Name    : 横山 雅彦
E-mail  : 
Title   : 「逆説のニッポン歴史観」について
Comments: 
  SAPIOで「逆説のニッポン歴史観」が再開されていたので読み
ました。内容は朝日新聞他日本の新聞を批判するものでしたが
私からすれば新聞がどうのこうのというよりも、日本人にとって
「客観的事実」なんかどうでもいいのだろうと思います。歴史を
鏡(本当はもっと難しい字)とした中国人とも、神という絶対者を
常に意識した欧米人とも違い、「本当のことは言わない」「都合の
悪い過去は水に流す」のが日本人だと井沢先生は申しておりま
した。日本人にとっては事実よりその場の「空気」(山本七平)な
のだと思います。
  あと日本とユダヤを結び付けるのは「と(んでも)」ではないで
しょうか。


Time    : 1998/11/ 1(日) 23:16:56

Name :E-mail : Title : 忠臣蔵について Comments:  はじめまして、凛と申します。こちらの掲示板にはちょくちょく 来ていますが、書きこむのは初めてです。  こちらの掲示板で話題になったことがあるかどうかわからないのですが、 皆さんは井沢先生の「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」についてはどうお考えですか? 私はこの本を支持しています。が、歴史に詳しいとは言えない人間なので、 他の方のご意見も聞きたいと考えた次第です。 また、最近「天皇の四十七士」という本が出版されたようですが、読んだ方は いらっしゃいますか? Time : 1998/11/ 2(月) 06:52:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 坂本説を見て・・・ Comments: 大島様の10月29日付記事を拝見いたしました。 大島様には無理なお願いに対し、ご尽力いただきお礼申し上げます。  怨霊については、石井様の意見を先に伺うのが筋と思いますので、 今のところ、意見を控えておきます。 また梅原説についても小生は観ていませんし、梅原ファンも多いよう ですので、そちらの方もお任せいたします。  それで、坂本氏の説についてのみ意見を述べます。ただし直接には 梅原説の反論ということですが、取り上げられた文脈から 井沢説についての反論をかねていると解釈させていただきます。  井沢説では出雲問題について4拍手のみを根拠にしているわけではなく、 しめ縄の方向・本堂内の配置・「雲太・和二・京三」の伝承等、 常に「総合的な判断」を根拠に置いているというのは、以前から小生も 指摘し続けていることで、あまり強い反論にはなっていません。 また梅原説を「独断」と判断する根拠が不明です。 さらに、くだらないことですが、「4=死」より「偶数奇数」の区別を 古代人に求める方が奇異に感じるのですが。  このように総合的に観て、説得力にかけています。 このような論述を日本歴史学の権威であった方がなさっているとは、 がっかりいたします。それが、小生が定説に今一つ信頼が置けない理由の 一つになっているのです。  また、この方の説は井沢先生自身が何度か既に論破されていると存じます。 それをあえて採り上げるというのは・・・?  それとは対照的に、同じ東大資料編纂所の関係者でも山室恭子女史は 秀逸です。昨日 「黄門様と犬公方」文春新書 の後半部を読みましたが、軽妙な語り口で「儒学啓蒙主義者」としての 綱吉を見事に描いていました。恨みを抱いていた新井白石や拗ね者評論家の 戸田茂睡らの説によって通説になってしまった「虚像」をみごとにくつがえし、 確かに異常な数の「生類あわれみ」法令ながらも、処刑者は意外に少なく 対象も下級武士主体であったことなど、史料に基づいて考察しています。  光圀でさえ、若いころ命乞いをして嫌がる非人を無理矢理引きずり出し、 単に「試し切り」のために切って捨てたことを恥とも思わず人に話すような 時代だったのですから、綱吉が命の尊さを皆に教育しようと立ち上がったのも 無理はありません。実際、「生類」令は以後廃止はされたものの 精神は尊重せよとのお達しは残っており、実際に以後むやみな殺生は激減した ことを検証しています。 おふざけムードが好みの別れるところでしょうが、論理の確かさに基づく 強烈な説得力は、一読の価値があると存じます。  ついでになぜ後半部分しか読めなかったかというと、同時に文庫版の 「GEN」角川文庫 を手に入れたからで、井沢先生ファンとしてはこちらの方がさらに 面白かったからです。源氏物語の謎からWW2開戦に至る物語ですが、 恋愛小説としてはもの足りないものの、一気に引き込まれてしまいました。 実在の人物が生き生きと描かれているので、ついフィクションであることを 忘れてしまうほどでしたが、読者サービスで有名探偵が登場して、改めて フィクションだったのだと目が覚めるくらい「酔って」しまいました。 BBSの皆様、また面白い本があれば紹介してください。 Time : 1998/11/ 2(月) 10:43:08
Name : Angelix E-mail : deviling@mail.goo.ne.jp Title : 提案 Comments: 論争用掲示板と論戦禁止掲示板に分けようとか言う話があるよう ですが,現代社会・マスコミ論評掲示板と古代史という分け方も 設けると言うのは如何でしょう? 私はマスコミ論評・現代社会評論の方の fan なので,そうすれば 私の様な人間にも見所のある話が見られるかと思った次第です. Time : 1998/11/ 2(月) 19:03:40
Name : 石井一旭 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: ずいぶん前にKANAKさんからの反論があったようで、今まで気づきませんでした。お詫びさせていただきます。  さて反論といきたいのですが、 >さらに、「怨霊史観」では復辟政権が自分達への >「押さえのための敵対神」を丁重に祀る必要があるのでしょうか? ですけれどもこれは「先代王朝の祭神を引き継いで祭った」では いけませんか?天武王朝が「祭神」として祭っていた新羅明神を 「前代王朝の祭神」として祭ったのでは?  それから天智の諡問題ですが、「天智」という謚はやはり表向き・・・というより 見た目にはいい様に見えて実は悪い、そういった暗号のような性格の謚と考えられるため (そういう性質だったために森鴎外に解き明かされるまで 歴史の闇に埋もれていたのです。) 桓武はあえて詔を発して「寝た子を起こす」事を避けたのではないでしょうか。 しかしこれも、 >井沢さんがこのご意見をどの様に評価されるかが全く分かりません。 との事、まったくそのとおりです。 私の説・・・というほど偉そうなものではないですが・・・は確かに 井沢先生の「怨霊史観」にもとづいて「逆説の日本史」に書かれていない事を 私が反論のため「勝手に」調べたものですから、 当然井沢先生とまったく違う見解になってしまうのは当然と思っています。  つまりあれは「私なりの理解」であってそれはもちろん井沢先生とも ほかの皆さんとも違ったものでしょう。ここにいる皆さんも「おい、石井の意見は 暴走してるよ。」と思っておられたかもしれません。 しかし皆さんも了解してくださると思いますが、 それがだめというならどんな学者の説も自分のものとして使えなくなってしまいますよね。  私は先生の説にあくまで「私なりに」「基づいて」反論したつもりです。 KANAKさんはまさか「井沢先生の読者はみんな同じ歴史観を持っている」と 思っているわけではないでしょう。  素人の私はああいった理解をしましたが、それが職業として歴史に挑んでおられる 井沢先生と同じ見解、同じ意見、同じ背景を持つわけがありません。 そこの所は了解しておいでだと思っていたのですが・・・。  それから気になった所を一つ。 >>最もこれは発掘調査してみない限りわかりませんが。 >そうですね! 正にそのとおりなのです。是非井沢さんに、そう仰って下さい や、 >所詮「不明なモノは不明」であり、それを「断定」して「推論」を >組み立てるのはお止め下さい・・・と申し上げているのです。 これには同意できません。 私も発掘調査による「確実な証拠」があれば迷う事無くそれを正確な事実として 信じるでしょう。きっと井沢先生もほかの皆さんもそうだと思います。  しかし現実には発掘できない場所が天皇陵を始めとして多くある事はご存知ですよね?  まして日本の古代史は天皇家が権力者として統治していた以上、 天皇陵発掘によって恐らく明確にわかる事が大量にあるでしょう。  天智暗殺説にしても例えば大津京や山科の沓塚を大規模に発掘したらば その是非が明らかになるでしょうが、それができない以上推論に頼るしかないのでは?  「発掘できない」「知る事ができない」部分がある以上推測で歴史を 語ってはならない、というならば教科書はほとんど空白になりますよ。  それから井沢先生にどういう事を言えとおっしゃるのでしょう? 先生は「謎」の多い日本史に対して「井沢史観」を用いて挑んでいらっしゃる方です。  先生とて、「本当の真実」が何らかの手段で知れるならば その方がいいはずです。(また私の個人的な考えですがきっとそうだと思います)  ただその「真実」を知る方法が無い以上「推論」に頼るのは当然の事です。 先生に対して「発掘で白黒つけるために宮内庁に直訴しろ。」と言えとでもおっしゃるのですか?  KANAKさんはどうやらこれで私との議論を打ち切られるようですが、 最後に私の感想を述べさせていただくと、感情に走らず(よくいるんですよ、すぐ感情的になって暴走する人・・・俺の事か?) 冷静に資料を読みこなし議論を進めていくKANAKさんの姿勢には大変敬服いたし、また勉強にもなりました。  この場を借りてKANAKさんと転載という面倒な作業を引き受けてくださった 大島さんに感謝の意を申し上げます。   P・S  大蔵さんへ  私もみましたよ、「朝生」。松井さんは確かに凄かったですねえ。 何でもかんでも女性問題に結び付ける強引さが何とも(苦笑)。  なんだか最後のほうは(いつもの事だけど)尻すぼみになってしまって ちょっと残念でした。 Time : 1998/11/ 2(月) 21:06:40
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : ページの更新 Comments:  休日明けにも、ページの更新をいたします。井沢の病状報告、テレビ出演予定、新刊のお知らせ などを、NEWSに掲載します。G社のKさん、新刊紹介のコピーを待っています。他のデータはすべて HTMLで作成済みです。                        管理人 Time : 1998/11/ 3(火) 04:11:25
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 天皇陵を発掘しよう Comments: 日本国憲法では、皇室の財産は、国民の財産ということになっています。 ですから、天皇陵も、国会の了承さえあれば発掘できるのです。 但し、お墓ですから、皇室の方々が本当に嫌がっているのだとしたら、 無理矢理暴く権利は、我々国民にもないと思います。 天皇陵は、大きさから見る限り、当時の日本で最大の権力者の墓に間違いありません。 最大の権力者の生活が分からなくて、何が古代史かと思います。 はっきり言って、天皇陵の発掘なしの古代史なんて、意味は半減してしまいます。 おそらく、朝鮮半島の文物が、いっぱいある事でしょう。 今の天皇陛下はそうでもありませんが、 昭和天皇のお顔は、あれは日本の土百姓の顔ではありません。 あれは、朝鮮人です。 みなさん、意地を張っていらしゃいますが、日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 つまり、2000年前に、朝鮮半島から渡ってきた人たちです。 モンゴル、呉越、中原、から来たとしても、一度朝鮮に落ち着いてから、日本に来たのでしょう。 確か、九州大学の骨の研究の結果、 弥生人は、現在の朝鮮人に非常に近いと分かったはずです。 縄文人は、弥生人のもたらした結核でほぼ壊滅したのでしょう。 ですから、今の日本人の過半数は朝鮮人と先祖を同じくしており、 特に、皇族、貴族、武士(百済の亡命者)は、一番最後に日本に来た人たちでしょう。 ユダヤ人なんて、お話にもなりません。 皆さん素直にお隣の国との共通点を認めましょう。 Time : 1998/11/ 4(水) 11:12:03
Name : 非会員 E-mail : Title : 武士とは? Comments: >安部奈亮さん  天皇陵の発掘は、ぜひ実現してほしいと思います。 徳川将軍家や仙台伊達家の墓は学術調査されましたし、 決して無理ではないでしょう。皇室と宮内庁の「英断」が待たれるところです。  安部奈亮さんのおっしゃりたいことは、朝鮮人と日本人(特に支配者階級)の 先祖が同じであり、そのことをしっかりと認識しようということだと思います。 わたしも、その通りだと思います。しかし一点、気になりました。 >日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 とおっしゃっていますが、この武士は具体的にどの時代の武士ですか? わたしなりに、武士を三つに分けてみました。  *** @律令制下の武士、A源平〜応仁の乱、B戦国〜幕末まで *** 支配者階級としての武士はBの区分だと思います。(信長・秀吉・徳川幕府)  最後の方に >特に、皇族、貴族、武士(百済の亡命者) とありますが、Bの武士はすでに百済系とは言えないのではないでしょうか。 百済の亡命者というより、土百姓そのものだと思います。  細かいことですみません。 Time : 1998/11/ 4(水) 14:54:22
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様、非会員様へ Comments: 「兵」-->「武士」については、下級貴族(軍事貴族)の地方への土着化、そしてそれに 従った「駆使」(くし)や「従類」(じゅうるい)など、将門の乱や純友の乱の際の「兵」 の実態を考察なされるとよろしいのではないでしょうか。  また、「土百姓」の用語は、私営田領主=武装農民の意味でお使いになられているのかと 存じますが、その定義が違うように思います。一度、広辞苑で調べてみる労をおとり下さい。                            管理人 Time : 1998/11/ 4(水) 17:40:05
Name : 輔住 E-mail : Title : 私の好きな作品 Comments: わたしは井沢先生の小説だと 「元禄十五年の反逆」、「恨の法廷」、「隠された帝」、「降魔の帝王」が 好きですね (凛さんへ:私も井沢先生の説を支持します) みなさんはどれがお好きでしょうか? Time : 1998/11/ 4(水) 17:41:36
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様 Comments:  戦前、軍部の一部と右翼に、「日本人・ユダヤ人同祖説」を唱える動きが あったといいます。  旧・満州にユダヤ人国家を建設し、それをもってアメリカを親日に転じさ せる「河豚計画」なるものがあって、そのバックボーンに同祖説が援用され たというレポートを、古い雑誌で読んだことがあります。  かなり、怪しく、危ない類いのものですね。                        管理人 Time : 1998/11/ 4(水) 17:58:35
Name : 冨永豊嗣 E-mail : edq44289@saga−ed.go.jp Title : はじめまして! Comments: はじめてメールを出します。パソコンでメールを送ること自体初めてで、昨日送ったつもりが、 掲示板に掲載されていませんでしたので、改めてのお便りになります。さて、私は「オオカミ 少年の系譜」を数年前読んで以来の井沢先生のファンです。現在私は九州の一地方自治体のC ATVに勤務していますが、報道のあり方については、井沢先生の「オオカミ少年〜」がきっ かけとなって、稲垣武氏の著書等にも触れることで、大変勉強になり感謝しています(井沢先 生の唐津での講演にも足を運びました!)。 ところで、私のCATV局では、町(人口1万人ほどの規模ですが)の話題や行政情報を映像 で放送しているのですが、私の上司の原稿について困っています。すぐ主観を交えてしまうの です。実は私はアナウンスもやっていまして、そんな主観交じりの原稿を読まねばならぬこと が数多あります。やはり、稲垣武氏らの主張されているように、文責を明らかにすることはベ ストなのでしょうか? このBBSには 文章のうまいひとが大勢いらっしゃるようですので、どなたかアドバイスなり上司のコントロ ールの仕方(笑)なり、ご教示ください。 Time : 1998/11/ 5(木) 00:13:53
Name : 冨永豊嗣 E-mail : edq44289@saga-ed.go.jp Title : 改行しないでごめんなさい・・・ Comments: 申し訳ありません。改行の事をよく分かっていませんでした。 (アドレスの半角もですね、あはは・・・) どなたか初心者の私に、パソコンについてのアドバイスも あわせてご教示ください。 どうも、ご迷惑をおかけしました・・・ Time : 1998/11/ 5(木) 00:36:01
Name : 大蔵芳人 E-mail : zodiac12@mail.goo.ne.jp Title : 祝! Comments: アクセス件数一万突破、おめでとうございます! Time : 1998/11/ 5(木) 04:19:14
Name : 石井一旭 E-mail : Title : おめでとうございます! Comments: 10000アクセス突破ですか、おめでとうございます! Time : 1998/11/ 5(木) 11:38:59
Name : とて E-mail : totetin@geocities.co.jp Title : ど素人の推論 Comments: >日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 >縄文人は、弥生人のもたらした結核でほぼ壊滅したのでしょう。 「壊滅」はしてないでしょう。どっちかといったら、 土着の日本人と「同化」したのではないでしょうか。 今でも縄文顔、弥生顔って今でもあるでしょう。もっと混血してるでしょう。 >昭和天皇のお顔は、あれは日本の土百姓の顔ではありません。 >あれは、朝鮮人です。 というのは何か極端な感じがします。 「朝鮮人」といっても儒教化される前ですし。もっと混血してるでしょう。 かなり勉強不足なもんで、何か間違っていたらご指摘くだされ。 Time : 1998/11/ 5(木) 12:04:44
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 日猶同祖説 Comments: 「日本・ユダヤ同祖説」といえば、井沢先生の 「ダビデの星の暗号」が確か題材にしておられましたね。 私は先生の「龍之介」シリーズ(こんな呼び名でいいのかな?)が好きです。 芥川ファンなもので、颯爽と事件に挑む龍之介に大変魅力を感じます。 先生はもう芥川を主人公にした推理物はお書きになられないのでしょうか? 芥川の経歴などを考えるともうあまり小説に使えそうな「空白」はありませんけど、少々残念です。 Time : 1998/11/ 5(木) 16:23:35
Name : 大島重雄 E-mail : bxw02272nifty@ne.jp Title : 大阪JF生さんへ Comments: すみませんちょっと教えていただきたいのですが 先日の大阪JF生さんの 坂本説を見て・・・ に <<また、この方の説は井沢先生自身が何度か既に論破されていると存じます。 <<それをあえて採り上げるというのは・・・? とありますが、井沢さんのどの著書に書いてあるのでしょうか。井沢さんの ものは(特に歴史関係のものは)ほとんど読んでいるつもりなのですが全く 記憶にないもので よろしくお願いいたします。 Time : 1998/11/ 5(木) 20:24:28
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 10000件、突破 Comments:  カウンタを見ながら、あと7、80件で10000件に達するとわくわくし ていたら、一瞬のうちに突破しました。ありがとうございます。  サイト側からの知らせでは、ポップアップ機能により、他の投稿を参照しな がら自分の意見を書くことのできる掲示板プログラムが、ほぼ完成の段階だそ うです。デザインその他の調整が残されていますが、そう遅くならないうちに 導入できるでしょう。                       管理人 Time : 1998/11/ 5(木) 21:07:53
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 久しぶりの登場です Comments: 管理人様、わざわざ確認していただいてどうもありがとうございます。 ところで相手の方の意見はどのようなものだったのでしょうか。 また、例えばそのとおりだったとした場合、どうして廃れてしまったのでしょうか。 何か理由があると思うのですが。 安部奈亮様、10/13付けのレスどうもありがとうございました。 本当は、あのアドバイスを読んですぐに調べてそれから書こうと思っていたのですが、 ずるずると時間ばかり経ってしまったのでした。 食欲の秋とはよく言ったものですが、これから減量の晩秋へと向かわなくてはならない 自分が少し寂しいです。 ところで、もう一つ疑問点があるのですが。 これは日本史ではなくて、イタリア史の中とかヨーロッパ史の中で考えるものなのですが、 古代ローマ人が使用した言語、つまりラテン語と現代イタリア語の境は何がきっかけだった のかという疑問です。 確かに言葉というものは生き物のように変化をするものだとは思います。 しかし、同じ言葉であるならば同じ延長線上にあるはずです。 それならば、現代人にとっても完全ではなくともほとんど理解できると思えるのですが、 どうもそうではないようです。 例えばローマ帝国時代に民族大移動がありましたが、あれによって言葉のみならず 民族そのものが入れ替わってしまった、そんなことがあるのでしょうか。 詳しい方がいたらよろしくお願いします。 Time : 1998/11/ 5(木) 22:06:42
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 朝鮮人と日本人 Comments: こんなに反響があるとは思っていませんでした。 ありがとうございます。 私は、最近「日韓民族の原形」(金容雲)という本を読みまして、 それで、日本人と朝鮮人は、古今東西希にみるほど似た民族だと実感しました。 しかし、金容雲氏は、両者が持っていた文化(語彙、生活習慣、統治精度など) は同じだったが、両者には、決定的な原形(性格)の違いがあるといっていました。 おそらく、縄文文化や風土に依る違いだろうといっていました。 それに、古代の日本語と朝鮮語の語彙が同じだからといっても そのまま朝鮮語としては読めないようで、やはり日本語は日本語のようです。 両国の学者が意地を解いて研究が進んでくれることを期待します。 結核の件は、誇張し過ぎました。でも、インディオに起こったようなことはあったらしいです。 集英社の日本史第2巻に書かれていましたが、 弥生時代の日本への移住者の数は相当なもので、 西日本では、弥生人と縄文人が入れ替わりつつ人口は倍増したそうです。 縄文人も、相当進んだ生活をしていて、農耕や身分もあったのは確実のようです。 という事は、スムーズに両者が接触できたらいいですが (北関東では、同じ竪穴式住居から、縄文土器と弥生式土器が同時に発掘されています) 平和的に行かなかった場合、かなり激しい戦いになったと思います。 私は、倭国大乱と壬申の乱があまりに悲惨だった為に、「和」や「怨霊信仰」が生まれたのだと思っています。 特に、壬申の乱は、スペイン内乱のように親子が別れて闘ったのではないでしょうか。 私は、藤原氏の無理が奈良時代に通用したのは、 もうあのような戦争はまっぴらだから、少々の横暴は目をつぶろうと他の氏族が思ったからではないかとも思います。 ヨーロッパの民族大移動は、 ローマの末期には、重税に依ってローマ人は疲弊して ゲルマン人が傭兵や労働力として既に入ってきていて、 先住者が、大移動を迎え入れたという面もあります。 しかし、おっしゃるように、民族が完全に入れ替わるようなことはなく、 ゲルマン人は、多いところでもローマ人の10分の1しかいなかったそうです。 そして、ローマ人と共存できなかった連中(ヴァンダル族やゴート族)は、歴史から消えてしまいました。 私は、先日宇佐八幡宮に行ってきましたが、違和感がありました、 修理したてのせいもありますが、色彩は原色で 音楽は、盆踊りを東南アジアか朝鮮の音階とリズムで演奏するような感じでした。 やはり、日本には、色々な文化や民族が入ってきているのだと実感しました。 武士が朝鮮人だというのは、 百済滅亡時に20万ちかく(総人口600万の時代)の亡命者が日本にやってきて、そのほとんどはは関東に入植しました。 武士団は、頭領は貴族の子弟ですが、郎党は百済人の末裔なのです。 武士団というのは、高度な技術を持った農業集団でもあり、 鎌倉武士団の全国進駐に依り、日本全国で開墾ラッシュが12世紀に起こったくらいです。(集英社の日本史第7巻) 私は、その理由は、彼らが渡来人で、高度な技術を持っていたからだと思っています。 そして、私の故郷の茨城弁のイントネーションは何となく朝鮮語のイントネーションに似ている気がします。 Time : 1998/11/ 6(金) 12:53:06
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 大島様へ Comments: 昨日の記事で質問をいただいた件ですが、 逆説の日本史の中に、説というほどのものではありませんが、 何個所か坂本氏の考え方を批判した個所があります。 天智天皇編にもありましたので、あえて特定しなかったのですが、 どうもおおざっぱな話ですみません。 内容は、「日本書記は後世のどんな史料より正しいのが常識」 というようなことだったと思います。根拠はやはりありません。 (今手元にないので、記憶に頼っていますが、 間違っていないと思います) 小生は、史料偏重派の代表者として何度か井沢先生が 批判されていたので、記憶に残っていました。 ただ、坂本氏は故人なので、前回の小生の批判は非常に甘いものに なっていて、本当は、もっと4拍手否定を直接批判すべきだったと思いますが、 焦点のぼけた記事になってしまっています。 その点ご了解お願いします。(言い訳にすぎません。) Time : 1998/11/ 6(金) 13:04:41
Name : K E-mail : Title : 天皇は朝鮮人? Comments: 初めて書き込みますKです。よろしくお願いします。 さて、最近天皇家は朝鮮からきたとか言う議論がよくありますが、 あれは何の根拠があってそんな事を言っているのでしょう。 何か文献でもあるのでしょうか、私にはとても信じがたいのですが。 なぜかというと、当時の朝鮮に日本を征服できたほどの強力な王権があったとは、 到底おもえないからです。少なくとも私が日本書紀、三国史記そして、魏志倭人 伝や宋書倭国伝、隋書倭国伝を読んだ限りでは、そんな日本を征服した王権の記述 はまったくなかったし、逆に大和朝廷が朝鮮に進攻したという記述はいくらでもあ りました。最近こういった古い時代の史書の記述を軽んじる風潮が強いですが、 それでいいのだろうかと思います。 また逆説の日本史に、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、天武天皇は朝鮮人だと いう記述があったと思いますが、私にはまったく信じられません。天武天皇が、 もし天皇の子ではなく、そのようなどこの馬の骨とも分からぬ人物の子なら、 そのような人物が皇子に反乱を起こしたとき、誰がついていくでしょうか。 また天武紀の記述は、私はまったく不自然には感じませんでした。 Time : 1998/11/ 6(金) 21:30:48
Name : 横山 雅彦 E-mail : Title : 日ユ同祖説ほか Comments: 管理人さんが日ユ同祖説について書いておられました。私はそれ について、と(んでも)だと切り捨てていましたが、管理人さんの 文章を読んで考えを変えました。日ユ同祖説がどのようにして 生まれ、どのような影響を及ぼしたかはきちんと研究する必要が あると思います。山本七平氏は「聖書の常識」のなかで、孤立し た両民族の共感以上のものではないと書いていましたが、本当 にそれだけでしょうか。井沢先生の意見も聞いてみたいと思い ます。 それからK氏にですが、「逆説の日本史」に天武天皇が朝鮮人 だと書いてあったとありますが、それは母親が皇族、父親が朝 鮮人の間違いです。ですから馬の骨でもありません。「逆説の 日本史」でご確認ください。それと天武紀の記述に不自然を感じ なかったとおっしゃってますが、でしたら井沢先生の指摘に対し て回答してください。 Time : 1998/11/ 7(土) 13:14:02
Name :E-mail : Title : 横山氏へ Comments: 逆説の日本史で天武天皇の母親は皇族と書いてあるのは知っています。 しかし父親が朝鮮人なら、皇族とはいえないでしょう。 私が疑問なのは、血統が重んじられる古代社会で、皇族でもないものが 皇子に反乱を起こして、皇位につくなんて可能だったのかということです。 あと、井沢氏の指摘に対してですが、確かに天武紀に天武天皇の年齢は書いて ないですが、日本書紀で年齢が書いてない天皇はほかにもいますし、 ほかの書物に書かれた天武天皇の年齢だと、天智天皇と兄弟ではありえない という指摘も、その書物にも、天智天皇と天武天皇は兄弟だと書いてある と学者が指摘している本を読んだことがあります。名前は忘れましたが。 ですから私は、天智天皇と天武天皇は兄弟ではないという主張を 信じることができないのです。 Time : 1998/11/ 7(土) 16:25:17
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : しつもんです Comments: はじめまして。宇津木と申します。仁徳天皇陵のすぐそばで暮らしています。 博学の方々の侃侃諤諤の議論を読んでいると圧倒されてしまいました。 歴史はまったくの門外漢でしたが、井沢さんの逆説の日本史を読んで、少し興味を持ち始めた ところです。ただそんなわけで、無知のゆえ、とんちんかんなことを書いてしまいそうですが お許し下さい。 で、いくつかお尋ねしたいことがあるのですが、 <逆説の日本史で天武天皇の母親は皇族と書いてあるのは知っています。しかし父<親が朝鮮 人なら、皇族とはいえないでしょう。 とKさんはおっしゃってますが、いけないものなのでしょうか? 当時、中華地域の末端に位置する朝鮮半島は、日本よりはるかに文明の発達した先進国だった と思いますし、そうなると、母親が皇族で父親が先進国出身ならむしろ、支持も得やすいよう に思うのですが。現在の感覚ならKさんのおっしゃるとおりかと思いますが、当時の日本と朝 鮮半島の関係からすると、あまり不自然ではないように思います。この点Kさんはどう思われ ますか? あと <やはり、桓武天皇は早良親王が死ぬ前から怨霊信仰を持っていたと考える方が無 <理がありません。怨霊信仰が、日本人の行動を規制する第一要因となったのは確 <かに平安時代からだったかもしれません。 <奈良時代や、飛鳥時代の人たちは、かなり合理的な考えをしていますからね。特 <に、国際感覚は、現代の日本人なんか比べ物にならないほど優れていました。 <でも、たとえ第一要因でなくとも上代の人たちも怨霊信仰は必ず持っていたで <しょう。 という安部さんのご指摘ですが、 <奈良時代や、飛鳥時代の人たちは、かなり合理的な考えをしていますからね。 この点について論じられている書物で、素人でも読めそうなものがありましたらぜひ教えてく ださい。私には、どうして奈良・飛鳥時代だと合理的な思考になるのかいまいちよくわからな いのです(これも中華思想の影響なのでしょうか?)。 以上、あまりにも低レヴェルな質問で恐縮ですが、お答えいただければ幸いです。 Time : 1998/11/ 8(日) 12:21:40
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : すみません Comments: 引用と改行ってどうすればよいのですか。自動改行て何ですか。 ともかく変な引用になってしまい申し訳ありませんでした。 Time : 1998/11/ 8(日) 12:24:01
Name : 大島重雄 E-mail : bxw02272@nifty.ne.jp Title : Kさんへ Comments: 初めまして大島重雄と申します。 この問題に関しては以前ニフティーの日本史フォーラムで論争になり結局井沢説 支持派の私は、その反対論を論破できずこの掲示板にその論争の一部始終をUP させていただいております。ここの所ちょっと論争が停滞していたところなので 反対意見でも参加していただけるとうれしいと思います。 詳しくはこの掲示板にUPしてあります。より詳しい論争の経緯を知りたいときは ニフティーに接続できるなら日本史フォーラムの2番会議室にて壬申の乱について 教えて下さいというコメントツリーができているのでよろしければご覧下さい ではまた Time : 1998/11/ 8(日) 12:54:40
Name : K E-mail : Title : お答えと感謝 Comments: まず大島さんには感謝申し上げます。私残念ながらニフティには接続できませんが、 論争は興味深く読ませていただきました。 あと宇津木さんのご質問ですが、確かに古代の朝鮮は、我が国より先進国だった でしょう。しかしだからといって父親が朝鮮人の人物が天皇になることが 支持されるとは思いません。それは外国人または帰化人が天皇になるということ です。当時の我が国には帰化人が多くいたことは確かですが、朝廷で高い地位に 就いていた人はいないと思います。やはり当時、帰化人は身分的に差別されていた のではないでしょうか。ですからそういった出自の人物が天皇になったという考え は、私は支持できないのです。 それにしてもここに投稿されている方々は、私よりはるかに歴史の知識があります ね。 Time : 1998/11/ 8(日) 19:29:16
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 宇津木 様 Comments:  他の方の投稿を引用するときは、該当箇所をコピーして、記入欄にペースト してください。行頭に「>」など、引用が分かるように記号を入れたほうがベ ターですが、何らかのエディタを用いないと大変かもしれません。  改行は、申し訳ありませんが、適当(1行=39文字)なところでリターン キーを押して、行を変えてください。                      管理人 Time : 1998/11/ 8(日) 21:41:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 天武朝鮮系の議論への感想 Comments:  再び、天武・天智論争が盛り上がっているようですね。 以前は、いろいろシビアな議論をしてきて、 K様のご意見を伺うとまたぞろ同じ事の繰り返しになりそうなので、 少々食傷気味なこともあって、いまのところ感想程度の意見に とどめておきたいと思います。  小生は大阪の下町育ちで、まわりに韓国の方も多く、友人も多くいます。 学校に通っていた当時は日本姓を名乗っていた人がほとんどだったので、 自ら告白しない限り韓国・朝鮮人であることはわからない人も 多くいました。個人的な感想ですが、彼らの中には喧嘩がすごく強かったり、 おそろしく勉強ができたりする人が少なからずいました。 ただ、やはり差別感情は日本人側にかなり残ってはいたようです。 それでも彼らの中の優秀な人物が何らかの長になっても 何の不思議もありませんでしたし、実際学校ではリーダーシップを 取っていた優秀な人材がたくさんいました。 そんな感覚からすれば、総理大臣であろうが天皇であろうが、 朝鮮人だといっても小生には何の違和感もありません。  ましてや議論になっている時代は、差別感情どころか朝鮮は兄貴分と いえるぐらいの関係ではなかったでしょうか? 日本人のアイデンティティがどれほと確立していたかも疑わしいように思います。 文化のみでなく人的交流も多かったはずですし、日本人は今よりも国際感覚が 優れていたコスモポリタンだったかもしれません。  天智の皇位継承でも百済支援でも多くの血を流した強引なやり口に辟易し、 たとえ血統は正当でなくても大海人が人望を集めた可能性は考えられないでしょうか? 少なくとも栗隈王などはそうだったのでしょうし、実際多くの支持を得たはずです。 また武力の面でも相当優れていたでしょう。  正当な継承者も数少なくなり、もうこれ以上身内の血を流したくない という意味で天皇として認めたとしても不思議はないように思います。  もちろんこの意見は積極的に天武朝鮮系説を論証しているものではありません。 あくまでも感想ですが、こう捉えたときに奉幣の儀・泉涌寺における「正統」後継者たちの 天武系があたかも正統ではないような差別的扱いは小生には納得のいくものです。 もう少し柔軟に捉えてもいいのではないでしょうか?  ところで、「記紀」史学への挑戦状 現代思潮社刊 を読みました。小林女史は東アジア的観点から大胆な説を唱えていることが 良く分かりました。ついでながら、坂本氏からの「神皇正統記に天武の年齢が上と 書いてある」という指摘を受けて調べたところ、なんと同年齢(双子?)であると かいてあったと女史は述べておられました(小生は見ていないので真偽は不明です)。 興味ある内容がたくさんありましたが、残念ながら紹介しきれません。 それにしても女史がおっとりとした感じの美人であったのは意外(すみません)でした。 あまりシビアなやり取りはありませんでしたが、気楽に対談しているぶん お二人の本音の部分が少し見えたような気がしました。 Time : 1998/11/ 9(月) 11:36:50
