Name : 横山 雅彦 E-mail : Title : 「逆説のニッポン歴史観」について Comments: SAPIOで「逆説のニッポン歴史観」が再開されていたので読み ました。内容は朝日新聞他日本の新聞を批判するものでしたが 私からすれば新聞がどうのこうのというよりも、日本人にとって 「客観的事実」なんかどうでもいいのだろうと思います。歴史を 鏡(本当はもっと難しい字)とした中国人とも、神という絶対者を 常に意識した欧米人とも違い、「本当のことは言わない」「都合の 悪い過去は水に流す」のが日本人だと井沢先生は申しておりま した。日本人にとっては事実よりその場の「空気」(山本七平)な のだと思います。 あと日本とユダヤを結び付けるのは「と(んでも)」ではないで しょうか。 Time : 1998/11/ 1(日) 23:16:56
Name : 凛 E-mail : Title : 忠臣蔵について Comments: はじめまして、凛と申します。こちらの掲示板にはちょくちょく 来ていますが、書きこむのは初めてです。 こちらの掲示板で話題になったことがあるかどうかわからないのですが、 皆さんは井沢先生の「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」についてはどうお考えですか? 私はこの本を支持しています。が、歴史に詳しいとは言えない人間なので、 他の方のご意見も聞きたいと考えた次第です。 また、最近「天皇の四十七士」という本が出版されたようですが、読んだ方は いらっしゃいますか? Time : 1998/11/ 2(月) 06:52:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 坂本説を見て・・・ Comments: 大島様の10月29日付記事を拝見いたしました。 大島様には無理なお願いに対し、ご尽力いただきお礼申し上げます。 怨霊については、石井様の意見を先に伺うのが筋と思いますので、 今のところ、意見を控えておきます。 また梅原説についても小生は観ていませんし、梅原ファンも多いよう ですので、そちらの方もお任せいたします。 それで、坂本氏の説についてのみ意見を述べます。ただし直接には 梅原説の反論ということですが、取り上げられた文脈から 井沢説についての反論をかねていると解釈させていただきます。 井沢説では出雲問題について4拍手のみを根拠にしているわけではなく、 しめ縄の方向・本堂内の配置・「雲太・和二・京三」の伝承等、 常に「総合的な判断」を根拠に置いているというのは、以前から小生も 指摘し続けていることで、あまり強い反論にはなっていません。 また梅原説を「独断」と判断する根拠が不明です。 さらに、くだらないことですが、「4=死」より「偶数奇数」の区別を 古代人に求める方が奇異に感じるのですが。 このように総合的に観て、説得力にかけています。 このような論述を日本歴史学の権威であった方がなさっているとは、 がっかりいたします。それが、小生が定説に今一つ信頼が置けない理由の 一つになっているのです。 また、この方の説は井沢先生自身が何度か既に論破されていると存じます。 それをあえて採り上げるというのは・・・? それとは対照的に、同じ東大資料編纂所の関係者でも山室恭子女史は 秀逸です。昨日 「黄門様と犬公方」文春新書 の後半部を読みましたが、軽妙な語り口で「儒学啓蒙主義者」としての 綱吉を見事に描いていました。恨みを抱いていた新井白石や拗ね者評論家の 戸田茂睡らの説によって通説になってしまった「虚像」をみごとにくつがえし、 確かに異常な数の「生類あわれみ」法令ながらも、処刑者は意外に少なく 対象も下級武士主体であったことなど、史料に基づいて考察しています。 光圀でさえ、若いころ命乞いをして嫌がる非人を無理矢理引きずり出し、 単に「試し切り」のために切って捨てたことを恥とも思わず人に話すような 時代だったのですから、綱吉が命の尊さを皆に教育しようと立ち上がったのも 無理はありません。実際、「生類」令は以後廃止はされたものの 精神は尊重せよとのお達しは残っており、実際に以後むやみな殺生は激減した ことを検証しています。 おふざけムードが好みの別れるところでしょうが、論理の確かさに基づく 強烈な説得力は、一読の価値があると存じます。 ついでになぜ後半部分しか読めなかったかというと、同時に文庫版の 「GEN」角川文庫 を手に入れたからで、井沢先生ファンとしてはこちらの方がさらに 面白かったからです。源氏物語の謎からWW2開戦に至る物語ですが、 恋愛小説としてはもの足りないものの、一気に引き込まれてしまいました。 実在の人物が生き生きと描かれているので、ついフィクションであることを 忘れてしまうほどでしたが、読者サービスで有名探偵が登場して、改めて フィクションだったのだと目が覚めるくらい「酔って」しまいました。 BBSの皆様、また面白い本があれば紹介してください。 Time : 1998/11/ 2(月) 10:43:08
Name : Angelix E-mail : deviling@mail.goo.ne.jp Title : 提案 Comments: 論争用掲示板と論戦禁止掲示板に分けようとか言う話があるよう ですが,現代社会・マスコミ論評掲示板と古代史という分け方も 設けると言うのは如何でしょう? 私はマスコミ論評・現代社会評論の方の fan なので,そうすれば 私の様な人間にも見所のある話が見られるかと思った次第です. Time : 1998/11/ 2(月) 19:03:40
Name : 石井一旭 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: ずいぶん前にKANAKさんからの反論があったようで、今まで気づきませんでした。お詫びさせていただきます。 さて反論といきたいのですが、 >さらに、「怨霊史観」では復辟政権が自分達への >「押さえのための敵対神」を丁重に祀る必要があるのでしょうか? ですけれどもこれは「先代王朝の祭神を引き継いで祭った」では いけませんか?天武王朝が「祭神」として祭っていた新羅明神を 「前代王朝の祭神」として祭ったのでは? それから天智の諡問題ですが、「天智」という謚はやはり表向き・・・というより 見た目にはいい様に見えて実は悪い、そういった暗号のような性格の謚と考えられるため (そういう性質だったために森鴎外に解き明かされるまで 歴史の闇に埋もれていたのです。) 桓武はあえて詔を発して「寝た子を起こす」事を避けたのではないでしょうか。 しかしこれも、 >井沢さんがこのご意見をどの様に評価されるかが全く分かりません。 との事、まったくそのとおりです。 私の説・・・というほど偉そうなものではないですが・・・は確かに 井沢先生の「怨霊史観」にもとづいて「逆説の日本史」に書かれていない事を 私が反論のため「勝手に」調べたものですから、 当然井沢先生とまったく違う見解になってしまうのは当然と思っています。 つまりあれは「私なりの理解」であってそれはもちろん井沢先生とも ほかの皆さんとも違ったものでしょう。ここにいる皆さんも「おい、石井の意見は 暴走してるよ。」と思っておられたかもしれません。 しかし皆さんも了解してくださると思いますが、 それがだめというならどんな学者の説も自分のものとして使えなくなってしまいますよね。 私は先生の説にあくまで「私なりに」「基づいて」反論したつもりです。 KANAKさんはまさか「井沢先生の読者はみんな同じ歴史観を持っている」と 思っているわけではないでしょう。 素人の私はああいった理解をしましたが、それが職業として歴史に挑んでおられる 井沢先生と同じ見解、同じ意見、同じ背景を持つわけがありません。 そこの所は了解しておいでだと思っていたのですが・・・。 それから気になった所を一つ。 >>最もこれは発掘調査してみない限りわかりませんが。 >そうですね! 正にそのとおりなのです。是非井沢さんに、そう仰って下さい や、 >所詮「不明なモノは不明」であり、それを「断定」して「推論」を >組み立てるのはお止め下さい・・・と申し上げているのです。 これには同意できません。 私も発掘調査による「確実な証拠」があれば迷う事無くそれを正確な事実として 信じるでしょう。きっと井沢先生もほかの皆さんもそうだと思います。 しかし現実には発掘できない場所が天皇陵を始めとして多くある事はご存知ですよね? まして日本の古代史は天皇家が権力者として統治していた以上、 天皇陵発掘によって恐らく明確にわかる事が大量にあるでしょう。 天智暗殺説にしても例えば大津京や山科の沓塚を大規模に発掘したらば その是非が明らかになるでしょうが、それができない以上推論に頼るしかないのでは? 「発掘できない」「知る事ができない」部分がある以上推測で歴史を 語ってはならない、というならば教科書はほとんど空白になりますよ。 それから井沢先生にどういう事を言えとおっしゃるのでしょう? 先生は「謎」の多い日本史に対して「井沢史観」を用いて挑んでいらっしゃる方です。 先生とて、「本当の真実」が何らかの手段で知れるならば その方がいいはずです。(また私の個人的な考えですがきっとそうだと思います) ただその「真実」を知る方法が無い以上「推論」に頼るのは当然の事です。 先生に対して「発掘で白黒つけるために宮内庁に直訴しろ。」と言えとでもおっしゃるのですか? KANAKさんはどうやらこれで私との議論を打ち切られるようですが、 最後に私の感想を述べさせていただくと、感情に走らず(よくいるんですよ、すぐ感情的になって暴走する人・・・俺の事か?) 冷静に資料を読みこなし議論を進めていくKANAKさんの姿勢には大変敬服いたし、また勉強にもなりました。 この場を借りてKANAKさんと転載という面倒な作業を引き受けてくださった 大島さんに感謝の意を申し上げます。 P・S 大蔵さんへ 私もみましたよ、「朝生」。松井さんは確かに凄かったですねえ。 何でもかんでも女性問題に結び付ける強引さが何とも(苦笑)。 なんだか最後のほうは(いつもの事だけど)尻すぼみになってしまって ちょっと残念でした。 Time : 1998/11/ 2(月) 21:06:40
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : ページの更新 Comments: 休日明けにも、ページの更新をいたします。井沢の病状報告、テレビ出演予定、新刊のお知らせ などを、NEWSに掲載します。G社のKさん、新刊紹介のコピーを待っています。他のデータはすべて HTMLで作成済みです。 管理人 Time : 1998/11/ 3(火) 04:11:25
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 天皇陵を発掘しよう Comments: 日本国憲法では、皇室の財産は、国民の財産ということになっています。 ですから、天皇陵も、国会の了承さえあれば発掘できるのです。 但し、お墓ですから、皇室の方々が本当に嫌がっているのだとしたら、 無理矢理暴く権利は、我々国民にもないと思います。 天皇陵は、大きさから見る限り、当時の日本で最大の権力者の墓に間違いありません。 最大の権力者の生活が分からなくて、何が古代史かと思います。 はっきり言って、天皇陵の発掘なしの古代史なんて、意味は半減してしまいます。 おそらく、朝鮮半島の文物が、いっぱいある事でしょう。 今の天皇陛下はそうでもありませんが、 昭和天皇のお顔は、あれは日本の土百姓の顔ではありません。 あれは、朝鮮人です。 みなさん、意地を張っていらしゃいますが、日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 つまり、2000年前に、朝鮮半島から渡ってきた人たちです。 モンゴル、呉越、中原、から来たとしても、一度朝鮮に落ち着いてから、日本に来たのでしょう。 確か、九州大学の骨の研究の結果、 弥生人は、現在の朝鮮人に非常に近いと分かったはずです。 縄文人は、弥生人のもたらした結核でほぼ壊滅したのでしょう。 ですから、今の日本人の過半数は朝鮮人と先祖を同じくしており、 特に、皇族、貴族、武士(百済の亡命者)は、一番最後に日本に来た人たちでしょう。 ユダヤ人なんて、お話にもなりません。 皆さん素直にお隣の国との共通点を認めましょう。 Time : 1998/11/ 4(水) 11:12:03
Name : 非会員 E-mail : Title : 武士とは? Comments: >安部奈亮さん 天皇陵の発掘は、ぜひ実現してほしいと思います。 徳川将軍家や仙台伊達家の墓は学術調査されましたし、 決して無理ではないでしょう。皇室と宮内庁の「英断」が待たれるところです。 安部奈亮さんのおっしゃりたいことは、朝鮮人と日本人(特に支配者階級)の 先祖が同じであり、そのことをしっかりと認識しようということだと思います。 わたしも、その通りだと思います。しかし一点、気になりました。 >日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 とおっしゃっていますが、この武士は具体的にどの時代の武士ですか? わたしなりに、武士を三つに分けてみました。 *** @律令制下の武士、A源平〜応仁の乱、B戦国〜幕末まで *** 支配者階級としての武士はBの区分だと思います。(信長・秀吉・徳川幕府) 最後の方に >特に、皇族、貴族、武士(百済の亡命者) とありますが、Bの武士はすでに百済系とは言えないのではないでしょうか。 百済の亡命者というより、土百姓そのものだと思います。 細かいことですみません。 Time : 1998/11/ 4(水) 14:54:22
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様、非会員様へ Comments: 「兵」-->「武士」については、下級貴族(軍事貴族)の地方への土着化、そしてそれに 従った「駆使」(くし)や「従類」(じゅうるい)など、将門の乱や純友の乱の際の「兵」 の実態を考察なされるとよろしいのではないでしょうか。 また、「土百姓」の用語は、私営田領主=武装農民の意味でお使いになられているのかと 存じますが、その定義が違うように思います。一度、広辞苑で調べてみる労をおとり下さい。 管理人 Time : 1998/11/ 4(水) 17:40:05
Name : 輔住 E-mail : Title : 私の好きな作品 Comments: わたしは井沢先生の小説だと 「元禄十五年の反逆」、「恨の法廷」、「隠された帝」、「降魔の帝王」が 好きですね (凛さんへ:私も井沢先生の説を支持します) みなさんはどれがお好きでしょうか? Time : 1998/11/ 4(水) 17:41:36
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 安部様 Comments: 戦前、軍部の一部と右翼に、「日本人・ユダヤ人同祖説」を唱える動きが あったといいます。 旧・満州にユダヤ人国家を建設し、それをもってアメリカを親日に転じさ せる「河豚計画」なるものがあって、そのバックボーンに同祖説が援用され たというレポートを、古い雑誌で読んだことがあります。 かなり、怪しく、危ない類いのものですね。 管理人 Time : 1998/11/ 4(水) 17:58:35
Name : 冨永豊嗣 E-mail : edq44289@saga−ed.go.jp Title : はじめまして! Comments: はじめてメールを出します。パソコンでメールを送ること自体初めてで、昨日送ったつもりが、 掲示板に掲載されていませんでしたので、改めてのお便りになります。さて、私は「オオカミ 少年の系譜」を数年前読んで以来の井沢先生のファンです。現在私は九州の一地方自治体のC ATVに勤務していますが、報道のあり方については、井沢先生の「オオカミ少年〜」がきっ かけとなって、稲垣武氏の著書等にも触れることで、大変勉強になり感謝しています(井沢先 生の唐津での講演にも足を運びました!)。 ところで、私のCATV局では、町(人口1万人ほどの規模ですが)の話題や行政情報を映像 で放送しているのですが、私の上司の原稿について困っています。すぐ主観を交えてしまうの です。実は私はアナウンスもやっていまして、そんな主観交じりの原稿を読まねばならぬこと が数多あります。やはり、稲垣武氏らの主張されているように、文責を明らかにすることはベ ストなのでしょうか? このBBSには 文章のうまいひとが大勢いらっしゃるようですので、どなたかアドバイスなり上司のコントロ ールの仕方(笑)なり、ご教示ください。 Time : 1998/11/ 5(木) 00:13:53
Name : 冨永豊嗣 E-mail : edq44289@saga-ed.go.jp Title : 改行しないでごめんなさい・・・ Comments: 申し訳ありません。改行の事をよく分かっていませんでした。 (アドレスの半角もですね、あはは・・・) どなたか初心者の私に、パソコンについてのアドバイスも あわせてご教示ください。 どうも、ご迷惑をおかけしました・・・ Time : 1998/11/ 5(木) 00:36:01
Name : 大蔵芳人 E-mail : zodiac12@mail.goo.ne.jp Title : 祝! Comments: アクセス件数一万突破、おめでとうございます! Time : 1998/11/ 5(木) 04:19:14
Name : 石井一旭 E-mail : Title : おめでとうございます! Comments: 10000アクセス突破ですか、おめでとうございます! Time : 1998/11/ 5(木) 11:38:59
Name : とて E-mail : totetin@geocities.co.jp Title : ど素人の推論 Comments: >日本の支配者階級(皇族、貴族、武士)は、朝鮮人です。 >縄文人は、弥生人のもたらした結核でほぼ壊滅したのでしょう。 「壊滅」はしてないでしょう。どっちかといったら、 土着の日本人と「同化」したのではないでしょうか。 今でも縄文顔、弥生顔って今でもあるでしょう。もっと混血してるでしょう。 >昭和天皇のお顔は、あれは日本の土百姓の顔ではありません。 >あれは、朝鮮人です。 というのは何か極端な感じがします。 「朝鮮人」といっても儒教化される前ですし。もっと混血してるでしょう。 かなり勉強不足なもんで、何か間違っていたらご指摘くだされ。 Time : 1998/11/ 5(木) 12:04:44
