Name    : 義澄
E-mail  : kumasan@sanyenet.ne.jp
Title   : 歴史好きな友達をつくりたいです
Comments:
歴史好きな人のサークルを作ろうと思います。歴史の場所に旅行に
いったり、飲み会とかして色々歴史についてかたれたらと思ってます。
会誌をつくってもいいかもしれませんね。ですので、特に幕末、三国志に
興味のあるかたメイル下さい。もちろん他の歴史が好きな方でもOKです。
一緒に語れるかたお待ちしています。楽しくサークルしましょう(^^)。
もちろん友達もたくさん欲しいです。

くまさんより  26歳 男性  プログラマをしています。

kumasan@sanynet.ne.jp

Time    : 1999/ 3/ 1(月) 00:10:44

Name : Toshy E-mail : Title : 関ヶ原 Comments: きんたろうさんこんにちは。 >あそこで三成がずっと隠居していれば、家康は豊臣家の最高実力者として君臨し 続けたでしょうが徳川幕府の成立については疑問だと思います。 うーん。どうでしょう。私が見るところ、反徳川勢力と思われた上杉を言い掛かり をつけて攻めようとしたように、御家騒動のあった宇喜田や、加藤清正らと悶着を 起こしていた小西などの親石田派を言い掛かりをつけて個別撃破していき、最後に 豊臣をのっとっていたでしょう。 私は三成がおびき出されたという説には賛成できないのです。・・・ここで議論し ても結果は出ないでしょうね・・・・(^^) Time : 1999/ 3/ 1(月) 00:22:22
Name : きんたろう E-mail : Title : 多勢に無勢の戦い方 Comments: 1人で多数を相手に戦う場合どのような戦法をとるのが最も効果的なのでしょうか 。この答えはたぶん宮本武蔵が吉岡一門と戦った時のように結局一対一の戦いにも っていく事だと思います。 それはToshyさんが言われた個別撃破そのものです。 おそらく関ヶ原がなければ家康は地道に「個別撃破」をやっていったような気がし ます。 私の印象では関ヶ原はよく言われているように、家康が仕組んだものではないよう な気がします。また三成が直江と図ったというのも怪しいのではと思っています。 要するに思惑をはずれたイベントだったと思うのです。 ただ、予期しない出来事に対し三成、家康はお互いに臨機応変に対応する事ができ ました。 勝者、敗者とに分かれましたが、彼らの能力はずば抜けていたと思います。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 10:13:50
Name : 輔住 E-mail : Title : 石田三成の悲劇 Comments: きんたろうさん、Toshyさん、こんにちは 確かに三成が100万石の大名だったら また変わっていたでしょうね。 現実はそうじゃないから、彼は「毛利輝元」を 総大将にしなければならなかった。 当時、「毛利」は「親家康派」と「反家康派」に別れて ましたからね。 そこに、彼の悲劇があると思います。 Time : 1999/ 3/ 1(月) 12:45:02
Name : きんたろう E-mail : Title : そうせいこう Comments: 輝元は関ヶ原の時は45歳くらい?だったと思います。 吉川、小早川という両川が欠けた状態(叔父が二人とも亡くなっていた)では毛利 家は力を発揮することが出来なかったという事なのでしょうか。 それにしても敵の大将として戦場に出るという事の意味を全く理解していなかった としか言いようがありません。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 01:03:54
Name : Toshy E-mail : Title : 石田三成 Comments: きんたろうさん、輔住さん、こんにちは。 家康の話題からいつのまにか石田三成のほうに移っちゃいましたね。 石田三成の最大公約数というと。 人望がない。家康の天下取りのために罠にかかった。戦下手。 でしょうか。司馬遼太郎の「関ヶ原」のイメージが強いですね。司馬氏の小説はお もしろいけど、やや偏見があるかな・・・ 人望がなかったら、わずか20万石の身で家康を上回る大軍を集めることが出来る はずがなかった。豊臣の権威をかさに着ていたからといって、天下の半分を掌握す ることができたのは家康・三成そして当時死者となっていた前田利家くらいでしょ うか。身上や年令を思うと、石田三成の実力のほどを見直さないと・・・・と思い ます。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 07:41:57
Name : 輔住 E-mail : Title : 石田三成の人望 Comments: 石田三成は確かに加藤・福島など敵も多かった。 でも上杉、佐竹、小西、大谷など親しかった人間も たくさんいる。 家康だって状況は大差無し。 彼らは「権力者」だから当たり前なのです。 Time : 1999/ 3/ 2(火) 17:55:17
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 「大義」の三成、「実利」の家康」 Comments: みなさんこんばんは、実は私はBBSのほうで「さっちー」と名乗っている者です 今後とも御見知りおきをお願いします。 三成と家康の最も違う所は、三成は己の理想「大義」をめざしているのに対して 家康は常に「実利」を求めている点だと思います。三成は自分に味方してくれる 大名に対して自分の理想の豊臣政権を膝詰めで披露して、今後の政権の方向性を 説いて説得していったと思っております。勿論見返りとして時期政権のポストを 約束したのでしょう。このやり方では、自分の理想に共鳴し、理解できる教養の ある人間しか説得できないと思います。 一方家康は実利として戦勝後の本領安堵と加増を約束したと思われます。 秀吉子飼いの大名達には秀頼を守る事をも約束したでしょう。人間とは「実利」 に弱いものです。できるかどうかわからない理想より、実利の方に靡くのは しょうがない事です。 この点において、家康のほうが人間学に秀でていたのではないでしょうか? 理想で飯がくえれば誰も苦労しませんから。これは今も昔も変わらない人間 の本性です。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 00:08:54
Name : きんたろう E-mail : Title : 意味不明な文?たぶん Comments: こんばんわ。 今日は「ダイの大冒険」を29巻まで読み終えました。 頭の中でものすごい必殺技が渦巻いている感覚です。 気分はほとんど「勇者きんたろう」です。 三成について書こうとと思ったのですが、メダパニ状態(知らない人はごめんなさ い)のため今日は諦めます。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 00:30:03
Name : Toshy E-mail : Title : 人間学 Comments: 徳川家康・石田三成の戦いをこよなく愛する皆さん、こんにちは。 「さっちー」さんこと勇者ロトさん、bbsのほうで名前はうかがっていました。 あちらは今、日本の古代の議論でいっぱいなので、その辺に明るくない私は遠慮し ています。 さて、人間学。これは家康が秀でていた、というのともちょっと違うような気がし ますが。三成は「実利」を説くにも、与えるものがないわけですよ。僅か20万石 ですから。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 01:06:00
Name : 奥村真 E-mail : oku@total.co.jpo Title : ドリーム・キャッチャー(織田信長へ捧げる頌歌) Comments:  深い眠りに落ちようとするとき手に持ったスプーンを床に落とし  サルバトール・ダリはその音で目覚め、夢を描きつづけた  糖分は脳を活性化させ夢をかたちづくる  過度の酒は夢さえも奪う  色彩のない夢を見る  難解な書物をまくらに複雑な夢を見る  明晰夢で夢の世界を支配する  夢見る眠り、レム睡眠は鳥類と哺乳類だけが持つ  姿勢の悪い人間は悪夢を見る  態度のよろしくない猫は悪い夢を見る  風貌の優れたシマフクロウは良い夢を見る  鯨は夢を見るが、魚は夢を見ない  かつて恐竜は夢を見つつ滅んだ  下天のうち  齢を重ねれば夢の頻度はいやまし  是非に及ばず  人生の終局はついに夢で終わる Time : 1999/ 3/ 3(水) 12:04:23
Name : 輔住 E-mail : Title : 立場の違い Comments: 勇者ロトさん、Toshyさん、みなさん、こんにちは。 私もToshyさんの言う通り、人間学の違いとは思いません。 当時、家康は豊臣家の政務を仕切っており、「東軍の総大将」でもあります。 方や三成は公式では佐和山城に蟄居の身で、「西軍の将の一人」です。 それで三成が家康並みに「恩賞」を約束すれば「越権行為」で 帰って人が集まらないと思うのですが。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 12:08:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 三成復権 Comments: 輔住さん、ロトさん、Toshyさん、こんばんわ。 輔住さんどうも有り難うございます。返事は自分の方に書いておきました。よろし くお願いします。 ロトさんがあっちで精力的な書き込みをしていらっしゃるさっちーさんだったので すか。見ていますのでよく知っています。さすがですね。 三成は一般的にはToshyさんが言われるように司馬先生の関ヶ原の印象が強くありま す。そして、さっちーさんが言われるような分析もあります。 これは当時、下克上=実力主義=実利=打算が常識であった時代には例外に見えた のだと思います。 実際三成は朱子学の信奉者だった可能性は高いと思います。 しかしどうして三成か朱子学に染まる事が出来たのか、興味があるところです。 何事にも例外というものは存在するということなのでしょうか。 それとも彼の行動は「安堵」に対する「一所懸命」の行為そのもので、「いざ鎌倉 」だったのでしょうか。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 19:40:50
