Name    : KANAK
E-mail  : SAME
Title   : 「逆説の日本史2」(13)逆説の曲筆論
Comments: 
三枝さん、輔住さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。

三枝さん・・・
井沢説をサラッと全面否定されたとも受け取れる、勇気あるご意見ですね。
大筋において、私も同意見なのですが・・・

1.持統が天武の皇后になったとき、姉大田皇女は既に死亡(天智6年)してい
  ます。そして、その子大津皇子は持統の子草壁皇子の天皇即位の障害とな
  り得たため賜死させられたのでしょうね。

2.天智・天武には目立った対立関係は窺えません。ただ、天智が死の間際に
  我が子大友(伊賀)皇子に皇位を継承させようとしたため、大友・天武に
  継承戦争が生じたものと思われます。

3.天武系と天智系がお互いに相手のことを悪く言った形跡は全く窺えません。
  (実例があればお示し下さい)あるとすれば井沢さんの主張される
 「天智=紂王諡号」位ですが、これは単なる「絵空事」だと考えて良いと思
  います。(理由は既に井沢さんへの回答で申し上げております。)
  ただ、「桓武」は本来「他戸皇子」に嗣がれるべき皇位が意外にも転がり
  込んだため、自己の系統から皇位を離すまいとして、天智直系を強調しま
  すが、それでも天武系を誹謗したりはしていません。
  
4.他の歴史に例えるならば・・・
  A.秀吉が弟秀長(秀次ではありません)に一旦関白の地位を継承させた。
  B.ところが秀頼や秀*が生まれたため、遺言で秀長継承を否定し秀頼に
    天下を与えようとした。
  C.このため、秀頼と秀長との継承戦争が発生し、秀長が天下を取った。
  D.その後、秀長の後継者にロクな人物がいなかったため、秀*の子孫が
    天下を取ることとなった。

天皇家と豊臣家という性格の相違、当時の天皇家の継承ルール等を無視して、
極めて大雑把に言えば、こんなところになるでしょうね。(勿論ジョークです)

輔住さん・・・私の意見が少しでも参考になれば、幸いです。

天武の即位前の事績ですが・・・
1.天智3年  天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を・・・
2.天智7年  天皇、蒲生野に從猟したまふ、時に、大皇弟・諸王・・・
3.天智8年  天皇、山科野に從猟したまふ、大皇弟・藤原内大臣及び・・
4.同     天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣して・・・
6,天智10年 東宮太皇弟奉宣して、或本に・・大友皇子、冠位・法度の・・
7.同    天皇、西の小殿に御す。皇太子・群臣・・・
8.同    天皇、疾病弥留し。勅して東宮を喚して・・・

等でしょうか・・・全て大皇弟としての記述ですが、これは基本的には天智と
て(蘇我打倒に関する部分を除き)皇太子としての記述ですから同様ですね。

ところで、輔住さんは意外に思われるかも知れませんが、私は「曲筆の論理=
逆説の曲筆論?」からすれば、「天武の年齢が不明である」「天武の即位前事
績が不明である」・・・ことこそ「天武記事」の曲筆を否定する最大の根拠だ
と思うのです。

つまりですね・・・仮に輔住さんが舎人親王(曲筆者)だったとしましょう。
そして、天武が舒明の子ではなく、天智の同父同母弟では無いことを知りなが
ら、同父同母と曲筆したとしましょう・・・

輔住さんは細心の注意を払って、これを裏付ける記事を付記されませんか?
天智が舒明崩御時に十六歳であれば、その時天武を十〜十三歳くらいにしてさ
りげなく(別場面ででも)辻褄のあう年齢記事を挿入しておけば良いわけです。
天武が如何に天智の信頼を得ていたか・・・そんな記事はモノの30分もあれ
ば簡単にでっち上げられますよね、これが曲筆者の心理ではないでしょうか?

私は、この問題について既に7/29 #1648で以下のとおり論じています。

***********************************

・・・書紀では天武の生年が不明であり、かつ後世の史料では天武の方が天智
より早く(或いは同年に)生まれたこととされているものがある。
(ただし、同一史料内ではなく、「書紀」の天智年齢との比較ですが・・・)
この点から見ると、書紀において天智の同腹弟とされているのは天武の出自を
隠蔽するための曲筆の疑いがである。・・・・これが所謂天武年齢問題ですね。

しかし少し考えれば、この理論の馬鹿馬鹿しさが分かります。
つまり書紀が天武の出自を曲筆したのならば、何故ことのついでに天武の生年
を天智の3−5年後として崩御年齢を記述しておかなかったのでしょう?
(私なら舒明紀に天智につきそう13歳位の幼い天武の姿を描写しておくでし
 ょうね・・・・)
曲筆者は常に細心の隠蔽工作を行うものです。こんな簡単な工作を書紀の編者
が怠る(忘れる)なんて考えられるでしょうか。
当時の史官・文人の曲筆能力をナメテはいけないと思いますね。

***********************************

要するに何故斉明存命(天智皇太子)中の天武事績記述が無いのか・・・

舎人親王は基本的に史実を記述しょうとしたが、「正史」に記述すべき事績が無
ければ、当然記述しなかった。(つまり、曲筆・加筆することは考えなかった)
・・・これが回答です。
(ただ、敢えて想像すれば、天武は天智の独裁的性格を知り尽くしていたため、
対立を回避するため、極力目立った行動を抑制していた、と考え得るでしょう。)

例えば・・・井沢さんは年齢記事について、
「それほど『書紀』の信頼性が高いというなら、なぜ天武の年齢が書き落とされ
ているのか、ぜひ納得がいくように説明して頂きたい」
・・・と言っておられますね。もうお分かりだと思いますが、この質問自体が無
茶苦茶なのです。地下の坂本氏が聞けば、腹を抱えて大笑いされるでしょう。
逆に石井さんが私に言われた様に、
「なぜ天智の年齢が書き加えられているのか・・・」と言うのが正しいのです。

「・・・なぜ天武の事績が書き落とされているのか・・」も全く同様で、
「・・・なぜ天智の事績が書き立てられているのか・・」なのです。
回答は言わなくとも明らかでしょう?
彼は蘇我本宗家を打倒して以降・・・可成りの実権を握っていたからでしょうね。
以上が「逆説の曲筆論」です。





