Name    : 輔住
E-mail  : 
Title   : 関ヶ原後
Comments:
Toshyさん、みなさんこんにちは。

確かに秀頼が関白になれば
東の徳川、西の豊臣というようになったかも
しれません。でも現実に関ヶ原後にその可能性は
ないと思います。関ケ原の3年後、家康が
征夷大将軍になったことから考えて
朝廷も徳川に逆らえないと思えます。

Time    : 1999/ 4/ 1(木) 08:56:49

Name : 勇者ロト E-mail : Title : 徳川政権の確立 Comments: ふぉーらむにお集まりの皆様お久しぶりです。 徳川家が天下を取れた理由は信長、秀吉と同じく戦闘の勝利がその絶対的条件でし た。前政権と違って「家」として天下に号令できるシステムをつくる事ができたの が徳川政権=徳川家=幕府が代々にわたって天下を治められた理由ではないでしょ うか?信長と秀吉はある程度の領土を広げたあと政権の存続に関する法律というも のを作る余裕がなかったのではないでしょうか?圧倒的武力という面だけでは、 秀吉も信長も同じであったでしょう。 それと家康が生きている内に3代目家光が生まれていたという事は見落とせません 。 権力者本人が死んでも、または引退しても「征夷大将軍」という位を世襲出来る ものとして早々に秀忠に位を譲った事が徳川政権確立の第一歩だったのです。 秀忠も同じ方式で家光に位を譲りました。これが関白となると朝廷の抵抗はあった でしょう。不吉な「武」を扱う将軍であったからこそ朝廷は世襲を許可したのでは ないでしょうか?関白では天皇と血縁を重ねていく確立が高くなり、公家達が権益 をまもるためいろいろな策謀を繰り返したと思います。公家にとっても関白という 「公家の頂点」を武家に奪われるというのは、いくら相手が実力があっても、好ま しい事ではなかったでしょう。 もし家康が死ぬまでに秀忠に位を譲れなかったら、戦国の世はまだまだつづいた かもしれません。また家光の即位が遅くても混乱はあったでしょう。 ながながとすみませんでした。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 11:15:57
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天海と光秀 Comments: つづけてお邪魔します。天海僧正と明智光秀が同一人物であるという説について ご意見いただけないでしょうか?この話はあまり詳しくないのでなんでそういう 説ができたか?ということについてもお教えねがえたら幸いです。 よろしくお願いします。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 11:34:55
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 関ヶ原の戦い Comments: Toshyさん初めまして。 先日の書き込み >関ケ原の時点では、東軍が必ず勝つという保証もなかったわけだし、むしろ西軍 >のほうが兵力は上回っていましたから。 をみて私なりに考えてみたのですが、西軍は確かに兵力的に家康軍(というのが 本当でしょう)を上回っていましたが、その実体は、毛利(吉川)、小早川と いった「主力」たちに家康側の策略が及んでおり、また島津、上杉のように動静の はっきりしない大名も含まれており、その総合的な実力、志気は「三成憎し」で 固まっている家康軍より低いものだったと思います。 余談ですが、明治になってから関ヶ原の戦いの図面を見せられた ドイツの専門家は即座に「西軍の勝ち」と判断し、東軍の勝利という事実を 信じなかったそうです。そこで日本側が、謀略によって勝ったのだと教えると、 それならば話は別だ、と言ったそうです。  つまり、表面的には、陣形の面でも兵力の面でも西軍は有利でしたが、(この点 三成の軍事指揮能力も捨てたものではありません)実質、その戦力は「空洞」 だったと私は考えます。  必死にバラバラな戦力をまとめ上げ、「勝った」と思っている三成を 家康はもっと高いところから悠々と見下ろしていたような光景が目に浮かびます。  (もっとも、戦いに「絶対、100%」なんて事はないでしょうが・・・) Time : 1999/ 4/ 1(木) 12:06:49
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 秀吉の天才 Comments: 豊臣家が何故ああもあっけなく滅ぼされたのか、ですが、「豊臣家」という ものの性質が「天才による政権」であったためと考えられないでしょうか? 豊臣家はその前身とも言える織田政権ほどではないにせよ、秀吉という 一人の権力者に全てが集中する独裁政権でした。 つまり豊臣政権は秀吉の死とともに終わってしまう性質を元来持っていたのです。 跡継ぎの幼い秀頼に天才の後釜を期待するのは、どだい無理なことだったのです。 たとえ彼に秀吉並の器量があったとしても。 一方の徳川は「譜代」があれほど重用されていたことから見て分かるように、 「合議制」の性質を多分に有していました。家康が朝鮮出兵における秀吉のような 独裁者であったことはありませんでした。 「独裁者を嫌う」日本人の性質からしても、「天才の芸術作品」である秀吉の 天下よりも、徳川型の「農村的な」寄合政権の方が落ち着けたのでしょう。 固まらない私見をつらつらと書き連ねてしまいました。 見苦しいところもあるでしょうが、適当に読んでやって下されば幸いです。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 13:03:18
Name : 輔住 E-mail : Title : 東軍と西軍 Comments: 石井さんお久しぶりです。 確かに西軍は寄り合い所帯ですが、 東軍も似たようなものです。 大津城が早く開場して輝元が 関ケ原に来ていれば吉川広家も裏切らないと思うし、 秀頼が出陣していれば福島や浅野などが 裏切ったかもしれません。 そういう意味でどっちが勝ってもおかしくはないと 思います。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 16:23:56
Name : 輔住 E-mail : Title : 光秀 = 天海説への意見 Comments: 勇者ロトさん、みなさんこんにちは。 明智光秀=天海説を信じているわけではありませんが、 春日局(光秀の家臣の斎藤利光の娘)が権力者になったため (なにかコネがあるとみて?)そのような説が出たのではないでしょうか? Time : 1999/ 4/ 1(木) 16:54:15
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: 石井一旭さん、はじめまして。 >島津、上杉のように動静のはっきりしない大名も含まれており おっしゃる通りです。ちょっと私のほうも「兵力」という点だけを述べ、片手落ち な文になっていました。すみません。 また輔住さんの言われる「輝元が」という論、石井さんのご指摘のように家康の謀 略、というところで、三成の作戦が封じられていたというべきです。 が。 輔住さんの、「東軍も似たようなものです。」これもしかり。 東軍は「三成憎し」の感情が吹き出て、ほとんどの兵が伊吹山方面に偏っています 。松尾山方面はがら空き。小早川がここに突進していれば、西軍のほうが勝ってい ました。 小早川が裏切る、裏切らないはぎりぎりまで不明で、やはり輔住さんおっしゃる「 どっちが勝ってもおかしくはない」に、私は賛成します。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 17:50:09
Name : きんたろう E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: 山口さん、Toshyさん、輔住さん、勇者ロトさん、石井さん、こんばんは。 私も参加させて下さい。 「関ヶ原の戦い」は西軍東軍の各配置を考えると、西軍の勝利間違いなしと看破さ れたのは有名な話ですが、これはその通りに解釈すべきではないのかと思います。 私たちは歴史の結果を知っていますから、どうしてもそこから判断しがちになって しまいます。しかし、当事者達にとっては知りようの無い事なのです。 もし小早川軍が西軍として東軍に向かって戦いさえすれば、恐らく戦局は西軍有利 になったのは間違いのないところです。 そうなれば日和見だった毛利や島津にしても全力を挙げて東軍に立ち向かったはず です。吉川にしても本家と戦うことは考えられませんので、西軍に寝返ったかも知 れません。 「関ヶ原」は逆に西軍の勝利だった可能性の方が高いと思います。 キャスティングボードというにはあまりにも大きなポジションに小早川はいたのだ と思います。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 18:43:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 秀吉 Comments: 石井さん、こんばんは。 秀吉は天才だったことは間違いのないところだと思います。彼は先生である超天才 の信長の直伝の弟子でした。 現代でもそうですが「天才」を凡人は理解することがなかなか出来ません。これは いつの時代でも真理だと思います。 秀吉の最大の失敗は「朝鮮」と「子供がいなかった」事だといわれています。 「子供」は天の授かり物ですから仕方ありませんが、「朝鮮」についてはどうなの かなと思います。 この出兵には三成や他の武将の反対でした。確かに秀吉の無知から来る誇大妄想の ような印象を受けます。 しかし、本当にそうなのでしょうか。 いかに秀吉が独裁者であっても5年もの間20万人以上の人員を派遣することが果 たして個人だけの力で遂行することが可能なのでしょうか。 そこには原因が存在するはずだと思います。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 19:07:35