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 日猶同祖説 Comments: 「日本・ユダヤ同祖説」といえば、井沢先生の 「ダビデの星の暗号」が確か題材にしておられましたね。 私は先生の「龍之介」シリーズ(こんな呼び名でいいのかな?)が好きです。 芥川ファンなもので、颯爽と事件に挑む龍之介に大変魅力を感じます。 先生はもう芥川を主人公にした推理物はお書きになられないのでしょうか? 芥川の経歴などを考えるともうあまり小説に使えそうな「空白」はありませんけど、少々残念です。 Time : 1998/11/ 5(木) 16:23:35
Name : 大島重雄 E-mail : bxw02272nifty@ne.jp Title : 大阪JF生さんへ Comments: すみませんちょっと教えていただきたいのですが 先日の大阪JF生さんの 坂本説を見て・・・ に <<また、この方の説は井沢先生自身が何度か既に論破されていると存じます。 <<それをあえて採り上げるというのは・・・? とありますが、井沢さんのどの著書に書いてあるのでしょうか。井沢さんの ものは(特に歴史関係のものは)ほとんど読んでいるつもりなのですが全く 記憶にないもので よろしくお願いいたします。 Time : 1998/11/ 5(木) 20:24:28
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 10000件、突破 Comments: カウンタを見ながら、あと7、80件で10000件に達するとわくわくし ていたら、一瞬のうちに突破しました。ありがとうございます。 サイト側からの知らせでは、ポップアップ機能により、他の投稿を参照しな がら自分の意見を書くことのできる掲示板プログラムが、ほぼ完成の段階だそ うです。デザインその他の調整が残されていますが、そう遅くならないうちに 導入できるでしょう。 管理人 Time : 1998/11/ 5(木) 21:07:53
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 久しぶりの登場です Comments: 管理人様、わざわざ確認していただいてどうもありがとうございます。 ところで相手の方の意見はどのようなものだったのでしょうか。 また、例えばそのとおりだったとした場合、どうして廃れてしまったのでしょうか。 何か理由があると思うのですが。 安部奈亮様、10/13付けのレスどうもありがとうございました。 本当は、あのアドバイスを読んですぐに調べてそれから書こうと思っていたのですが、 ずるずると時間ばかり経ってしまったのでした。 食欲の秋とはよく言ったものですが、これから減量の晩秋へと向かわなくてはならない 自分が少し寂しいです。 ところで、もう一つ疑問点があるのですが。 これは日本史ではなくて、イタリア史の中とかヨーロッパ史の中で考えるものなのですが、 古代ローマ人が使用した言語、つまりラテン語と現代イタリア語の境は何がきっかけだった のかという疑問です。 確かに言葉というものは生き物のように変化をするものだとは思います。 しかし、同じ言葉であるならば同じ延長線上にあるはずです。 それならば、現代人にとっても完全ではなくともほとんど理解できると思えるのですが、 どうもそうではないようです。 例えばローマ帝国時代に民族大移動がありましたが、あれによって言葉のみならず 民族そのものが入れ替わってしまった、そんなことがあるのでしょうか。 詳しい方がいたらよろしくお願いします。 Time : 1998/11/ 5(木) 22:06:42
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 朝鮮人と日本人 Comments: こんなに反響があるとは思っていませんでした。 ありがとうございます。 私は、最近「日韓民族の原形」(金容雲)という本を読みまして、 それで、日本人と朝鮮人は、古今東西希にみるほど似た民族だと実感しました。 しかし、金容雲氏は、両者が持っていた文化(語彙、生活習慣、統治精度など) は同じだったが、両者には、決定的な原形(性格)の違いがあるといっていました。 おそらく、縄文文化や風土に依る違いだろうといっていました。 それに、古代の日本語と朝鮮語の語彙が同じだからといっても そのまま朝鮮語としては読めないようで、やはり日本語は日本語のようです。 両国の学者が意地を解いて研究が進んでくれることを期待します。 結核の件は、誇張し過ぎました。でも、インディオに起こったようなことはあったらしいです。 集英社の日本史第2巻に書かれていましたが、 弥生時代の日本への移住者の数は相当なもので、 西日本では、弥生人と縄文人が入れ替わりつつ人口は倍増したそうです。 縄文人も、相当進んだ生活をしていて、農耕や身分もあったのは確実のようです。 という事は、スムーズに両者が接触できたらいいですが (北関東では、同じ竪穴式住居から、縄文土器と弥生式土器が同時に発掘されています) 平和的に行かなかった場合、かなり激しい戦いになったと思います。 私は、倭国大乱と壬申の乱があまりに悲惨だった為に、「和」や「怨霊信仰」が生まれたのだと思っています。 特に、壬申の乱は、スペイン内乱のように親子が別れて闘ったのではないでしょうか。 私は、藤原氏の無理が奈良時代に通用したのは、 もうあのような戦争はまっぴらだから、少々の横暴は目をつぶろうと他の氏族が思ったからではないかとも思います。 ヨーロッパの民族大移動は、 ローマの末期には、重税に依ってローマ人は疲弊して ゲルマン人が傭兵や労働力として既に入ってきていて、 先住者が、大移動を迎え入れたという面もあります。 しかし、おっしゃるように、民族が完全に入れ替わるようなことはなく、 ゲルマン人は、多いところでもローマ人の10分の1しかいなかったそうです。 そして、ローマ人と共存できなかった連中(ヴァンダル族やゴート族)は、歴史から消えてしまいました。 私は、先日宇佐八幡宮に行ってきましたが、違和感がありました、 修理したてのせいもありますが、色彩は原色で 音楽は、盆踊りを東南アジアか朝鮮の音階とリズムで演奏するような感じでした。 やはり、日本には、色々な文化や民族が入ってきているのだと実感しました。 武士が朝鮮人だというのは、 百済滅亡時に20万ちかく(総人口600万の時代)の亡命者が日本にやってきて、そのほとんどはは関東に入植しました。 武士団は、頭領は貴族の子弟ですが、郎党は百済人の末裔なのです。 武士団というのは、高度な技術を持った農業集団でもあり、 鎌倉武士団の全国進駐に依り、日本全国で開墾ラッシュが12世紀に起こったくらいです。(集英社の日本史第7巻) 私は、その理由は、彼らが渡来人で、高度な技術を持っていたからだと思っています。 そして、私の故郷の茨城弁のイントネーションは何となく朝鮮語のイントネーションに似ている気がします。 Time : 1998/11/ 6(金) 12:53:06
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 大島様へ Comments: 昨日の記事で質問をいただいた件ですが、 逆説の日本史の中に、説というほどのものではありませんが、 何個所か坂本氏の考え方を批判した個所があります。 天智天皇編にもありましたので、あえて特定しなかったのですが、 どうもおおざっぱな話ですみません。 内容は、「日本書記は後世のどんな史料より正しいのが常識」 というようなことだったと思います。根拠はやはりありません。 (今手元にないので、記憶に頼っていますが、 間違っていないと思います) 小生は、史料偏重派の代表者として何度か井沢先生が 批判されていたので、記憶に残っていました。 ただ、坂本氏は故人なので、前回の小生の批判は非常に甘いものに なっていて、本当は、もっと4拍手否定を直接批判すべきだったと思いますが、 焦点のぼけた記事になってしまっています。 その点ご了解お願いします。(言い訳にすぎません。) Time : 1998/11/ 6(金) 13:04:41
Name : K E-mail : Title : 天皇は朝鮮人? Comments: 初めて書き込みますKです。よろしくお願いします。 さて、最近天皇家は朝鮮からきたとか言う議論がよくありますが、 あれは何の根拠があってそんな事を言っているのでしょう。 何か文献でもあるのでしょうか、私にはとても信じがたいのですが。 なぜかというと、当時の朝鮮に日本を征服できたほどの強力な王権があったとは、 到底おもえないからです。少なくとも私が日本書紀、三国史記そして、魏志倭人 伝や宋書倭国伝、隋書倭国伝を読んだ限りでは、そんな日本を征服した王権の記述 はまったくなかったし、逆に大和朝廷が朝鮮に進攻したという記述はいくらでもあ りました。最近こういった古い時代の史書の記述を軽んじる風潮が強いですが、 それでいいのだろうかと思います。 また逆説の日本史に、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、天武天皇は朝鮮人だと いう記述があったと思いますが、私にはまったく信じられません。天武天皇が、 もし天皇の子ではなく、そのようなどこの馬の骨とも分からぬ人物の子なら、 そのような人物が皇子に反乱を起こしたとき、誰がついていくでしょうか。 また天武紀の記述は、私はまったく不自然には感じませんでした。 Time : 1998/11/ 6(金) 21:30:48
Name : 横山 雅彦 E-mail : Title : 日ユ同祖説ほか Comments: 管理人さんが日ユ同祖説について書いておられました。私はそれ について、と(んでも)だと切り捨てていましたが、管理人さんの 文章を読んで考えを変えました。日ユ同祖説がどのようにして 生まれ、どのような影響を及ぼしたかはきちんと研究する必要が あると思います。山本七平氏は「聖書の常識」のなかで、孤立し た両民族の共感以上のものではないと書いていましたが、本当 にそれだけでしょうか。井沢先生の意見も聞いてみたいと思い ます。 それからK氏にですが、「逆説の日本史」に天武天皇が朝鮮人 だと書いてあったとありますが、それは母親が皇族、父親が朝 鮮人の間違いです。ですから馬の骨でもありません。「逆説の 日本史」でご確認ください。それと天武紀の記述に不自然を感じ なかったとおっしゃってますが、でしたら井沢先生の指摘に対し て回答してください。 Time : 1998/11/ 7(土) 13:14:02
Name : K E-mail : Title : 横山氏へ Comments: 逆説の日本史で天武天皇の母親は皇族と書いてあるのは知っています。 しかし父親が朝鮮人なら、皇族とはいえないでしょう。 私が疑問なのは、血統が重んじられる古代社会で、皇族でもないものが 皇子に反乱を起こして、皇位につくなんて可能だったのかということです。 あと、井沢氏の指摘に対してですが、確かに天武紀に天武天皇の年齢は書いて ないですが、日本書紀で年齢が書いてない天皇はほかにもいますし、 ほかの書物に書かれた天武天皇の年齢だと、天智天皇と兄弟ではありえない という指摘も、その書物にも、天智天皇と天武天皇は兄弟だと書いてある と学者が指摘している本を読んだことがあります。名前は忘れましたが。 ですから私は、天智天皇と天武天皇は兄弟ではないという主張を 信じることができないのです。 Time : 1998/11/ 7(土) 16:25:17
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : しつもんです Comments: はじめまして。宇津木と申します。仁徳天皇陵のすぐそばで暮らしています。 博学の方々の侃侃諤諤の議論を読んでいると圧倒されてしまいました。 歴史はまったくの門外漢でしたが、井沢さんの逆説の日本史を読んで、少し興味を持ち始めた ところです。ただそんなわけで、無知のゆえ、とんちんかんなことを書いてしまいそうですが お許し下さい。 で、いくつかお尋ねしたいことがあるのですが、 <逆説の日本史で天武天皇の母親は皇族と書いてあるのは知っています。しかし父<親が朝鮮 人なら、皇族とはいえないでしょう。 とKさんはおっしゃってますが、いけないものなのでしょうか? 当時、中華地域の末端に位置する朝鮮半島は、日本よりはるかに文明の発達した先進国だった と思いますし、そうなると、母親が皇族で父親が先進国出身ならむしろ、支持も得やすいよう に思うのですが。現在の感覚ならKさんのおっしゃるとおりかと思いますが、当時の日本と朝 鮮半島の関係からすると、あまり不自然ではないように思います。この点Kさんはどう思われ ますか? あと <やはり、桓武天皇は早良親王が死ぬ前から怨霊信仰を持っていたと考える方が無 <理がありません。怨霊信仰が、日本人の行動を規制する第一要因となったのは確 <かに平安時代からだったかもしれません。 <奈良時代や、飛鳥時代の人たちは、かなり合理的な考えをしていますからね。特 <に、国際感覚は、現代の日本人なんか比べ物にならないほど優れていました。 <でも、たとえ第一要因でなくとも上代の人たちも怨霊信仰は必ず持っていたで <しょう。 という安部さんのご指摘ですが、 <奈良時代や、飛鳥時代の人たちは、かなり合理的な考えをしていますからね。 この点について論じられている書物で、素人でも読めそうなものがありましたらぜひ教えてく ださい。私には、どうして奈良・飛鳥時代だと合理的な思考になるのかいまいちよくわからな いのです(これも中華思想の影響なのでしょうか?)。 以上、あまりにも低レヴェルな質問で恐縮ですが、お答えいただければ幸いです。 Time : 1998/11/ 8(日) 12:21:40
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : すみません Comments: 引用と改行ってどうすればよいのですか。自動改行て何ですか。 ともかく変な引用になってしまい申し訳ありませんでした。 Time : 1998/11/ 8(日) 12:24:01
Name : 大島重雄 E-mail : bxw02272@nifty.ne.jp Title : Kさんへ Comments: 初めまして大島重雄と申します。 この問題に関しては以前ニフティーの日本史フォーラムで論争になり結局井沢説 支持派の私は、その反対論を論破できずこの掲示板にその論争の一部始終をUP させていただいております。ここの所ちょっと論争が停滞していたところなので 反対意見でも参加していただけるとうれしいと思います。 詳しくはこの掲示板にUPしてあります。より詳しい論争の経緯を知りたいときは ニフティーに接続できるなら日本史フォーラムの2番会議室にて壬申の乱について 教えて下さいというコメントツリーができているのでよろしければご覧下さい ではまた Time : 1998/11/ 8(日) 12:54:40
Name : K E-mail : Title : お答えと感謝 Comments: まず大島さんには感謝申し上げます。私残念ながらニフティには接続できませんが、 論争は興味深く読ませていただきました。 あと宇津木さんのご質問ですが、確かに古代の朝鮮は、我が国より先進国だった でしょう。しかしだからといって父親が朝鮮人の人物が天皇になることが 支持されるとは思いません。それは外国人または帰化人が天皇になるということ です。当時の我が国には帰化人が多くいたことは確かですが、朝廷で高い地位に 就いていた人はいないと思います。やはり当時、帰化人は身分的に差別されていた のではないでしょうか。ですからそういった出自の人物が天皇になったという考え は、私は支持できないのです。 それにしてもここに投稿されている方々は、私よりはるかに歴史の知識があります ね。 Time : 1998/11/ 8(日) 19:29:16
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 宇津木 様 Comments: 他の方の投稿を引用するときは、該当箇所をコピーして、記入欄にペースト してください。行頭に「>」など、引用が分かるように記号を入れたほうがベ ターですが、何らかのエディタを用いないと大変かもしれません。 改行は、申し訳ありませんが、適当(1行=39文字)なところでリターン キーを押して、行を変えてください。 管理人 Time : 1998/11/ 8(日) 21:41:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 天武朝鮮系の議論への感想 Comments: 再び、天武・天智論争が盛り上がっているようですね。 以前は、いろいろシビアな議論をしてきて、 K様のご意見を伺うとまたぞろ同じ事の繰り返しになりそうなので、 少々食傷気味なこともあって、いまのところ感想程度の意見に とどめておきたいと思います。 小生は大阪の下町育ちで、まわりに韓国の方も多く、友人も多くいます。 学校に通っていた当時は日本姓を名乗っていた人がほとんどだったので、 自ら告白しない限り韓国・朝鮮人であることはわからない人も 多くいました。個人的な感想ですが、彼らの中には喧嘩がすごく強かったり、 おそろしく勉強ができたりする人が少なからずいました。 ただ、やはり差別感情は日本人側にかなり残ってはいたようです。 それでも彼らの中の優秀な人物が何らかの長になっても 何の不思議もありませんでしたし、実際学校ではリーダーシップを 取っていた優秀な人材がたくさんいました。 そんな感覚からすれば、総理大臣であろうが天皇であろうが、 朝鮮人だといっても小生には何の違和感もありません。 ましてや議論になっている時代は、差別感情どころか朝鮮は兄貴分と いえるぐらいの関係ではなかったでしょうか? 日本人のアイデンティティがどれほと確立していたかも疑わしいように思います。 文化のみでなく人的交流も多かったはずですし、日本人は今よりも国際感覚が 優れていたコスモポリタンだったかもしれません。 天智の皇位継承でも百済支援でも多くの血を流した強引なやり口に辟易し、 たとえ血統は正当でなくても大海人が人望を集めた可能性は考えられないでしょうか? 少なくとも栗隈王などはそうだったのでしょうし、実際多くの支持を得たはずです。 また武力の面でも相当優れていたでしょう。 正当な継承者も数少なくなり、もうこれ以上身内の血を流したくない という意味で天皇として認めたとしても不思議はないように思います。 もちろんこの意見は積極的に天武朝鮮系説を論証しているものではありません。 あくまでも感想ですが、こう捉えたときに奉幣の儀・泉涌寺における「正統」後継者たちの 天武系があたかも正統ではないような差別的扱いは小生には納得のいくものです。 もう少し柔軟に捉えてもいいのではないでしょうか? ところで、「記紀」史学への挑戦状 現代思潮社刊 を読みました。小林女史は東アジア的観点から大胆な説を唱えていることが 良く分かりました。ついでながら、坂本氏からの「神皇正統記に天武の年齢が上と 書いてある」という指摘を受けて調べたところ、なんと同年齢(双子?)であると かいてあったと女史は述べておられました(小生は見ていないので真偽は不明です)。 興味ある内容がたくさんありましたが、残念ながら紹介しきれません。 それにしても女史がおっとりとした感じの美人であったのは意外(すみません)でした。 あまりシビアなやり取りはありませんでしたが、気楽に対談しているぶん お二人の本音の部分が少し見えたような気がしました。 Time : 1998/11/ 9(月) 11:36:50