Time    : 1998/12/ 1(火) 00:29:26

Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  出張等でしばらく離れているうちに議論がどんどん進んで、 もはや付いていけないレベルまで先に行ってしまいました。 細かいところ、いろいろ反論はあるものの、いちいち述べるのは小生にとっては もはや不可能な量ですのであきらめますが、ここのところずいぶん乱暴な 議論をなされているように思います。  小生の文書もまたまた曲解なさっていましたし、お願いも無視されていますが、 もうそれはあきらめて、現在話題になっている輔住様の件について意見を述べます。 輔住様は、 >私が問題にしているのは天武の「私的な」少年時代のエピソードがないからでは >ありません。 >「大化の改新」後、事実上の最高権力者だった中大兄皇子(天智)の後継者で、 >彼の娘を4人も妻にしている「実力者」が30歳ぐらいまで >(正式な年齢は不明でも資料から推量するに若くてもそれくらいなはず) >「正史」に登場していないのがおかしいといっているのです。 とおっしゃっているにもかかわらず、焦点がずれているように思えます。 曲筆であろうがなかろうが、(おそらく書紀といわず)なぜ記録にないのでしょうかと 質問されているのですが、それに関する説明がありません。 貴方の筆法をもってすれば、正直に、(当時記録が残らない境遇だったので?)かけなかった ということではありませんか?  しかもかなりあやふやな推測があふれており、どんな史観も排除されているとしたら、 やはり「定説に基づけば、こう推測される」というようにしか小生には読めません。 小生のようなど素人には全くフェアーな議論には見えず、結論にいたる道が理解不能です。 もっと素人にも貴方の考えがよく分かるように述べていただけないでしょうか。  たとえば、もし、 >天武系と天智系がお互いに相手のことを悪く言った形跡は全く窺えません。 と断言なさるのなら、三枝様の意見とも全然異なると思います。 そこで乏しい知識からささやかな質問ですが、 「トラを野に放つようなものだ」 と称される大海人吉野出家は、どのように解釈なさっているのでしょうか。 常日頃から張り合っていたようには思えませんか? Time : 1998/12/ 1(火) 12:16:52
Name : 輔住 E-mail : Title : 大嘘・子嘘 Comments: みなさんお元気ですか 輔住です。 KANAKさん、返信ありがとうございます。 KANAKさんの意見に対する私の意見は下記のとおりです。 >つまりですね・・・仮に輔住さんが舎人親王(曲筆者)だったとしましょう。 >そして、天武が舒明の子ではなく、天智の同父同母弟では無いことを知りなが >ら、同父同母と曲筆したとしましょう・・・ >輔住さんは細心の注意を払って、これを裏付ける記事を付記されませんか? >天武が如何に天智の信頼を得ていたか・・・そんな記事はモノの30分もあれ >ば簡単にでっち上げられますよね、これが曲筆者の心理ではないでしょうか? たしかに嘘はいくらでも書けます。 しかし、詳しく書けば書くほど矛盾点も出ます。 決して「書紀」の編集者を甘く見ているわけではありませんが、 後世の史家を甘く見ることもできないでしょう。 たとえば刑事事件で犯人が嘘のアリバイを言えば言うほど 矛盾点が出てそれを追求される。 それと同じ事だと思います。 そうした「子嘘」をつくよりも、天武の過去を抹殺したのだと思います。 そうした「子嘘」が暴かれ、「書紀」の信頼度が疑われてしまえば 「大友皇子は即位していない」という「大嘘」までばれてしまう 可能性があります。私が「書紀」の編集者ならそれが一番恐いです。 >要するに何故斉明存命(天智皇太子)中の天武事績記述が無いのか・・・ >舎人親王は基本的に史実を記述しょうとしたが、「正史」に記述すべき事績が無 >ければ、当然記述しなかった。(つまり、曲筆・加筆することは考えなかった) >・・・これが回答です。 >(ただ、敢えて想像すれば、天武は天智の独裁的性格を知り尽くしていたため、 >対立を回避するため、極力目立った行動を抑制していた、と考え得るでしょう。) もし天武がそのようなことをしていたのならば、天智からみれば「安全バイ」です。 そんな男につなぎ止めるように次々と自分の娘を4人も与えるとは思えません。 Time : 1998/12/ 1(火) 12:33:22
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 文献至上主義 Comments: 現在の日本の小学校のカリキュラムには「仏教・儒教の時間」はありません。 しかし、我々の生活の至る所に、仏教と儒教の痕跡は残っています。 親の躾や立ち読みした漫画の中にもあるのです。 ですから、やはり今の日本人は、仏教と儒教の影響下にあるといえる。 しかし、未来の歴史家が、平成の小学校のカリキュラムを見て、 「平成の子供は、仏教と儒教をまったくおそわらかった。 だから、平成の日本人は仏教と儒教の影響を受けなかった。」 といったらどうでしょうか? 明らかに誤っています。 「そんな事言ったって、平成の公式文献にも、個人の書簡にも仏教と儒教は跡かたも無いではないか」 でも、平成の人たちの行動から割り出す事ができるのです。 文献を無視しては歴史を語る事は不可能です。 しかし、文献だけで歴史を語るのも、寂しい気がします。 Time : 1998/12/ 1(火) 12:49:05
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっとした思いで Comments: 昔、浪人時代東京で予備校の寮に入っていた時のことです。 あの頃はまだ大学受験を控えていたので勉学の毎日(?)だったのですが、 やはりまだ若かったし鬱積した気持ちもあって寮の住人達との色々な交流が ありました。 ある時、みんなで酒を飲んでいるとき、一人が(確か新潟出身の奴だったと思う) シビアな様子で自分が在日韓国人(北朝鮮系かどうかは不明)と告白したことが ありました。 その時の私たちの反応はそれを聞く前と全く変わらないものでした。 それはそいつ個人を相手にしているのですから、相手の国籍がどうだなんて どうでもよかったからです。 確かに当人にとっては私たちには理解できない感情がであったと思います。 でもこいつは何国人だからどうだという感情は全く湧いてきませんでした。 例えば日本人は1億2000万人ほどいますが、嫌な奴も数え切れないくい いるでしょう。私たちは人とつき合うときは相手個人を対象として 仲良くなったりまたはその逆だったりするわけです。 これはつまり外国人の集合体である外国とつき合う上でも全く同じだと思います。 そうしたときに日本のマスコミの自虐的な報道や、逆に韓国や中国のように 何十年も変わらない報道を続ける姿勢はどうかと思います。 あれでは個人として親しくなる前に、ものすごい障害があると思うのです。 Time : 1998/12/ 1(火) 22:33:34
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(14)逆説の曲筆論ー続き Comments: 安部さん、輔住さん、大阪JF生さん、みなさん、今日はKANAKです。 安部さん、文献至上主義に関するご意見・・・全く同感です。(^0^)” 従って、考古学・民俗学・絵画(落書き)・民間伝承等あらゆるモノを総合的 に把握する必要があると思いますし、歴史学者はそれらを決してなおざりには していません。 ただ、「当時の人の行動を割り出す」最大の手懸かりは・・・当然ながら、 「文学作品」をも含めた「文献」であるのも、また事実でしょう。 平成の人たちの行動は・・・未来においては「映画」「写真」「ビデオ」から も知ることが出来るでしょう。しかし、奈良時代の人たちの行動は・・・基本 的には当時を描写した「文献」から推察するしか無いでしょう? 寂しいことかも知れませんが、タイムマシーンが無い以上これが「史学」の難 しさであり、また面白さなのでしょうね。 輔住さん・・・ >>そうした「子嘘」をつくよりも、天武の過去を抹殺したのだと思います。 >>そうした「子嘘」が暴かれ、「書紀」の信頼度が疑われてしまえば >>「大友皇子は即位していない」という「大嘘」までばれてしまう可能性があ >>ります。私が「書紀」の編集者ならそれが一番恐いです。 貴方(舎人親王)は、天武の父が「新羅人」であるにも拘わらず、「舒明」で あり、「天智」の同父同母弟であるという「大嘘」を「正史」で記述している のですよ。その「大嘘」を補強するための「年齢」や簡単な「事績」という、 「子嘘」を記述しておけば良いのです。何も詳しく尋問されているのでは無い のですから、ホンノ数文字で済む話でしょう? その「子嘘」があれば小林・大和氏がガタガタ言うことは避けられたのですよ。 「大友皇子」が即位したか、しなかったかは・・・ある意味では、その即位の 正当性を争ったのですから、「大嘘」とか「子嘘」とかの問題では無いと思い ます。(つまり、見解の相違で逃げられる性格の問題です。因みに私は・・・ 即位・非即位=倭姫称制は五分五分と考えていますが・・・。) それよりも、本当に絶対にバレテハナラナイ「大嘘」は「万世一系」を天皇の レジティマシーとして強調している「正史」において、新羅人を父とする人間 を舒明天皇の子と偽ってその正統性を主張していることの筈です。 (尤も、当時の支配階級はお互い身内の様なモノですから、天武の出自は知 り尽くしており、そんな「大嘘」が通用するはずも無いんですがね(^0^)” 井沢さんは「情報操作」の意味を全然理解されていませんね。(^^;)) 「天武の過去を抹殺」はどう考えても大仰でしょう。 「欽明」以降「持統」に至るまで、各天皇の皇子時代の事績は即位事情を除き、 ほとんど記述されていないのが実状ですし、その理由は既に申し上げた筈です。 >>もし天武がそのようなことをしていたのならば、天智からみれば「安全バイ」 >>です。そんな男につなぎ止めるように次々と自分の娘を4人も与えるとは思 >>えません 「雌伏」と言う言葉はご存じですね。強烈な独裁者から身を守り時至るのを待 つのは有能な人間の常套手段なのです。天智だってその辺はある程度は見通し ていたでしょう。決して「安全パイ」では無かったと思いますよ。 (しかし、結局は誅殺・追放の口実は得られなかったのでしょうね。) なお「四娘同娶」問題について言えば・・・私は「天智」存命中は「二娘」で あり、天武即位後「二娘」追娶では無いかと想像しております。 ところで、貴方(舎人親王)は何故ワザワザ「宝皇女が高向王と結婚し、漢皇 子をもうけた。」と「正史」に記述されたのでしょうか? 現代風に言えば「バツイチ・子連れ」ですね。斉明自身にとっても、夫 舒明 ・子 天智(天武)にとっても特段自慢できることでもないし、後世・・小林 ・大和氏に勘繰りの材料を提供するだけのことでしょう? (^^;) この記事を抹殺しても何の不思議もないんですが、律儀に記述していますね。 一体何故か・・・その理由をご説明頂けるでしょうか? 大阪JF生さん・・・ >>「トラを野に放つようなものだ」 >>と称される大海人吉野出家は、どのように解釈なさっているのでしょうか。 >>常日頃から張り合っていたようには思えませんか? 「常日頃猫を被って(雌伏)いるが・・・その実体は虎だ。天智はそれを読み 違えたのだ・・・」と具眼の士達が評したと言うことですね。 「豊臣秀吉」と「徳川家康=律儀者」もある意味では、そうだったでしょう? (「家伝」によれば、時には爆発したようですが・・・) ところで・・・・ >>天武系と天智系がお互いに相手のことを悪く言った・・・ ことが天智諡号という「絵空事」以外に何かあるのでしょうか?  是非教えて下さいね。 Time : 1998/12/ 1(火) 23:13:24
Name : 正岡 E-mail : Title : 日本書紀を書いた人って… Comments:  「大嘘」「小嘘」についてふと思ったんですが…  舎人親王がまさか書いたわけじゃないですよね? 実際は編纂プロジェクトの ようなたくさんのメンバーが集められ、それぞれ担当の役人が書いたのだと思います。  思うんですが、彼らは勝手には作文はできなかったと思います。なんらかの 文献資料をもとに綴ったはずです。でないと、検討会のとき「君、なんでこんな こと言えるの? 根拠は? 資料はどこで?」とつっこまれることになるからです。  一役人が、自分と縁もゆかりもないやんごとないお家の昔のことをことこまかに 知ってるわけが無いので、当然役所の倉庫?の資料を集めまくって書いたでしょう。 その時、きちんと資料が残っていればそのまま記述したはず。  本当に資料がないケースも多々あったと思います。 (ただ、都合の悪い資料は「なかった」「見つからない」ということも あったんじゃないかな〜)  そうして、いったん出来上がった文章を、あとから削除とか記述を差し替える という作業をしたはずです。一人の文筆家が書き出しからエンドマークまで 全部の流れを作ったわけじゃないから、これだけ大作だとどっかにその不整合面が あるじゃないか。天智天武あたりは、もしや…と思わされて、そこがわくわく するところですね。 Time : 1998/12/ 2(水) 01:42:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 大馬鹿野郎から学ぶ点 Comments:  少し遅い反応で申し訳ありませんが、安部様の「唯物史観の大馬鹿野郎」を 読ませていただいて、感じたことを記します。  小生も唯物史観にかぶれた歴史教師たちに洗礼を受け、 あまり面白く感じなかった口です。つまりは反マルキストです。 それは井沢史観のファンだということでも分かるでしょう。 安部様の記事については何ら反論はありませんし、同じ思いです。 ただ、マルクスにもよい点はあると思うので、「題名」のもつ全面否定の ニュアンスだけについて、一言意見を述べたいということです。  マルクスに学ぶべき点は下部構造(インフラ)の重視と、 (生産等における)「量が質に転化する」という視点だと思います。 ところが小室直樹氏も指摘しているように、マルキストの先生方が、 この点を十分お分かりになっていないことが問題です。 (マルクス自身も「私はマルキストでない」とおっしゃったそうな・・・) 下部構造の重視という視点から、資本主義が熟した後に共産主義へ というヴィジョンが描かれるわけですが、歴史上にこのように 進んだ事例はありません。異論はあるかもしれませんが、資本主義後進国が 共産化したのではないでしょうか。  そういう点で、現存(あるいは既に過去のもの?)共産主義国家などは、 真のマルキストならば決して認めるべきでなかったとおもいます。 現実はそうでないので、「唯物史観」も歪みを伴っているはずです。 マルクスも泣いているでしょう。 もちろん、この視点のみで歴史を語り尽くせるはずはありませんが、 一つの史観として、撲滅してしまうのは勿体無いように思いますが、 皆様はどうお考えでしょうか。 Time : 1998/12/ 2(水) 10:04:24
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  質問にお答えいただき、ありがとうございました。 大海人の「雌伏」という点で、全体的に統一された御意見と 思います。  ただ、そこまで徹底した雌伏ならば、なお一層対立の影が ちらつくのですが、皇位継承を正式に打診されたなら、 なぜ素直に受けなかったのでしょうか? もはや雌伏の必要性もないように思いますが、 大友にそこまで遠慮する必要があるのでしょうか。 お考えをお聞かせください。 Time : 1998/12/ 2(水) 10:20:57
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : やっぱり地球は丸かった Comments: 大阪JF生さん、こういう伝説があるそうです。 ガリレオの宗教裁判の時、法廷内にいた人物の中で一番聖書を読んでいた人はガリレオであった。 私はマルクスの著作は読んだことがないですが、話しによると、 純粋に物の価値を追求したものだそうです。 労働者の救済は、マルクスの願いではあったもののの、 片手間でやった趣味のようなものではなかったかと思います。 皇国史観を誰よりも信じていなかったのは、昭和天皇でした。(「昭和天皇の研究」山本七平) 昭和天皇は、明治末期と大正デモクラシーの教育を受けていたからです。 天皇を一番ないがしろにしていたのは、日本軍でした。 昭和天皇は、その温厚な人柄にもかかわらず、時には日本軍の横暴(憲政無視)に対して激怒しています。 世の中には、自分の個人的欲望と大義名分をごっちゃにしている人が多いんですね。 確信犯ならまだよいのですが、一番たちが悪いのは、自分が正義の味方だと本当に信じている人です。 意見の相違を、善悪の違いと取り違えてしまうからです。 これは、言霊のある日本人の陥りやすいところです。 Time : 1998/12/ 2(水) 11:06:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 文献至上主義2 Comments: 私の好きな歴史のエピソードに長源の大仏再建があります。 権力者の創った大仏もすばらしいですが、庶民が力を合わせて創った大仏もすばらしい。 あれは、日本人が初めて底辺から行った国家事業であったと思います。 「大仏再建」という本を読んだのですが、勉強になりました。 学者の著書でしたが、研究の進め方が梅原先生や井沢先生に似ていました。 「この伝説は、非現実的であるが、このような伝説が残されたということは、 ・・・のような真相があったからだろう」 「この記録は、伝説的な記述が多いが、・・・の部分はやけに記述が詳しいので、 ・・・の部分に関しては史実としてよいのではないか。」 他ならぬ学者も、最近はこのような方法を使いつつあるようです。 長源の活躍は超人的なところがあるのですが、だからといって、 「一人で建築技術の発明、政治的根回し、料国の経営、布教活動すべてできるはずがない、 だから、この記述は史実ではない、とか、長源は存在しなかった」というのは誤りです。 長源のスタッフの業績を「長源」に集約したからです。 だからといって、 「長源はスタッフの上にいたに過ぎない」というのも誤りです。 それなりの能力と人望がなければ、人は集まりません。 そういう意味で、やはり長源は偉人なのです。 学者の書く歴史は、人間を均等な分子と見るあまり、 英雄を認めたがらないものを感じます。 Time : 1998/12/ 2(水) 11:29:34
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 安部様へ Comments:  早速反応をいただきありがとうございます。 「やっぱり地球は丸かった」の記事は、 まさにそのとおりだとおもいます。 特に実験が不可能な分野では、 先生の説に異を唱えることが非常に難しいと聞いています。 人格に異を唱えているわけではないのに、 これもまさに言霊ですね。 小生は師から「師を乗り越えてこそ恩返し」と教わっています。 いい師にめぐりあえたとおもっています。 Time : 1998/12/ 2(水) 12:07:58
Name : 輔住 E-mail : Title : 大嘘・子嘘2 Comments: KANAKさん返信どうもありがとうございます。 >輔住さん・・・ >貴方(舎人親王)は、天武の父が「新羅人」であるにも拘わらず、「舒明」で >あり、「天智」の同父同母弟であるという「大嘘」を「正史」で記述している >のですよ。その「大嘘」を補強するための「年齢」や簡単な「事績」という、 >「子嘘」を記述しておけば良いのです。何も詳しく尋問されているのでは無い >のですから、ホンノ数文字で済む話でしょう? >その「子嘘」があれば小林・大和氏がガタガタ言うことは避けられたのですよ。 私がここでいう「大嘘」というのは2つあります。 ひとつは前回いった大友皇子の即位はなかった ひとつはKANAKさんが書いてあるとおり天武は「天智」の同父同母弟 (私は大友の即位は100%間違いないと考えています。今回はその理由は述べませんが) ひとつにまとめてしまえば、「天武系の正統化」 そのために「子嘘」を使うのは危険が高いことは前回述べました。 ほんの少しだけにすればいいとあなたはおっしゃいますが 人間の心理から考えてそれは難しいと思います。 前回、犯罪者を例にあげましたが、またそれでいえば 「子嘘」は少しだけだと「不安」になるものです。 (これだけではまだ信じてもらえないのでは...とか) ところが数を多くすれば矛盾が出やすい 後世の史家に「詰問」されることはないですが、「信頼」されなければ 「書紀」は無意味です。 >「雌伏」と言う言葉はご存じですね。強烈な独裁者から身を守り時至るのを待 >つのは有能な人間の常套手段なのです。天智だってその辺はある程度は見通し >ていたでしょう。 だから天智が警戒するには、それなりの「実績」があるはずです。 その実績が「正史」に乗っていないのがおかしいと再三申し上げているのです。 安部奈亮さんへ: 「やっぱり地球は丸かった」を読んで改めて「正義」 という言葉の怖さを知りました。ありがとうございます。 Time : 1998/12/ 2(水) 12:39:09
Name : 輔住 E-mail : Title : 正岡さんへ: Comments: >「大嘘」「小嘘」についてふと思ったんですが… >舎人親王がまさか書いたわけじゃないですよね? 実際は編纂プロジェクトの >ようなたくさんのメンバーが集められ、それぞれ担当の役人が書いたのだと思います。 正岡さん、あなたのおっしゃる通りです。 私の投稿をみて悩んでしまった方が他にもいらっしゃたら、あやまります。 申し訳ありません。 Time : 1998/12/ 2(水) 15:47:07
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 初心に返って Comments: お久しぶりです。風邪でぶっ倒れていました。 皆さんも風邪には気をつけて下さいね。 さてその間に天智論争もずいぶん進んだようで、私にはなんだかわからなくなってきました。 一口に天智論争といってもずいぶんいろんな局面がありますからこれは 仕方ないのかもしれませんが、それにしても範囲が広すぎる。 正直少し疲れてきました。 というわけで今回は初心に戻って簡単な「疑問」をぶつけるに留めたいと思います。 疑問というのは >>天武系と天智系がお互いに相手のことを悪く言った・・・ことが天智諡号という >「絵空事」以外に何かあるのでしょうか? 是非教えて下さいね。 なのですけれども、タテマエにせよ真実にせよ天智系と天武系は「親戚」である 訳ですから、「互いの悪口を言い合う」事はできないのでは? 天智・天武兄弟説が天武側のホラであった場合、天武は「正当化」のために 天智・天武兄弟説を血統問題からでっち上げる必要があります。 それで「日本書紀」を編纂したわけですから、 ここで天智王朝を悪く言う意味がありません。 ホラにせよ建て前にせよ天智・天武は兄弟であるわけですから。 また言霊の問題もあるでしょう。日本でそこまで敗者をおとしめる 「悪口」が戦国時代ならともかく古代において言えたかどうか。 「親戚」の「政治的敗者」を「言霊」を無視して悪く言えるものですか? (じゃあ天智のオクリナはどうなんだ、という事についてですが、 まずこの諡がいつ、誰によって選ばれたのかという問題があります。 私は諡については何にも知らないので、ご存じでしたら教えてほしいのですが、 「天智」「天武」の諡はいつ頃から使われだしたのでしょう。 「天武朝」時代だとすれば小生の「寝た子論」もありますし、井沢先生は 「これは「万葉集」「中尊寺金色堂」が現代に残されているのと同じ理由だ」と おっしゃっています。すなわちそこにあるのは「言霊」「怨霊思想」でしょう。) 勿論「だから天智と天武は血統が違う」とは言えませんが、 「悪口を言わなかったから同一王朝」とも言えないのではないでしょうか・・・。 Time : 1998/12/ 2(水) 20:14:27
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 安部さんへ Comments: 安部さんへ いきなりですが申し訳ありません。 確かに私は法学部ですが、若輩者の1回生(うわ、若僧!)なので専門の方は全くわかりません。 従って「御成敗式目」が現在どのように評価されているのか知りません。 しかしなにも答えないのは悪いので 私なりに考えてみましたが、「式目」は中学・高校では単なる「暗記の対象」に 過ぎませんでした。内容についての具体的説明を聞いたことはついぞありません。 私も山本七平さんの「日本人とは何か」を読みましたが、 「式目」はやはり優れた法律であると思います。 ですがその中身に関しては全く教わりませんでした。 かくいう私も上記の本によって初めてその優秀さを知った次第です。 少なくとも「一般常識」ではありません。学問の対象にはなっているかもしれませんが これが進歩的な法だとは聞いたことがないですね。 日本の法制度というのはやはり特殊であると思います。 プロシア憲法を模した明治憲法以後はいざ知らず、 江戸以前はどちらかというと成文法を持たない、イギリス法に近い気がします。 律令は荘園で有名無実化したまま存続しましたし、江戸時代の 数々の命令、例えば「異国船打ち払い令」も井伊直弼の「開国」も 特に憲法論議(?)がなされることなく実行されています。 (ただ、「先祖伝来の決まりを・・・」という文句があったばかりです。) また、井沢先生もおっしゃっていた「道理」という思想が「式目」という 法律の中に導入されるなど、一般的な「法」のイメージ「厳正」は 日本には適合しないのではないでしょうか。 「法治国家でなく納得治国家だ」という言葉が日本の「法」という概念を的確に 表していると思います。 Time : 1998/12/ 2(水) 20:38:56
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(15)曲筆論その他 Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、今日は・・・KANAKです。 早速のRESありがとうございます。 大阪JF生さんへ・・・ >>皇位継承を正式に打診されたなら、なぜ素直に受けなかったのでしょうか? >>もはや雌伏の必要性もないように思いますが、 >>大友にそこまで遠慮する必要があるのでしょうか。 >>お考えをお聞かせください。 皮肉ではなく受け取って下さい・・・貴方って本当に良い方ですね。 貴方の様な方ばかりだと、世の中素晴らしいのですが。 天武がウッカリ皇位継承を受諾した瞬間に、天智は態度を豹変し・・・ 「汝の正体見つけたり・・・」(口実は幾らでも作れますからね) 天武は幽閉か、悪くすれば誅殺されるに決まっているでしょう? 如何に実弟とて、最愛の我が子に皇位を継承させるためです。天智は些かも 躊躇しない・・・これが権力者なのです。 勿論、この場面が真実であったか、どうかについては議論があるでしょう。 しかし、古今東西を問わず、この様な駆け引きは「史書」に満ちあふれていま す。いろいろな「史書」・・特に中国十八史略等をお読みになると参考になる と思います。 ところで、私はこの「書紀」の記述は極めて怪しい(曲筆・偽証=「子嘘」の 疑惑)と思っているのです。つまり・・・ 1.「天武」は皇后即位(称制?)を主張した様に記述されている。 2.即ち「天武」は「大友」即位を明確に否定したことになる。    3.よって「天智」にとっては「大友」即位には確信が持てないことになる。  (「天智」にすれば「天武」に「大友」即位を言わせたかったでしょうね。) 4.従って「天智」は、さらに「大友」即位に対する同意を迫った筈である。   (或いは「天武」の太政大臣就任を求めたかも知れない) 5.「天武」は太政大臣就任は固辞したものの、その場を凌ぐため最終的には   「大友」即位に同意したのではないか?   (「天智」もそれにより、ウッカリ「天武」の吉野隠遁を認めた。) 6.しかし「天武」が一旦「大友」即位を認めたとすれば、壬申の乱は「大逆」   となる。 7.「大逆」であることを避ける為には・・・「天武」は皇后即位(称制)を   主張したと記述しておけばよい。  (これならば堂々と「大友」即位に異論を唱え、皇位継承を巡る争乱と主張   できる・・・つまり、「大友」が即位を主張しようが、すまいが問題には   ならない訳です。) 元より私の想像の域を出ませんが、仮にそうだとしたら・・・実に巧みな曲筆 ・偽証ではないでしょうか?(私はその可能性が高いと思っていますが・・) しかし、「天武」が新羅人の子ならば、そもそも皇位継承権が無いわけですか ら、何と理屈を付けようと・・「大逆」以外のナニモノでもありません。 こんな場面は単なる「大嘘」になりますね。 輔住さんへ・・・ 「大友」の即位は「大嘘」の問題では無いと申し上げましたが・・・上記の説 明で、お分かり頂けないでしょうか? >>「子嘘」は少しだけだと「不安」になるものです。 貴方はそうお考えかも知れませんが、有能な文(曲)筆家は「最小の嘘」で、 「最大の信憑性」を与えるモノなんですよ。 >>だから天智が警戒するには、それなりの実績があるはずです。その実績が >>「正史」に乗っていない・・・ 「雌伏」とは・・・実力はあっても、敢えて(或いは結果的に)実績をあげな いで時期を待つ・・・ことを言うのですよ。 しかし、天智は実弟(仮にそうでなくとも、極めて近しい人物)である「天武」 の実力は見抜いていただろう・・・と申し上げているのです。 ところで、「天武の過去を抹殺」した貴方(舎人親王)が、何故に「斉明の過 去」をワザワザ記述し、小林・大和氏の「天武出自解明??」に材料を提供し たのか?・・・上手い説明が見つかりましたか? 石井さんへ・・・ 一回生なのですね。失礼ながらある説の真贋を判断するには、余りにも「知識」 が乏しすぎますし、理論が稚拙すぎます。以下は浅学非才の身ながら、人生の 先輩として申し上げますので、お気に障れば聞き流して下さい。 もっと基礎的知識を勉強して下さい。もっと柔軟に色々な意見に素直に耳を傾 けて下さい。今の貴方に必要なことは・・・私については勿論、井沢さんの説 にも、全てに新鮮な疑問を持つことです。 井沢さんを信じ切っている貴方の意見を聞いていると、かってマルクスに心酔 しきっていた・・・或いは皇国不滅を信じ切っていた・・・多くの若者を見る ようで、一抹の淋しさを感じるのです。 ・・・井沢さん貴方は, >> 本来ならば、これまで書いたことに対する批判・疑問などに、誠実にお答 >>えし、更に自分の理論を修正していくべきでしょうが、残念ながらその時間 >>はありません。もしできるとしたら、現在『週刊ポスト』に連載中の『逆説 >>の日本史』が、とりあえず一度完結してからのことでしょう。 と仰いましたね。貴方はご自分の歴史認識や記述内容に多くの問題があること を、既に充分認識されている筈です。 貴方はこの若者に対し・・・良心の痛みを感じませんか? Time : 1998/12/ 2(水) 23:55:43
Name : 正岡(初号機) E-mail : Title : ばれない嘘の書き方 Comments:  輔住さんへ。いえ、私の書き方が悪うございました。そのようなつもりでは。 ここずーっと書き込みみていまして、まるで一人の作家がストーリーを編む ように日本書紀を編纂したように思えたので…  私が言いたかったのは、他のパートを他の人が担当しているからには、 ねつ造記事は書けなかっただろう。だからお上のお気に召して、しかも あとで責任を問われない嘘の書き方は、やっぱり「書かないこと」なのじゃ ないかなーと思ったのです。  そーゆーわけで、「あるべきなのに書かれてないこと」は、「資料が なかった」「書けなかった」のだと思います。<例えば年齢とかね。 Time : 1998/12/ 3(木) 04:16:08
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 石井さんにお詫びします Comments: 石井さん、今日は・・・KANAKです。 昨日の貴方に対する発言は、私のセンチメンタリズムによるもので、明らかに 言い過ぎでした。お詫びして全面撤回いたします。 Time : 1998/12/ 3(木) 09:00:55
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  石井様に対する意見の撤回を即なされたことうれしく思います。 安部様もおっしゃっていましたように、 (失礼な言い方ならお許しいただきたいのですが、) 当初小生が文句をつけていたような頃とは違い、態度がフェアーになって こられたとおもいます。これからもよろしくお願いします。  知識のあるなしに関わらず、議論は可能と小生は信じていますので、 たとえ幼児・小学生であろうとも意見には耳を傾けるべきと思っています。 (もちろん石井様のいままでの意見は稚拙だなどと思いませんので、念のため)  ところで本題ですが、小生の質問にお答えいただき再度お礼申し上げます。 ただ、そのようにお考えであるならば、 「対立は全くうかがえない」 とはやはり言えないのではないかとおもいます。 この視点に立って、素朴な疑問を発しただけで、自分自身は あまり人がいいとは思っていませんし、言われたこともありませんでした。 一つ間違えば相手を殺す状況ならば、たとえよくあることでもやはり 潜在的な対立があって、そのために「雌伏」したと捉えるのが素直な見方では ないかとおもいます。それを対立といわないとあくまで言われるのなら、 言葉の定義の違いだけで、認識に差はないとおもいます。  ところで >>「トラを野に放つようなものだ」 >>と称される大海人吉野出家は、どのように解釈なさっているのでしょうか。 >>常日頃から張り合っていたようには思えませんか? という質問の答え: >「常日頃猫を被って(雌伏)いるが・・・その実体は虎だ。天智はそれを読み >違えたのだ・・・」と具眼の士達が評したと言うことですね。 と、 >しかし、天智は実弟(仮にそうでなくとも、極めて近しい人物)である「天武」 >の実力は見抜いていただろう・・・と申し上げているのです。 とは見かけは矛盾していますが、この点はどうなのでしょう。 Time : 1998/12/ 3(木) 10:03:56
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信ありがとうございます Comments: 皆さん、お元気ですか? KANAKさんへ: >「天武の過去を抹殺」した貴方(舎人親王)が、何故に「斉明の過 >去」をワザワザ記述し、小林・大和氏の「天武出自解明??」に材料を提供し >たのか?・・・ それは編集者たちが「天武の正統化」に対しては問題がないと判断したからではないでしょうか。 「漢皇子 = 天武」と書いたわけではないですし、小林・大和氏の説の根拠になったのは 「結果」でしょ? 大阪JF生さんの質問とダブりますが 「対立は全くうかがえない」のになぜ天智は天武を「警戒」したとあなたが考えるのは なぜですか?しかもその警戒のしかたは異常といっていいレベルです。 (普通、自分の娘を4人も与えないですからね) 正岡(初号機)さんへ: 返信ありがとうございます。 帰って気を使わせてしまったみたいですね。 Time : 1998/12/ 3(木) 12:55:15
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 世界史の視点 Comments: BBCで(琵琶湖放送じゃないよ)昔、世界史の番組をやっていたのですが、 明治維新以前で日本が登場する場面が1箇所だけあります。 どこだと思いますか? 倭寇です。 イギリス人の見た世界史には、藤原道長や徳川吉宗は影も形もないのに、 ふんどし一ちょの海賊に放送1回分を裂いているのです。 天下統一も、倭寇との関わりから語られていました。 遣唐使も少しだけ取り上げていました。 こういう突き放した視点を知るのも面白いです。 それと、中華文明(唐の文化)の範囲が、 中国、朝鮮、東北地方を除いた日本となっていました。 朝鮮と日本を丸まる中華文明に取り込んでしまうことには問題がありますが、 私たちも「ヨーロッパ」と十把一絡げに扱っているのであまり大きな事は言えません。 しかし、すごいと思ったのは、東北地方が除かれていることです。 日本人だったら、玄界灘か、津軽海峡に線を引いてしまうのではないでしょうか? イギリス人にとって、8世紀においては、朝鮮と日本よりも、東北以西と以東の文化の違いの方が大きいのです。 Time : 1998/12/ 3(木) 13:45:28
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(16)曲筆と歴史認識 Comments: 井沢さん、大阪JF生さん、輔住さん、今日は・・・KANAKです。 輔住さん・・・ >>それは編集者たちが「天武の正統化」に対しては問題がないと判断したから >>ではないでしょうか。「漢皇子 = 天武」と書いたわけではないですし、 貴方(舎人親王)は・・・  1.「天武」が「舒明・斉明」の子ではなく、当時敵対或いは圧迫関係にあっ   た「新羅人」と、有力皇位継承候補者「田村皇子の姪」である「斉明」との   間に出来た子であると知っていた。   (実に奇妙な関係であり、当時の支配階層も当然知っていたでしょうね?)  2.その上で敢えて「万世一系」の正統性を「正史」で強調し、かつ「天武」   を「舒明・斉明」の子(「天智」の同父同母弟)と言う儒教倫理では、考え   られない父系偽称の「大嘘」をついた。  3.ついでに、皇太弟云々という「小嘘」を適当にでっち上げた。「天智」が   皇位継承を「天武」に持ちかけたと言うのも当然「大嘘」である。   (よって「虎を野に放つ・・」も当然「小嘘」・・なのでしょうね?)  4.この様な「小嘘」を重ねたが、天智十六歳云々の年齢記事と、辻褄を合わ   せる「小嘘」の年齢記事は発覚をおそれて記述しなかった。  5.同様に「天武」の即位前事績についての「小嘘」も記述せず、「天武の過   去を抹殺した」・・・んですね。  6.その上で「天武の正統化」に対しては問題がないと判断し、・・・   「斉明」が、「新羅人」と結婚し「天武」をもうけた   ・・・・という事実の替わりに   「斉明」は「高向王」と結婚し「漢皇子」をもうけた   ・・・というさして必要とも思えない「大嘘」をワザワザ記述した。   しかも「高向王」や「漢皇子」に関する尤もらしい記事(「小嘘」ですね)   は記述せず、存在不詳のままに放置しておいた。 ・・・と言う想定になるのでしょうか? 私にはとても信じられません。 なお、天智・天武の「対立」に関する私の意見は(繰り返しますが) 次のとおりです・・・ *********************************** そもそも、「書紀」は列伝体ではないので、天皇(及びその即位事情)・天皇 代行者である皇太子の記事以外は原則として記述されないが、さらに「天武」 に関する「斉明・天智」時代の記事が少ないことについては・・・ (アクマデモ副次的理由ですよ!) 「天武」は実弟である自分に皇位が巡ってくると信じ「雌伏」していた。とも 考え得る。(目立った行動をとって「天智」と対立する事を極力回避していた) しかし、「天智」は実弟の実力を見抜き、血縁関係を深めることで自己の直孫 の厚遇を意図していた(四娘ではなく二娘同娶と思います)・・しかし「天智」 が末期に至って「天武」の期待や当時の慣行・世論に反し「大友」の皇位継承 を求めた時から対立(むしろ対決ですね)が生じた。 そして「天武」は「天智」のワナから、間一髪身の危険を回避し(天智にすれ ばある意味では痛恨の失敗です。やはり実弟に対する”情”が絡んだのでは?) 再起を期し「吉野」に逃れた・・・これを世間は「虎」と見なしたのでしょう。 しかも、巧みに「大友」に対する「大逆」を避ける記述・偽証?を用意した。 勿論、想像部分がありますが、何か根本的矛盾があるでしょうか? >>「対立は全くうかがえない」のになぜ天智は天武を「警戒」したとあなたが >>考えるのはなぜですか? 表面的に対立がなければ「警戒」しない!? 彼等は子供じゃないんです。 *********************************** しかも・・・  7.「天智」と戦争状態にあった「新羅(或いは唐も?)」は、当然「天武」   が「新羅人・斉明」の子であると承知していた筈だが、何故かそのことは   一切記録に残さなかった。  8.つまり「斉明」は「後夫の子=天智」と共に「前夫の子=天武」を引き   連れ「前夫の祖国」と対峙・攻撃を加えたのである。  9.「後夫の子=天智」は「新羅人の血を引く異父弟=天武」と共に「新羅・   唐」と戦い、かつその異父弟を畏怖して自分の四娘を与えた。 10.「天智」は最愛の我が子「大友」に皇位を継承させたいと願い、「新羅   人の血を引く異父弟」の存在を懸念したが、彼を取り除き得なかった。 11.「新羅人の血を引く異父弟=天武」は「天智」を暗殺し「易性革命」を   起こし「大友」を倒した。その際「栗隈王」の如き現王朝の王族も「新王   朝」の革命に積極的に協力した(・・・んですよね。)   「天智」の娘である「持統」も父が夫により暗殺されたことを知ってか知   らずか、この「易姓革命」に積極的に協力した(・・・でしょうか?) 12.現王朝の大后である「倭姫」は、夫が「天武」の手により「暗殺」され    たことを知ってか、知らずか・・・「行方不明」となった「夫」に「挽    歌」を捧げはしたものの「王朝崩壊」を座視するのみであった。 13.「易姓革命」に成功した「天武」は、敢えて「易姓革命」であることを   秘匿し「舒明の子」と言うバレバレの「大嘘」をつくとともに、   (当時の支配階級は、ほとんど身内の様な狭い社会です。誰ぁれもそんな   ことは信じゃあしませんが・・・)それを後に「正史」に記述させた。   さらに前王朝の正統継承者であるという建前に自ら拘束され、前王朝の皇   族達を皇位継承権を有する者として遇した。彼等は自分の父が暗殺された   ことを知りつつ、「暗殺者」の政権下で皇族としての地位に甘んじた。   (これにより「復辟」と言う予想外の事態が生じることになる。) 14.しかし、一方では何故か「新王朝」は、この「基本方針」に反して、   「易姓革命」であることを「後世」に伝えるため?前王朝最期(かつ自ら   の直系祖でもある)の天皇諡号を、「悪逆紂王=天智」とした。   「天智」の男系直系孫(「光仁」或いは「桓武」も)は、自らの直系祖が   「暗殺」され、しかも「悪逆紂王」に擬されると言う「最大の屈辱」に耐   えざるを得なかった。 15.後に重臣の陰謀により旧王朝が復辟し、「天智」直系の「光仁」が即位   したが、彼等は「実質易姓革命王朝」が作成した「大嘘」だらけの「正史」   を「万世一系正史」の立前から・・・修正すらせず、後生大事に尊重し、   これを支配階層の必須教養とした。   「大友」直系の「淡海三船」等のウルサガタも自分の祖先を曲筆されて、   「文句」の一つも言わなかった(・・・んですよね。) 16.さらに、自己の皇位継承の拠り所となった直系祖「天智」の諡号が「悪   逆紂王に擬した」モノであることを知りつつ、また「天智」がそのような   悪逆帝王では無く、前王朝の「故無き誹謗」であることが明白であるにも   拘わらず、「最大の屈辱」を晴らすこともなく(制定後タカダカ数十年の   モノ)を、「寝た子を起こすまいと?」これを国内外に流布するに任せ、   長く後世に曝し続けることとした(・・・んですってね?) (恐らく「新羅・渤海の使節」の笑いモノになる覚悟だったでしょうね・・ 諡号=諡法とは「謎々」ではありません。当時の東アジアの共通の教養の上に 成り立ったモノなのですから。・・・尤も「天智=紂王」と言う諡法想定が、 成立しなければ、その様な問題自体が有り得ないんですが・・・(^0^)”) ・・・という所でしょうか?  貴方達は(大筋として)本気でこれ等を最も整合性のある「歴史解釈」であ ると信じますか? 井沢さん・・・貴方自身は本当に信じておられるのですか?? Time : 1998/12/ 3(木) 23:35:10