Name : きんたろう E-mail : Title : 天海? Comments: 勇者ロトさん、こんばんは。 この説は「家康陰謀説」と絡み合った説だった?ような気がします。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 19:14:23
Name : Toshy E-mail : Title : 関白 Comments: みなさんこんにちは。今日は書き込みが多いですね。 秀頼の関白、ですが、これはありえない話ではなかったようです。年の初めには朝 廷から勅使が遣わされていたようだし、摂政家もあいさつを欠かさなかったといい ます。 豊臣家は江戸城普請から免れていたことは、徳川による幕藩政治の外にあった証拠 で、「摂政関白」と「将軍」二つの公儀が並列していたのです。 なお、秀頼も秀忠も、ともに中納言大納言右将軍という官位を得ていますが、つね に秀頼が先行していました。上杉毛利といった外様の大大名は、豊臣家にまずあい さつし、そして徳川家という順を守っています。 朝廷としては徳川と豊臣の力のバランスを取って、徳川が強大になるのを防ごうと していた可能性があります。が・・・・・ Time : 1999/ 4/ 1(木) 19:58:11
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天才は天災? Comments: 今気がつきました。今日は四月馬鹿の日でしたね。 みなさんいい嘘つけましたか?いい嘘ってどんな嘘や! 秀吉が天才だったから豊臣家はうけいれられなかったなら、どうして秀吉は天寿を 全うしたのでしょう? 信長のようにクーデターで政権を奪われたならその考えも納得できますが、どうも そうではないようです。どうしてもそう考えるなら、三成が天才だったのでしょう 三成自身も朝鮮出兵に積極的だったのでしょうか? 豊臣家への忠誠心自体は東軍も西軍も同じ程度だったと思います。 違ったのは、三成と家康だけだったのではないでしょうか? 秀頼は公家でもなく武家でもないという中途半端な立場でした。 Toshyさんがあげられた挨拶の順番は初めて知りましたが、徳川幕府に参加した 外様大名は関ヶ原が終わったあとでもまだ天下の帰趨は決まらないとふんでいたの でしょうね。外様大名が豊臣への挨拶をしないか、徳川に先に挨拶する事を徹底す れば、大阪の陣はなかったかもしれません。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 20:47:00
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天海僧正 Comments: きんたろうさん、輔住さん回答ありがとうございます。 お二人ともこの説には否定的なんでしょうか? 義経がモンゴルに渡ったというのと同じようなものなんでしょうか? 本当なら面白いのですが。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 20:53:37
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 関ヶ原論 Comments:  確かに私も、小早川が西軍として参戦していたら、関ヶ原は西軍の勝利に 終わったものと思います。1万2千の兵力を有する小早川が松尾山から駆け下り てきた場合、元々押され気味だった東軍は総崩れを起こした可能性もあります。 そうなればいかに「海道一の弓取り」家康とても混乱収拾は不可能だった でしょう。総崩れになった軍勢の建て直しは戦闘中最も指揮官が恐れることで、 まして「寄せ集め」の東軍では・・・というわけです。 毛利や吉川あたりも動き出し、東軍は包囲され殲滅されたかも知れません。  しかし、勝者がどちらかというのは「可能性」の問題であると言うより、 家康と三成、両者の戦いに対するスケールの違いの問題だと私は思います。  家康は毛利に対して吉川広家を使ったように、島津やその他多数の有力大小名に 接近、懐柔する政策を秀吉の没後から進めていました。例として加賀の前田などは 利家があれほど家康の対抗馬として権力を保っていたというのに、 利家の子の利長に至って完全に家康に「征服」されてしまいました。 島津などもはじめは東軍について伏見城に籠もるつもりが、鳥居元忠に追い 返されて仕方なく西軍に加わったという事情があったそうです。 このように、戦う以前から家康は手を打っていたのです。  対する三成の方は、小早川に対してはある程度の警戒をしていたものの、 吉川や大坂留守の長束らが家康に心を捕まれていることを知っていたかというと、 これは無警戒で、知らなかったのです。  三成の戦略は、確かに図面上では見事な作戦でした。官僚としての三成の 優秀であったことを示す何よりの証拠でしょう。しかし、そこには 純粋な「兵力」の大きさそれ自体しか描かれていなかったのです。 家康の地図には更に大きなもの、すなわち人間の心理、関係を鋭く突いた 「大戦略」がありました。  その点において、関ヶ原という戦場は家康が三成を既に圧倒しており、 またそこが家康の勝利という結果につながった点だと思います。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 21:34:41
Name : Toshy E-mail : Title : 天海 Comments: 今日3度目の書き込みじゃ。 勇者ロトさん、私は生まれてこのかた、ウソをついたことがないのです(大嘘:笑 ) それはさておき、(なんだか勇者ロトさんのセリフを奪ってしまったみたいだな^^ ;)天海の話、私も。 本能寺の変の黒幕を、徳川家康だという説がありますよね。自分のために犠牲にな った光秀を家康がかばった、と聞いたことがありますが、いかがなものか。春日の 局を家光の乳母にしたことが、家康=光秀のつながりを説明している、とのこと。 でも小説家の作り話かなあって思います。。 ちょっと関係ない話になったけど、ご容赦を。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 21:38:59
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 勇者ロトさんへ Comments: 勇者ロトさん、きんたろうさん、思いつきで書いた「秀吉」論にお答え 有り難うございます。 しかし勇者ロトさんの書き込みの中で分からない部分があります。それは >秀吉が天才だったから豊臣家はうけいれられなかったなら、 >どうして秀吉は天寿を全うしたのでしょう? の部分です。私にはこの理論はちょっと分からないのですが・・・。 私はつまり「豊臣政権は織田家における信長同様秀吉という天才によって 支えられている独裁政権であり、その中枢たる秀吉が消滅すれば自然その権力は 衰える、よって豊臣の衰亡は避けられなかった」ということが いいたかったのです。 それから天才は天寿を全うできないものなのでしょうか? 信長は確かにあのような形で世を去りましたが、例えばナポレオンにせよ アレクサンダーにせよ、「クーデターで政権を奪われた」訳ではありませんし・・ ・。毒殺説もありますが、それも確かなことではありません。 (まあ、何を持って天才とするかによって色々考えられることですが) 追伸・・・「勇者ロト」か・・・。いい名前ですね。ドラクエ大好きな私としては      なんかむずがゆい名前です。(笑) Time : 1999/ 4/ 1(木) 21:53:57
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 天才について Comments: 石井さんへ 私は勘違いをしていたのかもしれません。後半の部分「天才による芸術品」 と前半を混同してしまっていたようです。 日本人が独裁者をきらうから天才による独裁政権では落ち着けないという事ですね 。という事は豊臣政権は秀吉が死んだあとも独裁的政治を行ったのかが問題となり ます。三成は秀吉に対するのと同じように秀頼に対するよう大名達に望んだので、 結果として豊臣政権はうけいれられなかったという事になります。流し読みだった のですいません。 天才は天寿を全うできないものという事がいいたかったのではなく、この場合は 秀吉自身=天才に抵抗するものがいなかったという事がいいたかったのです。 しかし私は家康こそ独裁者=天才だと思っています。何故かというと「教育」と いう方法で天下を安定させる事ができるという事に気がついたのですから。 この時点で「教育」つまり朱子学思想が天下の安定に繋がる事に気がついていた のは、三成と家康だけだったのではないでしょうか?秀吉の政権よりも厳しい法 を作り、従わないものには徹底的に弾圧をしたのですから。 石井さん流し読みしてしまったためへんな投稿になっていたかもしれません。 自分の考えている事を文にして相手にわかってもらうのは難しい事ですね。 Toshyさんも嘘だと思っているのですね。でも光秀にとどめをさしたのは 「土民」だと記憶してます。(あやしい記憶ですが)土民ですよ土民。 なかなかあやしい死に方だと思ったのですが・・・・・。 Time : 1999/ 4/ 1(木) 22:52:53
Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原論 Comments: 石井さんこんばんは。 すでに今日で四度目の書き込みです。 ちょっと話がもつれてきましたが、関ヶ原の話になったのは、山口さんの「徳川政 権はなるべくしてなった」に対する、「関ヶ原では・・・・・・」でした。私の言 葉不足のため、「関ヶ原の戦い」そのものだけに論点が行きました。関ヶ原での戦 いそのものは、石井さんの言われる通りだと思います。 しかし、関ヶ原にいたるまではどうかというと。 西軍挙兵・東軍の小山評定のあたりでは、家康は「石田大谷の挙兵」としか思ってい なかったようです。最上氏や堀氏にあてた書簡からはそのように読み取れます。家 康は西軍の挙兵を過小評価していました。宇喜田・小西の西軍荷担までは家康も読ん でいたかもしれません。 ところが実際には、毛利までが挙兵に加わっていました。ここまでは石田三成の外 交戦略が家康のそれを上回っていたのです。 家康はここで、作戦を変更しました。諸大名にあてたダイレクトメールの発信でし た。ここから東軍が巻き返して関ヶ原の大勝となるわけですが、家康としても楽観 視はできなかったでしょう。 「関ヶ原」は、確かに横綱と平幕の対戦で、勝敗は見えていました。でもそこにい たる過程は、ほとんど五分の戦いであり決して「徳川が勝つべくして勝った」戦い ではなかったというのが、私の考えです。 勇者ロトさん 明智光秀の死については、おっしゃるとおり疑問がいっぱいですね。今度じっくり 考えてみたいです。ちなみに、私が本能寺の変の黒幕だとにらんでいるのは秀吉な のですが。 みなさんはどのように考えているでしょうか?! Time : 1999/ 4/ 1(木) 23:21:19
Name : 輔住 E-mail : Title : 光秀問題・豊臣政権 Comments: みなさん、こんにちは Toshyさん、朝廷の勅使のことは私もまったくしりませんでした。 ところで光秀の話ですが、光秀が山崎の戦い以後も生きているとすれば どうしても次の疑問が浮かび上がります。 1.なぜ再起を図らなかったか 2.秀吉始め織田家中はなぜ偽者の首と気がつかなかったのか。 3.2.で少しでも怪しいと思えば捜索をしているはず。 後、再び話が変わって、豊臣政権についてですが 「やっぱり短命で終わる政権だったかな」と 思うことがあります。後継者が幼いことも理由の一つですが、東国には 徳川、上杉など強力な外様が多いのですが彼らに対する押えが ほとんどありません。 東国を抑えることはかなり重要なことなのでそれに対策が無いのは かなり「脆弱」だという印象はどうしても拭えません。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 12:39:56
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 春日局 Comments: 春日局の採用は、「敵の敵は味方」という、戦国時代ルールではないでしょうか。 つまり、絶対に豊臣方でない女性、という理由で雇用されたのだと思います。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 15:02:40
Name : 山口 哲郎 E-mail : Title : 徳川政権は努力の賜物?^^; Comments: みなさんこんにちわ 関ケ原直前までは,豊臣 対 徳川の勢力(他家の支持)は 拮抗もしくは,豊臣が他の方が上回っていたということでしょうか? それを,いっぱつ家康が関ケ原でひっくり返して 一気に徳川政権樹立へつっぱしったのでしょうか? それまで,家康は他家の懐柔と豊臣家の消耗をせっせと行なっていたのでしょうね そして,No.1豊臣に対してNo.2である徳川は自分の代わりにNo.2に成り得る 有力大名(豊臣家譜代の大名)をせっせと潰して(懐柔)から 関ケ原,大阪の陣と続いてくのでしょう ここ一番の戦いに常に勝ってきた家康だから取れた天下(当たり前か^^;)ですね Time : 1999/ 4/ 2(金) 21:37:09
Name : Toshy E-mail : Title : れすれす Comments: みなさんこんにちは。 勇者ロトさん >光秀にとどめをさしたのは「土民」だと記憶してます。 私もそのように記憶しています。これって、『太閤記』に記されているのかな?と すると、後代が歴史を捏造した可能性もありますね。 また、光秀の死に疑わしいことがあるのは事実としても、即「光秀=天海」に結び 付けるのは、ちょっと難しいかな、と思います。。 輔住さん >、豊臣政権についてですが >「やっぱり短命で終わる政権だったかな」と >思うことがあります。後継者が幼いことも理由の一つですが、東国には >徳川、上杉など強力な外様が多いのですが彼らに対する押えが >ほとんどありません。 秀吉も、徳川を特に警戒していたのでしょう。そんな中で、宇喜多秀家を中納言に して大老の座を与えていました。徳川に対抗するのは秀家だけ、と秀吉は見ていた のでは? 山口さん >関ケ原直前までは,豊臣 対 徳川の勢力(他家の支持)は >拮抗もしくは,豊臣が他の方が上回っていたということでしょうか? うーん。。。贔屓目に見ても、徳川に傾いていたのかなあ。。。。 ただ関ヶ原のころは、家康が徳川を支える、と思っていた大名も大勢いたようです 。秀頼の成人後に政務を返上するはずだ、と。 この徳川vs豊臣の舞台裏は複雑なところが多くて、簡単に割り切ることは出来な いかもしれませんね。 Time : 1999/ 4/ 2(金) 21:56:37
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 忌み名について Comments: 井沢さんの本を読んで幾つか疑問に思うことがあるのですが? すでに議論されていることでしたらすみませんが教えて下さい。 1.天皇の忌み名に関して、井沢さんがいろいろと考察していることは 納得がいく部分が多いのですが、何故、それらの命名法が何らかの 形で成文化して伝わっていないのでしょうか? また、天皇の忌み名を送る人々は、どういった人々なのでしょうか? 2.大国主の尊は出雲大社にまつられているのに、坂上田村麻呂に 征伐された(都で処刑された)蝦夷の首領は(名前を忘れてしまいました) は怨霊と考えられず、祭られることがなかったのでしょうか? 特に怨霊の怖さを痛感している天皇が、蝦夷の人は人ではないと考えていた からとは考えられないのですが。大国主の尊も異民族であったから同じように 考えていたと思うのですが。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 16:17:23
Name : Toshy E-mail : Title : 蝦夷の酋長 Comments: 川村さん、はじめまして。 >坂上田村麻呂に征伐された(都で処刑された)蝦夷の首領は >(名前を忘れてしまいました) 名前ですが、アテルイです。 この坂上田村麻呂のことは、私たち東北人にとっては屈辱的ですね。ちなみに私の 母の実家は「照井」という名字ですが、アテルイと関係があるかは不明です。 異民族政策ですが、蝦夷・熊襲・土蜘蛛といわれた土着民は、日本海沿岸の民族(コ シだったかな?)と違い、人間扱いではなかったようです。「鬼」とされていたみ たいですね。こちら(東北地方)には、その鬼を鎮守するための碑みたいなのがあ りますよ。 もう少し調べてから、また書き込みします。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 20:16:47
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 光秀生存説 Comments: みなさんこん@@は、こちらでも蝦夷の話が出ているのですね。 たったいま蝦夷の話?をBBSの方に投稿してきました。 光秀が生存していたかも知れない?という唯一の物証があったそうです。 それは比叡山に寄進された石塔?らしいのですが、山崎の合戦以降の日付が刻印 されていて、寄進者として「明智光秀」の名前が掘ってあるらしいのです。 又聞きなのではっきりとは解らないのですが、これも光秀の縁者が供養のために 寄進したのでしょうか? Time : 1999/ 4/ 3(土) 23:20:22
