Name    :E-mail  : 
Title   : 安部さんへ
Comments:
今日は、Kです。
私は、安部さんがおっしゃる「K」さんではありません。
あと、ハッチポッチステーションのホームページとはどこにあるのでしょうか?

Time    : 1999/ 2/ 1(月) 12:26:21

Name : 名古屋妻 E-mail : Title : ハロー! Comments: 45歳のお誕生日おめでとうございます。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 21:10:35
Name : きんたろう E-mail : Title : 老人力発動 Comments: 民族の特徴を見るときに一体何の前で平等と考えているかと言うことは大きな意味 を持つと思われます。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の一神教においては「神の前」であり、古代 ローマ帝国においては「法」の前でした。 隣の中国においては秦が統一帝国をかの地に起こして以来それは「皇帝」でした。 日本人は古代において一体何の前で平等であると感じていたのでしょうか。 渡部昇一先生によるとそれは和歌の前ではないかという事です。 なるほどと思いました。 素晴らしい和歌とは言霊の働きそのものだからです。 Time : 1999/ 2/ 1(月) 22:07:48
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : Kさんへ、 Comments: Kさん、大変失礼しました。奈緒、ハッチポッチステーションというのは教育テレビ で放映している不思議な番組です。そのページというのが、リンクフリーではない のでアドレスが書けないのですが、大抵の検索に引っかかると思いますので試して ください。できればあなたもハッチポッチのファンになることをお勧めします。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 14:42:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 財産の前の平等 Comments: 私は、日本にあるのは財産の前の平等だと思います。日本人の規範や理想はいろい ろありますが、その目指すところはすべて「人並みの生活」です。 日本にないものは自由と独立です。 これは、日本人が自由と独立の概念を知らないという意味です。何故かと言うと日 本には奴隷制度がなかったからと思われます。武士はある程度持っていましたが、 明治大正昭和と進むにつれて、霧消してしまいました。 人がなんと言おうと、日本人は自由と独立が何たるかを知らないと私は思います。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 14:50:41
Name : 小松 E-mail : Title : 三方ヶ原の戦い Comments:  三方ヶ原の戦いについて、僕は以前から疑問に思っていました。それは、あの戦 は、八百長ではないかということです。それは次のことからそう思うのです。  1 何故、家康は野戦での決戦を選んだのか?上洛にあたり、信玄がもっと     も困る戦術は、家康が浜松城に篭城し信玄の足を止めることや、信玄の進軍を   そのままやり過ごし、ゲリラ的に後方撹乱したりすることです。つまり、直接   対決を極力避けることこそ最上の策だと思います。  2 進言の挑発により決戦に踏み切ったという説もありますが、家康にしてはい   ささか軽挙過ぎる行動ではないでしょうか?  3 三方ヶ原において、信玄魚鱗の陣に対して、家康鶴翼の陣?これも変です。   普通逆だと思います。魚鱗の陣は突破力に優れるため通常兵数の少ないほうが   とります。一方鶴翼の陣は包囲殲滅しやすく、兵数の多いほうがとる陣形です  以上の矛盾点からの僕の考えですが、三方ヶ原の戦いは家康と信玄の八百長劇だ ったのではないか、ということです。家康にとっては、この後、行われるであろう 信長対信玄の戦いが、どちらが勝つか分からない以上どちらが勝ってもいいように しておきたい。(関ヶ原での真田家のように。弱小大名家においてはしばしば用い られる戦略ですよね。)一方信玄にしても上洛戦において、家康に徹底抗戦された のでは遠征の長期化につながり、望むところではない。という両者の利害によりあ のような不自然な形での戦となったのではないかと思います。家康としては、一応 合戦したのだから、信長との同盟に対して形の上では義理立てしているわけですし 。ただ、だとすると信長は胸中苦々しい思いだったと思います。信長が長篠の戦い の後、武田と通じているとの容疑で信康を自害させたのもこの辺のことが遠因にな っているのではないでしょうか?皆さんどう思いますか? Time : 1999/ 2/ 2(火) 18:48:14
Name : きんたろう E-mail : Title : 16世紀 Comments: 16世紀は偉大なる世紀と呼ばれても不思議はありません。 ヨーロッパにおいてはルネッサンスにあたり、日本においては「戦国時代」に重な ります。 日本は15世紀ではまだ中世的貧困と迷信の中にありました。 飢饉は何度も起こり治安も当然悪かったはずです。 そのために人口は増加するはずもありませんでした。 ところが16世紀に入って「戦国時代」になるわけですが、このときになって日本 の経済は進歩し始めたのです。 まず農業の生産が増大しました。それは農耕具が改良され灌漑と排水技術が広まり 耕作地が増加したことによります。 農業の発展は鉱工業の発展につながります。鉱工業に従事する人を食べさせるだけ の農業生産が出来るようになったからです。 15世紀末から16世紀にかけて鉄製農具が普及しました。これによってますます 農業生産が増加したのです。(何しろヒッタイトは鉄製武器でエジプトを征服した そうですから。ちなみに鹿島は鉄の産地でした。) 農業の生産力増加が鉱工業の発展と結びついて大躍進を遂げた世紀と言っても良い のではないかと思います。 工業も当然進歩していました。何しろ種子島にたどり着いた2丁の鉄砲は関ヶ原の 戦いにおいては5万丁にまで増えていました。 ものすごい生産量だと思います。間違いなく当時世界最大の鉄砲生産国だったので しょう。 どうしてこの様な中世の貧困から解放された生命力にあふれた時代を「戦国時代」 と名付けたのでしょうか。 いつの頃から「戦国時代」と言われるようになったのでしょうか。 詳しい方がいらっしゃったらよろしくお願いします。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 21:50:52
Name : きんたろう E-mail : Title : 日本的唯物史観論について Comments: タイトルだけ見るとものすごいのですが、中身は全然大したことありませんので気 楽に読んで下さい。 歴史を見るときの態度として私は祖先(この場合は日本全体)を愛する立場で見て みたいと思っています。 愛する立場でなければ当然誇ることなど出来ないと思うからです。 歴史に対する愛と誇りが無くては日本人としての主体性を持ちえないのではとも思 います。 唯物史観が出来る遥か昔から私たちの先祖の生活はありました。(当然すぎますよ ね) 基本的な唯物史観は一つの方法論ですからそれは良いのですが、「日本的唯物史観 論」というのは実は全く別物ではないでしょうか。 これは歴史的に見れば明らかです。 端的に言えば外国勢力が日本に傀儡政権を作り出すための方法の一つでした。そし て「進歩的」(国語力のない人が訳したのでしょう)なアンチサイドの人々の内の 何割かがそうした論法に乗って展開したものにすぎません。 そしてこれは相乗効果をもたらしました。 初めに否定ありき、これが全てだと言っていいと思います。 私は子供の頃日本の歴史を学校で習ったとき、暗い気持ちになったのを覚えていま す。子供でしたからもっと輝く誇れるような内容を記して欲しかったのです。 教科諸問題以前から歴史の教科書は「マル系歴史学者」のマスターベーションの道 具に成り下がっていたように思います。(過激な発言ですみません) 例えば井沢先生の「逆説の日本史」のように私たち消費者が自ら望んでお金を払っ て買う本であれば、例えどんなことが書いてあろうとかまわないと思うのです。選 択権はあくまでこちらにあるわけですから。 しかし、教科書の場合は使う側(子供)に選択肢が無く、且つ公平な市場原理が働 かない商品であるにもかかわらず、その内容は勝手に自分の信仰を押しつけている ようなものですからたまったものではありません。 逆に過度に「愛国者」でありすぎるのもどうかとは思いますので、バランスが難し いですね。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 22:52:20