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  詳しく説明されていますが、輔住様の解釈とは、 ずれがあるように思います。詳しくはご本人から レスがあるでしょうから、お任せしますが、 今回のご説明はよく分かりません。  想像でももちろんOKですが、そこまで天智が警戒していたの ならば、どうして大友に早急に即位させなかったのでしょう? そこがご説明では理解できませんので、よろしくお願いします。 Time : 1998/12/ 4(金) 09:38:48
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 天智、天武問題は Comments: そろそろ、天智、天武問題は、「〜だとしたら」「〜するとしたら」という言い回し ばかりになって来ましたね。 これ以上話し合っても、もしかしたら生産的な結論は得られないのかもしれま せん。 発掘や、新規の文献の発見などがあるわけでないのなら、「ここから先のこと は誰にもわからない」と考えるしかないのではないでしょうか。 私は井沢先生の説を、KANAKさんのように「荒唐無稽だ」とは考えません。 一つの仮説として、魅力的だと思います。しかしまた、他の方々のように、それ を「事実である」とも思ってはおりません。 あらゆる学問は「仮説提示」とその「検証」でなりたっています。 井沢先生の説は仮説として魅力的で、考えるに値し、検証を目指す価値があ ると思います。しかしまだ、検証ができている段階にはありません。検証は不 充分で、その途上です。もしかしたら検証できず、その説は井沢先生御自身 が抹消することもあるかもしれません。また逆に新しい発見によって、学会の 定説となるかもしれません。 いずれにせよ、あらゆる検証がそうであるように、検証には大変な時間がか かります。 わからないことはわからないと放っておくことは、一つの見識であるとも思うの です。 Time : 1998/12/ 4(金) 11:02:42
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 無題 Comments: KANAKさん、こんにちは。 前回の発言を全面撤回されたあとで言うのは問題を蒸し返すようで いやなのですが、やはり気になったところは指摘すべきだと 考えますので、いわせていただきますと、 私は決して井沢先生を「盲信」している 訳ではありません。 私はKANAKさんの説に対して「おかしいな」と思ったところを 指摘するか、あるいはKANAKさんの提示された資料を見て 「へえ、そうなのか、本当かな」と確認して、結果「ああ、でも こういう風にも解釈できるぞ」という考えをここに示したまでのことです。 その証拠にKANAKさん自身も(私の説は)「井沢先生の説とは乖離している」と おっしゃっていたはずです。 「盲信」しているなら「別の解釈」も提示できるはずがありません。 「年齢」を持ち出されたこともショックでした。 インターネットとは 「性別・年齢・出身・身分に関わらず対等な話し合いが出来る場所」 であるべきではないでしょうか? 管理人さんが以前  >いろいろな事情から、個人的なプロフィールを公開できない >方もいらっしゃるとは思いますが、なるべく新設の「とまり木」で>素顔の断片でも垣間みせる >ようにしていただけると、「フォーラム」において血の通った議論>がなされるのではないでしょうか。 とおっしゃってましたが、「素顔」を少々見せた結果 私の危惧していた通りの事態を招いてしまったのが残念です。 確かに私は若輩ですから、知識・経験では皆さんに 及びません。(ひょっとしたら一番年下かな?) そこのところはよく分かっているつもりです。 ですから本掲示板で「天智論争」ばかりでなく 他の議論もしてみたく思いますし、皆さんの体験や知識・歴史に対する見方を ここで吸収したいと思っております。 (私はKANAKさんの説にも十分説得力があると思いますし、 とくに「書紀の年齢記載問題」に関してはそう思いました。) 前回井沢先生の講演に行った時、先生は大学生に向けて「一次資料=原点に自分で当たることを大切にして下さい」とおっしゃられました。 私はでき得る限り「自分の判断」で、歴史のみならず あらゆることを知り、体験していきたいと思います。 というわけで、KANAKさんおよび皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。 Time : 1998/12/ 4(金) 12:32:59
Name : 輔住 E-mail : Title : 私が聞きたかったこと Comments: みなさん、今日は KANAKさん返信ありがとうございます。 だけどちょっと私の質問とは答えの内容が異なります。 私があなたに質問したのは「天智が天武を警戒した」とあなたが考える理由です。 それともう一つ > 6.その上で「天武の正統化」に対しては問題がないと判断し、・・・ >  「斉明」が、「新羅人」と結婚し「天武」をもうけた >  ・・・・という事実の替わりに >  「斉明」は「高向王」と結婚し「漢皇子」をもうけた >  ・・・というさして必要とも思えない「大嘘」をワザワザ記述した。 私は「漢皇子」をもうけたことが「大嘘」だなんて一言もいってません。 (「漢皇子」をもうけたという記述と天武と同一人物かは別の問題ですよね) 残念ですか私の文章をあなたは曲解しています。 >表面的に対立がなければ「警戒」しない!? 彼等は子供じゃないんです。 私が問題にしているのは「警戒」のレベルです。 天智には他にも「政敵」は数多くいます。 (それは天智の一生を振り返ったり、死後に内乱が起きたことからも ハッキリしています) その中でこれだけの「警戒」をしているのですよ。 私は「すでに対立があった」と考えた方が自然だと思いますよ。 Time : 1998/12/ 4(金) 12:42:45
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様の記事を読んで Comments:  いろいろ議論してきて、最終的には三枝様のおっしゃる通りだ とおもいます。 ただ、小生は(おそらく他の方も)仮説を決して事実とは思っていません。 どの見解がより納得できるかを考えて、議論してきたつもりです。 問題点をはっきりさせるために、議論は無駄ではなかったと思いますが、 やはりかなり袋小路に入った感じは否めません。 したがって、やはりそろそろ潮時かなと思いはじめてきましたので、 三枝様のおっしゃるように「未解決」としてとりあえず置いておくのが 英断だとおもいます。 何よりも区切りをつけないと管理人様が困っていらっしゃるかもしれません。 HPのデザイン変更に手をつけにくいでしょう。 これが個人的な感想です。 Time : 1998/12/ 4(金) 16:50:46
Name : 輔住 E-mail : Title : 区切り Comments: 三枝貴代さん・大阪JF生さんの意見に賛成です。 そろそろ一休みしても良いでしょう。 私自身、この天智・天武論争を通じて色々勉強になりました。 皆さんには心からお礼を申し上げます。 またこの掲示板には他のことを色々と書くと思いますが よろしくお願いします。 Time : 1998/12/ 4(金) 17:53:15
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : ふーむ! Comments: >KANAK様 議論に年齢を持ち出すのは、センチメンタリズムではなく、傲慢と受け取られ かねませんが。たとえ撤回なされても、一度、他人の心を傷つけると、取り返 しがきかないものです。以後、お気をつけください。                        管理人 Time : 1998/12/ 5(土) 02:27:05
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(17)天智・天武問題 FIN Comments: 三枝貴代さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「仮説提示」の重要性、「検証」の困難性・・・おっしゃるとおりです。 井沢さんが、その様な謙虚な姿勢で自説を述べられたのならば、特段問題はな かったかも知れません。 しかし、実際にはそれどころか自説の正当性を読者に印象づけるため、理不尽 に「歴史学会・歴史学者」を、愚弄・嘲笑しておられるのではないでしょうか。 「よほどおめでたい」「なんとかの一つ覚え」「日本以外の国では常識を疑わ れる」「笑うべきこと」「単純な『史料至上主義』」「下らぬ『権威主義』」 等々数限りがありませんね。 しかも、その根拠が素人の私でさえ簡単に反論可能な程度のものでしか無いの ですから、これらの愚弄・嘲笑は研究者として、言論人として許し難い発言だ と思うのです。 (勿論、私の「反論」について納得されない方も、いらっしゃるでしょう。 しかし、少なくとも全く「反論」としての体を為していないとは思いません。) これでは「歴史学者とは、こんな簡単なことさえ理解できずに、歴史を語る無 能集団なのか・・・」と言う誤解を読者に与えても不思議ではありません。 ・・・と言うより、その様に誤誘導する意図をもって記述されたとしか考えら れないのです。 >>わからないことはわからないと放っておくことは、一つの見識である >>とも思うのです。 ・・で済ませられる問題では無いと思います。 もともと、私が「天智・天武非兄弟論」に接したのは、約20年前「小林説」 によるものでした。一読して牽強付会が目立ち、特に中世史料による「年齢」 部分にはあきれ果てたモノです。その後「大和説」及びその「反論」を知り、 これらは既に過去の奇説になったと考えていました。 ところがNIFTYで「天智・天武非兄弟論」が井沢さんにより再提起されている 事を知り、しかも紹介者の言から過去の「小林・大和説」から一歩も出ていな い内容であることが察せられました。 ・・・と言うより「書紀」の年齢記事については紹介者さえ、大きな誤解をさ れており、その原因が井沢さんの記述内容に依るモノであることが分かりまし た。 「扶桑略記=天智暗殺説」を含め、私が感情的に対応した原因はここにあった のです。しかし、私が「逆説の日本史2」を通読せず「小林・大和説」により 批判したのは、マナーとして矢張り不適切であったと思います。 結果的には「天智諡号問題」以外に井沢さんのオリジナリティーは認められま せんでしたが、意地を張らず早い段階で通読していれば、より系統的に批判で きたと思いますし、井沢さんの「反論」にも対応出来たと思います。 しかし、井沢さんは「反論」において、既に私が通読し批判理由も明記してい たにも拘わらず、そのことを無視(実際にはツリーの構成から、気付かれなか ったと思いますが・・)され、批判するならば理由を示せ・・と仰いました。 私は、それならば・・・HPという場を通じてその理由を申し上げるべきだと 考えたのです。(当初は紹介者の判断にお委せしていました) 勿論、HPにおける反撥は覚悟しておりましたが、私が最も驚いたのは「史観」 に関するモノでした。 私は、井沢さんが「梅原説」をさらに「怨霊史観」として拡大適用しておられ るのは承知しておりましたが、これも「所有・婚姻・家族・自然崇拝・性愛・ 芸能 等々」と同様に単なる歴史事象解釈の視点(切り口)であり、歴史事象 の解明そのものとは別次元のモノであると理解していたからです。 (簡潔に言えば・・・「百済出兵・敗戦」とか「壬申乱・天武勝利」とかの 大事件の発生・経緯・結果の解明に「怨霊説」が必須或いは有効とは思わない と言うことです。) しかし、私の「批判」の掲載を容認頂いたHP管理人さんのフェアな態度と、 皆さんの真剣な「反論」については心から感謝いたしております。 私は、皆さんとの議論を通じ、密かに井沢さんが「批判」にお応えいただくか、 或いは坂本氏を始めとする歴史学者に対する陳謝の言葉を表明いただけるので は、・・・と期待していたのも事実です。 ところが今回の「退会挨拶」では、その期待も見事に裏切られ、全く反省の言 葉はお聞きできませんでした。まことに残念と言うしかありません。 「天智・天武問題」については、確かに主要ポイントは申し上げたと思います ので、この辺で一旦切り上げるべきかも知れません。 今後は既にNIFTY掲載済みの「聖徳太子問題」に移りたいと思いますので、ご了 承願います。(勿論、管理人さんのご指示があれば、中止いたします。) なお、「天智・天武問題」の最後に輔住さんのご指摘にお答えしておきます。 ********************************** >>私は「漢皇子」をもうけたことが「大嘘」だなんて一言もいってません。 >>(「漢皇子」をもうけたという記述と天武と同一人物かは別の問題ですよね) >>残念ですか私の文章をあなたは曲解しています。 私の批判は全て以下の井沢説により申し上げているモノです。・・・従って、 曲解云々ではありません。 井沢さんは既にご承知のとおり・・・次の様に述べておられます。P389ー393 「天武とは一体何者か。前節でも述べたようにその母親は斉明天皇であると考 えていいだろう。・・・天武が斉明女帝の子だとすると、斉明の前夫である高 向王との間に生まれた『漢皇子』と同一人物である可能性が高くなる。」 「この高向王について『日本書紀』には『・・・漢皇子を生れませり』とある。 ・・・斉明天皇の前夫でありながら、まったく経歴不詳なのである。 ・・・ということは、やはり高向王は架空の存在だろう。」 「やはり結論はこうなる。天武の父は皇族高向王ではなく、外国人だったので はないか。」 「では、何国人だったのか? ここから先はわからない。・・・天武の父はや はり新羅系の外国人、すなわち新羅人だったのではないだろうか。」 つまり言い換えれば・・・ >  「斉明」が、「新羅人」と結婚し「天武」をもうけた >  ・・・・という事実の替わりに >  「斉明」は「高向王」と結婚し「漢皇子」をもうけた >  ・・・というさして必要とも思えない「大嘘」をワザワザ記述した。 ・・と言うことではないでしょうか? Time : 1998/12/ 5(土) 22:53:55
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(17)天智・天武問題 FIN Comments: 三枝貴代さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「仮説提示」の重要性、「検証」の困難性・・・おっしゃるとおりです。 井沢さんが、その様な謙虚な姿勢で自説を述べられたのならば、特段問題はな かったかも知れません。 しかし、実際にはそれどころか自説の正当性を読者に印象づけるため、理不尽 に「歴史学会・歴史学者」を、愚弄・嘲笑しておられるのではないでしょうか。 「よほどおめでたい」「なんとかの一つ覚え」「日本以外の国では常識を疑わ れる」「笑うべきこと」「単純な『史料至上主義』」「下らぬ『権威主義』」 等々数限りがありませんね。 しかも、その根拠が素人の私でさえ簡単に反論可能な程度のものでしか無いの ですから、これらの愚弄・嘲笑は研究者として、言論人として許し難い発言だ と思うのです。 (勿論、私の「反論」について納得されない方も、いらっしゃるでしょう。 しかし、少なくとも全く「反論」としての体を為していないとは思いません。) これでは「歴史学者とは、こんな簡単なことさえ理解できずに、歴史を語る無 能集団なのか・・・」と言う誤解を読者に与えても不思議ではありません。 ・・・と言うより、その様に誤誘導する意図をもって記述されたとしか考えら れないのです。 >>わからないことはわからないと放っておくことは、一つの見識である >>とも思うのです。 ・・で済ませられる問題では無いと思います。 もともと、私が「天智・天武非兄弟論」に接したのは、約20年前「小林説」 によるものでした。一読して牽強付会が目立ち、特に中世史料による「年齢」 部分にはあきれ果てたモノです。その後「大和説」及びその「反論」を知り、 これらは既に過去の奇説になったと考えていました。 ところがNIFTYで「天智・天武非兄弟論」が井沢さんにより再提起されている 事を知り、しかも紹介者の言から過去の「小林・大和説」から一歩も出ていな い内容であることが察せられました。 ・・・と言うより「書紀」の年齢記事については紹介者さえ、大きな誤解をさ れており、その原因が井沢さんの記述内容に依るモノであることが分かりまし た。 「扶桑略記=天智暗殺説」を含め、私が感情的に対応した原因はここにあった のです。しかし、私が「逆説の日本史2」を通読せず「小林・大和説」により 批判したのは、マナーとして矢張り不適切であったと思います。 結果的には「天智諡号問題」以外に井沢さんのオリジナリティーは認められま せんでしたが、意地を張らず早い段階で通読していれば、より系統的に批判で きたと思いますし、井沢さんの「反論」にも対応出来たと思います。 しかし、井沢さんは「反論」において、既に私が通読し批判理由も明記してい たにも拘わらず、そのことを無視(実際にはツリーの構成から、気付かれなか ったと思いますが・・)され、批判するならば理由を示せ・・と仰いました。 私は、それならば・・・HPという場を通じてその理由を申し上げるべきだと 考えたのです。(当初は紹介者の判断にお委せしていました) 勿論、HPにおける反撥は覚悟しておりましたが、私が最も驚いたのは「史観」 に関するモノでした。 私は、井沢さんが「梅原説」をさらに「怨霊史観」として拡大適用しておられ るのは承知しておりましたが、これも「所有・婚姻・家族・自然崇拝・性愛・ 芸能 等々」と同様に単なる歴史事象解釈の視点(切り口)であり、歴史事象 の解明そのものとは別次元のモノであると理解していたからです。 (簡潔に言えば・・・「百済出兵・敗戦」とか「壬申乱・天武勝利」とかの 大事件の発生・経緯・結果の解明に「怨霊説」が必須或いは有効とは思わない と言うことです。) しかし、私の「批判」の掲載を容認頂いたHP管理人さんのフェアな態度と、 皆さんの真剣な「反論」については心から感謝いたしております。 私は、皆さんとの議論を通じ、密かに井沢さんが「批判」にお応えいただくか、 或いは坂本氏を始めとする歴史学者に対する陳謝の言葉を表明いただけるので は、・・・と期待していたのも事実です。 ところが今回の「退会挨拶」では、その期待も見事に裏切られ、全く反省の言 葉はお聞きできませんでした。まことに残念と言うしかありません。 「天智・天武問題」については、確かに主要ポイントは申し上げたと思います ので、この辺で一旦切り上げるべきかも知れません。 今後は既にNIFTY掲載済みの「聖徳太子問題」に移りたいと思いますので、ご了 承願います。(勿論、管理人さんのご指示があれば、中止いたします。) ・・・可能であれば「平安・鎌倉」についても検証したいとも考えています。 なお、「天智・天武問題」の最後に輔住さんのご指摘にお答えしておきます。 ********************************** >>私は「漢皇子」をもうけたことが「大嘘」だなんて一言もいってません。 >>(「漢皇子」をもうけたという記述と天武と同一人物かは別の問題ですよね) >>残念ですか私の文章をあなたは曲解しています。 私の批判は全て以下の井沢説により申し上げているモノです。・・・従って、 曲解云々ではありません。 井沢さんは既にご承知のとおり・・・次の様に述べておられます。P389ー393 「天武とは一体何者か。前節でも述べたようにその母親は斉明天皇であると考 えていいだろう。・・・天武が斉明女帝の子だとすると、斉明の前夫である高 向王との間に生まれた『漢皇子』と同一人物である可能性が高くなる。」 「この高向王について『日本書紀』には『・・・漢皇子を生れませり』とある。 ・・・斉明天皇の前夫でありながら、まったく経歴不詳なのである。 ・・・ということは、やはり高向王は架空の存在だろう。」 「やはり結論はこうなる。天武の父は皇族高向王ではなく、外国人だったので はないか。」 「では、何国人だったのか? ここから先はわからない。・・・天武の父はや はり新羅系の外国人、すなわち新羅人だったのではないだろうか。」 つまり言い換えれば・・・ >  「斉明」が、「新羅人」と結婚し「天武」をもうけた >  ・・・・という事実の替わりに >  「斉明」は「高向王」と結婚し「漢皇子」をもうけた >  ・・・というさして必要とも思えない「大嘘」をワザワザ記述した。 ・・と言うことではないでしょうか? Time : 1998/12/ 5(土) 22:57:51
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : 天智・天武論争のひとまずの終了を迎えて Comments:  久しぶりに掲示板を覗いてみると、とにもかくにも「天智・天武」の論争はひとま ず終了ということになったようですね。  この論争は息苦しいものを感じながらも、しかし、勉強にはなったと思います。 KANAK様の「三文小説」問題のあたりの頃からの読者です。  全部、議論の内容はプリントアウトして綴じてます。この掲示板は多くの場合 井沢先生のファンの集まりでしょうから、程度の差こそあれ、井沢説にある程度 納得しておられる方が多いに決まっているのです。そんな中、KANAK様が孤塁 (?)を堅守されてきたことに敬意を抱いてもおります。少数派でいつづけること は、かなり大変なことですから。  もっとも、歴史学の世界では井沢先生は全くの少数派(にも数えてくれない学者 の方が多いのでしょうね)なのでしょうけれど。  古代史はとりわけそうでしょうけれど、近現代史にしたって、すべての情報が 記録に残っているわけではないので(意図的かどうかはともかく)、史料に無いか らといってその事実も無かったとはいえないという井沢先生のお考えは妥当だと思 います。そのため、後世の我々は「常識」で判断推理せざるを得ない。  ただ、何をもって常識とするのか。ここが難しいところですね。ある史料を幾と おりにも解釈できるとき、何をもって常識とするのか。この常識の捉え方に 「言霊・怨霊」といった元来、歴史を考える上で影響をあまり考慮されてこなかっ た要素を含めたのが、井沢先生の基本的な考え方(すごく乱暴なまとめかたです が)でありますが…    ふと考えてしまうことがあります。  私の伝記をさまざまな人が書いて下さったら(そんなことはありえないが) いったいどんなことになるのだろうかと。  たぶん、私が見て納得の出来るものもあれば出来ないものもあるでしょうね。 そんなつもりで言ったわけではないのに…とか買い被りすぎだよそれは… なんて感じで。私がこの世に存在した…そのこと自体は動かしがたい事実なの ですが、私が真実だと思っていることと、周囲の人が真実だと思っていることは 違っていても当たり前なのかもしれませんが。私が真実だと思っていることも、 周囲の人が勘違い(本人は正当な解釈だと思っている場合)していれば、その人 にとっては、それが真実となってしまうのですから。  (注)事実と真実という2語について確か井沢先生は逆の用法で使っておられ たと思うのですが、どの用法が正しいのでしょう?本当に国語苦手なんです。  歴史上の人物もさぞかし、後世に語り伝えられる自分のプロフィールに驚いて いることでしょうね。称徳上皇にしたってずっとどうしようもない色狂いと言わ れ続けたのが最近ようやく「そんなヒトではなかった」と言ってくれる方が現れ たわけです。武田信玄だって、諏訪出身の新田次郎氏が描いてくれると、結核のた めにときどき感情的になって残酷なことしたけど本当はそんな悪い奴ではなかった んだ…となるのに、井沢先生にかかれると山本勘助の指導のもと相当えげつない人 物として登場する。果たして事実はどちらに近かったのでしょうか?歴史小説と 歴史学との違いはともかくとして、読者は気に入った方を「真実」として認識する のでしょうね。大河ドラマなんかもそうでしょうし。きっと「花神」を見た人は、 大村益次郎とオランダおいねはできている…と思っていることでしょう(本当はど うだったんだろう)?  そう考えてみると歴史学というものは「絶対こうだった」とはなかなか断言 しにくい学問なのですね(いかに文科系の学問の基礎がわかっていなかったか という恥ずかしい証左になりますが)。すべての史料が完璧に揃っているわけ もなく、しかもすべては本当である(かも知れないが)とは限らない。日記に すべてを書く人がいないように。  それを我々後世の人間は、それぞれ自分なりの基準で評価・推察するわけです。 したがって、歴史の解釈のパターンは、最大値で人の数だけ存在すると言えなくも ないわけです(理論的には)。もちろん最大値ならば…ですが。多くは数種の パターンに収斂するのでしょうけれど。  そのうちのどのパターンが自分の琴線に触れるかによって(あるいは学校教育 によって1つのパターンを注入されて)、史観というものが形成されてゆくわけで す。     同時代史のように情報が異常に多い歴史ですら同じことは言えます。 たとえば、今の政治をどう考えるか。なまじ身近なだけにかえってむずかしい。 自分のイデオロギーによってバイアスがかかるのは誰にも避けることはできない はずです。事実としては、自民単独政権が終わって、野党連立ができて、その後 自社がくっついて、あとどうなったんだっけ…今、自自ができるのかな。この流れ をどう解釈するかは、まさにヒトそれぞれですね。  ちなみにイデオロギーというものは日本語では「知・徳・意」ですから別に左翼 でなくとも誰にでもあるものです。イデオロギーを排除して議論しようなんて言う ヒトがたまにいますが、それはどんなヒトにとっても無理な話なのかもしれません ね。  我々のさらに後世の歴史家はこの時代をどう評価するのか、見ることはできない が興味深いです。  というわけで、過去の歴史を絶対こうだったんだとは断言しにくいという当たり 前の認識(本当に当たり前のことをだらだら書きやがって…と思った方も多いで しょうね)が、この場では特に、大事だと思うのです。  各自が自分なりの歴史観にもとづいて真実を追究するというのは当然なのですが その歴史観に絶対の自信をもって(もつのは良いのですが)、それを訴えようとす るとき、えてして表現は断言的・確信的なものになります(それ自体は非難される ものではありませんが)。  しかも、まったく同じ歴史観を持つ人はまずいませんから、意見が違うのは当た り前なのです。ただ、各自、それを「真実」と思っているわけですから、その思い 入れが強すぎれば強すぎるほど、言葉の端々に言わなくてもすむような過剰な修飾 語が入るのです。  いわゆるひとこと多い…という表現です。 ある史料を検討するにあたっても、なんだか喧嘩腰の表現が散見されます。 議論ですから少々喧嘩(?)になってしまうのは仕方がありませんが、色々な見方 ができるのですから、そこまでいわんでも…と思ったりします。 「あなたはそう思うんですか。なるほど。 しかし、私はちょっと違うんだな。」てな感じで、もう少しマイルドに議論できな いものなのでしょうか?  相手に対して非礼な表現や過激な修飾語をつけることで、その議論に勝てる わけでもないのですから。    ずっと様々な方の意見を拝読してきましたが、しばしば 「大人の議論」にしては、感情だけが先走ってるなぁ。と思わされる個所がありま した。 いいオトナが揃っているのですから、もう少し表現に留意していただきたいと思う のです。 オトナというものは、思慮分別が備わっているはずですから…  それが、この掲示板の今後の課題だと思うのです。  地位・性別・キャリア…などまったく関係無く、歴史の専門家ではない人間も (むろん専門の人も含めて)歴史について語れる場がここにあります。お互いが それぞれの歴史観を尊重し、尊重しつつも、自分の意見を訴える。そんな当たり前 な場にしてゆくことが大切だと思います。多くの掲示板が、誹謗中傷合戦でだめに なっている現状を考えると、やはり、この当たり前の認識を各自持つ必要があると 思うのです。天智・天武論争のひとまずの決着を機に、この掲示板が「おとな」の 議論の場になることを祈って、あえて長々と書かせていただきました。どうもすみ ませんでした。  今後は私も興味のある「聖徳太子」についてKANAK様のご意見が拝読できる とのこと。とても楽しみです。 Time : 1998/12/ 6(日) 08:41:25
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : 止まり木 Comments:  とさっきのメールを送ったあと何気なくホームページに目をやったらなんと すでに止まり木があるじゃござんせんか?  しばらく見ていない間に、時代は変わっていたんですね。ああ、びっくり。  油断してました。お気に入りに「掲示板」を入れてそこからしか見ていない方 おられましたらホームの方にも目をやってみてくださいませ。  すでに面白そうな議論になってるなんて…知らなかった。 Time : 1998/12/ 6(日) 08:47:59
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(18)間人皇后名称 Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 宇津木さん・・・お励ましありがとうございます。 石井さん・・・重ねてお詫びいたします。 前回、予告させて頂いたとおり、「聖徳太子」編に移りたいと存じます。 まず、最初に「間人皇后」名称に関する疑問点です。ノッケカラかなり刺激的な 表現ですが、正直な気持ちです。 (05/16 #1422・08/12 #1703を再編したものです。) 井沢さんは、「孝徳帝 間人皇后」について次のとおり述べておられます。 (後日訂正されているのであれば、お詫びして撤回します。) 「それにもう一つ注目してもらいたいことは、この『間人』という名だ。 既に述べたように、これは聖徳太子の母と同じ名である。昔は、近い親戚に同じ 名前は絶対につけない。それなのにどうして同じ名か。それはこれが固有名詞で はなく普通名詞だからではないだろうか。では共通項は何か、「不倫」である。 現在でも「間男」という言葉がある。女なら「間女」ないし「間人」になるので はないかと思う。」                       P137 流石の私も、この記述には唖然とせざるを得ませんでした。 これは単なる吉本興業流「ウケ狙いのギャグ」なのか、それとも本当に 「無知?マサカ」によるものなのか ・・・いまもって井沢さんの真意を測りかねております。 何故ならば、少なくとも「古代史」に関心を持つ人間で、古代史族「間人」の存 在を知らない人はいないはずです。 また、古代皇族に同一(類似)名称が極めて多いのも「古代史」の初歩的知識で あり、その理由も論じ尽くされているからです。 (所謂 皇族諱名の壬生・湯座氏族由来説ですね・・勿論例外はありますが。) まず、間人氏ですが・・・ 「『新選姓氏録』左京皇別上には、「間人宿禰。仲哀天皇皇子誉屋別命之後也」と あり、左京神別中にも、「間人宿禰。神魂命五世孫玉櫛比古命之後也」とあって、 両者は弁別がたい。間人の氏名は、間人の伴造氏族であったことにもとづく。間人 宿禰の旧姓は連、天武天皇十三年(684)十二月に宿禰の姓を賜る。一族のうちに は、推古天皇十八年(610)十月、任那の使人の導者となった間人連塩蓋、斉明天 皇三年(657)に新羅使に付せられ、入唐を命ぜられた間人連御厩、また天智天皇 二年(663)三月には、新羅を伐つ前将軍として遣わされた間人大蓋ら、七世紀に は対外関係の任務に携わった者をみかける。さらに天平宝字八年(764)二月九日 付の「東大寺越前国高串庄券」には・・・間人宿禰鵜甘・・間人宿禰鷹養、万葉 歌人には間人宿禰大浦・・らの名をみることができる。このほか、山城国皇別の 間人造や、臣姓・直姓・無性の者も存在した。このうち無姓の間人氏は、越前・ 丹後・因幡・出雲・備中などにその存在が確認される。」ーー日本古代史族事典 さらに、「万葉集」でも・・・ 「天皇宇智野に遊猟したまふ時、中皇命の間人連老をして献らしめたまふ歌 ・・・・・ 反歌 玉刻春 内乃大野爾 馬曲而 朝布麻須等六 其草深野  (四)」 「間人連老」として登場し、「天皇=舒明」であるところより、この「中皇命」 が「宝皇后=斉明」か「間人皇女」かを巡るポイントにもなっているのです。 (つまり、間人皇女の名称は壬生氏族「間人」に由来するものであり、中皇命 が「間人連老」に献歌を命じたのも、その関係によるものである。 又、中皇命とは天智ー間人ー天武の三子の「中子」を意味するという説です。) いくら井沢さんでも、彼等を「不倫氏族」とは呼ばれないでしょう? 次ぎに皇族同一(類似)名称の例について・・・ザット見ですが、次のとおり であり・・・ 「昔は、近い親戚に同じ名前は絶対につけない。」とは何処の国の話でしょう か? と言わざるを得ません。  欽明〜桓武の間の皇族同一(近似)名の例・・別名含む                 父    母 (母の出自) (石上皇子)・・・・・・・・・・欽明天皇・稚綾姫皇女(28宣化天皇) (石上部皇子)・・・・・・・・・欽明天皇・堅塩媛(蘇我稲目)  (山背皇子)・・・・・・・・・・欽明天皇・堅塩媛(蘇我稲目)  (山背大兄王)・・・・・・・・・聖徳太子・刀自古郎女(蘇我馬子) (山背王)・・・・・・・・・・・押坂大兄・*** (舎人皇女)・・・・・・・・・・欽明天皇・堅塩媛(蘇我稲目)  (舎人親王)・・・・・・・・・・天武天皇・新田部皇女(38天智天皇) (葛城皇子)・・・・・・・・・・欽明天皇・小姉君(蘇我稲目)  (葛城皇子・中大兄)・・・・・・舒明天皇・宝皇女(茅淳王)・・・38天智    (椀子皇子)・・・・・・・・・・欽明天皇・堅塩媛(蘇我稲目)  (押坂彦人大兄皇子・麻呂古)・・敏達天皇・広姫(息長真手王)  (麻呂子皇子)・・・・・・・・・用明天皇・広子(葛城直磐村)  (泥部=間人穴穂部皇女)・・・・欽明天皇・小姉君(蘇我稲目)・・31用明后  (泥部=間人穴穂部皇子・天香子)欽明天皇・小姉君(蘇我稲目)  (間人皇女)・・・・・・・・・・舒明天皇・宝皇女(茅淳王)・・・36孝徳后   (桜井皇子)・・・・・・・・・・欽明天皇・堅塩媛(蘇我稲目)  (太姫皇女・桜井)・・・・・・・敏達天皇・菟名子夫人(伊勢大鹿首小熊) (桜井弓張皇女)・・・・・・・・敏達天皇・豊御食炊屋姫尊(31用明天皇) (難波皇子)・・・・・・・・・・敏達天皇・老女子夫人・薬君(春日臣仲君) (難波王)・・・・・・・・・・山背大兄王・*** (春日山田皇女)・・・・・・・・崇峻天皇・糠子(春日日抓臣)  (春日皇子)・・・・・・・・・・敏達天皇・老女子夫人・薬君(春日臣仲君) (泊瀬部皇子)・・・・・・・・・欽明天皇・小姉君(蘇我稲目)・・・32崇峻  (泊瀬部皇女)・・・・・・・・・天武天皇・楫媛娘(宍人臣大麻呂) (田眼皇女)・・・・・・・・・・敏達天皇・豊御食炊屋姫尊(31用明天皇) (田目皇子・豊浦)・・・・・・・用明天皇・石寸名(蘇我稲目) (尾張皇子)・・・・・・・・・・敏達天皇・豊御食炊屋姫尊(31用明天皇) (尾張王)・・・・・・・・・・山背大兄王・*** (糠手姫皇女・田村)・・・・・・敏達天皇・菟名子夫人(伊勢大鹿首小熊) (田村皇子)・・・・・・・押坂大兄・糠手姫皇女・田村(30敏達天皇)34舒明  (新田部皇女)・・・・・・・・・天智天皇・橘娘(阿倍倉梯麻呂)   (新田部皇子)・・・・・・・・・天武天皇・五百重娘(藤原鎌足) (山辺皇女)・・・・・・・・・・天智天皇・常陸娘(蘇我赤兄)  (山部王)・・・・・・・・・・・蚊屋皇子・*** (山部親王)・・・・・・・・・・光仁天皇・高野新笠 ・・・・・・・50桓武 **井沢さん、コレッテ何なのですか??  Time : 1998/12/ 6(日) 12:04:02
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論を解明してみませんか? Comments: 近代史に興味のある方、征韓論をこの掲示板で解明してみませんか? 征韓論なんて取り上げると「帝国主義者」と取られかねない雰囲気が戦後はありましたが、 これ程わけのわからない事件もないです。 頭脳明晰で、冷静な考えが出来た人たちが何故こんな考えに憑かれたのでしょうか? 私自身考えがまとまっていないのですが、興味を持っている人がいたら、解明してみましょう。 Time : 1998/12/ 6(日) 16:53:47
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様 征韓論について Comments:  征韓論については、韓国の研究者の姜範錫氏が、『征韓論政変 明治六年の 政変』をサイマル出版会から出版しています。  本のカバーでは、同書の内容と意義をこのように謳っています。10年近く 前に出版されたものですが、もし御興味があれば版元に問い合わせてみてくだ さい。                     管理人 <<明治六年、西郷隆盛ら五参議が政府を去った。世にいう「征韓論政変」で ある。この政変は、果たして通説のように朝鮮との関係がもたらしたものだっ たのか。知られざる韓国側資料を含む一次資料を駆使して、「征韓論」政変と は、明治政権の確立過程で展開された、「征韓論」で粧いをこらしての壮絶な 権力闘争であったことを立証した野心的な労作である>> Time : 1998/12/ 6(日) 20:46:58