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 最近思うこと。 Comments: Toshyさんコメントありがとうございます。私自身高知県出身でほとんど 東北地方に行ったことがなく(知人の結婚式に岩手に行ったぐらいで)、 東北地方の歴史についてはぜんぜん知りません。これからいろいろと 教えてください。 私自身は、中学生ぐらいから、何で日本人は面と向かって相手に言いたいことを 言わずに、陰で色々というのか不思議でした。言霊信仰の話を聞いて(読んで) 非常に納得してしまいました。 予備校に通うようになり、高校では教えてもらえなかった、日本の歴史があること を知りました。『教科書に掲載しようとすると、文部省の検閲にかかり、出版でき ないから、君たちには教えられないんだ』と言っていた歴史の先生が、井沢さんの 本を読んでいると懐かしく感じます。 予備校で、数学の秋山仁先生に習うようになり、教育の改革が必要なのでは と何となく思うようになり、今の仕事について10年ぐらいになるのですが、 若手の人たちを見ていると、痛切に教育の改革が必要だと感じる今日この頃です。 Time : 1999/ 4/ 3(土) 23:31:40
Name : michi E-mail : Title : 疑問に答えてください. Comments: はじめまして.このページを見るもはじめて、書きこみも初めての者です. よろしく。 本題に入ります. 井沢先生の著書「逆説の日本史」「日本史の叛逆者」の中で 大海人皇子は最初たった一人虫麻呂という部下を持っています。 その後で、「弟」の天智天皇を暗殺するためにも、 大友皇子政権と倒すためにも協力者は出てきますが、 大海人の真の部下とはやはり虫麻呂しかいないように、「日本史の叛逆者」 のなかでは描かれています。 しかし、天皇を討つという大逆を起こすのには多くの信頼できる部下が 必要なのではないかと思われます. それなのに、この著書の中では村国男依や和邇部君手らがどういういきさつで 大海人に協力したのかがわかりません。彼らは非常に大海人に忠誠厚く仕える 舎人のはずなのですが…。 ほかにも、壬申の乱に協力した地方豪族や、大和の豪族たちが、 なぜ大海人に協力したのかが、明確ではないような気がします. 大海人が天智と同父母の兄弟ではないという考えには、基本的に賛成なのですが、 新羅人の息子である者を天皇にするかという疑問はぬぐえません. 私が、「壬申の乱」について納得がいく著書は 黒岩重吾の「天の川の太陽 上・下」なのですが、 どなたかコノ本を読まれた方でご意見ください。 読んでなくても私の質問に答えてください. Time : 1999/ 4/ 4(日) 14:35:42
Name : 輔住 E-mail : Title : 返信 Comments: Toshyさんへ >秀吉も、徳川を特に警戒していたのでしょう。そんな中で、宇喜多秀家を中納言 >にして大老の座を与えていました。徳川に対抗するのは秀家だけ、と秀吉は見て >いたのでは? 私も「5大老・5奉行」制度は「合議制」にして家康の 野望を抑えるための政策だったと思っています。 しかし、「豊臣政権・東日本支部」のような機関がないところに 「政権の人材不足」を感じるのです。 勇者ロトさんへ やはり光秀にゆかりある人が行なったと思います。 仮に生き延びていても山崎以後は「明智光秀」を 捨てなければなりませんから。 ちなみに彼は領民に慕われていたみたいです。 michiさんへ >私が、「壬申の乱」について納得がいく著書は >黒岩重吾の「天の川の太陽 上・下」なのですが、 >どなたかコノ本を読まれた方でご意見ください。 私は上記の作品を読んでいませんし、古代史の知識も乏しいです。 ただ「逆説の日本史」「日本史の叛逆者」は井沢先生の推理を 述べたもので、壬申の乱にいたるまでの経歴とは性格も異なります。 徳に「日本史の叛逆者」は ノンフィクション・フィクション・井沢先生の推理が 複雑に混じっています。気楽にフィクションとして 楽しんでも良いと思います。 Time : 1999/ 4/ 5(月) 12:36:35
Name : Toshy E-mail : Title : 変身(変換したら、これが出てきた:笑) Comments: みなさんこんにちは。 川村さんへ 蝦夷の酋長アテルイ様のことですが(私のご先祖かもしれないので敬称付き)、殺 された後に怨霊化するか否かのことですが、井沢先生の「逆説の日本史」には、異 民族は人間ではない(怒)、ゆえに怨霊にはならない、と考えられていたことが書 いてありました。それに関して少し調べると、清水寺にはアテルイ様を「鬼」とし て葬った(?)碑があると、ある人から聞いたことがあります。 なお、私は東北人ながら地元の歴史に明るいほうではないのですが、これから勉強 していこうと思います。これからもよろしくお願いします。 輔住さんへ >「豊臣政権・東日本支部」のような機関がないところに >「政権の人材不足」を感じるのです 譜代の家臣がいない、親族も少ない、というのは豊臣政権にとって致命傷でしたね 。それで秀吉が取った政策が、「関白公儀」だったのではないかと思いました。豊 臣家の公家化が話題に出ましたが、平安期の藤原氏がやっていたことを、豊臣家も 実践して「武家政権」を押え込もうとした可能性があります。 Time : 1999/ 4/ 5(月) 13:36:53
Name : きんたろう E-mail : Title : 坂上田村麻呂 Comments: Toshyさん、輔住さん、みなさんこんばんは。 坂上田村麻呂は後漢王朝の末裔と言われています。武人としての資質を備え且つ知 略にも富んでいたようです。 彼は常陸国久慈郡を兵站基地としました。 彼は「アテルイ」を非常に高く評価していたようです。 ですから「アテルイ」を通じて蝦夷地を統治することがベストだと思っていた様で す。 それを強引に覆したのは公家達ということなのですが? Time : 1999/ 4/ 5(月) 22:45:19
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 豊臣政権の東国探題 Comments: タイガース勝ち越しとスワローズ3連勝に心踊ってます。というのはさておき、 みなさん、こん@@は。輔住さん、Toshyさん光秀生存説にお答えいただき ありがとうございます。そういえば坂本竜馬の家紋と明智の家紋は同じものだそう ですが本当なのでしょうか? なにはともあれ明智光秀は天海であるというのは創作なのですね。 豊臣政権の東国探題は蒲生氏郷だったという話を聞いたような気がします。 氏郷亡きあとその職務は上杉景勝がその任にあたり、越後から会津に国替えに なったとも聞いたような気がします。警戒していた家康の背後にあたる会津に 大領地を与え重大任務に当たらせたのではないのでしょうか? 巨木文化の発生は縄文時代です。これが信仰となったのが弥生時代だと思われ ます。三内丸山遺跡は縄文時代の遺跡ですが、これは弥生時代の出雲文化の源流 ではないかと思っています。つまり出雲王朝の先住民は縄文時代の風習を失って いなかったという事だと考えています。出雲の先住民=蝦夷の民です。 Time : 1999/ 4/ 5(月) 23:29:42
Name : きんたろう E-mail : Title : 宇喜多秀家、再起せず Comments: 二度目のこんばんわです。 宇喜多秀家は関ヶ原の敗戦後、自首しました。 領地は没収され、本人は八丈島へ島流しの処分とされました。 その後50年生き続け84歳で天寿を全うしたという事です。 すがすがしいけれど、あっさりしたような印象を受けます。 関ヶ原で「完全燃焼」してしまったのでしょうか。 大阪の陣への関わりはどうなのでしょうか? Time : 1999/ 4/ 5(月) 23:56:55
Name : 輔住 E-mail : Title : 東国問題など Comments: みなさん、こんにちは 私は横浜の3連敗で倒れる寸前です。 それはさておき、 >豊臣政権の東国探題は蒲生氏郷だったという話を聞いたような気がします。 私もこの話は聞いたことがあるのですが、氏郷も「豊臣恩顧」とは言えないし (個人的には旧織田グループのイメージ) 氏郷だけでは「東国」はきびしいでしょう。 (伊達政宗など他にも危険人物がいるので) 宇喜多秀家については元家臣の明石全登は大坂の陣に豊臣方で 活躍しますが本人はやっぱり燃え尽きたのでしょう。 (もちろん徳川の警戒が厳しく脱出できなかったのも一因でしょうが) Time : 1999/ 4/ 6(火) 12:32:13
Name : Toshy E-mail : Title : 宇喜多秀家 Comments: こんにちは。 Fs2年連続開幕戦完封勝ちに沸いているToshyです。 さてさて。 >豊臣政権の東国探題は蒲生氏郷だったという話を聞いたような気がします。 これは私も聞いたことがありました。上杉を蒲生の後釜に回したのは、やはり徳川 を牽制するための策だったそうですが(やはり石田・上杉共謀は事実かな?)、上杉 だけではどう考えても無理ですよね。。 宇喜多秀家が八丈島に流された後の資料が皆無のため、なんともいえないのですが 。でも生活物資は豪姫の実家前田家から送ってもらっていたから、不自由な生活は していなかったのではないでしょうか。 ここから下は、蛇足です 「気候はいいし、備前のことは思い出しません」おっと、これは劉禅のセリフ。 「ここには徳川家康はいない。ありがたいありがたい」 芥川龍之介の、某歴史小説のぱくりでした。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 15:43:53