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 天皇年代考 Comments: 完全に史実と言える継体以降の平均在位年数を算出します。 継体〜推古15.25年、じょめい〜天智(皇極と斎明はそれぞれ1人とする)8.6年、天武〜元明10.5年、 元正〜光仁11.0年(考謙と称徳はそれぞれ1人とする)、 推古〜光仁では11.3年 古代天皇の在位年数は平均11年と言えます。 履中〜武烈は平均11.9年なので、履中までの在位年と即位年は史実としてよいとします。 これが、仁徳以前にも当てはまるとします。 仁徳以前は非現実的な在位年数ですが、各王朝(神武〜開花平均62.6年、崇拝神〜仲哀しい平均73.4年、応神〜仁徳平均65年) 内での割合をそれぞれ反映していると見て、即位年を算出すると以下のようになります。 神武dc224、ねいせい238、安寧244、い徳250、考昭256、考安271、考霊289、考元302、開化312 崇神323、垂直仁333、景行348、成務357、仲哀366 応神378、仁徳385 (ほぼ6分の1になっています) 以上の結果から、次のように歴史を再現してみました。 2世紀…ニニギ、ヒコホホデミノ命、ウガヤフキアエズノ命は、大隅と薩摩の隼人の酋長であった。(墳墓がその地にある) 200〜220…神武が高千穂(都城盆地)を征服、クナ国建国。 3世紀前半…ヒミコ(アマテラスA)を擁する北九州のヤマタイ国はイズモを征服(国譲り神話) 239…ヒミコ朝貢 250頃…皆既日食とクナ国侵入によりヒミコ死亡(天岩戸)イヨ(アマテラスB)ヤマタイ国女王となる。 266…イヨ朝貢 230〜280・・・クナ国とキビが同盟してヤマタイ国侵略(神武〜考安) 280頃・・・クナ国九州征服、キビはイズモ征服。クナ国王ヤマタイ国王位に就く。以後ヤマトと呼ぶ(便宜上) 280〜300ヤマトがキビを征服(吉備津彦神話)、吉備高嶋宮遷都。 300〜320・・・開化、崇神が幾内を領する大和盆地の葛城王朝を侵略。 320頃・・崇神、幾内征服、磯城遷都。葛城王朝の残存勢力は葛城氏になる。 350頃・・景行、東国を征服(日本武尊神話) 380頃・・・河内の弁韓系渡来人勢力応神により磯城王朝滅亡。 5世紀前半・・・河内王朝南朝に朝貢、朝鮮半島侵略。 450頃・・・允恭の皇子達、王位継承争い。 480頃・・允恭系、外征と王位継承争いによって疲弊。大和盆地の履中系に王位が移る。 5世紀末・・・反履中系(葛城氏、物部氏、大伴氏)コシのオオド王招聘。大和盆地で内戦。 507年・・・継体天皇即位。 天皇の在位年数を11年とする ヒミコとイヨをアマテラスA、Bとする 高千穂を都城盆地とする の3点の典拠は失念してしまいましたが、見つかり次第伝えます。 それ以外は、私の独創です。 こう考えると、記紀のいっていることは、かなり史実に近いと言えるのではないでしょうか。 Time : 1998/11/ 9(月) 11:57:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正と追補 Comments: 時間がなかったのと、興奮していたため、紅顔ものの誤字だらけになってしまいました。 「考」はもちろん「孝」ですし、訳の分からない送り仮名は、あまりコンピューターの辞書がよくないので、 苦労した跡だと思って下さい。 吉備とヤマトの関係は、吉備の豪族が大和朝廷でそれなりの勢力を持っていたことから、 両者は過去に同盟関係にあったと考えました。 造山古墳と作山古墳は、天皇陵かもしれません。 しかし、吉備の豪族は、冷遇されているので、ある時期からヤマトの属国になったと考えられます。 吉備は、九州と畿内の中継貿易と鉄器と米によって繁栄したと思われます。 国譲り神話では、天孫は登場しないので無関係と考えました。 ニニギ、ヒコホ、ウガヤに関する神話は牧歌的なので大勢力ではなかったと考えられます。 神武から、国の王となったのでしょう。 神武の九州での行動を見ますと、日向から北上しています。 これは、北九州征服と考えられます。 ここでヤマタイ国九州説をとって、神武をクナ国王とします。 この戦いはクナ国の勝利に終わり、クナ国はヤマタイ国を継承する形で九州を統一したと考えます。 イヨの朝貢は、晋に救援を求めたものだったのかもしれません。 神武や崇神や応神に功績がまとめられているところはありますが、 それ以外は記紀神話はかなり史実を述べているのではないでしょうか。 それと、日本書紀の天皇の在位年数は、仁徳以前は、実際のほぼ6倍になっていると思われます。 これは、日本の起源を紀元前660年に持ってきたかった聖徳太子が行った操作だと思います。(「聖徳太子」梅原猛。参照) いくら操作するといってもそれなりの根拠が必要だと思います。 史実の整数倍が1番簡単でしょう。 この計算法の最大の根拠は、 推古ー光仁で出た平均11年が、半神話的な履中ー武烈にぴったり当てはまったことにあります。 それ以前の在位年数は以下のように求めました。 (その天皇の日本書紀上の在位年数/その王朝の日本書紀上の平均在位年数)*11 ここで、アマテラスと神武の時代が前後しますが、クナ国がヤマタイ国の後継者と称し、 河内王朝がクナ国の後継者と称し、 継体が河内王朝の後継者と称したために起きたことだと考えられます。 葛城氏が河内王朝の中で隠然たる力を持っていますが、 それは、葛城氏が王朝に次ぐ力を持っているためと考えられます。 おそらく、ヤマトと手を結んだ、葛城王朝の傍系王族だったと考えられます。 ヤマトの畿内征服が彼らの裏切りで成功した手前、遠慮せざるをえなかったのでしょう。 Time : 1998/11/ 9(月) 15:55:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 日本書記への感想 Comments: あまり根拠がたしかではないので、感想にしておきますが、 信頼性について、一言意見をさせていただきます。 安部様のような力強い説とは違って、歴史的知識が乏しいので こうなってしまうのですが、天武が関係する部分以外は、 当時としては、最高レベルの信頼度があると「思い」ます。 それは、逆に言えば「天武側の大本営発表」という視点で、 天武関連には記述に虚偽があるだろうという疑いの裏返し なのですが、それを虚偽だと断定しにくいようにするためにも、 他の部分はそれこそ最も信頼のおけるようなものにしておく べきだという戦略があるだろうと思うからです。  天武の年齢が書いていないのは、他の天皇がそうであっても 重みが違います。おそらく天智が目指した天皇権力の 強化を引継ぎ(豪族排除、戸籍・法の整備を根拠にしました) 天武もその一環の政策として記紀編纂も行ったはずで、 (天皇を神と歌わせたことなども根拠にしています) その創始者ともいえる天武の年齢がないのはどう考えても 変だと思わざるをえません。  で、小生のいいたいのは、この見方が真実に近いほど、 他の部分の信頼性も高くなるのではないかということです。 あまりこんな事を言う人がいないようなので、 感想としてかかせていただきました。 Time : 1998/11/10(火) 10:03:12
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 天武問題に対して Comments: 天智論争が別の観点から盛り上がっているようですが、 私個人の考えを言わせてもらえば、私もやはり「天武の父が 帰化人であっても問題はない」と思います。 根拠としてはまず皆さんもおっしゃっておられますが 当時の日本では帰化人階級が「文化の伝道者」として 尊敬されうる存在であった事と、 それから桓武天皇の母親「高野新笠」は帰化人の子孫であるにもかかわらず 桓武が正式に即位している事です。 確かに「井上皇后」事件などもありましたが、それはあくまで皇室内での事であり、 各地の豪族がそれに対して反乱を起こしたなどの事実はないです。 また桓武がそのことによって差別を受けていた形跡もありません。 まして天武の時代には「天皇崇拝」はまだそれほどの規模にはなっておらず、 したがって「皇室の血統」をとやかく言う人間も少なかった事でしょう。 例えばこの時代から200年ほど前には継体天皇が越前から 招かれています。これは「天皇5世の子孫」という事に なっていますが、現代の歴史学でもこれに異論を挟んでおり、 「王朝はここでいったん交代した」といわれています。 天皇崇拝が強烈になり、天皇が神となるのは天武および 持統天皇の時代です。「日本書紀」などの国史編纂と 近江王朝への勝利による一時的な天皇親政の実現により、「大君は神にしませば」 と歌われるようになるわけで、裏を返せばこれは 天武王朝の正当化とも取れます。 以上の理由で私は天武が朝鮮系の天皇でも 一向に構わないと考えています。 Time : 1998/11/10(火) 11:42:35
Name : 輔住 E-mail : Title : 天武天皇について Comments:  天部天皇の正体について井沢説に賛成です。 少なくても彼は日本書紀に書かれているような 天智の同父母の弟ではないと思います。 理由は彼の若いころのエピソードが書紀に書かれていないからです。 彼は天智の娘を4人も妻にした程の実力者です。 若いときからかなりの実力者だったと考えたほうが自然です。 彼が本当に弟なら若いころのエピソードを隠す必要はないし、 むしろ、書紀におおげさな位に書かれているはず。 では、彼は身分を偽る必要があったのか? それは彼が弘文天皇(大友皇子)を殺したのが原因。 彼はそれを強引に「王座決定戦」にした。 当然、大友皇子と争うだけの身分に自分をする必要がある。 (天智の「庶兄」では「天智の後継者」としては説得力に欠ける) だから、彼は天智の同父母の弟を名乗ったと思います。 Time : 1998/11/10(火) 12:23:20
Name : kazu E-mail : Title : 天智・天武のこと Comments: 久しぶりに投稿します。まずは1万アクセスおめでとうございます。 最近、また天智・天武の問題が出てきましたので私の考えを述べさせて下さい。 私の考えも大阪JF生様と同じと思っていますが、過日の議論は、双方の論点が 噛み合っているとは思えず、折角の熱意もすれ違って見えました。 KANAK氏は、立場こそ違え相当に学識のある方のようで感心しておりました。 ただ、資料の読み方というか説の組立が井沢先生などと全く異なり、議論が前進 しているように思えず、残念でした。 これについては、神社の「四拍手」問題が言い易いのでこれを例にします。 「四拍手」の神社は出雲大社などに限らず、しばしばみられるとのこと。 このことからいえることは、かくも多くの神に「死」の儀式が必要である、 あるいは、ごくありふれた行為である、のいずれかでしょう。 井沢説を否定的に考える人は、後者の立場と思いますが、これは重要なこととは 思えません。 オオクニヌシは、明らかに政治的敗者です。外国であれば、敗者の神は徹底的に 否定されるか、勝者の神話に悪神・悪魔として残るだけです。 翻って、オオクニヌシには「悪」のイメージはありませんし、日本最大の神殿 (出雲大社)に祀られています。 これはなぜでしょうか。井沢先生はこれを「タタリ」「怨霊」の原理で説明さ れています。 これ以外の原理で説明されない限り、「四拍手」を云々したところで井沢説を 論破したことにならないと思います。 天智・天武に戻ります。 まず暗殺の真偽については、いまさら刑事裁判のように関係者の証言が得られる 訳でも血の付いた凶器が出てくる訳でもなく、残された資料をどうみるかという ことに帰着すると思います。 非兄弟説も含めてですが、井沢先生は桓武の平安遷都も含めて自説を展開されて います。 なぜ桓武は中国かぶれの王朝交代の儀式をしなければならなかったのか、その思考 のたどり着いたところが非兄弟説・暗殺説なのだと思います。 個々の事象を問題にすることは必要と思います。しかし、歴史は自然現象ではあり ません。仮説にそぐわない事柄も当然あると思います。 個別の問題にとらわれることなく歴史を検証してはじめて井沢説を問題に出来るの だと思います。 Time : 1998/11/10(火) 13:08:46
Name : kazu E-mail : Title : 天智・天武のこと Comments: 久しぶりに投稿します。まずは1万アクセスおめでとうございます。 最近、また天智・天武の問題が出てきましたので私の考えを述べさせて下さい。 私の考えも大阪JF生様と同じと思っていますが、過日の議論は、双方の論点が 噛み合っているとは思えず、折角の熱意もすれ違って見えました。 KANAK氏は、立場こそ違え相当に学識のある方のようで感心しておりました。 ただ、資料の読み方というか説の組立が井沢先生などと全く異なり、議論が前進 しているように思えず、残念でした。 これについては、神社の「四拍手」問題が言い易いのでこれを例にします。 「四拍手」の神社は出雲大社などに限らず、しばしばみられるとのこと。 このことからいえることは、かくも多くの神に「死」の儀式が必要である、 あるいは、ごくありふれた行為である、のいずれかでしょう。 井沢説を否定的に考える人は、後者の立場と思いますが、これは重要なこととは 思えません。 オオクニヌシは、明らかに政治的敗者です。外国であれば、敗者の神は徹底的に 否定されるか、勝者の神話に悪神・悪魔として残るだけです。 翻って、オオクニヌシには「悪」のイメージはありませんし、日本最大の神殿 (出雲大社)に祀られています。 これはなぜでしょうか。井沢先生はこれを「タタリ」「怨霊」の原理で説明さ れています。 これ以外の原理で説明されない限り、「四拍手」を云々したところで井沢説を 論破したことにならないと思います。 天智・天武に戻ります。 まず暗殺の真偽については、いまさら刑事裁判のように関係者の証言が得られる 訳でも血の付いた凶器が出てくる訳でもなく、残された資料をどうみるかという ことに帰着すると思います。 非兄弟説も含めてですが、井沢先生は桓武の平安遷都も含めて自説を展開されて います。 なぜ桓武は中国かぶれの王朝交代の儀式をしなければならなかったのか、その思考 のたどり着いたところが非兄弟説・暗殺説なのだと思います。 個々の事象を問題にすることは必要と思います。しかし、歴史は自然現象ではあり ません。仮説にそぐわない事柄も当然あると思います。 個別の問題にとらわれることなく歴史を検証してはじめて井沢説を問題に出来るの だと思います。 Time : 1998/11/10(火) 13:09:18
Name : kazu E-mail : Title : 管理人様 すいません Comments: すみません、久しぶりで操作をミスってしまいました。 間違えて投稿が二重になってしまいました。 後の分を削除して下さい。 Time : 1998/11/10(火) 13:12:10
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 奈良時代の合理性と国際性 Comments: 以前に奈良時代の人は合理的かつ国際的であると述べました。 これは、私がいくつかの本を読んで出した結論なので、 決定的な文献は思いつかないないですが、探してみます。 まず合理的な理由です。 @平城京建都、奈良の大仏鋳造、国分寺建設などの大土木工事 動機は迷信としても、相当高度な科学的技術と科学的思考がないと、これらの大事業は不可能です。 これだけの事業となると、事務も大変でそれをこなすにも合理的な思考が必要です。 A律令制が曲がりなりにも機能していた。 律令制は膨大な官僚機構です。 この運営には、合理的思考が不可欠です。 B恵美押勝の乱と藤原麻呂の乱の迅速な鎮圧。 この2つの乱は、朝廷の命令の下、直ちに鎮圧軍が招集されて、平定されました。 日本軍の崩壊に見られるように、 軍隊を動かすには兵站、炊事、便所(日本軍は無体策で原住民に嫌われる一因となった) 指揮系統などの綿密な計画が必要です。 C白水江の乱後の防衛政策 少々時代がさかのぼりますが、白水江の戦いは無謀でしたけれど、 その後の防衛策は適切です。 朝鮮の技術者によって作られ堅固な要塞。 大陸の軍を迎え撃つわけですから、彼らの考えを採用したということです。 新羅との国交正常化。 防人の配置。 竹槍でB29を撃ち落とそうとした50年前の日本とは雲泥の差です。 等が考えられます。 国際的な理由は、 @、先のC. A遣唐使、 自分たちは遅れているから学ばなければ行けないという認識があったのです。 B中国(当時最高の国家)で賞賛された留学生 阿倍仲麻呂や吉備真備、 下って空海や橘逸勢(彼らは奈良時代の教育を受けていた)などがいます。 C外国と対等に交渉した官人 席順問題で、大伴古麻呂は、中国の宮廷で日本の面子を堂々と守りました。 D中国語 当時の国際語である中国語をマスターする事は、 官人になる最低条件だったと思われます。 ただし、日本では、かなり後まで正式な文章は漢語でしか書かなかったからしょうがない面もあります。 等があります。 それと、誰も言わない事ですが、 風土記の編集も見逃せません。 全国50国の地誌を編集するためには、 少なくとも現代の郷土史家並みの学力を持った人達が500人くらい必要です。 奈良時代は、文明開化の時代だったと思います。 Time : 1998/11/12(木) 14:25:09
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 昭和は言霊の時代 Comments: 考えてみれば昭和はいろいろな言葉に振り回された時代です。 「満蒙は日本の生命線」「機関説」「アカ」「全面講和」 「安保」「所得倍増」「オイルショック」「PKO」・・・ これらの言葉は、本来の意味を遊離してある時は人を不幸に、ある時は人を豊かにしました。 江戸時代と明治時代の人は言霊に振りまわされてはいないのに、 なぜ現代の昭和の人間は、まるで古代にタイムスリップしたかのように 言霊に振り回されたのでしょうか? 不思議な気がします。 皆さんはどう思われますか? Time : 1998/11/12(木) 15:10:14
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 応神天皇の正体 Comments: 井沢先生の著作と関係ない自説ばかり述べるなと そのうちお叱りを受けそうですが、 天皇朝鮮人論をぶち上げた手前、責任を果たそうと思います。 私はまだ、日本人の中に天皇への遠慮があって、 我々の思考を阻害していると思います。 しかしその当の天皇が、必ずしも神でもなんでもなく、 ただの古代の実力者、さらに渡来人、であるとなれば、 私たちの思考はかなり自由になるのではないでしょうか? 私自身は、皇室を尊敬するものです。 たとい天皇の先祖が外国人でも変わりません。 さて、応神天皇の正体ですが、私は、弁韓の王か王子だと思います。 350年頃に、朝鮮半島では百済と新羅が各地方を統一しました。 統一の取れていなかった弁韓(後の任那)は2国に征服されたと思います。 そして、国を追われた王族は日本に亡命したと思われます。 応神は、東国を平定して間も無い強力な軍事国日本に朝鮮復帰を訴えました。 仲哀天皇は、応神の復帰を口実に朝鮮遠征の軍を出します。 その主力は、葛城王朝の遺臣(葛城氏、物部氏、大伴氏)と吉備王朝の遺臣(瀬戸内海の水軍)でした。 朝鮮遠征は大成功しますが、彼らは応神を担いで、進軍方向を180度旋回したのです。 彼らは、ヤマト朝廷に積年の恨みを抱いていました。 ヤマト朝廷の主力は東国にいたため、仲哀天皇は、朝鮮を攻めた精鋭に手も足も出ませんでした。 彼らは、朝鮮と強い繋がりを持っていたために、 海へ近い河内に都を定めました。 神功皇后の伝説は、朝鮮遠征中はお腹の中にいた応神が、 朝鮮遠征が終わって筑紫に着いて生まれるという筋です。 これは、応神は朝鮮遠征を経て、天皇として生まれ変わったことを意味しないでしょうか? そして、天皇家が任那に執着したのは、それが故郷だったからではないでしょうか? Time : 1998/11/13(金) 13:41:53
Name : KANAK E-mail : Title : 参加させて頂けますか? Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 お聞き苦しい雑音の数々・・・申し訳ありません。 さて、今までは大島さんに私の「逆説の日本史 2」に関するNIFTYコメント、 及び皆さんとの意見交換についての仲介をお願いし、ご負担をお掛けして参り ましたが・・・本HP管理人さんのご了解が得られれば、私自身で参加させて 頂きたいと存じます。 ただ、本件は元々NIFTY会議室での議論が発端であり、9/18井沢さんのNIFTY発 言によって新たな展開を見たものですから、NIFTY会議室とは一体性を保ちたい と考えております。 従って、皆さんのご発言についても一旦NIFTYに転載し、それに対しNIFTYで寄 せられたRES(私自身のRESを含む)を本HPに転載すると言う型式をとらせて 頂きたいと存じますが、いかがでしょうか? (NIFTY転載不可とされるご意見については、私のRESはご容赦願います。) 勿論私も本業を抱えておりますので、タイミングの遅れは避けられず、また文 章が余りに長文にわたる場合は(お互いに)一部カットせざるを得ないと存じ ますが・・・。 以上につき、管理人さんのご了解をお願いいたします。 Time : 1998/11/13(金) 22:29:01
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 帰化人 Comments: 「帰化人」問題に関する様々なご意見がうかがえてとてもうれしいです。残念な がら、NIFTYでの議論というのは読めないのですがさぞかし沸騰したものなので しょうね。  この場での議論はどちらかというと「帰化人派(?)」が優勢のようですね。 もちろん、多数意見が常に真理とは限りませんが。  ただ、畑違いの分野の人間が言うのもなんですが(応用昆虫学です)、今の 日本人にとっての朝鮮半島と、当時のそれとは全く違うような気がするのです。 現代日本人の感覚と、我々のご先祖の感覚が同じであるわけはないのだし。 安部さんの <しかしその当の天皇が、必ずしも神でもなんでもなく、ただの古代の実力者、 <さらに渡来人、であるとなれば、 という考え方にはなるほどと思いました。  実力という点で、多分当時の世界の中心(?)であるところの中華文化圏の朝鮮 半島からの人達は、文化にせよ、武器製造技術にせよ、軍事力にせよ、発展途上国 だった日本よりは格上だったんじゃないでしょうか。そういった帰化人グループの 支援を受けられる点で、帰化人の子供が天皇になったとしてもあまり無理はない ように思います。単なる象徴ではなく、当時の天皇が軍事力の長であった以上、 武力に秀でる方に支持が集まるのは当然だと思うのです。たとえ帰化人の血を持 とうとです。しかも帰化人グループの方が強いとなれば(おそらく)、なおさら 支持しない理由がでてきません。要は後の戦国時代と同じでは無いのでしょうか。 石井さんの <それから桓武天皇の母親「高野新笠」は帰化人の子孫であるにもかかわらず <桓武が正式に即位している事です。 というご指摘も盲点でした。天武の頃に較べればずいぶん発展した日本においても 明らかに帰化人の子孫である桓武が即位しているのであれば、天武において、それ が障害になるとはちょっと思えないのです。  この件は逆に考えると、少なくとも桓武天皇即位に関しては「帰化人の子孫で あること」を隠していなかったわけです。なんで隠さなかったのでしょう?資料 を作成する上で、ごまかそうと思えばごまかせるはずなのに(ちなみに、何という 史料に載ってるんでしょうか)。考えようによっては、少なくともこの頃までは 帰化人の血をひくことを、特に隠すような理由もなかったのかもしれませんね。 Time : 1998/11/14(土) 06:08:42
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 官職・官名について Comments:  と、ど素人のくせに長々と書いてしまってすみません。  で、ついでにお尋ねしたいことがあります。戦国時代にはよく、肥後守とか 刑部少輔とか名乗る武士が出てきますが、あの多くは私称だそうですね。でないと 日本全国津々浦々に「修理太夫」が何十人もいることになってしまいます。  あれは武士が勝手に名乗るものなのでしょうか。つまり「俺はこれから宇津木兵 部と名乗るぞ」と自称するのでしょうか? それともその大名家の長が 「おまえは今日から長門守と名乗れ」とかって、恩賞として名乗りを許したもの なのでしょうか。その場合、 「田中は会社でいったら部長級だから、まぁ刑部大輔くらいを名乗らせて、鈴木は 課長級だから備前守くらいにして、あと係長級の佐藤君はどの官称をやろうか な?(序列はよくしりませんが)」  なんて、家中の序列をあきらかにするために官称を与えたのでしょうか?個人的 にはこの使い方なのかなとおもったりするのですが(これなら家中の階級がわかり やすくなると思うし)。けど実際どうだったんでしょう?どなたか教えてくださいませ。  また、そもそも律令体制のスタート期では、こんな官名詐称(?)は無かったと 思うのですが、いつ頃からこのように、官名詐称がまかり通るようになったので しょうか?  また、朝廷から正式に与えられる官称・官職もまた明治初期にいたるまで存続す るわけですが、ここでも質問があります。  たとえば、播磨守という官職には1名しか与えられないものなのでしょうか? そもそも、それぞれの官職には何人の定員があるものなのでしょうか?もし仮に 国司のポストが定員1名であるならば、その1名を除いてあとは皆勝手に名乗って いるのでしょうか?  また、江戸時代でも、自称官名というものがあったのでしょうか?  たとえば、遠山左衛門尉なんてヒトがいましたが、これは正式な官職名なので しょうか?そして、全国に左衛門尉が何十人もいたのでしょうか? とりとめのない質問で恐縮ですが、どなたかぜひ教えてくださいませ。 Time : 1998/11/14(土) 06:51:37
Name : KANAK E-mail : Title : 「逆説の日本史2」四拍手問題について Comments: 皆さん、はじめまして(?)・・・KANAKです。 <(_ _)>ペコ まず、ハンドルネームの由来ですが・・・ 私のハンドルネーム”KANAK”は ”カナック”と読んでいます。 私の本名に由来するモノですが・・・併せて ”蚊鳴く”の意味を持たせてい ます。(>_<;) つまり、史学については全くの門外漢であり、古代史愛好家と称するのも憚ら れる様なドシロウトではありますが”蚊の鳴く”様な声であっても積極的に会 議室に参加して疑問や意見をUPし、諸先輩から回答・批判を頂く中で勉強して いこうと言う気持ちを表したモノです。 (一云、図書費の捻出にも苦労する ”金苦”と言う ”異説”もあるようで すが真偽の程は私にも分かりません・・・。(^0^)”) さて、早速ですが・・・「四拍手問題」につき、NIFTY掲載分を転載いたします。 (「四拍手問題批判」に関する「直接反証」を期待したものです) なお、勝手ながら皆さんのご発言についても一旦NIFTYに転載し、それに対し NIFTYで寄せられたRES(私自身のRESを含む)を本HPに転載すると言う型式 をとらせて頂きたいと存じますので、NIFTY転載不可とされるご意見については、 私のRESはご容赦願います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 11/09 #2245 RE^9:「逆説の日本史2」四拍手問題 大島さん(井沢さんHPの皆さん)今日は・・・KANAKです。 先般、10/27#2183 で「梅原説=四拍手問題」に関する「坂本氏批判」をご 紹介いたしましたが、それに対し ”この問題については既に井沢さんが論破 している筈・・・”との意見が有ったようです。 考えて見ればあまりにも当然の話で・・・「四拍手問題」における梅原説と井 沢説の主要部部分は次のとおりであり・・・ 梅原説(隠された十字架ー法隆寺論)・・・昭和47年5月発行 「まして、八世紀という時代、死という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に 響いたかは、はかり知れない。しかるに、法隆寺においてこの忌むべき死を示 す四が、しきりに繰り返されるのである。・・・・ 出雲大社において、カシワ手は四つ打つ。カシワ手を四つ打つ神社は他には ない。出雲大社に限って、カシワ手を四つ打つのはなぜか。また出雲大社は柱 の大きさが、いずれも四の倍数となっている。法隆寺と出雲大社の類似点につ いて、先にもいい、また、別稿でも詳しく論じたいと思うが、この二つには、 死のイメージがまつわりつかねばならぬ然るべき理由があったのである。」 井沢説(逆説の日本史1ー古代黎明編)・・・平成5年発行?? 「全国の神社の中で、出雲大社ともう一つの大きな神社しか持っていない、極 めて不可解な作法がある。それは大社に参拝する者は柏手を四回うたなければ ならないことだ。・・・・・ では忌詞の最たるものは何かと言えば、それは「死」である・・・ だから、「シ」という言葉は神道の普通の考え方から言えば絶対に避けねばな らない。それなのにどうして「四拍手」なのか。「四」は「シ」であり「死」 に通じる。縁起の悪いことこのうえもない。しかし大社がオオクニヌシという 「死の国の王」の神殿であり、それを建てた大和朝廷が何を願っていたか、そ れを考えるとこの謎も解ける。・・・」 以上のとおり、基本的には約20年前に発表された「梅原説」を蒸し返(或い は発展??)されたものだと思われますが、この間昭和48年に「坂本氏批判」 が発表され、 *四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈  良の時代にはなかったことである。 *神に対し四拝または四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲  大社に限ったことではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは  旧儀を忠実に伝えているだけのことである。 *従って四拍手について、死の観念などの介入する余地は全くない。 ・・・・ことを様々な根拠資料を明示された上で論証されているのです。 従って、如何に井沢さんでも「坂本氏批判」に関する「反証」なしで「梅原説」 を蒸し返(発展??)すことは有り得ないはずです。 ところが・・・井沢さんの具体的「論破」がどの様なものであるかイマイチ良 く分かりません。取り敢えずこの点について是非HPの何方かに、お教え頂き たいのですが・・・無理なお願いでしょうか?                               98/11/09 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Time : 1998/11/14(土) 09:18:01
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 仲哀天皇の怪死 Comments: もう少し冷静に、古事記の仲哀天皇と応神天皇の話を分析します。 私は、古事記(岩波文庫版)の文だけで話をしています。 仲哀天皇は、熊襲を撃つために筑紫に滞在していました。 そこで、武内のすくねが「神の命」つまりお告げを受けます。 内容は、「朝鮮は豊かな国なので征服せよ」です。 不思議なのは、「神」とだけあって、名前が分からないことです。 天皇家の氏神のアマテラスの大神だから名乗らなかったのだろうといえるかもしれません。 しかし、アマテラスは、次項で出てきますが、 これは地上の人間(武内たち)の「神」に対する解釈といった性格です。 次に、「神」は「その神」と呼ばれています。 どうも「神」は日本人にとって未知の神であったようなのです。 仲哀天皇は「山に登って西を見ても青い海しか見えない」といって取り合いません。 更に「神」を無視しようとします。 「神」は怒って、「天の下はお前の治める国ではない。(死の国へ)真っ直ぐ行け」といいます。 仲哀天皇はしぶしぶ「神」を認めますが、突然静かになります。 家来が、松明で確かめるとと死んでいました。 つまり夜に死んだということです。 このページの読者は、夜に死ぬことが何を意味するのかご存知のはずです。 その後、祓いが緊急的に行われます。(ただならぬ気配を感じます) 武内が、「皇太子は神功皇后の腹の中の子供にする」と宣言します。 これは、「アマテラスと住吉の神の意志である」 そして「天つ神、国つ神、山の神、河と海の神、 協力して胎児を守り立てて海を渡れ」というものです。 その胎児は、天つ神よりも偉いのです。 遠征は大成功で、胎児は、筑紫に帰ってから生まれます。 しかし、仲哀天皇の第一夫人(神功労皇后は第二夫人)の息子の忍熊王兄弟は反乱します。 つまり、皇室は皇太子を拒否したのです。 しかし、皇太子軍は兵庫と琵琶湖で彼らを破り、残党を若狭まで掃討します。 そして、敦賀で血を清め、重臣たちと会盟します。 この話は、まさに新王朝の創始を意味すると思うのですが、どうでしょうか? それと、私は最近古事記の解読をしているのですが、 何故か四国の記事が異様に少ない(というより皆無)ので困っています。 この事も皆さんどう考えますか? そして、四国に関して何かいい情報がありましたらお教えください。 あと、「逆説の日本史」で井沢先生が 宇佐神宮に祭られている神功皇后は卑弥呼であるという説に私は賛成です。 ヤマタイ国を滅ぼしたクナ国は卑弥呼を祭る必要があったからです。 そして、宇佐神宮の応神天皇は、仲哀天皇だと思います。 私は、神功労皇后は架空の人物で、 宇佐神宮の卑弥呼と一体化させて権威付けられたのではないかと思います。 これで、応神王朝創始説は、怨霊の面からも裏づけられるとおもいます。 断っておきますが、応神天皇が新王朝の創始者だと井沢先生は「逆説の日本史」で述べています。 私は自分なりにそれを検証してみました。 Time : 1998/11/14(土) 15:39:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 古代の日本 Comments: 古代日本に朝鮮半島から渡来人としてかなりの数の入植者があったということは 実であると思うが、どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。 今の時代でも、外国へ移民するということは一大決心がいることだと思います。 それが当時の人間にとっては現在の何倍も固い決心が必要だったと思われますね。 もしくはそうせざるを得ない外的要因があったと考えられるでしょう。    地理学的に言うと、日本列島は黒潮に囲まれているという環境にあるので、 古代の稚拙な航海技術でも、例えばベトナムや南京付近からは容易に日本へ たどり着くことができたといわれています。ただしこれは片道切符ですが。 だから古代の日本はパラダイスではなく一種の姥捨て山、もしくはブラック ホールだったと考えることができると思います。  日本人は朝鮮人に関して言えば、非常に似通ってはいるがやはり違いがある。 その違いとは南方系の血がはいっているかどうかという点ではないだろうか、 と私は思っています。 朝鮮人は北方の血液は入ってはいるが、南方のそれはまずはいっていないからと 思われるからです。  古代においては、当然のことながら現代のような国境線はなかったので、だから 今ほど国籍というか、何人だという意識は当然のことながらなかったと思います。 つまり日本を侵略するという発想は現代人のものだと思うのですが。 また、安部さんが言われるように、関東地方に入植したのではという意見について は茨城よりも埼玉とか千葉の方がその痕跡は多いような気がします。例えば検見川 や高麗川などの地名はそうとしか思えません。 ただし、当時この付近は蝦夷地と呼ばれていたわけなので朝鮮半島からやってきた 人間が入植することはなかなか平穏にはゆかなかったのではないでしょうか。  言葉については、韓国の言葉は聞いた感じは茨城弁というよりは東北弁の方が 感じは近いと思う。ただ、前にも書いたけれども朝鮮半島で鳥居の存在を感じる ことができないと(私はそう思っていますが)いう現実から考えると、どうも 朝鮮系は日本歴史上の支配系には成り得なかったのではと思えるのです。 Time : 1998/11/14(土) 18:48:04
