。  私は以前、日本史全体を見る歴史家はマイナー所に目が行かないと書きまし たが、こういうことなのです。その歴史家の中には、梅原先生や井沢先生も含 まれます。秋篠寺は奈良時代最後の勅願時です。最低でも、奈良時代を論ずる 議論の俎上に載せてもいいはずです。 Time : 1999/ 2/ 6(土) 15:06:51
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: 続日本記の引用文 誤「者は点か」   正「物は天下」 Time : 1999/ 2/ 6(土) 15:12:59
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 間違えました Comments: 秋篠寺の秘仏は伎芸天立像ではなく、大元帥明王でした、 恐ろしい神様で、「悪獣、兵禍、災害などの難を除去し、国土衆生を安穏あら しめる」任務があるそうです。 此れは、蝦夷征伐のために、安置されたのでしょう。 此れもまた、希少な仏像だそうです。 Time : 1999/ 2/ 6(土) 15:35:09
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(45)「秋篠寺」は怨霊寺?? Comments: 安部さん、私家医師さん、今日は・・・KANAKです。 私家医師さん・・・やはり、ご心配ですか? 正直なところ私も気になりますが・・・井沢さんも罪作りな方ですね! 安部さん・・・まぁ取りあえずですが。 >>此れもまた、希少な仏像だそうです。 大元帥明王は、五大明王、愛染明王と並び尊重された明王で、密教寺院で は特段珍しくありません。 仏教・仏像を語りたいなら、もう少しお勉強なされば? >>(4)鎮守社として八所御霊神社を持つ 八所御霊神社の主神は怨霊界のスター「崇道天皇(早良)」です。 その他は「火雷神・伊予親王・藤原広嗣・橘逸勢・吉備大臣・文屋宮田麻呂」 と言うお馴染みのスターと「藤原不比等」であって、当然ながら「称徳」の 影は見られません。 「秋篠寺」と「崇道」との関係は・・・「秋篠寺」の開祖とされる「善珠」 が「桓武」の命により、早良親王の病気平癒のため、本尊「薬師如来」に加 持祈祷したと言う伝承に関係があると思いますが・・・ 軽々な判断は差し控えます。 なお、「藤原不比等」については若干疑問が在り、或いは誤伝ではないかと も思いますが・・・これを以って「称徳」とのスリカエ等と言う”トンデモ” に陥らないようにね! >>(3)西大寺の隣に位置する 東大寺と興福寺、薬師寺と唐招提寺はすぐ隣に位置しますが・・・何か意味 が在りますか? 西大寺と秋篠寺が近くに在っても、単に「平城京大極殿」北東部に位置して いると言うだけで、「称徳」と関連付ける何の根拠にもならないんですよ! >> 奈良時代に建立された寺院が多く権力者の意志、特に怨霊鎮魂を目的に >>したものだとしたら、秋篠寺もその一つと考えられます。しかも、勅願時 >>なのです。昨日まで私も知らなかったマイナーな寺ですが、東大寺や国分 >>寺や西大寺と同等な寺院なのです。 この前提が問題なのです・・・いろいろな寺院創建事情、勅願寺の意味等も よくお勉強し、ご自分の頭で冷静かつ論理的にお考えなさいね! そうすれば・・・貴方の(1)〜(8)の根拠が如何なるものが、少しは分 かると思いますよ。 貴方は・・・「称徳」が怨霊となる要因が本当に納得出来るのですか? 「光仁」「桓武」が何故加害者として崇りを恐れねばならないのでしょうか? >> 伎芸天信仰が廃れても、頭だけになっても、この象は守られ、しかも史 >>上最高の仏師運慶によって修理されています。秋篠寺が祭っているのは、 >>おそらくこの伎芸天立像です。 そして、これは称徳天皇を映しているの >>でしょう。 秋篠寺で運慶が補修したのは「伎芸天」のみではありませんよ! 鎮魂のために「天皇」を映すならば・・・・少なくとも「菩薩」であって、 「天部」でも最下位の「伎芸天」は想定し難いでしょうね。 「伎芸天」が大寺の首座を占めることも有り得ません。お分かりですか? >> 秋篠寺が西大寺の隣にあるのも称徳天皇説を強めます。西大寺には道鏡 >>が、秋篠寺には称徳天皇が祭られているのです。仲良く並んで。 西大寺には道鏡が祀られている??”仲良く並んで。”? ・・・ヤマイコウコウニハイッテイルのではないでしょうね。(^^;) >> 一度に8人もの怨霊の居場所が突き止められました。 特に重要なのは >>吉備真備が祭られていることです。 上下御霊神社は”天下公認”の怨霊信仰による神社です。 ここで怨霊の居場所を突き止めたって何の意味もないでしょう? 因みに、大和の「御霊神社」を挙げておきますしょうね。 五條市霊安寺・・井上内親王・他戸親王・早良親王(本宮)桓武勅願? 五條市小和・・・井上内親王 五條市中之・・・井上内親王・他戸親王・早良親王 奈良市薬師堂・・井上内親王・他戸親王・吉備大臣等八神(元興寺鎮守) 伊居太神社と仁徳でも申し上げたように、軽躁に怨霊騒ぎをせず枯尾花の 正体を見極めるだけの知識と知性をお互いに磨きましょうね(^0^)" Time : 1999/ 2/ 6(土) 23:13:23
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 秋篠寺論争を読んで Comments:  論争を楽しく読ませていただいておりますが、 肝心の部分でよく分からないところがありますので、 (おそらく、同じ思いの人は多いでしょう) どなたか解釈を御教示ください。  重要なポイントは、「なぜ、天智系天皇が秋篠寺を建てたか?」 に対する解釈だとおもうのですが、反論にはその点は触れられていません。 安部様は怨霊鎮魂だと解釈されているようですが・・・。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 10:42:01
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : アイ・シャル・リターン Comments: 私の秋篠寺論に対する批判が、建立の目的に対するものではなくて、 私の仏教に対する学問的知識の無さに対するものであるので一安心です。 知識ならいくらでも増やすことができますからね。 でも腹は立ちました。 後で吠えずらをかかないでください。 私が怨霊の居場所を探しているのは、KANAKさんの「怨霊WHO‘S WHO」 に対する返事でもあります。 「怨霊WHO‘S WHERE」です。他戸親王と伊予親王の欄は、埋まった訳です。 別に大発見をしているつもりはありません。 なお、御霊神社は最初は井上内親王のために作られました。 早良親王は、その後で祭られました。これは、私の妄想ではなく、事実です。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 12:15:52
Name : 家康 E-mail : Title : おんりえど Comments: はじめまして、いつも拝見しております。いつも思うことなんですが、KANAKさんと、安部さん達の論争は、 お互いピントがあってない主張を繰り返しあっているだけのような気がします。ぼくは高校生ですがどちらかと いうとKANAKさんは揚げ足取りをしていると思います Time : 1999/ 2/ 8(月) 15:30:40
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : なんつーか Comments: こんにちは家康さん。(歴史上の実在人物のお名前だと、ちょっと奇妙な気分に なりますね。) 私には、KANAKさんと、その他の方々の論争は、どちらもどちらという気がします。 つまり、あげ足を取っているのは両方だと思うのです。 どちらの側も、結論が考察の前にあるのですよ。 KANAKさんの方には「井沢説は間違い」、その他の方には「井沢説に間違いは ない」という答えが、ね。 最初からゴールが決まっているので、どちらも力尽くで、決めた位置にまで結論を 運んで行こうとするだけです。 それじゃあ、つまらないだろうと思うのですが、ね。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 16:25:05
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさんに質問 Comments: 秋篠寺論争を拝見しています。直接関係はないかも知れませんが称徳天皇に どのようなイメージを持っていますか? 以前になんかの形で述べられたかも知れませんが、 少し気になるので。お願いします。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 17:50:40
Name : 家康 E-mail : Title : 論争地獄 Comments: 三枝さん、けんか両成敗ですよね。お互いの論点が 相手の粗探しに向かうことにより、どうでもいい事 ばかりが目立ってきているような気がしてなりませ ん。どう思いますか?諸先輩がた。生意気いってど うもすいません。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 18:45:27
Name : きんたろう E-mail : Title : KANAKさん初めまして Comments: 今晩は。 こちらの方によるのは久しぶりなのですが、KANAKさんの博識ぶりにはいつも 感心していました。 いくら自説が頭の中に入っているとは言ってもあれほどの分量を書き込めるとは 大したものだと思います。 すごいことです。 私が言うことではないのかもしれませんが、先日の安部さんへの言葉はちょっと いただけないと思います。 せっかくの知識が薄っぺらくなってしまうような気がして残念な気がします。 (それに安部さんですらあんな事を言われてしまうのでは、私など何も書けなく なってしまう) Time : 1999/ 2/ 8(月) 22:41:44
Name : 家康 E-mail : Title : おんきりきりばさらんうんはった Comments: 「井沢説」に反対だろうとなかろうと、もっと皆さん自身の見解を壮大に 示してみては、いかがでしょう。 歴史は、多分本当の真実というものを、紙の上や、庶民の噂話の中には残 していないのではないでしょうか? 今の政治家にてらしてみると虚々実々のかけひきの末、当事者 さえも何がなんだか解らない所で歴史は動いて行くもので、いくら絶対権 力者と呼ばれる人でも妥協の繰り返しだったのではないでしょうか? ですから、怨霊・言霊を全ての解釈の根本に置くのは、良くないと思いま す。勿論、資料に残っていることを鵜呑みにする事も真実を理解すること に有効ではないとおもいます。 そこでお互いあやふやな部分を補っていかなくては、何時までたっても真 実にはちかづけないのではないでしょうか? もっと相手の考えをうけいれてから、おかしい部分を指摘し合うほうがい いと思います。 ます。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 23:24:56
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : ごぶさたしてます Comments:  掲示板からとまりぎに引っ越した上、年明けから病に臥せりがちな宇津木です。 ひさしぶりに掲示板拝見しました。  三枝さん、きんたろうさん、そして家康さん(確かに三枝さん同様不思議な 感じがするな、この名前は)の言われるとおり、なんとも安部さんとKANAKさんの 議論は不毛な感じが否めません。  結局、以前の天智論争の頃と大して変わりがないように思います。  もう少し頭を冷やして考えてみていただきたいと思います。御互い、最終的な 目標は相手を「屈服」させることなのでしょうか? あるいは「挑発」すること なのでしょうか? 文章の端々に現れるニュアンスからは「後者」しか感じられ ません。  井沢説に反対であれ、賛成であれ「自身の見解を壮大に示す」ことは全く大事 なことと思います。しかし、それが単なる揚げ足とりで、相手を必要以上に 刺激することだけを目的としたような文章では読む側としては興ざめです。    口はごったい言い方ですが、もう少し、御互い高めあうような建設的な議論 (陳腐な表現だが)になりませんか?  高校生(には思えないぐらいだが)の家康さんの方がよっぽど「大人の冷静さ」 を備えているように思えるのは私だけでしょうか?  ここはオトナの世界だと思うのですが…(もちろん家康さんは含まれるけど)   Time : 1999/ 2/ 8(月) 23:39:50
Name : 「家康」改め「ノムさん」 E-mail : Title : 改名届け Comments: どうも名前の評判が悪いようなので、突然ですが改名します。 阪神タイガースの監督、野村克也さんにあやかって「ノムさん」 にしたいと思います。といってもべつに阪神フアンではありません。 ID野村監督のフアンです。 なんとなく野村監督と徳川家康は似ているような気がして・・・・ ぼくは、関西人なんで最初は豊臣秀吉が好きだったんですが大学 にうかってからゆっくり日本史の教科書を読んでみれば家康はなん と凄い人物だと妙に納得してしまい、家康の事を尊敬してしまった のです。というのも彼の作った平和は長く続いたばかりではなく、 今でもかれが生み出した制度によって発生した常識が世の中を制御 している事に気づかされたからです。 それは、士・農・工・商という身分制度に伴う為政者の正義です。 これが揺らいでくると世の中がすこしづつおかしくなっていくのです。 今の世の中は、政治家達の正義感が大衆のそれと比べると著しく乖離 してきているのではないでしょうか? 改名の話から乖離したところで今日の書き込みを終了いたします。 では、またお会いしましょう。「ノムさん」でした。「ノム」と呼んで下さい。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 00:59:42
Name : 「家康」改め「ノムさん」 E-mail : Title : 改名届け Comments: どうも名前の評判が悪いようなので、突然ですが改名します。 阪神タイガースの監督、野村克也さんにあやかって「ノムさん」 にしたいと思います。といってもべつに阪神フアンではありません。 ID野村監督のフアンです。 なんとなく野村監督と徳川家康は似ているような気がして・・・・ ぼくは、関西人なんで最初は豊臣秀吉が好きだったんですが大学 にうかってからゆっくり日本史の教科書を読んでみれば家康はなん と凄い人物だと妙に納得してしまい、家康の事を尊敬してしまった のです。というのも彼の作った平和は長く続いたばかりではなく、 今でもかれが生み出した制度によって発生した常識が世の中を制御 している事に気づかされたからです。 それは、士・農・工・商という身分制度に伴う為政者の正義です。 これが揺らいでくると世の中がすこしづつおかしくなっていくのです。 今の世の中は、政治家達の正義感が大衆のそれと比べると著しく乖離 してきているのではないでしょうか? 改名の話から乖離したところで今日の書き込みを終了いたします。 では、またお会いしましょう。「ノムさん」でした。「ノム」と呼んで下さい。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 00:59:48
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : yell at Mr. Abe Comments:  少し口をだした手前、補足します。 別に安部様を弁護するわけではありませんが、 先に「井沢説は間違いない」と仮定して考察を 進めていないとおもいますので、一般論的に 片づけてしまうのは気の毒だとおもいます。 (KANAK様は結論が先にあるようですが) 井沢先生の間違いや、不十分な点をかなり 以前から指摘されていたとおもいます。 正確に言うならば、井沢説を御自身なりに 検証されていると小生は解釈しています。 今回の秋篠寺についても井沢先生の不十分な 点に対する批判でもあります。 (もちろん大筋では肯定派でしょうが) ここは井沢先生のホームページであり、 安部様がなさろうとしていることは、 十分価値のあることだとおもいます。  ただ、それを暖かい目で育んでやろうとせずに、 「学生だから」(明言していませんが、においます) という見下した態度で揚げ足とりの批判を されるのはいただけません。  小生は安部様の説に全面賛成はしていませんが、 今後の頑張りに大いに期待しています。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 09:53:29
Name : 輔住 E-mail : Title : お詫びといいわけ Comments: みなさん、今日は 議論をしているときにみなさんを不愉快な気分にしてしまったことを お詫びします。後で読み返したりしてみると感情的になっていたと 思うことがあります。 ただ揚げ足とりをしようとしたわけではありません。 私の意見のどの点があっていて、どごが間違っているのか または別の見方があるのか?という「確認」したいという のが私の大きな目的のひとつです。 私はKANAKさんと何度か議論になりました。 「自分の意図が伝わってないかもしれない?」 「少し言い方がきつい」と思ったことはありますが (お互いさまかもしれませんが...) KANAKさんも揚げ足とりをしようとは思ってないでしょう。 KANAKさんが疑問に思ったこと等を返しているのだと思います。 (そこまでいわなくてもと思うこともありますが) Time : 1999/ 2/ 9(火) 12:25:24
Name : K E-mail : Title : 揚げ足取り? Comments: 皆さん今日は、Kです。 どうもここに書き込まれている皆さんは、KANAKさんの井沢説批判を 揚げ足取りと考えられているようですね。 私は、それは間違いだと思います。KANAKさんの井沢説批判はきわめて論理的であって、 井沢説の信頼性そのものを脅かしていると思います。 むしろ、私は皆さんが井沢説を弁護しようという意識が強すぎるので、KANAK さんの井沢説批判を冷静に見られないのではないか、と思います。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 12:41:38
Name : ノム E-mail : Title : あげあしとりというよりも Comments: 揚げ足とりです。と断言できます。それは、他者に対する批判点が結論に対してではなく、 材料の中のある一点の間違いに対し追及されている点においてです。もっと結論のいい悪い を論じるべきではないでしようか。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 13:02:49
Name : ノム E-mail : Title : すいません前言撤回します。 Comments: 改行がうまくできない上に、さらに申し訳ないんで すが、僕の前言撤回させて下さい。管理人様できた ら削除して下さい。この件にかんしては(揚げ足と りかどうか)、もっと皆さんの投稿を熟読してから 改めて発言したいと思います。すいませんでした。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 16:59:59
Name : ノム E-mail : Title : うーん Comments: Kさん、やはり揚げ足とりだといわれてもしかたな いようなところがよーさんあります。KANAKさんの論 理が正しいとはいえへんとおもいます。それは批判 の集中点が相手の論理の極一部に向けられている点 においてです。一点の誤りを攻撃しても的が外れる だけだとおもいます Time : 1999/ 2/ 9(火) 19:37:01
Name : ノム E-mail : Title : ロンリーな論理? Comments: あいさつぬきですいません。KANAKさんの論理は、 順序よく展開される点においては正しい論理といえ るでしょう。ただ相手の意見そのものについては、 論じていないと思います。論じる価値の無いものと してお考えなのでしょうか?ここが僕が的が外れて いると思う点です。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 20:12:50
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : ノム様 Comments: ごめんなさい。別に「家康」という名前に異議があるわけではなかったのですが… 新しい名前でのご活躍心よりお祈り申し上げます。 Time : 1999/ 2/ 9(火) 21:12:12
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 慌てなくても Comments: 議論している人の頭に、結論があらかじめあるのではないかと、私が思った のはですね、たった一つの証拠を出しただけで、「だからこの論理は合っている」 「だからあなたの説は間違っている」と、どちらも一直線に結論にまで、持って 行ってしまおうとするから、なんですよ。 普通、説全体が合っている、合っていないなどという答えは、そんなに簡単には 出て来ないものだと思うのですが。 沢山の人が何十年も研究していて、それでもまだ異論が出て来る余地がある のです。 慌てずに、もう少しゆっくり、考えてみてはどうでしょうかね。 Time : 1999/ 2/10(水) 09:27:59
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 思うこと Comments:  三枝様の御意見もっともでしょう。 たしかに性急にすぎるのは認めます。 小生自身も見苦しい記事を載せたことは反省・謝罪いたします。  また、ノム様の御意見、十分納得の行くものです。 本来、意見の正否と年齢・肩書きは無関係です。 遠慮なさることはないとおもいますので、 これからもどんどん御意見お聞かせください。  少し違う角度から意見を言わせてください。 かなり前に宣言しましたように、小生は KANAK-watcher で、 一種のファンだと言えなくもないとおもいます。 なぜ、そうなったかというと、非常に特異な研究方法を 採っておられるからです。  偉大な先人に私淑するというのは、通常の研究アプローチですが、 KANAK様は全く逆の方法を採られています。 見習うべき先人はいないが、徹底攻撃すべき反面教師は居るのです。 おそらく井沢先生もそのリストに入っているのでしょうが、 このアプローチ自体、無意味なものではないとおもいます。 しかし、注意すべきことは「始めに否定ありき」ゆえに、否定自体は かえって慎重に扱うべき研究方法だということです。 ところが、残念ながらしばしばKANAK様はこれに陥っておられます。 批判に使われている議論は、しばしば支持にもなっているということも たびたび指摘してきたつもりです。 おおむね論理的な方であることは否定しませんが、 こと井沢批判に限っていえば、感情的・非論理的であることは、 以前から指摘し続けてきました。 (今回のノム様の記事もその裏付けとなるでしょう)  それで、最近は井沢批判の部分をできるだけ排除して読むように しているのですが、そうすると論理性も損なわれずに勉強になります。 そういうときは、小生は必ずKANAK様にお礼を述べています。  それから、K様がおっしゃるように、 >井沢説の信頼性そのものを脅かしていると思います。 というのは少し言い過ぎだとおもいます。  KANAK様御本人が宣言されていますように、あくまでも史観は 排除されて、個別の議論をされているに過ぎません。 対して、井沢先生は史観の柱となる原理を挙げ、それに沿って史実の 洗い直しをしてクロッキー的に「通史」として構成する試みをされています。 したがって、不十分さや不正確さとして批判されることはあっても、 信頼性を損なわせる議論にはなっていないとおもいます。 (もちろん蟻の穴から壁が崩れる可能性は否定しませんが)  小生はKANAK様の史観を引き出して、もっと本質的な議論の展開を 望んだのですが、拒否されてしまいました。したがいまして、原理的に 本質的なところへ至る議論ではないということは仕方なさそうです。  しかし、今回の安部様への記事はやりすぎで、礼を失していることは 否めないでしょう。説を批判されるのは良いのですが、人を傷つけるのは いただけません。これも言霊信仰のせいでしょうか、日本では、批判は 「説」に向けたものであっても「人」に向けたものと採られがちです。 それを逆に混同しないようにしていただきたいものです。  「議論」といっても、相手をやっつけるのが目的の debate ほ好みません。 皆さんもっと建設的な意見の交換となる discussion を目指しませんか? Time : 1999/ 2/10(水) 09:58:16
Name : 小松 E-mail : Title : 個人的な1意見 Comments: 個人的な意見なんですが、僕は例え批判のための批判であっても、結論が先にあっても、 議論が盛んに行われるのはいいことだと思います。僕は「逆説の日本史」を読むまで 古代史についてはほとんど知識がありませんでしたので、井沢先生の説くところを 無批判に信じていました。しかし、この場所でさまざまな反対意見を見たことで古代史に ついてより深い知識を得、自分なりに考察する事が出来たと思います。 アメリカでは、ディベートですが、この形式ははじめから反対・賛成とお互いが立場を 決めて、相手を倒すためにとことん議論を繰り返します。それによりお互いや聴衆が 問題に対してより深い理解を得ると言う目的です。お互い立場がはじめからはっきりしていて、 しかも、相手を倒すことを目的として議論するわけです。 まー、それは極端ですけど、それにしても日本人は議論が苦手だと思います。「和」 を尊ぶ民族のためでしょうか、お互いとことんまでは議論せずある程度のところで、 まーまー、としてしまうか、感情的になって喧嘩してしまうかのどちらかです。 ですから、物事の本質をより深く究明するためにこういう議論は有意義だと思います。 ただし、議論において、相手の年齢・身分・知識の有無等本来議論のテーマに関係のない 事柄を持ち出すのは、最低の戦術だそうです。昔、ケネディ対ニクソンのテレビ討論会で ニクソンがこれをやって、視聴者の評判を落としたそうです。 ですから、言葉づかいとかそういうマナーさえ守れば、相手の立場は関係なく、 実り多い議論が出来るのではないでしょうか? を読んで、掲示板での議論を見て、 Time : 1999/ 2/10(水) 11:12:34
Name : 小松 E-mail : Title : 追加 Comments: 「揚げ足取り」と言うのは、相手の言った、些細な間違いを追求することや、細部の 事の正誤について議論することですか?僕はそう理解してますけど、そうだとすると、 一概にそれが悪いとか言えないと思います。 聴衆のいる議論の場で、そういった細部での議論を繰り返すのは、聴衆を無視している ので、あまり高いレベルの議論とはいえません。しかし、文章での議論となると、相手の 書いたことが、しっかりと残っているため自説を述べるために、それらすべての記述にわ たって言及するでしょう?こういうネット上の議論とは、その中間に位置する形態ではないでしょうか? つまり、その辺のスタイルのようなものがまだ確立されていないのではないでしょうか? ただ、僕個人としては、相手を倒すと言うより、見ている人を説得すると言う点に 重きを置く議論のほうがよりレベルが高いと思いますので、見る人を意識しながら、 飽きさせないよう議論をすればいいんじゃないかなと思います。 Time : 1999/ 2/10(水) 11:42:22
Name : ノム E-mail : Title : アゲアシ論序説? Comments: 小松様、こんにちは貴方のいう事は至極尤もです。 ただ僕がいいたいのはとるとらないではなくKANAK さん自身のたてる仮説をみてみたいという事です。 あれだけの知識のある方ですから。皆さんもそう思 いませんか?だから揚げ足取りで終わるのが残念 なのです。 Time : 1999/ 2/10(水) 13:17:38
Name : 輔住 E-mail : Title : 反論だけではないですよ Comments: みなさん、今日は KANAKさんはただ従来の説を「保守」しているわけじゃ ありませんよ。 これが「KANAK説」という部分も出しています。 >「秋篠寺」と「崇道」との関係は・・・「秋篠寺」の開祖とされる「善珠」 >が「桓武」の命により、早良親王の病気平癒のため、本尊「薬師如来」に加 >持祈祷したと言う伝承に関係があると思いますが・・・ >軽々な判断は差し控えます。 >なお、「藤原不比等」については若干疑問が在り、或いは誤伝ではないかと >も思いますが これはあきらかに「意見」です。こうした部分はほかにもたくさんあります。 「反論」しているだけではありません。 Time : 1999/ 2/10(水) 13:42:44
Name : 小松 E-mail : Title : 付け足しの付け足し Comments: ノムさん、こんにちは&ごめんなさい。 僕の発言はちょっと軽率でした。(読み返してみてそう思います) 言い訳ですが、僕はノムさんの発言に対して言うつもりではなかったんです。 ただ、先にも書いたとおり、こういう形での議論って難しいですよね、 ってことを言いたかったんです。で、たまたま近くに「揚げ足」って事があったんで 例にとって言及したという。(だからどうだって事じゃありません) 言い直せば、議論者がお互い細部に言及しあって、テーマから外れていってしまうのは、 先に書いた理由でしょうがない部分もあると思うんです。一方それを見ている人に とっては議論への興味を失ってしまいますよね。 で個人的な意見なんですが、それを変えるには議論者が本人の意思で見る人を常に意識するか、 見ている第三者が「このことについてはどうお考えですか?」ってな具合に具体的に質問する しかないんじゃないかな、と思います。 まー、僕の書いたことは一般論と原則論のつもりですので、ちょっと極論っぽい とこもありますが、そういうふに読んでいただければ幸いです。 Time : 1999/ 2/10(水) 16:39:40
Name : ノム E-mail : Title : 仮説の提示の仕方について Comments: 小松さん丁寧なお返事有り難うございます。小松さ んの言わんとしている事が、これで良く分かりまし た。今回のやりとりで自分の考えを文面で読み手に 伝える難しさが少しわかった気がします。輔住さん も教えていただいて有り難うこざいます。 Time : 1999/ 2/10(水) 17:28:32
Name : ノム E-mail : Title : 仮説の提示の仕方について2 Comments: 輔住さんが引用された文にもある様に、「軽軽に・ ・」とあるのはどういう事でしょう?議論をしかけ るならもう少し自身の説として押しだした文章にす るべきではないでしょうか? Time : 1999/ 2/10(水) 17:38:10
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史」(46)「秋篠寺」議論について・・ Comments: ノムさん、Kさん、宇津木和政さん、きんたろうさん、初めまして(?) 大阪JF生さん、三枝さん、輔住さん、みなさん、今日はKANAKです。 いろいろと貴重なご意見、ご教示ありがとうございました。 確かにご指摘のとおり、安部さんのご意見にに対して、敢えて辛辣な発言を いたしましたが、「揚げ足取り」云々を含め・・・以下に私の考えを申し上 げます。 1.私は安部さん、その他の方々のご意見で、私の「揚げ足を取る」部分が   あったとは考えておりません。それぞれ見解の相違はあっても真面目に   ご対応頂いたと考えています。 2.私は安部さんのご意見に対し「辛辣に批判」しましたが「揚げ足を取る」   つもりは無かったのです。ただそのように受け取られたとすれば・・・   私の不徳のいたすところです。皆さんにお詫びしたいと思います。   ただ、出来ましたらそのように受け取られた部分を、具体的にご指摘頂   ければ幸いです。 3.ノムさん・・・ >>「軽軽に・・」とあるのはどういう事でしょう?議論をしかけるなら >>もう少し自身の説として押しだした文章にするべきではないでしょう >>か? 私は、「秋篠寺」と、その門前にある「八所御霊神社」が無縁だとは思 いません。主祭神は「御霊神社」の通例として「崇道」とされています ので「早良」病気平癒祈願に因むものと思いますが、寺そのものが777年 「光仁」「 桓武」が引き続き不予となり、「井上内親王」を改葬した前 後に建立されたことでもあり、神社の存在と寺院の建立について「井上 ・他戸」の非業の死との関連性も全く有り得ないとは思いません。 また、「藤原不比等」については、怨霊的要素がありませんし、通常「 御霊神社」では「藤大夫」とか「藤大臣?」とか・・略称で表示される ことが多いので、誤認された可能性が有り得ると思います。 ただ、残念ながら「八所御霊神社」の沿革が全く分かりません。仮に「 秋篠寺」建立と時を同じくして「御霊神社」的なモノが有ったとすれば ・・・「御霊神社=井上」の存在が「光仁」期に遡ることとなり、さら に寺院建立と怨霊信仰との関係も想像出来ることになります。 これは怨霊信仰に関する通説を覆すことに繋がり得るものです。 しかし、平安初期以降に各地で「御霊神社=崇道」が建立された時期に 「光仁・桓武」所縁の寺院に隣接して建立されたとすれば・・・特別の 意味は無くなってしまいます。(蓋然性としてはこの方が高い?) どちらにしても「八所御霊神社」は「井上・他戸・崇道」との関連で理 解すべきものであり、「称徳」と関連づけるべき要素は全く窺えないと 思います。さらに寺院建立の動機と神社の存在を関連付けることも、神 社建立の時期が推定出来ない以上困難です。従って、これ以上の想像は 「史学」を論じるに当って・・・私には出来ないのです。   >>ただ相手の意見そのものについては、論じていないと思います。   >>KANAKさんの論理が正しいとはいえへんとおもいます。それは批判の集   >>中点が相手の論理の極一部に向けられている点においてです。   >>一点の誤りを攻撃しても的が外れるだけだとおもいます   私は一般論として、ある方がA・B・Cの根拠に基づいてXと言う結論   を主張されている場合・・・A・Cの根拠について、根本的疑問を提示   (或いは否定論証)すれば・・・当然Xと言う結論についてご再考頂け   る・・・と考えております。また議論の流れの中で結論の相違が既に明   かになっている場合は、重ねて結論部分には言及しないことがあります。   ただ、ご指摘の部分が私の理解している部分と乖離している可能性もあ   りますので”論理が正しいとはいえへん”とお考えの部分について、出   来れば具体的にご指摘頂けませんか?    4.大阪JF生さん、三枝さん・・・   >>(KANAK様は結論が先にあるようですが)・・・   >>結論が考察の前にあるのですよ。KANAKさんの方には「井沢説は    間違い」・・・・という答えが、ね。、   このように受け取られているとすれば・・・これも私の不徳のいたすと   ころではありますが・・・   私は「逆説の日本史2」を読了以降・・・真剣に井沢説を理解しようと   努め、その結果として井沢説には資料の選択理解・論理構成等に関して   極めて多くの誤謬があると、更めて確信致しました。   その上で、井沢説を批判するに当たっては、不十分かも知れませんが、   全てその理由を具体的に申し上げてきたつもりです。   その理由が当を得ていないと言うご批判ならば、当然ながら幾らでもお   受けいたします。   しかしながら”結論が考察の前にある”・・・つまりはロクナ考察もせ   ずに結論を導いている・・・と言うご批判はまことに心外です。   三枝さんには是非そのように判断された理由を具体的にお示し頂きたい   と存じます。 5.輔住さん・・・   >>秋篠寺論争を拝見しています。直接関係はないかも知れませんが称徳   >>天皇にどのようなイメージを持っていますか?   見当違いの回答になるかも知れませんが・・・少し精神の均衡に疑問が   ある「聖武」が「天皇制」の常識に反して娘に「皇位」を譲ったことに   よりかえって政情の不安定を招いた。「称徳」自身も「天智(持統)・   天武」と言う「偉大な天皇」の血統を引く殆ど唯一の人間としての気位   の高さと、不安定な政情からくる重圧の中で、「天皇制」の常識を楯に   早期譲位を求める淳仁等々と重臣の結託に猜疑心を深め、天武系王達の   「廃立・粛清」を繰り返すこととなったのでしょう。   その陰で、皇位継承順位が低く、隠忍自重していた天智系「白壁王」が 無事に王族かつ「聖武」の孫の父と言う有利な地位を保ち得た・・のは 歴史の皮肉でしょう。   そして「聖武」同様に精神の均衡に安定さを欠き、唯一信頼する「道鏡」   に傾倒し「道鏡天皇」と言う「天皇制」の基本常識さえ無視する暴挙に   至ったのだと思います。(しかし制度の壁は彼女にも破れなかった。)   つまりは「驕慢な人格」が伝統的制度と政治の重圧に押し潰された・・ 有る意味では哀れな女性というイメージです。   朝廷貴族のイメージとしては、高貴な血統を鼻にかけた「我が儘女性」   であり、生殺与奪の権を持つ「恐怖の女性」と言うところでしょうか? なお「称徳」怨霊説批判については・・・(37)「称徳」の怨念?? を参照願いたいのですが、私には「光仁・桓武」等が彼女の死について、何 らかの罪の意識を持ち、鎮魂を図らねばならない理由がどうしても理解でき ません。 どなたでも結構ですが(37)に沿って明確にご説明頂けないでしょうか? 5.大阪JF生さん・・・ >>重要なポイントは、「なぜ、天智系天皇が秋篠寺を建てたか?」に対 >>する解釈だとおもうのですが、反論にはその点は触れられていません。 ・・・要するに「光仁(桓武)」が「秋篠寺」を建てた理由ですね? 以下は明らかに「奈良時代」以前に建てられた「主要寺院」と、建立したと 思われる「著名人物」です。(氏寺クラスは除外します) 元興(飛鳥)寺・・・(蘇我馬子) 豊浦寺・・・・・・・(蘇我稲目) 四天王寺・・・・・・聖徳太子 法隆(斑鳩)寺・・・聖徳太子 広隆(蜂岡)寺・・・聖徳太子(秦河勝) 大安(大官大)寺・・舒明 *創建時名称は「百済大寺」 引福(川原)寺・・・斉明? 山田寺・・・・・・・(蘇我石川麻呂) *天武(持統)により完成 崇福寺・・・・・・・天智 *大津京 般若寺・・・・・・・(蘇我日向?) 興福(山階)寺・・・(藤原鎌足) *山科から奈良に移設 薬師寺・・・・・・・天武・持統 栄山寺・・・・・・・(藤原武智麻呂) 東大寺・・・・・・・聖武 法華寺・・・・・・・聖武・光明 新薬師寺・・・・・・聖武・光明 金勝寺・・・・・・・聖武 唐招提寺・・・・・・(鑑真) 西大寺・・・・・・・称徳 子島寺・・・・・・・称徳 秋篠(内経)寺・・・光仁(桓武) 梵釈寺・・・・・・・桓武 *大津付近 延暦寺・・・・・・・桓武 *平安京鬼門 東(教王護国)寺・・桓武 西寺・・・・・・・・桓武 彼等(特に天皇)が、寺院を建てた理由は明確にお分かりでしょうか? 「光仁(桓武)」が「秋篠(内経)寺」を建てたのも同様の理由では無い かと思いますが・・・主要因は次の何れかでしょう。 つまり、仏法興隆・国家鎮護・人民安寧・先祖供養・子孫繁栄・家内安全・ 無病息災・病気平癒・国家安康・君臣豊楽(ジョークです)・武運長久・怨 敵退散等々だと思います。 「聖武・称徳」の建てたとされる寺院は上記を初めとして・・・極めて多数 にのぼります。「桓武」も両者程では無いにしても上記以外に散見されます。 「光仁」が僅かに「秋篠寺」一寺を建てる(他にも有ったかも知れませんが) のに特に理由が必要とも思えません。 従って、重要なポイントとは考えもしなかったのです。 (こういった「私の常識」に基づく判断が・・・すれ違いの原因になってい るのかも知れませんね。正直言いますと・・・私は古代史・仏教史を論ずる 人が「秋篠寺」を知らない等とは想像もしなかったのです。私にとっては、 マイナーな存在どころか「南都七大寺(時代によって多少変化しますが)」 に準じ、平城京の最後を飾る「光仁(桓武)」所縁の大寺というイメージが あり、これが「常識」だと考えていましたし・・・今もそう考えています。 敢えて釈明すれば・・・歴史学者がもっと宗教に関する理解を深めるべきで ある云々・・・を居丈高に論じられた安部さんが「秋篠寺」さえ最近までご 存じなかったことにショックに近い失望と落胆を感じた・・・これが辛辣な 発言になった一つの原因です。 もう一つは・・・意外に思われるかもしれませんが、井沢さんに対する傲慢 不遜な批判発言が原因なのです。) Time : 1999/ 2/11(木) 11:26:02
Name : ノム E-mail : Title : KANAKさまへ Comments: はじめまして?ノムです。なるほど今回の投稿で貴 方の論理の立て方がわかり、すっきりしました。つ まり結論の根拠の内の一つの誤りを論破する事で、 結論自体のあやふやさを指摘しているという事です ね。ただ僕は浅学です。やはりはっきりと結論の提 示をして欲しいです。 Time : 1999/ 2/11(木) 12:11:52
Name : ノム E-mail : Title : KANAKさんの論法について思う事 Comments: 結論を読み手に推測させるというやり方では、やは り三枝様達がおっしゃる様に「結論が先にある」と 思われるのはしょうがないとおもいます。 この点において僕は貴方の論理が正しくないと感じ たので。内容についてでは有りません。 Time : 1999/ 2/11(木) 12:37:51
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(47)「怨霊信仰」について・・・ Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 今、大和は珍しく大雪で、外出する気にもなりませんので、徒然なるままに 「怨霊(御霊)信仰」について考えてみたいと思います。 ノムさん、発信直前に読ませていただきました・・・ 私は、主として井沢さんを対象として議論を進めていますので・・・ 分かり難い点があるかも知れません。私に対する批判も大歓迎です。 何でもご遠慮なく確認してください・・・私も全くのドシロウトですが、 分かる範囲でお答えいたします。 さて・・・ 現在「歴史学者」の平均的見解は・・・概ねつぎのようなものです。 御霊信仰 「非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを融和してその崇りを免れ安穏 を確保しようとする信仰。原始的な信仰心意にあっては死霊はすべて畏怖の 対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって 祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の 天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。 『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により 大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたと ころ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同 一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源が きわめて古きにあったことを思わしめる。 しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊 の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛 んに祭られるようになる。 その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇( 早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢 文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名につ いては異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真) を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」 国史大辞典 *異説としては「井上内親王・他戸親王・藤原広嗣等」が挙げられる。 御霊神社 「普通八所御霊と呼ばれる崇道天皇・伊予親王・藤原夫人ら八柱の御霊神( 八所の数え方には若干の出入りがある)を祀る神社。各地に数多くまつられ ているが、京都市・・・上下両御霊神社が最も有名である。創建の年代はと もに明らかではないが、平安時代御霊信仰の隆盛なるにつれ、疫病の流行、 天変地変のあるごとに各所で祀られた御霊神社の後世まで存続したものの一 つで、前者は古く天徳二年(958)・・・・」 国史大辞典 宇智御霊神社 「井上内親王・他戸親王・早良親王を祀る神社で宇智郡(五條市)に散在す る。本宮は霊安寺(創建800年頃?)と一体をなしていたと考えられるが、 創祀は延喜年間(901〜923)頃とする説が多い。桓武天皇(781〜806)が井 上皇后(桓武復位)の怨霊鎮魂のため創建したとも考えられている。」KANAK 概ね以上のとおりですが・・・私は以前にも申上げたように、死者の怨念( 復讐)を恐れ、これを鎮魂する思想は人類共通の贖罪心理にもとづくもので あり、特に日本特有のものとは考えておりません。 ただ、一神教や儒教という強力な思想が主流を占めた中東・西洋・中国では この贖罪心理が怨念を残した人間(怨霊)から、より普遍的な「神・天」と いう存在に向けられた・・・一方仏教流入にも拘わらず多分に多神教的古代 思想を残した日本においては、怨霊に対する畏怖鎮魂の思想が現在に至るま でその影を止めている可能性があろう・・・と考えております。 それでは・・・特定の個人に対する御(怨)霊信仰が明確な形をとったのは 通説の言うごとく平安初期か? あるいはより古代に遡るのか? これが「梅原 聖徳太子怨霊説」の重要な意義でしょう。 梅原氏は昭和四十七年「隠された十字架ー法隆寺論」で、法隆寺の様々な謎 を手懸かりに「法隆寺は聖徳太子怨霊鎮魂の寺である・・・」と主張され、 個人に対する怨霊信仰の明確な示現を平安初期から飛鳥時代にまで引き上げ られたのです。 ただ、その後梅原氏の示された様々な根拠に対して、より合理的反論がなさ れ(既に申し上げた「四拍手問題」も、その一環です)、法隆寺謎の第一に 挙げられた「中門中柱=梅原氏は怨霊封止とされた」さえ韓国で同様の形式 の廃寺発掘調査が発表される等により、ほぼ終焉をむかえたのです。 しかしながら私は、人類の深層心理として加害死者への贖罪・畏怖が有るの は否定できず、それを何らかの形(鎮魂)で示すことも充分有り得ると考え ています。西洋・中国に比較して、日本においてその思想がより強いであろ うとも思います。 その上でなお、現時点で我々に示された資料で判断する限りは「梅原 聖徳 太子怨霊説」は根拠薄弱であり、否認せざるを得ないと考えています。 まして「称徳」おやです。彼女に関しては怨霊信仰の本質に照らしても全く その根拠は見出せません。 私は、井沢さんがせめて「聖徳太子」に関して梅原説を補強する根拠を示し ておられれば・・・それだけでも評価出来ると思います。 しかし(26)(27)「太子心中説」で申し上げたとおり、お粗末極まり ないものでした。 私が「怨霊 WHO'S WHO」で、みなさんに問い掛けたのも・・・要するに通説 として承認されている「桓武」平安初期の怨霊信仰を一歩でも引き上げる具 体的根拠(痕跡)です。井上皇后以下の怨霊は既に「古代史」の基本常識で あり、どの資料にも掲載されています。 それ以前の怨霊候補は?・・・WHERE & HOW これが問題なのです。 現在根拠が示せなくとも・・・事実は有った(る)かも知れない。 その通りです。「UHO」も「幽霊」も「タキオン幽子」も「低温核融合」 もそうでしょう。 しかし、現時点でそれを事実と主張するのは科学ではありません。 個別の事実が間違っていたとしても・・・全体として正しいこともある。 そうかも知れません。しかし個別の誤謬を全て除いてみて・・・なお正しい かどうかの検証が必要です。 それを行わないで、正しいと主張するのは科学ではありません信仰です。 なお、所謂「史観」について申し上げると。 極めて未整理かつ陳腐ですが・・・ 私は、人類歴史を動かしてきたのは「人的支配欲求(権力)、物的支配欲求 (財力)、環境支配欲求(福力)」では無いかと思います。 *環境=自然・社会・家庭・思想等を含む 「怨霊思想」は単に敗者(被害者)に対する贖罪・鎮魂により、心の平安を 得ることであり、死者の復讐を回避することです。決して歴史を動かすもの では無く、歴史が動いた事後処理の問題でしかありません。 従って「怨霊史観」等は有り得ず、単に「歴史観察の切り口」でしょう。 歴史学者は様々の切り口から歴史を観察してきました・・・ある切り口から の通史です。 井沢さんが「怨霊思想」という切り口から、歴史を観察(解釈)されるのは 結構だと思います。しかしその「怨霊思想」の根元である「古代史」におい て多くの事実誤認が有れば・・・その誤差は決して収斂しないでしょう。 しかし、もっと大きな問題は・・・余りにも多くの歴史認識に関する誤解を 「無垢な市民=若者」に与えたまま放置されていることです。 貴方はA大新聞や左翼学者の無誤謬固執を非難され、その訂正と反省を求め 続けておられるでしょう? 「古代史」において、貴方自身が同じ轍を踏んでおられませんか? 貴方の言論人としての良心において、一日も早く誤謬の訂正と、歴史学者に 対する陳謝を重ねてお願いいたします。 Time : 1999/ 2/11(木) 16:28:12
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : あなたは少し急いでいるのです Comments: こんにちは、KANAKさん。 怨霊信仰についてのあなたのお考え、大変感心しました。よく整理されていて、私のような素人にも充分わかり ます。なるほど、あなたは井沢さんに、それを期待していたのですね。 私は、梅原説よりも、多くの学者の梅原批判の方を支持しています。梅原氏のような考え方はもちろんありえる でしょうが、ならばその根拠を示して欲しいという学者の意見の方が、数倍納得が行くのです。根拠を示さなくても 良いのならば、何を言っても良いわけです。学者の仕事にはそれは許されません。 さて、私があなたの発言も他の方と同様に、「結論が先にあるのはないか」と思った理由は、ただ一つです。 説明が足りないのです。 あなたは井沢説をあれこれ検証し、「ああ、これは間違いが多い」とお考えになったのでしょう。その考えは、おそらく 充分な根拠があるもので、きちんとした道筋を立てて導き出されたものでしょう。 しかし、あなたが「あの説は間違い」と言うとき、その考えの根拠を私たちにそれほどきちんとは説明してくれては いないのです。ともすると些細なディテイルの間違い一つをあげるだけで、一気に結論まで出しているようにさえ、 見えるのです。 おそらくあなたにとって井沢説の間違いは、多くの根拠のある自明なことなのでしょう。ですから、根本的な問題の 説明は必要なく、細かい事象の間違いを片っ端から挙げるだけで充分証明できるとお考えなのだと思います。 ですがここに出入りする人たちの多くは、歴史に関して素人で、その細かい話が何を意味しているのか、説明をして もらえないと、わからない部分があるのです。なぜ突然、「あの説は間違いだ」と言われるのかがわからないのです。 そのことに、もう少し気をつかっていただけたらなと思います。 わがままな要望ですが、ご検討頂けないでしょうか? Time : 1999/ 2/11(木) 18:37:15