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 足利義教の扱いについて Comments:  盛り上がっている話題と違って申し訳ないのですが、井沢先生が現在「週刊ポス ト」で書いていることについて。  私は、日本人が足利義教を過小評価すること自体は悪いことではないと思ってい ます。ただし、過小評価する理由を明示する必要はあると思います。  教科書に「足利義教は和を乱した、だから良くない人間だ」と明示するなら、私 は一向にかまわないと思います。  一番いけないのは、「ただなんとなく」でありではなぜ日本人が「ただなんとな く足利義教が嫌い」なのかは確かにだれも説明していません。日本人がなぜ「なん となく」そう思うかを解明してこなかったのは、学者の怠慢かもしれません。  「和」は別に悪くはないと思います。しかし、自覚した上で守るべきです。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 16:17:26
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 秀吉と家康 Comments: どうも、皆さんこんばんは。タイガースが2勝1敗で乗り切ってくれて 喜んでる石井です。 閑話休題。 >「豊臣政権・東日本支部」のような機関がないところに「政権の人材不足」を感 じるのです。 全くその通りですね。やはり「家康」という強烈なライバルの・・・ライバルと 言うより潜在的な敵の存在が、豊臣にとって最も邪魔だったのです。 秀吉は後々のことを考えるならば小田原攻め後に(つまり朝鮮出兵を行わずに) 家康を攻め滅ぼすべきでした。蒲生氏郷が豊臣の東国探題にあたるという話は 初めて聞きましたが、それを堂々と設置できなかったところも豊臣の遠慮が 感じられます。 最も、家康はその可能性を常に考えていたため、結局「大義名分」が 見つけだせず、秀吉の寿命が切れてしまったわけですが、家康がもし何らかの へま・・・例えば東海転封を断った織田信雄のような・・・をしていたら、 秀吉は100%家康を攻め滅ぼしていたでしょう。 家康はそのあたりもうまく立ち回ったというわけです。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 20:35:54
Name : きんたろう E-mail : Title : 人間の限界 Comments: こんばんは、みなさん。 輔住さん、Toshyさん、ありがとうございました。 八丈島は遠すぎたのかも知れないですね。 秀吉はまるで手品のように天下人に収まってしまいましたが、当初彼が最も恐れた のは自分と同じルートを経て上ってくる可能性がある人物だったと思います。 そしてその道こそが天下人の道であると秀吉は信じていたように思います。 そう考えてみると今話題の蒲生氏郷は信長にして逸材と言わしめたほどの人物です から、同時に秀吉にとっては(将来は)恐るべき簒奪者の可能性が大であると警戒 されたという説は頷けると思います。 氏郷にしても100万石(80万石?)への大出世ではありましたが、会津という あまりにも遠方に移封された事は野心を潰すに十分だったと言われています。 黒田如水は秀吉と同等の戦略を構築することが出来たと唯一言われたほどの人物で す。彼ほど功績がある人物に対する報償が、「気前の言い秀吉」とは思われないほ ど少ないのは風説が真実であることの証明のように思えてきます。 徳川幕府は老中職等重要な権力を持たせた譜代大名は10万石以下の所領しか与え ませんでした。逆に、外様大名には権力は与えない代わりに?(吝嗇な徳川家とし ては)大きな領地を与えています。 スケールは違いますが似ていると思います。 秀吉は晩年が近づいた頃初めて自分のルートとは違う天下人への道があった事に気 がついたように思えるのですが。 Time : 1999/ 4/ 6(火) 23:01:52
Name : 輔住 E-mail : Title : 唐入り(朝鮮出兵)よりは... Comments: みなさん、こんにちは。YBは4連敗で単独最下位!最悪です。 >秀吉は後々のことを考えるならば小田原攻め後に(つまり朝鮮出兵を行わずに) >家康を攻め滅ぼすべきでした。 石井さんのいうとおりでしょうね。大体、豊臣の直轄領(220万石)以上の 大名ですからね。(関東移転後は家康は255万石) そして家康の領土を大幅に削り、東日本に豊臣秀次か宇喜多秀家あたりを中心に 豊臣恩顧の大名を置いて「東国探題」ができれば...。 もちろんこれらの行動はかなりの反発も予想されます。しかし「唐入り」よりは ましだったと思います。 Time : 1999/ 4/ 7(水) 12:23:11
Name : Toshy E-mail : Title : 豊臣vs徳川 Comments: 変身、ブイスリャァァァァ!!というのはさておき、 ヒーロー系の掲示板にもよく顔を出すToshyです。 これは勝手な仮説ですが。。 豊臣秀吉は、国内における戦争を、なくしたいと考えていたのでは?徳川を屈服さ せた時も、軍事力ではなく、「日本国のため」という、むしろ家康に協力を求める ような言い方でしたから。 そして五大老制度というのは、バランス・オブ・パワーで戦を起こさないための政 策だったのかも。それが前田利家の死でいっぺんにくずれ、石田三成らによる打倒 徳川の手しか道はなくなった、と考えるのはどうでしょう。 朝鮮出兵に比べると徳川つぶしのほうが賢明であることは確かですが、家康はやは り英雄、倒すことはたやすくなく、手間取るうちにまた戦国の世にかえることを秀 吉は危惧していた。。。 こんなのは、どうでしょう? Time : 1999/ 4/ 7(水) 21:39:30
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : ライダーカード Comments: Toshyさんへ 最近、ライダーカードの本が出たの後存知ですか? 一冊目では1号2号のもので、二冊目はV3のものです。 私は早速買ってしまいました。一冊1200円だったと思います。 このHPと関係ない話題ですいません。 Time : 1999/ 4/ 8(木) 12:56:08
Name : きんたろう E-mail : Title : 長生き勝負 Comments: こんばんは。 秀吉は家康に対しては非常に甘い見方をしていたと歴史は証明していますが、それ は家康の行動を過去からずっと詳細に知っていたからではないでしょうか。 家康は「律儀者」でとおっていましたし、三河武士は屈強で有名でした。 かつ、信長亡き後の行動を見ても「中央部支配」に対する行動よりも隣をかすめる 様なことをしていたように秀吉には写ったように思えます。 そのようなことから考えると家康の実力は認めてもライバルとは思っていなかった ような気がします。 確かに、もし家康がチョンボでもすれば減封、移封、取りつぶし等の措置はあった とは思います。でも家康はミスをしませんでした。 もし家康が秀吉よりも長生きをしなければ徳川家の運命は決定的に変わっていたこ とでしょう。恐らく結城秀康の方が徳川家を相続したように思います。そうであれ ばさらに変わった歴史になったと思います。 Time : 1999/ 4/ 8(木) 22:25:08
Name : Toshy E-mail : Title : 小西行長 Comments: 川村さんへ。 はいはい、ヒーロー系の掲示板などで話題になったのを見ました。まだ買ってない です。 仙台の人間でFsファン....川村殿、私のもうひとつの名を、もしかするとご 存知では? 今日はちょっと話題がないので、宣伝だけ。 芥川龍之介の小説「金将軍」に、朝鮮における小西行長の伝説が書かれています。 芥川の創作か、本当にそのような伝説があるかは、今のところ不明。 Time : 1999/ 4/ 8(木) 23:32:18
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 影武者家康 Comments: 色々な歴史資料から、家康が途中から(諸説あり)別人にかわったとの説が あります。最近テレビドラマになった、隆慶一郎著『影武者家康』などが、 それを土台にした小説です。関ヶ原の戦いの事後処置を見ていると、 元々の家康が生きていたら変だと思うところが幾つかあります。 1.遅れてきた秀忠に対する処置、(反論:はじめから遅れてくるように指示して いた。←それに対する反論:真田家の執拗な抵抗は予想できなかったはず) 2.才能が有り余っている忠輝および伊達家に対する処遇、 3.秀忠と家康の二元政治の継続(秀忠からの書類と家康の書類による二重支配) 、 そのほかにも幾つかありますが、これらのことを考えると、影武者家康の設定 自体が現実味を帯びてくるように思えるのですが? しかし、島左近が生存し続けている必要性や、忍者の登場がこの説を弱くして いるようにも思えます。(時代小説であるのでかまわないのですが) ご意見をお待ちしています。 Time : 1999/ 4/ 9(金) 09:09:33