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 天皇年代考 Comments: 完全に史実と言える継体以降の平均在位年数を算出します。 継体〜推古15.25年、じょめい〜天智(皇極と斎明はそれぞれ1人とする)8.6年、天武〜元明10.5年、 元正〜光仁11.0年(考謙と称徳はそれぞれ1人とする)、 推古〜光仁では11.3年 古代天皇の在位年数は平均11年と言えます。 履中〜武烈は平均11.9年なので、履中までの在位年と即位年は史実としてよいとします。 これが、仁徳以前にも当てはまるとします。 仁徳以前は非現実的な在位年数ですが、各王朝(神武〜開花平均62.6年、崇拝神〜仲哀しい平均73.4年、応神〜仁徳平均65年) 内での割合をそれぞれ反映していると見て、即位年を算出すると以下のようになります。 神武dc224、ねいせい238、安寧244、い徳250、考昭256、考安271、考霊289、考元302、開化312 崇神323、垂直仁333、景行348、成務357、仲哀366 応神378、仁徳385 (ほぼ6分の1になっています) 以上の結果から、次のように歴史を再現してみました。 2世紀…ニニギ、ヒコホホデミノ命、ウガヤフキアエズノ命は、大隅と薩摩の隼人の酋長であった。(墳墓がその地にある) 200〜220…神武が高千穂(都城盆地)を征服、クナ国建国。 3世紀前半…ヒミコ(アマテラスA)を擁する北九州のヤマタイ国はイズモを征服(国譲り神話) 239…ヒミコ朝貢 250頃…皆既日食とクナ国侵入によりヒミコ死亡(天岩戸)イヨ(アマテラスB)ヤマタイ国女王となる。 266…イヨ朝貢 230〜280・・・クナ国とキビが同盟してヤマタイ国侵略(神武〜考安) 280頃・・・クナ国九州征服、キビはイズモ征服。クナ国王ヤマタイ国王位に就く。以後ヤマトと呼ぶ(便宜上) 280〜300ヤマトがキビを征服(吉備津彦神話)、吉備高嶋宮遷都。 300〜320・・・開化、崇神が幾内を領する大和盆地の葛城王朝を侵略。 320頃・・崇神、幾内征服、磯城遷都。葛城王朝の残存勢力は葛城氏になる。 350頃・・景行、東国を征服(日本武尊神話) 380頃・・・河内の弁韓系渡来人勢力応神により磯城王朝滅亡。 5世紀前半・・・河内王朝南朝に朝貢、朝鮮半島侵略。 450頃・・・允恭の皇子達、王位継承争い。 480頃・・允恭系、外征と王位継承争いによって疲弊。大和盆地の履中系に王位が移る。 5世紀末・・・反履中系(葛城氏、物部氏、大伴氏)コシのオオド王招聘。大和盆地で内戦。 507年・・・継体天皇即位。 天皇の在位年数を11年とする ヒミコとイヨをアマテラスA、Bとする 高千穂を都城盆地とする の3点の典拠は失念してしまいましたが、見つかり次第伝えます。 それ以外は、私の独創です。 こう考えると、記紀のいっていることは、かなり史実に近いと言えるのではないでしょうか。 Time : 1998/11/ 9(月) 11:57:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正と追補 Comments: 時間がなかったのと、興奮していたため、紅顔ものの誤字だらけになってしまいました。 「考」はもちろん「孝」ですし、訳の分からない送り仮名は、あまりコンピューターの辞書がよくないので、 苦労した跡だと思って下さい。 吉備とヤマトの関係は、吉備の豪族が大和朝廷でそれなりの勢力を持っていたことから、 両者は過去に同盟関係にあったと考えました。 造山古墳と作山古墳は、天皇陵かもしれません。 しかし、吉備の豪族は、冷遇されているので、ある時期からヤマトの属国になったと考えられます。 吉備は、九州と畿内の中継貿易と鉄器と米によって繁栄したと思われます。 国譲り神話では、天孫は登場しないので無関係と考えました。 ニニギ、ヒコホ、ウガヤに関する神話は牧歌的なので大勢力ではなかったと考えられます。 神武から、国の王となったのでしょう。 神武の九州での行動を見ますと、日向から北上しています。 これは、北九州征服と考えられます。 ここでヤマタイ国九州説をとって、神武をクナ国王とします。 この戦いはクナ国の勝利に終わり、クナ国はヤマタイ国を継承する形で九州を統一したと考えます。 イヨの朝貢は、晋に救援を求めたものだったのかもしれません。 神武や崇神や応神に功績がまとめられているところはありますが、 それ以外は記紀神話はかなり史実を述べているのではないでしょうか。 それと、日本書紀の天皇の在位年数は、仁徳以前は、実際のほぼ6倍になっていると思われます。 これは、日本の起源を紀元前660年に持ってきたかった聖徳太子が行った操作だと思います。(「聖徳太子」梅原猛。参照) いくら操作するといってもそれなりの根拠が必要だと思います。 史実の整数倍が1番簡単でしょう。 この計算法の最大の根拠は、 推古ー光仁で出た平均11年が、半神話的な履中ー武烈にぴったり当てはまったことにあります。 それ以前の在位年数は以下のように求めました。 (その天皇の日本書紀上の在位年数/その王朝の日本書紀上の平均在位年数)*11 ここで、アマテラスと神武の時代が前後しますが、クナ国がヤマタイ国の後継者と称し、 河内王朝がクナ国の後継者と称し、 継体が河内王朝の後継者と称したために起きたことだと考えられます。 葛城氏が河内王朝の中で隠然たる力を持っていますが、 それは、葛城氏が王朝に次ぐ力を持っているためと考えられます。 おそらく、ヤマトと手を結んだ、葛城王朝の傍系王族だったと考えられます。 ヤマトの畿内征服が彼らの裏切りで成功した手前、遠慮せざるをえなかったのでしょう。 Time : 1998/11/ 9(月) 15:55:12
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 日本書記への感想 Comments: あまり根拠がたしかではないので、感想にしておきますが、 信頼性について、一言意見をさせていただきます。 安部様のような力強い説とは違って、歴史的知識が乏しいので こうなってしまうのですが、天武が関係する部分以外は、 当時としては、最高レベルの信頼度があると「思い」ます。 それは、逆に言えば「天武側の大本営発表」という視点で、 天武関連には記述に虚偽があるだろうという疑いの裏返し なのですが、それを虚偽だと断定しにくいようにするためにも、 他の部分はそれこそ最も信頼のおけるようなものにしておく べきだという戦略があるだろうと思うからです。 天武の年齢が書いていないのは、他の天皇がそうであっても 重みが違います。おそらく天智が目指した天皇権力の 強化を引継ぎ(豪族排除、戸籍・法の整備を根拠にしました) 天武もその一環の政策として記紀編纂も行ったはずで、 (天皇を神と歌わせたことなども根拠にしています) その創始者ともいえる天武の年齢がないのはどう考えても 変だと思わざるをえません。 で、小生のいいたいのは、この見方が真実に近いほど、 他の部分の信頼性も高くなるのではないかということです。 あまりこんな事を言う人がいないようなので、 感想としてかかせていただきました。 Time : 1998/11/10(火) 10:03:12
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 天武問題に対して Comments: 天智論争が別の観点から盛り上がっているようですが、 私個人の考えを言わせてもらえば、私もやはり「天武の父が 帰化人であっても問題はない」と思います。 根拠としてはまず皆さんもおっしゃっておられますが 当時の日本では帰化人階級が「文化の伝道者」として 尊敬されうる存在であった事と、 それから桓武天皇の母親「高野新笠」は帰化人の子孫であるにもかかわらず 桓武が正式に即位している事です。 確かに「井上皇后」事件などもありましたが、それはあくまで皇室内での事であり、 各地の豪族がそれに対して反乱を起こしたなどの事実はないです。 また桓武がそのことによって差別を受けていた形跡もありません。 まして天武の時代には「天皇崇拝」はまだそれほどの規模にはなっておらず、 したがって「皇室の血統」をとやかく言う人間も少なかった事でしょう。 例えばこの時代から200年ほど前には継体天皇が越前から 招かれています。これは「天皇5世の子孫」という事に なっていますが、現代の歴史学でもこれに異論を挟んでおり、 「王朝はここでいったん交代した」といわれています。 天皇崇拝が強烈になり、天皇が神となるのは天武および 持統天皇の時代です。「日本書紀」などの国史編纂と 近江王朝への勝利による一時的な天皇親政の実現により、「大君は神にしませば」 と歌われるようになるわけで、裏を返せばこれは 天武王朝の正当化とも取れます。 以上の理由で私は天武が朝鮮系の天皇でも 一向に構わないと考えています。 Time : 1998/11/10(火) 11:42:35
Name : 輔住 E-mail : Title : 天武天皇について Comments: 天部天皇の正体について井沢説に賛成です。 少なくても彼は日本書紀に書かれているような 天智の同父母の弟ではないと思います。 理由は彼の若いころのエピソードが書紀に書かれていないからです。 彼は天智の娘を4人も妻にした程の実力者です。 若いときからかなりの実力者だったと考えたほうが自然です。 彼が本当に弟なら若いころのエピソードを隠す必要はないし、 むしろ、書紀におおげさな位に書かれているはず。 では、彼は身分を偽る必要があったのか? それは彼が弘文天皇(大友皇子)を殺したのが原因。 彼はそれを強引に「王座決定戦」にした。 当然、大友皇子と争うだけの身分に自分をする必要がある。 (天智の「庶兄」では「天智の後継者」としては説得力に欠ける) だから、彼は天智の同父母の弟を名乗ったと思います。 Time : 1998/11/10(火) 12:23:20
Name : kazu E-mail : Title : 天智・天武のこと Comments: 久しぶりに投稿します。まずは1万アクセスおめでとうございます。 最近、また天智・天武の問題が出てきましたので私の考えを述べさせて下さい。 私の考えも大阪JF生様と同じと思っていますが、過日の議論は、双方の論点が 噛み合っているとは思えず、折角の熱意もすれ違って見えました。 KANAK氏は、立場こそ違え相当に学識のある方のようで感心しておりました。 ただ、資料の読み方というか説の組立が井沢先生などと全く異なり、議論が前進 しているように思えず、残念でした。 これについては、神社の「四拍手」問題が言い易いのでこれを例にします。 「四拍手」の神社は出雲大社などに限らず、しばしばみられるとのこと。 このことからいえることは、かくも多くの神に「死」の儀式が必要である、 あるいは、ごくありふれた行為である、のいずれかでしょう。 井沢説を否定的に考える人は、後者の立場と思いますが、これは重要なこととは 思えません。 オオクニヌシは、明らかに政治的敗者です。外国であれば、敗者の神は徹底的に 否定されるか、勝者の神話に悪神・悪魔として残るだけです。 翻って、オオクニヌシには「悪」のイメージはありませんし、日本最大の神殿 (出雲大社)に祀られています。 これはなぜでしょうか。井沢先生はこれを「タタリ」「怨霊」の原理で説明さ れています。 これ以外の原理で説明されない限り、「四拍手」を云々したところで井沢説を 論破したことにならないと思います。 天智・天武に戻ります。 まず暗殺の真偽については、いまさら刑事裁判のように関係者の証言が得られる 訳でも血の付いた凶器が出てくる訳でもなく、残された資料をどうみるかという ことに帰着すると思います。 非兄弟説も含めてですが、井沢先生は桓武の平安遷都も含めて自説を展開されて います。 なぜ桓武は中国かぶれの王朝交代の儀式をしなければならなかったのか、その思考 のたどり着いたところが非兄弟説・暗殺説なのだと思います。 個々の事象を問題にすることは必要と思います。しかし、歴史は自然現象ではあり ません。仮説にそぐわない事柄も当然あると思います。 個別の問題にとらわれることなく歴史を検証してはじめて井沢説を問題に出来るの だと思います。 Time : 1998/11/10(火) 13:08:46
Name : kazu E-mail : Title : 天智・天武のこと Comments: 久しぶりに投稿します。まずは1万アクセスおめでとうございます。 最近、また天智・天武の問題が出てきましたので私の考えを述べさせて下さい。 私の考えも大阪JF生様と同じと思っていますが、過日の議論は、双方の論点が 噛み合っているとは思えず、折角の熱意もすれ違って見えました。 KANAK氏は、立場こそ違え相当に学識のある方のようで感心しておりました。 ただ、資料の読み方というか説の組立が井沢先生などと全く異なり、議論が前進 しているように思えず、残念でした。 これについては、神社の「四拍手」問題が言い易いのでこれを例にします。 「四拍手」の神社は出雲大社などに限らず、しばしばみられるとのこと。 このことからいえることは、かくも多くの神に「死」の儀式が必要である、 あるいは、ごくありふれた行為である、のいずれかでしょう。 井沢説を否定的に考える人は、後者の立場と思いますが、これは重要なこととは 思えません。 オオクニヌシは、明らかに政治的敗者です。外国であれば、敗者の神は徹底的に 否定されるか、勝者の神話に悪神・悪魔として残るだけです。 翻って、オオクニヌシには「悪」のイメージはありませんし、日本最大の神殿 (出雲大社)に祀られています。 これはなぜでしょうか。井沢先生はこれを「タタリ」「怨霊」の原理で説明さ れています。 これ以外の原理で説明されない限り、「四拍手」を云々したところで井沢説を 論破したことにならないと思います。 天智・天武に戻ります。 まず暗殺の真偽については、いまさら刑事裁判のように関係者の証言が得られる 訳でも血の付いた凶器が出てくる訳でもなく、残された資料をどうみるかという ことに帰着すると思います。 非兄弟説も含めてですが、井沢先生は桓武の平安遷都も含めて自説を展開されて います。 なぜ桓武は中国かぶれの王朝交代の儀式をしなければならなかったのか、その思考 のたどり着いたところが非兄弟説・暗殺説なのだと思います。 個々の事象を問題にすることは必要と思います。しかし、歴史は自然現象ではあり ません。仮説にそぐわない事柄も当然あると思います。 個別の問題にとらわれることなく歴史を検証してはじめて井沢説を問題に出来るの だと思います。 Time : 1998/11/10(火) 13:09:18
Name : kazu E-mail : Title : 管理人様 すいません Comments: すみません、久しぶりで操作をミスってしまいました。 間違えて投稿が二重になってしまいました。 後の分を削除して下さい。 Time : 1998/11/10(火) 13:12:10
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 奈良時代の合理性と国際性 Comments: 以前に奈良時代の人は合理的かつ国際的であると述べました。 これは、私がいくつかの本を読んで出した結論なので、 決定的な文献は思いつかないないですが、探してみます。 まず合理的な理由です。 @平城京建都、奈良の大仏鋳造、国分寺建設などの大土木工事 動機は迷信としても、相当高度な科学的技術と科学的思考がないと、これらの大事業は不可能です。 これだけの事業となると、事務も大変でそれをこなすにも合理的な思考が必要です。 A律令制が曲がりなりにも機能していた。 律令制は膨大な官僚機構です。 この運営には、合理的思考が不可欠です。 B恵美押勝の乱と藤原麻呂の乱の迅速な鎮圧。 この2つの乱は、朝廷の命令の下、直ちに鎮圧軍が招集されて、平定されました。 日本軍の崩壊に見られるように、 軍隊を動かすには兵站、炊事、便所(日本軍は無体策で原住民に嫌われる一因となった) 指揮系統などの綿密な計画が必要です。 C白水江の乱後の防衛政策 少々時代がさかのぼりますが、白水江の戦いは無謀でしたけれど、 その後の防衛策は適切です。 朝鮮の技術者によって作られ堅固な要塞。 大陸の軍を迎え撃つわけですから、彼らの考えを採用したということです。 新羅との国交正常化。 防人の配置。 竹槍でB29を撃ち落とそうとした50年前の日本とは雲泥の差です。 等が考えられます。 国際的な理由は、 @、先のC. A遣唐使、 自分たちは遅れているから学ばなければ行けないという認識があったのです。 B中国(当時最高の国家)で賞賛された留学生 阿倍仲麻呂や吉備真備、 下って空海や橘逸勢(彼らは奈良時代の教育を受けていた)などがいます。 C外国と対等に交渉した官人 席順問題で、大伴古麻呂は、中国の宮廷で日本の面子を堂々と守りました。 D中国語 当時の国際語である中国語をマスターする事は、 官人になる最低条件だったと思われます。 ただし、日本では、かなり後まで正式な文章は漢語でしか書かなかったからしょうがない面もあります。 等があります。 それと、誰も言わない事ですが、 風土記の編集も見逃せません。 全国50国の地誌を編集するためには、 少なくとも現代の郷土史家並みの学力を持った人達が500人くらい必要です。 奈良時代は、文明開化の時代だったと思います。 Time : 1998/11/12(木) 14:25:09
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 昭和は言霊の時代 Comments: 考えてみれば昭和はいろいろな言葉に振り回された時代です。 「満蒙は日本の生命線」「機関説」「アカ」「全面講和」 「安保」「所得倍増」「オイルショック」「PKO」・・・ これらの言葉は、本来の意味を遊離してある時は人を不幸に、ある時は人を豊かにしました。 江戸時代と明治時代の人は言霊に振りまわされてはいないのに、 なぜ現代の昭和の人間は、まるで古代にタイムスリップしたかのように 言霊に振り回されたのでしょうか? 不思議な気がします。 皆さんはどう思われますか? Time : 1998/11/12(木) 15:10:14