Name : きんたろう E-mail : Title : KANAK様へ2 Comments: こんばんは。 KANAK様のあの膨大な量の書き込みは全て井沢先生への「手紙」だったのですね。 掲示板を利用しているけれども、それはあくまで形上そうであると言うことだった のでしょう。 私たちは全然相手にされていなかったと思うと少し寂しい気がします。 演繹法と帰納法の対決かなと思っていたのですが、聡明なKANAK様がそんなことに気 がつかないのは変だと思っていました。 ただここは掲示板なのですから、それにあった利用の仕方があるのではと思います。 私だったら自分の説は自分のホームページに思いっきり書くと思います。 (資金的に余裕があれば出版という方法も当然考えられると思います) 私が前回初めてくちばしを入れたのは「仏教・仏像を語りたいなら、もう少しお勉強なされば?」 この一点があったからです。 そして今日その根拠となる「常識」を述べておられましたが、常識はいつでも何処ででも 普遍のものではありません。「遼東の猪子」の例もありますし、何しろ日本の常識は 世界の非常識とまで言われているくらいですから。 また若者イコール無垢と言う捉え方はどういうものなのでしょうか。 あまりにもステレオタイプのような気がします。 1800年も前に劉備は20才も年下の諸葛亮を三顧の礼をもって迎えている例も あるくらいですから。 Time : 1999/ 2/12(金) 00:08:08
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊信仰について Comments: KANAK先生、丁寧な説明有り難うございます。僕のような者でも 貴方が何を目的に投稿しているのか?どういう歴史認識をおもちか? どういった研究姿勢をとっておられるのか?という事がなんとなく、 理解できました。 僕はまだ、井沢先生の著書「逆説の日本史」は、1巻しかよんでいま せんが井沢先生がなにを伝えたくてこの本を執筆なさっているかも、 なんとなくわかりました。 僕の歴史知識の根っこにあるのは、漫画、小説、教科書、参考書など です。とくに諸星大二郎先生の作品には、初めて怨霊と歴史の交錯を 見せ付けられ衝撃をうけました。その後、井沢先生の「卑弥呼伝説」 (題名は定かではありません)を読み「これだ!」と思い「逆説の日 本史」を読みはじめたのです。 この程度の知識しかない僕ですから学会、論証、仮説、論拠、検証、 などというものには、まったく縁遠い投稿しかできません。ただ単に 想像するしかないのです。お邪魔でなければ僕の意見も読んでみて下 さい。以下は僕なりの「怨霊信仰について」です。 怨霊信仰は、いつから存在するかという事をかんがえれば、それはお そらく人間が宗教を手にいれたとき表裏一体の如く存在したと思いま す。「死の恐れ」というものか゛あるという事はそれに対し、「生の 執着」も同時にあると思います。宗教によって「死後の世界」という ものを知らされる事により、肉体は死んでも魂は永遠であると思う人 がでてくると、恨みを残して死んだ者の魂にたいして鎮魂をしようと 思うのは、当然の事でしょう。 ただこれが、わざわざ社寺を建立してまで行われるものか、といわれ ればよく分かりませんが・・・・・・ 社寺を建立しようとすれば経済的に余裕がないと無理でしょうから、 怨霊信仰が宗教として認知される条件が、そのためだけの社寺の建立 であるなら、古代日本が経済的余裕を確固としてから後という事にな るでしょう。しかし意識の上では文献に現れるもっと前から怨霊とい うものを恐れていたとおもいます。 いつか学校の先生に聞いたのですが「歴史を動かすのは、予算つまり 経済だ」と、これには僕も賛成です。 この言葉に従えば、怨霊が歴史を変えるほど影響をもつことはありえ ないと思います。怨霊信仰は当時の経済的閉塞感を打破するために、 (つまり社寺の建立を行う事は今風にいえば公共事業)ある一時期を 境に一気にひろまってそれにより歴史の流れが変わったのではないで しょうか。社寺の活動は、宗教活動であるためにどうしても怨霊とは きってもきれない関係にあったとおもいます。寺をたてれば経済に対 する刺激となるので寺を立てたい、しかし、宗派の関係があり、近く には沢山立てられない、この状態からの抜け道として怨霊専門の寺が 平安時代になって京都周辺に多く立てられたのではないでしょうか。 つまり僕がいいたいのは社寺イコール怨霊なのです。 怨霊専門の社寺が建立される以前は、それまでに建立された社寺によ って怨霊信仰は、存在していたのです。 とても理論的とはいえない文章で申し訳ないのですが、どなたか、 感想聞かせて下さい。「思う」ばかりですいませんと思います。あっまた・・・・ Time : 1999/ 2/12(金) 00:18:41
Name : Kz E-mail : Title : はじめてお邪魔します。 Comments: みなさんのたいへん高度なやりとり、興味深く拝見いたしました。 ただ、すでに皆さんが何度もご指摘されてますが、 せっかくのすばらしいやり取りも、実に鼻につくような言葉で 彩られてて、うっとうしさのみが印象に残ってしまいます。 井沢さんの著作に「学会」等に対する 過激な表現があったとしても、別にこの場で「トンでも」とか 「商業主義」とか、敢えて頭にのせる必要はないのでは? 別に、私は井沢さんを擁護するつもりはないのですが、 「逆説の日本史」は、従来の学会等がもたなかった (あるいは持とうとしなかった)手法、または切り口をもって、 日本史全体を大雑把に描きあげてみせるという意欲作だと、 私は思うのです。 したがって、この著作が読者の日本史に対する興味を喚起して、 積極的な議論のきっかけとなればいいわけであって、 そこにまた井沢さんのねらいがあるのではないかと思います。 一晩かけてこの掲示板拝見しましたが、 KANAKさん。<いらん世話でしょうけど、きんたろうさんが          おっしゃってるように、掲示板にこれほどまでの          自説と井沢氏(及び著作)批判の書き込みをされるのなら、          ご自分のホームページ、もしくはそれに類するもの          でなさるべきでは?          ここは、井沢氏のHPの掲示板です。書き込みも、          内容及び量に、常識的範囲っていうものがあると          思いますが。いかがでしょう。 Time : 1999/ 2/12(金) 06:01:09
Name : ノム E-mail : Title : 常識的範囲とは Comments: おはようございます。Kzさん、掲示板における 常識的な範囲、量、内容とはどの程度のものなの でしょうか?ぼくは、インターネット初心者なの で内容はともかく量というのがよくわかりません。 どうか教えてください。 Time : 1999/ 2/12(金) 08:53:22
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  ご回答いただきありがとうございます。 今回は特にごていねいに解説していただき、 大変勉強になりました。お礼申し上げます。  小生の歴史的な常識が欠けていることは お許しいただいた上で、さらなる御見解を お聞かせいただきたいのですが、素人的理解では、 「称徳までの天皇が寺社等を乱立させ、財政が逼迫したため 光仁は、その支出引き締めを行った」 と認識していましたので、(安部様も同じでした) なぜ、寺院を新しく建て、「永代」(一代)寄付を続ける (続日本紀)ということを「意味ありげに」したのか ということが、引っかかっております。 もちろん、前提となる認識が間違っているかもしれません。 特別な事情があるのではと疑うのですが。  それから、 平凡社の「寺院・神社大事典」(大和編) には、 「秋篠寺は西大寺の領地内に建てられた」 と明記してありましたので、これを信用すれば、 お隣りどころではなさそうですが、 この点はいかがでしょうか? Time : 1999/ 2/12(金) 09:51:42
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊の寺 Comments: 怨霊鎮魂のためだけに建立される寺はなかったと思 ます。社寺はその性格上、常に怨霊と背中合わせで 存在したと思います。それが平安期には表向きに「 怨霊鎮魂」の寺を建てることにより、民心の安定を はかり、ひいては経済の立て直しを狙ったのです。 投資の一つなのです。 Time : 1999/ 2/12(金) 11:50:00
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : それだけはちょっと Comments: 反対意見は「自分のホームページでやれ」ってのだけは、ちょっと、止めませんか? あの掲示板は反対意見は追い出して、賛成意見しか受け付けないなんて評判立っても 困るでしょう? Time : 1999/ 2/12(金) 12:09:04
Name : ina E-mail : Title : KANAK san Comments: はじめまして ところで KANAKさんの 「概ね以上のとおりですが・・・私は以前にも申上げたように、死者の怨念(復讐)を恐れ、これを鎮魂する思想は人類共通の贖罪心理にもとづくもので あり、特に日本特有のものとは考えておりません。ただ、一神教や儒教という強力な思想が主流を占めた中東・西洋・中国では この贖罪心理が怨念を残した人間(怨霊)から、より普遍的な「神・天」という存在に向けられた・・・一方仏教流入にも拘わらず多分に多神教的古代 思想を残した日本においては、怨霊に対する畏怖鎮魂の思想が現在に至るまでその影を止めている可能性があろう・・・と考えております。」 という文章ですが、このまま井沢さんの怨霊信仰の文章につながってもおかしくない気がしますがどうなんでしょう? Time : 1999/ 2/12(金) 13:14:14
Name : きんたろう E-mail : Title : 付け足しです Comments: 前回誤解を招くような発言をしてしまったようです。申し訳有りませんでした。 Time : 1999/ 2/12(金) 13:43:40
Name : 医座輪喪都非弧 E-mail : Title : 偽物です Comments: このページもいろいろな人が、書き込むように なったんですねー。いつも同じ方の投稿なので なかなか書き込めなかったのですが、今度書き 込みたいと思ってます。 まずは挨拶まで・・・・・・・・・・・・・・ Time : 1999/ 2/12(金) 14:32:44
Name : 輔住 E-mail : Title : 称徳 = 怨霊 考察 Comments: KANAKさん、返答ありがとうございます。 KANAKさんの返信を読んだ後、改めて(37)を読んだのですが、そのことについて 称徳 = 怨霊となる条件があるか? わたしはあると思います。 生前、彼女は喜怒哀楽が激しく恐れられていた。 しかし、後継者問題で彼女の意志をことごとく否定した。 (道鏡問題、遺言のでっちあげ) これだけあれば後世の人たちが恐れる可能性は非常に高いと思います。 ただし、「天武系」が途絶えたことは原因ではないでしょう。 (彼女自身が皇位の有力者を滅ぼしたし、彼女は禅譲を望んでいたのだから) ちなみに私はもし、称徳が再び元気になったなら再び道鏡に譲ることを 考えたか、後続以外の人間に譲ることを考えていたと思います。 Time : 1999/ 2/12(金) 17:54:11
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史」(48)HP参加の経緯・・・ Comments: 三枝さん、kzさん、きんたろうさん、ノムさん、輔住さん・・・ 今日はKANAKです・・・ご忠告ありがとうございました。 ノムさん・・・ KANAK先生はカンベンして下さい。(^^;) 私は、史学に関する専門教育も受けていませんし、ほんの1〜2年前か ら、定年後のボケ防止のため、自学自習で古代史のお勉強を始めたばか りのタダのオッチャンです。 オッチャンは頭が固くなっているので、とかく自分の意見に固執します・・ ワカモノは頭が柔らかいのだから、人の意見を吸収することが大切です・・ たくさん意見を言うことで、たくさんの人から意見を聞いて下さいね。 ・・・と言うことで、今回はコメントを差し控えておきます。(^0^)" 輔住さん・・・ >>生前、彼女は喜怒哀楽が激しく恐れられていた。しかし、後継者問題 >>で彼女の意志をことごとく否定した。(道鏡問題、遺言のでっちあげ) >>これだけあれば後世の人たちが恐れる可能性は非常に高いと思います。 ・・・そうですか。そうお考えならば、ご自由になさって下さい。(^^;) 私は、権力者が死者の崇りを恐れるのは彼等(光仁・桓武)が死者に対 し、何らかの心の痛み(贖罪意識)を感じていることが一つの構成用件 だと考えているのです。 彼等は「称徳」の「道鏡天皇」即位を阻止したとしても、些かの心の痛 みも感じなかった・・・従って怨霊鎮魂をはかるとは思えない・・・・ と申上げているのですが(遺言云々はそれ程重視していません)、ご理 解いただけなかったのですね。 因みに井沢さんは、早良親王の崇りについて・・・ 「桓武は一体なぜ・・・『怨霊のタタリ』だと考えたのか。・・・そも そも『政治的に無実の罪で死んだ人間こそ怨霊となってタタリをなす』 という信仰がなければ、それを信じるはずがないではないか」 P461 ・・・と仰っていますね。私はそこまで厳格には考えていませんが、少 なくともタタリを恐れる心理と言う意味では同感です。 我が侭娘の理不尽な願いを阻止したことで、崇りを恐れる様では政治な んか出来っこない・・・井上・他戸・早良・伊予については彼等はヤマ シサを感じていたからこそ畏怖したのだ。これが私の怨霊観です。 少し疲れました。もうこれ以上申し上げることな何もありません。では・・・ 三枝さん・・・・ 三枝さんの仰る意味では、確かに私の結論は98/3/29NIFTY会議室で井沢 説について紹介があり、その後約30回の議論を終えた5月頃の段階で、 一応決着していました。 (勿論、反論が有れば更めて再考するつもりでしたが・・・) 私がこのHPに参加させていただいたのは、その後以下の経緯によるも のであり、結論ありきの議論になっていかもしれません。 (今回の「怨霊史観」についても既にこのHPにUPしてあった部分の 再録に近いものです。) (HPにおける経緯) 1.7/16  NIFTY会議室の対論者が、会議室討論のHP転載を開始。 2.   紹介者を経由しての議論開始(全く噛み合いませんでした) 3.9/18  井沢さんがNIFTY会議室において、抗議及び一部反論。 (この段階では、極めて初期の議論しか転載されていなかったので、井 沢さんの会議室議論型式・私の主張に誤解が有ったのは事実です。) 4. 井沢さんの抗議に対し、NIFTYメンバーの会議室議論型式の      説明及び反論。 (当然私も更めて問題点を指摘し、井沢さんのご回答を求めました。) 5.11/13  井沢さんからの回答がなく、一方間接討論のためHPメン       バーの方との議論も空転していたので、直接参加の許可を頂       きHPに参加。 6.   各項目について、問題点を指摘し井沢さんの回答を希求。      メンバーの方との議論を重ねる。 7.11/23  井沢さんのNIFTY会議室退会挨拶。 (結局私はじめNIFTYメンバーが期待した具体的反論は提示されなかった ので、更めて主要な問題点を指摘し、然るべき対応を希求しました。) 8.   更に個別の問題につきHPメンバーの方々との議論を重ね、      現在にいたる。 この様に極めて複雑な経緯をたどっていますので、途中参加或いは部分的 に議論をご覧になっている方には、分かりにくい部分があると思います。 以上の経緯を全体的に掌握しておられるのは・・・おそらく大阪JF生さ んくらいだと思います。 ・・・で、若しよろしければ >>しかし、あなたが「あの説は間違い」と言うとき、その考えの根拠を私 >>たちにそれほどきちんとは説明してくれてはいないのです。ともすると >>些細なディテイルの間違い一つをあげるだけで、一気に結論まで出して >>いるようにさえ、見えるのです。 ・・・の例を挙げて頂けないでしょうか?及ばずながら更めて説明させて 頂きますが・・・ Kzさん、きんたろうさん・・・ ご納得頂けるかどうかは存じませんが・・・私がこのHPに参加している のは以上の経緯によるものです。(正直言って紹介者の方から転載のお話 が有ったときに随分迷いました。しかし陰でコソコソ批判していると言う のも如何なものかと考え、思い切って賛成したものです。) 井沢さんにも言い尽くした感がありますし、幾ら申し上げても一顧だにさ れないことが明確になりましたので、そろそろ退散の潮時かとも考えてお ります。 きんたろうさん・・・ 私の意見は常に井沢さんを意識していましたが、みなさんのご意見に対し ては各々真剣に対応させて頂いたつもりです。 正直言って、様々の観点からのご意見があり、時間的にも能力的にも大変 な負担でしたので、不十分な対応になった部分もあるとは思いますが、そ の点はご理解頂きたいと存じます。 >>常識はいつでも何処ででも普遍のものではありません。 「常識」にも社会常識・政治常識・学問常識と様々ですが、一般論としては まさに仰るとおりだと思います。(ここでは学問常識=基礎的知識と言う意 味です) なお、この部分は・・・安部さん外の次のご発言を念頭に置いたモノです。 >>漢文の常識では、「武」から連想されるのは周の武王です。これに異議を >>唱える人は、漢文の常識を知らないことを露呈しているに過ぎません。 >>日本史学者、考古学者だからといって仏教と儒教を知らなくても構わない >>というのは誤りではなかろうか。 >>しかし、「逆説の日本史第2巻」は、結論は正しいものの、それに至るまで >>の理論にかなり無理がある上に、資料との照らし合わせが非常に甘い。 >>せめて、自書に登場させた人物をすべて歴史辞典で確認くらいしておくべ >>きではなかったかと思う。 >>井沢先生の論には「怨霊信仰」などの歴史を解くキーワードが存在してい >>ますが、根本にあるのは「常識」ではないかと思っております。先生自身 >>もよく「・・・常識で考えてもらいたい。」という言葉を使っておられま >>すよね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>また若者イコール無垢と言う捉え方はどういうものなのでしょうか。あま >>りにもステレオタイプのような気がします。 これも一般論としてはお説のとおりです。私が「無垢な市民=若者」と言っ たのは「歴史に関して殆ど知識をもたず、白紙状態で井沢さんの説を受け入 れる可能性のある一般読者=特にあまり歴史議論にスレテイナイ中高生等」 と言う意味です。誤解を生む表現であればお詫びいたします。 ================================= なお、以下の項目は現在までの発言経過です。 Title : 天智天皇暗殺説について       1998/ 7/16(木) 22:19:05 Title : 天智天皇暗殺説論争転載について   1998/ 8/ 5(水) 17:43:20 Title : 天智天皇暗殺説論争その壱      1998/ 8/22(土) 19:02:47 Title : 大阪 J F生様へ          1998/ 8/31(月) 14:25:54 Title : 天智天皇暗殺説論争その弐 1998/ 9/ 3(木) 18:34:50 Title : 天智天皇暗殺説論争その参 1998/ 9/ 3(木) 18:44:16 Title : 大阪JF生様へ 1998/ 9/ 4(金) 13:23:19 Title : 天智天皇吾暗殺説論争 1998/ 9/21(月) 00:22:45 Title : 天智天皇暗殺説論争 番外 1998/10/ 1(木) 18:29:23 Title : 天智天皇暗殺説論争 番外その弐 1998/10/ 1(木) 19:45:22 Title : 天智天皇暗殺説論争 其の参 1998/10/ 1(木) 19:45:22 Title : 天智天皇暗殺説論争其の四 1998/10/ 1(木) 19:51:30 Title : 天智天皇暗殺説論争其の六 1998/10/ 1(木) 22:21:52 Title : 天智天皇暗殺説(KANAK説索引) 1998/10/ 9(金) 13:07:28 Title : 井沢さんへお願い 1998/10/18(日) 14:20:29 Title : 天智天皇暗殺説論争 石井一旭さんへ 1998/10/18(日) 22:40:28 Title : 石井さんへKANAK氏よりの反論 1998/10/22(木) 15:06:48 Title : 石井さんへKANAKさんからの返事 1998/10/29(木) 21:19:50 ・・・以上は大島さんによる私のNIFTY会議室発言の転載です。 以下の部分からは、直接発言させていただきました。 ================================ Title : 参加させて頂けますか? 1998/11/13(金) 22:29:01 Title :「逆説の日本史2」倭姫万葉歌等について1998/11/15(日) 00:20:37 Title :「逆説の日本史2」四拍手問題に関して 1998/11/16(月) 22:53:44 Title :「逆説の日本史2」(2)NIFTY発言-A 1998/11/19(木) 09:37:26 Title :「逆説の日本史2」(3)易姓革命問題等 1998/11/19(木) 10:03:23 Title :「逆説の日本史2」(4)出雲大社と大仏殿1998/11/20(金) 08:53:11 Title : 「逆説の日本史2」(5)易姓革命・出雲大社と大仏殿 追記 1998/11/20(金) 19:27:41 Title : 「逆説の日本史 2」(6)四拍手問題 井沢さんへ 1998/11/21(土) 13:55:31 Title : 「逆説の日本史2」(7)出雲大社と大仏殿 追加 1998/11/21(土) 21:35:41 Title : 「歴史フォーラム退会の挨拶」について 1998/11/23(月) 17:49:27 ・・・この部分は井沢さんのNIFTY退会挨拶に関する指摘ですので、 問題点をかなり要約してあります。 Title :「逆説の日本史2」(8)易姓革命について1998/11/23(月) 19:01:21 Title : 「逆説の日本史2」出雲大社(大阪城) 1998/11/24(火) 11:00:45 Title : 「逆説の日本史2」(10)途中経過 1998/11/24(火) 13:48:47 Title : 「逆説の日本史2」(11)天皇宝算について 1998/11/27(金) 00:15:16 Title : 「逆説の日本史2」(12)天智・天武非兄弟説 1998/11/27(金) 23:05:47 Title : 「逆説の日本史2」(20)「聖」「徳」について 1998/12/11(金) 00:17:42 Title : 「逆説の日本史2」(13)逆説の曲筆論 1998/12/ 1(火) 00:29:26 Title : 「逆説の日本史2」(14)逆説の曲筆論ー続き 1998/12/ 1(火) 23:13:24 Title : 「逆説の日本史2」(15)曲筆論その他 1998/12/ 2(水) 23:55:4 Title : 「逆説の日本史2」(16)曲筆と歴史認識 1998/12/ 3(木) 23:35:10 Title : 「逆説の日本史2」(17)天智・天武問題 FIN 1998/12/ 5(土) 22:53:55 Title : 「逆説の日本史2」(18)間人皇后名称 1998/12/ 6(日) 12:04:02 Title : 「逆説の日本史2」(19)「史論」と「史談」? 1998/12/ 9(水) 22:35:52 Title : 「逆説の日本史2」(21)「聖徳太子」の内柔(和)外硬(武) 1998/12/12(土) 00:01:10 Title : 「逆説の日本史2」(22)「河上嬪と刀自古郎女」他 1998/12/12(土) 22:36:26 Title : 「逆説の日本史2」(23)「諡号制定期」と「徳」諡号・・他 1998/12/14(月) 22:57:28 Title : 「逆説の日本史2」(24) 取り敢えずです・・・ 1998/12/16(水) 00:48:01 Title : 「逆説の日本史2」(25)「懿徳」「仁徳」諡号等について 1998/12/17(木) 23:42:02 Title : 「逆説の日本史2」(26)「聖徳太子」心中説 1998/12/19(土) 12:57:36 Title : 「逆説の日本史2」(27)「聖徳太子」心中説ー続き 1998/12/20(日) 12:21:33 Title : 「逆説の日本史2」(28)「称徳諡号」と「名」ゴミレス 1998/12/22(火) 23:45:59 Title : 「逆説の日本史2」(29)「称徳諡号」ー続き 1998/12/23(水) 16:04:16 Title : 「逆説の日本史2」(30)「称徳諡号」ー追記 1998/12/24(木) 23:46:37 Title : 「逆説の日本史2」(31)「称徳諡号」ー追記U 1998/12/26(土) 10:37:02 Title : 「逆説の日本史2」(32)「称徳諡号」ー追記V 1998/12/26(土) 18:31:54 Title : 「逆説の日本史2」(33)「文徳」と「平城」諡号 1998/12/27(日) 12:46:42 Title : 「逆説の日本史2」(35)「称徳諡号」 FIN? 1999/ 1/ 5(火) 23:22:32 Title : 「逆説の日本史2」(36)「怨霊 WHO'S WHO 1999/ 1/ 8(金) 23:14:02 Title : 「逆説の日本史2」(37)「称徳」の怨念?? 1999/ 1/10(日) 12:46:09 Title : 「逆説の日本史2」(38)「淡海三船」と諡号選定 1999/ 1/15(金) 18:31:51 Title : 「逆説の日本史2」(39)諡号「武」について 1999/ 1/20(水) 00:23:54 Title : 「逆説の日本史2」(40)「天武・天智」諡号について 1999/ 1/21(木) 22:36:47 Title : 「逆説の日本史2」(41)「天智・天武」諡号追加 1999/ 1/23(土) 17:45:55 Title : 「逆説の日本史2」(42)「天智・天武」諡号・・・要するに 1999/ 1/26(火) 23:33:56 Title : 「逆説の日本史2」(43)「仁徳」は怨霊か? 1999/ 1/29(金) 22:27:53 Title : 「逆説の日本史2」(44)「大本営発表」の意味は? 1999/ 1/31(日) 12:58:32 Title : 「逆説の日本史2」(45)「秋篠寺」は怨霊寺?? 1999/ 2/ 6(土) 23:13:23 Title : 「逆説の日本史」(46)「秋篠寺」議論について・・ 1999/ 2/11(木) 11:26:02 Title : 「逆説の日本史2」(47)「怨霊信仰」について・・・ 1999/ 2/11(木) 16:28:12 Time : 1999/ 2/12(金) 23:20:41
Name : ノム E-mail : Title : 「逆説の日本史2」買いました。 Comments: ついに買ってしまいました。まだ「聖徳太子編」しか読んでませんが 物凄く面白いです。僕の住んでいる所は、兵庫県の太子町のすぐ近く なので太子には、幼い頃から(いまでも頭の中は・・・)太子の事は、 よく学校や子供会の行事で聞いていたのでとても興味深くよめました。 太子がノイローゼだったとか、道後温泉に静養に行ったとか、はじめ て聞く話ばっかりでした。 聖徳太子といえば十人の訴えを一度に裁いたとか、奈良の斑鳩から、 空飛ぶ馬に乗って兵庫の斑鳩までやってきたという話は知ってまし たが、思いっきりうそっぽくて、学校の授業では特に面白くない奈 良時代の中で唯一スター性のある人物でした。 その彼も悩みのある人間なんだと思うとなにかしら奈良時代の事に 興味をそそられました。 Time : 1999/ 2/12(金) 23:52:56
Name : ノム E-mail : Title : 「逆説の日本史2」買いました。 Comments: ついに買ってしまいました。まだ「聖徳太子編」しか読んでませんが 物凄く面白いです。僕の住んでいる所は、兵庫県の太子町のすぐ近く なので太子には、幼い頃から(いまでも頭の中は・・・)太子の事は、 よく学校や子供会の行事で聞いていたのでとても興味深くよめました。 太子がノイローゼだったとか、道後温泉に静養に行ったとか、はじめ て聞く話ばっかりでした。 聖徳太子といえば十人の訴えを一度に裁いたとか、奈良の斑鳩から、 空飛ぶ馬に乗って兵庫の斑鳩までやってきたという話は知ってまし たが、思いっきりうそっぽくて、学校の授業では特に面白くない奈 良時代の中で唯一スター性のある人物でした。 その彼も悩みのある人間なんだと思うとなにかしら奈良時代の事に 興味をそそられました。 Time : 1999/ 2/12(金) 23:53:12
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : 井沢史観 Comments: KANAKさん、みなさん、こんばんは。  井沢先生の言いたいのは、怨霊史観だけではなく、「言霊」、「和」、「穢れ」 も日本人の根底にある宗教的感情(信仰)であり、これらに規制されて日本人の 歴史が流れてきたということです。  資料的な間違いはあるかもしれませんが、これらの史観を通して、通史を書こ うとされる意気込みは批判されるべきものではないと思いますが。 Time : 1999/ 2/13(土) 00:05:03
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊じゃないんですから・・・・・・・・・・・・ Comments: KANAK先生、怨霊じゃないんですから、「退散」する などという事は撤回して下さい。 僕なんかでは先生の相手としては不足でしょうが、近い内 いや遠い道のりでしょうけどいつか先生の知識にちかづき 相手にとって不足なしといえるその日までこのページにも 投稿して下さい。 井沢先生の論は、楽しく分かりやすいので読んでいてとても 頭に入りやすいのですが、ともすると井沢信者となってしま い、自分の史観だと思っていた事が実は井沢先生の史観だったり するのです。 そういう事に陥らないよう、ちょっとまてよと自分の中で 自問自答できるきっかけを与えてくれるのが貴方の投稿なのです。 今回や前回の投稿のように僕のようなもんでも理解できるような 文を作るのはめんどくさいかもしれませんが、できたらつづけて 下さい。お願いします。 Time : 1999/ 2/13(土) 00:21:47
Name : Kz E-mail : Title : KANAKさんへ。 Comments: 経緯を充分に把握しないままの、軽はずみな発言 どうも申し訳ございませんでした。 はじめてここにお邪魔して、一気に皆さんのご発言の軌跡を 拝読させていただいたためか、感情的な発言(これは KANAKさんのご発言に限ったものではないと思いますが)が 非常に強く印象に残ってしまったので、背景を充分に把握しないまま あのような発言をしてしまいました。どうかお許しください。 さまざまな角度から見た見解の交換は、とても有意義なものと 私も思います。 「井沢さんのHPだから、井沢批判はよそでやれ」という主旨で、 発言したのではないことだけは、ご理解いただきたいと思います。 感情に走らず、冷静に意見交換できるというのは、参加者にとって 大きなプラスであると、私は考えております。 この掲示板に書き込みされている皆さんの高い見識と強い思い入れは、 すばらしいと思います。 真摯なお応え、どうもありがとうございました。 Time : 1999/ 2/13(土) 00:41:10
Name : K E-mail : Title : 史観と史実 Comments: 皆さん今日は、Kです。 私は、井沢さんの歴史観が正しいのか間違っているのか判断できる能力は ありませんし、そもそも歴史観というのは、人それぞれ違ってよいものだと 思います。 しかし史実というのは、いかなる歴史観に立とうとも一つしかないはずです。 私は、井沢さんの史実についての認識は、天武天皇の出自についてなど おかしいところが結構あると思っています。 そういった所はやはり、井沢さんに訂正していただく必要があると思います。 井沢さんは人気作家であり、その著作の社会的影響は大きく、もしも誤った史実が 記載されていたならば、その悪影響は他の歴史家の著作の比ではありません。 ですから、私は歴史の解釈についてはともかく、史実の認定については、 井沢さんにもっと慎重にしていただきたいと思います。 Time : 1999/ 2/13(土) 10:03:09
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(49)「怨霊信仰について」U Comments: Kzさん、inaさん、藤田さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 Kさん、発信直前に拝読しました・・・全く同感です・ Kzさん・・・ ご丁寧なRESおそれいります。私が井沢さんを挑発しているのは事実です。 従って、経緯の如何に拘わらず、私の発言に不快感を感じられるのは当然 だと思います。 私は、井沢さんが一言でも、人生を歴史解明にささげた多くの歴史学者に 対する謂れ無き愚弄嘲笑を撤回し、陳謝の気持ちを表して頂ければ・・・ そして、自説は単に古代史におけるこのような特殊な解釈も有り得ること を示したのであって、そのまま歴史的事実とは理解しないで欲しいと表明 して頂ければ・・・井沢さんに対する数々の無礼を全て撤回・陳謝するつ もりいるのですが、人間は偉くなれば・・ある種の悲しみを感じています。 inaさん・・・ >>このまま井沢さんの怨霊信仰の文章につながってもおかしくない気がし >>ますがどうなんでしょう? 仰るとおりだと思います。・・・と言うより井沢さんの「御(怨)霊観」 自体が・・・私が紹介した国史大辞典と殆ど同じだと思います。 何故ならば「御(怨)霊信仰」が(少なくとも)平安初期から盛んになり、 「佐倉惣五郎」まで?延々と続くものであること。その淵源(萌芽)が 「大物主神鎮魂信仰」に見られること。そして更に死者を畏怖する原始的 心情に由来するであろうこと・・・については殆ど異論が生じ得ないと思 うのです。 敢えて申上げれば・・・私は「怨霊論」を唱えるだけの学識は有りませんが ・・・井沢さんは「怨霊信仰」に関して日本の特殊性を強く意識されている (ように思います)。私はもう少し人類共通の心情を意識してはどうかと考 えている・・・程度だと思います。 つまり、少なくとも東アジアにおける「怨霊信仰」・・未熟な想定ですが、 道教における関羽(関帝廟)信仰と菅家(天神)信仰の対比・・・、或い は怪神乱力を語らずと言う儒教精神の優等生「韓国」における「鬼神信仰」 の深層心情・・・をも考え併せるべきでは無いかと思うのです。 (思うだけで・・これらを考察する能力なんか有りはしませんし (>_<;) 、これらの考察が無いからといって別に問題が有るわけでは有りません) もう一つ、これが重要なのですが・・・井沢さんは実在個人に対する「怨 霊信仰」を平安初期より遥かに遡及し、少なくとも「梅原聖徳太子怨霊説」 を承認すべきであるとして、これに懐疑的な歴史学者を口を極めて罵倒さ れている・・・私は現段階では「聖徳太子怨霊説」は根拠薄弱であって、 承認し難い・・・従って井沢さんの歴史学者に対する批判は謂れなき誹謗 中傷である・・・と言うことなのです。 長屋王「怨霊説」・・・「東大寺=長屋王怨霊寺説」 聖徳太子・孝徳・称徳・文徳「怨霊説」・・・「徳諡号=怨霊説」 についても基本的に同様に考えております。 藤田 潔さん・・・ >>怨霊史観だけではなく、「言霊」、「和」、「穢れ」も日本人の根底に >>ある宗教的感情(信仰)であり、これらに規制されて日本人の歴史が流 >>れてきたということです。 以上のとおり・・・これらについても、もう少し視野を広げられないか? と言う漠然とした印象を持っておりますが(「言霊・穢れ」に関しても) ・・・かといって他の東アジアに比較して、日本人により強い心情であろ うことは否定いたしませんし、これらについての井沢さんのご努力を否定 するつもりもありません。 (ただ、一部の方が仰るような・・・歴史の原動力云々は大袈裟すぎます) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私が申上げているには・・・これらを論じる過程における歴史事象認識の 誤謬問題なのです。 サンプルに誤謬が有れば、結論に誤謬が生じ得るのは明らかです。 しかし、それ自体は私にとって大した問題ではありません。 井沢通史が正しかろうと、間違っていようと・・・基本的に私には興味が ありません。 しかし、井沢さんの所説はマスコミを通じ、一般読者に極めて大きな影響 与え続けています。私が懸念しているのは、井沢さんの誤謬(勿論誤謬だ とすればですが・・・)が一般市民の歴史認識を歪め、歴史学者に対する 不信と軽蔑を惹起しかねないことなのです。 (私が、ここまで頑なに井沢さん批判を繰り返しているのは・・・ある程 度歴史知識を有している人間の集団であるNIFTY会議室においてすら、井沢 説を信じて譲らない方がおられたこと。そしてこのHPを初めて見たとき に「日本史を知りたいのなら、これを読めと先生から薦められた」「この 本を教科書として採用すべきだ」等のコメントを見たゆえでもあります。 極く一部の現象にしても・・・ゾットさせられたのです。) 度々の長文失礼いたしました。 ただ、このHPが主催者である井沢さんの批判に・・・かくも寛大である ことは、まさしく賞賛に値すると思います。 Time : 1999/ 2/13(土) 11:12:39
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : K様へ Comments: K様のご意見読ませていただきましたが、井沢先生に関わらない部分は 一般論として正しいと思います。 しかし、「あなたがおかしいと思う史実」によって、 井沢先生が訂正を出すべきというのは、少し飛躍していると思います。 KANAK様のあれほどの批判によっても、完全に史実と違うとは まだ言い切れていない段階だと小生は思います。 もっと、慎重に検討を続けるべきで、そのためにもこのHPが役立てば よいのではないでしょうか? その目的で、使われる可能性がある掲示板だと小生は了解しています。 早急に「訂正文を出し謝罪せよ」ではなく、検証という意味で反論なりを 合理的な意見として述べられるべきではないのでしょうか? 多少の言い過ぎはあっても、KANAK様はそれを続けておられます。 ご賢察お願い申し上げます。 Time : 1999/ 2/13(土) 14:19:34
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊信仰 Comments: KANAK様、大阪JF生様へ、 つまり井沢先生とKANAK先生との主張の相異点 とは、主に怨霊信仰が歴史に及ぼした影響の大きさ と言うことなんでしょうか? Time : 1999/ 2/13(土) 15:35:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : アイ・ハブ・リターンド Comments: 多くのすれ違いから皆様に迷惑と御心配をかけてしまいました。 私が侮辱されたとしても、それは一身の感情であり、 このような公共の場感情の発露はするべきではなかったです。 私自身もかなり過激な発言をしていたことも分かりました。 しかし、内容が正しくても、相手を傷つけるような発言はいけません。 KANAKさんの、私の秋篠寺に関する発言を私は許しますが、決して忘れません。 あと、KANAKさんにいくつか言いたいことがあります。 井沢先生はここ半年眼病を患っていました。今も療養中のようです。 コンピュータに向うのが、つらいとこの掲示板にも書いていらした事が有ります。 ですから、このホームページ及びニフティでの井沢さんへのアプローチ が上手くいかなくても、落胆なさることはないでしょう。 井沢先生が「学者」という際、戦後の知識人を指していることが多いのは 先生の著作を見れば分かります。歴史学者だけを言っているのではありません。 大学で一心に研究をしている方々が、非常に真摯なのは私も知っています。 でも、その真剣さゆえに、硬直しているところはあると思います。 Time : 1999/ 2/13(土) 15:48:32
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 追加 Comments:  安部様がお元気そうでほっとしています。 今回の件で、かなりいろんな方のご意見が出ましたので、 ぜひご参照ください。  ノム様。  井沢先生とKANAK様の違いは、前に述べたのですが 論じられている内容というよりも、アプローチの差と 理解しております。 (ただ、小生は井沢先生の方を好んでいるに過ぎません) KANAK様のご意見はご本人のおっしゃるところに反し、 必ずしも井沢説反対とはいえないところもありますし、 井沢先生ももちろんKANAK様のご考察を指示し、 (K様のご考察も加えたいところです) 意見を修正すべき点があるでしょう。 三枝様がくぎをさされたように、早急に どちらが優れているとか正しいとかは、判定不可能でしょう。  それで、この掲示板でお互いにdiscussionをし、 高めていけばよいのではないでしょうか。 それで、最終的に井沢先生がこれらを眺めて、 逆説の日本史改訂版を出すか否かは、われわれが 強制すべきことではないでしょう。 しかし、われわれ自身がある程度の判断を下すことが 可能なレベルに高まるだろうと、希望的に観測しています。 あまり満足な回答になっていないかもしれませんが・・・。  ところで、KANAK様は関東の方とばかり思いこんでいたの ですが、古都奈良の方で、お隣さんだったのですね。以外でした。 Time : 1999/ 2/13(土) 17:02:26
Name : ノム E-mail : Title : なるほど Comments: 大阪JF生様、解説ありがとうございます。僕は最 近のKANAK先生の投稿を読むと本質的には似て いる主張だと思ってました。ただ僕がこのページに 参加させて頂いたころは、安部様との論争もあり根 本から井沢先生の主張を否定なさっているのではな いかと思ってました。 Time : 1999/ 2/13(土) 20:15:24
Name : ノム E-mail : Title : なるほど2 Comments: やはり早合点せず、よく内容を熟読し理解する読解 力を身につけなければいけないということですね。 KANAK先生が誤謬を指摘することにより、その 点の根拠が確認されれば、井沢先生の説はよりすば らしいものにかわって行くのでしょうね。 Time : 1999/ 2/13(土) 20:21:50
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(50)「怨霊信仰(西大寺)」V Comments: 大阪JF生さん、ノムさん、今日は・・・KANAKです。 大阪JF生さん・・・ 私は、宝塚の生まれで・・・転勤10回転居13回、現在は法隆寺と薬師寺 のほぼ中間、稗田の荘近くに住いする、生っ粋の関西人です。(^0^)" >>平凡社の「寺院・神社大事典」(大和編)には、「秋篠寺は西大寺の領地内 >>に建てられた」と明記してありましたので、これを信用すれば、お隣りどこ >>ろではなさそうですが、この点はいかがでしょうか? ご質問うっかり見落としており、失礼しました。 この記事は「西大寺資財流記帳」によるものですが・・・ここで記されてい る創建時の寺領は、約50ヶ所にのぼっており、山城・大和・河内・摂津等 18ヶ国、大和内だけでも高市郡・宇陀郡・宇智郡・添下郡にあります。 うち、添下郡に秋篠山寺他3ヶ所が挙げられている訳です。 つまり、これらは西大寺造営・維持のための封戸等の所在地であり、寺域と は無関係です。 西大寺の寺域は、平城京右京一条に三十一町と広域ではありますが、その東 北に西大尼寺(西隆寺)があり、秋篠寺(内経寺?)はさらに北にあります。 おそらく、仰るとおり・・・「光仁」は緊縮財政方針を採っていましたので、 西大寺封戸の一部を秋篠寺に当てたのでしょう。 平安末期にはこの領地の帰属を巡って両寺の争いがあったようですね。 ただ、私が既に申し上げたとおり、仮に隣地に建てられたとしても・・・それ が何らかの意味を持つかどうかは別途検証する必要があり、軽々に結論付ける べきものでは無いと思います。 ノムさん・・・ >>つまり井沢先生とKANAKさんとの主張の相異点とは、主に怨霊信仰が >>歴史に及ぼした影響の大きさと言うことなんでしょうか? 怨霊信仰そのものについて言えば・・・特定の個人を怨霊として祀るのが、 何時はじまったのか・・・と言うある意味では些末な相違です。 (史学と言うのは、こんな事を口角泡を飛ばして議論しているのです(^0^)” バッカミタイ・・・と思われるかも知れませんが、古代人の思想→日本の思 想の流れ(更に仰るとおり歴史に及ぼした影響にも関係します)を考察する ためには、とても大切なことなのです。 ただ、私は・・・怨霊信仰については、それこそ無知蒙昧です。 歴史に影響を及ぼした様々な事項の一部分としてしか頭にありませんし、 特に奈良時代迄の古代史においては、それ程重視しておりません。 この点が・・・日本史全体を「怨霊信仰」で通史的に見ようとされている 井沢さんとの相違ですが、このこと自体を批判する気持ちはありません。 あくまでも、私が批判しているのは「天武=新羅人説」等の歴史認識の問 題なのです。 (この問題を論じるうえでも、「天智」を怨霊と見るか、どうかの点で、 怨霊信仰が多少関係してくるのですが・・・) ・・太子町のお生まれですか? 「聖徳太子」に興味がおありでしたら、 人物叢書「聖徳太子」日本歴史学会編集 坂本太郎著ー吉川弘文堂を図書館 で見つけてください。 故坂本太郎氏は、井沢さんが目の敵にしておられる日本歴史学会の長老でし たが、本物の重みが分かると思います。(本自体は一般読者向きです) では・・・また (「先生」は禁止!「さん」ですよ! (>_<;) Time : 1999/ 2/13(土) 21:55:41
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : いっぺん集合してみては? Comments: 以前管理人様が書いておられたように、この掲示板のような場所でのやりとりって エスカレートしがちですよね。 肯定意見はともかくとしても、反論するときにはついついキーボードをたたく指も 興奮してきて… やはり相手の顔が見えないからでしょうか? よくよく考えてみると結構、ここのメンバーって関西のヒトが多いんですね。 いっぺん実際に顔を合わせてみるとよいのかも知れませんね。 掲示板上では伝わりづらいお互いの微妙なニュアンスがわかりあえれば 議論を建設的なものにする上で役立つかもしれませんし… 二度と議論する気がなくなるかもしれませんけど… (殴り合いの大喧嘩だけはかんべんしてくうださいませ) Time : 1999/ 2/13(土) 23:52:41
Name : Toshy E-mail : Title : 思ったこと Comments: いつも興味深く、この掲示板を拝見しています。 井沢先生が、KANAKさんの投稿に対してどのようにお思いなのか、知りたいです。 井沢先生とて、間違うことはあるはず。 いくらなんでも、自説が100%正しいとは思っていないでしょう。 完全に無視なさっているとすれば少し問題ですが、 反論には正面から答えて欲しいですね。 最近の議論を見て思ったことを書いてみました。 関係ないですが、私は本業の文学のほうで、「トンデモ論文」を出し教授方の失笑を買っていました。 Time : 1999/ 2/14(日) 00:06:07
Name : きんたろう E-mail : Title : KANAK様へ3 Comments: 丁寧なご返答をどうも有り難うございました。 私は今回「伝えると言うことは難しい」と言うことをしみじみ感じました。 私は去年の秋頃からこの掲示板に出入りするようになりました。 ですからKANAK様と大阪JF生様との議論も勿論知っております。 また掲示板が今のような形式にグードアップしたときにちょっと書いた 記憶はあるのですが、「様々な意見は見ているだけでも楽しい」ものです。 KANAK様の興味の外かもしれませんがフォーラム、とまり木に私の意見(のような もの)がいくつかありますので、読んでいただけたら幸いです。 私も最近ホームページを開設しました。(管理人様先日宣伝でフォーラムを利用 させていただきありがとうございました。ちなみにアドレスはフォーラムに載って いますの) ホームページは自己満足から自己表現への道だと何かで読んだ記憶がありますが、 私もそこまでたどり着きたいものだと思っています。 ですから、先日のホームページの件は決してネガティブには受け取ってもらいたく ありません。 KANAK様は聖徳太子の時代から壬申の乱の付近まで約100年間近くの知識を特化 されていますので、十分見応えのあるホームページが出来るのではないでしょうか。 Time : 1999/ 2/14(日) 00:24:21
Name : きんたろう E-mail : Title : What I interested in Comments: For Mr.Abe. I'm waiting you for comming back here as soon sa possible. And I hope you do what you interested in. Time : 1999/ 2/14(日) 00:31:37