Name : 輔住 E-mail : Title : 川村さんへ Comments: みなさん、こんにちは 川村さんの意見への感想を たしかに家康の態度はかわりました。 でも秀吉も小田原以前と以後では かなりイメージが変わる気がします。 そういった例は世界にも多いし。 今の段階ではかなり厳しい説でしょう。 Time : 1999/ 4/ 9(金) 17:42:37
Name : 昌彦 E-mail : Title : やっぱり 生きてたのでは Comments: 初めて書き込みします。よろしくお願い致します。 “影武者家康”についてですが、わたしは生きていたものと思います。 秀忠に対する処置については、やはりぎりぎりの線で戦った関が原に、 小賢しい顔をしてのこのこ遅れてやってきた秀忠に物足りなさを感じたという、 最も人間的な感情を見せた一幕なのではないでしょうか、と私は思っています。 たしかに、直系のなかではもっと優秀な後継ぎ候補はいたと思いますが、 家康は徳川政権樹立後の2代目として、凡庸な秀忠を選んだのではなかったか。 いたずらに野望が強く、外征などの野心?を持つようなものではなく、 自分の遺命に沿ってひたすら一生懸命になれる男が、徳川磐石のために、2代目 として必要であるという家康一流の先見性ではなかったかと思います。 しかしながら、物足りなさはいつもかかえており、ついぞ関が原でBOMB!! 等と思っています。 しかしながら、私は真田びいきでありますので、大阪の陣での家康の討ち死に説に は、非常にロマンを感じてしまいます。しかし、真田昌幸にたいする世間の評判が あまり良くない(幸村、信之、幸隆が評判いいのに)のがちょっと不満です。 昌幸ファンの方、お互いの傷をなめ合いませんか? ご意見お待ちしています。 Time : 1999/ 4/10(土) 18:47:37
Name : Toshy E-mail : Title : 真田昌幸 Comments: 昌彦さん、はじめまして。よろしくお願いします >真田昌幸にたいする世間の評判があまり良くない そうですか?私の知る限りだと、むしろ評価されないのは、信之だと思っていまし た。真田のことはあまり知りませんが、昌幸は徳川を2度も撃退したことが勲章に なっているようです。 また、新田次郎氏著の「武田勝頼」を読むと、落ち目の武田氏を支え孤軍奮闘する 真田昌幸のカッコよさが目立つのです。 直江兼続、島左近とともに日本三大兵法家とされているから、決して評価は低くな いと思いますよ! Time : 1999/ 4/11(日) 21:46:50
Name : 昌彦 E-mail : Title : 真田昌幸続く Comments: Toshyさん、どうもありがとうございます。 おっしゃるように、決して評判の悪い事この上なし、というわけではないのですが 、武田→上杉→徳川→上杉→秀吉(だったかな)と主を何回も変え、 生き残りのために忠節無からざる者、との評価も大きいことが、ちょっと不満なの です。海音寺潮五郎氏はこの点を捉えて、はっきりと“好きでない”といっておら れますが、その点は中央政権地からはるか離れた信州の奥地を所領としていたがた め、また近隣には上杉、武田、北条という大勢力を控えた昌幸の、致し方ない所業 であったと、私は思っております。この主を度々変えるという行動を、歯噛みして もっと辛いと考えていたのは、誰あろう昌幸本人ではなかったか、と思うのです。 覇道を歩むだけの軍略がありながら、恵まれない境遇を過ごしてきた昌幸の、紀州 九度山での逝去の際の無念を慮ると、こみ上げるものがあります。 まあ、私は長野出身で、真田の庄のすぐ近くでもあり、思い入れが強いのかもしれ ませんが。 toshyさん、またみなさん、戦国ネタの古典とも言える、“上杉VS武田”、どちらが ごひいきか、またその訳というのをここでまた私に聞かせて頂けないでしょうか。 ちなみに、私は上杉びいきであります。 皆さんのご意見をお待ち申し上げております。 Time : 1999/ 4/12(月) 12:04:26
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 二代目へのバトン Comments: みなさん、こん@@は。 一つの集団には必ずいくつかの派閥が形成されます。これはいつの時代でも変わら ない不変の法則です。カリスマのある初代から二代目への権力移行の時にはとくに 噴出しやすい問題点でもあります。 黒田如水は長政に家督を譲ったあとでも、家康と同じように様々な命令を発しまし た。何故かというと命令を2重に出す事によって、派閥のあぶり出しを行うためで す。このあぶりだし作戦により、長政に反感をもつものを特定し、処分を下したの です。これは組織のスリム化にもつながります。如水の代からの家臣をリストラす る事によって黒田家の財政を改善し、完全な長政の時代に移行させる手助けをした のです。このリストラで解雇された有名な武将の中に後藤又兵衛がいます。彼は戦 討においては長政をしのぐ活躍をし、如水の寵愛も厚かったのですが長政とそりが あわず、如水も苦慮していましたが黒田家の安定のため後藤を切ったのです。 又兵衛はこれを機に黒田家を辞し浪人となって大阪の陣に参戦しますがこれはまた べつのおはなし。 Time : 1999/ 4/12(月) 12:05:23
Name : 大阪JF生 E-mail : Title : 川村様へ Comments:  始めまして。 こちらにくるのは本当に始めてです。 井沢先生のファンであると同時に 故隆慶一郎氏のファンでもあります。  隆氏は生前、島左近の末裔なる人に取材し、 左近は生き延びて「島金八」と名乗り、農業や酒造を おこなっていたという言い伝えがあることを 書いておられました。ご参考までに。 Time : 1999/ 4/12(月) 12:23:22
Name : 輔住 E-mail : Title : 昌彦さんへ Comments: 昌彦さん、はじめまして。 確かに昌幸は何度も主を替えたし 秀吉から見たらそう見えたのかも 知れません。 でも、才能は高く評価されているので あまり気にしなくて良いと思います。 それにこの当たりの(信濃・上野)小領主は 似たり寄ったりのことをしています。 (そうしないと生きられないと思う) 謙信と信玄ではうーん悩みますね! どちらも好きなところと嫌いなところがあるので。 私は彼らのライバルの一人である北条氏康が すきですね。どこか素朴な感じがして。 Time : 1999/ 4/12(月) 12:44:38
Name : きんたろう E-mail : Title : 大阪の期待の星 Comments: みなさん、こんばんは。 昌彦さん、初めまして。 最強と呼び声の高い「越後兵」と、これまた最強の「武田騎馬軍団」の激突ですか らすごい戦いだったのでしょうね。 中国故事の「矛盾」が連想されてしまうほど互角の戦いを続けました。 北条氏康も川越城で山内、扇谷両上杉と戦い8万5千に対し、8千の寡兵で大軍を 打ち破るというのですから、まるで毛利元就のような働きをしています。 ところで大坂の陣の時、大坂城入場を期待されていたのは真田昌幸だったことは有 名です。幸村ではありませんでした。 Time : 1999/ 4/12(月) 18:57:59
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 大阪JF生さまへ Comments: 私も隆慶一郎氏のファンで全作品を読みました。 最近、島左近について、別の人が小説を書いており、 北九州の小島の出身という設定でかかれています。 面白く読みました。 島左近の娘たまが柳生兵庫介の妻になったことを考えると、 やはり死んでいたのでは、と考えてしまいます。 Time : 1999/ 4/12(月) 20:04:08
Name : Toshy E-mail : Title : 武田と上杉 Comments: 昌彦さん皆さん、こんにちは。 私も輔住さん同様、何度も主をかえるのは小大名のサバイバルとしてしかたないも のと思います。 武田と上杉ですが、昔はどちらも好きだったけど、最近はそうでもなくなってきま した。むしろ次の世代である勝頼、景勝のほうが好きです。 それにしても、信玄・謙信とも小学生でも知っているほど有名だし川中島にしても 名高いけど、戦国時代という過渡期において、どんな意味があったのでしょう。 私は「長野知事選」くらいの重みだと思うのですが。...(長野県の皆さん、お 気を悪くなさったらすみません) Time : 1999/ 4/12(月) 20:11:19
Name : 輔住 E-mail : Title : 川中島 Comments: 川中島の戦いは謙信が村上義清に乞われたのが 原因ですからね。労力の割には実りが少ない戦いですね。 このエネルギーを信長にぶつけていたら面白かったのですが。 Time : 1999/ 4/13(火) 17:42:55