Name : きんたろう E-mail : Title : 三成復権2 Comments: 「いざ鎌倉」という文章には朱子学とは無縁のものであるという意味が込められて います。 佐竹義宣は関ヶ原の時点で常陸国54万石の大名でした。 佐竹は三成と親しい間柄だったようです。 その佐竹においても東西どちらにつくかという議論があったのですから、結果とし ては白黒がついていますが(私たちは歴史として結果を知っていますが)、関ヶ原 は内容的には伯仲だったと理解した方がより正確かなと思います。 ただ2人の実績を比べれば家康が大きく上回っていました。 核になる存在の場合これは大きな要因だと思います。 カリスマ性を求めるならば結果は一目瞭然です。 ただし、家康のカリスマ性は幕府成立以後飛躍的に増大していますから、その辺の 見極めは大事かなと思います。 いずれにせよ家康が偉大であれはあるだけ、三成の能力もまた高かったのだと考え られると思います。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 21:51:45
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 人間学の定義 Comments: こん@@は「ライブハウス武道館へよーこそ!ここはふぉーらむだぜぃ!」 というのはさておき、きんたろうさん、Toshyさん、輔住さん、「人間学」 の私が思っている意味をちゃんと書いてなかったので、物議を醸し出してしまった ようでどうもすいませんでした。私の思う人間学とは、洞察力、魅力、個性、とい う意味よりも、歳を取る事、人生経験をつむ事によってしか得られない人間をむし ろ値踏みできる能力という意味で使ってしまいました。 単純に個人能力においては、家康とあれだけの権力の差、実績の差が開いている のにも関わらず、互角の兵力を集め得た事を考慮にいれるとむしろ三成の方が勝 っていた可能性があると思っています。しかもあの時代に主君に対する義理のみ で家康に立ち向かった潔さは驚嘆に値すると思っています。 しかし、その潔癖さがある意味命取りになったのでしょう。 三成の朱子学的な行動の原理は、朱子学によってではなく、論語や中国、朝鮮 の古典から得られたものだと推測しています。朝鮮出兵時に他の武将達は宝物 や茶碗をつくれる職人の徴発に躍起になっていましたが、彼だけが朝鮮の書物 や行政資料に興味をもっていた事から想像しました。 ところで、きんたろうさんダイの大冒険は読み終わりましたか?私の親友(30 すぎ独身)はマァムが理想の女性らしいです。なぐられてけがをさせられてもい いらしいです。だってホイミをかけてくれるからというのが彼の言い分です。 日本神話にもできたら感想下さい。お願いします。 Time : 1999/ 3/ 3(水) 21:58:49
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 淀君は? Comments: 三成は淀君がいなければ、戦争しなかっただろうというか、戦争できなかった だろうと思うのですが。これはどうなのでしょう? つまり、戦争するには膨大な金が必要なわけで、大阪城にはその金だけは あった。金を自由に使えたから戦争ができたわけで、使えた理由は淀君が それを三成に許可したからだと。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 10:03:32
Name : Toshy E-mail : Title : 三成と北政所の関係 Comments: きんたろうさん、輔住さん、勇者ロトさん、三枝さん、こんにちは。 ここ、すっかり「石田三成の掲示板」になりましたね(^^) 三枝さんへ、返答になるかわかりませんが。 最近の研究では、石田三成に決起を促し、それを支持していたのはよどさまではな く北政所らしいのです。これは北政所の甥たちがすべて西軍についたこと、その他 の証拠から。これは興味があれば後日お話します。 資金に関してはまさにおっしゃる通りで、豊臣家から軍資金を出してもらえなけれ ば大軍を集めることは不可能ですね。実際カネが足りないために、勇者ロトさんの おっしゃったように「実利」で説くことが出来ず、戦後の政権ポストの約束手形し か出せなかった。 また織田に金貨1000枚を約束しながら銀貨で払わなければならなかった、その ため織田は三成に協力するのを止めたという話がありました。 ちなみに「家康と北政所vs淀君と三成」の構図は、豊臣家崩壊以後に作られたも のです。家康としても後ろめたさがあって、こんな話を作り上げたのでしょうか。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 11:52:54
Name : 輔住 E-mail : Title : 彼女たちはどちらについた? Comments: 関ケ原で淀君や北の政所がどちらを支持したかは よくわからない。 昔は定説通りだと思っていたのですが...。 会津征伐では家康に軍資金を淀君は渡しているし、 秀頼が西軍として出陣すると噂が流れるし。 北の政所の甥は確かに西軍につきましたが、 そのうちの一人は裏切って「東軍勝利」に 導きました。(小早川秀秋のことです) もしかしたらどっちが勝ってもいいようにと思ったのかも! Time : 1999/ 3/ 4(木) 17:41:55
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 北の政所と淀君 Comments: こんにちは、輔住さん、Toshyさん。 難しい関係なのですね。 家康が北の政所を大切に扱ったのは、「淀君が悪者」ということにしたかったから にすぎないのでしょうか。 大名達は、二人の女性は御輿として担ぐためだけのものと考え、彼女たちの言うこ となんか、はなから聞いていなかったのかもしれませんね。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 18:43:12
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 金吾中納言 Comments: こんばんは。 北政所と言えば甥の小早川秀秋の裏切りの真相は一体どう説明したらよいのでしょ うか。 もし事前に打ち合わせが全く無く、本当に自軍に鉄砲が撃ち込まれたとしたら(射 程距離だったのかは不明)打ち込んだ相手との戦闘になるはずだ、と考える方が自 然だと思います。 やはり相当の打ち合わせがあったと考えるべきだと思います。 あの鉄砲はそれを知らせる合図で射程距離から相当離れていた。 もしやはり通説のとおりだったとしたら、秀秋はあまりにも愚かすぎるとしか言い ようがありません。 一族が敵味方に別れて戦うのはこの時代は常識でしたので、北政所の思惑はこの際 無視します。 この時代は荒々しい時代(男性の時代?)であるはずなのに彼女たちの力も異様に 強いですね。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 23:08:28
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : モシャス Comments: ロトさんへ。 大冒険はまだ終わっていません。 ちなみに私の理想の女性は妻です。(そうしか言いようがない) ところでチバレイは可愛いだけではなく知性的なところが好きです。 (ちなみにチバレイと私という雑文を私のページに載せました、あまり宣伝をして いると顰蹙を買いそうなので以上) 神話については昨晩思いつきを向こうに書きました。 あまりにもマクロそのものでピンぼけですが勘弁して下さい。 Time : 1999/ 3/ 4(木) 23:21:32
Name : 勇者ロト E-mail : Title : ルーラ! Comments: ルーラでBBSからとんできました。 みなさんこん@@は、きんたろうさん神話の話に混じっていただいてありがとう ございました。あまり反応がないので顰蹙をかってないかとても心配です。 Toshyさん最近の研究っていうのがとてもきになります。 ぜひ教えていただきたいのですが・・・・おねがいします。 Time : 1999/ 3/ 5(金) 01:55:26
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所 Comments: みなさんこんにちは。 勇者ロトさん> > Toshyさん最近の研究っていうのがとてもきになります。 > ぜひ教えていただきたいのですが・・・・おねがいします。 はいはい。お返事遅れてすみません。 ひとつめは、先日あげた通り、まず北政所の甥たちが、ほとんど西軍についたこと 。そして中でも、木下秀規は、関ヶ原から15年後の大坂の陣にいたるまで徳川と 対立している。 2.西軍の主力となった宇喜多秀家は、秀吉の養子として、幼少の頃から北政所に 育てられてきた。またその妻豪姫も、北政所の子供同然に育てられていた。北政所 が徳川よりだったら、宇喜田も当然徳川につくであろう。 3.その宇喜多秀家、出陣の前に豊国神社で戦勝祈願しているのですが、この時北 政所も祈とうしているというのです。 4.北政所の執事・考蔵主と三成の関係を調べると、密接であったことがわかる。た とえば三成の次女が嫁いだ岡半兵衛は、この考蔵主の甥であった。 などなど。もっとあるけど、後日にさせてください。 三成=淀君のつながりは疑問ですね。淀君の妹が徳川秀忠に嫁いでいること、また 秀頼と千姫の婚姻が関ヶ原よりも前だったこと、から「徳川=淀君」vs「石田=北 政所」という構図が見えてきそうです。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 20:19:38