Name : きんたろう E-mail : Title : 信長隊の逆襲 Comments: 小松さんこんぱんわ。 三方が原の戦いですが、私は武田信玄は上洛を目指していたのではないと思ってい ます。 あくまで遠州が目標だったのではないでしょうか。 例え家康自身を殺すことが出来なくともかまわないのです。 要するに徳川家の力をそいで自国領とするのが目的だったと思っています。 なぜなら、上洛すると言うことは当然信長と全面戦争をするという事になりますが 、当時織田軍は最低10万人以上動員できたはずだからです。 遠征戦で且つ自軍の4倍以上の兵力を持つ相手に戦いを挑むのは考えずらいと思い ます。 織田軍は兵農分離が進んでおり、長期戦も可能でしたが(後年秀吉が小田原攻めで 規模を大きくして実施しました)武田軍は足軽は農夫そのものであり農閑期だけの 季節労働者と言っていい存在でしたので長期戦は不可能でした。 また、当時上洛するということが、天下に号令をかけることと認識されていたかど うかは疑問だと思います。 もし両軍戦うとすれば関ヶ原付近でしょうが、これで武田家は滅びたと思います。 ちなみに今川義元も上洛を目指していたのか疑問に思っています。 小松さんの疑問点ですが、見方によってはそうとも言えるのかなと思います。 要するに家康としては武田軍と全面戦争をするだけの実力がないわけです。しかし 、もしここで戦わなければ臆病者という風説が立ちますので、大名としては致命傷 になりかねないという苦しい状況下にありました。しかも、信長に疑われたら滅亡 は必至でしたので戦わないわけにはいかなかったのでしょう。 今回はとりあえず領土を少しとられても仕方がない、といった気持ちはあったのか もしれません。 しかしこの三方が原の戦いが「徳川殿は東海一の弓取り」と言われる根拠になった のですから歴史の皮肉ですね。 Time : 1999/ 2/ 2(火) 23:43:57
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : RE::財産の前の平等 Comments: 財産はかなり関係あるかもしれませんが、田舎の方ではまだ、他の身分 制度のようなものが残っています。家柄の他に、職業、学歴などが勘案 されるようです。 大工さんの方がたくさん稼ぐのに、小学校の先生の方が偉いとされるとか。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 11:25:28
Name : 輔住 E-mail : Title : 三方が原の戦い Comments: きんたろうさん、小松さん、みなさんこんにちは 三方が原の戦いについて私も意見を おそらく信玄はきんたろうさんの言う通り遠江が 目的だったと思います。ただし状況によっては 美濃で浅井・朝倉と組んで信長と戦ったかも しれません。 京都までは行かないでしょう。 三方が原の戦いについては 短期決戦を望んだ信玄が「徳川領は素通りして信長と決戦」と噂を流し挑発したの でしょう。 (浜松に篭城されたら武田にとってあまり意味の無い戦いになる) 徳川からするとなんで野戦を挑んだのか? 徳川からすれば素通りされれば、背後を襲うとか、本国(甲斐)を襲うなど できるかも知れませんがそれでは武士の面目がまる潰れ! 家中もこのころは「岡崎派」と「浜松派」に別れていたと言われています。 断固とした方針をみせる必要があったのではないでしょうか? Time : 1999/ 2/ 3(水) 12:31:32
Name : 石井一旭 E-mail : Title : 三方が原の戦い Comments: 小松さん、はじめまして。 家康好きの私としてはこれは見逃せないので参加させて頂きます。 私もきんたろうさんや輔住さんと同様、信玄は 上洛を考えてはいなかったと思います。 まずあの年になって突然上洛を目指すなんて事がありえるとは 思えないからです。そのつもりなら京都と逆方向の 川中島で5回も戦ったりしないでしょうし。 それに元々きんたろうさんのおっしゃるとおり信玄軍は 農民の集まりですから、遠征は性格上無理なのです。 農民は自分の領地に土着してますから、 屯田兵のような真似は出来ませんし、自分の国に帰るしかない のです。その事が分かっていたから、信長は援軍をあまり送らなかったのではない でしょうか。 (本拠をコロコロと変えるほどの大遠征が出来たのは信長くらいなものです) 三方が原の戦いは、私は家康が苦肉の決断の末 飛び出していったために起こったものと思います。 小松さんの言われたとおり、家康にはもちろん武田につくという 選択肢もある訳で、もちろん信玄も信長もそのことをよく 知っています。だから信玄は浜松城の近くで進撃速度を 緩めたのです。恐らく家康の出方をうかがったのでしょう。 家康は信長を裏切るつもりはなかったでしょうが、信長の持つであろう 不信を晴らす意味でも、無理にでも全力出撃して「徹底抗戦」の 意志をはっきりと表明しなければならなかったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 14:25:01
Name : 石井一旭 E-mail : Title : お礼 Comments: 安部さん、「存亡の条件」わざわざお知らせ頂き 本当にありがとうございます。もう本当になにからなにまで お世話になっちゃって・・・。さっそく探しに行ってきます。 日本の近代、現代には今までほとんど興味なかったのですが、 (私は要するに良くありがちな「戦国好き」って奴です) 最近「国際情勢」と密接かつ複雑に絡んでいた当時の日本の「国際政治学」に 面白味を感じてきました。皆様も何か面白い本を知って おられましたらお教え下さい。金の許す限りで(笑)勉強して いきたいと思います。 Time : 1999/ 2/ 3(水) 14:59:22
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 本の紹介 Comments: 陳瞬臣さんがズバリ「曹操」という小説をだしましたよ。 曹操ファン読むべし! Time : 1999/ 2/ 3(水) 15:13:03
Name : 輔住 E-mail : Title : ゲームクリア Comments: きのうやっと「桃太郎伝説」(PS版)をクリアしました。 前作の「新桃太郎伝説」(SFC版)は途中で挫折したので感激! Time : 1999/ 2/ 4(木) 12:08:27
Name : 小松 E-mail : Title : 信玄の上洛 Comments: きんたろうさん、輔住さん、石井さん、早速のご意見ありがとうございます。  信玄に上洛の意図はなかった、ですか。僕はその可能性は全然考えていませんで した。言われてみれば確かに信玄の生涯には例えば信長ほど強烈な天下統一の意志 は見られませんし、その可能性はありますよね。で、信玄が最後ああいった形で死 んでしまった以上、本当のところはわかりませんね。ですから、残された証拠や当 時の状況から推測するしかないんですが、僕は信玄に上洛の意図あり、と考えます 。それは次のことからです。  1 三方ヶ原の戦いは、その他の武田家の戦いの中でも、特に兵数が多いこと   例えば、長篠→1万5千、川中島→2万に対して、約3万です。もちろん兵の   動員力はその時の大名家の状況により変わりますので単純にこれを根拠には出   来ないんですが、それでも、家康(8千)を討つのに3万は多すぎると思いま   す。  2 信長と信玄では上洛ということに対する観念が違うと思います。信玄の上洛   とは基本的には京へ上り、将軍家を補佐し、副将軍にでもしてもらって、その   権威を領土拡大に利用するというものだと思います。これは、それまでからす   ればむしろこの形のほうが常識であり、信長の既存勢力を片端から上洛の方が   常識破りだったと思います。この形式の上洛なら、兵農分離の不十分な武田家   でも十分可能ですし、それまで上洛をした大名は信長を除きこの形でしたし。  以上のことから、信玄は将軍義昭からの討伐命令もありますし、京への上洛を目 指してたんじゃないかな、と思います。もし、信長対信玄の一大決戦があり、武田 がそれに勝利できたら、周辺大名はもとより信長傘下の大名も先を争って信玄の軍 門に下っていたでしょうから、勢力は飛躍的に伸びたでしょう。信玄はそういう効 果もねらって上洛の軍を起こしたんじゃないかな、と思います。でも、ま、根拠と しては弱いですよね。僕の考えも信玄に上洛の意図あり、という前提で考えてます から、そうでないとすると当然崩れます。信玄の意図を推理するには、もっと詳し く当時の状況なりを調べなきゃわかんない部分が多いですね。 Time : 1999/ 2/ 4(木) 18:15:36
Name : きんたろう E-mail : Title : レベル46 Comments: 輔住さん、クリアおめでとうございました。 ちなみに私はレベル46で勝利しました。 子どももそのくらいでした。 Time : 1999/ 2/ 4(木) 18:34:11