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 応神天皇の正体 Comments: 井沢先生の著作と関係ない自説ばかり述べるなと そのうちお叱りを受けそうですが、 天皇朝鮮人論をぶち上げた手前、責任を果たそうと思います。 私はまだ、日本人の中に天皇への遠慮があって、 我々の思考を阻害していると思います。 しかしその当の天皇が、必ずしも神でもなんでもなく、 ただの古代の実力者、さらに渡来人、であるとなれば、 私たちの思考はかなり自由になるのではないでしょうか? 私自身は、皇室を尊敬するものです。 たとい天皇の先祖が外国人でも変わりません。 さて、応神天皇の正体ですが、私は、弁韓の王か王子だと思います。 350年頃に、朝鮮半島では百済と新羅が各地方を統一しました。 統一の取れていなかった弁韓(後の任那)は2国に征服されたと思います。 そして、国を追われた王族は日本に亡命したと思われます。 応神は、東国を平定して間も無い強力な軍事国日本に朝鮮復帰を訴えました。 仲哀天皇は、応神の復帰を口実に朝鮮遠征の軍を出します。 その主力は、葛城王朝の遺臣(葛城氏、物部氏、大伴氏)と吉備王朝の遺臣(瀬戸内海の水軍)でした。 朝鮮遠征は大成功しますが、彼らは応神を担いで、進軍方向を180度旋回したのです。 彼らは、ヤマト朝廷に積年の恨みを抱いていました。 ヤマト朝廷の主力は東国にいたため、仲哀天皇は、朝鮮を攻めた精鋭に手も足も出ませんでした。 彼らは、朝鮮と強い繋がりを持っていたために、 海へ近い河内に都を定めました。 神功皇后の伝説は、朝鮮遠征中はお腹の中にいた応神が、 朝鮮遠征が終わって筑紫に着いて生まれるという筋です。 これは、応神は朝鮮遠征を経て、天皇として生まれ変わったことを意味しないでしょうか? そして、天皇家が任那に執着したのは、それが故郷だったからではないでしょうか? Time : 1998/11/13(金) 13:41:53
Name : KANAK E-mail : Title : 参加させて頂けますか? Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 お聞き苦しい雑音の数々・・・申し訳ありません。 さて、今までは大島さんに私の「逆説の日本史 2」に関するNIFTYコメント、 及び皆さんとの意見交換についての仲介をお願いし、ご負担をお掛けして参り ましたが・・・本HP管理人さんのご了解が得られれば、私自身で参加させて 頂きたいと存じます。 ただ、本件は元々NIFTY会議室での議論が発端であり、9/18井沢さんのNIFTY発 言によって新たな展開を見たものですから、NIFTY会議室とは一体性を保ちたい と考えております。 従って、皆さんのご発言についても一旦NIFTYに転載し、それに対しNIFTYで寄 せられたRES(私自身のRESを含む)を本HPに転載すると言う型式をとらせて 頂きたいと存じますが、いかがでしょうか? (NIFTY転載不可とされるご意見については、私のRESはご容赦願います。) 勿論私も本業を抱えておりますので、タイミングの遅れは避けられず、また文 章が余りに長文にわたる場合は(お互いに)一部カットせざるを得ないと存じ ますが・・・。 以上につき、管理人さんのご了解をお願いいたします。 Time : 1998/11/13(金) 22:29:01
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 帰化人 Comments: 「帰化人」問題に関する様々なご意見がうかがえてとてもうれしいです。残念な がら、NIFTYでの議論というのは読めないのですがさぞかし沸騰したものなので しょうね。 この場での議論はどちらかというと「帰化人派(?)」が優勢のようですね。 もちろん、多数意見が常に真理とは限りませんが。 ただ、畑違いの分野の人間が言うのもなんですが(応用昆虫学です)、今の 日本人にとっての朝鮮半島と、当時のそれとは全く違うような気がするのです。 現代日本人の感覚と、我々のご先祖の感覚が同じであるわけはないのだし。 安部さんの <しかしその当の天皇が、必ずしも神でもなんでもなく、ただの古代の実力者、 <さらに渡来人、であるとなれば、 という考え方にはなるほどと思いました。 実力という点で、多分当時の世界の中心(?)であるところの中華文化圏の朝鮮 半島からの人達は、文化にせよ、武器製造技術にせよ、軍事力にせよ、発展途上国 だった日本よりは格上だったんじゃないでしょうか。そういった帰化人グループの 支援を受けられる点で、帰化人の子供が天皇になったとしてもあまり無理はない ように思います。単なる象徴ではなく、当時の天皇が軍事力の長であった以上、 武力に秀でる方に支持が集まるのは当然だと思うのです。たとえ帰化人の血を持 とうとです。しかも帰化人グループの方が強いとなれば(おそらく)、なおさら 支持しない理由がでてきません。要は後の戦国時代と同じでは無いのでしょうか。 石井さんの <それから桓武天皇の母親「高野新笠」は帰化人の子孫であるにもかかわらず <桓武が正式に即位している事です。 というご指摘も盲点でした。天武の頃に較べればずいぶん発展した日本においても 明らかに帰化人の子孫である桓武が即位しているのであれば、天武において、それ が障害になるとはちょっと思えないのです。 この件は逆に考えると、少なくとも桓武天皇即位に関しては「帰化人の子孫で あること」を隠していなかったわけです。なんで隠さなかったのでしょう?資料 を作成する上で、ごまかそうと思えばごまかせるはずなのに(ちなみに、何という 史料に載ってるんでしょうか)。考えようによっては、少なくともこの頃までは 帰化人の血をひくことを、特に隠すような理由もなかったのかもしれませんね。 Time : 1998/11/14(土) 06:08:42
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 官職・官名について Comments: と、ど素人のくせに長々と書いてしまってすみません。 で、ついでにお尋ねしたいことがあります。戦国時代にはよく、肥後守とか 刑部少輔とか名乗る武士が出てきますが、あの多くは私称だそうですね。でないと 日本全国津々浦々に「修理太夫」が何十人もいることになってしまいます。 あれは武士が勝手に名乗るものなのでしょうか。つまり「俺はこれから宇津木兵 部と名乗るぞ」と自称するのでしょうか? それともその大名家の長が 「おまえは今日から長門守と名乗れ」とかって、恩賞として名乗りを許したもの なのでしょうか。その場合、 「田中は会社でいったら部長級だから、まぁ刑部大輔くらいを名乗らせて、鈴木は 課長級だから備前守くらいにして、あと係長級の佐藤君はどの官称をやろうか な?(序列はよくしりませんが)」 なんて、家中の序列をあきらかにするために官称を与えたのでしょうか?個人的 にはこの使い方なのかなとおもったりするのですが(これなら家中の階級がわかり やすくなると思うし)。けど実際どうだったんでしょう?どなたか教えてくださいませ。 また、そもそも律令体制のスタート期では、こんな官名詐称(?)は無かったと 思うのですが、いつ頃からこのように、官名詐称がまかり通るようになったので しょうか? また、朝廷から正式に与えられる官称・官職もまた明治初期にいたるまで存続す るわけですが、ここでも質問があります。 たとえば、播磨守という官職には1名しか与えられないものなのでしょうか? そもそも、それぞれの官職には何人の定員があるものなのでしょうか?もし仮に 国司のポストが定員1名であるならば、その1名を除いてあとは皆勝手に名乗って いるのでしょうか? また、江戸時代でも、自称官名というものがあったのでしょうか? たとえば、遠山左衛門尉なんてヒトがいましたが、これは正式な官職名なので しょうか?そして、全国に左衛門尉が何十人もいたのでしょうか? とりとめのない質問で恐縮ですが、どなたかぜひ教えてくださいませ。 Time : 1998/11/14(土) 06:51:37
Name : KANAK E-mail : Title : 「逆説の日本史2」四拍手問題について Comments: 皆さん、はじめまして(?)・・・KANAKです。 <(_ _)>ペコ まず、ハンドルネームの由来ですが・・・ 私のハンドルネーム”KANAK”は ”カナック”と読んでいます。 私の本名に由来するモノですが・・・併せて ”蚊鳴く”の意味を持たせてい ます。(>_<;) つまり、史学については全くの門外漢であり、古代史愛好家と称するのも憚ら れる様なドシロウトではありますが”蚊の鳴く”様な声であっても積極的に会 議室に参加して疑問や意見をUPし、諸先輩から回答・批判を頂く中で勉強して いこうと言う気持ちを表したモノです。 (一云、図書費の捻出にも苦労する ”金苦”と言う ”異説”もあるようで すが真偽の程は私にも分かりません・・・。(^0^)”) さて、早速ですが・・・「四拍手問題」につき、NIFTY掲載分を転載いたします。 (「四拍手問題批判」に関する「直接反証」を期待したものです) なお、勝手ながら皆さんのご発言についても一旦NIFTYに転載し、それに対し NIFTYで寄せられたRES(私自身のRESを含む)を本HPに転載すると言う型式 をとらせて頂きたいと存じますので、NIFTY転載不可とされるご意見については、 私のRESはご容赦願います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 11/09 #2245 RE^9:「逆説の日本史2」四拍手問題 大島さん(井沢さんHPの皆さん)今日は・・・KANAKです。 先般、10/27#2183 で「梅原説=四拍手問題」に関する「坂本氏批判」をご 紹介いたしましたが、それに対し ”この問題については既に井沢さんが論破 している筈・・・”との意見が有ったようです。 考えて見ればあまりにも当然の話で・・・「四拍手問題」における梅原説と井 沢説の主要部部分は次のとおりであり・・・ 梅原説(隠された十字架ー法隆寺論)・・・昭和47年5月発行 「まして、八世紀という時代、死という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に 響いたかは、はかり知れない。しかるに、法隆寺においてこの忌むべき死を示 す四が、しきりに繰り返されるのである。・・・・ 出雲大社において、カシワ手は四つ打つ。カシワ手を四つ打つ神社は他には ない。出雲大社に限って、カシワ手を四つ打つのはなぜか。また出雲大社は柱 の大きさが、いずれも四の倍数となっている。法隆寺と出雲大社の類似点につ いて、先にもいい、また、別稿でも詳しく論じたいと思うが、この二つには、 死のイメージがまつわりつかねばならぬ然るべき理由があったのである。」 井沢説(逆説の日本史1ー古代黎明編)・・・平成5年発行?? 「全国の神社の中で、出雲大社ともう一つの大きな神社しか持っていない、極 めて不可解な作法がある。それは大社に参拝する者は柏手を四回うたなければ ならないことだ。・・・・・ では忌詞の最たるものは何かと言えば、それは「死」である・・・ だから、「シ」という言葉は神道の普通の考え方から言えば絶対に避けねばな らない。それなのにどうして「四拍手」なのか。「四」は「シ」であり「死」 に通じる。縁起の悪いことこのうえもない。しかし大社がオオクニヌシという 「死の国の王」の神殿であり、それを建てた大和朝廷が何を願っていたか、そ れを考えるとこの謎も解ける。・・・」 以上のとおり、基本的には約20年前に発表された「梅原説」を蒸し返(或い は発展??)されたものだと思われますが、この間昭和48年に「坂本氏批判」 が発表され、 *四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈 良の時代にはなかったことである。 *神に対し四拝または四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲 大社に限ったことではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは 旧儀を忠実に伝えているだけのことである。 *従って四拍手について、死の観念などの介入する余地は全くない。 ・・・・ことを様々な根拠資料を明示された上で論証されているのです。 従って、如何に井沢さんでも「坂本氏批判」に関する「反証」なしで「梅原説」 を蒸し返(発展??)すことは有り得ないはずです。 ところが・・・井沢さんの具体的「論破」がどの様なものであるかイマイチ良 く分かりません。取り敢えずこの点について是非HPの何方かに、お教え頂き たいのですが・・・無理なお願いでしょうか? 98/11/09 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Time : 1998/11/14(土) 09:18:01
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 仲哀天皇の怪死 Comments: もう少し冷静に、古事記の仲哀天皇と応神天皇の話を分析します。 私は、古事記(岩波文庫版)の文だけで話をしています。 仲哀天皇は、熊襲を撃つために筑紫に滞在していました。 そこで、武内のすくねが「神の命」つまりお告げを受けます。 内容は、「朝鮮は豊かな国なので征服せよ」です。 不思議なのは、「神」とだけあって、名前が分からないことです。 天皇家の氏神のアマテラスの大神だから名乗らなかったのだろうといえるかもしれません。 しかし、アマテラスは、次項で出てきますが、 これは地上の人間(武内たち)の「神」に対する解釈といった性格です。 次に、「神」は「その神」と呼ばれています。 どうも「神」は日本人にとって未知の神であったようなのです。 仲哀天皇は「山に登って西を見ても青い海しか見えない」といって取り合いません。 更に「神」を無視しようとします。 「神」は怒って、「天の下はお前の治める国ではない。(死の国へ)真っ直ぐ行け」といいます。 仲哀天皇はしぶしぶ「神」を認めますが、突然静かになります。 家来が、松明で確かめるとと死んでいました。 つまり夜に死んだということです。 このページの読者は、夜に死ぬことが何を意味するのかご存知のはずです。 その後、祓いが緊急的に行われます。(ただならぬ気配を感じます) 武内が、「皇太子は神功皇后の腹の中の子供にする」と宣言します。 これは、「アマテラスと住吉の神の意志である」 そして「天つ神、国つ神、山の神、河と海の神、 協力して胎児を守り立てて海を渡れ」というものです。 その胎児は、天つ神よりも偉いのです。 遠征は大成功で、胎児は、筑紫に帰ってから生まれます。 しかし、仲哀天皇の第一夫人(神功労皇后は第二夫人)の息子の忍熊王兄弟は反乱します。 つまり、皇室は皇太子を拒否したのです。 しかし、皇太子軍は兵庫と琵琶湖で彼らを破り、残党を若狭まで掃討します。 そして、敦賀で血を清め、重臣たちと会盟します。 この話は、まさに新王朝の創始を意味すると思うのですが、どうでしょうか? それと、私は最近古事記の解読をしているのですが、 何故か四国の記事が異様に少ない(というより皆無)ので困っています。 この事も皆さんどう考えますか? そして、四国に関して何かいい情報がありましたらお教えください。 あと、「逆説の日本史」で井沢先生が 宇佐神宮に祭られている神功皇后は卑弥呼であるという説に私は賛成です。 ヤマタイ国を滅ぼしたクナ国は卑弥呼を祭る必要があったからです。 そして、宇佐神宮の応神天皇は、仲哀天皇だと思います。 私は、神功労皇后は架空の人物で、 宇佐神宮の卑弥呼と一体化させて権威付けられたのではないかと思います。 これで、応神王朝創始説は、怨霊の面からも裏づけられるとおもいます。 断っておきますが、応神天皇が新王朝の創始者だと井沢先生は「逆説の日本史」で述べています。 私は自分なりにそれを検証してみました。 Time : 1998/11/14(土) 15:39:02
Name : きんたろう E-mail : Title : 古代の日本 Comments: 古代日本に朝鮮半島から渡来人としてかなりの数の入植者があったということは 実であると思うが、どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。 今の時代でも、外国へ移民するということは一大決心がいることだと思います。 それが当時の人間にとっては現在の何倍も固い決心が必要だったと思われますね。 もしくはそうせざるを得ない外的要因があったと考えられるでしょう。 地理学的に言うと、日本列島は黒潮に囲まれているという環境にあるので、 古代の稚拙な航海技術でも、例えばベトナムや南京付近からは容易に日本へ たどり着くことができたといわれています。ただしこれは片道切符ですが。 だから古代の日本はパラダイスではなく一種の姥捨て山、もしくはブラック ホールだったと考えることができると思います。 日本人は朝鮮人に関して言えば、非常に似通ってはいるがやはり違いがある。 その違いとは南方系の血がはいっているかどうかという点ではないだろうか、 と私は思っています。 朝鮮人は北方の血液は入ってはいるが、南方のそれはまずはいっていないからと 思われるからです。 古代においては、当然のことながら現代のような国境線はなかったので、だから 今ほど国籍というか、何人だという意識は当然のことながらなかったと思います。 つまり日本を侵略するという発想は現代人のものだと思うのですが。 また、安部さんが言われるように、関東地方に入植したのではという意見について は茨城よりも埼玉とか千葉の方がその痕跡は多いような気がします。例えば検見川 や高麗川などの地名はそうとしか思えません。 ただし、当時この付近は蝦夷地と呼ばれていたわけなので朝鮮半島からやってきた 人間が入植することはなかなか平穏にはゆかなかったのではないでしょうか。 言葉については、韓国の言葉は聞いた感じは茨城弁というよりは東北弁の方が 感じは近いと思う。ただ、前にも書いたけれども朝鮮半島で鳥居の存在を感じる ことができないと(私はそう思っていますが)いう現実から考えると、どうも 朝鮮系は日本歴史上の支配系には成り得なかったのではと思えるのです。 Time : 1998/11/14(土) 18:48:04