Name : 薩摩人 E-mail : Title : ある大学で Comments: >宇津木和政さん  ご質問の中の「○○守」の付け方について、貴重な研究があります。  その結論は 「幕藩体制確立後の官位・官職の付け方に相関関係は無い。 また、基準や世襲的な影響も無い...と思われるが、現状では史料的制約もあり 十分に研究し尽くしたとは言えず、今後の成果を期待したい。」 というものです。要するに「よくわからない」ということです。 但し、○○守については勝手に名乗ったのではなく、 幕府から朝廷に上奏して補任されたことは確かみたいです。  貴重な研究などと大袈裟にいいましたが、実は私の同級生の卒論が まさにこのテーマだったのです。  彼がこのテーマを選ぶきっかけは、担当教官の気まぐれ? 「長年、気になっている課題である。他にすぐれた研究もない。 君、これを解明すると学界で注目の的となるぞ!」という一言だったのです。以前、 私が征夷大将軍について質問したのと同じようなもんです。  ご質問の内容とは少し違いますが、彼等の研究を簡単に紹介しますと     ○○守の中には大名が欲しがるブランドが必ずあるはずである細川氏は越中守が ほとんどであるが、何回か領地と同じ肥後守になっている 世襲であれば越中守のままのはずだし、これはなにかあるはずである  また、従四位下なら○○守、従三位なら△△守という官位との関係があるか? こういう内容でした。どうも彼等のイメージには現代の政治家と大臣ポストの関係が あったみたいです。外務・大蔵・通産とかは、なりたい大臣だそうですし 当選何回なら○○大臣とか決まっているみたいですしね。  具体的な研究方法はまず、日本中の大名の官位・官職の推移、在任期間を 史料が許す限り統計し、いくつかの切り口で分類してみる。  また、ある大名が幕閣に任官を願い出た書状等がないか調べる。 例えば「A大名がB老中にC守にならせて下さい」とお願いする書状や そのための運動をした(賄賂を送る、接待攻勢をする)記録がないか調べる。 などでした。  教官は統計すれば必ず何か法則が見つかるが、あまりに作業時間がかかるので 誰かやってくれないかなと考えていたそうです。同級生は1年以上調べ続けました。  結果は上記の通りでした。これに対し他の教官達は楽しそうに笑ってたそうです。 当の担当教官も「やっぱり何もなかったか」と満足気だったそうです。  もし、これを解明すると学界から大注目を浴びるというのは本当だそうです。 どなたか鋭い視点でチャレンジしてみませんか  史料至上主義の典型として、ある国立大学の研究室をご紹介しました。 >KANAKさん  ありがとうございます。お名前の由来と読みが解りました。 私の勘は大ハズレでしたが、趣のある名前ですね。 それに笑顔のマークがいいですね。 ”金苦”は私の場合”真説”です。  ご自分で「ドシロウト」と言われますが、一連の論争からすると かなり熱心な方とお見受けいたします。  最初のうちはKANAKさんのお考えがよく解らなかったし 議論も噛み合わない様でしたが 10/29付大島重雄さん経由の投稿などは まるで数学の定理や公式を導く様な感じで(巧く表現できなくてすみません) なるほどと思いましたし、KANAKさんの歴史の見方もわかったような気がします。  私は「怨霊信仰・宗教の影響」 あり!!の立場ですが 今後も切れのいい投稿を期待しております。   Time : 1998/11/14(土) 18:52:32
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 薩摩人さまありがとうございました Comments: 早速の御返事ありがとうごさいました。 少なくとも江戸時代の官職は幕府の上奏により朝廷から下されたものであるわけ ですね。ただ、それ以上のところはよくわからないわけですね。それにしても、 それほどまでに重大なテーマだとは全く知りませんでした(素人丸だしですね)。 江戸時代はともかくよくわからない。となると、もともとの疑問である戦国時代 なんかはさらによくわからないのでしょうか? 木下藤吉郎も、当初、筑前守と名乗ったのは織田信長の命令によるものであり、 1年後くらいに正式に従五位下筑前守を朝廷より賜ったとなっていたように思い ます。とすると前者は私称であり、後者は公称となります。 果たして私称官名のルーツと実態は…歴史学の手法をまるで知らない私には 手も足も出なさそうな話ですね。 Time : 1998/11/14(土) 19:58:17
Name : KANAK E-mail : Title : 「逆説の日本史2」倭姫万葉歌等について Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 薩摩人さん、お励ましありがとうございます。 ただ、皆様も少し誤解されているようですが、 私は ”「怨霊信仰・宗教の影響」 なし!!の立場” ではありません。 歴史の「限られた局面」においては ”当然影響あり” と考えております。 ただ、「歴史を動かす」と言うような大仰なモノではなく、所詮は「歴史が 動いた」ことから生じた「敗者」に対する事後処置程度の意味だと考えてい ますので、お含み置き願います。 さて・・・・取り敢えず、かって大島さんと意見交換した部分を順次UPさせ て頂きたいと存じますが、以下の各項目のうち、#1267・#1376・#1405・#1744 が既にUPされていますので、今回は#1388・#1396・#1411をUPいたします。 (何れも未読・立読段階です。) 03/28 #1157 壬申の乱について教えて下さい 03/29 #1159 RE^2 壬申の乱について教えて下さい・・・出発コメント 04/06 #1231 省略 04/12 #1267 RE^5 同・・・泉湧寺問題(小林説) 04/18 #1316 RE^6 同・・・泉湧寺問題(小林説)補足 04/22 #1339 RE^7 同・・・泉湧寺問題(小林説)再補足 05/02 #1376 RE^8 同・・・天智暗殺問題{万葉集・扶桑略記} 05/05 #1388 RE^9 同・・・万葉集補足 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 05/09 #1405 RE^11 同・・・漢高祖(小林説)・天智諡号問題(立読) 05/10 #1411 RE^11追記・・・大仏殿・万葉集問題補足 05/16 #1422 RE^12 逆説の日本史(聖徳太子)の疑問(著書入手)             ・・・クダラ・隋国書・天皇家姓・聖徳太子心中・            「徳」諡号・間人名問題等 07/29 #1641 RE^14同追記・・「徳」諡号問題補足(神皇正統記) 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 07/29 #1648 RE^16 天智・天武年齢その他追記・・・曲筆問題 08/02 #1656 RE^17 天智・天武年齢妄想(長文)・・年齢問題推定等 08/09 #1696 RE^18 天智・天武年齢(一代要記)・・同上補足 08/12 #1703 RE^19 皇族の類似名・・・間人名問題 補足 08/14 #1711 RE^20 天智・天武年齢の錯覚・・・年齢問題(愚管抄) 08/16 #1720 RE^21 天智・天武年齢と曲筆・・・年齢と曲筆問題 08/16 #1721 RE^22 天智・天武年齢(天武65歳推定)・・同上 08/21 #1744 RE^23 天智諡号問題(追記) 07/24 #1615 壬申の乱コメントツリーのみなさまに 09/03 #1859 RE^2 壬申の乱コメントツリー 09/05 #1873 RE^3 壬申の乱コメントツリー・・・総論 05/20 #1434 奇説:天武天皇の正体 05/23 #1443 RE 奇説:天武天皇の正体・・・年齢問題・天武忍者問題                       四娘同婚問題(大和説) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/05 #1388 RE^9 同・・・万葉集補足 >> 素人の考えなんですが、書紀は(乱暴な言い方ですが)720 >> 年に完成したんだから、陵のことを記載しようと思えば、いか >>ようにでも記載はできたと思うのですが・・。 仰るとおり記載できたはずですが、記載されていない理由を考えるに当た って、井沢氏のように(原文は読んでいませんので、紹介文によっていま す)暗殺説に結びつけなくとも、この様に解釈することも出来るのでは無 いでしょうか? 尤も何故これが暗殺説の根拠とされているのか・・・理解できないのです が、ご解説頂けないでしょうか? >>ただ、671年に死んでから699年まで、随分ながい間、ほ >> っておかれたもんですねー。こんな例は他にもあるのでしょう >> か? また、なぜ山科に陵が造られたのでしょう? 私も、#1376でも申し上げたとおり、造陵に関する異常性は感じてい ます。ただ、これを死因の異常性と関連づける必然性が理解できないので す・・・・・ 山科造陵の理由は大津京との関係以上は分かりません。多くの御陵につい ても同様では無いでしょうか?(斉明陵は何故高取町車木でしょうね) ”青旗の 木旗の上を かよふとは 目には視れども 直に逢はぬかも” >>この歌の解釈ですが、万葉学者の桜井満氏の解釈、「山科の木 >> 幡の山の上をみ魂が行き来しているとは目には見えるけれども、  ・・・・・・ >>天智天皇が崩御されたのは大津京(のはず)なのに、なぜ木幡 >>(山科)を魂が行き来していると倭姫皇后は詠んだのでしょう? 私には確認できないのですが、本当に”山科の木幡・・”でしょうか? 山科(京都市山科区)と木幡(宇治市)は伏見区をはさみ約10キロ程 離れています。(宇治郡山科郷が木幡を含んでいたのでしょうか・・) また、万葉学者の久松潜一氏は次のとおり解説しておられます。 「・・木旗も『日本古典文学大系本』では木幡山として、「青旗の」を その枕詞としているが私は木旗のままに解しておきたい。木幡山とする とその御命がすでに御身から離れて木幡山にいられるように思われるし、 調べの上でも旗を繰返したと見る方がよいとおもわれる。」             万葉秀歌(一)P294  講談社学術文庫 私は、久松氏の解釈を支持しますので、倭姫皇后の御歌についての疑問 (謎)そのものが成立しません。 ところで井沢氏は久松氏の解説については言及されているのでしょうか? 少なくとも我々のような素人向けの一般書においては、この様な有力解 釈もあると紹介されるべきでしょうね。 その他の問題(天武年齢・泉涌寺・扶桑略記等)についても、同様に多 面的解釈を提示された上で、自説の妥当性を証明されるべきだと思います。 (紹介文を見る限り、その様な配慮が窺えません・・・) 私が井沢氏の著述姿勢に疑問を感じるのは、正にこの点なのですが・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 >>井沢氏の本を送りましょうか(笑)。 お心遣いスミマセン・・・頑なな奴と思われるでしょうが、ある事情で買いたくないので、 この形のままで続けさせて下さいますか(ニガ笑)。 >>・・・・・一番の根拠(と言うか、発想のもと)は、やはり >>「扶桑略記」の記載だと思います。 ・・・でしょうね。しかし「扶桑略記」も本文では忠実に「日本書紀」を是認 していますよね。「一云・・」は単なる異説の紹介に過ぎません。 皇円が「日本書紀」を大胆に改変していれば、もう少し面白いのですが・・ >>書紀を盲目的に信用する姿勢には疑問がある。 ・・・当然でしょうね。ただ同時に基本史料を恣意的に信用したり、信用しな かったりする姿勢にも疑問があります。 例えば「扶桑略記」で云えば、上記のとおり皇円は基本的に「日本書紀」の記 述を認めていますが、これについては書紀の権力迎合姿勢に追随したモノとし て、一刀両断に切り捨て、異説のみ重視しておられるようですね。 >>天武の出自が不明である。 皇円の天智行方不明説を取るならば、同時に天武が天智の同腹弟であり、天智 から後継者とされていたと言う皇円の歴史認識も認めるべきではないでしょう か?(皇円の天武出自は極めて明快ですね) 自説に不利な部分は切り捨て、有利な部分は拡大(意味不明だあっても殺害の 文字があれば暗殺と断定)する姿勢こそ問題だと思います。 また、書紀について天武系権力により史実が根本的に歪められているとするな らば、桓武以降の天智系権力の下で、何故正史として講じられたのかと言う疑 問が生じます。 仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、天智系に皇位が移動する可能 性はあり得ないでしょうし、仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとした ら新たに権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にして いたでしょうね。天武系真人姓も剥奪していたかも知れません・・・ 要するにそんなモノは小林氏とそれを利用した井沢氏の意図的(敢えて云えば 商業的)空想の産物に過ぎないと思いますが・・・・如何でしょう? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/10 #1411 RE^11追記・・・大仏殿・万葉集問題補足 再度の立ち読みで、「逆説の日本史」読み残し部分に目を通しましたが・・・ 以下の井沢氏の主張についても疑問を感じました。 それは大仏殿に関するものですが、かの有名な「雲太、和二、京三」を例証に 大仏殿は出雲大社(の怨霊?)に遠慮して、敢えてそれより少し小さく作った ・・・と言うような記述です。 何か、さも重要な発見であるかのように自画自賛しておられるのですが、視点 を少し変えてみると、寺院と言うのは金堂・塔・講堂・大門等の総合建築物で す。従って塔を含めて比較すれば、出雲大社以上の高さを持った建築物は、そ れ程珍しくもないでしょう。 まして東大寺の東西塔となれば、出雲大社を遙かに凌駕したモノであったこと は明らかです。(大仏殿より30−40%は高いでしょう) 勿論この塔は平安時代には失われていたでしょうから、何れにしても一時代は 「雲太、和二、京三」になるかも知れませんが、本当に建築物の高さにそれ程 の意味があったのでしょうか? それならば、塔の高さについても遠慮があって然るべきかも知れませんね。 つまり建物の高さについては、その様な拘りは一切無かったと言う考え方も充 分成立しうる訳です。 さらに言えば、井沢氏の主張の如く天智系・天武系間に易姓革命があったとす れば天智系天皇は天武系天皇のモニュメントとも言うべき東大寺を超える建造 物を何故作らなかったのでしょう? 東大寺が我国最大の寺院建築であり続けたこと自体が、天智・天武系の一体性 (革命要素は無い)を雄弁に物語っている・・・と言う見方も可能なはずです。 また、長屋王の怨霊をクローズアップされていますが、長屋王の子孫は高階真 人として後世まで存続したものの、歴代天皇から特に意識された気配はありま せんね。 つまり歴史理解は常に多面的要素を想定すべきであり、井沢氏の如く単純かつ 一面的な解釈ではトンデモ説に陥る危険性があると思うのですが・・・・・・ 如何でしょうか? なお、井沢氏の著書の中では倭姫皇后の歌について”木旗”を”木幡”と表示 されていたようです。引用書ではそう言う表示であったのかも知れませんが、 この様な特別な解釈に関しては、より一般的表示も並記されるべきでしょう。 (新訓万葉集 佐々木信綱編ー岩波文庫 も”木旗”です) 自説に有利な印象をシロウトに植え付けるためのある種の作為を感じるのは、 私だけでしょうか? なお、万葉集については前回省略した150ー154について、一応以下にUPして 置きます。 (天皇崩りましし時、婦人の作れる歌一首)姓氏いまだ詳かならず うつせみし 神にたへねば 離(さか)りいて 朝なげく君 放れいて  わが恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく わが恋ふる 君ぞ昨夜(きそのよ) 夢に見えつる      (150) (天皇の大殯の時の歌二首) かからむの 懐(こころ)知りせば 大御船 はてし泊に 標結(しめゆ) はましを                      額田王(151) やすみしし わご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎                          舎人吉年(152) (大后御歌一首) 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 辺附而 榜来船  奥津加伊 痛勿波禰曾 辺津加伊 痛莫波禰曾 若草乃 嬬之 念鳥立 鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 榜ぎくる船 辺つきて 榜ぎくる船 沖つ櫂 いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ  若草の 夫の 思ふ鳥立つ                 (153) (石川夫人の歌一首) ささなみの 大山守は 誰がためか 山に標結ふ 君もあらなくに                               (154) その他、お気づきの点があれば御指摘願います。 >>(ついでと言っては失礼ですが、151番の額田王の歌の解説はど >> うなってますか? 天智が大津京でなく外で死んだものと解釈でき >> そうにはないですか?) 正直いって、私は古代史も万葉集も井沢氏同様にマルッキリのシロウト ですから、自信はありませんが・・・ (山科御陵より退散りし時、額田王の作れる歌一首) やすみしし、わご大君の かしこきや 御陵奉仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつあり てや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ      (155) 御陵の奉仕を終えて退出する人々の悲しみを歌った以上のものは、読みと れませんが・・・・何か異常事態を暗示しているのでしょうか?。 150−154の各挽歌も天智が行方不知になった様な異常事態は全く感 じられません。特に153の太后御歌等は少し技巧的かも知れませんが、 実に良い歌だと思いますね。(万葉秀歌(一)に収録されています) 既に申し上げたとおり、倭姫皇后が天智暗殺を感じておられたならば、大后 として天武追討を命じられたと思いますし、そうなれば壬申の乱の帰趨は明 らかに変わっていたでしょう。 井沢氏も作家でしょうから、倭姫皇后の御歌を文学的感性で理解して頂き たい気がします。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Time : 1998/11/15(日) 00:20:37
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさん宛、および応神天皇と天武天皇 Comments: KANAKさんの考えが分かったような気がします。 井沢先生は、現代評論の中で日本の言論界は 反対意見を封じたためにおかしくなったといっています。 ならば、あなたのように井沢先生と反対意見を述べる人もいて当然なのです。 しかしもし、あなたをこのページから締め出すようなことがあれば、 井沢先生も所詮そこまでの人物ということになります。 反対意見もこのページに載せているということで、 「論敵」としての井沢先生を信用してよいと思いますよ。 私は、桓武天皇のモニュメントは高野山と比叡山だと思います。 あと、安倍の清明の陰陽道もそうだと思います。 桓武天皇の遷都の理由の一つに、奈良仏教との決別があったので、 全く同じ方法でモニュメントは作らなかったと思います。 応神天皇と天武天皇は、業績も血統も酷似しています。 業績は既に述べましたので、血統を述べようと思います。 まず皆さんに謝ります。神功皇后は実在の人物でした。 私の「古事記」の読みが浅はかでした。 「古事記」の応神記に「7・天之日矛(アメノヒボコ)」という章があります。 この章の内容は、神功皇后の血統です。 「天之日矛」は、妻を追って日本に来た新羅の王子で、 神功皇后は新羅国王の4世の孫です。 そして、皇后の祖父は但馬に住んでいました。 皇后は但馬出身の可能性が高いです。 次に、「8・秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫」があります。 この章は不思議な章です。 但馬の田舎の出石神社の神様の恋愛であって、日本史と無関係なのです。 7章の末尾に、出石神社の御神体は、 「天之日矛」の装身具であると書かれています。 そして、出石神社の「神の女(むすめ)」の「イズシオトメの神」が、 「春山の霞壮夫」と結婚して「一りの子」を産みます。 「古事記」で個人名が出てこないのは、例の「神」と「一りの子」だけです。 何故こんな章が応神記の終盤にあるのでしょうか? 私が思うに、「イズシオトメの神」=「神功皇后」 「一りの子」=「応神天皇」=「神」です。 応神天皇は、神功皇后の連れ子です。 そして、応神天皇は、高貴な渡来人の子孫です。 正に井沢先生の描く天武天皇そっくりです。 そして、神功皇后が殊更に神格化されたのは、 応神天皇の即位を正当化するためでしょう。 Time : 1998/11/15(日) 13:01:32
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 日本は古代のアメリカ Comments: 弥生時代の始まる頃、中国は秦の統一期でした。 その時、揚子江流域の呉と越の住民が漢民族に押されて日本にやってきたようなのです。 彼らの跡は、照葉樹林文化として日本に残っています。(集英社の日本史1、2巻) 焼き畑農業、豆腐、なれ寿司、納豆、こんにゃく、餅等の庶民の文化です。 稲作は、彼らか、朝鮮からか来たようです。 これは一種のボートピープルかもしれません。 日本の古墳時代の遺跡に、騎馬民族の色彩が強いのは事実で、 モンゴル辺りからの移住者もいたのでしょう。 日本語は、北シベリアの民族に似ているそうです。 漢字の古い訓は、古墳時代前の中国での漢字の意味とよく一致するそうです。 アイヌが日本全土にいたのは間違いないでしょう。 黒潮は一方通行だけでなく、 沖縄の猟師が手こぎ船で紀州沖まで漁に行って帰ってくるといったことは、 最近まであったそうです。 そして、「恨の法廷」にありますが、 渡来人は、自ら望んで日本に来ました。 韓国人自身が認めていますが、彼らの労働蔑視は根強いです。 朝鮮の技術者は、出世の見込めない故国よりも、 技術者を必要として優遇した新生日本に賭けたのです。 日本に来た民族は、玉突きのようにして否応なく来た人も多いでしょうが、 望んできた人も多いのです。 Time : 1998/11/15(日) 13:32:42
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : KANAK様 Comments: 基本的に、井沢HPの掲示板は自由な表現の場として設けられたものであ り、入会資格や制限はございません。  ただし、投稿、あるいは転載に責任をお持ちになられるならば、メール・ア ドレスを明記してください。ログを見ていただければ、いまはアドレスを省略 されているかたも、初投稿では記入なさっています。  さもなくば、私宛のメールで本名、住所、メール・アドレスを自主的に知ら せた上で、匿名を希望されています。  この点を、ルールとしてお含みおきください。                      管理人 Time : 1998/11/15(日) 22:48:49
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 掲示板の増設について Comments:  以前にもお知らせしたとおり、近々、掲示板を増設いたします。歴史論議や 現代批評など、意見を闘わせる場は「フォーラム」、気軽に立ち寄って落書き できる場は「とまり木」といたします。「天智・天武論争」などは、既存のも のはここに残しますが、切りのいいところで「フォーラム」に移します。  プログラムには、とりあえずポップアップ機能を加えますので、投稿の際に 他の方の記事を参照しながら、書き込みを行なえるようになります。様子をみ ながら、さらに機能を付加していく予定です。                     管理人 Time : 1998/11/15(日) 23:12:56
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 補足です  そうですよねフロンティア Comments: 先日はワープロから張り付けたのですが、どうも改稿しているとき文字を削って しまったり、登録後に読んでみると日本語になっていない部分があったりと、 国語力のなさを暴露してしまいました。 ご了承ください。 またひとつ疑問点があるのですが、それは韓国人の労働蔑視のことについてです。 確かに韓国人の労働蔑視は周知とおりだと思います。はっきり言ってこれは悪しき 風習と言っていいでしょう。でもこれは朝鮮半島が中華体制に組み込まれ、儒教が 国教として浸透した結果だと思うのですが、どうなのでしょう。 それ以前の時代から朝鮮民族はそのような感性を持っていたのでしょうか。 追伸 管理人様の指摘のようにメールアドレスを久しぶりにつけました。 確かに Time : 1998/11/16(月) 09:38:05
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  はじめましてというのも変な感じですが、直接お話することになるのは 最初なので、よろしくお願いします。  小生は訳あって管理人様の許可の上匿名にさせていただいているものですが、 KANAK様がいわれるように謙遜で素人というので無しに、 本当に素人です。その立場で、素朴な疑問を述べてきました。  最初に誤解されているかのしれませんので、1点だけお断りしますが、 井沢先生が坂本氏の説を論破したというのは、別の説についてです。 言い方が悪かったようで、お詫びいたします。 基本的に、坂本氏があまりにも史料至上主義に陥っていることを いくつか例を挙げて論破されたということでした。  いきなりこんな事を言うご無礼をお許しいただきたいのですが、 小生は貴方の説より、考え方に興味があります。 それは、以前に別の方とのやり取りでも申し上げたのですが、 豊富な知識をバックに史料に忠実に議論を進めておられるので、 途中までは納得して記事を読ませていただいているのですが、 結論部分に来るといつも違和感を覚えて、 「なぜ逆の結論になるのだろう?」 といつも思ってしまうからです。 もちろん小生は、同じデータからでも違った結論は出せるだろうと 信じていますので、説が多様なのは当然と思っております。 しかしその道筋が追えないので困ってしまうわけです。 そこで、以前大島様を通じてもっと背景にある考え方を明らかに してもらえないかお願いいたしました。 しかし、このお願いは非常に無理がありました。 自らが依って立つ根本原理を説明するというのは、たいていは 無理な注文で、自分自身を振り返っても難しいことは分かります。 井沢先生のようなケースはまれで、その点でも敬服しています。  さらに小生は頭の回転が悪く、KANAK様の基本的な考え方を 他の方は理解されはじめたようで、取り残された気分になっています。 これは地道に、貴方の記事を丹念に見ていくしかないと思っていますが、 貴方が史料に忠実であろうとすればするほど、それが見えにくくなって しまうのも事実です。  そこで、お願いなのですが、過去ログを引用される場合は そのままでなく、(その後、反論が出た部分もありますので) 現在の考えを交えながら記事にしていただけませんでしょうか? 論文のように(静的に)意見を述べられるのは研究する姿勢として 当然だと思うのですが、せっかく議論できる場でもありますので、 ダイナミックな対応をお願い申し上げます。  全く勝手なお願いですが、よろしくお願いします。  また、個別の議論はその後でお願いします。 Time : 1998/11/16(月) 10:41:05
Name : 志田 糾 E-mail : mituda@total.co.jp Title : 四拍手問題−KANAKさんへ Comments: KANAKさんへの反論ではないのですが、どうもKANAKさんの論議における「ルール違反」について述べておきたい と思います。KANAKさんは、「出雲神社の四拍手」について、約20年前に発表された「梅原説」があり、「伊沢説」は それを蒸し返したものであり、すでに昭和48年「坂本氏批判」でこの問題は論破されているのに、「坂本氏批判」に関 する「反証」なしで「梅原説」を蒸し返(発展??)すことは有り得ない」としています。ここは掲示板ですので、紙面に限 りがあり、説明はそれ自身でクローズしていないと参加者に誤解、迷惑をかけることになることは言うまでもないことで すが、特に、特定の批判、反論には注意を要します。さて、KANAKさんの主張は伊沢先生に対する「坂本氏批判」に 関する「反証」を期待しての提案と理解しますが、文章からすると、そのようには伝わりません。むしろ、「梅原説」を批 判した「坂本氏批判」に反論せずして、何を申すかのように聞こえます。それはさておいて、KANAKさんの「伊沢説」、 「梅原説」、「坂本氏批判」の紹介は正確でしようか。少なくとも、「伊沢説」に関しては正確ではありません。「出雲神社 の四拍手」については「”死”の宮殿出雲大社の右上位と”四拍手”」の中で説明されていますが、いわゆる傍証として 書かれている訳でありますが、その証明については深くは掘り下げてはいません。勿論、「梅原説」、「坂本氏批判」に ついても同じく触れられていません。したがって、「伊沢説」は仮説に近いもので、摂本掲示板にもあるように、「出雲神 社の四拍手」問題については、相当手のかかった論証作業を必要とすると思われます。むしろ、これは、「伊沢説」に 賛成する人々の役割でもあります。論証の方法としては、「梅原説」、「坂本氏批判」が果たして、真実なのか否かを 検証する必要もありますれば、全国的に「四拍手」を巡る事情も調査しなければなりません。私は、専門外ですので、 こうした作業は出来ませんが、少なくとも、「逆説の日本史」で提示されている「歴史の固め方」は賛成です。私達が、 物理学で推察する手法に近いものです。したがって、もし、不確かさがあれば、それを検証する努力を必要とします。 これは、伊沢先生の仕事ではなく、「逆説の日本史」に興味を抱く全ての人々の役割であると思います。私は、伊沢 先生がそうしたレベルでの問題提起をしてくださっていると思います。 最後ではありますが、KANAKさんの「坂本氏批判」の理解では、結論だけが報告されていて、この書物がどのよう な手法で、どのように論証されているかが報告されていないので、ただ、信じろということになります。極めて誤解を招 く結果となります。特に、「四拝または四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったことでは ない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えているだけのことである。従って、四拍手に ついて、死の観念などの介入する余地は全くない。」というような言い方は、真理を探究する学徒にあるまじき姿勢で す。少なくとも、学徒は、「他説」への反論を試みる場合には、「権威」ではなく、「具体的な事実もしくは論理」なくして は否定できない筈です。「見てきたような嘘を言い」にならなければ幸いです。 最後に、この掲示板は「伊沢掲示板」でして、オープンを歌っていても、私信的な要素もあろうかと思いますが、私信 にしては随分とひどい書き方ではないでしょうか。なお、NIFTYでの構えととは、本質的にことなると思いますが、もし、 こうした論争がNIFTYで交わされているとすれば、NIFTYそのものは極めて、非常識と言わざるを得ません。もし、 私が、現状でのNIFTY議論に参加するとすれば、やはり相当の専門知識と時間的余裕を必要とするでしょう。現状 では無理です。 Time : 1998/11/16(月) 13:15:05
Name : とてとて E-mail : totetin@geocities.co.jp Title : 柴島神社 Comments: 大阪は東淀川区の柴島神社内に「仲哀天皇社(だったけ?)」なる 小さな社があります。 確か、立て札いわく 「当時はこの辺りは森で」「仲哀天皇が休んだ」んだそうです。 他にもいろいろ書いてありましたが、忘れました。 この社が建っている意味がよくわかりません。 どういう目的で建てたんでしょう? なんか奇怪ですなあ。 Time : 1998/11/16(月) 16:15:26
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : きんたろう様 Comments:    上海出身の青年実業家で、母校の華東師範大学から東大大学院(農業経済専攻)に留学した友 人に、懸案の鳥居について尋ねました。彼によると、中国では、山の入り口には必ず山門が建て られ、その形が鳥居に似ているとのことです。山というと、神仙思想につながりそうですが、日 本のように山そのものを信仰する思想は古来ないとも話していました。ちなみに、山門の形は、 鳥居から双横の出っ張りを取ったもので、横浜中華街の入り口の門と同じだそうです。  韓国においては、忠清北道出身の親友が「村々の入り口で、道の両脇に守護神(人の姿)を対 で建てている」と教えてくれた、と以前に書きました。事件取材でソウルと、地方の村に飛んだ ことがありますが、神像があったかなかったかまで注意が回りませんでした。しかしながら、木 彫りの 神像が土産品になっていることだけは確かです。上記の親友は、金官金家、つまり朝鮮 に幾つか興った金王家の一つの直系子孫です。                           管理人 Time : 1998/11/16(月) 19:31:32
Name : 横山 雅彦 E-mail : Title : 井沢先生に質問 Comments: 前略 最近のSAPIOに井沢先生と江畑謙介氏との対談が載っておりま したが、井沢先生の右目が少し変でした。まだお悪いのでしょう か。それからテポドンミサイルに関する現代批評ですが、先生は 山本七平氏の「一下級将校から見た帝国陸軍」はお読みでしょ うか。その中に「空軍の援護無しに艦隊を出すことは自殺行為で ある」と言った人間が戦艦大和を特攻させたといったことが書 かれてあります。これもまた日本人研究の対象になるのではな いでしょうか。 草々 Time : 1998/11/16(月) 19:47:22
Name : KANAK E-mail : kanak@mtf.biglpbe.ne,jp Title : RE:「逆説の日本史2」四拍手問題に関して Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 管理人さんへ、・・・メールアドレスの件完全に私の誤解で、まことに失礼し ました。お詫びして掲載いたします。 <(_ _)>ペコ さて・・・「四拍手問題」につきJF生さん、志田さんからコメント頂きまし たので、私の意見も申し上げたいと存じますが、該当部分についてNIFTYに掲載 させて頂いてよろしいでしょうか?ご回答をお待ちします。 ただ、志田さんのコメントについては・・・私が10/29にUPした坂本氏論文抜粋 をお読み頂いた上のモノかどうかよく分からないのですが、この点についても 併せてご回答をお願いします。(以下の経過をたどっています) 10/29 大島さん  →石井さんへKANAKさんからの返事(坂本氏批判紹介) 11/02 大阪JF生さん →坂本説を見て 11/05 大島さん  →大阪JF生さんへ 11/06 大阪JF生さん →大島さんへ 11/14 KANAK  →「逆説の日本史2」四拍手問題について 「先般、10/27#2183 で「梅原説=四拍手問題」に関する「坂本氏批判」をご 紹介いたしましたが、それに対し ”この問題については既に井沢さんが論破 している筈・・・”との意見が有ったようです。・・・」 (仮にお読みでないとすれば、一寸悲しいですね(>_<;)・・・出来れば読後あ らためてご感想をお寄せ頂ければ有り難いのですが・・・。) Time : 1998/11/16(月) 22:53:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  記事転載は大島様にも同じ事を言ったと思いますが、 OPENな性格のBBSでのものですので、 少なくとも小生はOKです(役に立たない気もしますが)。  まだ小生のお願いが届いたかどうかが不明ですが、 よろしくお願いします。  しかし、坂本説を小生は観ていますが、基本的には、 志田様の考えと同じです。  当時4=死でないというのは、遣唐使の船の数が根拠で、 4拍手が一般的だったのことですが、それなら現在はなぜ 2拍手中心になってしまったのか、史料的に何か裏付けが とれるのでしょうか?正確には、志田様がおっしゃるように どの程度まで、4拍手がすたれているのかデータをとらないと だめだとも思いますので、多くの時間を要すると思いますが、 14日付薩摩人様の記事のような結果に終わるように感じます。  ところで、木幡に関する久松潜一氏の説を有力視される根拠が、 不明ですが、(このように基本的に根拠不明と指摘されている 部分が過去ログにかなりあると思いますので、 これらに根拠をつけて欲しいのが、小生のお願いです) この説を天智暗殺否定の史料として引用されるのは、 論理的矛盾であると存じます。 なぜなら、 >木幡山とするとその御命がすでに御身から離れて >木幡山にいられるように思われるし、 という言い方は、天智がここで死んでいないという説が 前提になっているからです。「結論先取り」のミスと存じます。 むしろ素直に読めばこうなりますよという指摘に見えますが、 いかかでしょうか? Time : 1998/11/17(火) 09:56:05
Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : KANAKさんへ Comments: KANAKさんが本ページに来られたという事で まずは歓迎の意を表します。 ですがKANAKさんの論については 疑問を感じる点が有りましたので、書かせて頂きます。 >再度の立ち読みで、「逆説の日本史」読み残し部分に目を通し >ましたが・・・ >以下の井沢氏の主張についても疑問を感じました。 >それは大仏殿に関するものですが、かの有名な「雲太、和二 >、京三」を例証に >大仏殿は出雲大社(の怨霊?)に遠慮して、敢えてそれより >少し小さく作った >・・・と言うような記述です。 ・・・とのことに寺院建築様式その他を用いて反論されています。 ですが、どうもご理解されていないようです。 小さく作ったことが「事実」であるとは 井沢先生は言っておられません。 手元に資料がないので正確には転写できないのですが、 「たとえこれが伝承であったとしても このように伝えられていたことが重要なのだ。」 つまり、「平安中期の人々が出雲大社は東大寺より 大きい、といっていた、信じていたことが重要なのだ。」と 井沢先生は「公称の身長」を例にとって述べておられます。 塔の高さうんぬんよりも、この「伝承」、口遊の存在自体に意味が 有るわけです。よって >「雲太、和二、京三」になるかも知れませんが、本当に >建築物の高さにそれ程 >の意味があったのでしょうか? >それならば、塔の高さについても遠慮があって然るべきかも >知れませんね。 遠慮はなくても構わないのです。 また、大国主が死ぬ時、アマテラス側は「大きな神殿を作り、 大きなしめ縄を結わえてあげよう。」という趣旨のことを 述べていたと思います。(これもうろ覚えなのですが・・・) よって、大国主の鎮魂のためには 出雲は何よりも(東大寺よりも)大きくなければならないのです。 つまり「口遊」の存在自体がオオクニヌシの怨霊の存在を 認める資料だと思うのです。 出雲大社はかつて奇妙なたてられかたをしていたという 伝承も有り、資料館にはその模型が飾られていました。 非常にバランスの悪そうな建築でした。 そこまでして出雲大社を高くする必要性はどこにあったのか? 少なくとも私は井沢先生以上の説得力を持った説を 寡聞にして知りません。 私はこれも怨霊信仰の傍証だと思います。 やはりKANAKさんには「逆説の日本史」を 一読して頂きたいと思います。どうも先生の説の意味するところを 基本的に間違えている、誤解している部分が 多すぎます。 Time : 1998/11/17(火) 11:58:33
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: 天智問題について私の意見を述べさせてもらいます。 私の意見をNiftyにUpしてもらってもOKです。 >例えば「扶桑略記」で云えば、上記のとおり皇円は基本的に「日本書紀」の記 >述を認めていますが、これについては書紀の権力迎合姿勢に追随したモノとし >て、一刀両断に切り捨て、異説のみ重視しておられるようですね。 >皇円の天智行方不明説を取るならば、同時に天武が天智の同腹弟であり、天智 >から後継者とされていたと言う皇円の歴史認識も認めるべきではないでしょう >か?(皇円の天武出自は極めて明快ですね) まず、私が天智暗殺説を支持してるからといって「扶桑略記」を100% 信じているわけではありません。「略記」のAという部分を信じているなら Bも信じろというのはおかしいと思います。 (もちろん「書紀」だってすべてを否定している分けではありません) 他の資料や天智の墓の場所などの問題などを含め考えると 「天智は暗殺された可能性が高い」と私は思うのです。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、天智系に皇位が移動する可能 >性はあり得ないでしょうし、仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとした >ら新たに権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にして >いたでしょうね。 天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが 詐欺まがいの手段を取ったからです。 そうでなければ天智系の復活はなかった。 天皇家は「万世一系」という建前があります。 だから「公式」に天武系の事業を全て否定するのは 難しいと思います。 その代わり「私的」な仏壇では天武系を排除しています。 Time : 1998/11/17(火) 12:32:50
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 御柱祭と出雲大社 Comments: NHKの「堂々日本史」で放映していたことをお伝えします。 あの番組は、ほぼ学会で認められている説を述べていますし、 思想的な見方を排除して、考古学的、実証主義的なので、 怨霊史観を丸々信じない人もあの番組の内容なら信じてくれると思います。 現在諏訪で行われている「御柱祭」は, 弥生時代に日本海沿岸全域で行われていたことが、 考古学的に実証されているそうです。 富山県にある遺跡によると、彼らは相当高度な建築技術を持っていたようで、 何本もの巨木を束ねて柱の強度をあげて、 数十mもの柱、あるいは出雲大社のようにてっぺんに神殿を点てていたようです。 建築学者が、このような方法ならば、伝説上の出雲大社を建設することは可能だといっていました。 「雲太、和二、京三」は事実かもしれないのです。 他ならぬ学者達が言っているのです。 そして出雲大社があった場所は、古代は入り江の入り口で、 巨大な神殿は見張り塔の役目もはたしていたといっていました。 敗者のモニュメントを破壊しないで鎮魂に用いるのが日本人の伝統ならば、 出雲大社はぴったりと当てはまるのです。 そして、学問のほうも非常にゆっくりとした足取りながらも、伝承を実証しつつあるのです。 Time : 1998/11/17(火) 13:47:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: あなたは、井沢先生の怨霊史観を売らんかなの商業主義と警戒しているようです。 私自身先生の作品は半分も読んでいませんが、 先生の意図をこのように理解しています。 日本人の考え方には、中国や西洋の思想だけでは説明しきれない部分がある。 特に「和」と「議論が下手」の2つは、日本人を日本人足らしめている性格のように見える。 この問題を追求したほとんど唯一の人として山本七平さんがいます。 山本七平さんの「日本人とは何か」(PHP文庫) イザヤ=ベンダサンの「日本人とユダヤ人」「日本教徒」 を読めば、日本人のこの性格は、日本人が「人間」を基本にした思想を持っているからだとわかります。 この場合「人間」は長所短所があります。 井沢先生が山本七平さんとイザヤ=ベンダサンに多大な影響を受けているのは間違いありません。 何故日本人は「和」を重んじ、「議論が下手」になったのだろうか? を、 井沢先生は日本の歴史から解明しようとしているのです。 人間を規制するものを「神」と呼ぶならば、 日本では何故「人間」と「言葉」が「神」になってしまうのか? 「人間」は「怨霊」となることによって「神」となり、 「言葉」は「言霊」となることによって「神」となって私たちを規制すると井沢先生は言いたいのです。 「逆説の日本史」の古代編だけを取り上げると、怪しい本になる可能性もありますが、 日本史全体で見た時に、「怨霊」と「言霊」がどう現在の私たちとつながるのか分かるはずです。 批判精神を持って本を読むのは非常に大切なことだと思います。 ただ、井沢先生は決して「怪しい」人でも「金の亡者」でもないことはわかって欲しいです。 それに、私は「商業主義」は悪いことではないと思いますよ。 Time : 1998/11/17(火) 14:15:30
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 承前 Comments:  時間がなかったので、分けてかこうと思っていたら、 あっという間に次々と意見が出ていたので驚きました。 安部様のご意見は非常に興味深い話で、わくわくしました。 石井様のご意見はまさに次に述べようと思っていた意見を より的確に述べておられますし、輔住様の言おうとなさっている ことも小生と同じです。  特に輔住様が言及された部分は問題の多い個所と存じます。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 この感覚はおよそ歴史に関わっている方のものとは小生には思えません。 この伝でいくと人類の歴史に戦争や略奪はありえないと思いますが・・・。 >仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとしたら新たに >権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を >焚書にしていたでしょうね。 といわれる点が、石井様がもっとちゃんと「逆説の日本史」を お読みくださいといわれるゆえんの一つと思われます。 万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」 であるような「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが 残っている理由はどう説明するのでしょう。 出雲大社もとりこわしになったはずです。 このような「あやふやな説」を根拠にして >要するにそんなモノは小林氏とそれを利用した井沢氏の >意図的(敢えて云えば商業的)空想の産物に過ぎないと >思いますが・・・・如何でしょう? という中傷紛いの文章を平気でこの場に載せられるのが、 (しかも著書を十分読んでいない段階で) 志田様がNiftyも含め、憤慨なさっている理由ではないでしょうか? このマナーの件に関しては、小生はかなり紙面を使いすぎたので 黙っていたのですが、やはり一言くぎをさすべきだと思い直しました。 大島様が他人の意見を引用するのとは違って、ご本人が自説を 述べられているのですから、さまざまなことを考慮した「現在の」 KANAK様のご意見として、書き直されるべきと思います。   Time : 1998/11/17(火) 15:01:05
Name : きんたろう E-mail : Title : 管理人様へ Comments: 今回の事、どうもありがとうございました。 そうですか、上海の方でも同じような建築物が存在するのですね。また韓国でも そうだということですか。 まだ自分の中でよくイメージとして確立していないのですが、すると鳥居(のような形のもの) はおそらく東南アジア一帯に存在するということだと思われますね。 だとすると古代人というのは、私が想像していたよりもかなり広範囲にわたって 活動をしていたという事なのでしょう。 そして今で言うところの国際的な社会が形成されていた。 何か考えているだけでわくわくしてきました。 私は昔凱旋門を見て、その規模は比較になりませんが、 鳥居に似ていると思ったことがありました。 ただ、ヨーロッパと日本ですからそれらに関連性はあるとは思えませんでしたが、 どうしてああいった門が、大勝利のモニュメントとして意味されたのか疑問でした。 もう少し考えがまとまったらまた書こうと思います。 今回はどうもありがとうございました。 Time : 1998/11/17(火) 18:56:34
Name : KANAK E-mail : same Title : 「逆説の日本史2」ご意見有り難うございます Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 流星群の影響か、私のオンボロPCが変調をきたし? 昨夜はUP不能となりましたのでNIFTYとテレコになってしまいましたが、 社員の目を盗んで時間中UPいたします。 いろいろと貴重なご意見ありがとうございます。 <(_ _)>ペコ みなさんのご意見に関しては、順次お答えいたしたいと存じますが・・・ 何しろ喰わんがための仕事を抱えていますので、少し時間がかかるかも知れま せんが、何卒ご了承願います。(>_<;) なお、既に申し上げたとおり、私は全てNIFTY上でコメントするつもりですが、 現在掲載されているご意見で転載不可とされる方はいらっしゃいませんね? 順不同で随時転載いたしますので、予めお含み置き願います。 なお、石井さん(お久しぶりです)にお願いいたします・・・ 現時点では、私も「逆説の日本史」1・2を所持いたしておりますので、ご指 摘にさいしては原則として井沢さんの著書をご確認頂けないでしょうか? 「小さく作ったことが「事実」であるとは井沢先生は言っておられません。」 とのことですが、私にはその様には読みとれません。(修飾語の多い、分かり にくい文章ですが・・・私の読解力不足でしょうか?) 特にP483「東大寺大仏殿が一丈だけ出雲大社に”遠慮”した謎」以降の記述を ご参照頂ければ幸いです。 続いてJF生さんに申し上げます・・・四拍手問題は極力本日NIFTYで回答する つもりです。(倭姫挽歌問題は少し遅れますが、追って回答致します) ただ、輔住さんコメント及び「承前」については、取り敢えず以下で回答致し ます。 >>天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが詐欺まがいの手段を取っ >>たからです。そうでなければ天智系の復活はなかった。 ・・・ですよね、とすれば重臣の陰謀で異姓王朝の転覆(復辟)が実現したと お思いなのでしょうか? 易姓革命とは全く次元の異なる親族間の皇位継承争いが如実に示されており、 コレコソが天武系・天智系が同一王朝であり、双方がほぼ拮抗した皇位継承権 を有していた証拠だとはお考え頂けないのでしょうか? ところで、JF生さんには失礼ですが・・・ >>この感覚はおよそ歴史に関わっている方のものとは小生には思えません。 >>この伝でいくと人類の歴史に戦争や略奪はありえないと思いますが・・・。 この様なツッコミはご勘弁願います。私の真意は上記のとおり・・・ ”天武系から天智系の皇位移動には革命・争乱的要素は全く見られない” ことを述べたのであって、人類の争乱の歴史を述べたモノでは無いことは明白 でしょう? >>万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」であるような >>「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが残っている理由はどう説明する >>のでしょう。 私は、唐・新羅・渤海等に対する国威発揚と、天皇家のレヂティマシー確立を 目的とした神国思想的「正史」のことを申し上げているのであって、「文学書」 と同一次元でご理解頂いては困ります。 ・・・こういった議論は正直言って疲れてしまいますね(^^;) では、また! Time : 1998/11/18(水) 10:20:07
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: どうも話がかみ合っていないようです。 出来れば、あなたの歴史の見方の基本になっているような本や、著作者を 改めてお教え願えないでしょうか? 共通な立地点がないと議論が進まないと思うので、 私は、あなたの歴史の見方も勉強したいと思います。 もしもそちらの方が正しいとなれば、 私も宗旨替えをすることもあるかもしれません。 しかし、今のままでは、お互い平行線のままだと思います。 ですから、あなたの薦める本や著作カを是非教えて下さい。 Time : 1998/11/18(水) 10:50:33
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 古典文学と歴史 Comments: 井沢先生は、物語は「物の怪」の「もの」 つまり、「怨霊」を語ることによって鎮魂する祈祷書のようなものだ、 したがって、「物語(古典文学)」には、正史に隠された真実がある、 という考えを「逆説の日本史」の根拠にしています。 ですからKANAKAさん 「正史」と「文学」を同レベルで語ってはいけないとおっしゃるならば、 私たちと議論そのものが成り立たないことになってしまいます。 それとも、もっと根本的な、 井沢先生の歴史解明の方法自体について議論するつもりなのでしょうか? ですから、このままでは「議論にならないから、回答を拒否する」という いやあな事態を招来しかねません。 Time : 1998/11/18(水) 11:05:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  すばやく安部様が反応されましたので、言うことがなくなって しまいましたが、安部様のおっしゃる通りです。 どうも多面的に検討されずに、ごく限られた一面のみしか 考慮されていないのは、KANAK様御自身と思われます。  再度質問しますが、 >”天武系から天智系の皇位移動には革命・争乱的要素は >全く見られない” を主張しておられるのは分かりますが、 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 という文章はどう論理的に解釈すればよいのでしょうか? 典型的なIF−THEN型の文章で、因果関係を述べているようにしか 読めないのですが、とりあえず、この点だけ質問します。 Time : 1998/11/18(水) 12:10:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 私が言いたかったこと... Comments: KANAKさんへ:  ご返答どうもありがとうございます。 しかし私の真意が伝わったとは思えません。 私が前回 >天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが >詐欺まがいの手段を取ったからです。 >そうでなければ天智系の復活はなかった。 このように書いたのは当時の常識から言えば 「天智系の復活」など考えられなかった。 一種の革命だったと言いたかったのです。 「逆説の日本史」1巻と2巻はお持ちのようですが、 他の巻も読んでほしいと思います。 (特に桓武天皇の第3巻は是非) 安部奈亮さんへ:  いつも議論のことで心配かけてしまってますね!ありがとうございます。 Time : 1998/11/18(水) 12:30:29
Name : 石井一旭 E-mail : Title : お詫びと訂正 Comments: KANAKさんへ。 前回の私の文章ですが、思い切り誤った部分がありました。 「小さく作ったことが事実とはいっていない」というのは大間違いです。 私がいいたかったのは、「出雲大社が事実東大寺より小さくても 問題ではない。」ということです。 「全然違うじゃないか!!」と怒られても、仕方のないミスだと反省しております。 KANAKさんはじめみなさまに ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫びいたします。 そこでもう一度、私の意見を集約したいと思います。 今度は「逆説の日本史」(ただし文庫版ですが。)を手元に置いて 問題の箇所を提示させていただきます。 文庫版で1巻の184ページから、題名は 「十七条憲法と日本の三大建築物の『大きさ』」です。 「・・・こういう反論もあるかもしれない。 『出雲大社が日本で一番大きな(背の高い)建物というが、それは単なる言い伝えではないか。 出雲大社程度の床面積の建物が十六丈もの高さを持つことは、構造上無理があり、 おそらくそれは単なる伝説で、実際には東大寺大仏殿の方が常に一番大きな建物だったのだろう。 それゆえ井沢の主張は成立しない・・・。』と。(略) しかし、それでも、私の理論は崩れないのである。なぜなら、 実際の高さと「公称」の高さは違うものだからだ。(略) そして、『出雲大社が一番で東大寺より大きい』と、一般の人々が 『信じていた』ことは、『口遊』で証明できるのである。(略) ここではっきり言えることは、平安時代の学者が『出雲大社は東大寺よりも大きい』と信じていた、 ということだ。(略) 当時は、一般に広く、そう信じられていたことの、なによりの証拠だろう。 そして、『信じている』以上、それは『事実』なのである。その『事実』によって人々は影響されるのであって、 『実際には東大寺の方が大きい』という『真実(?)』に影響されるのではない。 霊と同じだ。人は『霊など存在しない』という『真実(?)』に動かされるのではなく、 『霊は存在すると信じる』という『事実』に動かされるのである。」 以上です。 つまり重要なのは「当時の人々が(貴族から子供まで)出雲大社は東大寺より大きい」と 「信じていた」ことなのです。 この場合、実際に両者の大きさがどうであろうと関係ありません。 そう「信じている」以上、それが「事実」である訳ですし、また「事実」として 世間一般に知れ渡っていたのです。  よって、井沢論にたいして、建築物云々で反論することは無意味ということです。 Time : 1998/11/19(木) 00:15:44
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(2)NIFTY発言-A転載 Comments: 井沢さん、HPのみなさん、今日は・・・KANAKです。 私のオンボロPCの不調(HPが文字化けして受発信が出来ません)が続いて いますので、ご回答が遅れていますが・・・ご了承願います。 以下にNIFTY発言を転載いたします。 11/17 #2268 RE:^A「逆説の日本史2」四拍手問題 先般、伊沢さんHPに 11/10 #2245「逆説の日本史2」四拍手問題 05/05 #1388 RE^9壬申の乱について教えて下さい・・万葉集補足 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 05/10 #1411 RE^11 同・・・大仏殿・万葉集問題補足 を掲載いたしましたが、それに対し大阪JF生さん他からコメントがありまし たので以下にご紹介いたします。 (もう一名の志田さんについては掲載了解の依頼中です) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  当時4=死でないというのは、遣唐使の船の数が根拠で、4拍手が一般的だっ たのことですが、それなら現在はなぜ2拍手中心になってしまったのか、史料 的に何か裏付けがとれるのでしょうか?正確には、志田様がおっしゃるように どの程度まで、4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思い ますので、多くの時間を要すると思いますが、 Time : 1998/11/17(火) 09:56:05 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以下に私の考えを申し上げます。 まず、坂本氏批判における「四と死」の関係については別途#2257で熊谷さんか らもご指摘いただきましたが・・・完全に私の手抜きによるもので、みなさん にご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。 (言い訳になりますが・・私は後段の「四拍手の由来」を重視しておりました。) あらためて、以下に坂本批判における該当部分を再録いたします(11/15#2265) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「・・中国古代においても、四神、四宝、四善、四器、四聖など、大体佳事と 考えてよいものに四を用いた例が多い。(各の説明省略 K)書籍を分類して 四部とし、それを蔵する所を四庫といい、『礼記』を抜粋して四書を選び、大 学につぐ学校として四門学をおく。四を忌避した様子は全くない。 日本でも崇神紀の四道将軍、仲哀紀の四大夫、応神紀の工女四婦女、天智紀の 四嬪・四宮人などは『日本書紀』で自由に四の字を用いている例である。 遣唐使が・・(既出により省略 K)。 『万葉集』でも字音仮名として、四の文字を使っている例が多い。 ・・・「大和にしては」原文「倭尓四手者」とある。 ・・・「朝夕にして」・・原文は「朝夕四天」とある。 ・・・「君無しにして」・・原文は「君無二四天」である。 ・・・「家にして」・・原文は「家二四天」である。 ・・・「侘びそしにける」・・原文は「和備曾四二結類」である。 ・・・「気の緒にして」・・原文は「気緒尓四而」とある。 『万葉集』の歌人たちには、四は死と連なるような不吉な文字だという思想は いささかもなかったことがこれらの例でわかる。・・・」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は、梅原・伊沢説における「四と死」の語呂合わせについては、ほぼ十分な 「反証」であると考えています。 さらに(既出)後段の『儀式』巻三践祚大嘗祭儀・『日本後記』延暦十八年の 条・『北山抄=本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』によって四拝(拍手)が 古式であったこと、略儀として二拍手に移行したことも殆ど立証されていると 考えます。 また、坂本氏は触れておられませんが、HPで発表のあった「弥彦神社」 「伊勢神宮=正式には四拝重礼?」の例もある意味ではこれを裏付けるものだ と理解しています。 ただ、大阪JF生さんのご指摘にある・・・ >>4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思いますので、 等についてはさらに検証の必要があるかもしれませんね。 しかし、私がまず井沢さんに申し上げたいのは、 ”何故このような「梅原=四拍手説」に対する明白な「坂本氏批判」を無視さ れたのですか?” ・・・と言うことなのです。 私は、大阪JF生さんが「伊沢反論がある筈・・・」と仰ったときに、正直言 って救われた気がしました。少なくとも古代史研究者の良心として、一般読者 に対する義務として・・・坂本批判を無視して「四拍手問題」を論ずることは あり得ないと信じたかったからです。 (例え井沢さんが見当違いの批判だと考えられたとしても・・・です。 一般読者が「坂本説」を参照することは殆ど不可能に近いことでしょう。 私が微かな記憶を頼りに「坂本説」にたどり着くため、図書館の検索機を十回 近く叩いたのですから・・・・殆どの読者は「坂本批判」等は知らないままで、 「梅原・井沢=四拍手説」を理解してしまうのではないでしょうか?) 私は、新たな史論の発展は先行説を「無視」することではなく、「論破」する ことでのみ遂げられるものだと考えています。 坂本氏は「法隆寺怨霊寺説について(二)」論文を発表されるに当たり次の様 に記述されています。 「法隆寺怨霊寺説について(一)は、『隠された十字架』に対する、史家とし ての最小限度の反論である。誰も議論の余地はあるまいと思う部分について述 べただけである。しかし、書中にはなお史料の誤読や、認識の付会が各所に存 在する。一々アラを挙げるのは本意でないが、一般読書人にそれが事実と受取 られるのは宜しくないと思うので、その若干を付け加える。」 この気持ちがお分かり頂けるなら、今からでも遅くは有りません。井沢さんご 自身が、正々堂々と真正面から「坂本氏批判」を取り上げ「論破」されんこと を切望いたします。 98/11/17 なお、倭姫皇后挽歌については別途申し上げます・・・ Time : 1998/11/19(木) 09:37:26
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(3)易姓革命問題等 Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 以下11/18発信予定でしたが、PC不調のため遅延しました。 (石井さん、率直なご意見に敬意を表します。あらためて回答させて頂きます が、宿題が多いモノで少しお待ち下さい)) 昨夜は、幻の大流星群を寒さこらえて見上げていましたので、今夜は早寝です。 それでは、早速ですが 安部さん11/18 10:50ご質問に関して・・・ >>出来れば、あなたの歴史の見方の基本になっているような本や、著作者を改め >>てお教え願えないでしょうか?共通な立地点がないと議論が進まないと思うの >>で、 私は、特定の教義・史観・学説にとらわれず、如何にお粗末であっても私自身の 判断で、歴史を考察したいと考えております。従ってあらゆる方が私の教師であ り反面教師です。ただ敢えて反面教師を挙げれば・・・八切氏・小林氏・大和氏 ・鹿嶋氏等でしょう。(ご要望に沿えず申し訳ありません) なお念のため申し上げますが、私は坂本氏に対しても疑問点は持っていますし、 当然ながら井沢さんのご意見に全面的に賛同する部分もあります。 例えば・・・井沢さんは小林氏の天武=淵蓋蘇文等の外国人説を批判されていま すが(P380)論旨は尤もであり、当時の国際情勢・国内事情・諸史料等を少しで も考察したものならば、当然至るべき結論だと思っています。 さらに、私は現在の議論がかみ合っていないとは考えておりません。私たちの共 通の立地点は・・・「井沢説」を土台として、我々に与えられた諸史料をより整 合的に解釈し、少しでも歴史の真実に近づくべく切磋琢磨しあうことではないで しょうか? 同じく 11:05 ご意見に関して・・・ >>「正史」と「文学」を同レベルで語ってはいけないとおっしゃるならば、 >>私たちと議論そのものが成り立たないことになってしまいます。 私は「文学書」の史料価値を些かも否定するものでは有りません。 だからこそ、天智死亡に関する倭姫その他の万葉挽歌を引用したのです。 この部分はあくまでも・・・ >仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとしたら新たに権力を得た桓武は >(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にしていたでしょうね。 >>万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」であるような >>「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが残っている理由はどう説明する >>のでしょう。 と言う議論において「正史」と「文学作品」ではその制作目的(特に政治的意 味合)が異なることを述べたものなのですが、言葉足らずだったでしょうか? 大阪JF生さんご質問に関して・・・次のとおり分解して下さい。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 >>という文章はどう論理的に解釈すればよいのでしょうか? 1.IF 仮に異姓者「天武」が前王朝皇帝「天智」を暗殺し、その後継者   「弘文」を放伐する事で易姓革命を成し遂げたとした場合・・・ 2.THEN 前王朝皇帝直系孫と「天武」の後継者(天武王朝の皇帝)は不   倶戴天の仇敵になる筈です。(中国ならば当然にして一族抹殺でしょうね) 3.AND その天武王朝を転覆し、前王朝の直系孫が復辟(逆易姓革命)に成   功すると云うことは 「前漢」→「新」→「後漢」に匹敵する大事件でし   ょう。    4.SO 従って天武王朝は「壬申の乱」に匹敵する大争乱を以て抵抗しても   何の不思議もない事態です。 5.BUT しかしながら、タカダカ天武王朝重臣の詐欺まがいの手段で易々   と皇位は前王朝の直系孫に移動したのです。 このHPに参加されておられる皆さんは、本当にこれが前王朝から天武王朝へ の易姓革命、そして天武王朝から前王朝への「逆易姓革命」だと仰るのでしょ うか?   私にはどう考えても同一王朝内部の皇位継承を巡るゴタゴタ程度にしか思えな いのですが(要するに「南北朝」と称する「大覚寺・持明院」の皇統争いを越 えるモノではないと思うのです。) 井沢さん・・・本当のところ貴方はどの様にお考えなのでしょうか? Time : 1998/11/19(木) 10:03:23
Name : 石井一旭 E-mail : Title : KANAK説の疑問 Comments: KANAKさんのお考えはよくわかりましたが、 どうも腑に落ちない点があるので再度反論いたします。 >2.THEN 前王朝皇帝直系孫と「天武」の後継者(天武王朝の皇帝)は不 >倶戴天の仇敵になる筈です。(中国ならば当然にして一族抹殺でしょうね) >4.SO 従って天武王朝は「壬申の乱」に匹敵する大争乱を以て抵抗しても >何の不思議もない事態です。 それはもちろん、外敵侵入が日常茶飯事である中国ならば 「一族でさえも同罪と見なし」抹殺するでしょう。しかしこれは日本の話ですよ? それに天武王朝は、「道鏡事件」などで、強引な政策を連発した天智天皇のごとく 一般の支持を失っていたと思います。 その証拠に称徳女帝に取り立てられて大出世を果たした吉備真備すら、 最後には女帝の意志に反する行動・・・すなわち「道鏡天皇化排斥」運動(?)に 荷担しています。 (また、女帝薨去時には、東大寺をはじめとする「軍事部門」はすべて藤原氏及び 真備に押さえられていました。天武側が先手をとられた、あなたの説でいえば そういうことになります。) 寵臣ですら裏切ってしまう王朝・・・どう考えても広範な支持を得ているとは思えません。 そして豪族、ひいては民衆の支持がない限り、復活した天智王朝に弓を引くことはできませんよね。 現に天智朝は東国の豪族の力で倒されました。 >5.BUT しかしながら、タカダカ天武王朝重臣の詐欺まがいの手段で易々 >と皇位は前王朝の直系孫に移動したのです。 これも、人々が天武王朝に嫌気がさしていたことが原因の一つと考えています。 聖武天皇は財政逼迫も省みず遷都を繰り返し世界最大の大仏を建て、 称徳天皇は「日本独自のルール」を破って道鏡に位を譲り、「皇帝制」への移行を 試みるなど、(そしてそこに至る手段も独善的かつ強引なものです。) 仏教信者などの視点から見れば「日本の旧威泰然たる殻を破った善政」かもしれませんが、一般にしてみれば 「財政逼迫の悪政」でしかありません。 豪族階級とて同様でしょう。藤原氏をはじめとする彼らは「天皇制」あっての 権力者なわけで、称徳の実現せんとする道鏡天皇が実現したならば必ず来るだろう「実力本位主義」「貴族政の崩壊」 (天皇が血統に縛られていないわけですから、当然そうなるでしょう。) に対しては非常に抵抗を示すはずです。 こんな状態で政権に反乱が起こせますか? まして中国ならまだしも、ここは日本です。「九族皆殺し」のあり得ない世界です。 一族であれば命までは取られはしません。現に天智の子孫は生き残っています。どころか「王」として存在しています。 前王朝の生き残りがいること自体が中国と日本の違いを示しているとは思いませんか? 天武王朝の生き残りはそれらをふまえた上で、あえて「生き残る」方を選んだのでは ないでしょうか。 あるいは、これは私個人の考えなのですが、天武王朝は自らの編纂した「日本書紀」に 束縛されたのではないでしょうか? そこには「天智と天武は兄弟だ。」と、明記されています。 つまり、「天智と天武は兄弟なんだから、白壁王にも皇位継承権がある。」ことになります。 これがもし書紀に「天武は革命を起こして天智王朝に取って代わった。」と書かれていたなら、 天智王朝にはけっして皇位は回ってこなかったでしょう。 ところが「兄弟」としたがために表面的には「易姓革命」ではなくなったわけです。 しかもそのことを示す記録を書いたのは他ならぬ彼ら天武王朝側です。 ですから天武側には白壁王即位に反対する「大義名分」がないことになりますよね。 (「大義名分」は後世明代の言葉ですが、他に適当な言葉が見つからなかったので やむを得ずこうしました。) よって、 1,貴族から民衆まで、支持を得ていない。 2,天智、天武が「兄弟」である以上白壁王即位に反対する理由がない。 3,称徳の「遺言」という形で継承者が決まっている。(つまり天皇の遺志である。) 4,軍事はすべて「反称徳派」に握られている。 ここまで多くの障害があっては、天智王朝への「反乱」どころではないと 思うのですが・・・。 Time : 1998/11/19(木) 11:23:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  まず、小生の質問に対し、真摯な態度でご回答いただいたこと、 お礼申し上げます。貴方がいいたかったことはよく分かりました。 ただし、4に関しては可能性の問題で、実際にそうならなくても 不思議ではないと思っていますので、この点のみ見解は違います。 したがって、結論も異なってきます。 決着のつかない問題は、これからもあって当然と思いますし、 その過程における議論は、無駄にならないと考えていますので、 今回のやり取りは、小生にとって有益でした。 ただ、このようにかなり説明されないとよくわからない部分が ありますので、今後もよろしくお願いします。  それで別の問題で質問しますが、安部様が弁護された件で、 >「正史」と「文学作品」ではその制作目的(特に政治的意味合)が >異なることを述べたものなのですが、言葉足らずだったでしょうか? という点に関連して、万葉集・源氏物語のどちらでもよいのですが、 これらが含む不穏な要素をどのようにお考えでしょうか? 政治的意味合いと絡めていただけるとありがたいのですが、 ご見解をおっしゃっていただければ幸甚です。 Time : 1998/11/19(木) 11:52:27