Name : 小松 E-mail : Title : 1940年体制 Comments: 「1940年体制」と言う本を読みました。 現在、日本独自で且つ、日本古来の社会風習に沿っていると思われている制度の多 くが、1940年代に制定された戦時体制の名残である、と言う内容です。 例えば、金融の土地本位制、食管法、終身雇用制、会社別労働組合、自営消防団、 etc..これらの制度が戦時体制として、1940年代に続々と立法され、しかも現在 数多く残っていると言うのです。しかも、これらの立法を推し進めた、当時革新官 僚と言われた人々は、共産主義思想に基づいていたそうです。(よく比喩として、 日本は社会主義だ、と言われますが、こういう経過を聞くとうなずけますね。) 僕にはこういう事実は意外でした。興味のある方は読んでみては?   「1940年体制」 野口悠紀雄著 東洋経済新報社 Time : 1999/ 2/ 5(金) 09:35:03
Name : 輔住 E-mail : Title : レベル49 Comments: きんたろうさん、こんにちは 私はレベル49でクリアしました。 (ちょっと遅い) これからは鬼のカード集めでもしようと思ってます。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 11:21:34
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : しゅりょーさま Comments: なるほど、日本は一度「日本人民共和国」になったことがあるのですね。扶桑光は いませんでしたが。ここが日本らしいところですね、日本軍にしても新官僚にして も顔が見えない。 渡部昇一さんが、右翼社会主義と言ったのも分かります。 ナチスは「ドイツ社会主義労働党」です。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 11:38:07
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 誰にとっての戦国か? Comments: 大分前の話題へのレスになってしまうのですが、 本家中国でも、戦国時代は中国人が一番活き活きとして発展した時代ですよね。 「戦国」と言うのは儒教的価値観ではないでしょうか。 礼の秩序ではなく、力の秩序が物を言ったと言う意味です。それが大発展時代で も儒教は憎みます。儒教は徹底的に現状維持の思想で、進歩を憎むからです。 「恨の法廷」で井沢先生が言っていたように、儒教を教条的に信奉したことは、 中国や韓国にとって不幸だったと思います。 Time : 1999/ 2/ 5(金) 12:17:12
Name : きんたろう E-mail : Title : 戦国時代について Comments: 安部さん、レスありがとうございます。 数日前駄文を書き連ねてしまいましたが、「戦国時代」とはいつ、誰が名付けたも のか私には疑問としてありました。 決して平和とは言えない時代であったことは確かだと思います。しかしそれ以前は もっと平和でなく、かつ貧困時代であったのです。そのような時代から脱却した進 歩の時代でもありました。 同じ時代のヨーロッパも戦乱の中にありましたが、彼らはこの時代を「文芸復興」 と呼び積極的に評価している事と比べると「戦国時代」と言う言葉から伝わるイメ ージは群雄割拠の乱世、破壊と殺戮の時代というようなあまりにも否定的なもので しかありませんでした。 どうしてもっと積極的に評価しなかったのかと思っていたのです。 もし江戸時代に名付けられたとしたら当然儒学者が名付け親になるでしょうから、 安部さんの言われるとおりだと思います。 Time : 1999/ 2/ 6(土) 00:44:47
Name : きんたろう E-mail : Title : 六色の方言 Comments: 最近ホームページをネット上に載せました。(すみません、宣伝です) 近頃のソフトは非常によくできていて、確かに簡単にホームページを作ることが出 来ました。 ただあまりの多機能に私の方がついて行くことが出来ず、そのうちいい加減疲れて しまいました。 そのようなわけでまだ中身は全然大したことがない(きっぱり言い切ってしまいま したが)のですが、それはそれで徐々にやって行こうと思っています。 誰も見てくれないのは寂しいものがありますので、とりあえず1度立ち寄って見て 下さい。よろしくお願いします。 アドレス http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/ ところで私の特技(?)の中に六方言を自由に使える(使えた?)というのがあり ます。ちなみにそれは茨城弁、一般的な東北弁、標準語、愛知弁、一般的な関西弁 、そしてなぜか新居浜弁(自称)です。 Time : 1999/ 2/ 8(月) 23:04:39
Name : 奥村真 E-mail : oku@total.co.jp Title : エドは何処から来て、何処へ行くか Comments: 「エドッコって、江戸川区のかたですか?」  テレビを見ていたら若いタレントはそう尋ねていました。  関東大震災で江戸の風景の多くは壊滅し、そして千九百七十年代半ば、荒川洋治 は次のような詩を書きました。 「夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ  江戸はさきごろおわったのだ  あれからのわたしは  遠く  ずいぶんと来た」(『見附のみどりに』) 「平良文の孫秩父将常の玄孫重継が武蔵の江戸に住み江戸氏を称した」のが江戸の はじめか、「藤原秀郷の六代目の孫那珂通資に始まり通泰の時、常陸那珂郡江戸郷 を与えられ、その子道高以来江戸氏と称した」のか、  若いタレントに拠れば、新宿、渋谷と同様、今や東京二十三区のひとつとなった 「エド」は、アイヌ語起源説に拠れば「出っ張ったところ」  sir-etuk(知床)=sir(大地、山)の etu(鼻)あるいは etuk(突き出る) と同じ語源ではないか、とも言われています。    日本の地名にはアイヌ語起源説、韓国語起源説さまざまです。起源を同じくする ものもあるでしょうし、たまたま同時代的に、よく似た条件で、よく似た言葉が発 生したのかも知れません。 Time : 1999/ 2/10(水) 10:21:45
Name : 小松 E-mail : Title : 平和と和平 Comments: 日本人の「平和」に対する認識って、結構あいまいですよね。井沢先生も著書の中 で紹介してましたが、故司馬先生が「平和とはただ単に戦争のない状態を指す概念 に過ぎない」って言ってました。 日本人が「平和」と言うことを思い浮かべる時、それは何か理想境のような状態を イメージします。しかし、国際社会での平和は戦争のない状態を指す言葉ですから (たぶん)、ここにしばしばギャップがあると思います。ですから「核のバランス により平和が保たれる」、とか「アメリカによる平和」とか聞くと、何か違和感と 言うか抵抗を感じてしまう。 僕はこの際、日本人の「平和」に対する概念をはっきり区別するべきだと思います 具体的に言うと、戦争のない状態も含まれる、なにか理想境を指す言葉は、これま でどおり「平和」でいいとして、ただ単に戦争のない状態は、例えば「和平」とで も言って区別したほうがいいんじゃないかと思います。(「和平」はちょっと安易 かもしれませんが) ただ、思うのは、これまでこの程度の概念もそれをはっきりと指す言葉がなく、か つあいまいに「平和」と言われてきたのは、井沢先生の指摘する「不吉なことはな るべく考えない」日本人の癖の一種なのでしょうかね。 Time : 1999/ 2/10(水) 18:30:30
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 方言とイントネーション Comments: 先日の続きです。 日本各地にはお国言葉というものがあります。そして標準語があります。 この標準語は東京の山の手で使われていた言葉が基本となっているようですが、元 々は江戸時代に旗本が主に使っていた言葉のようです。 でもここで疑問があるのですが、元々旗本は三河武士がその主流のはずです。 とても三河弁とはイントネーションが似ていないのはどうしてなのでしょうか。 旗本の数が八万旗へと大幅に増えたとき、三河武士は数的にマイナーになってしま い、各地からの出身者との意志疎通のために人工的に作られた言葉なのでしょうか 。 フラットな感じは英語でも米語標準(カリフォルニアなど西海岸主流)は本家の英 語と比べると同じようにフラットさがその特徴として上げられると思います。 韓国語の標準語のイントネーション(テレビでアナウンサーが話しているのを聞い た限りでは)は東北弁(特に山形弁?)に非常に似ています。 関西弁はどちらかというと東北弁とはリズムが反対です。 Time : 1999/ 2/11(木) 14:00:26
Name : 正岡1号 E-mail : Title : 三河弁と標準語 Comments: こんにちは。三河出身の正岡です。 きんたろうさんのお話の中の三河弁と標準語のことですが、私は三河弁の語尾変 化が特殊なだけで、基本的には似てると思います。三河と言っても広いですが、岡 崎周辺のですよね。渥美、設楽あたりですと、今でも感じが違います。 三河弁についてですが、広島あたりとリズムが似ている気がします。以前、アニ メ同人のイベントをやったとき、広島の知り合いとこの点は意見が一致しました。 この謎は多分、京都を中心とした同心円上説がその答えだと思います。 ところで「あみりゃーと」のCMで、家康も名古屋弁だったような…あれはちと ちがうような〜 Time : 1999/ 2/11(木) 17:57:52