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : 井沢先生の病状 Comments:  安部さんもご指摘されたとおり、井沢先生の反論がでてこない最大の理由はその 眼病によるものと信じています。まずはその平癒を祈り、その上での反論の展開を 期待したいと思っています。  Toshyさんのご指摘のとおり、自説が100%正しいとは思っておられはしないで しょうし。健康が回復しないことには反論もできないかと思いますので。  かく申す私も年明けより痛風以外にさらに病を得て(あ…痛風の話はとまりぎで しか書いてなかったか)コンピューターをいじるのが精一杯だったと思います。  眼の病ではなおさらでしょう。  我々のなすべきところは、井沢先生の説の問題点を、病状回復までに整えておく ことなのかもしれませんね。  なんといっても井沢先生は日本の歴史を魏志倭人伝の時代から現代まで語ろうと されるのですから、KANAKさんの指摘されるような、検討不足の点だってでてくる のはある意味で当然かもしれません(もちろんいけないことだけど)。  ほとんどの歴史学を本業とする研究家は、日本史のある一時期のみを深く研究 しているのですから、それに較べるといささか部分的に問題が生じるのは仕方ない かと思うのです。  天智・天武に関しては、井沢先生サイドの私ですが、聖徳太子編にはいってから のKANAKさんの指摘は説得力のある話でありとても興味深いものがあります。  ところでToshyさんは文学部なのですね。文学におけるとんでもな論文ってどんな ものなのでしょう?よかったら教えてください(とまりぎネタかな)。公開される とまずいなら上記アドレスまでどうぞ。  私は農学出身なのでいまいち文学の論文がどのようにできあがるのかわからない ので文学におけるとんでも論文って想像がつかないのです。 Time : 1999/ 2/14(日) 00:31:40
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(51)「基本的議論の経緯」(長文失礼) Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 このHPを継続してご覧になっている方には・・・いわずもがなでしょうが、 本件については、井沢さんのご見解が3回発表されています。 ・・・私の反論とあわせ基本的議論の経緯を再録いたします。ご参考迄に。 結論としては・・・週刊ポスト』に連載中の『逆説の日本史』が、とりあえ ず一度完結してからのことでしょう。・・・それまでは・・・批判・疑問な どに、誠実にお答えし、更に自分の理論を修正していく・・・ことは出来な い・・・と明言されています。 ------------------------------------------------------------------- 第一回 井沢さん発言・・・掲示板(BBS) 98/9/18 Name : 井沢元彦 E-mail : ts9m-izw@asahi-net.or.jp Title : 復帰しました Comments:  井沢元彦です。  (病状経過の部分・・・・省略します。)  それからHISTORYの問題を離れて一つ、やっぱり述べなければいけ ないのは、例のニフティでの歴史フォーラム(日本史館)における天智暗 殺説に関する反論の問題でしょう。この件に関しては、大島重雄さん、大 阪JF生さんが、熊谷秀武さんが、私に代わってさまざまな反論、弁護等 をしていただいたようで、まずその件についてお礼を申し上げます。  私も同フォーラムの会議室(2番)を覗いてみました。正直言って、大き な怒りを覚えました。特にKANAKという人は、どうやら私の論説に対 して頭から偏見を抱き、そして侮辱するネタを見つけようと、まさにあら 捜しをやっているようですね。  この件に関しては、井沢元彦の名前で日本史フォーラムに正式に投稿し、 批判したいと思います。詳しくはそちらのほうをご覧になっていただいた ほうがいいのですが、簡単にここでも述べておきます。  私自身、人を批判したこともあります。そしてその批判の内容はかなり厳 しい調子、例えば「あなたはそれでも学者なのか」といった批判をしたこ とさえあります。それは『SAPIO』誌などでやっていることですから、 皆さんよくご存知だと思いますが、その場合最低限のルールとして、なぜ そう思うのか、という理由を付けなければいけないわけです。論説、批判 というのはそういうものであって、それがない限り単なる悪口であり、公 開されている会議室でそういうことを言うのは許されないことだと思いま す。  例えばKANAK氏は「天智暗殺説等は売らんかなの三文小説としてもあ まり上手とは思えませんね」と言っておきながら、「読みもせずに批判」 したことをみずから認めてもいます。作品を読まずして、私を三文作家と 断定しているわけですから、まさに言論のルールを踏み外した行いです。 第一、天智暗殺説自体は私の独創ではありません。この説は、それこそ平 安の昔からあります。もちろんそれは、正確に言えば暗殺説というより、 天智天皇行方不明説なのですが、その顛末を書いた最後に殺害を意味する 文章が加わっていることから見て、トータルで暗殺説と言って差し支えな いものだと思います。この説がいつ頃からできたかも知らないで批判して いるというのは、まさに滑稽としか言いようがありません。とにかくこの ことについては、大きな怒りを感じますが、同時に入院中の私に代わって、 きちんとその問題点を指摘していただいた方々には、感謝をしておかねば なりません。 (以下『ノストラダムスの大予言・中東編』の部分・・・省略します。) Time : 1998/ 9/18(金) 16:12:28 ------------------------------------------------------------------- 第二回井沢さん発言・・・ NIFTY会議室 98/9/18  小説及び評論を書いている井沢元彦という者です。このフォーラムに初め て投稿します。投稿のきっかけは私のファンから、私がかつて小説『隠され た帝』(『逆説の日本史』第二巻等)で展開した天智天皇暗殺説について、 さまざまな異論・反論が出ているが、その中に明らかに中傷としか思えない ような論説があると、ご教示を受けたからです。そのため、ここ数週間のロ グを取り寄せて、拝見させていただきました。  そして、これはやはり論争の域を逸脱しているのではないか、これはあま りにも酷いと思われるものがありましたので、そのことについて申し上げた いと思います。それはKANAK氏の発言です。KANAK氏の一連の言動 を見ますと、これは日本史をより深く理解するために、フォーラム上で討論 するというのが目的ではなく、最初から井沢元彦という個人を侮辱するため に、天智暗殺説にことよせてフォーラム上で悪口を言っているのではないか と思われる節があります。  例えばKANAK氏は私の天智天皇暗殺説に関して、「天智暗殺説等は売 らんかなの三文小説としてもあまり上手とは思えませんね」と言っています。 つまりこれは、それを題材にして小説を書いた私のことを、三文小説の書き 手、つまり三文小説家として断定しているのと同じことです。もちろんこれ は重大な侮辱であります。もちろんそれが事実であるならば、正確に言えば KANAK氏がそれを事実と信じるならば、書くことは構いません。と言う より、それはKANAK氏の言論の自由です。ただしそれを公開上のフォー ラムで言うならば、最低限その理由について述べるのがルールであり倫理で す。ちなみに私も、学者やジャーナリストに対して、「あなたはそれでも学 者なのか」とか、「ジャーナリストの倫理に反する」と批判したことはあり ます。しかしその場合、そのことが誰でも納得できるような理由、根拠をで きるだけわかりやすく書いて提示したつもりです。言うまでもなく、それを しなければ単なる悪口雑言になってしまうからです。  ところがKANAK氏は私を三文小説の書き手と断定するのにも関わらず、 私の著作を一切読んでいないようです。だいたい読んでいれば、「天智の他 の皇子はもちろん、大友皇子(弘文天皇?)の子孫さえ皇族として遇してい ます。(中略)暗殺者がそんな甘いことをするでしょうか? 持統はそれを 知っていたのでしょうか?」といった疑問を呈するはずがないのです。  私はそのへんについても、なぜそうなのかということについて、『逆説の 日本史』(第2巻)で詳しく説明しています。それを書けばまさに一冊の本 になってしまうので、ここで詳しく述べることはできませんが、簡単に言え ば日本人は敗者を中近東や西洋のように抹殺せず、その子孫を優遇すること によって怨霊封じをしようという発想があるということです。それが私の理 論の根幹なのに、KANAK氏はその基本理論さえ理解していない。  もちろん私の著作を読んでいないというのは想像ではありません。本人が 何しろ「読みもせずに批判すなと怒られそうですが、限られた図書費ですの で無駄遣いができません」と言っているぐらいですから。つまり、KANA K氏の言っていることは、要約すれば、「私は井沢元彦の著作なんか読んだ ことはないが、この男は三文小説家である」ということです。こんな意味も ない侮辱が許されるのでしょうか。人をそういうふうに断定するなら、それ なりの根拠をしっかり示していただきたいと思います。  またフォーラムの主宰者にも一言申し上げたい。私はフォーラムにおける 言論の自由は最大限に尊重されるべきだと思います。したがって、オンライ ンで人を三文小説家と批判するのは構いませんが、前に述べたようにそのこ とについての最低限の根拠を示すべきです。読んではいないが、こいつの言 っていることは間違っているなどという人間の言説をどうして載せるのです か。私はそこで管理者の見識を疑います。もしこのことに関して、何か見解 があるなら、それを是非お伺いしたいと思います。  以上のような一方的な断定者の言論にいちいち反論していくことも、バカ バカしい限りですし、貴重なログを塞ぐことも、それこそ書き出せば『逆説 の日本史』で書いた分量と同じことになってしまい、それは結局本を読めば 済むことですから、ここでは繰り返しません。ただし私への反論者が巧妙に 避けている二点について、敢えて指摘しておきたいと思います。  一点は天智、天武という名前(諡号)です。この『逆説の日本史』等を読 めばおわかりになるように、天智という名前は中国における暴君で、叛乱に よって死に追いやられた王を暗示しています。一方、天武という諡号は、そ の暴君を死に追いやったほうの王に由来しています。だから極端に言えば、 天智天皇という名前は、「天武に殺された」王のことであり、天武天皇とい う名前は「天智を殺した」王という意味なのです。そういう意味があること をまったく無視して、議論を進めてみてきたのが、これまでの歴史学です。 だからこそおかしいというのです。少なくとも天武が天智を「殺した」とい うことを、この諡号を定めた人間は、意識として心の中に持っていたわけで、 そういう意味から言って、天智暗殺説は決して荒唐無稽の説ではありません。  更にもう一つ言っておけば、天智暗殺説は私の完全なる独創ではなく、先 人がいます。それは、『扶桑略記』という、今から何百年も前の本に書かれ ていることであって、その意味でも「売らんかなの三文小説」というKAN AK氏の決めつけは完全なる間違いです。  それから、細かなことが続いたので、大きなことについて言うと、『逆説 の日本史』の基本コンセプトは、日本には敗者を決して抹殺せずに神として 祭るという伝統があるということです。これは、私に言わせれば日本史の大 原則であって、この大原則を無視して歴史を解釈しようと思っても、結局知 ったかぶりで重箱の隅をつつくような、歴史の真相は何一つわからない学問 になるだけです。世界の大宗教の中に、出雲のオオクニヌシのような敗者の 神を、主神である神より大きな社殿で祭るなどという例はありません。この ことを意識するとしないでは、日本史の解釈はまったく違ってきます。しか し、それまでの歴史学はそういうことに対して、あまりにも無知でありすぎ ました。そこを私は補おうと考えているのです。 -------------------------------------------------------------------- 第一回KANAK反論・・・NIFTY会議室(後にHP掲載) 98/9/18 井沢さん、はじめまして・・・KANAKです。 (大三元さん、おひさしぶりです・・・ワザワザお出まし頂き恐縮です。) ご多忙中にもかかわらず、長文のコメントをお寄せいただき光栄です。 先ず申し上げたいのですが、井沢さんは私の本件に関する一連のコメントを お読みいただいたのでしょうか? 会議室の性格上大島さん、その他の方々との意見交換の中で議論が発展して おりますので、コメント全体をご一読になった上でご指摘いただきたいと存 じます。 それは、さておき早速具体論に入らせて頂きます >>とですから、ここでは繰り返しません。ただし私への反論者が巧妙に避け >>ている二点について、敢えて指摘しておきたいと思います。 >> 一点は天智、天武という名前(諡号)です。この『逆説の日本史』等を >>読めばおわかりになるように、天智という名前は中国における暴君で、叛 >>乱によって死に追いやられた王を暗示しています。一方、天武という諡号 >>は、その暴君を死に追いやったほうの王に由来しています。(改行失礼) ・・・については、決して回避などいたしておりません。 #1405 >つまり持統は天智の娘、文武は天智の母系孫、元明は天智の娘、元正は天智 >の母系孫、聖武は天智の曾孫、孝謙/称徳は天智の曾々孫です。 >廃帝淳仁以外は何れも天智とは血統で繋がっています。 >(この血縁関係を全面的に否定するならば別ですが・・・要するに淡海三船 >と同じ立場ですね。)) >彼等は自らの母系祖を悪逆紂王になぞらえさせるでしょうか? >私には人情として信じられません。 >さらに万々一、彼等がそれを認めたとしても49光仁、50桓武は一片の勅令で >天智の諡号を容易に変更出来る筈ですね。何故自らの直系祖である天智を紂 >王になぞらえたまま放置するのでしょうか? #1744 >(我々の常識では「諡」が本字と思っていますが”漢語に精通している鴎外” > だからこそ、逆に「謚」を本字としたのかも知れません) >次ぎに、”大日本帝国陸軍軍医総監森林太郎”が”「謚」は「笑う」という >意味”で、”おそれ多くも「大元帥陛下」”の先祖の”諡号”を論じるでし >ょうか?・・・これは天皇諡号を”笑い事”にすると言うことですよね。 >私には一寸信じられません。やはり本字として「謚」を使った可能性が高い >と思います。 >さらに、肝心の部分ですが・・・「天智」が紂王の身を飾った玉の名であっ >たとしても、「天智=紂王」とは限らないでしょう。 >「天智玉五在火中不銷、半天智玉武王則寶與同、注、天智玉之上天美者也」 >・・・とは、紂のような悪逆王の身を飾っても、共に亡びることなく上天の >美を保ったという意味を示しているとも考えられるからです。 >「天智天皇」諡号が紂王を示唆しているという決め付けは、これらの諸点か >らも余りに短絡的ではないでしょうか?(別観点からの疑問は#1405でUP済み) また、この部分についてはスズメ♂さんが、#1858でさらに詳細に批判され ています。 そもそも、井沢さんは「書紀」に関して 「では、この編纂の責任者、現代風にいうなら編集長である舎人親王とは何 者かといえば、天武天皇(大海人の皇子)の息子なのである。そして「書紀」 が完成した720年(養老4)とは、天武の玄孫である元正女帝の治世なの である。つまり「日本書紀」は、天武天皇の時代にきっかけが作られ、その 孫の女帝の治世に、息子である編集長が完成させた史書なのである。」  逆説の日本史2 P214 という「天武系天皇の大本営発表論」を展開されていますね。しかし良くお 考え下さいね・・・仮に井沢さんの筆法を持ってすれば 「・・・大本営発表であり、かつ天智系天皇のGHQ(?)検閲を経て公認 の「正史(諡号)」として、その後も尊重され続けたものでもある・・・」 なんですよ。 「桓武天皇」どう見ても自分に転げ込んだ皇位の正統性を「天智天皇」直系 に求め、天智を最大限に持ち上げた天皇でしょう? その政権・・或いは後継政権下において「天武系大本営発表の書紀」及び 「天智=紂王」を意味する「諡号」を何故に公認し、尊重し、講義し続けた のですか?或いは「彼等」は早くも「天智=紂王」とする「諡号」の意味を 忘却したとでも仰るのでしょうか? 私には理解出来ません・・・この点に関する井沢さんのご見解を是非お聞か せ頂きたいと存じます。 >> 更にもう一つ言っておけば、天智暗殺説は私の完全なる独創ではなく、 >>先人がいます。それは、『扶桑略記』という、今から何百年も前の本に書 >>かれていることであって、その意味でも「売らんかなの三文小説」という >>KANAK氏の決めつけは完全なる間違いです。 『扶桑略記』については#1376において私なりに批判しております。御一読 願います。まさか『扶桑略記』も知らずに「天智暗殺説」を論じる筈がない でしょう? >>ってしまうので、ここで詳しく述べることはできませんが、簡単に言えば日 >>本人は敗者を中近東や西洋のように抹殺せず、その子孫を優遇することによ >>って怨霊封じをしようという発想があるということです。それが私の理論の >>根幹なのに、KANAK氏はその基本理論さえ理解していない。 私がここで指摘しているのは・・「単に子孫を優遇する」の問題ではありま せん。その様な「理論」がこの時代に成立するかどうか自体疑問ですが、さ らなる疑問は仮に”子孫を優遇することによって怨霊封じ”を行うとしても、 そのために「皇位継承権」をもつ皇族として遇し、国政中枢に関与させるで しょか?(現実にソノ結果天皇位についたわけですね。)・・と申し上げて いるのです。論点を曲解しないで下さい。 「歴史の真実」に少しでも近づきたいが故の「野人」の率直な意見です。 ご寛恕のほどを・・・・・なお、井沢さんの「著書」では「恨の法廷」を拝 読いたしております・・・では、また。    98/09/18 -------------------------------------------------------------------- 第二回KANAK補足・・・NIFTY会議室(後にHP掲載) 98/9/20 井沢さん、及びファンの皆様・・・KANAKです。 ご静養中でいらっしゃったのですね。そう言えば大島さんもそのように仰 っておられました。呉々もご自愛のほど願い上げます。 さて、会議室での議論の進め方は原則として「対論」型式になっておりま すので、「意見」がさまざまな部分に分かれている場合があります。 従って初めて御覧いただく場合は、どの部分にどの「意見」が掲載されて いるかが判断しにくく、今回の井沢さんの反論のように誤解が生じること があります。 私の「意見」も本書を拝読せず紹介者及び先行意見(主に小林説)による 段階、書店で本書をザット立ち読みした段階、古書店で本書を入手した段 階があり、「意見」そのものもそれぞれの段階でニュアンスが若干異なっ ています。(基本部分はほとんど変化していないと考えていますが・・・) ついては極めて大雑把ですが、私の「意見」についての大凡の索引を設け ました。ご反論に当たり参照いただきたいと存じます。 なお、他の方々からも貴重なコメントが付けられていますが、ご迷惑がか かってもいけませんので、省略させていただきました。 03/28 #1157 壬申の乱について教えて下さい 03/29 #1159 RE^2 壬申の乱について教えて下さい・・・出発コメント 04/06 #1231 省略 04/12 #1267 RE^5 同・・・泉湧寺問題(小林説) 04/18 #1316 RE^6 同・・・泉湧寺問題(小林説)補足 04/22 #1339 RE^7 同・・・泉湧寺問題(小林説)再補足 05/02 #1376 RE^8 同・・・天智暗殺問題{万葉集・扶桑略記} 05/05 #1388 RE^9 同・・・万葉集補足 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 05/09 #1405 RE^11 同・・・漢高祖(小林説)・天智諡号問題(立読) 05/10 #1411 RE^11追記・・・大仏殿・万葉集問題補足 05/16 #1422 RE^12 逆説の日本史(聖徳太子)の疑問(著書入手)             ・・・クダラ・隋国書・天皇家姓・聖徳太子心 中・「徳」諡号・間人名問題等 07/29 #1641 RE^14同追記・・「徳」諡号問題補足(神皇正統記) 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 07/29 #1648 RE^16 天智・天武年齢その他追記・・・曲筆問題 08/02 #1656 RE^17 天智・天武年齢妄想(長文)・・年齢問題推定等 08/09 #1696 RE^18 天智・天武年齢(一代要記)・・同上補足 08/12 #1703 RE^19 皇族の類似名・・・間人名問題 補足 08/14 #1711 RE^20 天智・天武年齢の錯覚・・・年齢問題(愚管抄) 08/16 #1720 RE^21 天智・天武年齢と曲筆・・・年齢と曲筆問題 08/16 #1721 RE^22 天智・天武年齢(天武65歳推定)・・同上 08/21 #1744 RE^23 天智諡号問題(追記) 07/24 #1615 壬申の乱コメントツリーのみなさまに 09/03 #1859 RE^2 壬申の乱コメントツリー 09/05 #1873 RE^3 壬申の乱コメントツリー・・・総論 05/20 #1434 奇説:天武天皇の正体 05/23 #1443 RE 奇説:天武天皇の正体・・・年齢問題・天武忍者問題                       四娘同婚問題(大和説)                        98/09/20 ----------------------------------------------------------------- 第三回井沢さん発言・・・NIFTY会議室 98/11/23  こんにちは。井沢元彦です。この間初めてこのフォーラムに発言させてい ただいたばかりなのに、もう退会とはいぶかしく思われる方もあるかも知れ ません。事情を詳しくご説明したいと思います。  そもそも私がプロの作家になった時に、先輩作家から「君、いちいち読者 の反応に対して、ていねいに答えてはいけないよ」と言われました。その時 は「何と冷たい作家だろう」と、私自身半分読者の気分で思ったものですが、 実はそれが本当は正しいことなんだということが、しばらくしてからわかる ようになりました。例えば10万人の読者を持っている作家がいるとします。 仮にその一パーセント(ということは1000人に1人ですが)が、毎年手紙を 送ってきて、それに対して返事を書いていたら、いったいどういうことにな るでしょう。 たちまち本業に支障をきたすでしょう。 確かにファンあっての作家ですが、逆に作品あっての作家でもあるわけです。 作家は作品を発表しなければ、価値はゼロです。その本業を達成するために は、いかにファンとの交流とはいえ、それはあくまで二次的に考えるべき (当時はホームページという、一度に多くの読者に「返事」ができるシステ ムもありませんでした)、いや正確に言うならば、著作を通してファンの要 望に応えていくというのが、正しい作家の道だということです。  その意味から、私はこのようなフォーラムに投稿したり発言したりするこ とを、現に慎んできました。  それなのになぜ投稿したのか。それはこのフォーラムの常連であるKAN AK氏が、私に対して「三文小説家」と言わんばかりの批評をしたからです。 いや、もっと正確に言いましょう。別に私は、作家に対して読者が、あるい は評論家が「三文小説家」と批判することをいけないと主張しているのでは ないのです。当人がそう思うなら、それは自由ですし、その意見を発表する のも自由です。ただし、そういうことをするためには、最低限の礼儀として、 なぜそう思うかということを第三者にも明確にわかるように、論証しなけれ ばなりません。そしてそのためには、その批判の対象物である著作を精読す るべきなのです。しかし、KANAK氏は、明らかにこれを怠っていました。 つまり簡単に言えば、彼は「俺は井沢なんていう奴の本は読んでいないけれ ども、あいつはくだらない」と言っていたのです。だからこそ抗議しました。  そもそも、こういう論説ならぬ単なる非難中傷は、管理者が載せるべきで はありません。言論の自由というのは、いたずらに他人に対する根拠なき非 難中傷を許すということではありません。従って、これは管理者の責任にお いて、注意を促し排除すべきでした。具体的に言えば、「KANAKさん、 もしそう思うなら、ちゃんと根拠を明確に示してくださいよ」と言うべきだ ったのです。それがなされていないので、私は抗議をしたのです。  KANAK氏は、私の抗議に対して、「売らんかなの三文小説としても余 り上手とは思えません」(3/29 )との発言は、「“天智暗殺説”そのもの についての“印象”を述べたもの」(9/26)と弁明しています。それならば、 「そんなモノ(井沢注:天武の出自不明)は小林氏とそれを利用した井沢氏 の意図的(敢えて云えば商業的)空想の産物に過ぎないと思います」(5/6) なる発言については、どのように開き直るおつもりでしょうか。これは、「 売らんかなの三文小説」発言を、言葉を変えてくり返したものです。しかも、 KANAK氏は、この発言を含む自分の過去の記事を私のホームページに転 載(11/15)するにあたって、何ら顧みることをしていません。  歴史フォーラム、そして私のホームページを“井の中”と勘違いし好き勝 手な発言を続けていらっしゃるのかもしれませんが、それが“大海”、つま り公共的な場であることをKANAK氏はもちろん、当フォーラムの管理者 は十分に認識されるよう強く望みます。  せっかくの機会ですので最後に、私が『逆説の日本史』およびその他の著 作活動で、歴史の専門教育を受けた人間でもないのに関わらず、「歴史」を 作家活動のメインに置いていることについて、説明させてください。  それは日本に、真の意味での日本史を全体的に捉える通史理論のようなも のがないからなのです。学問というのは、例えば生物学や経済学を例にとっ てもわかるように、研究対象を、マクロの見る視点とミクロに見る視点が欠 かせません。ところが、日本史の研究者は往々にして狭い、蛸壺のような専 門研究に閉じこもり、外に出てきて、歴史全体を通史として見ようとしませ ん。確かに専門外のことに口を出せば、叩かれるという事情はあるのかも知 れません。また専門でないことに切り込んでいくには、細かいミスを指摘さ れたりして、向こう傷を負うこともあるでしょう。しかし、歴史というのは 一つの流れなのだから、それを体系化しないでいったいどうして歴史が語れ るでしょうか。もちろん、通史の理論と言えば、過去に皇国史観というもの があり、人民史観というものもありました。しかし、このどちらもイデオロ ギーに偏していて、日本史の姿をありのままに見るという姿勢に欠けていま す。  最近は歴史教育学者の間から、通史理論的なものを作ろうという考え方も 出てきていますが、肝心の歴史学者からはそういう話がまったくと言ってい いほど出ていないという現状に、私は不満を持ったのです。したがって、少 なくとも真実を重んじるノンフィクションの分野では、「売らんかなの商業 主義」でものを書いたことはありません。 私の念願は、『逆説の日本史』 を通して、今までの日本史の見方を修正し、通史理論のたたき台を提供する、 にあります。だからこそ、今とりあえずは、一つの体系として、少なくとも 明治維新以前まで完成させることを念頭に、前に進んでいます。  本来ならば、これまで書いたことに対する批判・疑問などに、誠実にお答 えし、更に自分の理論を修正していくべきでしょうが、残念ながらその時間 はありません。それがもしできるとしたら、現在『週刊ポスト』に連載中の 『逆説の日本史』が、とりあえず一度完結してからのことでしょう。  念のために申しますが、最初から人を貶めたり、侮辱することが目的の非 難中傷ではない、真の批判ならば大歓迎です。人間は、一人一人ではそれが どんなに優れた人間であっても、ものを偏り見ることは避けられません。 他人の視点を取り入れることによって、より理論が完璧になるということは、 当然あるからです。  最後に個人的な事情ですが、私は体質的に目が弱く、両眼とも網膜剥離を 患った経験があり、現在も右目のほうが完治していないため、こうしたコン ピューターでの意見交換について、非常に不自由を覚えるということも、 フォーラム脱退の有力な動機であることを付け加え、ご挨拶に代えたいと思 います。 -------------------------------------------------------------------------- 第三回KANAK反論・・・NIFTY会議室(後にHP掲載) 98/11/23 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「歴史フォーラム退会の挨拶」拝誦いたしました。 まず驚いたのは、私が 9/20#2015で会議室の性格から議論が段階的に進むも のであり、その点を理解した上で私の意見を判断頂きたい・・・と申し上げ、 3/28から8/21までの主要な意見の展開を紹介したにも拘わらず、その部分を 全く無視されていることです。 私は、貴方が 9/18#1991において示された、以下の具体的批判・・・ >>ただし私への反論者が巧妙に避けている二点について、敢えて指摘して >>おきたいと思います。 一点は天智、天武という名前(諡号)です。こ >>の『逆説の日本史』等を読めばおわかりになるように、天智という名前 >>は中国における暴君で、叛乱によって死に追いやられた王を暗示してい >>ます。一方、天武という諡号は、その暴君を死に追いやったほうの王に >>由来しています。だから極端に言えば、天智天皇という名前は、「天武 >>に殺された」王のことであり、天武天皇という名前は「天智を殺した」 >>王という意味なのです。そういう意味があることをまったく無視して、 >>議論を進めてみてきたのが、これまでの歴史学です。だからこそおかし >>いというのです。少なくとも天武が天智を「殺した」ということを、こ >>の諡号を定めた人間は、意識として心の中に持っていたわけで、そうい >>う意味から言って、天智暗殺説は決して荒唐無稽の説ではありません。 >>更にもう一つ言っておけば、天智暗殺説は私の完全なる独創ではなく、 >>先人がいます。それは、『扶桑略記』という、今から何百年も前の本に >>書かれていることであって、その意味でも「売らんかなの三文小説」と >>いうKANAK氏の決めつけは完全なる間違いです。 さらに貴方が『扶桑略記』について9/18HPで発言された・・・ >>第一、天智暗殺説自体は私の独創ではありません。この説は、それこそ平 >>安の昔からあります。もちろんそれは、正確に言えば暗殺説というより、 >>天智天皇行方不明説なのですが、その顛末を書いた最後に殺害を意味する >>文章が加わっていることから見て、トータルで暗殺説と言って差し支えな >>いものだと思います。この説がいつ頃からできたかも知らないで批判して >>いるというのは、まさに滑稽としか言いようがありません。 ・・が完全な貴方の誤解に依るモノであることを申し上げ、既に貴方もそのこ とをは充分ご承知の筈です。 然るに、その誤解には全く触れることなく、今回も同様の批判を繰り返してお られるのは理解できない態度であると申し上げざるをえません。 しかしながら、私は基本的にこの様な”読んだ読まない”の問題を論じたり、 批判したりする事に関心はありません。私の関心はあくまで古代史の実像に少 しでも近づくことにあります。 その意味では、貴方が歴史学者を繰り返し非難・嘲笑しておられる。「書紀= 大本営発表論」について申し上げた以下の部分。 >>という「天武系天皇の大本営発表論」を展開されていますね。しかし良くお >>考え下さいね・・・仮に井沢さんの筆法を持ってすれば >>「・・・大本営発表であり、かつ天智系天皇のGHQ(?)検閲を経て公認 >>の「正史(諡号)」として、その後も尊重され続けたものでもある・・・」 >>なんですよ。 ・・・にすらお答え頂けないのは、全く遺憾としか申し上げようがありませ ん。この後半部分の認識が欠落した「天智・天武論」は、まったく有り得な いと考えるからです。勿論のこと貴方が「光仁・桓武」が「寝た子を起こす まい」として自らの直系祖を「悪逆紂王」として国内外に曝し続けた・・・ 或いは万世一系の立前に拘って、曲筆に満ちた「天武系天皇の大本営発表」 を「正史」として持ち上げ続けた・・・とされるならばそれでも結構です。 私は改めて批判いたします。 しかし、貴方が嘲笑されている歴史学者達は、その様な想定が如何に無理が あるかを承知しているからこそ、「天武紀」に一定の信憑性を認めているの ではないでしょうか? 貴方は読者の批判に関して・・・ >>そもそも私がプロの作家になった時に、先輩作家から「君、いちいち読者 >>の反応に対して、ていねいに答えてはいけないよ」と言われました。その >>時は「何と冷たい作家だろう」と、私自身半分読者の気分で思ったもので >>すが、実はそれが本当は正しいことなんだということが、しばらくしてか >>らわかるようになりました。 ・・・と仰っていいます。私もそのとおりだと思います。 ただし、それは「作家」として記述された「文学作品」である限りのはなし です。苟も所説の成立の可能性を客観的に論じる「史学=人文科学」の場合 は、自ずから別の対応が必要とされる筈です。 現に貴方は、「陽成天皇」諡号問題については・・・ >>まず第一に、これはまさにうろ覚えで恐縮なのですが、誰かが私に対する >>批判として、「陽成天皇は不幸な死に方をしたはずなのに、徳の字が付か >>ないのではないか。だから井沢の理論はおかしい」ということを言ってい >>たように記憶します。これは投稿者が直接ということではなく、どこかで >>そういう反論を見たというご指摘だったと思いますが、これについてお答 >>えしましょう。 ・・・として、読者の指摘に対して間髪をおかず得々と「反論」されていま せんでしたか?私は、ただ単に「天智天皇」諡号について同様の「反論」を 求めているだけのことなんです。 最後に・・・ >>それは日本に、真の意味での日本史を全体的に捉える通史理論のようなも >>のがないからなのです。学問というのは、例えば生物学や経済学を例にと >>ってもわかるように、研究対象を、マクロの見る視点とミクロに見る視点 >>が欠かせません。・・・ について申し上げます。私は単に「古代史」興味を持ちかけているドシロウ トに過ぎませんから・・・歴史の成り立ちが異なるとはいえ、英・仏・独等 において、どの様な通史理論が論じられているのか、また必要とされている かは残念ながら承知してはおりません。 通史理論が史学に欠かせないモノかどうかについても、よく分かりません。 しかし、何れにしても「史学=人文科学」である限り、通史理論を論じるに 当たってはその構成要素である「個別歴史事象」についての検証は不可欠だ と考えますし、貴方もそのための努力を続けておられると理解しております。 従って・・・ >>本来ならば、これまで書いたことに対する批判・疑問などに、誠実にお答 >>えし、更に自分の理論を修正していくべきでしょうが、残念ながらその時 >>間はありません。 ・・・と言う「本来」の立場を、貴方の歴史解説を信じておられる多くの読 者のためにも是非真剣にご考慮頂きたいと存じます。 なお末筆ではありますが、貴方のHPがどの様な意見にも公平に開かれたも のであることに敬意を表します。     98/11/23 Time : 1999/ 2/14(日) 11:44:02
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments: こんにちは 先日は私の疑問に答えて頂き、ありがとうございました。  人文科学の分野で、例外という概念はどうあつかうのでしょうか。徳の名のつく 天皇についてのこと、あるいは、神社に祭られている人物など。   あと、卑弥呼=アマテラスなど私にはとても魅力的なのですが、科学的態度は 扱う時代によって変わると思われますか。あくまでも一貫した姿勢であるべきでしょうか。   まだこのページを見始めたばかりですが、井沢さんの本は単行本も文庫本も両方 買うほどかぶれてました。今はこのページでKANAKさんの、例えば皇族で近親者に同 じ名は着けない、の反証を見たりして、更に歴史に興味を持ったものです。  最後に、雲太 和二、京三といった話の内容はKANAKさんはどういう印象で受け取 られているのでしょうか。お教え頂けましたら幸いです。   Time : 1999/ 2/14(日) 13:20:20
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺はなぜ建立されたか・・・予告編 Comments: 光仁天皇を襲う天変地異! 「秋篠」の名を負う2人の男はどこで繋がるのか? 長皇子が施貴皇子と共に万葉集で歌った「高野原」とは? 首だけ残った4体の仏像! キーマンの藤原継縄とは? 2月15日よりロードショウ決定!!! 明日から、秋篠寺と「続日本紀」について書こうと思います。 秋篠寺はただの勅願時ではありません。 普段歴史ではすっ飛ばされる光仁天皇時代を探る大いなる鍵となります。 大変長い投稿になりますので、皆様今までどおり会話を続けてください。 私が現れたとたんに人がいなくなったなんて耐えられませんから。 Time : 1999/ 2/14(日) 15:29:30
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : たのしいがくもん(アンドレエフ) Comments: 軽いエッセイです。 私は理学部の学生ですが、教授に「なぜ学者になったのですか?」と尋ねると、 異口同音に「学問が好きだから」と答えます。 「なぜこの分野を研究しているのですか?」と尋ねると、 「楽しいから」と答えが返ってきます。 やはり学問というのはワクワク・ハラハラ・ドキドキするものだと思います。 「逆説の日本史」のいいところは、ワクワク・ハラハラ・ドキドキさせてくれる事です。 教科書を見て興奮した人なんていないでしょう? でもこれだけの人を歴史に目を向けさせたのは井沢先生の功績だと思います。 目が慣れてくれば、単なる年貢の収穫高を見てもワクワクできるんですけどね。 ただ、そのままの言葉では、そういうマニアックなワクワクは伝えられないです。 なお、題については「ガンバ!FRY,HIGH!」を参照下さい。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:08:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 蛇足かも? Comments: 安部さん、今日は。 What I interested inは熟語として使われていると思っていたのですが(思いこみです)、 What I'm interested inでしょうね、やっぱり。 他も同様です。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:14:49
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : わかればいいと思いますよ Comments: 相手に意図が伝われば十分だと思いますよ、 確かに、正しいのは後者ですけども、 自分の心の中に伝えるべき言葉があれば、英語でもなんでも出来るようになるものです。 外国語を覚える一番の方法は、外人の恋人を作る事です。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:24:32
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(52)「例外事項?(雲太和二)」 Comments: inaさん、今日は・・・KANAKです。 >>人文科学の分野で、例外という概念はどうあつかうのでしょうか。 ご趣旨が良く分かりませんし、私は単なる古代史を勉強し始めたばかりの 人間ですから・・・難しいことは分かりませんが・・・ (人文科学を云々するほどの学識はありません (^^;)) 原則(仮説)と一致しない事項=例外が多発する場合は・・・原則(仮説) が誤っていると考えざるを得ません。(20%以上??) ごく少数の例外であれば・・・本当に例外か?(例外と言う解釈が誤って いるのではないか?)を疑うべきだと思います。 その上で、明らかに例外事項と考えられる場合は・・・例外事項となった 特別の理由がないか?を考察し、例外事項を包含する新たな原則(仮説) を構築する。或いは特殊例として『 』つきで原則(仮説)を承認すること になるのではないでしょうか? >>皇族で近親者に同じ名は着けない 私は何故このような初歩的誤謬をされたのか、今もって理解に苦しんでい ます。・・・記紀を一読しただけで誰もが反対のことを感じる筈です。 つまり、この井沢さんの主張(仮説)は、古代史の初歩的知識から見れば・・ 例外云々の問題ですらなく、逆に「皇族の近親者には類似名が極めて多い」 と言う明らかな事実から出発すべき問題なのです。 →理由として壬生氏族(養育・養育費負担)名の原則(仮説)が考えられる。 →しかし、壬生氏族名では解決できない例外もある。 →壬生氏族・壬生地名の解釈、或いは特殊事情を考察する。 ・・・と言うところでは無いでしょうか? >>卑弥呼=アマテラスなど私にはとても魅力的なのですが、 私が知る限りでも・・・かなり多くの方が、より詳細に論述されている仮説 ですが・・・私は従来からこの仮説には懐疑的でした。(現在考古学的知見 によって、古墳時代がより遡る傾向がありますし・・・ただ、この問題はこ のHPで論じるつもりはありません。) >>科学的態度は扱う時代によって変わると思われますか。あくまでも一貫し >>た姿勢であるべきでしょうか。 申し訳有りませんが、仰る意味が良く分かりません・・・・ 私は、対象とする時代の人々が全てに科学的態度をとったとは思いませんが、 それを考察するに当っては、あくまで科学的(論理的)であるべきだと思い ます・・・つまり迷信?を信じた宗教的・社会的・心理的背景を科学的に分 析・解釈する・・・と言う意味ですが・・・ピントが外れていますか? >> 最後に、雲太 和二、京三といった話の内容はKANAKさんはどういう印象 >>で受け取られているのでしょうか。お教え頂けましたら幸いです。 対論形式であるため、分かり難いかもしれませんが・・・ Title :「逆説の日本史2」(4)出雲大社と大仏殿1998/11/20(金) 08:53:11 Title :「逆説の日本史2」(5)易姓革命・出雲大社と大仏殿 追記 1998/11/20(金) 19:27:41 Title : 「逆説の日本史 2」(6)四拍手問題 井沢さんへ 1998/11/21(土) 13:55:31 Title : 「逆説の日本史2」(7)出雲大社と大仏殿 追加 1998/11/21(土) 21:35:41 Title : 「逆説の日本史2」出雲大社(大阪城) 1998/11/24(火) 11:00:45 ・・・で議論しています。一口で言えば・・・これを持って、何らかの歴史 考察の前提とするのは・・・ナンセンスだと考えています。 あぁ、それからお願いですが・・・適宜(35〜39文字)改行を入れていただ けませんか? Time : 1999/ 2/14(日) 16:26:36
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : わかればいいと思いますよ Comments: 相手に意図が伝われば十分だと思いますよ、 確かに、正しいのは後者ですけども、 自分の心の中に伝えるべき言葉があれば、英語でもなんでも出来るようになるものです。 外国語を覚える一番の方法は、外人の恋人を作る事です。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:28:12
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : わかればいいと思いますよ Comments: 相手に意図が伝われば十分だと思いますよ、 確かに、正しいのは後者ですけども、 自分の心の中に伝えるべき言葉があれば、英語でもなんでも出来るようになるものです。 外国語を覚える一番の方法は、外人の恋人を作る事です。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:30:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 管理人様すいません Comments: 何かの間違いで、更新ボタンを押すたびに同じ投稿を繰り返してしまいました。 同じの「わかればいいと思いますよ」の2つは消してください。 Time : 1999/ 2/14(日) 16:32:56
Name : ノム E-mail : Title : たのしいだいがく? Comments: 安部さんはじめまして、安部さんは理学部の学生だ ということですが、理学を勉強してさらに歴史につ いての広い見識をお持ちのようですが、大学生とは そんなに時間があるのですか?それとも寝る暇なく 学問されてるのですか?ちなみに僕は春から私大の 経済学部に入ります。 Time : 1999/ 2/14(日) 17:16:52
Name : Toshy E-mail : Title : 英語は正確に! Comments: 安部奈亮さま 意図が伝われば十分、とは以前私も考えていました。 が* 単語羅列だけの会話は、やはり気分がよくないものです。 文法が分からないと会話にならんのですよ、やはり。 私の専門は、英文学でした。単語力だけでは、本は読めません。 中学時代真面目に英語やっとけばよかったと今ごろ後悔しています。(^^) Time : 1999/ 2/14(日) 18:08:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 爪が退化していました Comments: Toshyさんすみません。慣れないことをするものではないという教訓を得ました。 私は英語が大好きだったのです。 テレビの二カ国語放送は副音声にしていましたし、ラジオはFENに周波数を合わせていました。 ネイティブスピーカーとは2時間ぐらいは連続で会話をすることが出来ました。 (あくまで自分の記憶です??少し怪しいかも) 向こうの歌も大好きでした。(今も好きです) 茨城に戻ってからそういったこととは縁遠い生活をしていました。 いくら酔っぱらった状態で、頭がんがんでもやはり恥ずかしいものです。 昔とった杵柄が朽ち果てていることに気がつきました。 Time : 1999/ 2/14(日) 19:41:39
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 空想からKANAK(様)へ−−直木先生? Comments:  題名の駄洒落で御分かりのように、以下の記事はKANAK様宛てではなく、 事実に基づく空想です。でもご意見いただけたらありがたく存じます。  前に書いた秋篠寺の記事が、軽い立ち読みで得た不完全な知識だったので、 昨日行き付けのJ堂(吉本興行隣の、英字ではラリってしまいそうな名の書店) に行きましたが、目当ての平凡社「寺院神社大事典」は既に買われていました。 専門的な分厚い3巻本の大和関係のみ無いなんて、偶然とはおもえません。 つい先日まで有ったのです。小生の記事を見た方が購入されたのでしょうか?  仕方がないので、他の歴史関係の本を漁っていて、とんでもないことを 思いつきました。−−−KANAK様の正体発覚???−−−  見付けて買った本の一つは、 直木孝次郎著「秋篠川のほとりから」塙新書 です。言いたいことはもうお分かりでしょう。一応まじめに考察します。  KANAK-watcher としては、次の点に注目しました: 1.兵庫県で生誕され、現在奈良在住で、退職された方 2.古代、特に飛鳥・奈良時代に造詣が深く、仏像の知識も豊富 3.マルクス史観にまったく毒されていない堅実な歴史研究家 4.KANAKは「蚊鳴く」と引っかけてはいるが、音声的に本名と近い 5.京都大学学生に何度かこだわりを見せて、厳しくあたっていた  (その中に学生時代を回想してのセンチメンタリズムという台詞があった。   また、学生時代は自説主張より定説・常識を勉強せよとも言われた。) 6.秋篠寺に過剰反応されたようにおもわれる  もちろん条件に当てはまる人は一人とは限りませんが、かなり限定されます。 直木先生は1高を出られたにもかかわらず、イデオロギーに毒された方を嫌って 京都大学文学部で学ばれ、大阪市立大学で教鞭を執られた後、退官されました。 (上記の本ではじめて知りましたが)兵庫県生まれで秋篠川近くにお住まいです。 (今回特定されたKANAK様のお住まいにも近いようです。) そこで、4について、 K.NAOKI −> KANAK と気づいたのでした。 5については、後輩に対する一種の励ましとも思えます。  もちろん、この想定に反する御自身の主張も公平に考察すべきです: 7.歴史の専門教育を受けていない素人で、退職後1年余りの研究歴しかない 8.研究者として大学に残りたかったが、残れ(ら?)なかった 9.しばしば転勤されている。  実は7、8は互いに矛盾しています。 素直に解釈すれば、学生時代は歴史専攻だったと推測できます。 また(単なる当て推量ですが、教授と折り合いが悪かったなどの何らかの都合で、 大学院なりで)もっと専門的な訓練を受け(られ)なかったという風にもとれ、 さらに同様の事情で「母校に残れなかった」という強引な解釈も可能です。 実際、教授との折り合いが悪くて母校に残れず、他校に仕方なしに就職された 世界的レベルの研究者を小生は知っています。 そういう方は、やはり独自の強い主張と自信をお持ちです。 もし事情がそうなら、かなり独学・自力で研究されたのでしょう。それで、7,8を 無理矢理切り抜けられそうですが、それよりも7自身、皆さん信じがたいでしょう。 あれほどの知識と自信を、1年あまりの退職後の趣味で得られるとは思われません。 自説についての強い拘りと不釣合いです。 議論の進め方を見て、小生は当初からプロ臭いと睨んでいました。 また1年という研究期間では学生と大差なく、学生に自説よりも定説の勉強をと 強く言われるのも不自然です。学生指導の経験をうかがわせます。 今回、9の情報をいただきましたが、これは残念ながら少しはずれております。 しかし、退官後に私立の大学で教鞭を執っておられたはずで、7の時期的な意味でも、 いろいろなところで講義され、ようやく職から開放されたといえなくもありません。 あるいは、市大にこられる前にも複数の職場を経験されていたのでしょうか? (この部分は正直少し苦しいです。)  以上の空想的考察からの(まがりなりにも得られた)結論です:  直木先生は学者としての立場からくる不自由さに常々辟易され、立場を離れて 自由に発言したかった。そこで、「素人」KANAKとして、学者の立場を離れ、 感情も開放して自由に発言できる場として、FORUMを選んだ。しかし、プロと してのプライドと知識は隠しようがなく、プロを攻撃する人を許せなかった・・。  この空想の正否に関らず、当然KANAK様は否定なさるか無視されるでしょう。 小生は、KANAK様の発言のじゃまをしたり,楽しみを奪う気は全くありません。 もちろん、直木先生およびKANAK様に対し失礼なきよう発言したつもりですが、 もし礼を失していましたなら平に御容赦お願い申し上げます。 単なる一KANAK-watcher としての戯れ言・エンターテイメントと解釈して下さい。 そういう意味で、皆さん楽しんでいただけたでしょうか? Time : 1999/ 2/15(月) 09:53:33