Name : 勇者ロト E-mail : Title : おんな太閤記 Comments: みなさんこん@@は、Toshyさん、情報ありがとうございます。 北政所は石田三成のやりかたに賛同していたのですね。なんか以外です。 という事は淀君は徳川につうじていたということですか? 結局この二人は、当時の常識どおり「ふたまた」をかけていたのでしょうか? あの秀吉の正妻と愛妾ですもんね。ひとすじなわではいかないですね。 イザナギもそうですけど、「おんなはこわい」と思いました。 きんたろうさんも頑張ってください!(深い意味はないです) 「まだまだある」そうなので楽しみにしてます。 Time : 1999/ 3/ 7(日) 22:42:48
Name : 輔住 E-mail : Title : 豊臣家の直轄領 Comments: 関ケ原の前、豊臣家の直轄領は220万石あったそうです。 それがその後65万石まで落ちました。 恐らく家康が直轄領にしたり、東軍に恩賞として与えたのだと 思います。 しかしいくら彼が実権を握ったとは言え「敵」ではなかった。 豊臣の領土がここまで削られたのか不思議で仕方が無い。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 18:07:23
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 家康の危機 Comments: こんばんは。 ロトさん気にかけてくれてありがとうございます。 ここ数日間は例えて言うなら全闘気を放出してしまった後のようで、しばらく茫然 自失の状態だったわけです。(理由は不明) Toshyさんの説は私も興味があります。 どんどん書き込みをお願いします。 家康は関ヶ原の戦いに勝利して初めて誰からも「第一人者」という評価を得ました が、それまでは危機の連続と言っても過言ではありませんでした。 北条氏滅亡の後の関東移封もその一つではないかと思います。 北条氏の小田原城は当時天下一の城と呼ばれていました。 何しろ上杉謙信も武田信玄も小田原城の前では何ら有効な手だても無く、むなしく 兵を引き上げただけという実績を持っていたからです。 確かに小田原城は難攻不落の代名詞であったように思います。 秀吉軍は20万人以上(50万人とも言われている)という史上まれにみる大軍を 動員して北条氏を攻めました。 多勢に無勢の北条氏は定石である籠城策をとりました。 小田原城は過去に軍神と呼ばれた者達の軍勢すら攻め落とすことが出来なかった名 城です。 当然秀吉軍もその数は多いとはいえ、何ら手だてはなくむなしく引き上げるしかな いと想像していたように思います。 しかし、秀吉軍は信長から受け継いだ工兵や荷駄者と呼ばれる輸送専門部隊の働き のおかげで補給の心配が無く長期にわたる遠征が可能でした。 これは当時としては、兵農分離を成し遂げ独立主計将校団を成立させた信長の遺産 を受け継いだ秀吉にしかできないものでした。 その結果、小田原評定というあまり芳しくない言葉だけを残して北条氏は滅び去り ました。 そして北条氏の滅亡後関東に封ぜられたのが家康です。 現在残っている記録はこの移封を家臣団に対する自らの地位を絶対的なものにする ために自ら希望した等、積極的に書かれているようですが私はこの件については疑 問に思っています。 なぜならば家康の力の根元である松平家臣団は、何代にもわたって地域に根を張り 住んでいました。そして彼らの鎌倉武士さながらの(土地にしがみついた)一所懸 命な働きがあればこそ三河武士は強者だったからです。 だからこそ織田軍団と比べて「中世」のようだ、とか「田舎者」とか呼ばれたわけ ですが、それこそが家康の力であったと思います。 ところが家臣団そろって関東へ移住することになりました。 これには当然大きな反発があったと予想されます。 それは秀吉に対する恨みも当然予想されますが、家康に対する信頼感も相当揺らい だのではないでしょうか。 当時は実力の時代です。このときにカリスマが減少することこそ最も恐れるべき事 だったのではないでしょうか。 信頼感が喪失すれば家臣団など崩れ去るのは容易いことだったからです。 自分たちの家長の家康を遥かに上回る秀吉の実力に三河武士団は畏怖したに違いあ りません。そして強者秀吉に対する信頼感は益々増大したことだと思います。 確かに関東に移るということは石高がかなり多くなるはずでした。 しかし、それはあくまで画に描いた餅でしかありません。 メリット、デメリットを比べれば先祖伝来の土地を移らなくてすむならば、関東な どに来たくなかったに違いありません。 しかし、家康は秀吉に逆らうことなど出来ようがなかったのです。 なぜならば落城不可といわれた小田原城を楽々と攻め落としたその桁外れの実力の 前には、浜松城など何の役にも立たない事をしみじみと悟っていたからだと思いま す。 実際、織田信雄は100万石を没収されています。同じ事が徳川の身に降りかから ないという保証は何処にもありませんでした。 江戸幕府成立後、秀吉が家康を恐れ関東に移したことこそが失敗だったと言う説が ありますが、そうではないと思うのです。 前にも書きましたが、信長の構想(?)だった大阪を中心として東は箱根から西は 中国地方までを完全に支配することを受け継いだにすぎないからです。 結果として家康は危機をしのぎ直轄領の増加により家臣団との絶対的な差をつける 事に成功しました。 これにより徳川「連合王国」は徳川「絶対王政」と変貌を遂げ織田、豊臣と同じ土 俵に上がることが出来たわけです。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 22:38:58
Name : きんたろう E-mail : Title : 訂正、追加 Comments: 前に書いた文章の訂正、追加をします。 光圀の大日本史編纂のところで勤王思想は徳川家としてはどうでもいい結果だと書 きましたが(尤もそれ以上は書いていない)、自分の意識の中では徳川宗家(幕府 )≠勤王と捉えていました。 しかし、幕府もまた勤王という点においては薩長と同じだったのではと思い直しま した。 朱子学が浸透した結果、方法論、手段が違っただけで日本中の武士は皆勤王だった のではないかと思います。 Time : 1999/ 3/ 8(月) 23:01:37
Name : Toshy E-mail : Title : 金吾中納言秀秋 Comments: みなさんこんばんは。 きんたろうさん、私の説じゃなくて、受け売りです(笑)。 それはもうちょっと後日にするとして(ごめんなさい!どうしても、というかたに は、歴史群像の「石田三成」もしくは今月号の「歴史と旅」をお勧めします)、金 吾中納言秀秋が西軍から東軍に寝返ったこと、疑問ですなあ。 勝手な説を述べると・・・・・・ 彼は豊臣政権末期の、秀吉の失政を見てきた。関白秀次の死刑。三成から関白の約 束をもらったまではいいが、秀頼成人後の自分を見てしまったのか?それとももう 一人の養子・宇喜多秀家が彼の地位を脅かす存在と映ったのか? いずれにせよ、一大名で終わったほうが、秀次の二の舞にならんで済むと考えたの かもしれない。 輔住さんの疑問、考えてみたいですね。 それから、きんたろうさんの書き込み、大変勉強になりました!! Time : 1999/ 3/ 9(火) 00:01:53
Name : きんたろう E-mail : Title : かなり曖昧な記憶 Comments: こんにちは、みなさん。 Toshyさんの「女の戦いの説」はじっくり待つことにします。 さっちーさん、遊びに来てくれてありがとうございました。 とてもうれしかったです。これからもよろしくお願いします。 輔住さんの疑問の件ですが、前に確か読んだ記憶では(自信がないけど)豊臣家の 膨大な領地の中心は当然大阪でしたが、日本全国に御料地(?だったと思う)と呼 ばれる一言で言うと飛び地がありました。 例えば○○国30万石は◇◇という武将の支配地ですがその中に1万石といったよ うに存在していたと記憶しています。(相当怪しい記憶です) これを関ヶ原の後、家康は西軍についた武将の領地と一緒にそっくり没収しまった わけです。 結果として豊臣家は200万以上あった領地が65万石にまで減少してしまいまし た。 ちなみに当時佐竹氏は今の茨城県ほとんどを支配していましたが、石高で言うと5 4万石でした。それから考えると65万石は現在の県もしくはそれ以上に相当する と思います。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 18:06:22
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 家康の頭痛 Comments: こんばんは。 金吾くんの事はどうもよく分からないのですが、案外Toshyさんの言われるとおりか も知れません。 それにしてもあの三成をだませたのですから記録上は愚か者の典型のような烙印を 押されていますが、実は大した能力の持ち主だったのかも知れません。それで家康 に警戒されてしまった、というストーリーも成り立つのではないかと思います。 家康はどうして上杉を対象として選んだのでしょうか。 関ヶ原を演出するならば別に毛利でも宇喜多でもよかったと思うのです。 前に少し書きましたが、恐らく「個別撃破」を続けたであろう着実型の家康にとっ ては上杉でなければどうしてもだめだったのだと思います。 徳川家臣団が関東に移住して約10年が立っていました。手探り状態だったものが ようやくしっかりしたかたちとして成り立ってきた頃だと思います。 今まで丹精に農地を耕してきてようやく収穫の時期にさしかかった頃と思えばいい でしょう。 そのような時秀吉の死という巨大な波が家康の領地にどんな影響を及ぼすのか予断 を許さない状態にあったと思います。 家康その堅実な実績からすると、何にもまして自国に戻り豊臣家の内紛の火種が降 りかからないことを望んでいたような気がします。 だからその口実として会津の上杉を選び、関東に戻ろうとしたのではないでしょう か。 そう考えると関ヶ原は家康の構想にはなかったと思います。 ただやはりナンバーワンの男は臨機応変に十分に対応できたわけです。 Time : 1999/ 3/ 9(火) 22:51:35