Name : 薩摩人 E-mail : Title : ある大学で Comments: >宇津木和政さん ご質問の中の「○○守」の付け方について、貴重な研究があります。 その結論は 「幕藩体制確立後の官位・官職の付け方に相関関係は無い。 また、基準や世襲的な影響も無い...と思われるが、現状では史料的制約もあり 十分に研究し尽くしたとは言えず、今後の成果を期待したい。」 というものです。要するに「よくわからない」ということです。 但し、○○守については勝手に名乗ったのではなく、 幕府から朝廷に上奏して補任されたことは確かみたいです。 貴重な研究などと大袈裟にいいましたが、実は私の同級生の卒論が まさにこのテーマだったのです。 彼がこのテーマを選ぶきっかけは、担当教官の気まぐれ? 「長年、気になっている課題である。他にすぐれた研究もない。 君、これを解明すると学界で注目の的となるぞ!」という一言だったのです。以前、 私が征夷大将軍について質問したのと同じようなもんです。 ご質問の内容とは少し違いますが、彼等の研究を簡単に紹介しますと ○○守の中には大名が欲しがるブランドが必ずあるはずである細川氏は越中守が ほとんどであるが、何回か領地と同じ肥後守になっている 世襲であれば越中守のままのはずだし、これはなにかあるはずである また、従四位下なら○○守、従三位なら△△守という官位との関係があるか? こういう内容でした。どうも彼等のイメージには現代の政治家と大臣ポストの関係が あったみたいです。外務・大蔵・通産とかは、なりたい大臣だそうですし 当選何回なら○○大臣とか決まっているみたいですしね。 具体的な研究方法はまず、日本中の大名の官位・官職の推移、在任期間を 史料が許す限り統計し、いくつかの切り口で分類してみる。 また、ある大名が幕閣に任官を願い出た書状等がないか調べる。 例えば「A大名がB老中にC守にならせて下さい」とお願いする書状や そのための運動をした(賄賂を送る、接待攻勢をする)記録がないか調べる。 などでした。 教官は統計すれば必ず何か法則が見つかるが、あまりに作業時間がかかるので 誰かやってくれないかなと考えていたそうです。同級生は1年以上調べ続けました。 結果は上記の通りでした。これに対し他の教官達は楽しそうに笑ってたそうです。 当の担当教官も「やっぱり何もなかったか」と満足気だったそうです。 もし、これを解明すると学界から大注目を浴びるというのは本当だそうです。 どなたか鋭い視点でチャレンジしてみませんか 史料至上主義の典型として、ある国立大学の研究室をご紹介しました。 >KANAKさん ありがとうございます。お名前の由来と読みが解りました。 私の勘は大ハズレでしたが、趣のある名前ですね。 それに笑顔のマークがいいですね。 ”金苦”は私の場合”真説”です。 ご自分で「ドシロウト」と言われますが、一連の論争からすると かなり熱心な方とお見受けいたします。 最初のうちはKANAKさんのお考えがよく解らなかったし 議論も噛み合わない様でしたが 10/29付大島重雄さん経由の投稿などは まるで数学の定理や公式を導く様な感じで(巧く表現できなくてすみません) なるほどと思いましたし、KANAKさんの歴史の見方もわかったような気がします。 私は「怨霊信仰・宗教の影響」 あり!!の立場ですが 今後も切れのいい投稿を期待しております。 Time : 1998/11/14(土) 18:52:32
Name : 宇津木和政 E-mail : Title : 薩摩人さまありがとうございました Comments: 早速の御返事ありがとうごさいました。 少なくとも江戸時代の官職は幕府の上奏により朝廷から下されたものであるわけ ですね。ただ、それ以上のところはよくわからないわけですね。それにしても、 それほどまでに重大なテーマだとは全く知りませんでした(素人丸だしですね)。 江戸時代はともかくよくわからない。となると、もともとの疑問である戦国時代 なんかはさらによくわからないのでしょうか? 木下藤吉郎も、当初、筑前守と名乗ったのは織田信長の命令によるものであり、 1年後くらいに正式に従五位下筑前守を朝廷より賜ったとなっていたように思い ます。とすると前者は私称であり、後者は公称となります。 果たして私称官名のルーツと実態は…歴史学の手法をまるで知らない私には 手も足も出なさそうな話ですね。 Time : 1998/11/14(土) 19:58:17
Name : KANAK E-mail : Title : 「逆説の日本史2」倭姫万葉歌等について Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 薩摩人さん、お励ましありがとうございます。 ただ、皆様も少し誤解されているようですが、 私は ”「怨霊信仰・宗教の影響」 なし!!の立場” ではありません。 歴史の「限られた局面」においては ”当然影響あり” と考えております。 ただ、「歴史を動かす」と言うような大仰なモノではなく、所詮は「歴史が 動いた」ことから生じた「敗者」に対する事後処置程度の意味だと考えてい ますので、お含み置き願います。 さて・・・・取り敢えず、かって大島さんと意見交換した部分を順次UPさせ て頂きたいと存じますが、以下の各項目のうち、#1267・#1376・#1405・#1744 が既にUPされていますので、今回は#1388・#1396・#1411をUPいたします。 (何れも未読・立読段階です。) 03/28 #1157 壬申の乱について教えて下さい 03/29 #1159 RE^2 壬申の乱について教えて下さい・・・出発コメント 04/06 #1231 省略 04/12 #1267 RE^5 同・・・泉湧寺問題(小林説) 04/18 #1316 RE^6 同・・・泉湧寺問題(小林説)補足 04/22 #1339 RE^7 同・・・泉湧寺問題(小林説)再補足 05/02 #1376 RE^8 同・・・天智暗殺問題{万葉集・扶桑略記} 05/05 #1388 RE^9 同・・・万葉集補足 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 05/09 #1405 RE^11 同・・・漢高祖(小林説)・天智諡号問題(立読) 05/10 #1411 RE^11追記・・・大仏殿・万葉集問題補足 05/16 #1422 RE^12 逆説の日本史(聖徳太子)の疑問(著書入手) ・・・クダラ・隋国書・天皇家姓・聖徳太子心中・ 「徳」諡号・間人名問題等 07/29 #1641 RE^14同追記・・「徳」諡号問題補足(神皇正統記) 07/29 #1642 RE^15 天智・天武年齢と「神皇正統記」・・年齢問題 07/29 #1648 RE^16 天智・天武年齢その他追記・・・曲筆問題 08/02 #1656 RE^17 天智・天武年齢妄想(長文)・・年齢問題推定等 08/09 #1696 RE^18 天智・天武年齢(一代要記)・・同上補足 08/12 #1703 RE^19 皇族の類似名・・・間人名問題 補足 08/14 #1711 RE^20 天智・天武年齢の錯覚・・・年齢問題(愚管抄) 08/16 #1720 RE^21 天智・天武年齢と曲筆・・・年齢と曲筆問題 08/16 #1721 RE^22 天智・天武年齢(天武65歳推定)・・同上 08/21 #1744 RE^23 天智諡号問題(追記) 07/24 #1615 壬申の乱コメントツリーのみなさまに 09/03 #1859 RE^2 壬申の乱コメントツリー 09/05 #1873 RE^3 壬申の乱コメントツリー・・・総論 05/20 #1434 奇説:天武天皇の正体 05/23 #1443 RE 奇説:天武天皇の正体・・・年齢問題・天武忍者問題 四娘同婚問題(大和説) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/05 #1388 RE^9 同・・・万葉集補足 >> 素人の考えなんですが、書紀は(乱暴な言い方ですが)720 >> 年に完成したんだから、陵のことを記載しようと思えば、いか >>ようにでも記載はできたと思うのですが・・。 仰るとおり記載できたはずですが、記載されていない理由を考えるに当た って、井沢氏のように(原文は読んでいませんので、紹介文によっていま す)暗殺説に結びつけなくとも、この様に解釈することも出来るのでは無 いでしょうか? 尤も何故これが暗殺説の根拠とされているのか・・・理解できないのです が、ご解説頂けないでしょうか? >>ただ、671年に死んでから699年まで、随分ながい間、ほ >> っておかれたもんですねー。こんな例は他にもあるのでしょう >> か? また、なぜ山科に陵が造られたのでしょう? 私も、#1376でも申し上げたとおり、造陵に関する異常性は感じてい ます。ただ、これを死因の異常性と関連づける必然性が理解できないので す・・・・・ 山科造陵の理由は大津京との関係以上は分かりません。多くの御陵につい ても同様では無いでしょうか?(斉明陵は何故高取町車木でしょうね) ”青旗の 木旗の上を かよふとは 目には視れども 直に逢はぬかも” >>この歌の解釈ですが、万葉学者の桜井満氏の解釈、「山科の木 >> 幡の山の上をみ魂が行き来しているとは目には見えるけれども、 ・・・・・・ >>天智天皇が崩御されたのは大津京(のはず)なのに、なぜ木幡 >>(山科)を魂が行き来していると倭姫皇后は詠んだのでしょう? 私には確認できないのですが、本当に”山科の木幡・・”でしょうか? 山科(京都市山科区)と木幡(宇治市)は伏見区をはさみ約10キロ程 離れています。(宇治郡山科郷が木幡を含んでいたのでしょうか・・) また、万葉学者の久松潜一氏は次のとおり解説しておられます。 「・・木旗も『日本古典文学大系本』では木幡山として、「青旗の」を その枕詞としているが私は木旗のままに解しておきたい。木幡山とする とその御命がすでに御身から離れて木幡山にいられるように思われるし、 調べの上でも旗を繰返したと見る方がよいとおもわれる。」 万葉秀歌(一)P294 講談社学術文庫 私は、久松氏の解釈を支持しますので、倭姫皇后の御歌についての疑問 (謎)そのものが成立しません。 ところで井沢氏は久松氏の解説については言及されているのでしょうか? 少なくとも我々のような素人向けの一般書においては、この様な有力解 釈もあると紹介されるべきでしょうね。 その他の問題(天武年齢・泉涌寺・扶桑略記等)についても、同様に多 面的解釈を提示された上で、自説の妥当性を証明されるべきだと思います。 (紹介文を見る限り、その様な配慮が窺えません・・・) 私が井沢氏の著述姿勢に疑問を感じるのは、正にこの点なのですが・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 >>井沢氏の本を送りましょうか(笑)。 お心遣いスミマセン・・・頑なな奴と思われるでしょうが、ある事情で買いたくないので、 この形のままで続けさせて下さいますか(ニガ笑)。 >>・・・・・一番の根拠(と言うか、発想のもと)は、やはり >>「扶桑略記」の記載だと思います。 ・・・でしょうね。しかし「扶桑略記」も本文では忠実に「日本書紀」を是認 していますよね。「一云・・」は単なる異説の紹介に過ぎません。 皇円が「日本書紀」を大胆に改変していれば、もう少し面白いのですが・・ >>書紀を盲目的に信用する姿勢には疑問がある。 ・・・当然でしょうね。ただ同時に基本史料を恣意的に信用したり、信用しな かったりする姿勢にも疑問があります。 例えば「扶桑略記」で云えば、上記のとおり皇円は基本的に「日本書紀」の記 述を認めていますが、これについては書紀の権力迎合姿勢に追随したモノとし て、一刀両断に切り捨て、異説のみ重視しておられるようですね。 >>天武の出自が不明である。 皇円の天智行方不明説を取るならば、同時に天武が天智の同腹弟であり、天智 から後継者とされていたと言う皇円の歴史認識も認めるべきではないでしょう か?(皇円の天武出自は極めて明快ですね) 自説に不利な部分は切り捨て、有利な部分は拡大(意味不明だあっても殺害の 文字があれば暗殺と断定)する姿勢こそ問題だと思います。 また、書紀について天武系権力により史実が根本的に歪められているとするな らば、桓武以降の天智系権力の下で、何故正史として講じられたのかと言う疑 問が生じます。 仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、天智系に皇位が移動する可能 性はあり得ないでしょうし、仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとした ら新たに権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にして いたでしょうね。天武系真人姓も剥奪していたかも知れません・・・ 要するにそんなモノは小林氏とそれを利用した井沢氏の意図的(敢えて云えば 商業的)空想の産物に過ぎないと思いますが・・・・如何でしょう? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 05/10 #1411 RE^11追記・・・大仏殿・万葉集問題補足 再度の立ち読みで、「逆説の日本史」読み残し部分に目を通しましたが・・・ 以下の井沢氏の主張についても疑問を感じました。 それは大仏殿に関するものですが、かの有名な「雲太、和二、京三」を例証に 大仏殿は出雲大社(の怨霊?)に遠慮して、敢えてそれより少し小さく作った ・・・と言うような記述です。 何か、さも重要な発見であるかのように自画自賛しておられるのですが、視点 を少し変えてみると、寺院と言うのは金堂・塔・講堂・大門等の総合建築物で す。従って塔を含めて比較すれば、出雲大社以上の高さを持った建築物は、そ れ程珍しくもないでしょう。 まして東大寺の東西塔となれば、出雲大社を遙かに凌駕したモノであったこと は明らかです。(大仏殿より30−40%は高いでしょう) 勿論この塔は平安時代には失われていたでしょうから、何れにしても一時代は 「雲太、和二、京三」になるかも知れませんが、本当に建築物の高さにそれ程 の意味があったのでしょうか? それならば、塔の高さについても遠慮があって然るべきかも知れませんね。 つまり建物の高さについては、その様な拘りは一切無かったと言う考え方も充 分成立しうる訳です。 さらに言えば、井沢氏の主張の如く天智系・天武系間に易姓革命があったとす れば天智系天皇は天武系天皇のモニュメントとも言うべき東大寺を超える建造 物を何故作らなかったのでしょう? 東大寺が我国最大の寺院建築であり続けたこと自体が、天智・天武系の一体性 (革命要素は無い)を雄弁に物語っている・・・と言う見方も可能なはずです。 また、長屋王の怨霊をクローズアップされていますが、長屋王の子孫は高階真 人として後世まで存続したものの、歴代天皇から特に意識された気配はありま せんね。 つまり歴史理解は常に多面的要素を想定すべきであり、井沢氏の如く単純かつ 一面的な解釈ではトンデモ説に陥る危険性があると思うのですが・・・・・・ 如何でしょうか? なお、井沢氏の著書の中では倭姫皇后の歌について”木旗”を”木幡”と表示 されていたようです。引用書ではそう言う表示であったのかも知れませんが、 この様な特別な解釈に関しては、より一般的表示も並記されるべきでしょう。 (新訓万葉集 佐々木信綱編ー岩波文庫 も”木旗”です) 自説に有利な印象をシロウトに植え付けるためのある種の作為を感じるのは、 私だけでしょうか? なお、万葉集については前回省略した150ー154について、一応以下にUPして 置きます。 (天皇崩りましし時、婦人の作れる歌一首)姓氏いまだ詳かならず うつせみし 神にたへねば 離(さか)りいて 朝なげく君 放れいて わが恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく わが恋ふる 君ぞ昨夜(きそのよ) 夢に見えつる (150) (天皇の大殯の時の歌二首) かからむの 懐(こころ)知りせば 大御船 はてし泊に 標結(しめゆ) はましを 額田王(151) やすみしし わご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎 舎人吉年(152) (大后御歌一首) 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 辺附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波禰曾 辺津加伊 痛莫波禰曾 若草乃 嬬之 念鳥立 鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 榜ぎくる船 辺つきて 榜ぎくる船 沖つ櫂 いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ (153) (石川夫人の歌一首) ささなみの 大山守は 誰がためか 山に標結ふ 君もあらなくに (154) その他、お気づきの点があれば御指摘願います。 >>(ついでと言っては失礼ですが、151番の額田王の歌の解説はど >> うなってますか? 天智が大津京でなく外で死んだものと解釈でき >> そうにはないですか?) 正直いって、私は古代史も万葉集も井沢氏同様にマルッキリのシロウト ですから、自信はありませんが・・・ (山科御陵より退散りし時、額田王の作れる歌一首) やすみしし、わご大君の かしこきや 御陵奉仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつあり てや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ (155) 御陵の奉仕を終えて退出する人々の悲しみを歌った以上のものは、読みと れませんが・・・・何か異常事態を暗示しているのでしょうか?。 150−154の各挽歌も天智が行方不知になった様な異常事態は全く感 じられません。特に153の太后御歌等は少し技巧的かも知れませんが、 実に良い歌だと思いますね。(万葉秀歌(一)に収録されています) 既に申し上げたとおり、倭姫皇后が天智暗殺を感じておられたならば、大后 として天武追討を命じられたと思いますし、そうなれば壬申の乱の帰趨は明 らかに変わっていたでしょう。 井沢氏も作家でしょうから、倭姫皇后の御歌を文学的感性で理解して頂き たい気がします。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Time : 1998/11/15(日) 00:20:37