Name : Toshy E-mail : Title : いえ、その・・・・ Comments: きんたろうさん あやまっていただかなくても、いいんです(^^;; 私はちまたで言う、「文法学習=会話の妨げ」という説には反対です。 それだけでした。 Time : 1999/ 2/15(月) 11:24:47
Name : 輔住 E-mail : Title : 「称徳 = 怨霊」私の考え Comments: みなさん、こんにちは KANAKさん、返信ありがとうございます。 >私は、権力者が死者の崇りを恐れるのは彼等(光仁・桓武)が死者に対 >し、何らかの心の痛み(贖罪意識)を感じていることが一つの構成用件 >だと考えているのです。 >彼等は「称徳」の「道鏡天皇」即位を阻止したとしても、些かの心の痛 >みも感じなかった・・・従って怨霊鎮魂をはかるとは思えない・・・・ その考えに一理あるとはおもいますが、私は以下のように考えてます。 たしかに「道鏡天皇」を阻止したことにことに心の痛みはないでしょう。 でも、私はそれと怨霊を恐れる気持ちは別だと思います。 時代は下りますが足利義満が急死し、「足利天皇計画」は挫折しました。 (天皇家や公家は安心したに違いない) そんな「天皇家乗っ取り」を図った大悪人に(私自身は義満が好きだが) 太上天皇の尊号を送ろうとしました。 (明らかに怨霊対策でしょう) それから考えると「称徳 = 怨霊」も可能性があると思います。 Time : 1999/ 2/15(月) 12:24:39
Name : ina E-mail : Title : KANAK さん Comments: こんにちは  私のあまり論理のはっきりしない質問へのご回答、涙が出るほどうれしいです。  ありがとうございました。  例外、ということなのですが、例えば、生物学や、薬学、医学の動物実験では、 一定の数以上の個体を集めて、実験を開始し、その中での傾向を統計的に解析する という方法を取ります。この場合、例外的反応のない事例はほとんどないと思いま す。これが数学などでは例外はありえないと思うのですが、歴史などの場合、例外 的事象は結構あるのでは?という趣旨だったのです。  もう一つの時代によって態度は変わるか、というのは、 考古学で扱う推論の態度と、近代史での推論の態度に差があるか、ということだっ たのですが。すみませんでした。  一つ感想として、かつてKANAKさんが、通史的な見方が必要なものかどう か私は分かりませんが、、と書かれていたと思います。通史的、例えば怨霊を通し て歴史を見た、という逆説の日本史の語り口は少なくとも耳当たりが良かったこと は事実で、KANAKさんの論証で間違いは明らかすぎると思いますが、多分続編 が出たら、買うと思います。史論か、史談か、という決着は私にはKANAKさん の論証であきらかになったと思われます。 Time : 1999/ 2/15(月) 13:18:24
Name : ノム E-mail : Title : 名推理 Comments: 大阪JF生さん、良い推理ですね。納得のいく内容 でした。ただこの論理展開はKANAKさんの最も 嫌うものではないでしょうか?仮説の前提条件自体 が仮説であるという点において。確定点がないので す。歴史は推理に似て推理ではないと言うことでし ょうか? Time : 1999/ 2/15(月) 13:29:02
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様、質問をお許しください Comments:  ご感想ありがとうございます。 少しでも楽しんでいただけて光栄です。 でも少し手短すぎてわかりにくい所があります: >仮説の前提条件自体が仮説である とは、どの個所でしょうか? 番号が振ってある物は、KANAK様も一応 お認めいただけるとおもいますが・・。 お手数ですが、よろしくお願いします。 Time : 1999/ 2/15(月) 13:51:59
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(1)・・・年代考 Comments: 秋篠寺が建立された年には3説ある。 (1) 宝亀11年(780)説 根拠とされる資料 「和州添え下郡阿弥陀縛狗山秋篠寺真言院之縁起」 (すいません字が間違っているかも知れません) 「西大寺官符宣」 (2) 宝亀7年(776)説 「興福寺官務ちょうそ」 (3)宝亀10年(779)9.16説 「扶桑略記」 古来宝亀11年説が主流である。これの最大の根拠は「続日本紀」の光仁天皇勅、秋篠寺 に100戸施入の記事であろう。しかし、「興福寺官務ほうちょう」は、「西大寺官符宣」の存 在を知りながら宝亀7年説を採っており、捨て難い。宝亀10年説を唱えているのは、現 在のところ「扶桑略記」しか見当たらない。なを、現在の秋篠寺は宝亀7年説を採っている。 宝亀7年がどういう年であったかというと、宝亀3年以来、続いてきた天変地異が遂に 平城京まで迫った年であった。 2.6 鉢大の流星出現 4.1 日蝕 5.29 怪異しばしばあるによって大赦 6.4 白昼に太白(金星)現れる 6.18 京師と機内で大祓 丹生川の川上の神に馬を奉る。日照りすればなり。 7.19 西大寺の西塔に落雷 8.13 大風(平城京にてと思われる) 8.28 壱岐の国で大風 9月 毎夜京中に瓦、石、土くれが落下、翌朝見てみると、落ちてきたものは現存 していた。この現象は20日あまり続いた。 丹後の国で三つ子誕生 10.9 地震 11.2 地震 単に「地震」とあるのは、平城京がゆれたからだろう。三つ子誕生は、祥瑞(めでたい証)扱 いされて、養育費と乳母が賜れている。 朝廷に最も衝撃を与えたのは、最大事への落雷と9月の怪現象であろう。西大寺は、称 徳天皇が精魂を傾けた寺であり、光仁天皇の御代においても、東大寺と同等の寺格を保っ ていた。9月の怪現象は、当時の人も余程信じ難かったと見えて、「其の物現在せり」と念 を押している。そのままは信じ難いけれども、よっぽど不思議な事がおきたのだろう。 大祓や読経も空しく、翌宝亀8年末に光仁天皇と山部皇太子が病む。しかし、宝亀9年 と10年には天変地異は殆ど発生していない。では宝亀11年はどのような年だったのか。 1.14 大きな雷、京中の数寺にて火災。新薬師寺の塔、葛城寺の塔と金堂が全焼 1.19 最近租税の納入が順調なので大赦 1.20 詔、落雷は僧侶が堕落したためである 3.3 出雲の国金銅製の仏像と白銅製の香炉などが漂着(祥瑞) 4.18 右京で三つ子誕生 6.5 天下は私物化すべからず、朕思うところあって秋篠寺に100戸施入、以後代 替わりごとに施入し直すべき事とする 6.28 鈴鹿の関で鳴動 8.15 諸国で蝗害 10.3 左右兵庫で鳴動 12.14 諸国で行われている怪しい呪術や淫らな祭りを厳禁する 宝亀11年は安定した年で、変事はこれと言って見当たらない。落雷は、僧侶の責任に 帰されている。鳴動は、施入の後なので事実関係はない、但し、施入した事が鳴動を起こ したと古代人が考えたかどうかは解らない。 それゆえ、6.5の秋篠寺に100戸施入の記事が浮いてしまう。理由が明記されていない 寄付や恩赦は、光仁帝の御代においては、宝亀10年8.18の「朕思ふ所あって恩赦」しかな い。それ以外の天皇に御代の事は私は調べていないので解らない。 勅願で寺院が建立される場合、表向きの理由は国家鎮護か祖先および自己の供養である。 ならば、5年越しで天変地異が続いていて、行政改革を断行したために、世情が不安定に なって、光仁政権が危機に瀕していた宝亀7年の方が発願の年として適当である。 寺院の発願自体が「続日本紀」に記録されていない事は多いので、秋篠寺の初出が宝亀11 年とはいえ、この年に創建をこだわる必要はないのではないか。 宝亀7年に国家鎮護のために勅願によって秋篠寺が建立される事になり、宝亀11年に 建物もある程度出来て僧侶も入り始めて寺院としての体裁が整い出したので、寺の運営費 として100戸が施入されたのだろう。 秋篠寺の造営は平安京の完成の頃に一段落し、平城京の御代の大同3年(806)秋篠寺造営 の役所が廃止されている。 Time : 1999/ 2/15(月) 13:54:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか・・・資料(1) Comments: 宝亀2年(771)流星落下、日蝕 宝亀3年(772)3.2 井上内親王廃后、自首した人物はなぜか昇進 4.7 道鏡死す、庶人をもって葬す 5.27 他戸親王廃太子 9.26 全国の情勢調査が行われる 宝亀3年に起きた天変地異、空中で鳴動、日蝕、疫病、虹が太陽を取り巻く、京中に落石 数日、野狐が大安寺の屋根に出没、インチキ祥瑞が献上される、大風ありて伊勢神宮の月 読命のたたりとされる、飢饉1国、山崩れ、流星雨、狂馬が平城宮の門を食い破る 宝亀4年(773)1.2 山部立太子 10.14 光仁天皇の同母姉難波内親王薨去 10.19 井上内親王が難波内親王を呪い殺したとされ、他戸親王と共に 大和の国宇智に幽閉される 全国で郡の倉庫に放火頻発、飢饉3国、疫病、地震5回、星が落下、日蝕、長雨、丹波の 国の神社に賊が侵入してお供え物を食べて境内で死す 宝亀5年(774)山城の国で狐100匹が7日間吠え続ける、ただしこの怪異井が起きたの は宝亀4年で年が明けてから報告された、飢饉13国、諸国で疫病、日照り 宝亀6年(775)4.27 井上内親王と他戸親王同時に卒する(自殺か他殺の可能性大) 10.2 吉備真備薨去 飢饉3国、ねずみの大群発生、日蝕、諸国で大風雨、雹 宝亀7年(776)7.19西大寺の西塔に落雷 9月 京中に毎夜落下物あり、 流星、日蝕、太白(金星)白昼に出現、日照り、大風、諸国で蝗害、地震2回 宝亀8年(777)11月光仁天皇病む 12月山部皇太子(桓武天皇)病む 12.28位の上内親王を改葬、その塚を御墓と称する 飢饉2回、日蝕、雹、ほうきの国国分寺の塔に落雷、日照り 宝亀9年(778)3.23淳仁廃帝の墓を山稜と称し、その亡き母の當麻氏の墓を御墓と称す 3.24皇太子病むこと数月によって、大赦 地震2回、日蝕 宝亀10年(779)暴風雨、日蝕、飢饉1国 宝亀11年(780)1.14大きな雷、京中の数寺に火災、新薬師寺の西塔、葛城寺の塔 と金堂が全焼 6.5朕思うところあって秋篠寺に100戸施入 鈴鹿の関で太鼓が鳴動、左右兵庫の太鼓と矢が鳴動 天応元年(781)3.25天皇が不眠症によって大赦 4.1左右兵庫が鳴動、光仁天皇危篤、三関(鈴鹿、愛智、不破)守備 4.3光仁天皇、山部皇太子に譲位 4.4早良親王立太子 12,23光仁天皇崩御(73歳)、桓武天皇号泣数日 地震9回、鈴鹿の関で鳴動、日照り、富士山から降灰 天皇2年(782)1.7光仁天皇を広岡の山稜に葬る、但し後に改葬地を吟味の上、改葬され た。 Time : 1999/ 2/15(月) 14:01:09
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 言語的鎖国 Comments: 確かに文法は大事です、失礼しました。あの英文も、書きながら ワードに何回も突っ込まれてしまいました、間違いだらけです。 ただ、英語だけしゃべれて、自国の事を知らない人間は「国際人」 ではなく「無国籍人」だと、中学校の校長先生が言っていました。 あの英文の意図の一つに、 非武装中立論と日本国憲法第9条に抵触しない自衛隊擁護論は 英文で可能か?というのがあります。 Japan force is not foce.ではあまりにもひどい文章だと思います。 秋篠寺は何故建立されたのか・・・資料(1)の副題は 「光仁天皇御代の天変地異と重大事件」です。書き忘れました。 Time : 1999/ 2/15(月) 14:15:14
Name : 三枝 E-mail : MXA0415@nifty.ne.jp Title : 同じ名前 Comments: 》>>皇族で近親者に同じ名は着けない 》 》私は何故このような初歩的誤謬をされたのか、今もって理解に苦しんでい 》ます。  この間違いは、「今の」、もしくは「明治〜昭和初期」の皇室がそうだったから だと思います。目上の人(お姑さんだったかな?)と同じ名前だと畏れ多い ということで、お嫁入りされた方が名前を変えたという事例がありましたね。 Time : 1999/ 2/15(月) 16:10:56
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 両刃の剣かもしれないけれど、切るためには剣が必要。 Comments:  こんにちは、KANAKさん。  人に何かを伝えることは難しいと、改めて思う今日この頃です。  ここでの議論が混乱している理由は、「ディテイルの批判」と「全体の批判」を 一緒にしている人がいること。「修正を求めることと」「謝罪を求めること」を 同レベルに考えている人がいること。さらに、「間違っている、いない」と「意義の ある、なし」を混乱させている人がいること、だと思われます。  あなたのご指摘する井沢説の「間違い」は、的確な物も多く、それを認める ことにやぶさかでない人は、大変多いことと思われます。  しかし、間違いが多いことと、井沢さんの仕事に意義がないこと(いや、おそらく あなたは「有害である」とまでおっしゃるのかもしれません)とは、同じであるか どうか、それは意見のわかれるところではないでしょうか。  井沢さんの文章は大変面白くて頭に入りやすいものです。それゆえ盲目的に 信じてしまうビリーバーを産み易くもあります。その意味では、KANAKさんの 憂慮されるように、大変害の多い文章なのかもしれません。  しかしまた、それほどの面白い文章でなかったらば、今更(すでに学校で 習って知っている)歴史に、多くの人の目を再び向けさせ、興味を持たせ、 改めて勉強しようと思わせるような状況を生み出すことができたでしょうか?  私には、どちらの現象を重く考えるべきなのか、まだわからないのです。 Time : 1999/ 2/15(月) 16:44:32
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: こんばんは、昼間の投稿では省略しすぎたためうまく表現できません でした。昼間はバイトの休憩時間にあわてて投稿してしまったため、 簡潔にはまとめきれなかったのです。電子手帳からの投稿なんで、字 数制限にひっかかてしまい、手直ししてる内に休憩時間が終わってし まったので、中途半端な投稿になってしまいました。 以下はどうして仮説の前提条件自体が仮説だと思ったかです。 ぼくがそういう風に思ったのは、7と8の部分です。この部分に関し ては、大阪JF生さんの解釈によるものだからです。貴方もその後の 部分で解釈と推測という言葉を使っているように。KANAKさんの 「退職してからの一年ちょっとの・・・」という言葉に対して、貴方 は、一年ほどの勉強で「あれほどの知識と自信」は持てないといって おられますが、(僕もそう思いますが)これはあくまで、仮説であっ て根拠にはならないのではないでしょうか?いくら趣味でも入れ込む 人は時に信じられない程の成果と結果を得る事も否定できません。 この点においては、先にある結論にむかって理論を展開しているとい えないでしょうか? 僕は国語表現の成績がよくなかったので、うまく伝わったかどうか不 安ですが・・・なんかあげ足取りはいけないと行った僕が揚げ足とり してしまったようでなんか複雑な気分です。議論をするとついこうな ってしまうのでしょうね。もっと勉強しなくてはと改めて思いました。 Time : 1999/ 2/15(月) 22:35:57
Name : ノム E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: こんばんは、昼間の投稿では省略しすぎたためうまく表現できません でした。昼間はバイトの休憩時間にあわてて投稿してしまったため、 簡潔にはまとめきれなかったのです。電子手帳からの投稿なんで、字 数制限にひっかかてしまい、手直ししてる内に休憩時間が終わってし まったので、中途半端な投稿になってしまいました。 以下はどうして仮説の前提条件自体が仮説だと思ったかです。 ぼくがそういう風に思ったのは、7と8の部分です。この部分に関し ては、大阪JF生さんの解釈によるものだからです。貴方もその後の 部分で解釈と推測という言葉を使っているように。KANAKさんの 「退職してからの一年ちょっとの・・・」という言葉に対して、貴方 は、一年ほどの勉強で「あれほどの知識と自信」は持てないといって おられますが、(僕もそう思いますが)これはあくまで、仮説であっ て根拠にはならないのではないでしょうか?いくら趣味でも入れ込む 人は時に信じられない程の成果と結果を得る事も否定できません。 この点においては、先にある結論にむかって理論を展開しているとい えないでしょうか? 僕は国語表現の成績がよくなかったので、うまく伝わったかどうか不 安ですが・・・なんかあげ足取りはいけないと行った僕が揚げ足とり してしまったようでなんか複雑な気分です。議論をするとついこうな ってしまうのでしょうね。もっと勉強しなくてはと改めて思いました。 Time : 1999/ 2/15(月) 22:36:44
Name : Toshy E-mail : Title : 無国籍人 Comments: こんばんは。 安部さんまで....謝らなくてもいいのに(^^;;) ところで安部さんのいわれた「無国籍人」の話、賛成です。 外国人の友達に、日本史や日本神話のことを質問されたりしました。 向こうだって日本に来ているのは日本のことを勉強するためなんですよね。 だから彼らの質問に答えるために、必死の勉強をしたことを覚えています。 国際人になるためには、まず自国の歴史の勉強をしっかりしましょう! むりやりこの掲示板の趣旨に合わせて終わります。では。 Time : 1999/ 2/15(月) 23:35:00
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(53)KANAKの実態?? Comments: 三枝さん大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 >> この間違いは、「今の」、もしくは「明治〜昭和初期」の皇室がそうだっ >>たからだと思います。目上の人(お姑さんだったかな?)と同じ名前だと畏 >>れ多いということで、お嫁入りされた方が名前を変えたという事例がありま >>したね。 仰る事例はあるようですね・・・でも残念ながら、本件をその様に好意的に 解釈するのは一寸無理だと思います。 井沢さんは次のように記述されています・・・ 「それにもう一つ注目してもらいたいことは、この『間人』という名だ。既 に述べたように、これは聖徳太子の母と同じ名である。昔は、近い親戚に同            ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ じ名前は絶対につけない。それなのにどうして同じ名か。それはこれが固有 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 名詞ではなく普通名詞だからではないだろうか。では共通項は何か、「不倫」 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ である。現在でも「間男」という言葉がある。女なら「間女」ないし「間人」 になるのではないかと思う。」               P137 この記述は如何見ても「昔は・・」つまり、古代のことを示していますね。 でも失礼ながら、三枝さんはお気持ちの優しい方ですね。私も少しは見習い ます。 >>しかしまた、それほどの面白い文章でなかったらば、今更(すでに学校で >>習って知っている)歴史に、多くの人の目を再び向けさせ、興味を持たせ、 >>改めて勉強しようと思わせるような状況を生み出すことができたでしょうか? >>私には、どちらの現象を重く考えるべきなのか、まだわからないのです。 ・・・このご意見については、会議室でも同様に次の意見がありました。 > この連載には、“逆説”としての面白さを主眼としているもので、学問的 >な妥当さを求めるのではないと言う認識で、お気楽な気持ちで読むのはどう >でしょうか? >要するに、そのまま真に受けたりするのではなく、関心を持ったらその問題 >に対して、様々な専門家の方々は、どのような論拠からどのように解釈して >いるのか、更にはそこで引用されている原典の注釈書にアクセスするとか、 >読者としては各問題に興味を持つ発端として対応すれば、建設的な結果を産 >むのではないかと思います。(^^/ ただ、結論としては・・・圧倒的に多くの人は、そこまで進みことなく単純 に信じきってしまう危険性があるので、批判には意味が有るだろう・・・と なりました。 大阪JF生さん・・・ 素晴らしい推理ありがとうございました。 少しややこしい表現をしてしまいましたが・・・私は現在のところ第一次定 年後、関係会社の役員として真面目に勤務しているサラリーマンです。 (先輩の今のうちから老後の趣味を持っておけ・・・と言うご忠告で古代史 の勉強を始めたものです。1942年シンガポール陥落の時に生まれました。) 会社の引け際にHPにアクセスして、みなさんのご意見を頭にいれ、電車の 中で回答を考えたりしていますが=公私混同??(^0^)"、今までPRINT OUT は遠慮していました。しかし、今日ばかりは禁を破ってPRINT OUTしてしま い、電車の中で楽しませていただきました。メルシ ボク <(_ _)>ペコ 安部さんは京大ですか?全く知りませんでした。 >>平凡社「寺院神社大事典」は既に買われていました。 この本は高価でしょう? 私は何方かが人名辞典でも持っているだろう・・ とか言っておられましたが・・・その類は一切持っていません。 転勤が多かったので・・・文庫本専門です。 ただ、会議室でいろいろ質問した時に「その程度はご自分でお勉強なさって は?」と言われ・・・成る程と思って、関係部分は図書館でコピーをとって きました。「扶桑略記」「一代要記」「愚管抄」「口遊」「皇胤紹運録」「 帝謚考」等の原典や「国史大辞典」「寺院神社大事典」「古代豪族系譜」「 古代氏族人名辞典」等の関係部分も一応そろっています。 学部はLを諦めJにしました。伯父貴にLでは食えんぞ・・・と脅かされた ためです。 そのせいか・・・あまり勉強はしませんでした(>_<;)・・後悔しています。 KANAKは名の「勝X」と姓の「中X」です。 以上・・・KANAK略歴でした。 安部さん・・・ 「愛と苦悩の古仏」吉村貞司著ー新潮選書 「鎮魂の寺」秋篠寺梵天、伎芸天・・・をお読みになられたでしょうか? 少し情緒的ですが、秋篠寺を考える上で参考になるとおもいます。 inaさん・・・ 生意気なことを申上げましたが・・・身に余るおことばで、恐縮いたして おります。 ところで・・・何故かこのHPには理系の方が多い様ですね。 輔住さん・・・ 井沢さんは「足利義満」怨霊説を唱えておられるのですか? もし、そうならば・・・室町まで出張して批判説を展開することも考えます が・・・(^0^)" マサカでしょう? 小松左京さんの「時空道中膝栗毛?」に「義満」太上天皇のパロディがあっ たとのを、思い出しました。 ノムさん・・・ 私が・・・生意気なことを言えたものではありませんが、イロイロな本を幅 広く読んでください。買っていると大変ですから図書館を利用されたら良い と思います。・・・KANAKのオッチャンより Time : 1999/ 2/15(月) 23:57:25
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments:  こんにちは  今ではこのHPも井沢さんのファン以上にKANAKさんのファンがいる訳で、大阪J F生さんの推理など、私をすぐに紀伊国屋に走らせるほどでしたが、(結局みつからず) 後で心配したのは身元が割れたKANAKさんがこのHPから去られることで、再び出現 され、とりあえずほっとしています。これからもよろしくお願いします。    ところで、11月以前の討論の見方をどなたか教えて頂けないでしょうか。 すごいコンピュータ音痴なので。 Time : 1999/ 2/16(火) 06:23:25
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments:  こんにちは  今ではこのHPも井沢さんのファン以上にKANAKさんのファンがいる訳で、大阪J F生さんの推理など、私をすぐに紀伊国屋に走らせるほどでしたが、(結局みつからず) 後で心配したのは身元が割れたKANAKさんがこのHPから去られることで、再び出現 され、とりあえずほっとしています。これからもよろしくお願いします。    ところで、11月以前の討論の見方をどなたか教えて頂けないでしょうか。 すごいコンピュータ音痴なので。 Time : 1999/ 2/16(火) 06:23:33
Name : ノム E-mail : Title : LとJとは? Comments: みなさん、おはようございます。大阪JF生さん、 やっぱり僕の文章はポイントがずれているのでしょ うか?ところでKANAKさんの文にある、学部の JとLとはどういうどういうことなんでしょう。 だれか教えてください。 Time : 1999/ 2/16(火) 08:14:37
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ Comments:  お返事遅れて申し訳ありません。 推理はみごとに外れたようです。 7,8につきましては、KANAK様御自身が ずっと以前におっしゃったことで、一応事実と いっていいと思います。 しかし、その後の強引な解釈・空想については ご指摘のとおりです。 間違いをそんなに恐れずに、ご意見を述べられたら よいと思います。 やはり、試行錯誤がみずからを高めるのに一番 いいように個人的には思っていますから。 これからも、よろしくお願いします。  ところで、(小生に触れた部分は抜くとして) 今回のKANAK様の記事は、いままでで、一番 すばらしいと watcher として思いますが、 どのようにお感じになられましたか? 非常に公平・公正な態度でご意見を述べられて いると、おこがましくも思います。  ところで、おそらく、    L=literature 文学(部)    J=jurisprudence 法学(部) だと思いますが、間違っていたらどなたかご指摘ください。 Time : 1999/ 2/16(火) 10:01:50
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  寛大なお返事いただきありがとうございます。 まさに大人としての対応をお見せいただき、こちらとしては 恐縮すること至極です。また、今回のご意見はそれを抜いても 非常にすばらしい態度を貫いておられ、感激いたしました。 以下、その余韻で記事を書かせていただきます。  まったくの空想に終わってしまったのは残念ですが、 本当であっても疑わないほどの感覚で、KANAK様を観ていた ということはおわかりいただけたのではないかと思います。  実は少し残念だったのですが、プロの方に井沢先生の説を KANAK様がなされているように検証・批判してほしかった ことも希望としてありました。  三枝様がご指摘され、奇しくも井沢先生が今週号の週刊ポストで 同様の趣旨のことを述べられていましたが、やはり日本史に対する 愛情から、専門でない方にも日本史を「考えて」ほしいというのが 逆説の日本史を著す強い動機なのでしょう。それで、井沢先生も 言い過ぎの部分はあるでしょうが、やはり「逆説」という「仮説」 をのべて、一石を投じられているわけで、真摯な対応がプロから 一つも帰ってこないというのはさみしいものです。 その意味で、井沢先生のプロ批判も小生にはある程度理解できます。  私事ですが、小生も高校時代に歴史は興味を持って授業に のぞんでいました。当時起こっていた青年には理解できない世間の さまざまな現象は、やはり日本人(や人間)の足跡をみるのが、 一番と思ったからです。 ところが、期待はまったく裏切られ、個人的に最後まで同調できなかった マルクス史観を中心にすえた史実の羅列で、上記の問題はまったく解決の 糸口すら与えられませんでした。以後、井沢先生の逆説の日本史に出会うまで、 まったくといっていいほど興味を失ってしまいました。  しかし、井沢先生の歴史観は小生にフィットするもので、一気にファンに なりました。当初盲目的に信じていたのも事実です。でもやはり「仮説」で ある事を忘れてはいけないでしょう。いってみれば、井沢先生はアクセルで、 KANAK様はブレーキと感じています。やはり双方絶対に必要です。  興奮した勢いでとりとめなく書いてしまいました。 誠に勝手なお願いですが、これからも今回のような調子で、ご批判・ご意見を いただきたく存じます。 Time : 1999/ 2/16(火) 10:35:28
Name : 輔住 E-mail : Title : 義満の野望 Comments: KANAKさん、みなさんこんにちは KANAKさん、返信ありがとうございます。 あなたのおかげで井沢説にも様々な欠点があることがわかりました。 感謝しています。 さて、足利義満についてですが、井沢先生は著書の「天皇になろうとした将軍」で 以下のように述べてます。 義満は後小松天皇を退位させ息子の義嗣を天皇にし、自らは太上天皇になろうとした。 その計画の実行直前に暗殺(毒殺)された。 そして、義満の怨霊化を防ぐため、死後太上天皇の位を贈ろうとした。 私は細部に関して納得できない部分もありますが、「義満が暗殺された」という部分は 賛成です。 くわししい内容については「天皇になろうとした将軍」を読んでみて下さい。 Time : 1999/ 2/16(火) 12:18:13
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(2)・・・秋篠王の出自 Comments: 奈良時代後期に、秋篠王という皇族がいる。そして、秋篠安人という文人政治家がいる。 今回は、秋篠王の出自について述べる。 秋篠寺がある地区は、なら時代から秋篠郷と呼ばれ、そこに居住する土師氏が、天応2 年(782)に秋篠氏を賜っている、秋篠安人のことである。 秋篠王が記録に初めて現れるのは天平勝宝元年(749)である。土師氏が秋篠氏を賜う まで「秋篠」を名に持つ人物は秋篠王しかいない、そのため秋篠寺と秋篠王には何か関係 があると考えられる。秋篠寺は、土師氏が秋篠氏を賜う以前に建立されている。 秋篠氏となった土師氏が秋篠郷に居住していた理由は、その西に佐紀楯列古墳群がある ためであろう。土師氏は帝室の祭祀を司る一族であり、その分布と天皇陵はよく一致する。 あるいは、秋篠氏は平城京ができる以前からこの地に居住していたのかもしれない、佐紀 楯列古墳群は、奈良時代以前の古墳だからだ。 さて、秋篠王は、天平勝宝6年(754)閏10.19に息子の継成王(つぐなりおう)、3人 の姪の濱名王(はまなおう)、船城王(ふなきおう)、愛智王(えちおう)とともに、丘基 真人の氏姓を賜っている。秋篠王は時に従五位下、真人を賜った事から皇族である。 その半年後、天平勝宝7年(754)4.18に丘基真人秋篠は自分を含めて同族21人とと もに豊国真人を改めて賜っている。後彼は死ぬまで豊国氏だったようで、この一族が改姓 した跡はない。このことから、秋篠王一族が本当に欲しかったのは豊国真人であったこと が分かる。豊国が美称であることも一つだろうが、私は彼らの出身地が豊の国であったか らだと考える。 大原真人は豊国真人と祖を同じくするといわれている。大原真人を賜った皇族は多くい るが、その中に高安王の系統がある。他の系統は年代からいって秋篠王とは無関係である ので説明を省く。高安王の父は7世紀末に太宰府で活躍した川内王である。 川内王を長皇子の息子とする記録もあるけれども、それは不可能である。むしろ、川内 王の方が先に生まれていると考えられる。何かの混乱があったのだろう。 川内王は任地で薨去し、豊前国の鏡山に葬られた(万葉集3.417〜419)。持統3年に追 贈があったので、その頃薨去したのだろう。また、慶雲2年(705)7月に正四位の豊国 女王卒すとある。 秋篠王は、750年頃に息子と姪が成人していることから、700年頃の生まれと考えられ る。しかし、天平勝宝元年(749)11.26に無位から従五位下を授けられていて、中央政界 への登場は遅れている。ここで考えられるのは、秋篠王一族の祖先が罪人であったために 天平勝宝元年の大赦でやっと許されたか、秋篠王一族が一旦地方に土着してから何らかの 理由で遅れて中央に進出したためだろう。 秋篠王が罪人の子孫だとすると、その罪人として可能性があるのは弓削皇子、紀皇女、 穂積皇子であるが、私が調べたところ土着説の方が可能性が高い。川内王の子孫が豊前の 国に土着してから平城京に帰ってきたのだろう。豊国女王は、秋篠王に連なる人物かもし れない。その理由としては、藤原広嗣の乱が考えられる。秋篠王は、藤原広嗣の乱で戦功 を挙げたため、上京したのかもしれない。 秋篠王は雅楽頭を勤め、宝亀元年(770)10.23に治部大輔に任命されている。治部省は 祭祀と外交を司る役所である。宝亀元年8〜11月は、称徳天皇の大葬、陵の造営、光仁天 皇の即位があって、治部省は大変に忙しかった時期である。この時期に秋篠王が治部大輔 に任命されていることは、彼が治部省の実務に通じ、また治部省を把握しいて、光仁天皇 からも信頼されていたことを物語っている。更に、治部省を本業とする土師氏と深い関係 があったことを思わせる。何故なら、治部省は土師氏だらけの省だからである。 秋篠王は、無位の時から秋篠を名乗っていたことから、秋篠郷に住んでいたと考えられ る、上京する前の名前は不明である。治部省の官僚であったことから、秋篠郷に住む土師 氏と関係あると考えられる。土師氏と姻戚だったかもしれない。 Time : 1999/ 2/16(火) 14:15:18
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか資料(2)・・・秋篠王と大伴家持のサロン系図 Comments: 田村皇女===押坂彦人大兄皇子 | ―――――――――――――――――――――― | | | 茅淳王 | 多良王(古事記に見える、大原真人、 | | 秋篠真人の祖) ――――――― | |(安部推測) | | | | 孝徳天皇 宝皇女===じょめい天皇 川内王===手持女王? | | | 有間皇子 ―――――――――――― ――――――― | | | | (安部推測) 天智天皇 | 高安王 豊国女王? | | | | ―――――――― | 高田女王 秋篠王 | | | 施貴皇子 大江皇女===天武天皇(漢王子?) ===蘇我赤兄女 | | | 白壁王 長皇子と弓削皇子(双子らしい) 紀皇女(文武天皇皇后?) | 田形皇女(斎宮) 山部親王 大伴坂上郎女===穂積皇子 (兄弟) | 大伴旅人 | | | 大伴家持 今城王 Time : 1999/ 2/16(火) 14:51:27
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正および、高向氏について、 Comments: 多良王は、秋篠真人ではなくて豊国真人の祖です。 押坂彦人大兄皇子の兄弟に百済王(百済親王)がいます。 この人物と多良王は同一人物と考えられています。 百済王は、大原真人と豊国真人の祖といわれています。 百済王と多良王のどちらが本当に豊国真人の祖なのかははっきりしていません。 宝皇女が用命天皇の子孫の高向王と結婚して漢王子を生んだというのは本当のようです。 高向氏は、新羅系の渡来人です。高向王との関係は不明です。 高向氏のある人物は、唐に留学した帰りに新羅に寄り道して、 その時に金春秋と会談して、見送りまで受けています。 漢王子=天武天皇はとりあえず置いておくとして、 7世紀の日本、朝鮮半島、唐を考える上で、高向氏にもっと注目して良いでしょう。 Time : 1999/ 2/16(火) 15:32:51
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : 「天皇になろうとした将軍」 Comments:  輔住さん、こんにちは。「天皇になろうとした将軍」を読まれましたか。 それではぜひ「GEN」を読んでみてください。臨場感あふれる描写が、 この時の取材旅行によるものだとはっきり分かります。  またこれは、「逆説の日本史」の尊氏編と義満編の原型ですね。 Time : 1999/ 2/16(火) 18:52:41
Name : ノム E-mail : Title : 学校で習った歴史で面白くない時代ベスト3 Comments: これは、僕と友達三人だけのアンケート結果です。 1位 平安時代(中期) 2位 奈良時代(全般) 3位 弥生時代(全般) 四人だけの感想なのでなんの資料にもならないです ちなみに4位は室町時代です。 Time : 1999/ 2/16(火) 19:38:25
Name : 小松 E-mail : Title : 「逆説の日本史」の現代批評について Comments: みなさん、こんにちは。 「逆説の日本史」もまだ補う点や、訂正する点が多々あるのですね。僕は古代史については ほとんど知識がありませんでしたので、ここでの議論で改めてそう思いました。 ところで、「逆説の日本史」は歴史書でもあると同時に現代批評の書であるとも思うのです。 で、その現代批評の個所に関しては、僕がこれまで疑問に思っていたことに関して、最も納得 する分析をされてました。それらの個所については皆さんどう読まれているのでしょうか? それは、  ・言霊、穢れ等の思想は現在も脈々と我々日本人の中に息づいており、現代社会の   様々な問題に影響を与えている。(憲法改正問題、自衛隊の有事立法等)日本人は   無意識にそれらの影響下で思考する癖があり、それがしばしば国際社会の常識と   かけ離れている。国際社会での今後の日本人を考えるなら、日本人のこうした   思考癖が世界の中で特異なものであることを自覚し、改めなければならない。 と、要約すればこんな感じでしょうか。細部の記述やニュアンスで多少違うとこも あるとは思いますが、僕の文章力ですので勘弁してください。   以下は僕の感想です。 僕は小学校の頃、憲法の勉強で学校の先生が、日本が平和なのは憲法で戦争放棄 をしているから、と言うような事を言われて何故戦争をしている国は戦争放棄 を憲法で決めないのか不思議でなりませんでした。長ずるに及び、国家が軍隊を 持つのは当然の義務であり、日本のように憲法で軍備放棄を謳いながら「自衛隊」 を所持するのはおかしいのであって、当然憲法を改正すべきだと考えるようになりました。 しかし、小学校の先生の発言は、ちゃんとした大人である(男性、当時で40歳程度) 先生が、本気でそんなことを言っていたということがますます謎でした。 井沢先生のによれば、その先生はおかしくも何ともなく、いわゆる普通の日本人だったわけですね。 現在も憲法問題は重要な政治課題ですし、日米ガイドライン等はまさにタイムリーな話題でしょう。 これらの問題が言霊や穢れや和の思想のみによって決まっていくわけではもちろんないでしょう。 政治的圧力や駆け引きが主たる原因となっていくのだと思います。しかし、言霊等の思想の影響が 依然として残っており、我々が政治等の問題を考える時、知らずのうちにその影響を受けている と思います。しかも、その発想は国際常識とはかけ離れている。日本人のそうした思考癖のルーツ を探り、現代日本人の分析をして、直すべき所を指摘しているのが「逆説の日本史」だと思います。 そんなつもりで読んでます。 みなさん、ここでされている議論は歴史に関することであり、こうした質問はこの掲示板の趣旨とは 違うかもしれませんが、井沢先生の本を読んで皆さんどう考えておられるのか是非伺いたく 書き込みしてしまいました。 なお、ずっと以前にこうしたことが既に論じられていたなら、ご容赦ください。 (依然inaさんも書いてましたが、ずっと前の議論は僕も見れませんので・・) Time : 1999/ 2/16(火) 20:27:54
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(54)「義満と称徳」? Comments: 輔住さん、今日は・・・KANAKです。 いろいろと失礼なことを申上げましたが・・・頑張られますね。(^0^)" 今日は遅く帰りましたので簡潔に・・・ >>義満は後小松天皇を退位させ息子の義嗣を天皇にし、自らは太上天皇に >>なろうとした。その計画の実行直前に暗殺(毒殺)された。そして、義 >>満の怨霊化を防ぐため、死後太上天皇の位を贈ろうとした。 まさかとは思いましたが・・・井沢さんは「義満」怨霊説ですか? これ自体については、更めて批判しても良いのですが・・・(^^;) それならば・・・話は簡単です。 >>たしかに「道鏡天皇」を阻止したことにことに心の痛みはないでしょう。 >>でも、私はそれと怨霊を恐れる気持ちは別だと思います。 >>時代は下りますが足利義満が急死し、「足利天皇計画」は挫折しました。 >>(天皇家や公家は安心したに違いない) >>そんな「天皇家乗っ取り」を図った大悪人に(私自身は義満が好きだが) >>太上天皇の尊号を送ろうとしました。(明らかに怨霊対策でしょう) それから考えると「称徳 = 怨霊」も可能性があると思います。 ・・・において「義満」と「称徳」の類似性を論じるのは無理でしょう?。 大悪人であっても・・・ 「義満」を暗殺した加害者は心の痛みを感じた。従って、崇りを恐れ・・・ 怨霊鎮魂をはかった。 「称徳」を暗殺した加害者は・・・いません。崇りを恐れることもなく・・ 怨霊鎮魂の必要もありません。 ・・・・ではないでしょうか? Time : 1999/ 2/17(水) 00:15:12
Name : ノム E-mail : Title : うーおっちゃー Comments: 大阪JF生さん、僕もそう思います。最近の皆さんの投稿は 僕にもなんとか理解できるものが増えてきて、毎日読むのが 楽しみです。もしかしてぼくのレベルに合わしていただいて いるのでしょうか?もしそうだとすると皆さんの議論の足を ひっぱっているのではないかと心配です。 15日のKANAKさんの投稿は、人生の先輩としてのやさ しさえがいやみなく(断じて今までがいやみだったという事 ではありません念のため)にじみでていて心の中を覗けたよ うな気がしました。ぼくの予想とは異なり大阪JF生さんの 推理が気に入られたのではないでしょうか? ところでお名前の「JF」とは何かの略ですか?と調子に乗 って質問していいですか?・・ってしっかり質問しとるやん けーノムとつっこみながら答えていただけたら幸いです。 KANAKさんに薦めていただいた本借りてきました。 読み終わったら感想を書き込みたいと思います。 その前に「逆説の日本史2」をよまなくちゃ・・・・ でも通説を先に読んだほうがいいのかなぁ・・・・・ 「逆もまた真なり」の心境の今日この頃でした。 Time : 1999/ 2/17(水) 01:09:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様 Comments:  御意見ありがとうございます。 何も心配ありません。「ともに凡夫のみ」です。  実は過去に、KANAK様の名前の由来と同時に同じ質問を 「薩摩人」様から受け、本名からきていると答えました。 過去ログの見方は、管理人様でなければ分かりません。 このページは非常に多くの意見が次々に出るため、 おそらく、フォローしきれないという理由で 管理人様はこちらにはほとんど顔を見せなくなりました。 ほかの「ふぉーらむ」「止まり木」には今も発言しておられますので、 そちら側からコンタクトをとり、教えていただいたらどうでしょうか。  ところで、小生の文章から伺えると思いますが、 小松様の御意見同様、現代あるいは未来を解く指標として、 井沢先生の逆説の日本史あるいは、言霊・穢れ論は 非常に重要だと思っていますし、個人的には 歴史学も本来そうあるべきだという意見です。 ノム様にもぜひ、その視点からも井沢理論を 味わっていただきたいとおもいます。 Time : 1999/ 2/17(水) 09:42:22
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(3)・・・秋篠安人と秋篠寺 Comments: 秋篠王の考察はしばらく置いて、秋篠安人と秋篠寺の関係を述べる。 土師宿禰安人は、天応2年(782)5.21に奏上して秋篠宿禰の氏姓を賜っている。時に 少内記正八位の上。延暦9年(790)12月には朝臣を賜る。勅命を受けて、「続日本紀」 を撰定、大同元年(806)6月には桓武天皇のしのびごとを奉り、春宮(嵯峨天皇)大夫に も任命されている。嵯峨天皇の息子に源清、号秋篠禅師がいて、母は秋篠高子とあり、秋 篠安人の娘と考えられる。秋篠安人は参議も勤め、伊予親王の事件で平城天皇に疎んぜら れるが、嵯峨天皇即位と共に参議に返り咲きして、弘仁6年(815)には従三位に叙階さ れている。異例の出世であり、桓武天皇と嵯峨天皇に厚く信頼されていたことが分かる。 秋篠安人は、大同元年(806)6月に桓武天皇の周忌御斎会司に任命されて、桓武天皇の 周忌(一七日〜七七日)を取り仕切っている。桓武天皇に一番信用された土師氏の面目躍 如の観がある。7回行われた桓武天皇の周忌の内、6回は山城の国で行われているが、五 七日だけは、大和の国の秋篠寺と大安寺で行われている。 大安寺ではかつて光仁天皇と高野新笠の周忌祭が行われている。秋篠寺は光仁天皇の勅 願寺であり、一説によると光仁・桓武両帝の勅願寺(この場合光仁上皇か)とされていて、 桓武天皇との関係も深い。 更に、秋篠安人の意向もあるであろう。秋篠寺は、秋篠安人の勢力圏にあり、また建設 に際して援助もしていたと考えられる。 秋篠安人が、秋篠氏を賜ったのは秋篠寺に100戸施入があった2年後であり、「続日本紀」 の秋篠氏を賜った記事に、「秋篠安人は任地が遠国にあったため、改姓の奏上ができなか った」とあり、この2年間は平城京にはいなかったらしい。秋篠安人は、秋篠寺建立に功が あったために光仁天皇と桓武天皇に取りたてられたと考えられる。褒美の改姓が遅れたのは、 遠国で任に就いていたためであろう。 Time : 1999/ 2/17(水) 12:40:21
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさん、藤田さんへ Comments: KANAKさん、藤田さん、みなさんこんにちは。 >大悪人であっても・・・ >「義満」を暗殺した加害者は心の痛みを感じた。従って、崇りを恐れ・・・ >怨霊鎮魂をはかった。 >「称徳」を暗殺した加害者は・・・いません。崇りを恐れることもなく・・ >怨霊鎮魂の必要もありません。 説得力ありますね。確かに「称徳」は殺されたわけではありませんよね。 「称徳 = 怨霊」については無理があるのかもしれません。「称徳 = 怨霊」は撤回します。 (秋篠寺論争によってはまた意見が変わるかも知れませんが) 私の意見や質問に丁寧に答えてくれてお礼を申し上げます。 今後もよろしくお願いします。 藤田さん、「GEN」も読みました。当初、「源氏物語」の時代を中心にとした話だと 思っていたのでびっくりしました。そしたら「義満」や「後南朝」の話が出てくる。 井沢先生の取材の賜物ですね。 Time : 1999/ 2/17(水) 12:41:03
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  現在秋篠問題で、安部様が精力的に議論を展開されていますが、 まだ途中のようなので、一段落つくまで意見は差し控えています。 KANAK様と安部様の御意見を比較検討して、自分なりの 納得の行く線を得たいとおもっています。  そこで、質問の前置きなのですが、(37)でおっしゃったように、 称徳の怨霊化の理由として、皇位継承の失敗という理由は 井沢先生らしくないとおもいますし、KANAK様のご批判は 妥当と存じます。しかし、小生はもっとトンデモな事を疑っていて、 その方が井沢理論らしいとおもうのですが、暗殺の可能性です。 「ポルノ紛いの真偽不明の死因」だが、「加害者がいないので暗殺ではありえない」 とお考えのようですが、後者の理由がよくわかりませんので、 質問させていただきたく存じます。(輔住様は納得されたようですが・・)  もし、暗殺されたのなら、怨霊化して、光仁が加害者側として 恐れるのは当然ということになります。緊縮財政であろうがなかろうが そのための装置を作るでしょう。続日本紀の浮いた記述(宝亀11.6.5)の 説明も付きます。全くトンデモと思わずに、ご教示お願い申し上げます。 Time : 1999/ 2/17(水) 13:38:04
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか資料(3)・・・秋篠安人の年表 Comments: 秋篠朝臣安人(743〜821) 文人政治家 土師宿禰宇庭 | 秋篠朝臣安人 |(安部推測) 秋篠高子===嵯峨天皇 | 源清(号秋篠禅師) 土師氏は、8世紀末に、菅原氏、大枝氏(大江氏)、秋篠氏に分かれた。祭祀と学問の氏 族であり、菅原道真、大江まさふさ、大江広元が出ている。高野新笠は土師氏であるので、 土師氏は桓武天皇の外戚に当たる。 天応2(782)5月、奏上して土師宿禰から秋篠宿禰と改める、 延暦8(789)9、大納言藤原朝臣継縄に従って。征東将軍紀朝臣古佐美の敗戦を責める、 当時右兵衛佐 延暦9(790)12、朝臣の姓を賜う、従五位下から従五位上に叙階される、その後の官位 の遍歴、大判事、少納言、侍従、丹波の介、左少弁 延暦13(794)8、勅命を受けて「続日本紀」撰定に預かる 延暦15(796)頃、雑宮物を調べる 延暦16(797)2、「続日本紀」撰定に預かった功により正五位上に叙階 4月、左京職に任命、その後、中衛少将。近衛少将、阿波の守 延暦23(804)従四位下に叙階 延暦24(805)正月、参議兼右大弁 大同元年(606)6、桓武天皇崩御、中納言藤原朝臣内麻呂に率いられてごけんを奉る、し のびごとを奉る、従四位上に叙階、春宮(嵯峨天皇)大夫に任命、周忌御斎会司、その後 北陸道観察使、参議兼佐大弁、兼右衛士督、兼越後の守、兼備中の守 大同2(807)11、伊予親王のことに座して造西寺長官に左遷 大同4(809)、許される、当時右大弁、後に左大弁となる 弘仁元年(810)、参議に再任、その後、参議兼備前の守、兼左兵衛督、兼近江の守 弘仁3(812)左京の人秋篠朝臣上子、清子、右京の人秋篠朝臣室成、宅成は御井朝臣と改 姓される(秋篠氏を安人の子孫に限定したと考えられる、これもまた栄誉である) 弘仁6(615)正月、従三位、この前後「弘仁格式」撰定に預かる 弘仁11(820)12、老齢のため辞職 弘仁12(821)正月、薨去(70歳) Time : 1999/ 2/17(水) 14:29:31