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 石井様へ Comments:  前記事は石井様の記事を見る以前のもので、 読んでいたらもっと内容に言及していました。 とりあえず、面白くまた説得的な記事と感じた ことを書き留めておきます。  とくにギロチンの作者がギロチンにかかったように 自縄自縛とはよく言ったもので、 天武系が「正史」に縛られたという点は、 非常に面白く、よく分かりました。 Time : 1998/11/19(木) 12:30:05
Name : 輔住 E-mail : Title : 天智&天武問題 Comments: KANAKさん私はこの問題に関して次の様に考えます。 >1.IF 仮に異姓者「天武」が前王朝皇帝「天智」を暗殺し、その後継者 >  「弘文」を放伐する事で易姓革命を成し遂げたとした場合・・・ >2.THEN 前王朝皇帝直系孫と「天武」の後継者(天武王朝の皇帝)は不 >  倶戴天の仇敵になる筈です。(中国ならば当然にして一族抹殺でしょうね)  天武からすればこれから「弟」を名乗ることになる一族であり、 4人の妻の実家ですよ!日本で一族抹殺などできないでしょう。  また「兄」の一族なら皇族として扱うのは当然です。 >3.AND その天武王朝を転覆し、前王朝の直系孫が復辟(逆易姓革命)に成 >  功すると云うことは 「前漢」→「新」→「後漢」に匹敵する大事件でし >  ょう。  だからこそ桓武が易姓革命の儀式を行なったとは考えられませんか? Time : 1998/11/19(木) 12:36:19
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 易姓革命には二種類ある Comments: KANAKさん、回答ありがとうございます。 あなたは、なかなかの自信家のようです。 なかなかの戦術家でもいらっしゃいます。 私自身は、一定の思想家の考えを自分の考えにすることは、 他人に強制しないかぎり、悪いこととは思っていません。 自力だけで思想を作るのは非常に大変なことです。 何でもセルフメイドでなければいけないと考えることは、私は現在人の不幸だと思っています。 あなたの前途は厳しいでしょうが、頑張って下さい。 また、他人の批判への回答が、言葉の解釈による言い逃れにならないように注意する必要もあるでしょう。 多分あなたは悪気は無いのでしょうが、 何でも自分でやろうとする人は、そういう状態に陥りやすいので気を付けて下さい。 「四拍子」については、あなたの意見の方が正いと思います。 4という数は、調和の取れた数として古今東西重んじられました。 「四拍子」については。梅原先生も井沢先生も考え過ぎの気がします。 「易姓革命」に関しては、あなたは意味を限定しているようです。 これは、天皇家に苗字が無いことによる認識の違いと思います。 苗字が無いことが天皇家の苗字だとすると、 天智天皇と天武天皇は同姓となってしまうという論法だと思います。 壬申の乱の半世紀前に隋の滅亡と唐の建国がありました。 隋の煬帝と唐の李淵は母方の従兄弟です。 ですから、李淵は禅譲の形を取り、隋の一族を生かしておきました。 でも、実質的には易姓革命です。 これからは、狭義の易姓革命を「易姓革命A」 広義の実質的易姓革命を「易姓革命B」と言ってはどうでしょうか? さて、天智天皇と天武天皇が母方の親族だとしたら、 同時代の人間が、半世紀前のこの事件をどう見たかです。 天智朝と天武朝の関係は易姓革命Aでないことは確かです。 この点あなたの言っていることは正しい。 しかし天武天皇と桓武天皇は易姓革命Bの認識は持っていたと思います。 しかし、光仁天皇はよく分りません。 まず、桓武天皇のことから述べます。 光仁天皇には、聖武天皇の娘の井上内親王との間に他戸親王がありました。 本当は、光仁天皇は中継ぎで、他戸親王によって天武朝は続く筈だったのです。 しかし、皇位は桓武天皇に移り、桓武天皇は、井上内親王と他戸親王を殺しました。 こう見ると、光仁天皇にも易姓革命Bの認識はあったようです。 彼は、約束違反をしたのです。 井上内親王の母親は犬養氏という地方豪族でした。 ですから、バックも弱かった。 つまりここには、天智朝と天武朝と藤原氏の壮絶な駆け引きがあります。 日本の律令制の実力者は、太政官です。 天皇ではないことに気を付けなければなりません。(「海女と天皇」梅原猛) 天武朝としては、光仁天皇を中継ぎとして他戸親王に継がせたい。 天智朝としては、母方が弱小な、天智系の王子に継がせたい。 藤原氏は、当時落ち目だったので、天皇家に恩を売りたい。 となると、藤原氏と天智朝の利害が一致するのです。 本来なら天皇になれないはずの山部親王(桓武天皇)を皇位に付ければきっと桓武天皇は藤原氏を重んずる。 天智朝としては、皇位を我が物とし、かつ藤原氏の力はそれ程伸びない。 というわけで、邪魔物となった天武朝の最有力候補は殺されて、残りは(確認してはいませんが)臣籍に落とす。 これはやはり静かなる易姓革命Bでしょう。 ただし、万世一系が日本の建前ですから誰も言わない。 しかし、桓武天皇には、単なる親戚同士の争いに勝った以上の認識があったはずです。 でなければなぜ光仁天皇は他戸親王に皇位を譲らず、桓武天皇はなぜ他戸親王を殺したのか? 藤原氏が盛り返すには、中興の祖の藤原良房を待たねばなりません。 奈良時代前期と摂関時代の藤原氏と天皇家の関係でこの時代を解こうとしても無理です。 Time : 1998/11/19(木) 12:38:18
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 天皇家のレディティマシーと物語 Comments: KANAKさん 天皇家のレディティマシーに興味があるでしたら、 「物語」はレディティマシーの反対者がどう考えていたを知るための良い史料となりますよ。 Time : 1998/11/19(木) 12:52:50
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 易姓革命の実質的な意義 Comments: 古代中国と朝鮮と日本において、ご先祖様は絶対でした。 ですから、ご先祖様の遺制を廃止することなど、不敬の極みで、不可能だったのです。 そんな事をすると。非主流派の一族の突き上げを食らって、一族の長から降ろされてしまうのです。 ですから、国の制度が疲労した時は、易姓革命をして、改革しなければならないのです。 先祖が違えば、いくらでも改革して良いからです。 その意味で、天武天皇と桓武天皇が大鉈を振るって国政改革をしたのは、 彼等に易姓革命の意識があったからできたことだと私は思います。 それと、南北朝の場合は、両者が互いの存在自体を認めていないので、 易姓革命や、同一一族内のゴタゴタとは、分けて考える必要があります。 Time : 1998/11/19(木) 16:59:08
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 11月の歴史エッセイを登録 Comments: >宇津木和政様、薩摩人様  今回の歴史エッセイは、宇津木様の問題提起に応えて、「武家の官位」が テーマです。HISTORYのページを覗いてみてください。                     管理人 Time : 1998/11/19(木) 22:59:57
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(4)出雲大社と大仏殿 Comments: 井沢さん、石井さん、皆さん、今日は・・・KANAKです。 以下のとおり、NIFTYで発言いたしましたので転載します。 11/19 #2272 RE:^B「逆説の日本史2」出雲大社と大仏殿 好きこのんで手掛けた”異次元RES”ですが、井沢さんHPではワンサと「反論」 「再反論」を喰らい、対応時間不足とPC不調により些かパニクッています。 私のオンボロPCでは、ここ数日井沢さんのHPにアクセスした場合・・・必 ず文字化けが生じ解読不能になるのですが・・・機械的にどの様な原因が考え られるでしょうか? 機械に詳しい方のサジェスチョンをお願いいたします。 Name : ?A?”“T?oE-mail : Title : ?O?c?v???I?A??“I?E?O?`Comments: ?A‘a’†?‘?A’c‘N?A“u?{?E?¨?¢?A?A?2?a‘c?l?I?a‘I?A?μ???B さて、HPにおいては私が本ツリーに掲載せず不用意にRESしたため、話が進展 してしまった部分もあり、それらについては少し整理してからUPしたいと思い ますが・・・次の問題についての石井さんコメントについてご紹介いたします。 05/10 #1411 RE^11 同・・・大仏殿・万葉集問題補足 >それは大仏殿に関するものですが、かの有名な「雲太、和二、京三」を例証に >大仏殿は出雲大社(の怨霊?)に遠慮して、敢えてそれより少し小さく作った >・・・と言うような記述です。 >何か、さも重要な発見であるかのように自画自賛しておられるのですが、視点 >を少し変えてみると、寺院と言うのは金堂・塔・講堂・大門等の総合建築物で >す。従って塔を含めて比較すれば、出雲大社以上の高さを持った建築物は、そ >れ程珍しくもないでしょう。 >まして東大寺の東西塔となれば、出雲大社を遙かに凌駕したモノであったこと >は明らかです。(大仏殿より30−40%は高いでしょう) >勿論この塔は平安時代には失われていたでしょうから、何れにしても一時代は >「雲太、和二、京三」になるかも知れませんが、本当に建築物の高さにそれ程 >の意味があったのでしょうか? >それならば、塔の高さについても遠慮があって然るべきかも知れませんね。 >つまり建物の高さについては、その様な拘りは一切無かったと言う考え方も充 >分成立しうる訳です。 ・・・に関するご意見です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・・・・・・・・私の意見を集約したいと思います。今度は「逆説の日本史」 (ただし文庫版ですが。)を手元に置いて問題の箇所を提示させていただきま す。文庫版で1巻の184ページから、題名は「十七条憲法と日本の三大建築 物の『大きさ』」です。「・・・こういう反論もあるかもしれない。 『出雲大社が日本で一番大きな(背の高い)建物というが、それは単なる言い 伝えではないか。出雲大社程度の床面積の建物が十六丈もの高さを持つことは、 構造上無理があり、おそらくそれは単なる伝説で、実際には東大寺大仏殿の方 が常に一番大きな建物だったのだろう。それゆえ井沢の主張は成立しない・・ ・。』と。(略)しかし、それでも、私の理論は崩れないのである。なぜなら、 実際の高さと「公称」の高さは違うものだからだ。(略) そして、『出雲大社が一番で東大寺より大きい』と、一般の人々が『信じてい た』ことは、『口遊』で証明できるのである。(略) ここではっきり言えることは、平安時代の学者が『出雲大社は東大寺よりも大 きい』と信じていた、ということだ。(略) 当時は、一般に広く、そう信じられていたことの、なによりの証拠だろう。 そして、『信じている』以上、それは『事実』なのである。その『事実』によ って人々は影響されるのであって、『実際には東大寺の方が大きい』という 『真実(?)』に影響されるのではない。霊と同じだ。人は『霊など存在しな い』という『真実(?)』に動かされるのではなく、『霊は存在すると信じる』 という『事実』に動かされるのである。」以上です。つまり重要なのは「当時 の人々が(貴族から子供まで)出雲大社は東大寺より大きい」と「信じていた」 ことなのです。この場合、実際に両者の大きさがどうであろうと関係ありま せん。そう「信じている」以上、それが「事実」である訳ですし、また「事実」 として世間一般に知れ渡っていたのです。 よって、井沢論にたいして、建築 物云々で反論することは無意味ということです。 Time : 1998/11/19(木) 00:15:44 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以下に私の考えを申し上げます。 まず、私は「雲太、和二、京三」を事実であると仮定して、この問題を論じて います。つまり・・・・ 1.出雲大社は十六丈の半恒久的神殿として建築されていた。(32丈は??) 2.出雲大社は特別の祭祀に当たっては一時的に十六丈の神殿として構築され   ることがあり、その高さが神殿の高さとして流布していた。 3.出雲大社は法隆寺五重塔が資材帳に十六丈(実際は十丈)として記帳され   たのと類似の事情(度量衡差??)で十六丈として流布していた。 の何れかでしょうが、1の可能性も全く否定出来ないと考えております。 (極めて不安定であり度々建て直しが必要だったとは思いますが、原型は一種 の「望楼」的建築物であったと言う見解もあるようですね・・・・) 次に出雲大社と大仏殿の高さを比較して、そこに何らかの意味を見いだそうと するならば、平安時代の一時期の認識=『口遊』ではなく、創建時における建 立者の思想をこそ問題とすべきだと思います。つまり井沢さんが 『東大寺大仏殿が一丈だけ出雲大社に”遠慮”した謎』として再三ご指摘の・・ 「後から新たに建てられた建物なら、越えようと思えば古い建物の大きさを越 えられる。・・・つまり、大仏はオオクニヌシに対して「遠慮」したのである」 「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を目 指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 ・・・・ホンマカイナ ドウイツミンゾク(ブンカケン) ニ オケル ジツレイ ハ アリマスカネ ?? (これに続いて『口遊』が出てくるのですが・・・省略します) 「天皇夫妻自らが熱烈な信者となり、国家の総力をあげて建立した国教の神殿 すら、出雲大社に「遠慮」するということは、大社に象徴される信仰こそ仏教 を越える日本人の根源的な信仰であるということだ。またそのことを施工主の 聖武・光明夫妻ですら理解していた、ということだ。・・・和の精神であり怨 霊信仰に他ならない。」 「それを、あえて十五丈にしたというのは、やはり出雲大社に「遠慮」したと しか考えられない。」 ・・・を取り上げて、本当にそれ程「遠慮」するならば、「寺院」は「塔」を 含めての「総合建築物」ですから「出雲大社」を遙かに凌駕する「塔」の存在 はどう考えるのですか・・・と申し上げたモノです。 もっとも「総合建築物」であっても「塔」は「塔」で「神殿」ではない・・・ と強弁されるならば、それまでですが。 その場合・・・さらに重要な問題は「出雲大社」と「伊勢神宮」の比較でしょ う。云うまでもなく、宗教施設としてその建築思想を対比するに当たって、最 も相応しいのはこの両社ですね。 「出雲大社=オオクニヌシ=十六丈」>「伊勢神宮=アマテラス=十五丈」 であれば、説得力も出るかも知れませんが・・・・ご承知のとおり「伊勢神宮」 は「出雲大社」の高さには全然関係がない極めて低層な建築物です。 その「古式」と「清浄」さには最大限の配慮がなされていますが・・・高さに 興味を示した形跡は一切感じられません。 桓武天皇があれほど恐れた「早良親王」の怨霊神殿は「長屋王」怨霊神殿?? と高さを競っているのでしょうか? 暗殺され、最愛の後継者を殺され、果ては「悪逆紂王」の汚名まで着せられた 天智の怨霊神殿は何処でどれだけの高さを誇っていますか? (園城寺は「大友」の怨霊でしょう。天智の怨霊は間借りでしょうか?) 聖徳太子が怨霊ならば孝徳天皇もまた、怨霊になるのでしょうか? なったとすれば、何処に鎮魂されているのでしょうか? 古人大兄の怨霊は崇福寺に眠っているのですか? 有馬皇子・大津皇子は薬師寺の片隅(東院)なのでしょうか? いや祭祀形式が変わったのだ・・・なんて簡単に仰らないで下さいね。 「仏教を越える日本人の根源的な信仰であるということだ。・・・」に基づく モノなのですよ! 余計なことですが・・・・・サン・ピェトロ寺院・ノートルダム寺院・ケルン 大聖堂・ウエストミンスター寺院・サグラダファミリア聖堂(建設中)の高さ に何か意味が隠されているのでしょうか? 私には全く理解できないのですが、井沢さんは何とお答えになるのでしょうか?                       98/11/19 Time : 1998/11/20(金) 08:53:11
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  皆さんと意見が異なるかもしれませんが、小生は、 「雲太・和二・京三」は、形式的には建物の高さをさしていると 思いますが、実質は「格付け」にあると思っています。 (井沢先生も、その論調からみて、この路線ではないかと思います) ムーディーズの格付けに日本が過剰反応したり、 ブランドに弱いという日本人の性格から考えて、 このランク付けは異様だと捉えています。 その認識の違いがあることが、議論として抜けています。  それはさて置き、KANAK様にしてはずいぶん乱暴な 議論だと思いますが、小生がやったようにこの事項と外れるような 例を多く挙げていますので、「政治的意味合い」が異なるので述べる べきではないように思います(ただし、小生の主義ではありません)。  このような「大きさ競争」はいずれはばかばかしくなって自主的に止めるか 破綻するかの結末が待っているのは言うまでもないでしょう。 そんな事を言い出したら、古墳は限りなく大きくなってしまいます。 こんな競争が連綿と続くはずがないので、反論されていることは、 残念ながらあまり説得力がありません。 Time : 1998/11/20(金) 09:51:42
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : エッセイ「KANAK様に望むこと」 Comments:  最初にお断りしますが、これはKANAK様宛ての文章とは性格が異なり、 皆さんの意見を問うものですので、ご意見をお聞かせください。 もちろん、主義・主張は強制すべきものではありませんので、 KANAK様にこうすべきであると言うものでもありませんし、 参考として、耳を傾けていただければありがたいと思っているだけで、 KANAK様本人に意見すら求めるものではありません。  前置きが長いですが、もう少し脱線をお許しください。小生は、 安部様の「易姓革命には二種類ある」の記事はほぼ賛同しますが、 4拍手問題についてのみ意見が異なり、未解決だと捉えています。 井沢先生は、恒に現代との関りにおいて歴史の流れを観ておられますので、 それがなぜ変容したのかを解明しない限り解決していないと思います。 したがって志田様の路線を行くべきだと思っています。 もちろん4拍手問題が崩れたところで、井沢説は大して打撃を受けないでしょう。 なぜなら、本筋である井沢史観を表明されているのですから、どの主張が重要で、 どの部分が枝葉であるか判断可能であるからで、石井様の「小さく」うんぬんの誤りも 枝葉の部分なので、ほとんど取るに足らないことと思います。 逆に、それが不明なKANAK説についてはその区別が不可能なので、 一つ一つが等しい重みを持ち、一つでも崩れたらひどくいいかげんなものに 見えてしまうわけです。  で、本題ですが、なぜ安部様の記事をひいたかといいますと、 的確にKANAK様御自身を捉えておられるからです。  KANAK様の姿勢・感覚は我々(と言ってほぼよいと思います)とは全く異なります。 賛同できる先人・主義・主張はないが、反面教師ならすぐあげられるのは不思議です。 (小生の理解を深める意味で、言い切っていただけたことに感謝します) オリジナルであることは、研究を進める上でむしろ必要な資質と思いますので、 そのこと自体は一応問題ではありません。ただ、安部様のおっしゃるように かなりつらい道のりになるでしょう。 ただし、それは我々が思うように進んでいかれるならの話です。 残念ながら、現在はぬるま湯に使っておられるように見えます。  反面教師の例でも分かるように、せっかくの才能がマイナスの方向にむいています。 基本路線として「新説反対・定説支持」の姿勢にどうしてもみえますが、 オリジナルな姿勢・才能が、まったくオリジナルでない意見しか産んでいません。 定説をバックに新説批判をするなど、誰でもできるたやすいことで、 KANAK様があえてする必要はないでしょう。その意味でぬるま湯なのです。 むしる新説を主張される方に、KANAKオリジナル説ではこうであると言って欲しいのです。 歴史を自分なりに解釈して、歴史の流れに対する統一された説を創造していく作業は、 実に大変で、その点でも小生は井沢先生に敬意を表しています。 批判・破壊は誰でも可能です。どなたの主義・史観も受け入れられないならば、 KANAK史観を創造し、それに基づいて歴史を独自の路線で解釈していくことこそ、 皆さんが望んでおられることではないでしょうか。 その方向に進むと、たいていの方は思うからこそ、安部様が大変ですねとおっしゃるわけで、 違っていたらぜんぜん苦労はなく、ストレス解消の意味しかなくなってしまいます。 ご本人はおそらくそんな大それた事は不可能と言われるでしょうが、 おそらく安部様も(勝手に巻き込んですみません)十分可能だと判断しておられるでしょう。  以前にそんな好例として山室恭子女史をべた誉めしましたが、彼女は史料の多く残っている時代を 攻めているゆえに可能な手法で、古代ならば又違ったオリジナルな手法が求められるでしょう。  つまり今の状況では「まったく勿体無い」という結論なのですが、皆様いかがでしょうか。 Time : 1998/11/20(金) 10:48:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 怨霊鎮魂 Comments: 皆さん今日は KANAKさんの記事を読ませていただきました。 出雲大社の大きさの問題についてですが、 「日本で大きいと信じられていた」または「政府も それを打ち消さなかった;ということが重要であり 本当の大きさについて述べてもあまり意味は ありません。 >桓武天皇があれほど恐れた「早良親王」の怨霊神殿は「長屋王」怨霊神殿?? >と高さを競っているのでしょうか? >暗殺され、最愛の後継者を殺され、果ては「悪逆紂王」の汚名まで着せられた >天智の怨霊神殿は何処でどれだけの高さを誇っていますか? 怨霊を鎮魂する方法を「大きな神殿に祭る」ことだけに限定するのは 極めて危険です。それでは歴史の真実から離れてしまうと思います。 KANAKさんがそのような方向に行ってしまうことをお望みとは 思えないので、生意気なのを承知でアドバイスします。 Time : 1998/11/20(金) 17:39:35
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(5)易姓革命・出雲大社と大仏殿 追記 Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 現在PCが不調ですので、休日の間はHPにアクセス出来ないと思います。 従って、本格的なご意見は申し上げられませんが・・・若干気づいた点のみ 以下にUPいたします。 安部さんへ・・・ >>古代中国と朝鮮と日本において、ご先祖様は絶対でした。ですから、ご先祖 >>様の遺制を廃止することなど、不敬の極みで、不可能だったのです。 これは、「孝」を最高の徳目とする儒教的原理によるモノであって、そのため 中国及びその優等生であった高麗・李氏朝鮮の停滞を招いたことは『恨の法廷』 でも指摘されていることではないでしょうか?  従って、儒教原理が完全に浸透していない時代に、これを強調されるのは疑 問ですね。 (日本は知識としての儒教は受け入れたが、倫理規範としての儒教を受け入れ ることはなかったとも言われていますが・・・・) 実際「新羅」では・・・同一王朝において 聖・真骨という近親結婚制度を同姓不娶にあらため、氏姓という根本制度さえ、 漢風に改めたのはご承知のとおりです。 我が国においても・・・同一王朝において(デスネ?) 推古天皇ー聖徳太子 は古代的豪族制度から天皇集権制度の強化につとめ、 孝徳天皇ー中大兄(天智天皇)はさらに律令的政治制度の導入(大化改新)に つとめていますね。(勿論天智は即位後もさらにこの路線を進めています。) これらの動きは”不敬の極みで、不可能だった”のでしょうか? 従って、 >>ですから、国の制度が疲労した時は、易姓革命をして、改革しなければなら >>ないのです。先祖が違えば、いくらでも改革して良いからです。 ・・・という論理は少し無理があるのではないでしょうか? なお、「四拍手問題」に関する率直なご理解には敬意を表します。 私は「教義や史観」ではなく、こういった一つ一つの事例の検証確認によって のみ、歴史の真実に近づくことが出来ると信じています。 (易姓革命論については別途申し上げます) 大阪JF生さんへ・・・ ご忠告ありがとうございます。 ただ、何度も申し上げておりますが・・・敢えて私の「史観」を問われれば、 「特定の史観」という名の「主観的フィルター」を取り除くことによってのみ 歴史の真実に一歩でも近づくことが出来る・・・と考え、不十分ながら努力し ている人間です。 なお、出雲大社と大仏殿にに関し・・・ >>このような「大きさ競争」はいずれはばかばかしくなって自主的に止めるか >>破綻するかの結末が待っているのは言うまでもないでしょう。 仰るとおり、私もそう考えます。「大きさ競争」はソノ意味で全く信じられま せん。だからこそ・・・・・・ 「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を目 指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 と言う井沢説に疑問を投げかけているわけですが・・・ >>こんな競争が連綿と続くはずがないので、・・・・・ これも、仰るとおりですが”こんな競争が連綿と ”何処でどの様に続いたの か、私には分からないのです。 出雲大社〜東大寺大仏殿にかけてでも、聖徳太子〜長屋王でも結構です。 具体例をお示し頂けるでしょうか? 輔住さんへ・・・・ >>怨霊を鎮魂する方法を「大きな神殿に祭る」ことだけに限定するのは極めて >>危険です。 でしょうね・・・しかし”そういうものを作る時は必ず国内最大・・”と言っ ておられるのは井沢さんなのですか? 取り敢えずタイムアウトになりました。 ではまた・・・ Time : 1998/11/20(金) 19:27:41
Name : 石井一旭 E-mail : Title : KANAKさんへのお願い Comments: 私も「大きさ論争」はこのままだと平行線をたどると思うのですが・・・。 どうもKANAKさんは井沢先生を根本的なところで誤解しておられるようです。 井沢先生の論には「怨霊信仰」などの歴史を解くキーワードが存在していますが、 根本にあるのは「常識」ではないかと思っております。 先生自身もよく「・・・常識で考えてもらいたい。」という言葉を使っておられますよね。 >「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を >目指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 >そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 >と言う井沢説に疑問を投げかけているわけですが・・・ なのですが、資料だけで論じるのではなく「常識」で考えてください。 あなたが国王だったとして、先祖の神殿を「負け犬」の敵の神殿より小さく造るでしょうか? 敵に打ち勝ったことで富も得た、名声も高まった、勢いも増した、そんな状況で その討ち滅ぼした敵の神殿より自分たちの神を祀る神殿を小さく建てたりするものでしょうか? 「こいつは、なにを考えているんだ!」とふつうは思うでしょう。違いますか? ところが日本では「敗者」の大国主が国家の大寺より「小さい」と言われている。 これはどうしてなのか?この「素朴だが考えてみるとわからない問題」に 井沢先生は「怨霊史観」で説明を付けたのです。 >「特定の史観」という名の「主観的フィルター」を取り除くことによってのみ >歴史の真実に一歩でも近づくことが出来る・・・と考え、不十分ながら努力 >している人間です。 それではあなたの「視点」から 現在問題になっていること、すなわち「口遊」問題とを関連づけて説明していただけませんか? 大阪JF生さんのご意見にあるとおり、 >むしろ新説を主張される方に、KANAKオリジナル説ではこうであると >言って欲しいのです。 私も同意見です。ぜひKANAKさんご自身の考えておられる歴史を 一度お教えいただきたい。お願いします。 「あなたの歴史」が見えてくれば、私たちとしてもいっそう議論が進めやすくなり、 またお互いの矛盾を指摘しあうこともできると思います。 Time : 1998/11/21(土) 11:57:45
Name : 薩摩人 E-mail : すみません、よくわからないです Title : 11月の歴史エッセイ、読みました Comments: >管理人様  お知らせして頂いて、ありがとうございました。 これぐらいは直接メールで送るべきなのでしようが、自宅のPCの調子が悪く 会社で見ているのでお許し下さい。(メールは監視されているらしいのです) >井沢先生  ありがとうございます。ご指摘の通り、担当以外の教官(教授)達の態度は 手をつけたくないというか、ばかばかしくて相手にできないという態度でした。  先日、フジTVのナイスデイに出ていらっしゃるのを、電器屋の店頭で チラット拝見しました。  目の調子は、いかがでしょうか。一日も早いご回復を祈ります。 Time : 1998/11/21(土) 13:23:26
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史 2」(6)四拍手問題 井沢さんへ Comments: 井沢さん、大阪JF生さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 何とかPCが回復しましたので、次の問題についてRESします。 大阪JFさんへ・・・ >>4拍手問題についてのみ意見が異なり、未解決だと捉えています。井沢先生 >>は、恒に現代との関りにおいて歴史の流れを観ておられますので、それがな >>ぜ変容したのかを解明しない限り解決していないと思います。したがって志 >>田様の路線を行くべきだと思っています。 >>もちろん4拍手問題が崩れたところで、井沢説は大して打撃を受けないでし >>ょう。なぜなら、本筋である井沢史観を表明されているのですから、どの主 >>張が重要で、どの部分が枝葉であるか判断可能であるからで、石井様の「小 >>さく」うんぬんの誤りも枝葉の部分なので、ほとんど取るに足らないことと >>思います。逆に、それが不明なKANAK説についてはその区別が不可能な >>ので、一つ一つが等しい重みを持ち、一つでも崩れたらひどくいいかげんな >>ものに見えてしまうわけです。・・・・ 「四拍手問題」については、要するに「梅原・井沢説」と「坂本説」とどちら に整合性があるか・・・みなさんの理性的判断にお委せいたします。 ただ、枝葉か何かは知りませんが、井沢さんが自説として主張された以上、そ の主張には責任があるはずです。 あらためて「坂本説」に「反論・論破」されるならばそれで結構です。 それがお出来にならないならば・・・「自説の無誤謬」に拘泥されることなく、 訂正されるのが研究者の良心であり、読者に対する義務ではないでしょうか? 梅原さんはこの問題ではありませんが、『隠された十字架』序文で・・・ 「・・日本神話、あるいは『記紀』にかんする私の研究が不十分であり、種々 の誤謬をふくんでいることが分かったからである。・・・神話と『記紀』に関 しては、もう一度書きなおすより仕方がないであろう。・・・」 と述べられています。当然といえば当然ですが、私は梅原さんの良心と勇気を 感じました。云うまでもなく井沢さんの著書は梅原さんの著書よりも遙かに多 くの一般読者を対象とされています。それだけに、その責任はより大きなもの があると思うのです。 私は、小林さんが「天武 高向漢人玄理実子説」から「天武 淵蓋蘇文説」に 鞍替えされようと、どうされようと特に興味はありません。読者がごく限られ たマニアックな範囲に止まっているからです。 しかし、井沢さんの読者には「日本書紀」を読んだこともない、或いは読むこ ともないであろう人達や、中高生をも含んでいるでしょう。 それだけに枝葉であろうと無かろうと、大であろうと小であろうと、学者であ ろうとドシロウトの批判であろうと、議論を回避されることなく真剣なご対応 をお願いしたいと思いますが、如何でしょうか? (勿論、時間的制約がおありでしょうから、取り敢えず「反論」予告のあった 9/18 #1996 についてだけでも結構ですが・・・) Time : 1998/11/21(土) 13:55:31
Name : 薩摩人 E-mail : Title : 担当教官(助教授)は... Comments:  担当教官と学生(私の同級生)は、井沢先生ご指摘の律令制からの流れは 大体、押さえていましたが、その上で彼等がこだわったのは  官と位、あるいは石高や親藩か外様か等の相関関係(明白なルール)  「格が上の官を名乗りたがった」という証拠 なのですが、史料からは結論を導き出すことはできませんでした。  江戸時代の当事者達にはある種の「常識」があったということでしょうか。  どんなに時代に合わないことでも、対処療法ですませたり先送りしてしまうのは 現代の政治とよく似ていますね。そのうち「黒船」が来て、対応しきれなくなって どっか〜んと、この国も変わるかもしれないな。 Time : 1998/11/21(土) 14:17:37
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : 歴史エッセイ11月号拝読いたしました Comments:  管理人様ありがとうございました。言い出しっぺの宇津木です。多忙のため さきほど初めて井沢先生のエッセイを拝読しました。こんな形で、井沢先生の 御考えを拝読できるとは実に嬉しい限りです。 <普通の民族ならば、官職が形骸化すれば、それをなくして新しい官職を作 <ります。日本でも、国守が名目化した時には、守護地頭が作られ、あるい <は刑部 卿が有名無実化した時には、検非違使が作られました。しかし江戸 <時代はそう いうことを拒否する時代だったというふうに考えれば、また <日本史の新しい一 面が見えてくるのではないでしょうか。  考えてみると、江戸時代はあらゆる外界の情報をシャットアウトし、技術革新 も可能な限りさけてきた時代だったように思います。だからこそ、200年もの間 とりあえず天下泰平だったと言えなくもないですね。外圧という問題もさること ながら、江戸時代後半に、外界の情報(技術・思想など?)が侵入してきたことが、 幕末の動乱への起爆剤となったことを考えると、これらを遮断してきた幕府の 統治方針はそれなりに妥当だったのかもしれません(ともかくも泰平だったし)。  鉄砲の性能向上と、官位職制の制度改正を同列に論じてはいけないのかもしれ ませんが、なにごとも変革しないことを重視した統治政策であるならば、有名 無実化した官職をそのまま利用しつづけることにも、意義があったように思い ます。  それにしてもやはり、僕も西洋合理主義的に 「なにか明確なルールがあるのかな?」 と考えてしまいましたが、ここは日本なのでした。  なんだかわけがわからないことを書いてしまいました。ごめんなさい。 追伸  アドレス、別に隠していたわけではないのです。ぱっと見たら誰も 載せてなかったようだったので「載せないもの」なんだと思っていました。 よく探すと結構ありましたが…管理人様ごめんなさい。 Time : 1998/11/21(土) 18:14:13