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 小早川秀秋はほんとに馬鹿なのか? Comments: みなさんこん@@は、風邪で頭がまわらないので今日はギャグはなしです。 期待していた方(そんなもんおらへんちゅうに)ごめんなさい。 私は彼の事を精神薄弱だと思ってました。逆説の日本史の影響か、最近、 じつは彼は天下をねらっていたのではないか?と考えています。 石田三成をなきものにしたあと、豊臣の実権をにぎり、ひいては家康も倒して 天下統一を目指していたんじゃないかと思います。 でもこんな事本気で考えていたら・・・それこそ精神薄弱ですね。 Time : 1999/ 3/10(水) 00:12:45
Name : 輔住 E-mail : Title : 小早川の裏切り Comments: きんたろうさん、質問に答えていただき ありがとうございます。おかげで悩みがひとつ減りました。 私自身は小早川秀秋にはあまりよいイメージはないのですが、 西軍を裏切った理由としては恩賞もあるでしょうが、 晩年の秀吉に冷たく扱われたこともあるでしょう。 小早川家に養子に出され、朝鮮出兵の時のミスにより 領地も減らされました。 それを元の領地に戻してくれたのは家康です。 そうしたことも一因かもしれません。 Time : 1999/ 3/10(水) 13:35:28
Name : 輔住 E-mail : Title : 小早川の裏切り Comments: きんたろうさん、質問に答えていただき ありがとうございます。おかげで悩みがひとつ減りました。 私自身は小早川秀秋にはあまりよいイメージはないのですが、 西軍を裏切った理由としては恩賞もあるでしょうが、 晩年の秀吉に冷たく扱われたこともあるでしょう。 小早川家に養子に出され、朝鮮出兵の時のミスにより 領地も減らされました。 それを元の領地に戻してくれたのは家康です。 そうしたことも一因かもしれません。 Time : 1999/ 3/10(水) 13:35:39
Name : 池内晴紀 E-mail : ninzya@snake.interq.or.jp Title : はじめてお目にかかります。 Comments: みなさん、小早川秀秋で盛り上がっていますね。 関ヶ原で秀秋が裏切ったのには、吉川広家の 無言の圧力もあったでしょうし、北の方様 おね様が家康公に与力されていた由、 噂には聞いております。 しかし、秀秋が後に気にやみ、心を病んで 死んだことからも、秀秋自身にはかなり葛藤 があったようにも思われます。 新参が不躾な言いよう、平にご容赦を。m(_)m Time : 1999/ 3/11(木) 02:35:34
Name : Toshy E-mail : Title : うおっ。 Comments: こんにちはあ。みなさん。 池内晴紀さん、はじめましてです!! ご容赦も何も、いろんな話があっていいじゃないですか。 で、私が前のほうで書いてたことですが、北政所は三成を支持していた、という研 究が最近なされていて、当初西軍についたのはそういう理由のようです。 吉川広家の圧力か・・・・なるほど。考えたことなかったです。 輔住さんのいう、家康の恩義という説も説得力がありますね。そうすると家康は、 天下を狙うための布石をうっていた、ということになる。家康ほどの人物ならあり そうですね。 Time : 1999/ 3/11(木) 08:39:52
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 小早川秀秋についての質問 Comments: みなさんこん@@は、急に疑問が湧き上がりました。 1.小早川秀秋は毛利一門にどう思われていたのでしょうか? 2.関ヶ原の合戦における西軍の現場における総大将は誰だったのでしょう? 3.宇喜多秀家とは仲が悪かったのでしょうか? 何方か、教えていただけないでしょうか?推測でもいいのですが・・・・・ お願い申し上げます。 Time : 1999/ 3/11(木) 21:43:02
Name : Toshy E-mail : Title : 私の考え Comments: みなさんこんばんは。 勇者ロトさんの疑問ですが、私は勝手にこう思っています・・・・・・ 1の疑問) 養子に来たとはいえ、他人には違いなかった。ほとんど別一門の扱いだったのでは 。 2の疑問) 宇喜多秀家。これは確実だと思います。なにせ最大の軍を率いていますし。中納言 という地位も重い。そして秀吉の猶子である。 3の疑問) 兄弟同然に育ったとはいえ、他人同士だから・・・・秀家のほうは秀秋を弟として見て いただろうけど、秀秋の方はどうかな?嫉妬心に近いものを抱いてた可能性があり ますね。 Time : 1999/ 3/12(金) 00:45:11
Name : 輔住 E-mail : Title : 秀秋と秀家 Comments: みなさん、こんにちは 勇者ロトさんの疑問に対する私の意見も Toshyさんとほとんどかわりません。 (1)秀吉は当初、毛利輝元の養子にしようと思っていたらしい。 (当時、輝元には実子がいなかった) しかしさすがにそれは断った。しかし秀吉の機嫌をそこねるのは まずいので小早川の養子にした。 そこから考えると毛利からすると一線は引くでしょう。 (2)やはり宇喜多秀家が立場上そうなるでしょう。 長期戦になって輝元でも出陣すればまた変わったでしょうが。 (3)2人とも秀吉の養子だが片方は北政所の甥で もう片方は宇喜多直家の息子、立場からいって ライバル意識の方が強いと思う。 Time : 1999/ 3/12(金) 08:57:33
Name : きんたろう E-mail : Title : 五大老 Comments: こんにちは。 勇者ロトさんの疑問点について考えていたのですが、Toshyさんや輔住の意見が大変 参考になりました。 二人の言われるとおりだと思います。 ところで秀吉はどのような基準をもってどのような基準をもって五大老を決めたの でしょうか?。 Time : 1999/ 3/12(金) 14:12:39
Name : 輔住 E-mail : Title : 5大老 Comments: きんたろうさん、みなさん、こんにちは 5大老の基準はまだ明確ではないでしょう。 石高では宇喜多より島津の方が上だし、 官位では宇喜多秀家や毛利輝元とおなじ「中納言」でも 小早川秀秋はなってません。 勝手に想像すれば、石高+官位+他の大名への影響力の総計? Time : 1999/ 3/12(金) 17:50:53
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 五大老について Comments: みなさんこん@@は、Toshyさん、輔住さん、きんたろうさん疑問に答えて頂 いてありがとうございました。 やっぱり宇喜多秀家が実質の総大将ですよね。五大老ですもんね。 もし、小早川秀秋が総大将なら西軍が勝ってたかもしれないと考えました。 なんといっても豊臣家と血縁があるのですから。しかし小早川は毛利の分家扱い の家格です。豊臣家にとっては血縁者の力量不足が致命的な弱点だったのではな いかと思っています。こうなってくると小早川隆景に毛利本家との縁組みが邪魔 されたのが悔やまれます。もし毛利の後継に秀秋が確定していたら・・・・・ 五大老どころか、豊臣の宰相として秀秋は確固とした地位をたもてたのにと 考えました。 でも、ほんとに秀秋が馬鹿ならどうしようもないですが・・・・。 五大老の選択条件は「裏切られたらこまるヤツ ベスト5」ではないでしょうか? Time : 1999/ 3/12(金) 22:09:43
Name : Toshy E-mail : Title : 五大老 Comments: 宇喜多秀家がここに入っている理由は、秀吉の信頼感というものでしょうね。徳川 ・前田・上杉・毛利の四大名に比べ、宇喜田は27の若年。それなのに「中納言」であ り、席も徳川と前田に次いで3番目。秀吉の信頼の厚さが、彼を五大老に選んだの でしょう。 Time : 1999/ 3/12(金) 23:38:40
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : モバイル Comments: こんにちは。 輔住さん、勇者ロトさん、Toshyさん、さっそくの回答どうも有り難うございました 。 五大老ではなくて六大老でもよかったのかなと思いました。 それにしても昨日は変な文章を送ってしまいました。 (モバイルを久しぶりにやってみました、失敗!!) Time : 1999/ 3/13(土) 11:38:46
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所 Comments: 輔住さん、勇者ロトさん、きんたろうさん、池内晴紀さん、こんにちは。 それにしても、なんか安定した顔ぶれになっていますね。 ひさしぶりに「北政所・三成支持説」の概要をお話します。 北政所は秀吉の「糟糠の妻」である。秀吉の天下取りを支え、また秀吉の死後も豊 国神社に参拝し、語りかけている人だった。淀君との対立くらいで夫の悲願を裏切 り、家康に天下を明け渡すような人とは思えない。第一、秀頼は北政所を「まんか か」と呼んで慕っていたほどだから、淀君に対する嫉妬心で家康に通じるはずがな く、また家康の本心(天下を乗っ取るという)を見抜けないような世間知らずでも ない。 この辺の心理なら何とでも説明がつくけど、宇喜多秀家が兵を挙げ、打倒徳川の必 勝祈願をした時には、側近の東殿局を代理として派遣した(『梵舜日記』より)。 秀家とその妻豪姫は、秀吉夫婦の養子として育てられてきた人たちである。北政所 が家康を支持していたら、秀家は東軍についていたはずである。 では加藤清正・福島正則らはどう説明するか?代理人を派遣したことも、秀家に対 する愛情と考えられないこともない。 ところが、加藤・福島らは豊国神社に参拝したり、北政所のもとに足を運ぶ様子は まったくなかった(ちょっと意外でした!)。ちなみに彼らが初めて豊国神社に参 拝したのは慶長8年、関ケ原から3年も経った時であった。この時期の資料を見る と、北政所が参拝する時は加藤・福島らは姿を見せず、逆に加藤・福島らが参拝の 時は、代理人すら派遣していない。お互いを避けていたとしか考えられない。・・ ・・・・ 長くなりました。続きはまたにします。 Time : 1999/ 3/14(日) 00:01:09