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさん宛、および応神天皇と天武天皇 Comments: KANAKさんの考えが分かったような気がします。 井沢先生は、現代評論の中で日本の言論界は 反対意見を封じたためにおかしくなったといっています。 ならば、あなたのように井沢先生と反対意見を述べる人もいて当然なのです。 しかしもし、あなたをこのページから締め出すようなことがあれば、 井沢先生も所詮そこまでの人物ということになります。 反対意見もこのページに載せているということで、 「論敵」としての井沢先生を信用してよいと思いますよ。 私は、桓武天皇のモニュメントは高野山と比叡山だと思います。 あと、安倍の清明の陰陽道もそうだと思います。 桓武天皇の遷都の理由の一つに、奈良仏教との決別があったので、 全く同じ方法でモニュメントは作らなかったと思います。 応神天皇と天武天皇は、業績も血統も酷似しています。 業績は既に述べましたので、血統を述べようと思います。 まず皆さんに謝ります。神功皇后は実在の人物でした。 私の「古事記」の読みが浅はかでした。 「古事記」の応神記に「7・天之日矛(アメノヒボコ)」という章があります。 この章の内容は、神功皇后の血統です。 「天之日矛」は、妻を追って日本に来た新羅の王子で、 神功皇后は新羅国王の4世の孫です。 そして、皇后の祖父は但馬に住んでいました。 皇后は但馬出身の可能性が高いです。 次に、「8・秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫」があります。 この章は不思議な章です。 但馬の田舎の出石神社の神様の恋愛であって、日本史と無関係なのです。 7章の末尾に、出石神社の御神体は、 「天之日矛」の装身具であると書かれています。 そして、出石神社の「神の女(むすめ)」の「イズシオトメの神」が、 「春山の霞壮夫」と結婚して「一りの子」を産みます。 「古事記」で個人名が出てこないのは、例の「神」と「一りの子」だけです。 何故こんな章が応神記の終盤にあるのでしょうか? 私が思うに、「イズシオトメの神」=「神功皇后」 「一りの子」=「応神天皇」=「神」です。 応神天皇は、神功皇后の連れ子です。 そして、応神天皇は、高貴な渡来人の子孫です。 正に井沢先生の描く天武天皇そっくりです。 そして、神功皇后が殊更に神格化されたのは、 応神天皇の即位を正当化するためでしょう。 Time : 1998/11/15(日) 13:01:32
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 日本は古代のアメリカ Comments: 弥生時代の始まる頃、中国は秦の統一期でした。 その時、揚子江流域の呉と越の住民が漢民族に押されて日本にやってきたようなのです。 彼らの跡は、照葉樹林文化として日本に残っています。(集英社の日本史1、2巻) 焼き畑農業、豆腐、なれ寿司、納豆、こんにゃく、餅等の庶民の文化です。 稲作は、彼らか、朝鮮からか来たようです。 これは一種のボートピープルかもしれません。 日本の古墳時代の遺跡に、騎馬民族の色彩が強いのは事実で、 モンゴル辺りからの移住者もいたのでしょう。 日本語は、北シベリアの民族に似ているそうです。 漢字の古い訓は、古墳時代前の中国での漢字の意味とよく一致するそうです。 アイヌが日本全土にいたのは間違いないでしょう。 黒潮は一方通行だけでなく、 沖縄の猟師が手こぎ船で紀州沖まで漁に行って帰ってくるといったことは、 最近まであったそうです。 そして、「恨の法廷」にありますが、 渡来人は、自ら望んで日本に来ました。 韓国人自身が認めていますが、彼らの労働蔑視は根強いです。 朝鮮の技術者は、出世の見込めない故国よりも、 技術者を必要として優遇した新生日本に賭けたのです。 日本に来た民族は、玉突きのようにして否応なく来た人も多いでしょうが、 望んできた人も多いのです。 Time : 1998/11/15(日) 13:32:42
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : KANAK様 Comments: 基本的に、井沢HPの掲示板は自由な表現の場として設けられたものであ り、入会資格や制限はございません。 ただし、投稿、あるいは転載に責任をお持ちになられるならば、メール・ア ドレスを明記してください。ログを見ていただければ、いまはアドレスを省略 されているかたも、初投稿では記入なさっています。 さもなくば、私宛のメールで本名、住所、メール・アドレスを自主的に知ら せた上で、匿名を希望されています。 この点を、ルールとしてお含みおきください。 管理人 Time : 1998/11/15(日) 22:48:49
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 掲示板の増設について Comments: 以前にもお知らせしたとおり、近々、掲示板を増設いたします。歴史論議や 現代批評など、意見を闘わせる場は「フォーラム」、気軽に立ち寄って落書き できる場は「とまり木」といたします。「天智・天武論争」などは、既存のも のはここに残しますが、切りのいいところで「フォーラム」に移します。 プログラムには、とりあえずポップアップ機能を加えますので、投稿の際に 他の方の記事を参照しながら、書き込みを行なえるようになります。様子をみ ながら、さらに機能を付加していく予定です。 管理人 Time : 1998/11/15(日) 23:12:56
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 補足です そうですよねフロンティア Comments: 先日はワープロから張り付けたのですが、どうも改稿しているとき文字を削って しまったり、登録後に読んでみると日本語になっていない部分があったりと、 国語力のなさを暴露してしまいました。 ご了承ください。 またひとつ疑問点があるのですが、それは韓国人の労働蔑視のことについてです。 確かに韓国人の労働蔑視は周知とおりだと思います。はっきり言ってこれは悪しき 風習と言っていいでしょう。でもこれは朝鮮半島が中華体制に組み込まれ、儒教が 国教として浸透した結果だと思うのですが、どうなのでしょう。 それ以前の時代から朝鮮民族はそのような感性を持っていたのでしょうか。 追伸 管理人様の指摘のようにメールアドレスを久しぶりにつけました。 確かに Time : 1998/11/16(月) 09:38:05
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments: はじめましてというのも変な感じですが、直接お話することになるのは 最初なので、よろしくお願いします。 小生は訳あって管理人様の許可の上匿名にさせていただいているものですが、 KANAK様がいわれるように謙遜で素人というので無しに、 本当に素人です。その立場で、素朴な疑問を述べてきました。 最初に誤解されているかのしれませんので、1点だけお断りしますが、 井沢先生が坂本氏の説を論破したというのは、別の説についてです。 言い方が悪かったようで、お詫びいたします。 基本的に、坂本氏があまりにも史料至上主義に陥っていることを いくつか例を挙げて論破されたということでした。 いきなりこんな事を言うご無礼をお許しいただきたいのですが、 小生は貴方の説より、考え方に興味があります。 それは、以前に別の方とのやり取りでも申し上げたのですが、 豊富な知識をバックに史料に忠実に議論を進めておられるので、 途中までは納得して記事を読ませていただいているのですが、 結論部分に来るといつも違和感を覚えて、 「なぜ逆の結論になるのだろう?」 といつも思ってしまうからです。 もちろん小生は、同じデータからでも違った結論は出せるだろうと 信じていますので、説が多様なのは当然と思っております。 しかしその道筋が追えないので困ってしまうわけです。 そこで、以前大島様を通じてもっと背景にある考え方を明らかに してもらえないかお願いいたしました。 しかし、このお願いは非常に無理がありました。 自らが依って立つ根本原理を説明するというのは、たいていは 無理な注文で、自分自身を振り返っても難しいことは分かります。 井沢先生のようなケースはまれで、その点でも敬服しています。 さらに小生は頭の回転が悪く、KANAK様の基本的な考え方を 他の方は理解されはじめたようで、取り残された気分になっています。 これは地道に、貴方の記事を丹念に見ていくしかないと思っていますが、 貴方が史料に忠実であろうとすればするほど、それが見えにくくなって しまうのも事実です。 そこで、お願いなのですが、過去ログを引用される場合は そのままでなく、(その後、反論が出た部分もありますので) 現在の考えを交えながら記事にしていただけませんでしょうか? 論文のように(静的に)意見を述べられるのは研究する姿勢として 当然だと思うのですが、せっかく議論できる場でもありますので、 ダイナミックな対応をお願い申し上げます。 全く勝手なお願いですが、よろしくお願いします。 また、個別の議論はその後でお願いします。 Time : 1998/11/16(月) 10:41:05
Name : 志田 糾 E-mail : mituda@total.co.jp Title : 四拍手問題−KANAKさんへ Comments: KANAKさんへの反論ではないのですが、どうもKANAKさんの論議における「ルール違反」について述べておきたい と思います。KANAKさんは、「出雲神社の四拍手」について、約20年前に発表された「梅原説」があり、「伊沢説」は それを蒸し返したものであり、すでに昭和48年「坂本氏批判」でこの問題は論破されているのに、「坂本氏批判」に関 する「反証」なしで「梅原説」を蒸し返(発展??)すことは有り得ない」としています。ここは掲示板ですので、紙面に限 りがあり、説明はそれ自身でクローズしていないと参加者に誤解、迷惑をかけることになることは言うまでもないことで すが、特に、特定の批判、反論には注意を要します。さて、KANAKさんの主張は伊沢先生に対する「坂本氏批判」に 関する「反証」を期待しての提案と理解しますが、文章からすると、そのようには伝わりません。むしろ、「梅原説」を批 判した「坂本氏批判」に反論せずして、何を申すかのように聞こえます。それはさておいて、KANAKさんの「伊沢説」、 「梅原説」、「坂本氏批判」の紹介は正確でしようか。少なくとも、「伊沢説」に関しては正確ではありません。「出雲神社 の四拍手」については「”死”の宮殿出雲大社の右上位と”四拍手”」の中で説明されていますが、いわゆる傍証として 書かれている訳でありますが、その証明については深くは掘り下げてはいません。勿論、「梅原説」、「坂本氏批判」に ついても同じく触れられていません。したがって、「伊沢説」は仮説に近いもので、摂本掲示板にもあるように、「出雲神 社の四拍手」問題については、相当手のかかった論証作業を必要とすると思われます。むしろ、これは、「伊沢説」に 賛成する人々の役割でもあります。論証の方法としては、「梅原説」、「坂本氏批判」が果たして、真実なのか否かを 検証する必要もありますれば、全国的に「四拍手」を巡る事情も調査しなければなりません。私は、専門外ですので、 こうした作業は出来ませんが、少なくとも、「逆説の日本史」で提示されている「歴史の固め方」は賛成です。私達が、 物理学で推察する手法に近いものです。したがって、もし、不確かさがあれば、それを検証する努力を必要とします。 これは、伊沢先生の仕事ではなく、「逆説の日本史」に興味を抱く全ての人々の役割であると思います。私は、伊沢 先生がそうしたレベルでの問題提起をしてくださっていると思います。 最後ではありますが、KANAKさんの「坂本氏批判」の理解では、結論だけが報告されていて、この書物がどのよう な手法で、どのように論証されているかが報告されていないので、ただ、信じろということになります。極めて誤解を招 く結果となります。特に、「四拝または四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったことでは ない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えているだけのことである。従って、四拍手に ついて、死の観念などの介入する余地は全くない。」というような言い方は、真理を探究する学徒にあるまじき姿勢で す。少なくとも、学徒は、「他説」への反論を試みる場合には、「権威」ではなく、「具体的な事実もしくは論理」なくして は否定できない筈です。「見てきたような嘘を言い」にならなければ幸いです。 最後に、この掲示板は「伊沢掲示板」でして、オープンを歌っていても、私信的な要素もあろうかと思いますが、私信 にしては随分とひどい書き方ではないでしょうか。なお、NIFTYでの構えととは、本質的にことなると思いますが、もし、 こうした論争がNIFTYで交わされているとすれば、NIFTYそのものは極めて、非常識と言わざるを得ません。もし、 私が、現状でのNIFTY議論に参加するとすれば、やはり相当の専門知識と時間的余裕を必要とするでしょう。現状 では無理です。 Time : 1998/11/16(月) 13:15:05
Name : とてとて E-mail : totetin@geocities.co.jp Title : 柴島神社 Comments: 大阪は東淀川区の柴島神社内に「仲哀天皇社(だったけ?)」なる 小さな社があります。 確か、立て札いわく 「当時はこの辺りは森で」「仲哀天皇が休んだ」んだそうです。 他にもいろいろ書いてありましたが、忘れました。 この社が建っている意味がよくわかりません。 どういう目的で建てたんでしょう? なんか奇怪ですなあ。 Time : 1998/11/16(月) 16:15:26
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : きんたろう様 Comments: 上海出身の青年実業家で、母校の華東師範大学から東大大学院(農業経済専攻)に留学した友 人に、懸案の鳥居について尋ねました。彼によると、中国では、山の入り口には必ず山門が建て られ、その形が鳥居に似ているとのことです。山というと、神仙思想につながりそうですが、日 本のように山そのものを信仰する思想は古来ないとも話していました。ちなみに、山門の形は、 鳥居から双横の出っ張りを取ったもので、横浜中華街の入り口の門と同じだそうです。 韓国においては、忠清北道出身の親友が「村々の入り口で、道の両脇に守護神(人の姿)を対 で建てている」と教えてくれた、と以前に書きました。事件取材でソウルと、地方の村に飛んだ ことがありますが、神像があったかなかったかまで注意が回りませんでした。しかしながら、木 彫りの 神像が土産品になっていることだけは確かです。上記の親友は、金官金家、つまり朝鮮 に幾つか興った金王家の一つの直系子孫です。 管理人 Time : 1998/11/16(月) 19:31:32
Name : 横山 雅彦 E-mail : Title : 井沢先生に質問 Comments: 前略 最近のSAPIOに井沢先生と江畑謙介氏との対談が載っておりま したが、井沢先生の右目が少し変でした。まだお悪いのでしょう か。それからテポドンミサイルに関する現代批評ですが、先生は 山本七平氏の「一下級将校から見た帝国陸軍」はお読みでしょ うか。その中に「空軍の援護無しに艦隊を出すことは自殺行為で ある」と言った人間が戦艦大和を特攻させたといったことが書 かれてあります。これもまた日本人研究の対象になるのではな いでしょうか。 草々 Time : 1998/11/16(月) 19:47:22
Name : KANAK E-mail : kanak@mtf.biglpbe.ne,jp Title : RE:「逆説の日本史2」四拍手問題に関して Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 管理人さんへ、・・・メールアドレスの件完全に私の誤解で、まことに失礼し ました。お詫びして掲載いたします。 <(_ _)>ペコ さて・・・「四拍手問題」につきJF生さん、志田さんからコメント頂きまし たので、私の意見も申し上げたいと存じますが、該当部分についてNIFTYに掲載 させて頂いてよろしいでしょうか?ご回答をお待ちします。 ただ、志田さんのコメントについては・・・私が10/29にUPした坂本氏論文抜粋 をお読み頂いた上のモノかどうかよく分からないのですが、この点についても 併せてご回答をお願いします。(以下の経過をたどっています) 10/29 大島さん →石井さんへKANAKさんからの返事(坂本氏批判紹介) 11/02 大阪JF生さん →坂本説を見て 11/05 大島さん →大阪JF生さんへ 11/06 大阪JF生さん →大島さんへ 11/14 KANAK →「逆説の日本史2」四拍手問題について 「先般、10/27#2183 で「梅原説=四拍手問題」に関する「坂本氏批判」をご 紹介いたしましたが、それに対し ”この問題については既に井沢さんが論破 している筈・・・”との意見が有ったようです。・・・」 (仮にお読みでないとすれば、一寸悲しいですね(>_<;)・・・出来れば読後あ らためてご感想をお寄せ頂ければ有り難いのですが・・・。) Time : 1998/11/16(月) 22:53:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments: 記事転載は大島様にも同じ事を言ったと思いますが、 OPENな性格のBBSでのものですので、 少なくとも小生はOKです(役に立たない気もしますが)。 まだ小生のお願いが届いたかどうかが不明ですが、 よろしくお願いします。 しかし、坂本説を小生は観ていますが、基本的には、 志田様の考えと同じです。 当時4=死でないというのは、遣唐使の船の数が根拠で、 4拍手が一般的だったのことですが、それなら現在はなぜ 2拍手中心になってしまったのか、史料的に何か裏付けが とれるのでしょうか?正確には、志田様がおっしゃるように どの程度まで、4拍手がすたれているのかデータをとらないと だめだとも思いますので、多くの時間を要すると思いますが、 14日付薩摩人様の記事のような結果に終わるように感じます。 ところで、木幡に関する久松潜一氏の説を有力視される根拠が、 不明ですが、(このように基本的に根拠不明と指摘されている 部分が過去ログにかなりあると思いますので、 これらに根拠をつけて欲しいのが、小生のお願いです) この説を天智暗殺否定の史料として引用されるのは、 論理的矛盾であると存じます。 なぜなら、 >木幡山とするとその御命がすでに御身から離れて >木幡山にいられるように思われるし、 という言い方は、天智がここで死んでいないという説が 前提になっているからです。「結論先取り」のミスと存じます。 むしろ素直に読めばこうなりますよという指摘に見えますが、 いかかでしょうか? Time : 1998/11/17(火) 09:56:05