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 特にないです Comments: 大阪JF生さん、お気遣いありがとうございます 質問、批評大歓迎です、揶揄は黙殺します。 けれども、解答はこのシリーズが終わってからにさせていただきます。 また、帰省などで一時中断することもありえます。ご了承ください。 ノムさん、私も井沢先生の歴史を現代の鍵とする考えは好きですし、 非常に価値あることだと思います。 このシリーズが一段落したら、私もその話に混ぜてください。 「穢れと茶碗」「言霊」は、井沢先生のそういう姿勢をテーマにした本です。 一読をお勧めいたします。 このHPの、「NEWS」にある、「日本史再点検」の2巻もそういう姿勢が強く出ています。 とても面白いです。 ちなみに私は熱烈なヤクルトファンです。野村監督は神様みたいなもんです。 野村監督は、野球界では家康扱いされていますが偉大な人物です。 野茂、吉井、伊良部の大リーグ入りに野村監督は一枚かんでいます。 団野村は、野村監督の息子さんです。 また野村監督は南海時代に、日本初の大リーガーの村上さん(間違っていたら失礼) の球を受けていました。 村上さんは、日米の契約条件の違いに苦しめられた人で、 野村監督はその改善を願っていると思われ、団野村はその以降で活動しているのでしょう。 Time : 1999/ 2/17(水) 14:47:57
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 小松さん、ノムさんごめんなさい Comments: 小松さんとノムさんを混同してしまいました。 名前を間違えることほど失礼なことはありません、どうか許してください。 この掲示板の間違い王は私だと思われます、誠にすみません。 現代評論は小松さん宛 野村監督はノムさん宛です 私、人の名前を間違えることが多くて友達にも顰蹙を買うことしばしばなのです。 Time : 1999/ 2/17(水) 14:55:09
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 資料(3)の補足 Comments: 秋篠安人の官位は天応2(782)5月の時点で正八位上です 当時の官職は小内記、後に大内記になります スタート地点はもっと低いかもしれません。 そこから最後には従三位参議になります。 Time : 1999/ 2/17(水) 15:07:09
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(55)「暗殺史観?と天智暗殺」 Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、今日は・・・KANAKです。 >>「ポルノ紛いの真偽不明の死因」だが、「加害者がいないので暗殺ではあり >>えない」とお考えのようですが、後者の理由がよくわかりませんので、質 >>問させていただきたく存じます。(輔住様は納得されたようですが・・) >>もし、暗殺されたのなら、怨霊化して、光仁が加害者側として恐れるのは >>当然ということになります。 先ず、「加害者がいないので暗殺ではありえない」とは申し上げておりませ ん。「『称徳』を暗殺した加害者は・・・いません。」と言うことです。 この最大の理由は・・・「称徳」怨霊説を唱えられている、井沢さん自身 が明確に「称徳」暗殺説を主張されていないからです。 もしも、井沢さんが「称徳」暗殺説を主張されるならば・・・井沢さんの 「称徳」怨霊説は確かに一貫性を保ち得るでしょうね。 私としては、更めて「称徳」暗殺説を批判することになるわけです。 しかし、それを主張せずに・・・「道鏡皇位継承」「天智系移行」「子孫 断絶」等を「称徳」怨霊説の根拠とされているので・・・それは井沢さん 自身の怨霊定義から見て整合性がない・・成立し得ない・・・と申し上げ ているのです。・・・輔住さんも、そうでしょう? 更に「称徳」は道鏡一派の懸命の「守護」のもとにあったのだから・・・ 「ポルノ紛いの真偽不明の死因」は妥当性を欠く・・・とも申し上げまし た。(所謂る状況判断です・・・これは毒殺の可能性をも減殺します。) さて、そこで・・・大阪JF生さんが、本来の井沢説を離脱し、「称徳暗 殺説」を主張される場合・・・勿論離脱されるのは一向に差し支え有りま せんが・・・その根拠は一体何でしょう? その方が井沢理論らしい・・・これが私の最も唾棄すべきものと考える意 見であることは、ご承知のとおりです。 「徳諡号」を持つから・・・と言う「仁徳論」のような非理性的意見もご 勘弁下さい。(^_^) 私としては、遺憾ながら・・・貴方は「歴史の真実を知りたいのですか?」 それとも「井沢説に沿って歴史を作りたいのですか?」と申し上げざるを 得なくなってしまいます。(^^;) さて、世に「暗殺史観?」とでも言うべき主張をされる方がおられますが、 確かに歴史上の人物の「死因」を見極めるのは非常に困難です。 天智しかり、・・・清盛しかり、頼朝しかりETC.・・・歴史の進行に大き な影響を持った人物の死は、当然に歴史の転換点をもたらすことがあり得 ますし、その死が人為的にもたらされた・・・と考えたくもなるのです。 しかも、これを完全に否定することは不可能です。(>_<;) 暗殺と見なす明かな資料がない・・・と言えば、いや暗殺者が明確な資料 を残す筈がない・・・と言われるでしょう?特に毒殺の場合はそうなりま すね。 (我々は「死体検案書」を見ることが出来ません。最近の例でも・・・ キム・イルソンについて、数々の憶測が流れたのはご承知のとおりです。) 要するに「暗殺説」は殆どの場合・・・(惨殺死体の記録でもない限り) 検証不可能な仮説なのです。 従って、余程の傍証が見られない限り・・・仮にこれを想像することが許 されたとしても、それを根拠として新たな仮説を論じることは歴史考察の 禁じ手だと思うのです。 私には、「称徳」が暗殺された・・・とするべき傍証は見いだせないので すが・・・?(井沢さんも、おそらくは同じでしょうね?) 天智についても全く同様に考えております。(倭姫皇后・持統天皇・天智 直系皇子・天智系天皇等の態度=逆傍証・・・による判断です。) それでは「皇円」の次の記述は何を意味するか? この「一云・・・」と言う表現は他の部分には見られず、原文に有ったか どうかを疑う説もあるようですが・・・一応原文として考えれば・・・ 十月 天皇臥病。召於東宮大海人皇子(天武)引入大殿。詔曰。朕病弥甚。    後事付汝。宜嗣帝位。皇太子大海人皇子固辞。奏曰。・・・・    (以下に日本書紀類似の記事が述べられています。) 十二月三日 天皇崩。同月五日大友皇太子即為帝位(生年二十五) 「一云、天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不知崩所。   (只以履沓落処、為其山稜。以往諸皇不知因果、恒事殺害。)」 1.既に申し上げた・・・   天智の古人大兄・有馬皇子(蘇我本宗家・蘇我石川麻呂も??)謀殺   ・・・が、その後延々と続く皇族殺戮の淵源となった・・・と考えて   の仏教者としての「因果応報」思想からの批判。 2.更に、これは単なる想像(立証不可能な仮説)ですが・・・  @大友皇子側は壬申の乱の戦況を有利に運ぶため(或いは当初から?)   天武による天智暗殺と言う虚偽の風評を流布し・・・大義名分を強化   しようとした?  Aしかし「持統」その他天智皇子達の毅然とした態度により、逆効果と なってしまった?  Bつまりは、大友皇子の人間性に対する不信感を招き、豪族・武将の寝   返りの原因となってしまった?・・・バタバタ寝返るのですよね。  Cこの風評は一種の伝承として・・・天智建立の「祟福寺」僧侶(とは 限りませんが)等によって後世に伝えられた? (私は、本当に「天武」が「天智」を暗殺したならば、・・・その様に当時 の皇族・貴族が信じたならば・・・倭姫は大后の権威を発揮して、大友皇子 を支援し、「天武」は壬申の乱に敗れただろう・・・とも考えています。) また、天智陵完成の異常な遅延は・・・「倭姫」さんの死を待って合葬され たことも原因になっているのでは無いかと「想像」しています。 父を謀殺した夫・・・を愛し続けた「倭姫」さんには・・・天武・持統さん 同様に死後も一緒に眠らせてあげたい・・・ナ〜ンチャッテ!(^^;) アア ・タマニハ・コーユウコトモ・イッペン・ユーテミタカッタ!  ・・ンデスガ アキマセンカ? (^0^)" Time : 1999/ 2/17(水) 22:11:18
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  お返事ありがとうございます。 質問を発してから、ひょっとしてと思い、 逆説の日本史を読み直したのですが、 まったくファンとしては恥ずかしいことに、 暗殺説を井沢先生はちゃんと主張されていたのでした。 (第3巻「道鏡と称徳天皇編」) 確かに2巻のご指摘部分の記述はおかしいと思いますし、 井沢先生らしくないのです。 暗殺説に躊躇されていたのでしょうか。3巻でじっくりと 論じておられるのですが、たしかに「傍証」であることは否めません。 しかし、説得力は十分にあります。おそらく、軽軽に論じきれないので、 「徳」を論じる部分ではあきらめたのでしょう。 暗殺説自体は2章でもほのめかしておられます。  以上のことより、井沢先生および小生に少なからず、 非はあることは認めますが、なにも変節していなかったのですし、 実際、暗殺説は本当に井沢先生らしかったのです。 (別に井沢説から逸脱するのに躊躇もしていませんが。)  小生の質問について、KANAK様は残念ながら何もお応えになっていません。 つまり、暗殺については、否定しきることも肯定しきることも できないと解釈してよろしいのでしょうか? (すこし、感情的な反応をされたので、残念です。) こんな場合に、素人の気楽さでしょうか、暗殺の仮説を立てることは、 まったく「禁じ手」とは考えません。 さまざまな仮説を立て、どの説明が納得できるのか、既知のデータと 合致するのか、といった視点で、考察を進めるのが自然科学の方法です。 ビッグバンやスーパーストリングなど、誰が見たのでしょうか? 暗殺よりももっとあやふやなものについても、仮説を立てて切り込むのです。 そういった意味で、歴史家として「暗殺」にはふみこまないとおっしゃるのなら、 それも一つの立場でしょう。でも、小生はやはり有力仮説として、 踏み込みたいと思います。 (有力さの根拠は、やはり井沢先生の説をお読みいただくしかありません。 この件では、先生以上にコンパクトに説をまとめる力がありません。) Time : 1999/ 2/18(木) 09:47:33
Name : 輔住 E-mail : Title : 称徳と祈祷禁止 Comments: みなさん、こんにちは 確か、井沢先生の「称徳暗殺説」は 称徳の健康回復の祈祷をやめさせたことでしたよね? 確かに「祈祷」は当時、一種の科学的な治療方法の ひとつです。しかし、第3巻を読んだ限り、医者の治療などを 断ったわけではなさそうなので「暗殺手段」としては 中途半端だと思います。 (奈良時代は平安時代ほど「言霊」も強くないと思いますし) 反称徳の意思表示としては説得力があるのですが。 Time : 1999/ 2/18(木) 12:23:16
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ちょっと一言 Comments: 今回のKANAKさんの発言に関しては、 私は大阪JF生さんと少し意見が違います。 少々表現上の問題があるとしても、今回はKANAKさんは、 「自分独自で作り上げた意見」を発表されています。 個性と創造性を発揮する人物を私は尊重したいです。 この場合、井沢先生を非難するとしても、すべての責任を自分で背負うことになるわけですから、 そういう非難なら、私は尊重したいです。 Time : 1999/ 2/18(木) 12:52:30
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 補足&質問 Comments:  言葉足らずでしたので、補足いたします。 小生は全面的に井沢説を指示しているわけではありません。 けれども、井沢先生のアプローチはほぼ指示していますし、 日本史を考えるのには、小生はそれ以上に有効な手段を今のところ 知りません。  そういう意味で、問題の2巻の部分では、 井沢先生も御自身のアプローチに反していたという苦言を 述べたのですが、全く誤解されてしまったようです。 KANAK様は小生相手というよりも、今回は特に井沢先生に 矛先が向いているようなので、紹介に重点をおいてしまいました。 しかし暗殺の仕方までは支持していません。当然もっと直接的な 手段だと想像しています。 (輔住様に誤解を与えてすみません。井沢説を忘れていて、 暗殺を疑いはじめたので、違っていて当然とご了解ください。) でも残念ですが、KANAK様の言うとおり証明はできません。 それで「井沢説に逃げたな」といわれれば、その点は甘んじて 非難を受けます。 ただ、暗殺可能性が非常に高いという事を、井沢先生は 周囲の状況から詰めておられ、その点は十分納得できると 言うべきでした。  でも安部様、小生は今回の貴方の御意見のように、 KANAK様に対し発言した覚えはないのですが・・。 また小生も独自の意見を述べているつもりですが、 そう見えないのでしょうか? 自然科学の方法も異論があって当然で、 あくまでも個人的な意見にすぎません。 よく分かりませんので、補足説明をお願いいたします。 Time : 1999/ 2/18(木) 13:47:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(4)・・・秋篠王と秋篠寺 Comments: 再び秋篠王に戻る。 秋篠寺は平城京の西に広がる丘陵のふもとにある。仮にこのあたりを秋篠の丘と名づけ る。秋篠王が最初に賜った丘基真人は、彼が秋篠の丘のふもとに住んでいたからではない だろうか。秋篠王は一般名称的なこの氏が気に入らず、改めて縁の深い豊国真人を賜った のだろう。 秋篠寺が発願されたのが宝亀7年(776)だとすると、秋篠王は70代に入っている。お そらく秋篠王はこの頃卒して、秋篠郷にあったと思われる自分の土地に菩提寺を建てるよ う望んだのだろう。それを秋篠安人が、勅願寺の建設地を探していた光仁天皇に提供した のではないか。あるいは秋篠王は死に臨んで、光仁天皇に自分の土地を提供したのかもし れない。 Time : 1999/ 2/18(木) 14:46:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか資料(4)・・・宝亀元年 Comments: 「続日本紀」の宝亀元年(770)(12月1日までは神護景雲4年) 1.22太宰府で大風 2.23東大寺の心礎が称徳帝にたたる 2.27由義宮行幸 4.6由義宮より還御 4.8弓削氏の男女に賜物 4.9対馬の国で飢饉 4.11弓削氏の縁者に、弓削氏を賜う 5.11左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備奏上、最近、瑞祥の献上が異常なほどに相 次ぐのでその扱い方を決定 6.1朕は能力に耐え難い重責を受けて、失敗を重ねてきた、罪に泣き、冷や汗をかくばか りである、よって大赦を行う 6.8志摩の国で大風 6.10帝、由義宮還御より1ヶ月間体調不良なり、よって宮城の軍事権を左右大臣に委譲す る 6.14美濃の国で長雨 6.16大伴宿禰家持を民部少輔とする 6.23疫神を京師の4隅、畿内の10の境に祭る 6.24京師で飢饉 7.9土佐の国で飢饉 7.15勅令、朕は徳に照らし合わせて恥じることばかりしてきた、疫病怪異が巻き起こって いる、もう仏にすがるしかない、全国の寺院で「大般若経」を転読せよ 7.18常陸の国、筑前の国で祥瑞、但馬の国で飢饉 この頃、多治比真人の一族の叙階が目立つ 7.28出羽の国で水害 8.1日蝕、藤原朝臣継縄、大中臣朝臣宿奈麻呂を伊勢の奉幣使とする、若狭彦神、八幡神 宮にも奉幣あり 8.2越前の国の気比神、能登の国の気多神、住吉の神に奉幣 8.4称徳帝西宮にて崩御、53歳、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議兵部卿藤原宿奈 麻呂、参議民部卿藤原縄麻呂、参議近衛大将藤原蔵下麻呂、禁中で協議、白壁王を皇太子 とする、三関を守備、称徳帝葬儀の部署を決定 8.6近江の国の騎兵200騎を動員して朝廷を守衛 8.8一七日を東西大寺(東大寺と西大寺)で行う 8.9御陵の土地提供者に叙階 8.16二七日、薬師寺にて行う 8.17帝を大和の国添下郡佐紀貴郷高野陵に葬る、藤原朝臣魚名を御前の次第司長官、藤原 朝臣継縄を御後の次第司長官となす、皇太子は宮で留守番、道鏡法師陵の前に庵する、由 義宮還御より100日間帝は人事不肖であった、ただ吉備朝臣由利(真備の妹または娘)の み寝所に入ることが出来た、帝は仏教を尊んだが、この時代は無実の罪で罰せられる人が 多かったと後世の人々は言った 8.21道鏡法師の皇位簒奪計画発覚、下野の国に左遷 8.22道鏡の弟弓削浄人とその息子を土佐の国に流す 8.23三七日、元興寺にて行う 8.28大学頭(山部親王)を従四位下に叙階 6.30四七日、大安寺にて行う 9.3余計な官職を廃止、氏族の呼称の整理、奢侈を禁止 9.6和気清麻呂、広虫を流罪地より呼び戻す、この日京師に帰還 9.7五七日、新薬師寺にて行う 9.14六七日、西大寺にて行う 8.16大伴家持を左中弁兼中務大輔となす、豊国真人秋篠を甲斐の守となす 8.22(21の誤まりか?)七七日、山階寺にて行う、諸国から僧尼を呼んで金光、法華両寺 にて読経、諸国大祓、喪を終了する、この年の6、7月に彗星が北斗に入った 「続日本紀」巻第31 光仁天皇の経歴を説明 10.1光仁天皇即位、宝亀と改元 10.11月8日に吉備真備は辞表を提出「天平勝宝7年(757)太宰府にて70を過ぎたので 一度辞表を提出しましたが留置かれ、そのまま今日まで老体に鞭打って勤めてきましたが、 もう体がいうことを聞きませんどうぞ隠居させてください」この日帝より返答「何故辞め るなどというのだ私は悲しくなってしまう、真備の功績を考えているうちに夜が明けてし まうほどである、兼任は解くので右大臣だけは続けるように、朝廷を投げ出したりしない ようにしてくれ」 10.23豊国真人秋篠を治部大輔兼甲斐の守となす 11.6施貴貴皇子を田原天皇とし、光仁天皇の兄弟姉妹を親王とし、井上内親王を皇后とな す、光仁帝の傍系王子王女に品が与えられる(山部親王は四品) 12.1藤原永手に山背の国相楽郡出水郷の山200丁を賜う 12.22仲麻呂の乱の時、兄の藤原豊成は贈太政大臣(藤原不比等)に与えられた封を朝廷 に返すことによって罪を逃れた。これを再び豊成に賜う 宝亀2年(771) 1.23他戸親王立太子 1.28藤原継縄に正四位上を叙階 2.16藤原永手急病 2.22藤原永手薨去、58歳 Time : 1999/ 2/18(木) 14:50:28
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: 大阪JFさん、失礼しました、私の読み間違いのようです。 私のKANAKさんへの意見としてお読みください。 資料(4)の吉備真備辞表提出の記事の日時に混乱がありました。 記事は10月8日であり、辞表を提出したのは9月8日です。 10月8日に、辞表に対する、光仁天皇の返答がありました。 Time : 1999/ 2/18(木) 14:56:10
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(5)・・・称徳天皇の敗北宣言 Comments: 神護景雲3年(769)9.8に称徳天皇が和気清麻呂、広虫に下した怒りの宣命も面白いが、 同年10.1に下された宣命も面白く、私は世界史に残る迷文ではないかと思う、以下大意を 記す。 元正、聖武両帝は、君臣共に正しい心を持ち、正当な後継者を守り立てて国を治めよと 述べて退位なされた(私はそれにいう正統にして唯一の後継者である)。皇位を狙う陰謀 は後を絶たなかったが、拙さゆえ失敗してきた。私こそ(称徳天皇のことか?主語不明) は皇位を得ようとしたが、諸聖(仏のこと)と天神地祇、代々の天皇の御霊が受け入れて くれなかった。この事(道鏡の神託事件と思われる)によって私(称徳天皇)も周りの人 間も罰を受けた。私は天地と君主、私に罰を与えた諸臣をうらんでいる。改心すれば(主 語不明、称徳天皇と諸臣両方か?)生きている間は栄え、死後も名を残すであろう。正し い者が国を継げば国は栄え、よこしまな者が国を継げば天変地異が襲う。 私の心は仏の世界に傾いている。 その後、特殊技能で五位以上になった者を除いた、つまり古くからの貴族達に紫色の綾 の帯が賜れた。帯には金泥で「恕(ゆるす、大目に見る)」の字がしたためられていた。 藤原氏には、成人でなくともその帯が賜られた。 これは、明らかに称徳天皇の敗北宣言であろう。相当錯乱してやけくそになっているの が分かる。 このすぐ後に、称徳天皇は傷心旅行に出かけてしまう。 Time : 1999/ 2/18(木) 14:59:02
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: 称徳天皇の五七日は新薬師寺ではなくて薬師寺でした。 神護景雲3年は10月1日までです、年表の方には改元の記事を書いてあります。 Time : 1999/ 2/18(木) 15:15:32
Name : 小松 E-mail : Title : 再読「逆説の日本史」 Comments: みなさん、こんにちは。 阿部さん、返事遅れちゃいましたけど、ぜんぜんOKっす。気にしないで下さい。 僕もずっとヤクルトファンです。で、野村監督ファンにもなりました。 今年から、ヤクルトと阪神のどちらを応援して良いか迷っています。 ところで、ここでの様々な論争を見て、今僕は改めて「逆説の日本史」を、特に論争のあった 個所を中心に読んでます。その感想ですが、やはりKANAKさんの指摘される事項は どれも井沢説はちょっと無理があるというか、すっきりしないものが多いですね。 しかし、井沢先生が指摘している、通説に対する疑問点もやはり残っているわけで、 そういった意味ではどちらもまだ不完全という気がします。 井沢先生もこのことは認めていていずれ改正版を出せたら、と考えたいるみたいですが、 それまで待てないので、僕なりの解釈を進めているところです。(答えを見る前に 自分で考えたほうが面白いですもんね。こっちのほうが本音かも)いずれ結論が出たら、 意見を述べたいと思いますので、その時は皆さん付き合ってくださいね。 それで、質問です。以下のことを誰か教えてください。  1 天武天皇即位に際して、草薙の剣が祟ったとに記述がありますが、    その真偽。  2 ”称徳天皇は中国かぶれ”の真偽と、称徳の鴎外の分析。 以上なんですが、以前に述べられているとしたら、すみません、二度手間ですが よろしくお願いします。 で、「逆説の日本史」を読み返している途中での僕の感想なんですが、やはり怨霊思想が 歴史を動かしたことは、全くではなくとも、あまりないでしょうね。 では、怨霊思想から歴史を見るという試みがまったく意味のない事かと言うと、 それも違うと思います。じゃ、どういう事かと言うと、怨霊思想とは歴史を動かす 主たる要因ではなく、むしろ、動いた結果(犠牲になった人)に対する事後処理 なのではないでしょうか?ですから、怨霊に対する鎮魂の仕方の差違を見れば、 或いは新たな怨霊を発見すれば、そこに何かが起こった可能性を疑う余地がある、と。 また、怨霊思想は万国共通の死者を恐れる原始宗教的感情だとのことですが(KANAKさん)、 僕もそう思います。ただ、日本の場合はそれが顕著だとも思うのです。 それは、日本には明確な宗教がないからではないでしょうか? 例えば、敵を殺した時、当然死者に対する恐れは抱きます。それは原始宗教的感情でしょう。 しかし、諸外国ではその恐れから逃れるための言わば”正義”が宗教上で用意されています。 キリスト教、イスラム教等で言えば”神の名のもと”、中国で言えば”天命により”といった とこでしょう。もし敵を殺して、それが間違っていても罰を下すのは”神”であり、 ”天”ですから、死者を恐れる必要はありません。こういった宗教の下では、死者に対する 鎮魂もおざなりで、画一的なものになってしまうので、鎮魂の方法から歴史を探ると言うのは かなり困難でしょう。(意味ないかも) しかし、日本には、特に古代では、そういう強力な宗教は成立していません。 ですから絶対的な正義もないのです。怨霊思想を考える時、この”正義”がないことが 怨霊思想をわかりにくくさせているのではないでしょうか? 例えば、日本でAと言う敵とBと言う敵を殺したとします。Aは無実の罪であり、Bは やむを得なかったとします。Aは無実の罪であり、殺した方にも贖罪の心がたっぷりありますから 当然篤く鎮魂します。ところが日本ではBも鎮魂してしまうのではないでしょうか? これが外国なら、Aは鎮魂してもBは鎮魂しません。(いや、Aも神に対して贖罪はしても Aに対しては鎮魂しないかもしれません) 日本ではこちらに非がない(やむを得ない)理由で殺されたBに対しても、やはり恐れを感じ 鎮魂するのではないでしょうか?(つまり、殺された、死んだ人は誰でも恐ろしい) なぜなら、殺した側の、自らの行為を正当化する”絶対正義”がないのですから。 ですから、井沢先生の言う”怨霊となる定義”も明確に当時の人が意識していたわけではなく、 経験で、Aが怨霊になり易いと感じていたか、罪の意識の軽重で怨霊になってしまうんじゃ ないか、と当時の人は心配したのではないでしょうか?(怨霊となった、何か凶事がおきた後、 鎮魂を篤くすることもありますが) 結論を言うと、僕は死んだ、殺された人は全て鎮魂したんだと思います。 でも、そこには必ず差違があります。(Aは篤く、Bは薄く) ですから、怨霊側から歴史を探るには、Aは鎮魂されるはずだが、 Bは鎮魂されない、と見るのではなく、AもBも鎮魂されるが、Aの方が より篤く鎮魂される、と見るべきではないでしょうか。 と、取り止めもなく書き込んでしまいましたが、改めて「逆説の日本史」を 読み返してみての感想はそんな感じです。 今自分なりに個々の記述に関して考えてますが、また変わるんでしょうね。 Time : 1999/ 2/18(木) 20:16:47
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(56)「称徳暗殺説の根拠?」 Comments: 大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 安部さん・・・評価頂き、ありがとうございます。 ただ、宣命体の読み方について一寸気になりますので、ご確認下さい。 さて・・・ >>まったくファンとしては恥ずかしいことに、暗殺説を井沢先生はちゃん >>と主張されていたのでした。(第3巻「道鏡と称徳天皇編」) あぁ、そうなんですか・・・それならば、この議論は根底から見直さなけ ればならないでしょうね。 今まで「称徳」問題については、主として「諡号」に関してではあっても ・・・随分多くの方と議論を重ねてきた積もりでしたが・・・一度もその 様な紹介が無かったので、明確に「称徳」暗殺説を主張しておられるとは 考えていませんでした。 ただし、「藤原百川」による治療妨害・・「不作為による殺人」説で暗殺 を仄めかしておられることは既に「逆説の日本史2」で承知しております。 この部分では「『不作為による殺人』が事実でなかったとしても・・」P141 「称徳」怨霊説が成立する・・・と主張されていますね。私の一連の怨霊 説批判は、このご意見に基づいたモノです。 そして更に、この説には状況判断として、無理が有ると言うことも既に何 度も申し上げております。(つまりは・・・折り込み済みです) ただ、「称徳」が病臥当時(由義宮〜平城還御)「道鏡」一派の看護の手 を離れ、「百川」が「帯剣」して「病床」側近(近辺?)に侍していた? ・・・と言う状況判断、その根拠を明確に示された上で、新たに「暗殺説」 を再構築されているならば・・・・或いは全く別の根拠を示しておられる ならば・・・話は別です。 私の当初の議論が・・・対論ツリー方式であったため、井沢さんの誤解を 生んだと同様に、井沢さんの主張も週刊誌短編の積み重ねでしょうから( ですね?)「逆説の日本史2」で述べられた範囲を超えた補足説明(或い は主張の発展)があれば・・・ご遠慮なく紹介願います。 私は、暗殺説については・・・基本的に「検証不能の仮説」になる可能性 が大きいので、あまり踏み込みたく無いと考えているのは事実です。 (最高)権力者が常に暗殺の危険に曝されているのは事実ですし、特に 「称徳」については・・・王族・貴族・反「道鏡」僧侶に至るまで、暗殺 の動機は充分すぎる程あります。しかし、逆に考えれば「称徳・道鏡」も それは百も承知して、防御策を講じていたと考えねばなりません。 史上、権力者が暗殺されても当然と思われる状況、また、その暗殺を目指 した人間は極めて多数にのぼるでしょう・・・(或いは現代でも??) しかし、高々一万石程度の大名でも、「毒味役」がいたとされるのです。 銃器も、プラスティック爆弾も、サリンも無い時代・・・都城の奥に潜む 専制君主(権力者)を暗殺する成功確率は、民主国家の庶民である我々の 想像より遙かに低いと考えざるを得ないのです。 しかし、井沢さんが・・・「逆説の日本史2」を補強する新たな状況証拠 (判断)を示しておられるのであれば問題は別です。 その成立の蓋然性を検証するのは・・・批判者としての義務です。 (その様に申し上げた筈です) 現段階では・・・第3巻「道鏡と称徳天皇編」を購入するつもりは有りま せんので、何方でも結構です。 以下について・・井沢さんの主張を簡潔に、ご紹介頂けないでしょうか? 1.「称徳」暗殺の首謀者・実行者(或いはグループでも結構です)。 2.「称徳」暗殺の場所・手段・方法等。 3.上記想定の具体的根拠、或いは状況判断 (あくまで、暗殺の動機ではなく、実行についてです) 4.その根拠となった史料(新たな史料が挙げられているならば・・・   その史料名と内容・・・内容については私の方で確認しますので詳細   は不要です。概ね「XX紀、XX編XX部分」程度で結構です。   なお、「古事談」「日本紀略」「水鏡」は不要です。) お手数ですが・・・よろしく、お願いします。 Time : 1999/ 2/18(木) 22:04:21
Name : 輔住 E-mail : Title : 称徳暗殺論と私の意見 Comments: みなさん、こんにちは きのう家に帰ってから改めて「第3巻の道鏡・称徳天皇編」を 読みました。 それによると称徳天皇が病に倒れてから外部からの接触が取れないようにし 看護禅師も呼んでいない。 (そこのところは前回の私の投稿が間違っていたみたいです。お詫びします) 真備の娘しか会えなかった。となっています。 そして井沢先生は「毒殺」と推理しています。 ただし、「義満」と異なり、実行者や黒幕は書いてありません。 私の意見としては「称徳暗殺」はNoです。 根拠としては称徳が病になってから死ぬまで4ヶ月ぐらいあること。 (病気になってから毒を使うまでの時間が長い) あと、称徳を怨霊として恐れているならば、称徳の評価を故意に歪めすぎていること。 (生きている間はヒステリックな女帝として恐れられていたが) 仲麻呂の野望を阻止したことや土地政策のことでもう少し評価してあげても良いと思う。 こうして書いていると随分自分の意見もかわってしまったなあ。 Time : 1999/ 2/19(金) 12:25:26
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(6)・・・称徳天皇御不予 Comments: 「続日本紀」にある宝亀元年の称徳天皇の行動を見るに、 4.6由義宮より還御 5.11左右大臣奏上、それに対して返答 6.1勅して曰く「云々」よって、大赦を行う 7.15勅して曰く「云々」よって「大般若経」を読ませる。 7.23太政官奏上、奏上の通りに実行(「続日本紀」によると「勅を奉ずること奏による」) 称徳天皇が、奏上に返答した記述はない 8.4崩御 称徳天皇不予の記述を見るに、 6.10「由義宮還御より不予ありて月を経たり」そのため、左右大臣に宮城の軍事権を委譲 6.23疫神を祭る、ただしその理由は記述されていない、当時疫病が流行していたためか、 称徳天皇の病気平癒のためかは不明 8.1日蝕、3社に奉幣、理由は記述されていない 8.2、3社に奉幣、理由は記述されていない 8.4崩御 8.17由義宮還御より100日間朝廷に出席しなかった(「親ら事を視ず」とある)、その間天 皇の寝所に入ることができたのは吉備由利のみであった 8.27この年の6,7月に彗星が北斗に入った 5.10と8.17の記事から、称徳天皇は5〜7月は朝廷に出席していないことになる。5.11 の記事から、病気になって出席できなくなったのは5月下旬であろう。 そうだとすると6.1と7.15の勅令は出せなくなる。これは矛盾である。 この矛盾を克服する鍵は7.23にある。奏上の通りに実行とあるので、天皇がいなくても 勅令を下すことは出来たことが分かる。 私は、称徳天皇の病気は本当だと思う。5月下旬に病気に罹り、病状は悪化する一方だ ったのだろう。 6.10から称徳天皇は外部と遮断される、8.17の記事からもそれは裏づけられる。 しかし、称徳天皇の病気平癒のための大赦、読経、奉幣は行われていない。 奈良時代で在位中に天皇が崩御されたのは、文武天皇と称徳天皇の御2人である。太上 天皇が病気に罹って崩御される様子は「続日本紀」にはオープンに記述されている。病気 平癒のために盛大に大赦、読経、奉幣が挙行されている。 文武天皇は1ヶ月前まで元気だったのに急死してしまったらしい。文武天皇の病気平癒 のために何かが行われた形跡は「続日本紀」にはない。これは、後継者の首皇子(聖武天 皇)がまだ幼少で天皇にはなれなかったので、文武天皇危篤が知れ渡って、政情が不安定 になることを恐れて、その病気と崩御が隠されたと考えられる。 称徳天皇の時もそれに似ていて、しかも称徳天皇には皇族の配偶者も皇太子もいなかっ たので、政情を不安定にさせる危険性は非常に高かった。 政権の上層部(=藤原氏)が、後継者を決定して朝廷を把握するまで、天皇の危篤と崩 御は秘する必要があったのだろう。 文武天皇が崩御される14日前に日蝕があり、称徳天皇が崩御される3日前にも日蝕が ある。現代でも、本当の死亡時刻と、公式な死亡時刻が異なることがある、江戸時代まで それは一般的だった、後継者をはっきりと決めないで当主が死ぬと、お家取り潰しになる かもしれなかったからである。この御2人が本当に崩御されたのは、日蝕があった日では ないだろうか。ただし、8世紀の日本で観測できた日蝕を調べていないので断言は出来な い。 8.1と8.2に立て続けに6社に奉幣がなされており、さすがに人々は「天皇危篤」と感 じただろう。しかし、この時既に称徳天皇はこの世にいなかったのではないか。天皇の病 気平癒のために全く方策が立てられていなければ非難を受けるので、八百長だったと思わ れる。この時既に藤原永手らは事後処理の計画を万全に決めていて、後はいつ称徳天皇の 崩御を発表するかという段階だったのだろう。 藤原永手ら8.4の協議の出席者達は、天皇と外部をシャットダウンして、その間に次の 天皇と新しい政権の顔ぶれを決定したのだろう。そして、いつ天皇が崩御されても大丈夫 にしたのだろう。 Time : 1999/ 2/19(金) 12:51:15
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(7)・・・易姓革命 Comments: 本来は違う人が天皇になる筈だったのに、吉備真備が藤原永手に出し抜かれて土壇場で 白壁王が即位したという話しがある。 私はこれは事実であると思う。 吉備真備は、「続日本紀」でも大変好意的に書かれていて、光仁天皇は本気で吉備真備 の辞職を引き止めようとしている。称徳天皇の御代に大勢取立てられた吉備の豪族が失脚 するのは、9世紀半ばであり、吉備の豪族は光仁天皇、桓武天皇の御代も引き続き重用さ れている。吉備真備が怨霊になる理由は見当たらない。 それなのに吉備真備は八所御霊に必ず入れられている。他の御陵の鎮魂を吉備真備に期 待したという説があるが、根拠がなく、提唱した本人も自信はないようだ。吉備真備が、 藤原氏と光仁天皇以降の天皇家に不満を持つとしたら、出し抜かれたことしかない。吉備 真備は、平安時代にはスーパーマンとして物語で活躍する。これも彼が怨霊であることを 示唆している。ただし、天神様のように、藤原氏や天皇家を殺すほどの恨みがあるとは、 当時の人も思っていなかっただろう。でも、放って置くのは心配だという程度だったと思 われる。 光仁天皇即位は、当時の人にとって異常事態ではなかった。 道鏡事件から光仁天皇即位までの「続日本紀」の記事は、撰定者の作為が入っている可 能性が高い。理由は日を改めて後述する。しかし、それを差っ引いても、光仁天皇即位が 異常な事だと受け取られた跡はない。 神護景雲2年(768)10.24に綿の賜物があった。これは当時の朝廷内での序列を表して いると考えられる。 左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備…2万斤 大納言白壁王、弓削の御浄の朝臣清人(浄人)…1万斤 従三位文室真人浄三…6千斤 中務卿従三位文室真人大市、式部卿従三位石上朝臣宅嗣…4千斤 正三位下伊福部女王…1千斤 日を置いて10.30、井上内親王…1万斤 白壁王は、真人も含めた皇族の中では序列1位である。この序列は血統の上では実は井 上内親王の序列であろうけれども、白壁王は皇族最年長で、人格温厚で人望もあったらし い。 白壁王−他戸親王の順に皇位が移動すれば、天武天皇−(草壁皇子)−文武天皇−聖武 天皇−(井上内親王)−他戸親王となり、血統上問題はない。光仁天皇の即位自体に易姓 革命の意味はなかった。 井上内親王と他戸親王が失脚してから、行政改革への不満もあいまって政情は不安定に なったけれども、光仁政権を打倒するほどの求心力は天武朝にはなくなっていたようだ。 桓武天皇即位の大詔の冒頭部分は、 「私は、天智天皇が決めた法(不改条典)にしたがって皇位を受ける」 とあり、大詔の中には、天武朝の天皇の名は一度も出てこない。 つまり桓武天皇は天智天皇−田原天皇(施基皇子)−光仁天皇−桓武天皇の順に皇位が 受け継がれたといっていて、天武朝を黙殺している。この事は、桓武天皇の他の行動から も明らかである。「続日本紀」の撰定もその一つである。 桓武天皇が自分の即位を易姓革命として捉えていたのは間違いない。しかし、人々は新 しい政権が始まったとは思っていても、易姓革命が起きたとは思っていなかったようであ る。 皇族にとって、桓武天皇の即位は易姓革命であった、皇族以外の人々にとっては宮廷革 命(クーデター)であった。 Time : 1999/ 2/19(金) 13:45:02
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: (6)の「5.10と8.17の記事から」は「6.10と8.17の記事から」です。 Time : 1999/ 2/19(金) 13:58:42
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(57)「称徳暗殺説??」 U Comments: 輔住さん、安部さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 >>それによると称徳天皇が病に倒れてから外部からの接触が取れないように >>し看護禅師も呼んでいない。(そこのところは前回の私の投稿が間違って >>いたみたいです。お詫びします)真備の娘しか会えなかった。となってい >>ます。 「天皇はさきに由義宮に行幸してからすぐに身体に不調を覚え、そこでただ ちに平城宮に還った。この時より百日余りを経るまで、自ら政務を執ること はなかった。 群臣らもその間謁見できた者はなかった。ただ典蔵・従三位の吉備朝臣由利 (真備の娘か姉妹?)のみ寝所に出入りして、奏すべき事を申上げた。 天皇は厚く仏道を崇め、努めて刑罰に服し獄にある者を哀れんだ。 天平勝宝の頃には、政治はつまやかであると称された。太師が誅されてから は、道鏡が権力をほしいままにし、軽々しく力役を徴発し、努めて伽藍を修 繕させたりした。このため公私ともに疲弊し、国の費用は不足した。 政治と刑罰は日増しに厳しくなり、殺戮がみだりに行われるようになった。 それで後日この時代について言う者は、無実の罪がたいそう多かったと言っ た。」 続日本紀(下)−全現代語訳(宇治谷 孟)・・( )KANAK注 ・・・の部分ですね。 群臣は謁見出来なかった・・・しかし、医師や禅師が呼ばれたか、どうかは 記述がありません。ある意味では当然で・・・それは、ある種の治療行為で、 政治の問題では無いからだと思います。 史書に「女帝」の寝所に男性医師や禅師が出入りしていたとワザワザ書くこ とも、通常考えれば有り得ません。 おっしゃるとおり、病臥の期間も毒殺には似つかわしくありませんね。 群臣が謁見出来なかったことも、それ程厳重に身辺を警護されていたとも考 えられます。一体どんな状況判断から、井沢さんが毒殺などと主張されてい るのでしょう? 「称徳」を、どうしても怨霊に仕立て上げたかった・・それだけでしょうね。 それから「称徳」宣命体勅語ですが・・・ 「そもそも君主の位というものは願い求めても得ることは極めて難しい、 ということを皆知っているが、先にこの位を得ようとした者は、謀が拙かっ たのである。我こそは十分うまく謀ったので必ず成功するだろうと、いろい ろに願ったり祈ったりするけれども、やはりそこは諸聖や天神地祇や歴代 天皇の御霊がお許しにならず、お授けにならないので自然に人の口から漏れ たり、自分の口からも出てしまって、かえって身を滅ぼし災を被り、ついに は己も他人も罪に陥ってしまったのである。 このため天地を恨み、君主や諸臣をも恨む。しかし、それでもなお心を改め て、直く浄くするならば、天地の神々も憎みたまわず、君も見捨てられず、 幸せを蒙り、身も安らかとなるであろう。生きている時は官位を賜わって栄 え、死後は善い名を後世に伝えられることであろう。・・・また、過ちであ ^^^^^^^^^^^^^ ることを知ったなら必ず改めよ・・・」 同書 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ と訳されています。特に世界史的な迷文では無いと思いますね・・・(^0^)" Time : 1999/ 2/20(土) 00:25:13
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: 宣命のところは、もう一度原文にあたってみましたけれども、 口語訳はあなたの言う通りです。 その後、「ゆるす」と貴族に帯を賜っていますから、 皇位簒奪を企てたのは貴族だということになります。 しかし、皇位を自分のものにしようとしたのは称徳天皇本人なのです。 あの宣命は根本的に矛盾しているのです。 称徳天皇の、藤原氏に対する強がり、あてつけ、敗北宣言であることは間違いありません。 あれほど感情むき出しの文章は崇徳上皇の 「土民をもって王となし、王をもって土民となす」くらいのものでしょう。 「逆説の日本史第3巻」を買うことをお勧めします。 井沢先生は、ポルノ紛いの説を否定することから称徳天皇論を進めています。 あなたが心配するような要素はありません。 読みもしないのに、非難しないで欲しいと井沢先生が大分前におっしゃていたはずです。 つまらないことを蒸し返すのは嫌ですから、買うか図書館で借りてじっくり読んでから議論しましょう。 Time : 1999/ 2/20(土) 12:27:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺は何故建立されたのか(8)・・・高野御陵 Comments:  称徳天皇は、大和の国添下郡佐貴郷高野の御陵に葬られたと「続日本紀」にあ る。今ではその位置は不明となっている。  「万葉集1、84」に、長皇子が施基皇子とともに佐貴宮で高野原を歌った 歌が収録されている。佐貴郷というのは、現在の奈良市歌姫町、佐紀町、山陵 町一帯をさしていて、平城宮の附属庭園があったらしく、その遺構が発掘され ている。北部には、近鉄高野原駅がある。高野原というのは、恐らく山陵町に ある丘陵のことであろう。  私が推測するに高野御陵は京都府木津町相楽町にある藤原百川の墓と秋篠寺 の中間地点、東大寺学園の当たりだろう。  奈良時代の天皇の御陵の位置は以下の通りである。 元明天皇、元正天皇、聖武天皇、光明子・・・大和の国添上郡佐保山 称徳天皇・・・大和の国添下郡佐貴郷高野 田原天皇(施基皇子)、光仁天皇・・・大和の国添上田原 元明天皇から光明子までは、同じ佐保山に葬られている。佐保は東大寺、春日 神宮があって、天武・持統朝と藤原氏縁の地である。光仁天皇は、始めに田原 に施基皇子の御陵があって、その隣に葬られている。称徳天皇だけは仲間外れ の観がある。  平城京から見ると、実は高野御陵が一番近い。 このように、高野御陵はその位置に不審な点がある。  もう一つ高野御陵について不審な点がある。  「続日本紀」に記されている大土木工事は、文武天皇陵、平城京、元明天皇 陵、恭仁宮、信楽宮、元正天皇陵、大仏、聖武天皇陵、仁正皇后(光明子)陵、 西大寺、高野御陵、光仁天皇陵(広岡と田原)、長岡京がある。  この中で、造営に従事した人夫の人数まで記してあるのは高野御陵だけであ る。此れはおそらく、古代には「延べ人数」の概念がなかったからであろう。 大土木工事は何年もかかるので、何人もの人が入れ替わり立ち代わり働くこと になる。その人数を現す方法も必要性も古代人は見つけなかったと考えられる。  であるならば、高野御陵だけ「左右の京、四畿内、伊賀、近江、丹波、播磨、 紀伊等の国の役夫6300人を興して以って山陵に供せしむ」とある。この6300人 というのは、当時の人口600万人の0、1%にあたる。単純な比較は無理だが、現 在の日本なら10万人にあたる。これは大変な数である。しかも、延べ人数では ないので、約20日間かけて同じ人6300人が働いて、高野御陵を造営したのだろ う。なぜなら、高野御陵が造営されたのは8月上旬であり、8月下旬になれば早 いところでは稲の刈り取りが始まるので、人夫を使えなくなってしまうからで ある。  高野御陵は、20日かけて一気に作られた、その事を「続日本紀」は物語って いる。これは特筆に価することだったらしい。  平城宮の近くにあるのも、葬列をあまり人に見られたくはなかったからでは ないか。高野原は秋篠郷のとなりなので、造営を実際に指揮したのは秋篠氏 (当時は土師氏)であろう。  桓武天皇が、早良親王を皇太子から廃すとき、山科山陵(天チ智天皇陵)、田 原山陵(光仁天皇陵)、佐保山陵(聖武天皇陵)に報告している。ここでも、 高野御陵は仲間外れにされている。  宝亀元年(770)12、1に佐大臣藤原朝臣永手に、山背の国相楽郡出水郷の山 200丁が賜られている。何故こんな山を賜ったのか分からない。この山は高野 原の北東向かいにあるので、私が思うに、高野御陵を監視するために藤原永手 に与えられたのではないだろうか。根拠は特にないので、別の説明があったら 教えて欲しい。  秋篠寺は、逆に高野御陵の南西の向かいにある。秋篠寺から見ると、高野御 陵は鬼門にあたる。 Time : 1999/ 2/20(土) 13:42:18
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments: こんにちは  また新しい展開が見せて頂けそうで楽しみなのですが、一つ教えて頂けますか。 「現段階では・・・第3巻「道鏡と称徳天皇編」を購入するつもりは有りませんの で、何方でも結構です。以下について・・井沢さんの主張を簡潔に、ご紹介頂けな いでしょうか?」 ということなのですが、要するに、井沢さんの言葉を無理に流用すれば 「私は井沢元彦の著作なんか読んだことはないが、この男は三文小説家である」と いう立場を堅持されるということでしょうか。  ただ、心配なのはKANAKファンの私などがとろい頭を振り絞って要約したものに基 づいて議論を展開されますと、まずいことになるような気がしています。  井沢さんの著書は部数は多く、後世から見れば、一般人レベルの歴史の受け止め 方を推測する一級資料になると思うのですが、明解な反証によって、史談として受け 入れられた、と、このページを検討されれば認識されるでと思います。  私はKANAKさんに原文に直接あたって議論を進めて欲しいと思います。   れられたことは今までのこのページの議論で Time : 1999/ 2/20(土) 16:14:55