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(7)出雲大社と大仏殿 追加 Comments: 井沢さん、石井さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 以下のとおり、NIFTY発言を転載いたします。 ・・・ そこで、出雲大社と大仏殿に関する石井さんのコメントを紹介致します。 (このほかにもHPにおける議論がありますが、省略します。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Name : 石井一旭E-mail : Title : KANAKさんへのお願い Comments: 私も「大きさ論争」はこのままだと平行線をたどると思うのですが・・・。ど うもKANAKさんは井沢先生を根本的なところで誤解しておられるようです。 井沢先生の論には「怨霊信仰」などの歴史を解くキーワードが存在しています が、根本にあるのは「常識」ではないかと思っております。 先生自身もよく「・・・常識で考えてもらいたい。」という言葉を使っておら れますよね。 >「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を >目指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 >そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 >と言う井沢説に疑問を投げかけているわけですが・・・ なのですが、資料だけで論じるのではなく「常識」で考えてください。 あなたが国王だったとして、先祖の神殿を「負け犬」の敵の神殿より小さく造 るでしょうか? 敵に打ち勝ったことで富も得た、名声も高まった、勢いも増した、そんな状況 でその討ち滅ぼした敵の神殿より自分たちの神を祀る神殿を小さく建てたりす るものでしょうか?「こいつは、なにを考えているんだ!」とふつうは思うで しょう。違いますか? ところが日本では「敗者」の大国主が国家の大寺より「小さい」と言われてい る。これはどうしてなのか?この「素朴だが考えてみるとわからない問題」に 井沢先生は「怨霊史観」で説明を付けたのです。 >「特定の史観」という名の「主観的フィルター」を取り除くことによってのみ >歴史の真実に一歩でも近づくことが出来る・・・と考え、不十分ながら努力 >している人間です。 それではあなたの「視点」から現在問題になっていること、すなわち「口遊」 問題とを関連づけて説明していただけませんか? 大阪JF生さんのご意見にあるとおり、 >むしろ新説を主張される方に、KANAKオリジナル説ではこうであると >言って欲しいのです。 私も同意見です。ぜひKANAKさんご自身の考えておられる歴史を 一度お教えいただきたい。お願いします。「あなたの歴史」が見えてくれば、 私たちとしてもいっそう議論が進めやすくなり、 またお互いの矛盾を指摘しあうこともできると思います。 Time : 1998/11/21(土) 11:57:45 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これに関する私の意見は次のとおりです。 >>なのですが、資料だけで論じるのではなく「常識」で考えてください。 >>あなたが国王だったとして、先祖の神殿を「負け犬」の敵の神殿より小さく >>造るでしょうか? 私は、ある時代の、ある人達の「常識」はどの様なモノであったか・・・を、 色々の史料から知りたいと考えおります。 その結果、先祖の「神殿」である「伊勢神宮」が敵?の神殿であろう「出雲大 社」と高さを競った形跡は全く感じられないと申し上げた筈ですが・・・ つまり、彼等には井沢さんが仰る様な ”高きが故に尊い”という「常識」は 窺えない・・・これが私の結論です。 >>ところが日本では「敗者」の大国主が国家の大寺より「小さい」と言われて >>いる。これはどうしてなのか?この「素朴だが考えてみるとわからない問題」 >>に井沢先生は「怨霊史観」で説明を付けたのです。 要するに”高きが故に尊い”と言う「常識」がない以上、出雲大社が大仏殿よ り高かろうが、低かろうが、特別の思想的意味(疑問)は感じられないのです。 >>それではあなたの「視点」から現在問題になっていること、すなわち「口遊」 >>問題とを関連づけて説明していただけませんか? 私の「口遊」び認識は・・・要するに貴族の子供の為の「教科書」です。 従って、「雲太・和二・京三」には可成りの信憑性があり、真摯に理解すべき 一級史料だと思っています。 ご存知のことと思いますが・・・著者「源為憲」は是恒親王の曾孫であり、遠 江・美濃・加賀・伊賀の国守を歴任した当代第一級の学者です。 そして、尊子内親王のため「三宝絵詞」、藤原為光の子誠信のため「口遊」び 藤原道長の子頼通のため「世俗諺文」を著したように、貴族の子弟の為の教育 に努めていますが、私は信頼するに足る人物だと考えております。 「口遊」は子供の為の「博物志=教養書」であって天文・地理・官職等十九項 目について貴族の必須知識を口唱しやすい形で纏めたものですね。 970年に執筆されたとされ「九々」等をも含んだモノです。 さて、問題の「雲太・和二・京三」ですが・・・ 「居處門」 三曲目にあります。前の二曲は「五家為隣。五隣為里。・・」と いう様な実務知識であり、第三曲目が「雲太・和二・京三 謂大屋誦」です。 さらに 「今案。雲太。謂出雲国城築明神々殿。在出雲郡。和二。謂大和国東大寺大仏 殿。在添上郡。京三。謂大極殿八省。」との註釈があります。 これと似た表現は「坤儀門」第五曲にあり「山太・近二・宇三 謂之大橋」と されています。「今案。山太山埼橋。近二勢多橋。宇三宇治橋。」の註釈があ ります。 要するに”我が国の大きな建物は**ですよ”とか”大きな橋は**ですよ” とかを子供に教えたものであり、それだけのことです。 勿論この知識から何らかの特別な意味を想定されるのはご自由ですが・・・ 私にはその様な意味は感じられません。                      98/11/21 Time : 1998/11/21(土) 21:35:41
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 歴史エッセイ「武家の官位」について Comments:  歴史エッセイ「武家の官位」の内容は、実は井沢の小説『忠臣蔵・元禄一五 年の反逆』(新潮文庫)における、歴史ミステリーの謎解きにつながります。 もし、この小説をこれからお読みになろうという方は、どうかエッセイの内容 を御放念ください。                      管理人 Time : 1998/11/21(土) 23:28:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 大きい事は(全ての怨霊にとって)いいこととは限らない Comments: 同一民族による、前権力のモニュメント破壊の例を述べます。   項羽による、始皇帝の阿房宮炎上   毛沢東による、文化大革命   足利義持による、北山御所破壊(ただし金閣寺は残す)   明治政府による廃仏棄釈(権力というより、宗教的権威)   スペイン人民軍(1936-1939)による、カトリック寺院破壊   織田信長による比叡山焼き討ち、石山本願寺破壊 いずれも、前権力から価値観を継承しなかった人物だからできた事です。 面白いのは、日本の古い例の足利義持と織田信長です。 金閣寺が残されたのは、足利義満の怨霊を慰めるためです。 これが全てを語っているような気がします。 日本では、前権力の跡は、消されるが、怨霊のために決定的なものだけの越されるのです。 織田信長は、日本のほぼすべての思想から自由な人でした。 というより私は、織田信長がやろうとした事は絶対王政で、 彼は、日本史のスケールでは、はかり切れない世界史的人物だと思っています。 もう一つの前権力冒涜の方法として、そのモニュメントを乗っ取るがあります。 良く考えてみると、その例の方が多いです。   共産党とクレムリン宮殿、イギリス議会とウェストミンスター寺院   元の宮殿(北京)を使用した永楽帝 乗っ取った勝者には、前権力以上の権力があるという事です。 しかし、日本の場合は乗っ取りはありません。 前権力は有名無実化して崇め奉っておくのが日本の伝統です。   代表的なのは京都御所です。 運悪く全権力を殺し尽くして怨霊としてしまった場合、 そのモニュメントを慰霊碑として残しておいたのだと思います。 古墳時代に於いては、平和的な継承でも、前大王の死の汚れを嫌って、 代ごとに宮殿を変えました。 別に大きさが怨霊を慰める絶対的な条件ではないでしょうが、 大国主の命の場合、立派な神社に祭ってあげる事が国譲りの条件だったわけですから、 大きさにこだわったのと思います。 マスコミに載らない事実は存在しない(マスコミに載った事は真実)というのは、 古代でもある程度成り立ったでしょう。 Time : 1998/11/22(日) 14:17:19
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 儒教前後の朝鮮と日本 Comments: 儒教が来る前にも朝鮮に職業の貴賎があったかと言うことですが、 「日韓民族の原形」(金容雲)によると、 朝鮮半島では、早いうちに高句麗、新羅、百済、による各地方の統一が成り立って、 その国の中で身分制度が固まってしまったという事です。 ですから、国を統治する貴族に権力が集まり、 日常的な技術を持った人は出世の道が閉ざされたのだといっていました。 ただし、儒教は紀元前後には朝鮮半島に伝わっていたようですから、 渡来人が日本に来る頃には、朝鮮半島は儒教が普及していたかもしれません。 それに、強力な血縁制もやはり身分を硬直化させます。 日本には、応神天皇の頃(4世紀初等)に「論語」が王仁によって伝えられました。 ですから、聖徳太子の頃にはある程度普及していたと思います。 日本の古代の貴族が、血統を重んじたのは確かですし、 儒教が完全に広まる以前でも 「御先祖様の遺制を改めるべからず」といった思想はあったと思うのですが、 良く考えてみたら、これは私の感覚的な思い付きなので、 もう少し良く練ってからお伝えします。 でも、聖徳太子も、天智天皇も改革をしようとしましたが、 その子孫は殺されています。 確かに、既得権域を脅かされた人達による反動が本音でしょう。 しかし、目新しい事をやろうとした反発もあったと私は思っています。 先祖を別にするという事によって、精神が自由になるという事はあったと思います。 しかし、未だ私の憶測を出ていない事も確かです。 しかし、儒教が広まった地域において、 易姓革命に、私が以前言ったような意義がある事を否定する人はいないと思います。 Time : 1998/11/22(日) 14:46:05
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様 Comments:  スペインに移住した友人によると、同地のカトリック寺院は回教寺院を破壊 してその上に建てられたものだそうです。  また、フランスの某権威紙の極東支局で朝鮮半島を担当する親友によれば、 「日本への朝鮮系渡来人の姓をみると、古代朝鮮における差別の存在がわかる よ」ということです。                        管理人 Time : 1998/11/22(日) 18:34:44
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : KANAK様 Comments: 井沢からの返信は、本HPのNEWS、ならびにCOLUMNを御覧くださ い。ちなみに、PCは完全に復旧いたしましたでしょうか。PCに関してアド バイスを求める際は、システム環境をディスクローズすることが、ニフティの Macユーザーグループのフォーラムなどでは、一つの前提になっていたかと 思いますが。一般的に、システムの障害を訴えられても、皆さん、助言しにく いでしょう。                        管理人 Time : 1998/11/22(日) 21:39:05
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 愚見 Comments: 安部奈亮さんがおっしゃられたこととほとんど重複してしまうのですが・・・。 どうもKANAKさんの前回の発言はよくわかりません。 >その結果、先祖の「神殿」である「伊勢神宮」が敵?の神殿であろう >「出雲大社」と高さを競った形跡は全く感じられないと申し上げた筈ですが・・・ あなたは以前輔住さんの意見 >>>怨霊を鎮魂する方法を「大きな神殿に祭る」ことだけに限定するのは極めて >>>危険です。 に賛同していたのでは? それなのになぜここで「大きさ」を持ち出してくるのですか? だいたいなぜ伊勢神宮なのでしょう。大国主はアマテラス側に「降伏」し、 アマテラス側は「もっとも大きな神殿に祀る」事を確約したわけでしょう。 両者の間に「高さ比べ」「大きさ比べ」をする必要があるんですか? 私には全く理解できません。「巨大な神殿に祀るから、あの世にいけ。」と言っておいて それより大きな自分たちの神殿を建てたら、怨霊は(というより人間誰もが)激怒するでしょう。 「怨霊鎮魂」もなにもあったもんじゃありません。 当たり前のことです。これが「常識」です。古代人だろうが現代人だろうが このような約束違反は許せない事です。あなたは >ある時代の、ある人達の「常識」はどの様なモノであったか・・・ >を、色々の史料から知りたいと考えおります。 などと言われておりますが、時代を超えた「人間として基本的な感情」というものが人間にはあります。 「巨大建築物を作る力もあるのに自分のうち負かした敗者より小さな建物を造る」事はそもそも不自然です。 (その当時の常識がそうではないのなら、その時代にたいし特別な考察が必要であると思います。) 例えば勝者、新たな支配者が民衆にもっとも手っ取り早く「政権交代」を 知らしめるのは「誰の目にもわかる巨大建築を建てる」事ですよね。 「征服王朝」とも呼ばれる「応神王朝」の初期の天皇(応神、仁徳、履中)が 巨大古墳を造営したのはなんのためですか? 豊臣秀吉の大坂城は信長の安土城より大きく、徳川家康の江戸城は大坂城より巨大ですよね? (「東照宮」もその一端でしょう) いつも非常に面白い書き込みを読ませていただいている安部奈亮さんが 「大きい事は(全ての怨霊にとって)いいこととは限らない」 においておっしゃられたとおりです。(全文拝借したい位ですが、タイトルだけに 留めさせていただきました。) それから >井沢さんの著書は梅原さんの著書よりも遙かに多くの一般読者を対象と >されています。それだけに、その責任はより大きなものがあると思うのです。 などの発言はあまりに不謹慎なものだと考えます。 これではまるで井沢先生は誤った考え方をなにも知らぬ世間一般にまき散らす インチキ宣教師ではないですか。先生の数ある独自の説からたかだか一つ二つを抜き出してきて (しかも先生と直接議論したわけでもなく) このような発言をすることは非常に失礼です。 (もちろん、梅原先生に対して失礼でもあります。)  >それだけに枝葉であろうと無かろうと、大であろうと小であろうと、 >学者であろうとドシロウトの批判であろうと、議論を回避されることなく真剣なご対応 >をお願いしたいと思いますが、如何でしょうか? そんなことができると本当に考えておられるのですか? あなたの本名も明かしていないというのに「責任をとれ」「私と議論せよ」はないでしょう。 (本名を明かせばいいというものでもありませんが。) インターネットとしてではなく、「手紙」に置き換えて考えてみて下さい。 素性もわからない手紙に、一つ二つの矛盾をあげつらって「この間違いに関して 責任をとれ。」「私と議論しろ。」などと書かれていて、どこの歴史家が (小説家としても)取り合いますか? コラムのほうに井沢先生が書かれていたとおりであると思います。 ぜひ、コラムの感想をお聞かせ下さい。 Time : 1998/11/23(月) 12:35:30
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「歴史フォーラム退会の挨拶」について Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 以下のとおりNIFTY発言を転載いたします。 「歴史フォーラム退会の挨拶」拝誦いたしました。 まず驚いたのは、私が 9/20#2015で会議室の性格から議論が段階的に進むも のであり、その点を理解した上で私の意見を判断頂きたい・・・と申し上げ、 3/28から8/21までの主要な意見の展開を紹介したにも拘わらず、その部分を全 く無視されていることです。 私は、貴方が 9/18#1991において示された、以下の具体的批判・・・ >>ただし私への反論者が巧妙に避けている二点について、敢えて指摘して >>おきたいと思います。 一点は天智、天武という名前(諡号)です。こ >>の『逆説の日本史』等を読めばおわかりになるように、天智という名前 >>は中国における暴君で、叛乱によって死に追いやられた王を暗示してい >>ます。一方、天武という諡号は、その暴君を死に追いやったほうの王に >>由来しています。だから極端に言えば、天智天皇という名前は、「天武 >>に殺された」王のことであり、天武天皇という名前は「天智を殺した」 >>王という意味なのです。そういう意味があることをまったく無視して、 >>議論を進めてみてきたのが、これまでの歴史学です。だからこそおかし >>いというのです。少なくとも天武が天智を「殺した」ということを、こ >>の諡号を定めた人間は、意識として心の中に持っていたわけで、そうい >>う意味から言って、天智暗殺説は決して荒唐無稽の説ではありません。 >>更にもう一つ言っておけば、天智暗殺説は私の完全なる独創ではなく、 >>先人がいます。それは、『扶桑略記』という、今から何百年も前の本に >>書かれていることであって、その意味でも「売らんかなの三文小説」と >>いうKANAK氏の決めつけは完全なる間違いです。 さらに貴方が『扶桑略記』について9/18HPで発言された・・・ >>第一、天智暗殺説自体は私の独創ではありません。この説は、それこそ平 >>安の昔からあります。もちろんそれは、正確に言えば暗殺説というより、 >>天智天皇行方不明説なのですが、その顛末を書いた最後に殺害を意味する >>文章が加わっていることから見て、トータルで暗殺説と言って差し支えな >>いものだと思います。この説がいつ頃からできたかも知らないで批判して >>いるというのは、まさに滑稽としか言いようがありません。 ・・が完全な貴方の誤解に依るモノであることを申し上げ、既に貴方もそのこ とをは充分ご承知の筈です。 然るに、その誤解には全く触れることなく、今回も同様の批判を繰り返してお られるのは理解できない態度であると申し上げざるをえません。 しかしながら、私は基本的にこの様な”読んだ読まない”の問題を論じたり、 批判したりする事に関心はありません。私の関心はあくまで古代史の実像に少 しでも近づくことにあります。 その意味では、貴方が歴史学者を繰り返し非難・嘲笑しておられる。「書紀= 大本営発表論」について申し上げた以下の部分。 >>という「天武系天皇の大本営発表論」を展開されていますね。しかし良くお >>考え下さいね・・・仮に井沢さんの筆法を持ってすれば >>「・・・大本営発表であり、かつ天智系天皇のGHQ(?)検閲を経て公認 >>の「正史(諡号)」として、その後も尊重され続けたものでもある・・・」 >>なんですよ。 ・・・にすらお答え頂けないのは、全く遺憾としか申し上げようがありません。 この後半部分の認識が欠落した「天智・天武論」は、まったく有り得ないと考 えるからです。勿論のこと貴方が「光仁・桓武」が「寝た子を起こすまい」と して自らの直系祖を「悪逆紂王」として国内外に曝し続けた・・・或いは万世 一系の立前に拘って、曲筆に満ちた「天武系天皇の大本営発表」を「正史」と して持ち上げ続けた・・・とされるならばそれでも結構です。 私は改めて批判いたします。 しかし、貴方が嘲笑されている歴史学者達は、その様な想定が如何に無理があ るかを承知しているからこそ、「天武紀」に一定の信憑性を認めているのでは ないでしょうか? 貴方は読者の批判に関して・・・ >>そもそも私がプロの作家になった時に、先輩作家から「君、いちいち読者 >>の反応に対して、ていねいに答えてはいけないよ」と言われました。その >>時は「何と冷たい作家だろう」と、私自身半分読者の気分で思ったもので >>すが、実はそれが本当は正しいことなんだということが、しばらくしてか >>らわかるようになりました。 ・・・と仰っていいます。私もそのとおりだと思います。 ただし、それは「作家」として記述された「文学作品」である限りのはなし です。苟も所説の成立の可能性を客観的に論じる「史学=人文科学」の場合 は、自ずから別の対応が必要とされる筈です。 現に貴方は、「陽成天皇」諡号問題については・・・ >>まず第一に、これはまさにうろ覚えで恐縮なのですが、誰かが私に対する >>批判として、「陽成天皇は不幸な死に方をしたはずなのに、徳の字が付かな >>いのではないか。だから井沢の理論はおかしい」ということを言っていたよ >>うに記憶します。これは投稿者が直接ということではなく、どこかでそうい >>う反論を見たというご指摘だったと思いますが、これについてお答えしまし >>ょう。 ・・・として、読者の指摘に対して間髪をおかず得々と「反論」されていませ んでしたか?私は、ただ単に「天智天皇」諡号について同様の「反論」を求め ているだけのことなんです。 最後に・・・ >>それは日本に、真の意味での日本史を全体的に捉える通史理論のようなも >>のがないからなのです。学問というのは、例えば生物学や経済学を例にと >>ってもわかるように、研究対象を、マクロの見る視点とミクロに見る視点 >>が欠かせません。・・・ について申し上げます。私は単に「古代史」興味を持ちかけているドシロウト に過ぎませんから・・・歴史の成り立ちが異なるとはいえ、英・仏・独等にお いて、どの様な通史理論が論じられているのか、また必要とされているかは残 念ながら承知してはおりません。 通史理論が史学に欠かせないモノかどうかについても、よく分かりません。 しかし、何れにしても「史学=人文科学」である限り、通史理論を論じるに当 たってはその構成要素である「個別歴史事象」についての検証は不可欠だと考 えますし、貴方もそのための努力を続けておられると理解しております。 従って・・・ >>本来ならば、これまで書いたことに対する批判・疑問などに、誠実にお答 >>えし、更に自分の理論を修正していくべきでしょうが、残念ながらその時 >>間はありません。 ・・・と言う「本来」の立場を、貴方の歴史解説を信じておられる多くの読者 のためにも是非真剣にご考慮頂きたいと存じます。 なお末筆ではありますが、貴方のHPがどの様な意見にも公平に開かれたもの であることに敬意を表します。    98/11/23 Time : 1998/11/23(月) 17:49:27
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(8)易姓革命について Comments: 井沢さん、安部さん、石井さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 易姓革命について申し上げます。 正直云って私は”易姓革命”という言葉に拘り過ぎたように思います。 また、この問題のキッカケが桓武(光仁)の逆易姓革命(復辟)であったこと も問題の本質を分かりにくくしたのでは無いかと思い、反省しています。 そこで、私なりにこの問題を再提起したいと思います。ポイントがずれていれ ば・・・ご意見をお寄せ下さい。 1.「天智」の男子系血統についての前提 「天智」は王朝始祖「X大王」の男子系血統を嗣ぐX王朝の「天皇」である。 (「X大王」が「神武・応神・継体・欽明・その他?」については、問題を 単純化するために、ここでは問わないことといたします。また「天皇」称号・ X王朝の「姓」についても同様です。) 2.「天武」の男子系血統 A説・・・「天武」は「天智」と同父同母であり、父母はX王朝血族である。 B説・・・「天武」は「天智」と異父同母であるが、父もX王朝血族である。 C説・・・「天武」は「天智」と異父同母であり、父はX王朝血族ではない。 D説・・・「天武」は外国人であり、X王朝とは無関係である。 A説は「書紀」はじめ各史書の記述するところであり、私の採るものです。 B説は大和岩雄氏の説であり、父をX王朝血族の高向王とするものです。 C説は小林恵子氏の元説であり、父を高向漢人玄理とするものです。 (おそらく、井沢さんはこの説をほぼ踏襲されているモノと思われますが、 高向玄理とは明言しておられないようですね。) D説は小林氏の現在説であり、高麗人「淵蓋蘇文」とするものです。  (その他に新羅人「金多遂」説もあります。) 3.「易姓革命」の定義 ここでは「姓」の有無、「放伐・禅譲」の型式を問わず、「天武」がX王朝 の父系血族では無いことをもって「易姓革命」と定義したいと思います。 本来の「易姓革命」は天命が、ある家系(姓)から他の家系(姓)に移ること を意味しますから・・・前王朝の父系血族(同姓)であると称すること自体が 論理的に無理があり、また儒教倫理から言えば・・・自己の父系を偽ると言う ことは考えられない「不孝」の極みなのですが、取り敢えずこの点は保留して 置きたいと思います。 従って、D説では明らかな「易姓革命」ですが、井沢さん自身も否定されてい るところであり、ここでは問題外とします。 またB説は同血統(姓の有無に拘わらず同姓と考えています)ですから「易姓 革命」とは考えないこととします。 従って、C説(高向玄理とは限定しません)が成立する場合のみ・・・継承型 式を問わず、実質的「易姓革命」であるとして議論したいと思います。 4.「光仁・桓武」の男子血統 「光仁・桓武」が男子血統において「天武」ではなく「天智」に繋がることは 明らかですから、C説が成立するとすれば・・・・同様に継承型式を問わず、 実質的「逆易姓革命=復辟」としたいと思います。 その上で、C説の成立の蓋然性(可能性)を諸史料との整合性から議論すれば 良いのでは無いかと思いますが・・・如何でしょう? なお、今週は出張が重なりますので、暫くアクセス出来ません。 上記の進め方に異論があれば・・・UPしておいて頂けますか? Time : 1998/11/23(月) 19:01:21
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」出雲大社(大阪城) Comments: 石井さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 少し時間が浮きましたので・・・直接本題とは関係ないですが。 私、近世の城郭及び城郭都市については詳しく知らないのですが、 >>徳川家康の江戸城は大坂城より巨大ですよね? ・・・において、比較されたのは(創建当時の)次のどの部分でしょうか。 1.「天守閣」の高さ 2.「天守閣」の総面積 3.内壕内の城郭面積 4.外壕内の城郭都市面積 5.その他 出来れば・・・その「データ」及び「出典」を含めお教え頂きたいのですが、 よろしくお願いします。(大阪城焼失再建後ではなく、創建時で比較下さい) Time : 1998/11/24(火) 11:00:45
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments:  拙論の「エッセイ」をお読みいただき、感謝いたします。 しかし、引用されている部分は残念ですが曲解なさっています。 >「特定の史観」という名の「主観的フィルター」を取り除くことによってのみ >歴史の真実に一歩でも近づくことが出来る・・・と考え、不十分ながら努力し >ている人間です。 という意見には小生は賛成いたしかねますが、 (理由はデータの蓄積のみによって理論は生まれないと思っているからです) どのような信念のもとに研究を進めようと、構わないと思います。 ただし、新説の叙述に対する態度としては、こうあるべきだと思います。 しかし、このお言葉とは裏腹に、拙文も含め常に意図的に(定説よりに)曲解なさって いるように感じてしまいます。 >なお、出雲大社と大仏殿に関し・・・ >>>このような「大きさ競争」はいずれはばかばかしくなって自主的に止めるか >>>破綻するかの結末が待っているのは言うまでもないでしょう。 という意味は、「単なる大きさ競争はありえず、裏に意図がある」という意味です。 しかもそれは一時期には確実に存在し、すぐにすたれることも述べていますので、 >仰るとおり、私もそう考えます。「大きさ競争」はソノ意味で全く信じられま >せん。だからこそ・・・・・・ >「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を目 >指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 >そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 >と言う井沢説に疑問を投げかけているわけですが・・・ という解釈(疑問)は拙文からは不可能と存じます。 本人が言うのだから間違いありません。 「主観的フィルター」を外してお読みいただきますようお願いいたします。 >>>こんな競争が連綿と続くはずがないので、・・・・・ >これも、仰るとおりですが”こんな競争が連綿と ”何処でどの様に続いたの >か、私には分からないのです。 それは小生のような素人より、KANAK様のむしろ得意となされるところと存じます。 古墳の大きさの変遷に関して考察を進めていただくようお願いいたします。  付け足しのようになってしまいましたが、「歴史フォーラム退会の挨拶」について に関する意見は、根本的にKANAK様の態度に問題ありと存じます。 石井様の「愚見」(とはおもいませんが)、及び小生の過去の記事にもありますが、 少々礼を失し過ぎているように感じます。 「相手の文章もよく読んでいない段階の意見をぶつけて、反論せよ」 というのは恐ろしく無礼な行いで、門前払いを食らっても当然でしょう。 むしろ井沢先生の紳士的な態度に驚くくらいです。 >しかしながら、私は基本的にこの様な”読んだ読まない”の問題を論じたり、 >批判したりする事に関心はありません。私の関心はあくまで古代史の実像に少 >しでも近づくことにあります。 これは歴史研究家以前の人間としてのマナーに当たり、貴方が問題ではないと考えていても 一般世間では問題であることは自覚していただきたいと存じます。 研究者もまず社会の一員であるべきで、このマナー違反だけは止めていただきたいと思います。 その後で、歴史の論争を自由になさるべきと存じます。 (どうでもいいことですが、小生が初めて投稿したのも、この事が言いたかっただけなのです。) Time : 1998/11/24(火) 11:12:15
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 途中経過のまとめ Comments: KANAKさんの問題発言に関しては、井沢先生のエッセイで決着がついたと思います。 その後のKANAKさんの投稿には、そういう面がなくなったと私は思います。 そこで、誠に勝手ながら、私なりにKANAKさんの意見とこの討論をまとめてみました。 KANAKさんも、他人があなたの意見をどう捉えているかの参考と思ってお許し下さい。 KANAKさんが疑問としているのは次の2点だと思います。 A、天武天皇による天智天皇の暗殺 B、大国主命怨霊説の証拠に対する疑問 Aは否定、Bは大国主の命が怨霊であることは肯定するものの、 「逆説の日本史」内の証拠の2,3に疑問がある、 という立場だと思います。 「だから井沢先生は信用ならない。」は言うなればKANAKさんの余計な一言であって、 それさえ除けば(場合によっては謝罪も必要かもしれませんがこれは私たちの出る幕ではありません) 上の疑問はおかしな物ではないと思います。 Aの井沢先生の論拠として、私の覚えている限りでは、 @「扶桑略記」の記述 A「万葉集」の天智天皇の他殺を示唆する歌 B天智天皇と桓武天皇の登位は易姓革命であった C天智天皇と天武天皇の謚号 D天武天皇は天智天皇の異父兄弟であった E当時の国際情勢 F三井寺 です。 KANAKさんは@〜Cを否定、Dは検討中、Eに対しては何の発言もないのでおそらく肯定、Fはまだ議論が出尽くしていない と私は思います。 @は私は読んだ事がないのでよく分かりませんが、 「扶桑略記」の記事をどこまで信用してよいかの議論だと思います。 Aは短い歌の議論なので決着は難しい 全体の整合性から状況証拠の一つとはなるけれども、決定打にはし難い。 BはKANAKさんは同一一族内のゴタゴタの域を出ない 我々は、天武天皇と桓武天皇とその後の皇室の行動からみて実質的には易姓革命であった、 だと思います。 しかし、KANAKさんは、「この問題は以前の主張は白紙に戻して、議論し直そう」という立場に変えたと理解しています。 Cは天智天皇の子孫である淡海三船が先祖(しかも天皇)を悪く名づけるだろうか?だと思います。 Dは、C同様の立場だと思います。 BでKANAKさんが疑問としているのは、 @「四拍子=死」の連想 A「雲太、和二、京三」の口ずさみ の2点でしょう。 @のKANAKさんの「四」は必ずしも否定的な数ではない。 という意見には、かなり説得力があると思います。 今のところ、「四拍子=死」は、証拠の決定打とも怨霊を否定する決定打ともならないと私は思います。 Aは「雲太」と「協賛」の順序が実際の建築物は逆だったのではないか? だから成り立たないという意見だと思います。 もし東大寺の建設者が出雲大社よりも高いことを承知で高くしたのだとしたら、KANAKさんの意見には説得力があります。 しかし、人間は社会的動物で、しかも日本人は世評に弱いので、 「雲太、和二」が嘘だったとしたら、何故そんな嘘をついたのかという意味で大阪JFさんと石井 Time : 1998/11/24(火) 13:48:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 途中経過のまとめ Comments: KANAKさんの問題発言に関しては、井沢先生のエッセイで決着がついたと思います。 その後のKANAKさんの投稿には、そういう面がなくなったと私は思います。 そこで、誠に勝手ながら、私なりにKANAKさんの意見とこの討論をまとめてみました。 KANAKさんも、他人があなたの意見をどう捉えているかの参考と思ってお許し下さい。 KANAKさんが疑問としているのは次の2点だと思います。 A、天武天皇による天智天皇の暗殺 B、大国主命怨霊説の証拠に対する疑問 Aは否定、Bは大国主の命が怨霊であることは肯定するものの、 「逆説の日本史」内の証拠の2,3に疑問がある、 という立場だと思います。 「だから井沢先生は信用ならない。」は、いうなればKANAKさんの余計な一言であって、 それさえ除けば(場合によっては謝罪も必要かもしれませんがこれは私たちの出る幕ではありません) 上の疑問はおかしくはないと思います。 Aの井沢先生の論拠として、私の覚えている限りでは、 @「扶桑略記」の記述 A「万葉集」の天智天皇の他殺を示唆する歌 B天智天皇と桓武天皇の登位は易姓革命であった C天智天皇と天武天皇の謚号 D天武天皇は天智天皇の異父兄弟であった E当時の国際情勢 F三井寺 です。 KANAKさんは@〜Cを否定、Dは検討中、Eに対しては何の発言もないのでおそらく肯定、Fはまだ議論が出尽くしていない と私は思います。 @は私は読んだ事がないのでよく分かりませんが、 「扶桑略記」の記事をどこまで信用してよいかの議論だと思います。 Aは短い歌の議論なので決着は難しい 全体の整合性から状況証拠の一つとはなるけれども、決定打にはし難い。 BはKANAKさんは同一一族内のゴタゴタの域を出ない 我々は、天武天皇と桓武天皇とその後の皇室の行動からみて実質的には易姓革命であった、 だと思います。 しかし、KANAKさんは、「この問題は以前の主張は白紙に戻して、議論し直そう」という立場に変えたと理解しています。 Cは天智天皇の子孫である淡海三船が先祖(しかも天皇)を悪く名づけるだろうか?だと思います。 Dは、C同様の立場だと思います。 BでKANAKさんが疑問としているのは、 @「四拍子=死」の連想 A「雲太、和二、京三」の口ずさみ の2点でしょう。 @のKANAKさんの「四」は必ずしも否定的な数ではない。 という意見には、かなり説得力があると思います。 今のところ、「四拍子=死」は、証拠の決定打とも怨霊を否定する決定打ともならないと私は思います。 Aは「雲太」と「協賛」の順序が実際の建築物は逆だったのではないか? だから成り立たないという意見だと思います。 もし東大寺の建設者が出雲大社よりも高いことを承知で高くしたのだとしたら、KANAKさんの意見には説得力があります。 しかし、人間は社会的動物で、しかも日本人は世評に弱いので、 「雲太、和二」が嘘だったとしたら、何故そんな嘘をついたのかという意味で 大阪JFさんと石井一旭さんの意見にも説得力があります。 また、「出雲大社はやはり日本一高かった」という私の意見もあります。 ただし、「大きさ」を怨霊鎮魂の普遍的方法と早とちりして、 井沢先生を非難したのは、KANAKさんの勇み足だったと思います。 もう一つこの論争で明らかになったのは、 「日本の古典文学」に対する、KANAKさんと我々の見解の相違です。 これは善悪の付随するものではありえない個々人のものの見方の違いです。 KANAKさんは、「古典文学」は社会とそれほど深刻な接点を持っていない、芸術性だけのものだ、 我々は、歴史の真相が隠されている、 でしょう。 P、S、 KANAKさんの文章は一種論理パズルのような趣があるのですが、 たった一つだけ、ロジックのミスがありました。 わたしの「議論がかみあっていないと思います」に対して、 KANAKさんは「私はかみ合っていないとは思っていません」と回答なさいました。 会話は相手がいてこそ成り立ちます。 従がって相手が「かみ合っていないと思う」なら、 片方がいくら「かみ合っている」といっても、 会話は成り立たないのです。 余計な付け足しすみません。 Time : 1998/11/24(火) 14:06:59