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 打算の天才 Comments: こんにちは。 Toshyさんの「北政所」を読ませていただきました。 なかなか難しいですよね。(でも面白いです) 加藤清正達武辺派と呼ばれていた武将達は、要するに彼ら自身の基準に従って家康 を次のボスと認めたことだと思います。 ただ、秀吉直系と誰からも見られていたため、傘下にはいるにはそれなりの手みや げが必要だった、ということなのでしょうね。 これは打算そのものの行為ですが、あの時代の常識でもあった訳ですから誰も責め ることは出来ないのだろうと思います。 ただそれにしても、子供の頃から育ててもらって大名にまでなれたのに(してもら ったのに)、あまりにストレートには「裏切る」事がいくら当時とはいえ出来なか ったのではないでしょうか。 そうした思惑と、家康側の豊臣家をつぶした事に対して何とか正当化しようという 思惑とが合体して「いわゆる通説」が出来たのかなと思います。 いずれにしても糟糠の妻である北政所の子供さえいれば(それも男子、生まれてい れば当然関ヶ原の時には成人に達しているはず)歴史は変わっていたことだろうと 思います。 Time : 1999/ 3/14(日) 18:11:51
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 加藤清正と福島正則 Comments: みなさんこん@@は、Toshyさん北政所のこと興味深く読ませていただきまし た。きんたろうさんの通説の成り立ちも納得いきます。 虎之助と市松は、幼少時より秀吉に育てられ、だれからも子飼いの武将として、 一目おかれていたと思います。しかし三成による豊臣政権の将来のビジョンからは はずれていたのだと思います。彼らは前時代的感覚の持ち主だったのでしょう。 豊臣をここまでにしたのは俺達だという意識が強すぎたのだと思います。その意識 が豊臣の次世代にはうけいれられるはずはないですから。利家や官兵衛らの老臣は 死んだり、隠居したりして次世代への移行からはずれましたが、彼らははずれるに は、年齢的に若すぎたのでしょう。結局徳川の時代になっても彼らの意識は改革で きず、切り捨てられます。過去の栄光や実績に自分自身が縛られていたのではない でしょうか? Time : 1999/ 3/14(日) 22:18:52
Name : 輔住 E-mail : Title : 彼らが東軍になぜついたのか? Comments: 清正や正則がなぜ東軍についたか? 三成と犬猿の仲なのが最大の理由だと思いますが、 でも、家康の天下取りの野望までは見抜けなかったのかも知れないし、 天下を取ったとしても秀頼を殺すとは思わなかったのかもしれない。 前者はともかく、後者の理由としては秀吉は織田家の天下を横取りしたが 嫡孫の織田秀信をはじめとして織田一族を大名として優遇している。 (ただし信長の3男の信孝だけは殺していますが...) Time : 1999/ 3/15(月) 12:36:58
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 家康の心理 Comments: こんばんは、みなさん。 豊臣家が滅んだ最大の理由は一帯何処にあったのでしょうか。私はその対処の仕方 にあった思います。 関ヶ原以後、確かに家康は豊臣にとって代わろうと思っていたと思います。 でも、豊臣家が「大阪評定」さえ繰り返さなければ、少なくともつぶされる事はな かったのではないでしょうか。 歴史は同じ様な事例を繰り返します。豊臣家はあれを学ぶべきでした。 そして、もっといい例が豊臣家のすぐ前にあったのです。それは家康でした。 家康にしてもあそこまでたどり着くのに、何度苦い思いをしてきたのか数え切れな いほどだったと思います。 下総、安房は千葉半島とも言える場所です。 ここに移ってさえ来れば、大坂城という究極の鎧を脱いだ豊臣家は家康の驚異には なり得ませんでした。(何しろ江戸と目の鼻の先、かつ逃げ道はなし) 当然それには頭を下るわけですが、結果として親戚筋として残る事が出来たのでは ないかと思います。 Time : 1999/ 3/15(月) 21:33:01
Name : Toshy E-mail : Title : いろいろと Comments: すでに固定メンバーとなったみなさん(笑)こんにちは。 輔住さん、もしかすると淀君が清正・正則らに家康荷担を命じたのかもしれません よ!後に淀君・秀頼母子に、うやうやしく仕えたところからすると。・・・・・・ 勝手な推理(^^)・・・・・・あるいは清正・正則らが家康についた事情には、石 田三成と犬猿の仲だったこともさることながら、利害も関連していたのでしょうね 、やはり。秀吉の子飼い大名たちは、過大雇用などから財政が逼迫していたといい ますから、「義」よりも「利」を選んだのはしかたないことだったのかも。そうい えばこれ、以前にも話題に上ったような気がする・・・・・・ ところで北政所の話、もうちょっと続けていいですか?今度は人物編。 北政所には、8人の甥がいる。 木下勝俊(若狭小浜6万2千石)、木下利房(若狭高浜3万石)、木下延俊(播磨 三木2万石)、木下俊定(丹波1万石)、小早川秀秋(筑前30万石)、木下秀規 (秀吉の馬廻り)木下某、紹叔。 この8人のうち出家している紹叔を除き、東軍についたのは木下延俊一人で、他は すべて西軍として参戦した。特に木下秀規は、大坂の陣の際入城し、豊臣家に殉じ ている。 また石田三成の次女が嫁いだ岡半兵衛(上杉家家臣)は、北政所の側近・孝蔵主の 甥であった。孝蔵主の甥たちのほとんどは、慶長5年の奥州戦線で上杉方として戦 っている。孝蔵主の弟・河副正俊は関ケ原で西軍として戦ったばかりか、大坂の陣 でもやはり豊臣方として参戦、討死にした。さらに、北政所の筆頭側近・東殿局は 大谷吉継の母である。北政所の周囲の人々は、すべて西軍として戦っていた。・・ ・・・・ なお、この人間関係から、最近否定されがちな上杉=石田同盟をふたたび肯定する 動きもあるようです。 ところで、豊臣の人たちは秀頼が関白になることを待っていたのかもしれません。 秀頼は13歳で右大臣になっていますから、あながち関白という地位も夢ではなか ったのでしょう。関白秀頼が誕生すれば、徳川家康・秀忠は秀頼の成人後に政務を 返す、ということになっていたのでは? 関白ともなれば公儀の人ですから、朝廷の後押しがある。徳川が全国の大名に号令 をかけて攻めるわけにはいかない。となれば徳川は自軍だけで戦わねばならず、背 後には伊達・毛利・前田・上杉など不穏な連中も多い。贔屓目にも家康に大阪城の 攻略は出来なかったでしょう。朝廷相手に「騙し」で堀を埋めるなんてことは出来 ませんから。 Time : 1999/ 3/16(火) 00:27:56
Name : 輔住 E-mail : Title : 豊臣問題&石田・上杉同盟 Comments: みなさん、こんにちは きんたろうさんの言う通り、 確かに豊臣家が徳川の言うことを素直に聞いていれば、 もう少し寿命が延びたと思いますが、結局は 秀頼の次ぐらいで潰されたと思います。 理由としては豊臣恩顧の大名の数多くが 江戸前期に潰されているし、当然彼らよりも 厳しくマークされると思います。 後、石田・上杉同盟ですが、私はあったと思います。 そうでなければ、謀反人の汚名を着た上杉景勝に 勝ち目がない。そんな無謀を彼が起すとは思えません。 Time : 1999/ 3/16(火) 15:51:01
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 組織がつぶれる時 Comments: 石田三成が嫌いなので参加していなかったのですが、それほど捨てたものではな かったようですね。しかし、彼は頑張れば頑張るほど周囲が去っていくタイプのよ うな気がします。徳川家康は逃げ場のない陰謀や才が先走ることはありませんでし た。徳川家康は在世中は「律義者」として有名でした。ただし、毛利元就も「律義 者」といわれていました。 大阪側の命運は片桐且元をいびり出した時点で決まっていたでしょう。淀殿は女 性が政治にタッチした時の悪い面が出ていますし、大野治長は参謀として最低です 。日本軍の崩壊と同じです。 更にいくら大阪方が豊富な兵糧を持っていたとしても、大阪城に田んぼはありま せん。10年持ちこたえても、兵糧が0になればおしまいということです。兵站の 無視です。豊臣秀吉もこれで朝鮮征伐に失敗しました。囲む側は在庫がなくても、 補給があるのです。 北政所が余生を過ごした高台寺は、徳川家が篤く信仰した知恩院のすぐ近くにあ ります。監視されていたのでしょう。 知恩院のふもとに、方広寺と豊国神社があります。これもまた監視の意味があっ たと思います。 知恩院は、要塞化されています。 Time : 1999/ 3/16(火) 17:07:00
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 長男の時代 Comments: こんばんは、みなさん。 千葉に来た(としたら)豊臣家はもはや徳川にとって脅威ではなく、逆に殺生与奪 権を完全に押さえた相手となるはずでした。 そのような相手であれば家康は潰さなかったと思うのです。 でも確かに輔住さんの言われるとおり、家康から代替わりしたらどうなっていたか 分からないと思います。 徳川幕府は大阪の陣で豊臣家を潰してから約30年間、慶安の変の頃まで戦国時代 の大掃除とでも呼べるような大名家の取り潰しを行ってきました。 家康は長男こそが財産の相続者であるということを自ら進んで示しました。 これによって鎌倉期から続いてきた問題を一挙に解決してしまいました。相続問題 は南北朝時代をあれほど続かせた最大の要因でもあったと思います。 これこそが家康の最大の功績なのではないかと思います。(当然このために埋もれ てしまった才能が無数にあるだろう事は承知の上でです) Time : 1999/ 3/17(水) 00:10:11