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(58)「称徳暗殺説?」 V・・その他 Comments: inaさん、安部さん、今日は・・・KANAKです。 >>井沢さんの言葉を無理に流用すれば「私は井沢元彦の著作なんか読んだ >>ことはないが、この男は三文小説家である」という立場を堅持されると >>いうことでしょうか。 ご心配頂き、申しわけありません。 <(_ _)>ペコ inaさんのご指摘と直接関係はありませんが・・・念のため・・・私は井 沢さんを「三文小説家」とは考えておりませんし、その様な発言をした覚 えもありません。(「恨の法廷」しか読んでいませんので・・・小説家と しての資質は判断できません。) この件に関して・・・私は次のとおり会議室で発言し、HPに転載いして おります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー XXXさん、いつも会議室の正常な運営にご苦労いただき、ありがとうご ざいます。(XXXさんは運営スタッフの方ですー KANAK) また、この度は私の「三文小説発言」につきご心労をおかけし、まことに 申し訳ありませんでした。本発言の本旨はXXXさん他の皆さんがご指摘 頂いているとおり「天智暗殺説」そのものについての「印象」を述べたも のであり、決して井沢さんを「三文作家」と断じたものではありません。 しかしながら井沢さんが「天智暗殺説」を題材とした「小説」をご発表さ れていたとすれば、その様な誤解が生じかねない表現であり、その意味で 不用意な発言であったと反省いたしております。 また「三文小説」という表現自体が「文学作品」に関する評価の問題であ り、それが妥当な「史論」に立脚しているかどうかとは本来は別の問題で した。(「史論」として荒唐無稽な説に立脚したものであっても、「文学 作品」としては素晴らしいものも文学論としては有り得る訳ですから・・) 従って「史論」としての妥当性を議論すべき本会議室における発言として は不適切なものであったかも知れません。 これらの点につき、会議室スタッフの皆様にご迷惑をお掛けしたことに関 し、深くお詫び申し上げます。 ただ井沢さんは、ご自分の「小説」を「文学作品」であると同時に「一種 の史論」としておられる様ですので・・・「天智暗殺説」を含む「逆説の 日本史2」全体の「史論」としての妥当性を論ずることで、井沢さんのご 指摘にお応えしたいと存じます。 今後とも、よろしくお願い申し上げます。      98/09/26 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さらに「史論」について一定の批判を行う場合、原書講読の必要性につい ても会議室で議論され・・・ある方の以下の発言で概ね決着しました。 (抜粋ですので、誤解なきようお願いします。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  奈良時代より以前の同時代史料に基づくと思われる文献は、例えば幕末 維新の歴史に関する議論などとは違って、極めて限定されるので、アマチ ュアでも主要史料を目に通すことが容易ですから、文献に基づく議論では、 根拠薄弱な主張かどうか、見分けられます。  ですから、紹介者による解釈本の主張を聞くだけで、原典に基づきその 評価を下すことは至極当然の行為で、寧ろ原典をないがしろにして、解釈 本に拘泥する方が問題と考えます。・・・・  紹介者がその評価に納得が行かないなら、考証に基づいて反論するべき でしょう。それにより、両者の見解が収斂すれば結構なことです。そうで はなくて、ビリーバーとして私は信じると言うのなら、自分の胸に納めて 信仰を続ければ良い事と思います。 学としての歴史なら議論する意味は大いにありますが、信仰なら議論を超 越してしまいますね。・・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ただ、この意見は数多くの学説が紹介される・・・会議室のルールであり、 本HPでは、適用されないのかも知れません。 (私には・・・読者の何方もその論旨を簡潔に紹介出来ないような・・複 雑怪奇な「史論=この場合は単に歴史認識とその根拠です」があるとは思 えません・・・紹介者の要約が不適切であれば、何方でも補足して頂ける 筈ですしね。) ところで・・・井沢さんの「称徳暗殺説」・・・その根拠(判断理由)は、 それ程難しいモノなのでしょうか? 安部さん・・・ >>宣命のところは、もう一度原文にあたってみましたけれども、口語訳は >>あなたの言う通りです。 この際、はっきりと申上げます。 私は、未だかって「史書=研究対象」について、あれほど意味不明、かつ 無責任、さらに言えば自己に対し増長慢な解釈を見たことがありません。 (何方かの解説を参考にされたとしてもです。) 私が訳文を紹介しなければ、そのまま「世界史的迷文」と言う理解のまま 「称徳」や「奈良時代」を考察される、おつもりだったのでしょうか? それは歴史、及び歴史科学に対する冒涜以外の何者でもありません。 今、貴方に必要とされるのは「不知 為不知、是知也」と言う学徒としての 謙虚さです。(知は単なる知識ではありません。理解力と言う意味です。) 意見を発表されるのは大いに結構ですが、現在掲載中の論文についても、 正直読むに耐えません。 是非もう一度基礎から勉強する心を取り戻され、然るべき歴史学者の所説 を謙虚に学び、現在の論文を基本的に再点検して見て下さい。 貴方の実力なら容易な筈です。 確かに今まで一種の冷やかしで、貴方に接してきたのは事実です。ここま で深刻な事態になるとは考えていなかった私の甘さを反省しています。 この私の気持ちをも「侮辱・揶揄・誤解」と受け取られるならば・・・ もう何も申し上げません。 余計なことかも知れませんが・・・恐らくそうでしょう・・・一人の人生 の先輩としての真実の気持ちです。 もう井沢説批判など・・・どうでも良いと言う気持ちになってきました。 Time : 1999/ 2/20(土) 22:33:29
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments: こんにちは 1、称徳暗殺の首謀者、実行者 文庫本のP148  女帝は、「アマテラスの子孫だけが日本の王になり、藤原氏が寄生虫として君臨する」 という原理に挑戦したために藤原氏によって暗殺されたのではないか。 同じくP156 私はやはり暗殺だ、と思っている。 2.暗殺の手段 女帝は病に伏してから一服盛られたか、あるいは治療を妨害されることで死に至らしめ られたのである。 あれほど仏教を重んじた女帝のために病気平癒の祈祷が行われていない。昔の祈祷は今の 治療行為に等しい。それをしないことは既に殺人である。 3.想定の根拠 P157 最大の根拠は女帝の埋葬が極めて短期に行われ、異例のスピードで陵が造営されているこ とだ。 (ところがそのあとに、、ina注) ゆえに称徳女帝の死から埋葬までの14日間は特に短いとはいえない。しかし問題は葬ら れた場所だ。続いて 4、史料 「続日本紀」で大和国佐貫郷高野に葬られたとあり、聖徳一族の墓地である佐保山に葬ら れていない。この一帯で称徳女帝の陵とされているのは前方後円墳というあきらかに時代 の異なる陵が明治時代に指定たものであることが示されている。 以上だと思います。 他の史料として日本紀略、水鏡が上がっていますが、これに関連した記述は藤原氏と吉備 真備の関係と次期天皇についてであり、暗殺説との関連はないと思います。 以上です。 KANAKさんのおことばに励まされてまとめてみました。 私の感想としては 1、 祈祷をしないことは当時の基準では殺人――当時の人々がそう考えても、我々が歴 史に接する立場で迷信的態度を保持するべきだ、とはならないと思われました。 2、 最大の根拠としてあるものが、直後に否定されている文章と思われました。 以上です。 Time : 1999/ 2/21(日) 12:35:29
Name : RUGOMA E-mail : Title : 私も一言。 Comments:  皆様、はじめまして。  自分はとある大学の歴史学科を数年前に卒業し、  現在社会人として働いている者です。  数ヶ月前にこの掲示板の存在を知り、ずっと拝読していましたが、  どうしても気になる点があり、今日初めて投稿させていただきました。  それは安部奈亮氏が以前発言した次の意見についてです。 > ちなみに私は熱烈なヤクルトファンです。 > 野村監督は神様みたいなもんです。 > 野村監督は、野球界では家康扱いされていますが偉大な人物です。 > 野茂、吉井、伊良部の大リーグ入りに野村監督は一枚かんでいます。 > 団野村は、野村監督の息子さんです。 > また野村監督は南海時代に、日本初の大リーガーの村上さん > (間違っていたら失礼)の球を受けていました。 > 村上さんは、日米の契約条件の違いに苦しめられた人で、 > 野村監督はその改善を願っていると思われ、団野村はその以降で > 活動しているのでしょう。  安部さん・・・このように断定する根拠はおありなのですか?  野村監督は筑紫哲也氏との対談本の中で「沙知代夫人とは連絡を  取り合っているようだが自分は関係していない。」と明確に団氏との  関わりを否定しています。  また数年前(確か伊良部騒動の際)団氏がヤクルトのキャンプ地を訪問した際  野村監督は「日本球界には日本球界のしきたりがある。ルールが  おかしいからといってそれを無視するのは良くない。」と義理の息子である  団氏を叱責したとスポーツ新聞(たしかスポニチ)で報じられていました。  吉井がメッツに移籍する際も「FAという選手にとっていい制度がせっかく  出来たのだからどんどん利用すればいい。ただし現場の意見としては彼は  優勝するのに必要な戦力だから引き留めるようフロントに要請した。」と  テレビでコメントしていました。  以上のような「根拠」から、自分は野村監督と団氏が関わり合っている  可能性はきわめて低く、まして野茂や伊良部の移籍騒動の「黒幕」が  野村監督であるなどということはあり得ないと考えております。  確かに今挙げた根拠が即「真実」であるとは自分も考えておりません。  もし安部さんが自らの意見の裏付けとなりうる根拠を示して下さるのであれば、  即座に非を認め、この発言を撤回するつもりです。  ですが今までの書き込みをみて思ったのですが、すでに何人かの方が  指摘されている通り、安部氏の発言にはまず「結果」があって、  それの根拠となる史実を恣意的に集めているように思えてならないのです。  安部さん、よく考えて下さい。  貴方の敬愛する(ちなみに自分もファンです)野村監督が、事実ではないのに  団野村氏の「黒幕」であるかのような噂を流されて、喜ぶとお思いですか?  事実読売新聞の渡辺社長は野村「口撃」の一環で「団野村の後ろには親父が  いるんじゃないか?」とまくしたてています。(言うまでもなく野村監督は  この言いがかりに反論していました。)  確かな根拠に基づかない事をあたかも「真実」のように述べることはかえって  自分の意に反する事があり得るのです。  安部さん、まずは賛成反対に関わらずたくさんの本を読んで  自分の意見を客観的に考察出来るようになって下さい。  これだけは強調しておきたいのですが、  私の目的は貴方への個人攻撃ではありません。  むしろ井沢説を補強しようとしている貴方の応援をしたいと思っております。  自分も井沢氏の「歴史推理」は非常に面白いと思っておりますので。  (本当にここは「井沢元彦の掲示板」なのですか?  自分は未だかつて「◯◯ホームページ」で◯◯否定論者がここまで強い  掲示板をみたことがありません。)  追伸。  自分はこういった「不特定多数」の方々が集まる掲示板に書き込みを  するのは初めてなのです。  今回不必要な誹謗中傷はしないよう極力努めて参りましたが、  果たして大丈夫だったでしょうか?  もし発言に問題があるようでしたらどなたか指摘していただけないでしょうか? Time : 1999/ 2/21(日) 12:36:28
Name : チョー E-mail : ??? Title : 感想文 Comments: ノムさん(阪神野村)が居ればチョーさん(巨人長嶋)がいてもいいじゃないかあ! すみません...独り言です。 ボクは某大学で歴史を学ぶ者(3年生)です。 この掲示板は昨年の12月頃から拝見しています。 「逆説の日本史」は6巻まで読んでいます。 とてもおもしろくて、次が出るのが楽しみです!(週刊ポストは読め!ってか?) 今日はおやじの会社から登録しています。(父上は仕事中...コソコソ...) そろそろ、卒論に本腰を入れねばなりません!(12/24締切) ...ナント素晴らしい!クリスマス・プレゼントなのだろう!! そこで、一連の議論についての感想です。 やはり、よく謂われるように、まずは原本、一次資料を徹底的に解釈し、 定説・通説を自分なりに完全に理解した上で、新たな仮説を発表するのが、 正論というか正攻法だと思います。 一般の人が原本そのものを目にする機会は、まず無いとは思いますが 筆の動き、墨の濃淡、紙に残るシミ...その他諸々... 書いた人の息吹、何を想いこれを書いたのか、どんな顔で書いているのか等が 不思議と伝わるような気がするのです。原本に近い時代の写しでも同様です。 まるで、自分がその時代に居るような気分になります。 これはボクだけではなく、教授も先輩も同級も後輩も、異口同音に言います。 そのような気分のなかで解釈された、(大)学者?、学界の権威の 定説、通説というのは、やはり無視できないと思うのです。 もちろん!人の説にあれこれ言うのはホントに簡単で、いくらでもネタは尽きません。 仮説をたてることが、いかに重要で創造的な作業かということは理解しています。 (残念ながらボクにはまだ、その力がありませんが...トホホ...) だからこそ、仮説を発表するということは、慎重さが求められると思うのです。 ここは、学界でもなければ専門のゼミでもないので、堅いことは言わずに ある意見を叩き台にして、よりよい議論の場となるのが、一番なのでしょうが... 教授は、「ある資料、論文を読むには、それが書かれた時代背景を、まず理解せよ! 作者がなぜそう書いたのかを、まず想うべし!」と言います。 その意味では「逆説の日本史」の出発点は素晴らしいものだと思います。 確かに井沢先生や安部さんの解釈は間違いもあると思いますが 今後のこの場での発展が楽しみです。 もちろん、井沢先生や安部さんが、なぜそう思ったのか?ということも 検討せねばなりませんね!これはご本人がこの場にいらっしゃるのだから 簡単なことだと思います。 長々となってしまいました。文章としては起承転結があいまいで最低のものですね。 卒論は大丈夫だろうか?...心配になってしまいました Time : 1999/ 2/21(日) 13:08:02
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(59)「称徳暗殺説??」W Comments: inaさん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「称徳」暗殺説のご紹介ありがとうございました。 確かに井沢さんの主張は・・・「資料的根拠→解釈・推論→結論」の脈絡 が極めて分かり難く、簡潔に要約するのは大変ですね。 従って、以下の批判については・・・全て私の理解する範囲で、私の責任 に於いて行います。 何方に拘わらず、私の理解不足(誤認)について、ご指摘願います。 >>女帝は、「アマテラスの子孫だけが日本の王になり、藤原氏が寄生虫と >>して君臨する」という原理に挑戦したために藤原氏によって暗殺された >>のではないか。・・・私はやはり暗殺だ、と思っている。 これは、「称徳」が「アマテラスの子孫では無い道鏡」を、皇位につけよ うとしたことを阻止する為に「暗殺」したと言う「動機」の想定ですね。 私も重大な「動機」の一つになり得ることは認めます。 しかし、既に申し上げたとおり「動機」の存在と「実行」の立証とは、別 に考察すべきものです。 井沢さんが、どう思おうが勝手ですが・・・史学である以上、問題はそ の根拠ですね。 また、この原理?ですが・・・ 前段は・・・正確には「アマテラスの男系子孫」と言うべきでしょう。 「天皇の女系子孫(娘の子供達)」には皇位継承権どころか、王族の地位 さえ保証されていませんので。 しかし、一方で井沢さんは「天武=新羅人の男系子」と考えられ「文武」 以下「称徳」に至るまで「新羅人の男系孫」と認識しておられます。 そして、壬申の乱当時の皇族・貴族は、「アマテラスの子孫」と認識され た「天智の長男=大友皇子」よりも「新羅人の子孫=天武」を「天皇」と して支持したと主張されています。 つまり、この「原理」を破壊した王朝こそが・・実質的易姓革命により成 立した・・・「天武朝」だと主張されているのですね。 では、「アマテラスの原理」を実質的に否定した体制が、「アマテラスの 原理」に挑戦した「称徳」を暗殺したと言うことでしょうか? 一体井沢さんは・・・この「天皇制原理」をどのように整合的に理解して おられるのか・・・私には理解できません。 なお、「中世史書」においては「称徳」の「道鏡」皇位継承心理を整合的 に理解しょうとしたのか・・・「道鏡」を「天智」の孫と記載しているモ ノがあります・・「一代要記」。 或いは??・・と思わせる奇説だと思いますね(余談・ジョークです)。 >>暗殺の手段女帝は病に伏してから一服盛られたか、あるいは治療を妨 >>害されることで死に至らしめられたのである。 >>あれほど仏教を重んじた女帝のために病気平癒の祈祷が行われていない。 >>昔の祈祷は今の治療行為に等しい。それをしないことは既に殺人である。 前段について言えば・・・既に申上げたところです。 客観的に見て、それを肯定すべき状況は認められません。 公式的に病気平癒のための社寺祈願行為が見られないことについては・・ 安部さんの解釈・・・皇位継承が不安定な状況下では、「称徳」危篤を秘 匿する必要が有った・・・私は藤原氏はもとより「道鏡」一派に、その必 要性があると思いますが・・・で充分でしょう。 私は、称徳が最も信頼していた「道鏡」一派によって、仏教的祈願はなさ れていた・・・「称徳」はそれで充分だと考えていた・・・と想定すれば 何の問題も無いと思います。(オカシイですか?) >>最大の根拠は女帝の埋葬が極めて短期に行われ、異例のスピードで陵が >>造営されていることだ。(ところがそのあとに、、ina注) ・・・とのことで、時間の無駄ですから省略いたします。 >>「続日本紀」で大和国佐貫郷高野に葬られたとあり、聖徳一族の墓地で >>ある佐保山に葬られていない。この一帯で称徳女帝の陵とされているの >>は前方後円墳というあきらかに時代の異なる陵が明治時代に指定たもの >>であることが示されている。 「聖武」は佐保山ですが・・・「元明・元正」は約1.3K北方の奈保山 とされていますね。(延喜式・元正は改葬?)・・・「文武」は明日香で すが・・・「聖武一族」の墓地って一体何のことでしょう? 「称徳」陵が「佐紀高塚古墳」だとすれば・・・「聖武」は「東大寺」近 く、「称徳」は「西大寺」近く・・・かも知れませんが、陵造営場所の選 定については、良く分からない・・・特別の意味を見出せないのでは? 「称徳」陵に比定されている「佐紀高塚古墳」が前方後円墳であるため、 これを否定する意見があることは承知していますが・・・完全な調査がな されず、かつ他に佐貫郷高野山稜とすべき古墳が発見されていない現段階 では・・これが何らかの理由で擬古的に前方後円墳とされて可能性を含め ・・・結論は出せません。(平城天皇古墳はさらに問題がありますね。) ところで・・・山稜の比定(所在地)が不明確であることと、暗殺に何の 関係があるのでしょう? 何か説明がなされていますか?? Time : 1999/ 2/21(日) 17:05:03
Name : 医座輪喪都非弧 E-mail : Title : うーんたしかに・・・・ Comments: 確かに、整合性にかけてますねぇ。 でも週刊誌連載なんだから・・・・・・ 改めて明らかな誤謬については、改訂の時に 触れていただけると思ってマス。 ただ、怨霊、ことだま、などの今までとはちがった 観点からの歴史はおもしろい! だからフアンなんです。 Time : 1999/ 2/21(日) 17:54:49
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments: P157 彼女の両親である聖武、光明夫妻も、弟である基王も、大叔母にあたる元正女帝も、皆、 「佐保山」という一帯に葬られている。 ところが成務天皇の隣の明治時代の比定による称徳陵は前方後円墳で女帝の陵ではあり えず、故に、この一帯に称徳だけ葬られなかったことになる。なぜか。 異常死した死者は「死え」にみちているため通常の場所には埋められない。どこか別に しなければならないのだ。つまり、そういう形で葬られた死者は自然死(病死)ではあ りえないということだ。 以上です。私の読み方に間違いがなければ、暗殺説の、根拠は、本を読む限りこの一点で すが、前回大切な点を抜かしていたのかもしれません。申し訳ありませんでした。 Time : 1999/ 2/22(月) 00:19:27
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 秋篠寺はなぜ建立されたのか(8)・・・称徳天皇は処刑された Comments: 宝亀元年の8月から9月にかけての出来事を天皇陛下の葬式と見たのが間違いの元であ った。 称徳天皇は暗殺されたのではなく、処刑されたのだと思う。 「続日本紀」の宝亀元年8月から9月にかけての細微にわたったドキュメントタッチの 記述は、葬式を書く方法ではなく、クーデタを書く方法であった。 「続日本紀」に記録されているクーデタは、天平元年(729)の長屋王事件、天平宝字 元年(757)の橘奈良麻呂事件、延暦4年(785)の藤原種継暗殺事件である。 それぞれの事件の勝者と敗者は、藤原四兄弟に対する長屋王、藤原仲麻呂に対する藤原 豊成、桓武天皇に対する早良親王である。 宝亀元年の場合、白壁王と藤原氏が、称徳天皇の政権を葬った。称徳天皇崩御から光仁 天皇即位まで厳戒な警備体制が敷かれ、大量の叙階と任官があり、称徳天皇と光仁天皇と では政策が全然違う。これは、急激な政権の交代だと思う。 しかし、この場合誰が失脚したのか良く分からない。道鏡一味は確かに失脚したが、そ れほど大人数ではないし、称徳天皇崩御と同時に彼等の命運は決まっていただろう。誰が 失脚したかというと、私は称徳天皇という存在が、貴族たちの心の中から抹殺されたのだ と思う。 光仁天皇は称徳天皇の遺勅(捏造であろう)を根拠にして即位しているので、称徳天皇 を普通に葬ればいいはずだ。葬式は普通に行なわれたかもしれないけれども、高野山稜の 場所と突貫工事が気になる。 貴族たちは、称徳天皇に関わるのはさっさとやめて、記憶から消したかったのではない か。私は、称徳天皇は貴族の記憶の中からの除名処分を受けたのだと思う。だから、おざ なりの御陵しか作られなくて、その場所も忘れ去られて、醜聞だけが残ったのだと思う。 血統主義に触れることは、それだけ罪が重く、天皇でさえ許せなかったのだろう。 Time : 1999/ 2/22(月) 11:57:01
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正 Comments: (8)ではなくて(9)でした Time : 1999/ 2/22(月) 12:06:36
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ここはもっと楽しいところだったはずです Comments: ここはもっと楽しい場所であったはずです。 みんなここに楽しむために来ていたはずです。 以前私は「天皇家は朝鮮人ではないか?」 という過激な意見を述べた事がありますが、 それを出発点にして建設的な議論、意見交換が出来ました。 「逆説の日本史」の学問的な検討ももちろんしたいですが それだってもっと楽しい方法で出来るはずです。 掲示板がこのようになってしまった責任の多くは私にあります。 にしたって、何で毎回こんなに惨めな気持ちにならねばならないのか。 相手の考えに立ち入る必要はないではありませんか。 この場で意見の交換、情報交換をして、 家に帰ってから自分の考えと練り合わす事ができれば十分ではありませんか。 称徳天皇に関する私の意見に、私は自分なりの根拠を持っています。 今のところ変更するつもりはありません。 しかし、反対意見を述べる者にしたって、「面白い事を言っている奴がいるな」 ぐらいに思えればよいではありませんか。 私も自分の意見が絶対の真理だとは思っていません。 私と反対意見の人だって、いくら根拠が強かろうと絶対とはいえないはずです。 世の中にいろいろなバリエーションがあった方が健全なのですから。 Time : 1999/ 2/22(月) 15:43:28
Name : 医座輪喪都非弧 E-mail : Title : 安部さんへ Comments: 「相手の考えに立ち入る必要はない」 とお考えのようですが、それは本心ですか? それならこのような場所で意見を述べられる事は矛 盾していませんか。私は貴方のような突拍子のない ようにみえる意見は好きですがちょっとつっこまれ たからといってすねるのはいただけません Time : 1999/ 2/22(月) 16:19:27
Name : 輔住 E-mail : Title : 質問 Comments: 安部さん、みなさん、こんにちは 秋篠寺はなぜ建立されたのかシリーズを楽しく拝見してますが、 (8)までの流れでは(9)の称徳処刑説は唐突ですね。 >宝亀元年の8月から9月にかけての出来事を天皇陛下の葬式と見たのが間違いの元であ >った。 から、推論するとこの時期の出来事が根拠だと思うのですが、詳しく説明してくれると ありがたいのですが。よろしくお願いします。 あと、あなたに厳しい意見も出ていますが、あなたに注目してる証拠ですよ。 元気を出して下さい。 Time : 1999/ 2/22(月) 16:46:46
Name : 医座輪喪都非弧 E-mail : Title : あべさんがんばれ Comments: 安部さんがんばって劣勢をばんかいしてください 私にはあなたほどの知識がないのでみなさんとの 論戦には加わりがたいのですが安部さんの説は 所々解りにくい所もありますがとても魅力的な説が 多いと思ってマス。応援してますので頑張って くださいね。 Time : 1999/ 2/22(月) 16:52:54
Name : 宇津木和政 E-mail : 前のみてくださいませ Title : 安部さんここが正念場だよ! Comments: なんだか久しぶりにきてみたら安部さん大変なことになってますね。 ただ、少なくとも「野村監督と団野村」に関する根拠についてはきちんと反証すべ きですね。また、KANAKさんから、もっと勉強しろと言われた件についても反論する 必要があると思います。勉強していないはずがないからです。 安部さんは常に「断定」する人です。傍から見ているといささか危なっかしいので すが、それでも爽快な気分にもなります。ただ、以前申し上げたように歴史の世界 というものは「断定」するには実に難しいものと思います。私にも自分なりの史観 はあります。しかし、やはり「断定」的にこの掲示板で意見を述べるのはためらっ てしまいます。なぜなら多くの論文やその他の文献を綿密に調査したわけではない からです。もちろん、そのような手続きを経ていないとここで論じてはいけない… と言っているわけではありません。素人でも議論できるのがこの掲示板の良いとこ ろだと思っていますので。ただ、安部さんは常に「断定」しています。だから 「断定」されるからには実に多くの「様々な角度からの様々な文献」にあたられた はずだと私は思っております。様々な「自分の気に入らない説も含めて」検証され たはずだと思っています。ですから、秋篠寺に関して言えば、以前KANAKさんが紹介 しておられた文献もお読みになったものと思っています(その文献が安部さんの気 に入るものかどうかは知りませんが。未読なので)。 したがってKANAKさんのご指摘は失礼にあたるはずなのです。なぜ反論されないの ですか? ただ、もし、自分の説に合う文献だけを読み、自説を展開されているとなると話は 別です。それではKANAKさんご指摘のとおりになってしまうからです。断定されるか らには様々な文献を綿密に検証しその上で提言して いるはずだと私などは思うのです。もし、そうでないならば、KANAK様ご指摘のとお りになってしまいますよ。 地図に無い街を探すならはじめに地図が必要です。あな たの嫌いな学説も、しっかりと検証した上での「断定」なのだと期待しておりま す。 本日のご回答を見ていささか残念に思います。これでは「野村監督の件」と 「KANAKさんからの指摘(これを揶揄ととるのはどうかと思います)」に対する答え になっていません。安部さん。ここが正念場だと思います。攻めるのはとても簡単 です。しかし、防御戦は大変なものです。私はKANAKさんをとても尊敬しています。 天智・天武の頃はともかく、この聖徳太子編になってからの鋭さは、大阪JF生さん 推理のように「1年で?」とは思えないものがあります。しかし、何より尊敬して しまうのは、以前述べたように「孤塁を堅守」されたことです。最近でこそ、支持 者も増えてきたKANAKさんですが、かつてはまさに「孤塁」を守ってこられました。 誰もが井沢先生のファンであるこの掲示板でです。私がKANAKさんを尊敬するのは、 攻撃も防禦も重厚な史料にもとづいているところです。史料万能主義になってはい けいないのも事実ですが、単なる推理だけで論理を展開するのも問題でしょう。さ て安部さん。ここは正念場です。ここを守り切れなければ、単に「意見を言いっぱ なし」で終わってしまいます。言いっぱなしだけなら誰でもできます。そんな厳密 な議論の場ではない…という反論をされるならばなんでも「断言」するのも考えも のだと思います。みんな貴方の反撃に期待しています。どうかまっすぐに反撃して みてください。明日の夜、この掲示板をのぞくのを楽しみにしています。あ…そろ そろ試験か…? 追伸:江戸時代を「唯物史観」の観点から論じた書物をどなたか教えてくださいま せんか。 かつて日本を支配した「唯物史観」ってどんなものかしっかりと勉強してみたいと 思ってるんです(僕の専門分野でいうとミチューリン運動については文献を収集中 ですが)。 Time : 1999/ 2/22(月) 20:14:47
Name : RUGOMA E-mail : Title : 安部さん、頑張って下さい。 Comments: >ここはもっと楽しい場所であったはずです。 >みんなここに楽しむために来ていたはずです。  自分は一番つらいのは「無視」されることだと思っています。 >反対意見を述べる者にしたって、「面白い事を言っている奴がいるな」 >ぐらいに思えればよいではありませんか。  思えるからこそ、つっこみたくなるのです。  自分は安部さんは意見の内容以前に、論文の執筆方法で損をしていると思います。  安部さんの仮説は確かに面白いです。ですが「何故?」と思った箇所で  ほとんどその説明がされていないので、どうしても「〜と思う。」と  書いてあるところが根拠のない思いこみに見えてしまうのです。  >私も自分の意見が絶対の真理だとは思っていません。  >私と反対意見の人だって、いくら根拠が強かろうと絶対とはいえないはずです。  >世の中にいろいろなバリエーションがあった方が健全なのですから。  自分もそう思います。だからこそ「様々な本を読んで自分の意見を客観的に  考察できるようになって下さい。」と僭越ながら申し上げたのです。  今の貴方は井沢説を支持しようとするあまり、それに都合のいい史実しか  見えなくなっているようなきらいがあるように思われます。  感情的になってはかえって貴方が応援している井沢先生の説までもが  ダメージを受けることになりかねません。  まずは落ち着いて、自分の意見を論点・根拠をはっきりとするように  主張するように心がけて下さい。  大丈夫、貴方これだけ批評されたのだから  それを肥やしにして頑張れば絶対もっとレベルアップしますよ!  ところで、この場では「◯徳怨霊説」はかなり旗色が悪いようですが、  それでは何故後鳥羽上皇は最初「顕徳」とおくりなされたのに  その数年後「後鳥羽」に変更されたのでしょうか?  井沢先生は第2巻で、「顕徳としたところ、天変地異等がおきて  「(後鳥羽が)顕徳なんて縁起でもない名前を付け怨霊になったからだ」と当時の人は考え  「後鳥羽」に変更され、以後は◯徳天皇は付けられなくなった・・・」  という説を紹介していたように記憶していますが、どうなんでしょう? Time : 1999/ 2/22(月) 20:55:55
Name : RUGOMA E-mail : Title : 安部さん、頑張って下さい。 Comments: >ここはもっと楽しい場所であったはずです。 >みんなここに楽しむために来ていたはずです。  自分は一番つらいのは「無視」されることだと思っています。 >反対意見を述べる者にしたって、「面白い事を言っている奴がいるな」 >ぐらいに思えればよいではありませんか。  思えるからこそ、つっこみたくなるのです。  自分は安部さんは意見の内容以前に、論文の執筆方法で損をしていると思います。  安部さんの仮説は確かに面白いです。ですが「何故?」と思った箇所で  ほとんどその説明がされていないので、どうしても「〜と思う。」と  書いてあるところが根拠のない思いこみに見えてしまうのです。  >私も自分の意見が絶対の真理だとは思っていません。  >私と反対意見の人だって、いくら根拠が強かろうと絶対とはいえないはずです。  >世の中にいろいろなバリエーションがあった方が健全なのですから。  自分もそう思います。だからこそ「様々な本を読んで自分の意見を客観的に  考察できるようになって下さい。」と僭越ながら申し上げたのです。  今の貴方は井沢説を支持しようとするあまり、それに都合のいい史実しか  見えなくなっているようなきらいがあるように思われます。  感情的になってはかえって貴方が応援している井沢先生の説までもが  ダメージを受けることになりかねません。  まずは落ち着いて、自分の意見を論点・根拠をはっきりとするように  主張するように心がけて下さい。  大丈夫、貴方これだけ批評されたのだから  それを肥やしにして頑張れば絶対もっとレベルアップしますよ!  ところで、この場では「◯徳怨霊説」はかなり旗色が悪いようですが、  それでは何故後鳥羽上皇は最初「顕徳」とおくりなされたのに  その数年後「後鳥羽」に変更されたのでしょうか?  井沢先生は第2巻で、「顕徳としたところ、天変地異等がおきて  「(後鳥羽が)顕徳なんて縁起でもない名前を付け怨霊になったからだ」と当時の人は考え  「後鳥羽」に変更され、以後は◯徳天皇は付けられなくなった・・・」  という説を紹介していたように記憶していますが、どうなんでしょう? Time : 1999/ 2/22(月) 22:08:20
Name : ノム E-mail : Title : 出雲大社にいってきました Comments: 皆さんおひさしぶりです。高校の卒業記念に出雲の国に友人達といって きました。島根にいるインターネットを通じてしりあった大学生の方に 案内していただき、楽しい旅行をしてきました。二泊三日の旅だったの で行きたかった所全部、という訳にはいきませんでした・・・・・・・ ちなみに全員男でした。いい若いもんが情けないとは、思わないで下さ い。だって「逆説の日本史」を検証するためなんですから・・・・・・ 何日間か留守をしている間に「チョーさん」が登場しているとは思いま せんでした。でも今時「チョーさん」なんていいかた聞いたときないで すよ。時代は「ノムさん」ですから。毎日のニュースでも阪神まみれで はないですか。(もしかして関西ローカルのみ?) と、そんな事はどうでもいいんですが、安部さんやられてますねー。 僕なんかが意見を書いても無視されるだけですからつっこまれるだけ 幸せだと思ってがんばって下さい。もしかしてつっこまれるのになれ てないんですか?関西に暮らしてるのなら一刻もはやくなれてくださ い。無責任な意見でどうもすいません。 所でこの件に関する僕の質問なんですが、・・・・・・・・・・・ 称徳天皇が怨霊であるとするなら、道鏡はどうなるのでしょう? 僕には彼のほうが怨霊になる要素は多いとおもうのですが・・・・ 流罪になり、配地で生涯を終えた彼は天神様に通じるものがあると 思うんですけど。天皇崩御のあと、道真死去のあとほどの天変地異 が起こらなかったのでしょうか?もしたいした事がおこってないの なら、称徳天皇と道鏡は怨霊になる要素はあったが、たたらなかっ たので怨霊としては祭られなかったという事なんでしょうか? 皆さんどうおもいます??????????????????? Time : 1999/ 2/22(月) 22:25:43
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(60)「称徳暗殺説??」X Comments: inaさん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 わざわざ追記頂き、ありがとうございました。 「彼女の両親である聖武、光明夫妻も、弟である基王も、大叔母にあたる 元正女帝も、皆、「佐保山」という一帯に葬られている。 ところが成務天皇の隣の明治時代の比定による称徳陵は前方後円墳で女帝 の陵ではありえず、故に、この一帯に称徳だけ葬られなかったことになる。 なぜか。 異常死した死者は「死え」にみちているため通常の場所には埋められない。 どこか別にしなければならないのだ。つまり、そういう形で葬られた死者 は自然死(病死)ではありえないということだ。」 例によって、井沢さん特有の非常に分かりにくい文章ですが、要約すると 次の論旨でしょうか? 1.元正女帝・聖武天皇・光明皇后・基王は「佐保山」一帯に葬られてい   る。(井沢さんの事実認識・・・) 2.これは、当時天皇一族が、同一地域(聖武一族の墓地である佐保山)   に葬られると言う慣行があったことを示している。   (井沢さんの1.による推論・・・) 3.ただし、一族であっても、異常死した人物については「死穢?」がみ   ちているため「通常の場所=一族の墓地?」を避け、別の場所に葬ら れるという、慣行があった。(井沢さんの未立証の仮説・・・) 4.「称徳」陵墓に比定されている「佐紀高塚古墳」は前方後円墳である。   (通説の認める事実認識) 5.従って「佐紀高塚古墳」は「称徳」陵墓では有り得ず、「称徳」陵墓 ・・・佐貫郷高野山稜の所在は確認できない。   (通説がほぼ認める事実認識・・・)   6.故に、「称徳」陵墓は、この一帯(聖武一族の墓地である佐保山?) には存在しない。   (所在の未確認→一帯外の別の場所・・・と言う井沢さんの推理   「佐紀高塚古墳」であれば、一帯と見なしうるのか?・・・について    は一帯の範囲が一体何を意味するか不明確であり・・・不明) 7.従って、3.の慣行に照らし、「称徳」は異常死と結論づけられる。   (未立証の仮説・未確認の陵墓位置による結論・・・) そこで、先ず1.の事実認識ですが・・・ 「元正」陵墓は以下のとおりとされています。 *天平20年4月27日・・・・佐保山陵において火葬。 *天平勝宝2年10月18日・・奈保山陵に改葬。 *延喜式・・・・・・・・・添上郡奈保山西陵(元明天皇奈保山東陵隣接) 既出のとおり「聖武」佐保山陵の北約1.3K。 ・・・奈保山は、佐保山と一帯の墓地なのでしょうか? 次に2.の「天皇一族」ですが・・・「称徳」は「聖武」の娘としても、 レッキとした天皇ですね。果たして「光明皇后」や夭折した「基王」と同 じ意味の「聖武一族」と考えるべきでしょうか? 次に3.の「異常死」についてですが、井沢さんは「聖徳太子」について、 「異常死かどうかは@殯の期間が「ない」か異常に短い、A新しく墓を作 らず別人の墓に合葬される、という条件を満たしているかにある。太子の 死は二つとも満たしている。」   P111 ・・・とされています。この「異常死」に関する「仮説」については、 (26)「聖徳太子」心中説・・・で批判したところです。 ところが・・・今回「称徳」については「合葬」ではなく、「通常の場所 =一族墓地外?」を「異常死」のメルクマールとする「仮説」を主張され ています。 両仮説の整合性をどの様にお考えか・・・全く理解できませんが・・・私 の知る限り「異常死=一族墓地外」と言う慣行が有るとは思えません。 (論証が必要でしょうか?・・・必要とされるならば努力しますが?) 因みに「聖徳太子」墓は王陵の谷と称される磯長にありますが・・・ 「施基皇子」墓は平城京を遙かに離れた「田原=西陵」」にあり、光仁天 皇陵は「広岡山陵」から延暦5年に「田原=東陵」に改葬されています。 「称徳」陵墓が「佐紀高塚」ではなく、所在不明としても、平城京に接する 「佐貫郷」にあると考える場合は・・・「元明」「元正」の陵墓がある「奈 保山」よりは、むしろ平城京に近接している可能性があるでしょう。 また、一帯概念についても「平城京」北部の丘陵地帯を一帯と考えるなら ば、「佐貫郷」に有る限り、概ねこの範囲に収まります。 一体、通常の場所とは・・・何を意味する概念なのでしょう? つまり、私の理解が正しければ・・・1〜7の井沢さんの論証は、立証され ざる仮説と、確認されざる事実認識によって結論付けられたモノであり・・ 所謂トンデモさんの論証と呼ばれるモノに限りなく近い・・・と思いますが、 如何でしょうか? ・・・ところで、HPを昔の姿に戻して欲しいとのご意見もあるようですし、 そろそろ潮時が来たような気がします。 私が今まで述べてきた論点で、どうしても納得できない部分・・・ 井沢さんの所説について、さらに確認しておきたい部分・・・ 等については・・・この際お早めに、ご遠慮なく掲載願います。 Time : 1999/ 2/22(月) 22:26:14
Name : 小松 E-mail : Title : ○徳怨霊説 Comments: みなさん、こんにちは。 別に蒸し返すつもりではないんですが、「○徳怨霊説」について書いてあったので、僕の 私見を書きたいと思います。ここでの議論を参考に、また「逆説の日本史」を再読しての 僕の「○徳怨霊説」は次のとおりです。主に論争になった点に付いて書きます。 「称徳」までの諡号を一括で選定したかが論点になってましたが、僕は一括だと思います。 で、同じ人が(淡海三船?)片方には称える意味で、片方には鎮魂の意味で諡号するのは おかしいと。(井沢先生は一括ではないだろうと言ってましたね) でも、僕は怨霊信仰を考えるとそれはおかしくないと思います。 当時、中国の思想、特に律令政治の根幹となる儒教は、最新の、流行の思想でした。儒教では 君主にとって一番必要なのは「徳」だと説きます。ですから、それをそなえた君主は最高の君主 なわけです。従って、偉大な天皇に「徳」を贈るのは不思議ではありません。 しかし、一方で不幸な境涯で死んだ、怨霊となることが恐れられる天皇にも「徳」を贈るのも まったくおかしくないと思います。(同じ人の頭脳でも) これは、水死体に美人と言ってあげると言う例えがありましたが、それで説明すると分かり易いと思います。 美人は女性を誉める最上級の言葉(一応)ですよね。でも、本当に美しい人に美人と言うのも、 水死した人(不幸な人)に美人と言うのも、我々の日常の感覚の中では何ら矛盾するものではないですよね。 同じように、徳のある王だと言うのは当時の、儒教思想にかぶれている日本人には最高の誉め言葉です。 これを本当に立派な王を称えるために贈るためでも、不幸な死に方をした天皇を慰めるために贈るためでも、 同一人物の頭脳から出た発想で何ら不思議はないと思います。むしろ、そこにこそ日本人らしい 発想があると思うのです。よく意味も分かってないで、最近の流行の言葉だからと言う理由で、 やたらに「徳」の字を濫用する。今もあるじゃないですか、そういう例は。 で、怨霊思想なんですけど、「徳」の字は当時最高の言葉ですから、本当にすばらしいと 思われた天皇に贈ったか、或いは本当に怨霊となるのが恐ろしかった人に贈ったか、 のどちらかだと思います。たいした業績もないのにこの字が贈られた天皇は怨霊でしょう。 僕の意見では、聖徳太子=半怨霊、称徳天皇=怨霊ではない、と思います。 理由は長くなってしまったので、また今度書きます。 あと、こういう意見を書くのに勉強しなければ書いてはいけないんでしょうか? 僕は、ここでの意見交換が一番の勉強と思っているので、「逆説の日本史」 を読み直す以外、ほとんど他の書物は読んでません。だめでしょうか? Time : 1999/ 2/22(月) 23:05:15
Name : kohalu E-mail : fwkt2589@mb.infoweb.ne.jp Title : これでいいのか、日本の安全 Comments:  朝鮮半島が騒がしくなってきました。また国内では、コンピューター犯罪や凶悪 事件の発生、オウムの復活など暗いニュースばかりです。国民が脅威にさらされて いるのに、なぜ法律を改正して対処しようとしないのでしょうか。 Time : 1999/ 2/22(月) 23:56:43
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(61)「後鳥羽上皇」諡号 Comments: RUGOMAさん、はじめまして・・・KANAKです。 >>ところで、この場では「◯徳怨霊説」はかなり旗色が悪いようですが、 >>それでは何故後鳥羽上皇は最初「顕徳」とおくりなされたのにその数年後 >>「後鳥羽」に変更されたのでしょうか? この件については・・・次のとおり、申上げております。 私は、怨霊信仰が確立された平安初期以降は・・・井沢さんの所説をある程 度承認しているのです。 Title : 「逆説の日本史2」(28)「称徳諡号」と「名」ゴミレス ・・・・・・・・・・ 私は、敢えて申し上げれば「文徳」以降は・・・井沢さんの「怨霊鎮魂」説 を以て解釈されるのも、一つの考え方かも知れないと思います。 これら四人の「X徳」とは、時代も諡号選定者も明らかに異なるのですから、 後世「鎮魂」の意味(=諡法)で『御無念な御生涯であられた』天皇に贈ら れたのかも知れません。 「崇徳」「安徳」「顕徳(後鳥羽)」「順徳」は前後の天皇諡号が単なる 「地名追号」であるのに比して、「美称諡号」であり、明らかに「諡法」が 異なりますが、これについては「特殊諡号」問題として古来色々論議されて きたものです。これに「文徳」を加えて見るのも結構です。 しかし、「懿徳」以下の四人の「X徳」の「諡号」については「諡号選定時 期」から見て、また「称徳」については「尊号」奉呈の経緯から見て・・・ この様な論理は適用し難いと考えているのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Title : 「逆説の日本史2」(33)「文徳」と「平城」諡号 ・・・・・・・・・・・ ・・・と取り敢えず申し上げましたが、これについて考えて見ます。 (怨霊・平安時代・・・共に守備範囲外ですので、自信は有りません。 どうぞ存分に、ご批判下さい。(^0^)”) 井沢さんは「文徳」の怨霊要素として、以下のとおり記述されています。 ・・・(省略) しかし、その意味ならば・・・平城天皇(774〜824)は如何でしょう? 彼は・・・(省略) まあ、死亡年齢・死因等も異なりますので・・・・良く分かりませんが、子 孫が皇統を嗣いだ「文徳」と、皇統を断たれた「平城」では怨霊要素がオッ ツカッツである様な気もします。・・・ 死因についても「文徳」は早世・急死とは言え、異常死とは限りませんしね、 ・・・・みなさんは、如何お考えでしょうか? Time : 1999/ 2/23(火) 00:26:20
Name : RUGOMA E-mail : Title : KANAKさん。ありがとうございました。 Comments:  ↓早速のご返答、感謝いたします。  もう言及なさっていたんですね。  大変失礼いたしました。 Time : 1999/ 2/23(火) 06:28:37
Name : ノム E-mail : Title : 小松さんへ Comments: とくに、特別な勉強をしなくてもいいんじゃないで しょうか。勿論ここで出てきた内容について、興味 のある事については、個々調べるのがいいとは思い ますが、勉強しなくてもというと語弊があるかもし れませんが、自由な意見が登場すること自体が大事 な事だと思っています。 ただある程度の定説に対する知識がないと僕の意見 のように無視されるだけです。 ぼくは、それでも少しづつ知識をつけていきたいと 思ってはいますが・・・・お互い頑張りましょう。 Time : 1999/ 2/23(火) 07:47:49
Name : ノム E-mail : Title : 徳についておもうこと Comments: し号に徳の字がつけば即怨霊であるとは限らないと 思います。ただ当時の人々の深層意識の中に少しは そういう意識があったとは思います。あくまでも、 不文律としての意識だったため摘要にたいして若干 のずれが起きたのではないでしょうか。時代により 常識が変わるように・ Time : 1999/ 2/23(火) 08:37:05
Name : ノム E-mail : Title : 徳について思う事2 Comments: 徳の字がつくし号については、業績がないから怨霊 と方程式の様に決め付ける事は出来ないと思います 。逆もまたそうです。井沢先生やKANAKさんがおっ しゃるように何事も断定はできないのです。 「逆もまた真なり」です。 Time : 1999/ 2/23(火) 09:11:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 苦言 Comments:  しばらく留守にしている間にずいぶん議論が進みましたが、 中には少しひどいのでは?と感じるような意見も多いと思いました。 特に、KANAK様がまたぞろ批判の対象としている本も ろくに読まずに「批判」なさっているのはいただけません。 それでは「まず否定ありき」そのものではないでしょうか? そのような態度で、他人の説をトンデモ呼ばわりするのは失礼です。 そう危惧したことも含めて、「お読みください」とお願いしたのですが、 無視されたようで残念です。確かに、ina様のご意見も井沢説の 読み方といえますが、小生は違います。当然、人によって異なるでしょう。 だから、KANAK様の批判はina解釈に対する批判でしかありません。 もちろん、小生の読み方も違っているかも知れません。したがって、 この件で、井沢批判といわれるのは止めて、あくまで小生批判でお願いします。  小生は、称徳の墓の件はサービスというか「おまけ」と解釈しています。 井沢説以前の素人の解釈として、率直すぎる言い方をあえてすれば、  「まったく色ボケのわがまま女帝が、権力欲丸出しの坊主と組んで、  天皇家をめちゃくちゃにした。こんなやつは死んで当然。」 というイメージをもとに考えがちで、実際通常は似たようなものでしょう。 そういうひどいイメージのもとで、通常の歴史は一応格好がついていたと思います。 ところが、それらが意図的に作られた像だとしたら、話は違います。 小生が、井沢説を要約しにくいといったのは、このイメージを崩すために まず、道鏡の名誉挽回から手をつけ、じっくりと称徳の通説イメージを 崩しておられるからです。批判するなら、この部分からするべきなので、 ちゃんとお読みくださいと申し上げたのです。  また、称徳の功績は、荘園による藤原氏の寄生虫的体制の確立を的確に予想し、 それを阻止しようとしたことであり、これが見落とされているということです。 そうでなければ、井沢先生は羅生門の話などされないでしょう。 つまり、道鏡と組んで称徳がしたかったのは打倒藤原でもあったのです。 そう見れば、   誰が色ボケカップルといううわさを流したのか?   なぜ、病気とはいえ道鏡から隔離したのか?   なぜ、回復のために、あまり祈らなかったのか?   なぜ、吉備真備が悔しがるほどの、強引な皇位継承を即決したのか?   称徳が死んで得をするのは誰か? など(ただの思い付きの羅列です)の疑問が次々に起こり、説明が必要です。 それらをまとめて解決する一つの仮説として、「暗殺」は妥当だと思います。  まったくうまく表現できていませんが、小生の方向で井沢説について お読みの方がいないようなので、驚いています。 たしかに、この件では井沢先生は少し迷っておられるところがあると思います。 それで、2巻ではあいまいな表現になったのでしょう。  まったく勉強不足といわれても、そのとおりというしかありませんが、 1次資料をちゃんと確認し、現地調査も確実に行った上でなければ 自由に意見がいえないようならば、このような場は意味がないと思います。 繰り返しいいますが、この件での小生批判は歓迎ですが、「井沢批判」なら、 誰にでも気軽にアクセス可能であるという意味で「原典」に当たるべきです。 Time : 1999/ 2/23(火) 10:50:29
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ Comments:  旅行はどうでしたか?小生は出雲大社にいったことがありません。 また、印象に残ったことなど、ご報告いただければありがたく存じます。  ところで、疑問に思われている道鏡怨霊化のことですが、小生は知識は あまりありませんので、単に個人的感想としてお聞きください。 「苦言」で少し触れましたが、道鏡は高潔な僧であったように 思います。ほかの方はいざ知らず、ひたすら称徳の回復を 祈ったようですから、不自然な仮説ではないと思います。 つまり、あくまでも権力を求めていたのなら、恨みもあるでしょうが、 それほど執着していたようには考えていません。 それで、権力に未練たらしい愚痴をたれた道真などと違って、 称徳に対し気の毒には思ったでしょうが、自分自身に 与えられた仕打ちは、修行として割り切れた可能性もあります。 やはり、怨霊化しそうに思われるのは、道鏡の悪いイメージに 基づいているのではありませんか? Time : 1999/ 2/23(火) 12:54:19