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 管理人様すみません Comments: 2つ下の投稿の「途中経過のまとめ」は、 私のミスで途中で実行ボタンを押してしまったものです。 管理人様、誠に御手数ですが、消してもらえませんでしょうか。 本当に申し訳ございません。 後これは、修正して頂かなくていいのですが、間違いがいくつかありました。 私は、オッチョコチョイなので他にもいっぱいありますが許して下さい。 AのBの「天智天皇」は「天武天皇」の誤りです。 Bの「協賛」は「和二」の誤りです。 顔から火が出る思いです。 Time : 1998/11/24(火) 14:17:30
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : マスコミが報道しないことは存在しない Comments: 学園祭の振り返り休日で暇なのでもう一つ投稿します。 Time : 1998/11/24(火) 14:26:06
Name : 東京リリアン E-mail : Title : おせっかい Comments: 毎日このページを見ている者です。 以前、少しだけ発言しました。(暴言をはきました) 最近、気になることがあります。 それは、特定の発言者同士が、仮説に対する自分の見解というより 互いの発言内容の細かい部分を取り上げて相手の考え方や人格に対し 言い争いをしているように思われることです。 具体的にはKANAKさん対井沢さん管理人さん他の方々のことです。 わたしは詳しいことは分かりませんが、今やっている論争はこの場で 結論がでるものではないと思います。 基本的な議論の進め方の問題や礼儀に反する発言も多少はあるでしょうが お互いに、いろいろな考え方があるのだな、として自分の考えの参考とすれば いいのではないでしょうか。 10,000件以上のアクセスがある割には、発言者が少ないのは 「下手な発言をすれば、叩かれそう」な雰囲気があるからだと思います。 掲示板を分類される予定だそうで、それに期待します。 議論(論争)を避ける典型的な日本人=和を重んじる、と思われるかもしれませんが 率直にそう感じます。 わたしは大阪JF生さんがアテルイの墓を尋ねた話や管理人さんの外国の話等 なかなか触れる機会が少ない話(書物に無い話)が増えればと思っています。 余計なお節介で申し訳ありませんでした。 Time : 1998/11/24(火) 14:58:06
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : マスコミが報道しないことは存在しない Comments: 同じ間違いを二度もするとは・・・ 管理人様すみません 下にある「マスコミが報道しないことは存在しない」を消して下さい。 学園祭の振り返り休日で暇なのでもう一つ、 以前「雲太、和二、京三」と絡めて、 「マスコミに載らない事実は存在しない(マスコミに載ったことは真実)」と言いましたが、 詳述します。 例の口ずさみが広まっていたとして、 東大寺と出雲大社の両方の造営にかかわった宮大工がいたとします。 もしこの宮大工が、 「本当は東大寺のほうが大きいんだぞ」と言ったとしたら、 世間の人はどう言うでしょうか。 おそらく、「あいつは腕は立つんだけれど、変なことを言う」でしょう。 口ずさみよりも宮大工の意見のほうが正しいのは間違いありません。 しかし、真実よりも噂のほうが優先するのです。 また、東大寺のほうが高いことを実はみんなが知っていたとしても、 結果は同じことでしょう。 世間には、みんなで信じなければいけない虚構があると思います。 それに触れたら、村八分にされるのです。 人は、真実よりも真実を暴くものを憎むのだと思います。 と言っても、これは私の意見と言うより、山本七平さんや井沢先生の受け売りに近いのですが。 P、S、 最近古代史が掲示板を占領してマズイなあとは私も思っているのでけれども、 この事が、古代史と現代評論の接点になったらよいなと私は思います。 Time : 1998/11/24(火) 15:36:35
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(10)途中経過 Comments: 安部さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 出張予定が一日ずれましたので、コメントいたします。 まずは、私の主張を整理いただき、ありがとうございます。 ただ、安部さんにしてこれだけの誤解をされていたのか・・とショックでした。 やはり、ツリー型式ではないので過去の意見を参照し難いせいなのでしょうか? >> @「扶桑略記」の記述 >> A「万葉集」の天智天皇の他殺を示唆する歌 >> B天武天皇と桓武天皇の登位は易姓革命であった >> C天智天皇と天武天皇の謚号 >> D天武天皇は天智天皇の異父兄弟であった >> E当時の国際情勢 >> F三井寺です。 >>KANAKさんは@〜Cを否定、Dは検討中、Eに対しては何の発言もな >>いのでおそらく肯定、Fはまだ議論が出尽くしていないと私は思います。 について申し上げますと・・・ Eについては、8/22 大島さん紹介「天智天皇暗殺論争その壱」 (03/29 #1159 RE^2 壬申の乱について教えて下さい・・・出発コメント) ・・で以下のとおり申し上げており、いわば私の主張の原点です。 (ただし、紹介者のコメントによったものであり、直接井沢説を批判したモノ ではありません。この問題については、現在の問題についてヒト区切りをつけ た後、改めて議論させていただいても結構ですが・・) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天武 天智 の政治路線及び朝鮮半島情勢の判断の違いについては親百済派と 言っても既に百済は滅亡(660年義慈王時代の第一次滅亡、663年倭国冊 立の豊璋時代の第二次滅亡・・白(村)江の敗戦)しており、如何に天智とて 直ちに百済復興を計りうる客観情勢にないのは明らかです。 (新羅は唐・倭連合による挟撃を懼れたのは当然ですが、これにより新羅を滅 亡させるれば、唐が韓半島に於ける倭国の一部支配権を認めると思うほど天智 は甘くも、馬鹿でも無いでしょう・・・)倭国としては唐による新羅の完全支 配を回避しつつ(元による高麗支配の如き事態=唐との直接対峙・・・は国防 上危険)、新羅に対する優位を保ち任那の権益を維持・回復する・・・、 唐とも対等に近い関係で和平を講じる・・と言う大局観の中で外交を行ったと 思います。 従ってそれ程深刻な路線対立があったとも思えませんし、天武による著しい路 線転換も見受けられません。 (唐・新羅の関係変化による当然の路線変化はありますが・・・・) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Dに関しては 11/23「逆説の日本史2」(8)易姓革命について ・・・で以下のとおり、私の主張は明確に申し上げております。 (その上で、いままでの「易姓革命」についての論点を整理し議論させて頂 きたいと提案しています) >2.「天武」の男子系血統 >A説・・・「天武」は「天智」と同父同母であり、父母はX王朝血族である。 >B説・・・「天武」は「天智」と異父同母であるが、父もX王朝血族である。 >C説・・・「天武」は「天智」と異父同母であり、父はX王朝血族ではない。 >D説・・・「天武」は外国人であり、X王朝とは無関係である。 >A説は「書紀」はじめ各史書の記述するところであり、私の採るものです。                         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ *安部さんは当然C説に立たれると思いますが・・・出来れば天武の父を具体 的に想定頂けないでしょうか?井沢さんは明言されていないようですが、不明 のままでは議論が空回りしてしまう虞があります。 なお、異父同母兄弟説の根拠として、井沢さんは小林・大和説により中世史書 の年齢記事をあげられていますが、この説への批判は・・・ 8/22 大島さん紹介「天智天皇暗殺論争その壱」 (03/29 #1159 RE^2 壬申の乱について教えて下さい・・・出発コメント) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー また、皇族の年齢は殆ど分からないのが実態で、これは天武だけではありません。 むしろ天智の年齢が舒明薨去紀に記されているのが例外です。 又書紀は勿論その他のあらゆる記述も兄弟であることを当然のこととしています。 (北畠の「神皇正統記」は双生児説だと言うことですが・・・) 従って現在の資料を前提とすれば、井澤説は過去に否定された説の蒸し返しだと 思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー をはじめとして、以下等で論じているモノです(次の部分は未掲載) 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 07/29 #1648 RE^16 天智・天武年齢その他追記・・・曲筆問題 08/02 #1656 RE^17 天智・天武年齢妄想(長文)・・年齢問題推定等 08/09 #1696 RE^18 天智・天武年齢(一代要記)・・同上補足 08/12 #1703 RE^19 皇族の類似名・・・間人名問題 補足 08/14 #1711 RE^20 天智・天武年齢の錯覚・・・年齢問題(愚管抄) 08/16 #1720 RE^21 天智・天武年齢と曲筆・・・年齢と曲筆問題 08/16 #1721 RE^22 天智・天武年齢(天武65歳推定)・・同上 08/21 #1744 RE^23 天智諡号問題(追記) >>Cは天智天皇の子孫である淡海三船が先祖(しかも天皇)を悪く名づける >>だろうか?だと思います。Dは、C同様の立場だと思います。 については・・・私が井沢さんに直接疑問をぶつけたモノであり、いわば井沢 説の根本を問い質したモノだけに、正直言ってショックです。私はそのような 単純な議論は一切おこなっておりません。 私は繰り返し、次の指摘をいたしております。 #1405 >つまり持統は天智の娘、文武は天智の母系孫、元明は天智の娘、元正は天智 >の母系孫、聖武は天智の曾孫、孝謙/称徳は天智の曾々孫です。 >廃帝淳仁以外は何れも天智とは血統で繋がっています。 >(この血縁関係を全面的に否定するならば別ですが・・・要するに淡海三船 >と同じ立場ですね。)) >彼等は自らの母系祖を悪逆紂王になぞらえさせるでしょうか? >私には人情として信じられません。 *つまり、井沢さんは「淡海三船が先祖(しかも天皇)を悪く名づける筈がな いから、諡号制定は淡海三船ではない」と主張されているのに対し、・・・ それならば天武系天皇といえど(廃帝淳仁以外)全て淡海三船と同じく天智の (女系)直系孫ですから、論理の一貫性が無いのでは?と指摘しているのです。 >さらに万々一、彼等がそれを認めたとしても49光仁、50桓武は一片の勅令で >天智の諡号を容易に変更出来る筈ですね。何故自らの直系祖である天智を紂王 >になぞらえたまま放置するのでしょうか? #1744 >さらに、肝心の部分ですが・・・「天智」が紂王の身を飾った玉の名であった >としても、「天智=紂王」とは限らないでしょう。 >「天智玉五在火中不銷、半天智玉武王則寶與同、注、天智玉之上天美者也」 >・・・とは、紂のような悪逆王の身を飾っても、共に亡びることなく上天の美 >を保ったという意味を示しているとも考えられるからです。 >「天智天皇」諡号が紂王を示唆しているという決め付けは、これらの諸点から >も余りに短絡的ではないでしょうか? >(別観点からの疑問は#1405でUP済み) >そもそも、井沢さんは「書紀」に関して >「では、この編纂の責任者、現代風にいうなら編集長である舎人親王とは何者か >といえば、天武天皇(大海人の皇子)の息子なのである。そして「書紀」が完成 >した720年(養老4)とは、天武の玄孫である元正女帝の治世なのである。つ >まり「日本書紀」は、天武天皇の時代にきっかけが作られ、その孫の女帝の治世 >に、息子である編集長が完成させた史書なのである。」 逆説の日本史2 P214 >という「天武系天皇の大本営発表論」を展開されていますね。しかし良くお考え >下さいね・・・仮に井沢さんの筆法を持ってすれば >「・・・大本営発表であり、かつ天智系天皇のGHQ(?)検閲を経て公認の >「正史(諡号)」として、その後も尊重され続けたものでもある・・・」 >なんですよ。 >「桓武天皇」どう見ても自分に転げ込んだ皇位の正統性を「天智天皇」直系に求 >め、天智を最大限に持ち上げた天皇でしょう? >その政権・・或いは後継政権下において「天武系大本営発表の書紀」及び「天智 >=紂王」を意味する「諡号」を何故に公認し、尊重し、講義し続けたのですか? >或いは「彼等」は早くも「天智=紂王」とする「諡号」の意味を忘却したとでも >仰るのでしょうか? >私には理解出来ません・・・この点に関する井沢さんのご見解を是非お聞かせ頂 >きたいと存じます。  これに対し、石井さん等が・・・「寝た子論」を提起されましたので・・ 今回の井沢さんに対するRESで、 >・・・・・・。勿論のこと貴方が「光仁・桓武」が「寝た子を起こすまい」と >して自らの直系祖を「悪逆紂王」として国内外に曝し続けた・・・或いは万世 >一系の立前に拘って、曲筆に満ちた「天武系天皇の大本営発表」を「正史」と >して持ち上げ続けた・・・とされるならばそれでも結構です。 >私は改めて批判いたします。 >しかし、貴方が嘲笑されている歴史学者達は、その様な想定が如何に無理があ >るかを承知しているからこそ、「天武紀」に一定の信憑性を認めているのでは >ないでしょうか? ・・・と申し上げているのです。 失礼ながら、安部さんが私の意見を上記の様にご理解されているのでは、噛み 合わないと思われるのも無理はありません。まことに残念です。 ところで・・・この問題については安部さんはどの様にお考えになっておられ ますか? (既に意見をご発表頂いているならば、申し訳ありませんが日付だ けでも教えて下さい。何しろ私もタッタヒトリで応対しておりますので、充分 把握出来ていない部分もあります) >>Aは「雲太」と「和二」の順序が実際の建築物は逆だったのではないか? >>だから成り立たないという意見だと思います。 >>もし東大寺の建設者が出雲大社よりも高いことを承知で高くしたのだとし >>たら、KANAKさんの意見には説得力があります。 このご理解についてもガックリきました。私は次の様に申し上げた筈です。 11/20 「逆説の日本史2」(4)出雲大社と大仏殿 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は「雲太、和二、京三」を事実であると仮定して、この問題を論じています。 つまり・・・・ 1.出雲大社は十六丈の半恒久的神殿として建築されていた。(32丈は??) 2.出雲大社は特別の祭祀に当たっては一時的に十六丈の神殿として構築され   ることがあり、その高さが神殿の高さとして流布していた。 3.出雲大社は法隆寺五重塔が資材帳に十六丈(実際は十丈)として記帳され   たのと類似の事情(度量衡差??)で十六丈として流布していた。 の何れかでしょうが、1の可能性も全く否定出来ないと考えております。 (極めて不安定であり度々建て直しが必要だったとは思いますが、原型は一種の 「望楼」的建築物であったと言う見解もあるようですね・・・・) *つまり、私は「雲太・和二」をむしろ肯定的にとらえているわけで、安部さ んの解釈とはマルッキリ逆なのです。 次に出雲大社と大仏殿の高さを比較して、そこに何らかの意味を見いだそうと するならば、平安時代の一時期の認識=『口遊』ではなく、創建時における建 立者の思想をこそ問題とすべきだと思います。 つまり井沢さんが『東大寺大仏殿が一丈だけ出雲大社に”遠慮”した謎』とし て再三ご指摘の・・ 「後から新たに建てられた建物なら、越えようと思えば古い建物の大きさを越 えられる。・・・つまり、大仏はオオクニヌシに対して「遠慮」したのである」 「だから日本以外のどんな国でも、そういうものを作る時は必ず国内最大を目 指し、「負け犬の」神殿などは無視するのは当然なのだ。いや当然どころか、 そういうものはとりこわすというのが、世界の常識である。」 ・・・・ホンマカイナ ドウイツミンゾク(ブンカケン) ニ オケル ジツレイ ハ アリマスカネ ?? (これに続いて『口遊』が出てくるのですが・・・省略します) 「天皇夫妻自らが熱烈な信者となり、国家の総力をあげて建立した国教の神殿 すら、出雲大社に「遠慮」するということは、大社に象徴される信仰こそ仏教 を越える日本人の根源的な信仰であるということだ。またそのことを施工主の 聖武・光明夫妻ですら理解していた、ということだ。・・・和の精神であり怨 霊信仰に他ならない。」 「それを、あえて十五丈にしたというのは、やはり出雲大社に「遠慮」したと しか考えられない。」 ・・・を取り上げて、本当にそれ程「遠慮」するならば、「寺院」は「塔」を 含めての「総合建築物」ですから「出雲大社」を遙かに凌駕する「塔」の存在 はどう考えるのですか・・・と申し上げたモノです。 もっとも「総合建築物」であっても「塔」は「塔」で「神殿」ではない ・・・と強弁されるならば、それまでですが。 *つまり、事実「雲太・和二」だったとしても、そこに「聖武」の「遠慮思想」 があったのかどうかは疑問だと申し上げているのです。 その場合・・・さらに重要な問題は「出雲大社」と「伊勢神宮」の比較でしょ う。云うまでもなく、宗教施設としてその建築思想を対比するに当たって、最 も相応しいのはこの両社ですね。 「出雲大社=オオクニヌシ=十六丈」>「伊勢神宮=アマテラス=十五丈」 であれば、説得力も出るかも知れませんが ・・・・ご承知のとおり「伊勢神宮」は「出雲大社」の高さには全然関係がな い極めて低層な建築物です。 その「古式」と「清浄」さには最大限の配慮がなされていますが・・・高さに 興味を示した形跡は一切感じられません。・・・・ *つまり、ここでは王朝の始祖神の神殿である「伊勢神宮」は高さや大きさに は全く関心を示していない・・・従って彼等に神殿について”高きが故に尊い” という思想は見られない・・よって「遠慮」と言う思想もあり得ないのでは無 いか・・・と申し上げたつもりなのですが。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>KANAKさんは、「古典文学」は社会とそれほど深刻な接点を持っていな >>い、芸術性だけのものだ、我々は、歴史の真相が隠されている、でしょう。 これについても、・・・ >私は「文学書」の史料価値を些かも否定するものでは有りません。だからこそ >、天智死亡に関する倭姫その他の万葉挽歌を引用したのです。 ・・・と申し上げたはずです。「口遊」等は史書ではありませんが、子供の教 科書だけに、かえってその信憑性は高く評価しています。 ただ権力側がその権力を正当化するために制作・維持する「正史」と「文学書」 では、権力側の気の使い方が異なる(桓武皇統は天武皇統の曲筆を容認しない) 筈だ・・・と申し上げているのです。 ***私の率直な感想ですので、お気を悪くしないで頂きたいのですが・・・ 現在のところ、私の主張に最も論理的に対応頂いている方が、これだけ誤解を 重ねておられるとは夢にも思いませんでした。 会議室ではこの様なことは一切ありませんでしたが・・・私の表現がこのHP の方々とは合わないのでしょうか? お願いですから・・・私の意見を良く読んでからご批判頂けないでしょうか? ああ・・それから別件ですが、大阪JF生さんにお願いします。 >これも、仰るとおりですが”こんな競争が連綿と ”何処でどの様に続いたの >か、私には分からないのです。 >>それは小生のような素人より、KANAK様のむしろ得意となされるところ >>と存じます。古墳の大きさの変遷に関して考察を進めていただくようお願い >>いたします。 私は、陵墓の比定には若干の疑問を持っていますが・・・一応その大小につい ては承知しております。しかしながら、ご自分が主張されている意見の根拠に ついては、素人であろうと玄人であろうと、ご自分で検証されては如何でしょ うか? 私もド素人ですが、「口遊」について考察するときは空理空論に陥らぬよう。 一応原典に当たります。 聖徳太子以下の各怨霊寺の大小でも、陵墓の大小でも結構です。 (勿論、現在の陵墓比定を前提として頂いて差し支えありません。) 皆さんが始祖王とされる「応神」が「仁徳」「履中」に比べてどうなのか? 易姓革命があったとされる「継体」(この陵墓については比定にお気を付け 下さい)の大きさは特に何かを意味しているのか? 等を含め是非ご考察結 果を我々にもご披露して頂きたいと存じます。  ではまた・・ Time : 1998/11/24(火) 23:33:10
Name : 正岡 E-mail : Title : お…重い…(^_^;) Comments:  毎日楽しみに読みに来ています。  議論に参加はできないので、しろーとのごあいさつ程度の掲示板が別に できるのを楽しみしてます。しかし、ここはここで楽しみに読んでいます。  しかし、掲示板で開くにはちょっと長い文章が続いていて、せっかくの お話がわかりにくいです。しろーとのロムだけの人にもわかるように お話を進めてくださるととってもありがたいです。たとえば、決まった方が 議論されることが多いようですから、「今月はここらへんのテーマを集中的に いこう」みたいな絶妙な呼吸でやっていただけるといいな〜と思うです。  それと、もうしわけないですが、機種依存文字はご遠慮願いたいです。 多分カッコ付数字か何かだと思いますが、Macには月火水…となってしまう のです。ローマ数字も多分だめです。よろしくお願いします。 Time : 1998/11/24(火) 23:53:32
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 東京リリアン 様 Comments:  きょう、サイト側の技術者から、新しい掲示板プログラムのテストを求め られました。導入はもうすぐです。  前にもお伝えしたとおり、「フォーラム」と「とまり木」の2つの掲示板 を新設します。  書き込み欄のポップアップ、表示行数の指定、自動改行などの機能が、掲 示板に加わります。様子をみながら、さらに機能アップをはかっていく考え です。  どうか、御期待ください。                        管理人 Time : 1998/11/25(水) 00:11:11
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : Uuum... Comments: >KANAK様  ニフティーのフォーラム(会議室)は、専用ソフト「NIM」で閲覧する と、ツリー構造で議論の関連性が分かるようになっていますね。しかしなが ら、近くこのホームページに導入する掲示板プログラムは、他の方の記事を 同一画面上に見ながら自分の意見を練って書き込めるので、よりユーザーフ レンドリーだと思いますよ。 >正岡 様  そうですね。「今週のお題」を、あえて設定していくのも一案かもしれませ んね。翌週は、がらっと違ったテーマを置いて、デッドヒートしがちの議論に 休憩時間を取るのがいいでしょうね。  井沢とは、目が完治したら、オフパーティーを開こうと相談しています。他 の作家さんや、学者、評論家もゲストに招いて、出版社にはビンゴゲームの景 品を提供してもらおうとか...。じかに知り合う機会があれば、議論の仕方も 変わってくるかもしれませんし。来年上期の目標にしたいですね。                      管理人 Time : 1998/11/25(水) 01:02:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 管理人様へのお礼とKANAKさんへ Comments: 管理人様、修正ありがとうございます。 後、お礼が遅れましたが、渡来人の姓とスペインの件のアドバイスありがとうございます。 交友範囲が広く、しかも普段日本人の盲点となっている国の人達と交流があるのですね。 羨ましいです。 KANAKさん 私の理解が足りなくて申し訳ありませんでした。 でもこれが分かっただけでも前進したと思ってくだされば幸いです 。 私は、この論争に途中から参加しました、 そして、ニフティーには接続できません。 10月下旬にこの論争が一時休止しましたが、 私はそれ以前の論争は何を言っているのかさっぱり分からなかったので(KANAKのもその他人のも両者とも)読みもしませんでした。 ですから、11月中旬以降のあなたの発言だけからあなたの意見を推理したらああなってしまいました。 読みもしないに批判をするのが無礼の極みなのは分かっています。 しかし、この膨大な掲示板を読み直すのは無理です。 私は理系の学生ですので、古代史の文献には詳しくありません。 ただ、日本の歴史を世界史の視点と現代との繋がりを大事にして理解したいと思っています。 あなたと私では、意見の文章化の方法が違うようです。 恥を忍んで申し上げますと、あなたの文章は特に引用が延々と続く文体が、 私にとって非常に分かりにくかったのです。 それも、私があなたに不信感を抱いてしまった一因です。 ニフティーのことをあなたが引き合いに出すのも、アンフェアだと思いました。 ニフティーのなかでは、あなたの意見は整合性があるのかもしれませんが、 この掲示板だけ見ると、どうもあなたの意見は分かりずらいです。 それに、あなたの引用を多用する文体は、ツリー表示でないこの掲示板には不向きだと思います。 学生の分際で、暇のない社会人のあなたにこんなお願いをするのは無礼かもしれませんが、 引用無しで、あなたの意見を体系化してくれないでしょうか? あなたはおそらく、人間の恣意を除くために引用を多用しているのでと思います。 でも、「逆説の日本史2」(10)途中経過を読んでもやっぱりあなたの意見の連関が分からないのです。 これは、この論争を途中から見始めた人の多くが抱く感情だと思います。 この掲示板が改良されれば、あなたの引用はますます多くなると思います。 でも、その前に、私の願いを聞いてください。 Time : 1998/11/25(水) 10:43:08
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 失われた文明? Comments: 朝鮮半島と日本列島の文明は、ほとんど黄河文明からの天下りによって成り立っているといわれています。 しかし、朝鮮と日本にも、黄河文明に負けないくらい古くて高度な文明があったのではないかと思うようになりました。 一つは、最近その高度さが明らかになりつつある縄文文明です。 もう一つは、完全に私の想像なのですが、 大韓民国の太白山脈を除いた地域に古代文明があったのではないか? 黄河文明と同じくらい古くて、ケルト文明くらいの高度さのある文明を想像しています。 この事に関して良い情報や本がありましたら、お教えください。 それと、私はスチューデントアパシーの典型のような生活をしていたのですが、 この掲示板で皆さんと交流するうちに、自分の進むべき道が見えてきました。 皆さん本当にありがとうございます。 Time : 1998/11/25(水) 11:00:50
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 横レス失礼。 Comments: 安部さんとKANAKさんの議論応酬への横レスになってしまいますが・・・。 >安部さんは当然C説に立たれると思いますが・・・ >出来れば天武の父を具体 >的に想定頂けないでしょうか?井沢さんは明言されていない >ようですが、不明のままでは議論が空回りしてしまう虞があります。 これは不可能でしょう。井沢先生もおっしゃるように 「仮にC説としたら」その父親の名前は書紀から消されているはずです。 おそらく証拠さえも。(漢皇子説も有りますが) この場合、「想定」する事すら不可能ではないでしょうか? 斎明天皇が即位前に朝鮮系帰化人と何らかの関係を持った、 としても、資料には存在するはずが有りません。 ですが、「資料に無いから存在しない」というのは 井沢先生が常々批判されている考えです。 これには証拠は有りません。 ですからその他の証拠(今議論になっている「謚問題」や 「易姓革命」です。) から「推理」しているのです。 >また、皇族の年齢は殆ど分からないのが実態で、これは天武だけではありません。 >むしろ天智の年齢が舒明薨去紀に記されているのが例外です。 ですから、日本書紀の主人公といって差し支えない 天武天皇の年齢が無い事が問題であるわけです。 では、KANAKさんは天智の年齢が記載されているのに 「同父母弟」の天武の年齢が書かれていない事について、 どういう考えをお持ちなのでしょう。 「天智の年齢記載が異常」ならば なぜ天智の年齢が記載されているのか、説明して下さい。 お願いします。 じかんが無いので、このへんで・・・。 PS 確かにはじめてきた人には加わりにくい議論ですね・・・。 私としては「天智論争」は数ある歴史議論の一つとして おきたいのですが・・・。 Time : 1998/11/25(水) 14:42:21
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 反省 Comments: この掲示板に来る人は、そのほとんどが、歴史、社会科学、文学を本業とはしていないと思います。 歴史に興味を持って間もない人 素人ながらもこつこつと知識を溜めて、玄人裸足の域の人 思いつきが先走る人 ですから、自分の説に対して、完全な理論と証拠を提出することは不可能です。 日常の生活があるからです。 (こんな事を言うのも、そろそろ私の知識が底をつきかけてきたからですが) ですから、ある程度議論したら、 「Aさんの説を証明するためには、B、C、D、の証拠が必要です。 Aさん、いつか証明できるといいですね。」 という形で決着させるしかないのではと思います。 これは私自身もやってしまったことですが、 「Aさん、B、C、D、を一週間以内に証明してください。 何?出来なかった?じゃああなたの説は間違いだ。」 は決してしてはならないことだったと思います。 厳密な論証をしなくても自説を発表できたのがこの掲示板の魅力だったと思います。 今回の件で皆さんを食傷させてしまって後悔しています。 Time : 1998/11/25(水) 16:52:20
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : お願い Comments:  わたしが尊敬する某週刊誌の元・筆頭デスクは、電話、あるいはドア越し・ インタホンの取材を、取材であるとは基本的に認めない主義の人でした。  なぜならば、相手と顔を突き合わせ、その表情や息遣いをつかまずに、ただ 言葉だけを追うと思わぬミス・アンダスタンディングが生じるからです。付き 合いの長い取材源ならば、電話取材でもノー・プロブレムですが。  パソ通の会議室や、インターネットのニューズグループで、往々にして議論が苦いものになってしまうのは、相手の表情や息遣いを想像することに欠ける 場合ではないかと思います。  いろいろな事情から、個人的なプロフィールを公開できない方もいらっしゃるとは思いますが、なるべく新設の「とまり木」で素顔の断片でも垣間みせる ようにしていただけると、「フォーラム」において血の通った議論がなされる のではないでしょうか。  週内には、新しい掲示板プログラムを導入できるでしょうが、井沢のHPを 楽しくも意義のある場にするために、御協力ください。                      管理人 Time : 1998/11/25(水) 23:26:33
Name : 輔住 E-mail : Title : 天智問題私の意見のまとめ Comments: 皆さん今日はKANAKさんが天智問題の再定義をしてくれたので これを機会に自分の意見をまとめようと思います。 *どんな議論でも長くなると定期的に自分の意見を 整理する必要があると思います。 その前に私自身はここでは匿名で意見をいっていますが、 (管理人さんには本名と住所を言ってあります) 「とまり木」の方ではまた違った面をお見せできればと 思ってます。 >1.「天智」の男子系血統についての前提 >「天智」は王朝始祖「X大王」の男子系血統を嗣ぐX王朝の「天皇」である。 これは問題ないと思います。これが違ってくると 2.以下の論議とは別の論議になります。 >2.「天武」の男子系血統 >A説・・・「天武」は「天智」と同父同母であり、父母はX王朝血族である。 >B説・・・「天武」は「天智」と異父同母であるが、父もX王朝血族である。 >C説・・・「天武」は「天智」と異父同母であり、父はX王朝血族ではない。 >D説・・・「天武」は外国人であり、X王朝とは無関係である。 A説では天武の若いころのエピソードがないのが気になります。 私には年齢の記述よりもっと気になります。 A説のとおりなら若い頃のエピソードがたくさん乗っているでしょう。 天武は「書紀」の最大のヒーローなのだから B説の可能性もゼロではないと思いますが、天智の方が先に天皇に なったということからみてもC説のほうが可能性が高い。 (中世の資料から考えて天武の方が年上) D説なら自分が天皇にならず、傀儡の天皇を建てたと思います。 >3.「易姓革命」の定義 天智問題でいうなら 天智系の(まったく皇位につく可能性がなかった)復活は 易姓革命だったと思います。 光仁即位まで天智系の人々は「敬して遠ざけられて」いたでしょうし。 自分の意見はこんなところです。 Time : 1998/11/26(木) 12:49:17
Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 同志社大学見聞録その他思う事共 Comments: 井沢先生の同志社での講演会に行って参りました。 「逆説の京都史」と表題を銘打ってありましたが、内容は 現代学問への疑問、報道問題、十七条憲法、「和」の思想など多岐にわたっており、 非常に楽しめました。わざわざ一時間半もかけて行った価値があったというものです。 とても熱のこもった講演でした。また機会がおありでしたら、ぜひ京都で講演して下さい。 それにしても先生はいい声してますね。 ここでいきなり天智問題に入ってしまいますが・・・ >皇族の年齢は殆ど分からないのが実態で、これは天武だけではありません。 >むしろ天智の年齢が舒明薨去紀に記されているのが例外です。 なんですが・・・。 問題は「皇族」の年齢ではないのではないでしょうか。 天武は「天皇」であるわけで、皇族より一層歴史的に重要な存在です。 「国史大事典」で調べてみると年齢のわからない天皇は仲哀、履中、反正、允恭、 崇峻、天武、後亀山の7人しかいません。 このうち「書紀」の方を見てみると、仲哀は31歳で立太子し、52歳でなくなったと 書かれています。履中は仁徳31年で立太子、その時15歳。 (生年がわからないので没年齢の参考にはなりませんが・・・) 反正は在位5年、60歳で薨去したと言われている、と「国史大事典」には書かれていました。 允恭は78歳で崩御されたと「書紀」にあります。 どうして「国史大事典」では空白になっているのかわかりませんが・・・。 恐らく信憑性が薄いので書かなかったのでしょう。  どうであるにせよ、これについては井沢先生が、 「古墳時代の天皇については、記録が完備していなかった、ということも有り得る。」 とおっしゃっていますから、信憑性が薄くても問題はないでしょう。 後亀山天皇については・・・申し訳ありません、勉強不足でわかりません。 (わたしも史学専門の学生ではないので・・・。ちなみに法学部であります。) ところが天武の場合、こうした記述がいっさい見られません。 これはどういうことなんでしょうか? 輔住さんの >A説では天武の若いころのエピソードがないのが気になります。 >A説のとおりなら若い頃のエピソードがたくさん乗っているでしょう。 >天武は「書紀」の最大のヒーローなのだから という意見も気にかかりますし・・・。 また唐突に話は飛びますが・・・・・・。 今回天皇の没年齢を調べているうちに疑問に思ったことがあります。 それは「履中天皇以後と仁徳天皇以前の在位年数の格差」です。 たとえば16代仁徳は在位87年、15代応神は41年、12代天皇景行が60年、 13代成務天皇が同じく60年ですが、17代履中天皇は在位9年、次の反正は6年と 突然在位年数が短縮されています。(允恭天皇は42年ですが、これは彼の長寿 によるものでしょう。また允恭の没年齢は78(?)ですから 常識の範囲内です。(古代では超高齢なのでしょうが。)) 仁徳と履中の間には何かあったのでしょうか? 神武即位を前660年に合わせるために在位年数を引き延ばしたのだ、とする 説も聞いたことがありますが、この「仁徳・履中ライン」があるのはなぜなのでしょう。 私が書紀の編者ならば同じ引き延ばしにしても「5世の孫」継体あたりで 「天皇家の「血」が薄れたため寿命が縮んだ。」などの理由をこじつけてしまうと 思いますが・・・。 最後になりましたが、安部さん、 >今回の件で皆さんを食傷させてしまって後悔しています。 「食傷させ、後悔すべき」なのはむしろ私の方です。なぜなら、 >厳密な論証をしなくても自説を発表できたのがこの掲示板の魅力だったと思います。 私は「天智問題論争」でこの掲示板をほとんど独占状態にし、上記のような「自由な発言」、および 「途中参加の人」の参加を妨げているのではないか・・・、と、最近思うようになってきました。 ここで議論を中断してしまうのはKANAKさんに対しても皆さんに対しても失礼なので できないのですが、今後は別の時代、別の問題に対しても積極的に参加していきたいと 思っております。(今回の「在位問題」もその一環です。) ご迷惑をかけ本当に申し訳ございませんが、今後ともよろしくお願いします。 Time : 1998/11/26(木) 21:12:35