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : かなりアバウト Comments: 正岡1号さん、こんばんは。 レスありがとうございます。 三河弁、名古屋弁、などかなりアバウトに頭に入っていました。すみません。 そうするとイントネーションを別にすると方言とは主に語尾の変化の違いだけのも のになると思います。 それにしても三河弁をそのまま「標準語」としなかった理由は何なのでしょうか。 Time : 1999/ 2/11(木) 22:30:10
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 岡崎と福山 Comments: 岡崎の辺りの言葉と、広島県福山市の周辺の言葉は大変似ています。 理由は簡単で、家康が天下統一した後、中国や九州地方の外様大名の上洛阻止のた めに、 譜代の本田家を、福山城主として配置したのですね。その時、本田様は領地の住民 を多数 引き連れて福山に移ったのです。 福山は災害が少なく、温暖、米がよく実り、海の幸が豊富、陸上、海上交通ともに 便利で 豊かな土地だったので、住民はほとんど外に流出することがありませんでした。だ から言葉が そのまま残ったのだと聞いています。 Time : 1999/ 2/12(金) 09:40:56
Name : きんたろう E-mail : Title : 同心円上説について Comments: 正岡1号さん質問です。 京都を中心とした同心円上説とはどういったものなのでしょうか。 この説のタイトルから何となく分かるのですが、(実は全然無知)詳しく教えてい ただけたらうれしいです。 Time : 1999/ 2/12(金) 09:44:12
Name : きんたろう E-mail : Title : 三河武士は二度支配した! Comments: 考えてみれば三河というところはすごいですよね。 徳川家康は三河武士を率いて天下を統一しましたが、足利尊氏も三河の細川郷で兵 を募り天下を統一したわけです。 日本の支配者層は三河出身者で占められていたわけだったのですね。 江戸時代の大名の八割は今の愛知県出身者であったそうですが、ここ茨城も御三家 の水戸徳川家でしたから同様です。 さすが三枝さん! Time : 1999/ 2/12(金) 10:31:20
Name : Toshy E-mail : Title : 同心円 Comments: きんたろうさん、はじめまして。お名前はかねがね。 仙台弁を話すToshyです。 同心円説、について、正岡1号さんではありませんが、 私の知っていることを一つ。 砂糖の味の表現方法。「甘い」ですよね。 でもなぜか青森と鹿児島だけは「うまい」なのです。 これはどういうことかというと、 昔の文化の中心は何といっても京都。 もともと「うまい」だったのが、 京都で「あまい」に変わり、それが同心円上に広がっていって 日本列島の両端(北海道と沖縄をのぞく)だけが 「うまい」のまま、ということなのです。 ところで東北弁は、鼻音が多いためフランス語と似ている、 とある人がいってました(爆) Time : 1999/ 2/12(金) 23:49:31
Name : 正岡 E-mail : Title : 同心円上説… Comments: きんたろうさん、こんばんわ。 何年か前だったんですが、上岡竜太郎さんの番組だったんですが、「あほ」と「ば か」の言葉の境界線はどこか?というテーマを取り上げたことがあって、これが後 日、出版された中にこの同心円説?が載っていたのです。 その説によりますと、日本語は京都から円が広がるように伝播していったのだとか 。西に行くほど関西弁…ではなくて、実際には京都大阪を通り過ぎると関西弁のイ ントネーションでなくなる理由がこれ…などなど、いろいろ面白い本でした。 ちなみに、ばかよりあほの方が成立は新しいらしいです。 でも三枝さんのご指摘は知らなかった。そういうこともあったんですね。勉強にな りました。 Time : 1999/ 2/12(金) 23:57:28
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : どうして同心円 Comments: Toshyさん、こんばんは、初めまして。 正岡1号さん、こんばんは。 どうも有り難うございました。 仙台の蒲鉾は小田原のものとは違い笹蒲鉾が有名ですが、どうしてあのようなもの が創られたのでしょうか。 ちなみに私は笹蒲鉾は結構好きです。 Time : 1999/ 2/14(日) 00:52:52
Name : nami E-mail : isaya201@lime.ocn.ne.jp Title : はじめまして Comments: 早くimacに馴れて気軽に書き込みたいなあと思いながら打ってます。 今日はとてもいい天気。 徹夜明けの頭と眼に染みます。 今朝見た細く長く赤い月を隣の隣の国の人も見たかな。 どう思ったかななんて考えてます。 Time : 1999/ 2/14(日) 12:37:38
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 戦国時代のNHK Comments: 皆様お久しぶりです。namiさん、初めまして、こんな私でも、また会話に入れ ていただければ幸いです。 司馬遼太郎さんによると、江戸には全国から人が集まってきたので、室町時代から 全国的に興行していた猿楽の言葉を共通語にしたらしいそうです。それが、山の手 言葉の元になったらしいです。 「日本あほ・馬鹿分布考」私も読みました。あれは面白いですね。学問はやっっぱり ハラハラ・ドキドキしなくては、 私は「江戸」は好きです「東京」は嫌いですけど。 最近地球全体で鎖国状態になってきているので、江戸時代の知恵が役立つ時代なの ではないでしょうか。 Time : 1999/ 2/14(日) 15:41:07
Name :E-mail : Yoshihisa.Nawata@unisys.co.jp Title : 今後将来 Comments: 逆説の日本史読みました。2.3.4だけです。 すっと入れました。 日本人はおもしろいと感じました。 今葬祭関連をいろいろちゃんとせないかんと感じてます。 日本は今後、2000年近くもってきたこの底流の文化を大事に のこし、将来に継続すべきと感じてます。 みなさんに、日本人が今後将来残すべきものを一回討論してほしいです Time : 1999/ 2/16(火) 00:48:06
Name : 正岡1号 E-mail : Title : ポケモン同人逮捕事件 Comments: コミケットを棲み家とする同人野郎および同人サークルにとっては大問題だと思 うのですが、どーも同人関係のHPではこの件はタブーのようで、誰も話題にしない 。ので、ここに書く。 著作権法ってなんだ? コミケットは放置しておいて、個人の零細な同人ピン ポイント爆撃なんて、ちょっとやり方が乱暴じゃないか、N堂。これって、ゲーセン で弱い相手を選んで乱入するようなもんで、すっごくイメージよくない。同人誌を 差し止める方法なんかいくらでもあるわけで、N堂がいったいどういう意図で告訴ま でしたのかわからない。 私はコミケットに20年生息しているけど、こんなことは前例がない。 一番神経をとがらせていたジャニーズ事務所でも告訴まではしてないし、ピン クハウスはわざわざイベントまで出向いて、ロゴを使うななどの警告書をサークル ごとに訪問して配っていた。今にして思えばメーカーとしての誠意だったわけだ。 この事件は新聞などでご存知の方も多いと思うけど、あの新聞報道での詳細は事 実とちがってると、ご本人の弁。そもそも29ページなんて本があるわけないし、 値段も900円ではないそうだぞな。(警察発表がめちゃめちゃってことかな) Time : 1999/ 2/16(火) 04:24:58
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : RE:ポケモン同人逮捕事件 Comments:  私は、同人誌をやっている人たちと何度か話して、彼らの一部に、もの すごく傲慢な気持ちがあることを知っていたので、今回の任天堂のやり方 は、ある意味仕方がないよなあと、思っていました。  他者の著作権に関して、同人誌の人たちは余りにも無神経です。  訴訟前に警告しなくてはならないって決まりもないわけでね。どこで どれだけ出されるかわからない同人誌をいちいちいちいちしらみつぶしに あたっていくことも、ちゃんと他に仕事がある人には不可能なことだし。 Time : 1999/ 2/16(火) 10:28:58