Name : Toshy E-mail : Title : 昌幸ですが Comments: みなさんこんにちは。 昌彦さん、ちょっと前の書き込みですが >武田→上杉→徳川→上杉→秀吉(だったかな)と主を何回も変え、 >生き残りのために忠節無からざる者、との評価も大きいことが それですが、昌幸は落ち目の武田にあって孤軍奮闘、勝頼を居城の吾妻に迎えよう としたという記録もあります。忠節という点は、何の問題もないと思いますよ また徳川から上杉に乗り換えたのは、家康が真田を吾妻から追い出してそこを北条 の勢力圏にしようとしたことに腹を立てたためであって、徳川・北条と敵対していた 上杉に庇護を求めるのは当然のことですよね 自分が真田昌幸だって、徳川を見限って豊臣・上杉側につきます(笑) Time : 1999/ 4/13(火) 23:53:43
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 異形の天皇 Comments: 自尊心の塊とも言える後醍醐天皇が、最下層の身分に位置する異形の者達と密接 な関わりがあったことに対して、皆さんはどう考えますか? Time : 1999/ 4/21(水) 17:40:07
Name : きんたろう E-mail : Title : 基本的な質問ですみません Comments: 安部さん、こんばんは。 >最下層の身分に位置する異形の者達と密接な関わりがあったこと とはどのようなことを指しているのですか。 細部の知識がないのです。 Time : 1999/ 4/21(水) 18:52:44
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 異形の天皇2 Comments: 倒幕の密議を開くとき、無礼講といって異形の格好をして会議しました。 軽蔑してはいたのでしょうが、楠木正成や名和長年といった悪党に支えられていま した。 検非違使ともつながりが深かったようです。 「日本の歴史8」(集英社)に書かれていました。 Time : 1999/ 4/21(水) 19:48:31
Name : きんたろう E-mail : Title : スーパー自尊心 Comments: 後醍醐帝は自分が一番偉いと思っているわけですから、程度の差はあってもみんな 「下賤の者ども」であったわけです。 ですから自分にしっぽを振ってくる相手を身分で選別などはしないと思います。ま してや非常事態ですから。 「異形」という表現は後醍醐帝の言葉ではないと思います。 Time : 1999/ 4/21(水) 21:47:15
Name : Toshy E-mail : Title : 異形のもの Comments: 後醍醐天皇が吉野に拠点を置いたのは、津、新宮、大坂などにつながる山伏の修験 道を利用して、各地の情報を取り入れようとした、とききます。 山伏や商人は、いわば貴重な情報源でした。(この辺、織田信長と通じるところが あります)だからかれらと親しく交わって話を聞いたのではないでしょうか。 ちょっと詳しい資料をみてから、また書きます。 Time : 1999/ 4/21(水) 22:57:38
Name : 輔住 E-mail : Title : 手段>身分 Comments: >後醍醐帝は自分が一番偉いと思っているわけですから、程度の差はあってもみん な >「下賤の者ども」であったわけです。 >ですから自分にしっぽを振ってくる相手を身分で選別などはしないと思います。 ま >してや非常事態ですから。 私もきんたろうさんの意見に賛成です。 朝廷(軍のない)が幕府(軍事政権)を倒すのですから、 そういう方法しかないでしょう。 Time : 1999/ 4/22(木) 09:22:09
Name : 勇者ロト E-mail : Title : みなさん、こん@@は。南北朝については、あ Comments: まり詳しくないのですが、ゴダイゴいや、ミッキー吉野いや後醍醐天皇自身が、 朝廷、幕府から見れば「異形」であったので、「異形の者」にシンパシーを感じ ていたから、彼らをちかづけた、もしくは彼らに近づいたのではないのでしょうか ? Time : 1999/ 4/22(木) 22:58:03
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 異形の天皇3 Comments: 山伏も異形のものです。 そうですね、後醍醐天皇は世の中をひっくり返そうとしたわけですから(本人は 元に戻すつもりだったのでしょうけど)、アウトローの人々を頼ったと考えられま す。それに山伏や芸人は全国的なネットワークを持っていましたから、情報収集や 逃亡する手引きとしては最適だったでしょう。 このように手段として後醍醐天皇は異形のものを使ったのでしょう。 南北朝時代には、日本人の身分観、職業観が出来上がりました。芸人を一つ下の 職業と見たり、えたひにんが確立したのもこの頃です。(文字変換で「穢た」、「 非人」が出てきませんでした、これは一種の言葉狩りではないかと思います。) 後醍醐天皇と異形のものとの関係に、単なる手段を超えたほかの意味はないでし ょうか? たとえば、天皇は清いものの最たるものであるのに、穢れそのものの異形と触れ ることに対して、後醍醐天皇は違和感を覚えなかったのでしょうか? 注:私は決して現在の部落民の人が異形だとか汚れているだとか言っているわけ ではありません。 Time : 1999/ 4/23(金) 16:22:07
Name : 輔住 E-mail : Title : Re異形の天皇3 Comments: >たとえば、天皇は清いものの最たるものであるのに、穢れそのものの異形と触れ >ることに対して、後醍醐天皇は違和感を覚えなかったのでしょうか? 多分、彼らの力を利用しただけでしょう。 建武の新政の後、優遇したのは彼の腹心ぐらいですからね。 彼らは自分(天皇)に協力して当たり前と思っていたかもしれません。 Time : 1999/ 4/23(金) 17:39:24
Name : きんたろう E-mail : Title : 異形の天皇について Comments: >彼らは自分(天皇)に協力して当たり前と思っていたかもしれません。 輔住さんの言われるとおりだと思います。 自分は「駕籠に乗る人」そのものであるとの認識で、まわりの人達は「駕籠かき」 くらいにしか思ってはいなかったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 4/24(土) 01:26:29
Name : 米子のなきうさぎ E-mail : Title : 異形の天皇について、です。 Comments: はじめまして。 後醍醐天皇と異形の人々とのことについてですが、くがい(公界とかきます。変換 できんかった)の概念は関係ないでしょうか? うろ覚えの知識で申し訳ないのですが、当時土地と所有者とが明確になっていっ た中で、道路、山、および海などの所有者がはっきりせず公的な性格の土地につい て、概念上であるにせよ、その所有者は天皇である、と考えられていたそうです。 そして、それらの土地はくがいと呼ばれました。ほかの呼び方もありましたが、 覚えていません、ごめんなさい。山伏や行商人、流れの職人など、くがいと密接に 結びついて生きている人々は「くがいの民」、すなわち武士の支配下にいるのでは ない天皇直属の民だと捉えられていたそうです。実際、関所での扱いも、ほかの 人々よりも鷹揚だったとか。 後醍醐天皇に、彼ら異形のものは卑しいものだが幕府とは関係を持たない自分 直属の民である、という認識があったと考えると、異形のものたちを積極的に 利用したのにもさほど抵抗感はなく、実利一辺倒であったわけでもないと思います が、いかがでしょうか? Time : 1999/ 4/26(月) 03:40:36
Name : 輔住 E-mail : Title : かなり複雑そう Comments: 米子のなきうさぎさん、はじめまして むずかしいですね。 「くがいの人々」という視点は初めてでびっくりしています。 山伏や行商人、流れの職人などを後醍醐が利用したのは事実ですが 幕府や北朝に味方した人もかなりいると思います。 ましてこの時代は朝廷(天皇)が2人います。 「所有者は天皇」といわれてもピンとこない人の方が 多いと思います。 Time : 1999/ 4/26(月) 17:43:21
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 公界 Comments: 公界の人々は隆慶一郎が小説の中によく書いていた、 道々の人たちと同じなのでしょうか? Time : 1999/ 4/26(月) 17:54:52
Name : きんたろう E-mail : Title : 悪党 Comments: 楠一党は「悪党」の代名詞と呼んでもいい存在だったと思います。 なぜならば、彼は商業の代表だったからです。 当時はすでに武士(=武器を持った人)は農家代表ばかりではありませんでした。 商業以外も利益集団は全て武装をしていた(始めた頃か?)のではないでしょうか 。 後醍醐帝は新しい力に注目していたのかも知れないと思います。 Time : 1999/ 4/26(月) 19:32:43