Name : 石井一旭 E-mail : j00w0194@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : KANAKさんへ Comments: KANAKさんが本ページに来られたという事で まずは歓迎の意を表します。 ですがKANAKさんの論については 疑問を感じる点が有りましたので、書かせて頂きます。 >再度の立ち読みで、「逆説の日本史」読み残し部分に目を通し >ましたが・・・ >以下の井沢氏の主張についても疑問を感じました。 >それは大仏殿に関するものですが、かの有名な「雲太、和二 >、京三」を例証に >大仏殿は出雲大社(の怨霊?)に遠慮して、敢えてそれより >少し小さく作った >・・・と言うような記述です。 ・・・とのことに寺院建築様式その他を用いて反論されています。 ですが、どうもご理解されていないようです。 小さく作ったことが「事実」であるとは 井沢先生は言っておられません。 手元に資料がないので正確には転写できないのですが、 「たとえこれが伝承であったとしても このように伝えられていたことが重要なのだ。」 つまり、「平安中期の人々が出雲大社は東大寺より 大きい、といっていた、信じていたことが重要なのだ。」と 井沢先生は「公称の身長」を例にとって述べておられます。 塔の高さうんぬんよりも、この「伝承」、口遊の存在自体に意味が 有るわけです。よって >「雲太、和二、京三」になるかも知れませんが、本当に >建築物の高さにそれ程 >の意味があったのでしょうか? >それならば、塔の高さについても遠慮があって然るべきかも >知れませんね。 遠慮はなくても構わないのです。 また、大国主が死ぬ時、アマテラス側は「大きな神殿を作り、 大きなしめ縄を結わえてあげよう。」という趣旨のことを 述べていたと思います。(これもうろ覚えなのですが・・・) よって、大国主の鎮魂のためには 出雲は何よりも(東大寺よりも)大きくなければならないのです。 つまり「口遊」の存在自体がオオクニヌシの怨霊の存在を 認める資料だと思うのです。 出雲大社はかつて奇妙なたてられかたをしていたという 伝承も有り、資料館にはその模型が飾られていました。 非常にバランスの悪そうな建築でした。 そこまでして出雲大社を高くする必要性はどこにあったのか? 少なくとも私は井沢先生以上の説得力を持った説を 寡聞にして知りません。 私はこれも怨霊信仰の傍証だと思います。 やはりKANAKさんには「逆説の日本史」を 一読して頂きたいと思います。どうも先生の説の意味するところを 基本的に間違えている、誤解している部分が 多すぎます。 Time : 1998/11/17(火) 11:58:33
Name : 輔住 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: 天智問題について私の意見を述べさせてもらいます。 私の意見をNiftyにUpしてもらってもOKです。 >例えば「扶桑略記」で云えば、上記のとおり皇円は基本的に「日本書紀」の記 >述を認めていますが、これについては書紀の権力迎合姿勢に追随したモノとし >て、一刀両断に切り捨て、異説のみ重視しておられるようですね。 >皇円の天智行方不明説を取るならば、同時に天武が天智の同腹弟であり、天智 >から後継者とされていたと言う皇円の歴史認識も認めるべきではないでしょう >か?(皇円の天武出自は極めて明快ですね) まず、私が天智暗殺説を支持してるからといって「扶桑略記」を100% 信じているわけではありません。「略記」のAという部分を信じているなら Bも信じろというのはおかしいと思います。 (もちろん「書紀」だってすべてを否定している分けではありません) 他の資料や天智の墓の場所などの問題などを含め考えると 「天智は暗殺された可能性が高い」と私は思うのです。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、天智系に皇位が移動する可能 >性はあり得ないでしょうし、仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとした >ら新たに権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にして >いたでしょうね。 天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが 詐欺まがいの手段を取ったからです。 そうでなければ天智系の復活はなかった。 天皇家は「万世一系」という建前があります。 だから「公式」に天武系の事業を全て否定するのは 難しいと思います。 その代わり「私的」な仏壇では天武系を排除しています。 Time : 1998/11/17(火) 12:32:50
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 御柱祭と出雲大社 Comments: NHKの「堂々日本史」で放映していたことをお伝えします。 あの番組は、ほぼ学会で認められている説を述べていますし、 思想的な見方を排除して、考古学的、実証主義的なので、 怨霊史観を丸々信じない人もあの番組の内容なら信じてくれると思います。 現在諏訪で行われている「御柱祭」は, 弥生時代に日本海沿岸全域で行われていたことが、 考古学的に実証されているそうです。 富山県にある遺跡によると、彼らは相当高度な建築技術を持っていたようで、 何本もの巨木を束ねて柱の強度をあげて、 数十mもの柱、あるいは出雲大社のようにてっぺんに神殿を点てていたようです。 建築学者が、このような方法ならば、伝説上の出雲大社を建設することは可能だといっていました。 「雲太、和二、京三」は事実かもしれないのです。 他ならぬ学者達が言っているのです。 そして出雲大社があった場所は、古代は入り江の入り口で、 巨大な神殿は見張り塔の役目もはたしていたといっていました。 敗者のモニュメントを破壊しないで鎮魂に用いるのが日本人の伝統ならば、 出雲大社はぴったりと当てはまるのです。 そして、学問のほうも非常にゆっくりとした足取りながらも、伝承を実証しつつあるのです。 Time : 1998/11/17(火) 13:47:47
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: あなたは、井沢先生の怨霊史観を売らんかなの商業主義と警戒しているようです。 私自身先生の作品は半分も読んでいませんが、 先生の意図をこのように理解しています。 日本人の考え方には、中国や西洋の思想だけでは説明しきれない部分がある。 特に「和」と「議論が下手」の2つは、日本人を日本人足らしめている性格のように見える。 この問題を追求したほとんど唯一の人として山本七平さんがいます。 山本七平さんの「日本人とは何か」(PHP文庫) イザヤ=ベンダサンの「日本人とユダヤ人」「日本教徒」 を読めば、日本人のこの性格は、日本人が「人間」を基本にした思想を持っているからだとわかります。 この場合「人間」は長所短所があります。 井沢先生が山本七平さんとイザヤ=ベンダサンに多大な影響を受けているのは間違いありません。 何故日本人は「和」を重んじ、「議論が下手」になったのだろうか? を、 井沢先生は日本の歴史から解明しようとしているのです。 人間を規制するものを「神」と呼ぶならば、 日本では何故「人間」と「言葉」が「神」になってしまうのか? 「人間」は「怨霊」となることによって「神」となり、 「言葉」は「言霊」となることによって「神」となって私たちを規制すると井沢先生は言いたいのです。 「逆説の日本史」の古代編だけを取り上げると、怪しい本になる可能性もありますが、 日本史全体で見た時に、「怨霊」と「言霊」がどう現在の私たちとつながるのか分かるはずです。 批判精神を持って本を読むのは非常に大切なことだと思います。 ただ、井沢先生は決して「怪しい」人でも「金の亡者」でもないことはわかって欲しいです。 それに、私は「商業主義」は悪いことではないと思いますよ。 Time : 1998/11/17(火) 14:15:30
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 承前 Comments: 時間がなかったので、分けてかこうと思っていたら、 あっという間に次々と意見が出ていたので驚きました。 安部様のご意見は非常に興味深い話で、わくわくしました。 石井様のご意見はまさに次に述べようと思っていた意見を より的確に述べておられますし、輔住様の言おうとなさっている ことも小生と同じです。 特に輔住様が言及された部分は問題の多い個所と存じます。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 この感覚はおよそ歴史に関わっている方のものとは小生には思えません。 この伝でいくと人類の歴史に戦争や略奪はありえないと思いますが・・・。 >仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとしたら新たに >権力を得た桓武は(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を >焚書にしていたでしょうね。 といわれる点が、石井様がもっとちゃんと「逆説の日本史」を お読みくださいといわれるゆえんの一つと思われます。 万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」 であるような「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが 残っている理由はどう説明するのでしょう。 出雲大社もとりこわしになったはずです。 このような「あやふやな説」を根拠にして >要するにそんなモノは小林氏とそれを利用した井沢氏の >意図的(敢えて云えば商業的)空想の産物に過ぎないと >思いますが・・・・如何でしょう? という中傷紛いの文章を平気でこの場に載せられるのが、 (しかも著書を十分読んでいない段階で) 志田様がNiftyも含め、憤慨なさっている理由ではないでしょうか? このマナーの件に関しては、小生はかなり紙面を使いすぎたので 黙っていたのですが、やはり一言くぎをさすべきだと思い直しました。 大島様が他人の意見を引用するのとは違って、ご本人が自説を 述べられているのですから、さまざまなことを考慮した「現在の」 KANAK様のご意見として、書き直されるべきと思います。 Time : 1998/11/17(火) 15:01:05
Name : きんたろう E-mail : Title : 管理人様へ Comments: 今回の事、どうもありがとうございました。 そうですか、上海の方でも同じような建築物が存在するのですね。また韓国でも そうだということですか。 まだ自分の中でよくイメージとして確立していないのですが、すると鳥居(のような形のもの) はおそらく東南アジア一帯に存在するということだと思われますね。 だとすると古代人というのは、私が想像していたよりもかなり広範囲にわたって 活動をしていたという事なのでしょう。 そして今で言うところの国際的な社会が形成されていた。 何か考えているだけでわくわくしてきました。 私は昔凱旋門を見て、その規模は比較になりませんが、 鳥居に似ていると思ったことがありました。 ただ、ヨーロッパと日本ですからそれらに関連性はあるとは思えませんでしたが、 どうしてああいった門が、大勝利のモニュメントとして意味されたのか疑問でした。 もう少し考えがまとまったらまた書こうと思います。 今回はどうもありがとうございました。 Time : 1998/11/17(火) 18:56:34
Name : KANAK E-mail : same Title : 「逆説の日本史2」ご意見有り難うございます Comments: みなさん、今日は・・・KANAKです。 流星群の影響か、私のオンボロPCが変調をきたし? 昨夜はUP不能となりましたのでNIFTYとテレコになってしまいましたが、 社員の目を盗んで時間中UPいたします。 いろいろと貴重なご意見ありがとうございます。 <(_ _)>ペコ みなさんのご意見に関しては、順次お答えいたしたいと存じますが・・・ 何しろ喰わんがための仕事を抱えていますので、少し時間がかかるかも知れま せんが、何卒ご了承願います。(>_<;) なお、既に申し上げたとおり、私は全てNIFTY上でコメントするつもりですが、 現在掲載されているご意見で転載不可とされる方はいらっしゃいませんね? 順不同で随時転載いたしますので、予めお含み置き願います。 なお、石井さん(お久しぶりです)にお願いいたします・・・ 現時点では、私も「逆説の日本史」1・2を所持いたしておりますので、ご指 摘にさいしては原則として井沢さんの著書をご確認頂けないでしょうか? 「小さく作ったことが「事実」であるとは井沢先生は言っておられません。」 とのことですが、私にはその様には読みとれません。(修飾語の多い、分かり にくい文章ですが・・・私の読解力不足でしょうか?) 特にP483「東大寺大仏殿が一丈だけ出雲大社に”遠慮”した謎」以降の記述を ご参照頂ければ幸いです。 続いてJF生さんに申し上げます・・・四拍手問題は極力本日NIFTYで回答する つもりです。(倭姫挽歌問題は少し遅れますが、追って回答致します) ただ、輔住さんコメント及び「承前」については、取り敢えず以下で回答致し ます。 >>天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが詐欺まがいの手段を取っ >>たからです。そうでなければ天智系の復活はなかった。 ・・・ですよね、とすれば重臣の陰謀で異姓王朝の転覆(復辟)が実現したと お思いなのでしょうか? 易姓革命とは全く次元の異なる親族間の皇位継承争いが如実に示されており、 コレコソが天武系・天智系が同一王朝であり、双方がほぼ拮抗した皇位継承権 を有していた証拠だとはお考え頂けないのでしょうか? ところで、JF生さんには失礼ですが・・・ >>この感覚はおよそ歴史に関わっている方のものとは小生には思えません。 >>この伝でいくと人類の歴史に戦争や略奪はありえないと思いますが・・・。 この様なツッコミはご勘弁願います。私の真意は上記のとおり・・・ ”天武系から天智系の皇位移動には革命・争乱的要素は全く見られない” ことを述べたのであって、人類の争乱の歴史を述べたモノでは無いことは明白 でしょう? >>万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」であるような >>「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが残っている理由はどう説明する >>のでしょう。 私は、唐・新羅・渤海等に対する国威発揚と、天皇家のレヂティマシー確立を 目的とした神国思想的「正史」のことを申し上げているのであって、「文学書」 と同一次元でご理解頂いては困ります。 ・・・こういった議論は正直言って疲れてしまいますね(^^;) では、また! Time : 1998/11/18(水) 10:20:07
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : KANAKさんへ Comments: どうも話がかみ合っていないようです。 出来れば、あなたの歴史の見方の基本になっているような本や、著作者を 改めてお教え願えないでしょうか? 共通な立地点がないと議論が進まないと思うので、 私は、あなたの歴史の見方も勉強したいと思います。 もしもそちらの方が正しいとなれば、 私も宗旨替えをすることもあるかもしれません。 しかし、今のままでは、お互い平行線のままだと思います。 ですから、あなたの薦める本や著作カを是非教えて下さい。 Time : 1998/11/18(水) 10:50:33
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 古典文学と歴史 Comments: 井沢先生は、物語は「物の怪」の「もの」 つまり、「怨霊」を語ることによって鎮魂する祈祷書のようなものだ、 したがって、「物語(古典文学)」には、正史に隠された真実がある、 という考えを「逆説の日本史」の根拠にしています。 ですからKANAKAさん 「正史」と「文学」を同レベルで語ってはいけないとおっしゃるならば、 私たちと議論そのものが成り立たないことになってしまいます。 それとも、もっと根本的な、 井沢先生の歴史解明の方法自体について議論するつもりなのでしょうか? ですから、このままでは「議論にならないから、回答を拒否する」という いやあな事態を招来しかねません。 Time : 1998/11/18(水) 11:05:44
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments: すばやく安部様が反応されましたので、言うことがなくなって しまいましたが、安部様のおっしゃる通りです。 どうも多面的に検討されずに、ごく限られた一面のみしか 考慮されていないのは、KANAK様御自身と思われます。 再度質問しますが、 >”天武系から天智系の皇位移動には革命・争乱的要素は >全く見られない” を主張しておられるのは分かりますが、 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 という文章はどう論理的に解釈すればよいのでしょうか? 典型的なIF−THEN型の文章で、因果関係を述べているようにしか 読めないのですが、とりあえず、この点だけ質問します。 Time : 1998/11/18(水) 12:10:16