Name : 正岡 E-mail : Title : 少なくともわいせつ罪ではない…<<ポケモン同人 Comments: パロディ同人が著作権法に抵触する微妙な問題だというのは、私はよく理解して いるつもりだ。パロディ同人というのは読者による読み替えであって、書き換えで はない。(複製とはちがう)だから版元の利益を害さない限り、お目こぼしにあず かってきた。また版元もファンに騒いでほしいというのが本音なので、見て見ぬふ りをしてきてくれたわけだ。 私もこの世界が長いのでここまでは版元も許してくれるだろうという「過去の慣 例」はだいたい把握してきた。しかし今回はちょっとわからない。 告訴することで利益があるとみなさないかぎり、企業は動かなかった。100や 200部程度の同人誌と大企業ではケタ違いどころか数桁ちがいなのだから、この 場合告訴しても何も得られない。数百万部発行の新聞でえっち同人の存在をお広め して、N堂はいったいどんな利益があったのだろうか、と考えると謎なのです。案外 告訴してみたら300部の小物だった…というのが真相なのかもしれないけど。最 近の同人誌の印刷は商業用美術印刷とかへーきで使うし。 ちなみにポケモンでえっちな同人誌なんて男性向けもあるですけど、かすみちゃ んはよくても、ピカチュウはあかんのか…。ファイヤーエムブレムではたくさんあ るんだけどなあ。 今まで一番神経を使ってきたのは版元のメンツと、わいせつ規定だったのですが …気に入らないから告訴すると言われては…。 Time : 1999/ 2/16(火) 13:15:40
Name : 正岡 E-mail : Title : えっちじゃなければいいのか?<<下の続き Comments: 最近の同人の傾向で一番まずいのはグッズ類だろうと思っていた。TV画面を取り 込んでそのまま作ってるのは、これは絶対にまずいと思っていたけど、マンガ同人 を告訴というのは意外だった。 ゲームメーカーの開発さんはコミケットにきて、本をかいあさり、社内でまわし 読みとかしているのを私は知っている。ギャルゲーオンリーイベントにはメーカー 宣伝部が裏方に手を回していたし、自分で同人誌イベントを後援してしまうゲーム メーカーまであるわけで、なんか企業のやることって信じられない… Time : 1999/ 2/16(火) 13:36:45
Name : 正岡 E-mail : Title : なぜえっち同人誌を作るのか?<<同人の言い分 Comments: えっちに理由なんかありません。 私は、たとえば某格ゲーを見た途端、えっちな想像をしてしまう。突然頭の中に 浮かんでくる。するとそれを絵に描きたくなり、書いたら人に見せたくなるので同 人誌にする。だたそれだけです。 でも、これは多分普通の感覚では理解されないだろう。えっちな想像をするとこ ろまではいいとしても、それを絵にして印刷するなんて、どう考えたって、メーカ ーに嫌がらせをしているとしか思われないよね(笑) でも、ものかきなみなさんには、この気持ちわかってもらえると思う。思いつい たことを書きたくて書きたくてしょーがない。同人誌というのはそーゆーもんなの です。 ども、俗な話で掲示板を汚してすいません。おわり。 Time : 1999/ 2/16(火) 13:51:27
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 民に網する Comments: N堂は、国家ではありませんが、ゲーム業界ではそれに類するものとしてよいと思 います。 正岡さんの話から推定するに、これは一罰百戒の見せしめでしょう。 ぽけもんー>子供のマンガー>それでHなパロディを描くー>けしからん(良男良 女の感想) たぶんに、感情的な反応を狙ったところがあると思われます。 N堂は、アメリカで海賊版に対して痛い目にあって、しらみつぶしに告訴していた 時期があります。このように、無差別に告訴するのなら筋は通っているのですけれ ども、普段は泳がせておいて、自分の都合で合法不法のボーダーラインを上げ下げ することを「民に網する」といって孔子と孟子は、為政者がやってはいけない事に 挙げています。 元々後ろめたい部分が捕まる方にもある分、たちが悪いところがある戒めの方法で す。 Time : 1999/ 2/16(火) 15:18:36
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : それで作家の権利が守られるなら Comments:  おそらく正岡さんはご承知の上で発言されていると思うのですが。  書きたいという気持ちが物書きならばわかるだろうと同時に、自分が 苦労して作り上げた作品を、他者が遊び半分にパロディにしてしまうこと の悔しさも、物書きならばこそ、わからなくてはならないのではないで しょうか。  ご自分の書く権利を大切にしたいように、他者が書いた物の権利を 尊重することが、どうして同人誌の人にできないのか。私には不思議で 仕方がありません。  ここまでは許されるという暗黙の了解、相互確認があったと思っている のは、実は同人誌の人の一方的な思いこみだったのではないのでしょう か。その実態は、同人誌側が一方的にパロディをやり、その後既成事実 として事後承諾的に、原作者側に現状を押しつけていたにすぎないように 思えるのです。  だって、同人誌側が原作者側とちゃんと話し合いを持ったなんてこと、 私はただの一度も聞いたことがありません。  今回は任天堂が会社で、訴えられた側が個人だったので、力のある 者が、力のない相手を抑圧したかのように見えたのかもしれません。  しかし、作者の権利は、個人であろうと法人であろうと同じ。任天堂の 勇気のある訴訟のおかげで、他の個人の作家が同人誌側に初めて、 はっきりとNOと言える状況が生み出されることになるのならば、私には むしろ歓迎すべき状況のように思えました。 Time : 1999/ 2/16(火) 16:10:48
Name : 正岡 E-mail : Title : パロ同人の今後 Comments: 三枝さん、安部さん、レスありがとうございます。誰かに話を聞いてほしかった だけなので…。 パロディを作者がどう思っているかというと、これには当然のことながら2つの 反応があります。いやがっている作家さんと、喜んでいる作家さんと。少女漫画の 作家さんがおおむね好意的な方が多く、アシスタントをコミケに買い物によこして いたります。ご本人いわく、自分の作品がどう読まれているのかその本音が見える 、ファンの書いたものもおもしろい、…だそうです。 少年マンガの作家さんは、やおいをご存知ない方が多いので嫌がっているのでは …男性として受けつけない…というのが本音では…と思います。(知り合いがいな いので知らない)でも自分のファンに声かけて、アシスタントに使う作家さんもい ます。(わしもやらないか?といわれたことあるっす) 編集部は…同人は人気のバロメーター、とはっきり言っています。元々はゲリラ だったパロディ同人ですが、例えば超売れっ子の尾崎南、高河ゆんはキャプテン翼 のやおい同人です。同人で万単位の冊数で売れる人は、プロでも売れるのです。 出版とコミケットは、意外とつきあいが長いのです。マンガ家先生は同人に文句 は言いにくいですが、小説の先生は基本的にフリーなので、H同人まかりならん、と はっきり言われている方もおられます。 私は、自慢ではないですが過去にやっていたやおい同人は作家先生にお見せして いました。(ちなみに男性作家。おいおい)アニメのときは監督さんに見てもらっ ていた。 ゲームは個人の作家先生がおられませんから、開発さんに見せました(爆) 今考えると、ファンレターみたいなもんだと思ってくれていたのかなあ。アニメ の監督さんは、僕たち、ファンの顔の見えないところで仕事しているからね、反応 があるのはいいことなんだ、と言っていたけど。 しかし、いつまでもパロディ同人がこの状態でいいのか? という気持ちはここ 10年くらいあるんです。あまりにも数が多い。個人の楽しみで片づけられる状況 じゃないですよね。どっかで線を引く時期に来ているのかもしれないけど、パロデ ィ同人はやりたい、版元も納得してくれ〜な解決策。 Time : 1999/ 2/16(火) 17:40:04
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title :Comments: 久しぶりに本を買いました。 「90分でわかる世界史の読み方」と「三国志 英雄の謎と真実」の二冊です。 90分〜の方はなめたタイトルだなと思いつつもつい買ってしまいました。 (誇大広告に弱いのです)でも内容はいたって普通でした。 三国志の方は簡単な解説書といったところです。 Time : 1999/ 2/16(火) 22:58:50
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : リサイクル時代 Comments: 標準語は猿楽の言葉だったのですか。 そうすると三河言葉との繋がりはどうなるのでしょう。ひょっとしたら三河漫才も 関係しているのでしょうか。 ところで、今盛んにリサイクルという言葉が使われています。 卑近な例を挙げればペットボトルから冷蔵庫などの電化製品、携帯電話もそうです ね。富士フィルムの「写るんです」はリサイクル商品の優等生として有名です。 建設関係でもリサイクル法何とかかんとかで建設工事で発生する土の有効利用に取 組始めたようです。 宇宙船地球号の時代ですから乗組員は一層の環境に対する配慮が必要になってくる ということだと思います。もはや地理的拡散の限界に達したとの意識はこれから益 々高まっていくことでしょう。 大量生産大量消費の時代は終わりを告げ、ひょっとしたらオーダー商品の時代へと 変化するかもしれません。そうすると、資本主義の大原則である一物一価の法則が 崩れるかも知れません。 ところで江戸時代の日本丸は究極のリサイクル時代だった様です。何しろ最終的に は灰まで利用したのですから。 Time : 1999/ 2/16(火) 23:52:09