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(11)天皇宝算について Comments: 安部さん、石井さん、輔住さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 安部さん、率直なご意見ありがとうございました。 「引用の件」は途中から読まれる方に、今までの流れを理解して頂くため・・ と考えたものですが、かえって理解しずらいと言うことであれば、再考いたし ます。なお「天智諡号問題」「書紀の大本営発表問題」についての貴方のご意 見をお聞かせいただければありがたいのですが・・・。 輔住さん、天武の「少年記事」についてはあらためてご説明しますが・・・ ここでは「年齢問題」に問題を絞らせて頂きます。 石井さん、「年齢問題」につき「皇族」と書いたので誤解を生んだ様ですが、 これは「天皇を含めあらゆる皇族」と言う意味とお考え下さい。 なお、天皇年齢につき「国史大事典」でお調べ頂いたのですね。 丁度良い機会ですので、「国史大事典」が何によって「天皇年齢」を推定して いるのかを含め・・・以下の史料をご参照下さい。 後日この問題については・・・さらに詳細に論じていますが、 取り敢えず、ごく簡単にいえば・・・以下のとおりです。 (**部分は原文に追加したモノです) なお、欽明以前の「天皇宝算」については別に論じても良いのですが・・・ ここでは、天武・天智問題に関係する「天皇」に絞りました。 ********************************** 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 ・・・・・ 以下の資料は既に#1443で提示したものですが「書紀」及び「神皇正統記」 の天皇宝算認識を理解するのに最適と思われますので、再掲いたします。     書紀 扶桑略記 愚管抄 神皇正統記 皇代記 皇胤紹運録 年代記      8C   12C   13C   14C前  14C後   15C   16C  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 欽明   --   -- 63 81 63 63 63 敏達   -- 24 82(37) 61 48 48 48 用明   -- -- -- 41 69 -- 69 崇峻   -- 72 72 72 72 73 73 推古  75(77) 73 73(83) 70 75 73 73 舒明 -- 49 49 49 48 49 49 孝徳 -- -- -- 50 -- -- -- 斉明 -- 66 -- 68 -- 68 68 天智 46 -- -- 58 -- 58 58 天武 -- -- -- 73 -- 65(64) 64 持統 -- 61 -- 58 -- 58 58                *「一代要記」は 天智53・天武65 『日本書紀』の信頼限界と後代史料・・白崎昭一郎氏論文より なお、さらにこれを生年に焼き直すと次のとおりとなります。     書紀 扶桑略記 愚管抄 神皇正統記 皇代記 皇胤紹運録 年代記      8C   12C   13C   14C前  14C後   15C   16C  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 欽明   --   -- 509 491 509 509 509 敏達   -- 562 549 525 538 538 538 用明   -- -- -- 547 535 -- 535 崇峻   -- 521 521 521 521 520 520 推古   554 556 556 559 554 556 556 舒明 -- 593 593 593 592 593 593 孝徳 -- -- -- 605 -- -- -- 斉明 -- 596 -- 594 -- 594 594 天智 626 -- -- 614 -- 614 614 天武 -- -- -- 614 -- 622 622 持統 -- 642 -- 645 -- 645 645 以上の資料から次の事項が窺える・・と思います。 1.「書紀」は原則として天皇宝算について関心を示さず、記述もしていない。 (推古・天智は例外であるが、天智についても舒明紀記事からの推定である) **注)古墳時代の「天皇年齢」の方が詳しく書かれているのは・・別にご説 明しますが、ここでは省略いたします。また持統以降の天皇宝算についても、 大部分は「続日本紀」だけでは確認出来ないのが実態です。 (なお、「三国史記」等の史書においても各王の宝算は書かれていないのが、 原則です。高句麗「長寿王」等の例外はあったと思いますが・・・) 2.「扶桑略記」「愚管抄」においても若干の追記が見られるのみである。   (ただし、崇峻 72歳等 疑問が多くあまり信頼出来ない?) **注)この点に関しては・・井沢さんも論じておられますが、その理由につ いては、疑問を感じています。 ・・・ただ問題をこれ以上拡散させないため、ここでは取り上げません。 3.「神皇正統記」が各天皇宝算の初見であるが欽明生年は仁賢4年となり明ら   かな誤認をおかしている。(その他は継体3年で整合性あり) **注)この誤認の原因については、別に論じています。 4.「神皇正統記」における天智・天武生年に関して言えば、   何故天智宝算を「書紀」から変更したのかが問題であろう。   丁度12年であり干支の誤認ではないかとも思われるが、天智・天武は   同年生まれになる。(双生児或いは年子と認識??)) 5.「皇胤紹運録」「年代記」では天智は天武八歳上の兄としている。   即ち、あらゆる資料において天智・天武は天智長兄説である。 **注)ただし、さらに後世に天武を天智より年長とする宝算(計算上です) を記述した僧侶の著書もあります(その場合も天智長兄と記述されています。) 私とスズメ♂さんは、これら中世史料を検証し、意見交換する中で彼等が如何 に計算が苦手だったかを実感したモノです。(誤写の可能性もありますが。)    つまり天武長兄説は天智長兄と言う各説の”基本認識”を無視し、 書紀の天智生年(626)・・・・・{各説の天智生年(614)} 各説の天武生年(614--622) と言う本来比較すべきではない接ぎ木的比較から生じたものの様ですが、 これは一体何なのでしょう?? 私には全く理解できない資料批判としか言いようがありません。 なお、「神皇正統記」における天智・天武の出自認識は次のとおりであり、 同父同母兄弟を疑わせるものは全く感じられません。(扶桑略記も同様) 舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも 敏達の御女なり。推古天皇は聖徳太子の御子に傳給はむとおぼしけるにや。 されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。 又太子御病にふし給し時、天皇此の皇子を御使としてとぶらひまししに、 天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。・・・ 第三十六代、皇極天皇は茅淳王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。 御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇皇后とし給。天智・天武の御母なり。 第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。天下を治給こと十年。五十歳お ましましき。・・・・ 皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、此の 御時は摂政し給と見えたり。・・・・・ 天皇天下を治給こと七年。六十八歳おましましき。 第三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。・・・ 天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。 第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立ちて大倭にましましき。 天智は近江にましましす。・・・ 天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。 **注)天智同母と書いてあるだけだ・・と言われるかも知れませんが、 前後の書き方から見て、同父を当然の前提としている(一夫多妻制度の中で は異母兄弟は多数存在するので、母を特に取り上げるのです)としか読めま せん。要するに「同母の弟」の「弟」と言うのは父系における「弟」と言う 意味です。(勿論これに異論を唱えることはありうるでしょうが・・・) なお、『扶桑略記』では「天武天皇、舒明天皇第三男。母斉明天皇也。」 と記述されています。 第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の 大臣の女なり。天武天皇、太子にましまししより妃とし給。後に皇后とす。 Time : 1998/11/27(金) 00:15:16
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 仁徳天皇と応神天皇 Comments: KANAKさん 天武天皇長兄説が、文献からは想像も出来ない説だといううのはよく分かりました。 私は、もう少し根拠があると思っていたのですが、これならあなたが否定するのもよく分かります。 しかし、今回の議論で、天武天皇が長兄で、易姓革命であったということが、 当時の情勢や思想と照らし合わせて不可能な事ではなかった事は明らかになったと思います。 「初めに長兄説ありき」で話を進めてはいけないのですね。 もちろん、「初めに定説ありき」でもいけないでしょう(そういう事は学者に任せておきましょう)。 この事に関しては、じっくり考えてみたいと思います。 時間がかかると思いますが、お待ちください。 石井一旭さん 天皇の年齢と在位年数の件ですが、 私が以前計算した所によると、 継体天皇から後醍醐天皇までの平均は11年でした。 飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代いでの各平均も11年前後でした。 そして、反正天皇〜武烈天皇も11年でした。 この期間に関しては、天皇の人数と年齢は信用できると思います。 血縁関係はまだ分からない部分があります。 反正天皇以後から鎌倉時代までの天皇を見ると、 1世代で2〜3人20〜30年在位しています。 大変問題がありますが、崇神天皇から実在したと考えて計算すると、 応神天皇7年、仁徳天皇13年となります。 記述では、応神天皇は仲哀天皇の子ですが、世代を頭に入れて計算すると、 応神天皇は仲哀天皇が10歳の時の子供で、、 仁徳天皇は応神天皇が10〜15歳の時の子供になってしまいます。 これは明らかにおかしい。 この場合方法は3つあります。 1、仁徳天皇以前はでっち上げ(完全な神話)として無視する。 2、私の計算がおかしい。 3、発想の転換。 3で考えてみた私の結論は、 応神天皇は神功皇后の連れ子である。 仁徳天皇は、仲哀天皇と神功皇后の子である。 というものです。 そこで、聖徳太子と蘇我馬子は考えた、 応神天皇は皇室とは血縁が無い人物である。 しかし、継体天皇の先祖である。 そして、伝説的英雄である。 仁徳天皇は、河内王朝の血統上の創始者である。 そして、伝説的な名君である。 何とかつじつまを合わせられないものか? そこで、紀元前660年に合わせる意味もあって、ああいう在位年数とい系図になったのだと思います。 この説は、「仁徳天皇以前は伝説だ」と言われてしまったら一たまりも無いのですが、 なかなかいい線を言っているのではないかと思います。 Time : 1998/11/27(金) 12:42:20
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 北条義時 Comments: 知人が言っていたのですが、 鎌倉幕府の真の創設者は北条義時ではないか? 北条氏がなぜ権力を握ったのか分からない。 北条時政は、田舎のおっさんにしか思えない。 政子は、永井路子さんが言うように、普通の幸せを求めた田舎娘だったようだ。 なのに、いざ3代将軍がいなくなってみるといつのまにか北条氏の天下になっていた。 そして、北条義時の業績というのが、さっぱり出てこない。 でも、子供の泰時は、伝記学者が、 「泰時の研究をしてると、どこかに彼の悪口が載ってないか探したくなってくる」 というほどの聖人ぶり。 どうも不気味だ。 後鳥羽天皇が「北条義時を討て」といったのも気になる。 彼は一体何者なんでしょうか? Time : 1998/11/27(金) 13:21:58
Name : 輔住 E-mail : Title : 北条氏 Comments: 安部奈亮さんの言う通り北条氏も不思議な一族ですよね。 源平合戦・頼朝将軍時代は三浦・和田・畠山等の有力御家人の 影に隠れたようにしてましたが、頼朝の死後から行動が 活発になり、ついに「執権」となって実権を握ります。 北条氏は「合戦」となると手段を選ばないのですが、 後世の評判はかなりいいですよね! 私自身は中世史の話が好きなのでこういう話題もほしいですね。 ちなみに永井路子さんの「つわものの賦」はなかなか面白かったですよ! Time : 1998/11/27(金) 18:05:52
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(12)天智・天武非兄弟説 Comments: 安部さん、輔住さん、石井さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 安部さん・・・私の主張にご理解を示して頂き、ありがとうございました。 安部さんは、ナ〜ンダと思われるかも知れませんが、これが井沢さんの主張の 基となっている・・・所謂る小林・大和氏の ”天智・天武非兄弟説”と言わ れるモノの中核部分なのです。 >>「初めに定説ありき」でもいけないでしょう >>(そういう事は学者に任せておきましょう) 私も、数十年前は学生でしたが、そこで得た最大の収穫は・・・ ”全ての「定説・通説・新説」即ち「学説」を理解するためには、その「学説」 に疑問を持つことです。そして、そのよって立つ根拠を徹底的に分析し、理論 の整合性を確認することです。その結果「理性」が納得するモノのみを信じな さい。「疑問」無きところに学問の進歩はありません。・・・” と言う教えでした。残念ながら経済的(能力的?)事情で、研究者への道は断 念しましたが、趣味で始めた「古代史」を勉強する上でも私の「指針」となっ ています。 「応神」問題についても、会議室で何度も議論していますが・・・ここでは、 この問題に言及するのは差し控えます。 従って余計なことではありますが、「マクロ=平均在位」と「ミクロ=親子 関係」の視点を明確に区別されることをおすすめします。 輔住さん・・・ 「天武」の少年時代の記録が無いことに興味を示しておられますが、 「日本書紀」は紀年体(列伝体ではない)の「正史」の体裁をとっています。 従って、これを通読されれば分かるように如何なる「天皇」と言えども、その 様な記事は無くて当たり前なのです。如何に天武を持ち上げるモノであっても その原則を破ることは寧ろ不自然になります。 天智に関しては若干そのような記事があるように思われるかも知れませんが、 あくまでも「蘇我打倒」と言う歴史的大事件の伏線として記述されているもの です。 石井さん・・・ 天智に関する「年齢記事」が何故例外的に記述されているかですが・・・ これは舒明の崩御にさいし、十六歳という年少にも拘わらず葛城皇子(中大兄) が吉野皇子(古人大兄)を抑えてシノビを行った・・・即ち中大兄が当時から 正系であることを強調するために敢えて挿入されたものと思われます。 つまり天智・天武系権力による「正史」の記述目的に由来するモノではないで しょうか? なお、天武の実父に関する「想定」は不可能とのことですが、同じ渡来人系と 言っても渡来後数代を得た人物か、当代に渡来した人物かによって「想定内容」 は違います。 何しろ斉明が594〜596年生まれとすれば、その青春時代は610年前後であり、 聖徳太子の新羅出兵や隋遣使とほぼ時を同じくしているからです。 斉明は聖徳太子の子「山背大兄」と皇位継承を競った「田村皇子」の極めて近 しい皇族(姪)ですから、新羅出兵や隋と対等外交を求めると言うような緊迫 した状況の中で新羅人と結婚すると言う「想定」は、余りにもドラマチックで はないでしょうか? この点では、小林氏の宝皇女についての認識・・・ 「皇統であっても皇位にほど遠く、当時の権力者、蘇我一門とも関係せず、し かも外来人と浅からぬ血脈を持つ王の娘に過ぎない。そうであってみれば唐国 帰りの学者、高向漢人玄理は、若き日の斉明には、むしろふさわしい相手だっ たと想像されよう。」・・(天武天皇の年齢と出自について 1978夏)より 同じく井沢さんの認識・・・ 「あと二世代で皇族待遇でなくなる。皇族といっても、かなり下級といっても いい身分だ。だからこそ外国人、つまり朝鮮半島からやってきた貴族や政府高 官と恋に落ちても、障害はない。」 P392 ・・・と言う認識は、あまり説得力がないのです。 (天武が新羅人の子であれば、新羅系史書がそれを記述しない筈が無いでしょ うね。この点でも無理が有り過ぎなのです。) Time : 1998/11/27(金) 23:05:47
Name : 宇津木和政 E-mail : kennichi@utsuki.office.ne.jp Title : 江戸時代の武士って? Comments:  私が小学生(昭和49年〜55年)の頃、小学校の先生は、こう教えてくれました。 「江戸時代の武士はひどい人達で、農民達から年貢を取りたて、土下座させ、時に は切り捨て御免といって切り殺したのだ。明治維新で、武士は、年貢の取りたてな どの「特権」を失い、商売などを始めましたが失敗するものが多かったです。ざまぁ 見ろですね」と教わりました。  中学校でも同じようなタイプの先生に歴史を教わりました。武士は悪者。農・工・ 商は善玉。さらに自衛隊も武士と同じで人殺し集団だと教わりました。私のすんで いた地域は自衛隊とは縁もゆかりも無い土地だったのですが、舞鶴や岩国で教えて いたら彼はどう教えたんでしょうか?  高校では世界史しかとらなかったので、日本史は教科書も持っていませんでし た。ただ、就職の関係で山川出版の日本史の教科書を読みました。実は私の歴史の 知識というものはこの程度のものです。したがって、皆さんのように厳密に史料を 検討し、細かいところまで議論するという能力はありません。だから、天智・天武 論争は私のような「名実ともに素人」にとってはかなりきつい世界です。本当に一 握りのヒトしか参加できない雰囲気が漂いすぎています。もうじき「とまりぎ」と いうコーナーができるそうなので、少しほっとしています。  さて、こういった歴史教育をうけてきた私にとって、さまざまな疑問があるので す。その最大のものは「江戸時代の武士ってそんなに極悪非道だったのか?」とい うことです。ただし、言葉を補足しないといけないかもしれません。江戸時代の武 士は、おそらく年貢の取りたても厳しかっただろうし、切捨て御免もやったでしょ う。そして、それは武士という支配階級に属する人間のおごりからくるものもあっ たと思います。ただ、それだけで片付けていいのかなと疑問に思うことがありま す。  江戸時代の武士、それは今で言うところの「地方公務員」だったような気がする のです。つまり、県庁の職員で、これに警察権(治安維持)があるだけのように思 うのです。ただ、ひとつ現代の公務員と違うのは「世襲の公務員」だったことだと 思います。  年貢を取りたてることは、小学校で教わったような「特権」というよりも、単な る公務員の俸給だと思うのです。しかも、何だったか忘れましたが、何かの法律 (?)で、武士は石高によって、決まった定員の使用人等を養わねばならなかった はずです。しかし、年貢は基本的にはお米をベースにしているわけですから、年に よっては不作のときもあります。しかし、支出(人件費)は定められているわけで すから、不作の年の取りたては厳しくならざるを得ないと思うのです。もちろん、 だから無茶な取立てが合法化されるのはおかしいと思います。が、少なくとも、収 入は不安定だが、支出は削り辛いシステムだったのも事実ではないかと思うので す。  赤穂藩などで起きた「お家取り潰し」にしても、影響を受けたのは武士階級だけ だったのではないかと思います。無論、出入りの御用商人などは打撃を受けたかも しれませんが。武士は確かに支配階級だったかもしれませんが、要するに「世襲の地方公務員」に過ぎなかったような気がするのです。そして、収入は徴税権をもつ 領地の領民から年貢を取り、その中から、使用人の給料を払う。もし、不作なら、 えげつない取立てをするか、商人などから借金。そんな生活だったのではと思うの です。  もっとも、江戸時代(とその以前)、日本は数多くの国家(藩)の連合体だったわ けで、国によってかなり差はあるかもしれません。大毛利王国から山口一県に押し 込められた長州藩なら、もともとは武士であった農民も多いでしょうから、武士が あまりえらそうな顔をできなかったかも知れません(単なる思いつきです)。 また、鉢植え大名ばかりやってくるような地方なら「また県庁の職員が入れ替えに なったみたいだね」で済まされていたかもしれませんね。  そんな「県庁職員」にとって、明治維新とは昨今お騒がせの「自治体倒産」のよ うなものかもしれません。公務員はつぶしがきかないとよく言われます。確かにそ うでしょう。武士がクビになったとき、農・工・商のような手に職も無ければ、土 地もない以上、どうしようも無いと思うのです。小学校の先生は「武士の商法」の 失敗を「ざまぁみろ」と言ってました(今でも覚えています)。しかし、今にして 思えば小学校の先生が失業して商売を始めれば、明治の「武士の商法」と同じ展開 をたどる可能性の方が高かったかも…と思ったりします(ヒトによりけりです)。  私が教わった先生達は「武士=悪の権化」といいました。もちろん、相当無茶な ことをした武士はたくさんいたと思います。現在の公務員の汚職は金の世界です が、この時代の公務員=武士はなまじ「武力」を持っているだけに始末に負えなかっ たと思います。そして、義務教育レヴェルではあまり色々な説を教えるのはまずい かもしれません。しかし、振りかえってみると、やはり、当時うけた教育はなんだ か洗脳的なものがあったのかなと思ったりします。  すでに井沢先生が、この辺の話を詳しくされていたかも知れませんが、とりあえ ず、思ったことをだらだら書いてしまいました。ごめんなさい。     Time : 1998/11/28(土) 14:12:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 唯物史観の大馬鹿野郎 Comments: 私は、小学生のとき図書室の唯物史観の日本史を読みました。 江戸時代に関しては、宇津木和政さんが行っていたような記述でした。 そして、現代史のベトナム戦争のところまで来て、はたと思ったのです。 「世の中のことは、こんなに簡単に割り切れるのだろうか?  政府というのは、いつの時代でも悪いものなのだろうか?」 それから、私は、教科書や新聞を信じなくなりました。 私の歴史観を作っているのは、小学館の漫画日本史と集英社の日本史です。 どちらも児玉幸多先生の監修です。 幕末に来たイギリス人の言った言葉です。 「私は、もし支配階級に生まれるのだとしたら、イギリスに生まれたい。  しかし、庶民に生まれるのだとしたら、日本に生まれたい。」 江戸時代(特に天領)では、仁政が敷かれました。 江戸時代の石高というのは江戸時代初期のもので、どの藩でも江戸時代を通じで検地は2回以上行われていません。 ですから、江戸時代初期以降に作られた田んぼというのは、百姓の私有物で、無税だったのです。 更に、元禄時代に沖積平野が開拓されて、日本の石高は2倍になりました。 でも、増えた分は、百姓がほとんど丸まるもらえたのです。 江戸時代の武士、後期には、四民全部が、かなりまじめに儒教を勉強しました。 ある藩では、200年間殺人事件は1件もありませんでした。 大体、圧政を敷いたら、百姓は徴散して、隣の藩に逃げてしまいます。 江戸時代前半は人手不足だったので(何しろ耕地が倍増したのです)徴散民は、大歓迎されました(収容所までありました)。 圧政を敷いたら、百姓と町人は逃げてしまい、経済が悪化してますます藩の財政が苦しくなるので、 実質的に、「ゴマの油と百姓は・・・」ということは不可能です。 「ゴマの油と百姓は・・・」と言う言葉も本来の意味は違います(忘れましたが)。 儒教をかなりまじめに受け取っていた江戸時代の為政者は、フランスやロシアのようなことをしませんでした。 それに、「堂々日本史」で取り上げていましたが、 失業した武士のほとんどは、公務員と教師になって成功しています。 商売を始めた人は極少数です。 それも全部が全部失敗したと言うわけではないでしょう。 大体、武士がそんなに目茶苦茶ならば、国は荒廃し、明治の近代化は不可能だったでしょう。 現在の日本は、江戸時代の蓄積の賜物です。 私は、戦後の知識人が自らの先祖を、 これでもかこれでもかと言うほどあしざまに言う神経が理解できない。 確かに。昭和6〜20年の日本はおかしかった。(私は、昭和6〜平成といいたいところですが) だからと言って、日本の為政者の全てが、帝国陸軍人だったとはいえないでしょう。 江戸時代の人が可哀相です。いや、先祖に申し訳ない。 江戸時代に関しては、山本七平さんの 「日本人とは何か(下)」「日本資本主義の精神」「勤勉の哲学」「江戸時代の先覚者達」や、 「マンガ日本の歴史12〜15」(小学館)「日本の歴史12〜15」(集英社)などをお読み下さい。 Time : 1998/11/28(土) 15:19:13
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 古代人は馬鹿か? 中央政府=悪か? Comments: 私がいつも思うことですが、 「テレビを見ている現代人は、テレビを見れなかった昔の人よりも優秀か?」です。 「テレビを見ている」=「テレビを作ることができる」ではありません。 まあ。電気技術者ならば、 「俺は、電気技術に関しては昔の人より優秀だぞ」と言うことは出来ますけれども、 炬燵に入ってテレビを見ることを専らにしている人が昔の人より優秀かと言うとはなはだ疑問です。 どうも、現代人は、「テレビを見ている」と「テレビを作ることができる」を混同している気がします。 古代史の学者の本を読んでいると、 地方の発展ばかり重んじ、中央政府(大和朝廷)の成立をできるだけ遅らせようと言う魂胆が感じられます。 大体、誰だって自分の国が弱いよりは強い方がいい。 そして、歴史が古い方が頼もしい。 地方を重んじたいのなら、地方の発展をもっと古い時代に持ってきて、 中央政府の成立も古くすればいい。 確かに、アジア太平洋戦争は悲惨だったのでしょうが、 だからと言って、自らの歴史を曲解してよいことにはならない。 それでは、皇国史観の裏返しにすぎない。 私は、アジアの人たちがイマイチ日本を信用しないのは、 基本的なものの考え方が変わっていないこともあると思います。 「自分の国は最低」と言っている人は、いつ「自分の国は最高」と言い出すか判らないのです。 悪いところも認めるべきでしょうが、「全部悪い」と言うことはかえって真相を隠すことになる。 Time : 1998/11/28(土) 15:42:01
Name : 大蔵芳人 E-mail : zodiac12@mail.goo.ne.jp Title : イデオロギーが前提となる言論 Comments: みなさま、お久しぶりです。歴史についての議論は知識の無さのせいでまったく 参加することができませんが、忘れられるのも悲しいので(笑)、安部さんの 書き込みを見て思ったことを述べさせていただきます。 左翼系の言論人の方々の言論についてです。 タイトルにも書きましたが、左翼系の言論人の方々は、まず金科玉条的イデオロギー ありきで、そこからはみ出さないよう論理を組み立ててる場合が多々あるように思えます。 物事には良い面と悪い面がかならずあるわけで、歴史だって同じです。 それらすべてを受け入れて教訓にし、これからに生かすのが政治であり、歴史の役割だと 私は考えます。つまり、先の戦争にもよい面と悪い面があった。客観的かつ常識的に 見ればそれは明らかなはず。しかし、左翼系言論人の方々はまず否定ありきで、そこから 持論を展開していくわけです。だから当然無理も出てくるわけですが、その理由は何よりも 感情が最優先されていた言論だからなのでしょう。いいことはいいし悪いことは悪い、なぜ そんな簡単なことも素直に認めることができないのか理解に苦しみます。「悪」の部分を クローズアップさせてすべてをそれで埋め尽くしている様は、どうしても大人げなく映って しまいます。過去の「悪」の上に自分たちが存在している事実をどう思ってるのでしょうか? 謎です。 Time : 1998/11/28(土) 17:04:06
Name : きんたろう E-mail : Title : 思いつきです Comments: こんにちは、私も毎日のようにここに来るのを楽しみにしています。 この掲示板への参加については今までこれといって、しずらいと感じたことはありません。 私の場合ですが、投稿しようかなと思っているとなんとなしに数日経ってしまう のですが、いつの間にか自分と同じような意見を述べられていたというわけです。 しかも、文章力はいうに及ばず、今まで自分では気がつかなかった視点からのもの が掲示板に載っているのですから、必然的に頷いてしまうといった日々が続いていた のです。でも別に不満はなかったですよ。 特に安部さんとは同郷(?)ということもあっていつも感心しております。 ところで、資料の絶対量が足りない世界を解き明かしてゆく方法の最良の方法は 人間にとって根元的な感覚を大切にすると言うことではないでしょうか。 これは石井さんが言ってられた「常識」と同じことです。 本質的な人間の感情、痛みを感じる感覚といった基本的なことから素直な気持ちで 考えると古代の世界も現代人の私たちの前にその姿をはっきりと現してくるのでは ないでしょうか。 ずるをして相手を出し抜いたのだから、きっと恨んでいるに違いないと言った 素朴な感覚は2000年の時を経ても変わらないと思います。 そうした視点に立って見ると、日本史が何か変だという思いに立って始まったのが 井沢先生の一連のシリーズだし、逆説の日本史だと思っています。 私は安部さんが言っておられた、朝鮮人には職業差別が2000年前からあった という意見を聞いてこれは画期的だなと思いました。 私の意識のなかでは古代の朝鮮系の帰化人とは要するに平家の落人的なものであろう と思っていましたから。 戦いに敗れ、流され、そしてやっとたどり着いたさきが極限の島々である日本だと、 それが朝鮮系帰化人だと思っていたのです。 差別というのはそのような中でしか発生しないと思っていたのですが、これは文殊の知恵でした。 安部さんの意見は古代人を馬鹿にするなよ、侮るなよ!というメッセージのように私には 感じられたのでした。 人間個々の能力は1000年前も2000前もそう大して変わらないと思います。 ただ、古代、あるいは1000年前と現代とを比べるとその環境は全く違うと言って いいでしょう。人間は環境によって大きく作用されますのでやはり現代人と古代人と では違いも大きいと思います。 それとここ数年のはやりなのでしょうか、中国が親で朝鮮が兄で日本が弟といった 視点から古代史を見ると言った観点についてですがはっきり言って私は反対です。 やはり文化とは相互的だと考える方が素直だと思います。 それに日本人は朝鮮人よりも雑種性が強いので中華文明の視点で勝手に判断される のは迷惑なような気がします。 また例えば遣唐使などについても日本は当時唐から品物をただでもらってきたわけ ではありません。 奥州藤原氏はその大量に産出された金でお茶を購入したことは有名ですが、天文学的な 代金を支払ってきたわけです。 世界史的に見ると中国がなぜ世界古代文明の1つといわれるかと言えば、その古さは 当然大きな要因ではありますが、開放的だったということにあります。これはどういう ことかと言えば、いいものは外からきたものでも拒まないという精神にあると思います。 だからこそ長安が世界都市と呼ばれたのではないでしょうか。 世界最古の文明はメソポタミア文明といわれていますが、黄河文明はそれより年代的 に言えば2000年は遅れています。黄河文明は大体ギリシア文明と同程度の古さが ありますが、一方のギリシア文明は同じ地中海文明の古代エジプト文明の亜流と言う ことで世界4大文明には入っていないのです。 Time : 1998/11/28(土) 21:42:55
Name : 輔住 E-mail : Title : 天智・天武問題 Comments: みなさん 今日は輔住です。 KANAKさん、天皇の年齢の決め方大変勉強になりました。 また、私が「書紀」を紀伝体と勘違いしていたのも 事実です。ありがとうございました。 私はKANAKさんと違い歴史には素人です。これからも 色々と教わることが多いと思います。 ですが、反論があります。 >「天武」の少年時代の記録が無いことに興味を示しておられますが、 >「日本書紀」は紀年体(列伝体ではない)の「正史」の体裁をとっています。 >従って、これを通読されれば分かるように如何なる「天皇」と言えども、その >様な記事は無くて当たり前なのです。如何に天武を持ち上げるモノであっても >その原則を破ることは寧ろ不自然になります。 私が問題にしているのは天武の「私的な」少年時代のエピソードがないからでは ありません。 「大化の改新」後、事実上の最高権力者だった中大兄皇子(天智)の後継者で、 彼の娘を4人も妻にしている「実力者」が30歳ぐらいまで (正式な年齢は不明でも資料から推量するに若くてもそれくらいなはず) 「正史」に登場していないのがおかしいといっているのです。 Time : 1998/11/30(月) 12:08:24
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 日本初の民法 Comments: 御成敗式目は、とてもよく出来た法律だと思います。 常識を大切にした生活に密着した法律です。 13世紀の極東の島でこんな法律が出来たのは一種の奇跡のような気さえします。 法学部の石井一旭さん 現在の日本の法学では、御成敗式目はどのような位置づけがなされているのでしょうか? Time : 1998/11/30(月) 12:52:20
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 天智・天武問題 ただの兄弟喧嘩とか…… Comments: 素人考えですが。 持統帝は、父母が同じである(夫も同じ天武帝)姉とその子供の王子を、自分の子供を帝位につけるために、 徹底的に排斥していますよね。 天智と天武が同じ両親を持っていたとしても、天武の一族が天智を悪く言ったり、排斥しようとしたり、また、 逆に天智の一族が天武の一族を悪く言ったりの、いずれの行為も充分ありえることのような気がするのです。 もちろん、このことをもってして、天智と天武の父親が同じであると主張するものではなりません。ただ、相手 を悪く言っているからといって、それだけでは二人の父親が別である証拠とはならないのではないかと申し 上げたいのです。 歴史上、父も母も同じでも仲の悪かった兄弟といえば、徳川家光とその弟、父が違っても仲が良かった兄弟 には、豊臣秀吉とその弟がいますね。 Time : 1998/11/30(月) 13:29:37
Name : きんたろう E-mail : Title : 週刊ポストの今週号を読みました Comments: 今ちょうど今週号から復帰された「逆説の日本史」を読んだところです。 禁断症状が出て苦しい日々が続いていたのですが、これで安心です。 自分のことばかりですみません。 先生の活躍をこれからもよろしくお願いします。 Time : 1998/11/30(月) 23:56:36