Name : 輔住 E-mail : Title : 投稿 Comments: みなさん、今日はお元気ですか。 今度は「聖徳太子」や「征韓論」が話題になりそうですね。 まだこの問題では考えもまとまっていません。ただ「間人皇后 問題」は 井沢先生の説よりKANAKさんの説の方に理があると思います。 ところでKANAKさん自身は「素人」と謙遜していらっしゃいますが、 すごく知識を持ってますよね。本当に驚いてしまいます。 Time : 1998/12/ 7(月) 12:35:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 親鸞は何故聖徳太子に会ったのか? Comments: 管理人さま、アドバイスありがとうございます。早速図書館で探してみようと思います。 京都市の図書館は、朝鮮関連の本が充実していますので。 聖徳太子の見過ごされがちな一面を書きます。 梅原猛先生が「聖徳太子」で述べていましたが、日本の浄土思想の創始者であることです。 日本人は、仏教以前から、死後の世界を持っていた。 古墳や、伝承を見れば分かります。 それと、浄土思想を結び付けたのが太子であると。 それに、律令制とは、一君の下に万民が平等になる世の中です。 日本に律令制をもたらそうとした最初の人である太子もまた、平等思想の持ち主だった。 これは、十七条憲法の他ならぬ第一条が「和」であることからも分かる。 それ故に、「四姓平等」(この場合カーストですが)を唱える仏教に心引かれたのでしょう。 その中でも特に、念仏を唱える者を分け隔てなく救済する浄土教は一番日本にマッチすると考えたのではなかろうか。 「念仏」を「南無阿弥陀仏」の6文字にしたのは法然であって、 それ以前は、「念仏」は「南無阿弥陀仏」と唱えることとは限りませんでした。ここに注意して下さい。 これは仏教では特異なことであり、他の仏教圏や南都六宗では、 人間は素質によって成仏の段階があるというのが主流です。 但しこれは差別ではありません。 私のような者にはうまく説明することはできませんが・・・ ちなみに、この考えを日本仏教から一掃したのは最澄です。 平等主義は日本人に根強いといえる。 天上国曼荼羅は、浄土にあそぶ太子の姿を描いたものです。 上宮王家一族が天に昇ったというのも、浄土思想でしょう。 ですから、親鸞が聖徳太子に会ったのは、故ないことではない。 これが、日本仏教の根本を研究していたら、太子の浄土思想に行き着いた象徴であるのか、 厳しい修行と無意識の狭間での出来事かは知る由もありません。 Time : 1998/12/ 7(月) 12:46:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 上宮王家昇天 Comments: 聖徳太子が怨霊であることを知るためには、斑鳩寺で何が起きたのか知る必要がある。 当てもなくさ迷い歩き、空腹にも耐えかねた上宮王家一族は、 父なる太子の宮殿に帰って生きた。 そこで、山背大兄皇子の「百姓を道づれにできない」の言葉に従い、 一族首をつったと。 これは嘘でしょう、おそらく真相は、 山背大兄皇子は崇高な理想の下に心中を迫った。 しかし、女子供たちはそれに従わなかった。 そこで、皇子と家臣は、逃げる家族の髪と袖をつかみ、次々と斬り殺した。 ついで自らも死んだ。 残ったのは、家族で殺しあった跡、血の海・・・ 犯人達は、「彼らは天に昇ったのだ」とでも考えなければやっていけなかったのでしょう。 仏教を篤く信じた太子の一族がどうしてこんなむごい最期を遂げなければならなかったの? 日本の仏教は深刻な矛盾に突き落とされたはずです。 私は、日本の仏経がどうやってこの忌まわしき事件から立ち直ったのかに興味があります。 私が思うに、 太子の実像と上宮王家滅亡(皇極天皇も一枚かんでいる可能性が高い)を伝説と法隆寺で覆い隠した。 人々は、伝説を本気で信じたかった。 そして伝説はいつしか史実になってしまった。 ですから、「聖徳太子は怨霊である」とはどこにも記されていない。 しかし、25人もの人が素直に枕を並べたとは信じられない。 Time : 1998/12/ 7(月) 13:04:21
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論は内政問題 Comments: 師走で忙しいのか、出方をうかがっているのか、この掲示板異様に静かです。 3連続の書き込みになりますが、現在の私の征韓論に関する見解を書きます。 征韓論は、外交問題ではなく、内政問題だと思います。 征韓論で負けて下野した人たちは、別に国家に損害を与えたわけではないです。 審議内容が韓国に逐一流れていたわけではないし、別に韓国に気兼ねする必要も無いので、 (大久保利通は江華島事件を起こしたことからも、彼は別に韓国に特別な勘定は抱いていないと分かる) 国家の最上位の人たちが半数もこれしきの問題で辞職する必要はない。 大久保と西郷の対立は単なる権力闘争でもないと思います。 江藤新平はこれを権力闘争に利用しようとした形跡がありますが、 西郷隆盛も相当の策士であり、江藤新平ごときに躍らされる器ではありません。 西郷は同時に人格高潔な人で、大久保も私利とは無縁の人でしたし、 2人は兄弟以上の親友でしたので、権力の為に互いを陥れようとしたとは考えられない。 したがって私は、征韓論は明治維新の理念に関わる内政問題の対立だったと考えます。 自分の理念が否定されれば、実害はなくても、その場に残る必要はないからです。 19世紀の日本人は、出処進退に大変こだわりましたから。 内政的、理念的問題だったとしても、どうして「外征」と言う形で表面化したのかが、 征韓論を解く上での最重要点だと思います。 大久保、岩倉、伊藤らの方針はその後の明治政府その物と考えて良いでしょう。 ではまず、西郷、江藤、板垣らの思い描いた明治政府の姿を考えてみたら良いのではないかと思います。 P、S、 私は、征韓論に関しては、中学生並みの知識しかないので、詳しい方は訂正がありましたらお願いいたします。 それにしても、7月に国旗や国歌の話をしていた人たちはどこへ行ってしまったのでしょうか? 帰ってきて欲しいですね。 Time : 1998/12/ 9(水) 10:49:12
Name : kazu E-mail : Title : 管理人様 ご迷惑をおかけしました Comments: 管理人様、どうもご迷惑をおかけしました。今後は会社から(周囲の目を盗んで) 投稿させていただきます。 文庫版「逆説の日本史」4巻、早速読んでいます。「ポスト」で読んで2度目 ですが、大変おもしろいですね。 まだ連載中の「逆説の日本史」ですが、この巻がいちばんおもしろいのでは、 と思っています。 井沢先生が日本史に取り組まれた原点があるように思われます。 今後ともよろしくお願いします。 Time : 1998/12/ 9(水) 18:10:27
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(19)「史論」と「史談」? Comments: 輔住さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「間人名称」問題につき早速ご理解いただき、ありがとうございます。 この件については、さらに皆様の感想、或いは反論もお聞かせいただきたい のですが・・・私はこの井沢さんの意見の正否は問題にしておりません。 井沢さん自身が準拠されている「各種史料」に照らして、全くのトンデモで あることは明白だと思っています。 それよりも、問題は何故に井沢さんがこの様なトンデモを記述されたか? ・・・に有ると思うのです。 つまりは、私の「逆説の日本史2」批判に関し・・・根本的な錯覚が有った ことを意味するモノかも知れないと考えているのです。。 ・・・と言いますのは、私がNIFTY会議室で紹介者による井沢説を批判したと きに、あるベテランの方から私の批判を窘める次の趣旨のコメントが有った からです。 *********************************** *  勿論、専門の学者による啓蒙書とは全く違った意味で、流行作家の * * 方が、大衆誌で毎週読者を楽しませるために、どのようなエンターテ * * イメントの技を使ってくるかと言う意味で、です。毎回、意表を突い * * て楽しませるという意味では、結構成功しているのでは?と言うのが * * 私の感想です。                         * *  この連載には、“逆説”としての面白さを主眼としているもので、 * * 学問的な妥当さを求めるのではないと言う認識で、お気楽な気持ちで * * 読むのはどうでしょうか?                    * *********************************** 私も、紹介者の示された「書紀の年齢記事理解」が、余りにも実際とかけ離れ たモノの様でしたので、一時は”史談=史的雑談の類”か・・とも思いました。 (この際”史談”の定義に拘らないで下さい・・要するに非学問的な談義です) しかし、その後引き続いて行われた紹介で、やはり著者が「史論=史学論文」 として記述しておられるモノであり、読者の多くも「史論」として受け取って おられることを感じました。 さらに著書を一読した結果・・「歴史学会・歴史学者」を徹底的に愚弄・嘲笑 しておられることを知り、著者の意図が何処にあれ「史論」として批判を続け る決心をしたのです。 しかしながら、この「間人名称」に関しては・・・どう考えても「史論」の範 疇では理解出来かねる記述です。 私が挙げた「間人氏族」「皇族同一名称」に関する知識は、古代史の初歩の初 歩に属するものであり、少なくとも「書紀」を読んだことが有る人間が知らな いとは考えられない性質のモノです。 少し性格は違いますが・・・「天武天皇は”忍者”だった!? P339」にも似 たようなセンセーショナルな記述があります。 ・・・とすれば、やはり素直に「史談」即ち ”エンターテイメント”として 理解し、或いは遺憾ながら ”意図的(敢えて云えば商業的)空想の産物”と 考えて、まともな「史論」としての批判対象から除外すべきモノであったかも 知れないのです。 私は、この著書を「史論」として批判すべきか? 「史談」即ち「史論を装っ た漫談」として批判すべきか? 実は今もって惑っているのです。 Time : 1998/12/ 9(水) 22:35:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  今回の間人についての貴方のお説はかなり説得力があると思います。 井沢先生の著述には確かにエンターテイメントの部分は あるかとおもいますが、だからといってまじめに批判できないとは思いません。 あくまで私見ですがどんどん批判をされるべきと存じます。 ただ、最初からトンデモと思わずに、真摯に対応をしていただきたいとおもいます。 どんな学問の世界でも新説はトンデモ扱いを受けるかもしれませんが、 その中にでも結局は支持されたものもあるのですから、フェアーな態度で 望まれることを希望します。すぐに取り消された石井さんに対する発言でも 見られますように、「若いから」「作家だから」というフィルターがどうしても かかっているように往々にしてみうけられます。あくまでフェアーにお願いします。 (天武が忍者であるというような記述も、別にトンデモとは思いません。 書紀には役小角というもっとトンデモな人もいるでしょう。)  その上で、補足説明をお願いしたいのですが、太子の母の場合、間人族の 出自だというはっきりした証明はできるのでしょうか。 また、中大兄のほうでは「ちなんだ」名前というのは具体的にどういう意味でしょうか。 出自をひきずってということなら分かるのですが、中大兄の妹なら違うのでは? それなら、関係のない一族にちなむとは、どんなことなのか補足をお願いします。  ついでながら、中大兄が間人が死ぬまで即位もせずぐずぐずと称制を続けたのは どういう理由だとお考えですか?間人との「関係」も含めて説明していただければ 幸甚です。 Time : 1998/12/10(木) 10:04:56
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 間人はなぜ「たいざ」 Comments:  歴史の話ではありませんが、単なる連想で地名の間人について 皆様にお聞きしたいとおもいます。 京都府北端に間人と書いて「たいざ」と読むところがあります。 学生時代に旅行したところで、小さな海水浴場が点在する 村ですが、地名については不明のままでした。 なにか(仲人のように仲を取り持って)相手を対座させるのかな とか想像したりするのですが、どなたかご存知ありませんか? はっきりした知識でなくても、どんな珍説奇説も歓迎します。 Time : 1998/12/10(木) 10:13:34
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 間人 Comments: 間人というと、聖徳太子のお嫁さんになった、蘇我毛人の同母妹も間人 という名前でしたね。この毛人と間人を産んだお母さんは、たしか物部 氏の出身。 で、聖徳太子のお母さんの間人后の母親は、蘇我氏の出身です。 どうも、間人氏族というより、そういう名前が多かっただけ、って気もする。 当時の流行とか。 漢字から見た印象だけだと、三人兄弟の真ん中じゃないかとか 思えます。 源氏物語宇治十条に出てくる「中の君」みたいな。 Time : 1998/12/10(木) 10:15:46
Name : 輔住 E-mail : Title : エンターテイメント Comments: 「エンターテイメント」というとどうも軽く見られがちですが、 (様々な所で) 私はそう捨てたものでもないと思うのですが、どうでしょう? 「エンターテイメント」というものは多くの人が注目します。 それだけにそれを見る目は厳しいのです。 真面目に「批評」を行なう価値があると思います。 Time : 1998/12/10(木) 12:46:26
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様へ Comments:  全くのばかばかしい質問で申し訳ありませんが、毛人の妹というのは、 刀自子媛(字が違うかもしれませんが「とじこのいらつめ」) でしょうか? もしそうなら、聞きたい質問といいますのは、 漫画(日出処御子)の中では、近親相姦として描かれていますが、 そのような事実が伺えるのでしょうか? まじめにお尋ねしていますので、くだらない質問と思わないでください。 よろしくお願いします。 Time : 1998/12/10(木) 12:46:56
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・山本七平と司馬遼太郎の直感 Comments: まず、KANAKさんに一言 井沢先生が、日本史を全体としてみたいといっている事について今まで一言も言及していないように思われます。 「逆説の日本史を全体としてみて欲しい」 そこのところだけでも私は貴方に理解して頂きたいです。 それだけです。 管理人様、「征韓論政変」を見つけて今読んでいます。 非常に良い本です。大変勉強になりました。有り難うござます。 征韓論は、大変大きな意味を持つ事件です。 2・26事件、日中戦争、自衛隊問題などもその延長線上にあります。 山本七平さんは、「現人神の創作者達」「日本人と中国人」「昭和天皇の研究」において、 勤王思想を研究しています。 その中で、日本思想のデーモン「勤王思想」は征韓論によって歴史の表舞台から隠れて潜行したと述べています。 しかし、それ以上は述べていません。 司馬遼太郎さんの「翔ぶがごとく」は、司馬さんの作品にしては、面白味に欠けます。 私は、途中で投げ出してしまいました。 しかし、今考えてみると、司馬さんは征韓論の重要さを直感的に感じ取っていたのかもしれません。 少々危険な匂いのする内容になりそうですが、私は征韓論の研究を進めてみようと思います。 Time : 1998/12/10(木) 15:17:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・共和制をめざした江藤新平 Comments: 明治4年12月に、薩長を中心とする岩倉使節団が出発しました。 留守番部隊の顔ぶれは、西郷隆盛、井上馨、山県有朋、黒田、後藤象二郎、大木、江藤新平です。 薩長閥が手薄になったのをついて土肥閥は権力奪取を図ります。 司法卿江藤は、山城屋和助事件、三谷三九郎水油事件、尾去沢銅山事件、小野組転籍事件 を必要以上に追求して、長州閥を一掃します。 残った参議は、江藤新平、板垣退助、大隈重信、西郷隆盛、しかし、西郷は島津久光との葛藤のため、人事不詳に近かった。 明治5年4月の立国憲議の起草において、江藤は、 「憲法は帝王の家法ではなく、フランスのように人民によって作るものである」といっています。 起草文は、「立憲君主制を目指す」となりましたが、江藤はこれに不服で提案を拒みます。 江藤は、フランス民法の翻訳を指揮していました。 どうも江藤新平は共和制色の強い政体を目指していたらしい。 そして、征韓論に負けて佐賀に帰ってからは、明治政府を転覆させ、 完全な共和制を目指したのではないかと思われる。 大久保利通が、江藤新平をさらし首にまでしたのは、彼が大変危険な政治犯であったからではないかと思う。 Time : 1998/12/10(木) 15:49:30
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・西郷隆盛と天皇親政 Comments: 西郷隆盛の理想は、「天皇親政とその下での日本人総武士化」であったと思われる。 行政的手腕がなく、島津久光にいじめられていた西郷は、厭世的になっていた。 政府高官の予算分捕り合戦と政商との癒着に言いようのない嫌悪感を抱いていた。 また、明治政府が士族の権益をなくしていくのを見て、内乱の危惧を強く抱いていた。 そこで、外征を起こして挙国一致体制を作り、改革を進めようとしたらしい。 彼の思い描いた政体というのはどうも、 天皇の下に人格高潔な士族がいて、民衆を徐々に士族化していくというものであった。 しかし、実際に何をすれば良いかというと、何も考えていなかった。 憲法制定には反対だったと私は思う。 憲法を制定すると、主権者は天皇ではなく憲法になってしまうからである。 これは、2・26事件の青年将校と同じ考え方である。 天皇の下に人格高潔な人が集まれば良い政治が行われるという考えである。 これを私は「天皇親政アナーキズム」と呼ぼうと思う。 Time : 1998/12/10(木) 16:06:28
Name : 志田 糾 E-mail : 同じ Title : KANAKさんへ Comments: 御無沙汰していますが、世間的には、全く時間の余裕がありません。 掲示板のコピーの権利はオーナーである井沢さんにある筈です。BBSの説明文にあるとおり、ここでの書き物は 利用の権利をオーナーに預けているものです。私達は、これらを承知で書いています。 KANAKさんの報告が相当、荒れていますので、問題点を出しておきました。 こう皆さんの反応が早いとフォーラムの方が楽ですが。 「間人名称」は井沢さん自身が準拠されている「各種史料」に照らして、全くのトンデモであることは明白だと思って います。私はこの井沢さんの意見の正否は問題にしておりません。それよりも、問題は何故に井沢さんがこの様な トンデモを記述されたか?に有ると思うのです。 ** KANAKさん、この言い方は矛盾しませんか。正否を問わないとしながらとトンデモという見解を出されるのは、 いかなる視点によるものですか。 この「間人名称」に関してはどう考えても「史論」の範疇では理解出来かねる記述です。私が挙げた「間人氏族」、 「皇族同一名称」に関する知識は、古代史の初歩の初歩に属するものであり、少なくとも「書紀」を読んだことが有 る人間が知らないとは考えられない性質のモノです。 ****KANAKさん、「書記」は大切な遺産です。この遺産を汚してきたのは誰でしょうか。学者の 事は書記を 信じるのではなくて、「間違い」と「誤謬」とを正確に人々に伝えることではないでしょうか。そのための努 力を誰がされてきましたか。 私の「逆説の日本史2」批判に関し根本的な錯覚が有ったことを意味する モノかも知れないと考えているのです。 しかし、その後引き続いて行われた紹介で、やはり著者が「史論=史学論文」として記述しておられるモノであり、 読者の多くも「史論」として受け取っておられることを感じました。さらに著書を一読した結果「歴史学会・歴史学者」 を 徹底的に愚弄嘲笑しておられることを知り、著者の意図が 何処にあれ「史論」として批判を続ける決心をしたの です。私は、この著書を「史論」として批判すべきか?「史談」即ち「史論を装った漫談」として批判すべきか? 実は 今もって惑っているのです。 ****KANAKさん、あなたは錯覚でも悩みでもなく、徹底して「井沢史観」を批判されました。そ して、愚弄 嘲笑もしておられます。こういうのを学徒にあるまじき泥 仕合といいます。こうなる と、泥仕合を避ける方法 はどちらかが身を引くしかないと思いませんか。 と言いますのは、私がNIFTY会議 室で紹介者による井沢説を批判したときに、あるベテランの方から私の批判を 窘める次の趣旨のコメントが有ったからです。「勿論、専門の学者による啓蒙書とは全く違った意味で、流行作家 の方が、大衆誌で毎週読者を楽しませるために、どのようなエンターテイメントの技を使ってくるかと言う意味です。 毎回、意表を突いて楽しませるという意味では、結構成功しているのでは?と言うのが私の感想です。この連載に は、"逆説"としての面白さを主眼としているもので、学問的な妥当さを求めるのではないと言う認識で、お気楽な 気持ちで読むのはどうでしょうか?私も、紹介者の示された 「書紀の年齢記事理解」が、余りにも実際とかけ離れ たモノの様でしたので、一時は"史談=史的雑談の類"か とも思いました。(この際"史談"の定義に拘らないで下さ い 。要するに非学問的な談義です)」 ****KANAKさん。あなたはこのベテランの意見を何故公表されるのですか。その意図は何ですか。 この種の文面はこのベテランのあなたへの私信と思います。公表されるからには意図があります。 「虎に威を借りる」、「書記」の威を借りるとはこの事です。 私達が知りたいのは、このベテ ランでも「書記」でもありません。知りたいことは、事実なのです。また、その事実を知るた めの手がかりなのです。「書記」は相当の手がかりを与えてくれます。しかし、「書記」に書 いてあることが真実であるかいなかを知りたいのです。「逆説の日本史」はそうした意味で私 達への多くの示唆を与えてくれています。可能ならば、私達は、この著作者の努力に報いるべ きその事実関係を確かめていくことが必要です。この著作の間違いはあっても仕方が無いとも います。あれだけの仮説をたてるには、相当の努力が必要ですし、完全を期すことは不可能で す。 少し性格は違いますが「天武天皇は"忍者"だった!? P339」にも似たようなセンセーショナルな記述 があります。とすれば、やはり素直に「史談」 即ち "エンターテイメント"として理解し、或いは遺憾ながら  "意図的(敢えて云えば商業的)空想の産物"と考えて、まともな「史論」としての批判対象から 除外すべ きモノであったかも知れないのです。私は、この著書を「史論」として批判すべきか?「史談」即ち「史論を 装った漫談」として批判すべきか? 実は今もって惑っているのです。 ****KANASKさん。著作者にはそれぞれの技法があります。学界論文に「週刊誌類」を参照して はいけないという慣習があるとも思いませんが、エンターテーメントが悪いという慣習があると も思えません。ただし、現在の学界では、この種の技法を受け入れないでしょう。理由は分かり ません。それを判断する能力が無いからでしょう。残念ながら、思考停止としか言いようがあり ません。勿論、学界権威に受け入れられるための技法もありますが、私はこの壁は破らないと駄 目と思います。最後に「史観」、「史談」、「史論」いろいろ言葉は作れますが、そのことでは、 「言霊」現象は別として、著作物を批判したことにことにはなりません。「逆説の日本史」の著 作者はこれをフィクションでないと明確に言っております。ならば、技法はどうであれ、その事 実関係の正否を確かめるのは、読んで、それを批判する人の義務です。楽しく読む人も、それぐ らいの常識はお持ちではないでしょうか。ただし、「虎の威」を借りる手法は奇(卑)法です。 Time : 1998/12/10(木) 16:10:35
Name : 久岡 卓也 E-mail : 00001111@mua,biglobe.ne.jp Title : 大阪JF生さんへ Comments: 初めまして、いつも楽しく読んでいます。大阪JF生さんの間人はなぜ「たいざ」 で、はっきりした知識でなくても、どんな珍説奇説も歓迎します。と聞かれてい るので私の知っている限りで書かせてもらいます。確か、間人(はしうど)后が おられて地名と貴い人の名前と同じ読み方では失礼に当たるので間人(たいざ) となったと書かれたような?パンフレットを見た記憶があります。なにぶん7〜8 年前の記憶なのであやふやな回答ですいません。でも丹後町町役場の前にある 間人温泉には、そのパンフレットがあった記憶がありますので、丹後町町役場に 問い合わせるとはっきりとわかるのではと思います。 Time : 1998/12/10(木) 21:46:46
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(20)「聖」「徳」について Comments: 井沢さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 (志田さん)追加します・ >> その上で、補足説明をお願いしたいのですが、太子の母の場合、間人族の >>出自だというはっきりした証明はできるのでしょうか。 残念ながら・・・そのような説は言ったことはおろか、聞いたこともありま せん。 >(所謂 皇族諱名の壬生・湯座氏族由来説ですね・・勿論例外はあり >ますが。) ・・・の意味を更めて解説する必要があるのでしょうか? >>また、中大兄のほうでは「ちなんだ」名前というのは具体的にどういう意味 >>でしょうか。出自をひきずってということなら分かるのですが、中大兄の妹 >>なら違うのでは? 良く意味が分からないのですが・・・「葛城皇子」と言う名称は「葛城氏」 、「葛城」を本拠とする氏族、或いは「葛城」を壬生(費)としたことに由来 すると考えられます。「中大兄」は「古人大兄」に対するものでしょう。 >>天武が忍者であるというような記述も、別にトンデモとは思いません。 天武紀・・「生而有岐(山疑)姿。及壮雄抜神武。能天文遁甲。」 この記述をもって”天武天皇は忍者であった”と言っておられますね。 この部分は明らかに天武を讃美しているゴマスリ記事です。 従って・・・この「遁甲」は戦略家として情報戦・諜報戦の重要性を良く理 解し使いこなした・・と解釈すべきでしょう。 (仮に”信玄公忍びの術を能す”と記述されていれば”信玄は忍者なり”と 解釈するでしょうか?)実際に吉野挙兵前後の迅速な行動と、情報収集・調略 の巧みさから見ても天武に正にピッタリの表現だと思いますが・・・ つまり「忍者説」は、どう見ても読者に対する「エンターテインメント= トンデモ」でしょうね。 >>ついでながら、中大兄が間人が死ぬまで即位もせずぐずぐずと称制 >>を続けたのはどういう理由だとお考えですか?間人との「関係」も含めて説 >>明していただければ幸甚です。 これについては、「皇太子実権説」「戦闘体制説」「誤認説=愚管抄」等があ り得ます。極めて大胆に想像すれば・・「大友譲位意図・失敗説」もあり得る かも知れませんね。「近親相姦説」も一つの見方で有ることは全面的には否定 しませんが、それならば・・・寧ろ即位して居直ってしまうと思います。 cf.「愚管抄」「扶桑略記」「一代要記」等・・・ 08/09 #1696 08/14 #1711 *********************************** * 天智天皇 十年(元年壬戌=662)                 * * 諱は葛城。舒明の第一子。母は皇極天皇。・・・・・        * *                                 * * 御母 斉明天皇うせたまひてのち、七年まで御即位したまわず。・・ * * 斉明天皇の位につかせたまふ干支は七年の後ともみえず、相続して絶 * * えずとみゆ。                          * * うせたまひて後七年まで、国主もおはしまさぬにはあらざるにや。  * * 七年とあるは天智の御即位あるべきを、猶御母の女帝に重祚をせさせ * * まいらせて、七年の御崩御、其の後御即位かとかこころえらるる。  * *********************************** ・・・つまり慈円は天智の即位は、斉明崩御(661)後7年の称制を経て天智 7年戊辰(668)に行われたのではない。天智7年の称制とは斉明重祚7年のこ とであり、即位は崩御後直ちに行われた(662)のではないか・・・と疑って いるようです。 また「扶桑略記」(皇円〜1169)の記事でも *********************************** * 天智天皇 号田原天皇 治十年                  * * 舒明天皇第二子、母斉明天皇也。元年壬戌(662)正月三日即位。   * * 先帝崩後、天皇即位之前七年辛酉(661)為救百済国。・・・・    * *********************************** ・・・ここでも天智即位を662年としています。 ところで、何故「一代要記」が天智崩年を53歳としたのか・・・ ですが。「一代要記」の天智紀部分は次のとおりとなっています。 *********************************** * 1.天命開別、又曰中大兄、諱葛城、舒明第一子、母皇極天皇    * * 2.孝徳元年乙巳(645)六月為皇太子、              * * 3.壬戌(662)正月三日即位、時年四十四、治十年。     *     * 4.辛未(671)十二月三日崩、年五十三。             * *********************************** 如何にも筋がとおっているようですが、ここで問題は天智の称制です。 書紀によれば天智即位は次のとおり記されています。 「七年の春正月の丙戌の朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。 (或本六年三月・)」 つまり天智は斉明崩年(辛酉=661)後七年間は称制を続けており、即位 は戊辰(668)です。しかし「一代要記」の記述者はこの点を錯覚し、称 制開始年を即位とし、通算治十年を662年からとして崩年五十三としてし まった・・・とも想像されます。 以上のコメントは、いわゆる「中世史書」の「天智・天武年齢」に関する 私の仮説の一部ですが、「天智称制」に関する「中世問題」でもあります。 志田さんへ・・・・ >>この言い方は矛盾しませんか。正否を問わないとしながらとトンデモという >>見解を出されるのは、 いかなる視点によるものですか。 輔住さんが・・・”KANAKさんの説の方に理があると思います。” と仰ったのを受けて、井沢さんの説は正否を問うまでもなくトンデモであるこ とは明白だ・・・問題とすべきは別の処にある・・と申し上げたモノです。 >>あなたはこのベテランの意見を何故公表されるのですか。その意図は何ですか。 >>この種の文面はこのベテランのあなたへの私信と思います。・・・・・・ >>ただし、「虎の威」を借りる手法は奇(卑)法です。 私は ”・・・と言いますのは、私がNIFTY会議室で” と申し上げませんで したか? 本件は私信ではなくNIFTY会議室での発言であるのは明らかですね。 ご自分が勝手に私信と判断され”「虎の威」を借りる”とは・・?? (勿論、転載についてもご了解済みです) さて、「間人名称」はさておき(勿論ご意見は承ります) 引き続いては・・・諡号における「聖」「徳」に関するものです。 井沢さんは諡号における「聖」「徳」について、次のとおり記述しておられ ます。 「・・その悪霊から善なる神に転化した人を、われわれの先祖は『聖』と呼 んだらしい。つまり、『聖』というのは、本来怨霊となるべき人が、善なる 神に転化した状態を表現した文字だということだ。」  P197 「『徳』は最高の人格者であることを示すと同時に、本来は『王者としての 必須条件』を示す文字だ。そういう文字を、本当はそうでなかった王者に与 えることが『鎮魂』と考えられたに違いない。・・・・・・・・ 以上のように考えれば『徳』の字が諡号につく天皇は、『怨霊(ないしそ の予備軍)』であると断定してかまわないと思う。」  P188 これらの説を検証するに当たっては、先ず「書紀」においては「聖」(「徳」) が、どの様な意味で使用されているかを確認すべきでしょう。 因みに、仁徳紀においては・・・以下の「聖帝」と言う言葉があります。 (その他にも「聖王」はしばしば使用されています) 「天皇曰、其天之立君、是為百姓。・・・是以、古聖王者、一人飢寒、顧之 責身。・・・是以、未経幾時、而宮室悉成。故於今称聖帝也。」             」 私は、この「聖」の用例から「怨霊」の臭いは全く感じられません。まさに 「立派な・・」と言う原義で使用されていると思います。 ただ、漢字の意味が時代と共に変化することは、しばしばあり得ることです し、中国と日本でその差が拡大することも認められています。 (有名な例は日中交渉で田中総理が使用した「迷惑」の語義があります。) 従って、後世における「聖」「徳」の用例も確認する必要があるでしょう。 私は、後世における「聖」「徳」の語義解釈を検証するに当たって、特に 「神皇正統記」を重視したいと考えています。 「神皇正統記」の成立はご承知のとおり、1333年頃即ち記紀・諡号の記述制 定時期より約5〜600年を隔ててはいますが、筆者の北畠親房は村上源氏の後 裔公家として歴代宮廷の枢機に関わってきた家柄に生まれ、当時の政治家・ 学者・軍人として有職故実・故事来歴・和漢書籍を熟知した人間です。 また「神皇正統記」は朱子学の影響を受けてはいますが「神国思想」的歴史 書でもあり、戦陣で書かれたためか細部については問題もありますが、この 様な語義の解釈については大きな手懸かりになると思われるからです。 以下に私が気づいた主な「聖徳」の用例を示します。 第二十六代、武烈天皇は仁賢の太子、御母大娘の皇女、雄略の御女也。己卯 の年即位。大和の泊瀬列城の宮にまします。 性さがなくまして、悪としてなさずといふことなし。仍天祚も久からず。 仁徳さしも聖徳ましまししに、此皇胤ここにたえにき。「聖徳は必ず百代にま      ^^^^ ^^^^ つらる」とこそ見えたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。 ・・・殷の湯聖徳ありしかど、紂が時無道にして永くほろびにき。 ^^^^ 第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。・・・ 天皇聖徳ましまして三宝を感ぜられけるにこそ。 ^^^^ 第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹なり。・・・ 太子聖徳ましましかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。 ^^^^ ・・・御諱を聖徳となずけ奉る。 ^^^^ 以上の「仁徳」「欽明」等の用例に見られる北畠親房(神皇正統記)の 「聖徳」語義は、井沢さんの怨霊説とはほど遠いと思われます。 何れの語義解釈を重んじるかは皆様のご判断にお任せますが、少なくとも 私にとっては些かの迷いもありません。 なお、ことのついでに「継体」についてですが・・・以下のとおり。 我朝の初めは天神の種をうけて世界を建立するすがたは、・・・されども 是は天祖より以来継体たがはずして、ただ一種ましますこと・・・ 代と世とは常の義差別なし。然ど凡の承運とまことの継体とを分別せんた めに書分たり。 第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。・・・ 大祖神武より第十二代景行までは代のままに継体し給う。 第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、・・・ この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。 第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、・・・ 儲君にい給けるも父のみかど継体のために顧命しましましけるにこそ。 以上の用例の「継体」の語義は「直系血族継承」に関して用いられており、 「『継』という文字は”つぐ”という意味があっても『嗣』の”つぐ”とは 内容を異にする。『継』は血のつながりがなくてつぐばあい、『嗣』は血縁 関係があってつぐばあいに用いられる文字である。・・・・」 P299 「継」と「嗣」とは別義であるする井沢さん(水野氏)の解釈とは明らかに 異なっています。・・・これに関しても私の態度は同様です。 Time : 1998/12/11(金) 00:17:42
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : お礼 Comments:  久岡卓也様、お知らせいただきありがとうございます。 奇説でもなんでもなく、しっかりした情報だとおもいます。 重ねてお礼申し上げます。  安部奈亮様、フォーラムの方に答えが出ていたとは気づかなかったので、 お礼が遅くなってすみません。ありがとうございました。 安部様によりますと梅原猛「聖徳太子」に載っているとのことですが、 間人皇女の領地の近くで、兄をかくまった地だそうです。 まだ読んでいないので、手に入れて調べてみます。  ただ、小生の疑問は「たいざ」の読みの方にも興味が ありますので、その点も何かご存知であれば、 よろしくお願いいたします。 Time : 1998/12/11(金) 09:57:21
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments: 回答いただきありがとうございます。 ただ、少しがっかりいたしました。 まったく関係ないならば、三枝様の記事「間人」の方に より説得力があると存じます。 間人は間人一族とは、無関係に命名されたという考え方は 否定しきれません。 従いまして、井沢先生の説もトンデモとは言い切れないとおもいます。  さらに天武忍者説否定についてもあまり説得力がありません。 「忍者」の概念が確立するのがいつなのかは不明ですが、 当時はまだだったとおもいます。その共通認識のもとで 「忍者であった」という表現をとっておられたはずで、 形式的にはおかしいのでしょうが、普通読者もそう解釈するとおもいます。 つまり「忍者のようなものであった」とです。 そういう形式的な意味での批判なら、分かりますが、 実質的な意味では、そうであっても何らおかしくはありません。 お世辞の記事だからすべて嘘というのは、史料批判としては 稚拙なのではありませんか? むしろ、「多少の心得があるのを大袈裟に表現した」程度が 常識的な線だとおもいますので、トンデモではないとおもいます。 Time : 1998/12/11(金) 10:13:56
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・慇懃無礼な憲法 Comments: KANAKさんへ 人を批判する時は、「トンでも」「商業主義」と言ったレッテルは使わ ない方がいいですよ。相手やその支持者から感情的な回答を食らって 、かえってあなたの意見が正当に評価されなくなってしまうからです。 さらに、あまり多用しますと、逆に、「相手から感情的な言動を引き 出すことが目的なのではないか」といった邪推をされかねません。 征韓論政変の勝者大久保利通の目指した国家の姿は、その後の明治政府そ のものでしょう。 産業を興し、軍備を備え、教育は精神面よりも立身出世を目標とし、 言論は政府の害にならない範囲で自由にする。これは、江戸時代と戦後 と基本的には変わりません。世の中の実情に沿った現実的な政策です。 しかし、日本人はどういう訳か、自分の生活を支えているこの手の政府 を支持したことが無いのです。西郷隆盛は神格化されましたし、日中戦争 の時も前半は全国民が浮かれましたし、戦後も政府の文句しか言わない 社会党に人気がありました。でも、西郷隆盛的勢力が天下を取った時に 何が起こったでしょうか?戦争で国土は荒廃し、東京都や京都府には 山のような借金が残りました(革新行政)。これはやはり、生活上必要 なことと、日本人が理想としていることがあまりにも遊離しているからです。 しかも、その理想が日本を破滅させた時に総決算しないで「言葉」の上で 消してしまったからです。しかし、心の中には不気味に生き残っています。 わたしは、「逆説の日本史」が、それを白日の下に晒してくれることを 期待しているのです。 大久保の国家観は「大日本帝国憲法」だと思います。本人は死んでしま いましたが、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、西郷従道らが遺志を継い だからです。 その「大日本帝国憲法」ですが、実は天皇陛下に対して慇懃無礼な内容 なのです。井沢先生が「言霊の国解体新書」で述べていたと思うのですが、 大日本帝国憲法は結局、「天皇陛下にはハンコを押す権限しかない」と言っ ているのです。拒否権すらありません、昭和天皇は、自分が納得できない 法律が出来た時は、「よくわからないから説明してくれ」としか言えません でした。天皇親政アナーキストにとって、大日本帝国憲法は憎むべき内容なの です。大日本帝国憲法は天皇親政アナーキストに付け入る隙を与えましたが、 大日本帝国憲法自体が戦争を起こしたとは決して言えません。 Time : 1998/12/11(金) 14:15:16
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ(追伸) Comments:  前のところでいい忘れてしまいましたが、 天智称制の件に付きましては非常に丁寧な解説をいただき、 ありがとうございました。 追伸で申し訳ありませんが、お礼申し上げます。 いい史料の勉強になりました。 Time : 1998/12/11(金) 15:26:50