Name : 輔住 E-mail : Title : 私が言いたかったこと... Comments: KANAKさんへ: ご返答どうもありがとうございます。 しかし私の真意が伝わったとは思えません。 私が前回 >天智系の光仁が即位できたのは藤原永手や百川らが >詐欺まがいの手段を取ったからです。 >そうでなければ天智系の復活はなかった。 このように書いたのは当時の常識から言えば 「天智系の復活」など考えられなかった。 一種の革命だったと言いたかったのです。 「逆説の日本史」1巻と2巻はお持ちのようですが、 他の巻も読んでほしいと思います。 (特に桓武天皇の第3巻は是非) 安部奈亮さんへ: いつも議論のことで心配かけてしまってますね!ありがとうございます。 Time : 1998/11/18(水) 12:30:29
Name : 石井一旭 E-mail : Title : お詫びと訂正 Comments: KANAKさんへ。 前回の私の文章ですが、思い切り誤った部分がありました。 「小さく作ったことが事実とはいっていない」というのは大間違いです。 私がいいたかったのは、「出雲大社が事実東大寺より小さくても 問題ではない。」ということです。 「全然違うじゃないか!!」と怒られても、仕方のないミスだと反省しております。 KANAKさんはじめみなさまに ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫びいたします。 そこでもう一度、私の意見を集約したいと思います。 今度は「逆説の日本史」(ただし文庫版ですが。)を手元に置いて 問題の箇所を提示させていただきます。 文庫版で1巻の184ページから、題名は 「十七条憲法と日本の三大建築物の『大きさ』」です。 「・・・こういう反論もあるかもしれない。 『出雲大社が日本で一番大きな(背の高い)建物というが、それは単なる言い伝えではないか。 出雲大社程度の床面積の建物が十六丈もの高さを持つことは、構造上無理があり、 おそらくそれは単なる伝説で、実際には東大寺大仏殿の方が常に一番大きな建物だったのだろう。 それゆえ井沢の主張は成立しない・・・。』と。(略) しかし、それでも、私の理論は崩れないのである。なぜなら、 実際の高さと「公称」の高さは違うものだからだ。(略) そして、『出雲大社が一番で東大寺より大きい』と、一般の人々が 『信じていた』ことは、『口遊』で証明できるのである。(略) ここではっきり言えることは、平安時代の学者が『出雲大社は東大寺よりも大きい』と信じていた、 ということだ。(略) 当時は、一般に広く、そう信じられていたことの、なによりの証拠だろう。 そして、『信じている』以上、それは『事実』なのである。その『事実』によって人々は影響されるのであって、 『実際には東大寺の方が大きい』という『真実(?)』に影響されるのではない。 霊と同じだ。人は『霊など存在しない』という『真実(?)』に動かされるのではなく、 『霊は存在すると信じる』という『事実』に動かされるのである。」 以上です。 つまり重要なのは「当時の人々が(貴族から子供まで)出雲大社は東大寺より大きい」と 「信じていた」ことなのです。 この場合、実際に両者の大きさがどうであろうと関係ありません。 そう「信じている」以上、それが「事実」である訳ですし、また「事実」として 世間一般に知れ渡っていたのです。 よって、井沢論にたいして、建築物云々で反論することは無意味ということです。 Time : 1998/11/19(木) 00:15:44
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(2)NIFTY発言-A転載 Comments: 井沢さん、HPのみなさん、今日は・・・KANAKです。 私のオンボロPCの不調(HPが文字化けして受発信が出来ません)が続いて いますので、ご回答が遅れていますが・・・ご了承願います。 以下にNIFTY発言を転載いたします。 11/17 #2268 RE:^A「逆説の日本史2」四拍手問題 先般、伊沢さんHPに 11/10 #2245「逆説の日本史2」四拍手問題 05/05 #1388 RE^9壬申の乱について教えて下さい・・万葉集補足 05/06 #1396 RE^10 同・・・万葉集補足・天武出自問題 05/10 #1411 RE^11 同・・・大仏殿・万葉集問題補足 を掲載いたしましたが、それに対し大阪JF生さん他からコメントがありまし たので以下にご紹介いたします。 (もう一名の志田さんについては掲載了解の依頼中です) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 当時4=死でないというのは、遣唐使の船の数が根拠で、4拍手が一般的だっ たのことですが、それなら現在はなぜ2拍手中心になってしまったのか、史料 的に何か裏付けがとれるのでしょうか?正確には、志田様がおっしゃるように どの程度まで、4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思い ますので、多くの時間を要すると思いますが、 Time : 1998/11/17(火) 09:56:05 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以下に私の考えを申し上げます。 まず、坂本氏批判における「四と死」の関係については別途#2257で熊谷さんか らもご指摘いただきましたが・・・完全に私の手抜きによるもので、みなさん にご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。 (言い訳になりますが・・私は後段の「四拍手の由来」を重視しておりました。) あらためて、以下に坂本批判における該当部分を再録いたします(11/15#2265) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「・・中国古代においても、四神、四宝、四善、四器、四聖など、大体佳事と 考えてよいものに四を用いた例が多い。(各の説明省略 K)書籍を分類して 四部とし、それを蔵する所を四庫といい、『礼記』を抜粋して四書を選び、大 学につぐ学校として四門学をおく。四を忌避した様子は全くない。 日本でも崇神紀の四道将軍、仲哀紀の四大夫、応神紀の工女四婦女、天智紀の 四嬪・四宮人などは『日本書紀』で自由に四の字を用いている例である。 遣唐使が・・(既出により省略 K)。 『万葉集』でも字音仮名として、四の文字を使っている例が多い。 ・・・「大和にしては」原文「倭尓四手者」とある。 ・・・「朝夕にして」・・原文は「朝夕四天」とある。 ・・・「君無しにして」・・原文は「君無二四天」である。 ・・・「家にして」・・原文は「家二四天」である。 ・・・「侘びそしにける」・・原文は「和備曾四二結類」である。 ・・・「気の緒にして」・・原文は「気緒尓四而」とある。 『万葉集』の歌人たちには、四は死と連なるような不吉な文字だという思想は いささかもなかったことがこれらの例でわかる。・・・」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は、梅原・伊沢説における「四と死」の語呂合わせについては、ほぼ十分な 「反証」であると考えています。 さらに(既出)後段の『儀式』巻三践祚大嘗祭儀・『日本後記』延暦十八年の 条・『北山抄=本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』によって四拝(拍手)が 古式であったこと、略儀として二拍手に移行したことも殆ど立証されていると 考えます。 また、坂本氏は触れておられませんが、HPで発表のあった「弥彦神社」 「伊勢神宮=正式には四拝重礼?」の例もある意味ではこれを裏付けるものだ と理解しています。 ただ、大阪JF生さんのご指摘にある・・・ >>4拍手がすたれているのかデータをとらないとだめだとも思いますので、 等についてはさらに検証の必要があるかもしれませんね。 しかし、私がまず井沢さんに申し上げたいのは、 ”何故このような「梅原=四拍手説」に対する明白な「坂本氏批判」を無視さ れたのですか?” ・・・と言うことなのです。 私は、大阪JF生さんが「伊沢反論がある筈・・・」と仰ったときに、正直言 って救われた気がしました。少なくとも古代史研究者の良心として、一般読者 に対する義務として・・・坂本批判を無視して「四拍手問題」を論ずることは あり得ないと信じたかったからです。 (例え井沢さんが見当違いの批判だと考えられたとしても・・・です。 一般読者が「坂本説」を参照することは殆ど不可能に近いことでしょう。 私が微かな記憶を頼りに「坂本説」にたどり着くため、図書館の検索機を十回 近く叩いたのですから・・・・殆どの読者は「坂本批判」等は知らないままで、 「梅原・井沢=四拍手説」を理解してしまうのではないでしょうか?) 私は、新たな史論の発展は先行説を「無視」することではなく、「論破」する ことでのみ遂げられるものだと考えています。 坂本氏は「法隆寺怨霊寺説について(二)」論文を発表されるに当たり次の様 に記述されています。 「法隆寺怨霊寺説について(一)は、『隠された十字架』に対する、史家とし ての最小限度の反論である。誰も議論の余地はあるまいと思う部分について述 べただけである。しかし、書中にはなお史料の誤読や、認識の付会が各所に存 在する。一々アラを挙げるのは本意でないが、一般読書人にそれが事実と受取 られるのは宜しくないと思うので、その若干を付け加える。」 この気持ちがお分かり頂けるなら、今からでも遅くは有りません。井沢さんご 自身が、正々堂々と真正面から「坂本氏批判」を取り上げ「論破」されんこと を切望いたします。 98/11/17 なお、倭姫皇后挽歌については別途申し上げます・・・ Time : 1998/11/19(木) 09:37:26
Name : KANAK E-mail : SAME Title : 「逆説の日本史2」(3)易姓革命問題等 Comments: 井沢さん、みなさん、今日は・・・KANAKです。 以下11/18発信予定でしたが、PC不調のため遅延しました。 (石井さん、率直なご意見に敬意を表します。あらためて回答させて頂きます が、宿題が多いモノで少しお待ち下さい)) 昨夜は、幻の大流星群を寒さこらえて見上げていましたので、今夜は早寝です。 それでは、早速ですが 安部さん11/18 10:50ご質問に関して・・・ >>出来れば、あなたの歴史の見方の基本になっているような本や、著作者を改め >>てお教え願えないでしょうか?共通な立地点がないと議論が進まないと思うの >>で、 私は、特定の教義・史観・学説にとらわれず、如何にお粗末であっても私自身の 判断で、歴史を考察したいと考えております。従ってあらゆる方が私の教師であ り反面教師です。ただ敢えて反面教師を挙げれば・・・八切氏・小林氏・大和氏 ・鹿嶋氏等でしょう。(ご要望に沿えず申し訳ありません) なお念のため申し上げますが、私は坂本氏に対しても疑問点は持っていますし、 当然ながら井沢さんのご意見に全面的に賛同する部分もあります。 例えば・・・井沢さんは小林氏の天武=淵蓋蘇文等の外国人説を批判されていま すが(P380)論旨は尤もであり、当時の国際情勢・国内事情・諸史料等を少しで も考察したものならば、当然至るべき結論だと思っています。 さらに、私は現在の議論がかみ合っていないとは考えておりません。私たちの共 通の立地点は・・・「井沢説」を土台として、我々に与えられた諸史料をより整 合的に解釈し、少しでも歴史の真実に近づくべく切磋琢磨しあうことではないで しょうか? 同じく 11:05 ご意見に関して・・・ >>「正史」と「文学」を同レベルで語ってはいけないとおっしゃるならば、 >>私たちと議論そのものが成り立たないことになってしまいます。 私は「文学書」の史料価値を些かも否定するものでは有りません。 だからこそ、天智死亡に関する倭姫その他の万葉挽歌を引用したのです。 この部分はあくまでも・・・ >仮に権力抗争により天武系が皇位を失ったとしたら新たに権力を得た桓武は >(新)日本紀を選集し、「日本書紀」を焚書にしていたでしょうね。 >>万葉集にも「犯罪者」が堂々と関っていたり、露骨に「反藤原」であるような >>「源氏物語」が藤原氏の側で書かれ、それらが残っている理由はどう説明する >>のでしょう。 と言う議論において「正史」と「文学作品」ではその制作目的(特に政治的意 味合)が異なることを述べたものなのですが、言葉足らずだったでしょうか? 大阪JF生さんご質問に関して・・・次のとおり分解して下さい。 >仮に天智・天武系の深刻な対立があったならば、 >天智系に皇位が移動する可能性はあり得ないでしょうし、 >>という文章はどう論理的に解釈すればよいのでしょうか? 1.IF 仮に異姓者「天武」が前王朝皇帝「天智」を暗殺し、その後継者 「弘文」を放伐する事で易姓革命を成し遂げたとした場合・・・ 2.THEN 前王朝皇帝直系孫と「天武」の後継者(天武王朝の皇帝)は不 倶戴天の仇敵になる筈です。(中国ならば当然にして一族抹殺でしょうね) 3.AND その天武王朝を転覆し、前王朝の直系孫が復辟(逆易姓革命)に成 功すると云うことは 「前漢」→「新」→「後漢」に匹敵する大事件でし ょう。 4.SO 従って天武王朝は「壬申の乱」に匹敵する大争乱を以て抵抗しても 何の不思議もない事態です。 5.BUT しかしながら、タカダカ天武王朝重臣の詐欺まがいの手段で易々 と皇位は前王朝の直系孫に移動したのです。 このHPに参加されておられる皆さんは、本当にこれが前王朝から天武王朝へ の易姓革命、そして天武王朝から前王朝への「逆易姓革命」だと仰るのでしょ うか? 私にはどう考えても同一王朝内部の皇位継承を巡るゴタゴタ程度にしか思えな いのですが(要するに「南北朝」と称する「大覚寺・持明院」の皇統争いを越 えるモノではないと思うのです。) 井沢さん・・・本当のところ貴方はどの様にお考えなのでしょうか? Time : 1998/11/19(木) 10:03:23
Name : 石井一旭 E-mail : Title : KANAK説の疑問 Comments: KANAKさんのお考えはよくわかりましたが、 どうも腑に落ちない点があるので再度反論いたします。 >2.THEN 前王朝皇帝直系孫と「天武」の後継者(天武王朝の皇帝)は不 >倶戴天の仇敵になる筈です。(中国ならば当然にして一族抹殺でしょうね) >4.SO 従って天武王朝は「壬申の乱」に匹敵する大争乱を以て抵抗しても >何の不思議もない事態です。 それはもちろん、外敵侵入が日常茶飯事である中国ならば 「一族でさえも同罪と見なし」抹殺するでしょう。しかしこれは日本の話ですよ? それに天武王朝は、「道鏡事件」などで、強引な政策を連発した天智天皇のごとく 一般の支持を失っていたと思います。 その証拠に称徳女帝に取り立てられて大出世を果たした吉備真備すら、 最後には女帝の意志に反する行動・・・すなわち「道鏡天皇化排斥」運動(?)に 荷担しています。 (また、女帝薨去時には、東大寺をはじめとする「軍事部門」はすべて藤原氏及び 真備に押さえられていました。天武側が先手をとられた、あなたの説でいえば そういうことになります。) 寵臣ですら裏切ってしまう王朝・・・どう考えても広範な支持を得ているとは思えません。 そして豪族、ひいては民衆の支持がない限り、復活した天智王朝に弓を引くことはできませんよね。 現に天智朝は東国の豪族の力で倒されました。 >5.BUT しかしながら、タカダカ天武王朝重臣の詐欺まがいの手段で易々 >と皇位は前王朝の直系孫に移動したのです。 これも、人々が天武王朝に嫌気がさしていたことが原因の一つと考えています。 聖武天皇は財政逼迫も省みず遷都を繰り返し世界最大の大仏を建て、 称徳天皇は「日本独自のルール」を破って道鏡に位を譲り、「皇帝制」への移行を 試みるなど、(そしてそこに至る手段も独善的かつ強引なものです。) 仏教信者などの視点から見れば「日本の旧威泰然たる殻を破った善政」かもしれませんが、一般にしてみれば 「財政逼迫の悪政」でしかありません。 豪族階級とて同様でしょう。藤原氏をはじめとする彼らは「天皇制」あっての 権力者なわけで、称徳の実現せんとする道鏡天皇が実現したならば必ず来るだろう「実力本位主義」「貴族政の崩壊」 (天皇が血統に縛られていないわけですから、当然そうなるでしょう。) に対しては非常に抵抗を示すはずです。 こんな状態で政権に反乱が起こせますか? まして中国ならまだしも、ここは日本です。「九族皆殺し」のあり得ない世界です。 一族であれば命までは取られはしません。現に天智の子孫は生き残っています。どころか「王」として存在しています。 前王朝の生き残りがいること自体が中国と日本の違いを示しているとは思いませんか? 天武王朝の生き残りはそれらをふまえた上で、あえて「生き残る」方を選んだのでは ないでしょうか。 あるいは、これは私個人の考えなのですが、天武王朝は自らの編纂した「日本書紀」に 束縛されたのではないでしょうか? そこには「天智と天武は兄弟だ。」と、明記されています。 つまり、「天智と天武は兄弟なんだから、白壁王にも皇位継承権がある。」ことになります。 これがもし書紀に「天武は革命を起こして天智王朝に取って代わった。」と書かれていたなら、 天智王朝にはけっして皇位は回ってこなかったでしょう。 ところが「兄弟」としたがために表面的には「易姓革命」ではなくなったわけです。 しかもそのことを示す記録を書いたのは他ならぬ彼ら天武王朝側です。 ですから天武側には白壁王即位に反対する「大義名分」がないことになりますよね。 (「大義名分」は後世明代の言葉ですが、他に適当な言葉が見つからなかったので やむを得ずこうしました。) よって、 1,貴族から民衆まで、支持を得ていない。 2,天智、天武が「兄弟」である以上白壁王即位に反対する理由がない。 3,称徳の「遺言」という形で継承者が決まっている。(つまり天皇の遺志である。) 4,軍事はすべて「反称徳派」に握られている。 ここまで多くの障害があっては、天智王朝への「反乱」どころではないと 思うのですが・・・。 Time : 1998/11/19(木) 11:23:46
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : KANAK様へ Comments: まず、小生の質問に対し、真摯な態度でご回答いただいたこと、 お礼申し上げます。貴方がいいたかったことはよく分かりました。 ただし、4に関しては可能性の問題で、実際にそうならなくても 不思議ではないと思っていますので、この点のみ見解は違います。 したがって、結論も異なってきます。 決着のつかない問題は、これからもあって当然と思いますし、 その過程における議論は、無駄にならないと考えていますので、 今回のやり取りは、小生にとって有益でした。 ただ、このようにかなり説明されないとよくわからない部分が ありますので、今後もよろしくお願いします。 それで別の問題で質問しますが