Name : きんたろう E-mail : Title : 印籠 Comments: 水戸光圀はどうして大日本史を編纂しようと思ったのでしょうか。 これには様々な動機があったと考えられますが、その一つは徳川家の正当性を証明 しようとしたことがあると思います。 家康は馬上で天下を取りましたが、統治の手段のひとつとして朱子学を選び徳川家 の安定(パックストクガワ)を図ろうとしました。 光圀はその意志を継いだものと私は考えています。 徳川家は三河の松平郷出身の豪族にすぎませんのでとても源氏であるとは思われま せん。 が、新田郷から流れ着いてきた坊主?を新田氏という源氏の名門と無理矢理結びつ け、その子孫であるということで源氏を名乗っていました。 新田家は足利家と同格のほとんど源氏本流と言っていい名門です。ただ、新田義貞 は足利尊氏と争い敗れ去りました。(しかし山名氏など有力大名は新田氏ですが) 足利氏が征夷大将軍である室町幕府の後にできた江戸幕府は足利氏と同格の血筋を 示す必要があったのではないでしょうか。 新田義貞を評価することは必然的に南朝を正当化する事になり、また南朝方であっ た楠正成を評価することにつながります。 自らの血筋を誇るためには天皇家の神聖さを訴え、そしてその血筋つながるもので あるということの証明をする事になります。 それは精神的には天皇家以上に勢力を誇った藤原家と同じようなものだったと思い ます。 しかしこれは絶えざる王朝の価値、評価を高めることになりましたが、徳川家にと っては予想外の反応を引き出したことは歴史の皮肉かもしれません。 参考資料 新田義貞伝の賛 巻の一百七十一  賛に曰く、忠義の、世教を維持すること、大なり。新田義貞は、源家の冑を以て 、北条氏に役するも、一旦、幡然として図(ト)を改め、王室を安んぜんと欲す。義旗 の嚮(ムカ)ふ所、葉のごとく落ち、氷のごとく離(ト)く。何ぞ其れ易きや。足利尊氏と 難を構ふるに及び、攻城・野戦、互ひに勝負有れども、竟に敗衄(ハイジク)を免れず。 何ぞ其れ難きや。蓋し、政刑、日に紊れ、人心、乱を思ひ、尊氏之に乗じて、其の 詐力を逞しくせるに由るなり。嚮使(モシ)、後醍醐帝、能く楠正成の夾攻の策を用ふ れば、則ち義貞、其の材略を展ぶるを得て、尊氏の勢、日〓に蹙(セマ)りしならん。 禁門、守られず、乗輿再び叡岳に幸す。尊氏、款を納れて、還駕を請ふ。帝も亦、 心に、其の姦計に堕つるを知るも、勢、回すこと能はず。興替の機、方(マサ)に此に 決す。而して義貞を面諭して、其の忠義を奨め、託するに皇太子を以てするは、頼 るに此の挙有るのみ。義貞の匡復の心、少しくも解弛せず、天地に誓ひて以て心と 為し、鬼神に質(タダ)して疑ひ無し。不幸にして、勢去り、時、利あらず、智勇倶( トモ)に困(キワマ)り、之に継ぐに死を以てす。其の子姪、皆能く戈を枕にし胆を嘗(ナ)め 、屡〓勤王の師を興すも、卒に摧残・流亡に帰す。豈、天に非ずや。其の高風・完 節に至りては、当時に屈すと雖も、能く後世に伸ぶ。天果して忠賢を佑けざらんや 。其の、足利氏と雄を争ふを観れば、両家の曲直、赫々として人の耳目に在り。愚 夫愚婦と雖も、亦能く、新田氏の忠貞たるを知る。寧ろ此を為すとも、彼を為さず 。亦、人をして邪正を弁じ取舎を決して、義に嚮ふことを知らしむるに足る。其の 関係する所、豈、鮮少ならんや。 Time : 1999/ 2/17(水) 13:20:20
Name : 輔住 E-mail : Title : 南北朝問題 Comments: 水戸光圀が「南朝正統論」を主張し、その後様々な問題がありましたが 現在、南朝が正統となっています。最終的な勝者が北朝なのになぜそうなのか 不思議で仕方ありません。 その時必ずといっていい程「三種の神器」のことがでますが、 その理論なら北朝初代の光厳天皇の即位は認めてもいいと思うのですがどうでしょ う? (彼の即位は「三種の神器」に関して問題はありません) 北条氏が後醍醐を強引に退位させたのだからそれは無効だというのでしょうか? 後醍醐だって尊氏や義貞たちの力を借りて返り咲いたのです。 不思議に思っているのは私だけなのでしょうか? Time : 1999/ 2/17(水) 17:59:35
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : ジレンマ Comments: 補住さん、こんばんは。 同感です。 水戸学は天皇家の前では徳川家も特別な存在でなく他の大名達の中の一つにすぎな い、という意識を作り出しましたが、そのロジックを進めるには南朝こそが正当で なければならなかったのでしょう。 でも現実問題として北朝の血筋の天皇家が南朝を正当化するというのは不思議です よね。(元々は兄弟だから同じ血筋というのはアバウトな気もします) 正岡さんへ 今週号の週刊ポストの「情報狂時代」の内容は香港の海賊版についてのエッセイで した。三枝さんや安部さんとのやりとりを読んでいるうち、この内容とはちょっと 違うなと感じて昨日は控えていたのですが(実は知らなかったのです)、活力とい うか「熱さ」は同じ様なものかなと思って書きました。詳しくは雑誌で。 もしピンぼけだったら笑い飛ばして下さい。 Time : 1999/ 2/17(水) 19:57:47
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : ごめんです Comments: 輔住さん、すみませんでした。 変換を間違えました。 Time : 1999/ 2/17(水) 19:59:18
Name : 輔住 E-mail : Title : きんたろうさんへ Comments: きんたろうさん、気にしないでください。 Time : 1999/ 2/18(木) 09:02:34
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 将来に残したいもの Comments: 縄さんはじめまして、わたしは八百万の神を将来に残したいです。 昔も大変だったでしょうから、単純な古代礼賛をするつもりはありませんけれども 、八百万の神々は、日本人が自然と一体になって生きてきた証だと私は思っていま す。 Time : 1999/ 2/18(木) 15:24:17
Name : 輔住 E-mail : Title : 南北朝時代の3種の神器 Comments: 南北朝時代の3種の神器について話したいのですが この時代ほど3種の神器がたくさんでる時代はありません。 (1)湊川の戦い後、後醍醐天皇は光明天皇(北朝2代)に神器を渡す。 (2)これに義貞が怒る。すると後醍醐はそれは偽者で息子の一人に譲位するとい い ( その息子の名前は忘れました)神器を渡し、義貞と息子は北陸に向かう。 (3)後醍醐は吉野に脱出し、自分が本物の神器を持っているという。 正直どれが本物の神器か分かる人間はいないでしょう。 (1)の神器は観応の擾乱の時に南朝が奪い返すのですが、 だから本当に神器無しで即位し始めたと断定できるのは 後光厳天皇からなのですが...。それ以前の真相は闇の中。 (2)の神器は義貞もその後醍醐の息子も北陸で死んでしまい、 全く不明。 (少なくても(2)の神器がどうなったか書いてある本を みたことがない) Time : 1999/ 2/18(木) 18:37:55
Name : 安部奈亮 E-mail : s00v0128@ip.media.kyoto-u.ac.jp Title : 家康の千里眼 Comments: 井沢先生が「日本史再点検2」の中で、「推論に過ぎない」と断っていますが、「徳 川家康は水戸藩を意図的に勤王藩にしたのではないか?」と述べています。 天皇家と徳川家が敵対しても、保険として水戸藩を残るということです。 実際に、水戸藩出身の一橋慶喜は、徳川家取り潰しだけは防ぎました。 大変興味深い説だと思います。 Time : 1999/ 2/19(金) 14:08:01
Name : 三枝 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 水戸家って Comments: 謎の多い家ですよね。 本当に「御三家」なんて考え方あったのかな? どう考えても尾張、紀伊と対等であった家とは思えないんですよ。 禄高は極端に落ちるし。身分は中納言だし。 Time : 1999/ 2/19(金) 15:12:10