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(21)「聖徳太子」の内柔(和)外硬(武) Comments: 井沢さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 大阪JF生さん・・・・ご丁寧に恐れ入ります。 なお、下記の部分は「間人名称」についてだろうと思いますが・・・ >>ただ、少しがっかりいたしました。まったく関係ないならば、三枝様の記事 >>「間人」の方により説得力があると存じます。 >>間人は間人一族とは、無関係に命名されたという考え方は否定しきれません。 ご理解頂いているのだろうとはおもいますが・・・念のため壬生(湯坐)氏族 と皇族名称について申し上げると・・・出身氏族ではなく養育(費)担当氏族 という関係があるのです。 「葛城皇子=天智」名称でも申し上げましたが、その名称は「葛城氏=養育 を担当した氏族名」、「葛城」を本拠とする氏族、或いは「葛城」を壬生(費 )としたこと・・・に由来すると考えられています。 「大海人皇子=天武」名称では「天武」崩御に際し、壬生誄を行った「大海 氏=大海宿禰アラ蒲」に由来すると考えられます。 「大友皇子」も同様に「大友村主氏」が壬生氏族であったことに由来すると考 えられるのです。(母の出身は伊賀采女でしょうね。別名「伊賀皇子」とも呼 ばれた形跡がありますが、母の出身氏族(地)に由来する名称を持つ皇子は、 通常母の出自が低い場合にママ見られるモノです。蚊屋皇子・・母蚊屋采女 ・・・異論も有りますが) 勿論例外はあり、「聖徳太子」の「厩戸皇子」命名については色々と議論され ています(ネストリウス派の影響を云々する説も有りますが、橘寺周辺の地名 説が有力です)。 なお、この伝統は後世「親王」が「乳人名」により命名される風習に引き継が れていきます。(「皇子生れる毎に、乳母の姓を以って、之を名と為す」・・ 『文徳実録』嘉祥3年5月壬午条)。 古代において同一(類似)皇族名称が極めて多いのも、同一壬生氏族によるも のと考えられるのです。(極めて多くの多くの例が挙げられます) これらの皇族名称例から見て、「間人皇女」の場合「間人氏」と言う中堅氏族 の存在が明かに認められるのですから、それを壬生氏族とし名称由来にしてい た可能性が極めて高いことが判断出来ないでしょうか? 「史論=歴史科学」と言うのは、この様な類例(例証)を積み重ねて蓋然性の 高さを検証するもので、単に思いつきで「中の君」を連想して頂いては困るの です。 因みに「泥部穴穂部皇女」の同腹兄弟姉妹は次のとおりです。 (名称・順序については異論が記述されています) また、「中の君」に相当する皇女で「間人」名を持つ例は見あたりません。 1.茨城皇子 2.葛城皇子・・・天智とは同名異人です 3.泥部穴穂部皇女(穴穂部間人皇女) 4.泥部穴穂部皇子(穴穂部皇子・天香子皇子・住迹皇子) 5.泊瀬部皇子・・・崇峻天皇 あぁ・・それから >>聖徳太子のお嫁さんになった、蘇我毛人の同母妹も間人・・・ これは刀自古娘女の別称ですか? >>従いまして、井沢先生の説もトンデモとは言い切れないとおもいます。 では、大阪JF生さんは >>昔は、近い親戚に同じ名前は絶対につけない。 ・・・がトンデモ(デタラメ)とは言い切れないとおもわれますか? 私は、これ程はっきりしたトンデモ(デタラメ)を見たことがありません。 さて、今回は「聖徳太子」の「内政」と「外交」に関してです。 井沢さんは次のとおり記述されています。 「・・・どうも太子の政策は一貫していない。外交においては日本の立場を 毅然と主張し、内政においては国家の骨組みを確立した。という褒め方をこ れまで太子に対して行ってきたわけだが、よく考えるとこれは変だ。 内政においては虫も殺さない平和主義者で、外交においては出兵も辞さない 武断主義者ーそんな人間は普通はいない。 だが確かにそういう人間は実在したのである。やはり、これは太子自信の、 かってノイローゼで悩んでいたという過去が、大きく影響していると考える べきだろう。」 ・・・これなどは井沢さんの「内政・外交」或いは「政治・政治家」に関す る無理解を露呈されたモノとしか考え得ない意見です。 言うまでも無く・・・内に「天皇家」中心の「和」を説き、国内の団結を固 めることによって・・・外に「新興強国『隋』」に対等外交を主張し、「隋」 と対抗する「高麗」との連携を保ちつつ「南韓の自国権益」を確保する強硬 路線を採る。(逆もまた真) こんなことは「政治」の初歩の初歩でしょう? そしてそれを敢然と行うの が国際緊張下における(当時の)「政治家」と言うモノではないですか? 十七条憲法(とされるモノ)では・・・まさにこの「天皇家」中心の「和」 の理念が説かれているのですないでしょうか。  一曰 「以和為貴、無忤為宗。・・・然上和下睦、・・・」  二曰 「篤敬三宝・・・萬国之極宗・・・」  三曰 「承詔必謹。君則天之。臣則地之・・・」 十二曰 「・・・国非二君。民無両主・・・」 十四曰 「・・・千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国」 十五曰 「背私向公、是臣之道矣・・・」 また、この外交方針は・・・ *「高句麗『公開土王』との南韓覇権を巡る抗争」・・仲哀・神功・応神? *「『倭武王上表』の『武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國  諸軍事安東大將軍倭國王』に見られる南韓支配権の主張」・・仁徳〜雄略? *中国册封からの離脱と(小)天下体制の自覚による『任那加羅権益』の確保 ・・・・・ *「中国「皇帝」に対抗する『天智』の天皇称号と『百済王』冊立『唐・新羅』 との『百済』支援戦争」(天皇称号は『天智』以前に遡るかも知れませんが) ・・・に窺える一貫した「倭国」の伝統政策と見るべきでは無いでしょうか? (ただし、この伝統政策部分については異論も有ると思いますので、立ち入っ た議論は別の機会に譲りたいと思います。) Time : 1998/12/12(土) 00:01:10
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(22)「河上嬪と刀自古郎女」他 Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 今回は「聖徳太子」の生い立ち等についてです。 井沢さんは豊田氏の著書を根拠に次のような「聖徳太子」論を展開されてい ます。(私は、豊田氏の著書は未読ですが、明確に「史論」ではなく「史談」 とされているようです。これならば誰も「史実」と混同することは無いと思 いますので、ある意味では面白い「読み物」でしょうね。) 「それは父親に死なれた十四歳以後二十二歳ぐらいまでの太子は、極めて劣 悪な家庭環境にあったということである。太子は今の言葉で言えば 『不良』化してもおかしくないほどの、ひどい家庭環境にいた。それは次の ようなものだ。・・」   P47 以下豊田氏著書の引用部分の抜粋です・・・ A.淫蕩な娘が誘惑したせいか、あるいは策略家の父親が・・・ B.この伯父が暗殺される。犯人は・・・妻の外国語の家庭教師だった C.妻は、この犯人と不倫の関係をつづけていて、ついに夫も子も捨てて・・ D.妻も、その男のあとを追って自殺してしまう・・・ E. 彼の母は・・先妻の子・・異母兄(=多米皇子)と、できてしまったので   ある。しかも母からは、妊娠していることを、打ち明けられた。 F.この美しい叔母(推古天皇)が、死んだ妻の父親(馬子)と、男女の関係   になっていた。 このB〜Dについて、井沢さんは豊田氏のあげる「聖誉鈔」を根拠に恰も、 「史実」として考えておられる様です。 「『是の月に、東漢直駒、蘇我嬪河上娘偸陰みて妻とす。(中略)駒、嬪を汚 せる事顕れて、大臣の為に殺されぬ』・・・それを豊田氏は『聖誉鈔』の記述 などから、太子の妻の刀自古妃のことだと推理したのである。・・・」 P50 ・・この(中略)部分は「馬子宿禰、忽(たまたま)河上娘が、駒が為に偸 まれしを知らずして、死去りけむと謂(おも)ふ。」ですが、この(中略) 部分を省略したため「不倫の逃避行」的印象が強化されています。 明らかに意図的な省略だと思いますが、それはさておき『聖誉鈔』の記述です。 先ず、『聖誉鈔』ですが・・・ 『聖徳太子伝暦』の注釈書。十五世紀ころ法隆寺僧聖誉の撰とされています。 そこで、問題の部分ですが・・・ 「太子三妃事。 一 膳大娘。高橋ノ臣ノムスメ。カシハテノ臣トモ名ク。 二 河上ノ嬪。馬子ノ宿禰カ娘。 三 尾治ノ王ノ娘。推古ノ御孫也。 裏書云。羽翼集云。第四末ニアリ。太子ニ在ス五妃。 一 ニハ推古天皇第一ノ女。・・・・・ 二 ニハ云膳大娘。・・・ 三 ニハ膳ノ三穂ノ娘。三井寺流記見同穴ノ妃ノ妹也。 四 ニハ多至波奈大女郎。推古第五ノ御子尾張ノ王ノ女也。 五 ニハ蘇我馬子臣ノ女。山背大兄王ノ母也。平傳ノ下巻見。 私云。五妃ノ中。三妃十七人皇子在ス・・・・・」 ・・・とあり、『上宮記』『法王帝説』等とは異なっていますが、聖誉の記 述では「河上ノ嬪=山背大兄王母=刀自古郎女」と見ることが可能でしょう。 聖誉が何によって、この様に考えたのかは分かりませんが・・・この認識の 成立する可能性を考えると・・・ 1.聖徳太子の生年は、ほぼ敏達3年(574)に集中しており史実性が高い。 2.従って、崇峻暗殺=河上嬪掠取 崇峻5年(592)時には19歳となろう。 3.山背大兄の同腹兄弟姉妹は「財王・日置王・片岡女王」の四名である。 4.太子19歳で刀自古郎女との間に四人もの子を設けた可能性はどうか? 5.山背大兄が太子15歳(588)の子?とすれば推古崩御時(628)41歳とな   り、推古紀「汝は肝稚し・・・」と合致するか? 6.山背大兄自尽の皇極2年(643)では、56歳となるが一族滅亡の状況と   合致するか? ・・・等から見て矢張り「河上嬪は刀自古郎女の姉」で両者は別人と見るの が妥当と思います。 つまり、豊田氏が『聖誉鈔』を元にして「面白い読み物」を書かれるのは、 いいのですが、これを根拠として「史論」としての「聖徳太子像」を論じる のは無謀というものでしょう。 *次ぎに「聖徳太子」の天皇候補と崇峻暗殺問題ですが・・・ 「この常識に沿って考えれば、候補は二人しかいない。一人は聖徳太子その ひとであり、もう一人は・・・・竹田皇子だ。・・・・・だから、この時、 聖徳太子は次期天皇の唯一の候補者といってもよかったのである。」P52 欽明天皇系男子孫は次のとおりです。崇峻在位時に同世代皇子の生存は確認 出来ませんが・・・祟峻が比較的若年で死亡したとすれば、その兄弟(或い はその子)○?の生存していた可能性があります。 また、太子同世代では若年とはいえ竹田・尾張皇子、太子実兄弟の来目・殖 栗皇子、義兄弟の田目皇子(穴穂部間人と結婚?)がいます。 (△は出自から無理?)・・・従って唯一とは言えないでしょう。 或いは太子自身19歳では即位には若すぎたかも知れません。太子が祟峻暗殺 犯に擬せられた・・・云々は無理な想定だと思います。 (宣化天皇女石姫皇女) 箭田珠勝大兄×? 敏達天皇ーーーーーー(息長王広姫)             押坂彦人大兄×ーーーー舒明天皇・茅淳王等           (春日老女子)             難波皇子△ーーーーーー栗隈王等             春日皇子△ーーーーーー広瀬王等             大派皇子△           (推古天皇)             竹田皇子○             尾張皇子○ーーーーーー橘大郎女    (同 稚綾姫皇女) 石上皇子○? (同 日影皇女) 倉皇子○? (蘇我堅塩媛) 用明天皇ーーーーーー(穴穂部間人皇女)             厩戸皇子○ーーーーーー山背大兄             来目皇子○ーーーーーー山村王?             殖栗皇子○ーーーーーー衣縫王           (蘇我石寸名)             田目皇子○           (葛城広子)              麻呂子皇子△ 臘嘴皇子○? 椀子皇子○? 石上部皇子○? 山背皇子○?橘本稚皇子○? 桜井皇子○?ーーーーー吉備姫王(斉明・孝徳母) (蘇我小姉君) 茨城皇子○? 葛城皇子○? 穴穂部皇子× 崇峻天皇ーーーーーー(大伴小手子)             蜂子皇子△ (春日 糠子) 橘麻呂皇子△? Time : 1998/12/12(土) 22:36:26
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・天皇制無責任体制 Comments: 大日本帝国憲法に言う政府の体制は、帝国議会、行政府、司法、陸軍、海軍が平等 に天皇に対して責任を負う形になっています。しかし、この5団体の間に上下間係 はありません。これはちょうど、徳川将軍の下で数人の老中が政策を決定していた ようなもので、5団体を代表する老中が協議の上で大日本帝国の方針を決めて、天 皇と連帯責任で実行していたと考えればよいです。ただし、天皇陛下は神聖不可侵 なので、政府が責任を問われた場合、老中が引責するわけです。では、方針につい て、5老中の中で誰が責任を持つのかというと、5人の連帯責任というう事で、 不明なのです。これが天皇制無責任体制です。 では、5老中が平等に権力を握っていたかというとそうではなく、「筆頭老中」が 存在するわけです。しかし、筆頭老中の決め方は帝国憲法に一言も書かれていませ ん。井沢先生のいう危機管理能力の欠如です。藩閥のバランスで決まる事もあれば、 選挙の結果、検事の追求、軍事力なんでもよい。平時ならかまいませんが、非常事態 において、これが国家の方針を誤らすのです。 しかも、最高権力者たる筆頭老中でも、責任は他の4人と同じですから、羊の皮を かぶった独裁者(独裁集団)になれるのです。ヒットラーは大統領になりましたか ら、羊の皮をかぶってはいません。 日本国憲法では、総理大臣が最高権力者であるので、何とか無責任体制ではなくな ったといえるでしょう。ただし、私が思うに、将軍=国民、大老=総理大臣、 老中=国会・行政・司法、側用人=マスコミ、でしょう。 Time : 1998/12/13(日) 13:34:50
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・恐るべき禁じ手を使った大久保 Comments: 明治6年10月15日、西郷と大久保の激論の末、太政大臣三条実美は、西郷遣韓使 派出を決定しました。遣韓使は、一旦朝議で決定されたのです。 10月18日、三条公は卒倒して倒れてしまいます。この空白期間を利用して、右大臣 岩倉具視が太政大臣を代行。10月23日、明治天皇に遣韓使中止を上奏し、中止され ました。朝議で正当な手順を通じて下された議決を、土壇場で、岩倉の一存(大久保の 手引き)によって覆したのです。 10月22日に、不穏な空気を察した西郷、江藤、副島、板垣の4参議は議決通り 上奏するように岩倉公に詰め寄りました。   その場で、   江藤、「後任者(岩倉公)は前任者(三条公)の決定に従うべきである。」   岩倉公、「私は、一個の人間であるから、自分の方針に従う。」 岩倉公の言い分ははっきり言って屁理屈です。正当な手順を通して下された議決が、 上奏を読み上げる人物の気分によって変更されてはかないません。 征韓論は国を滅ぼす可能性を持っていましたから廃案にするのは必要だったとして、 大久保のとった手段は悪しき前例を残しました。正当な手段を通しても、天皇陛下 との職権上のつながりを盾にして議決を拒否する事が出来るのを示してしまったの です。いわゆる、統帥権干伐問題です。 Time : 1998/12/13(日) 13:57:35
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : たいざ=間人皇后「退座」 Comments: 安部様からお知らせいただいた本に、名前の由来に ついての考察も載っておりました。 梅原猛「聖徳太子」(集英社文庫では1) に、物部守屋の騒動の間この地におられ、 騒動が治まった後に「退座」なされたということを 現地取材で伝承として確認されたようです。 さすが、梅原先生、小生のような素人の疑問は 解決ずみですね。  安部様、再度お礼申し上げます。 Time : 1998/12/14(月) 10:27:53
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  補足説明ありがとうございます。 間人一族との関わり具合が、今回の説明でよく分かりました。 何らかの関係がなければ、お説に意味がありませんので この部分が一番聞きたかったのです。 ただ、貴方の説は確かに有力であることは認めていますが、 井沢先生の説がトンデモという点のみ言い過ぎだとおもっています。 有力な説ではあるけれども、相手の説を葬り去るほどは 決定的ではないとおもいます。  昔は近い親戚に「絶対に」同じ名前はつけないというのも (とくに「」内は)確かに言い過ぎだとおもいますが、 トンデモというのも 言い過ぎで、特別な由来がない限り そういった一面もありうるという程度に認識しています。  安部様も指摘されていますが、KANAK様は自説の補強や あらゆる角度からの検討に労力をそそくべきで、 異説を中傷される言い方は百害あって一利もありません。 小生が上記で言っていることは、貴方の説は有力だと認めてたうえで、 この類の考察の持つ宿命とおもいますが、決定的ではないといっているだけです。 そのうえで、異説に対しさらにトンデモの類を主張されるのは根拠が薄弱です。 今回の続きの部分もこの論調が踏襲されています。 志田様もその点を抗議なさっているのだと理解しています。 その発言によって、せっかく貴方の積み上げてきた御説全体も、 同様に根拠薄弱なものではないかという疑いをいだがせることになります。 もし異説を葬り去りたいのなら、反論不可能なレベルを目指して自説の強化を されればよいので、わざわざ自説の信憑性を落とすようなことは、 なさらない方が賢明だとおもいます。単に「こう考えるよりもこう考える方が、 妥当である」というレベルでとどめられたらいかがでしょうか。  ところで >「大友皇子」も同様に「大友村主氏」が壬生氏族であったことに由来すると考 >えられるのです。 は非常に説得力がありますが、 >母の出身は伊賀采女でしょうね。 は異論ありとお認めのように違うように思います。 それは大海人が伊賀を通って攻めあがったということが史実なら という前提ですが、そんなところは敵対しているなら避けるのではないか と思うからです。伊賀采女はわざと大友の身分を低くするための小嘘では? Time : 1998/12/14(月) 10:31:46
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 乳母の氏族 Comments: KANAKさん、ありがとうございます。 勉強になりました。 確かに、王子にせよ、王女にせよ、同じ母親から複数生まれることはある わけで、その区別のために、それぞれの乳母の氏族の名前で呼ばれた 可能性は高いですね。 Time : 1998/12/14(月) 11:23:12
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 名前はいつついたのか Comments: KANAKさん、こんにちは。 すみません。間人の名前をもってらっしゃった方が二人いたという記憶で、 それが誰であったのか、混乱してしまいました。刀自古朗女と間人と いう名前がぐちゃぐちゃになりました。訂正します。 なにせ不倫と言えば、刀自古朗女妃は有名な人ですから。 もちろん、後世の人が、蘇我氏の悪口ついでに彼女のことも悪く書いた 可能性もあると思いますが。(上宮一族が天皇家を継げなかったのは、 山背大兄王子が聖徳太子の実の子供でなかったからと匂わせるため という可能性も考えられる。) それにつけても、古事記や日本書紀に記載されている人々の名前とい うのは、その人たちが生存中につかわれていた名前なのでしょうか。 それとも、死後、気安く本名をお呼びするのをはばかってつけられた別の 名前なのでしょうか。 名前の意味を考えるには、そのあたりがどうなっているのかが一番重要 ではないだろうかと思うのですが。 一般の学説では、どう考えられているのでしょうか? たとえば、厩戸王子の名前などは、日本にキリスト教伝説が伝わった 関係で、偉大なる人は馬屋で生まれるといった連想からつけられた名前 だといったふうな、ちょっと極端な説さえありますね。 Time : 1998/12/14(月) 11:51:51
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 名前はいつついたのか Comments: KANAKさん、こんにちは。 すみません。間人の名前をもってらっしゃった方が二人いたという記憶で、 それが誰であったのか、混乱してしまいました。刀自古朗女と間人と いう名前がぐちゃぐちゃになりました。訂正します。 なにせ不倫と言えば、刀自古朗女妃は有名な人ですから。 もちろん、後世の人が、蘇我氏の悪口ついでに彼女のことも悪く書いた 可能性もあると思いますが。(上宮一族が天皇家を継げなかったのは、 山背大兄王子が聖徳太子の実の子供でなかったからと匂わせるため という可能性も考えられる。) それにつけても、古事記や日本書紀に記載されている人々の名前とい うのは、その人たちが生存中につかわれていた名前なのでしょうか。 それとも、死後、気安く本名をお呼びするのをはばかってつけられた別の 名前なのでしょうか。 名前の意味を考えるには、そのあたりがどうなっているのかが一番重要 ではないだろうかと思うのですが。 一般の学説では、どう考えられているのでしょうか? たとえば、厩戸王子の名前などは、日本にキリスト教伝説が伝わった 関係で、偉大なる人は馬屋で生まれるといった連想からつけられた名前 だといったふうな、ちょっと極端な説さえありますね。 Time : 1998/12/14(月) 11:52:07
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様へお願い Comments:  自分の不勉強を棚に上げてすみませんが、 刀自古の不倫の疑いとはどのようなものなのか 教えていいただけないでしょうか? Time : 1998/12/14(月) 12:14:42
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさんの説への感想 Comments: 皆さん、今日は KANAKさんの聖徳太子についての意見について いつも楽しみに読んでいます。 私はあなたの説に反対の部分と賛成の部分があります。 反対の部分 「聖」や「徳」の問題 太子の時代以降の歴代の「*徳 天皇」の一生を 振り返ったり、 柿本人麻呂が「歌聖」と呼ばれ、同レベルの山部赤人がそうは呼ばれていない ことからして井沢先生の説の方が説得力があります。 崇峻天皇暗殺時の後継者問題 太子と竹田皇子以外の皇子の名前を挙げていますが 井沢先生が言っているのは「後継者」であって「皇子」ではありません。 彼らは太子と竹田皇子がいる限り「後継者」にはなれない可能性が高いと思います。 賛成の部分 「聖徳太子」の「内政」と「外交」 「内政」と「外交」はまったく別物ですからね 太子と似たような「政策」をとった人物は歴史上いくらでも いるでしょう。これがノイローゼの影響とは思えません。 (私は太子が身内の問題でノイローゼなった可能性は高いとは思いますが) Time : 1998/12/14(月) 12:44:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・征韓論などどうでもよかった江藤と大久保 Comments: 西郷隆盛は、征韓論を本気で考えていましたが、江藤新平と大久保利通は政争 の道具としてしか考えていませんでした。 江藤は、征韓論で西郷と共闘することによって、大久保と長州勢力を追い落と そうとしました。江藤は、西郷を無能と思っていましたから、その後、西郷だ けなら簡単に排除できると踏んだのでしょう。 大久保は、江藤の思惑を逆手に利用しました。征韓論を最重要課題に仕立て上 げることによって、西郷、江藤、副島、板垣、後藤を後に退けないところまで 連れてきて、一網打尽にしました。 「征韓論政変」によると、明治6年において、朝鮮問題は切羽詰まったもの では全然なかったそうです。それが、突然大々的に取り上げられたのは、権力 闘争の為と、権力闘争の実態を後の明治政府が覆い隠すためでした。 Time : 1998/12/14(月) 14:08:48
Name : 安部奈亮v E-mail : Title : 征韓論・・・江藤を見捨てた西郷 Comments: 江藤、副島、板垣、後藤は参議を辞職した後「民詮議院設立の建白書」 を請願します。これは、自由民権運動の出発点ですが、昨日まで自分 たちが先頭に立っていた明治政府を非難する自己矛盾したものでした。 江藤は郷里の佐賀に帰ってすぐに士族反乱の第一陣である佐賀の乱の 首領に祭り上げられてしまいます。 明治7年2月1日に起きた佐賀の乱は2週間で壊滅、江藤は鹿児島の 西郷の下に落ち延びます。しかし、西郷は江藤に助力しないで放逐し ます。江藤はその後逮捕され、さらし首にされます。 今まで、西郷が江藤を見捨てた原因は、時期が迫っていなかったから とか、配下を捨てて落ち延びた江藤に嫌気が差したからだとかいわれ てきました。しかし私は、理念の違いが大きな原因だったのではない かと思います。古来、革命においては、理念の純粋化が行われ、多く 凄惨の度を帯びます。西郷は江藤と理念を異にしていたからこそ、 江藤を冷酷にも見捨てることができたのだと思います。 Time : 1998/12/14(月) 14:29:06
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 刀自古妃の不義 Comments: 大阪JF生さん、こんにちは。 蘇我馬子の娘である刀自古妃は、夫である聖徳太子とあまり仲が良く なく、数人産んだ子供も、山背大兄王子以外は、すべて太子の実子では なかったという噂があったという話を聞いたことがあります。 この話が本当かどうかはわかりませんが、太子が妻を疎んだ理由は なんとなく想像がつきそうではありませんか。彼女の父親は、きっと、 うっとうしい舅であったことでしょう。 Time : 1998/12/14(月) 18:25:38
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(23)「諡号制定期」と「徳」諡号・・他 Comments: 井沢さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 輔住さん、追加します。 「間人」名称に関し、ご理解頂きありがとうございました。 コメント型式ですので、どうしても解説を簡略化し勝ちですが、今後は極 力詳しく説明させて頂きます。 「間人」名称について「トンデモ(デタラメ)」は言い過ぎ・・・とのご意 見が多いようですが、 先学に対し「極めて幼稚な」「日本の歴史学の弱点を見事にまでさらけだし た」「よほどおめでたい」「なんとかの一つ覚え」「日本以外の国では常識 を疑われる」「笑うべきこと」「単純な『史料至上主義』」「下らぬ『権威 主義』」「コジツケ」等々の発言は言い過ぎではないのですか? 先学を謂われなく愚弄・嘲笑し続けておられるのは何方でしょう? 不肖KANAKに対しても(マアどうでも良いのですが)・・「扶桑略記」 さえも知らないと決め付け・・・ >>この説がいつ頃からできたかも知らないで批判して >>いるというのは、まさに滑稽としか言いようがありません。 ・・・と嘲笑され、それが井沢さんの「誤解」で有ると申し上げても、素知 らぬ顔で同様の非難を繰り返されましたね。(^0^)” 私がこの問題の「トンデモ」性に特に拘るのは次の理由です。 (既に申し上げた部分と重複しています・・・)  1.古代皇族名称には同一(類似)名称が極めて多いと言う特徴がある。  2.その理由は古代皇族名称が壬生氏族(地名)に由来したためと考えら    れる。  3.これは古代史に関心を持つ者にとっては初歩的知識である。  4.井沢さんが、この初歩的知識に無知であったとは”絶対に”考えられ    ない。  5.しかるに「昔は近い親戚に絶対に同じ名前はつけない」と全く正反対    の意見を述べておられる。 ・・・みなさんは、これについてどうおもわれますか? 私は、古代史の基礎知識に欠ける一般読者を「不倫」と言う興味本位の話題 に導くために、明らかに「デタラメ」で有ることを承知のうえで、記述され たとしか思えないのです。 さらに・・・  6.「間人宿禰」という古代氏族の存在も古代史の初歩的知識である。  7.泥部(ハシヒト)穴穂部皇女(穴穂部間人皇女)に泥部(ハシヒト)穴穂部皇    子(穴穂部皇子)という兄弟がいたことも同様に初歩的知識である。  8.用明后「穴穂部間人皇女」・孝徳后「間人皇女」と「間人氏」との関    係は絶対とは言わないまでも、2より当然推察さるべきものである。  9.井沢さんが、この初歩的知識に無知であったとは”絶対に”考えられ    ない。 10.しかるに・・・ヌケヌケと以下のとおり記述されています。    「それはこれが固有名詞ではなく普通名詞だからではないだろうか。    では共通項は何か、「不倫」である。現在でも「間男」という言葉が    ある。女なら「間女」ないし「間人」になるのではないかと思う。」                      つまり、井沢さんは話を面白くするため、敢えて(故意に)「デタラメ」を 古代史に無垢な一般読者に押し付けられたとしか思えないのです。 これは、苟も「史論」を説く研究者・言論人として決して行ってはならない ことです。私が「トンデモ(デタラメ)」と繰り返し非難申し上げているの は、この様な無責任な態度を、厳しく反省して頂きたいと考えるからです。 (みなさんは・・・「間人宿禰」「泥部(ハシヒト)穴穂部皇子」を知ったうえ で「間人」を「不倫=間女」と言われる井沢さんの主張が、単に「無知」或 いは「異見」による異説のレベルと思われますか?) 大阪JF生さん・・・ 次に「大友=伊賀皇子」の生母についてですが、私は、以下の理由により 「伊賀采女(宅子娘)」が正当であると考えます。 1.「大友村主氏」は「後漢献帝」後裔を主張する東漢系の渡来氏族であり、   「伊賀氏」は「郡司クラスの小豪族(采女を輩出)」であるから、例え   経済力で優れていたとしても。身分的には、ほぼ同等であって「卑母   (いやな言葉ですが)」に変わりがない。   井沢さんが「伊賀氏」は「国司クラス」と主張されるならば・・・   「大友氏」より寧ろ身分は上になる。 2.従って、「大友氏」が中央名門豪族であれば兎も角、同等の氏族間で敢   えて ”わざと大友の身分を低くするための「小嘘」”をつく理由が無   い。(・・・と言うよりも「小嘘」にすらならない)    3.「淡海三船」をはじめとする淡海真人一族は「大友」直系の子孫であり、   自己の直系祖が”わざと身分を低くするため”曲筆されていれば、当然   修正を主張すべきと思われるが、(勿論、「淡海三船」は天智系天皇時   代の人間です)その気配は一切感じられない・・・つまりは   「伊賀采女」という記述を認めていたと思われる。    なお、井沢さんは・・・ 「壬申の乱を起こした大海人皇子は・・・すぐに伊賀に入った。伊賀である。 他に山城に入る手もあるのに、あえて伊賀に入ったのである。 そして、ここで伊賀の郡司が数百人の兵を連れて応援に駆けつけている。 これはおかしい。・・・伊賀の国司は大友皇子の祖父である可能性が高い。」                                P361 ・・・とされています。(”攻めあがった”のではなく”逃避行”です) しかし、少し考えれば決して ”これはおかしい”とは言えません。 先ず、山城に入ることはあり得ません。「吉野」から「東国=美濃・尾張」を 目指す場合・・・「大津」が何処にあるか考えれば分かりますね。 当然、最短かつ隠密行動に適した峻険な伊賀越えをえらぶでしょう。 (奇しくも、堺から三河を目指した「家康」もそうでした。) なお、「東国=美濃・尾張」を目指したのは、壬生氏族である「大海氏」が、 「海部氏=尾張氏」の関係氏族であることによるとも考えられます。 また「采女」を輩出するのは「国司クラス」ではなく、「郡司クラス」です。 「郡司クラスの小豪族」は当然「伊賀国」には多数存在します。 彼等は自分と同輩の娘が「天皇生母」となることを歓迎したとは限りません。 羨望嫉妬もあり、利害の対立も有ったでしょう。 おそらく「天武」はその辺の微妙な情報を読み切っていたし、予め手配もして いたと思われます。 (勿論、「天武」が井沢さんの言われる「新羅人の子」であれば、この様な 地方小豪族の協力はあり得ないでしょうが・・・・) 私が、天武紀・・「生而有岐(山疑)姿。及壮雄抜神武。能天文遁甲。」 について・・・この「遁甲」は戦略家として情報戦・諜報戦の重要性を良く 理解し使いこなした・・と解釈すべきでしょう。 と申し上げた所以でもあるのです。 取り敢えず、以上でよろしいでしょうか? 疑問があれば・・・何方にかかわらず、ご遠慮なくご指摘願います 輔住さん・・・・ >>柿本人麻呂が「歌聖」と呼ばれ、同レベルの山部赤人がそうは呼ばれてい >>ないことからして井沢先生の説の方が説得力があります。 「歌聖」ですか・・・この言葉はいつ頃から使われたものですか? 因みに「詩聖」は杜甫、「詩仙」は李白、「俳聖」は芭蕉? >>井沢先生が言っているのは「後継者」であって「皇子」ではありません。 >>彼らは太子と竹田皇子がいる限り「後継者」にはなれない可能性が高いと >>思います。 私も、皇位継承候補者を言っています。太子と同等、或いは準じる「後継者」 です。△は遙かに後順位の「皇子」です。 さて、引き続いて「聖徳太子編」・・・諡号「X徳」についてですが・・・ 井沢さんは次のように記述されています。 「太子以後の、諡号に「徳」の字がある天皇達を調べてみよう。実は六人し かいない。第三十六代孝徳天皇以下・・・」        P132 ・・・ここで「太子以後」とされたのに、理論的根拠があるのでしょうか? 井沢さんは「聖徳太子」の諡号が、いつ頃制定されたと考えておられるのか 分かりませんが・・・。おそらく「各天皇漢風諡号」が遡及選定された時期 と大差ないと見るべきでしょう? そして「イワレ彦」以降の各天皇系譜が既に想定されたものであれば、彼等 に対して「漢風諡号」を遡及付与する場合、一括選定しない理由は見あたり ません。 従って、「書紀」成立時点で「漢風諡号」が未選定であるとすれば・・・ かつ天智・天武諡号が井沢さんの説のように、光仁即位(770年)迄に選定 されたとすれば・・・ 「書紀」成立(720年)から一時期を置いて、730〜770年間に一括選定された と見ざるを得ませんね。 つまり(諡法=思想)的に同一グループとなるのは逆に「聖徳太子」を含め て、この時期までの天皇四人、つまり 「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」 となるはずです。 (私は・・・天智・天武諡号が天武系政権下で選定されたとは限らないと考 えていますので、光仁以降の可能性もあると思いますが・・・) 井沢さんは・・・ 「古代において、はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が伝 わった時は、やはりこれはその通りの意味で、たとえば第四代の懿徳天皇 (実在には疑問があるが)とか第十六代の仁徳天皇は、この本来の意味で名 付けられたのであろう。・・・・しかし古代のある時期から、この『徳』と いう名は、むしろ『御無念な御生涯であられた』天皇に贈られることになっ たのである。ではいつからそうなったのか。 明らかに不幸な生涯を送ったにもかかわらず『孝徳』と呼ばれている天皇の 少し前に実在した『聖徳』と呼ばれている天皇クラスの人、それからだとし か考えようがないではないか。・・・」 P165〜P166 ・・・とわけの分からないことを言っておられますが、現段階では・・・ 「はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が伝わった時」に 「天皇漢風諡号」の一部が制定されたと見るべき根拠は全く無いと思います。 (一体いつ頃と考えておられるのでしょう・・・皆さんはお分かりですか?) また「天智天皇編」では「淡海三船一括選定論」に対して次のように「反論」 されています・・・ 「まず第一に、私は神武・綏靖・・・仁徳あたりまで・・・・”超人的な” 天皇の諡号と、用明や推古のような・・・天皇の諡号とは、別の時期にそれ ぞれ別の人間によって選ばれたものだと考えている。 なぜなら、・・・これだけ諡法の手法が違うのは、別人が考えたのだと考え る他はない。」                   P276 これは、ご自身が「強引な論理」と認めておられるように、明らかな循環論 証であり、反論の名に値しません。(ここでは別人物の選定で「諡法」が異 なるかどうかを問題にしているのですから・・・これだけ諡法が違うのは、 別人によるものだ・・・と言われても???(^0^)”) 「そこで、もう一つ言っておこう。・・・」として、淡海三船一括選定説を 否定されていますが、これは仮に「天智諡号」に関する「淡海三船説」の否 定論証となり得ても、他の人間による同一時期選定を否定する論証ではあり 得ませんね。 (天智・天武諡号に関する井沢説の問題点は別に指摘したとおりです。) 井沢さんは、「各天皇(太子)諡号」選定がどの時期にどの様に行われたと 想定されているのでしょうか?(一部は「書紀」に先行しているのでしょう か?)そしてその根拠を何に求めておられるのでしょうか? 先ずその大凡の想定と根拠を示した上で、推論を展開されるべきだと思いま すが・・・いかがでしょう? 私は、その様な根拠はないと考えておりますので、「懿徳」「仁徳」「聖徳」 「孝徳」は同一時期の同一諡法による「諡号」である。 従って「怨霊」的要素の介入する余地は全く無い・・・と考えます。 Time : 1998/12/14(月) 22:57:28
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 伊賀の国 Comments: 仁徳天皇以前は、在位年数が100年もあるので、伝説臭が強いです。 しかるに、履中天皇になると、突然在位年数が10年くらいになって、 記述も現実的になってきます。ですから、仁徳天皇までは、歴史の記述 の仕方が異なると考えても変ではありません。 また、こういう考え方もあります。いとく天皇も、仁徳天皇も、怨霊 であった。私は、この方がすっきりしていていい感じがします。天皇陵 は、発掘による確認が済んでいないわけですから、仁徳天皇寮が大きい からと言って、仁徳天皇が不幸でなかったとは言えません。もしかし たら、怨霊を静めるためにあんな大きな墓を作ったのかもしれません。 いとく天皇の場合、存在すら怪しいので、×徳説を否定する根拠にす るのも肯定する根拠にするのも間違っています。 私は、伊賀に何回か行ったことがありますが、案外京都や大津に近い です。伊賀の国は、地形が入り組んでいて、数十ある盆地の一つ一つ が小天地でして、守に硬い要害の地です。東国に逃げようと思ったら、 だだっ広い近江平野よりも、馬で追ってこれない伊賀を通る方がいい でしょう。ただ、盆地に住む豪族と言うのは意地っ張りが多いですの で、すんなり通してくれたのは、何か理由があってのことかもしれま せん。徳川家康が伊賀越えできたのは、服部半蔵が、織田信長に滅ぼ された伊賀の豪族の世話をしていたからです。 KANAKさん、作家に対して、代筆の話だけ入ってはいけないと思 いますよ。名誉毀損になり兼ねません。 Time : 1998/12/15(火) 12:07:25