Name : 米子のなきうさぎ E-mail : ZVM11106@nifty.ne.jp Title : 少し補足です Comments: ええと、言葉足らずな書き方のせいで誤解を生じている部分があるようなので補足 させてください。「くがい」についてはちゃんと調べてからまた書きます。とり あえず、「所有者は天皇」のくだりについてだけで堪忍してください。 天皇が所有者、というのは、道や海において天皇が私的に権利を行使しうるという 意味ではありません。特定の所有者が存在せず公共の利益を提供するような場にお いて、天皇の至高性という特質に着目し、所有者であると擬制している、という ようないみです。例えば「この湾の東のあたりは、俺のもの。ほかのやつは魚取る な。通ってもだめ」と無理な主張をする人がいたとします。「あほ、海は主上の ものだ。おまえの勝手は通らん、皆で使う」という反論が、天皇=所有者という考 えかたをすることによって可能なわけです。 公地公民制の考え方の名残も、関係あるかもしれませんね。 あ、それと、川村さん。私は隆慶一郎さんの小説に詳しくないので、「道々の人」 について教えてください。 Time : 1999/ 4/27(火) 02:18:55
Name : 川村 E-mail : MASAKAWA@mc.med.keio.ac.jp Title : 道々のも Comments: 隆慶一郎の小説によると、各豪族や領主により支配されているのは、 ごく一部の地域であり、そういった地域が斑点状に存在し、それ以外の 地域や寺社などの地域は誰のものでもなく(=天皇の所有であり、) そこにすむ人々は、誰からの束縛も受けず(=天皇の支配下に置かれる)、 自由に移動できるが、他の人々との縁を切って生活している人々だと かかれていたと思います。 Time : 1999/ 4/27(火) 07:31:48
Name : 米子のなきうさぎ E-mail : Title : 道々の人についてと、文観について Comments: くがいの別の呼び方、「無縁」の地でした。 道々の人とくがいの人、同じみたいです。これらの人々は軽蔑をこめた呼び方とし て「無縁の輩」とよばれることもあったようですが、「道々の輩」と呼ぶほうが 一般的だったらしいです。これらの人々はくがいの主である天皇と結びつくこと によって自分たちの権利が保証されることを計ろうとしたのです。天皇(=神聖な もの)との結びつきを強調するため、彼らは天皇に「にえ」を献上する供御人とな っていきました。それぞれの独自な職能技術=「道」をもって奉仕することから、 道々の輩という呼び方が実態に即していたようです。後に彼らが被差別者の身分に 固定されていった理由の一つは、彼らが依存していた権威の失墜にもありました (京極夏彦氏の「じょろう蜘蛛の理」にも、神聖なものの価値の失墜による売春の 意味の変質について書いてあったはずなので、それも参考になると思います)。 話は変わりますが、後醍醐天皇と悪党、道々の輩との結びつきには、文観の存在が 大きく関係している、とかいてあるのを読みました。楠木正成もその例だとか。 私は文観についてほとんど知らないので、詳しい方、おしえてください。 Time : 1999/ 4/27(火) 16:42:55
Name : 輔住 E-mail : Title : 謎だらけ Comments: 米子のなきうさぎさん、ありがとうございます。 私も文観のことはよくわかりません。 後醍醐はどのような人脈を使ったのでしょうか? 話は変わって、GW中はこの掲示板に来れませんので その後、また来ます。みなさん体に気を付けてください。 Time : 1999/ 4/28(水) 12:22:04
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 米子のうなぎさん、川村さんありがとうございます Comments: 「くがい」「道々のもの」という概念ははじめて聞きました、 大変説得力と可能性のある説明だと思います。 至上のものと、最下層のものが直結するというのは、逆説的で面白いですね。 この場合、天皇の物と言うのは、天皇の私物という意味ではなく、誰の物でもな いと言う概念を擬人化したと考えていいでしょうか?形而上の言葉が多く作られた のは明治以降ですから、そういう概念的な物も、即物的な表現をしたのだと私は思 います。 後醍醐天皇は自分の私物と考えたから、見放されたのでしょうね。 Time : 1999/ 4/28(水) 12:34:44
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 米子のなきうさぎさんごめんなさい Comments: 急いで読んだものですから名前を間違えてしまいました。本当にすみません。 Time : 1999/ 4/28(水) 15:28:56
Name : Sin E-mail : shin-funada@cam.hi-ho.ne.jp Title : つたない考えですが・・・ Comments: 皆様、初めまして。ようやくいんたねやり始めたばかりのSinと申します。こち らに来られる方々は私のただの推論をも頭から否定せずにいただける心優しい方が 多いと信じての発言ですが・・・ 私も隆慶一郎氏の小説はかなり読んだのですが、隆氏の言うところの「くがい」は 天皇の所有物と言うより、「死人」の所有物であるとSinは考えてます(ここで 言う「死人」は隆氏の小説を読んだことのある方々にはその意味をわかっていただ けると思いますが、微妙なニュアンスが含まれています)。 だからこそ「くがい」は生者がほしいままにしてはいけない場所ではないかと思っ ています。そうゆう意味では阿部様の >誰の物でもないと言う概念を擬人化した ということで、天皇の所有物と表現したとのお考えに賛成です。たとえ至高の存在 である(とされる)天皇であっても生者である以上は私有できないのが「くがい」 だとSinは考えております。 「道々のもの」は生者と「死人」の橋渡しをする役目を持っており、だからこそ「 無縁」となって一般の人々(=生者)と一線を引いて、「くがい」に生活している 、ある意味では「死人」に近い生者だったのではないでしょうか? Time : 1999/ 4/29(木) 04:52:44
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 江戸時代に日本人の思想の断絶はないでしょうか? Comments: 怨霊や死体を大事に扱うところからも、日本人は死者を不可侵のものと考えてい たようです。 日本には「常世」思想がありまして、生者の世界と死者の世界が水平な位置関係 にあると考えていたようです。行ったり来たり出来るわけです。 思うに、中世までは日本人は異形の者を軽蔑するというよりは畏れて避けていた のではないかと思います。Sinさんが言うように、彼らが生者と死者を取り持つ 者と考えられていたとしたら、おそらく軽蔑するのではなくて畏れて避けるのでは ないかと思います。屠殺に関わる人に対しても少しはそういう感覚を持っていたの ではないかと思います。 彼らに対して軽蔑一辺倒になるのは江戸時代からではないでしょうか。 ただし、死忌に関わる者を軽蔑する思想は中世からありますから私が間違ってい るかも知れません。でも何といううか軽蔑しつつも畏れていたのが畏れがなくなっ たのではないかと・・・ Time : 1999/ 4/30(金) 17:45:23
Name : 米子のなきうさぎ E-mail : Title : 断絶、っていうか・・・ Comments: 安部さんへ 中世にはまだ軽蔑一辺倒でなかった、とのご意見、賛成です。思った以上にくがい について皆さんが感想等を述べてくださったので、あれから中世について少し調べ てみました。鎌倉後期〜南北朝時代においては、道々の者は「聖別された者」とい う性格がわりと強かったようです。網野善彦氏の「中世的世界とは何だろうか」に よると、「天皇や神仏の直属民であったのは非人・河原者だけではない。(略)多 くの職能民が、こうした『聖なるもの』に結びついて(略)聖別された存在として 平民と区別された様々な特権を保障されていたのである」と説明されています。 そして、室町以降、神聖なものの権威が失墜し、それらへの依存が大きかった人々 とりわけ呪術的な宗教民などは、特権を差別の要因に転化させていったようです。 私は、これらの人々が社会の中で被差別者に固定されたのが室町時代、差別が政策 の一環にまでなって(法的根拠をも得て)より強固になったのが江戸時代、と考え ます。 江戸時代に思想の断絶があった、というよりは、転換期を終えて明確な形をもった のが江戸時代なのだと思います。 ところで、「橋渡しをする役目」という表現、おもしろいですね。名前は失念しま したが、文化人類学者(ちがうかも・・・)で、「境界に位置するものを畏怖し、 忌避するのは人類社会に広く見られる現象だ」という意味のことを言った人がいた と思います。聖書(ほかの宗教の教典だったかもしれません)に列挙されている 食べてはいけない動物の例も、その表れだそうです。たしか、2本足で歩くがひず めをもつものとかが挙げられていました。くがいや道々の者が社会とは一線を画す 存在だったのも、「広くみられる現象」の一つといっていいかもしれませんね。 Time : 1999/ 4/30(金) 21:11:57