Name : きんたろう E-mail : Title : 800万石、400万石、200万石? Comments: ちょっと前のことですみません。 昨年の大河ドラマの中でモッくん演じる慶喜が(ちょうど大政奉還の頃の話)徳川 宗家の領地の石高について話した部分があったのですが、その時「幕府領は400 万石だが実は200万石だ」と言っていたのです。 徳川幕府は創立時には「800万石」と覚えていたのですが、250年のうちに4 分の一に領地が減少してしまったのでしょうか。 ずっとひっかかっていたのです。ちょっとよく分かりません。 関ヶ原で勝利した徳川家は800万石になり圧倒的な力をもった。そして1600 年頃の日本の総石高は1800万石で人口は1800万人(1石=米の1人当たり の年間消費量)、幕末は2800万石で人口2800万人と覚えていました。 開墾が進み日本全体の生産高が増加したにもかかわらず、幕府領の石高が減少する とは何かあるはずですよね。 Time : 1999/ 2/20(土) 00:25:17
Name : 安部奈亮 E-mail : Title : 訂正、他、 Comments: 「日本史再点検」ではなくて、「日本史再検討」でした。 新田氏が南朝だから、南朝を正統とした、なるほど。 でも今の皇室は誰がどう見ても北朝ですよね。これをいうのは、江戸時代から明治 戦前(大正は少し違う)にかけてタブーだったのだろうか。昔の人は抑制心があり ますよね、私なら思わず言ってしまいそうです。 勤王思想を作った人たちは、南朝に殉じた人々を神格化しました。その最たるもの は楠木正成です。今の天皇は北朝で、南朝に殉じた人は無駄死にで、しかも南朝が 正統だとすると北朝である今の天皇家に仕えることは反逆になる。この論理は、勤 王思想家達が最も恐れたものではないでしょうか。これをいわれたら、勤王思想は 根本から覆るからです。 2。26事件の将校が、天皇のために、天皇から任命された上官を殺したことも矛盾で す。実際、その矛盾を突かれそうになったとき、彼らは相手を口封じのために殺し ました。 Time : 1999/ 2/20(土) 14:00:37
Name : きんたろう E-mail : kintaro@po.net-ibaraki.ne.jp Title : 印籠2 Comments: とんまなミスをしてしまいました。さっき書いた文章が一瞬にして異次元へと消え ていく様を見ました。(ショック!♂@@○→≒≒≒∫) 以下は書き直しです。 家康は実力で天下人になりましたが(運も実力のうちです)、自分の子孫達にも同 じように天下人になることを望みました。 これは言い換えれば平和の実現です。 時は下克上の時代でしたから個人の「実力」こそが全てでした。 秀吉は信長亡き後の織田家を乗っ取りました。そして家康は秀吉亡き後の豊臣家に 取って代わったわけです。 秀吉は信長個人に対して忠誠を誓っていました。織田家ではありません。。だから こそ信長亡き後あのように行動できたのだと思います。豊臣家をつぶした家康にと ってもそれは同様でした。家康は部下と言うよりは外様でしたからよけい徹底して 行動する事が出来たのでしょう。 信長と同盟を結んでからの20年間、家康は信長を裏切ることなく行動してきまし た。それは信長配下の武将であった秀吉も十分に分かっていた事だと思います。 だからこそ秀吉は家康の「律儀者」を評価していたと思うのです。 家康は秀吉の組織に組み入れられた後は信長に対したのと同じように裏切ることは ありませんでした。(小牧長久手の戦いはその前です) 秀吉亡き後の家康の行動は歴史の示すとおりですが、これは裏切りでも何でもあり ません。なぜなら家康は秀吉個人に対して忠誠を誓ったのであって豊臣家に対して ではなかったからです。 これは当時の常識であったような気がします。だからこそ多数の武将達はそれを当 然のことと認め秀吉、家康に従ったのではないでしょうか。 信長から秀吉、家康と続いた時「天下は回りもの」というコンセンサスが出来たよ うな気がします。 家康はそれを固定化しようとしました。 秀吉の採った方法はあまりに稚拙で容易に崩されてしまいました。当時の常識を上 回ることが出来なかったからだと思います。 家康はそのための方法の一つとして朱子学を選びました。 これは徳川家にとっては非常に都合のいい論法でした。 しかし、家康自身はともかく能力がないかも知れない彼の子孫達までトップの地位 にある事を回りに納得させるには根拠が希薄すぎました。 光圀はその論理的根拠を示すために大日本史を編纂しようと思い立ったのではない でしょうか。 その方法論は日本的伝統の血統論であったわけです。 徳川家は代々将軍家を続けるのは当然である、という血統の正当性を示すために新 田義貞を評価しようとしました。 それは南朝の正当性という徳川家にとっては実際どうでもいい結論を生み出しまし たが、北朝も南朝と同じくアマテラスの子孫であることには変わりなく、自分たち より貴種である天皇家に対してそれ以上の踏み込みは出来なかったのではないかと 思います。 Time : 1999/ 2/21(日) 18:12:38
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 南朝の正当 Comments:  維新のとき、やはりみんな悩んだらしいのですが、最終的には「南朝を正当 とする」と、明治天皇が決断したという話を聞いたことがあります。  維新の原動力が水戸朱子学だったため、そうせざるをえなかったのでしょう。 「でも本当に、それで良いの?」                  〜「少女革命ウテナ」のナレーションより。 Time : 1999/ 2/24(水) 16:22:03
Name : 輔住 E-mail : Title : 維新の時の天皇家 Comments: 三枝さんのいうとおりですね。 南朝を正統にせざるをえなかった、天皇家は 維新のとき、見かけはともかく内実の立場は弱かった ような気がします。 Time : 1999/ 2/24(水) 17:35:00
Name : 小松 E-mail : Title : 家康 Comments: こんにちは、きんたろうさん。 家康について書かれていたので、僕も混ぜてください。 家康って、明治維新のせいなんでしょうけど、なんか正当に評価されてない気がし ます。例えば、暗いイメージと言うか、信長・秀吉が”明”なのに対して”暗”で すよね。あと、たぬきおやじとかetc・・ でも、僕は違うと思うんですよね。一言で僕の家康に対するイメージを言えば”日 本版劉邦”とか”戦の強い劉邦”と言ったところでしょうか。 その理由は、何と言っても関ヶ原前夜にあれだけ個性雑多な武将達を一つにまとめ た家康のキャラクターと言うか、器量の大きさと言うか。黒田長政、藤堂高虎と言 った有能な武将から、小早川秀秋、福島正則と言った半分狂人みたいな武将まで取 り込んでしまうその懐の深さは驚嘆すべき物だと思います。で、黒田や藤堂なんて 家臣のように家康につくしてますしね。これは利害からもあるんでしょうけど、そ うさせる魅力が家康にあったとも言えるんではないでしょうか? と、僕のイメージを思い付くまま語ってしまいました。 ところで、「逆説の日本史」は今「足利義教」ですね。天魔王とか呼べれてたんで すよね。今僕が一番興味のある人物です。「逆説・・」はいつも単行本になるまで 待っていたんですが、週刊ポスト買っちゃいそうです。 Time : 1999/ 2/25(木) 12:56:50
Name : きんたろう E-mail : Title : 花より団子 Comments: 先日自分の書いた文章が目の前で魔法のように消えていく様子に接して以来ショッ クが尾を引いていました。 あの時はなぜか勝手に文章が作られてゆく感覚で自分としては書いているという印 象ではなかったのです。 小松さん、こんばんわ。 私はあの時代(戦国時代=16世紀)の人々は基本的に好きなのです。 人間の可能性がどんどん膨らんでいった時代で、本当に夢多き時代だったと思って います。 家康はそうした人達の中でも最も偉大な人物の一人にあげられると思います。 実際、家康は歴史が示すとおり偉大な人物でした。 家康は関ヶ原まで裏切りをしたことが無く(単に相手との力関係で出来なかっただ けかも知れませんが)律儀者でとおっていました。 三方が原の戦いではその強さが伝説となっていた(?)武田騎馬軍団と真っ向勝負 を挑み、負けたとはいえ決して武将としての評判を落とした訳ではなく、逆に「東 海一の弓取り」との評判が立っていました。 (ちなみに武田信玄の一族は、新羅三郎義光の三男義清が茨城県ひたちなか市の武 田郷に土着し佐竹氏の支流として武田氏を名乗りました。後に甲斐の国に移ったも のです。) だからこそ外様の武将も家康に従ったと思います。「関ヶ原」の時点では紛れもな くナンバーワンだったと思います。 家康にしても尊氏にしても、その当時多数に支持されたからこそあの地位があるは ずなのです。それを後世の人が勝手に評価することは(ある立場から否定すること は)歴史を歪めているものと感じています。 Time : 1999/ 2/25(木) 21:46:20
Name : きんたろう E-mail : Title : 花より団子2 Comments: 三枝さん、輔住さん、こんばんわ。 輔住さん、わざわざホームページを見に来ていただいてありがとうございました。 うれしくて感激しました。 明治維新に南朝が正統と決まったという事は、要するに「花を持たせた」というこ となのでしょうか。 理論的にはまずオリジナルの南朝があり、次に建武の新政後にバックアップとして の北朝がロードされました。そしてオリジナルの消滅という事態が発生したためバ ックアップだった北朝がソフトランディングしたといったところなのでしょう。 たぶん。(自信なし) Time : 1999/ 2/25(木) 22:03:25