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  御意見伺いました。 伊賀采女の件は十分納得のいくご説明と存じます。 繰り返しになりますが、それでも決定的ではありません。 したがって、ここまでは論理的に話が進んでいるのですが、 次に中傷的な部分へ話が進むと、一転感情的になって、 論理的な記述という面からみて、(それ以前の部分さえも) いいかげんにみえてしまうわけです。実際小生がそうでした。 礼を失するかもしれませんが、正直に申しますのでお許しいただき たいのですけれども、その部分の論理性の欠如によって、 貴方のせっかくのご意見が、当初は知識に物を言わせた単なる戯言にしか 聞こえませんでした。それほどの誤解を受けてしまうのです。 おそらく、三文小説発言からみて、井沢先生も似たような感じを お受けになったでしょうし、扶桑略記のことはそこから生じた誤解でしょう。  貴方のご説明を見ても、実際相手がこういったからこちらもという 感情論とお見受けします。  おそらく、井沢先生の場合はもっとひどい扱いを受けられたことでしょう。 相手にされないような見下した批判や、鹿十されたりもしたでしょう。 貴方がお怒りの井沢先生の言動は、それに対する買い言葉だったとおもいます。  こんなことで争うのは美しくありません。 どちらが先かなど、水掛け論に終わるだけで、むなしい言い合いでしょう。 もしも井沢先生の新説に対し、KANAK様(の中傷を除いた論理的記述)の ような、きちんと細部を詰めた議論を歴史学会のどなたかなりがされていれば、 そんな言い方はされなかったはずで、ちゃんとした反論が聞けないのは相手の 理論が幼稚だからと判断されても仕方のないことでしょう。 実際、いくつか目にした井沢批判は、井沢先生がそうおっしゃるのはもっともだ と思うくらい稚拙なものしかありませんでした。これでは、たとえバックに ちゃんとした理屈があったとしても、「素人にわかってたまるか」という 不遜な態度とみるか、ほんとうにわかっていないとみるかしかありません。 心やさしい井沢先生は後者の立場を取られたのです。 べつに弁護に回っているわけではありませんが、このような事情は このHPの読者ならだれしも容易に想像がつくはずです。  だからこそ、KANAK様こそ感情論は抜きにして、 「このようにアプローチすればこう考えられる」とあくまで論理的に批判して いただきたいのです。トンデモ・でたらめかどうかは、別の方が判断されることです。 ご自分でおっしゃるのは決してプラスの面はありません。  小生は当初の考えを捨てて、KANAK説のバックにある考え方を探るために ご意見をよく見て考え、細かいことまで質問をしてきました。 まだよく分からない部分が多いのですが、依然申し上げたように 地道に見ていくしかないとおもっています。 そういう目的意識を持った小生ですら、中傷的な部分は鼻につきすぎます。 ましてや、中傷を受けている方がまじめに対応する気にならないのは 当然でしょう。やはり、実り多い議論にするためには、このようなマナーを 守るべきと存じます。  偉そうなことを言ってしまいましたが、ご一考ください。  なお一例として、全く個人的な意見ですが、小生は論外としても井沢先生ほどの方でも >1.古代皇族名称には同一(類似)名称が極めて多いと言う特徴がある。 >2.その理由は古代皇族名称が壬生氏族(地名)に由来したためと考えられる。 >3.これは古代史に関心を持つ者にとっては初歩的知識である。 >4.井沢さんが、この初歩的知識に無知であったとは”絶対に”考えられない。 の2はご存じなかったのではないかとおもいます。もしそうなら以下の御議論は 成り立ちません。 また3、6は本当なのですか? 「関心を持つ」ことは「知識が完備している」ことと同義ではないので、 ちょっとレベルを高くしすぎていませんか? 井沢先生は通史として日本史を描く試み(クロッキーと表現されていましたね)を されているので、細部に欠如している知識はまだ多くあるとおもうのです。 それを「こんなことも知らんのか」ときこえる言い方をなさるのは止めてください。 (4、9はそう聞こえます。) おそらく知識で勝負して貴方に勝てる人は、そういないでしょう。 上記のように言ってしまうと、「俺はおまえたちと違って偉いのだ」と主張していると、 素人には聞こえます。 そんな良い評価は、「口に出さなければ」必ずどなたかされるはずです。 口に出すと、反感を買って逆に「不遜なやつ」と悪い評価に転化してしまいます。 もっと実りある議論を希望していますので、再度ご一考お願いします。 Time : 1998/12/15(火) 12:29:15
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 井沢先生大丈夫ですか? Comments:  昨日買った週間ポストで、先生の逆説の日本史が休載に なっていましたが、目の方は大丈夫なのでしょうか? これから又読めると楽しみにしていただけに、残念ですが、 心配しています。 Time : 1998/12/15(火) 12:35:52
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様へ Comments:  回答ありがとうございました。 じつは漫画「日出処の天子」ではなんと毛人と不義を はたらく設定だったので、そんな噂があるのかなと 思っていたのですが、不倫の噂があったのですね。 しつこいようですが、もし噂の相手が誰かご存知でしたら 教えていただけないでしょうか?  ちなみに批判されていた豊田説では、刀自古=河上で、 東漢直駒が相手になっていますが。 Time : 1998/12/15(火) 12:47:18
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信 Comments: KANAKさん ご返答ありがとうございます。 >「歌聖」ですか・・・この言葉はいつ頃から使われたものですか? いつとは明確には知りませんが平安時代の「六歌仙」以前でしょう。 後、柿本人麻呂については「逆説の日本史」の3巻に書いてあります。 >私も、皇位継承候補者を言っています。太子と同等、或いは準じる「後継者」 >です。△は遙かに後順位の「皇子」です。 私は「推古女帝は太子ではなく竹田皇子に継がせるために即位した」ぐらいしか 知らないので(自分の無学を恥じますが)彼らが太子と同等と思う理由を 教えて下さい。 >ここで「太子以後」とされたのに、理論的根拠があるのでしょうか? それは太子が特別な人間だからです。 天皇になっていないのに「厩戸皇子」でなく「聖徳太子」と謚名で よばれている人間だからです。 Time : 1998/12/15(火) 13:09:39
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 刀自古妃の不倫の相手 Comments: 私の聞いた話では、刀自古妃と河上娘とは同一人物ではなく、刀自古妃 は、身分の低い下働きの男たちを引き入れていた、という話でした。 相手が明らかではなく、刀自古妃がある種の色情症であるかのような 言い方で、千姫伝説を思わせるものがあります。 後世の脚色かもしれません。 Time : 1998/12/15(火) 14:18:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・馬稷を斬らない日本 Comments: 明治4年12月、台湾に漂着した宮古島の島民が原住民に殺害されるとい う事件が起ります。薩摩藩は琉球に対して特別な利害を持っていたので、 台湾出兵を強く求めました。 明治6年,副島種臣は、琉球と朝鮮と、台湾の服属関係を確認するために 清へ渡りました。そして、「朝鮮は独立国であるが、清の柵封国である」 「台湾には、清の威令は届いていない」という回答を得ました。 この回答を、都合よく拡大解釈した日本は、鹿児島士族のガス抜きも兼 ねて、明治7年に台湾出兵を決定します。しかし、隊長の西郷従道は、 渡航命令が出る前に台湾を攻めてしまいます。その後大久保利通のアク ロバット的外交によって、事無きを得ましたけれども、日清間は、一触 即発の事態まで行きました。 近代国家において、軍人は、上級の文官の命令無しに動いてはいけません。 命令系統を無視したら、たとえ良い結果をもたらそうとも、反乱です。 西郷従道の行為は反乱です。 これは、満州事変にも当てはまり、私は、満州事変は日本による満州侵略 というよりも、関東軍が任地でクーデタを起こして日本政府の統制下を離 れてしまったといった方が良いと思います。 この場合、日本政府が取るべき対策は、泣いて馬稷を斬る、つまり日本 自ら関東軍を討伐する、または、関東軍の予算を停止して、満州の地で 関東軍を立ち枯れにすることです。しかし、日本は事後承認という一番 安易な途を選んでしまいました。この時点で、満州事変の責任者は、 日本政府になってしまうのです。 Time : 1998/12/15(火) 16:18:35
Name : 輔住 E-mail : Title : 征韓論の感想 Comments: 征韓論の感想 阿部奈亮さん、征韓論についての記事いつも楽しく読んでます。 この時代のことについては学生時代に習った事も ほとんど忘れてしまっている状態なので大変勉強になります。 わたしも阿部さんの言う通り征韓論 = 内政問題だと思うのです。 明治の初期に対外戦争を行なう能力があったとは思えないのです。 旧幕府派の人間などがいつ反乱を起こしてもおかしくない頃です。 もちろん「朝鮮との当面の対応」等についても話し合ったとは思いますが、 それよりも「国内」の事の方が重要な話題だったと思うのです。 Time : 1998/12/15(火) 18:14:16
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(24)取り敢えずです・・・ Comments: 安部さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 年末にかけて、飲酒の機会が多くなりますので、帰宅後PCを打つのを控え ざるを得ません。(今夜もホロヨイです) 従って、RESが遅れると思います・・・ご了承下さい。 そこで、取り敢えずですが、 安部さん・・・・ >>KANAKさん、作家に対して、代筆の話だけ入ってはいけないと思いま >>すよ。名誉毀損になり兼ねません。 アルコールのせいかもしれませんが・・・どう考えても御指摘の部分が思い 当たりません。何のことを仰っているのでしょうか? なお、安部さんの「仁徳天皇以前は、在位年数が・・」以下のご意見の「諡 号」との関連がよく分からないのですが、ここで私が問題にしているのは、 井沢さんの以下のご意見に関するモノなのです・・・・ 「古代において、はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が伝 わった時は、やはりこれはその通りの意味で、たとえば第四代の懿徳天皇 (実在には疑問があるが)とか第十六代の仁徳天皇は、この本来の意味で名 付けられたのであろう。・・・・しかし古代のある時期から、この『徳』と いう名は、むしろ『御無念な御生涯であられた』天皇に贈られることになっ たのである。ではいつからそうなったのか。 明らかに不幸な生涯を送ったにもかかわらず『孝徳』と呼ばれている天皇の 少し前に実在した『聖徳』と呼ばれている天皇クラスの人、それからだとし か考えようがないではないか。・・・」 P165〜P166 出来れば・・・この説に沿ってご意見をお聞かせ頂けるでしょうか? 大阪JF生さん・・・ もし、万々一ですが1・2・6・7・8について井沢さんがご存知無かった。 ・・・そのため誤った説を記述されたのならば、可及的速やかな訂正を井沢 さんにお勧めなさるべきでしょうね。 これは、言論人として読者(特に青少年)に果たすべき義務だと思います。 なお「古代史の初歩的知識」ですが・・・私などは素人集団であるNIFTY会 議室メンバーの中でも、ほんのビギナーです。 学生の頃「万葉同好会」に参加していたので、多少の興味を持って雑誌等は 時々読んでいましたが、趣味として勉強をはじめたのは、ここ一年位のこと です。従って私の知識は「初歩の初歩」の範囲を越えるモノではありません。 あまり買い被りなさらないよう、お願いいたします。 Time : 1998/12/16(水) 00:23:16
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(24)取り敢えずです・・・ Comments: 安部さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 年末にかけて、飲酒の機会が多くなりますので、帰宅後PCを打つのを控え ざるを得ません。(今夜もホロヨイです) 従って、RESが遅れると思います・・・ご了承下さい。 そこで、取り敢えずですが、 安部さん・・・・ >>KANAKさん、作家に対して、代筆の話だけ入ってはいけないと思いま >>すよ。名誉毀損になり兼ねません。 アルコールのせいかもしれませんが・・・どう考えても御指摘の部分が思い 当たりません。何のことを仰っているのでしょうか? なお、安部さんの「仁徳天皇以前は、在位年数が・・」以下のご意見の「諡 号」との関連がよく分からないのですが、ここで私が問題にしているのは、 井沢さんの以下のご意見に関するモノなのです・・・・ 「古代において、はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が伝 わった時は、やはりこれはその通りの意味で、たとえば第四代の懿徳天皇 (実在には疑問があるが)とか第十六代の仁徳天皇は、この本来の意味で名 付けられたのであろう。・・・・しかし古代のある時期から、この『徳』と いう名は、むしろ『御無念な御生涯であられた』天皇に贈られることになっ たのである。ではいつからそうなったのか。 明らかに不幸な生涯を送ったにもかかわらず『孝徳』と呼ばれている天皇の 少し前に実在した『聖徳』と呼ばれている天皇クラスの人、それからだとし か考えようがないではないか。・・・」 P165〜P166 出来れば・・・この説に沿ってご意見をお聞かせ頂けるでしょうか? 大阪JF生さん・・・ もし、万々一ですが1・2・6・7・8について井沢さんがご存知無かった。 ・・・そのため誤った説を記述されたのならば、可及的速やかな訂正を井沢 さんにお勧めなさるべきでしょうね。 これは、言論人として読者(特に青少年)に果たすべき義務だと思います。 なお「古代史の初歩的知識」ですが・・・私などは素人集団であるNIFTY会 議室メンバーの中でも、ほんのビギナーです。 学生(30数年前です)の頃「万葉同好会」に参加していたので、多少の興味 を持って雑誌等は時々読んでいましたが、趣味として勉強をはじめたのは、 ここ一年位のことです。 従って私の知識は「初歩の初歩」の範囲を越えるモノではありません。 あまり買い被りなさらないよう、お願いいたします。 Time : 1998/12/16(水) 00:48:01
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様へのお礼 Comments:  早速ご回答いただきまして、ありがとうございました。 又いろんな噂でも結構ですので、ありましたらご教示ください。 楽しみにしています。 Time : 1998/12/16(水) 10:19:22
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  お忙しい中、回答ありがとうございました。 初心者とご謙遜なさる必要はないでしょう。日々の努力によって 貴方は初歩のレベルをとっくに超えてしまっていると思います。 単なるお世辞ではないことは、このHPの方々も同意なさるでしょう。  ところで、貴方の以前の論調を引きずった後に、 >もし、万々一ですが1・2・6・7・8について井沢さんがご存知無かった。 >・・・そのため誤った説を記述されたのならば、可及的速やかな訂正を井沢 >さんにお勧めなさるべきでしょうね。 >これは、言論人として読者(特に青少年)に果たすべき義務だと思います。 というような「正論」をおっしゃいますと、一般的な義務というよりも、 「実際に間違っているのだから、すぐこうしろ。」 と多少傲慢な感じに聞こえてしまいます。 こんなところにも文章解釈上、影響を与えてしまいますので、 前の拙記事で述べたことには、十分お気を付けください。  それで、上記のことですが、現時点で誤っているとはいえない以上、 何もする必要はありませんよね?  それから、知識の欠如と真実との距離は、小生は必要以上に相関関係があるとは 思っていません。あくまで、確率的な問題です。 したがって、小さい子でもずばり核心をつく発言と認めてもよいし、 権威者による精密な議論でも、はずれることは往々にしてあります。 その点、以前も申し上げましたが、知識のあるなしで意見の正否を判断なさらないように フェアーに議論されることを望みます。  ある本(知識工学といわれる分野です)に載っていた例を挙げてみます: 作業効率と照明設備との関係について、綿密な調査の上レポートした論文があり、 照明の改善によって、数10パーセントの作業効率の向上が認められるという内容で、 どのような照明方法が作業効率を向上させるか考察したものでした。 きちんとした調査・データに基づく立派な「科学的」研究で非の打ち所もなく、 反論はほとんどありませんでした。  ところが、調査対象の工場で、しばらくたってなれてきたせいか、 また作業効率が落ちてきたので、照明を元に戻したところ、 再び数10パーセントの作業効率の向上が認められたという後日談があったのです。 この「オチ」がなければ、論文は真実に到達したものと評価されたままだったでしょうが、 結局、目先の変化によって効率があがったに過ぎなかったのです。 このように実験可能な分野でさえ、科学的方法で詰めていっても、真実に到達 できない場合があるのです。ましてや、データが絶対的に不足し、実験不可能な分野では 論理的に詰めて断定的に結論を下すのは、ほぼ不可能だとおもいます。 ヴィーコが似たようなことを言っていました。 一般的な話に終始してしまいましたが、ご参考いただければ幸甚です。 Time : 1998/12/16(水) 10:21:54
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: KANAKさんへ 「代筆」云々の下りは、完全に私の見当違いでした、深くお詫びいたし ます。 ×徳の話ですが、私が言いたかったのは、仁徳天皇依然は古事記の作者 も、まだ読んでいませんが日本書紀の作者も、伝説として書いている傾 向がありますので、奈良時代の時点で既に史実なのか、神話なのか判別 がつかなくなっていたのではないかと思うのです。ですから、除外して 構わないのではないかということです。私自身は、い徳天皇(変換が出 てこない)も仁徳天皇も、怨霊だったのではないかと思っています。そ の方がすっきりしますから。 KANAKさん、真理の前では、井沢先生すら小さい、私たちなどもっと 小さい、ですから、井沢先生に執拗にかかずらわるのもつまらないと思 います。そんなに拘らなくても、井沢先生がもしもあなたの言うような 人物ならば、いずれ読者の方から去っていくでしょう。それは明日かも しれないし、10年後かもしれないし、100年後かもしれない。でも、 200年後には再評価されるかもしれない… 2,30年前流行した左翼知識人の本を今読んでいる人などいないよう に、何時か真実は私たちのような無学な人にも分かるようになるのです。 私が作品やテレビから判断した所、井沢先生は十分信用に値する人だと 思っています。大体私は、井沢先生のファンですから、先生の弁護をす るのは当然です。もしも、あなたの批判が妥当であれば、何時か先生は こたえてくれると思います。しかし、たとえ答えてくれなかったとして も、あなたの言っていることが真実ならばここで発表したことだけで十 分価値があるのです。 Time : 1998/12/16(水) 11:06:02
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 征韓論・・・明治14年の政変 Comments: 輔住さん、感想ありがとうございます。この次に、日本が東アジアを 侵略した思想的基盤を書きます。私は、昭和の20年間の日本は確か に異常でしたけれども、それだけで片付けてしまわず、その異常性は 常に日本人の心のどこかにあるということを言いたいのです。 征韓論政変後、明治政府は薩長勢力によって占められました。明治 11年の大久保暗殺以降は、伊藤博文、井上馨、大隈重信の3人が、 開明派として政府をリードしていました。 憲法は、伊藤と井上がプロシア型立憲君主制、大隈がイギリス型責 任内閣制でした。しかし、深刻な対立はなく、明治14年の始めに は、伊藤はイギリス型責任内閣制を明治15年から始めても良いと 考えていて、福沢諭吉と連絡を取っています。 明治12〜14年頃、大隈は、福沢諭吉と慶応義塾門下生、三菱会 社、この二つの系列を結合した社交クラブ(交詢社)を主催してい ました。更に、そこに出入りする政界人、新聞人、そして腹心の少 壮官僚(尾崎行雄や犬養毅等)を背景に一大勢力を形成していました。 明治14年7月、北海道開拓使官有物払い下げが決定されます。そ れは、北海道の物流と産業を一社に独占させるもので、薩摩系東イ ンド会社と言った観のある不公正なものした。大隈は、新聞に働き かけて、払い下げ反対のキャンペーンを張り、黒田清隆を筆頭とす る薩摩勢力を政府から追い落とそうとします。しかし、薩摩勢力の 突き上げにあった伊藤と井上によって逆に免官されてしまいます。 この時も、北海道から帰ったばかりの明治天皇に、駅のホームで上 奏するという反則的な方法が取られました。同時に、大隈の腹心の 官僚(尾崎行雄や犬養毅等)も免官になりました。 明治14年の政変は、征韓論政変と同じような経過をたどりました。 そして、明治政府の富国強兵、プロシア型立憲君主制の方針は確立 したのです。 Time : 1998/12/16(水) 11:44:09
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 藤原氏の評価 Comments: 私が「逆説の日本史」に抱いている疑問点は藤原氏の評価です。 藤原氏は寝業がお家芸で、日本を私物化しました。日本の国主となれば、 藤原氏の所領=日本国となりますので、統治者として筋が通るのです が、藤原氏は政治の責任を天皇と朝廷に押し付けて、自身は私腹を肥や すに努めました。このことが、日本人の責任感と組織観を屈折させたと いう井沢先生の見解に疑問はありません。 しかし、藤原氏が日本の政治を完全に放棄したのは、源高明の失脚以後の ことでして、藤原経基くらいまでの藤原氏はそんなに悪くないと思うの です。 日本の律令制を作ったのは藤原不比等です。彼は、律令制の至る所に、 日本を私物化する種を播いておきました。ですから、井沢先生が、彼を 良く書かないのは分かります。しかし、日本を統治するグランドプラン を持っていたのは彼だけでした。藤原氏は日本を私物化しようと絶えず 腐心しましたけれども、他の氏族は、それに輪をかけて無能だったので す。そこのところは、「逆説の日本史」には書かれていません。 井沢先生は、平安期族はコトダマイストで、日本人の差別思想を作った と書いています。平安期族は、常識的に言えば、藤原氏です。しかし、 藤原氏が言霊文化の和歌や物語に才能を発揮するのは、10世紀後半から でして、それ以前は見るべきものを残していません。藤原氏はそれ以前 には漢詩の方に才能を発揮しています。10世紀前半以前の藤原氏は一概 にコトダマイストだったとは言えない。むしろ、藤原氏は言霊から自由で、 10世紀以前に無責任かつ無能なコトダマイストだったのは、藤原氏以外 の氏族といえます。 それに、井沢先生は、藤原不比等と元明天皇の関系、摂関政治を非難し ていますが、ならば院政期の院の男色政治も取り上げなければ不公平で す。男色の相手も藤原氏ですが、この場合イニシアチブは院にあるので、 非難されるべきは院です。 他にも。井沢先生は清潔を重んじる点があります。いい加減な日本の言 論界で身を律するためにはそれくらいの姿勢が必要なのでしょうが、旧 約聖書がサウル王に筆誅を加えているような書き方になっているきらい があります。 Time : 1998/12/17(木) 14:36:20
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(25)「懿徳」「仁徳」諡号等について Comments: 安部さん、輔住さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 安部さん・・・ 「代筆」の件については、気にしないで下さい。 ・・・私の信条は「過而不改、是謂過矣」ですので (^0^)” ただ、次の部分・・・一寸イタダケナイような気がします。 >>日本書紀の作者も、伝説として書いている傾向がありますので、奈良時代 >>の時点で既に史実なのか、神話なのか判別がつかなくなっていたのではな >>いかと思うのです。ですから、除外して構わないのではないかということ >>です。私自身は、い徳天皇(変換が出てこない)も仁徳天皇も、怨霊だっ >>たのではないかと思っています。その方がすっきりしますから。 言うまでもなく、「懿徳」「仁徳」の実像は誰にも分かりません。 「記紀」の編集者も史実か架空伝承か・・・絶対の確信は持てなかったかも 知れませんね。 しかし、大王家はじめ、各氏族に伝わった何らかの伝承を寄せ集め、不足分 についは想像で補いながら、その人物像を作り上げ「記紀」の記述に仕上げ ていったのでは無いでしょうか? そして「諡号」選定者も(「記紀」を参考にして、或いは「記紀」の基とな った伝承により・・・)その人物像を思い描きながら、一定の「諡法」によ り「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」等々の「諡号」を選定したのでは無い でしょうか? そこにおける「懿徳」「仁徳」の人物像には「怨霊」と関連づけるナニモノ も見いだせ無いはずです。 だからこそ、井沢さんは「記紀」等で判断できる「懿徳」「仁徳」の像と、 「聖徳」「孝徳」の像は違いすぎる。 従って、同じ「X徳」でも「徳」に関する「諡法」が異なるのではないか。 即ち、別の人物が、別の時代に選定したと理解せざるを得ないと主張され ているわけですね。 これは正否は兎も角、史料に基づき一定の論理を展開されているものであり、 それ故に論理的反論が可能なのです(つまりは人文科学の領域です。) ・・・何の史料的根拠もなく”その方がすっきりする”から「懿徳」「仁徳」 も怨霊だと言うのでは、人文科学の推論領域を逸脱してはいないでしょうか? 輔住さん・・・・ >ここで「太子以後」とされたのに、理論的根拠があるのでしょうか? >>それは太子が特別な人間だからです。天皇になっていないのに「厩戸皇子」 >>でなく「聖徳太子」と謚名でよばれている人間だからです。 仰る意味がよく分かりません・・・ 私は「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」「称徳」「文徳」「崇徳」「安徳」 「順徳」の「X徳」諡号を持つ人物について何故に「懿徳」「仁徳」を除外 されたのかを問題にしている訳です。 ”太子が特別な人間” であれば何故「懿徳」「仁徳」が除外されるのでし ょうか?? >>私は「推古女帝は太子ではなく竹田皇子に継がせるために即位した」ぐら >>いしか知らないので(自分の無学を恥じますが)彼らが太子と同等と思う >>理由を教えて下さい。 「推古」が「竹田皇子」に皇位を継がせるためならば・・・「厩戸皇子」で はなく、「竹田皇子」を太子とするのでは無いでしょうか? 「厩戸皇子」は「推古」よりも先に逝去しましたが、通常は「推古」崩御後 「厩戸皇子」が即位し、その後は「竹田皇子」「尾張皇子」と「厩戸皇子の 皇子達」及び「田村皇子」が継承を競うことが予想されます。 従って、これでは「竹田皇子」に皇位が廻るとは限らないでしょう? なお、井沢さんは「推古女帝は他に子はいない。」P64 とされていますが、 推古の子は「是、二の男子・五の女を生れます。・・・其の五を尾張皇子と 曰す。」と明記されており、この娘が太子の妃(位奈部橘王=橘大郎女)で すから何故に「尾張皇子」を無視されているのか?どうして早世と断じられ たのか?・・正直うんざりしますので、言いたくないのですが理解不能です。 私は「厩戸皇子=19歳」「竹田皇子」及び両者の同腹弟等は当時「天皇即位 年齢」に達していなかった。 恐らく「天皇即位年齢」に達していたのは○?と△の出自的にハンディがあ る皇子と・・・「厩戸」の異腹(蘇我稲目娘 石寸名)兄?である「田目皇 子(穴穂部間人を妻としたという伝承があります)だったと思います。 私の想像ですが・・・「推古」即位の理由の一つは蘇我系「田目(多米)皇 子」の即位を阻止するためだったのでは無いでしょうか? 「田目(多米)皇子」即位となれば・・・蘇我稲目の娘が小姉君(崇峻)・ 石寸名と二代にわたって天皇輩出することになるので、これを回避したとも 考えられるのです。(皇位継承資格は充分にあります) また「厩戸」を太子にすることで、「田目(多米)」即位の可能性を断った。 そして、「竹田皇子」を太子にしなかったのは、 その後早世したように天皇に見合う体力条件を懸念した・・・ 聡明な「厩戸」に蘇我を抑え大王家の権威を保たせようとした・・・ のでは無いかと思います。 あくまで想像の域を出ませんが・・・いかがでしょう? Time : 1998/12/17(木) 23:42:02
Name : 輔住 E-mail : Title : 諡号・言霊等 Comments: KANAKさんへ: 返信ありがとうございます。 >それは太子が特別な人間だからです。天皇になっていないのに「厩戸皇子」 >でなく「聖徳太子」と謚名でよばれている人間だからです。 言い方が乱暴だったかもしれません。お詫びします。 天皇になってない「厩戸皇子」に「聖徳」と諡号されたことは「特例」です。 井沢先生の説ではこの「特例」後「*徳」の諡号の意味が変わったということです。 だから「特例」の以前と以後で分けたのでしょう。 崇峻天皇暗殺時の後継者問題への解答どうもありがとうございます。 とても分かりやすかったですし、あなたの説もかなり説得力があると思います。 安部奈亮さんへ: 確かにコトダマイストの責任を藤原氏だけが負うのは酷でしょう。 「言霊」は平安以前にあるけれど、平安時代に大きな発展を とげたと思います。その原因は「密教」や「風水」などの異国の文化の 影響も多いと思います。 それらを積極的に取り入れたのは「桓武天皇」でしょうし...。 その他様々な要因が重なりあって「政治放棄」への道を徐々に辿ったのでしょう。 Time : 1998/12/18(金) 12:41:54
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 1.擬似中華 Comments: 以下述べることは、山本七平さんの尊王思想の研究を私なりにまと めたものです。完全な私自身の考えも混じっています。でも、決し て山本七平さんの考えそのものなどと取らないで下さい、私という フィルターを通しています。 7,8世紀、日本が初めて民族規模の国家を造るに当たって、中国の 思想と機構を丸ごと取り入れる方法を取りました。ここまでは、新 羅や越(ヴェトナム)と同じです。しかし、日本は柵封国として中 華文明のシステムに収まる途を行かないで、日本自ら「中華」とな る途を選びました。皇帝である天皇が日本を治め、朝鮮、隼人、蝦 夷が朝貢する、これが、古代日本人の無邪気な世界観でした。 この世界観は、公家と民間で残ります。武士は、現実的な世界観を 持っていましたが、それは常に「国辱外交」として、非難の対象に なりました。 17世紀になって、漢民族の王朝の明が滅びて、女真族の王朝の清が 中国を征服します。多くの漢人が日本に亡命します。漢人の儒者達 は、「女真族が治めている中国は中華ではない」としました。この儒 者達の教えを受けて、江戸時代の儒学は始まります。やがて、朱子 学の正統論が屈折した格好で日本で結実し、「有史以来王朝が交代 したことが無い日本こそが中華である」という尊皇思想が生まれま す。これは必然的に、天皇陛下から実権を奪った幕府を倒せと発展 する。これが、討幕の理論的根拠です。 要するに、明治維新は、そのvery beginningにおいて、日本を中華 本来の姿に戻す「中国化革命」でした。因みに、「尊皇攘夷」の「攘 夷」には、京都から見た徳川家の意味が含まれています。西欧列強 は、本来は「南蛮」か「西戎」です。 中国化革命、勤皇思想を受け継ぐものが、天皇親政アナーキストで す。この思想は、今も日本人の心に残っています。 Time : 1998/12/18(金) 17:41:55
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(26)「聖徳太子」心中説 Comments: 井沢さん、輔住さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 輔住さん・・・・ 崇峻天皇暗殺時の後継者問題・・・ご理解いただき、ありがとうございます。 (単なる私の想像ですが・・・) さて、「諡号」問題ですが、失礼ながら論点を充分ご理解いただいていない ように思われます。 >>天皇になってない「厩戸皇子」に「聖徳」と諡号されたことは「特例」で >>す。井沢先生の説ではこの「特例」後「*徳」の諡号の意味が変わったと >>いうことです。だから「特例」の以前と以後で分けたのでしょう。 もう少し、これを詳細に分析すれば、井沢さんは・・・ 1.「懿徳」「仁徳」の場合は原義の「徳=Virtue」の意味(=諡法)で使   用されていた。 2.しかしある時期に「厩戸皇子」という「巨大な怨霊」に、特例としての   「聖徳」と言う最大級の「諡号」を与えて鎮魂をはかった。   この段階で「徳」の意味(=諡法)が「『御無念な御生涯であられた』   天皇への鎮魂」に転化した。 3.以降「孝徳」「称徳」・・・について、同様の意味(=諡法)が適用さ   れた。 ・・・という様な仮説を提起されているのです。これに対して、私は、 4.「書紀」成立(720年)以前に「漢風諡号」が選定された形跡はない。 5.また井沢説では天智・天武「諡号」は光仁即位(770年)迄に選定され   たとされている。(私は、光仁迄と言う想定には疑問を呈しています) 6.従って「神武」〜(「聖徳」を含め)〜「聖武?」という歴代天皇の   「諡号」は730〜770年間の限られた時期に一括選定されたと見るべきこ   とになり、ある時期に「諡法」が変化したと想定するのは困難である。 8.井沢さんが「ある時期」に「諡法」が変化したと主張されるなら、その   時期の想定と根拠を示されるべきであり、それ無しに「懿徳」「仁徳」   を除外されるのは疑問である。 ・・・と申し上げているのです。論点がご理解頂けたでしょうか? 輔住さんは「漢風諡号」が時期的にどのように選定されたとお考えなので しょうか? さて、引き続き「聖徳太子編」心中論に移ります。 先ず、井沢さんは「太子は異常死」であるとして・・・ 「異常死かどうかは@殯の期間が「ない」か異常に短い、A新しく墓を作ら ず別人の墓に合葬される、という条件を満たしているかにある。 太子の死は二つとも満たしている。」  P111 そこで「殯の期間」ですが・・・井沢さんは、どのようにして「太子」の殯 期間の長短を判断されたのでしょう? 欽明天皇以降ほぼ同時代の「太子級」人物の死亡例は次のとおりです。 箭田珠勝大兄・・・・欽明子(敏達天皇の同腹兄) 押坂彦人大兄・・・・敏達子(舒明天皇の父、斉明・孝徳天皇の祖父) 古人大兄・・・・・・舒明子(倭姫皇后の父) 彼等については、「殯期間」はおろか「死亡時期」さえ不明ですね。 (古人大兄の「死亡時期」は「異常死」であるため判明しているが「殯」も 「墓」も不明である) 従って、「太子」の「殯」の長短は比較しようが無いはずです。 井沢さんは「太子」と「天皇」の「殯期間」を比較しておられるに過ぎませ んが、一体これは妥当な比較でしょうか? 私は、「天皇」と「太子=大兄」とでは神霊格に差があり、「殯」儀式も差 があって当然であろう・・・従って全く無意味な比較だと思います。 (「太子」は「諡号」があるから「天皇」並みだなんて言わないで下さい) また「合葬」についても・・・仏教思想の影響もあって「薄葬≒合葬」が一 般化します。 欽明・・・堅塩姫(用明・推古の母)との一種の合葬? 敏達・・・石姫(敏達の母)との一種の合葬。 崇峻・・・「異常死」ですが「合葬」かどうかは不明(記録上は単葬)。 推古・・・竹田皇子との合葬。 孝徳・・・「異常死」を推定しておられますが単葬。 斉明・・・建皇子との合葬(間人皇后・大田皇女とも一種の合葬) 天智・・・単葬とされていますが・・・私は造陵の遅れは「倭姫」との      合葬によるものでは無いか?と想像しています。 天武・・・事後ながら持統との合葬 以上の例から見て、「合葬」を「異常死」と関係付けることも、全く根拠が 無いと思いますが・・・如何でしょうか? Time : 1998/12/19(土) 12:57:36
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(27) 「聖徳太子」心中説ー続き Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 今回は「聖徳太子」心中説そのものについてです・・・・ 井沢さんは、これについて次のように主張されています。 「・・・『太子伝暦』では、膳部妃の死をふくめ次のように書いている・・ ・・『吾、今夕、遷化せん。子もともに去ぬべし』・・・これはどうみても 『心中』という他はない。」              P113 「少なくとも平安時代には、『太子心中説』が、堂々と語られていたという 事実を、この『伝暦』は示している。・・・」      P114 「この『伝暦』は太子を崇拝し信仰の対象とする立場から書かれたものだ、 ・・・それなのに『心中』としか言えない形で、太子の死が記されているこ とは特筆すべき事柄である。」 「伝暦」の作者は、太子が仏教の聖者であることを繰り返し強調している。 ・・・ところがその「伝暦」が太子の死は「心中」であると語っているので ある。これは一体どういうことなのだろうか。」     P114 「『伝暦』は、太子を讃美するために書かれた伝記である。太子にとっては 不名誉なことは本来書くはずがない。それなのに『心中』と書いてある。 ということは、やはり太子の死は『心中』すなわち自殺だったと考えるのが 妥当ではないか。」 長々と引用しましたが・・・これは典型的な「前提の誤謬」に立った論理展 開ではないだろうか・・・と考えるからです。 つまり・・・『吾、今夕、遷化せん。子もともに去ぬべし』は「心中」を意 味するものなのかどうか?? 本来は是が最も問題であり、検討すべき問題であるにも拘わらず、ごく簡単 に「心中」と決めつけておられますね・・・ここに「誤謬」があればそれに 続く論証は・・・全て単なる冗舌となってしまうのです。 私は、この部分を「心中」と読むのは・・・誤読の可能性が高いと思います。 みなさんもご存知のとおり・・・「書紀」には、太子の逝去記事に続き、 「當于是時、高麗僧慧慈・・・誓願曰、於日本国有聖人。・・・以玄聖之徳、 生日本之国・・・・・於是、慧慈當于期日而死之。是以、時人之彼此共言、 『是独非上宮太子之聖。慧慈亦聖也。』」・・・とありますね。 つまり、「高麗僧慧慈は自分の死期を知っていた・・・慧慈もまた聖である」 云々の記事が示すように、聖者は己の死期を知り従容と死に赴くと言う観念 があるのです。 「伝暦」記事は正にこのことを強調していると読むべきであり、さらに膳部 妃殉死をも付け加えたモノでしょう。それだからこそ「太子」讃美記事なの ですね。(慧慈の死も一種の殉死と見ることが出来ます) 井沢さんの論理構成・・・ **太子の死亡記事は「心中」を意味している。・・・仮定前提    *太子が仏教聖者であることを主張している。   ↓ *太子の不名誉記事を書くはずがない。   ↓ *それなのに太子が「心中」したと記述されている。   ↓ *これは一体どうしたことか。   ↓ *太子が「心中」したと考えるしかない。 私の論理構成・・・ **太子の死亡記事は「死の予知」を意味している。・・・仮定前提 *太子が仏教聖者であることを主張している。   ↓ *太子の不名誉記事を書くはずがない。   ↓ *それだから太子が「死の予知」をしたと記述されている。   ↓ *これに一体何の不思議があるのか。 「心中」としか読めない・・・と仰るのは、聖人(者)の死生観についての 井沢さんの無理解を示すモノとしか思えませんが・・・如何でしょう? (また、お叱りを受けるかも知れませんが・・・井沢さんも本当は充分理解 しておられたのでは・・という思いが払拭出来ません)(>_<;) なお、私はこの「以玄聖之徳」が太子の「諡号」と関係していると睨んでい ますが、これは単なる想像です。(^0^)” 次ぎに「道後温泉」問題ですが・・・井沢さんは、 「もっとも、この『太子が伊予の道後温泉に行った』ということも、学界で は史実としては認めていない。・・・」        P59 ・・・と記述されていますが、この「学界」とは何(誰)のことを言ってお られるのでしょう? 井沢さんが、シバシバ「学界」代表と見なされている坂本氏は「聖徳太子」 ー吉川弘文館 (「逆説の日本史2」P112等に引用あり)・・・において、 これを「史実」として論述しておられますね。 従って、P59以降の井沢さんの「学界批判」は、読者に謂われのない学界不 信を植え付けるだけの「為にする議論」としか思えませんが・・・ みなさんは、如何お考えでしょうか?? Time : 1998/12/20(日) 12:21:33
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 学会に統一見解はあるのか? Comments: こんにちは、KANAKさん。 いつも感心して御発言を拝読させていただいています。仕事ではなく趣味で、 それだけの知識を身につけられる人というものが、実際にいらっしゃるもの なのですね。驚きです。 さて、私は文系ではなく理系の研究者なので、歴史の学会については、 その状況を全く知らないことを、まずお断りしておかなくてはなりません。 ですが確かに、貴方のおっしゃる通り、井沢先生のおつかいになる「学会」 という言葉には、多少の引っかかりを感じているのです。 学会は会費さえ払えば、推薦者の一人もなく入会できることが多いのです。 入会の条件も無いに等しく、その分野を研究しようという意気込みを お持ちの方なら、どなたでも参加できる非営利団体で、ある意味、趣味の サークルに等しいとさえ思えることがあります。 そのような雑多な人間集団で、統一見解のようなものを作ることができる でしょうか? もちろん、力を持った学派、ある教師を中心とした団体といったものはあり ます。学者は未だに徒弟制度で養成されている職業ですから。しかし、 その学派には、別の見解を持った対抗する学派が形成され、力の均衡を 保っているように、私には見えるのです。時々現れる少数意見も、潰される のではなく無視されているだけであり、講演の記録や論文として、ちゃんと 後世に残すという手続きは踏まれるのが通常です。 学会とは、あらゆる見解を飲み込む巨大な「空っぽの器」であるというのが、 私の学会観です。 井沢せんせいが御批判されている、もしくは御批判されるべきは、学会では なく、学会の主流を占めているある特定の学派なのだろうと、私は思って います。 各種の問題があるにせよ、その学派、いやむしろその意見を主に主張して いる特定の学者の名前を挙げていただかないことには、批判の矛先が 極めてあいまいで、漠然とした印象を与えるだろうことは否めません。 しかしそれは、週刊誌のような媒体では困難で、商業的には成立しえな いものなのかも、しれません。 Time : 1998/12/21(月) 10:30:57