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 今は長男受難の時代? Comments: 鎌倉時代は兄弟全員に(女性も)等しく遺産相続の権利があったようです。原則 は、父親の遺言が一番権威を持っていたようです。等分相続を続けるうちに、御家 人は生活できなくなってきました。現在でも、金持ちも3代経ったら貧乏人です。 そのため、実力のあるものに財産を全て与えて、それに漏れた兄弟は頭首の下に 付くようになってきました。この変化は、鎌倉時代から始まっています。 平和な時代ならば、親の一存に従うでしょうけれども、天皇が2人もいるような 時代になると、実力のあるものとは戦争に勝ったものになってしまい、南北朝と室 町時代の果てしない戦乱が始まるのです。現在「週刊ポスト」で井沢先生はそこら 辺の所を書いています。 「日本の歴史10−戦国の群像」(集英社)によると、日本全体で相続問題を裁 定する権威(日本国王)が消えたため、各地方で名士が相続問題を始めとする権益 の裁定をしたのが戦国大名の始まりだと説明していました。 豊臣家が大阪にのさばっている限り南北朝の再現の可能性があり、豊臣家を一大 名に落とす、あるいは滅ぼすことは正義だったと思います。「逆説の日本史ー魔王 編」はその説明です。 Time : 1999/ 3/17(水) 13:13:39
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 付け足し Comments: 徳川家康派なもんで、ちょっと熱くなっちゃうんですよ。 Time : 1999/ 3/17(水) 13:26:04
Name : 輔住 E-mail : Title : 平和の使者 Comments: みなさん、こんにちは。 私ははっきりいって徳川家康が嫌いです。 腹の中で何を考えているがわからない 近寄りがたいイメージがあります。 しかし石高の高い外様大名を幕政に参加させず、 石高の低い譜代大名を老中にして「権力」を与えたり、 「長男相続」を決めたことは「平和維持」観点からは とても優れた政策だと思います。 (きんたろうさんご指摘の通り弊害もありますが) こうした政策で徳川の時代が260年間も続いたと 思います。 Time : 1999/ 3/17(水) 18:03:12
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 女性受難の時代 Comments: こんばんは、皆さん。 輔住さんどうもありがとうございます。 本能寺は自分のところへ書きました。よろしくお願いします。 妻の実家の悪口などを言う事は夫婦仲が悪くなる大きな要因といわれていますが、 戦国時代の女性は実家との縁は今考える以上に深いものだったはずです。 伊達政宗は20代の若さで会津芦名氏を討ち滅ぼし、その名声は現代でも高いです が、その時の相手であった芦名盛重とは従兄弟の関係でした。 芦名盛重は佐竹義重の子供で佐竹義宣の実弟にあたります。 伊達政宗の父親の妹達が佐竹氏、芦名氏に嫁いでいたのでした。 ですから佐竹、芦名、伊達は親戚関係であったわけです。 北関東から東北の豪族達は親類関係を結んでいましたので、お互いに徹底的に戦う ということがあまり見受けられないようです。 そうした中で伊達対芦名、佐竹連合軍の戦いが始まったわけです。 佐竹義重は鬼義重と呼ばれ、対北条戦でも十分な実績を持っている武将で北関東の 雄として存在していました。 ですから順当に戦えば伊達の勝利はなかったと思われます。 この時、実家が滅ぼされるかも知れないと思った義重の妻である宝寿院は、東義久 という武将に手を回したと言われています。 その作戦は功を奏し、義重は援軍に間に合わず宝寿院から見れば甥の伊達正宗は勝 利しました。その結果、自分の息子は80万石の大名の座を追われてしまったわけ です。 一方の正宗にしては叔母の恩など露ほども感じてはいなかったようです。 宝寿院の例は特別にしても、この時代の女性はあくまで実家の立場に立つというの が一般的だったようです。 ところで北政所は木下家、浅野家の一体どちらを実家と考えていたのでしょうか。 また淀君のようにすでに実家がない女性はどうだったのかなと思います。 Time : 1999/ 3/18(木) 22:44:44
Name : きんたろう E-mail : Title : 反省 Comments: 政宗の変換を二度も間違えていました。 Time : 1999/ 3/18(木) 23:41:45
Name : Toshy E-mail : Title : 北政所の実家 Comments: きんたろうさん、こんばんは。 >北政所は木下家、浅野家の一体どちらを実家と考えていたのでしょうか 先に記した北政所の豊国神社の参拝に関する記事によると、兄の木下家定とともに 参拝したという記録があり、どうも木下家のほうを重視していたようですね。やは り生家ということで。 なお、ちょっと話がズレますが、浅野長政は加藤清正らと親しかったような印象が ありますが、徳川家康が勝手に他大名と婚姻関係を結びはじめた時は、石田三成と ともに弾劾しています。あとから東軍に寝返ったとはいえ、もともとは反徳川勢力 だったようです。 Time : 1999/ 3/19(金) 01:04:08
Name : 輔住 E-mail : Title : 家康暗殺計画 Comments: みなさん、こんにちは 浅野長政が家康側になったきっかけとして 「幻の家康暗殺計画」があると思います。 私自身はこの事件は徳川が流したデマだと思っていますが...。 この結果、浅野長政や大野治長が一時蟄居となり 前田利長は母親を人質に出すことになります。 この時、家康に対抗するのを諦めたのでしょう。 また、前田は徳川に頭が上がらなくなりました。 この事件がなければ宇喜多秀家との関係で (秀家の妻の豪姫は利長の妹) 西軍についた可能性も高いと思っています。 Time : 1999/ 3/19(金) 12:12:24
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : 安芸藩 Comments:  みなさん、どうも毛利輝元、福島正則、浅野長政と歴代の安芸藩の藩主を話題に してくれてありがとうございます。私は広島市出身であるため、うれしく思います 。ちなみに広島県立図書館は別名「浅野図書館」といいます。  ところで、話は戻り小早川秀秋ですが、彼が養子となったために小早川隆景の後 嗣は途絶えました。でも確か小早川隆景は毛利元就の晩年の息子、すなわち腹違い の弟を養子にしています。それはどうなったのでしょうか? Time : 1999/ 3/19(金) 13:45:33
Name : 輔住 E-mail : Title : 藤田さんへ Comments: 藤田さん、みなさん、こんにちは 多分、藤田さんのおっしゃているのは 「秀包」のことだと思いますが 関ケ原のあるシュミレーション小説では 「毛利秀包」となっていますので本家に 復帰したと思います。 Time : 1999/ 3/19(金) 18:00:36
Name : きんたろう E-mail : Title : 広島県人気質についての疑問 Comments: 藤田さん、こんばんは。 広島は私の想像以上に良い所でした。(宮島は素晴らしかった)気候、水、山の幸 、海の幸にも恵まれています。(瀬戸内地方は大体そうなのかも知れませんが) そういえばお米も美味しかったですね。 ところで、そうした恵まれた環境にも関わらず海外移民が日本で一二に多かった県 だと記憶しています。 理由としてはどういうものが挙げられるのでしょうか。 私はかつて広島は相当貧しいのだろうと勝手に推論していました。 でも経済的、環境的に茨城などより遥かに豊かだという事実を知った時にどうして もこの疑問を解決できませんでした。 歴史的に瀬戸内海を内海としているため、進取の気性があると言う事なのでしょう か。 Time : 1999/ 3/21(日) 21:44:54
Name : きんたろう E-mail : Title : 浅野長政 Comments: Toshyさん、こんばんは。 浅野長政の行動は言われるとおりの経緯だと思います。 当初は五奉行でアンチ家康サイドであったにも関わらず、徳川政権下で安芸49万 5千石という大々名にまでなったその背景には何かがあったのでしょうか。 外様大名でありながら外様大名ではないような印象を受けます。 Time : 1999/ 3/21(日) 22:12:30
Name : きんたろう E-mail : Title : ちょっと追加 Comments: 輔住さんの言われる経緯のとおりの間違いでした。 すみませんでした。 Time : 1999/ 3/21(日) 22:15:45
Name : 藤田 潔 E-mail : kfj@mail2.netwave.or.jp Title : RE-広島県人気質についての疑問 Comments:  金太郎さん、こんばんは。 >藤田さん、こんばんは。広島は私の想像以上に良い所でした。(宮島は素晴らし >かった)気候、水、山の幸、海の幸にも恵まれています。(瀬戸内地方は大体そ >うなのかも知れませんが)そういえばお米も美味しかったですね。 >ところで、そうした恵まれた環境にも関わらず海外移民が日本で一二に多かった >県だと記憶しています。理由としてはどういうものが挙げられるのでしょうか。  どうも広島を気に入っていただき、ありがとうございました。しかし、どうし て移民が多いのかは考えたことがありませんでした。身の回りをみても広島県出 身者は結構郷土愛が強く、できれば広島に帰りたいと思っています。そんな人た ちがどうして海外なんかに行くのでしょうかね? >私はかつて広島は相当貧しいのだろうと勝手に推論していました。でも経済的、 >環境的に茨城などより遥かに豊かだという事実を知った時にどうしてもこの疑 >問を解決できませんでした。歴史的に瀬戸内海を内海としているため、進取の >気性があると言う事なのでしょうか。  貧しいことはないとは思います。一応広島市は百万都市だし。ただし福岡、札幌 、仙台と違って、その地方の中心都市だと近県の人たちには思われていないの が玉にきずです。特に現在私が住んでいる四国の人は中四国の中心都市が広島と 思っている人は皆無に近いようです(中四国が一つの地方とは思っていない)。  まあ、わたしもきんたろうさんの疑問を解決するために、もう一度郷土史を勉 強してみたいと思います。 Time : 1999/ 3/21(日) 23:43:44