Name : Toshy E-mail : Title : 家康 Comments: 家康につられてやってきました。 きんたろうさんのいうとおり、家康は秀吉の死後No.1の武将だったことは間違 いないでしょう。 三方が原だけど、3倍相手の戦いだから負けて当然。生き延びたこと自体驚嘆すべ きです。 ちなみに何故家康が暗いイメージをもたれるかというと、やはり豊臣家の滅ぼし方 では。 だまし、ですからね。 ところで石田三成がせめて100万石の大名だったら、家康に匹敵する人物になれ たと私は思っているのですが。 Time : 1999/ 2/25(木) 22:55:32
Name : 三枝貴代 E-mail : MXA04115@nifty.ne.jp Title : 正統から Comments:  うーん。  南朝が正統で、今の天皇家は、その「正統な」南朝から「正式に」皇位を譲られ た 北朝の子孫、ということになるのでしょうか。 Time : 1999/ 2/26(金) 08:52:14
Name : 輔住 E-mail : Title : なぜ南朝が正統とされたのか Comments: きんたろうさん、三枝さん、こんにちは 光圀が「南朝を正統」としたのは 徳川氏が新田系を称したのも原因だと思いますが、 もうひとつ私の勝手な想像ですが後醍醐天皇も 朱子学を学んだこともあると思います。 おそらく水戸学(朱子学)の人たちからすれば 後醍醐の方が親しみがあったのではないでしょうか。 Time : 1999/ 2/26(金) 14:25:17
Name : きんたろう E-mail : Title : 傍若無人 Comments: 後醍醐帝はわがままというか、傍若無人というか、その行動考え方がまさに帝王そ のものであった(正確な判断力に欠けた)といえると思います。 その後醍醐帝を支える根拠のひとつが自分の血筋であり、王者の立場としての朱子 学だったのかなと思います。 この人を後世から見ると非常に目立つ存在ということです。血筋的には問題なく、 能力もある(?)のに滅んでしまった相手に対して、判官贔屓的体質の日本人の感覚 から見ると一般的に受け入れやすかったのでしょう。(たぶん) 実際後醍醐帝の不屈の根性は臥薪嘗胆の故事以上の感銘を受けると思います。そう した不遇の王を助けるため身を粉にして働いた(自分の血統上の先祖、それも名門 源氏の新田氏)家臣の物語は同様に感動を与えたのではないでしょうか。 でも、よく考えてみれば尊氏の方が日本全体から見るとより多くの支持を受けたか らこそ室町幕府の成立があるはずなのに、そうした事実に目を背けた論法を進める のはやはりどこかに無理が生じるものだと思います。 ここで初めて君臨すれども統治せずという「天皇機関」が完了したように思います 。システムとしての朝廷の存在です。 立憲君主国の原型かなと思っています。 Time : 1999/ 2/26(金) 16:07:05
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 信長の野望 Comments: 始めまして、ロトの子孫です。よろしくお願いします。 信長は天下布武を完成した後、どんな世界を作り上げようとしたのでしょう。 私は、井沢先生の想像された足利義満のとった手順をとり、天皇家を徐々に乗っ 取るつもりだったと思います。 Time : 1999/ 2/27(土) 21:30:00
Name : きんたろう E-mail : Title : ダイの大冒険 Comments: 懐かしい名前ですね、ロト。 実は昨日我が家のちびたろうくん(小学校2年生)のたっての希望だったダイの大 冒険を19巻まで買ってきました。(すかさず自分でも読んだのですがさすがに1 9冊を一気に読むのは疲れました) 信長の頭の中には日本統一後のプランは当然あったのでしょうね。 私たちがそれを推測するには後継者であった秀吉の行動が一番大きなヒントを与え てくれると思います。 ある程度はそこから想像しても正しいのではと思います。 秀吉は信長の後継者として大阪を中心として箱根から播磨まで直轄領として絶対的 なパワーを得ていました。徳川家を関東に移封した時豊臣家は200万石の領地と いうことでしたが、これは1万石以上は大名ということでカウントしていなかった からです。 ただ秀吉は信長の家臣出身者ということで当然ハンディがありましたので、信長の ように行動したくても出来なかったという面は当然あったと思います。(外様の大 々名が存在した) 信長は家臣を〇〇守という名で呼んでいましたが、これなどは統一後に与える最終 領地だったといわれています。 そして信長が在命であれば強力な中央政権国家が16世紀に日本に現れたかも知れ ません。 ただ、統一を果たすということはその組織が成長基調にあるという事ですが、その 後にどういう風に整理して行くつもりだったのか謎だと思います。 信長の行動を見ると実力を伴わない過去の権威に対してさほどこだわりを持ってい ないような印象を受けます。恐らく織田政権の中でもし天皇家が存続するというの であれば、あくまで信長の風下に位置するものにされたと思います。もしくは名誉 ある滅亡を選ぶかのどちらかだったでしょう。 なぜならば信長の兵達にとっては信長より偉い人は存在しなかったからです。 武田家滅亡の時近衛は信長の怒りに触れて中山道で帰されましたが、近衛=藤原が どれほどの名門か知っている兵が何人いたか疑問だと思います。 Time : 1999/ 2/28(日) 00:38:50
Name : きんたろう E-mail : Title : 関ヶ原の戦い Comments: Toshyさん、こんにちは。 関ヶ原の戦いは豊臣方西軍、徳川方東軍の間で戦われたと一般的には書いてありま すが、これは一種の歴史の捏造です。 なぜならあの時点において日本全ての武将は豊臣方だったからです。 家康がどんなことを心の中で考えていたのかそれは歴史が証明していますが、16 00年の時点ではそれは公には出来なかったことでした。 さて石田三成ですが、彼もまた歴史上の偉大な人物だったことは間違いがないと思 います。1560年頃(桶狭間の戦いの頃)の生まれといわれていますから関ヶ原 の頃ちょうど40歳位だったのでしょう。気力体力経験も十分といったところだっ たと思います。 石田三成は当時の武将達の中でも異彩を放っています。それは朱子学的な行動が見 られることだと思います。当時は「実力」の時代でしたから大名はそれなりの実力 を示さなければ部下に去られても当然でした。 そうした当時の常識の中で三成は「義」を重んじたといわれています。 幼君のために悪の家康と戦い散っていった男、それが石田三成という人物という観 点で書かれたものがあっても良かったと思うのですが、いかんせん徳川時代には無 視された存在だったと思います。 実際石田三成は20万石弱の大名でありながら200万石以上の大名である家康と 戦ったのですから大したものだと思います。 Toshyさんの言われるとおり100万石の大名であったならば勝敗は逆だったかも知 れません。 三成にとって関ヶ原は早すぎたように思います。10年待って戦う事が出来れば時 が味方したと思うのですが、これはないものねだりでしょうね。 伺い知る限りでは三成という人物は豊臣家を簒奪するようには思われませんが、豊 臣家の鉄の宰相にはなった可能性があると思います。 これは当時の多の武将達にとってあまり有り難くない事だったのでしょう。 あそこで三成がずっと隠居していれば、家康は豊臣家の最高実力者として君臨し続 けたでしょうが徳川幕府の成立については疑問だと思います。 Time : 1999/ 2/28(日) 16:55:05
Name : 勇者ロト E-mail : Title : 信長の野望 2 Comments: きんたろうさん、コメントありがとうございます。 信長の最大の失敗は、家臣達を十分に教育できなかった事だと思います。 家臣を操縦して使いこなす事に関しては、素晴らしい能力をもっていたと思います が、自分の理想、目的などを法律のような形にしあげられなかった事が、ひいては 光秀の謀反を呼び起こしたとおもいます。光秀のような他の大小名に仕えた事のあ る武将達にはそこの所が不安の原因になったのではないでしょうか?決まりごとと いうものが明らかに存在すれば「これさえ、犯さなければ自分が責められる事はな い」と信長の家臣である事に安心感を持てたはずですが、信長は後から過去の罪に 対して罰を与えるという事を行ったため、それが光秀や松永弾正などには理解でき なかったのではないでしょうか。「このままでは、何時自分に罪を着せられるか、 解ったものではない」と不安感が募っていったと思います。 一方秀吉や勝家、利家は若い頃から信長に仕えていたため、彼の考えが言葉になら なくても、ここまでは大丈夫ここからはヤバイといった判断がしやすかったんだと 思っています。しかし彼らにたいしても信長は自分の理想などは教えていた形跡が ないので、もし信長の目標がなんらかの形になっていればそれがどんなものなのか 大変興味深いと思います。 Time : 1999/ 2/28(日) 23:49:51