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 学会の統一見解について Comments:  歴史学会の実態は小生も全く知りませんが、 論文掲載等にレフェリー制度はあるとおもうのです。 学会員にはなれても、無条件で論文は学会誌あるいは それ相当の論文誌には載せてもらえないのではないでしょうか? したがって、ある学派が多数の場合どうしても学派という以上に 権力を持ってしまうように思います。  留学体験をもとに記述された 「ハードアカデミズムの時代」高山博著、講談社 にありますが、比較的フェアーだとされる海外の論文誌でも、 有力者の推薦がなければ門前払いを食らうことがあったそうです。 逆に推薦を受ければ、ぜひ掲載させてくださいという対応になるそうです。 ついでながら、この著者はアイビーリーグの一つに留学し、 週1000ページの文献を読んだ後にセミナーで発表させられ、 さまざまな質問に答えるというハードトレーニングをさせられたそうです。 自慢話が半分ですが、果敢に西洋史の本場に挑んだ姿を見ることができます。  また、小生が多少知っているケースでは、主流派と異なる結論の研究を 発表しようとしたところ、論文どころか本の発表すら妨害を受けたとききます。 レフェリー制度の是非はさて置き、真剣に研究に打ち込んでいればいるほど、 どうしてもこのような権力が生じるのは避けられないような気がします。 したがって、すべて統一された見解は無理としても、一定の偏った意見を やはり全体としては持ってしまうのではないでしょうか? クーンの描像でいえば、研究活動がパラダイム内の通常科学にすぎない というところでしょうか。パラダイムを壊すのには「科学革命」を必要とします。 Time : 1998/12/21(月) 11:58:40
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : ×徳考 Comments: 懿徳、仁徳、(聖徳)、孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、後鳥羽の一番目の謚号 (失念)、順徳。以上10人の×徳天皇中8人が不幸な生涯を送った方々である。 これは、誰が見ても不幸な天皇に×徳天皇が謚名される法則が優越すると考え られる。10人中8人も当てはまるのならば、残りの2人は何かの誤差と考える ことができる。 しかも、聖徳太子を挟んで状況が一変している。太子を境にして×徳天皇の意味 合いが、普通名詞的なものから、怨霊鎮護に変化したといえる。 聖徳太子というのは、「リチャード獅子心王」と同じような渾名である。この渾 名は、淡海の三船が漢風謚号をつけたときには普及していたと考えられる。 太子は、日本に初めて律令制を導入しようとし、任那失地以後下落しがちだった 日本の国際的地位を隋と対等外交を結ぶことによって回復し、仏教を国教にした 超人的人物である。仏教が国家統治のイデオロギーとして強力であった奈良時代 においては、国教化の事実だけで太子は聖人に値する。 しかるに、太子の子孫は全滅している。蘇我氏にも物部氏にも降りかからなかっ た前代未聞の不幸である。中国仏教では、無縁仏を畏れる。儒教は祭祀が絶える ことを最大の不孝とする。太子は、怨霊、仏教、儒教、つまり当時の知識のどこ から見ても不幸な人物である。聖人にして世界一不幸な人物、それが奈良時代の 太子像である。 儒教では、仁徳は努力で到達可能な最高の状態、聖徳は仁徳を越える天性の最高 の状態である(論語四述而第七・二十九、三擁也第六・三十、八衛霊公第十五・ 五、四述而第七・二十五)。しかも冠位十二階の最上位に徳を置いたように、太 子自身徳を好んだ。聖はまた、仏教では俗人に与えられる最上の称号である。聖 徳太子という渾名は、考えられる限り最高の渾名であり、彼の実績を褒め称える のと、怨霊を鎮めるのにふさわしい。 日本史上最高の儒教的名君には仁徳が与えられているが、聖徳には遠慮をしてい るのが分かる。懿は、麗しい、誉める、たたえる(大修館漢和辞典)の意味で、 貴人に使われる字である、しかし人徳の意味合いはない。仏教の保護者である聖 武天皇には、仏教的な称号の聖が与えられているが、人格的には文帝に劣る武帝 に比せられている。これもやはり太子に遠慮している。やはり太子が最高であり、 仁徳と懿徳によってもそれは揺るがない。聖武天皇が太子に遠慮していることは 奈良時代において、太子が天皇と同等かそれ以上と考えられていたことを意味する。 これは怨霊に関わらず、字の意味から導き出される結論で、漢文が必須教養だっ た奈良時代の人は、この意味合いに我々より敏感であったはずである。 淡海三船は、「徳=怨霊」とすぐにはばれないように、仁徳と懿徳を混ぜたのか もしれない。なぜなら、孝徳や称徳を葬った勢力は未だ健在だからである。そし て、天智は光仁で復活したので、その怨念は晴れたといえるため、徳の字はつけ られなかった。その代わりに、天智の怨念の犠牲になった天武・持統朝の最後の 天皇には徳の字がつけられた。天武の子孫を、その主流である天武・持統朝に限 ってみると、子孫が全滅しており、怨霊といえる。さらに、孝徳と称徳はお世辞 にも普通名詞的な徳のある人物ではなかった。やはり、この2人には、仁徳天皇 とは異なる命名の要素があるといえる。 怨霊に徳がつけられるといっても、完璧にすべての怨霊につけられるわけではない だろう。しかし、徳がついている天皇の過半数が怨霊で、他にも根拠があるのだか ら、徳がついていれば怨霊であるというには充分の根拠がある。 Time : 1998/12/21(月) 12:09:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 2つの目 Comments: 私は、何人かの歴史学の教授や学生を知っているが、人の意見に耳を貸さなかっ たり、反論を封じるような人には会ったことがない。その意味では、井沢先生の学 者批判は妥当性を欠くと追える。 しかし、人間は集団になると豹変する場合がある。ロシア人は、ソ連を作った人達 とは信じられないほどに善良な人達ばかりという。真摯な学究の徒の総体が頑迷で 排他的になることがある。梅原先生や井沢先生の学者批判は、その意味だったら正 しい。中には、本当に箸にも棒にもかからない学者もいるかもしれないが。 私の友人に考古学の学生がいる。立派な人物である。しかし、彼の本棚には専門書 しかなかった。これでは、外の世界と話しが通じるはずがないと確信した。彼は、 「学者は冒険することができない」といっていた。知れば知るほど、真理の奥深さ と己の矮小さを思い知るのは私も分かる。しかし、飛躍は往々にして無知がもたら す大胆さと、専門と実用の狭間に生まれる。 それに、特定の分野にその専門家しか口出しできなくなると、必ず道を誤る。旧日 本軍が好例である。誰も(軍人すらも)アメリカに勝てるとは思っていなかった。 しかし、軍人は立場上口にできない。なら、軍人以外の人に耳を傾ければ良かった のだが、面目が許さなかった。専門家は、良心に基づいて行動するが、人間はその 良心ゆえに落とし穴にはまるのである。 それを防ぐためには、アウトサイダーに耳を傾けるしかない。目は、最低2個必要 なのである。 日本人は、対立と敵対をごちゃ混ぜにしがちだ。自分達の和を乱す輩は、不倶戴天 の敵としか認識できないようだ。しかし、対立者がいて始めて自分を正しく認識で きるのを忘れてはならない。「逆説の日本史」の反対者は、反論を出すことによっ て初めて自分の立場を鮮明にすることができる。逆もまた然り。決定的証拠が挙が るまでは。真実が複数あっても一向に差し支えない。しかし、「逆説の日本史」が なければ、反論さえ存在できない。 「逆説の日本史」は、日本史を見るもう一つの目になり得ると私は思っている。新 しい目を作る能力と発表の場の両方を持つ人物は今のところ井沢先生しかいないと 私は思う。ならば、私は、検証を進めて、その目をより良いものにしたいと思う。そ れは、一方的賛美ではない、非難をすることもあると思う。しかし、「逆説の日本史」 という試み自体は、大変価値のあるものだと私は思う。 Time : 1998/12/21(月) 12:38:39
Name : 輔住 E-mail : Title : 諡号問題 Comments: KANAKさんご返信ありがとうございます。 諡号問題に関しては私とあなたでは論点がずれている 部分があったと思います。 >輔住さんは「漢風諡号」が時期的にどのように選定されたとお考えなので >しょうか? 今回はこの質問に対して答えたいと思います。 正直言って考えてません。 井沢先生の天智・天武「漢風諡号」の部分を読んでも そこの部分は「説得力があるな」と思う反面、 「考えすぎな気もする」というのが正直なところです。 ただ誰がいつ付けたにしろ初代の神武から付け始めたと思うのです。 それから歴代の天皇の諡号をつける。 諡号を付ける場合その天皇の実績を考慮すると思うし、 それまでに名づけた諡号も参考にするでしょう。 そうして考えた場合、 (「懿徳」「仁徳」はとりあえず置いておく) 1.厩戸皇子に「聖徳」と諡号をつけた。 (私はこれを「怨霊鎮魂」の一つだと思う。天皇でないものに 諡号を付けたのだから) 2.そうしてその後にまた「*徳」という謚号をつけた 彼らは「怨霊化」の条件を備えてる。 3.祟りが噂され「顕徳」→「後鳥羽」と改名される。 さらにその後「*徳」と諡号された天皇はいない。 ここから考えるとだれが付けたにしろ「*徳」という諡号は いわくつきの名前としか考えられない。 あまり解答になっていないかもしれないですが 以上です。 Time : 1998/12/21(月) 12:46:11
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 学会の見解 Comments: 主流を占める見解というものは、確かにあります。 しかしそのような見解があることと、少数の意見を無視していることとは、 全く別です。 主流以外の意見を発表させない学会など、私は聞いたこともありませんし、 統一した見解が定まっているものならば、それはもう研究を要するものでは なく、その学会内では「ただの事実」ですから、反対者の意見を封じる 必要はありません。それこそ、「トンデモ」とでもしておけば良いのです。 発表の妨害と言われるようなものがなされるとしたら、その対立意見は 有望なもので、学会内でも支持者が多数いるものと考えられます。 Time : 1998/12/21(月) 13:08:57
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 三枝様へ Comments:  小生も口頭発表までは拒否される話は聞いたことはありませんが、 学者の評価では、会議の発表記録としてのプロシーディングスは軽視され、 レフェリー付きの論文誌に掲載されたものが評価されるようです。  おそらく貴方は恵まれた公平・公正な環境におられたのでしょうが、 残念ながら、必ずしもそのような理想的なものばかりではありません。 特に小生が挙げた後者の実例では、そうではないという実態を知っています。 まったく学会と無縁な方々の支援によって、妨害されにくい出版社を探し、 その方の著書をやっと世に出すことができました。 現在関係学会では全く認められておりません。 (けれども素人には支持者は少なくありませんし、小生も「有望」と信じています。) その方は高齢のため既におなくなりになりましたので、 さらにまだしばらくの間は認められないでしょう。 クーンも言っているように、関係者の方がすべておなくなりになって、 後世の研究者が公正な目で判断されたとき、再び日の目を見るかもしれません。 でも短い時間(といっても人間の一生分くらいかも)のスパンで見れば、 そんなことは数多くあるでしょう。  ある人が冗談っぽく言っていましたが、「生きているうちに学会なりに 認められるような説は、たいしたことはない」そうですが、 (学会もなかった頃の)偉大な理論は確かにその傾向があったとおもいます。  小生は、しばしば(というレベルで)いろんな分野でこのような差別を耳にします。  先にあげた高山氏の例でもそうでしたが、英文の論文誌では、 アジア人差別があったり、(英語)ネイティヴでないという理由でも、 (本当にそう書いてあるのです!)掲載拒否されるものも実際に数多くあります。 正直にこのように言ってくる場合もありますが、 通常はもっとあいまいな理由にするようですけれど。  また、このような(不合理性も含む)学者集団を研究する 「科学社会学」という研究分野さえあるのですから、 (ルイセンコ学派というような極端で古い例は別としても、) やはり「全くない」ことはないとおもいます。 もちろん小生はそんなことはなくなるように願っています。 Time : 1998/12/21(月) 14:20:35
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 2つの目を読んで Comments:  安部様のご意見に大賛成です。 聖徳太子の17条憲法の「和」も、単なる喧嘩に対する忌避でなく、 同様のことをいいたかったのだろうとおもいます。 また、J.S.ミルも「自由論」の中で同様の意見を述べています。 あやふやな記憶ですが、「人間が得られる真理は半真理にすぎず、 十分合意できるレベルに達するまでは、意見の相違はむしろ望ましい ことである」というような言い方だったとおもいます。  もちろん貴方のご意見は借り物でなく、御自身で考慮された上のものと 存じますが、(また上記の意見もご存知の上でのことでしょうが) ファイヤアーベントを好み、「知的アナキスト」を目指す小生にとっては、 ずばり核心をつくご意見で、思わず「キーを打って」しまいました。 Time : 1998/12/21(月) 14:23:08
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 擬似中華が崩れる時 Comments: 大坂JF生さん、買いかぶってはいけません。恥ずかしながら、私はあ なたが挙げた人物は名前すら知りません。私が読んだ思想書らしい思想 書といったら、2,3の仏典、論語に孟子、新旧約聖書しか有りません。 とてつもない不勉強です。ですから、間違いが多いと思いますが、どし どし御指摘ください。心配しなくても、怪しい宗教の人では有りません よ。極スタンダートな(つまりクリスマスを祝うような)仏教徒です。 日本国内で「中華ごっこ」をする分には罪がないですが、外国(主に中 国と朝鮮)と日本人が交渉を持つ段になると、擬似中華は危機に立ちま す。中華が2つある筈ないのですから、中国と朝鮮は日本を中華として 扱ってくれない。それどころか、日本の意図すら理解できません(豊臣 秀吉と明の交渉ががいい例です)。ではどうしたのか?公家は現実逃避 することにした。室町時代以降は、彼等は実権を持たなかったのですか ら、それもまあいいでしょう。擬似中華に基づく文化的権威だけが公家 を支えていたのですから、公家は現実を直視する訳にはいかない。 では、武士はどうしたかというと、将軍が日本国王・大君として中国に 朝貢し(徳川氏は中国と通商はしたが国交は持たなかった)、朝鮮国王 と対等に付き合う形を取った。 朝貢は「土下座外交」であり(もしも本当に中国の宮廷に日本国王が行った ら、三コ九礼しなければならない)国辱外交として知識人からは常に糾 弾された。対等な家関係を認めない中国人が悪い気がするが、東アジア には国家を治める思想は儒教しかなかったのだからしょうがない。 しかし、明治維新は幕府というクッションをなくし、擬似中華はむき出 しになった。 征韓論の際の朝鮮外交は政変臭を覆い隠すために創作された部分が多い です。しかし、日本を中華として遇さない朝鮮に対して、日本人の感情 は激発します。そして、日本がアジアに侵出するに従って、その線で、 征韓論は粉飾されるのです。 Time : 1998/12/21(月) 15:26:59
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : やるべきこと Comments: 大阪JF生さん、丁寧なコメントありがとうございます。 私の研究分野でも、「動く遺伝子」であるトランスポゾンを発見した マクリントックという実例があります。彼女の説はあまりに突飛であった ため学会誌に発表することができず、後にノーベル賞を受賞するその 研究を構成する一群の論文は、学内紀要のたぐい(評価は大変低い)に 発表されたそうです。 しかし彼女は学会を批判しませんでした。そのようなことをする間に、 もくもくと研究を続け、自説を裏付けるデータを出し続けたのです。 美しすぎ、理想的すぎる物語で、彼女以外にできる人間はそうはいない でしょう。そうしろと言われると、どなたも反発されることと思います。 しかし、自説を認めさせるためにはその方法がベストであることも事実 なのです。 まずは、自説の問題点を検討し、他者に「ここが矛盾している」と言われ ないように訂正修正を行い、また自説を補強するデータを集め続ける ことが何よりも生産的なことだと思うのです。 それは大変に辛く長い道のりです。しかし学会の中にも、そういった 研究を評価する人たちは、目立たないながらも存在するものです。 マクリントックの研究も「彼女が何を言っているのかよくはわからないが、 彼女が言っているのだから事実だろう」と、コメントした研究者がいたと いう伝説が残っています。 私は井沢せんせいが、生産性のない学会批判(それをやったからと いって、自説が正しいと相手に認めさせる手助けにはならない)に、貴重な 時間を裂かれて、何よりも大切な自説の完成を遅らせてしまうような 本末転倒の行動をとられることを怖れています。 Time : 1998/12/21(月) 17:14:50
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 拝復 三枝様 Comments:  お返事ありがとうございます。 少し小生の早とちりで誤解していたかもしれませんが、 お返事で、貴方のいいたかったことがよく分かりました。 ご意見に賛同いたします。 KANAK様にも申し上げたことですが、中傷的な言い回しは 効果的でないばかりか、逆に自説の価値を下げると小生も思います。 もっと生産的なことにエネルギーを使うべきと思います。  同じ意見だったのに持っている感覚が反対であるような感じを うけてしまったのは、不幸な例の方を多く知っていたからだということも 自覚できました。  もう一例だけ(軽い読み物として)挙げさせてください。 もはや一般的になったとおもわれる「集合論」の開祖カントールは ドイツ数学会の大御所クロネッカーににらまれて、ドイツでは論文を 発表できなくなり、徹底的に排除・攻撃されて 発狂寸前にまで精神的に参ってしまったそうです。 それを救ったのが、スウェーデンのミッターク・レフラーという数学者で、 スウェーデンの論文誌に掲載させたのですが、それでもトラウマは 癒せなかったようです。  しかしわからないもので、そのように心やさしいレフラーもノーベルとは 敵対関係にあったようで、そのせいでノーベル賞は「理論的」科学には 与えられなくなったという噂があります。実際、アインシュタインも ノーベル賞は相対性「理論」ではなく、「光電効果」の発見でもらっています。  ちなみに当時の新聞は、このニュースを訳すときに photo-electric effects を「写真電気効果」と報道して失笑を買ったそうな・・・。 お後がよろしいようで。 Time : 1998/12/22(火) 09:52:46
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 擬似中華の行きつく先 Comments: 擬似中華と化城(「逆説の日本史第6巻」参照)が結びついた時に何が起きるのか? 日本は中華なのだから、軍閥に簒奪された中国を統治すべきであるという 考え(妄想)です。 中華はこの世に一つしかいらないのだから、インチキ中華(本当は日本こ そインチキ中華なのですが)を打倒しなければならないのです。ここで、 日本人の中国観は尊敬から侮蔑に180度転換します。おそらく、日清戦 争に勝って中国恐るに足らずとなり、日露戦争に勝って日本は中国などの アジア人よりも上等な欧米列強人という新人類にでもなったつもりだった のでしょう。そして、精神的には、西洋人よりも勝ると信じていました。 日本人の中国人蔑視はここに始まります。柵封国の朝鮮はもっと蔑視して 良いことになります。西洋思想と中華思想のグロテスクな結合がここに生 まれます。 昭和12年(1937)10月から、トラウトマン駐支独大使の斡旋による日中 和平交渉が始まります。ナチスドイツは、日本と中国の和解と、両国とソ 連の緊張を望んでいました(シベリアに赤軍を引き付けるため)。12月2日、 中国政府(蒋介石)は日本案を受諾(無条件降伏に近いです)、日中戦争は 終結するはずでした。 然るに、日本軍は軍事行動を止めるどころか首都南京に侵攻しました。中国 政府は日本政府の要求を全て受け入れたのに何故?世界中が首をひねり日本 に対して「理解不能」と怯えました。更に、近衛文麿は「重慶政府(蒋介石) を相手とせず」と、意味不明な宣言をして、和平の可能性を無にしました。 これは、擬似中華のなせるわざです。日中戦争は、インチキ中華から中国人 を救うための解放戦争でした。和平は相手の存在を認めることです。かつて、 レバノンの大統領が、「敵の参加する和平会談になんか出席できるものか」 と言ったそうです。このように、和平は解放戦争の名にそぐわない、従って 日本と中国の間に和平はありえない。 石井さんが「ふぉーらむ」で書いていた、「日本人はまともな戦争が出来な い」というのは、中華思想にも一因があります。中華思想は、対等な国家関 係を認めませんで、文明に上下関係を作ってしまいます(「恨の法廷」参照)。 中華を治める皇帝は、北狄、南蛮、東夷、西戎を征伐しその迷妄から救った。 中華たる日本も宜しく大東亜を帝国主義から解放すべきである…という方向 に進むのは時間の問題だった。 Time : 1998/12/22(火) 16:28:13
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(28)「称徳諡号」と「名」ゴミレス Comments: 輔住さん、安部さん、三枝さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 輔住さん・・・ >>ただ誰がいつ付けたにしろ初代の神武から付け始めたと思うのです。 >>それから歴代の天皇の諡号をつける。 >>諡号を付ける場合その天皇の実績を考慮すると思うし、それまでに名づけた >>諡号も参考にするでしょう。 >>そうして考えた場合、(「懿徳」「仁徳」はとりあえず置いておく) >>1.厩戸皇子に「聖徳」と諡号をつけた。(私はこれを「怨霊鎮魂」の一つ だと思う。天皇でないものに諡号を付けたのだから) >>2.そうしてその後にまた「*徳」という謚号をつけた彼らは「怨霊化」の 条件を備えてる。 >>3.祟りが噂され「顕徳」→「後鳥羽」と改名される。さらにその後「*徳」 と諡号された天皇はいない。 >>ここから考えるとだれが付けたにしろ「*徳」という諡号はいわくつきの名 >>前としか考えられない。 ・・・より具体的な見解をお示し頂き、ありがとうございます。 m(-_-)m これに関する私の疑問は、以下のとおりです。 1.”そうして考えた場合”「諡号選定」されたのは「逐次OR分割選定」で    はなく、「神武」〜「聖武?」の「一括選定」の可能性が高い・・・    とお考えになりませんか? 2.よって、その「諡法」の意味を考察するに当たって「X徳」四人のうち   半数を占める ”「懿徳」「仁徳」はとりあえず置いておく”のは無理   がある・・・とは言えませんか? 3.従って、その「一括選定」に於いては「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」   の「徳」が「同一諡法」による・・・とお考えにはなれませんか? 4.彼等四人の「X徳」が「同一諡法」によるならば、少なくともこの時点   での「徳」は原義の意味で理解することが出来る・・・   と思われませんか? 5.つまり、厩戸皇子に「聖徳」と至高の「諡号」を付けたのは、「書紀」   の「以玄聖之徳」或いは「神皇正統記」の「太子聖徳ましましかば、天   下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。・・御諱を聖徳となずけ   奉る。」等の原義を以て解釈できる・・・とは考えられないでしょうか? ところで、「称徳」についてですが・・・井沢さんは次のように記述されて います。 「彼女が生前に『宝字称徳孝謙皇帝』という称号で呼ばれていたという事実 である。・・・しかも『続日本紀』には、この生前の称号から諡をつけた、 と明記してある。・・・それは『徳』という字を含む諡号は『不孝な生涯を 送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があったからではないか」 これは本気で仰っているのでしょうか? この「尊号」は譲位後、僧綱の上 表により奉られたもので、よって死後新たに「漢風諡号」を奉らず、それを 「諡号」とした・・・とされているものです。従って、「尊号」と「諡号」 の間に本質的な差はありません。 井沢さんは・・・臣下が天皇に『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈 るものだ』とされる『徳』という字を含む「尊号」を奉った・・・と考えて おられるのでしょうか? 馬鹿馬鹿しいにも程があります。(>_<;) 逆に「称徳」には、その様な意味はない。原義の「徳」だと考えるのが健全 な理性的判断と言うものでは無いでしょうか? 私は、敢えて申し上げれば「文徳」以降は・・・井沢さんの「怨霊鎮魂」説 を以て解釈されるのも、一つの考え方かも知れないと思います。 これら四人の「X徳」とは、時代も諡号選定者も明らかに異なるのですから、 後世「鎮魂」の意味(=諡法)で『御無念な御生涯であられた』天皇に贈ら れたのかも知れません。 「崇徳」「安徳」「顕徳(後鳥羽)」「順徳」は前後の天皇諡号が単なる 「地名追号」であるのに比して、「美称諡号」であり、明らかに「諡法」が 異なりますが、これについては「特殊諡号」問題として古来色々論議されて きたものです。これに「文徳」を加えて見るのも結構です。 しかし、「懿徳」以下の四人の「X徳」の「諡号」については「諡号選定時 期」から見て、また「称徳」については「尊号」奉呈の経緯から見て・・・ この様な論理は適用し難いと考えているのです。 従って、繰り返しますが、井沢さんの以下のご意見・・・ A「・・その悪霊から善なる神に転化した人を、われわれの先祖は『聖』と 呼んだらしい。つまり、『聖』というのは、本来怨霊となるべき人が、善な る神に転化した状態を表現した文字だということだ。」     P197 *古代・中世において「聖体」「聖代」「聖慮」「聖駕」「聖顔」等の言葉 はごく一般的に天皇に関する「慣用語」として用いられていますね。 如何に「諡法」であっても、これら膨大な「聖」の用法を無視することは出 来ないと思いますが・・・・ B「古代において、はじめて大陸から『聖徳』ないしは『徳』という言葉が 伝わった時は、やはりこれはその通りの意味で、たとえば第四代の懿徳天皇 (実在には疑問があるが)とか第十六代の仁徳天皇は、この本来の意味で名 付けられたのであろう。・・・・」 *要するに「懿徳」「仁徳」に関する・・「X徳」原義論です。 C「しかし古代のある時期から、この『徳』という名は、むしろ『御無念な 御生涯であられた』天皇に贈られることになったのである。 ではいつからそうなったのか。 明らかに不幸な生涯を送ったにもかかわらず『孝徳』と呼ばれている天皇の 少し前に実在した『聖徳』と呼ばれている天皇クラスの人、それからだとし か考えようがないではないか。・・・」        P165〜P166 *要するに別時期選定・・・「聖徳」以降の「X徳」鎮魂論です。 D「まず第一に、私は神武・綏靖・・・仁徳あたりまで・・・・”超人的な” 天皇の諡号と、用明や推古のような・・・天皇の諡号とは、別の時期にそれ ぞれ別の人間によって選ばれたものだと考えている。 なぜなら、・・・これだけ諡法の手法が違うのは、別人が考えたのだと考え る他はない。」                   P276 *要するに循環論証ですが・・・「懿徳」「仁徳」と「聖徳」「孝徳」の 別時期選定の根拠です。 ・・・の成立する可能性は全くあり得ない・・・と申し上げているのですが、 要するに、この井沢さんのご意見に対しては如何お考えなのでしょうか? 安部さん・・・ >>聖徳太子というのは、「リチャード獅子心王」と同じような渾名である。 >>この渾名は、淡海の三船が漢風謚号をつけたときには普及していたと考え >>られる。 ・・・と言うことは、「懿徳」「仁徳」よりも「聖徳」渾名が先行していた。 と想定されているわけですが・・・その根拠は何でしょうか? (私も有り得るかもしれない、と思うのですが・・・根拠が見あたりません) さらに、その前提に立って・・・「淡海三船」の「神武」〜「聖武?」につ いての「一括諡号選定」説に立たれているのでしょうか? それならば・・・少なくとも上記A〜Dにある井沢さんの別時期・別人「諡 号選定」説は完全に否定されているのでしょうか?  さらに、もう一つ・・・ E「そこで、もう一つ言っておこう。私はそもそも、この漢風諡号が淡海三 船によって選ばれたことなど、有り得ないと考えている。・・・私は天智の 子孫である三船が、こんな曾祖父の名を恥ずかしめるような諡号を贈るはず がないと思っている。・・・日本の「天智」はその紂王になぞらえている。 ・・・紂王というのは、史上最悪の暴君であり、殺されるべき男であった。」                             P277〜P283 における「天智=悪逆紂王」諡号説も否定される訳でしょうか? (それ自体は大いに歓迎しますが・・・) しかし、「淡海三船」の選定ならば「神武」〜「聖武(或いは「称徳」?)」 の範囲にならないでしょうか? それならば「X徳諡号」対象は「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」「称徳?」 に限られますね? とても・・・ >>10人中8人も当てはまるのならば、残りの2人は何かの誤差と考えることが >>できる。 どころの話ではないでしょう?(4人中2人 OR 5人中2・3人?) 尤も20%を誤差と仰る神経にも驚きを禁じ得ませんが・・・ >>淡海三船は、「徳=怨霊」とすぐにはばれないように、仁徳と懿徳を混ぜ >>たのかもしれない。 >>なぜなら、孝徳や称徳を葬った勢力は未だ健在だからである。 「懿徳」「仁徳」の「怨霊スッキリ説」かと思えば今度は「カモフラージュ説」 ですか?・・・まあ、なにを唱えられるのも、ご自由ですが・・・ 「怨霊鎮魂」のために尊い「諡号」をつけたことが・・・誰にばれては不味 いのですか? 「孝徳や称徳を葬った勢力」とは「天智系天皇政権」ですか? 「藤原勢力」 ですか?  「天智系皇族」である「淡海三船」が何を憚って「ばれないよう に」配慮しているとお考えなのでしょうか? 世間?や後世?に「ばれないように」密かに「怨霊鎮魂」を図ったとでも仰る のでしょうか? >>天智は光仁で復活したので、その怨念は晴れたといえるため、徳の字はつ >>けられなかった。その代わりに、天智の怨念の犠牲になった天武・持統朝 >>の最後の天皇には徳の字がつけられた。 つけられなかった??・・・その代わりに??・・・つけられた。?? 一体何のことでしょうか?? 要するに、「淡海三船選定説」に立って、井沢さんのA〜Dの主張やEの 「天智=悪逆紂王」諡号説を否定されている。のは朧気ながら分かりますが、 (「天智」諡号は光仁即位以降の選定と想定しておられるのですね・・・) ・・・その他は仰っている意味が、全く理解できません。 三枝さん・・・ 身に余るお言葉・・・真冬に冷や汗タラタラです。(>_<;) 豚もオダテリャ木に登る・・・と言いますので、ことのついでに「名」につ いてのご質問に愚見を申し上げます。(^0^)” >>それにつけても、古事記や日本書紀に記載されている人々の名前というの >>は、その人たちが生存中につかわれていた名前なのでしょうか。 >>それとも、死後、気安く本名をお呼びするのをはばかってつけられた別の >>名前なのでしょうか。名前の意味を考えるには、そのあたりがどうなって >>いるのかが一番重要ではないだろうかと思うのですが。一般の学説では、 >>どう考えられているのでしょうか? これは、非常な難問ですね・・・「名前」「呼称」と言っても時代・身分・ 血統・年齢等によって様々でしょう・・・(>_<;) 通常史書に記述されるのは諱(忌み名)とされていますがが、この諱自体が @生前の実名 A貴人の実名 B死後の尊名(諡=贈り名) の色々な意味があるとされていますので、結局何だかよくわかりません。 名前という意味では・・・幼名・成人名・字名・渾名・賜名・法名・戒名・ 雅号・称号・尊号・愛称・蔑称・通称・父称・屋号・官職名・院号・諡号 (漢風諡号、国=和風諡号、廟号)etc.etc. 和風諡号にも・・・美称・追号・宮号等があり、臣下・高僧にも諡号があり ますので、正確には史書記述名がどれに当たるか、よくわかりません。 (「厩戸」にネストリウス派の影響による後世付会説があるように「聖徳」 も「諡号」というより一種の「法名」であるとする説もあったような気がし ます・・・安部さんの渾名説も? 些か疑問ですし、詳細は忘れました。) 例えば「天智」は漢風諡号、「天命開別」は和風諡号、「近江」は宮号或い は追号、「葛城」は幼名(実名に近い?)、「開別」は諱(成人実名?) 「中大兄」はある種の称号?或いは通称?・・・だろうと思われます。 通常はこの幼名(諱=実名に近いか?)が公式名として、表記されているの では無いかと思われます。(従って、皇子時代に人々が彼のことを話題にす る場合は・・・カツラギノミコ或いはナカノオオエノミコ(オウ)と呼んだ のでは無いでしょうか?) 要するに原始的社会では・・・「名」は「実体=人格」そのものとされ、そ れを呼ぶこと自体がタブーとされる事が多く(一種の「言霊信仰」です。) 貴人に対しては後世までタブーとされています。中国書籍では皇帝の名に使 われた「漢字」は同一王朝の間は使用しないというタブーがありますし、現 代の日本でも上司にたいしては、原則として名前を呼ばずに「職名」で呼び ますね。(^0^)” また、成人女性では男性に対して「実名」を明かすことは「男女関係」を許 す意味もあったと思われ・・・現在でも「誰々の娘さん」「誰々の奥さん・ 誰々ちゃんのお母さん」と呼び、他人が「実名」を呼ぶのには心理的抵抗が あるような気がします。 (女性に限らないかも知れませんが、男性よりも忌避され勝ちでは?) ただ、皇后・妃・嬪・中宮等については公式名が記録上必要となるため「光 明子」「定子」「彰子」等が明らかになっていますが、通常使用されたかど うかはよく分かりません。「清少納言=父の官職」「和泉式部」等の実名は 全く分かりませんね。 結局「分からない、分からない・・・」になってしまいました。 いわゆるゴミレスです。ゴメンナサイ <(_ _)>ペコ Time : 1998/12/22(火) 23:45:59
Name : 志田 糺 E-mail : mituda@total.co.jp Title : 視点の違い Comments: 皆さんの論争、楽しく拝見しています。 残念ながら、部外者が入るには相当の時間的な余裕が必要です。それでも、論争が繰り返されることで、 おぼろげながらも、それぞれの立場も理解できます。大きくは井沢ファンと反井沢チームとでも言いましょうか。 私は井沢さんの根底にある「過去の血塗られた歴史の責任は誰にあるのか」という問いかけに私も同様の 視点を持ちます。日本の歴史学者がそうした責任の一端を担い教科書問題から現在の政治責任に至るまでの 見解を明確に表示されることを期待します。井沢さんはその逆説を唱えており、挑発されています。一方で、 大胆な仮説はまだ完成していませんが、「万世一系」に対するあらたな見解が誕生するのではと期待します。 一方で歴史学者が継承されている資料至上主義にも必要なことと理解しますが、事実の積み重ねは時として 間違った方向に誘導されます。仮説は間違いも見つけやすいのですが、経験主義的法則ではなかなか間違いが 見つかりません。いわゆる「積分・微分」の発見が出来ないのです。仮説を作るためにはその根拠を徹底して 強化しておく必要があります。それが壊れれば、その仮説も壊れます。したがって、論争にはそのよってたつ 根拠を奪うことを前提とします。現在、科学的手法は後者に属しますが、一般的には経験主義が跋扈する時代と なりました。「原資兵器」、「化学兵器」に何故、科学者は知恵を貸すのでしょうか。私はこれは全ての科学者の 怠慢とみます。いわゆる「衒学主義」と「科学主義」の対立は永続的ですが、現状は「科学主義」も実証主義、経 験主義の範囲に止まり、かっての勢いはありません。私は科学の復権をいうものではありませんが、少なくとも 仮説と実証の論理展開を全ての人々に期待します。この、訓練を経ずして、歴史や社会の間違いを糺す能力は 失われます。マスコミを信じ、会社を信じ、社会を信じ、学問を信じて来たものが受けている成果は何だったので しょうか。「現在社会は異常である」ことを実証するためにこそ、必要な論争であって欲しいと思います。そのため に「逆説の日本史」は一石を投じたと思います。 KANAKさんの提示もよく分かります。全てに反論することは出来ませんが、以下の文章がその参考になればと 思います。以下は引用です。 井沢さん「1)彼女が生前に『宝字称徳孝謙皇帝』という称号で呼ばれていたという事実である。・・・2)しかも『続日本 紀』には、この生前の称号から諡をつけた、と明記してある。3)・・・それは『徳』という字を含む諡号は『不孝な生涯を 送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があったからではないか」 KANAKさん「これは本気で仰っているのでしょうか? 4)この「尊号」は譲位後、僧綱の上表により奉られたもので、 よって死後新たに「漢風諡号」を奉らず、それを「諡号」とした・・・とされているものです。従って、5)「尊号」と「諡号」 の間に本質的な差はありません。」 井沢さんに対するKANAKさんの反論の例ですが、これは反論でも何でもなく中傷に終わっているだけの文章です。 事の是非は別として、KANAKさんは1)、2)、3)のどれを否定されているのでしょうか。全部でしょうか。第3者には 全然わからない文章です。たとえ全部が嘘でも、嘘であることを知っている事が常識であっても、通常はこのようには 議論しないのではないでしょうか。それとも、井沢さんが4)、5)を知らずにいることの非難でしょうか。確かに4)、5) が常識であるかどうかも私はしりません。井沢さんもこれに触れられてはいるか否かはしりません。しかし、こうした 論争の前に、KANAKさんは、この常識を展開するか、または井沢さんにこの常識を展開するよう進めるかというの が、必要と思います。これが論争のルールではないでしょうか。いわゆる論点暈しに終わっています。論するための 論ではいくら知識があっても、時間があってもエンドレスに終わります。 Time : 1998/12/23(水) 12:13:43