Name : ina E-mail : Title : KANAK Comments: 大阪JF生さん こんにちは 「確かに、ina様のご意見も井沢説の読み方といえますが、小生は違います。当然、人 によって異なるでしょう。 だから、KANAK様の批判はina解釈に対する批判でしかありません。」とのことで、 ご反応、とても嬉しく思います。  私は暗殺説を以下に従ってまとめました。 1.「称徳」暗殺の首謀者・実行者(或いはグループでも結構です)。2.「称徳」暗殺の 場所・手段・方法等。3.上記想定の具体的根拠、或いは状況判断 (あくまで、暗殺の動機ではなく、実行についてです)4.その根拠となった史料(新 たな史料が挙げられているならば・・・ 「あくまで、暗殺の動機ではなく、実行について」ということで、井沢さんが延々と展開 されている称徳と道鏡の関係の部分は実行については関係がないか、不明であると思いま す。 Ina解釈は実行について、大阪JF生さん解釈は動機についてのものだと思います。従っ て解釈が違うというより観点が違うということだと思います。KANAKさんのお言葉通 り「、、、既に申し上げたとおり「動機」の存在と「実行」の立証とは、別に考察すべきも のです。、、、」だと思います。 「小生は、称徳の墓の件はサービスというか「おまけ」と解釈しています。」ということ ですが、となりますと、井沢さんの本では、埋葬と陵の造営が異例のスピードで行われた、 という暗殺の実行についての根拠は自身で直後に否定されており、唯一の根拠と思われる 点をおまけにされることになりますが、、、。   KANAKさん もう少し付き合って頂けませんか。 桓武天皇と平安京編もお願いします。  私自身週刊誌、単行本、文庫本とすべて所有するほど井沢ファンですが、あれ、とた まに疑問だったことが展開されているこのHPが大好きです。定年後のボケ防止 がきっかけだったそうですが、良い刺激だと思いますけど。 Time : 1999/ 2/23(火) 13:17:19
Name : ノム E-mail : Title : 道鏡の怨霊化について Comments: 大阪JF生様ご意見有り難うございました。道鏡が称 徳のパートナーとして理想の政治を目指していたの なら、崩御によって一人遺された彼は尚の事次ぎの 政権に対して恨みを残したと思うのです。その理想 が貴いものならより一層強い怨霊となるのではない でしょうか? Time : 1999/ 2/23(火) 14:18:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ノム様へ Comments:  説明がまずくてすみません。 道鏡はあくまでアドバイザーで、称徳自身手が汚れていないとは 思っていません。やはり仏の道に反したことも多くされたはずです。 道鏡自身が「政権を取った暁には」とは考えなかったと言う意見です。 その意味では、やはり称徳はある種の報いを受けたのであり、 自分自身もその協力者として罰を受けて当然と思っていなかったでしょうか? 再度お考えください。 Time : 1999/ 2/23(火) 14:26:48
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments:  はじめまして。御意見いただきありがとうございます。 ただ、以前にKANAK様と同じような展開で議論をし、 (結果は徒労でしたが)そのときにも申し上げたのですが、 強い動機と実行(さらにその後の行動・状況)は表裏一体だと 思いますので、個々の論点を切り離して議論するのは反対の立場です。 (切り離すのはあくまで議論しやすくするための便宜とおもいます。) 当時述べたことは、「多く発生した事件の一つ一つを検証したとき、 証拠不充分で無罪と判定される人物が、すべての事件に関わっていたら、 全体としては無視できないのではないだろうか?」という意見でした。  またすでにKANAK様が言われたことなので、繰り返しになりますが、 現代のような情報社会ならいざ知らず、当時の「暗殺」はやはり、 闇の中の出来事であり、直接の証拠がある方が変だとおもいます。 その点で、暗殺に踏み込むのは「労多くして益なし」と言うことでしょう。 たしかに証拠は状況的なものにすぎず、頼りない仮説でしょう。 しかし、直接証拠はなくても、その仮説で多くの前後の状況が説明可能ならば、 小生はそれで立派な仮説だと考えています。 おそらくその点が、問題視されているところなのでしょう。  いくらでも事例はありますが、自然科学の世界ではこのような仮説は ごろごろしています。前に触れたスーパーストリング理論など、 「素粒子は振動する高次元の紐」という素人には信じがたいもので、 実際、物理学者からもトンデモ視され、データに合わなかったという理由で 一旦は葬り去られかけたものでした。しかし、実際はデータの方が誤って いることもわかり、復活し認められたのです。でも直接「そんな形」だという 証拠など全くありません。しかし立派な仮説です。 小生は、自然科学すらも仮説の集合体だとおもっています。 「真実」など、人間が到達できるものだとはあまり思っていません。 (近づくことはできるとおもっていますし、それは価値があると考えます。) 仮説が完全に立証された事例など、あまりないように思います。 また、データ(史料)もすべて間違いないとは言えないでしょう。 その意味で、「どの仮説が、全体として納得の行く説明を与えるか」を 議論しているつもりです。もちろん、多くの立場があってよいと思います。  道鏡や称徳についての解釈が、実行の状況証拠として無関係という解釈ですと、 井沢先生が延々と述べておられることが、あまり意味を持たないと解釈しています。 当然、墓の事を無視するわけではありませんが、重点の置き方が違っていると 言いたかったのです。動機にすぎないのではなく、取り巻く状況の解釈と思っています。 歴史考証としては甘すぎてだめだといわれれば、そうなのでしょう。 全くの素人考えにすぎません。 前回・今回の発言で、気分を害するようなものがあれば、お許しください。 Time : 1999/ 2/23(火) 14:33:32
Name : 輔住 E-mail : Title : KANKAさんへ Comments: KANAKさん、inaさん、みなさん、こんにちは inaさんは桓武天皇と平安京編が楽しみみたいですが、 私としては足利義満編も楽しみですね。 もちろん、KANAKさんだけでなく、みなさんの様々な意見が聞きたいですね。 Time : 1999/ 2/23(火) 14:52:26
Name : 医座輪喪都非弧 E-mail : Title : 南北朝、平安朝、 Comments: 朝廷の事ばかりですね。 いっその事、井沢先生を飛び越えて戦国時代か江戸 時代にたいして勝手に逆説する。 というのはどうでしょう。 Time : 1999/ 2/23(火) 17:39:33
Name : 小松 E-mail : Title : 「苦言」には反対です Comments: 大阪JF生さん、こんにちは。 ぶしつけにこんな意見を言う失礼をまずお許しください。 貴方のKANAKさんへの意見は、読みもしないで批判するな、と言うことですか? でしたら僕は反対です。井沢先生の本を読んでいようがいまいが、どちらでもいいじゃないですか。 この掲示板が、井沢先生を応援するためだけか、或いは批判するためだけのものであるなら、 井沢先生の著書を読まないのは確かにおかしいです。しかし、僕はここはみんなが歴史に対して 興味と知識を深めるため、と言う意味もあると思います。むしろそのつもりでここに来ています。 「逆説の日本史」は議論を進めるための軸の一つに過ぎないと思っています。 そういう意味では、KANAKさんの知識は議論するにあたり「逆説の日本史」を 読む・読まないということなど問題にならないくらい豊富なものだと思います。 僕は井沢先生の著作や、その歴史に対する試みに対しては大変尊敬しますが、井沢先生の 名誉や個人的なことに関しては、はっきり言って全く興味ありません。 ですから井沢先生とKANAKさんの間のやり取りも、二人の間の個人的な事としか 思ってません。 僕の興味は歴史の真実であり、その意味では井沢説にもこだわりはありません。 今までの議論を見ていても、KANAKさんの意見に「逆説の日本史」を読まないことによる 不都合を少なくとも僕は感じませんでした。ましてや歴史の真実を探るのにその知識は、 余ると言うことはあっても足りないとは思えません。むしろ、こういう掲示板では 皆が井沢先生に賛成で、ただ「僕もそう思う」的な発言になりがちな中で、はっきりと 反対説を述べる人は貴重な存在ではないでしょうか? 本当に失礼だとは思いましたが、来る人を限定してしまうような、そんな危惧から書きました。 大阪JF生さんにはそんなつもりはないとは思いますが。 KANAKさん、こんにちは。 ここを去るなんて言わないで下さい。 貴方がここで書く意見は、その量や知識の豊富さ等を考えると、仕事が終わり、帰宅した 後に書くには大変な労力では?、と愚推します。それを思うと軽軽に引き止める事もどうか、 と躊躇うんですが、ぜひまた意見を聞かせてもらいたいと思います。 まー、僕などは貴方から見れば無知・若輩でまともに議論する気になれないのかもしれませんが、 「歴史の誤った認識が蔓延するのを防ぐ」との初志で、是非これからも来て欲しいと思います。 以上思い付くままに書いてしまいましたが、より実り多い議論を交わし、 歴史を深く探求したいとの赤心よりの発言のつもりです。ご容赦ください。 Time : 1999/ 2/23(火) 18:29:05
Name : きんたろう E-mail : Title : イメージよ、来い! Comments: 隣で一人遊びしていたのですが、にぎやかなのでこちらに来ました。 私は大阪JFさんの苦言に同感です。 私が書こうとしたことそのものです。 安部さんやKANAKさんはお互いに「強い」文章を書きますが、これは彼らの個性 なのですから尊重すべきだと思っています。 私がなぜこの時代の話に対してROMを決め込んできたのかというと、自分の中で イメージが動かなかったからです。 歴史は私たちの先人達の物語です。そう思って過去をさかのぼったとき彼らは 生き生きと動き出し、鮮やかな色がわき上がってくるはずなのです。 でも、この時代はどうしてもモノトーンの静止画像のイメージがあるだけだったのです。 多分これは自分の知識量や関心の度合いが低いといったことに由来するのだと思います。 (一応知識としては持っていると思ってはいるのですが) そうした自分と比べると安部さんは「画」を描こうとしました。 KANAKさんも同様です。 個々の知識が有機的に結合し大きなイメージを作り出すという事は素晴らしいこと です。私はそれを見てみたいと思っています。 また、「画」は個人によって筆使いが違うのは当然ではないでしょうか。 ところで、隣で光圀なんて書いてしまいましたが、ひょっとして「ひんしゅくを買っていた」 のではと心配になってしまいました。 Time : 1999/ 2/23(火) 19:14:17
Name : ノム E-mail : Title : おのれのほっせざるところひとにほどこすことなかれ Comments: うーん混乱してまいりましたね。あまりにも多くの意見がでてきて、どの意見 が最も妥当なのかよく解らなくなってきました。こういう場所での意見交換は、 相手の顔が見えない分余計に難しいものだとあらためて実感いたします。 1.KANAKさんは、どうして井沢さんの本を読もうとしないのか? 2.KANAKさんは、本当にこのホームぺージから抜けたいのか? 3.KANAKさんが、本当に抜けたいのなら、その理由は? 4.いちいち資料にあたって根拠を見つけてないと発言できないのか? 5.もし、資料の読み間違いがあった場合の訂正の仕方は? 6.反対意見の出し方はどうすればよいのか? 7.掲示板の使い方についてもっと細かいルールがひつようなのか? 僕が感じた昨日、今日の投稿に関する疑問点は以上です。 僕の意見としては大阪JF生さんの投稿に賛成いたします。 井沢説を批判するためだけにこの掲示板に書き込まれている わけではないでしょうから、絶対読まなくてはいけないとは いいませんが、井沢さん本人を名指しで批判する以上、井沢 さん本人が書かれた文章をまず読んだほうがいいでしょう。 でないとKANAKさんが批判している井沢さんの学会に対 する批判と同じように誰かに批判されてもしょうがないので はないでしょうか? これでは堂々巡りです。せっかくの貴方の努力も水の泡とい うものです。どうしても読みたくないから投稿もしないとい われても、困るのですが。 逆説の日本史を読みたいのと同じで貴方の意見もよみたいの です。ここでできた関係も大事にしてほしいのです。わがま まな意見ですが聞き届けられるようお願いいたします。 PS出雲の見聞について書くつもりでしたが、また改めます。 Time : 1999/ 2/23(火) 22:05:19
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(62)「称徳暗殺説」・・批判に反論ください Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 inaさん、ご迷惑をお掛けし、申しわけ有りません。 深夜の帰宅ですので・・・簡略に申上げます。 読むべきだ、読まなくともやむを得ない・・・と議論頂いていますが、 失礼ながら、時間のむだです。 私は、読まなければ適切な批判が出来ないと思えば・・・読みます。 読まなくとも、紹介内容で適切な批判が出来ると思えば・・・読みません。 従って、みなさんに判定頂きたいのは・・・「暗殺実行」の根拠に関する 私の批判が正しいか、誤っているか・・・の一点です。 私は・・・紹介内容で、限りなくトンデモに近いと判断しました。 大阪JF生さんは・・・読まれた上で、「小生は、称徳の墓の件はサービス というか「おまけ」と解釈しています」と判断されました。 表現は異なりますが・・・意味は変わらないと思います。 「歴史科学」に於いて、「称徳暗殺実行」の唯一の具体的根拠が「おまけ」 ならば・・・これは読者を愚弄するものだと考えます。 正しくトンデモでしょう。 「称徳暗殺動機」の根拠を批判するならば・・・紹介のみでは不足するか も知れません。 しかし、私は現段階では・・・「動機」は有ったと考えています。 要するに・・・私の歴史考察の基本的立場は・・・ スターリン・ヒットラー・マオツァオトン等の独裁者について「暗殺」の 動機は山ほどある・・・しかし、「動機」が幾ら多くとも、新たに付け加 えられても・・・現段階では「暗殺説」は立証され得ない。 「暗殺」が「実行」されたとする根拠そのものが希薄だからです。 真実は「暗殺」かも知れず、その真実は完全には明かされないかも知れな い・・・しかし「暗殺」であると断定し、その断定のもとに歴史考察を進 めるのは「歴史科学」ではない。・・・・・と言うことなのです。 どうぞ、読む読まないではなく、「暗殺実行」に関する紹介内容に基づく 私の批判に関して判断願います。 これに、ご異論をお寄せいただくのは・・・大歓迎です。 Time : 1999/ 2/24(水) 00:46:58
Name : きんたろう E-mail : Title : またまたすみません Comments: 大阪 JF生さんすみませんでした。 Time : 1999/ 2/24(水) 00:49:58
Name : ina E-mail : Title : ジャッカルはどうなるのかな? Comments: 大阪JF生さん こんにちは 「道鏡や称徳についての解釈が、実行の状況証拠として無関係という解釈ですと、井沢先 生が延々と述べておられることが、あまり意味を持たないと解釈しています。 当然、墓の事を無視するわけではありませんが、重点の置き方が違っていると言いたかっ たのです。動機にすぎないのではなく、取り巻く状況の解釈と思っています。」 とのことですが、この文章を逆に読みますと井沢さんの文章に意味を持たせるためには関 係があるという解釈をするべきだ、となり、まるで宗教の根本経典を読むような態度に思 われます。 私の態度は井沢さんの本は暗殺そのものについての根拠が陵の場所だけであり、その論 証は私の理解を超えておりました。KANAKさんの論証によればそこに特別の意味を見 出して暗殺の実行根拠とするのは無理だ、という解釈だと思います。 ですから、この点をおまけにされず、反論していただきたいのです。それに納得できれ ば、暗殺の実行に就いての根拠を私は一つ認めることになります。     情況証拠と実行をあいまいにするなら死体検案書のない権力者をほとんど暗殺が実行 された、として良いことになると思います。小説のアイデアにするなら良いと思いますけ ど。  ところで大阪JF生さん 桓武天皇始めませんか。 Time : 1999/ 2/24(水) 07:55:35
Name : ノム E-mail : Title : でわ Comments: 陵の位置が通常と異なるからこその推論であるので この事実の見かたの違いが通説では説明しきれてな いとの問題提起ということとうけとめております。 井沢さんのいいたい所はある一点の証明よりもあく まで事実の見方を考えるという事ではないでしょう か? Time : 1999/ 2/24(水) 11:09:36
Name : ina E-mail : Title : 桓武天皇 Comments: KANAKさん 大阪JF生さん、みなさん、こんにちは KANAKさん 少し教えて頂きたいのですが、桓武天皇と平安京、 文庫本のp184に 「歴史学者はこういう信仰を桓武以降顕著になってきたものだとし、聖徳太子の時代には なかった、とする。しかしこういう信仰が桓武の時代に確固ものとして、疑問を持たれて いない(例えば桓武の行為に対してそんなことはムダだと諫言する人間が誰もいない)と いうことはこの信仰が明らかに桓武以前に広く定着していたことを示している。」という 記述があります。 天皇が行っているなんらかの鎮魂の行事に諫言がなされた例、とかあるのでしょうか。   ただ私個人のこの文章への感想としては事実がなかったことをなんらかの推測の根拠にし ようとしている点で、オールマイティーの論理(なんでもありの論理)になっており、こ の本の中だけでも疑問の声が噴出する論理だと思います。 さらに、直後のp185で、 「私は「唯物論者」だからそんなことはしない、と言う人はあまりいないのではないか。 そういう「唯物論者」(ina注、、私は「唯物論者」だからそんなことはしない、と言う人 ですよね)にしても他人が「厄払い」に行くのを「ムダだからやめろ」とは言わないだろ う。現代ですらそうなのである。ましてや昔は帝王から庶民に至るまで霊の実在を信じて いたのである。」 とあり、 補強のために出された後半はむしろ、霊を信じない人が少ない現代でも他人の厄払いに諫 言する人はいない、ということになり、前半の怨霊信仰が既に以前に成立していた、とい う根拠を自分で否定していると思われます。 前の文章で根拠として挙げてあるものを直後に自身で否定した文章の流れになっています。  やはり、根拠にならない点を根拠にして、議論が進んでいるという印象です。 Time : 1999/ 2/24(水) 11:25:22
Name : ina E-mail : Title : ノムさん Comments: 「陵の位置が通常と異なるからこその推論であるのでこの事実の見かたの違いが通説では 説明しきれてないとの問題提起ということとうけとめております。」  私の認識では通常の位置と異なる、ということは論証されていない、と思うのですが。 Time : 1999/ 2/24(水) 11:29:39
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 皆様ご意見ありがとうございます Comments:  皆様、さまざまなご意見ありがとうございます。 答えきれるかどうか、自信ありませんがレスを書きます。  小松様 わかりにくい文章で申し訳ありませんでした。 小生もKANAK様の知識やアプローチに対し、文句を言っているのでは ありませんし、watcherとして、その点は十分認めているつもりです。 しかし、今回は特に「小生がまとめきれないのでお読みください」と お願いしているにもかかわらず、無視された上にトンデモ扱いをされて いたことに対する苦言です。ただ、同じ事を以前KANAK様もおっしゃいましたが > 僕は井沢先生の著作や、その歴史に対する試みに対しては大変尊敬しますが、井沢先生の >名誉や個人的なことに関しては、はっきり言って全く興味ありません。 このご意見は、相手が井沢先生であるかどうかに関わらず、おかしいと思います。 特定の個人に対しての態度として言っているのではありません。 やはり、相手を批判する場合に「まず相手の意見をよく聞く」というのは 「最低限の礼儀」だと思うのです。もし、小松様が論文なりをおかきになり、 それに対し、よく読まずに(たいていは見当違いの)批判を公の場でなされたら、 どのようにお感じになりますか?(しかも「庭先」のような身近なところで) とくに礼儀については、最低限のルールは守らないと、単なる誹謗中傷の言い合いに なってしまう恐れがありませんか?  したがって、井沢批判に直接結び付けずに、単にこのHPに登場した意見に対する批判を なさればよいのではないでしょうか。その際に「勉強していないから発言するな」と 意見を排除するがごとく小生は発言した覚えはありませんし、批判をし合うことでお互いが 高まればそれでよいと思います。それが結果として井沢批判であってもかまわないと思いますし、 小松様もお感じのように、小生もそれを排除する気はありません。むしろ歓迎しています。 (井沢先生ファンとしては、逆説の日本史がより高度に成長すればよいと思うからです) また何度か言っているのですが、歴史の真実に近づきたいと思う気持ちは誰でも同じで、 井沢先生の現在の説を盲信されている方は、このHPにはいらっしゃらないと思います。  それから、3巻を読む必要性は「苦言」で書いたつもりなのですが、なおかつ読む必要が ないという理由が見当たらないので、お聞かせいただけませんか? よろしくお願いします。  きんたろう様、ノム様 「苦言」をご理解いただきありがとうございます。 やはりこんな小言は、だれもあまりすすんで言いたがらないでしょうから、 ひとつオジザンが役を買って出ました(ちなみに小生は井沢先生と同世代です)。 やはり基本的に、安部様がおっしゃているように楽しく議論・研究したいのです。 もちろん手厳しい意見を言うなとは言いませんが、ものは言いようだと思います。 またこれからもご意見お聞かせください(もちろん、お叱りでもOKです)。    KANAK様 2巻のご批判は妥当だということは既に述べました。またina様がおかしいと ご指摘の3巻の暗殺根拠批判も妥当だと思います。両方とも整合性に欠けます。 また、KANAK様が守ろうとなさっている「歴史科学」のお立場も理解できます。 小生が井沢先生に同感している部分は、まさに素人的な甘い感覚でしょう。 しかし、それでも可能性を否定できない以上、トンデモは言い過ぎだと思います。 もし、この件で井沢批判をお続けになりたいのなら、やはりお読みいただきたいと 思います。ポリシーとして、間接的すぎる状況証拠のみなら論じる必要性がないと、 おっしゃるならそれもお立場と理解しますので、皆さんが望んでおられる別の 議論に力を移されることを希望いたします。  ina様 まずい文章をお見せして、また誤解を与えてしまったようです。どうもすみません。 上にも書きましたが、ina様が「井沢説での暗殺の唯一の根拠」とされている文章は やはりご指摘どおり無理があると最初から認めていたつもりです。 (墓の位置に関しては、ノム様のご意見とおなじです。) もともと、小生はこれを根拠と思っていませんでした。最初に読んだときも、 記憶からすぐ消えてしまい、井沢先生がこれを根拠にしていたことなど すっかり忘れていました。もしこれだけのことなら、2巻で十分いえることで、 3巻まで引き伸ばす理由がまったくありません。 それで、小生が井沢先生は本当は何を言いたかったのかと思いながら通して読み直し、 文面上「最大の根拠」とか書いておられますが、やはり違うと感じたわけです。 それで、根拠はむしろ道鏡と称徳の評価の見直しという頼りない証拠だと思いました。 せっかく重要な伏線をはっておられるのに、暗殺の時点の文面にまったく表れていません。 (井沢先生も人間です。失敗もあるでしょう。おそらくここは書き直されるはずです。) たしかに頼りなさ過ぎる根拠で、これでは弱いと感じて迷われたのでしょう。 いってみれば、「無理にサービスをして、赤字を出してしまった」という感じです。  それでも、小説レベルの感覚に過ぎないとおっしゃるのももっともかもしれませんが、 歴史の流れの全体的解釈としては、有力な仮説だと思いますし、 定説よりは説得力があります。  学生時代、藤原氏が三世一身法・墾田永世私財法によって荘園を拡大し、 天皇を圧倒する権力・財力を得たという話を聞いたときは、 「天皇家はそんなこともわからず、何の手も打たない無能ぞろいか?」 という疑問を抱きました。それぐらいの近未来を見抜いて、命を賭しても阻止する ぐらいの骨のある人間はいないのかと感じたものでした。 ようするに古代人は藤原氏などを除けば馬鹿ばかりといいたいのだと聞こえたのですが、 どこにでも頭の切れる人間はいるはずで、何も行動を起こさないほうが変だと リアリティをまったく感じませんでした。  でも道鏡・称徳ペアがそれをしたのです。たんなる色ボケペアには不可能な 事でしょう。藤原氏の将来を決める重要事項です。さからえば、生命の危険もあって 当然のことです。以後実際に逆らうものはしばらく出ていません。 どういう手を使って黙らせたのでしょう?やはり死にたくないと思わせたと考えます。 なぜそう思わせることができたのでしょう?・・・・・・・・・ そういう印象が強かったので、3巻を前述のように読んだのす。 素人的な知識しかありませんが、同じように感じられる方も多いのではないでしょうか? 別に難しい経典の解釈をしたわけではないことは、ご理解していただけると存じます。  やっぱり小生の文章力では説明しきれていないのかもしれません。 桓武天皇に移っても同じ感覚をひきずってしまいますが、それでもよろしいのでしょうか? Time : 1999/ 2/24(水) 11:31:36
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments:  「桓武天皇」の文章を読む前に記事を出してしまい、 言及できませんでしたので、質問させてください。 今回のご主張は(おそらく説明不足で)分かりにくく感じます。 とくに、 >前半の怨霊信仰が既に以前に成立していた、とい >う根拠を自分で否定していると思われます。 が理解不可能なので、補足説明お願いいたします。 それから、「オールマイティーの論理(なんでもありの論理)」 もよく分かりません。井沢先生は一般常識のレベルの話を されていると思うのですが、違うのでしょうか? 読解力が不足しているのを棚に上げて申し訳ありませんが、 ご説明よろしくお願いします。 Time : 1999/ 2/24(水) 11:52:58
Name : 輔住 E-mail : Title : 「苦言」等への感想 Comments: みなさん、こんにちは 私は昔(天智編、または出雲大社のことが議論になっていたころ) KANAKさんに"「逆説の日本史」をよく読んで下さい"と言ったことがあります。 それは、井沢先生が言いたいことと、KANAKさんの批判の「論点」がずれていたと 感じたからです。 でも今はそういう部分はないと思います。だから小松さんの意見に賛成です。 今回の「称徳暗殺議論」でKANAKさんはまず私たちに「井沢説はどうなの?」と 聞いてそれを基にして反論をしています。(つまり相手の意見を聞いている) だから「最低限の礼儀」は十分守っていると思いますが Time : 1999/ 2/24(水) 12:31:41
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: そうなんですか、どうもすいませんでした。 僕が確認しておきたいのは、井沢先生の歴史の見方 についてなんです。怨霊史観〈?)により、歴史の 流れを再認識し古代からとぎれがちな歴史の見方を 考えなおすという問題提起について、どう思うのか という事です。 Time : 1999/ 2/24(水) 13:25:05
Name : ina E-mail : Title : 大阪JF生さん Comments: 大阪JF生さん こんにちは 無理矢理に桓武天皇に付き合って頂いてすみません。ありがとうございました。 私も最近下書きをしてから投稿しているのですが、送った後で風呂の中で、あれは意味が通ら ないのでは、と思うことしばしばです。   この部分ですが、井沢さんの論理は 1.桓武天皇の早良への鎮魂行為に対して諫言する人物がいなかった。 2.ということは桓武天皇時代には確固たるものとして疑問をもたれていない。 3.故に、この時代以前に定着していた、と考えられる。 ということだと思います。 1については、記録として、どこかの時点で、鎮魂行為に諫言された天皇がいたか、が問題 になると思います。以前に記録があれば、その時点と桓武天皇のあいだに怨霊信仰が成立し たことは言えると思います。私はそれを調べるノウハウがないので、KANAKさんに甘え たお願いをしたのですが、、、。 その記録がないと、まずこの時点で説得力をかなり失うと思います。 2の、天皇の行為に諫言する人がいないことが、その行為に誰もが疑問を持たないことの証 拠にはならない、と思います。独裁国家で、独裁者に諫言する人がいないこと、あるいはそ れが記録に残されないことは、国民にひろくその独裁者が支持されていることとは別だと思 われます。 3によると、怨霊信仰の起源を天皇の怨霊鎮魂に諫言した記録のあるところまで溯ることにな る。となると、溯るほど記録はなくなりますから、起源は無限に溯らなくてはならないのでは。 この点をオールマイティーの論理だと書きました。 なお、直後のp185で、 「私は「唯物論者」だからそんなことはしない、と言う人はあまりいないのではないか。 そういう「唯物論者」(ina注、、私は「唯物論者」だからそんなことはしない、と言う人 ですよね)にしても他人が「厄払い」に行くのを「ムダだからやめろ」とは言わないだろ う。現代ですらそうなのである。ましてや昔は帝王から庶民に至るまで霊の実在を信じて いたのである。」 は現代を含めていつの時代でも諫言する人なんかいる訳ない、ということで、諫言する人がい なかったから、と2につながる1の事実を唯物論者のあふれる現代でもそうだ、といっており、 その時点で怨霊信仰が広く浸透していた、という論理の 自己否定になっていませんでしょうか。 ということです。ご反論、ご教示よろしくお願いします。 ところで最近、投稿の時間をみながら、この人はどういう生活のパターンなのか、とかどこか らアクセスしているのかな、と想像しています。 Time : 1999/ 2/24(水) 13:27:21
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  私は怨霊史観とか大好きです。特に私みたいにふにゃふにゃしてると、この怨霊 史観でこんなに興味深いことが分かるんんだぞ、という井沢さんの文章に初めて接 したときの興奮は忘れられず、本はほかの分野も含めて沢山読みました。素晴らし い問題提起だと思います。かつ面白い。  ただ、私も今度4回目の通読をしてますんで少しおかしいな、と思うことをノム さんとかと一緒に語り合いたいとおもっています。  あと、墓が通常の位置と異なる、ということは論証されていない、と思うのです が。と書いたのですが、井沢さんは本で書いておられますが、KANAKさんの文 章でほとんど論破されたのではないか、と言うつもりでかいたものでした。 すみませんでした。 Time : 1999/ 2/24(水) 13:43:24
Name : ノム E-mail : Title : 怨霊史観の意義 Comments: inaさん、お返事有り難うこざいました。 僕がKANAKさんに聞きたいのは正にこの点なのです。 検証においてはKANAKさんの投稿の方が正鵠を得てい るとは思いますが、逆説の日本史を通しての怨霊史 観についてどういう評価をなさるのかが知りたいの です。 Time : 1999/ 2/24(水) 14:24:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 桓武と怨霊信仰 Comments: みなさん、こんにちは 桓武天皇のことが話題になっているので私も意見を述べたいと思います。 私は桓武以前からあったと考えています。 たとえば、桓武に誰も諫言できず、桓武がいきなり始めたとすれば 彼の死後、それはすたれた可能性が高い。 だが、菅原道真や崇徳上皇の例で分かるように明らかに発展している。 以上 ど素人の一意見でした。 Time : 1999/ 2/24(水) 16:15:12
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: 馬鹿ですいません。僕は「逆説の日本史」を二巻ま でしか持ってないので貴方の抜粋された所だけを読 んでも何がいいたいのかよく理解できません。今か ら三巻を買いにいきます。重ね重ね馬鹿ですいませ んでした。 Time : 1999/ 2/24(水) 17:41:54
Name : RUGOMA E-mail : Title : 「諫言」が根拠? Comments:  確かに自分も「諫言」の例はおかしいと思いますし、「明らかに」  桓武以前の時代に怨霊信仰が「定着」していたという井沢先生の主張には  自分は反対です。  平安遷都を進言した和気清麻呂やアテルイの処刑に反対した坂上田村麻呂  の「動機」に疑問が残ってしまうからです。  しかし井沢先生の趣旨は「諫言した人物がいないからこの時代に怨霊信仰が確立していた」  とは主張していないと自分はみます。  ここに紹介されていた文章だけでは誤解されそうですが、章全体を読むと  井沢先生の論旨はむしろ「桓武の行為を無駄だと思う「常識」が当時は無かった。」と  いうことであり、「諫言」はカッコ付けしてある通り「例示(確かに  おかしな例ですが)」の部分だと思います。また「唯物論者でも他人の  厄払いを「無駄だから止めろ」とは言わない」というたとえ話も  「諫言」を「止めろ」ではなく怨霊信仰がほとんど信じられていない現在でも、  他人の「信仰」を「止めろ」とは言わないはずだ、ということだと解釈しています。 Time : 1999/ 2/24(水) 19:22:56
Name : 私家医師 E-mail : Title : 道鏡の怨霊について Comments: 愛媛県越智郡弓削町に「弓削神社」があります。 古来、弓削道鏡を奉っているといわれ、 別名「法王宮」ともいいます。 ただし、信頼できる資料に欠け、 事実関係は不明です。 江戸時代に儒者・半井悟庵が記した「愛媛面影」には、 「道鏡なんか奉るわきゃねえだろ、 法王宮なんて呼ぶな!」 てな調子で紹介されています。 Time : 1999/ 2/24(水) 19:45:46
Name : ノム E-mail : Title : 自己否定? Comments: inaさん、3巻買ってきました。ご指摘の部分の前後だけ 先に読みましたが、何度読み返してもinaさんの解釈の様 には読めませんでした。 この部分は、現代において厄払いが、時代を重ねて市民権(?) を得たのと同様に桓武天皇の時代には怨霊信仰がすでに市民権 を得ていたと解釈するのが妥当であります。 僕の国語力では何回よみかえしてもこうとしか理解できないの ですが。他の方はどう解釈しているのか教えて下さい。 それと本屋によったとき週刊ポストを立ち読みしたのですが 今回の逆説の日本史に、「全共闘時代にはアメリカが核を もつのは許せないけど、ソ連がもつのは当然ゆるされるべき」 という話がかいてありましたけど、本当に当時そんな意見が あったのでしょうか?今週号を読んで、当時そんな事があった と記憶されている方がいたら本当かどうか教えて下さい。 Time : 1999/ 2/24(水) 22:14:15
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(64)「桓武と怨霊雑感」 Comments: inaさん、RUGOMAさん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「桓武」と「怨霊信仰」については・・・以下のとおり考えます。 (inaさんの、ご指摘の部分に限定いたしますが、第何巻ですか?) 何だか繰り返しになるようですが・・・ 「歴史学者はこういう信仰を桓武以降顕著になってきたものだとし、聖徳 太子の時代にはなかった、とする。しかしこういう信仰が桓武の時代に確 固ものとして、疑問を持たれていない(例えば桓武の行為に対してそんな ことはムダだと諫言する人間が誰もいない)ということはこの信仰が明ら かに桓武以前に広く定着していたことを示している。」 ・・・こう言うことでしょうね。 1.「桓武」が怨霊信仰を隆盛に導いた。   (通説の認める歴史認識) 2.その際「桓武」に対して、怨霊信仰をムダだとして諫言した人物はい   ない。(井沢さんの推定・・・KANAKも 記述は不知・事実は不明) 3.このことは、「桓武」時代に怨霊信仰が確固としたものとして、疑問   をもたれていないことを意味する。(井沢さんの2.による推論) ・・・或いは半ば常識化していたことを意味する? 4.即ち、怨霊信仰は「桓武」以前に広く定着していたことを示す。   (井沢さんの2.3.による結論) 5.従って、聖徳太子時代に怨霊信仰がなかったとする歴史学者の見解は   誤っている。(井沢さんの歴史学者批判) 私も、「桓武」が怨霊信仰に傾斜したとき、諫言した人物がいたという記 述は知りません。 このことについての解釈は・・・「怨霊信仰」の定義、「諫言」の内容が 問題ですが、一応・・ 怨霊信仰=「怨念を残した特定死者の祟りを畏怖し、鎮魂祭祀する信仰」 ・・・とします。 @井沢さんの3.の推論が正しく「桓武」以前に怨霊信仰が定着していた  ため、諫言はなされなかった。 A「桓武」が怨霊信仰に傾斜することは、国家的大事ではなく、諫言をす  る必要があるとは考えられ無かった。  (「桓武」の逆鱗に触れてまで、諫言する必要はないでしょう。) B怨霊を畏怖する精神は、人類共通の贖罪意識に基づくものであり「桓武」  の怨霊信仰は特に諫言すべきモノとは考えられ無かった。 C怨霊を畏怖する精神は、崇神天皇の大物主祭祀に見られる伝統思想であ  って「桓武」の怨霊信仰も、基本的にはこの精神を継承するモノであり、  諫言すべモノとは考えられなかった。 D「桓武」に対する諫言はあったが、国家的大事件ではなく史書に記述さ  れなかった。 等が考えられます。敢えて言えば・・・学者の平均的意見はCになるかと 思いますが・・・私もC+(B)です。 しかし、BDもあり得ます。決して@を論証するものでは無いと思います。 「私は「唯物論者」だからそんなことはしない、と言う人はあまりいない のではないか。そういう「唯物論者」にしても他人が「厄払い」に行くの を「ムダだからやめろ」とは言わないだろう。現代ですらそうなのである。 ましてや昔は帝王から庶民に至るまで霊の実在を信じていたのである。」 仰るとおり、現在・・・霊の実在を信じてない人でも諫言しない。 まして、昔・・・霊の存在を信じている人が諫言するはずがない。 従って、諫言がなされ無かったことを持って、「桓武」以前に怨霊信仰が 定着していたことを論証することは出来ない。 これが論理的帰結だと思います。何を仰りたいのか良く分かりませんね。 ただ、私は一口に「怨霊思想」と呼ぶところに混乱があるのでは無いかと思 います。ほんの思い付きですが・・・ 1.原始的怨霊信仰・・・一般的に死霊に対する畏怖から来る単純な鎮魂行 動。贖罪意識を持つ場合は行動が増幅され得る。 2.神格的怨霊信仰・・・伝承上の神格に対する畏怖から来る施設・儀式・ 子孫祭主等を伴った鎮魂行動(祭祀)。 3.人格的潜在型 々・・・特定の怨念を残した死者に対する贖罪の念に由来 (政治性以下同)) する鎮魂行動であるが、特定の施設・儀式を伴わ 無いので、外部からはそれと判明しない。 4.人格的秘匿型 々・・・同上であるが、ある種の表象(祭祀・仏教施設) を伴うことがあるので、外部から窺うことも不可 能でない。 5.人格的顕在型 々・・・同上であるが、鎮魂行動に必ず人格の顕在化を伴 い、宗教施設・儀式も明確となるので、外部から 完全に知り得る。 6.人格的悪霊型 々・・・贖罪意識というより、本来の悪霊(人格的出現?) に対する鎮魂行動動である。 ・・・なんて言うのは如何でしょうか? 要するに5.が一般的に言われる 「怨霊信仰」であり、「桓武」以降に隆盛となったことは歴史学者にも異論 が無いでしょう。 藤原広嗣・後世の平将門は・・或いは6.か?? 問題は・・・3〜4が認められるか? これを「怨霊信仰」と称すべきか? だと思うのです。 私は、例えば・・・「聖徳太子」は3〜4の人格的怨霊とは認め得ない。 当然「法隆寺怨霊寺説=表象」は現時点では認められない。 「孝徳」は3.の可能性は有るが、外部表象が無いので確認出来ない。 「天智」は問題外。 「大津皇子」は3〜4の可能性が有るが、外部表象が確認出来ない。 (二上山埋葬・薬師寺東院が或いは表象か?とも思う。) 「長屋王」は3〜4の可能性があるが、「東大寺」は表象とは考えない。 更に検討を要す。 「称徳」は問題外。 「井上内親王」「早良親王」は通説どおり5.であって問題が無い。 「秋篠寺」は「井上内親王」の表象の可能性もあるが、更に検討を要す。 「文徳」は、時代的に当然あるべき表象が無いので・・・非怨霊。 (或いは4.と考える可能性もあるか?・・良く分からない) ・・・ナーンテ考えていますが、通勤電車の中の思い付きです。 Time : 1999/ 2/24(水) 22:26:02
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(63)「トンデモ??」・・・その他 Comments: ノムさん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 ノムさん・・・ お元気そうですね・・・出雲大社では「四拍手」をしましたか? 公共投資と寺院建設の関係等・・・コメントがつきませんね。 もし、このままノーコメントであれば、私の考えを申し上げます。 (大して参考にはならないと思いますが、無反応は淋しいですよね) 陵墓位置の問題・・・inaさんのご意見を参考にして落ち着いて考えて見 て下さい。(何が問題なのか良く分かりません・・・勘違いですかね?) 原爆の話は本当です・・・中国に関しても同様の議論がありました。 ソ連は労働者の天国であり、我々の「祖国」である・・・なんて本気で 議論していたんですよ。つい最近?でも「北朝鮮楽園論」があったって、 信じられますか? 「怨霊史観」については・・・何度も申しあげているとおり、単なる歴 史解釈の切り口であって、「史観」とは考えていませんし、「史観」が 歴史科学に必要とも思いません。本当のことを言えば・・・あまり興味 が無いのです・・・スンマセン。 HP参加当時は、このことで随分叱られました。学生時代に「マルクス ・レーニン史観」を信じないと人間扱いされなかったのを思い出してし まった位です。(^^;) さて、私に対する疑問点をあげられましたので・・・お答えします。 1.私が第三巻を読まない理由・・・   @限られたテーマであれば、適切な紹介により元説を考察できると    言うことを、実証したかった。(これが否認されるのなら、「誰    々先生の著書には・・」と言う質問に対し、著書を読まねば回答    できなくなってしまいます。)       A第三巻を読めば、恐らく疑問点が浮かぶ・・・検証が必要となる    ・・・批判せざるを得なくなる(批判しなければ井沢説を承認し    たと受け取られかねない)・・・時間的余裕がない。・・です   B私が批判すれば・・・(僭越ですが)みなさんが独自に批判する    機会を奪いかねない。 2.私が退出する理由・・・・   @井沢さんの反論を期待して参加したが、それが不可能だと言うこ    とが明かとなった。(しかし、井沢さんも、これだけ色々な人か    らHPで疑問点が出れば、無視はされないと思うにいたった。)   C私に対する対抗心?故に益々過激な論を展開されるのを目の当た    りにするのが辛くなった。   A第二巻について・・・ホボ批判は言い尽くした。第三巻以降につ    いて同様の検証を行うのは、参照すべき史料が膨大となり時間・    費用・能力的に自信が持てない。   B参加当時に比べれば・・・(健全な)批判精神が高まった様に思    う。(僭越ですが)原典参照の必要性等・・検証のポイントにつ    いても理解が深まった。 CこのHPを、元の和気藹々とした雰囲気に戻したい・・・と言う 意見があった。 Dブッチャケタトコ・・・一寸疲れてきた。 3.資料根拠と発言・・・   私は、特に拘らず自由に発言されれば良いと思います。   ただ、断定したり・・・他人に教える様な口調で発言される場合は   それなりの根拠を準備しておかれた方が良いでしょう。   こういった場合は、当然「反論」が出ることがあり得ますが、断定   口調に対しては、ある程度の資料根拠によるもの言う前提で、詳し   い説明もなく、核心部分を鋭く突かれることになり兼ねません。   失礼ながら今の貴方のレベルでは、謙虚に色々な意見を教えてもら   った方が得だと思いますので、断定口調は避けた方がいいでしょう。   (人間は謙虚に聞かれると、丁寧に教えて下さるものです。) 4.反対意見の提示・・・   概ね3.と同じですが・・・やはり反対意見を出す場合は、より慎重   を期した方が良いでしょう。   最初は相手の意見を箇条書きにし(論点の分析です)、何処が問題な   のかを明確にし、問題とする部分について一応資料を確認しておくこ   とをおすすめします。   なお、原著書を読まずに批判することも理論的には可能だと思います   が・・・より慎重にね! 大阪JF生さん・・・・ そもそも「称徳暗殺説」は「称徳怨霊説」における贖罪意識から出発した ものですね。 そこで・・・井沢さんが「称徳暗殺説」を主張されていると言うことなの で、「暗殺実行」の具体的根拠をお聞きしたものです。 その時点で、大阪JF生さんが・・・ >>「小生は、称徳の墓の件はサービスというか「おまけ」と解釈していま >>す」・・・ >>井沢説での暗殺の唯一の根拠」とされている文章はやはりご指摘どおり >>無理があると最初から認めていたつもりです。 >>もともと、小生はこれを根拠と思っていませんでした。・・・ >>たしかに頼りなさ過ぎる根拠で、これでは弱いと感じて迷われたのでし >>ょう。いってみれば、「無理にサービスをして、赤字を出してしまった」 >>という感じです。・・・・   とお感じになっていたのならば、そのむね付言して頂きたかったですね。 ただ、井沢さんの読者は貴方の様に論理に習熟した人ばかりでは無いと思 われます。 それどころか、井沢さんに自信を持って・・・ 「異常死した死者は「死え」にみちているため通常の場所には埋められな い。どこか別にしなければならないのだ。つまり、そういう形で葬られた 死者は自然死(病死)ではありえないということだ。」 ・・・と断言されれば「サービス」とは思わず、これが「真実」だと思う 人も少なくないでしょう(特に論理的考察に未熟な中高生等) 私が敢えて「トンデモ」と申し上げたのは・・・その危険性を感じるから なのです。 「史談」ならいざ知らず「史論」の中で「歴史認識に関する読者サービス」 は不要です。私は、「サービス」か何かは存じませんが、この様な「誤解」 を植え付ける説を「トンデモ」と呼んでいるのです。 なお、本件については特に異論が掲載されない限り、これ以上申し上げる べきことは何もありません。 Time : 1999/ 2/24(水) 23:58:54
Name : ノム E-mail : Title : (例えば桓武の行為に対して・・・)の部分について Comments: KANAKさん、こんばんは。 この部分の解釈については、「通説において、桓武の時代から、 怨霊信仰が広まったことに異論を唱える学者がいない」という事 の一つの例として挿入されていると思います。 井沢さん自身はもっと以前の時代から怨霊信仰の存在を認めてい るので、この時代から認める事となった学者の根拠としてカッコ 扱いで挿入したと思ってます。勿論いつものフレーズ「資料至上 うんぬん・・」をいれたかったのでしょうが字数上の問題、すぐ 前のページで使ってしまっているなどの事があり、このフレーズ をつかえなかったため、こういう挿入文となったと考えるのが妥 当であります。 つまり、この部分は井沢さんの仮説の根拠ではないのです。 通説の根拠として提示しているのです。 僕がこうおもうのは、国語の試験問題でよくある評論文に対して の問いの答えとしてこの解釈なら正解だと確信できるからです。 本当に合っているかは作者にしか解らないことですが・・・・。 別に井沢さんを弁護するための解釈ではありません。 ちなみに僕の現代国語の成績は三年間5段階評価で5でした。 国語表現は3でしたが・・・・・・・・・・・・・・・・・ 間違った解釈の仕方でしょうか。教えて下さい。 Time : 1999/ 2/25(木) 00:06:19
Name : ノム E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: 行き違いになったようですね。丁寧な、お教え本当にありがたく 思っています。今回は個人的な疑問についてまでお答えいただき 非常にうれしくおもいました。 やはりこれだけの知識に基づいた投稿をつづけられるのは疲れま すよねぇ。 ただ、いままでほどの綿密な批判投稿でなければ、つづけられる んじゃないかなぁとおもいます。とはいえこちらの方が期待して しまうかもしれませんけど。 聖徳太子の本は、せっかく借りてきたのに旅行の間に母が勝手に 返してしまったので、最後まで読んでません。今日図書館にいった のですが、貸し出し中でした。 出雲大社では正面から四拍手してきました。西側からは、二拍手 して大国主命を元気づけて来ました。 出雲の見聞については、ここでは不似合いなので、とまり木か、 ふぉーらむに投稿してみたいと思っています。 そちらの常連のかたいいでしょうか? Time : 1999/ 2/25(木) 00:45:59