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 岡山県人の逆襲 Comments: 日本のユダヤ人岡山県人の安部奈亮です。細かく言えば、茨城系岡山県人になり ます。 井原線開通おめでとうございます、岡山県民広島県民共通の財産ですね。 広島県は山ばっかりじゃけん、増えた分はやはり移民という話になるんじゃない じゃろうか?しかし、中国山地の過疎化は中国地方全体で考えるべき問題かもしれ んのお。 私、福山という町も不思議なのです、何故50万人も人が住んでいるのでしょうか 。広島県は貧乏という固定観念にとらわれているのかもしれません。 瀬戸大橋と高速道路の整備で、中四国の交通の中心は岡山に移りつつあるような 気がします(県民エゴ丸出しの発言)、しかし私は倉敷人ですので岡山の発展を手 放しでは喜んでいない、うーんどこまでへそが曲がっているのか? 池田輝政も浅野さんと同じようなところがありますね。私は、岡山よりも鳥取の 池田家の方が格が上なのが不思議でならないのですが、誰か理由をご存知でしょう か。 Time : 1999/ 3/23(火) 10:55:24
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 福山は Comments: 今、人口、38万人ですね。 日本鋼管の工場誘致で増えたらしいのですが、不況で30万人台から上に、どうして もいけないみたいです。 広島の人口は、以前は造船、ある時期からマツダが支えていたのかな? Time : 1999/ 3/23(火) 15:42:05
Name :E-mail : ynooka@sannet.ne.jp Title : 池田氏と浅野氏の格について Comments: 池田氏と浅野氏の格の件ですが、池田氏の実質的な創始者は御存じの通り池田輝政 です。彼は元々、織田信長の譜代家臣池田恒興の次男だったと思いますが、池田恒 興は織田信長の乳母児だったはずで、織田家の足軽頭クラスで秀吉の出世に伴って 出世した浅野氏とは元々格が違うと言えそうです。又、池田恒興、長男の元助は長 久手の戦いで秀吉方につき徳川家康に破れ戦死してしまいましたが、池田輝政は戦 後、徳川家康と友好関係にあり関ヶ原の戦いでは最初から親徳川で行動し、多少疑 わしいところがあった浅野長政とは家康からみた印象度はかなり異なっていたと思 います。もっとも戦後浅野氏も紀州の大大名になりましたが。(長政自身では無く 長男に与えられた?)池田輝政は姫路に移封され、現在も残る有名な姫路城天守閣 を築いています。従ってこの二つの理由から池田氏の方が浅野氏より格が上だった のではないかと思います。 Time : 1999/ 3/23(火) 15:42:26
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 池田動物園 Comments:  三枝さん、大さん、ありがとうございます。  それと、岡山(備前)池田家と鳥取(ホウキ、因幡)池田家の格の差もお教え下 さい。岡山池田家の方が輝政の長男の光政ですから本来なら池田の本家だと思うの ですが、石高と家格は鳥取の方が上であるのが不思議です。  池田家には、高位の罪人がよく預けられるのですが、それもなぜでしょうか。江 戸時代には、罪人を預かる家というのが在ったように漠然と感じるのですが、どう でしょうか。  明治以後は、池田家は皇室とも縁があったようです。 Time : 1999/ 3/23(火) 18:52:15
Name : きんたろう E-mail : Title : 後楽園 Comments: こんばんは、みなさん。 岡山には水戸偕楽園、金沢兼六園と並び称される後楽園があります。 一度しか行ったことがないのですが「きれいな箱庭」といった印象があります。 岡山のイメージは「大都会」です。(何しろ県都水戸市の人口は20万ちょっと) 倉敷は古びた宿屋が情緒を醸し出していてよかったですね。 きっと水かきれいな所なのだと思います。 鳥取と岡山の両池田家については、たしか鳥取の跡継ぎが余りにも幼子だったので 岡山とチェンジしたことがあった様な記憶があります。(怪しい記憶) 池田家に対しては「小牧長久手」のフライングのおかげで、家康がポイントをゲッ トしていますのでそのお礼かも? Time : 1999/ 3/23(火) 21:56:02
Name : 輔住 E-mail : Title : 池田家 Comments: 安部さん、今日は 私は池田輝政の長男は利隆だと思っていましたが 間違えたかもしれません。 正確なことは分かりませんが利隆の弟が分家したのだと すれば原因は下記のことだと思います。 利隆は先妻の子で、弟は後妻の子です。 後妻は家康の娘です。 将軍家と血がつながっているから? Time : 1999/ 3/24(水) 12:35:53
Name : 山口 哲郎 E-mail : Title : みなさま はじめまして Comments: みなさま はじめまして 山口哲郎(テツオ)といいます 井沢先生の逆説の日本史をよんで カルチャーショックを受けた類の者ですが^^; どうかよろしくお願いします 実は,前々から日本史の中で疑問に思っていたことがあるのですが なぜ,徳川家康が天下をとれたか 不思議に思っているんです それは,豊臣政権成立の段階で徳川家康は有力大名には違いありませんが 駿河,遠海,三河と甲斐,信濃の一部を押さえているに過ぎません 家格がそれほど高いわけでもありません それが,五大老の筆頭になり他の大名家がなぜしたがったのか?疑問です なぜなんでしょうか? Time : 1999/ 3/25(木) 05:45:59
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 家康の声望 Comments: 山口さん、はじめまして。みなさん、お久しぶりです。 家康がなぜああまで豊臣政権内で声望を誇ったかというのは、 私は直接的には「小牧・長久手の戦い」で秀吉に「戦術的勝利」を おさめた結果だと思います。 五大老は他に毛利・宇喜多・上杉・前田がいましたが、 毛利は秀吉にその領土の中心部とも言える備中高松まで攻め込まれていますし、ま あ、信長が死ななければ完全に敗北していたでしょう。 残りは秀吉に逆らう事のなかった、言うなれば「羊」のような大名です。また、こ の五大名の中では家康がもっとも石高の多い 土地を押え、戦歴も約40年と前田利家と同等、あるいは それ以上のものを持っていました。 そういった要因から自然、秀吉さえ「野戦では」及ばなかった海道一の弓取りとし て家康に声望が集まったのでしょう。 また秀吉自身も家康に対し危惧を抱いており、その抱き込みの ために家康を内大臣にまで就任させるなどの懐柔策を 取っています。 いわば、家康が豊臣政権内の「ナンバー2」となったのは、 皮肉な事に秀吉自身の意志でもあったわけです。 Time : 1999/ 3/25(木) 12:40:01
Name : きんたろう E-mail : Title : そのとおりです Comments: こんばんは。 山口さんの疑問について書こうとしたのですが、石井さんの言われたとおりだと思 います。 無理矢理追加すると、秀吉は当初家康を信頼していたと思います。(信長に対する 態度、行為を麾下の武将であった秀吉はよく知っていただろうからです、要するに 自分が信長になるのだからこいつは使えると思ったような気がします) Time : 1999/ 3/25(木) 19:12:53
Name : 山口 哲郎 E-mail : Title : 石井さん ありがとうございます Comments: 石井一旭さんはじめまして 秀吉政権でのナンバー2になったのはわかりました 家康は着々と力を付け他家を懐柔していったと考えればいいのでしょうか? 信長と秀吉の天下というのはイメージとして 他家を圧倒することで勝ち取ったという感じがします 家康の天下は,他家をどんどん味方につけることによって得たもの つまり,大名連合政権のリーダーというイメージです この場合(推測で申し訳ないです)かなり強権的な政策を 他の大名家に対して行なってますが,それほど上下関係を強化できたのは なぜなんでしょうか? Time : 1999/ 3/25(木) 21:15:20
Name : 藤田 潔 E-mail : Title : 広島、岡山、水戸 Comments: 皆さん、こんばんは。  きんたろうさん、水戸は20万人なんですか。御三家の地元なのでもっと大きいの かと思っていました。でも何で水戸家は御三家なのに、一つの藩の藩主ではなかっ たのでしょうね。浅野でも安芸藩全部の藩主でした。なお、私の現在住んでいる讃 岐高松は水戸光圀の息子が藩主となったところです。昔のよしみでよろしく。つい でながら、人口は30万くらいで、松平の殿様の庭園は栗林公園です。  安部さん、茨城系岡山県人ではなく、岡山系茨城県人では?アメリカの黒人は今 はアフリカ系アメリカ人というように、出自を○○系とし、現在の所属を●●人と 言っていますので。なお私にも岡山の友人は多いですが、彼らは岡山市と広島市の 人口は大差がないと思っています。本当は岡山と倉敷が合併しないと100万人にはな らないのですが。もう一つ岡山は中国地方の交通の要所ではなく、四国の玄関の地 位を高松より奪っています。四国4県の県庁所在地へ行く特急の始発となっていま す。  ところで倉敷と岡山は選挙区が違いますが、倉敷の殿様は誰だったのでしょうか ?  三枝さん、福山は人口は多いのですが、備後であったためか、同じ県でありなが ら広島市との結びつきは少ないようです。これは呉市とは大違いです。医療圏など は福山は岡山に属しています。  大さん、よく知らないのですが、紀州より姫路の方が格が上なのですか?紀州は 浅野から御三家に変わったのに? Time : 1999/ 3/25(木) 23:43:34