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(29)「称徳諡号」ー続き Comments: 志田さん、今日は・・・KANAKです。 間違っていれば、お詫びいたしますが・・・「四拍手問題」「間人名称」等 でコメント頂いた方ですね。 その時にも申し上げたと思いますが、志田さんのご指摘はとても分かりにく く回答に窮します。今回も何を仰りたいのか良く分からないのですが・・・ 私なりに解釈してお答えいたします。 >>井沢さんに対するKANAKさんの反論の例ですが、これは反論でも何で >>もなく中傷に終わっているだけの文章です。事の是非は別として、KAN >>AKさんは1)、2)、3)のどれを否定されているのでしょうか。全部 >>でしょうか。第3者には全然わからない文章です。 1、2の部分を否定しているので無いことは・・・4で確認していることで ご理解頂けませんか? ただ、井沢さんが「称号で呼ばれていた」と記述されたのを、より正確に「 尊号として奉られた」と言い直しただけです。 つまり、5、)譲位・出家した天皇に「尊号」を奉ると言うことは・・死後 「諡号」を贈ることと本質的に同義である(従って、更めて「諡号」は選定 しなかった)ことを念のため申し上げたモノです。 従って、私が 「本気で仰っているのでしょうか?・・・馬鹿馬鹿しいにも程があります」 と指摘した部分は当然3、)の部分になるはずです。 これは、志田さんが何故か省略された・・・・以下の結語部分 >井沢さんは・・・臣下が天皇に『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈 >るものだ』とされる『徳』という字を含む「尊号」を奉った・・・と考えて >おられるのでしょうか?  >逆に「称徳」には、その様な意味はない。原義の「徳」だと考えるのが健全 >な理性的判断と言うものでは無いでしょうか? でも明らかではないでしょうか? つまり論点を整理しますと・・ 井沢説・・・・・ 1.高野天皇(孝謙・称徳)は生前「宝字称徳孝謙皇帝」と称していた。 2.死後は新たに「諡号」を選定せず、この「称号」から「称徳」を採った。 3.「宝字」「孝謙」ではなく「称徳」を採ったのは、『徳』という字を含   む諡号は『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という   常識があったからである。 KANAK批判・・・・ 1.高野天皇(孝謙・称徳)は生前「宝字称徳孝謙皇帝」の「尊号」を受けた。 2.死後は新たに「諡号」を選定せず、この「尊号」から「称徳」を採った。  (基本的には井沢説と変わりはありません) 3.この「尊号」奉呈は「諡号」贈呈と本質的に同義の意味を持つ。 4.仮に、『徳』という字を含む諡号は『不孝な生涯を送り無念の死を遂げ   た人に贈るものだ』という常識があった・・・とした場合 5.天皇生前に其の弥栄を言祝ぐ「尊号」にその様な不吉な意味をもつ『徳』   という字を含ませるだろうか? 6.その様な想定は、絶対に有り得ない(馬鹿馬鹿しいとしか言えない) 7.従って、4の主張は明らかな誤謬であり、むしろ「称徳」の「徳」は原   義を以て理解すべき根拠となりうるものである。 ・・・と言うことです。何か論理的に問題が有り、「反論でも何でもなく中 傷に終わっているだけの文章」でしょうか? 「四拍手問題」「間人名称問題」においても指摘させて頂きましたが・・・ 他人の意見について「結論だけが報告され」「真理を探究する学徒にあるまじ き姿勢」「見てきたような嘘を言い」「荒れている」「「虎の威」を借りる」 「奇(卑)法」「中傷に終わっているだけ」・・・等々の批判をされる前に その意見を充分咀嚼理解頂くことが肝要かと愚考いたします。 Time : 1998/12/23(水) 16:04:16
Name : 志田 糺 E-mail : mituda@total.co.jp Title : KANAKさんへ Comments: 今日は・・・KANAKさん 志田です。確か、「四拍手問題」「間人名称」を入れると今回は確かに3度目 です。 基本的には私の興味は皆様の議論にあります。率直にいって、議論は中傷を 含むべきものではないと思っています。勿論、批判は中傷ではありません ので、むしろ歓迎です。部外者からの設問ですので、理解し難いところあれ ば勘弁下さい。 今回は丁寧な説明を有り難うございます。 ただし、井沢さんとKANAKさんどちらに理があるのかを問われても、実際 にはその判定には相当の時間、労力を必要とすると思います。ただし、今回の 文章での対立点は明確なようです。 1)「譲位・出家した天皇に「尊号」を奉ると言うことは・・死後「諡号」を贈 ることと本質的に同義である」という主張は、素人目に同義とは見えないのです が。「いやそうだ」といわれても「調べてみる」としかいいようがないですね。 むしろ、こうした主張をどのように検証するべきなのでしょうか。ところで、 井沢さんはどんな主張でしょうか。 2)「これは、志田さんが何故か省略された・・・・」、私は全然省略しませんでし たが、それはそれとして、「井沢さんは・・・臣下が天皇に『不孝な生涯を送り無 念の死を遂げた人に贈るものだ』とされる『徳』という字を含む「尊号」を奉った ・・・と考えておられるのでしょうか?逆に「称徳」には、その様な意味はない。 原義の「徳」だと考えるのが健全な理性的判断と言うものでは無いでしょうか?」 ここでは、1)を前提とした論法ですが、3段論法の誤りです。この論法では、 1)への検証が終わらぬと、2)は主張出来ません。 3)井沢説−KANAK批判の論点で問題なのは井沢説3.とKANAK批判3. 以下ですか。3)が要です。ただし、3)を説得する論拠は今のところ提示され ていません。井沢説3.は引用では疑問型でしたが、(本を持ってこないと駄目 ですが)、何故かここでは確定型、井沢さんの本来の主張は1)の否定で3)の確 証を得たいのが本音ではないでしょうか。 4)天皇生前であっても譲位・出家とした場合はどうですか。尊号は意味通り尊号 でしょうか。「其の弥栄を言祝ぐ「尊号」にその様な不吉な意味をもつ『徳』 という字を含ませるだろうか?」についても相当の検証作業が必要となります。あ くまでも論理の問題ではありません。常識だとしたらすみません。 5)「その様な想定は、絶対に有り得ない(馬鹿馬鹿しいとしか言えない)」という ことによる、過去の過ちを考えてください。「絶対に有り得ない」ということなど 「絶対に有り得ない」ということが私の主張です。少なくとも、KANAKさんの 豊富な知識にも拘わらず、検証すべき命題を安易に前提とされるために、議論が 難しくなります。勿論、素人なりに証明問題は解けまますから。 6)「何か論理的に問題が有り、「反論でも何でもなく中傷に終わっているだけ の文章」でしょうか?」。私の主張は中傷的な言葉を慎むべきと言っております。 KANAKさんの論法では、井沢さんへの反論になっていないのではと今でも 思います。できれば、KANAKさんはその豊富な知識を「逆説の日本史」への 補足資料としてお使いになればともっと分かり易くなると理解するのですが。 7)こうしたメールでは言葉が過ぎることは、多々あります。FACE TO F ACEでは手が出そうなことも平気で言ってしまうこともありますが、新たな 文化を育む上でも、注意をしていきたいと思います。 Time : 1998/12/24(木) 11:44:55
Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 素朴な疑問2 Comments: KANAKさん、お久しぶりです。石井であります。 今回の「聖徳太子」論争はほとんど予備知識もないため、みなさんの 考え方、反論を見ているだけにしようと思っていましたが、 前回のあなたの「称徳諡号」に関して少し引っかかる部分がありましたので かかせていただきます。「引っかかる部分」というのは 5.天皇生前に其の弥栄を言祝ぐ「尊号」にその様な不吉な意味をもつ『徳』  という字を含ませるだろうか? の所なんですが、称徳天皇といえば「宝字称徳孝謙皇帝」の「尊号」を 受けた人ですよね。「天皇」ではなく「皇帝」です。 ここから称徳は自らを「皇帝」とする中国の思想に影響を受けていると 井沢先生は推測していますが、もしそうであるならば(他に説明が付かないと 思いますが)元々皇帝の称号である称徳の「徳」の字は 日本的な意味での「徳」ではなく 中国的な概念での「徳」、すなわち一般的な意味での(いい表現方法が 見つかりませんが、わかっていただけると思います。つまり「鎮魂」の意味が 含まれない、純粋な尊号と言うことです。) 「徳」の字の意味が込められているものだと考えられませんか? 以上、門外漢の「素朴な疑問」でした。 お答えいただければ幸いです。 Time : 1998/12/24(木) 11:57:07
Name : 輔住 E-mail : Title : 諡号問題の続き Comments: 諡号問題の続き KANAKさんご返信ありがとうございます。 前回の主張とダブる個所もありますが 一読ください。 >”「懿徳」「仁徳」はとりあえず置いておく”のは無理 >  がある・・・とは言えませんか なぜそうしたかについては深い意味はありません。 ただ「太子以前」は私のようなど素人では どんな人物だったかさっぱり分からないのです。 「史実」と「伝説」の区別もしにくいし...。 阿部さんのいっていたように彼らが「怨霊化」の 条件を備えている可能性があるかもしれません。 ただそれを判断するには材料がとぼしすぎるのが現状です。 >1.”そうして考えた場合”「諡号選定」されたのは「逐次OR分割選定」で >   はなく、「神武」〜「聖武?」の「一括選定」の可能性が高い・・・ >   とお考えになりませんか? 前回もお答えした通り「一括選定」については私は明確な答えを持っていません。 ただ「聖徳」太子が「*徳」の考え方に影響を与えたと思います。 (何度も繰り返しますが「聖徳」は特例なのです) 「一括選定」の区切りがどこであろうと「諡号」は前例として残ります。 後世に影響を与えないわけがありません。 >逆に「称徳」には、その様な意味はない。原義の「徳」だと考えるのが健全 >な理性的判断と言うものでは無いでしょうか? 少なくても中国的な「徳」のイメージではないでしょうね。 「称徳天皇」といえば「男狂い」の代名詞のようなイメージが 定着しています。「徳」があったと諡号を付ける人たちが判断したとは とても思えません。 Time : 1998/12/24(木) 14:29:23
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(30)「称徳諡号」ー追記 Comments: 石井さん、志田さん、輔住さん、今日は・・・KANAKです。 石井さん・・・ よくお考えになったと思いますね。(^0^)”・・・私には「皇帝」と「天皇」 の視点は考えつきませんでした。・・・つまりこう言うことでしょうか? 1.当時、日本には『徳』という字を含む天皇諡号は『不幸な生涯を送り無   念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があった。 2.しかし、高野天皇の譲位に際して奉られた「宝字称徳孝謙皇帝」という   「尊号」は「天皇」としてではなく「皇帝」としてのものである。 3.従って、1の常識に拘わらず「皇帝」本来の「徳」の原義による「尊号」   と考えるべきものである。 4.しかし、高野天皇の死後贈られた諡号「称徳」は「宝字称徳孝謙皇帝」   という「尊号」から採られたとはいえ、あくまでも「天皇諡号」である。 5.従って、3の「皇帝」にたいする原義の「徳」ではなく、1の『徳』と   いう字を含む天皇諡号は『不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈る   ものだ』という日本的常識によって選定されたと考えるべきである。 それでは、これについて考えて見ましょう。 石井さんは勿論「言霊」という概念をご存じですね? (言語に霊力が宿り、言語表現の内容が現実に実現すると信じたこと・・・) 例え「皇帝」としてであろうと、当時既に『徳』という字を含む天皇諡号は 『不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があった とすれば、「皇帝」であると同時に「太上天皇」である人間にワザワザその ような常識がある『徳』と言う文字を当てた「尊号」を奉るとお考えになれ ますか? これは「言霊」的解釈からすれば・・・まさしく「呪詛」ですね。 そして、高野天皇は偶然『不幸な生涯を送り無念の死を遂げ』たことにより 「宝字称徳孝謙皇帝」の一部である「称徳」と言う諡号を贈られた・・・と 仰るのでしょうか?  もしも、『幸せな人生を送り円満な死を遂げた』場合は、「宝字称徳孝謙」 の一部でない別の「諡号」を選定することになるのでしょうか? それでは、まるで「宝字称徳孝謙」は高野天皇の『不幸と無念』を予期して いる様なモノではないでしょうか? そのような無理がある「徳」を含んだ「尊号」をワザワザ選ぶ意味があった のでしょうか? 私は、そんなことは『絶対に有り得ない』と断言します。コレコソ石井さん の言われる常識(=健全な理性的判断)ではないでしょうか? (井沢さんは「・・なぜ順番通りに、最初の即位の時を『称徳天皇』とし、 最後の即位を『孝謙天皇』としなかったのか。年号と重なってしまうが「宝 字天皇」と呼ぶことも不可能ではあるまい。・・・」とおっしゃっています ね。しかし、年号と重なる「宝字天皇」は諸外国の笑い物になるでしょうか ら実質的に不可能なのです。(^0^)” お解りでしょう? そして『幸せな人生を送り円満な死を遂げた』場合は最初であれ、最後であ れ『不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があっ た・・・『称徳』号は使えないのでは無いでしょうか?) 志田さん・・・ 「続日本紀」分注に「出家して仏に帰依したため、漢風諡号は奉らず宝字2年 上申の「尊号」をもって「諡号」とした。」と記述されているのは、「尊号」 と「諡号」がその選定基準において、本質的に同義であることを意味すると 理解しています。 このこと自体は井沢さんも「・・しかも『続日本紀』には、この生前の称号 から諡をつけた、と明記してある。」と仰っているとおりです。 (この意味を巡る解釈は異なりますが・・・・) しかし、仮にこの「『尊号=諡号』推論」が石井さんの仰るように「皇帝」 対象と「天皇」対象と言う差異、その他によって疑問があるとしても・・・ 上記に更めて述べたように「天皇生前に其の弥栄を言祝ぐ「尊号」にその様 な不吉な意味をもつ『徳』という字を含ませるだろうか?」という疑問は当 然成立するのでは無いでしょうか? なお、「絶対に有り得ない」と言うことなど「絶対に有り得ない」・・・ と言うのは一つの見識であり、実は私もそう考えています。 私がこのHPのRESにおいて、この言葉を多用するのは、井沢さんが「逆説 の日本史」において「・・・はずがない。これを理解しない史学会はどうか している・・・」等という表現を多用されていますので、それを準用させて 頂いたものです。 従って、私の言う「絶対に有り得ない」」は90〜98%程度とご理解下さい。 輔住さん・・・ 四人の「X徳」諡号については、井沢説をもとに良く考えて見て下さい。 >>少なくても中国的な「徳」のイメージではないでしょうね。「称徳天皇」 >>といえば「男狂い」の代名詞のようなイメージが定着しています。「徳」 >>があったと諡号を付ける人たちが判断したとはとても思えません。 出来れば・・・「続日本紀」天平宝字二年上表文を御覧下さい。 (講談社学術文庫1031 「続日本紀」(中)全現代語訳 が便利です) 臣仲麻呂上表 「天はもの言わぬことを以て徳と・・」「まことに文武の徳を・・・」 「謙譲の明徳を・・・」「ここに天の徳を・・・」「そのすぐれた徳が・・」 「皇后の徳の・・・」「大地安定の徳化・・」「この徳に浴し・・・」 「盛んな御徳を・・・」「謹んで、古典により、あえて『尊号』を奉る」 僧綱上表 「妙なる功徳・・」「徳を表し功績を称え・・」「徳いよいよ厚く・・」 「感化を発揮し・・」「舜帝の・・・堯帝が・・・」「謹んで『尊号』を・」 ・・・要するに「上台宝字称徳孝謙皇帝」は、この様なゴマスリ「徳」のオン パレードの中で奉呈されたモノであり「諡号=称徳」はこの「尊号」から採ら れたモノなのですよ。 Time : 1998/12/24(木) 23:46:37
Name : 輔住 E-mail : Title : 諡号問題の続き2 Comments: KANAKさん返信ありがとうございます。 >・・・要するに「上台宝字称徳孝謙皇帝」は、この様なゴマスリ「徳」のオン >パレードの中で奉呈されたモノであり「諡号=称徳」はこの「尊号」から採ら >れたモノなのですよ。 ここに私が言いたいことが含まれています。 「称徳」はつまりお世辞で「徳」があるから使用しているわけではないのです。 これが日本で多く使われる使われかたなのです。 「徳」がない人にそのような言葉を諡号に使う場合 一種のお世辞であり、「徳があるんだから怨霊にならないでください。」 という意味だと思うのです。 Time : 1998/12/25(金) 12:21:23
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様の補足 Comments:  諡号に関してはあまりの知識不足のため、意見を控えていたのですが、 KANAK様があまりにも井沢先生の考え方に無理解なので、 一言輔住様の意見を補足する形で述べさせていただきます。 はっきりした記憶ではありませんが、「女性の土左衛門に対し、 「美女」と呼ぶのと同じ感覚である」と言われていたとおもいます。 つまり、「徳」はやはり誉め言葉なのです。 しかし、非業の死を遂げた徳のない死者に対しては、 それ以上の意味を持つのではないかという意見とおもいます。 批判されている論点が少しずれているようです。 Time : 1998/12/25(金) 15:57:24
Name : 輔住 E-mail : Title : 大阪JF生さんへ: Comments: 補足ありがとうございます。 ところであなたの知識もすごいものがありますよね。 感心しています。 Time : 1998/12/25(金) 17:41:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 輔住様へ Comments:  気になっていたのですが、勝手にご意見に便乗して 申し訳ありませんでした。この場を借りて、お詫びと 寛容な取扱いに対するお礼を述べさせていただきます。 それどころか身にあまるお褒めの言葉までいただき、 恐縮いたします。  小生自身は本当のところ全く浅学ですが、 まわりにすごい方々がおられるので、 「門前の小僧」として恩恵を受けています。 ちょっと学術的に注目すべき本があれば、 「**はもう読んだかい?」 と尻をたたかれたりします。 小生には到底追いつけない読書量ですが、 いろいろご意見を伺ったりできるので感謝しています。 Time : 1998/12/26(土) 10:24:56
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(31)「称徳諡号」ー追記U Comments: 大阪JF生さん、輔住さん、今日は・・・KANAKです。 大阪JF生さん・・・ >>KANAK様があまりにも井沢先生の考え方に無理解なので、・・・ >>はっきりした記憶ではありませんが、「女性の土左衛門に対し、「美女」と >>呼ぶのと同じ感覚である」と言われていたとおもいます。 >>つまり、「徳」はやはり誉め言葉なのです。しかし、非業の死を遂げた徳の >>ない死者に対しては、それ以上の意味を持つのではないかという意見とお >>もいます。批判されている論点が少しずれているようです。 おそらく、次の部分だと思いますが・・・ 「そして、日本人はこの「徳」という概念をむしろ怨霊鎮魂に使った。 この字が、「人間として最高の品位」を表す以上、その名で呼ばれた人間も その品位を持つということになる。『美人』と呼べば、その呼ばれた相手が、 『美』という性質を持つことになるのと同じだ。前にも述べたが、昔は女性 が水死すると、水死体が醜くふくれあがっていても、『美人』と呼んだ。 ・・・・そのことで、不幸な死を遂げた女性の霊をいくらかでも慰められる。 すなわち鎮魂できる。という考え方である。「ー徳」という諡を贈るという ことも、結局同じことではないか。」        P188 ・・・ですね。これに対し私は敢えて言えば、次のように申し上げているの です。 女性が「美人」と記されている場合・・・主として次の場合がある。 1.実際に「美人」であり(ると思われ)、本心からそう記されている場合。 2.実際には「美人」とは言え無いが、その人間がナルシシストであって、   取り巻き連中のゴマスリにより、「美人」と取り沙汰されたモノが、そ   のまま記されている場合。 3.実際に「美人」であろうと無かろうと、(多くは「美人」で無くとも)   慰め(=鎮魂)のためにそう記されている場合。 4.真相が、よく分からない・・・その他の場合。 そこで、「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」「称徳」「文徳」「崇徳」 「安徳」「顕徳(後鳥羽)」「順徳」について、この1〜4のどれに該当す るかを検証しようとしているのです。 (当然ながら3.とは限らないでしょう?)  井沢さんは・・・「懿徳」「仁徳」は1.でも良いと仰っていますね。 そして「聖徳」は1.でもあり3.でもある。「孝徳」以下は3.である。 つまり、「懿徳」「仁徳」と「聖徳」以下は記述姿勢(諡法)が異なる ・・・と主張されていますね。 私は「懿徳」「仁徳」「聖徳」「孝徳」については記述姿勢(諡法)を変え たとする根拠がない・・あるなら具体的にその根拠等を示されるべきである ・・・と申し上げているのです。 さらに、「称徳」については生前「尊号」に由来するものであるから・・・ むしろ、2.と理解せざるを得ないのでは無いか? と言うのが現在の論点 なのです。 併せて「崇徳」「安徳」「顕徳(後鳥羽)」「順徳」については所謂「特殊 諡号」として従来から議論されて来たものであり、3.の可能性が高い?? 「文徳」も或いはそうかも知れない・・・とも申し上げました。 無理解なのではなく、理解不能(賛同出来ない)から検証批判しているので すよ。(^0^)” 批判する論点の何処がズレているのでしょうか? 輔住さん・・・ >>「称徳」はつまりお世辞で「徳」があるから使用しているわけではないの >>です。これが日本で多く使われる使われかたなのです。 >>「徳」がない人にそのような言葉を諡号に使う場合一種のお世辞であり、 >>「徳があるんだから怨霊にならないでください。」という意味だと思うのです。 残念ながら・・・私には貴方を説得する能力はなさそうです。 今まで・・・如何なる状況での「お世辞」なのか? 「尊号」と「諡号」の間系 を如何に理解すべきか?・・・等について縷々申し上げたのが空しくなります。 でも勇気を奮い起こして・・・もう一度だけ・・・繰り返します。 >井沢さんは・・・臣下が天皇に『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈 >るものだ』とされる『徳』という字を含む「尊号」を奉った・・・と考えて >おられるのでしょうか? ・・・・・・・・ >逆に「称徳」には、その様な意味はない。原義の「徳」だと考えるのが健全 >な理性的判断と言うものでは無いでしょうか? >>少なくても中国的な「徳」のイメージではないでしょうね。「称徳天皇」 >>といえば「男狂い」の代名詞のようなイメージが定着しています。「徳」 >>があったと諡号を付ける人たちが判断したとはとても思えません。 >・・・要するに「上台宝字称徳孝謙皇帝」は、この様なゴマスリ「徳」のオン >パレードの中で奉呈されたモノであり「諡号=称徳」はこの「尊号」から採ら >れたモノなのですよ。 *勿論「徳」は原義によっています。 >>ここに私が言いたいことが含まれています。「称徳」はつまりお世辞で >>「徳」があるから使用しているわけではないのです。これが日本で多く >>使われる使われかたなのです。 >>「徳」がない人にそのような言葉を諡号に使う場合一種のお世辞であり、 >>「徳があるんだから怨霊にならないでください。」という意味だと思うの >>です。 いいですか?・・・「上台宝字称徳孝謙皇帝」は生前に奉られた「尊号」な のですよ・・・この「称徳」は生きている皇帝・太上天皇に贈られたゴマス リ「徳」なのです。しかも、この「徳」は上表文に示されたとおり、明らか に中国的(原義)「徳」なのです。 ・・・・貴方はこの点は認めるのですか?それとも認めないのですか? 認めるならば・・・少なくとも、ここに「怨霊」云々の入る余地など有り得 ないことも認められますね? (石井さんは、このことを認めつつ「皇帝」と「天皇」の「徳」は別義では 無いかと指摘されました。それなりに「論理性」があると思いますが・・・ 別途回答のとおり、無理があると思います。) そして、井沢さん自身が認めておられるように・・・この「上台宝字称徳孝 謙皇帝」の「尊号」から「称徳」「孝謙」諡号が採られたのです。従って直 接的には死者に対するゴマスリではないのですよ。 貴方は生きている人間に「称徳」を贈り「徳があるんだから怨霊にならない でください。」とお願いされますか? 生きている人間に「貴女は将来・・不幸で無念な死を遂げるかも知れません ・・でも『徳があるんだから怨霊にならないでください。』」と予めお願い されるのでしょうか? 「言霊」の観点からも有り得ない想定でしょう? (ブッ殺サレマスワ・・・) 仮に彼女が「宝字称徳孝謙皇帝」を「尊号」奉呈され12年後『幸せな人生を 送り円満な死を遂げた』場合は、どうなるのでしょうか? *怨霊にナリッコナイから「称徳」はヤーメタ・・「XX」「孝謙」にでも  シートコ・・・となるのですか? *怨霊にナリッコナイけど「尊号」にツケチャッタからスペシャルサービス  で「称徳」「孝謙」にシートコット・・・となるのですか? ・・・・でも、こんなことは既に石井さんにも申し上げたことですね。 その上で尚かつ・・・相も変わらず、 >>「称徳」はつまりお世辞で「徳」があるから使用しているわけではないの >>です。これが日本で多く使われる使われかたなのです。 >>「徳」がない人にそのような言葉を諡号に使う場合一種のお世辞であり、 >>「徳があるんだから怨霊にならないでください。」という意味だと思うのです。 ・・・と仰る訳でしょうか? それならば・・・ナニヲカイワンヤ。ご随意になさって下さい・・・と申し上 げるしかありませんね。 ところで・・・井沢さん、貴方は一体どの様にお考えになるのでしょうか? Time : 1998/12/26(土) 10:37:02
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  ご回答ありがとうございます。 言葉が足らなかったのかもしれませんが、美人といわれて拒否する人が あまりいないように、「徳」をつけられていやな人もいないということです。 したがいまして、 >例え「皇帝」としてであろうと、当時既に『徳』という字を含む天皇諡号は >『不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があった >とすれば、「皇帝」であると同時に「太上天皇」である人間にワザワザその >ような常識がある『徳』と言う文字を当てた「尊号」を奉るとお考えになれ >ますか? >これは「言霊」的解釈からすれば・・・まさしく「呪詛」ですね。 >・・・ >そのような無理がある「徳」を含んだ「尊号」をワザワザ選ぶ意味があった >のでしょうか? >私は、そんなことは『絶対に有り得ない』と断言します。コレコソ石井さん >の言われる常識(=健全な理性的判断)ではないでしょうか? のくだりは、あくまでも相手がいやがる場合に通じる論法です。 誉め言葉としての普通の語句では(巧妙に他意が含まれていても)嫌がる理由がありません。 >貴方は生きている人間に「称徳」を贈り「徳があるんだから怨霊にならない >でください。」とお願いされますか? >生きている人間に「貴女は将来・・不幸で無念な死を遂げるかも知れません >・・でも『徳があるんだから怨霊にならないでください。』」と予めお願い >されるのでしょうか? 「言霊」の観点からも有り得ない想定でしょう? >(ブッ殺サレマスワ・・・ あなたは、生きている人に「美人」といったら「わたしは土左衛門じゃない」と 殺人の危険があるほど抗議されるとお考えですか? 言った方がどういう意味を込めているかは、相手にわからないようにするのが普通です。 言霊の観点から見ても、十分あり得ることだとおもいます。  ここがずれていると指摘しただけで、貴方の検証方法に文句をつけていません。 ただ、「絶対ありえない」という言い回しは90パーセントであると注釈付きでも 止められた方が良いと思います。この言い回しを選ばれる理由は、 以前にも申し上げましたように単なる感情的なものだけでしょう。  井沢先生のおっしゃる「中日ドラゴンズの論理」のくだりで、 信長が「安土」の名称をなぜ採ったかの考察があったとおもいますが、 たとえ、以前からその名前があったとしても、貴方の言う3の否定には なっていないということです。  したがって、たとえ90パーセントでも「絶対」ではないのです。 Time : 1998/12/26(土) 11:43:29
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(32)「称徳諡号」ー追記V Comments: 大阪JF生さん、今日は・・・KANAKです。 早速のRESありがとうございます。(^0^)” ただ、もう少し私の発言内容を、ご理解頂いてからコメント願いたいのです が・・・(>_<;) >>言葉が足らなかったのかもしれませんが、美人といわれて拒否する人があ >>まりいないように、「徳」をつけられていやな人もいないということです。 ・・・・・・ >>のくだりは、あくまでも相手がいやがる場合に通じる論法です。誉め言葉 >>としての普通の語句では(巧妙に他意が含まれていても)嫌がる理由があ >>りません。 ・・・・・・ >>あなたは、生きている人に「美人」といったら「わたしは土左衛門じゃない」 >>と殺人の危険があるほど抗議されるとお考えですか? ・・・いいですか? 「美人」にはマズ負の意味はありませんね? 従って、「美人」は単純なほめ言葉であり、イヤがる人はいないでしょう。 「美人」→「土左衛門」の連想なんか土台アリッコナイんですからね。 しかし、井沢さんは・・・ 「・・・『徳』という字を含む諡号は『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人 に贈るものだ』という常識があったからではないか」     P146           ^^^^^^^^^^^^ ・・・と記述されているのですよ! つまりは・・・ 「X徳諡号」→「不孝な生涯・無念の死」の連想が、常識だと主張されている のです。 この井沢説を拒否されるならば・・・貴方のご意見は正しいでしょうね。 しかし、これを当時の常識とされるならば・・・この常識を同時代の高野天皇 や恵美押勝が知らないはずがないでしょう? つまりは「尊号」としても最大 限の不吉な言葉になるのでは無いでしょうか? 私は、その意味で・・・ >例え「皇帝」としてであろうと、当時既に『徳』という字を含む天皇諡号は >『不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ』という常識があった                             ^^^^^^^^^^^^^ >とすれば、「皇帝」であると同時に「太上天皇」である人間にワザワザその ^^^^^^^^^ >ような常識がある『徳』と言う文字を当てた「尊号」を奉るとお考えになれ >ますか? >これは「言霊」的解釈からすれば・・・まさしく「呪詛」ですね。 >貴方は生きている人間に「称徳」を贈り「徳があるんだから怨霊にならない >でください。」とお願いされますか? >生きている人間に「貴女は将来・・不幸で無念な死を遂げるかも知れません >・・でも『徳があるんだから怨霊にならないでください。』」と予めお願い >されるのでしょうか? 「言霊」の観点からも有り得ない想定でしょう? >(ブッ殺サレマスワ・・・・・・) ・・・と申し上げているわけです。 勿論、当時のあらゆる文書を見ても・・・井沢さんが主張されているような 「・・・『徳』という字を含む諡号は『不孝な生涯を送り無念の死を遂げた人 に贈るものだ』という常識」・・・などと言うモノは一切認められず、明らか にこれは牽強付会です。 貴方が・・・こんな「常識」は無い! と仰るならば大歓迎ですが(^0^)” そうでなければ・・・貴方のご意見は私の論旨を全く理解されていないこと になりませんか? Time : 1998/12/26(土) 18:31:54
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(33)「文徳」と「平城」諡号 Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 今回は「文徳」についてです・・・ 私は、「逆説の日本史2」(28)「称徳諡号」と「名」ゴミレス・・で >「崇徳」「安徳」「顕徳(後鳥羽)」「順徳」は前後の天皇諡号が単なる >「地名追号」であるのに比して、「美称諡号」であり、明らかに「諡法」が >異なりますが、これについては「特殊諡号」問題として古来色々論議されて >きたものです。これに「文徳」を加えて見るのも結構です。 ・・・と取り敢えず申し上げましたが、これについて考えて見ます。 (怨霊・平安時代・・・共に守備範囲外ですので、自信は有りません。 どうぞ存分に、ご批判下さい。(^0^)”) 井沢さんは「文徳」の怨霊要素として、以下のとおり記述されています。 「文徳天皇には寵愛する女性がいた。・・・惟喬親王が生まれた。この人は 第一皇子である。・・・太政大臣藤原良房が、・・・第二皇子惟仁親王を、 皇太子にしろと圧力をかけたからである。結局それは実現した。・・・ 自分の望む者に位を譲れなかったこと。死後、自分の嫌っていた「系統」に 権力を奪われてしまったこと。こう要約すれば、これは称徳と同じである。 しかも実はもう一つ共通点があるのだ。・・・文徳天皇は「急死」したので ある。・・・『不作為による殺人』である。文徳の場合も同じだったのでは ないか。」 しかし、その意味ならば・・・平城天皇(774〜824)は如何でしょう? 彼は・・・ 1.桓武天皇の子として、早良親王(皇太弟)廃立の後に立太子(783)。 2.皇太子時代・・・藤原薬子との不倫の恋、桓武の叱責。 3.33歳(806)で即位の後、伊予親王を毒殺、僅か三年で嵯峨天皇に譲位。 4.嵯峨天皇から実権を奪回すべく、挙兵するも失敗(810)落飾・薬子自殺。 5.実子、高岳親王廃立(810)・・・桓武天皇第三子、大伴親王立太子。 6.その後、淳和(大伴)ー仁明(嵯峨天皇の子)ー文徳(嵯峨天皇の孫)   ー清和(同曾孫)ー陽成(同玄孫)と、結果的に嵯峨天皇系が皇統を嗣   ぐことになる。 7.平城天皇系は、高岳親王(真如)客死、その他は在原氏として不遇をか   こつことになる。 まあ、死亡年齢・死因等も異なりますので・・・・良く分かりませんが、子 孫が皇統を嗣いだ「文徳」と、皇統を断たれた「平城」では怨霊要素がオッ ツカッツである様な気もします。・・・死因についても「文徳」は早世・急 死とは言え、異常死とは限りませんしね、 ・・・・みなさんは、如何お考えでしょうか? (「聖徳太子」心中論についても、ご批判下さい) Time : 1998/12/27(日) 12:46:42
Name : 輔住 E-mail : Title : 誉め言葉 Comments: KANAKさん返信ありがとうございます。 すでに大阪JF生さんが私の言いたかったことを 言ってくれましたのでもう何もないのですが、 「徳」というのは誉め言葉です。 だからこそ「怨霊対策」や「お世辞」などにも ^^ 使用されると思うのです。 言葉の意味や使い方は一つではありません。 Time : 1998/12/28(月) 11:13:00
Name : muka E-mail : Title : http://www.sensyu.ne.jp/muka Comments: *****ホームページオープンのお知らせ*****    mukaのホームページがオープンしました。 2ショットチャットや出会いの掲示板、売買情報お仕事 情報、選挙投票所などがあります、ぜひお越しください。 http://www.sensyu.ne.jp/muka                       muka ************************* Time : 1998/12/29(火) 17:36:49
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(34)来年もよろしくお願いします・・ Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 「逆説の日本史2」につきましては・・・いろいろとご指導頂き、ありがと うございました。 お陰で、思いがけない勉強の機会を与えて頂きました。 これからも、引き続き出来る限り様々な観点からの意見を掲載いたしたいと 存じますので・・・みなさんのご批判をお願いします。 なお、ご参考までに今までの掲載分を、以下のとおり掲示いたしますので、 何れの部分でも結構です。 お気づきになった問題については、何なりとご指摘下さい。 Title : 参加させて頂けますか? Time : 1998/11/13(金) 22:29:01 Title : 「逆説の日本史2」倭姫万葉歌等について Time : 1998/11/15(日) 00:20:37 Title : RE:「逆説の日本史2」四拍手問題に関して Time : 1998/11/16(月) 22:53:44 Title : 「逆説の日本史2」ご意見有り難うございます Time : 1998/11/18(水) 10:20:07 Title : 「逆説の日本史2」(2)NIFTY発言-A転載 Time : 1998/11/19(木) 09:37:26 Title : 「逆説の日本史2」(3)易姓革命問題等 Time : 1998/11/19(木) 10:03:23 Title : 「逆説の日本史2」(4)出雲大社と大仏殿 Time : 1998/11/20(金) 08:53:11 Title : 「逆説の日本史2」(5)易姓革命・出雲大社と大仏殿 追記 Time : 1998/11/20(金) 19:27:41 Title : 「逆説の日本史2」(6)四拍手問題 井沢さんへ Time : 1998/11/21(土) 13:55:31 Title : 「逆説の日本史2」(7)出雲大社と大仏殿 追加 Time : 1998/11/21(土) 21:35:41 Title : 「歴史フォーラム退会の挨拶」について Time : 1998/11/23(月) 17:49:27 Title : 「逆説の日本史2」(8)易姓革命について Time : 1998/11/23(月) 19:01:21 Title : 「逆説の日本史2」出雲大社(大阪城) Time : 1998/11/24(火) 11:00:45 Title : 「逆説の日本史2」(10)途中経過 Time : 1998/11/24(火) 13:48:47 Title : 「逆説の日本史2」(11)天皇宝算について Time : 1998/11/27(金) 00:15:16 Title : 「逆説の日本史2」(12)天智・天武非兄弟説 Time : 1998/11/27(金) 23:05:47 Title : 「逆説の日本史2」(13)逆説の曲筆論 Time : 1998/12/ 1(火) 00:29:26 Title : 「逆説の日本史2」(14)逆説の曲筆論ー続き Time : 1998/12/ 1(火) 23:13:24 Title : 「逆説の日本史2」(15)曲筆論その他 Time : 1998/12/ 2(水) 23:55:4 Title : 「逆説の日本史2」(16)曲筆と歴史認識 Time : 1998/12/ 3(木) 23:35:10 Title : 「逆説の日本史2」(17)天智・天武問題 FIN Time : 1998/12/ 5(土) 22:53:55 Title : 「逆説の日本史2」(18)間人皇后名称 Time : 1998/12/ 6(日) 12:04:02 Title : 「逆説の日本史2」(19)「史論」と「史談」? Time : 1998/12/ 9(水) 22:35:52 Title : 「逆説の日本史2」(20)「聖」「徳」について Time : 1998/12/11(金) 00:17:42 Title : 「逆説の日本史2」(21)「聖徳太子」の内柔(和)外硬(武) Time : 1998/12/12(土) 00:01:10 Title : 「逆説の日本史2」(22)「河上嬪と刀自古郎女」他 Time : 1998/12/12(土) 22:36:26 Title : 「逆説の日本史2」(23)「諡号制定期」と「徳」諡号・・他 Time : 1998/12/14(月) 22:57:28 Title : 「逆説の日本史2」(24) 取り敢えずです・・・ Time : 1998/12/16(水) 00:48:01 Title : 「逆説の日本史2」(25)「懿徳」「仁徳」諡号等について Time : 1998/12/17(木) 23:42:02 Title : 「逆説の日本史2」(26)「聖徳太子」心中説 Time : 1998/12/19(土) 12:57:36 Title : 「逆説の日本史2」(27)「聖徳太子」心中説ー続き Time : 1998/12/20(日) 12:21:33 Title : 「逆説の日本史2」(28)「称徳諡号」と「名」ゴミレス Time : 1998/12/22(火) 23:45:59 Title : 「逆説の日本史2」(29)「称徳諡号」ー続き Time : 1998/12/23(水) 16:04:16 Title : 「逆説の日本史2」(30)「称徳諡号」ー追記 Time : 1998/12/24(木) 23:46:37 Title : 「逆説の日本史2」(31)「称徳諡号」ー追記U Time : 1998/12/26(土) 10:37:02 Title : 「逆説の日本史2」(32)「称徳諡号」ー追記V Time : 1998/12/26(土) 18:31:54 Title : 「逆説の日本史2」(33)「文徳」と「平城」諡号 Time : 1998/12/27(日) 12:46:42 Time : 1998/12/31(木) 20:01:04