Name : RUGOMA E-mail : Title : KANAKさんへ Comments:  KANAKさん、お早うございます。RUGOMAです。  連日の丁寧な御解説有り難うございます。  ”「逆説の日本史2」(64)「桓武と怨霊雑感」”で提示して下さった  「第3巻を読まない理由」「退出する理由」もっともだと思います。  自分もたったあれだけの文章を書くのに半日推敲しました。  (正確には根拠に乏しくてあれしか言えませんでした。)  自分は手紙を書いた経験もあまりないので、他人に読ませる文章を書くというのは  えらく大変なことなんだなとたった2,3回の投稿で痛感しました。  だから「・・・疲れた。」という事はよく分かるのですが・・・  ・・・たった一つ「寂しい」から、出来る範囲でかまいませんので  またいらして下さいとだけ申し上げておきます。  つたない文章ですみませんでした。  >「桓武」と「怨霊信仰」については・・・以下のとおり考えます。 >(inaさんの、ご指摘の部分に限定いたしますが、第何巻ですか?)  第3巻「古代言霊編」第2章「桓武天皇と平安京」編  文庫本では182〜191ページです。 Time : 1999/ 2/25(木) 06:31:54
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments: 質問にお答えいただき、ありがとうございました。おかげさまで  御主張は理解できましたが、既にかなりの方がご指摘のように、 そういう様には解釈しがたいとおもいます。 最初、御意見を伺ったときに感じたのですが、すこし、 形式論理に則りすぎておられるのではないかとおもいます。 ただ、すぐに反応しなかったのは、軽軽に印象のみで 批判すべきでないとおもったので、再度逆説の日本史3巻を 見直しました。すると、  「私は「唯物論者」だから・・・・ の部分は、「ことさらに難しく抽象的に考えないでいただきたい」 という御願いに続くパラグラフで、一般的に「週刊誌連載→著書」の 流れから見ても、「常識的感性に訴えた記述」と見るべきでしょう。 断り書きがあるので、ことさらですが、学術論文を吟味するように 形式的に捉えるべきではないように思います。  歴史でも、著述でも同じだとおもいますが、前後の流れというか文脈・ 背景から切り離して個別に論じるのは、このような危険性を常に含みます。 KANAK様も良く用いられる手法ですが、時代・背景と切り離して、 単純にデータ比較するのは、参考にはなりますが、その意味であまり有効とは 思っていません。その時代・個人特有の状況を切り捨てることになりますから。 それで、昨日のような(「皆様..」の文です)意見を述べたのでした。  それから、オールマイティ論理の件、おっしゃるようにかなりバックする 必要があるとおもいますが、人類の歴史が有限である限り「無限」はないでしょう。 常識的に考えて、人類が「概念」「言語」を獲得して以降の話だとおもいます。 すると、記録に残っているのは神代の昔でしょうが、井沢先生は、 オオクニヌシの怨霊の話から始められたのを御忘れではないでしょう。 やはり、実質的な井沢批判にはなっていないように思います。  それで、小生はまだ称徳を引きずっているのですが、前回までは、井沢説の 解釈にとどまり、事後の状況判断に対する意見を述べていませんでしたので、 ついでながら、述べさせていただきます。  称徳崩御後、天武・天智系にもし井沢説のような根深い対立がなかったら、 井上内親王は、夫が天皇になり、普通祝福されるべき立場になったはずです。 ところが、度重なる呪詛の疑いで(なぜ、のろう必要があるのでしょう?) 実子の皇太子の決定は取り消され、挙げ句の果てに幽閉されたという事が 公式に述べられています。此の方たちの怨霊化についてはかなりの方が 御認めではないでしょうか?  やはり同じ一味の仕業でしょう。同じ仕打ちを称徳にしなかったというのは、 何か特別な理由付けが必要とおもわれます。しかし、称徳の場合記録にないと おっしゃるとおもいますが、記録に残せば「大逆」であり、犯人は以後の歴史で 力を振るえないはずです(ここは常識的感性に訴える文章です)。  やはり、この件に対する議論を飛ばして桓武には入りにくいとおもうのですが、 いかがでしょうか? Time : 1999/ 2/25(木) 10:16:00
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  丁寧なご回答ありがとうございました。 確かに、この件に関しましては井沢先生の方に 完全に非があるとおもいます。 (明言されたことが違っていましたので) この部分は、恐らく書き直されるでしょう。 ただ、小生はトンデモをもっと悪い意味に 採っていたので、文句を言っただけでした。  それ以外にも、いろいろご指摘の部分で、 逆説の日本史の改訂に影響を与えないはずは ありません。学術論文ならば、かならす、 KANAK様に対するthanksが必要なところです。 そういう意味で、御意見は全然無駄ではなく 非常に大きな影響を与えたと評価されます。  ただ小生はやはり、細切れの個人批判ではなく、 「KANAK著・日本史」を読みたかったというのが 本音です。おそらく、同意される方も多いでしょう。 機会があれば、是非チャレンジしてください。 まことに勝手なお願いでした。 Time : 1999/ 2/25(木) 10:32:14
Name : 小松 E-mail : Title : 大阪JF生さんへ Comments: 大阪JF生さん、こんにちは。 前回の僕の発言はちょっと軽率でした。 僕の言いたいことは、ただ”ここへ来る人を限定しない”ということが 確認できればそれで良かったのです。それ以外のことについては おそらく人それぞれの考え方やスタンスの違いがあるでしょうから、言及すべきでなかった、 と反省しています。僕は日常でもそうなんですが、意見を言っているつもりでも つい、極論に走ってしまう癖がありまして、慎重に発言せねばなー、と今反省している ところです。 また、お尋ねについてはそういう訳で、僕から言っておきながら言い逃げのようで、 聞かれたことに関して答えないと言うのも甚だ礼を欠くこととは思いますが、 お答えしないでおくことをお許しください。 Time : 1999/ 2/25(木) 12:12:38
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさん、大阪JF生さんへ Comments: KANAKさんへ: ありがとうございました。 RUGOMAさんも言ってましたが、たまに"一言" 言ってもらえれば「うれしい」ですね。 大阪JF生さんへ: 称徳を暗殺した方は誰だと思いますか? それがないと"議論"として、かなり難しくなると 思うのですが。 どうも生意気なことをいうようで申し訳ありませんが...。 Time : 1999/ 2/25(木) 12:36:33
Name : ina E-mail : Title : こんばんは Comments: ノムさんへ  「この部分の解釈については、「通説において、桓武の時代から、怨霊信仰が広まったことに 異論を唱える学者がいない」という事の一つの例として挿入されていると思います。 井沢さん自身はもっと以前の時代から怨霊信仰の存在を認めているので、この時代から認める 事となった学者の根拠としてカッコ扱いで挿入したと思ってます」 ということですが。 改めて問題の文章を分けますと、 1.歴史学者は怨霊信仰を桓武天皇以降顕著になったものとしている。 2.(桓武天皇の早良への鎮魂行為に対して諫言する人物がいなかった。) 3.ということは桓武天皇時代には確固たるものとして疑問をもたれていない。 4.故に、この時代以前に定着していた、と考えられる。 ということだと思います。 1は通説、これに対して井沢さんが2を理由として、3を示し、4の結論、すなわち聖徳太子 の時代を含む桓武天皇以前に定着していたことを主張している、という流れだとおもいます。 ノムさんの解釈は2を1の根拠と考えるということですが、なぜ井沢さんが歴史学者の通説 の根拠をあげる必要があるか不明ですし、文章の流れも、そうは取りがたい様に思います。 また、もしそうもとれるとすれば、桓武天皇以前に定着していたことの根拠とも、桓武天皇 以降顕著になったことの根拠のどちらともとれる事象をもって議論をしていることで、 根拠にならない文章が幾つか出てきて、「そうかんがえれば」とか「ということは」という言 葉のあとに、どうしてつながるのか不明の結論が示されているという印象ですね。  ノムさんの国語の成績が良かったのは確かだとおもいます。「ここで著者の述べたいこと は何か」という問いに的確に答えているからです。 称徳編で井沢さんの言いたかったことはというと、私の答、「称徳は怨霊」だった。ノムさ んはどうですか? 大阪JF生さんへ ありがとうございます。 そうですね。もう少しじっくりやりましょう。内親王の話、詳しく教えて下さい。 ところで、 「私は「唯物論者」だから・・・・の部分は、「ことさらに難しく抽象的に考えないでいた だきたい」という御願いに続くパラグラフで、一般的に「週刊誌連載→著書」の 流れから見ても、「常識的感性に訴えた記述」と見るべきでしょう。」 私もそう思います。というか、この部分はむしろ当然のことを井沢さんは言っておられ、こ の文章は「そうだそうだ」と納得します。しかし井沢さんはこの文章の流れの中で、怨霊信 仰が以前に定着していたことの例証の一つにしている。(たとえばに続く文章ですから)し かし、この、歴史学者でも井沢さんでも、大阪JF生さん、ina、と皆の納得できる当たり 前の事実が、どうして議論の分かれるポイントの一方を支持する例になるのでしょうか。  「それから、オールマイティ論理の件、おっしゃるようにかなりバックする必要があるとお もいますが、人類の歴史が有限である限り「無限」はないでしょう。 常識的に考えて、人類が「概念」「言語」を獲得して以降の話だとおもいます。すると、記録に残 っているのは神代の昔でしょうが、井沢先生は、 オオクニヌシの怨霊の話から始められたのを御忘れではないでしょう。」 バックして、天皇の鎮魂行為にたいするなんらかの反対で、この時期にはまだ怨霊信仰が定 着していなかったといえる記録とか事件とかあるのでしょうか。ないから、神代のむかしか らあった、というのはやはり納得できないです。 Time : 1999/ 2/25(木) 12:51:44
Name : ina E-mail : Title : KANAKさん Comments: こんにちは  最近のHPを見ての感想ですが、皆さんKANAKさんに答えてもらうと嬉しい みたいですよね。 私もそうですけど。  こんなに慕われていて、それでも去られるのでしょうか。   Time : 1999/ 2/25(木) 13:41:53
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(65)皆さん、有り難うございました・・・ Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 「世の中は 一期一会の 飛鳥川 浅き夢みじ 酔いもせず・・・吽」 仮名句集より 大阪JF生さん・・・ 長らくのお付き合い感謝いたします。お陰で色々と勉強させて頂きました。 随分失礼なことも申しあげましたが、最後に爽やかなお言葉を頂戴し、良い 思い出になりました。今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。 安部さん・・・ 貴方は素晴らしいものを、沢山お持ちです。 磨けばもっともっと輝く方だと思っています。「三日みざれば・・・」 颯爽と復帰されることを信じています。 輔住さん・・・ 失礼なことばかり申しあげましたが・・・何時も、おおらかに受け止めて頂 きました。更めてお詫びかたがた御礼申しあげます。 inaさん・・・ 身に余るお言葉、本当にありがとうございました。貴意に添えなくて申し訳 ありませんが、井沢さんの良き批判者としてのご活躍をお祈りいたします。 ノムさん・・・ 社寺と公共投資・・・巨大古墳と潅漑工事・終末古墳と巨大寺院・移動宮殿 と定置都城・氏族寺院と荘園・・・「古代」の「公共投資理論」等も面白い テーマだと思います。幅広く貪欲に勉強してください。 三枝さん・・・ ご忠告ありがとうございました。その後努力したつもりです。 RUGOMAさん・・・ 専門教育を受けた方のご意見も、もう少し伺いたかったのですが・・・理系 の方が多いこのHPでは貴重な存在だと思います。面倒がらずに適切なご意 見を、お願いいたします。 井沢さん・・・ 民の声は、神の声・・・HPの声は、貴方自身の心の声でもあると存じます。 一日も早い御対応を、切に期待させて頂きます。 それでは、みなさん・・・Danke! und auf wieder sehen !! Time : 1999/ 2/25(木) 23:12:50
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: 今晩は、皆さん。昨日自分で投稿した文を読み返してみると自分 のいいたかった事がきっちり書けてないのでもう一度書き直して みたいと思います。 inaさんの抜粋された部分についてです。 前提として井沢さんは大国主の死後には怨霊信仰が発生している (プレ怨霊信仰)とされています。そして桓武天皇の時代までに 怨霊信仰は広まっていると主張しています。ですから、桓武の時 代に怨霊をまつる事を諫言しないという事を、怨霊信仰の広がり の根拠として採用する必要がないとおもうのです。 一方、通説においては信用できる資料に基づき、怨霊信仰の存 在が認められるのは桓武天皇以降としています。 ここで本来なら、資料にでてきたからと記すべきところなんです が、この時点において怨霊信仰が存在するという一点で井沢さん の意見と通説が合致しているので、それを強調するために、双方 とも相容れるであろう当時の人たちの態度を推測し一例として、 この一文を挿入したと僕は、考えたのです。なぜかというと、 井沢さんは資料至上主義を批判しているから、資料に出てきたと はいいにくかっただろうと推測できるからです。 「唯物論者」の部分について 厄払いが行われるようになって(いつからかはしらないのですが) もう何年も経つ事によって世間に認知されています。そうなって くると、いくら信じていなくても、自分自身がしなくても、信じ ている人の邪魔をする人間はいないでしょう?という読者に対す る問いかけの意味が含まれていると解釈しています。 道鏡と称徳女帝編で井沢さんのいいたかった事 「称徳は怨霊だった」がinaさんの答えですか、僕はちがいます。 「怨霊信仰を通して歴史をみると通説とはこんなに違った解釈が できる。その実例として称徳を怨霊として仮説を展開してみま した。皆さんはどう思いますか。」です。 称徳天皇の陵墓が正しく指定されていない現状では怨霊である とははっきり言い切れていないと考えられるからです。だって 最後の最後で陵墓の所在不明を記しているからです。井沢さん は、ここまで、死者の弔いの仕方によって怨霊かどうかを診断 されているので墓が判明していない状態では確定的には断定し えない。あくまでも「称徳は怨霊くさい」です。 Time : 1999/ 2/25(木) 23:25:17
Name : ノム E-mail : Title : KANAKさんへしつこいようですが・・・・・ Comments: お言葉ありがとうこざいます。でも早すぎます。 まだ称徳天皇編について結論が出ていないというのに・・・・ 投稿を積極的になさらなくても、このページを読む事は今後も 続けて下さい。そして何かアドバイスがあれば、別人になって でも登場して下さい。別人になれる事もインターネットの利点 の一つだそうですから。気分転換にもいいそうです。 卒業の季節に去られるのは、余計に辛い感じがします。 最後の言葉はドイツ語ですか?それともフランス語? 意味はわかりませんが、「また会う日まで」と勝手 に解釈しています。たった一月たらずのおつきあいでしたが いろんな話を教えていただき、本当に有り難うございました。 「いまこそ、わかれめ、いざ、さらば」 Time : 1999/ 2/26(金) 00:05:40
Name : ina E-mail : Title : nomu Comments: もし既に論じられていたらお許し下さい。  輝かしき第一巻、信長と安土の地名のところですが、平安に対抗して、地名を着 けたのなら、なぜ平安楽土、という、平安を含む言葉の、また略称を採用したの しょうか。  そして、当時はあまりに常識的で、記録に残す必要がないと、考えられて、わか らなくなってしまった当時の常識が井沢さんには分かるんでしょうか。  素直な目で歴史を見るときの拠り所は常識です。井沢さんの常識は私たちの常識 に近く、信長時代の常識に近いということはありえないと思うのですが。  皆さんが初めてこれを読んだ時の印象を教えていただけますでしょうか。 私は、そんなもんかな、と言う感じでした。 成る程、と膝を打って立ち上がった人とかいらっしゃいますか。 ノムさんへ  「称徳天皇の陵墓が正しく指定されていない現状では怨霊であるとははっきり言 い 切れていないと考えられるからです。だって 最後の最後で陵墓の所在不明を記しているからです。井沢さんは、ここまで、死者 の弔いの仕方によって怨霊かどうかを診断 されているので墓が判明していない状態では確定的には断定しえない。あくまでも 「称徳は怨霊くさい」です。  そうですよね。あの論証からはそうなるのが素直な読み方だと思うのですが。 井沢さんは井沢さんの概念にある一定の範囲に女帝の墓がないとして、かなり断定的に暗殺の、「実行」の根拠としておられるとみます。  ところで11月以前の議論の見方、わかりますか  他の論点、ご意見頂いて申し訳ないのですが、次回にさせてください。 ところでスワローズって強そうな動物の名前なんでしょうか。 Time : 1999/ 2/26(金) 08:26:34
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : ina様へ Comments:  井上内親王は、安部様やKANAK様はたびたび話題にされていますが、 聖武天皇の娘(称徳と姉妹)で、伊勢斎宮も勤めていたようです。 井沢先生はあまり触れておられませんので、簡単に続日本紀から拾います。 (こんな本を買ったのもKANAK様の影響です。ただし、古典を正確に読む 自信が全く無いので、宇治谷孟氏の訳本(講談社学術文庫)です。) 770(宝亀元年).8.4. 称徳崩御、即、禁中で協議し、藤原永手が    白壁王(光仁)を皇太子と決定したと報告。 8.21. 皇太子が道鏡を造下野国薬師寺別当に任ず。(左遷というより温情?) 9.23. 一年に限っていた服喪を更にこの時点で取りやめ。 10.1. 光仁天皇即位。 10.8. 吉備真備辞職願い出る。 11.6. 井上内親王を皇后とする。 11.27.橘奈良麻呂・藤原仲麻呂の乱の関係者を許す。 12.7. 藤原永手に山城国相楽郡出水郷の山200町賜る。 771.1.23. 井上内親王の子、他戸親王を皇太子にする。 2.22. 永手死す。この日の追悼記事は非常に長い。 3.2.  井上内親王が難波内親王(光仁の姉)の呪咀に連座した罪で、 皇后の地位剥奪。 5.17. 度々の井上内親王の呪咀による大逆で、他戸王の皇太子を廃す。 772.1.2.  山部親王(桓武)を皇太子に立てる。 10.14.難波内親王死す。 10.19.井上内親王・他戸王を大和国宇智郡に幽閉。 775.4.27. 井上内親王・他戸王ともに死す。 (5月以降、地震・飢饉・疫病・日照り・白い虹・碁石のような雹などがつづく。) 777.12.28.井上内親王の遺骸を改葬。墓守一戸を置く。 この冬はひどい渇水で、出水川も宇治川も徒歩で渡れた。 最後の記述については、鎌倉期の水鏡で、井上皇后は恨みで蛇身と化して、 このような天変地異をおこしたと記述されているそうです。ついでながら、 この本で井上を暗殺したとされる藤原百川は、桓武をすわりこみストまで行って、 擁立した人物といわれています(母親の新笠に問題ありと反対されて)。  ざっと関連の記事を挙げてみました。この間、藤原一族の昇進には目覚ましい ものがあります。771.3.2.では、なぜそんなことをしたのか理解不能です。 井上内親王は呪咀をかなりしていたようですが、なぜ呪い始めたのでしょう? 小生自身は井沢説の延長上で解釈できるつもりですが、長くなるので別の機会にします。 どなたか筋のとおる解釈をしていただけませんか?  それから、 >、天皇の鎮魂行為にたいするなんらかの反対で、この時期にはまだ怨霊信仰が定 >着していなかったといえる記録とか事件とかあるのでしょうか。ないから、 >神代のむかしからあった、というのはやはり納得できないです。 ですが、(諫言にこだわりすぎておられませんか?)ないからオオクニヌシまで戻る のではなく、井沢先生は最初から怨霊の捉え方・処し方がどう変遷していったかを 考察されているのだと思います。  また、 >歴史学者でも井沢さんでも、大阪JF生さん、ina、と皆の納得できる当たり >前の事実が、どうして議論の分かれるポイントの一方を支持する例になるのでしょうか。 についても、不思議であるとは思いません。改めて問われれば無意識に当たり前のように、 認めうるようなことも、非科学的として(歴史などの)学問的考察では (おそらく福沢諭吉以来)排除されています。対して、それをあえて主軸に採り入れた のが井沢史観なのではないでしょうか?その点、意見が分かれるはずですが、 いかがでしょうか? Time : 1999/ 2/26(金) 09:41:03
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様へ Comments:  興味を持っていただき、ありがとうございます。 今まで、輔住様とは余り意見が対立することが無かったように 思いますので、今回は何かしら、少し居心地が悪いような気がしていました。 安部様も今年度が終わって帰郷されたのでしょうか、称徳暗殺説はまったく 孤立して寂しい限りです。(もっとも、安部様は処刑説でしたか。 でも秋篠寺称徳怨霊鎮魂説は実は支持しています。)  誰が暗殺をとのことですが、首謀者は藤原永手・百川コンビと思っていますが、 まったく直接証拠となるものはありません。  天武の孫長屋王が自殺「させられ」、その怨霊で藤原4兄弟が疫病で死んだ というのは高校でも習いました。その後、百川の兄弟広嗣も乱で殺されています。 仲麻呂は身内からも煙たがられていたようですが、それでも身内が殺されました。 それで、称徳の死後、長屋王の子供である文室兄弟(太市・浄三)が当然の 後継者と思われていたのに反し、(永手による)白壁王擁立です。しかし、 井上内親王は親子ともども幽閉され、水鏡によれば百川に殺されています。 もちろん、後世のいいかげんな資料という見方もできますが、「百川伝」に 基づいているともいわれ、「井上を殺せば、のろわれて早死にすることを覚悟の上、 百川は世のため人にため殺した」という言い方は決して百川を悪者扱いしていません。  以上の流れを見て、直接証拠がないので称徳は殺されていないというのは、 あまりにも潔癖すぎる態度のように素人として考えますが、いかがでしょうか? Time : 1999/ 2/26(金) 09:55:27
Name : 輔住 E-mail : Title : 大阪JF生さんへ: Comments: 大阪JF生さん、こんにちは 返信どうもありがとうございます。 念のため申し上げておきますが、 私が「称徳暗殺」に否定なのは直接的な証拠がないからではありません。 天皇暗殺が事実なら証拠隠滅に必ず走ります。 理由は以前「称徳暗殺論と私の意見」で述べました。 その繰り返しになりますが自分の意見を述べます。 称徳が病で倒れたのが「逆説の日本史」3巻によれば 4月、死んだのが8月。その間、暗殺はかなりやりやすい状況だったと 思います。それなのになんで3から4ヶ月も「病状」が続いたのか? また、称徳の評価を歪めすぎている。 (「反藤原政策」を取ったからある程度は仕方ないが) これでは「怨霊鎮魂」どころか火に油のような行動としか思えない。 「怨霊」とされた方々の評価は必ずしも「善い人」というわけでは ありませんが、どこか「腫れ物にさわるように」丁寧に扱っていると 感じる部分があるのですが称徳の場合、それをあまり感じません。 ただ、称徳が病気で倒れた後の行動は彼女の意に反することばかりで 「回復」したら怒り出すようなことを平然とやっていることを 考えると怪しいと思うときもありますが。 自分の心の中では暗殺説 反対が80% 賛成が20%ぐらいですね。 Time : 1999/ 2/26(金) 12:43:57
Name : ina E-mail : Title : 気分を少しあらためて Comments: 逆説の日本史 再(1) みなさんこんにちは 大阪JF生さん、 ありがとうございました。少し考えてから意見など述べさせてください。当分ここから 動けないかもね。ところで、私は大阪JF生さんより若輩なので、安土説の印象を井沢 先生と同じ年代の人間としておしえてくださいますか。 前KANAKさんの引用された、大昔のNIFTYの井沢先生の発言で、あなたは感謝され ていますよね。始めはこのHPってどんな雰囲気だったんですか。 あと、私も井沢ファンとしての心情を以下に書きました。  ノムさん、 残りの論点ですが、あの文章はあれ以上私は反論できません。下書きしていて、前と 同じ事しか書いてないことに気づいたからです。すみません。 このHPのかたは大体皆さん井沢先生のファンの方だと思います。 すこし私が井沢先生の本で感動したところを述べたいと思います。 私の一番好きなのは、「神霊の国、日本」です。この本で、織田信長って本当にすげえ やつだったんだな、と改めて思ったんです。要するに、金の力に注目して、徹底的にや った、ということで、長篠の戦など、新勢力と旧勢力の戦い、と言う風にとらえ、鉄砲 の威力を知っていた信長が買った、と思っていたのですが、実は彼が、他の大名が鉄砲 を使えない様に経済的にも、原料の産地、鉄砲の産地を封鎖していたんですよね。 英雄の概念も驚きました。英雄とは、金を持っているやつの事だったんですね。金山、 銀山、綿花の生産地、上杉、武田、織田、皆そうです。いくら真田昌幸が戦の天才でも 結局天下をとっていない。 また、日本人が割り箸をとても奇麗だと考え、消毒された他人の箸より誇りだらけの割 り箸を選ぶ、これは私も中国人に聴いてみましたけど、彼は消毒された他人の箸を選び ました。 ただ、完全消毒された便器で顔を洗えるか、というと、いやな顔をしましたけど。 これはある程度の穢れの思想が人類共通にあるのかとおもいました。 私は先生の結論は一足飛びには納得できるのですが、その根拠の説明が分からない時が あるので、皆さんの意見を聞かせて下さいますか。最近大阪JF生さんたちのおっしゃ っている流れ、という意味が少し分かった気がしはじめました。ただ、ひっかかるとこ ろは話題にしたいので、何方か付き合って頂ければ幸いです。 私の持っている一巻の文庫本、74ページの冒頭ですが、結局米は人のおなかの中に入 ったし、武士だけが三人分もの米を食べたはずがない、ということは納得しており、こ の事実に目を覚ましてくださった井沢先生はすばらしいと思います。ただ、どう考えた ら日本の総石高が二千万石だと農業人口が二千万人になるのでしょうか。二千万石はニ 千万人を一年食べさせるお米の量で、生存可能人口が二千万人以上にはならないことに はなりますが、生産者の人口とは関係ないのでは。この理論は、一石は一人が生産でき る米の量という前提がないとなりたたないと思います。すなわち農民一人あたりは一反 しか耕せないのでしょうか。 Time : 1999/ 2/26(金) 13:20:18
Name : さっちー E-mail : Title : 「逆説の日本史」の読み方 Comments: みなさんはじめまして、「ノムさん」の保護者のさっちーです。 こちらのホームページを彼に教えたのは私です。お騒がせしているようでどうも すいません。彼は近頃の高校生にしてはめずらしく(?)歴史について大変な興 味をもっているので参加する事をすすめたのですが、今回どうしても自分の思い を伝えられないと相談されたので、彼の意見をかわりにまとめてみたいと思い、 投稿いたします。 「逆説の日本史」は歴史について記された著述ではありますが、別の一面として 「人間(特に日本人)を知る、理解する」という為の本であるともいえるでしょう よく「歴史から学べ」といわれますが、私たちが学ぶ「歴史の授業」というもの は、どうしても現実感の乏しいものであり、歴史から学ぶというよりは、「歴史 を覚える」といったものでしょう。歴史上の人物に対して尊敬の気持ちや興味を 感じないのはこういった理由によるのでしょう。化学の記号や数学の公式という ものは現実の世界に直接繋がっていく事に気がつけば非常に興味深いのと同様に 歴史も今に繋がれば大変面白いものなのです。 しかしそうなると、公式や記号をそれぞれ同じ領域に置くように、西洋史学によ って輪切りにされた日本史全体を同じ領域に置くつまり一つなぎにくくりなおす 必要があり、それを解いていく方程式のようなもの、つまりキーワードが必要な のです。それを井沢先生は「怨霊信仰・言霊」に求められたと思います。 ですから大阪JF生さんがおっしゃるように、これは流れの中で理解しなくては いけないものなのです。そうしないと井沢先生が本当に訴えたい事というのは、 伝わってこないものだと思っております。 皆さんは、安岡正篤先生の講演を記録した「論語の・・」という本をお読みに なった事がおありでしょうか?安岡先生はこの中で陽明学を実際の人生に応用 していきやすいように平易に講演されていますが、井沢先生は安岡先生が論語 を題材にされたのと同じで日本史を題材に現代に連なる歴史を現在に応用しや すいように記されているのではないでしょうか? ですから、ある一点にこだわって科学的根拠をあげていかれるのは本意では ないと思われるのですが、皆様どうお思いになられますか? Time : 1999/ 2/26(金) 15:57:25
Name : ノム E-mail : Title : 井上内親王の娘について Comments: inaさん、こんばんは。僕の作った文章では、書けば、 書くほど意味不明になっていくのでバイト先の店長に、 いいたかった事を説明して、投稿してもらいました。 一部脚色(さっちーさんの考え)も入っているので、僕の 意見より小難しく(怒られるかな?)なっていますが、だ いたい僕のいいたかった事です。指摘の部分については、 さっちーさんはだいたい大阪JF生さんと同じ意見らしい です。「難しく取りすぎや」といわれました。 以前のこのページの印象は僕も知りたいです。「とまり木」 のページから管理人さんに聞けば、過去ログの見方を教え ていただけるらしいのですが、まだ聞いてないです。(大 阪JF生さんに聞きました)さっちーさんは11月から、 ここをみていたので印象を聞くとその頃はKANAKさん 対皆さんの構図で論戦が交わされていたらしいです。 井沢さんに対しては勿論ですが、結構辛辣な指摘があった らしいです。さっちーさんは「みてるだけー」だつたそう ですが・・・・・・・・・・ 井上内親王の娘について「播磨鏡」という昔の姫路近辺の ようすを記した古書に記事を見つけました。 名前は富姫といい姫路に「罪の子」として流されたらしい のです。彼女は姫路で死んだらしいのですが死因は自殺だ そうです。井上内親王の罪に連座して流されたらしいです。 赦免されてからも姫路に暮らし、都には戻らなかったそう です。当地の豪族と結婚してからも「罪の子」と噂された らしく辛かったのかもしれません。その罪の内容ですが、 彼女は井上内親王と光仁天皇の子ではなく、「不倫」で 生まれたというものです。 「播磨鏡」はだいぶ時代が下ってからの編纂なので信用性 はないらしいのですが、伝承としてこういう話があるとい う事はまんざらうそでもなさそうです。光仁天皇と血のつ ながりがあるのなら女子であるので政略結婚の相手はいく らでもいたはずです。わざわざ流さなくても井上内親王と はなして光仁の信頼のある貴族と結婚させればすんだこと だとおもいませんか? Time : 1999/ 2/26(金) 19:08:11
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : まとめてお返事お許しください Comments:  皆さん、いろいろなご意見ありがとうございます。  小松様 お返事遅れて申し訳ありません。 そのようにお考えでしたら、質問に答える必要は ありませんので、また、別のご意見お聞かせください。  輔住様 お返事ありがとうございます。 ご指摘の点、確かにおかしいと思いますが、 やはり大逆はできれば避けたいと思い、 望ましい後継者選びの説得、もしくは その逆に、望ましくない後継者を選ばせないための 幽閉という可能性もありませんか? さらに、称徳が実は病気でないとすれば、 この記述は・・・とも想像します。 これらは妄想に近い単なる想像ですが、お考えを お聞かせいただければ幸いです。  ina様 安土説についてですか?それ以外の井沢先生のご意見で印象的なのが多いので、 あまり強くはありませんが、「まあそうだろうな」という程度です。 ただし、やはり一連の流れで文章をお読みください。 信長は地名改変の創始者であり、強烈な意志の人だと思います。 岐阜に込められた思いについて、まず解説されていますので、 安土を「地名改変」の流れで捉えるならば、不自然ではありません。 平安が入っていても、「こちらはそれを超えているのだ」という 意志の現われと見れば、おかしくは感じません。 でも、その説明に使われた、「中日ドラゴンズの論理」のほうが、 より印象的ですけれど。  また、怨霊や宗教を軽視していたという意味で、やはり当時の常識と いう立場に立っての考察はあまりなされていなかったように思います。 もちろん、それを想像するのも現代人の常識でしかありませんが、 人間の性質はあんまり変わっていないように思いますので、 現代の常識から(もちろん、歴史の流れを考慮して) 当時の常識を推定することはおかしくないというか、他に有効な 手段もなさそうに思います。  ノム様・さっちー様 どちらにお返事かくべきか迷って、同時にさせていただきます。 最初、お母様かなとも思ったのですが、あまりのできすぎたネームに 笑ってしまいました。またさっちー様にはご同意いただき、 ありがとうございます。小生は歴史の素人ですので、いい意味の アマチュアリズムを捨てずに、歴史を見つめたいと思っています。 近くにこのHPについて議論できる方がいて、うらやましくも思います。 まあさっちー様も一種の母親代わりだともいえなくないと思いますが、 小生は小学生のときに母親を亡くしていますので(しかも一人っ子)、 このような会話が特にうらやましく感じます。ヌム様大切にね。 また、最後になりましたが、井上内親王についての情報も ありがとうございました。 Time : 1999/ 2/27(土) 11:19:54
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 謝罪 Comments: ノム様すみません。 タイプミスでお名前を間違えてしまいました。 お許しください。 Time : 1999/ 2/27(土) 11:28:24
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 回想 Comments:  立て続けに長ったらしい記事をだしてすみません。  お礼を述べるとなんだか追い出してしまうようで抵抗があり、 KANAK様にはついに直接お礼を述べられませんでした。 その代わりといってはなんですが、ina様やノム様の御要望もあり、 KANAK様との出会いから、今日にいたるまでを回想させてください。 (内容まで踏み込めないのはご容赦ください)  このHPを知ったのはポスト誌上で、もう既に安部様は常連だったようです。 当初はまだ意見も少なく、井沢先生も全体に目を通しておられたようですし、 管理人様も御意見をしばしば発表されていました。井沢先生は安部様たちのご意見に、 エッセイなどでお答えになっていました。  そこに、現在はHPを去られたO様が「niftyの歴史forumにも 参加しているが、井沢説を紹介したところ、反論を矢のように受け、 とうてい抗しきれない」ということで、議論の相手の許可を得て このHPに記事を転載されはじめたのでした。それが、KANAK様でした。 当初はかなり辛辣な攻撃で、小生は眺めるだけで口は出すまいとおもっていたのですが、 我慢しきれず、抗議文を書きました。匿名で講義するのは気が引けたのですが、 管理人様に相談して、転載を許可されました。 それで、O様を介してのやり取りが始まったわけです。もちろん、いろんな方も参加され ましたが、すっと付き合っていたのはごく少数の方に限られます。 しかし、やはり間接的なやり取りには無理があり、議論がかみ合ったとは言えませんでした。  今でこそ、KANAK様の長短はよく分かっているつもりですが、当初は 感情的な井沢批判の部分の非論理性ばかりが目に付き、その矛盾点を指摘し続けました。 実際、当時は知識は豊富だけれど、支離滅裂な意見を言う方だという印象を受けました。 そのうち、井沢先生が網膜剥離で入院され、議論の行きがかり上抜けられなくなって しまいました。また、KANAK様擁護のKA様という方も議論に参加されましたが、 そのうち議論のための議論になっていることに気づき、自分からその議論は打ち切りました。 そのあたりで、輔住様が参加され、無駄な議論に沈んでいた小生は慰められました。  O様は当初井沢説支持だったのが、KANAK様のエネルギッシュな批判に、 だんだん批判的な方に傾きはじめ、ますます抜けられなくなり井沢説擁護に必死でした。 そのあたりの様子を井沢先生から感謝いただいたのだとおもいます。  ところが、KANAK様はすぐに撤退するだろうとタカをくくっていたのですが、 まったく見込み違いで、実は非常に堅実な考えをバックに、豊富な知識を武器に論じて おられることがだんだん分かり、実は、井沢批判を除いてみれば、ほとんどプロの堅実な 歴史家と変わらないということがわかってきたのです。 つまりは、批判的言動のためにKANAK様はひどい誤解を受けていたのでした。  井沢先生は病気のためと、HPの急速な発展のために、ほとんど表にでれなくなりました。 また参加当時は歴史談義ばかりでなく、現役のお医者Y様(女医さんでした)もふくめ、 「脳」の議論や、科学についての哲学的考察等、のんびりといろんな意見が聞ける場でしたが、 KANAK様とのやり取りがだんだん主体となって、多くの方から参加しにくくなったと 文句を言われました。もちろん、小生もそんな雰囲気を作ってしまった一人です。 本来、KANAK様のみがその責任を負うのでなく、小生も「退会」すべきなのでしょう。 (行きがかりとはいえ、いつまでもずうずうしく居座ってすみません。 まだ言い残したことがありますので、その区切りがつけば、自粛します。) O様は小生ごときが代理のような意見を言うのにご不満で、再三井沢先生に呼びかけ、 KANAK様の批判に答えなければ、もうここには来ないと宣言されてしまいました。 まだ先生の病状も良くなられていないし、退会されないよう説得しましたが、 決意は硬かったようです。歴史に対する御意見は温厚な方だったのですが・・・。  それで、KANAK様は今度は直接このHPに参加の意思を告げられ、意見を述べられ はじめたのでした。一応HPのメンバーは歓迎したのですが、緊張が走ったのは事実です。 かなりシビアなやり取りもありましたが、基本的には以後の雰囲気はあまり変化はありません。 そのうちにも、いろんな方が参加され、三枝様もご意見を述べられるようになりました。 でも、やり取りを続けるうちに小生はずいぶん勉強になりました。 小生も井沢説擁護のみに徹するのは止めて、KANAK-watcher にもなりました。 KANAK様は最後にお礼を述べてくださいましたが、小生から学んだことなど ほとんどなかったでしょう。逆は大いにありました。 それまでは、細かいことは別にいいじゃないのくらいに思い、 史料など辛気臭くてあまり見なかったのが、今はよく目を通しています。 さらに井沢先生は本当はこう言いたかったのだなと、改めて理解し直すこともできました。 KANAK様は、このHPにも、ずいぶん多くの遺産を残されたとおもいます。 必ずや再び戻って意見を述べられると信じています。そのときに、「まだそんなレベルか」と きつい一言を言われないようにがんばりましょう。でも楽しくね・・・。 Time : 1999/ 2/27(土) 11:43:19
Name : ノム E-mail : Title : ナルホド Comments: 大阪JF生さん、よくわかりました。僕が書き込み はじめた時も「論点のずれ」というものを感じて、 「揚げ足取り」だと思い、つい口を出してしまった のです。なかなか先に進めないもどかしさってあり ますよね。話しは変わりますが「さっちー」さんは 32歳の男性です。 Time : 1999/ 2/27(土) 13:54:13
Name : ina E-mail : Title : 逆説の日本史 再 2 Comments:  大阪JF生さん  さすが、長期にこのHPを支えてこられたキャリアがにじみ出たお話を ありがとうございました。私は初めて覗いたときの余りに激しいやり取り に少し参ってしまい、参加できなかったのですが、恐る恐るKANAKさん に質問したところ丁寧な答を頂き、なおかつ私の解釈に賛成して頂いたので 有頂天になってしまった、というところです。  やはり、井沢先生のお話の様に言霊の影響で、発言と人格が切り離されないのが 日本の特徴 で、それゆえ、発言内容に、人格的な不愉快さを感じるということでしょうね。  ただ、ここでは名前をかえて別人になるという離れ業もありますから、人格的配慮 を離れた発言もある程度は良いか、と思います。    井上内親王の呪そ、というのは、藤原氏の言いがかりではないのでしょうか。 怨霊信仰を持っていた藤原氏が、そういう言いがかりはつけないという考えもあるか も知れませんけどね。ぜひ暖めているご意見を教えて下さい。そのテーマで楽しく 盛り上がりたいですね。  ノムさん  素敵な保護者がいてうらやましいですね。 引き続き参加して頂けるようにお願いして下さい。  どんなバイトですか、歴史の話の出来る職場って、、、。  「富姫といい姫路に「罪の子」として流されたらしいのです。彼女は姫路で死んだ らしいのですが死因は自殺だそうです。井上内親王の罪に連座して流されたらしい です。 赦免されてからも姫路に暮らし、都には戻らなかったそうです。当地の豪族と結婚 してからも「罪の子」と噂されたらしく辛かったのかもしれません。その罪の内容 ですが、 彼女は井上内親王と光仁天皇の子ではなく、「不倫」で生まれたというものです。」  確認したいのですが井上内親王と誰か間男の間の子、と言う意味でしょうか。  サッチーさんへ  ようこそ。  国会議員にはなられるんでしょうか。  姉御肌の方かなと想像していますが、、ごめんなさい。  おっしゃる通り、井沢先生のおっしゃりたいことが理解できなければ意味がない と思ってます。ただ、論理の道筋がわかりにくいところは、それなりに気にになり ますので、ご指摘は随時、まあ、先生のご参考程度にいたしたいと思ってます。 Time : 1999/ 2/27(土) 14:21:06
Name : ina E-mail : Title : ノムさんへ Comments:  ちょっとがっかりしました。 Time : 1999/ 2/27(土) 14:25:02
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 回想の補足です Comments:  ノム様、ina様、お返事ありがとうございます。 タイプミスも多く、読みにくい文章ですみませんでした。 ひとつ、言い忘れた重要なことがあったので、付け加えます。  激しい議論のやり取りのため、文句が出たといいましたが、 それについて、少しでも気楽に意見を言える場所として、 管理人様が、止まり木、ふぉーらむを開設してくださったのでした。 まったく、管理人様にご迷惑をかけっぱなしで、恥ずかしい限りです。 Time : 1999/ 2/27(土) 14:51:08
Name : ノム E-mail : Title : なにについてがっかり? Comments: inaさん何についてがっかりなんですか?あっ、 もしかして店長いやさっちーさんの性別ですか。 そうですよねぇ。僕もそう思われるからさっちーは やめたほうがいいと言ったんですがうけねらいのす きな人ですから・・許してやって下さい。参加につ いてはたのんでみます。 Time : 1999/ 2/27(土) 15:14:36
Name : ノム E-mail : Title : 井上内親王の不倫相手とは Comments: 皆さんこんにちは、内親王の相手なんですが、不明 です。ただ単なる間男ではないでしょう。一応皇族 なんですから知り合う男も限られているでしょう。 しかも皇后となるほど大事にされていたんですから 相当皇族に近付きやすい人間に限られると思います Time : 1999/ 2/27(土) 17:21:27
Name : さっちー E-mail : Title : 称徳天皇と道鏡 Comments: みなさんこん@@は、またまたノムさんに頼まれて登場してしまいました。 inaさん、うちの店は喫茶店です。お客さんの少ない時に雑談の中でたまに歴 史について話をするだけです。がっかりさせてすいませんでした。なかなかパソ コンの前にいる時間がとれないので今までは読むだけで投稿する事ができません でしたが、一度投稿して反応があると楽しいものですね。これからも気になる事 があれば意見を述べたいと思います。ノムさんには歳をばらされたので私も一つ 彼の事を・・。彼はまだパソコンをもってません。いままでの投稿は電子手帳か 私のパソコンを使ってしていたのです。春休みのバイト代で買おうと思っている ようですが、狙っているノートパソコンは彼の給料では多分買えないでしょう。 四月からは大学の寮で暮らすらしいですが二人部屋なのでノートでないともって いけないようです。それはさておき今後ともよろしくお願いします。 称徳天皇と道鏡は、大阪JF生様がいわれているように「色ぼけカップル」とい う印象が確かにあります。ノムさんは井沢説ではじめて二人の事を知ったので、 さほど悪い印象がないようですが・・・。 私の彼らの印象は井沢説ほどいいものではありません。というのは彼らは確かに 仲麻呂の専横を食い止めたという功績はあったと思いますが、あくまで国家のた めではなく、彼らの拠り所である天皇家の資産を藤原家から守るためだけだった のだと思っています。何故かというと仲麻呂の乱後の彼らの政治家としての幼さ に理由があります。政策らしいものはなく、税収を寺院の建立にまわすだけの仏 教優遇策しかたいした事はしてないと思うからです。勿論当時の寺院は単なる宗 教施設ではなく今の教育、行政施設の役割も果たしていたと推測しますが、それ にしても器だけ作り続ける現在の政府の経済対策と一緒で当時の世の中のに対し て、たいした影響のないものだと思います。吉備真備はこうした無能さにあきれ どこかで彼らを見放していたと思っています。彼らが仲麻呂の乱後すぐ実行しな くてはいけなかった事は、寺院の建立ではなく吉備真備ら地方豪族出身の新進貴 族を登用し地方の意を汲んだ政策を行う事で地方勢力を味方に引き入れ、藤原系 貴族の発言権、荘園を縮小させる事だったと思います。しかし彼らは人事だけで 藤原系貴族に対抗しようとしたのではないでしょうか? 吉備真備らはそれに愛想をつかし称徳と道鏡から一線を画して独自に新しい地方 に支持される天皇家を作ろうとしていたと思っています。称徳の死後、彼らがい ち早く天武系の皇族を立てようとしたのがその理由です。 結果は称徳の遺勅により光仁(天智系)即位となったのですが・・・。 この時、真備は称徳から一歩離れた事を後悔したかもしれないですね。 明らかな偽の遺勅だと彼なら見破っていたでしょうから。 もしかして称徳が暗殺されたのなら仕掛け人は吉備真備かも知れないですね。 だから彼は光仁天皇即位に反対できなかったんでしょう。暗殺を見逃す変わりに 反対を止められたとは考えられないでしょうか? Time : 1999/ 2/27(土) 23:20:10
Name : ina E-mail : Title : おはようございます Comments: 逆説の日本史(3) なんとなく和気藹々とした雰囲気の流れてきたところで、、。 例えば卑弥呼時代、政治的な問題だけでなく、天変地異、災害など、人の力の及ばない 事に対しても君主の責任とされて、君主が殺されたり易姓革命的に王朝(という言い方 はまだ無理か)が交代させられていたわけですよね(井沢先生の説からも)。 私は怨霊の考えは、基本的にこの全責任を君主がとる、という体制を回避するための論 理と考えます。要するに何かある度に君主が殺されたり、王朝が交代する、と言う事態 は天壌無窮の神勅に反するからです。  勿論、井沢先生が主張しておられるように、君主の不徳にはなりますが、自分が殺され たり、いわゆる国体が破壊されるのに比べればはるかに軽い事態です。 井上内親王の話以外にも呪っていたという理由で藤原氏が他の有力者を排除した例があ ったと思います。 というわけで、この信仰はどちらかといえば支配階級のEXCUSEとして現れ、記録に 残すこともむしろはばかられる理由はないと考えます。 上記の理由から、いくら溯っても、万世一系の天皇による支配が確立してからのことで あり、また、怨霊にする対象は、当然皇族、貴族をはじめ、政争の敗者というのはいつ の時代にもあり、怨霊のネタには事欠かなかったと思います。 全体に広がったのはむしろその後だと思います。 あと、藤原氏はすくなくとも怨霊を信じていたとは言い難いと思います。いわゆる長屋 王の怨霊によって、四兄弟が死んだとされるあとにも、怨霊を作りまくるようなことを やっています。 みなさんはどう思いますか。 ノムさん、 ラップトップはなにを狙ってますか?私のVAIOはスマートですよ。 さっちーさん、 称徳暗殺説は反対ですけども、井沢先生の本で、道鏡らと永年私財法を停止していたと いう記事を見たときは感動しましたね、そして、この感動的な事実をさらりと通過する 学者の感覚には着いていけないと思いました。本当に井沢先生はすごいと思いました。 将来的にはこれをふくらました小説を書いて頂きたいです。 Time : 1999/ 2/28(日) 00:55:03
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ Comments: 僕も賛成です。怨霊信仰は貴族・皇族の勢力争いが 発展の理由だと思います。社寺を建立するにも莫大 な費用がかかり、やはり大和朝廷がその権力基盤を 確固としてからだと思います。さっちーさんはそう 決め付けるのはよくないと言ってましたが・・・。 Time : 1999/ 2/28(日) 12:34:41
Name : ノム E-mail : Title : inaさんへ個人的なお願いで恐縮なんですけど Comments: inaさん、僕の電子手帳からは、inaさんの投 稿文の右端三文字がでてこないんです。申し訳ない のですが、三文字分改行を早めていただけませんか お願い致します。僕が欲しいパソコンはinaさん と同じバイオです。30万くらいするので当分おあ づけですが。 Time : 1999/ 2/28(日) 19:46:20