Name : 輔住 E-mail : Title : 消去法でも徳川しか... Comments: みなさんこんにちは、 山口さんの疑問については石井さんやきんたろうさんの いうとおりだと思います。 後、秀吉の死後、毛利家は家康派、反家康派に 別れ方針がしっかりしてないし、上杉は 領地が変わったばかり、宇喜多は御家騒動、 前田家は利家が死んでしまいます。 安定している徳川が消去法でも残ります。 Time : 1999/ 3/26(金) 08:58:56
Name : Toshy E-mail : Title : 徳川政権 Comments: みなさんこんにちは。 山口さんの疑問、「上下関係を強化できたのはなぜなんでしょうか?」ですが、幕府 を開いたばかりのころはさほど強力でもなかったようですね。しかしなんといって も他家を圧倒する兵力があるし、伊達をはじめとする不穏な大名と姻戚関係にある し、また反徳川勢力をまとめる人材がいないことから、徳川の勢力が増大していっ たのだと思います。 大坂の陣は、反徳川の筆頭を滅ぼすという意味のほかにも幾多の大名たちに対する 恫喝の意味もあるのでは? 豊臣秀頼が関白になっていれば、事態は変わったのかもしれません。 Time : 1999/ 3/26(金) 10:53:05
Name : きんたろう E-mail : Title : 茨城の特徴 Comments: 藤田さん、こんばんは。 先日はありがとうございました。 栗林公園は行ったことがあります。立派な庭園ですよね。はっきり言って水戸の偕 楽園がなぜ三庭園に入っているのかよく分かりません。 兼六園や後楽園と比べると整備の状態が違いすぎます。ただ、水戸っぽ気質として は「金取ってまで公園なんか整備する必要あんめ」という声が高そうな予感がしま す。 ところで水戸市の人口は現在23万人位と大きくはないのですが、茨城県となると 295万人位で全国で11番目に大きな県と言うことになります。 大体県人口の三割位が県庁所在地の人口というのが一般的なのですが、茨城は例外 に入ります。 Time : 1999/ 3/26(金) 17:55:36
Name : きんたろう E-mail : Title : 石田三成と佐竹義宣 Comments: 七武将(実行は六武将)達の三成襲撃事件の時、当時伏見にいた佐竹義宣は三成救 出のため駆けつけました。佐竹の家紋を付けた女駕籠に乗せての脱出劇は義宣の作 戦だと言われています。 このとき上杉景勝は仮病と偽ってその場に来なかったという事です。この一件で佐 竹義宣と上杉景勝との信頼関係は破綻したのではないかと思います。 Time : 1999/ 3/27(土) 22:44:22
Name : 管理人 E-mail : rk7m-ysd@asahi-net.or.jp Title : 広島、岡山、水戸 Comments:  眼の手術と、術語の養生で、井沢のエッセイをしばらく休載させていただいてお りましたが、どうやら再開できそうです。  「テーマは、何にしようかな」と、井沢が迷っておりましたので、池田公につい ての考察を書いてはどうか薦めてみます。                管理人 Time : 1999/ 3/28(日) 21:17:35
Name : きんたろう E-mail : Title : 楽しみです Comments: こんばんは、みなさん。 先生のエッセイが再開されるとは嬉しいですね。 何はともあれ期待して待っていることにします。 ところで、昨日の書き込みはなんか変ですね。自分でもちょっと疲れていたような 記憶?がありますので大目に見て下さい。 実は「関ヶ原の戦い」の三成首謀説について考えていたのです。 三成は直江と図ったとの説がありますが、上杉景勝や佐竹義宣はどうだったのかと 思ったのです。 襲撃事件の時敢えて「火中の栗」を拾った義宣の方からアプローチしていけばイメ ージが固まるのではないかと思ったのです。 Time : 1999/ 3/28(日) 22:07:35
Name : 輔住 E-mail : Title : 佐竹と上杉 Comments: きんたろうさん、こんにちは どうなんでしょうねー!佐竹は。 「関ヶ原」についてはどちらにつくか迷っていますから。 上杉については直江兼続が暴走したとは思えません。 (景勝の意志もあったと思う) もし暴走していたのなら 彼は関ヶ原の後、切腹ぐらいしてると思うので。 Time : 1999/ 3/29(月) 12:25:46
Name : Toshy E-mail : Title : 上杉は Comments: みなさんこんにちは。 >上杉については直江兼続が暴走したとは思えません。 >(景勝の意志もあったと思う) 輔住参の意見に、私も賛成です。 石田三成と直江兼続だけの策略ではないでしょう。 北政所の側近・孝蔵主の甥たちはほとんど上杉家家臣として、奥州戦線に参加して いますから。 佐竹に関しては、徳川につくと見せかけて上杉を背後から支援、東軍の後方を撹乱 しようとしていた、という説を聞いたことがありますけど、どうなんでしょうね。 Time : 1999/ 3/29(月) 18:53:13
Name : Toshy E-mail : Title : 間違い Comments: 下の書き込み >輔住参 「輔住さん」の間違いです。ごめんなさいm(__)m Time : 1999/ 3/29(月) 22:40:07
Name : きんたろう E-mail : Title : 贔屓倒し? Comments: 輔住さん、Toshyさん、そして皆さん、こんばんは。 直江単独行動説が否定的な事は言われるとおりでしょうね。私も同感です。 ところで佐竹はやはり二枚舌で「関ヶ原」をきり抜けようとしていたと考えるしか ないような気がします。 三成との関係が相当深かった義宣は、襲撃事件の時は「溌剌」とした印象が強いの ですが何が原因だったのでしょうか。 Time : 1999/ 3/29(月) 23:23:09
Name : 輔住 E-mail : Title : 佐竹の立場を勝手に想像 Comments: きんたろうさん、Toshyさん、みなさんこんにちは 佐竹は厳しい状態だったと思います。心情的には 西軍よりだったと思っていますが、下手すれば 家康軍の矛先が常陸に向かうことも考えられますし、 そうしたら負けはまず間違いなし! (上杉も回りに敵が多いため(伊達や最上)援軍も あまり期待できないし) 毛利同様、家中も割れた可能性も考えられます。 Time : 1999/ 3/30(火) 14:12:43
Name : きんたろう E-mail : Title : 不完全燃焼 Comments: 輔住さん、みなさんこんばんわ。 実は私の住んでいる地区の名前は佐竹地区なのです。 そうした事から、感情が歴史を捏造しかかっていたのですが、やはりどう考えても 佐竹は主役にはなれないのだなと思いました。 残念ですが、ほっとした気持ちがあります。 ところで話は変わるのですが、自分のページの宣伝をさせいて下さい。(ちょっと 心苦しいところはあるのですが) ここの掲示板の話題とも重複するところはあるのですが「信長の神髄」というタイ トルで書いています。輔住さん、レス有り難うございます。(あれから少し更新し ています) 信長にはまだまだ書き足りないことが数多くあります。 アドレスは以下の通りです。 <A HREF="http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro">http://www.net-ibaraki.ne.j p/kintaro/</A> Time : 1999/ 3/30(火) 21:03:55
Name : きんたろう E-mail : Title : すみませんでした Comments: 正しく書けていなかったようです。 すみませんでした。 <A HREF="http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/">http://www.net-ibaraki.ne. jp/kintaro/</A> Time : 1999/ 3/30(火) 21:07:56
Name : きんたろう E-mail : Title : すみません×2 Comments: くどくて申し訳ありませんでした。 こっちの様式は違うのかも知れないですね。 Time : 1999/ 3/30(火) 21:17:41
Name : 山口 哲郎 E-mail : Title : 徳川政権は… Comments: みなさん こんにちわ うーん 徳川政権はなるべくしてなったわけですね これで,信長の死後から急激に徳川の存在感が大きくなったのも わかりましたし,他家が結構従順になったのもわかりました 信長・秀吉でいったん戦いがおきにくくなって, 秀吉の死後も徳川と争って派遣を握ろうという心理がなくなった のかもしれませんね なんとなく,現代の世界情勢に通じるところがあるように感じます もちろん アメリカが徳川家ですね^^; Time : 1999/ 3/31(水) 05:26:58
Name : Toshy E-mail : Title : 徳川政権 Comments: 山口さんこんにちは。 > うーん 徳川政権はなるべくしてなったわけですね というか、「なるべくしてなった」というのは、関ケ原で石田三成・西軍が負けた 時でしょうね。関ケ原の時点では、東軍が必ず勝つという保証もなかったわけだし 、むしろ西軍のほうが兵力は上回っていましたから。 なお、関ヶ原以降の豊臣家は、軍事化を避け貴族化を目指していたのでは、と思い ます。関白になれば兵力がなくても徳川政権をつぶせる(あるいは、少なくとも豊 臣家の安全は守れる)のですから。 Time : 1999/ 3/31(水) 22:56:30